仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.08.05
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カテゴリ: 仙台




1 仙台藩の江戸屋敷の種類

時期により変遷があるが、下記のような種類があった。
・上屋敷(藩主が滞在)
・本屋敷(仙台藩独特の呼び名。一般的には跡継ぎの若君の住居で、仙台でも初期だけの存在)
・中屋敷(多くの大名が若君の住居とした。仙台藩も初期以外は同様)
・下屋敷(火事などの際の避難場所の役割。のちに隠居場所や別荘の役割)
・蔵屋敷(倉庫の役割)

上屋敷は延宝4年(1676)以降は芝口の浜屋敷で、その頃の本屋敷兼中屋敷は愛宕下屋敷、下屋敷が麻布屋敷と品川大井屋敷で、以降、上屋敷と本屋敷(中屋敷)は変動ないが、下屋敷と蔵屋敷はずいぶん変わっている。



江戸の町の治安は、幕府の町奉行や目付などが管轄したが、江戸屋敷内は仙台藩の治外法権が認められたのか。『治家記録』によると、屋敷内の事件でも、犯人が屋敷外に逃げるなどした場合は、町奉行のに報告し指示を仰いだようである。また、仙台まで身柄を護送して七北田で処刑した事例もあるので、藩の処理が中心だったようだ。

山本博文『江戸お留守居役の日記』では、萩藩江戸藩邸には治外法権が認められ一種の租界だったと指摘する。治外法権と同視できるかためらいはあるが、国許と同様とみなして元禄10年の「自分仕置き令」の適用が認められた、または、江戸屋敷居住者はすべて家来とみなされて成敗権を行使できた、と考えることが可能かもしれない。

享保年末以降には、わざわざ国許まで連れて行かずに江戸屋敷内で死刑にする例が目立ってくるが、江戸屋敷の死刑はすべて斬首刑でほとんどが下屋敷である品川屋敷。獄門にする場合は国許の七北田を利用している。

中期以降の死刑で品川屋敷が利用された理由は、郊外であって倉庫としても利用され、また江戸中で評判の仙台味噌の製造場所でもあって、死刑を執行してもさほど支障はなかったからか。

会津藩では、幕府の鈴ヶ森刑場を借用したとみられる事例がある。仙台藩江戸屋敷における罪と罰は一層の研究の深化が望まれる。

■関連する過去の記事
 フリーページ「 戦国・藩政期の仙台・宮城 」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。
(主なものは下記)
仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑) (2025年08月10日)
仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑) (2025年08月08日)
仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰) (2025年08月05日)
仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)
仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛) (2025年07月24日)
仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)
仙台藩の罪と罰を考える(その1) (2025年07月21日)
芦東山記念館を訪れる (2013年5月7日)
仙台藩の刑制と流刑地 (10年2月10日)
芦東山と江戸期の司法制度 (08年10月2日)
仙台藩の刑場 (07年9月3日)
仙台藩の牢屋 (07年8月19日)
仙台藩の法治体制 (06年11月20日)
岩手の生んだ大学者の芦東山 (06年3月29日)





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最終更新日  2025.08.19 22:25:11
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