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面白いくらい人の話を聞かない人がいる。話をすると、「ふーん」とか「ほー」とかとりあえず反応するんだけど、聞いてない。透明な壁があるような人。もっとひどくなると、相手の話を遮断、否定してから話をしだす人。子供にはよくいるけど、大人でもたまにいる。「~でさあ、それがね・・・」とAさんが言うと、「違う違う、んで私は・・・」と返す。「違うちがう」って何がよ?!おしゃべりに正しいも間違いもないでしょうが。昔はそういう人が嫌いだったが、このごろは成長したので、面白がって話を聞いてあげることにした。「そうなんだ。それで?」なんて乗せてあげると、どんどん楽しそうにしゃべっている。俺が詳しいことに関しても、たとえば武道や健康の話でもすごい自慢気に話している。いつから先生になったんでしょう(笑)笑ってしまうくらい、「間違った」ことを言っていても、俺は何も言わない。どうせ聞かないから。「なるほど」なんて言いながら、じっと相手を観察している。そんな俺だから、「可愛い」後輩に遭遇すると、怖い。こいつ、可愛いふりして俺を観察しているな、とドキドキする。オトナだな、と思うし、だからこそ対等にしゃべれたりする。逆に「先輩」である俺の話を聞けない「後輩」はまだまだコドモだな、と思う。5歳児じゃないんだから。でも俺はそいつの話を聞いてやる。で、その幼児性を観察する。後輩は、形として先輩の話を聞く。内実は、先輩を観察する。先輩は、ドキドキしながら話をする。そんなんがいいと思う。ドキドキしないで、本当に「後輩」が感心しながら聞いてくれていると思うなんて勘違いもはなはだしい。後輩はほとんど先輩なんか尊敬してないし、本当に尊敬している人に、「すごいっすね」なんてそうそう言わないよ。挨拶挨拶。後輩様のご愛嬌だよ。だから俺は、本当に自分が考えていることというのは信頼できる人にしか話さない。俺の考えているようなことは、大衆には理解されぬと痛いほど分かっているからだ。なので浅い関係の人とはつねに笑いの絶えない会話をしている。友達だってそう。せっかく「合気道って何?」って聞いてくれても、たいていは適当に答える。本気で答えたら、多くの人は理解できないし、「奥が深いね」とか「礼儀正しいって感じだよね」とかいう表面的な返事を聞いて、また俺も傷つく。だから受信能力がある人だけに本気で話すのです、俺は。そうそう、たまに俺も「ふーん。」とか興味ない返事もするんだ。それに気づかない人もいるよね。わざとつれない返事をしているのに、つまらない話をやめてくれない人。あの鈍感さも不思議でしょうがない。コミュニケーションは繊細だから面白いのにねえ。会話はお互いにするから面白いのにねえ。人と人との距離は遠いよ。でもだからこそ、近づいた友人が大切なんじゃん。近づくのって大変だよ。でもだからこそ、面白いんだよね。そういうのが自然と分からない人とは、僕は友達になれません。
2005年09月30日
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仕事が忙しゅうて、なかなか日記も書けんわい。だが、ようよう時間がすこしできたで、いっちょ書いてみよう。さて。人はなぜ、憎しみあうのだろう。なぜ、人の悪口をたたき、愚痴をこぼすのだろう。人と人は、愛し合うことができる。しかし、憎しみあう者どうしもある。憎むってなんだろう。俺は、「嬉しい」「楽しい」「さみしい」「かなしい」「怒り」などの単純なことばの意味を探ってきた。そして自分なりに答えも出してきた。しかし「憎む」とは何かということは考えていなかった。憎んでもいいことなどないのに、なぜ憎んでしまうのか。おそらくは、人の弱さが関係している。たいてい、人間のマイナスの感情というのは弱さに起因するものだ。「自分という存在の不安」がうとまれる要因をつくりだす。友情に自信がなければ、妙になれなれしくなるし、仕事に自信がなければ、説明という名の言い訳が増える。たぶん「憎む」ということは、その相手の存在によって、自分の存在がおびやかされるということだ。その相手の、存在・主張・あり方などが安らかな身体を危険にさらすとき、相手を「憎い」と思うのではないか。やはり人は、自分を守りたいのだ。誰もが自分を守りたいけれど、その防衛意識が強すぎると、つまり「自分は弱い」という深層心理があると、コミュニケーションに支障をきたす。憎んでも何もいいことはない。嫌いな相手に、自分を費やすことはないのに。そのエネルギーを、人を愛することに使えばいいのに。それでも俺は人を憎むことがある。それは弱さであり、守りである。俺が守りたいものって、なんなんだろう。
2005年09月30日
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俺は、恥ずかしがり屋の人が好きだ。可愛い。たいてい恥ずかしがり屋の人は自分が恥ずかしがり屋であることが嫌で嫌でしょうがない、みたいなことを言う。しかし、安心してください。世間はそんなあなたをとても好感を持って見ています。少なくとも俺は、「赤くなったな」と言われただけでどんどん真っ赤になっていくあなたが好きです。なんで好きなのかというのは、世間が高見盛の「カチンコチンロボット体操」を好きなのと似ていると思います。つまりは愛ずるということです。可愛いというのは、「愛ずべき」ということであります。
2005年09月26日
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昨日、仕事帰りにコンビニに立ち寄り、オレンジゼリーと肉まんを買った。「2点で258円になります」態度の悪いバイト君が面倒そうにそう言う。俺は小銭入れのお金をとりあえずそこにぶちまけた。そしたら!!そのお金が全部あわせて258円!!うおし!!これにはビビりましたね~。しかも一昨日もそんなようなことがあってね。なんか、なんなんでしょうね、これは。よくわからんけど、ちょっと嬉しかった。
2005年09月26日
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高い空、乾いた風、やさしい雲。秋!!やってきたね。運動会、緑色のミカンの季節。何度も言うが、季節の変わり目はたまらないねえ。俺は園児になり、小学生になり、中学生になり高校、大学・・・。折りたたんであった記憶をざくっと切って、横から眺める。それが季節の変わり目。季節といっても四季ではない。幾つあるかは数えたことがない。今日で万博も閉幕です。なんか新聞に102回行ったって人がいたね。2日に一回は行ってる計算になる。それは行きすぎでしょう(笑)俺は、あと一回くらい行っても良かったかな。まあ、一回でも十分だったけど。祭りが終わります。終わりの空気は切ないね。すべてのはじまりは終わりに向かい、終わりは始まりでもある。3ヶ月前、始まったもの。そして今、明日・・・。来年の今、俺はどんな気持ちでいるんだろう。それがとっても楽しみだ。
2005年09月25日
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会社のセミナーで、内容的情熱と文脈的情熱という分類を聞いた。「内容的」のほうは、それそのもの自体が好きということ。まさに「そこに山があるから」的な情熱だ。対して、「文脈的」のほうは、いわば2次的な情熱で、たとえば、合気道がとても好きな人も、それで得ている快感は「身体を動かす」であったり「勝つこと」でったり「コミュニケーション」であったりするわけだ。たいていの人は、文脈的情熱をもって趣味に取り組んでいるらしい。内容的情熱を持つ人は、その道のプロになるという。どちらにも良い悪いはなく、そういう区別があるのである。なかなかこれは面白い区別で、自分のほんとうの欲求を知るのに役立つのではないか。なぜ合気道をするのか。強くなりたい。強いと思われたい。開祖の技を伝承したい。人と沢山のつながりがほしい。稽古後のビールがおいしい。キレイになりたい。ダイエットを成功させたい。袴をはいている自分を鏡で見るのが好き。色んな文脈的情熱があるだろう。いろいろあってもよいが、それを取り違えぬこと。見栄や体裁で自分を見失う人は、こういうところを勘違いするのだろう。恋愛においては、内容的情熱をもって相手を愛せればいいと思う。もちろん文脈的情熱もゼロにはならないだろうけど。「いい女をつれて歩きたい」とか「ぜいたくな暮らしがしたい」とかね。内容的情熱。つまり「ただ、それが好き」いい響きだなあ。
2005年09月23日
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そうなんだよ、「あんなに愛し合ったのに、別れてしまうんだ」じゃないんだ。「あんなに愛し合ったのに、別れることができる」なんだよ。俺は、そこに人間の可能性を見る。「あなたがいなければ、私は生きていけない」そんな依存な時期もあり、「ふたりでひとつ」に思えるときもある。でも、「別れることができる」んだ。そりゃそうだよね。別れは人の背負った宿命だから。信じてみればいいんじゃない?怖いかもしれないけどさ。
2005年09月23日
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人ってのは、つくづくずるい生き物だなあ、と思う。そして、弱い。自分を支えてくれるもの。人はこれにめっぽう弱い。支えに頼ってしまう。さみしいときは特に。しかし、愛の支えを愛せはしない。ただ感謝するのみ。そして支えを求める人へ、愛を。こんなドミノ倒しが、続いていくんだ。
2005年09月22日
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受け身はよくない、積極的でなければ、と言われることがある。しかし、受け身も大事だなと思う。たとえば、肩甲骨まわりだが、固ければ、まず技はつかえない。稽古しながら、だんだんと操作できるようにしていく。しかし、最終的な状態としては、「操作されうる」というのが理想的なのではないかと思う。きっと肩甲骨を操作しているうちは技巧にすぎない。肩甲骨が「動く」状態が良いのではないかと思う。
2005年09月22日
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合気の稽古研究を続けて、間違っているかもしれないけれど、「古人の言いたかったことは、もしかしたらこういうことかもしれない」と思えることが増えてきた。「力を伝える」とか「腰が大事」とか最近、すこしわかりかけてきたところだ。しかし、大東流によく言われる「指を張る」の意味がまったく分からない。色々な張りかたを研究し、また実践してみたが、どうも効果があるとは思えない。一体、どういうことなんだろう。うーむ、わからん。
2005年09月22日
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色んな合気道があります。舞踊的合気道。ガチンコ合気道。技巧的合気道。ほんとはそれらが三位一体になっていれば理想だけど、人は完璧ではない。どうしても偏る。今日は、なぜ僕がガチンコ合気道を捨てたか、というお話です。先日、ついにミルコ対ヒョードルの試合が行われました。素晴らしい試合でした。まさに胸高鳴り、手に汗にぎるスリリングな展開。クールファイターの熱い戦い。やはり格闘技の中で世界最高峰と言われるだけあって、もう、たまらんです。で、結果はヒョードルの勝ち。ホンマに強いわ。あのロシアンフック見てるだけで、寒くなってしまう。そう、ガチンコ合気道のいきつく先は、ヒョードルなんです。あれは、無理でしょう。どうやってあんなのを倒すんでしょ。ヒョードル選手は、人生のすべてを合気にささげた達人・名人クラスならまだしも、仕事の合間に稽古しているような僕が到達できるレベルではない。上に書いた3種類のうち、どの合気道を求めても、立ち合ったら殺されてしまう。これはもう仕方ないから、せめてヒョードルに何か教えられる人になりたい。それなら、なんとかなれそうな気がする。それには技巧的合気道がいちばんよい。僕はそう考えた。ヒョードルと立ち合ったら負けてしまうとしても、彼にはできない「崩し」ができるようになりたい。ヒョードルの「腰」はものすごく強くて、タックルもすごくて、投げもすごい。けどきっと、片手で触れた一点から腰を崩すようなことはできない。僕は、そういうような技を極めて、とても「強い選手」に「こういう世界もあります」と紹介したい。そんな思いをもって、稽古をしているのです。ちなみに舞踊的合気道を捨てた理由は語るまでもありません。機能なき「美」を僕は認めない。美しさとは、意味なのである。僕は舞踊を冒涜しない。
2005年09月22日
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あかぬけた人は、たいてい垢抜けてない人に対して優位にある。そうでないことも多々あるのだけれど、多くの場合、垢抜けた人というのは、垢抜けてない人よりもコミュニケーションにおいて秀でている。「垢抜けるも垢抜けないもその人の個性で、優劣をつけるものではない」という意見もあるかもしれない。しかし俺は優劣をつけているのではなく、現状を分析してそう言っているのでる。ではなぜ、垢抜けた人は垢抜けてない人に対して優位にあるのか。それは、「抜けているから」である。身体がゆるんでいて、力が抜けているのだ。街中のヤンキーや、ギャルを見て下さい。かなり「抜けている」でしょう。胸や、腰周りのやわらかさが、「固い」人とは大違いだ。よく「あの人は固い人だ」というが、これは比喩でもなんでもなく、実感そのものなのだ。ほんとうに、身体が固い。もっといえば、無駄に力んでいる。身体も考えも固まってしまっているのだ。だから「固い」人が優位に立てるわけはない。「固い人」のユーモアは「抜けた」人には通じずに、「抜けた」人のユーモアだけが、「固い」人に効くのである。「固い」人は、どうしても劣等感を抱くだろう。しかし、それを認められずに、「あんなだらしない!」とか「倫理観が狂ってる」などとコンプレックスを裏返して自己防衛してしまう。やっぱり抜けた人の可能性はものすごいんです。ただ、抜けすぎてはいけない。芯がなければいけない。その芯ができたのが、島田紳介や宇梶さんだろう。あかぬけるということは良いことです。垢抜けるとはつまり、自分を壊す営みであります。俺はあと何度、垢抜けることができるだろうか。★今日の言ってみたい一言★(ふとんをめくって、手をあてて)「まだあたたかい。遠くには行ってないはずだ」
2005年09月22日
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昨日、大学の友人にひょんなことから電話をかけたら、思いのほか長くなってしまって深夜にまで及んだのだが、思いがけず、タメになる話をいっぱい聞いてしまった。俺はどちらかといえば頭でっかちな人間だ。論理性思考には自信があるが、いまいち行動にかける。そんな俺にその女友達がポソッという一言一言は珠玉の言霊として、俺の心に響いた。こと恋愛に関して。「恋は頭でするものじゃないわ」とかなかなかスラッと言えないでしょ。「何も伝えなかったら、気持ちがもったいないじゃない」ズドーン!そりゃそうだ。「気になるから誘う。それでいいの。」ごもっとも!「先のことを考えすぎちゃダメ。いま好きなら、いま電話するのよ。」などなど、かなりの名言を俺の心に残していかれました。(ちょっとしゃべり方を演出しちゃったけど)やられた~、って感じだったね。まじで。言われてみれば当たり前なんだけど、なかなか自分で気づけない。それを教えてくれたね。いやあ、貴重な時間でした。先生、ありがとうございました(笑)
2005年09月19日
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俺は文化というのはあまり好きではない。文化という響きには、思考をしないずるさを感じてしまう。たしかにそれは、機能的であるかもしれない。だが文化はあくまで、ケース(具体)に対応するのであり、絶対のものではない。文化はものを「見る」ための手段であり、目的ではない。文化は、基本的に排他的である。奇抜なニューカマーには「いじめ」が待っている。その文化にそまらなければ、新参者は「菌」として排出される。そんなくだらない文化だが、自己の修行には役立つのだ。文化に染まるということは、自我を消す訓練になる。「俺が、俺が」の幼児性を抑えていく練習ができるのだ。だから、仕事というのは大事なのだ。俺の場合は店員を演じるということだが、それによって、成長できる。店員を演じることが大事なのではなくて、店員を演じることによって、自己を磨くのだ。だから、生意気な高校生にも敬語を使える。俺は素晴らしい店員になりたい。それはお客様のためではない。自我を抑えて、成長したいのだ。「郷に入っては郷に従え」というのはこういう意味のあるものと思う。ただ、「みんなに合わせなさい」と言っているのではないだろう。人は、「郷」つまり文化それに染まっていることを忘れたときから、バカになる。思考停止する。あくまで、染まっていることを自覚し続けなければならない。
2005年09月16日
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このごろは、身体が良いものと悪いものを判断するようになってきている。たとえば本。読み進めていくうちに、身体に入ってくるものと、身体が拒否するものが、はっきりと分かれる。変なことをかいている文章は、ぜんぜん読めない。きもちよいことを書いている文章は、身体がうなずいているような感じがする。それに、不思議なことに、「良い本」を読んでいると、自分の尊敬する先生の名前が、偶然でてくる。たとえば、養老猛司、野口三千三、野口春哉の各先生などである。ほかにも、分野を問わず私淑する先生の名前がでてきて、「ああ、一流のものはつながっているんだなあ」と感じている。こうやって、たとえば本の良し悪しをはかってくれる自分の身体を、俺はとてつもなく愛おしい思う。
2005年09月16日
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先日、技がかなり進展して、やっと「下手くそ」になれた、と思った。これは、黒田鉄山先生の言われる「下手」で「駄目」と区別して使われる。「駄目」には可能性がない。歩んでいく方向が間違っていることを指す。「下手」であることは、かなりの自負である。この道を進めばよいのだ、という自信である。暗闇の中に、細くほそく弱弱しいながらも、ひとすじの光が見える。そんな状態だ。そんな時、ふと合気ニュースを読み返してみた。木村達雄先生のインタビューの記事が載っている号だ。木村先生も、何度も勘違いをされたという。「これが合気か!」という進展が何度もあったと話されている。しかし、そのたびに佐川先生に「あんたのは力だ」と言われ、また修行に励んだと言うのである。そんなことを経験した木村先生のお言葉が以下である。「だから、ちょっと何かできると、『これが合気だ』と勘違いする人も多いのでしょうね」ハッとさせられた。なんだかとても恥ずかしい気分になった。もっと俺は恥をかこう。もっと技のかからない人に会おう。自分の下手くそさを、もっと実感しよう。自分のピンチになりかねない、機会を作ろう。これでよいと思ったら、終わりなのだ。
2005年09月16日
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僕は、合気万生道が好きです。あのやわらかい稽古が好きです。道長である砂泊先生の素直さには頭が下がります。雑誌のインタビューで、細かいところは忘れましたが、「昔は形の稽古をしていた。しかし技がかからなかった。 それで、恥ずかしい思いをしたこともあった。効かないときは、当身や四教でごまかしていた。」とはっきりと仰っているのです。この考えがたまらなく好きです。当身や四教で、「倒す」ことはできた。しかし、「これは何か違う」と先生は思われた。それで、「呼吸力」や「巻き込み」を研究されたとのこと。こういうのは、僕の中で限りなく「ホンモノ」です。世界にとって、ではない。僕にとって、です。僕は、「ホンモノ」を求めていきたい。
2005年09月16日
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磁石ってのはさ、中途半端な距離が嫌いなんだよな。ある一定の距離までは、なんの影響も及ぼしあわないのに、射程範囲に入っちまうと、とたんに、すーっとくっついて、ピタッ。てな。まあ同じ極だと、バイーンってはじかれちまうけどな。でも、近づいてみねえと、分かんねえんだ。違う極か、同じ極かはね。はじかれたN極は、後悔とかすんのかな。
2005年09月15日
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あれ、なんのCMだったっけ?松浦あやが出てるやつ。まあ、なんでもいいけど、そのCMの最後にあややが「ダイスキ!」っていうわけよ。でもよく考えたら形容動詞に「大(ダイ)」を付けるのって、かなり珍しいんじゃないか。「大静か」とかあ「大うつろ」とかじゃおかしいし。「大」は「好き」にしか付かないな、たぶん。あ、「大混乱」とかはあるかな。しかも「大」って漢語やしね。なにはともあれ、「ダイスキ」っていい響きだ。
2005年09月14日
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日曜あたりから、かなりすっきりしている。落ち着いている。失恋ソングを聞いても、感傷に浸らない。思い出に頼ることもない。美しい夕陽を俺は一人で静かに眺めている。怒りもない。憎しみも恨みも。俺の失恋は終わったのだ。恋が終わるように、失恋も終わるのだ。あーよかった。一時は終わりなき苦しみにも思えたからなあ。やまない雨はないんだね。
2005年09月14日
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思うに、人格はその関係性において決定するのである。よく「本当の自分を探す」だとかなんとか、訳のわからないキャッチフレーズが流行るけど、結局は、相手(他者)あっての自分であり、自分だけの自分というのは「人間」ではない。俗に言う「内弁慶」という人は、「外での自分はホンモノではない」と思っているかもしれない。しかし、そうではない。内では威張って、外では情けない、そういう人格なのだ。「素」でいられること・楽であること。そういった状態を「本当の自分」と呼ぶのではない。あるグループに所属したら、息苦しいこともあるだろう。しかし、それは「本当の自分」が出せていないのではなく、そのグループでは息が詰まってしまう人格なのだ。そうなってくると、すべての個は差異から生まれるといっても過言ではないのかもしれないなあ。
2005年09月14日
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稽古、というのは字的には「古(いにしえ)を稽(かんが)える」というのは、よく知られたことと思う。つまり先賢の知恵、自然の叡智をおそれること、まなぶこと、自分のものにすること。しかし、実際には「道場に『行く』こと」「先生のいうことを鵜呑みにすること」「同じことを繰り返すこと」「汗をかくこと」という意味に捉えている人が多いと思う。
2005年09月13日
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大東流諸派では、「前に出る」と言われているところがよくあるようだ。なぜ前に出るのか。以前から考えていた。今のところの結論は、「前にでて、相手にぶつかったところで中身が飛び出るから」というところだ。中身といっても内臓ではない。いや、中身というからわからなくなる。「止まらなかった部分」といったら良いだろう。積木を縦にたくさん積んで、猛ダッシュする。それから急ブレーキで止まれば、慣性で上の積木は前に吹っ飛んでいく。つまりはこういうことだと思うのです。
2005年09月13日
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最近思うことは、というか先日の久しぶりの「稽古」で感じたのは、「負けるから勝つのだなあ」ということだ。俺のいう「負ける」は野口三千三先生の考え方に基づいている。つまり「まかせる」ということ。何に「まかせる」かというと、地球・自然・重さだ。自然にまかせたとき、自分はただの「通り道」になり、相手には重さが伝わる。相手に重さが伝わったときは、ものすごく「変な」感じがする。なんとも言えない。相手が勝手に固まっていて、面白い。この感触は半年前に一度、体験したことがあった。しかし、それからすぐにできなくなってしまったのだ。だが、自分の考えになぜか確信があったから、地道に続けてきたらまたできるようになった。しかも再現性をともなって。これはうれしいことです。おっと、話がそれたが、とにかく「負けるから勝つ」ということはあると思う。「負ける」とはつまり自らの弱さ・小ささを知ること。地球を「おそれる」こと。つまり愛すること。そうすると、重さが使えるようになるんだと思う。
2005年09月13日
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けさ目が覚めると、なぜかとてもさみしかった。一人であることが、ではない。俺から、何かが抜け出ていったような気がしたのだ。昨日、俺があずけていたモノを返してもらった。会話をかわすこともなく、目を合わすこともなく。怪しい取り引きのように、「あの場所にブツを置いといてくれ」という形で。こうやって、色んなものを返したり、返されたりしていくのは、なんてかなしい作業なんだろう。せっかく編み上げたセーターはパラパラとほどけて、ただの糸になっていくのだ。不思議と俺には、あの恨みも憎しみも、ほぼ無くなっていた。そしておかしなことに、あの憎しみがなくなってしまうことにさえ、さみしさを覚えていたのだ。憎しみがなくなることはつまり、その反対の感情も同時に無くなってしまうことを、俺は知っていたのだろう。それとともに、友情にも似た愛というやつも、消えていく。いや、消したのだ。対象がなければ、感情も生まれない。どうしても認められない。信じられない。たった2年。しかしそれは俺にしてみれば、とてつもなく長い時間だった。俺にとっての「当たり前」を形成するのに、あまりある時間だった。それが無いということ。それを身体が理解してくれない。だから消してしまうしかなかった。俺は苦しかった。「信じてる」という言葉に甘えていたおかげで、「裏切られた」ような気さえしていた。怒りにさいなまれ、どうしようもない夜もあった。しかし、今は違う。無い!何も無いのだ。もちろん、解放されたような嬉しさもある。けれど、無くしたさみしさが、大きい。「これで終わったんだ」安堵と寂寞が同時に訪れる。嬉しくも悲しくもないような気分だ。今日も涙は流れない。
2005年09月11日
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昨日の稽古のせいで、全身が筋肉痛になってしまった。もちろん、力んで技をやっていたからではない。たぶん、受身のせいと思う。受けは、どうしたって少しは筋力を使う。技にかかりやすくしてあげるには、力んだほうがよいからだ。よく「受けをとって、体を作る」などと言われているが、結局その考えでは筋肉思考を抜け出せておらず、常識にとらわれたままなのではないだろうか。ほんとうにうまい人に、ヤラセなしで投げられるのは稽古になると思う。しかし、自分から受けをとってあげる稽古はほとんど意味のないものと思う。
2005年09月11日
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・「これ、ごはん何杯でもいけるわ」ってだいたい5杯くらいで限度だろ!・「三国志のキャラたちは、中国語で話していた!」・「最近アツイのは、ほしのあき。」・「人間、一度好きになったら、そう簡単には忘れられないのではないだろうか」・「ほんものは、ゆらぐ」・「思い出は、いつもバカ」・「愛とは偏りである」
2005年09月10日
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今日の稽古は、ものすごく勉強になった!!今日は確実に上手くなった!!以前書いた理論が実際に使えたのだ。「あの技は、こういうことなんじゃないか?」と、理論を立てて、技ができたのははじめて。色々な動画を見て、かなり確信はあったのだけれど、実際に効くとなると嬉しくてたまらない。合気上げ・合気下げ(立・座)、四方投げ、いわゆる「浪の下」、胸・肩・頭による崩し、などが、自分の望む崩し方ができた。もちろん何度も失敗はあった。しかし、ここまでイメージどおりにできたのは初めてのこと。この術理をなんて名づけようかなあ。感覚に基づけば「~波」っていうのがいいかな。また考えておこう。僕は心が狭いので、詳細は秘密にします。これは教えたくない。まあ、分かる人はこの文章を見ただけで、「なんだ、あれのことか」と分かるだろうけど、自分からは言わない。これで、自分の目指す技に、かなり近くなった。もちろん、これでよいとはつゆも思わない。しかし、今日のところは満足。いちおう動画も撮ったけれど、公開は検討中。まだ、技の動作が大きすぎて、術理がバレそう。もっと動作を内在化してから公開しようかな。よし!方向性は固まってきた。未熟ながらも、可能性が見えてきた!やってできないことはない!あ、そうそう、ちなみに今日受けを取ってくれたのは、合気道歴半年の初心の方。だからこの技術は、いわゆる「初心者にはかからない技」ではない。ちなみに、持ち方は思いっきり持って俺の技に抵抗するというもの。受けは基本的には(痛められたりしない限り)逃げない。やっぱり稽古は「技のかかりやすい人」とやるに限ります。「まず、易きよりはじめよ」(oze名言)です。それで感覚を掴むのです。「上の人」につくのも良いですが、その場合は「上の人」が「立場が上の人」ではなく、「実力が上の人」をさがすことです。これは重要です。柔道にも空手にも相撲にも、上手くて強い人はたくさんいて、僕なんかをコテンパンにできる人は星の数ほどいるでしょう。しかし、彼らは僕の目指す先ではない。つまり「上の人」ではない。土俵が違うのです。ピアノを練習しても、ギターは上手くならない。みんなそれは当たり前だと思っている。しかし、実践できている人は少ない。そもそも、ギターのことを知らないで、ヴァイオリンばかり練習している人もいる。「本当にこれでよいのか?!」稽古とは、常にこんな疑問ともつかない不安を持ちながらするものと思う。
2005年09月10日
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叱ることというのは、意外にも甘美なものだ。もちろん叱られるのは嫌なものだが、叱ることは破滅的な誘惑を備えている。人間は、なぜか「ダメ人間」が叱られるのが好きらしい。テレビでよくある、「デブがダイエットを途中で断念して、厳しい人に怒られる」番組。あれなんかは、「叱ることの甘美」そのものと思う。はじめは「ぜったいヤセます!」って言ってたのに、一日目のウォーキングで「もう無理だって~」とか言い出すのを厳しい先生が「死ね!」とか言っちゃうくらいの勢いで叱咤する。あれを見てるとき、俺たちも一緒になって叱ってるんだよね。たぶん「自分はあそこまでダメ人間じゃないな」という安心感を得たいのだろう。その証拠に、ダメ人間がどこまでダメか、その最もダメな部分をみたいと思っている。見ていると不快になるのに、ここまで見たら見届けたい、みたいな不思議な気分でダメ人間を見続けてしまう。やっぱり叱るということには甘美な響きがあるよ。その誘惑に耐えられずに、叱ってばっかりの教師とかっているよね。弱いね。同じような破滅的な快感は「学校へ行こう!」っていう番組にも見られる。最近は見てないけど、俺が見てたころは明らかに、「イジメの快感」をテレビ用に美化して放送してた部分があった。あれを楽しんでいる人はそういうことを分かった上で楽しんでいるのだろうか。心の奥底では知っているけど、知らないふりをして楽しんでいたのだろうか。破滅的快感は刺激的で甘美だ。しかしそこから抜け出せずば、あとは堕ちていくのみ・・・。
2005年09月09日
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最近の俺といったらなんだ。訳のわからない行動だらけで、自分でも意味がわからない。何がしたいかわからないけれど、いや、何をしたいのかを分からないから、何かをしてみて、これも違うあれも違うとボヤキながら、それでいて何もしないわけにもいかず、闇雲に動いては、またそれを否定する。慟哭への衝動。かなしみの底に沈んで、涙が枯れるまで泣くことができたらどんなにか楽だろう。しかし俺の涙はひとつぶで終わってしまう。かなしみがないのではない。しかし涙は流れない。俺は泣きたいのではないらしい。かといって晴れ晴れしているかといえばそうでもない。怒り、悔しさ、みじめさ。比べることによって起こる「不幸」。とはいえ、今からどうにかしてやろうという気持ちにもならない。俺はいったいどんな結末を望んでいるのか。せっかくのチャンスだ。いっそ壊れてしまおう。俺はもう一度生まれ変わろう。倒錯した世界へと、足を踏み入れてみよう。破滅の魅力が俺をいざなう。堕ちていくエネルギーを創造へ!!カッコイイことなど言わない。思うがままに。たとえ誰かを傷つけるとしても。
2005年09月09日
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俺は本屋。色んな人が色んな本を買いに来る。 最近つよく印象に残っているのは、いわゆるゲーム攻略本というやつ。ゲーム発売と同時に発売されるようなものもある。 そんで、それを小学生くらいの子が買いにくるわけですよ。まあうちは儲かるからいいけどね、でもその子にとってはどうなん?なんでそんなにすぐ攻略本にとびつくん?そう軽々と易きについていいのかい? いいか、子どもたちよ!ゲームはあくまでゲームでしかない!人生には、攻略本なんてないんだぜ!ついでにリセットもできないぜ。犯した罪も、治らぬ傷もすべて背負っていくんだぜ。薬草なんかじゃ治らんぞ!
2005年09月02日
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「腰が大事」というのは、腰の筋肉が大きな力を持っているからではないだろうと以前から俺は思っていた。もし腰の筋肉の大きな力を使うのだとしたら、結局は力くらべになり、俺の目指す武術とは関係がない。 最近の研究の成果では、腰は「力の方向性を決定する場所」と思う。「均衡と不均衡のバランスの地」と呼んでもよいと思う。その意味で、腰はかなり重要。はじめは「先生」の教えを鵜呑みにし、腰は大事と思っていたが、途中から腰は関係ないと考えだした。しかしまた、今後は自分の頭と身体で考えて、「腰が大事」と思えた。すごく嬉しい。これが先賢のいう「腰」かどうかは知らない。でも自分で体感している自負がある。頭を使わないで稽古して、実感のない言葉をもてあそぶ輩には一生わかるまい。宙に浮いた言葉には、虫酸が走る。
2005年09月02日
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俺は、知らぬ間に自分と約束を交わす。それは決意と言ってもいい。「~するぞ」と言葉にして思うこともあれば、「自分はこれをするに違いない」的な確信がやってくるときもある。俺が大切にしているのは後者の、いわば「勘」みたいな部分。これは「自分の声・身体の声」で、こいつをおろそかにするとロクなことがない。やっぱり自分にウソはつけんのです。素直がいちばんです。でも状況によっては「素直」になるために、かなり勇気を要する。ちょっとしたことなんだけど、けっこう勇気がいる。まあ、このギュッと勇気をふりしぼる瞬間は、かなり快感なんだけどね。「生きてる!」って思える。変化を恐れず、余分なものをそぎおとして、ウソは捨てて、俺をもっと大切にしてやりたい。
2005年09月02日
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万博ついに行っちゃったよ~。朝5時起きで7時すぎから並んだら、9時ごろには入場できた。めちゃ日差しが強かったけど、風は涼しかったので助かった。入場したら小走りで三菱未来館の当日予約をとってからワンダーホイール展覧車に並ぶ。20分くらいで入館できて、まず一つ企業館を制覇。なんかこれで目的の半分くらいは達成された気分だった。あとは空いてる外国館をチラ見&チラ見。ぶらぶら歩きながら、閉場近くまで、万博を満喫してきた。かなり楽しかった! まあどこかのおじさんが新聞に投書してたように、「自然の叡智」はほとんど感じられないけどね。企業と芸術家の最先端の披瀝と、商売っ気たっぷりの外国館。申し訳程度に添えられたテーマには、自然の感動を伝える力はなかった。まあ老若男女が楽しめる、つまり万人向けではこれが限度だろう。昨日の入場者数は24万人を越えたという。これだけの人数を人工的に楽しませるには、ある種の偽善的な、永続的な笑顔のような、悪を排するキモチワルイ潔癖が必要になってくる。子連れには「けがれ」のない場所がいる。 けどね、万博はとても楽しいよ。あなたも最後に「駆け込んで」みたはいかが? PS合気通信:合気道の身体づかいのおかげで歩きまくったにもかかわらず、かなり疲労は少なかった。ただ軽いふくらはぎの筋肉痛となぜか右大転子のきわのすじが少し痛い。まだまだ稽古が足りないな。
2005年09月02日
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ピーコが嫌いだ。 毒舌キャラのつもりかもしれんけど、聞いてて腹の立つ発言しかできないし、それで笑いをとろうとしてるし、しかもスベッてるし、テレビに出るのはファッションチェックだけにしといてほしい。
2005年09月02日
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