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普段の年なら春を告げる桜だよりが飛び交い花見で賑わう頃今年は状況がちと違う毎日暗い情報ばかり、酒蔵開きも、ウオーキングイベントも悉く中止が相次ぐとはいえ巣ごもりばかりでは気分も落ち込み、体も固まってくる何を信用していいのか分からない、過剰な情報に身を置くより、気分転換に名古屋郊外へ車で出かけて見ました野山にはタンポポも咲き誇り、春の訪れを告げている野に咲く花はいつも通り何も変わらない、摘む人もいないのか土筆は伸び放題郊外の神社の桜も5分咲きとなり、間もなく一年で一番華やかな装いを見せる時期を迎えようとしています八幡社 瀬戸市西本地町2丁目158訪れる方もなく、ひっそりとした境内、愛でるものはいなくとも桜は咲いています薄墨桜は風に吹かれ花を散らしはじめ、境内を淡いピンクに染めようとしています宝生寺 瀬戸市駒前町171高台の神社の境内ここも訪れる参拝者はなく、境内に咲く桜はひっそりと咲き誇っています高台から眺める里山は、随分と新芽の緑が目立つようになってきましたいつ落ち着くか見通しは立たないだけに、しばらくは車で郊外に出かける事にしようそこには自然との濃厚接触はあっても、COVID19は漂ってはいまいましてやマスクも不要だろうから、今年の春を見て感じてやろう尾張えびす大黒社 瀬戸市東本地町3丁目177-3取り敢えず、しとやかな桜の香りは感じられるようだ2020/3/29
2020.03.31
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兵庫県宍粟市一宮町須行名 播磨国一ノ宮「伊和神社」名古屋を出たのが朝6:00、高速を乗り継ぎ、「道の駅播磨いちのみや」に到着したのがほぼ11:00。はるばる良く来たねぇ。社頭の目の前を走る道路は国道29号線で古くから山陽地方(播磨)と山陰地方(因幡)を結ぶ主要な街道で因幡街道と呼ばれ、これを南下すれば姫路城です。個人的に播磨と聞くと姫路城と播磨灘が思い浮かぶけれど、なして山深い盆地に一ノ宮が作られたものなのか?国道と云っても、間もなく昼だというのに交通量は皆無、そうめんで知られる揖保川沿いの道筋も長閑な山村の様相。車でも不便な場所、まして電車も通っていない、良くぞここに一ノ宮を建てたものだ。このあたりは縄文、弥生時代の遺跡も残るように、古来より人は住んでいたようです。古くから磐座信仰や山岳信仰が崇拝され、祀場として特別な場所だったのかもしれません。道の駅播磨いちのみや、地元のB級グルメ「ホルモン焼うどん」はこちらでも提供しています。参拝後にはこちらで頂きましたがプルプルの食感と焼き肉のたれ風の味付けは結構おいしいものでした。道の駅の偵察を終え、参拝に向かいます。道路を渡れば即社頭です。見事に伸びた杉木立の参道は昼でも陽光が届かない、静寂で厳粛な空間を醸し出しています。参道は二つ、写真のこちらは東参道で西にも参道があります。長閑な山間地に鎮座する伊和神社は、播磨国風土記にも記され、神戸市に鎮座する海神社とたつの市に鎮座する粒坐天照神社とともに播磨三大社として崇敬を受ける神社。社頭左の社号標「國幣中社 伊和神社」、国道沿いに長い玉垣と杉の杜が続きます。注連縄鳥居をくぐり参道へ、その先の明神鳥居が見えてきます。鳥居が間近に見えてきます、4本の控柱を持つ両部鳥居の様です。その先に随神門もあるようです、一ノ宮の威厳が漂います。かみさんは既に視界から消えた、相変わらず早い。木造の両部鳥居に掲げられた扁額に「正一位伊和大明神」とある。両部鳥居から望む社頭、鳥居を支える4本の控柱がよく分かる。好きな形の鳥居の一つです。両部鳥居を過ぎるとその先に随神門、杉木立からさす木漏れ陽に温もりを感じます。随神を収めて見たもののアクリルで覆われ写りは今一つ、露出とコントラストで漸く随神の姿と胸の五七の桐と16弁の菊花紋が現れてきました。年代の解説がないのでわかりませんが、分かり次第ここに書き加えておきます。斜めから見る随神門の全景、参道はそこから左に曲がり社殿へと続きます。巨大な幹の杉は見事。随神門の正面に略記が掲げられています。以下は伊和神社御由緒略記より「御祭神 大己貴神 配祀 少彦名神、下照姫神創祀 大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、我は医薬り法を定めて、治療の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。大神は播磨國に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨國内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。その御神徳により、古来、農業、工業、商業等産業の神、縁結びの神、福の神、病気平癒の神、又、交通安全の神として崇敬されております。一説に、成務天皇甲申歳二月十一日丁卯(144)、或は欽明天皇二十五年甲申歳(564)の創祀とも伝えております。」左に進むと鬱蒼とした杜は開け、降り注ぐ陽光を受け照らし出された社殿とその手前に手水舎、手水鉢が見えてきます。手水舎、手水鉢。龍の眼は光り輝き、威厳のある姿でこちらを見据えています、この鉢はなかなか面白いもので龍口の下には亀、鉢を支える足の部分は縁の下の力持ち達が支えています。入母屋造り平入で千鳥破風と唐破風の向拝が施された拝殿。一ノ宮ということなので派手な金色の飾り金具が輝く着飾った姿を想像していたけれど、周囲の杜に溶け込むように佇む姿は、質素で素朴な親近感のある魅かれるものです。東から斜めに見た拝殿。右手に寄り添うように聳える大きな杉は「夫婦杉」と呼ばれ、幹の周りは二本合わせると10㍍くらいか、見上げる高さは・・・・・首が疲れる。自然の力が漲っている。この大杉の左に西参道へ続く石段があり、隋神門を経て市杵島・姫神社に続きます。境内に入り右に入母屋瓦葺の恐らく神楽殿だと思います。正面は吹き抜けとなっていて、平入の奥の壁には1910年(明治43)に作られ、その後の補修で取り外された「鬼」が掛けられています。現在の鬼に比べると随分シンプルなもの。左の建物は社務所から渡廊で繋がっていますがなんだろう?、正面は本殿と横並びで境内社が並んでいます。因みに、拝殿右にも同様の境内社がありますが、現在修復作業中で見ることができませんでした。西側から幣殿、本殿方向の眺め。妙に温もりを感じる神社、それは差し込む日差しだけのせいではなさそうです。十六花弁の菊紋の入った神社幕が吊るされた拝殿を守護する狛犬。彼らのキャリアを物語るその風貌は、その長い年月で随分傷みも進み、垂れた耳であること、僅かに温和な表情をしている様に見て取れます。向拝から拝殿の眺め。鮮やかな彩色が施されているわけでもなく、派手さは全くないけれど白木の木肌は彩色に劣らぬ美しさがあります。向拝を見上げれば丁寧に彫られた龍と翼を広げた長い首の鳥の彫飾り、これは鶴だろうか。拝殿内は奉納絵馬が飾られている、奉納年は1849年(嘉永2)と随分古いものもあり、今も明瞭にその色彩は残っています。拝殿から幣殿の眺め、外観同様、木を生かした美しさが漂います。東側から見た入母屋妻入りの幣殿全景。幣殿の正面に鶴の飾りが置かれています。幣殿扁額も木の質感を生かしたシンプルなもの。巧みに組まれた木組みも美しい、木鼻には細かに彫られた獏も施されています。阿形、吽形の狛犬が定番かもしれないけれどここには狛犬の姿は見られない。上は拝殿左で空を見上げ鳴く姿の鶴。下は拝殿右で田で餌を啄むような仕草の鶴が飾られている。本殿は入母屋平入で伽藍の中で唯一檜皮葺。外研ぎの千木と5本の鰹木が施され、唯一の光物がここに施されています。本殿に見入り気付きませんでしたが、本殿前はベージュ色の狛犬が守護していました。幣殿から渡廊で繋がる本殿、その前でお互いを見合う様に佇む狛犬、精一杯寄ってここまででしか寄れませんでした。白い大きな牙と見開いた眼は見て取れますが、表情や素材が石なのか木なのかまでは分かりません。本殿左に境内社が纏められています。こちらの神社は北を向いて建てられ、境内社も同様に北を向いて祀られています。境内左の「御霊殿」はこの地の豪族伊和恒郷を祀ります。 中央は「五柱社」、右から天照皇大神、国底立大神、宇賀魂大神、猿田彦大神、須佐之男大神を祀ります。右が「播磨十六群神社 東八群」右から飾西群神社、飾東群神社、加西群神社、加東群神社、卯南群神社、加古群神社、美嚢群神社、明石群神社。本殿右は「播磨十六群神社 西東八郡」多可郡神社、神東郡神社、神西郡神社、宍粟郡揖東郡神社、揖西郡神社、佐用郡神社、赤穂郡神社ということでしょう。補修工事で見れなかったは残念です。本殿後方に鶴石と書かれた案内板。本来は本殿左右から後方に回り込むことができるようですが、工事もあり当日は左側から鶴石へ。正に本殿の真後ろの石段下に玉垣で囲われた鶴石があります。中には一つの大きな石、鶴石と呼ばれ案内板には「昔、大神 伊和恒郷に託宣あり、驚きて見るに一夜のうちに杉桧生い繁りて聖地をなし、空に鶴群れ舞い、その中大き二羽北向きて眠り居たり、その跡に神殿を造り奉斎せり、これ当社の起源なりと伝う、鶴の居た石を鶴石または降臨石という」とある、このことから神社が北向きなのだろう。拝殿で見かけた由緒書きと鶴石の解説。なんだろう、この神社。静かな杜に空に漂う白い雲、妙に時の流れがゆっくりに感じられる。遠くから参拝に来て「まあゆっくりしていきなさい」そう語りかけているようにも思えます。かみさんはとっくに御朱印を頂き、ささっと一廻りしたのだろう境内に姿はない。夫婦杉の左の石段を下ると随神を経て左に市杵島・姫神社があります。この西参道にも行きたいが先の予定もあるのでここまでにするか。北参道に戻る途中で随神門から右側で見かけた二羽の鶴の像と乙女の泉で見かけた石像。新しい物だろうが表情に魅かれ写真に収めて見ました。随分と待たせてしまった、既に随神門から社頭にかけてかみさんの姿はない。ささっと戻らねば。ゆっくりと訪れたい居心地のいい神社だ。播磨国一ノ宮「伊和神社 創建 / 144年(成務天皇14)とも564年(欽明天皇25)とも伝わる主祭神 / 大己貴神 配祀 / 少彦名神、下照姫神 本殿 / 入母屋 境内摂社 / 五柱社、市杵島・姫神社、播磨十六郡神社、御霊殿 住所 / 兵庫県宍粟市一宮町須行名407
2020.03.30
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名古屋市北区中杉町『杉ノ宮神社』八王子春日神社が鎮座する北区清水の上街道から東へ5分程に鎮座する神社。上街道から少し外れると一方通行ばかりの狭い道が迷路のように続く、そこに密集して住居が立ち並ぶ。大きな車でこちらを訪れようなどと間違っても思わない方がいいでしょう。袋小路のような道の先に複数の白い幟と玉垣が見えてきます、そこが『杉ノ宮神社』です。広い境内ではないけれど、住宅が軒を連ねる一帯にあって社殿の建つこの空間は解放感を感じます。高く伸びた御神木が杜を形作っています。社地を取り囲むように奉納幟が立ち並び、多くの氏子の方々に親しまれていることが分かります。手前に広い空間はありますが、こちらは参拝者駐車場ではないようです。ここは自転車がいいのかも知れませんね。社頭の眺め。狭い、手持ちのカメラで正面全景が入らない。恰も鳥居のような立派な提灯櫓と右に五七の桐と橘の紋が飾られた社号標「神明社・八幡社 合殿(杉ノ宮」とある。グーグル先生の杉ノ宮は正式な呼称ではないようです。相殿(あいどの)は比較的目にする機会もあるけれど、これは合殿(あいでん)の呼称でいいのかな。いずれにせよ、明治政府により推し進められた神社整理の影響を受けているのだろう。提灯櫓から拝殿の眺め。櫓で隠れていますが、鳥居とその先に蕃塀と拝殿、右が社務所。両脇に脇参道があり左奥にも鳥居が見えます。社頭からはこの蕃塀が拝殿方向の全容を遮断しています。ここにも五七の桐と橘の紋が彫られています。神明社と八幡社が一つになっているので、双方の神紋が彫られているのでしょう。蕃塀(1931年奉納)背面から社頭の眺め。鳥居の右が手水舎。COVID-19対策でしょうか、龍口から注がれる清水は止められ、鉢は蓋がされていました。切妻妻入拝殿の全景とそれを守護する色白の狛犬。良く見かける色白くっきりタイプ。拝殿の扁額。神紋の橘は八幡社で神明社が桐?合殿なのでどちらかがもともとここに鎮座していた訳ですが、調べて見ると、元は1630年(寛永7)に神明社として創建されたもの。その後、ここから少し西の現在の清水小学校があたりに鎮座していた八幡社がやってきたようです。八幡社は1552年(天文10)と神明社より前に創建されたものですが、明治初期に各地に小学校を建立するにあたり、1872年に前段として久国寺境内で杉村仮義校が開設、翌年の小学校建立に伴い八幡社は神明社に移されたようです。建立された小学校は戦時中の空襲で焼失、一時は神明社・八幡社の社務所で授業が行われたようです。そうした事もあるからでしょう、小さな神社ですが地元の方から大切にされているのが分かります。祭神は国常立尊、應神天皇。扁額の下に設けられた鳩除け?の柵の奥から視線を感じる。よく見れば、柵の奥には龍の彫飾りが施され、眼光鋭い眼差しでこちらを睨みつけている。参拝を済ませ、拝殿内を窺う。妻入り拝殿は渡廊と平入の幣殿が一体となり奥行きのあるもの。拝殿内に二つの彫飾りがあるようですが、何が彫られているのか詳細は分かりません。切妻で緩やかな弧を描く銅板葺の屋根の破風飾りなどに黄金色の飾り金具が施され、破風飾りには合殿と記され、鬼飾りは入口側が桐、渡廊側は橘の紋が入れられています。幣殿から本殿の眺め、外研ぎの千木に5本の鰹木が飾られています。本殿右にも社があるようです。幣殿前の狛犬は年季が入っているようです。本殿域の社は神宮、熱田社、天神社、春日社、八劔社の様です。額の右の透塀の柱に春日社と八劔社の名札も掲げられています。この流造の社に七柱が祀られているようです。本殿神域の東側からの全景。本殿全景は見えませんが棟持柱から神明造の本殿の様です。拝殿左側の脇参道にある鳥居へ向かいます。幣殿の吽形。渡廊で相方は見られません、孤独に耐えられない者にこの任務は務まるまい。左の境内には社が二つ祀られています。唯一東を向いて祀られる杉ノ宮龍神社。後方の幟をよく見れば、この一画は「杉ノ宮龍神」の幟に変わっています。正面の鳥居には熊野社、津島社、金毘羅社、秋葉社、愛宕社、大日社の六社が一つの扁額に書かれ掲げられています。社全景、こちらは妻入りの社で、破風尻などに金色の飾り金具が施され、右の社に比較すると華やかなもの。境内西から拝殿側面の全景。脇参道から見ると今更ですが幟の違いに気づきました。戦時中の空襲で焼かれ、一時的とはいえこの境内で授業を受けた年代の方にとっては思い入れのある神社なのかも知れない。2020/3/11『神明社・八幡社 合殿 (杉ノ宮)』神明社創建 / 1630年(寛永7)八幡社創建 / 1552年(天文10)祭神 / 国常立尊、應神天皇境内社 / 神宮、熱田社、天神社、春日社、八劔社、春日社、八劔社、杉ノ宮龍神、熊野社、津島社、金毘羅社、秋葉社、愛宕社、大日社住所 / 名古屋市北区中杉町1-18公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「志賀本通」下車南へ徒歩10分程
2020.03.28
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名鉄瀬戸線「瓢箪山」駅で下車。瀬戸街道沿いに東の小幡駅方向へ歩く事5分程。市バス「小幡宮前」バス停、名前からしてお宮さんがあるぞと語っています。分かりやすいネーミングだこと。バス停のその先に小幡白山神社の看板が見えてきます。そこから左に曲がれば住宅の立ち並ぶ参道の先に一の鳥居、その先にこんもり木々が生い茂った里山が見えてきます。この一帯の小幡ヶ原一帯は現在も古墳が点在し、古来より人が生活を営んできた場所、この杜のこんもり感は古墳のようにも見えてきます。一ノ鳥居まで進むと前は開け、広い境内と左に保育園が視界に入ってきます。境内左にはこの地域の方で戦争により亡くなられ戦没者の慰霊碑が建っています。鳥居の右が手水舎と手水鉢、その奥の建物は社務所だろうか。手水舎の左に補修時に降ろしたと思われる立派な鬼瓦が飾られています。そこから奥を眺めると弁天池があり、柵で囲われた池を取り囲むように「小幡辨天宮」の赤い幟が並んでいます。池の中央の小島には、板宮造の辨天宮が瀬戸街道方向を向いて祀られています。弁天池左は山の斜面が迫っています、そこは複数の霊神碑が立ち並ぶ御嶽社。左に階段があり、ここから拝殿に繋がっているようです。斜面の最上部に御嶽大神の碑と右に摩利支天の碑が祀られています。その先は視界が開け境内の様です。ニノ鳥居から拝殿の眺め。小高い里山の鎮守の杜に包まれて佇む姿は一昔前は身近にあった光景です。鳥居両脇の略記と白山神社年中行事。境内にはこうした案内板が建てられ管理の良さのみならず、地元の氏神を広く伝える意味で好感が持てる。石段を上り拝殿に向かいます。石段を上りきり、三の鳥居の前では境内を守護する狛犬がお出迎えです。目鼻立ちもくっきりし、化粧まで施された狛犬、苔の緑も化粧にマッチしている。山の頂にぽっかり広がる空間、そこに社殿は建っています。素朴な拝殿と右は授与所だろうか?、その右には辨天社から続く脇参道がある。授与所の前に秋葉社の看板がありますが、社は本殿域に祀られていて見て取ることはできません。切妻、瓦葺の木造拝殿は落ち着いた佇まいです。拝殿を守護する狛犬は化粧気がありません。赤系の御影石で彫られているのかな、温もりのある質感の素材です。拝殿から幣殿の眺め。ふんだんに使われた木には温もりが伝わってきます。小幡白山神社は約1400年前に遡る、この地に居住していた欽明天皇の皇子、小墾田王により創建されたと伝えられる、歴史のある神社。祭神は伊邪那美命、火之迦具土命、菊理媛命、天照大御神、建御名方命を祀る。略記には「東城にあった白山神社(村社)現在地にあった愛宕社、常燈にあった神明社、北屋敷にあった諏訪社とが、明治四十三年七月合祀されて現在の白山神社と称されることになりました。当社はもと神饌幣帛料供進の指定村社でしたが、戦後社格制度が改って唯今は五等級社になりました。五等級社とは戦前の県社級に相当します。旧白山神社の社伝は詳ではありませんが姓氏録によりますと、欽明天皇の皇子小墾田王ゆうという方が此の地に居住せられ、王が創建されたものと言われ、今から約千四百年程前に当ります。1.祭神 伊邪那美命、火具土命、菊理比売命、天照皇大神、建御名方命2.境内社 秋葉社、八幡社、山神社、弁天社3.例祭日 十月十七日4.御神徳 石川県の白山比咩神社のわかれで、生命の根源である水のことを司られ生む、生み出す、成功くくる(えんむすび)諸産業開拓、豊穣等のご神徳が著しくあります。境内社の弁天宮は子授、安産にご霊徳が著しいです。」とある。元から白山神社として存在していた訳ではなく、そもそもは愛宕社だったようです。そこに複数の神社が集合し1910年に白山神社に社名を変えたようです。境内の左隅に東を向いて祀られた小さな山神社と山神碑。ここは看板が欲しいところです。その右には仲睦まじく寄り添う道祖神も祀られています。拝殿左の脇参道に八幡社看板、社は本殿域に祀られています。本殿は良く見えませんが神明造のように見えます。八幡社全景、千木は内研ぎで5本の鰹木があしらわれている。拝殿の妻部分や軒下にはさり気なく金色の飾り金具が施されてています。手水舎の横に飾られていた鬼瓦はここに飾られていたものでしょう。三ノ鳥居から参道の眺め、結構な高さを感じます。白山神社境内には案内板はなかったように思いますが、この神社は南島古墳と呼ばれる墳丘の上に建てられています。小幡周辺は小幡ケ原と呼ばれる台地が広がり、複数の古墳が存在します、小幡南島古墳は6紀前半の周濠を持った直径33m、高さ5mの円墳だそうです。発掘調査や出土品の有無は分かりませんでした。こうした古墳の上に建つ神社は笠寺や味鋺などでも見かけることができます。ニノ鳥居の左側にこの辺りでよく見かける赤い社。神社の略記には書かれておらず、お札も確認できませんが、恐らく天王社ではないかと思われます。白山神社の北側の小幡中にも天王社があり、何れも特徴のある赤で塗られています。白山神社それは古墳の上に作られた1400年の歴史を持つ、守山小幡の鎮守に相応しい神社だと思います。創建 / 不明祭神 / 伊邪那美命、火具土命、菊理比売命、天照皇大神、建御名方命本殿 / 神明造 境内社 / 秋葉社、八幡社、山神社、弁天社 住所 / 名古屋市守山区小幡中1丁目13-8公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「瓢箪山」駅下車、瀬戸街道沿いに東へ徒歩5分程
2020.03.26
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名古屋発6:003/23~3/24兵庫県、岡山県、香川県、徳島県の一ノ宮を車中泊で巡ってきました。名古屋西ICを6:00に出発。今回は全工程約1,000㌔の道中が予想されるだけに緊急車両のご機嫌がとても気がかり、内心心配している部分(アイドリング乱れ)を抱えながら、かみさんに悟られない様に平静を装い運転。名古屋西IC発6:00東名阪自動車道をひとっ走りして新名神高速道路へ。平日で出勤時間に重なるので交通量が多少心配でしたが、意外に交通量は少なく順調。本来なら観光バスが多く走る時間帯ですが、その姿は見かけない。8時頃琵琶湖を望む大津SAに到着、展望デッキで比叡山の山並みを眺めながら朝マック。SAでも団体ツアー客の姿は皆無。これほど閑散とした光景は見たことがない。中国自動車道に入り10時に葛西SAで二回目の休憩。途中から自衛隊の車列について走っていたけれど、SAで一台の自衛隊車両の横に駐車。休憩を終え戻ってくるとこんな感じ、我家の旧車は迷彩車両の中に佇んでいた。かみさんに「どこでも行けてこの車は良いよ!」妙に喜んでいるおやじに、「何がいいのか分からない」と冷たい一言。迷彩車両とお別れして再び本線へ。車は制限速度+5㌔で巡航走行、快調に走ってくれている。燃費も高速を走る分には好調、liter10㌔は行きそうだ。最初の目的地は播磨国一ノ宮 「伊和神社」を目指す。播磨国一ノ宮「伊和神社」到着は11時頃。社頭向かえにある道の駅「播磨いちのみや」に車を停め参拝に向かう。厳粛な雰囲気の漂う杜に包まれる伊和神社。参道は奥へと続く。鳥居と山門をくぐり、参道は左に続きます、その先に陽射しに照らされた社殿が現れます。社殿は北を向いて建てられていて、本殿裏に「鶴石」と云われる石が祀られています。この地の豪族・伊和恒郷に大己貴神から「我を祀れ」との神託があり、一夜にして木々が生い茂り、大きな2羽の白鶴が石の上で北向きに眠っていたそうです、恒郷はその場所に社殿を造営したとされます。社殿が北向きなのはそうした事からだそうで、幣殿両脇には鶴の像が飾られています。播磨国一ノ宮「伊和神社創建 / 144年(成務天皇14)とも564年(欽明天皇25)とも伝わる主祭神 / 大己貴神配祀 / 少彦名神、下照姫神本殿 / 入母屋境内摂社 / 五柱社、市杵島姫命播磨十六郡神社、御霊殿住所 / 兵庫県宍粟市一宮町須行名407参拝を終え道の駅で遅い昼ご飯、地元のグルメ「ホルモン焼うどん」「ホルモン焼うそば」を食べる。この辺りでは知られたB級グルメらしい、かみさんは甘辛い味付けのプルプルで柔らかいホルモン焼うどんに大満足。「え~?」と思いながら焼きそばを注文した、これが意外に美味しい、肉は臭みもなく、柔らかく食べやすかった。2011年B級グランプリではシルバーグランプリを受賞したそうです。地元のグルメでお腹を満たし二番目の目的地「石上布都魂神社」に向かいます。約1時間ほど山道を走ると備前国一ノ宮「石上布都魂神社」社頭に到着、時間は14時15分。近年造られたばかりの真新しい鳥居、その脇の細い車道を車で進みます、道は細いままま登りとなり、林道の様相になります。やがて道路脇の駐車場に到着、そこから山肌に付けられた山道を5分程歩いて登ります。5分程山道を登り、境内が近づくと道は石段に変わり、見上げるような斜面に手水舎が現れます。手水舎の横にある最後の石段を登り切ると境内が広がります。備前国一ノ宮「石上布都魂神社」は山の中腹に建つこぢんまりとした社殿です。拝殿左から大松山山頂の本宮に続く山道が伸びています。そこには以前は拝殿、幣殿、本殿、神楽殿など建っていたが焼失、現在は本宮の小さな社と磐座があります。徒歩で約10分程ですがヒールでは登らない方が賢明でしょう。素盞嗚尊の八岐大蛇退治の伝承があり、明治に行われた発掘調査でその時に使われた十束剣と思われる赤錆びた剣が出土した。備前国一ノ宮「石上布都魂神社」創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊本殿 / 流造境内社 / 稲荷神社、拝殿右脇に小社住所 / 岡山県赤磐市石上字風呂谷1448食後の腹ごなしはこちらでしっかり終え、再び車に乗り込みここから高速を経由し一時間程走り備前国一ノ宮「吉備津彦神社」へ。備前国一ノ宮 「吉備津彦神社」へ15時45分に到着。吉備の中山の北東の麓に鎮座する広い境内を持つ神社です。別名を「朝日の宮」とも云われ、夏至の日に正面鳥居から祭文殿の鏡に陽光が当たる様に巧みに計算された伽藍となっているそうです。ここは桃太郎伝説のモデルとも云われる大吉備津彦命を祀ります。境内には桃太郎のお供猿(楽々森彦命)、キジ(留玉臣命)、犬(犬飼武命)、桃太郎の中で鬼を演じた温羅を祀る温羅神社など桃太郎の出演者が勢ぞろい。広い境内の右端には作家の中山森造氏の手による桃太郎と家来のセメント像が東を向いて立っています。後方の御神体中山の裏には桃太郎伝説を伝えるもう一つの神社、吉備津神社があります。備前国一ノ宮「吉備津彦神社」創建 / 不明祭神 / 大吉備津彦命本殿 / 流造境内社 / 子安神社、天満宮、霧島神社、亀島神社、稲荷神社、十柱神社、牛馬神社、温羅神社、祖霊社、七つの末社など住所 / 岡山県岡山市北区一宮1043それではもう一つの浦島伝説を伝える吉備津神社に向かいます。この時点で16:20吉備津彦神社から車で5分を走り、中山の西の麓に回り込むと備中国一ノ宮「吉備津神社」到着です。二つの国の一ノ宮が中山を境に背中合わせで鎮座している形になります。矢置石の右から続く緩やかな石段、その先に赤い髄神門が見えています。こちらの見所は個性的で美しい本殿とそこから鳴釜神事の行われるお釜殿に続く廻廊ではないでしょうか。髄神門をくぐり、目の前に広がる境内建つ個性的な社殿。本殿・拝殿(国宝)は1425年(応永32)に再建されたもので、特徴的な屋根構造は「比翼入母屋造」と云われる様式。他に類を見ない造から吉備津造とも呼ばれるそうです。複雑な屋根構造ですが側面から見る姿は優美な佇まいをしています。備中国一ノ宮「吉備津神社」創建 / 不明祭神 / 大吉備津彦命本殿 / 吉備津造境内社 / 一童社、岩山宮、えびす宮、祖霊社、水子慰霊社、三社宮、本宮社、滝祭神社、宇賀神社住所 / 岡山県岡山市北区吉備津931おかま殿はコロナ対策の為開場・御朱印は16時まででした。それが事前に分かっていれば・・・・・先に両社の御朱印を頂きゆっくり巡る手もあったのでしょうが残念ながら備中国一ノ宮の御朱印は取りこぼしてしまいました。その要因はまたしてもおやじにあるようです。17:20気を取り直して吉備津神社を後に、瀬戸中央自動車道に乗っていよいよ本州を後にします。18時過ぎ瀬戸大橋の手前で丁度夕陽が落ちるところ、随分と陽は長くなってきたものです。与島PAに寄り道し夕陽を眺めていく事に。瀬戸大橋も夕陽を受け淡く赤に色付いてきました。与島PAの展望台から本島に沈む夕陽の眺め。長い道のりの疲れも忘れさせてくれる。これが展望露天風呂から一杯やりながらの眺めであれば最高なんだが、今回は車中泊、暗くなるまでに目的地に着けるかな?さて、慌てることなく本線に戻り四国に渡ろう。目指すは香川県綾歌郡宇多津町浜一番の道の駅「うたづ臨海公園」19:10目的地道の駅「うたづ臨海公園」到着、既に暗闇です。コロナの影響で新規オープンを見合わせている四国水族館に隣接する道の駅です。今回は寝る準備は遮光カーテンを閉めるだけだ、エアベッドはやめて後席は全てフラットにして敷布団を敷いてあります。寝袋出して寝るだけです。近くの海鮮酒場で晩御飯、というより酒盛りか?今回は本当に運転時間が長く疲れました、かみさんもグーグルさんを相手に気を使ったことでしょう、た旧車もよく頑張ってくれた、最初はビールでお疲れさんの乾杯です。落ち着いた店内では瀬戸内の鯛やアジを主にした刺し盛りは新鮮そのもの、やはり酒が刺身には酒、純米酒金陵に決め飲み進む、フルーティーな香りと爽やかな喉越しはなかなかのもの、かみさんも好印象でした。刺し盛りのアジは骨せんべいにしてくれます、あげ加減が絶妙でこれがお酒のお供に絶品、魚嫌いなかみさんにして美味しいを連発それにしてもこれだけ美味しいお店なのに店内の客はやはり少ない、日本全体疲弊してる感が漂っている。元気は取り戻せるのだろうか?「回遊」住所 / 香川県綾歌郡宇多津町浜一番丁6-21車に戻りTVを見るもどれもこれもcovid-19ばかり、寝る。翌日、いつものように陽の出と共に目覚め、一人散策。新しい道の駅らしく花も綺麗に植えられチューリップが咲き誇っています。遠距離から車中泊組も多数見られました。正面の建物は結婚式場。さてかみさんも目覚め、身支度を整え終えたようなので朝ごはん。香川の朝食は「讃岐うどん」朝からうどんです、喫茶店のように早朝から営業しています。出汁、麺の好みにより人気店は星の数ほどあるようです、素人の私達は口コミで決めるしかない。そんな中で選択したのが「讃岐うどん がもう」郊外にある「がもう」へ7:30に到着、朝8:30の開店なのに既に一人の方が店の前で待っている。他に車の中で一人、我が家は3番手。まだ1時間あるので一人で周囲の長閑な田園地帯にある寺社を探して歩く。戻ってくれば広い駐車場は地元や他府県ナンバーの車で溢れ、店前には行列が。念願の本場讃岐のうどん、感想はイメージした程に腰は強くなかった事、出汁は上品で名古屋人から見ると薄味。これも幅広い個性の中の一つなのでしょう。常連さんはかけの小をペロッと食べて次に向かう、これが流儀の様だ。本場の讃岐うどんを堪能し二日目最初の訪問地を目指し高松道を東進。9:00讃岐国一ノ宮 「田村神社」の参道に到着。真っすぐに伸びるとても長い参道を持つ神社で、社頭から眺める参道は随神門は見通せるけれど、この鳥居や拝殿は見えない。拝殿近くに参拝駐車場があるけれど、一旦社頭に戻りここに辿り着く。いかにも古くからここに鎮座する神社の趣を感じさせるものがあります。水神信仰を基盤とした神社で一帯が湧水地、奥殿は淵の上に建てられている、それを象徴するかのように境内には巨大な龍のモニュメントが祀られている。正面の拝殿と右に宇都伎社、素婆倶羅社、一宮天満宮が主要な伽藍。境内には稲荷社、弁財天、お迎え布袋、桃太郎伝説の碑、七福神巡りなどお賽銭が足りなくなる程のお参り個所が多数あり、全て見て行くと結構時間が必要。何か不思議な空間が漂う神社。讃岐国一ノ宮 「田村神社」創建 / 709年(和銅2)祭神 / 倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命の五柱本殿 / 春日造宇都伎社祭神 / 大地主神、倉稲魂神素婆倶羅社祭神 / 少彦名神一宮天満宮祭神 / 菅原道真住所 / 香川県高松市一宮町字宮東28610時を少し過ぎ一通り参拝を終え再び高松道を東進し次の目的地の阿波一ノ宮「大麻比呂神社」へは1時間ほどの道のり。11時15分「大麻比呂神社」大鳥居に到着。駐車場を探すも社頭周辺にはなく、やむなく車で参道を進むが一向に表れない、これほど参道が長いと大鳥居までは戻りたくないので、一旦大鳥居まで引き返し、大鳥居を撮影し駐車場を求め参道を進む。参道を横切る坂東谷川に架かる祓川橋の袂の駐車場までは結局800㍍程あり、橋から先も更に参道が続きます。これは今日一番の長い参道を持つ神社です。橋を渡ると天然記念物の巨大な幹の楠木が参道の中央に聳え立ち、その先に漸く社殿が広がります。本殿後方に境内は伸び、奥にはドイツ橋と呼ばれる第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人により作られた橋や眼鏡橋がある。阿波一ノ宮 「大麻比呂神社」創建 / 神武天皇年間(伝)祭神 / 大麻比古神本殿 / 流造境内社 / 西宮社、水神社、中宮社、山神社、豊受社、丸山稲荷社、丸山社住所 / 徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13巨大な楠の樹と長い参道が印象に残る落ち着いた佇まいの神社。ここでもスルーしながら参拝し1時間を超えてしまいました。12:30大麻比呂神社の長い参道を走り再び東進する、ここでかみさんからのスケジュール変更「徳島ラーメンで昼ご飯の予定を見送り渦潮を見に行こう」との事。この日は大潮でこの時間から渦の道を目指せばいい条件で見られるらしい。四国初めて、渦潮初めての彼女の意向を尊重し高松自動車道と神戸淡路鳴門自動車道を乗り継ぎ約30分の工程です。鳴門第一駐車場に到着したのが13:00。そこから大鳴門橋の下に作られた歩廊を歩き展望室まで向かいます。高速を行き交う車の振動が伝わる歩廊を進み、川のように流れる鳴門海峡。ガラス張りの床や窓から眺める初めての渦潮は、できては消えを繰り返すもの。巨大な渦が巻いている光景を思い浮かべていた彼女は多少イメージとは違っていたようですが自然が作る壮大な現象を楽しみ13:50渦の道を後にしました。最終目的地の淡路國一ノ宮「伊弉諾神宮」までは約一時間の移動時間です。15時頃伊弉諾神宮社頭に到着。ここに来るまでの県道88号線沿いには、随分長い距離で常夜灯が立ち並び社頭まで案内してくれました。昼ご飯も食べていなかったので社頭の前のカツ丼屋で遅い昼ご飯。ボリュームがありながら柔らかく美味しいポークかつ丼、690円の安さに多少驚く。さて腹ごなしの参拝です、社頭から一ノ鳥居とニノ鳥居の中間あたりによく見るとやたらと背の高い人物が視界に入る。なんと馬に乗り参道を闊歩する光景に出くわす。意外に歩きは早く歩行者信号が変わったころには既に姿はなかった。なんとワイルドな事。「伊弉諾神宮」は古事記・日本書紀にも登場する、国生み神話の発祥の地、最初にここが陸地となり日本となった、そうした意味合いから日本でもっとも古い神社とも言われる。境内の岩楠神社の前には樹齢900年を超える見事な「夫婦楠」がある。面白いものでは頭髪感謝之碑と呼ばれる、先端はつるつるで黒光りした丸い石碑がある。本殿の檜皮葺は随分と傷みが進み、国生みの神を祀る日本最古の神社として痛々しい姿、補修の手が入る事を願わざるを得ない。淡路國一ノ宮「伊弉諾神宮」創建 / 神代の時代に創祀と伝わる祭神 / 伊弉諾尊、伊弉冉尊本殿 / 流造境内社 / 根神社、竈神社、鹿島神社、住吉神社、岩楠神社住所 / 兵庫県淡路市多賀740今回の一ノ宮巡りもこちらで終了です。ここからは帰途に着くことにします、時間は16時になろうとしています。今回こちらで買ってきたお酒は「三笑」と「奥播磨」の2種類。利き酒は出来ないので飲んでからの感想になりますが、その時が楽しみです。帰りの高速もゆっくり走って名古屋到着は19:45。走行距離は920㌔、燃料は100リッター弱、重量級の旧車にしてはよく頑張ってくれた燃費です。それにしても帰りの高速も全く渋滞はなく、走っているのは物流のトラックばかり、定速走行が得意な彼らの車列加わり、とてつもなくストレスのない快適なドライブができました。途中では追い越し車線を快調に走りっぱなしの車が何台か取り締まりに遭っていました。御朱印が頂けなかった所は残念ですが次の課題として取っておきます。これから写真も整理しないとね、それにしても久しぶりのロングドライブは疲れました。今回の走行ルート
2020.03.25
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兒子八幡社から上街道沿いに北に歩きます。玉垣が途切れたらそこが『曹洞宗 大聖山 安栄寺』兒子八幡社の北隣に位置します。安栄寺山門随分の年月を経た「不動明王」と彫られた一対の常夜灯に目が行きます。竿には「キヨス本町 柴山藤蔵」と彫られています。1865年(元治2)に寄進されたもので、この柴山藤蔵という方、1792年(寛政4)に愛知県清須市で生を受け、質屋・油屋を生業とし、米屋や酒造業も創業し現在の清須桜醸造の基礎を築いた方らしい。南隣の『兒子八幡社』には伊藤萬蔵が寄進した狛犬がありましたが、柴山藤蔵も多くの寺社にこうした常夜灯を寄贈した事で知られるようです。それらには「キヨス本町 柴山藤蔵」と彫られていて、色々なところで彼の寄贈した常夜灯を見ることができます。山門右に水埜重咲居士碑。人物像はよく分からないが、山門脇にこれだけの碑があるのだから安栄寺に深く関わりのある方なのだろう。山門前の右に「曹洞宗安栄寺」の寺号標。石畳が敷かれ真っすぐに境内に続いています。山門から境内の眺め、右に本堂。山門左は見上げる位置に『兒子八幡社』の本殿が間近に迫っています。ここから見ると本殿の千木、鰹木が良く見渡せます。山門をくぐり境内へ。真っすぐに続く石畳は右に続き、庫裏、本堂へと続いています。芝生の境内には多くの庭石が配されています。こうした庭石が目に付きます、奥には七体の地蔵と石碑が見られます。お地蔵様の表情は風化により窺い知ることすらできません、中央の石碑にも何か彫られているのですが読み取れません。お地蔵様の先に綺麗な御影石の祠。右には名古屋市教育委員会の解説板があり「安永寺六地蔵石仏」とあり、それによれば「室町時代の紀年のある、県内では最も古い石仏」とあります。僅かな隙間から内部を覗かせてもらう。内部には高さが約40㌢程、幅は約30㌢程の薄茶色の砂岩質の板があり、そこには上下二段に三体ずつお地蔵様が彫られています。表情は既に消え失せ、浮彫のシルエットのみですが、素朴な姿は庶民には身近な崇拝対象だったと事でしょう。もともとは志賀公園北東の共同墓地にあったもので、解説によれば「像の右に「尾州山田庄志賀郷」、左には大永7年(1527)と刻まれている」とある。六地蔵の先にも大きな石碑が並んでいます。芝生の上に舞い落ちた椿の花弁、見頃を終えても鮮やかな色はそのままです。この寺の境内に石が目に付くのは、その昔この地に住む百姓で珍しい石を拾ってきては磨き上げ、それをコレクションに加え愛でる事を何より楽しみにしていた百姓源吉がいたそうです。源吉が収集し手をかけた石はやがて噂となり買取の希望があったそうですが、彼は死ぬまで手放す事はなかったそうです。源吉の意を引き継いだ女房の菊もまた同様だったそうです。しかしそれも孫の代に全て売られ、源吉が丹精込めて磨いた石は一つも残らなかったそうです。本堂の右に金牛岡と刻まれた丸い石碑があります。この石碑は私利私欲に走ることなく、好きなことに没頭する「志賀の源吉」の姿を見て、そんな彼を慕う有志により建てられ石碑だという。安栄寺本堂。入母屋瓦葺で白壁に木の色が浮き立ち、いかにも寺の外観そのもの。安栄寺は大須の万松寺の末寺で名古屋城の鬼門除けとして1614年(慶長19)に建立されたもので、城内から大聖不動明王が移されたという。門前の柴山藤蔵が寄贈した常夜灯に刻まれた不動明王はそれを指しているのだろう。シックな外観に浮き立つことなくさり気無く要所要所に彫が施されています。木鼻には獅子と獏が施され、白壁に施された火灯窓が印象に残ります。近年再建されたような趣です。山門前の寺号標に「本堂再建落慶記念」とあったので、帰りに年号を見ようと思いながら見忘れました。最近忘れ物が多くなってきました。ストーンコレクターの「志賀の源吉」とそれを優しく見守り続けた女房の菊、素朴な姿の六地蔵。安栄寺には何か温かいものを感じます。2020/3/18曹洞宗 大聖山 安栄寺宗派 / 曹洞宗山号 / 大聖山創建 / 1614年(慶長19)本尊 / 釈迦如来住所 / 名古屋市北区志賀町1-67公共機関アクセス / 市営地下鉄名城線「志賀本通」下車西へ10分程経王大菩薩⇒兒子八幡社から安栄寺のアクセス / 上街道を北上、徒歩1分
2020.03.21
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名古屋市守山区喜多山1-1「慶生壽龍神」から瀬戸街道を15分程東へ向かいます。瀬戸街道を横切る名鉄瀬戸線(瀬戸電)の踏切が現れます。運悪く上下線が通過するタイミングだと結構長く感じるかも知れません、この光景は昔のままです。慶生壽龍神からここまで10分程、なので約1,000歩くらいか。踏切を超え、ここから5分程先にある、市バス「喜多山」バス停前の「天王社」を目指しています。通りから祠らしきものは見当たりません。踏切から5分程で喜多山バス停が見えてきます。バス停の北側が「天王社」の境内で、玉垣もないので境内奥にポツンと佇む「赤い覆屋」が目印。街道沿いに面した広い境内に複数の樹が植えられ、間口の中央に植えられたも樹は恰も蕃塀の様でもあり、瀬戸街道を車で走っていると意外に目立たない。ましてや駐車場はないので車は足手纏いになる、ここはバスか「瀬戸電」がいい。広い境内の小さな「赤い覆屋」、なんとも羨ましい住環境だこと。外観はこの辺りで良く見かける天王社の典型的なスタイル。覆屋の中に赤く塗られた板宮造の小さな社が祀られています。「天王社」正面全景。赤く塗られた賽銭箱に志を投入、まずはお参り。扉は閉ざされお札は見て取れません、社の下に小さな木像が祀られているようです。円空仏ではあるまいが、天王社ということなので牛頭天王だと思われますが、髪の形から女性のように見えなくもない。志を持って一本の木からこつこつと削り、一つの形にしたもの。目鼻もしっかり彫られた素朴な像は、動機は分からないけれど彫られた方の志が伝わってきます。妙に魅かれる素朴な像です。西側から見た全景、社の形がシルエットになり見て取れます。覆屋の中に小幡一番組として寄附者の氏名が誇らしく掲げられていました。多くの方により守られているようです。この天王社がいつからあるのか詳細は分かりません。覆屋後方に回り込んで見ると寄付者氏名の板の裏に1998年9月と記されているので、これが唯一の創建に繋がるものかもしれません。現在の住所は守山区喜多山ですが、1996年(平成8)に以前の守山区大森と字大森の一部が一つとなり喜多山が成立したもので比較的新しい町ですが、当時でもこの地は小幡ではない。もう少し遡り東春日井群の一部として小幡村、大森村が含まれてた頃から建っていたものであれば、ここに小幡の地名が掲げられていても違和感はないのか。或いは守山町、守山市、守山区と移り変わってくる中で、昔の地域名で講の組が残り1998年に建立されたものなのかもしれない。明確にできないことを書き連ねても仕方がない、考えるのはやめよう。すく北側に「瀬戸電」喜多山駅がありますが、瀬戸電機鉄道開業に伴い出来た駅で、ここから北の北山という地名を引用し、縁起のいい字を使い「喜多山」としたそうで、現在の町名もここからきています。いい字ですよね。境内西側の庚申塔。元からここがコミュニティーの場だったのか、土台が新しので何処からか移されたものか定かではありませんが石の表情は味のあるものです。社後方からの眺め、瀬戸街道を見据えるように建っています。素性は分からないけれど、地域の厄払いの神として多くの方に守られている喜多山の天王社。素朴な木像が印象に残ります。「天王社」 創建 / 不明 祭神 / 牛頭天王 住所 / 名古屋市守山区喜多山1-1 公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「喜多山」駅下車南に徒歩で5分程慶生壽龍神から / 瀬戸街道を徒歩で瀬戸方面に15分程ここに来る途中の小幡南にも以前は同様の天王社がありました、最近訪れた際に既に無くなっていた事を書き加えておきます。
2020.03.20
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少し暖かくなるとこの時期はsakuraを探しにふらふらと出歩くことが多くなります。3月15日、守山区にある寿昌山大永寺の桜を見に行ってきました。ここは山門脇に植えられた桜が満開になると山門に彩りを添え見事な趣を演出してくれます。2017/3/26に訪れた時の桜は満開には少し早かったけれど、それでもピンクの桜で着飾った山門は目を引くものがあります。山門西側から見る桜、樹齢は分からないけれど、満開が近づくと枝につけた花の重みに悲鳴を上げるように枝は垂れてきます。異常気象とはいえ、さすがに早かったようですが、つい最近まで殺風景だった枝は薄い桜色に色付いてきました。どうでしょうね、あと一週間もすると見上げると一面ピンクに染まっているのでは。訪れた時には沈丁花?の甘い香りが境内に漂っていました。まだまだ主役は譲れないぞっと。今年も桜の時期が近づいてきました、外に出よう。寿昌山 大永寺 住所 / 名古屋市 守山区大永寺町208アクセス / 市営地下鉄 大曽根⇒ゆとりーとライン川宮下車、徒歩20分
2020.03.17
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名古屋市北区志賀町「経王大菩薩」から上街道を5分程北へ進むと、堀川に架かる「くろかわはし」に行き着きます。いかにも冬らしい寒々とした光景ですが、堤の桜が咲き出すと一気に華やいだ表情に変貌します。ここから目と鼻の先の志賀橋交差点を左へ進みます。志賀橋交差点から一本西の上街道を5分程北上すると次の目的地「児子八幡社」の玉垣が見えてきます。交差点の南の社頭から眺める境内、南北に長くニノ鳥居の前で車道が境内を二つに分断しています。社頭からまっすくに延びる参道はニノ鳥居の先の蕃塀に続きます。社頭左の寶祚長久、右に國家安泰の石標。その奥に「八幡社」社号標、あれ?「児子八幡社」じゃないの?間違えたか。取り敢えず一ノ鳥居から広い境内を拝殿に進む。一ノ鳥居から境内を分断する車道の手前まで来ると、左の小高い場所に瓦葺の小ぢんまりとしたお堂が佇んでいます。これは秋葉神社。子供の頃は身近にあった光景です、街中に今もこうした光景が残っているとは、氏子の方達から厚く崇高されているのが伝わってきます。鬼瓦には葉団扇の紋も入ったお堂の中には社が祀られています。境内社として古くから祀られたものなのか、都市開発でここに遷座してきたのか定かではありません。しかしここに祀られている限り、この先も地域の火伏の神として受け継いでもらえそうです。境内を分断する車道の手前に来て、ニノ鳥居の右に「兒子社」の社号標が現れる。ニノ鳥居からの全景。拝殿は蕃塀が遮り見通すことは出来きません。「兒子社」の社号標から切妻造の拝殿、幣殿と本殿の眺め。右手に手水舎と鉢はあるものの清水は注がれていませんでした。内研ぎの千木と鰹木が施された蕃塀は立派なものです。鳥居からはこの蕃塀が社殿の様子を目隠ししています。拝殿左に一本楠木の巨木が聳えています、その左の建物が社務所。普段は無人の様です。御神木の楠木は拝殿、社務所を覆わんばかりの見事な枝ぶり。その佇まいはただ物ではない、根本に掲げられた御神徳には「御神木に触れた手で幹部を擦ると病が治癒」するそうです。樹齢は分からないけれど長い年月を経てきたものが持つ不思議な力を感じさせるものです。南を向いて立つ四方吹き抜けの拝殿。キラキラ輝く飾り金具は敢えて付けない、そう感じさせるシックな佇まいは個人的に好きなものです。拝殿前の狛犬。空を覆わんばかりの見事な枝ぶりの御神木です。拝殿全景。見た目の派手さはないけれど、各所に施された彫に自然と視線は行くものです。拝殿から本殿方向の眺め。拝殿右に「児子八幡宮」と左に「兒子宮」の額が掲げられ、祭神は応神天皇、天之御中主大神、菅原道真とあります。幣殿に続く渡り廊下の左右に小ぶりな狛犬の姿が見えます。拝殿は渡り廊下で社務所にも繋がっています。渡り廊下の左右で幣殿を守護する狛犬。吽形は廊下の先にあり、全容が掴みにくいけれど台座には「伊藤萬蔵」とある。地元のおじいさんに出逢い「昔は子供も多く賑わったもの、そこの狛犬は是非見て行ってくれ」と教えられました、それがこの狛犬です。通りすがりに訪れた者にはこの狛犬が持つ意味合いは分からない、地元のご高齢の方にとってこの伊藤萬蔵の狛犬は特別な意味があるようです。本殿の右の境内に二つの合社があります。本殿右に南を向いて二つの合社が整然と並ぶ。左の合社には五社が祀られていて、左から地主社、津島社、多賀社、保食社、山神社。右の合社には三社、左から八釼社、神明社、熊野社が祀られる。合社の右に「臥牛像」その先には天神社は見当たらない、本殿域にあるのかい?どういう事? 「ご自身の身体と同じ神牛の部分を祈念を込めてお互いに撫でさすれば身体健全はもとより病気全快するといわれ、また神牛の頭部を同様に撫でさすれば知恵がつくといわれる」合社側から本殿の眺め。本殿の後方には安栄寺が控えています。兒子社について「名古屋市史」と「尾張名所図会」を調べて見ました。名古屋市史の記録によれば以下のように記されています。『兒子社は西春日井郡金城村大字東志賀八幡神社境内の西側にあり、もと児の宮、又は児の御前社と称して、同郡西志賀村綿神社の東辺に在りて、同社の摂社なり地は東四賀村に属す境内二畝歩あり、除地なりき、今畑となるに在りて、同社の摂社なりき、昔より小児の守護神として崇敬せらる。』1772~1780年(安永年間)には尾張藩主から崇敬され、何度となくこの神社に参拝、そうした事から藩からは厚遇されていたようです。「尾張名所図会」には子供の健康を願うため、子を背負い児の宮の神事(赤丸神事)に訪れる親子の姿や本社の綿神社へ参拝に向かう様子が記されています。更に1874年(明治7)に現在地の八幡神社の境内神社として遷座、その際に改造遷宮された様です祭神は天御中主尊。社号標が八幡社と兒子社の二つなのがなんとなく腑に落ちた。上の絵からすれば現在の八幡社は更に右に位置します。ただ八幡社の由緒がさっぱりわからない、1874年ということはないはずです。この様に賑わった兒子八幡社も、先ほど出逢ったおじいさんが云われていたように赤丸神事に訪れる方は少ないのかもしれません。これだけ広い境内がありながら、鼻水垂らして遊びまわる子供の一人もいやしない。2020/3/11『兒子八幡社』創建 / 不明 祭神 / 応神天皇、天之御中主大神、菅原道真境内社(確認が取れたもの) / 地主社、津島社、多賀社、保食社、山神社、八釼社、神明社、熊野社 住所 / 名古屋市北区志賀町1-65公共機関アクセス / 市営地下鉄名城線「志賀本通」下車西へ10分程経王大菩薩からのアクセス / 上街道を北上、堀川を超え10分程
2020.03.16
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「香積院」昼頃まで降り続いた春の雨も午後には降りやみ、名古屋市昭和区川名山町まで出かけてきました。今日の主役は西村公朝作監修による天井画や一葉観音像でもありません。境内に咲く樹齢100年を超える「しだれ桜」が主役です。この時期になると山門先に見える丸い入口が個性的な丸門から覗くピンクの彩りが人目を引き付けます。昨年は4月4日に訪れピークは過ぎていましたが、暖冬の今年はどうだろうかねェ。下見で訪れましたが、見頃にはまだ少し早かったかナ。よろしくない自粛ムードが漂うけれど、サクラは今年も咲いています。丸門から覗くピンクの花びらはまだまだこれから、盛期には本堂が隠れんばかりに咲き誇ります。境内から枝垂桜の全景。ことしも見頃が近づいてきました、外に出よう。2020/3/14「香積院」住所 / 名古屋市昭和区川名山町115公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「杁中」駅下車、徒歩で北に約10分
2020.03.15
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低温調理、随分前から注目されていた調理法ですかみさんはTVの影響を受けずっと興味を持ち続けてはいたけれど、昨日家に帰ると見慣れぬ円筒形の物が置かれていた。「なんじゃこれ?」正体を訪ねると「低温調理機いま届いた♡」と満面の笑みを浮かべ説明してくれた。「ただ真空パックする包装機が届いていないので使えないけど」「まずはどんなものか様子を見て安い機種を手あたり次第調べて決めた」そうな。調べている時が一番楽しいもので、随分見ていたのは知っていたが我が家にもついに来たか。低温調理?おやじ的発想で云えば、水風呂から浸かり、指定湯温まで湯温を高めゆっくりと温める風呂・・・・・的な風呂は生まれたままの姿で浸かるけれど、それだとおやじエキスはお湯に溶け込んでしまう。なのでエキスが溶け込まない様におやじは真空パックされるらしい。何かこの調理は独身の頃にジップロックでやってたぞ「何が違うの?」と尋ねると「一定の温度で長時間維持できるのがポイントなのよ」だそうです。大好きな焦げ目は?、「後で付けるものよ」これ以上聞くと目が三角になりそうなので「楽しみが増えたじゃん」でここは丸く収める。作り手が温度計と時計を睨めっこして作る事を思えば「楽ちん」は当然でしょう。過程を知らない食べる側からみれば「美味しい」で終わってしまいます。作り手が楽ちんで安い食材にひと手間加えることで味わいが増す。イージースモーカーもそうですが普段とは違うものに豹変するものです。「巣ごもり」が続く日常、気分転換になるのであれば低温調理機、ありなのかもしれない。そんな彼女が選んだのがこれ。 低温調理器 Felio Sousvide cooking F9575 19,800円(税込)・・・・・おやじの月の小遣いですねと思いきやwebで10,000円を切っていたらしく購入に踏み切ったらしい。富士商 FUJISHO F9575 低温調理器 Felio Sousvide cooking[F9575]価格:9,430円(2020/03/14 12:58時点 )感想:21件この額なら「様子見」は理解できるところ。本体は高さが約370mm、先端の操作部分の幅が約80mm、鍋に挟み込むクリップ?を含めた先端の奥行は約160mmくらい、持った感じは1.5literのpet飲料程度の重さかな。製造国はあの大国。まだ使う機会はないけれど、使い方は水を張った鍋に器具を固定し、指定温度・時間を設定しスイッチONでいいようです。あとは水が循環されほったらかしでいいようです。因みに1000kwの出力で温度設定は0.5℃で調整可能。設定パネルは5つのボタンとシンプル、取説は見なくてもいけそうです。付属のレシピ、初心者はやはりここから入っていくだけに、もう少し内容を充実させてほしい。女性はこんなレシピがなくても使いこなせるのだろう、おやじの視点から見るとレシピが全て。低温調理で何が作れるのか?おやじの感覚では肉肉星人には重宝するもの?くらいしか思い浮かばないけれど、きっと幅広い用途があるのでしょう。そこは我が家のシェフがこれから披露してくれる事でしょう。何を作ってくれるやら、楽しみでもあります。2020/03/21低温調理で自家製チャーシューを作ってみた散歩から帰ってくると見慣れぬマシンがテーブルの上に置かれていた。先日買った低温調理器には必需品の真空パックマシンが届いたらしい。・・・・・真空保存可能なマシンを買ったと思えば用途は広いか?見た目はラミネーターの様なこのマシン。結構優れもの(どこも同じだとおもいますが)で、専用パックに素材を入れ、マシン上部のカバーを開けて黒いパッキンの上部までセットします。カバーを閉じ電源ON、パッキンの丸の内側右に突起があり、ここから内部のエアーを抜きつつ密閉されていきます。上はローストビーフ用の素材をパックした写真です。布団圧縮でもしているかのように気持ちよくエアーが抜けていく。この日はチャーシューを作るということで、スーパーの特価で買った豚肉を前日から砂糖、醤油、みりん、しょうが、にんにくに漬け込んでいた物を真空パック。内部の空気は外に排出されるのでキッチンにはいい香りが漂います。次に本体の設定。初めての調理なので温度設定は63℃、調理時間は8時間にセット。ずん胴にお湯を満たし、調理器をずん胴にセットして調理開始。調理とはいってもここからは機械にお任せで、後はほったらかしでOK。鍋の中では対流が始まり設定温度まで昇温、温度を維持してくれます。今回は焼き目は後から付ける事にしたのですが、最初に付けたりするようです。運転終了後に焼き目をつけて夕食に出てきた自家製チャーシュー。安い肉は意外にも柔らかく仕上がっていて、中はとてもジューシィー。晩御飯のおかずにするにはもったいない、晩酌のお供に最適です。イージースモーカーで作るハム・ベーコンに加え、低温調理で作るローストビーフやチャーシュー。どちらもお手軽にできて手間がいらないだけにこれはいける。そのうち「食べるだけではなくたまには自分でやって」と云われそうだ。
2020.03.14
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小幡中の「天王社」から東に向かいます。道はやがて県道15号線(名古屋多治見線)にぶつかるのでそこは右へ、その先の瀬戸街道方向に向かいます。名鉄瀬戸線の小幡北口ターミナルが見えてきたら、その前を左右に延びる道が瀬戸街道です。瀬戸街道を左に進みます。それにしてもお洒落な駅前になったもので、近くには焼き鳥で一杯ひっかけられるお店も見かけるし、我が町に比べるとなんとも羨ましい。瀬戸街道から東の瀬戸方向の眺め。気のせいか普段の通りに比べ、妙に車も人も往来が少なくないかい?今回の目的地の守山区小幡1丁目「慶生壽龍神」はこの道を歩き始め、最初に現れた横道を左に入ります。横道を左に入るとご覧の様な眺め、静かな住宅街が続きます。ご覧のように細い路地が続き駐車スペースはありません。この写真の左側に目指す「慶生壽龍神」が見えています。左に一本の巨木、看板の陰に隠れてしまう程小さな社がそこにはあります。御神木の全景、表面は苔むし、歳月の流れを感じさせます。住宅地に唯一残されたこの木の樹齢がいかほどなのか推定も出来ませんが、瀬戸街道からほど近い場所でこの地の変貌を見続けた木である事は事実です。その袂に小さな社が祀られています。この木が仮に樹齢100年として、当時のこのあたりはここから東に一面に田畑が広がり、南に矢田川はありますが僅かに標高が高いことから田畑を潤す水は溜池が主となります。そうした事から雨を司る龍神が祀られていきますが、ここもその一つなのかも知れません。いつ頃どなたが祀ったものなのか「慶生壽龍神」の詳細は全く分かりませんが、水にまつわる何かの出来事があったのでしょう。それともこの木には古くから龍が住んでいるのでしょう。本来は一区画全面駐車場としたかったのでしょうが、御神木と社の存在がそれをさせなかったのでしょう。それだけこの龍神様はこの辺りでは認知されている証なのかもしれません。フェンスで囲われた小さな「慶生壽龍神」、看板で社の存在は遠目に分かりませんが、大きく枝を張った一本の木はここが特別な場所であることを主張しています。駐車場のフェンスの隙間から板宮作りの社側面の眺め。通りに社名は掲げられてはいませんが、この位置から見ると御神木と社後方の僅かな隙間に「慶生壽龍神」と書かれた木札が立てかけられています。写真に収めるには苦しい場所ですが、社の足の辺りに「龍神」の文字が読み取れます。供えられた榊は生き生きとしており、現在も面倒を見る方がお見えのようです。個人で祀られたものか、町内で祀られたものなのか定かにはなりませんが、龍神を拝みに来られる方がいる限り、全面駐車場にされることはないでしょう。せめて、ここに龍神を祀る必要があった出来事が掲げられていると、この小さな社の意味が地域に浸透していくのかも知れません。何事も動機があるはずです。「慶生壽龍神」創建 / 不明 祭神 / 不明 住所 / 名古屋市守山区小幡1-1-29公共機関アクセス / 名鉄瀬戸線「小幡」下車 徒歩2~3分小幡中の天王社から徒歩で10分ほど
2020.03.13
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「八王子神社 春日神社」から上街道を清水北公園の西側あたりまで5分程北上します。交差点の左角に赤い鳥居が見えてきます。この道を更に進めばその先は堀川です。今歩いて来た道を振り返ってみます。この界隈は徒歩が一番。車で訪れ、一度道を間違えると幅員は狭く、一方通行の道路待ち構えています。駐車スペースもありません。「経王大菩薩」、上街道の名残を感じさせる道筋にお稲荷さんをイメージさせる赤い鳥居が建っています。江戸時代末期まで続いた神仏習合の名残を留めています。「最上位(さいじょうい)経王大菩薩」と書かれた扁額。見慣れない「神社」、グーグル先生に聞いてみた、岡山県の最上稲荷妙教寺の本尊を指すようです。なので「寺」が正解なのかも知れません。諸説ある「日本三大稲荷」、最上稲荷はその一つに数えられるようです。あまり見かけた記憶のないお稲荷さんです。角地の小さな境内。稲荷のイメージカラーの赤はあちらこちらから視界に入ってきますが、狐は不在の様です。境内右に手掘り感満載の手水鉢。ひとつの目的を持ち、形にしようとした人のエネルギーが伝わってきます。境内全景。中央に赤い屋根の社、左右に石標が祀られています。右に自然石の碑が二つ。手前の碑、PCで見ればと思っていたが「塚」は読めるけれど他は読み取れませんでした。これを書いている今、この「塚」の特別な意味が知りたくなってきました。奥は「南無妙法蓮華経」と刻まれています。最上稲荷妙教寺は1200年以上の歴史を持つ古刹で、752年(天平勝宝4)孝謙天皇の病気平癒も叶えた寺として知られ、家内安全、合格成就などその人に応じた願いを叶えるご利益があるそうで、地元では「最上さま」として親しまれているようです。愛知県の最上稲荷は緑区の立徳寺、小牧市の實(実)相寺とここだけのようです。中央の社。コンクリート?で作られた社、内の様子は窺い知れない、ひょっとする狐がいたのかもしれない。紫の幕は近年新調された様で現在もここを繋いで行く、コミュニティーか個人が見える様です。左には「秋山自雲霊神」と刻まれ、秋山自雲功雄霊神と云うそうで江戸浅草玉姫町にある本性寺の境内神で,痔の病に悩む方にご利益があるとされる神。幸いにもおやじにそうした悩みはないけれど、こうした神が必要だったからこそ祀られたものでしょう。苦境に陥った時には神頼みもありです、悩んでいる方は一度訪ねてみては如何でしょうか。その際には、ここは寺なので拍手は不要だと思いますよ。上街道脇ということもあり歴史を感じさせますが、いつ頃からここに祀られるようになったのかはわかりませんでした。2020/3/11「経王大菩薩」創建 / 不明 祭神 / 最上位経王大菩薩住所 / 名古屋市北区清水5-20公共機関アクセス / 市営地下鉄名城線「志賀本通」駅下車、徒歩で南に10分程八王子神社春日神社からのアクセス / 神社東から上街道を北上、徒歩5分程
2020.03.12
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あの日から9年今年は別の騒ぎで忘れられたかのようにも思えるけれど、けっして忘れてはならない明日の我が身と捉え、あの日を振り返り、今を見つめて将来に備える。毎年この日はそういう日だと思っています。緊急車両のコンディションと装備の点検を済ませ、小幡方面の天王社を訪ね散歩に出かけてきました。以前はこの角にあった天王社、久し振りに訪れて見れば随分と周辺は様変わり。あったはずの赤い社は見当たりません、探し物は何処に行ってしまったのか?あまりに時間が経ちすぎてしまったようです。探し物は見つからず、矢田川方向へ。春めいた川面にシラハエの姿を求め歩いてみるも、昨日の雨の影響でしょうか、水はやや濁りが入り彼らの姿は見られなかった。姿が見れれば次回は竿を持参、遊びに来てもいいなと思っていたが・・・・・残念だね今日は悉く探し物は見つからない、潔く帰ると決めバス停に向かう、その道すがらで見かけた土筆。毎年春を探しに土筆を探して散歩するけれど、偶然見かけた土筆の姿に歩いただけのご褒美を得ることができました。無くなるものもあるけれど、こうして顔を出す土筆を見て今を感じる。記憶から、過去の出来事や光景を風化させてはいけないものかも。「過去を振り返るな」、そんなことはない、そこには将来学ぶ事は必ずある。それぞれの3.11もう一度振り返ってみようかな、あの日学んだことはなんだろうか?
2020.03.11
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「山神社」を後にして県道15号線(瀬戸街道)を東へ、「小幡南前」の信号交差点を左に曲がります。そこから次の信号交差点「城南町」を右に入ります。城南町交差点から南方向の瀬戸街道の眺め。この先は瀬戸電の踏切もあり、車で矢田川を越えようとすると運が悪いと取り留めのない小渋滞が起こる場所です。この交差点を東に進み細い路地に入ります。東方向はこんな感じです、右に見える森は白山神社の杜。守山区小幡中の「天王社」はこの辺り、玉垣は、赤い社はどこぞにあるかいな・・・・・交差点に来て、一方通行の標識の先に蔵のような建物、近づいて初めて社だとわかります。交差点から社後方の眺め。随分と高い台座の上に、流造の屋根が緑色、白壁に赤く塗られた柱がアクセントとして効いている社が祀られています、これが小幡中の「天王社」。周辺の赤い天王社とは少し系統が違う趣です。フェンスに黄色い「初午祭」の案内が掲げられていて、そこには生玉稲荷神社とあります。白山神社に寄り添うように祀られているので、白山神社の境外社か、或いは後方の建物が保育園で、見ようによれば園の敷地の一画とも思え、園が祀った様にも見えます。「初午祭」の案内は単にここに掲示しただけかもしれないけれど、どこが管理されているのか分からない。生玉稲荷、白山神社を調べ、何か繋がりが分れば後日加筆します。角地にフェンスで囲われた「天王社」。傍から社側面をよく見ればどうやらコンクリートでできているようです。社の前から境内全景。左の社と中央と右側に倉庫らしき建物が並んでいます。向拝の幅に対し屋根を支える柱が太く、印象に残ります、それだけ重いぞということでしょうか。社クローズアップ。境内入り口の扉は閉ざされ、賽銭箱もありません。社の扉も閉ざされて中を窺い知ることはできません。関係者以外の参拝を拒んでいるような雰囲気が漂います。手が届くような距離にあるけれど、距離感はとても遠いものに思えます。「天王社」創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市守山区小幡中1-13 山神社から東に徒歩15分
2020.03.09
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2020.03.08
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名古屋市北区清水久国寺の山門から西に進み、国道41号線の東側を並行して南北に続く上街道を北上、清水2丁目の交差点まで歩きます、所要時間は5分程。交差点の角に緑青らしき強烈な緑が視界に入ってきます。目的地の『八王子神社春日神社』は落ち着いた街並みにあって、鮮やかな緑で存在を主張する神社です。鳥居右の社号標は「八王子神社 春日神社」とあります、なんとも長い社名なこと。神社の前に市バス「清水二丁目」バス停がある、この路線は利用した事がないけれど、八王子神社春日神社を訪れるにはとても便利。車で訪れるとポケットにしまいたいと感じる場所です。鳥居から境内の眺め。真っすぐに伸びた参道の正面が拝殿、左が社務所、更に左は西杉公園となっています。境内に入り左に手水鉢があります、龍はいませんが満たされた清水は澄んでいました。拝殿は二対の狛犬が守護しています、最初に出会うのがこの面々。肉付きも良く、逞しい容姿ですが阿形の前足は「何があった?」と聞きたくなるところ。社務所。拝殿の屋根の色を意識したのかな、街中にあって目立つ色合いです。拝殿5本の鰹木と千木が縦に切り落とされた外研ぎのもの、外研ぎは男神で内研ぎは女神とい聞くけれど、多様性の時代にあってどうなんですかねぇ。拝殿は近代工法のもので、綺麗で新しく、時の積み重ねを感じるものではありません。拝殿前の狛犬。こちらの阿形、犬を飼ったことのある方は見覚えのある姿をしていて、思わず撫でてやりたくなる表情じゃないでしょうか。拝殿に掲げられた扁額。「八王子神社春日神社」長い社名です、元は別々の神社。名古屋台地の北外れ、名古屋城築城前のこの辺りは那古野庄今市場と呼ばれ、現在丸の内一丁目周辺になりますが、ここには八王子神社、若宮八幡神社、天王社(那古野神社)が鎮座していたとされます。1610年(慶長15)の名古屋城築城に伴い、城を守護する目的から場外に遷座する事になり、その際の遷座先は神籤で決めたと云われます。何が当たりで外れなのかは知らないけれど、その結果、八王子神社は名古屋城東北の護りとして、南の城下を守護する目的で若宮八幡神社が遷座することになった。当たり籤なのかは分からないけれど、天王社(那古野神社)はそのまま城に留まる事になったようです。籤で決まった社地に遷座した八王子神社、後の1971年(昭和46)に春日神社が八王子神社境内に移築、両社を合祀した際に社名を八王子神社春日神社に改めたそうです。三つ銀杏が神紋の様です。この八王子神社は古来から小児の守り神として人々の崇敬を受けてきたようです。拝殿内。白壁の明るい拝殿内に木の色は温かみを感じるものです。八王子社祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、多紀理姫命、多紀津姫命、市杵島姫命天照大神と素戔嗚尊との誓約によって生まれた八柱の神々で天照大神は五男を素戔嗚尊からは三女神(宗像三女神)が生まれたとされる。春日神社御祭神 / 武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神八王子社創建 / 文武天皇時代(697年~707年)小児の守り神として参詣者が多い。宮城遥拝所碑。境内の右に立つ石標で、1950年(昭和15)にここから皇居(宮城)を遥拝する目的で建てられたもの。わざわざ新幹線に乗らなくてもここでOK、なんともありがたいもの。拝殿右に脇参道があり、左に明治40年建之の「八王子神社」社号標、正面に社があり、その先に鳥居が見えます。参道を進むと右側に「あぶないからのるな」と書かれた石灯篭があります。解説には「1834年(天保13)に尾州名古屋の豪商「杉屋佐吉」が寄進した灯篭」だそうな。ここに書かれている杉屋佐吉(1792年~1875年)は地元名古屋を中心に多くの寺社に灯篭や狛犬など寄進された方。清洲桜醸造株式会社の礎を築き奉納寄進物には「キヨス柴山藤蔵・柴山屋藤藏」刻まれ、注意して見ていくとあちらこちらでお目にかかります。2世紀の時を経た灯篭とは思えない程しっかりしていますが、注意書きに書かれるほど灯篭に乗るのか?「あぶないからのるな」子供の頃に云われた記憶もあるなぁ。この神社は伝えたいところに手作りの解説が掲示され、初めて訪れた者にはとてもありがたいものです。正面の社は大きな表札が掲げられた「秋葉神社」でした。境内北東角に、丸みのある石を高く積み上げ台座を作り、その上に神明造りの社が祀られています。玉垣の右は上街道です。秋葉社の左に神明造の本殿側面を見通すことができます。本殿裏側の車道から見た社殿全景。拝殿と幣殿、本殿が綺麗に繋がっているのが見て取れます。ここから右に行くともう一つ脇参道があります。脇参道から境内に入った左側に年期の入った手水鉢。解説があったようですが剥がれてしまい内容が分かりません。なにか彫られていますが読めません、これも藤蔵さんの寄進なのでしょうか。本殿左脇に鳥居と社が祀られています。小さな鳥居と、狛犬が守護する先の社は「金刀比羅神社」目を見開いてこちらを見据える狛犬。心なしか驚いているようにも見えてくる。さて、こちらにも参拝しておきます。 これで参拝はコンプリートのはずです。小さめに拍手、後ろを行き交う人の視線が妙に気になる。社務所前からの神明造の拝殿を眺める、直線美でも言えばいいのか。拝殿左の石碑「社殿竣工記念 八王子神社春日神社 名古屋市北区清水二丁目十五番二十号八王子神社御祭神 天忍穂耳尊 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野櫲樟日命 多紀理姫命 多紀津姫命 市杵島姫命 五男神は天照大神の御子にまします、三女神は素戔嗚尊の御子にまします 春日神社御祭神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神 由緒 八王子神社はもと那古野庄市場(現丸の内一丁目)に鎮座し若宮八幡神社と共に同じ境内に有り第四十二代文武天皇の御代の希斎と言う慶長十五年(1610)名古屋城築城の際に神籤により名古屋東北の護りとして此の地に遷座致しましました 明治五年村社に列し同四十年指定社となる昭和二十年五月戦災により焼失仮神殿を経て同三十二年社殿復興依頼氏神様として崇拝を続けて参りましたが腐朽甚だしく、平成十五年十月改築造営に着手同十七年四月竣工祭を行う春日神社は昭和四十六年社殿を八王子神社境内に移築し両社を合祀して八王子神社春日神社と社名を改称した此の度の改築造営に際して名実共に一体化して本殿内に合祀した」「明治天皇清水御小休所」の石標境内西南というか、「清水二丁目」バス停の後ろとでもいえばいいのか、目立たない場所に石標が建っています。1880年(明治13)、明治天皇京都巡幸の際、この地で休憩した事を伝えるもの。八王子神社春日神社は緑の屋根が印象に残ると共に、伊藤萬藏さんとの再会、宮城遥拝所や明治天皇清水御小休所など見どころのある神社、なので訪れるか、見送るか迷ったら籤で決めるのも面白いかも。八王子神社春日神社創建 / 文武天皇時代(697年~707年)八王子社祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、多紀理姫命、多紀津姫命、市杵島姫命春日神社御祭神 / 武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神 住所 / 名古屋市北区清水2丁目15-20公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「清水」下車、北に5分程
2020.03.07
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名古屋市千種区赤坂町『上野天満宮』市営基幹バス2系統を利用し「谷口」下車、谷口交差点を右に曲がり南東方向へ5分程の場所に鎮座する。合格祈願にご利益があり、受験生には知られた神社。交差点を南北に続く道は県道30号線から一本東に入るとそこは天満緑道。緑道には写真のように水道施設のパーツが飾られ、歩きながら水道事業の歴史を知ることができます。緑道を南に進みます。緑道に入ってすぐに、左の道路の先に「天満公園」が見えてきます。この公園の南側が上野天満宮になります。緑道から車道に出ると、左側に見えている建物は上野天満宮の社務所。この道を南に交差点まで歩きます。交差点を左に曲がると社頭に至ります。角に建つ立派な建物は近年造られた「清明殿」。清明殿の斜景。「上野天満宮」社頭前景。名古屋三大天神(山田天満宮、桜天神社、上野天満宮)の一つに数えられ、三社を巡る事を「名古屋三大天神参り」という。通りから眺める境内は左右に社号標、ニノ鳥居まで構え、蕃塀の先に赤い拝殿も見通せます。初詣や受験シーズンには賑わう境内ですがシーズンオフは静寂に包まれています。社頭から右方向の境内。正面が参拝駐車場入口で右側の玉垣沿いと駐車場奥に梅が植えられ、この時期に訪れると見ごろを迎えた梅の花と甘い香りが出迎えてくれます。社頭左の略記。『御祭神 菅原道真公、合殿 木花咲耶姫命、伊弉冉命由緒 建立年月日不明なれども寛政16年以前以前に鎮座、昭和37年浅間社(現別宮)を合祀例祭 10月24日例祭前日祭・境内末社祭、25日例大祭、別宮神事祭祈年祭 2月25日、夏祭 7月25日、夏祭 7月25日、新嘗祭 11月25日、月次祭 毎月25日』‣・・・・読み辛い一ノ鳥居から参道の眺め。左の社号標は「四級社 上野天満宮」とある。四級ですか?、参拝する者に社格は意味があるのか、いつも思う。正面の紅梅が彩りを添え、いかにも天満宮を象徴している。一ノ鳥居をくぐった左の手水舎。手水鉢にはトレードマークの梅の紋が彫られています。左に見える小さな龍口のある鉢は最近できた水占いの水盤。ハイシーズンには待ちが出る手水も今は閑散としています。龍口から注がれる清水も幾分勢いがないか?水占いの水盤2017年に清明殿が造営された際に新たに登場したもので、五芒星の彫られた水盤に水占いくじを浮かべ、浮き出た文字で運勢を占うもの。金色に輝く眼光鋭い龍がそれを見届けています。五芒星と云えば陰陽学者の安倍晴明(920~1005)へと繋がっていき、菅原道真を祀る上野天満宮とは縁がないように思えます。この上野天満宮は花山天皇に仕え、都を追われた安倍晴明の一族が、ここから西の千種区清明山に移り住んだとされます。京を追われた自らの境遇と道真を照らし、道真を慕いその神霊を手厚く奉るために清明の一族により建てられたのが始まりです。天満宮と云えば撫で牛です。その理由は諸説あり、道真の遺言で「自分の遺骸は人に曳かせずに牛車に載せ、その牛の行くところに葬るように」とあり、その牛は安楽寺四堂の傍らで動かなくなり、そこを墓所として埋葬しました。現在の太宰府天満宮です。もう一つの説では道真没後、神格化され天満自在天神と呼称した事から名前に由来し、大自在天が八本の腕と三つの眼を持つ白い牛に乗っていたと云われ、そのため天神様に牛を設置する説など、牛は道真につきものなのです。撫で牛を過ぎると、一対の狛犬が守護する拝殿も間近です。滑らかな曲線を描く向拝の唐破風は優雅で重厚な印象を受けます。拝殿に掲げられた扁額は過去の名古屋市長(杉戸清)による揮毫。創建は不明ですが、平安時代中期とされています。祭神は菅原道真、合殿 木花咲耶姫命、伊弉冉命道真は平安中期の実在の人物で、政治家でもあり学者でもあった彼は、勤勉家として知られ、梅を愛でたと云われます。天満宮が学問の神として崇敬され、境内で見かける梅の紋はそうした事からきています。当初の天満宮は矢田川の氾濫により被害を受け、江戸時代に現在地に遷座したとされます。現在の伽藍からその歴史を感じる建造物は見受けられません。空襲被害について調べましたが、記述や写真を見つける事は出来ませんでした。由緒に「昭和37年浅間社(現別宮)を合祀」とあるので、その時期に再建されたものでないかと思います。境内東から社殿全景。右手に小さな梅林があり、赤い社殿に彩りを添えています。飾り金具にも当然ながら梅の紋が施されています。本殿後方の天満公園からの社殿の眺め。本殿の全容を窺うことは出来ませんが、拝殿と幣殿、流れ造りの本殿が一体になっている様にも見えます。明るく、風の通りがいい杜から5本の鰹木と外研ぎの千木は良く見通せます。社務所から清明殿方向の眺め。社務所が開く前の時間帯のため参拝者もなく、静かな境内に玉砂利を踏みしめる音だけが境内に響きます。2017年に造営された清明殿を守護する狛犬。境内で見かける色とりどりの無数の小さな人形は、底の部分におみくじが入れられた「天神みくじ」で愛称は道真君で知られています。本来は持ち帰って飾るものですが、「良くぞそこに置いた」と感心するような場所にも置かれています。神前結婚式としても利用される清明殿。新しく建てられただけに外観はガラスを多用した近代的な外観。旧鍋谷上野村一帯に鎮座した社を合殿一宇として祀ったもので、永弘院の西隣に鎮座してはずの八坂社はこちらに遷座していました。五芒星と云えば千種区清明山にある清明神社が最初に浮かびますが、清明はこちらでも祀られています。上は清明殿から拝殿の眺め。蕃塀の先に梅の下で伏せる撫で牛、高みから見下ろす狛犬、拝殿が一望でき、ハイシーズンには望めない眺めかもしれません。初詣などはこの参道に人波ができ、出店も出るほど賑わいます。受験を控え、万事を尽くした後の結果を待つ不安な気持ちを静めるために訪れるのもいいでしょうね。2020/2/27名古屋三大天神 『上野天満宮』創建 / 不明 (平安時代中期)祭神 / 菅原道真公、合殿 木花咲耶姫命、伊弉冉命清明殿合祀社 / 清明社、八坂社、白山社、秋葉社、御嶽社、琴比羅社、猿田彦社、稲荷社住所 / 名古屋市千種区赤坂町4-89公共交通機関アクセス / 市営 基幹バス2系統「谷口」下車、南東へ400メートル
2020.03.06
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名古屋市守山区小幡3丁目「山神社」昔通ったテニスクラブを探しつつ、大牧町の「天王社」から住宅地を10分程南へ歩く。道は行き止まり、正面に陸上自衛隊森山駐屯地が現れる。右手の駐屯地の敷地の中には、綺麗に洗車された暗い緑色の自衛隊車両が整然と並んでいます。特徴のある濃い緑色はオリーブドラブと呼ばれる単彩迷色で、その国の風土により色合いは違ってきます。街を走ると存在感のある色に見えますが、冨士の演習場で走り回る車両は周囲の色に溶け込むように規格で決められたもの。そんな車両を眺めつつ森山駐屯地沿いに東方向へ向かいます。駐屯地を過ぎた東に写真の「すいどう道」緑道が南北に続きます。その緑道を右に進みます。この緑道、ここから南の矢田川をくぐり、鍋谷上野浄水場から南の「天満緑道」へと続きます。北は庄内川を超え、春日井、小牧を経て犬山の木曽川に至る約20kmの「尾張広域緑道」が設けられています。この緑道には様々な木々が植えられ、今(2020/2/28)はピンクも鮮やかな河津桜が見ごろ。目的地の赤い「山神社」は陸上自衛隊森山駐屯地の東側の南角に祀られています。ここから瀬戸街道は目の前、交差点の角に赤い覆屋は目立つ存在です。この辺りで見かける「赤」はどれも同じ色合い、これも統一規格があるのだろうか?街中のこの赤は存在感のある色です。角地の一画に建つ切妻瓦葺の赤い覆い屋。その左に形状の違う石碑が三つ置かれているようです。傍に近づいて見ると、それらは形こそ違いますが、どれも「山神社」と彫られています。横一列に並べられた石標、この場所に初めから三つ揃っていたものではないでしょう。ひと昔前は自然への畏敬の念を込め、こうしたものが集落毎に祀られ、住民により崇めらていたはずです。瀬戸街道周辺の開発に伴い、周辺に祀られていたものがここに纏められたものだと思います。覆屋の中には中央に三社祀られているようです。中央にやや大きめの注連縄が飾られた板宮造りの社と、両脇に小さな神明造の社が祀られています。何れの社も札や表札がないので詳細は分かりません。山神社がいつからここに祀られているのか?瀬戸街道沿いということもあり、ひょっとすると江戸時代まで遡るのかもしれません。昔の面影も、こうした神社の生い立ちも、時の移り変わりと共に様変わりし、素性が分からなくなっていくのは自然の流れなのかもしれません。「山神社」創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市守山区小幡3-11大牧町天王社から南へ徒歩15分程公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「瓢箪山」駅下車北へ5分程
2020.03.05
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名古屋市北区大杉3丁目2-27以前掲載した延命閣地蔵院から北西方向10分程。国道41号線から東に入った住宅街に天長山久国寺は鎮座します。久国寺山門立派な門構えの瓦葺の山門、右に寺号標「天長山 久国寺」、左に「山門禁葷酒」と刻まれた戒壇石が立っています。山門の山号額は「天長山」。実際の山に由来するものではなく、名の由来は名古屋城本丸の「天長峰」の名を借り、改めた物と伝わります。宗派は曹洞宗。山門から眺める本堂は瓦葺の入母屋造り。石畳の参道は正面が本堂へ、左が西門、右が寺務所に続きます。山門をくぐった左の小さな社。覆い屋の下の社は小さいものですが、細かな彫飾りが入り、扉には飾り金具が奢られています。詳細は不明。その右に方型のお堂。火燈窓が施された白壁が印象深い建物てす。この堂の露盤の上には翼を大きく広げた鳳凰飾り。堂の右側に建つ護国観音像。戦没者の慰霊を目的に建立され白い観音像は、コンクリート塑像作家の浅野祥雲の作。五色園や桃太郎神社で見かけるシュールなイメージの像に対し、天女の様な顔立ちの作風は別の表情を見せています。観音像の左にある石碑上、自然石の快台塚下、馬頭観世音菩薩の石碑、久国寺の西に南北に延びる上街道、そこを通る牛や馬の供養や無病息災を祈願して建てられたものでしょうか。昔は牛や馬は農業や畜産、物流に関わる重要役割を担っていただけに、それらに携わる人々が多くいたことを物語っているのかも知れません。この他に聖観世音菩薩碑などがこの一画に建っています。本堂左、というか西門から境内に入った左に三体の石像、中央は水子観音像。山門右の伽藍を見て行きます。最初に目につくのは重厚な四脚の鐘楼、そこに吊るされた梵鐘の形に強烈な印象を受ける。梵鐘の側面から無数の角らしきものが突き出ている。鐘楼の手前の大きな庚申塔にも目が行きます。随分と大きな庚申塔。下には「みざる、いわざる、きかざる」の三猿が彫られています。特徴のある岡本太郎作の梵鐘。そう聞くと思わず頷ける、「爆発してる」久国寺住職が岡本太郎に梵鐘の作成を依頼、1965年に作られたもの。この後に大阪万国博(1970年)のシンボルとなった太陽の塔が作られます。この梵鐘は森羅万象を表現したものらしく、特徴のある角?は人の手を表しているそうです。梵鐘全体にはいかにも岡本太郎と云わんばかりのレリーフが施されています。寺務所前あたりの庭石の陰に龍が潜んでいました。久国寺本堂全景。歴史は古く、1596年~1615年(慶長年間)に、長国守養が松平家菩提寺の法蔵寺より家康の守護仏を貰い受け楠山久国寺として創建されたもの。1662年(寛文3)に現在地に移設、名古屋城の鬼門除けとした。戦災で焼失し、現在の伽藍はその後再建されたものですが、現在の周囲の環境から見ると街中にあって大きな境内を持つお寺です。久国寺は大名古屋十二支と呼ばれる、名古屋市にある十二支に因む守護仏を廻る札所の一つとなっていて、子年の今年の守り本尊は久国寺の「聖観世音菩薩」。その他にも尾張第三十三観音29番、東海百観音29番、名古屋百観音94番の札所となっています。色々な札所があるものです。建物は戦後再建されたものですが、本堂に吊るされた風鐸や瓦屋根の落ち着いた佇まいは風格のあるものです。久国寺 山号 / 天長山 宗派 / 曹洞宗 創建 / 1596年~1615年(慶長年間) 本尊 / 聖観世音菩薩 住所 / 名古屋市北区大杉3丁目2-27公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅下車、北西に徒歩10分程
2020.03.02
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守山区大牧町天王社ほんのひと昔前は緑の残る小高い丘陵地、そうした事から自衛隊の駐屯地等などがある。今やガイドウェイバスの高架が聳え、高層の集合住宅や民家がそれを取り囲み、若い頃に走り回ったテニスクラブも見つけられない程環境となり、久し振りに歩いて見て随分と様変わりしている事に驚いた。道路整備もひと段落し、今も新たな住宅が建つ元気な街だ。ガイドウェイバス「金屋」駅で降車し、金屋交差点方向へ。この「金屋」という地名、このあたりに鋳物師達の住居が所在した事から付いた地名と云われます。県道30号線、通称関田名古屋線が走り、その上をガイドウェイバス(ゆとりーとライン)の高架が空を覆い、バス停とは思えない停留所が道路の中央に建つ。今回は金屋を起点にして東に続く緩やかな坂道を経て小幡方向に歩いて見ました。交差点から坂を上り切ったあたりの市バス「大牧町」停留所が目的地、ここまで5分程歩いただろうか。ここ大牧町は意外に新しい町で1990年(平成2)に大字大森垣外、大字牛牧、大字小幡、大字金屋坊、金屋2丁目の各一部が一つとなり、守山区大牧町として誕生し、町名の「大」は大森から、「牧」は牛牧から一字を引用したものだといいます。停留所あたりから道路北側を見渡すと、新しい住宅が立ち並ぶ一角に小さな社が祀られています。大牧町の天王社です。新しい玉垣で囲われ、更にアルミフェンスで玉垣を囲っているので、社の存在は前にこないと気付かないかもしれません。周辺の天王社に赤い社が多いため、車窓から赤い社を探していたりすると意外に見落とす事になるかも。左には整地された空き地、右には新しい住宅があり、社地はその住宅の一部に設けられている。恰も個人でお祭りされた社のようにも見えます。敷かれた玉砂利や石の台座も新しく、その上に板宮造の社が祀られています。小さな境内ですが、手入れされた綺麗な印象を受けます。歩道に面し、陽当たりの良い場所に祀られています。地元の老人の方が、通りがかりに拝んでいかれる光景を見ました。ここに来て拝むことが日課になっているのでしょう。そうした光景を見る度に、そこに祀られた神社と地元の方の結びつきの強さみたいなものを感じます。この天王社がいつからここに祀られているものか、定かではありません。今ほど道は整備されていなかった記憶から、この道を好んで走らなかった事もあり、社の存在を知ったのも最近のこと。駐車場はなく、歩きの時に訪れようと思いながら延び延びになっていました。注連縄に真っ白な紙垂が飾られた社。身近にあるけれど、歩道がある日常とここは違う特別な空間ですよと語っています。梁に立派な角のある龍の透かし彫りや、細かなところも彫が施され、金色の飾り金具も使い小さいけれど少し奢られた社。山王社の東から金屋方向の西の眺め。見上げるように高いガイドウエイバスの高架が下に見えるほど。東谷山から続いた丘陵地も、ここから西にかけ緩やかに下り、矢田川や庄内川の氾濫による水害が付きまとい水屋の知恵が生まれた瀬古方向へ続きます。それに比べてこの辺りは恵まれた丘陵地、なので古来より人が生活し瓢箪山古墳などにその痕跡を留めています。この天王社の詳細は分かりませんでした、次につなげる意味からも、簡易の解説があるといいのだが。意味を持って祀られた社、街角のこうした社が朽ち果て、忘れ去られていく光景を目にすると、なくしたものは単に社以外にもあるような気がしてならない。妙に寂しい気がします。ここ大牧町の天王社は訪れる方も見え、大切にされている、これからも受け継がれていく社かも知れません。「天王社」大牧町創建 / 不明 祭神 / 不明 住所 / 名古屋市守山区大牧町6公共交通機関アクセス / 大曾根から「ゆとりーとライン」金屋駅で降車、金屋交差点から東に5分程丘陵の頂から南へ向かうと地味なアップダウンが続き、瀬戸街道に至ります。次はここから南方向にあるはずの、昔通ったテニスクラブを探しつつ自衛隊駐屯地に向かいます。
2020.03.01
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