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五月も間もなくこの時期の山々は芽吹きだした若葉の緑が目に染みる。元気一杯の渓流魚と知恵比べするにも絶好のシーズン。当時のホームグランドは白山方面。愛犬を荷台に乗せ、夜討ち朝駆けで出かけていたものです。山に入る前に必ず立ち寄った荘川村、そこで地元の鶏ちゃんを買い求め山に籠っていたものです。鶏ちゃん合衆国 加盟店 高山市飛騨荘川いちまの けーちゃん 260g 2〜3人前 冷凍便 毛針も見えなくなり、頼もしい相棒も寿命を全うし、こうしたキャンプも減ってしまったけれど、相変わらずこの時期になるとあの頃を思い出す。鶏ちゃんは地域により種類や味付け、使用される鶏肉の部材等地域により個性があります。鶏もも肉をニンニクが効いたみそだれにつけ込んだシンプルなもので、野菜を入れてフライパンで焼くだけ。家から持っていくのは野菜と酒、そして相棒のご飯のみ、これで1週間は籠れていた。出かけられない巣ごもり生活、荘川に行った体で久しぶりに鶏ちゃんを纏め買い。部屋の外で味わってみようと思う。子育て中の自分なら、間違いなく部屋にテントを張り、プチキャンプ気分を楽しむところだろうが。あれだけ浮かれていた息子達、今なら冷たく言われるのが見えている「大丈夫?」と。時間たっぷりの日々、今日はDIYをして時間を過ごすかな。今日はかみさんが低温調理機でローストポークを作るそうだ、居酒屋「我家」が楽しみだ。
2020.04.30
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宝生寺の北を流れる赤津川(矢田川)を渡り、右岸の堤防道路を上流に向け進んで行きます。堤から見る赤津川、河原は意外に広いけれど水面は意外に高いところを流れています。長年の土砂の堆積で川底は結構上がっているようです。堤を進むと水無瀬川という小さな支流が現れます。堤はそこから水無瀬川沿いに続いていきます。次の目的地美濃池町の「八王子神社」は正面に見える橋を左に入ってすぐです。左を見れば右手に社号標と鳥居が目に入ると思います。参拝駐車場としてはありませんでした、車は堤防沿いに置いて徒歩で向かいました。社頭全景。周囲は住宅が立ち並び、鳥居の幅に合わせ参道が奥に伸びています。その奥は境内が広がり、拝殿が見えています。美濃池町八王子神社境内。左に参集殿が建ち、正面に大きな木々に包まれて社殿が佇んでいます。参道左の由緒が建てられ、この神社の歴史を伝えています。「八王子神社」天照大御神と須佐之男命が行った誓約の際、十拳剣から生まれた三姉妹の女神、多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命と五百箇の御統の珠から生まれた五柱の男神、正膳吾勝々速日天忍耳命・天穂日命・天津日子根命・ 活津日子根命・熊野久須毘命を祀ります。拝殿左の手水鉢と石灯篭(明治19)、右にご神木。シャープな外観の拝殿は瀬戸市の案内には銅板葺で大正6年に建替と記載があったけれど、それ以降に建て替えられているように見えるほど綺麗。八王子神社全景。小ぶりな狛犬の先に石垣が高く積まれ、周囲を塀で囲まれた中に流れ造りの本殿が見える。八王子神社の狛犬、細部に彩色が施された小さいけれどお洒落な面々。本殿域外周からは見えなかったけれど、本殿両脇に板宮造りの小さな社が二つ祀られています。詳細は分かりません。流造の本殿には五男・三女が祀られます。境内の右に複数の石碑が並んでいます。右のとんがり石は、霊神碑、中央の大きいものは御嶽山大権現、その左が金毘羅大権現、その左が痔塚神社。痔塚神社?、名東区香坂の個人の庭に同じ社名の神社があるけれど同じということだろうか。長久手の合戦に所縁があるのだろうか、単にあちらの神様なのだろうか?気になる。一番右の碑はアップを撮ったつもりが残っておらず、忘れてしまいました。本殿北側は公園になっており、この一画に土地改良碑が建ち、土地改良の苦労が刻まれている。八王子神社の創建は1394~1427年(応永年間)の創建とされ。今村城主松平広長の重臣稲垣広茂が1573~1592年(天正年間)にこの地に土着し、この社を氏神として崇敬した事が始まりとされる。これまで幾度か改築再建が繰り返され、明治後期には熱田神宮の末社を譲り受け社殿としたとある。1913年(大正2)に社拝殿、神殿周囲の塀や神門が新改築されますが、伊勢湾台風で被害を受け、1963年(昭和38)に社拝殿が再建。その後も参集殿や鳥居等、氏子の方々の支援により現在の姿を維持している。境内から社頭の眺め。環境も変わり、周囲は静かな住宅地が広がります。周囲は随分変貌したけれど、氏子に囲まれて鎮座する姿は正に美濃池町の氏神だ。美濃池町『八王子神社』 建立 / 1394~1427年(応永年間)祭神 / 多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、正膳吾勝々速日天忍耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命例祭 / 10月15日直前の日曜日 住所 / 愛知県瀬戸市美濃池町127 アクセス / 八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺⇒『秋葉三尺坊大権現・御嶽社・笠松と権道路』⇒大黒社⇒八王子神社(大黒社から車で5分程)
2020.04.29
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2020.04.28
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吉備津彦神社から中山を車で5分程走り、西の麓に回り込むだけで、備中国一ノ宮「吉備津神社」到着です。二つの国の一ノ宮が中山を境に背中合わせで鎮座する形になります。売店の前の駐車場に車を停め、右方向に歩けば「吉備津神社」の社頭です。売店の前の道路を挟み、向かいに手水舎、手水鉢が見えています。その右手に苔むした石がありますが「矢置岩」というそうです。矢置岩の由来「社伝によれば、当社の西北8㌔の新山に温羅という鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ。大吉備津彦命は「吉備の中山」に陣取り、鬼神と互いに弓矢射るに両方の矢、空中に衝突して落つ。そこに矢喰宮あり。また中山の主神は鬼神の矢を空中に奪取す。当社本殿の中に祀る矢取明神はすなはちそれなり。この戦いのとき大吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶ と。旧記によれば中古より箭祭の神事あり。願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。神官その矢を岩上に立てて交通の安全を祈る。のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりき と。この神事いつしか中絶せしが昭和35年岡山県弓道連盟の奉仕により復活され、毎年正月3日ここに矢立の神事を斎行することとなれり。」ここから北西の鬼の城跡に鬼の陣があり、中山に陣を取った桃太郎がこの岩に矢を置き壮絶な戦いを演じたと、戦いで放たれた矢同士が衝突し落ちた所に矢喰宮ができ、鬼が放った矢を奪いそれを祀ったのが矢取明神。ということの様で、どちらも脅威の飛距離と精度があったようです。矢置岩の右の注連縄鳥居の先に緩やかな石段が伸び、その先に赤い髄神門が見えています。この石段を登り切ると重要文化財の「北随神門」のある境内となります。入母屋檜皮葺で朱と壁の白のコントラストが印象的なこの門は室町時代中期に再建されたとされる。この門をくぐると目の前に拝殿へ続く石段があります。石段の先は拝殿へと続く、視線の先に「吉備津宮」の額と菊紋の入った赤い提灯が見える。拝殿前から北随神門を眺める、間近にある檜皮葺の屋根が眼下に見える程、石段の傾斜はきつい。提灯の裏側は桐紋。拝殿の「平賊安民」の額。賊(鬼)を退治し、民に平安をもたらすということでいいのか。勝てば官軍、負ければ賊軍。負けた温羅は伝説の鬼になった。大きな額が掲げられ、拝殿内には白と緑の御幣が見える。主祭神は大吉備津彦命を祀り、相殿神に御友別命、仲彦命、千々速比売命、倭迹迹日百襲姫命、日子刺肩別命、倭迹迹日稚屋媛命、彦寤間命、若日子建吉備津日子命が祀られる。神社の創建は仁徳天皇が命じたとか、大吉備津彦命の子孫の加夜臣奈留美命が創建したのではとか諸説あり不明の様ですが、備中国一ノ宮に相応しい長い歴史を持った神社である事に間違いはない。参拝。上拝殿の右から本殿と沿うように山の起伏のままに「廻廊」が伸びる。下その途中の「南随神門」から廻廊の眺め、こちらの門は北随神門の姿に似ており、屋根が瓦葺。1357年(延文2)の再建で吉備津彦神社の伽藍の中では最古の建造物。廻廊の屋根があり、門の全景を撮り忘れてしまったようです。廻廊を下に進みます、左手の斜面に複数の社が建てられています。「吉備津えびす宮」明治時代に一度は荒廃に陥ったそうですが、後に崇敬者によりこの場所に新築されたもの。廻廊の右側の神池の小島に建つ赤い社は「宇賀神社」。商売の神で吉備国最古の吉備神が祀られているという。「岩山宮」廻廊から鳥居をくぐり、吉備の中山の山腹に続く石段の先に鎮座する。入母屋瓦葺の向拝が付けられた小さな社です、吉備国の地主神が祀られている。祭神 / 建日分別神社の前には廻廊を下に見ながら平行するように参道が整備され、斜面に建つ社を参拝して回れます。廻廊まで上り下りしなくてもいいのは有難い。左が「祖霊社」、右は「水子慰霊社」。参道を更に進むと赤い社が三つ祀られています、左から春日宮、大神宮、八幡宮と並び、これら合わせて「三社宮」と呼ぶようです。拝殿から続くこの廻廊は境内南の南本宮社まで真っすぐに続きます。1579年(天正7)に再建されたもので、長さは360㍍にもおよび、途中のお釜殿(現在covid-19対策で鳴釜神事は中止中)や御供殿などに続く廻廊が接続します。廻廊南口の旧社務所付近の狛犬。額中央に角があるもので、苔むして落ち着き払った風貌は貫禄すら漂う。南社頭から正面の本宮社方向の眺め。右に社号標とその先に注連縄鳥居がある。「本宮社」切妻瓦葺の平入拝殿で本殿は流造、廻廊はここまで続きます。御崎社、新宮社、本宮社、内宮社、御崎社の五社相殿で、吉備津五所大明神(本社正宮、本宮社、新宮社、内宮社、岩山宮)のうち、本宮社と新宮社、内宮社の三社が合祀されている。祭神 / 孝霊天皇・吉備武彦命・百田弓矢姫命安産と子育ての神として崇敬されているようです。本宮社の守護にあたる狛犬は南社頭の落ち着いた狛犬に比べ小柄で躍動感のある姿。玉取り、子取りで対の狛犬は良く見かけますが、こちらは阿形吽形共に小さな体に見合わない大きな球を持っています。玉や子が施されるには子孫繁栄であり、物事うまく転がるようにとか諸説あります。そこには先人の思いが込められているようです。COVID-19との長い付き合いを求められる現在であれば、丸い球にトゲトゲのついた玉がお目見えする事になるやも。本宮社後方から拝殿方向の眺め、左に赤い社が見えます。急峻な山肌にへばりつくように建つ社は「瀧祭宮」。社の台座の下に二つ樋があり、山肌から湧き出る地下水がここから流れ出て二筋の滝になります。ようやく咲き始めた桜、この時期では湧水も枯れているようで、滝のように流れ出る光景は見られませんでした。ここが境内の南端と云ってもいいでしょう。ここから梅林や紫陽花園を経て本殿方向に戻ります。岩山宮の前を過ぎ本殿に向かう途中の巨樹に視線が止まる、その脇には小さな宝塔が建っています。「如法経塔」中山には多くの遺物遺跡が多く点在しますが、神社の古図に如法経塔と記され、神仏習合時代の名残を伝えるもの。現在も経が納められているのか定かではありませんが、室町時代のものではないかとされます。参道を進むと鳥居が現れ、その先に「一童社」の社殿が見えてきます。学問、芸能の神様を祀り、江戸時代より崇敬され続けているそうです。合格祈願の絵馬が掛けられていました。上一童社拝殿全景、願いが叶った報告に再び訪れ、達磨を納め感謝を伝える。下一童社の右にある蔵造りの建物。五三の桐紋が掲げられているけれど詳細は不明。一童社の先は一段下がり本殿域が広がり、目の前には個性的で複雑な屋根を持つ本殿が間近に見られます。比翼入母屋造と呼ばれ、他に類を見ない造から吉備津造とも云われます。檜皮葺の入母屋造に二つの棟が連なり、本殿と拝殿が一つとなり、威厳と優美さを併せ持つ姿を形作っています。この大きさは八坂神社に次ぐ大きさを誇るようです。また、土台となる白い部分は白漆喰で作られた亀腹と呼ばれ、その上に建てられています。素木の本殿ですが、その昔は朱塗りだったともいわれます、亀腹の白と朱塗りの本殿、結構派手だったのかもしれません。二つの棟に施された外研ぎの千木と二本の鰹木。金色の飾り金具が施されているけれど、過度に使われていないので落ち着いた外観。屋根は軒に向け曲線を描き反って行きます。現在の本殿、拝殿は1425年(応永32)に再建されたもの。主祭神 / 大吉備津彦命大吉備津彦命は281歳で亡くなり、中山頂きに葬られますが、そうした事から延命長寿の守護神として、厄除け、家内安全、病気平癒、子育て守護、産業興隆のご利益を授かりに訪れる参拝客は絶えない。本殿域の東に祈祷殿、その左は祈祷殿を凌ぐ高さを誇る大イチョウ、樹齢は600年を超えるともいわれるそうです。落葉の頃は境内に黄色の絨毯を敷き詰めたようになるのではないでしょうか。大イチョウの左の社務所、ここから再び石段があり、北随神門に至ります。北随神門と拝殿のある授与所方向の眺め。これで右の石段から拝殿、回廊、本殿とぐるっと一周した事になります。一ノ宮に相応しい大きな境内と美しい本殿を持った、桃太郎伝説の伝わる神社です。備中国一ノ宮「吉備津神社」創建 / 不明祭神 / 大吉備津彦命本殿 / 吉備津造境内社 / 一童社、岩山宮、えびす宮、祖霊社、水子慰霊社、三社宮、本宮社、瀧祭神社、宇賀神社住所 / 岡山県岡山市北区吉備津931※3/23時点ではお釜殿の神事はや御朱印はCOVID-19対策から開場、御朱印は16時まででしたが現在神事は休止されています。 御朱印についても確認される事をお勧めします。因みに、我が家が辿り着いたのは16時を過ぎており御朱印は終了していました、吉備の國一ノ宮御朱印はまたの課題です。
2020.04.27
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宝生寺境内の一画に鎮座する「尾張ゑびす大黒社」以前記載した「秋葉三尺坊大権現・御嶽社・笠松と権道路」の参道の突き当りになります。境内入口には数台駐車余地はありますが、車は宝生寺参拝駐車場をお勧めします。社頭右に「尾張ゑびす大黒社」社標が立っています。社頭右の手水鉢。龍はお休みの様です。南に延びる境内、社頭左から札所?かな、その先に個性的な造りの社殿が佇んでいます。こちらは1月5日、初えびす大祭が催されます。地元の方のみならず、遠方から訪れた参拝客で、この寂れた境内は人で埋まるようです。普段は訪れる方は少ないようで、こちらの御朱印は宝生寺で頂きます。御朱印収集を楽しまれている方は寺と神社の御朱印帳をお忘れなく。「尾張ゑびす大黒社」は瀬戸市内を見渡すことのできる高台、その端っこに北を背にして建っています。境内はこちらの大社造の本殿のみで鳥居も狛犬は見かけませんでした。高く積まれた石垣の上に切妻、妻入りの本殿が建ち、本殿に続く石段の傾斜に合わせる様に本殿の妻に屋根が繋がります。屋根の勾配は急ですが、緩やかな曲線を持っています。縦にスパッと切り落とされた外研ぎの千木と3本の鰹木が飾られています。斜めから眺める姿は美しいものがあります。これで周囲の桜が満開を迎えていれば一層映えるのでしょうが、本殿周辺の桜はまだ早かった。向拝柱の左に美保神社、奥の柱には事代主大神、 右に出雲大社、大国主大神と社名札がある。御存知のように島根県の出雲大社は縁結びの神様として広く知られ、国造りの神、農業、商業、医療の神「大国主大神」をお祀りします。美保神社は商売繁盛、漁業、海運、田の虫除けの神「事代主大神」をお祀りし崇敬されていますが、尾張ゑびす大黒社は正式な分社として1976年(昭和51)に造営されたもの、それから半世紀に満たないけれど地元では親しみを込め「えびすさん」と呼ばれているようです。参拝作法は「二礼・四拍手・一礼」、なかなか馴染めない。余談ですが、近頃「大黒様」と聞くと携帯電話のCMに登場する、あのキャラのイメージが真っ先に出てきてしまう、巣ごもりで相当すりこまれている。本殿側面全景。この右は崖っぷち。北側の赤津川の堤から丘の頂にポツンと鎮座する「尾張ゑびす大黒社」の眺め。丘の高みから氏子の住む麓の町を見守る様に佇んでいます、右の木々の生い茂る辺りが御嶽神社や秋葉社が鎮座し、右に少し下がった辺りに宝生寺があります。ここなら川が氾濫しても二度と被害に遭う事はないでしょう。本殿北側は麓の街並みと田畑の広がる光景が広がり、その先の瀬戸の街並みも見通せます。周囲の動きは手に取る様に見えます、家康がここに陣を置いた気持ちも分かるような気がします。巣ごもり生活は気も滅入ってきます。既に散ってしまっただろうけど、境内で咲き始めていた桜の写真を入れておこう。2020/3/29『尾張ゑびす大黒社』建立 / 1976年(昭和51)祭神 / 大国主大神、事代主大神住所 / 愛知県瀬戸市駒前町アクセス / 八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺⇒『秋葉三尺坊大権現・御嶽社・笠松と権道路』⇒大黒社は目の前
2020.04.24
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揺れた、よね今日はやたら揺れる今のは土岐と瑞浪あたりのようだこの期に及んで二重の試練は許してほしいものだ昨日の流れ星に地震の事まで願いをかけていなかった、静かにしていてほしいと願うばかりだ
2020.04.23
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岡山県岡山市北区一宮 「備前国一ノ宮 吉備津彦神社」吉備の中山の北東の麓に鎮座する広い境内を持つ神社です。この山は岡山平野の北東にあり、古くから和歌に歌われ、清少納言の枕草子にも書かれるなど、この地方ではよく知られる山です。そして桃太郎伝説のモデルとも云われる大吉備津彦命を祀ります。境内には桃太郎のお供、猿(楽々森彦命)、キジ(留玉臣命)、犬(犬飼武命)、桃太郎の中で鬼を演じた温羅を祀る温羅神社など桃太郎の出演者が勢ぞろい。「吉備津彦神社」の社頭から眺める中山は、標高は170㍍程の里山ですが、この山の西麓には備中一宮の「吉備津神社」が鎮座し、同じ山の麓に二つの國の一之宮が鎮座します。このことからも互いの國にとって神聖な山だったのが分かります、中山の由来は両社の中心ということからきているようです。県道61号線と吉備の中山道が交わる場所に社頭があります。石鳥居の両脇で赤黒い大きな狛犬がお出迎え、石畳の参道は随神門へ真っすぐに伸びています。「社頭の狛犬」吽形これは石ではなく焼き物、尾張の陶器製の狛犬は瀬戸や美濃焼の狛犬が多いけれど、ここは地元備前焼きの狛犬。岡山市から北東の伊部を中心に造られる備前焼は釉薬は使わず、土の風合いと温もりを感じる素朴な焼き物です。写真で大きさが伝わらないでしょうが140㌢はある立派な狛犬です。「社頭の狛犬」阿形いずれも骨太で筋肉質の逞しい姿をしています。吉備津彦神社案内図この案内図には書かれていないけれど、この山は社殿を設ける以前の古い祭祀形式の磐座や、古墳が点在し、太古から崇拝対象の山として周辺も栄えていたのでしょう。社頭の鳥居の左右に神池があり、中央に参道が設けられ、その先に伽藍が広がります。別名を「朝日の宮」とも云われ、夏至の日の朝陽が正面鳥居から祭文殿の鏡に当たる様に巧みに計算された伽藍となっているそうです。左右の神池、松並木の続く石畳の参道の先に髄神門が間近に見えてきます。参道左の神池の中ほどに浮かぶ小島は「亀島」。亀島の注連縄鳥居の先に鎮座する社が「亀島神社」。髄神門の中央からの方位から亀島神社は水の神とされるそうです。御祭神 / 市寸島比売命参道を挟み右側に対峙するように浮かぶ小島が「鶴島」。そこに鎮座する鶴島神社は海上安全の神様。亀島同様にその方位から風の神とされているそうです。御祭神 / 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后参道中ほどから社頭の眺め。夏至の日の朝陽はこの鳥居から祭文殿に光の道を作る、神々しい光景が見られる。目の前をJR吉備線(桃太郎線)の赤い電車が通り過ぎて行きます。神池に架かる「太鼓橋」鶴島と亀島の間を縦断する参道に架かる石橋。車輌参道として埋没していたものを、平成16年の参道整備の際に復元されたもの。創建は定かではないようです。「随神門」。1697年(元禄10)に備前岡山藩主の池田綱政が造営したものとされ、シックな外観の門。綱政は後楽園の造園を命じた事でも知られています。随神門に掲げられた額も外観同様にシンプルなもの。「随神」。左/豊磐窓命、右/櫛磐窓命の二柱が髄神としてお祀りされています。随神門をくぐると一際存在感のある大燈籠。高さ11.5m.、笠石は8畳と云われ、大きでは日本一と云われる燈籠です。文政13年(1830年)から安政4年(1857年)の27年にも渡り寄付がよせられ、1859年(安政6)に天下泰平を祈願し建立されたそうです。建立にあたり27年の長きにわたる寄付を募り、6段づくりの石段には数えきれない奉納者の名が刻まれています。正面に聳える大きな木は、樹齢千年以上と云われる御神木の杉です。「この大杉に龍の宿る」という伝承のある、吉備津彦神社を象徴する巨木。「手水舎、手水鉢」1697年(元禄10)に池田綱政が社殿を造営した際、石工の河内屋治兵衛が奉納した手水鉢です。河内屋治兵衛は、和泉の國(現在の大阪南西部)に生まれ、江戸期の岡山で活躍した石工。石段の先にある拝殿の上に、中山に落ちようとする夕陽が眩しい。「社殿全景」現存の本殿は1668年(寛文8)に池田光政が造営に着手、その後の1697年(元禄10)綱政の時に完成した。流麗な流作りの本殿は当時の社殿建築の技術の粋がつくされたもの。この流造は吉備国の神社建築の伝統とする正統な姿のものらしい。この姿は古代の熱田神宮の伽藍にならったものと云われ、拝殿、祭文殿、渡殿、本殿が一直線に配置されたもの。「拝殿前の狛犬」こちらも石ではなく焼き物、社頭の狛犬に比べスリムで各部のシルエットはよりはっきりと作られています。年代が違うこともあるのでしょう、色は随分変色し、日焼けが冷めたような印象。拝殿に掲げられた「一品一宮」の額と拝殿内から祭文殿の眺め。御祭神 / 大吉備津彦命 相殿 / 吉備津彦命、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、彦刺肩別命、天足彦國押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦大神、大山咋大神入母屋造り平入向拝付きの拝殿の南側からの眺め。派手さはないけれどシックな佇まいは、一ノ宮としての風格が漂います。訪れたのが3/23、この頃の境内の桜はちらほら、蕾が大きく膨らみ一気にスイッチは入りそうな感じです。拝殿から渡廊で「祭文殿」に繋がっていきます。祭文殿の先の「渡殿」ここから、本殿にかけてり神域は拝殿域より一段高くなるからか、渡廊はありません。「本殿」唯一檜皮葺で外研ぎの千木が施された流造の本殿、周囲を透塀が取り囲んでいます。背後の吉備の中山に巨大な天津磐座磐境を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。大吉備津彦命は吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てたのが始まりと言われ、その後佛教も入り、神宮寺や法華堂など伽藍は伽藍は51社を具えたと云われます。写真上本殿左の神域石の社は岩山神社の社。御祭神 / 建日方別命、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀り中山主神とも呼ばれるそうです。右の社は尺御崎神社で本殿両脇に二社が祀られています。御祭神 / 夜目麻呂命 夜目山主命吉備津彦命の従者がお祀りされていて楽御崎の2社と共に本殿を守るように配祀されています。 あたかも桃太郎さんと共に鬼退治をした猿、雉、犬たちが、今でもお仕えしているかのようです写真下楽御崎神社御祭神 / 楽々与里彦命本殿の両脇に祀られています、吉備津彦命の吉備の国平定の際に活躍した従者が祀られています。背後の吉備の中山には巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)があり、山全体が神の山として崇敬されてきました。吉備津彦命は吉備中山の麓の屋敷跡に永住し社殿を建てたのが始まりと言われ、その後佛教も入り、神宮寺や法華堂など伽藍は51社を具えたと云われます。拝殿脇のこの建物と社務所の間から境内を一旦出て、中山に続く参道に向かいます。境内から左に出ると、社殿と並行するように赤い鳥居が連なり、参道の先は「稲荷神社」に至ります。上稲荷神社に向かう参道から、流造の本殿の側面の眺望がきき、流麗な屋根の曲線が見て取れます下稲荷鳥居が途切れるあたりから左に、複数の社が現れます。それらの後方は山の傾斜を生かした段々畑で、その中に大きな石碑も建っています。上「温羅神社」御祭神 / 温羅の和魂 童話桃太郎で吉備津彦命と戦った温羅は鬼とされていますが、吉備の国に様々な文化をもたらし「吉備の冠者」の名を吉備津彦命に献上したとされ、温羅の和やかな和魂を祀ります。下「十柱神社」吉備海部直祖、山田日芸丸、 和田叔奈麿、針間字自可直、夜目山主、栗坂富玉臣、忍海直祖、片岡健命、 八枝麿、夜目丸の十柱が祀られている。上「牛馬神社」保食神を祀る。左後方の一段高い場所に「忠魂の碑」がありますが、この土台となる石も磐座ではないかとされています。 下「祖霊社」吉備津彦神社歴代社家の霊が祭られている。上赤い稲荷鳥居が途切れると石鳥居が現れ、参道は石段に変わり稲荷神社の社に続く。下「ト方神社」鳥居を過ぎた左手の斜面に鎮座する小さな社。御祭神 / 輝武命 火星照命「稲荷神社」石段を上り詰めた先の小さな境内に社があります。御祭神 / 倉稲魂命 五穀豊穣、商売繁盛、諸業繁栄、生産の神、この地方では最も早くから祀られたと云われます。本殿左はここまでにして、次に本殿右の摂末社に向かいます。本殿右からの眺め。流造りの特徴である、緩やかな曲線を描きながら、長く延びる向拝。良く三間流造とか耳にしますが、正面から見て柱が4本あれば柱の間が三つなので三間社と呼びます。柱が2本だと柱の間は一つしかないので一間社、身近で良く目にするのがこれが多いようです。上これも流造、柱は2本なので一間流造。本殿域右側の手前にある社は「楽御崎神社」御祭神 / 楽々森彦命赤い社の子安神社が右の高台に見えています。下本殿域右奥の社「尺御崎神社」御祭神 / 夜目山主命「楽御崎神社」と「尺御崎神社」は桃太郎のお供の猿、犬、雉の様に本殿左右に祀られています。ここから右に参道が続き子安神社へ続きます。参道を右に進むと正面に天満宮に至ります。「天満宮」御祭神 / 菅原道真公学問の神さまとして知られる菅原道真ですが、901年(延喜元年)に太宰府に向かう道中の道真が吉備津彦神社に立ち寄ったとされ、古くから天満神社が祀られていたという。元々の社殿は老朽化により、1909年(明治42)以降は他の末社に合祀されていたそうです。2005年(平成17)に新たな社殿が再建され現在の姿となっています。天満宮の左に石鳥居があり、そこから上に続く石段の先が先程の「子安神社」、右手には複数の社が祀られているのが分かります。手持ちの小銭も心細くなってきました。上鳥居から朱が印象的な摂社の「子安神社拝殿」を見上げる。祭神は伊邪那岐命、 伊邪那美命、 木花佐久夜姫命、 玉依姫命を祀ります。下横からの見た社殿全景古来より縁結び、子授け、安産、育児の神様として崇められ、神社周辺に生えるワラビを採り、夫婦で食べると子宝に恵まれるという伝承があるようです。子安神社の右に七社が整然と並び祀られています。一つ一つ参拝していきます。上段左から 下宮 / 倭比賣命、伊勢宮 / 天照大神下段左から 幸神社 / 猿田彦命、鯉喰神社 / 楽々森彦命荒魂 上段左から矢喰神社 / 吉備津彦命御矢、坂樹神社 / 句句廼馳神 下段 祓神社 / 祓戸神神聖な中山の杜の麓に佇む社の姿はここだけでも厳粛な空気が伝わってきます。天満宮、子安神社の社頭の前は参拝者駐車場となっていて、車の場合はここが便利で、左に進めば吉備津彦神社の大燈籠に続きます、社頭の狛犬に遭うには一旦戻る事になります。広い参拝者駐車場の外れには中山森造氏の手による桃太郎と家来のセメント像が東を向いて立っています。視線の先は神池に浮かぶ鶴池とその先に赤い電車が通り過ぎる長閑な光景があります。吉備津彦神社は歴史と風格のある一ノ宮に相応しい神社でした。訪れた当日はCOVID-19感染防止対策として、手渡しによる御朱印帳の記載を取りやめ、書置きに変更されていました。備前国一ノ宮「吉備津彦神社」創建 / 不明祭神 / 大吉備津彦命本殿 / 流造境内社 / 子安神社、天満宮、霧島神社、亀島神社、稲荷神社、十柱神社、牛馬神社、温羅神社、祖霊社、七つの末社など住所 / 岡山県岡山市北区一宮1043
2020.04.23
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コロナの影響は人の心にも暗い影を落とすようになってきました。周りを見渡せば相変わらずチンジャラは開いているし、そこを目掛けて見慣れないナンバーの車が駐車場を埋めている。小さな子供でさえ我慢しているなか、大の大人がこれでは子供に「我慢」とも言えない。子供は大人をよく観察し真似もするもので、「お父さんだってやってるでしょう」なんて言葉が返ってくると次の言葉に困ったもんです。こんな沈んだ毎日がいつまで続くのかねぇそんな淀んだ世間をひと時かも知れないけれど気を紛らわしてくれそうなイベントがある「ことざ流星群」が今夜ピークを迎えるそうな飛んでくるのは北東方向の琴座から、なので北東の空を見上げることになります少し寒いから、マスクして厚着で空を眺めて見よう見付けた人は願いをかけてほしい「早く収束するように」自然が作り出す一時のドラマはニュースや再放送を見ているよりは夢がある。実際のピークは明日朝、それでは見られないので見頃は23時以降となります空には飛行機も少ない、街路灯を避ければ願いをかけるチャンスはある我家も今夜はTVを消し北東を眺める事にします願い事は「早く収束するように」それしかない
2020.04.22
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2020.04.20
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香川県坂出市加茂町「幸神社」前回掲載した「鴨廃寺跡」からすぐ近く、北に徒歩2~3分の場所に鎮座。背後に見える緑あふれる山は烏帽子山、神社は山の南麓にあたります。ゆったりとした時間が流れる、牧歌的な光景の中、集落の外れに石鳥居と小ぢんまりとした拝殿が建てられています。境内の一部は公園?で遊具などもあり、車の往来もないので子供達は伸び伸びと遊べる。「幸神社」、個人的に馴染みがないので調べて見ました。地図からこの神社の建立時期を探ってみました、上がその結果で右が現在です。左は1984年の当地ですがここには鳥居の印はありません。地図上に鳥居が表れるのはこの後からでした。過去より小さな祠などの形で、集落の氏神として祀られていたものでしょう。「幸」とは「しあわせ」と読みたいところ、こうした社名の神社は瀬戸内海沿岸に複数あるようです。勝手な推測ですが、発祥は三宝荒神信仰が源で、その土地の先祖や同族神、屋敷神などを崇拝、その土地により、さまざまな神が祀られ、土地の氏神として継がれてきているのが幸神社で、「幸」は荒神の「荒」を表しているのかもしれません。いずれにせよ、集落のコミュニティーの中心で、身近な存在の神社なのだろう。社頭左に灯篭があり、細い生活道路を挟み拝殿があります。後方の烏帽子山は「東山」、西を流れる綾川も「加茂川」と呼ぶことがあるようで、なぜか京都に繋がります。保元の乱で敗れた崇徳上皇は、坂出市のあるこの讃岐に配流され、「雲井御所跡地」で仮住まいします。そこで京都を思い浮かべ、似た光景にそうした京の呼び名で呼んだようです。灯篭「天神社」で見かけたものと似ていますが一回り大きい。自然石を絶妙なバランスで積んだ素朴な灯篭。同じものはない。朝陽で赤く染まる鳥居から拝殿の眺め。鳥居は封鎖されていました。向拝が設けられた入母屋瓦葺の拝殿。素朴な外観ですが、瓦に施された飾りが目立たないところで存在感を主張しています。拝殿正面全景、拝殿に扁額はありません。鬼瓦には鯱がいる、大棟には龍がいて、蟇股には亀もいる。水と縁のある飾りが多く見られます。参拝させてもらい拝殿内を窺う。正面に本殿が見えます。拝殿右の小さな石の祠、詳細は分かりません。綺麗に手入れされた境内は訪れたものには気持ちがいいがいいものです。社殿横からの眺め。拝殿から本殿はコンパクトに一つに纏められています。隅巴の瓦に鯉が描かれています。これも水絡み。社殿後方から外研ぎの千木と2本の鰹木が施された本殿の眺め。木鼻にも彫飾りは施されています。裏から見る拝殿の大棟には虎の姿があり、縁起のいいキャラがあちらこちらに描かれています、立派な屋根だ。建立や祭神など何一つ分からない小さな「幸神社」ですが、田園地帯の集落で氏子に支えられ佇む姿は見た目以上に大きなものに見える。「幸神社」 創建 / 不明 祭神 / 不明 住所 / 香川県坂出市加茂町 車アクセス / 高松自動車道「府中湖スマートIC」から県道184号線⇒県道18号線⇒坂出・丸亀バイパスを超え県道180号線経由。 所要時間約10分程
2020.04.19
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宝生寺 『秋葉社・御嶽神社・笠松と権道路』宝生寺の東に写真の様な宝生寺尾張えびすの案内板が掲げられています。こちらを右折し桜並木の続く坂を上っていくと秋葉社、御嶽神社、尾張えびす大黒社方向に続きます。この道は宝生寺の参道、南に緩やかに上るこの坂は、宝生寺参拝者駐車場を経て標高100㍍そこそこの小高い山の頂に続きます。坂の途中より北方向の宝生寺と西本地方向の眺め。訪れたのが3/29、参道脇の桜が見頃を迎えていました。参道脇には淡いピンクの山ツツジもちらほら、その先に見える小さな社が秋葉社。更に進み社頭へ向かいます。坂を登り切ると視界も開け、丘の頂となり正面に大黒社(後日掲載します)の境内が広がります。目的地『秋葉社・御嶽神社・笠松と権道路』はその手前の左側になります。社頭全景。石段の左に秋葉三尺坊大権現の石標、そこには「本堂前の高台から移転、平成9年」と書かれています。右側には笠松と権道路の解説が立っています。石段を上った境内右に御嶽神社と彫られた自然石の石標。社頭の「長久手合戦史跡 笠松と権道路」解説、それによれば「笠松のいわれは、今から約400余年前の天正12年(1584)、徳川家康と羽柴秀吉との長久手合戦の際、徳川家康が此処に本陣をおいたとき、冠笠をこの松の枝に掛けて休息したところから、この松の名を笠松と呼ぶようになった。この時鉄砲の音、戦場のどよめきは岩崎城を望見した家康は、急いでそれまでの陣笠を兜にかえ、御嶽山を降りて駒前から本地川を渡り山道を通って岩崎村の色金川に向かった。この参道は後年家康が通ったということから、権現様の道即ち権道路と呼ぶようになっている。」400年以上前の松で当時で冠笠を掛けれる程の老木が今も残っている?松の寿命がどれ程なのか知らないけれど、400年+αの樹齢を持つ樹は貴重なのかもしれない。社頭からそれらしき老木の姿は見当たりません。取り敢えず先に進みます。石段の中ほどに「笠松」の解説板がありました。その後方に斜めに伸びる一本の松、家康が笠を掛けたとされる「笠松」とはこれを指すようです。外見から判断せず、この枝に家康の笠が掛けられていた光景をイメージしよう。大黒社の境内から西に広がる光景は、解説にある本地川や遥か先の岩崎村方向の眺望が広がりその名残を留めています。海原に浮かぶ島のようにポツン〃と点在する小高い山、鉄砲の音も聞こえるだろうし、合戦旗も良く見えた事だろう。石段を上り切り境内に、左に秋葉山常夜灯と奥に本殿。フェンスで囲われた常夜灯は本殿前の物と比較すると新しい様に見えてしまう。解説によれば「1795年(寛政7)、旧西原山島(現在の西原町)に建っていた、敷地が道路用地となる事から、1989年(平成元年)にこちらに移転」とあります。西原町の道路用地とは?恐らく現在瀬戸川に架けられた狩宿橋がありますが、その右岸に県道208号線が東へ整備されています。その事を指しているのではないか思います。過去の地図で狩宿橋から東一帯の秋葉社を探してみましたが具体的な場所までは分かりませんでした。この秋葉さんは現在の西原町一帯の火伏を担っていたのでしょう。境内左に祀られる本殿の全景。傍らに平成9年に寄進とある。社頭の石標に書かれていた「平成9年、本堂前からこの高台に移転」と符合します。常夜灯の解説では「西原町から移転」とあるけれど、この社は二回移転しているのかな?勧請年度は不明。境内中央が「御嶽神社」右に立派な御嶽神社の石標、お堂の脇には半鐘が吊られています。こちらの建立時期も分かりませんでした。神道十三派の一つで霊峰御嶽山を信仰の対象とし六根清浄と唱えながら登拝する山岳信仰。祭神は国常立命(御嶽山座王大権現)、大貴己命(八海山堤頭羅神王)、少彦名命(三笠山刀利天王)。冨士山を対象とした冨士講と並ぶ講社の一つで多くの信者から崇拝され、人は御嶽に生まれ死後は御嶽に戻り修行を続け、霊神号を授かった行者は霊神碑と共に神格化され崇拝されるようです。御嶽神社で見かける霊神碑はお墓ではなく、家族や祖先を思いしのぶ意味で建てられたものです。こうした霊神碑、近くでは岩作の御嶽山に行くと無数の霊神碑が建てられていますし、木曽の御嶽山にはそれこそ数えきれないほどの碑が立ち並んでいます。上段お堂脇の半鐘は「幸せの鐘」と呼ぶようです。参拝をする際に鳴らしていいのかよく分からないのでやめましたが、どんな音色がするのか気になります。下段左 水天宮の碑右 御嶽御三神の一つとなる三笠山刀利天宮の碑お堂の左右に祀られた不動明王と馬頭観音。どちらもしかめっ面、たまには表情も緩めないと疲れるぞ。お堂の左側には摩利支天と複数の霊神碑。この丘の北には瀬戸の街並みが広がりますが、遥か彼方には霊峰御嶽が見えるはずです。ここはそこに戻った彼らと出会う特別な空間なのかもしれません。今頃は桜も終わり、木々の緑が鮮やかなころではないかな『秋葉三尺坊大権現・御嶽神社・笠松と権道路』住所 / 愛知県瀬戸市駒前町アクセス / 八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺⇒『秋葉三尺坊大権現・御嶽神社・笠松と権道路』宝生寺から徒歩5分程
2020.04.18
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香川県初日の朝ごはん「讃岐うどん」を食べに坂出市加茂町を訪れた、開店までの待ち時間に歩ける範囲で天神社を訪ねたけれど、戻るにはまだまだ早い、グーグル先生に尋ねると「鴨廃寺跡」を勧めてきた。天神社から5分程なのでもうひと歩きしてみました。天神社の東を走る道路を左へ進む。この辺りは古墳群があるようで、「穴薬師古墳、サギノクチ古墳」等の案内板が見られます。看板から右に進み生活道路を歩いて行きます。用水脇に祀られた石仏や石塔が並んでいるのを見つけここで足を止める。用水には石橋が架けられ間近によることができるようです。彫られた像は風化し、姿ははっきりしません。右手に錫杖を持つ地蔵菩薩のようにも見えます。もっと近くに寄りたいところですが、後ろは用水、これ以上近寄ると多分落ちる。諦めよう。用水脇でここを通る住民を見守っているようにも見える。地蔵に見守られ用水沿いの生活道路を進む。すれ違い不可能なこの道を、地元の方は普通に車で通り過ぎて行きます。街中であれば一方通行だ、乗用車侵入禁止だ、と色々必要になるだろうし、便利でもあるが不便でもある。そんなものなくたって成立しているのは、町から来た自分たちは考える必要があるかも知れない。「思いやりの道」と勝手に命名しよう。思いやりの道から消防団の半鐘が吊られた火の見櫓で右に進みます。道端には赤やピンクの花も咲き歩いていても退屈しない。集落は続くけれど道路事情はどこも同じ、狭い。集落の周囲はすぐに田んぼや畑が広がっています。この辺りは東西に山が迫り、その間を綾川が流れ綾川平野が広がります。古墳が点在するように、豊かな土壌は古くから農耕に適した土地柄で人が生活していたようです。この辺りに讃岐国府ができたのもそうした地形もあったのでしょう。田園風景を眺めながら先に進みます。やがて田んぼ脇の墓標と傍らに案内板が現れます。ここが「鴨廃寺跡」。何もない、跡なんだから当然か。解説は以下『鴨廃寺』この田んぼの中にある大きな石は、塔の心礎(塔の柱のうち、中心に位置する心柱を支える礎石のこと)と考えられ、かってのここにお寺があった事を示しています。このお寺は地名から名前をとって、鴨廃寺と呼ばれており、7世紀後半から8世紀初頭頃に建立されたものと考えられます。鴨廃寺から15㌔圏内には同様の古代寺院が他に二つ(開法寺と醍醐寺)ありますが、こうした狭い範囲にこれだけの古代寺院が存在するのは県内でも珍しいことです。また鴨廃寺周辺からよく見つかる古代の瓦の中には、開法寺で見つかったものと同氾(同じ型を用いて造った)の瓦があり、両寺に深いつながりがあったことが推測できます。心礎の中央には穴(径39㍍、深さ11㍍)が見えますが、実はその周囲にもごく浅い円形の彫り込み(径70㌢)があり、心径はここにも据えられていました。地元ではこうした古代寺院としての性格とは別に、この石の穴の中に溜まった水を塗るとイボがたちどころに治るという伝承があり、「イボガミサン」として親しまれています。』ここで書かれている瓦とは八葉複弁蓮華文軒丸瓦と呼ばれ、綾川平野では平安時代末期まで須恵器生産地だったようです。一帯にこの瓦が見つかるのも綾川の水運がもたらしたようです。鴨廃寺を含めた古代寺院の建立は白鳳時代の後半には開始されていたようです。現在はそれらの多くは痕跡が残っていないようですが、大規模な伽藍を持っていたようです。無くなった理由等もよく分からない。朝ご飯で立ち寄ったところではあるけれど、興味深い場所です。・・・・・でどこに礎石があるの?それは長閑な田園風景と眺めていた田んぼ、その中にポツン残る岩があるけれどそれが礎石。なんで田んぼの中に岩があるのか気にはなった、「余程地中深く埋まった岩で開墾できなかったのだろう」とかね。過去を知る所有者が敢えて留め、伝承とともに語り継いできたからなのだろう。普通ならさっさと取り除く代物だ。写真の左、田んぼの中に忘れたように置かれた石が礎石。田んぼに入り込むのも気が引けるので、めいっぱいの望遠で寄ってみるも中央の穴や外周の彫り込みは見えない。田んぼの中に一つだけ取り残された礎石、そこから想像を膨らませるか。「鴨廃寺跡」住所 / 香川県坂出市加茂町がもう⇒天神社⇒鴨廃寺址
2020.04.15
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2020.04.14
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瀬戸市駒前町171本地大塚古墳南側の通りの光景です。近くに「本地会館」停留所があり、瀬戸市コミュニティーバスが運行されているようです。バス路線がある事を初めて知りました。この辺りから南を見れば小高い丘が迫り、その中ほどに大きなお寺さんが見えています。「駒前1号古墳」と呼ばれる古墳(残存していない)のあった宝生寺がこちら。停留所付近の道路沿いにあたりに、宝生寺寺号標があり、そこから丘に続く車道が伸びています。丘の中ほどの道路右側に、大きな自然石に寺号が刻まれています。左は山門へと続きます。山門に続く参道脇に「山門禁葷酒」の戒壇石が建つ。「さんもんきんくんしゅ」とは修行の場なので「酒や餃子の香りが漂う者は入ってくるな」ということです。今日は酒は飲んでないし、大丈夫。直線的な瓦屋根の四脚山門。右手の斜面に幾つか碑が立っているようです。境内左に見頃を迎えた桜が彩りを与えてくれています。山門額に書かれた文字は達筆すぎて悲しいかな読めない。山門から境内の眺め。桜の先に鐘楼、その先にお堂と本堂、書院?が並んでいます。正面には庫裏、右手奥に小さな社も見えています。その社の前に枝ぶりのいい桜、風が境内を抜ける度に花弁は散り始めています。山門右の斜面に「本地幸せ観音」や忠魂碑等が纏められています。町を見下ろす高台に建つ平和の鐘。山門脇の桜と鐘楼の鬼瓦、そこに紋が入っています、輪宝の様に見えなくもないか。地蔵堂。入母屋妻入りの地蔵堂は境内の伽藍の中では最も新しい、2018年に再建されたものです。地蔵堂に掲げられた扁額も新しい。新しく綺麗な堂内には5体のお地蔵様「雨降り地蔵」が安置され、寺にはこのお地蔵様に纏わる言い伝えが残るそうです。『雨降り地蔵 宝生寺狛前町。今から370年ほど昔、名古屋城を作っている頃のお話です。ある日の事、本地の宝生寺のお寺の下あたりで運んできた大きな石が車から落ちてしまいました。おちた石を車に乗せようとしましたが「重くてとても運べません」、「もう腹が減って動けません」と百姓たちは汗を拭きながら云うばかりで石はどうしても動きません。そこで石を運ぶのを諦めそのままにしておきました。しかし、このままでは目立つし、邪魔になるので何とかできないものかと庄屋さんを中心に相談を始めました。すると仲間の老人が「この石を石屋に頼んでお地蔵様の姿にしてもらったらどうたせろう」云いました。「それは良い考えだと」みんな相槌を打ちました。宝生寺境内の境内にお祀りしてあるのがそのお地蔵さんだと云うことです。毎年8月23日の地蔵祭の日に必ずと言っていい良いくらい雨が降るそうです。そこで人々はいつのころからか、この地蔵さんの事を「雨降り地蔵」と呼ぶようになりました。また、このお地蔵さんに雨乞いすると雨が降ると云われています。』農村を潤す雨、降る、降らないは農民にとって死活問題です、「祭の日には雨が降る」。表情は分かりませんが、この地蔵は村人を守護する不思議な力を持っているのでしょう。入母屋瓦葺で向拝が施された本堂、白壁と木が作るコントラストは美しい。本堂正面、安定感のある佇まい。佛法山宝生寺は曹洞宗のお寺。開創は1632年(寛永9)、雲興寺15世興南義繁により開創されようです。その後に現在地からすぐ北側の西本地町1丁目あたりへ移転、雲興寺25世全山紹道により佛法山宝生寺として開山されます。そこはすぐ北に赤津川が流れています、1720年(享保5)に赤津川は氾濫し一帯に大きな被害を与えたそうです。それは宝生寺にも甚大な被害をもたらし伽藍を流失したようです、それにより少し高台の現在地へ再び移転し現在に至るようです。自然は時に試練を与え、それを教訓として人は学んでいきます、ここならば二度と災いはないでしょう。こうした事が起きた場所には、それを伝える碑や地名として残ったりするものですが、技術の発達や町村統合に伴いそうした先人達の警鐘が薄れてきている。本堂山号扁額。本堂内の眺め。本尊は観世音菩薩。宝生寺の前進は、赤津川と瀬戸川が交わる辺り、現在の西原町で弘法大師を本尊としていたともいわれます。本堂の向かいにお地蔵さんと小さな社、大小のかわいい河童の置物が幾つも置かれています。社は弁天社の様で、後ろには小さな弁天池があり水を湛えています。河童は水の神としてお祀りされているのでしょう。ご利益は芸事、家門繁栄、商売繁盛。本堂前の一本の桜は「淡墨桜」、ベンチに腰掛け見事な桜をしばし眺める。ソメイヨシノに比べると開花時期が早いのか、風が通り抜ける度に白い花弁が舞い散り、終わりを迎えていました。右に赤い前掛けが掛けられた六地蔵と子安観音が祀られています。六地蔵から見る境内、散り急ぐ薄墨桜の花弁でベンチは白く染まろうとしています。こちらのお寺では盆踊りや花火の打ち上げイベント等も行われ、地域住民にとって身近な存在です。東側から宝生寺と西本地町方向の眺め、住宅地のように見えますが、雨降り地蔵を必要とした面影はまだまだ残っています。手前のソメイヨシノと境内の淡墨桜、こうして見ると色合いは随分違うものですね。桜並木の坂を上っていくと御嶽社、尾張えびす大黒社に至ります。宝生寺宗派 / 曹洞宗山号 / 佛法山開創 / 1632年(寛永9)本尊 / 観世音菩薩住所 / 瀬戸市駒前町171車アクセス / 本地大塚古墳から2分程八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺
2020.04.13
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香川県坂出市加茂町「天神社」町名の由来は京から勧請した東加茂神社、西加茂神社がある事から、その社名が町名になった様です。西を流れる綾川の少し南には讃岐国府跡もあり、古くからこの地方の中心地だったようです。朝ご飯で立ち寄った讃岐うどん「がもう」、その開店前の時間を利用し長閑な周囲の光景に魅かれ歩いて見ました。人並の中に身を置きたくなかったのも理由かもしれない。駐車場から伸びる小道を少し南下しただけで周囲は緑も鮮やかな麦畑に変わります。畑の遥か先には烏帽子山や霊峯五色台が間近に迫っています。さわやかな朝を迎えた静かで長閑な田園風景が広がります。前方を県道180号線が左右に伸びているけれど交通量も少ないようです。穂が出て間もない麦畑の先に小さなお堂が見えてきます。グーグル先生が教えてくれた「天神社」です。「天神社」の詳細は全く分かりませんでした。それで終わりたくないので100年前とほぼ現在の地図から比較してみました。結論から言えば小規模である事から、明治39年の地図で存在は見つけられませんでした。西を流れる綾川がもたらした土壌を生かし、当時の加茂村一帯は一面に田畑が広がり、そこに集落が点在する農村地なのが分かります、「天神社」が祀られているのは集落の北外れ。現在は住居の数も増え、田畑には新たに道路も整備されながらも、農村地の光景を留めた環境は、宅地開発され家屋が軒を連ねる町に住む者から見ると羨ましい限り。朝陽に赤く染まる天神社。畑の一部を整地してお堂が建てられています。入母屋瓦葺の手入れされたお堂、長閑な周囲の光景に違和感なく溶け込んでいます。集落の中に祀られた身近な存在なのが伝わってきます。周辺の道は、車だと都会の守られ過ぎた道路事情の様に一方通行、対面通行、ガードや側溝の蓋などはないので、譲り合う気持ちと本来の運転をしなければ、側溝や田んぼに落ちるかも。駐車余地も全くありません。「がもう」から歩いて5分ほどで堂前に到着。そこで一際視線を引きつけたのは、朝陽で赤く染まる石灯籠。綺麗に形作られた灯篭にはない、自然石を生かして積まれた素朴な灯篭は、赤く照らされた色合いのように温もりが伝わってくる姿です。竿に当たる部分には明治19年(1886)と彫られています、やはり地図には落とされなかったようです。手水鉢は灯篭の9年後に奉納のようです、いつ頃から「天神社」はここにあるのかね。グーグル先生によれば「天神社」とあります。だとすると菅原道真を祀っているということでしょう。天神社は「天神信仰」から来ているようで、もとは田畑を潤す雨をもたらす火雷神を祀っていたようですが、冤罪をかけられ九州に送られ、後に他界した菅原道真の怨念が、清涼殿落雷事件で画策した者に災いをもたらしたとする伝説があり、いつからか道真が天神様とされるようになったとか。天神様なら牛の姿があっても良さそうなものですが、外観も、参拝後に窺った堂内も小さな社は見えますがそれを感じさせるものは見つけられませんでした。そんな天神社ですが堂内は綺麗に維持され、人が出入りされている様子。地域の住民をつなぐ役割を担っているようです。天神社の東方から西の眺め、こちら側も綾川の先には山が迫っています。讃岐国府跡は右手の綾川上流方向に車で5分程のところにあります。牛は見落としているのかなぁ、必ずしもつきものではないでしょうが気になる。畑の脇に植えられたこの木、桃の様にも見えるけれど、桃色に膨らんだ蕾の一部は花を咲かせていました。讃岐の麦畑の中で出会った小さな天神社は赤く染まっていました。天神社創建 / 不明 祭神 / 菅原道真住所 / 香川県坂出市加茂町車アクセス / 高松自動車道「府中湖スマートIC」から県道184号線⇒県道18号線⇒坂出・丸亀バイパスを超え県道180号線経由。 所要時間約10分
2020.04.12
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本地城址から車で東へ2~3分、徒歩でも5分程あれば「本地大塚古墳」です。北を流れる赤津川の左岸に当たり、肥沃な土壌に恵まれた田畑が広がります。田畑の間を走る細い通りに写真のような案内板があり、こちらを目印にするか、保育園を目標にすれば古墳への入り口に辿り着けるはずです。古墳と聞くと「こんもり」とイメージしがちですが、それを思い描いて歩いていると見つけにくいかも。さっぱり見かけなくなったレンゲの花もこの辺りでは見ることができます。畑を肥沃にするレンゲも化学肥料に取って代わられ、一面レンゲ畑の光景を見ることも少なくなりました。ピークを過ぎ、あのピンク色も色あせて白っぽくなっています。北側の保育園と南側の資材置き場の間に本地大塚古墳の入口があります。保育園のフェンスにも小さな案内板があります。古墳はどこだ?小路の先を塞ぐように「本地大塚古墳」の解説板が現れるのだが、「こんもり」はどこよ?「本地大塚古墳」解説「瀬戸市内に残された最も古く、最大の前方後円墳である。 この土地では「誉牟治別命」の墓という伝説があるが、昭和40年の発掘調査では、その実証となる資料は得られなかった。同51年、瀬戸市の文化財(史跡)に指定された。出土遺品1.須恵質円筒埴輪 高さ40㌢余り 2.須恵質形象埴輪 水鳥・馬・人・家など 3.須恵器 蓋坏・高坏など成立年代この古墳の成立は、出土品から推測すると5世紀末から6世紀初め頃と考えられる。 その後市内に盛行する群集墳に先行するものである。前方後円墳の規模1.中心軸の長さ 33㍍ 2.円部の直径 22.5㍍ 3.方部の幅 11.7㍍」解説にある埋葬者の「誉牟治(ほむじ)」が本地村の由来となったともいわれるようです。群集墳とある様に、ここから少し南の高台に建つ宝生寺の境内地にも「駒前1号古墳」と呼ばれる古墳(残存していない)もあり、一帯には古墳が結構築かれたようです。こうした古墳からの出土品は「瀬戸蔵ミュージアム」で見ることができるようです。本地大塚古墳、後円部(後)から前方方向の眺め。仁徳天皇陵(今はこう呼ばないらしい)のイメージがあるけれど、こんもり部分は過去の開墾で削られてしまい、前に当たる台形の部分も短く、仁徳天皇陵の形をイメージして訪れるとギャップがあります。古墳の前から後方の後円部の眺め、右後方の高台が宝生寺になります。城址があり、古墳も残り、寺社がある、ここから北の庄内川付近に行けば水晶も見付けられる、面白い地域です。本地大塚古墳、古墳の主は分からないけれど、こんもり部分の一本の桜が手向けるように見頃を迎えていました。2020/04/05「本地大塚古墳」公共交通機関アクセス / 名鉄バス基幹バス「尾張瀬戸駅」行、「本地」下車、南東へ徒歩5分程 住所 / 瀬戸市西本地町1-109
2020.04.10
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岡山県赤磐市備前国一ノ宮 石上布都魂神社中国自動車道を西へ「見作」ICまで軽快にドライブ、それもそこまで、ここから国道374号線と国道484号線、県道255号線、県道468号線と下道で山越えです。ここまで燃費が良かった愛車、燃料計の動きは速い。細い県道もなんとなくピークを越え、アクセルを踏まなくても車は勝手に走る。これなら燃費も稼げるなと思い始めたところで石上布都魂神社の大鳥居が現れる。長閑な山間の県道沿いに真新しい鳥居と社号標だけが立っている。鳥居から先の谷筋に山道が延びてはいるが参道を感じさせる趣きは全くない。奥には少数ながら駐車場があるらしい、車で細い山道を登ります。対面通行の山道、なので幅寄せ、バックに慣れていないと苦労するかもしれません。下からは見えなかったけれど、登り始めて直ぐに道路脇の大きな杉木立中に鳥居が現れる。駐車場はまだこの先、車を停めてから撮りに戻ってきました。銀ピカの布都魂(ふつみたま)神社解説板が用意されていました。奥の院まで行かないと始まらないようです。道路脇の杉木立には趣のある石灯籠と鳥居があります。駐車場はまだこの先の様です。周囲は見ての通り、見渡す限りの山、そこを地道に切り開き棚田が点在する。人のエネルギーとは凄いものだ。このように不便な場所に一之宮がある事にも驚く。私達はこの写真の下にある第二駐車場に駐車、かみさんは先に神社へ、自分は鳥居に戻り写真を撮った後で境内で合流する事とした。第一駐車場の前から、山の頂に続く表参道入口。写真を撮り終え、下から急ぎここまで登ってくるだけで結構息が切れるものがある。こうした入口で楽なところがあった試しがない、ましてやこの雰囲気は何か長い🐍が出そうな予感。ここは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った時の剣「十握剣」を祀った神社、途中の国道から少し山に入れば「血洗いの滝」と呼ばれる滝があり、ここで血染めの剣を洗い清めたとされます。嫌な予感を抱きながら舗装された坂を登り始める。楽ちんだった坂道はすぐに石段に変わる、予感的中です、これが何段あるのやら。石段に変わってから手水舎が現れるまでは意外に早く、入口から5分程です。左上には常夜灯も見えています、意外と大した事はない。境内に続く最後の石段の脇に手水舎、手水鉢。龍口からは絶え間なく清水が注がれています。しかし、COVID19の感染防止対策から手水作法を控えるように注意書きが貼られています。このご時世、下手に物には触れられない、当然でしょうね。最後の石段の先には拝殿も見えています。有難いはずの手摺もこの時期は素手で触れるべきではないのかな。こんな心配がいつまで続くのだろう。登り始めに付けていたマスクはメガネが曇り足元が見えなくなるので人に出会うまでは外す。新鮮な空気を吸い込み最後の石段を登り切る。山の中腹を切り開いた境内は意外に広い、狛犬が守護する先が石上布都魂神社拝殿。境内の参拝客は我が家だけの様です。かみさんは参拝を済ませ、境内左にある奥の院へ続く参道に向かっています。石上布都魂神社唯一の狛犬。ぴんと背筋を伸ばしたその姿、なかなか貫禄がある。綺麗な台座には昭和42年とありますが、狛犬は随分と老けて見えるのは気のせいか。入母屋瓦葺で大きな向拝を持つ拝殿は木の質感を生かしたシンプルな外観。拝殿右の軒下に小さな社が祀られています。まずは参拝。COVID19対応で鈴も使用を控えるように張り紙がされています。拝殿内の眺め、鏡が光り輝いています。軒下の小社は社名札はなく、詳細は不明。拝殿横から外研ぎの千木、鰹木が施された流造の本殿の外周を見て廻ることができます。破風尻等に飾りはなく見た目はシンプルな外観ですが、向拝柱に繋がる海老虹梁の曲線や彫飾り、梁に施された彫飾りなど目立たないところで装飾が施されています。上は本殿右、下が左の妻を見上げる、鶴と亀の姿が彫られています。木鼻などは彩色されていたのか、名残が見られます。岡山県神社庁でこちらの由緒を以下の様に紹介していました。『当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡6座の内の1社である。備前国総社神名帳128社の中で正2位と記されている。古くは書紀一書に「其の蛇を断ちし剣をば、なづけて蛇之麁と日ふ。此は今石上に在す。」また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記している。「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らかなり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されしと見えず。(以下略)」 寛文9年備前藩主池田綱政が山頂磐座に在った小祠を造営復興し、延宝2年「社記1巻、社領20石」を廃藩まで奉納した。他に「備前一宮」として、今日「一宮巡拝」等で参拝者が増えつつある。山頂の社殿は明治43年火災に遭い現在地に移す。昭和20年「県社の資格有り」と認めたれた。現在拝殿は平成5年改築』1910年の火災で焼失以降、山頂から中腹の現在地に再建された様です。本殿に比べ拝殿の傷みが少ないのは近年の補修によるものです。明治時代まで、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていたようで、1870年(明治3)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれ、それを祀ったのが創始と伝えられているようです。その剣は崇神天皇の時代に大和国の石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)へ移されたとされ、石上神宮の社伝にも記されているそうです。1874年に石上神宮禁足地の発掘調査で、それらしき剣は実際に発掘されたようです。血洗いの滝といい、出雲神話の八岐大蛇の伝承地の一つである。創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊 布都御魂本殿 / 流造御神徳 / 学業成就, 安産, 癌封じ, 農業振興拝殿右に境内社の稲荷神社。稲荷神社の詳細は不明。境内の左に寺務所とその奥が授与所。下は授与所内の光景、宮司さんは常駐ではないので、運良くお見えであれば直接書いて頂けるようですが、通常はこの御朱印自動授与機から書置きを頂きます。なかなかの最新システムですが、参拝日は自分で書き入れることになります。山頂の本宮・磐座へは拝殿左の舗装された「意思の坂道」を登っていきます。54段の石段があり、高齢の方が杖なしで登り切ったとあります、ここは杖なしで行かねば。入口には10分程とあるけれど、たかが54段で10分?それほど甘くはない、54段を過ぎるとこんな感じ。ちょっとした低山トレッキングの様相、結構息が切れる。そんなおやじに道すがらの「命様」が微笑んでくれるが、息は切れ、微笑み返す余裕はない。上の写真は「命様の磐」、参道にはこうした見所が何カ所かあり、一休みしながら大松山の頂を目指す。やがて先の斜面に鳥居が現れればあと少しの辛抱。杖なしの高齢者に負けてはなるまい。ここで上から下りてきたかみさんと出逢う、「どう?」と聞くと「あと少し、上には小さな社と磐座があるだけ」と言い残し御朱印自動授与機に向かっていった。本宮鳥居から先は再び石段が続く、その先には陽光が降り注いでいるのが見える。鳥居の先の石段は「迫龍の段段」と呼ぶようです。残りは44段+18段。44段を上ると本宮が視界に入ってくる。足す18段とはこのことを云っているわけだ、視界の先から森は消え、空が広がっています。本宮の手水鉢、水の入ったPETボトルは清水なのかな?1669年(寛文9)岡山藩主池田光政が山頂の小祠を復興、1710年(宝永7)2代藩主池田綱政創設した当時の伽藍を描いた絵図が掲げられています。跡地に看板も建てられ、絵図を元に当時の伽藍をイメージする。この頂きにこれだけの伽藍を作ったとは、目的持った時の人のエネルギーは凄い、それも焼失してしまったのは残念。足す18段登ってみよう。本宮跡地に祀られる小さな社、その後方が原点ともいえる磐座です。社殿は焼失し、中腹に移ったけれど、磐座と小さな社のみとなった今の姿は、ある意味始まりの姿なのかも知れない。巨大な岩が横たわり、右側には社のような岩も見られます。一帯は禁足地なので、ここまでです。静寂漂う山の頂、何かがいる、そんな雰囲気が漂う不思議な空間です。鳥居の近くで見かけた方位板、木々が迫り意外に眺望は効かない。さあ、かみさんが待っている、ゆっくり慌てて下山しよう。下の鳥居から本宮までの登りは運転手にはやや足に来る。意思が求められる山道かもしれないけれど、それだけの価値はある。備前国一ノ宮 石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ)創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊 住所 / 岡山県赤磐市石上字風呂谷1448車アクセス / 中国自動車道「見作」IC、国道374号線と国道484号線、県道255号線、県道468号線を経由50分程
2020.04.09
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今年は仕方あるまい。知名度のある所に行きたいけれど、流行の拡大に加担しそうでいけない。現状の結果は一人〃の行動の結果。三密を避けての寂しい花見。桜には罪はない、人のいない場所で散りゆく桜を見に外の空気を吸いに出かけてきました。途中のスーパーで花見酒のつまみとして焼き鳥屋で列に並ぶ。昨日は陽気もよく焼き鳥屋は大賑わい。大半の人はマスクをし、一定の距離を取り列を作る。 感染防止、拡大抑制の当然の行為だと思う。おやじも同様だ。空気が読めていないのか、マスクもしないで、ピタッと後ろに付かれ、咳込まれると気持ちは宜しくない。 やはり拡大は止まるまい。皆感染するしかないようだ、こうしたお店は可能な限りの対策をしているのが見て取れる。過敏になりたくないけれど先程買った缶ビール。これとて人の手を介している。それこそ作るところから始まり、店頭に並び、自ら口にするまで過程と個人の意識は目には見えない。見えない相手は結構根性があるようなので、安心の担保はなにもない。こんな相手と付き合うには個人の意識しかあるまい。こうして焼き鳥を食べ、ビールが飲めるのも、店側の配慮と買う側の配慮があってのもの。一心同体だ。自粛から「禁止」と云われる前に個人が三密を避ける意識と感染させるかもの配慮があれば今の相手の勢いは衰えていく。壇蜜は避けたくないが、予防策が確立されるまで、三密回避と自己管理、自然が人に与えた課題なのかもしれない。抜本的な治療法がないのだから、意識と行動が伴わなければ次の相手が訪れる。その都度支援〃では、見た目しっかり浮かんでいる大きな船は傾く。過剰な買い溜めはしない、人と接するときはマスクと手洗い、これを実行し普通に生活する。あべのマスク早くほしいものだ。ああ、懐かしい面々と赤ちょうちんで飲みたいものだがここは我慢我慢。家の居酒屋「かみさん」で一杯やるか。「なんて年だ」サクラもそう思っているかもしれない。明日は会社かア普段の「お元気で」の言葉が妙に新鮮に感じてならない、自粛するかア
2020.04.07
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瀬戸市西本地町2丁目西本地の「八幡社」から緩やかに上る農道を南へ、田畑の中を東西に横切る国道363号線を超え、田園地帯の集落の中に『本地城址』があります。周囲はこうした風景が広がり、田畑の中に集落が点在します。その集落の中の小さな森が『本地城址』の目印です。上は本地城址から南の風景。本地城址から西の眺め、右手の土手は国道363号線、かつての田畑はショッピングセンターや集合住宅に姿を変えています。上は昭和43年頃の当地と随分宅地化が進んだ現在。それでもまだまだ、田畑が広がる田園風景が残っています。そうした中に1本の大きな木が聳えています。目的地本地城址はその下になります。この地にかつて城があった、それを思わせる痕跡は現在全く残っていません。唯一それを伝えるものは「松原平内公本地城址」と彫られた石標が建っているだけです。解説板なのか掲示板なのか分からないけれど、そこには何も情報はありませんでした。この城は松原一学の弟松原平内の居城として築かれましたが、1482年(文明14)に品野の長江利景と今村の松原広長の間で起きた安土坂の戦いで平内と広長ともに討死、それにより松原家は衰退、本地城も廃城の道を辿っていき、城跡は農地に変わっていったようです。城の痕跡は残ってはいないですが、こちらには年代不明の石灯籠に複数の社、龍神碑が祀られています。覆屋の下に祀られている二つの社。3本の柱で支えられた石灯籠、彫られた文字は読み取れませんでした。2社ともに扉が開けられ、左右共に津島神社のお札が収められています。もともとここに二つあった社ではないかもしれません。城址に大きな楠木?が一本聳えています。丸い樹形の巨木は、まるで覆屋のように城址の上に枝を張っています。こうした巨木には何かが宿るものです。立派な幹の脇には一つの社と左右に石碑があります。手前の柵で囲われた部分、これは周辺の開発が進む以前には、集落に水を潤していた昔の井戸跡。井戸は現在は枯れてしまっていますが、その脇の石標には水を司る龍神と辡戝天と彫られた碑が残っています。正面奥の社は社名札が掲げられていますが文字は消えてしまっています。集落に必要なものと云えば火伏の神がつきものだと思うけれど詳細は分かりません。左の屋根の付いた石柱には正面に座像が彫られていますが姿ははっきり分かりません。光背があるようでないような、金剛杵を持っているようにも見える。いずれにせよ、最近のものではなさそうです。城の痕跡は残していないけれど、ここには昔の集落の生活の名残と、そこから生まれ引き継がれてきた守り神が残っています。『本地城址』と津島神社公共交通機関アクセス / 名鉄バス基幹バス「尾張瀬戸駅」行、「本地」下車、南西へ徒歩5分程住所 / 瀬戸市西本地町2丁目
2020.04.06
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四国の一之宮巡りに訪れて車中泊した道の駅「うたづ臨海公園」そこから朝ごはんの讃岐うどんを食べに坂出市加茂町の「讃岐うどん がもう」へ。道の駅からは県道19号でとても車線も多く快適な国道11号(坂出丸亀バイパス)を経由し坂出市府中方向に向かい、「坂出加茂町」信号を左折し1~2分程走った左の畑の先に大きな駐車場があります。本場の讃岐を食べるのは初めて、SNSで美味しいと評判だったのでここを選びました。到着したのが7:30、開店1時間前に既に店の前で腰掛けて開店を待つ客の姿。広大な駐車場にポツンと車が集まってきました。我が家は3番手。周囲は畑がひろがる長閑な郊外、そこの小さな店舗に地元のナンバーはもちろん、他府県ナンバーの客が訪れる、それほどのお店のようです。香川では朝からうどんは普通の様で、喫茶店のように早朝から営業しています。それも街中ならともかく、こうた郊外店が営業し、お気に入りのお店で開店を待つ光景が見られます。開店まで1時間もあるので長閑な田園地帯にある寺社を探して歩く。戻ってくれば広い駐車場は車で溢れ、店前には行列ができはじめています、我が家もその列に加わります。やがて換気扇が回り出し、湯気が立ち始めると間もなく開店の合図。開店してからの人の流れは意外にはやい。列に並び麺のサイズ(小・大・特大)と温か、冷かをオーダーし、麺が入れられた丼を受け取り、トッピングを選んで会計。列から離れた場所に置かれた出汁と薬味を自分で入れる。よくあるあのシステムです。狭い店内ですがテーブル席もありますが、こんなご時世、そのまま外のベンチで頂くことにしました。温かい日差しが降り注ぐ屋外、アウトドアで食べる本場の讃岐うどんもいいものだ。自分のオーダーは温、大でちくわ天をトッピング、自分のスタイルです。面白いのはてんぷらの価格設定。種類が色々ありながら全て100円。ものによっては破格なものもある。かみさんは温・小・かき揚げと彼女の定番に大きな揚げをトッピング。丼が隠れてしまう程の巨大な揚げ。念願の本場讃岐のうどんの感想は、普段口にする〇亀製麺と比較すると、イメージした程に腰は強くなかった事、名古屋人から見ると出汁は上品でやや薄味ながらほっとする味わい。薄い、濃いは地域の嗜好にもよりますがこの地の個性なのでしょう。上品な出汁に対し、甘辛く味付けされた巨大な揚げも美味しい。ただ、単品で食べたいかなぁ。丼に揚げが加わると上品でおいしい出汁の風味が薄れてしまう気がする、ある意味味変。味噌煮込みに侵されている者には、繊細な出汁と麺を味わう本場の讃岐うどんはやさしい味わいのものです。常連さんから見ると作法が違うのだろう、一番で並んでいた方は小に何も入れずにささっと食べて「ごちそうさま」、なので行列の流れは速いのでそれほどロスタイムはないと思います。麺を楽しみ、出汁は麺にかけるものなのかもしれない、讃岐うどん巡りありかもしれない。その時には最初に訪れてみようと思う。讃岐うどん「がもう」営業時間平日 / 8:30~麺がなくなり次第終了定休日 / 日・月曜日電話 / 0877-48-0409 住所 / 香川県坂出市加茂町420-1
2020.04.05
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解放感のある田園風景が広がる、ここは瀬戸市西本地町。以前は身近にあった懐かしい光景はここには残っています。田畑は随分と姿を消し、大型スーパーが建ち、田畑の造成も進んでいるようですが、まだまだ田舎の風情を留めています。ひと昔前の田んぼは一面に蓮華の花が彩を添えたものですが、時代も変わり、そうした光景を見かける事も少なくなった気がします。西本地の八幡社はそんな田園風景の中にあります。水が抜かれた田んぼ、あぜ道には黄色も鮮やかなタンポポが咲き春を告げる。摘まれるのを逃れた土筆も穂を開き、あちらこちらに見られます。田畑の中にポツンと出来た森は特別な空間そのものです。 ここは初めて訪れましたが、何かしら懐かしさみたいなものを感じます。 一ノ鳥居から拝殿に向け、長くまっすぐ続く参道は街中の神社にはない光景です。二ノ鳥居左に手水舎、手水鉢、その先に小さな祠があります。手水鉢に龍はいましたが、鉢に清水は満たされていませんでした。祠の瓦屋根には終盤を迎えた赤い椿が咲き、境内にアクセントを加えています、今頃は桜が代わりを務めている事でしょう。小さな祠、そこには二つの社が祀られています。社名の札は無く、お札も見られませんので詳細は分かりませんが、この色合いは天王社でしょうか。二ノ鳥居から杉木立の参道の正面に拝殿。参道右に百度石。左は集会所?、5社宮、その奥に切妻の小さなお堂が並んでいます。境内正面の拝殿。伽藍は近年建て替えの手が入ったのでしょう、全ての建物は新しいものです。近代工法のコンクリート造りで、味気ない気もしますが、こうして手をかけてもらえるのも多くの氏子の方から八幡社が如何に崇敬されているかよくわかります。拝殿は切妻平入で唐破風向拝が施されています。拝殿前の狛犬。拝殿に掲げられた扁額拝殿から本殿の眺め創建は古く、由緒によれば1185年(文治元)と云われ、祭神は應神天皇を祀るようです。拝殿右に東を向いて5社が祀られています。覆屋前を守護する小ぶりな狛犬。向かって右の二社は右から山神社 / 大山祇神、大神宮 / 天照大神。それぞれを小さな陶器の狛犬が守護しています。中央は金比羅社 大物主神 崇徳天皇。こちらにもかわいいのがいます。一番左の2社は右が津島社 / 素戔嗚尊、鍬神社 / 保食神。其々の狛犬をよく見ると社ごとに色合い、デザインも違うものです。個別に表情を捉えておくべきでした。板宮造りの同じ外観の社が並び、初めて訪れた者には分からないものですが、全ての社に社名札が掲げられありがたい。境内で一際目立つ存在のメタセコイアの巨木。瀬戸の名木に挙げられるだけの風格は備えています。拝殿左の祠は忠霊社とあります、地元出身の戦没者の英霊を祀っているようです。左は土地改良碑。拝殿左から本殿を眺める。外研ぎの千木と三本の鰹木を持つ流造の様です。後方に矢田川が流れ、すぐ上流で瀬戸川と赤津川に分かれます。境内は川沿いの堤のすぐ南となり、川のご機嫌次第で水害は避けれない場所です。拝殿右手の八幡社改築記念碑と社務所。「御社は宇佐八幡宮の御分社で、創建は約700年前の文治元年二月と伝えられ、寛延元年より数次に互る洪水により富地域の災害を憂へここを鎮守の森として移され、以来、村の守護神とし又安産の産土神として幾多の御神徳を慈しみの深い神様である。昭和47年御本殿屋根葺替の式年に当たり氏子の総意により神社所有地の処分代金を財源として御神域の整備と御社殿の改築を決し、同年七月に着工、翌年10月完工、大鳥居水屋等も12月完成せり・・・」やはり長い神社の歴史の中で、田畑を潤す矢田川も幾度か水害をもたらしたようです。自然は時に冷酷でありながら、反面で川は肥沃な土地に変え、村人に豊かな実りを与えてきました。自然への畏敬の念から神社は生まれ、人は崇敬する、こうした関係が今も綿々と受け継がれている。東の脇参道口と手水舎。脇参道から社殿の眺め。現在の社殿は1973年(昭和48)に建て替えられたようです。手入れも行き届き、見た目はもっと新しい印象を受けます。境内には桜も植えられ、これから見頃を迎えていきます。境内から参道の眺め、田畑の先には丘陵地が迫ります。そこには松原平内の居城本地城も築かれていました、現在は石標のみですが、古くから人が居住し、古墳なども点在します。ここから北東の八王子神社付近には、三河國から瀬戸に勢力を広げるために松原一学が1460~66(寛正年間)に築城した今村城もありましたが、城は後の安土坂の戦で長江利景と一学の息子、広長と平内が戦い討死。松原氏は領地を失い廃城の道を辿ります、現在は石標とお鶴の井戸と呼ばれる井戸、水堀の名残が残るのみです。八幡社から南東に徒歩10分程には本地大塚古墳と呼ばれる前方後円墳もあります。こちらを訪れた際にこれら訪れるのもいいかもしれません。長閑な田園地帯に鎮座する西本地の八幡社、この地の守護神として今も崇敬されています。2020/03/29八幡社創建 / 1185年(文治元)祭神 / 應神天皇境内社 / 津島社、鍬神社、金比羅社、山神社、大神宮、忠霊社住所 瀬戸市西本地町2-158公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「三郷」で下車し南へ、矢田川を渡り堤を左に徒歩25分程
2020.04.03
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気分も滅入る空模様が続いたここ数日、今日はすっきり晴れてくれました夕方、石川橋から向田橋間の山崎川沿いの桜を見に行ってきました例年であれば桜を目当てに多くの方が行き交うのだけれど桜はせっかく綺麗に咲き誇っていても、周囲は寂しい限り生憎の強風もあり、歩道に花弁も落ち始めています山崎川の桜はひっそりと見頃を迎えています2020/04/02
2020.04.02
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