日々精進なり  <武蔵野東ラグビー部>

日々精進なり <武蔵野東ラグビー部>

2011年02月17日
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十返舎一九

東海道中膝栗毛の作者であることはあまりに有名である。

弥次さん喜多さんの道中会話から成り立つ、当時としては革新的な読み物だったようだ。

ユーモアや風刺的な作風はなんとなく興味があった。

しかし、調べていくと更に面白い。

以下、引用抜粋

「気むづかしい一九」
 一九は、そのユーモラスな作品とはおおよそ対照的な案外の気むづかしく偏屈な性格で、到底作品に見るような軽快な男ではなかったようです。あるとき、膝栗毛の熱心なファンの某資産家が、この滑稽な一九と旅ができたならさぞ面白かろうと、旅費雑用いっさい負担の条件で頼みこみ、念願がかなって一九とともに旅をしたという人の話。そのときの一九は、その某氏が弥次喜多から想像した人物とは正反対で、むっつりとして口をきかず、しごくあっさりしていて宿に着けばさっそく机に向かって几帳面な日記をつけるという始末。なんにも面白くないので退屈して途中で逃げ帰ったといいます。一九はひとり旅を好んだといいますから、某氏が逃げ帰ったのは、ねらいどおりだったのかもしれません。

「変わり者」

 ある年の新春、年賀に来た客を無理矢理に入浴させ、その間にその客の着物はじめ腰のものまですべてを拝借して、近所に新年の挨拶をすませたということがありました。
 また、家財道具を質にいれては飲んでしまうので、家の中には何一つなくなってしまったときのこと。殺風景な家の壁に紙を張り、タンスや床の間、違い棚、掛け軸置き物などを描いて、正月の鏡もちまで絵にかいた餅、まるで芝居のような光景の中に平然と居たという、滑稽を地でいくような愛すべき一面も見られます。 一九のこのような奇行は、師と尊敬した太田蜀山人の影響ともいわれます。

「死んでも洒落で」
 江戸文学に数々の功績をのこし、十返舎一九は天保2年(1831)8月6日67歳で江戸長谷川町の裏長屋で病死しました。一九は、自分の死を予期していて、前日、頭陀袋へ線香花火をいっぱい詰めておいたので、火葬場で弔いの人々を驚かせました。

 辞世の句には

<この世をば どりゃおいとまに せん香の    
              煙りと共に 灰左様なら>

引用抜粋終了


なんとも、、

知れば知るほど興味が出てくる。

最期の花火は何とも粋である。



これに憧れもある。





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最終更新日  2011年02月21日 09時52分48秒
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