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東区筒井町4東区筒井1丁目のもと屋根神様から東に5分程、幼稚園の東の通り沿いに湯取車納庫があります。住宅街にあって二本の杉の木と幼稚園のクスノキの存在が目印になるか。こちらの湯取車納庫の間口の左、玉垣で区切られた一画が目的地。ここ筒井町から出来町周辺にかけて山車が多く保存されています。筒井町には湯取車と神皇車の二台があり、筒井町天王まつり(毎年6月)ではそれらが町内を曳き回されます。そうした事もあり、この一帯には天王社、津島神社などを祀る小さな社が点在します。正面に回り込み社全景を眺める。木の常夜灯の先に6本の鰹木と内削ぎの千木が施された神明造の社が鎮座しています。通りからは目立たなかったが小さな狛犬もいるようです。こちらの社も以前は屋根神として軒下に祀られていたものだという。古い区割りが残る地域だけれど、時の流れとともに街並みも変わり屋根から地上に降りるしかないのだろう。秋葉神社、熱田社、津島神社を祀るこの社、近年再建されたようで、名古屋開府400年記念として2010年に建て替えてもらったようです。山車を受け継ぐ風土があったからこそ、環境が変わってもこうした屋根神さまが大切にしてもらえるのかもしれない。月次祭(1・15日)には秋葉神社、熱田社、津島神社の提灯が吊るされ、幕も張られてドレスアップした姿を見られるようです。社を守護する彼らの年代は不明ですが、随分と年月が経っているようです。角の取れた丸い面々が社を守護しています。社がいつ頃地上に降りたのか分からないけれど、その時からここで守護しているのだろう。彼らの様に歳とともに丸くならないとね。2020/06/30東区筒井町4 「秋葉神社、熱田社、津島神社」創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市東区筒井町4-20アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車北に、筒井1丁目の屋根神様経由で徒歩15分程関連記事 / 東区筒井1の小さな社
2020.06.30
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東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。三解脱門の右に大きな寺号標。「三解脱門」増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています赤門だね。境内マップ。創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は焼失し、その都度再建され現在に至っています。なので古い建造物は少ない。三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。聖鋏観音菩薩像。1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。梵鐘は大きい。1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。仏足石と聖観世音菩薩像。仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。二月の空に聳える東京タワーと大殿。左手に増上寺会館と光摂殿。光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。大殿戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。地下に宝物展示室(@700円)がある。増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。そのこともあり、往事の増上寺は日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。大殿右の「安国殿」空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。大殿から見た「安国殿」側面。安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。鎌倉時代、北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えられています。1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。「千躰子育地蔵尊」。子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。安国殿後方にある徳川家霊廟。二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所。以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。霊廟前に四体の菩薩像。港区の文化財に指定されている。右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。熊野神社境内に入り、右外れに鎮座する。八咫烏の彫られた手水鉢。天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。熊野神社境内から鳥居方向の眺め。御神体熊野本宮大社 / 家津御子大神熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社熊野速玉大社 / 伊弉諾尊。1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。由来には「増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。ユヤ神社から見た三解脱門。神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。黒門三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。2020/02/20大本山 増上寺創建 / 1393年(明徳4)山号 / 三縁山宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏住所 / 東京都港区芝公園4-7-35公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他関連記事 / 久能山東照宮、大樹寺
2020.06.29
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コロナ禍で見合わせ続けて来た紀伊國と大和國の一之宮巡り、紀三井寺の秘仏特別御開帳が6/28までという事もあり、自粛解除の流れに乗り6/26.27の二日間で巡ってきました。車検を終えずっと出番を待っていたおやじの旧車、名古屋から6時に高速に乗り、快調に走っている。変速ショックやエンジンの乱れも随分と改善され、これなら道中不安を覚える事はないだろう。高速の交通量も随分と戻ってきたようで交通量は多い、やはりバスの姿は皆無、法定速度+10km/hの定速走行。7:25 朝食のため亀山PAでひと休み。かみさんのお目当てだった「littlemermaid」の「とろ~り半熟卵のカレーパン」を買い求め・・・・・?、「ない!」出来上がりまで10分程とのこと、道中を気にしている彼女だが、表情に「カレーパン食べたい」と書いてある。急ぐこともない、出来上がりを待つことにした。間もなく出来立ての「とろ~り半熟卵のカレーパン」が、外はカリカリ食感で生地はふんわり、中にはカレーと半熟卵の入ったものだ。出来立ての温かいカレーパンは待っただけの事はあった。これでコーディネーターの目的の一つはクリア。さあ、朝御飯も食べた、目的地の和歌山へ向かおう。最初の目的地「日前神宮」と「國懸神宮」へは10:30到着創建二千六百餘年を溯り、鳥居から先は杜が取り囲み、玉砂利の敷かれた参道が杜の奥に続きます。参道は突き当り、二つに分かれ右に「國懸神宮」、左に「紀伊國一之宮日前神宮」へ続きます。同じ境内に二社の大社が座し、日前宮とも呼ばれます。木漏れ日のさす境内に照らされる社殿は厳粛な雰囲気が漂い、参道沿いには多くの摂社がある。『日本書紀』に関りがあり、日前宮には天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が祀られているとの記述が残り、日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体とし日前大神を奉祀、國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神をお祀りしている。コロナ禍の影響だろう、参拝客は少なく、静かで厳粛な空気感が漂う居心地のいい神社の印象を受けました。紀伊國一之宮 日前神宮祭神 / 日前大神(ひのくまのおおかみ)相殿 / 思兼命(おもいかねのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)御神体 / 日像鏡國懸神宮祭神 / 國懸大神(くにかかすのおおかみ)相殿 / 玉祖命(たまのやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)御神体 / 日矛鏡創建 / 神武天皇2年(紀元前659年)住所 / 和歌山市秋月365日前宮から車で下道を走る事約20分程、もう一つの紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」に到着。このあたりは和歌山県の南東にあたり、周囲を山で囲まれた所謂盆地で山東盆地と呼ばれる緑が残る田園地帯。伊太祁曾神社はその西の丘陵地に鎮座します。祭神は、五十猛命(いたけるのみこと)で 『日本書紀』には、我が国に樹木を植えて廻り、緑豊な国土を形成した神様であると記されているそうですが、まさしく緑豊かな周辺環境の中に神社は鎮座しています。古くから人が住んでいたのでしょう、神社の向かいには古墳も残ります。旧称は山東宮と呼ばれた紀伊國一之宮。社伝によれば古くは先程の日前宮の地に祀られていたそうだが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神を同所で祀ることになり、その地を明け渡したとされ、その際、現在の鎮座地近くの「亥の杜」に遷座、和銅6年(713年)に現在地に遷座したとされる。一ノ鳥居から緩やかに上る参道、左手の小高い森は「伊太祁曾古墳」でニノ鳥居はその右に建つ。鳥居からは赤い橋の先に境内が広がり、城壁の様に積まれた石垣の上に拝殿が建ち、石段を上ると本殿と脇殿が鎮座する。本殿は五十猛命(いたけるのみこと)、脇殿左が大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)、脇殿右が都麻津比賣命(つまつひめのみこと)と五十猛命の妹神が祀られています。何れも檜皮葺流造で外削ぎの千木に3本の鰹木が施されています。左手には蛭子神社、霊石のおさる石が安置されています、この石を撫でれば首から上の病に霊験あらたかされるそうです。左脇拝殿の左に気生神社、五十猛命の荒御霊祀った摂社がある。その他に本殿の裏斜面には「いのちの水」が湧く「御井社」、祇園神社や磐座などが祀られています。緑豊かな水田地帯、小高い山に鎮座する伊太祁曾神社は、日常の雑念から解き放ってくれる、静かで落ち着いた佇まいの神社でした。紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」祭神 / 五十猛命(いたけるのみこと)左脇殿 / 大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)右脇殿 / 都麻津比賣命(つまつひめのみこと)創建 / 和銅6年(713年)住所 / 和歌山県和歌山市伊太祈曽ぼちぼちお腹も空いて来た、お昼は伊太祁曽神社から車で20分ほど西の和歌山市塩屋6丁目へ移動。和歌山ラーメンを食べに行くそうな。丸三中華そば外観は小さな食堂の印象。とんこつの香りが漂う店内へ。テーブルにはなぜだか海苔巻きと早すし、茹で卵が置かれています。「ラーメンが届く間これを食べていてくれ」的な感じで無論お代がかかります。「中華そば」をオーダーし、どれどれ早すし頂くか。開けて見れば鯖寿司だね、個人的にはもう少し酢を利かせてほしいところですが鯖大好き人間にとってはたまらない。ペロッと二つたいらげる、ラーメンライスみたいなもんか。こうしたシステムはこの辺りでは当たり前の食文化のようです。すぐにやってきた「中華そば」、見た目は醤油ラーメンというより豚骨みそラーメン。具はメンマ、ネギ、チャーシュー、蒲鉾で、 スープはとんこつ強めの醤油系。 これがおやじにジャストフィット。過去のイメージは醤油辛い印象でしたが、それは一変しました。油の旨味が口に広がり、濃厚な味わいで麺ともよく絡みとてもおいしい。和歌山ラーメンうまい、くせになるかも。我が家評価☆4つ丸三中華そば住所 / 和歌山県和歌山市塩屋6定休日 / 日曜・祭日お腹も満たされ次の目的地「紀三井寺」へは車で10分程です。秘仏特別御開帳が6/28までという事もあり、このタイミングを逃せば二度とお目にかかる事はないだろう。(特別御開帳は50年に一度)紀ノ川河口平野の南部にある名草山麓の門前町から赤い楼門を目指す。こちらには赤いシリーズとしてこの他に1,500年前後に建立された多宝塔、鐘楼などがあり、何れも国の指定文化財に指定されています。楼門からは231段の石段を上る事になります、この坂は結縁坂とも呼ばれ、一緒になりたいパートナーと上ると願いが叶うとされます。特別拝観料1,000円をお支払いし本堂内陣の逗子の横から、収蔵庫に続く廊下を進みます。収蔵庫の内部正面に五体の仏像が公開されていました。正確に言えば一番右の十一面観世音菩薩立像は京都に只今出張中で五体。左から上の写真順に並んでいます。中央が今回の目玉となる二体。左が本尊の十一面観世音菩薩、右が千手観世音菩薩。左が梵天立像、右が京都へ出張中の十一面観世音菩薩立像。ここは櫻の寺かも知れません、境内には多数の桜の木を見かけます。28日までの御開帳ですが訪れる方は少なかった。紀三井寺山号は紀三井山、院号は護国院、寺号は金剛宝寺。創建は770年(宝亀元年)とされ、西国三十三所第2番札所である。本尊は今回御開帳された十一面観世音菩薩。住所 / 和歌山県和歌山市紀三井寺1201さて231段を上り下りし駐車場に戻る、予定の時間に対し余裕があるとかでここから西に10分程の「紀州東照宮」に参拝することとしました。「紀州東照宮」一の鳥居から参道の眺め。石段の予感がする、予感は現実のものとなり、楼門の前には一直線に続く急な108段が待ち構えていた。石段の左には緩い石段と書かれているが、こうした道は遠回り以外の何物でもない、直登あるのみ。急な石段で有名な紀三井寺、和歌浦天満宮、紀州東照宮の3ヵ所、合計389段を「和歌の浦急峻三社寺巡り」といい一日で回るらしい。すぐ左には残る和歌浦天満宮が鎮座するだけに、チャレンジしてもいいかとも思ったが結構足腰に来る。無理は禁物、天満宮は見送ろう。108段を登り切ると楼門の先に拝殿が視界に入る。所謂東照宮です。権現造の社殿は豪華絢爛そのもので「関西の日光」ともいわれるそうです。祭神は徳川家康、紀州藩初代藩主の徳川頼宜。創建は1621年(元和7)とされる。紀州東照宮さすがでございます。この道中、我が家の天気予想では雨を想定していましたが、雲はこの辺りを避けるように過ぎていきます。陽射しは強くこんなはずではなかった、予定外の108段、汗びっしょりです。これで初日の計画は全て達成、後は紀ノ川沿いに国道24号線を遡り、今宵の宿となる道の駅紀の川万葉の里を目指すだけですが、ひとっ風呂浴びないとやってられない、かみさんが道すがらのスーパー銭湯を検索してくれたのでそこで汗を流す。スーパー銭湯「極楽温泉幸の湯」比較的新しく、湯舟も種類が豊富おやじは寝湯と電気風呂がお気に入り、汗を流すどころかしっかり居眠り。心地よい眠りから目覚めるとかれこれ1時間、これはかみさんお怒りだろう。慌てて着替え待合室へ。15分程待たしてしまったようだ。ここでビールをひっかけご飯もいいけれど、道の駅周辺にファミレスがあるらしい、ビールはそこまで我慢。国道24号線沿いの道の駅紀の川万葉の里へは6時30頃到着。周囲は自然豊かで一歩出れば紀の川が流れその先の山並みの遥か先が高野山。道の駅ではツバメが子育て真っ最中、そこかしこに巣が掛けられ、駐車場を飛び回っている。のどかな光景だ、トイレも綺麗でかみさんにとっては嬉しい。大きな木の下に車を停め、晩御飯(ビール)を食べにファミレスへ。こんなに暑い日とは、まずはさておき冷たいビールで今日一日お疲れの乾杯。ご飯もそこそこにビールで涼を取り車に戻り二次会へ、ところがここは民放がかろうじて一局入るが電波の通りが良くないようだ。夜中に雨が降りそうな気配が漂う、二次会はそこそこに眠りにつく。翌朝の光景、空はどんより。結局夜も雨は降らなかった、今日は降るだろう。二日目の目的地は「風猛山 粉河寺」、ここから紀ノ川沿いに15分ほど下流あたります。途中、地元に24時間営業のスーパーで朝御飯と地元の酒を買い求め粉河寺へ向かう。西国33所巡りの第三番札所開創は770年(宝亀元年)と云われ、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北4キロ余の境内地と寺領四万余石を誇っていた、1585年(天正13)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。後に、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期にかけて現存の諸堂が形作られた。個人的な見所は金剛力士を祀る赤い大門、四天王を祀る中門、西国33所巡りの寺では最大で複雑な屋根構造を持つ本堂ではないだろうか。更に本堂左の石段の先に粉河産土神社、本堂の手前には巨岩を組んで作られた枯山水の庭園「粉河寺庭園」などがあり、見所が多い寺で境内は剪定も行き届き、とても居心地のいい寺の印象です。桜の時期にまた訪れてみたい、その頃は華やかな一面を魅せてくれるのではないでしょうか。「風猛山 粉河寺」創建 / 770年(宝亀元年)山号 / 風猛山本尊 / 千手千眼観音菩薩西国33所巡り / 第三番札所住所 / 和歌山県紀の川市粉河2787さて和歌山県とはここでお別れ。今回最後の目的地は、ここから京奈和自動車道と国道24号を経由し、奈良県桜井市に鎮座する「大和国一之宮 大神神社」に向かいます。ざっくりと1時間半程の移動時間となります。大神神社は三輪山を御神体として直接拝するため、所謂本殿は存在しません。三輪山には上から奥津磐座、中津磐座、辺津磐座と3つの磐座があり、この拝殿から三輪山を仰ぎ見る古来の形態を留め、現在の拝殿が建てられる以前は拝殿奥の明神鳥居を繋げたような変わった形態の三つ鳥居とそこに続く玉垣があっただけだという。主祭神は大物主大神、配祀神は大己貴神、少彦名神 を祀る。現在では三輪山の麓から山嶺にかけて多くの神社が祀られ、三輪明神として親しまれています。おやじ大好きの造り酒屋、その軒先で見かける杉玉は、大神神社で毎年11月に行われる酒祭で、拝殿に吊るされたことが始まりでそれが各地に広まったという。今回訪れた寺社の中では訪れる参拝客は圧倒的に多い。こんな時期なので閑散としているのかと思っていたが、社頭の大鳥居から駐車場待ちの車が列をなす程。ニノ鳥居でも人波が途切れるのを待っていたがその機会は訪れなかった。これでも参拝客は少ないのだろうが、こんな時だからこそ多くの人が訪れているのかもしれない。車を駐車するのであれば歩きが増えますが入口の大鳥居付近が入るも出るも便利でお勧めかも。大和國一之宮 大神神社創建 / 不明主祭神 / 大物主大神配祀神 / 大己貴神、少彦名神 住所 / 奈良県桜井市三輪1422写真上は久延彦神社から見た大鳥居。三輪の町に大神神社の巨大な鳥居が存在を主張しています。参拝の後は遅い昼ご飯、もちろん三輪そうめんという事になります。写真は三輪そうめん山本の「冷やしそうめん」ソーシャルディスタンスの関係から一時間待つことになりました。二日目も雨は降らず暑い一日、冷たくて喉越しのいいそうめんが恋しくなる時期です。写真は大盛、税込み1,280円三輪そうめん山本住所 / 奈良県桜井市箸中880コロナ禍が納まる兆しは全くないものの、形上の制限解除になり一気に以前に戻った錯覚を覚えますが、上手に付き合っていくしかありません。人波が少ない所を選んで出かけるのも必要なのかもしれませんね。
2020.06.28
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春日井市上条町3丁目「延命地蔵」上条町3の不明社から上条城址に向かう途中の道すがらで見かけた地蔵堂。狭い交差点の角、民家の敷地の一画を間借りするように建てられた地蔵堂、その奥には案内板らしきものも見える。場所が場所だけにどうなんだろう、もしや過去の事故の慰霊なのか、せっかくなので寄り道する事にしました。堂の中には白い石像とお花が供えられています。縁起には以下の様に書かれていました。「延命地蔵様を建立することになった由縁は、当時比較的若年層の不幸が町内で続き、あるところへ伺いを立てた所「その昔、池に身を投げた娘の霊がこの地域にある」という事を知りました。そこで町内会の皆さんと相談した結果、これらに纏わる先人達の霊を慰め、また、若くしてこの世を去った御霊を供養し、合わせてこの地域の人々の延命を祈念するため寄付を募り、昭和57年9月23日に建立されました。上三町内会では年に一度の良き日に、近隣町内の方や多くの子供達も一緒に延命地蔵様の前で大祭を開催し、町内の安全と厄除けり祈願をしています。平成17年9月23日 上三町内会」「その昔、池がこの地域にある」という事なので、少し遡って見ると、上条町内には昭和の初期まで2つの池があったようです。(地図左の丸部分)現在は埋め立てられ、宅地化され痕跡すらありませんが、調べて見ると庄内川が氾濫した際に出来たとされ、庄内川、内津川の伏流水が湧き出し、池底は非常に深かったそうです。由緒に記された池とはこの二つ池のどちらかを指しているのかもしれない。地蔵堂の中には前掛けが掛けられた、白い延命地蔵が一体祀られていました。表情はとても穏やかで、小さな像ですがこの地域に住む方々の延命の願いを一身に担っている普段はひっそりと佇む地蔵さま、年に一度の良き日がいつなのか分かりませんがきっと賑やかなのかもしれません。新しい地蔵さまですが、地域には必要不可欠な存在の様です。上条町3の「延命地蔵」建立 / 1982年(昭和57)住所 / 春日井市上条町3丁目アクセス / 春日井市上条町3の不明社から南に5分程関連記事 / 上条町3不明社
2020.06.26
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春日井市上条町4上条城址から西に1分程歩くと細い道の交差点があります。その交差点の角に切妻瓦葺屋根の四方が吹き抜けの覆屋があります。道路前方の左側に一本だけポツンと聳える樹が見えますが、そこが上条城址なので本当に目と鼻の先。この右手には上条城の城主だった林氏の立派な蔵があります。交差点の北角に佇む覆屋、よく見ると中に神棚が見えます。交差点の南側から覆屋を正面から見る。土足で入っていいものなのか悩む、覆屋と呼ぶには立派なものです。中には板宮造りの二つの社が祀られています。どちらも注連縄も新しく、扉は開け放たれています。左手の社には石の御神体が祀られているようで、右手の社には真新しい神札が見て取れます。覆屋の中に入り間近に見ればいいのだろうが、やはり入るには気がひける。覆屋の前から参拝させて頂くこととした。社の中をコンパクトカメラで目いっぱい引いて見た。ここまでが精いっぱい、右の社は津島神社(天王社かもしれない)。左の花崗岩の御神体には漢字二文字が刻まれているようです。色々調整をしては見たが、下の漢字は王と読めるけれど上が分からない。猿の様にも見えなくもない、猿王…猿王社?、龍でもあるまい。上条町を厄疫から免れるためにここに祀られたものと思われますが、いつ頃の創建なのか含めこちらの詳細は分かりませんでした。注連縄や神札などが新しいことから町内で崇敬され、ここを中心に人とのつながりが出来ていると思います。「津島社」創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 春日井市上条町4上条城址からのアクセス / 徒歩で西に1分関連記事 / 上条城址
2020.06.24
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今回も春日井市JR春日井駅から直行すると10分ほど、春日井市上条町3の不明社経由で西に歩く事15分程で上条城跡に着くのではないでしょうか。目標となるのは1本の木が聳えるこの石碑、というか右側の駐車場かもしれません。東西に長い駐車場の西角に建つ石碑が上条城跡。どこかに遺構はないのか?右は整地された駐車場で痕跡らしきものは見当たりません。城址を示す石標があるのかと思えば、自分が見た限りそれらしい石標は見当たらない。石碑正面にそれらしい事が彫られているのでは?と近づいて見るも、この碑には「林金兵衛君碑」とあり、その下に細かい文字が碑の全面に彫られている。林金兵衛(1825年(文政8)~1881年( 明治14))を調べて見ると、初代東春日井郡長で今井兼平から数えて林家の28代目にあたり、上条城(じょうじょうじょう)主の小坂氏の子孫に当たる方だそうです。上条城は小坂光善が1218年(建保6)に築城し、後に近江国へ移り住んでいたが、林重之の代に上条城に戻り、名字を「小坂」から「林」へ改姓したそうです。上条城は1586年(天正14)に秀吉により廃城となるも、小牧・長久手の戦いで秀吉は自ら兵を率いて竜泉寺の帰路、林重登の屋敷で少しの期間滞在したという。秀吉はこの時の礼として重登を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名、重登から林金兵衛の代まで大庄屋として明治に至るまで勤めた。城であり林家の屋敷でもあったようです。この碑にはこうした事が刻まれていると思われます。遺構としては駐車場が嘗ての本丸で「人呼びの丘」と呼ばれる天守跡(左のこんもり部分)やその東側に石垣や西側には土塁の痕跡が残る。こうして見ると遺構というより造成工事中の趣です。駐車場から北側を見ると今もこうして石垣が残っています。北側には回り込んでいないのでよく分かりませんが、本丸跡の駐車場は時代の流れとはいえ、石碑や遺構をここまで留めているのだから、当時を忍ばせる想像図や解説が掲げられていると訪れる方は多くなると思う。文化財に指定されていない事もあり予算が付かないのだろう、これが現実なのかも知れない。訪れる方もなく静まり返った上条城跡、折角の遺産がもったいない気がします。2020/6/13上条城址築城 / 1218年(建保6)築城主 / 小坂光善主な城主 / 小坂光善、林重之、林盛重、小坂雄吉廃城 / 1586年(天正14)関連記事 / 春日井市上条町3の不明社公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、南口から南へ徒歩約10分上条町3の不明社からアクセス / 社から南西に徒歩10分
2020.06.22
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春日井市上条町3JR春日井 南口から徒歩で10分もかからない、大きな工場の南の通りを東に進む。右側に公園が現れその先で道は二手に分かれます、目的地は三叉路の角。写真は振り返った道筋の絵なので公園は左になっています。小さな側溝沿いの角に聳える2本のシュロが目印。シュロ、弘法大師が持ち帰り寺院に植えたともいわれるけれど、以前我が家の庭で一人生えし最初は南国情緒が漂い、真っすぐに伸びる事もあり、気持ちもいいんじゃないのと放置。気が付けば剪定に手を焼くこんな高さまで育ってしまい往生した事がある。それと同じだ。皮はタワシ代わりにもなり重宝していたが成長の早さには驚いたものだ。この社の鎮守の杜はこのシュロなのかもしれない。二本のシュロの先に民家に溶け込む様に小さな切妻の覆屋が見えると思います。ここが今回の目的地になります。今回もこの社の情報は皆無、なので不明社として記載します。社の正面全景、周囲はアルミの柵で囲われ、小さな境内の覆い屋の下に板宮造りの社が祀られています。扉は開け放たれているので地域のものだと思います。社の前に供えされた榊は新しいもの、小まめにこちらを訪れ手入れをされているようです。この町内の氏神様なのでしょう、何か分からないねのか、調べて見ましたがやはり詳細は掴めませんでした、社の扉は閉ざされ、神札から判別することもできませんでした。下は左が1938年の社地で右が現在、どちらにもそれらしいものは記されていません。とすれば現在の区割りが整った頃と想定すると、意外に最近の事なのかも知れない。社名は分からないけれど、参拝に訪れて感じたのは、何らかの意図をもってここに社が必要とされ祀られ、それが現在もこうして面倒を見てくれる方がいて受け継がれている事。通りすがりのおやじに意図を明確にする必要はなく、ここに住まう方が知っていれば十分なのかもしれません。社の事は分からなかったけれど、左のJRの駅名に新たな気付きを見付けました。「JR鳥居松駅」の表記、春日井駅は春日井駅だろうとずっと思っていた。1900年(明治33)に名古屋駅 ~多治見駅間が開業したけれど、当初は勝川駅~高蔵寺駅間には駅がなかったそうです。 その後、鳥居松村の有力者を中心として駅の開設運動が起こり、1927年(昭和2)「鳥居松駅」が誕生したそうです。 1943年(昭和18)に鳥居松村含めた4町村の合併により春日井市が誕生し、3年後の1946年(昭和21) に春日井駅に名を変えたという、春日井駅は鳥居松駅だった、このことがここに訪れて得られた収穫。2020/6/13不明社創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 春日井市上条町3公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、南口から東へ徒歩5分程
2020.06.21
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東区筒井1丁目名古屋城の東に位置し、古くは武家屋敷、寺社も集まり、以降町人の町として賑わいを見せ、近くには尾張徳川家と所縁のある建中寺もあり、新旧の趣が混在する地域建中寺公園の東にある小学校方向に歩いて1分程、細い三叉路に小さな社があります。この筒井町は南に筒井町商店街が東西に続きますが、嘗て賑わいを見せた通りも今は人より車の往来の方が目に付き寂れた印象が漂います。小学校の西側に位置し、三叉路の角に社が鎮座します。以前は古びた覆屋と社だったけれど、近年建て替えられた様子。写真の先は建中寺公園になり、背後は小学校の裏門で周囲は住宅街。静かで落ち着いた環境、その角地に僅かな社地を確保してもらい社が佇んでいます。東を向いて祀られる社は5本の鰹木と内剥ぎの千木が施された神明造。以前は檜皮葺きの流造だったようです。この社、以前は軒下に祀られていた屋根神さまだという。屋根神様には秋葉神社、熱田社、津島神社の三社が祀られることが多いけれど、こちらは秋葉神社、津島神社とこの地の氏神「高牟神社」が祀られている。人通りも少なく、雨に打たれる姿はどことなく寂れた感じが漂いますが、毎年6月の最終土日に行われる「筒井町・出来町天王祭」ともなれば様相は一変します。小学校の北側に筒井町の山車「神皇車」が保管され、すぐ東の黒門町には「湯取車」もあり、何れも市の有形民俗文化財に指定されるものです。天王祭ではそれらが曳き回され、この時ばかりは多くの見物客で賑わいます。今年はCOVID-19の影響で開催されるかは微妙なところ、確認が必要です。社側面の眺め、覆屋の下に祀られる社は結構窮屈に収められています。社の棟柱と覆い屋の梁は絶妙に加工されています。地域の方々にこうして新しくしてもらい、親しまれているのを見ると窮屈に見えようが大きなお世話。建て替えに伴い軒下から姿を消していく一方の屋根神様ですが、こうして残されている姿を見て、形容に困るけれど、ある種の優しさ?繋がり?みたいなものが伝わってくる。我が町からとうに消え去ったものがここにはある。2020/06/19東区筒井1の小さな社創建 / 不明祭神 / 秋葉神社 津島神社 高牟神社住所 / 名古屋市東区筒井1-13公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」1番出口から北へ徒歩10分程関連記事 / 建中寺 高牟神社
2020.06.20
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昭和区伊勝町その昔、津田房勝(尾張藩士・1629~1701)の著した正事記に、この地の事が記されています。ここを訪れた空海がここで水を求めたそうな、それを村人が拒んだために村中の井戸が涸れてしまった伝説があるようです。そのことから「井湯の里」と呼ばれ、「井渇の里」となり現在の「伊勝」となったともいわれる。周辺は史跡散策路となっており、伊勝八幡宮への曲がり角に写真の様に周辺の見所が案内されています。案内板から北側に曲がるとすぐ右側に「伊勝八幡宮」社号標と玉垣で囲われた境内が現れます。南北に細長く南入りの境内の様です。境内は御覧の様に玉砂利が敷き詰められ、静かな住宅地の中に踏みしめる玉砂利の音が聞こえてくる、そんな厳粛な空間が漂います。道路際に掲げられた由緒書き、伊副神社由緒とあります。あれ?伊勝八幡宮のはずだが・・・・・よく見れば右側に伊副神社の社号標がありました。伊副神社由緒書き御祭神 龗神、罔象女神延喜式神名帳に記載されているが鎮座年代は不詳、伊勝八幡宮所蔵の棟札に「伊福神社天明3年癸卯年春伊勝村神主」と記されている。江戸時代の絵図等の記録を調べると伊勝八幡宮正面(現在の前山町3)に伊副池があり、小山に社祀られていた。「尾張地名考」に「伊勝は井河津の約なり」と記されている、副は「寄り添い助ける分ける」の意がある。伊副大神は生きとし生けるもの全てに最も大切な清らかな水と多くの恵みをもたらす神として崇められる。伊勢神宮62回式年遷宮の年に世の恒久平和と国や此里の安全弥栄を祈り再建。とある。天明3年は1783年、伽藍が新しいので歴史は浅いのかと思いきや、その当時から既にこの地に鎮座していたということです。井福神社境内木の神明鳥居と石畳の先に流造の本殿、綺麗な狛犬見える。境内左に控柱のある手水舎。62回式年遷宮の年に再建とあるだけに、本殿を含め全てが新しく、境内手入れの良さもあり、参拝に訪れても気持ちがいい。伊副神社創建 / 不明祭神 / 龗神、罔象女神伊副神社の右が伊勝八幡宮。並行するように石畳の参道が続く、鳥居はニノ鳥居まであるように見えます。その先に石段があり、拝殿が見えます。一ノ鳥居の額を写真に収め、PCで見て初めて気が付いた事ですが、八幡の「八」が鳩の様に見えます。後で調べたところではこちらの神社は別名「鳩八幡」と呼ばれることもあるようで、そのためか八が鳩のデザインになっているのでしょう。ニノ鳥居の手前に四脚の手水舎、手水鉢があります、遠目に龍の存在が分らず、そばに来て口を隠すように清水を注ぐ龍の存在に気づく。こうして見れば角はしっかりはみ出ています。ニノ鳥居の右に玉垣が切れた部分があるので、そちらに向かいます。その中は「忠魂碑」が安置され、その後ろに「義勇奉行」と記された石碑、その左に「村社八幡社」の旧社号標が建っています。1979年(昭和54)に伊勝八幡社へ改称した際にこちらに移設したのでしょう、その後現在の伊勝八幡宮に社名変更されたようです。ニノ鳥居から拝殿の眺め。石段の右の巨木、樹齢1000年を超えるといわれるご神木のアベマキ、大きさのみならず、伊勝八幡宮の歴史を物語るものです。石段を上がりきると台座に橘紋の刻まれた狛犬、なかなか体形の整った姿をしています。ご神木のアベマキの右に一対の狛犬と二つの建物。左が寳物殿で右が覆殿、その間に小さな覆屋があり熱田社が単独で祀られています。覆殿を守護する狛犬、ここでに狛犬を3対見てきた事になります。こちらの面々、若干肉付きがいいものの、凛々しいスタイルをしています。覆殿の三社左から富士浅間社、山神社、埴山姫社。この三社は流造。下の写真は単独の覆屋に祀られた熱田社。こちらは神明造。何れも建て替えられ、台座も社も綺麗な状態です。覆殿のある境内の西側から見た唐破風向拝の曲線が美しい拝殿から本殿の眺め。今一つ本殿の全容は掴めません。拝殿前にも一対の狛犬が見えます。彼らで4対目。拝殿を守護する狛犬、大きく目を見開きこちらを見据え、撫で牛もこちらを見ているようです。これまで見てきた狛犬の中では一番愛嬌のある顔つき。参拝させていただきます。拝殿前に撮影禁止の張り紙がありこれ以上は控えさせていただきます。伊勝八幡宮に伝わるものに1985年(昭和60)に愛知県の文化財に指定された陶製の狛犬があります。「山犬型・古瀬戸鉄釉狛犬」と呼ばれ、その台座には「応永廿五戊戎歳(1418)十二月朔日熊野願主浄通」の墨書銘があるそうです。そのことからもそれ以前には伊勝八幡宮は鎮座していたと思われます。瀬戸窯で狛犬を製造し伊勝神社に奉納されたもので、全身は黒色で狼を思わせる威厳のある顔と鋭い目をもつといいます。昭和初期頃までご神体前の帳の鎮子として置かれていたため保存状態も良好らしく、伝世されている狛犬の中でも第一級の基本資料とされ、伊勝型として分類されるようです。実物は名古屋市博物館のHPに掲載され、そちらで見ることができるようです。熊野大社の狼に繋がる狛犬は、この神社にあって一番個性的で威厳のようなオーラを放っています。この狛犬について尾張志(天保15年尾張藩の総力を結集し取り纏められた)にも記されていて、伊勝村に應神天皇を祀る神社があり、神社には陶器の狛犬あり、うらの銘に「應永廿五戊戌歳十二月朔日熊野願主浄蓮」と記されています。その中で「1441年(嘉吉元年)當社を御器所村に移し祀った」とあり、この通りだとすると元々の神社は御器所村に移され、その跡地に現在の伊勝八幡宮が建った事になります。御器所と聞くと御器所八幡社が思い浮かぶけれど、移された神社がそれなのかは不明。拝殿左の伊勝天神。絵馬かけには多くの願いが寄せられています。伊勝天神側から見た伊勝八幡宮本殿、やはり伽藍の全容を見ることはできません。伊勝天神の西にも鳥居と手水舎があります。この鳥居から5分ほど西方面に行くと遺構は残っていませんが伊勝城があります。1573~1592年(天正年間)に佐久間盛政の居城とされ、のちに廃城となり現在は住宅地なっています。散策路になっているだけに周辺には寄り道したくなる所は多い。手水鉢は普通に見かけるものですが、後方の岩にご注目、岩のてっぺんに何かがいます。それは亀、鉢に亀は分かるけれど、なぜここなのか知りたいところです。岩に彫られた溝のようなもの、文字に見えなくもない。亀が注いだ清水はこの溝を経て鉢に導かれる?もう少しよく見ておけば良かった。北参道と言っていいのかな?雨に打たれた石畳と周囲の光景は厳粛な雰囲気を漂わせています。境内の社務所、中央の石畳の左が御神木のアベマキ、なんとも見事な枝ぶりです。生憎の雨模様ですが緑は鮮やかさを増します、こうしたしっとりした雰囲気もいいものです。手入れも行き届き、伊勝町の氏神さまとして親しまれているのが伝わってくる。とても居心地の良い神社、そんな印象を受けました。2020/06/12伊勝八幡宮創建 / 創建年代不詳主祭神 / 品陀和気命(応神天皇)相殿神 / 天王社(武速素盞之鳴命)、白山社(菊理姫命)脇殿 / 熊野社(五十猛命)、天神社(菅原道真)境内社 / 富士浅間社、山神社、埴山姫社、熱田社 住所 / 名古屋市昭和区伊勝町2-99公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「川名」下車、北に20分程関連記事 / 御器所八幡宮
2020.06.18
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春日井市桜佐町『八龍神社』庄内川が滔々と流れ、堤を隔て周辺には農地と住宅が広がります。このあたりは釣りやカヌーを漕ぎに昔はよく訪れた場所ですが、眺める景色も若かりし頃とは随分変わったものです。自然が残る住みやすい環境ですが、穏やかな表情の庄内川もこの時期の大雨では荒々しい表情を見せます。写真は吉根橋下流から密蔵院のある吉根橋方向の眺め。堤から北を眺めると今も着々と造成が進む光景が広がります。造成地なので周囲に木々はなく、唯一八龍神社境内の杜だけが島の様に見えています。熊野町の熊野神社から南西方向に徒歩でも10分程、街中の住宅地に埋もれた環境ではないので分かりやすい。『八龍神社』はその造成区域に取り残された様に鎮座しています。神社周辺は工事区域なので現在は車で訪れる事はできません。現在こんな光景ですが、以前はどうだったのか。右が1947年(昭和22)頃の鎮座地、当時の地図には鳥居の印は見当たりません。北を流れる内津川と庄内川が合流し、川に挟まれた地域で周囲は見渡す限りの田園風景が広がっています。印がないから新しいのかとも言い切れません、古くはここから少し下ると渡しがあったとされ、人はそれなりに集まった場所、別の形で古くから龍神さまが祀られていたのかも知れません。最初に書いておこう、『八龍神社』の沿革は分かりませんでした。造成地の中に取り残された様に鎮座する『八龍神社』。その外観は鳥居や玉垣、社号標等すべてが新しい。社地の片隅に如意輪観音や馬頭観音等の石仏が安置され、写真左奥に庚申塔が纏められています。八龍神社正面全景。鬱蒼としたものではなく、ご覧の通り風通しも陽当たりも非常にいい。個人のイメージで、龍神様と聞くとなんとなく木々が生い茂り、薄暗い印象を受けますが、ここは明るい印象を受けます。2016年(平成28)に建之された真新しい鳥居と社号標。鳥居の先に拝殿と周囲を塀で囲まれた本殿域を一望できます、左右に小社が複数あるようです。神社は目の前の桜佐町とその先の庄内川を向いて鎮座します。拝殿正面全景。瓦葺の切妻造りで四方は吹き抜け、龍をアピールする飾りや額などは見当たりません。シンプルで素朴な佇まいです。拝所からは見た本殿域、一対の狛犬が本殿域を守護しています。石の白さが映える鳥居、拝殿も綺麗で新しい、棟札を見ていませんが恐らく同時期に建て替えられた印象を受けます。 拝殿先の本殿域、新たに小高く積まれた石垣、その上に塀や本殿が祀られています。右手には板宮作りの社が二つ、その後方に複数の石標が建てられています。その中には1923年(大正12)、1929年(昭和4)の年号が見られます。1947年(昭和22)の地図では記されていないけれど、祭祀形態は違うにしても、それ以前から桜佐に鎮座していることになります。桜佐の地名、諸説あるようですが、古くは桜沢と呼ばれていたものが縮まって桜佐となったという説があるようです、1844年(天保15)に編纂された尾張志でも桜佐と記されていました。本殿右の二社を参拝していきます。こちらは桜佐集落の火伏として祀られた秋葉神社。その左奥の社は御嶽神社。良くある霊神碑の類をこちらで見かけることはありませんでした。本殿全景。真新しい石垣、瓦葺の白い塀が周囲を囲っています。その前を白い狛犬が守護しています。色白の面々、恐らくは再建時に併せて奉納されたものでしょう。玉砂利が敷き詰められた本殿域、中央に神明造りの本殿が見えます。本殿左の小社。参拝時に社名を確認しメモしたのですが、なくしてしまい忘れてしまいました。写真から識別できるだろうと甘く考えていましたが大間違いでした。近くに寄った際にもう一度参拝し、ここに追記とします。本殿の側面に回り込むと5本の鰹木と外削ぎの千木が良くわかります。境内左の保存樹、境内ではひと際目を引く存在です。天に向かって聳える大きな樹には何かが宿るとも言われます。目には見えていないがここには桜佐町の田畑を潤し、雷除けの龍神が宿っているのかもしれない。『八龍神社』創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 秋葉神社、御嶽神社、不明社住所 / 春日井市桜佐町346関連記事 / 熊野神社 熊野神社からのアクセス / 南西方向に徒歩でも10分程公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」下車、徒歩で東へ20分程
2020.06.15
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上野恩賜公園の上野山の西にあたり、上野東照宮の南というか上野大佛の南といえばいいのかな、上野山の西垂れの斜面に五條天神社と花園稲荷神社が鎮座します。五條天神社と花園稲荷神社の南参道は其々の神社の鳥居が左右隣り合わせで建っています。社頭の「賢薬祖神五條天神社」由緒書き祭神は大己貴命、少彦名命、相殿 菅原道真命花園稲荷神社の祭神は倉稲魂命を祀る。日本武尊が東夷征伐のおりに武蔵忍岡を通りがかり大己貴命と少彦名命の二柱を祀った事から始まるといい、それは1890年前に遡る。相殿に祀られた菅原道真は、1641年(寛永18)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われたようです。社地は創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、1928年(昭和3)に創祀の地に最も近い現在の花園稲荷神社隣りに遷座した。なので、伽藍の規模を見比べると五條天神社の規模が大きく、花園稲荷神社は五條天神社の境内社の印象があるけれど、先に鎮座していたのは花園稲荷神社のようです。五條天神社鳥居からの眺め。石の神明鳥居、よく見ると笠木(鳥居上)と柱の石の色が違うと思います、これは東日本大震災の爪痕です。震災で柱に亀裂が入り、その部分を交換したためにこのように違っています。鳥居右の彼、マレーシアから一人訪れたと話してくれた。桜をバックに写真を撮ってほしいと頼まれましたが、その後もずっと桜を見入る彼、綺麗なものに感動するのに国境はないという事です。南参道の鳥居の先の狛犬。骨太のがっしりした体形で、星梅鉢の紋が入った高い台座から鳥居の遥か先を見据えている様に見える。大きくはないけれど頼もしそうだ。七福社五條天神社の境内社で江戸時代には上野の繁栄を願い、上野山の入口各所に祠が祀られたそうです。七福社もその一つとされています、その名の通り七福神が祀られています。境内右に方型屋根の手水舎。その頂きには鳳凰が飾られ、屋根を支える柱は八角の柱を八脚に配置し、その中心に蓮の形の手水鉢が置かれています。神楽殿境内東側にあり、後方は不忍池。手入れされた境内庭園、訪れた2月下旬は丁度梅が見頃を迎えていました。入母屋銅葺屋根の神楽殿、額には舞殿と記されています。普段は板扉で囲われていますが、例祭の際は解放され神楽が奉納されるようです。拝殿全景。入母屋造で銅葺屋根の拝殿、本殿の容姿を捉える事はなかなかできませんでした。左右の銅製の狛犬が神楽殿を守護しています。頭の小さく頭身バランスのいいスリムでスタイリッシュな狛犬、そのフォルムは凛々しいものがあります。賽銭箱には粟穂紋、狛犬などには星梅鉢の紋が見られる。五條天神社創建 / 西暦110年頃祭神 / 大己貴命、少彦名命、相殿 菅原道真命住所 / 東京都台東区上野公園4-17花園稲荷神社、南参道五條天神社と花園稲荷神社は鳥居こそ分かれていますが、不忍池に向かい傾斜する斜面と並行するように斜面の上が花園稲荷神社境内、その下が五條天神社の境内。其々の境内は玉垣で区切られているわけではなく石段で二社の境内は繋がっています。鳥居をくぐると、右手の旧社殿跡に小さな赤い鳥居のある穴稲荷があります。ここは幕末の上野戦争の舞台となり、1873年(明治6)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の社殿が整備されたようです。この参道の先を進むと現社殿へ繋がります。花園稲荷神社参道の穴稲荷の先、額に「神徳惟馨」とあるが、扉が閉じられ詳細は良く分からない。これは社務所でいいのか?。手水鉢には「盥漱清心魂」とも刻まれています。特別な御神徳を授かる事ができる、そんな雰囲気を感じさせます。花園稲荷神社参道は五條天神社の境内より少し上になる事から、この参道からだと五條天神社の本殿が顔を見せます。外削ぎの千木と鰹木までは見て取れますが鰹木の数、本殿の造までは残念ですが分かりません。花園稲荷神社扁額と拝殿内の眺め、黒っぽい狛狐が守護しています。御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷が正しい名称という事です。石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われ、1654年(承応3)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としたそうです。花園稲荷神社創建 / 不詳祭神 / 倉稲魂命住所 / 東京都台東区上野公園4-17拝殿から右に進むと小さな石鳥居の先に稲荷鳥居が連なる参道が続きます。その先は石段となり、それを上ると花園稲荷神社の東鳥居に続きます。西に向かってこれだけ高低差があり、五條天神社は更に下になります。上野恩賜公園側の花園稲荷神社東参道。参道口を守護する狛犬は年季が入っているようで、阿形は一部欠損し、容姿も個性的です。花園稲荷神社東鳥居。社殿は鳥居をくぐり、石段の下になるので上野恩賜公園側から見ると鳥居だけが視界に入ります。見かけは鳥居だけですが、その先に鎮座する二社は上野の山の守護神ともいえるものです。公共交通機関アクセス / JR山手線上野」下車西に徒歩5分程 関連記事 / 東京に行ってきた 上野東照宮 上野大佛
2020.06.13
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堀ノ内町の神明神社から南西に徒歩15分、町名は変りこのあたりは熊野町になります。何でしょうね、このあたりの町名の由来はとてもイメージしやすい。熊野町となれば熊野神社があるの?、期待を裏切る事はなかった。本店をはじめ支店や出張所が全国に数千とある熊野神社、さぞかし立派な支店なのだろうと勝手に期待していた、しかし訪れるとそれは過度な期待で出張所的な趣だった。ここ熊野町には多宝塔で知られる密蔵院もあるが、敢えて熊野と付いたからには何かあるのだろう。神社は南向きに鳥居を構え、その先に切妻瓦葺の拝殿が見える。社号標は社頭右にあり、それには大正と刻まれています、その奥に熊野神社の縁起が建っています。『熊野神社縁起』所在 篠木村大字熊野字中間1349番祭神 速玉男命、伊弉册命、事解男命例祭日 10月18日由緒 社伝明らかならず、されど養老2年(718)創建の由言い伝えり。かくて延長7年(929)社殿を再建し、及び明和5年(1766)11月改築。明治元年(1867)9月にも社殿の再建が計られた。宝物 棟札 天和2年丙辰菊月19日 一枚境内 1145坪境内神社 伊豆社 祭神 / 火牟須比命、津島社 祭神 / 須佐之男命、白山社 祭神 / 菊理媛命稲荷社 祭神 / 倉稲魂命、神明社 祭神 / 天照大御神、熱田社 祭神 / 熱田大神、富士社 祭神 / 木花之佐久夜毘売命、金刀比羅社 祭神 / 大国主命、戸隠神社 祭神 / 天手力雄命、愛宕社 祭神 / 加具槌命縁起がしっかりと記され、気まぐれに訪れた者にはとても分かりやすい。慎ましやかな神社の外観から想像できない長い歴史を持つ神社の様です。拝殿は切妻瓦葺の四方吹き抜けのこぢんまりしたものです。拝殿から本殿。左右に複数の社が祀られているようです。熊野神社と彫られた鬼瓦。こぢんまりとした拝殿ですが、妻側に躍動感のある龍の彫飾りが施されています。拝殿全周に想像上の動物、猪や鼠など彫られています。拝殿内から本殿の眺め。苔むした狛犬が守護する本殿域全景。本殿は銅葺屋根の流造で左右それぞれに2社が並んでいます。奉納年度が違うのか左右の燈籠は竿の形が違います。愛嬌のある狛犬、表情は二タッと笑っているようでもある。本殿。創建 / 718年(養老2)の言い伝え祭神 / 速玉男命、伊弉册命、事解男命パッと見飾り気がないけれどよく見て行くと木鼻や虹梁には龍や獏など飾りが施されています。左の二つの社、しっかり社名札が掲げられ悩まなくてすみます。左の小さな社に愛宕社、戸隠神社、金刀比羅社。右の社が冨士社、熱田社。右の二つの社。左の社に神明社と稲荷社、右の社に白山社、伊豆社、津島社。一番右に小さな石標、初めは石上様かと思っていましたが、随分と時を経て風化していますが、よく見ると地蔵か観音様らしき姿が見える。由緒にある所在地の篠木村大字熊野字中間旧住所で表記されています。篠木村はかつての荘園篠木荘からきています、1878年(明治11)近隣の名栗、牛毛、野田の三つの村が合併し、熊野村となったらしく、その際に三つの村の氏神の熊野神社から名を取ったようです。縁起にある1682年(天和2)の棟札が【宝物】と記されているように、古くからこの辺りの人々に受け継がれてきた、その歴史こそ熊野町の宝物なのだろう。思い描いた立派な趣とは違ったけれど、見た目とかけ離れた強いつながりを感じる熊野神社です。2020/5/31熊野神社創建 / 718年(養老2)の言い伝え祭神 / 速玉男命、伊弉册命、事解男命境内社 / 愛宕社、戸隠神社、金刀比羅社、冨士社、熱田社、神明社、稲荷社、白山社、伊豆社、津島社住所 / 春日井市熊野町1349公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車南西に徒歩で25分程関連記事 / 神明神社 密蔵院 高御堂古墳
2020.06.11
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高御堂古墳貴船神社境内から出土した神領銅鐸、その銅鐸を貴船神社に変わり保管するという瑞雲寺から北に徒歩2~3分のところに高御堂公園があります。公園北側にこんもり盛り上がって木々が生い茂る一画があります。緑を残し自然と親しめるいい公園だね、と思っていた。公園北側の歩道沿いのフェンスの先に「高御堂古墳」の石標を見付けた。このこんもりは古墳のようです。銅鐸ついでにひと回りしてみました。公園西側まで来ると春日井市教育委員会の「高御堂古墳」の解説板があった。それによれば春日井市唯一の前方後円墳だそうな。その年代は古墳時代(300~700年)に作られ、詳細な年代までは特定できていないようです。発掘調査から古墳の長さは63㍍で後方の幅が38㍍、高さが約7㍍、前方が幅29㍍高さ約5㍍だったようで、現在の姿は復元されたものらしい。後方部は3段、前方部は2段の平坦部分があり、そこ壺型の埴輪が置かれていたとされます。埋葬者や埋葬品は調査されていないので分からないようです。このこんもりは川砂と粘土で盛り上げられ、墳丘斜面に川原石(当然ながら庄内川だろう)を使い葺石として敷き詰めたようで、古墳周囲は溝に囲われていたようです。解説板あたりから見渡すと奥に向け高くなり、前方後円墳の形状がイメージできます。石槨内部は発掘調査がされていないけれど、鏡や玉が埋葬されていると考察されるそうです。過去を紐解く事業は景気に影響しない、大盤振る舞いの予算もこうした方向にはつかないのだろう。後方(東側)に回り込むと周溝の面影を強く留めています。町名の堀ノ内由来もこうしたところから来ているかもしれません。気になったのが周辺の「まむしにちゅうい」の看板です。これを見てしまうと迂闊に近づく気にはなれなくなる、無口な🐍も同じ気持ちだろう。公園内にこの看板、自然が残っているという事ですが、鉄砲玉の子供達から目を離せないかもしれない。高御堂古墳築造時期 / 古墳時代(300~700年)古墳形式 / 前方後円墳住所 / 春日井市堀ノ内町5-11-1(高御堂公園内)関連記事 / 瑞雲寺、神明神社、貴船神社、三明神社
2020.06.09
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上野東照宮の参拝を済ませ次の目的地に向かう道すがら、上野恩賜公園の小高い丘に「上野大佛」の案内板が目が止まる。「大佛」さまと聞くとあの大佛さまを思い描くが、こちらの大佛はそのイメージとはかけ離れたもの。公園歩道脇の「上野大佛」の案内板とその先の小高い丘は大仏山と呼ぶそうで、その上に仏塔が建っています。小高い丘に続く階段を登ると絵馬掛けと祠があり、大仏さまが見えてくる・・・・・そう思い描いていた。見渡してみても仏塔はあれど、それらしきものは見当たらない。階段左の祠に視線を向けると、そこには仏様の大きな顔のモニュメントが安置されています。左に上野大佛とある、これが大佛さまのようだ。絵馬掛けには「合格大仏」と書かれ、合格を祈願する絵馬が掛けられています。これだけ多くの願いを叶えなきゃいけない、大仏さまは静かに目を閉じ、優しい表情はしているがさぞかし大変な事だろう。願いが叶った暁はお礼参りもお忘れなく。それにしても大佛は誇張し過ぎではないかい?傍らに解説があり、それを読むと何故合格大仏と呼ばれているのか、大佛が誇張ではないことを知ることができる。それによれば、発端は1631年(寛永8)に当時の越後の国の村上城主だった堀直寄により、敵味方なく戦乱で亡くなった者の冥福を祈る目的でこの地に粘土を漆喰で固めた釈迦如来像を建てたことから始まる。漆喰造りの像は1655~60年(明暦~万治)に江戸住民の浄財を基に木食浄雲僧により青銅製の釈迦如来坐像へと改められたそうです。合格大仏の所以の始まりです。解説によればその高さは6㍍にもなる銅仏で1698年(元禄11)には大仏殿も作られていたという。その後1841年(天保12)の火災で大仏さま、大仏殿も被災、1843年(天保14)に堀直央が大仏を修復、大仏殿は時の幕府により再建され、その後も天災や火災を繰り返したそうだ。1873年(明治6)に上野公園造営に伴い大仏殿は解体され大仏は露わになります、そしてあの関東大震災が起きその際に大仏の顔の部分が剥落してしまったようです。被災した大仏さまは寛永寺で保存され修復の時を待つも時は第二次大戦。冥福を祈るシンボルは大仏さまの顔以外は全て軍に供出されます、二宮金次郎やお寺から梵鐘が消えた時代です。それら本来の姿から兵器に姿を変えました。大仏さまの顔は1972年(昭和47)にこの丘に現在の形で安置されるようになった。幾多の災難、戦禍に巻き込まれながら姿を変え、顔だけになった大仏さま。「これ以上落ちるところはない」として合格祈願として親しまれるようになったらしい。感染病で自国第一主義の傾向が少なからずも垣間見られた昨今。国会のTV中継も減り、痛みを伴わない集団の誰が何を語り、説明もそこそこに、物事進められていく。今の若い衆やその次の世代が迎える世の中を考えると妙に危うさしか感じえない。大仏さまがこれ以上地に落ちる事無く、穏やかな顔でいつまでもここにいてほしいものだ。穏やかな表情の合格大仏、その右に存在感のある仏塔が建っています。パゴダと呼ばれる仏塔だそうだ、内部に薬師如来、脇侍の左側の月光菩薩、右側の日光菩薩像は旧上野東照宮にあった薬師堂のご本尊とある。明治政府の発布した神仏分離令により上野東照宮から寛永寺に移管されていたものをパゴダ建立に伴いこちらに安置したものだそうだ。この塔は1923年(大正12)の関東大震災で被災した大仏の跡地を利用し、1967年(昭和42)に上野公園の名所として高さは15㍍のパゴダを建立したもの。この内部に旧上野東照宮にあった薬師堂のご本尊薬師如来、月光菩薩、日光菩薩像が祀られています。薄暗い内部、正面に薬師如来と脇侍の月光菩薩、日光菩薩像を拝むことができます。この絵、いろいろ加工してみるも姿は現れませんでした。建物は新しいけれど、一見の価値ありです。2020/2/20上野大佛 建立 / 1631年(寛永8)大佛パゴダ 建立 / 1967年(昭和42) 本尊 / 薬師瑠璃光如来、脇侍 / 月光菩薩、日光菩薩像 住所 / 東京都台東区上野公園8公共交通機関アクセス / JR山手線「上野」下車西に徒歩10分程 関連記事 / 上野東照宮
2020.06.07
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おはようございます東海地方の梅雨入りもまもなく早朝新聞配達のバイクの音で目覚めた勢いで千種区の茶屋ヶ坂公園まで紫陽花を見に頑張ってあるいてきましたまだ5時を少し過ぎた時間帯の茶屋ヶ坂公園そのせいか散歩の方も紫陽花を見に訪れる方は見受けられません園内の紫陽花はまだ〃これからですそれでも随分咲き始め、いろとりどりの紫陽花が目を楽しませてくれます公園西側の一画にはユリも見頃を迎えているようです霧雨の中に佇む紫陽花が好きだけれど、そうした情景も間もなく見ることができそうです園内のユリがここまで咲いているとなれば千種公園のユリも気になるところ自然はちゃんと動いています、今年はそれをあまり見ていない気がする茶屋ヶ坂公園住所 / 名古屋市千種区鍋屋上野字汁谷アクセス / 地下鉄名城線「自由ヶ丘」下車北へ徒歩10分程
2020.06.06
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春日井市神領町1『瑞雲寺』「神領町」この地名、その昔は熱田神宮に仕える神官が暮らす地域、「神の領」から縮まり現在の神領になったとか。特別感満載の地名です。瑞雲寺は堀ノ内町の「神明神社」に向かう途中、高御堂公園の東にある臨済宗のお寺です。貴船社境内から出土した銅鐸の一つがこちらで保管されているそうです。お寺の敷地はゆとりを感じさせる広く立派な佇まい、東の道路沿いに寺号標が建つ。そこから眺める伽藍は全体に新しいもので、ひなびたお寺の印象はない。瓦葺の四脚の山門、その左は鐘楼、右が庫裏の様です。駐車場からスロープが伸び、そこから山門に続いているようです。駐車場の左角に社が祀られています。左に「熱田皇大神宮」の石碑。社名札は掲げられていないけれど熱田大神の神札が納められているのだろう。1986年(昭和61)に改修されたと記されています。山門こちらも新しい、瓦には五三の桐紋が入ります。山門より境内の眺め。東海四十九薬師霊場の二十二番札所でもあるようです。正面は本堂。境内本堂方向の眺め。左に四脚瓦葺の鐘楼、右手が本堂でその左に小さなお堂が二つあるようです。外観同様、手入れされた庭は石畳が敷かれた綺麗な庭です。ところどころにかわいい地蔵や七福神などが置かれています。山門をくぐり、左側を見て下さい。小さな赤い扉の祠があります、天王社かい?覗いて見ると中には黒光りした石の男性シンボル(でいいんだろうか)が安置されています。煩悩まみれのおやじの見立て、違っているかもしれない。軒下の札に「おさすりさま」とあります、謂れを調べて見るも手掛かりは見つからない。先端をさすると何かしらの御利益があるようだ。怪しい物体の前に盛砂が盛られ、綺麗に砂紋が描かれています。鐘楼脇の石像群、はっきりしないけれど行者の上に彫られているのは御嶽講のシンボル山丸三かもしれません。盛砂の脇に「瑞雲寺沿革」の碑があります。弘法大師の頃、仏法盛行となり祠人の一人が仏門に入り僧となったのが寺のはじまりで、西暦765年頃と伝わっています。1438年(永享十)臨済宗妙心寺派僧・雲叔和尚により開山された。江戸時代は寺領420石を有していた。尾張長久手の合戦(1584年)で焼失、1625年(寛永2)に大裕休禅師により復興させる。それも1727年(享保12)に再び焼失するも、翌年13年に再建された。2002年(平成14)に本堂、庫裡を再建し現在に至る。420石と云われてもピンとこないけれど、いっこうに届かない10万よりは多そうです。ざっくり計算で一石(米150kg)、普段買われる10kgの値段で考えると1石が7万前後。庶民の年間生活費を考えないと分からないけど、結構な寺領です。本堂全景。入母屋瓦葺、大棟には山号の「龍光山」が施され、ここにも五三の桐紋が施されています。本堂から庫裏方向を眺める。本堂の額には「瑞雲禅寺」とある、当日は法要があるようで、気になる銅鐸や本堂内など拝観させて頂くのは控えた事もあり銅鐸の所在は分からずです。瑞雲寺HP(https://zuiunji.com/)で銅鐸ペーパークラフトなるものがシェアされていました。これでも作ってイメージを膨らませるか。本堂左に小さな堂。額に記されているのは「梅きょう?」と読むのか?、意味は・・・・・分からない。内部には不動明王、弘法様が祀られていますが、中央の一刀彫の仏像群が気になる。本堂南の四脚瓦葺の入母屋の鐘楼と梵鐘。墓地入口の方型の堂、内部には鬼の面や不動様、観音様、狸なとが所狭しと安置されています。上境内の観音菩薩像下は清心行者碑御嶽信仰の覚明系の清心講(心願講)の始祖、清心行者を称えたものなのでしょう。境内西側に四国巡礼記念に安置されたものでしょう、千手観音、如意輪観音など石仏が安置されています。貴船神社の「神領銅鐸」お目にかかる事は出来ませんでした。瑞雲寺 宗派 / 臨済宗妙心寺派 山号 / 龍光山 開創 / 1429年(永享元)本尊 / 薬師如来 住所 / 春日井市神領町1-11-4公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅から徒歩15分貴船神社から徒歩アクセス / 西へ徒歩5分程 関連記事 / 貴船神社
2020.06.05
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2020.06.04
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COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。JR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園。チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。勝之が寄進した南禅寺、熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。「石大鳥居」西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前の御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。鳥居の先に見えるのは「水舎門」。「水舎門」四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。「水舎門」軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。唐門と社殿は恰も一体になって見える。この時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。参道右の「神楽殿」入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。右の手水舎。この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬。胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。上振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。下唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。見て行くだけでも面白い。重要文化財。 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張の徳川御三家より寄進されたものです。 手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。「唐門」唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。 この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。単に黄金色に輝く色合いだけではありません。創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。唐門の左の御神木。樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。まだまだ衰える事無く聳えています。御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。 「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。とはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。何かを持っているのかもしれない。上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。 天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。 訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正と藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。社殿域の透塀。下段にもびっしりと彫が施されています。参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。 社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。家康の遺言に「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。葵の紋もキンピカですね。社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。 マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。上野東照宮創建 / 1627年(寛永4)御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜境内社 / 栄誉権現社住所 / 東京都台東区上野公園9-88公共交通機関アクセス / JR山手線「上野」下車西に徒歩10分程 関連記事 / 東京に行ってきた 大樹寺 久能山東照宮 瀧山東照宮 名古屋東照宮
2020.06.03
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守山区瀬古東の『小社』矢田川堤の右岸を下流に向かい進む。矢田川に架かる下街道の三階橋を超え徒歩5分程歩きます。堤から見る矢田川河川敷は若い緑が鮮やかで、流れもとても穏やかな表情をしている。風も心地よく絶好の散歩日和。堤の右手の法面の下にこんもりと茂った森は高牟神社の杜、石山寺も目と鼻の先です。今回の目的地は高牟神社の手前の矢田川右岸堤防の法面に鎮座する小さな社。矢田川堤から上流の眺め、右手の橋が三階橋。堤は結構車の往来があり、遊歩道の感覚で歩いているとまずい。目的地の社は上の写真の左、法面の途中に桜?が植えられ、社はその樹の下に鎮座しています。堤から小さな階段があり法面に北側に降りれるようになっています。法面の中ほどから社の眺め。板宮造りの小さな社、台座は手作りかもしれない。しっかりと高く積み上げその上に社が祀られている。こういう手のかかったものはいいもんです、そこに住む人と社の結び付きの強さの様なものを感じます。何でも金で片付けなくたって、やれることはあるはずです。守山の天王社の赤もどう見てもDIYです、プロの仕事なら台座に塗装は付かないはず。どこの社も周辺に塗装が付着しています。見た目がどうこう言う方もあるでしょうが、個人的にこうした護られ方の社にとても魅かれる。お供えの榊も新しく、まめに社の面倒を見てくれる方、或いは神社当番なんてのが残っているのかもしれない。恐らくはこの北側の瀬古東の方々でしょう。この社について詳細は不明、神札も見ることができないので社名すらわかりません。いつからここに祀られているのか、現在は瀬古東ですが、現在の町割り以前の話かもしれません。石山寺あたりで伺うと社名くらいは分かるのかもしれません。矢田川の堤の下から堤の先の矢田川に睨みを利かせるように佇む社。その姿は、水の災い除けに祀られのではないかと勝手に想像したくなる。断固としてこの町に災いを及ぼすことはまかりならぬ、そんな雰囲気で見えぬ川面を見据えている。守山区瀬古東の小社創建 / 創建不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市守山区瀬古東1-1202関連記事 / 善光寺街道と水屋巡り VOL6 郷社『高牟神社』 ・ 善光寺街道と水屋巡り VOL5 『石山寺』
2020.06.01
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