仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.08.08
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カテゴリ: 仙台




1 流刑(島流し)

中国の刑罰の一種である「流」は、罪囚と家族を犯罪の凶悪度に応じて、二千里、二千五百里、三千里などと離れた僻遠の土地に移住させて労働させる刑だったようで、必ずしも島々に流すものではないが、仙台藩の流刑は、明らかに島流しであった。なお、幕府は、流刑といわず遠島と呼んだ。

仙台藩の流刑の起源は不明だが、正保3年(1646)江刺郡黒石正法寺の僧快応が江島に流されたのをはじめ、その後も僧侶や武士が、田代島、網地島に流されたので、おそらく17世紀半ばには行われていたと判断できる。さらに、貞享2年(1685)には凡下が島奴(しまやっこ)に処されているので、この頃には庶民にも科されたと言える。

仙台藩は延享2年(1745)に流刑を、遠流(江島)と近流(田代島、網地浜、長渡浜)に分け、さらに近流地で島民に使用される島奴をその中間の刑として、この「遠流ー島奴ー近流」の順序を、藩末まで維持した。なお、近世前期には本吉郡大島も流刑とされ享保期に除外された。

なお、幕府の流刑地は、東国の流人は伊豆七島(大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島)、西国の流人は薩摩、五島、隠岐、壱岐、天草とされた。判決は遠島のみで、どこに流すかは出発時に奉行所で決めたようだ。東国には江戸から、西国には大坂から船で連行するが、江戸の場合年に1,2回船を出した。それまでは小伝馬町の牢屋に入れておいた。

仙台藩では、判決で流刑地を指定し(例、網地浜へ流罪)、直ちに流人を護送した。天保10年(1839)までは陸路で牡鹿半島まで行き、そこから海路になる。

2 護送の実際

上級武士や僧侶神官の流人には、徒目付(かちめつけ)という武士と足軽2人が付き添い、駕籠で護送した。下級武士の流人には足軽が付き添って馬で護送した。凡下の場合は、男の場合、庶民である宿場役人が次の宿場まで順に護送し(宿送り)、流人は腰縄をつけて徒歩だった。女の流人は足軽2人が付き添い、馬で半島まで行った。


・2月2日 午前10時 城下評定所出発→原町、12時過ぎ 利府着、昼食、16時過ぎ 高城着、宿泊
・3日 高城出発→小野昼食→小竹浜宿泊
・4日 10時 雨のため少し遅めに小竹浜出船→狐崎で船を継ぎ立て、12時過ぎ 田代浜着、代官・大肝入・肝入に引き渡し

徒目付と足軽の宿泊費(2泊)と食事代(6回)は公費で支出されたようだが、流人のそれは宿場の負担だったようだ。しかも、不寝番が6人動員されて交代で勤め、また、駕籠かきも4人が宿場ごとに動員された模様で、宿場の人的金銭的負担は相当大きかっただろう。しかも、逃がしたりしたら宿場の責任となるので精神的負担も相当だったろう。
(文政6年=1823、流人と足軽が酒肴を要求した事例、天保1年=1830、島奴として送られた女性が牡鹿郡湊町で男児を出産し30日ほど養生した事例)

宿場から改善を求める声が届けられていたが、ようやく天保10年(1839)に陸路から海路護送(宮城郡蒲生から)に変更された。しかし、船と船頭の調達費用は、これまでの宿場の負担額を振り向けたので、宿場の金銭負担は変わらなかった。

3 流人の生活

幕府により伊豆七島に流された流人の場合、出船前に身寄りから差し入れが許され(米20俵まで、銭20貫文まで、金20両まで)、差し入れがない者には奉行所から武士一両、庶民金二分(=2分の1両)の手当てが官給された。この金で出帆前夜に400文の酒食が許された。

当日朝、牢屋式裏門から霊岸島の船着き場に行き、前夜申し渡された島に向かう。流刑地では、例えば八丈島ではクジで所属する五人組を決め、その一員として生活するが、どの島でも自活が要求されたため、職や収入のない者は悲惨な生活を強いられ、野垂れ死にが想定された。幕府が死刑に次ぐ重い刑罰としたのはむしろ野垂れ死にを狙いとしたとみられる。

仙台藩ではどうか。まず、島民のもとで働くことを要求される島奴の場合、史料がすくなく生活の実態がよくわからないが、牢に入れられる場合に比べればずっと自由だったと想像される。奉公人に近いかもしれないが、中には主人を手こずらせる者もあり、使いやすい者ばかりではなかったろう。

一般の流人は、幕府同様に差し入れが許され、或いは手当てが官給されたかはよくわからないが、たとえそれがなくても流人の生活が劣悪だったわけではない。第一に(少なくとも近世後期には)居住施設として流人小屋に男の流人は収容された。士長屋(板敷き)と凡下長屋(土間)に区別されたが、財力のある者は民家を求めることが許されたようで、また、女は民家に居住した。第二に、流人には若干の道具代と春秋の衣服代が与えられたという。注目すべきは、生活費(武士は2人扶持、凡下は1人扶持)が官給され、ほかに木銭(一日6文)が支給されたことで、最低の生活はできた(1人扶持は玄米一日5合)と思われ、さらに民家の作業を手伝って賃金を得ることもできたようだ。



幕府でも仙台藩でも流刑に刑期はない無期刑として言い渡されるが、実際には吉凶行事に伴う赦(しゃ)で解放される途があった。幕府では、遠島は一応29年以上で赦に浴すことができたが、仙台藩の場合、遠流では(近世前期は赦が適用されないが後期には)士で14年、凡下で10年経過で赦が可能となり、近流では士17年、凡下5年以上で赦になったようだ。

なので、とにかくまじめに生活すればいずれは島を出ることができたのだが、やはり耐えられない流人もいただろうから、半島と近いこともあり、時々島抜け事件が生じた。また、島の地名に「流人ころがし」などがあるようなので流人に対するリンチがあった可能性があり、この点からも脱出する流人があったろう。

5 流人の規模

弘化1年(1844)の数値として、長渡浜48人、慶応1年(1865)の田代島24人、という記録がある。また、文久3年(1863)江島では、流人数57に対して在来島民が450人という紹介もある。

昔からいる島民にとっては、流人を受け入れることは大変だったろう。親身に世話する島民も多かったろうが、まじめとは限らず迷惑になった流人もいただろう。狭い島に流人を送り込む島流し刑は有効だったのかどうか。おそらくこうした問題点を考えてか、東北地方で島流しを行ったのは仙台藩だけのようだ。


 フリーページ「 戦国・藩政期の仙台・宮城 」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。
(主なものは下記)
仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑) (2025年08月11日)
仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑) (2025年08月10日)
仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑) (2025年08月08日)
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最終更新日  2025.08.19 22:24:54
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