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交際交流にかかわっていると、何か問題が起こった時、良く「文化の違い」と処理されてしまうことがある。確かにそれぞれの国によって歴史上、脈々と受け継がれて来た文化の違いは歴然としている。でもそれと、問題が起こった時になんでもかんでも文化の違いでかたずけるのは腑に落ちない。たとえ文化が違っていても、相手国に来たからには滞在国の文化を尊重して、ある程度はその国の多勢に従うのが真の交流じゃないかと思う。こう書くと何か問題が起こったんじゃないかと思われるが、私が接してきた外国人はおおむね日本の文化を良く理解し、郷に入っては郷に従えを実践しててほとんど問題ないが、国際交流を受け入れる側の学校や団体が、問題が起こったとき、この言葉であっさりと「しょうがないじゃない」と片付けることがあるのは、「違うんじゃない?」と思うのである。往々にしてその人個人のマナーの悪さや、ルーズさや思いやりの無さを、文化の違いとして片付けてしまうことがあるのである。それは個人の資質の問題であって、文化の違いなんかでは決してないのである。もちろん、宗教は固く守るのに何の問題もないし、妨げることもない。宗教は文化ではないのだから。日曜日、インドネシア人の生徒が我が家にご飯を食べにやって来た。この日の料理はエビフライ、鶏肉の香草焼き、魚介のシチー、グリーンサラダ、ポテトサラダ、キノコの炒め物デザートはアップルパイとストロベリータルトそしてこのすべてを夫が手作りしたのであった。私の助けなしで・・・。彼らは約束の時間より30分遅れて来た。その間3度も遅れる由のメールが私の携帯に入った。以前どの国が待ち合わせの時間にどのくらいなら遅れても許容できるかを教室で話題にしたことがある。フィリピン人の生徒は1時間から1時間半の遅れは普通と答えた、インドネシア人はその時、30分ぐらいなら国では普通だと言った。だから、30分遅れたのか?いやそうではないのである、彼らは毎朝遅刻なしで会社に行く、日本に置いては日本の時間を守っているのだ。日本の文化に従っているのだ。ではどうして我が家に遅れてきたか。聞いてみた。毎朝の決まった時間と違って我が家までの交通と距離と毎朝の自分たちの習慣を計れなかったのである。7人がマンションの一室で生活している。そして当然トイレは一つ。「トイレの順番を待っていたんです。」彼らと私たちの間に文化の違いでの問題はない。遅れてきた詫びを言い、帰りにはきちんと全員が私と夫と娘に招待の礼を言って帰って行った。日本の文化をしっかり尊重して・・・。夫は彼らの宗教を尊重して、お酒もみりんも、豚肉も一切使わずに料理を作った。イチゴタルトの上のゼラチンコーティングはゼラチンが豚由来のものだったため、コーティング無しで少し焦げてしまったけれど・・・。その日の彼ら、代わりばんこにトイレに行くのに、我が家でもトイレのドアの前で並んで待っているのであった。居間で前の人が帰って来るのを待てばいいのに・・・。なんとほほえましい!
April 27, 2011
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この頃余震は少し落ち着いたかなと思っていたら、昨夜また揺れた。そうは行っても我が家は娘に言わせると外にいるほど揺れないんだとか。先週の日曜日の午後パソコンでデータを作っていた。娘と夫はテレビを見ていた。突然聞きなれたチャイムの音。地震だ、私は臨戦態勢に入った。娘が言った。「今見ているテレビ、先週のビデオだから」やめてよね。心臓に悪いんだから。他よりもあまり揺れないと思われる我が家の居住区は平屋部分。テレビで緊急地震情報が出るとまず見るのはこれ。キッチンのカップボードにぶら下げてあるハロウィーンのマスコット人形。他にぶら下がっている照明器具がない我が家の地震計。ごみを捨てて外から戻ったら、この魔女人形が勢いよく空を飛んで揺れている。地震か?よ~く考えたら、外に出る前にカップボードからコップを取り出したのだった。ああ、怖かった。2倍心臓が踊ってしまうこの頃の私の生活。2日前の水曜日、今学期の日本語クラスが始まった。子供クラスのアメリカ人の子供たちも、大人クラスのインドネシア・フィリピン人たちもたくさん来た。国へ帰らなかった外国人も、戻ってきた外国人も、地震後に来日した外国人も皆普通の生活を始めている。今日はまた花の写真を撮りながら母のホスピスに行こう。時々はケーキも心落ち着くね。
April 22, 2011
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先日東京のカイルから電話が掛かってきた。「Hello! I got engaged to Mihoko」地震の時も私の心配をして繋がらない電話を何回もトライしてくれた彼。きっと婚約の知らせもアメリカのご両親の次ぐらいにホストマザーである私に知らせてくれたのだろう。1年も前からミホコさんとは一緒に住んでいるのだから、婚約はそれほど驚くニュースではないけれど、知らせをもらったことはうれしい。「良かったね」と私は日本語で言う。「Thank you]と彼は相変わらず英語で答える。長く日本に居るんだから、ありがとうぐらい日本語で言いなさいよ、と思うのだけど、彼がどれほど日本が大好きであるか私は良く知っているから、言葉なんてどうだっていいか。いつも送ってくるメールには必ず、「We need to get together sometimes」とある。「会う必要ね~」とおかしくなって「くすっ」と一人で笑うのである。 日曜日は次女と夫とホスピスまでの全行程歩いた。10,000歩。途中でもう20年も前によく買って食べたケーキ屋さん「ムッシュ・タルト」の前を通ったので、母の分もケーキを買って行って談話室で皆で食べた。写真の花はホスピスの談話室にボランティアさんが活けたもの。
April 18, 2011
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次女が熱を出して会社を休んで我が家で養生していた。菌をホスピスの母のところに運んではいけないので、ホスピスに行くのを控えたから、昨日2日ぶりに母のところに助六を買って行って来た。今日は電車を利用する。それでも丘を歩いて降りるから6,000歩。歩け歩け、花の道。ホスピスへ続く道。 看護師さんがたくさん持ってきてくれたぬいぐるみの中から母が選んだ、母の部屋の入口のマスコット。 到着
April 15, 2011
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地震以来東京で3月末納期の仕事に夜中も会社で働いていた娘が先週3日ほど帰って来た。週末に東京に戻ったが月曜日昼頃38度の熱を出して、また戻って来た。今までは風邪を引いても、熱を出しても自分のマンションで過ごしていたのに、どうやら双子のように仲良しの姉がロンドンに行ってしまい、近くにいないのが相当寂しいらしい。その娘が居間の横の和室で寝ていた夕方、また地震がやって来た。机にもぐる準備をしておびえている私の横で平然と寝ている。いつも東京の揺れの方が大きいから驚かないのか。私はというと夕方の買い物に出る戦意もすっかり失せて、会社の帰りに白菜を買って来てもらいたいと夫にメールを打った。しばらくして、娘が言った。「お母さん、誰にメール打った?私は白菜買えないよ」動揺。
April 12, 2011
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日曜日、夫と鎌倉に花見に出かけた。駅を降りてまず不思議な違和感に襲われた。鎌倉駅前には今まで見たことがないほど人で溢れていた。でも何か変。そうだ、歩いている人々はすべて日本人なのである。いつもはたくさんの外国人であふれている古都鎌倉なのに。わずかに外国人を見かけたが手を繋ぐ相手は日本人。きっと日本人の奥さんを持って日本で家庭を構えている外国人なのだろう。それでもたくさんの日本人が地震の事や、原発のことを一時忘れて、(でもきっと東北の人たちのことは忘れていない)八幡宮へと続く段蔓の桜のトンネルを楽しんでいた。 2週間ほど前、イリノイにいるアヤコちゃんとSkypeで話した時、彼女が語った彼女の友達の日本に残ったうちの2人のアメリカ人から聞いたという話は興味深かった。日本を去った外国人に対して白い眼で見ている日本人がいるということ、またあるいは残った同じアメリカ人の中にも、去ったアメリカ人達をなじる人もいるということ。日本人同士でもそれは言える。何週間か前、経済新聞に載ったコメント。「駅には大きな荷物と子供を連れた女性たちが溢れていた。西に避難するのだろう。しかし、彼らが帰ってきた時、残って一緒に戦った者たちと、逃れた者たちの間に溝が生まれるだろう」と。そうかなあと私は思う。逆の立場だったら、愛すべき子供がいたら、逃れる場所があるのだったら、誰でも同じことをしたのじゃないだろうか。もちろん私だって。いざとなったら逃げる。子供を逃がす。イギリスだろうがドイツだろうが。去ったものを責められない。そして国へ帰るお金がなくて、あるいは仕事の契約が残っていて、国へ帰るに帰れないで残った外国人に申し訳ないような、そして感謝の念で一杯になるのである。おお、そうだ!忘れていた。鎌倉へは夫だけでなく8人の日本語教室のインドネシア人と一緒に行ったのである。彼らは外国人。残ってくれた外国人。
April 11, 2011
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大船で妹とご飯を食べた。別れ際、北鎌倉あたりで写真を撮ってから帰るという私に、電車でなくてバスでも行かれるよ」と妹が言った。そこで大船駅で鎌倉行きのバスに乗った、はずだった。15分ほどバスに揺られているとバスが左にそれ、緩やかな丘を登って行く。大きな住宅地のど真ん中で、アナウンスが突然言った。終点です。コンビニの前。ここは何処?急いでバスストップの時間表を見る。乗って来たバス会社のバスは1日に3、4本。次は何時間も後。途方に暮れているとそこに、違うバス会社の小さなバスが来た。まるで乗れと言わんばかりじゃないか。「大仏経由桔梗山行き」大仏経由ならそちら回りで大仏あたりで乗り換えればいいか。オレンジ色のその小さなバスに乗った。バスは今度は右の脇道にそれてさっきよりも急な坂を登って行く。バス停三つ目。突然「桔梗山、終点です」れれれ・・。大仏経由は?そうか、もう大仏経由をしてここに来たのだ、このバスは。恐る恐る運転手さんに聞く。「鎌倉駅に行きたいので、このままこのバスに乗っていれば近くに行きますか?」「いや、このバスは今から車庫に帰ります。ここで鎌倉行きを待ってください」にべもなく言われた。あえなく撃沈。丘の上の団地の真ん中でバスをチェックする。バスは1時間後。仕方がない、さっき乗ったバス停まで歩いて引き返そう。とにかくこの状況から抜け出さなければ・・・。歩き始めて、ふと見渡すと、丘の上の団地の棟と棟の間にたくさんの桜が咲いている。ここは桔梗山ではなくて桜の園?傾き始めた陽をいっぱい浴びたしだれ桜の精が私を誘う。風もないのに桜は風の形をして私を誘う。 本日の歩数計、16,615歩。
April 6, 2011
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2年と5か月ほど前、私は日記に「今日から我が家はホスピス」という題名を付けた。癌の父を看取るために父を我が家に迎い入れた日である。そして、父が逝くと同時にまた、癌が発覚した母の闘病が我が家と病院の入退院の繰り返しで、その日から始まった。治療が効いて、母はこの2年間自分の家では一人で生活できないが、娘の我が家で普通に散歩して、普通に私の作ったご飯を食べて、普通にお風呂に入っての生活を送った。その母が私が桜の写真を撮りに行った次の日、ホスピスに入院した。それが母の選んだ答えである。もうこれ以上の治療が無駄だと分かってから、皆のように我が家で逝くか、医者のそばで逝くかの選択をしなければならなくなって、母が出した結論だった。医者のそばにいれば少しでも安心できると、選んだのだ。本当は癌になったら尊厳のためにホスピスに入ることは私の長年の理想だったのである。母ではなく私の。はるか昔、「病院で死ぬということ」を書いた、桜町病院の山崎先生の本を読んでから心に決めていた。そして、今、母がいるホスピスは、その理念を引き継ぐところであり、私が過去に見つけておいたところなのである。 20年前、まだ介護保険制度が出来ていない頃、往診してくれるお医者さんを見つけ、義母を我が家に引き取り見送ったり、そして義父もその何年か後、見送った。我が家の隣に最初は義母のために増築したバリアフリーの家に、4人の両親が私の助けを受けるために住んだのであった。その部屋は今、母の荷物を残したまま、主のいない部屋になっている。時々は外泊に帰宅するであろう母が使うだろうが。ホスピスに歩いて通う道すがら、新しいカメラを持って花の写真を撮りながら行く。昨日は満開だったのに、強い海風でほとんど散ってしまった辛夷、日に日に蕾を膨らませていく桜。急ぐ道程ではない。ただ母の顔を見て、洗濯物を持ち帰るだけ。これからの私の日課。
April 3, 2011
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辛夷 雪柳 菫 あと一歩、がんばれ!
April 2, 2011
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