2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全43件 (43件中 1-43件目)
1
よく見たら、ふだん履いているジーパンがボロボロになっていることに気がついた。で、新しいジーパンが欲しくなったわけだ。それでなんか言い訳をつけて買おうと思ってつい、「クリスマスに、自分へのごほうびで」なんて思ってしまった。が、しかし。よくよく考えたら、俺ごほうびもらえるようなことしてねー。むしろ懺悔の日々だよ。ごほうびなんてなんか善いことをした人がもらうもんでしょ。俺がもらうなんてとんでもございませんYO。毎朝、目が覚めて今日一日生きられるということが最大のごほうびですよ。それでいいんですよ。自分にごほうびをあげたいなんて人は、かなりしてらっしゃるんだろうな~。
2005年11月30日
コメント(0)
ぶっちゃけ、韓流スターってキザいだけじゃない?
2005年11月30日
コメント(2)
そもそも「正当な評価」という語彙じたいが、矛盾していると思う。まあ、言ってしまえば給料とかね。ほんとうに正当な給料なんて、カミサマしか分からんでしょう。だから結局、正当かどうかではなく、納得がいくかどうかという主観の話なんだ。そう簡単に正当な評価とか言うもんじゃないと思う。
2005年11月29日
コメント(0)
こんな禅話がある。ある偉いお坊さんがいて、弟子と一緒に街を歩いていた。そこへ、ものすごい美人が通りかかった。すると偉いお坊さんはすれ違いざまに美人をじろじろ見た。寺に戻り、弟子が偉いお坊さんを問い詰めた。「和尚、さきほど美人に見とれましたね。 そんなに俗欲にまみれて良いのですか?」偉いお坊さんが言った。「ああ、そんなこともあったかのう。確かにワシは美女に見とれたかも知れぬ。しかしワシはそんなことはとっくに忘れておった。そんなことを今の今まで心に留めているお前の心をこそ、囚われているというのじゃ」というお話。これは面白いと俺は思ったね。束縛されぬ心の本質、欲望をコントロールすることの本質を見た気がする。欲望を抱いてはいけないのではない。欲望をいかに認め、いかにコントロールするかだ。怒り、憎しみ、後悔、罪悪感・・・。人間にはマイナスの感情がたくさんある。いや、感情のほとんどはマイナスだ。それを抱くなというのは、どだい無理な話だ。上記の禅話が教えるのは、そのマイナスの感情を抱く自分をゆるしてやれ、ということ。「ゆるす・みとめる」ができなければ不幸になる。たとえば何か失敗をした。そんなときは誰でもショックを受け、ヘコむ。大切なのは次のステップ。ヘコんでいるということを認められるか。ショックをいけている自分をゆるしてあげられるか。「マジ、へこむわあ」と言えるのはかなり良いことと思う。よくないのは「ああ、失敗してまたへこんじゃった。俺って弱いなあ。弱いなあ、だって。またマイナス思考だよ。プラス思考したいのにできないよ。俺ってダメだなあ」と良くないほうへ良くないほうへ自分で運んでしまうのだ。誰だってへこむ日はある。だからどんどんへこめばいいのだ。へこむことは悪くない。無理に治そうとするから疲れるし、ほんとうに回復しない。ちょっとくらいへこんだって、ほっておけば治る。そういう考えはタイトルのような発言につながる。「ビデオ録画忘れた。でも仕方ない。」「10%割引券忘れた!でも仕方ない」「大失敗やらかした!でも仕方ない」マイナスの感情を無理に治そうとしないこと。それはそれでいいんです。それはそういうもんなんです。仕方ないから諦めよう。つまりは囚われないということに囚われない、ということだと思う。その矛盾をいかに乗り越えるか?よくよく吟味すべし。
2005年11月29日
コメント(0)
俺らは夢を抱く。つまり幻想を見る。それを俺は経験欲と呼ぶ。「やりたい」のではなく「やってみたい」という感情。幻想におどらされているうちはダメだ。対象を観ることができずに、自分ばかり見ている。酔っている。合気道で言えば、カッコばかり気にする初心の時代だ。道着を着ている自分がカッコイイ。黒帯を締めている自分がカッコイイ。受身がキレイな自分がカッコイイ。派手な演武の自分がカッコイイ。木剣を振っている自分がカッコイイ。正座して黙想している自分がカッコイイ。口では「合気道が好き」と言っている。しかし本当は自分が好き。今度は自己を批判してみよう。スーツを着ている自分が好き。(最近は寒いから着てないけど)着物を着て生活している自分が好き。「明日も仕事だよ」といってる自分が好き。変人と言われる自分が好き。そしてもうすぐクリスマス。街にあふれるカップル。手をつないでデートして、クリスマスディナーを予約して、プレゼントを交換して、夜景を見て。幻想!幻想!すべて幻想だ!コトバにだまされるな!カタチにとらわれるな!名前にあこがれるな!お前がしたいのは本当にそんなことか?帯の色なんて関係ないだろう。スーツが決まってる、とかどうでもいい!なんで2000年前の人間の誕生日に「ふたり」でいなきゃならねえんだ!幻想は楽しい。しかし幻想に気づいて楽しむのと気づかぬのでは大違い。幻想に気づけ!「っていう感じ」にうぬぼれているだけだ!「武道家って感じ?」「ビジネスマンって感じ?」「恋人って感じ?」そんなんだから本質を忘れちまう。本質を見失うな!「一度くらいそうなってみたい」という感情は認める。しかしそれは「そうでありたい」とは別物!そこに気づけるか?夢はかなったら夢じゃなくなるのが良い。「なんだこんなもんか」そしてまた次の夢を!ひとつの夢におぼれたら、そこに沈んで一生を終える。
2005年11月28日
コメント(0)
最近発見したヒミツをあなただけに教えちゃいます!(笑)それは、「頭と尻を結んだ直線と、膝とくるぶしを結んだ直線は平行」ということ。こうすると、大腿四頭筋の緊張が少ないような気がする。あと、しゃがんだ状態から立ち上がるとき、腰というか背中というかお腹というか、なんかそのあたりに「うっ」と力をこめると、ふわりと立ち上がる。お腹にある風船がふくらんで、身体を運んでくれる感じ。原理はわからないけど、新しい立ち方だ。要研究。あとは、小手返しの型で、合気の突きができるのでは?と考え中。そんなところです。
2005年11月28日
コメント(4)
あなたの意外な一面を見たとき嬉しさよりも前になぜか少し寂しくなるのです
2005年11月27日
コメント(0)
「相対」絶対主義者は、結局は「合う」ことなのだとのたまう。正しいことなどないのだ。良い・悪いはすべて個性なのだ。すべては差異なのだ。という意見。一時はこの相対主義に傾倒していたが、最近は、相対主義には「成長」がないと思ってきた。相対主義には軸がない。階梯もない。すべてがフワフワして、つかみどころがないのだ。だから、甘い。具体的に言えば、自分に「合う」人とばかり付き合うということ。自分と「合う」人といるのは居心地がいいが、成長はない。俺は、人間が成長すれば付き合う人が変わってくると思う。たとえば愚痴ばかり言う集団にいて、自分も愚痴をこぼしてばかりなら、そういう人間で終わるだろう。だが、そこから抜け出し成長を目指すなら、はじめ居心地がよかった愚痴集団は不要になるはずだ。そう、成長するにつれて、以前は居心地のよかったものが不要になることがあるのだ。最初に使っていた踏み台は、自分のジャンプ力がアップすれば、いらなくなるのと一緒だ。そう、絶対主義には成長がある。その基準は変わりうるものだが、なにかしら基準は必要である。まとめよう。基準、つまりを選ぶのは自由である。そこは相対主義。あの道も正しい。この道もただしい。に貴賎はない。しかし、人はを選ばねばならないし、を自分の足で歩まねばならない。俺はそう思う。だから、「ナンバーワンよりオンリーワン」なんてふざけた甘えなのだ。こんな言葉に甘やかされる奴もどうかしてる。ナンバーワンどうしが、「俺たちはオンリーワンだよな」と肩を叩き合うのだ。ドベはドベ。ブービーはブービー。ナンバーワンのが素晴らしいのだ。個性なんかくそくらえだ。個性は、最後の最後に出てくるものだと思う。
2005年11月27日
コメント(2)
どうにもならないことなんてない。自分が動けばなんとかなるってことは分かってんだ。ただ今は、ちょっと疲れちまってんだ。たまには休むのもいいもんだよな。
2005年11月27日
コメント(0)
僕の尊敬する人というのは、だいたいみんな頼ることが大嫌いなようだ。自分の身体に責任を持っている人が多い。風邪はもちろん、腰の痛み、胸の痛み、腹痛、出血・・・。そういうことがあっても、「なんとかして自分で治してやろう」という人ばかりだ。だから、自分の身体の声を聴くすべを持っている。身体に正直になるための鋭敏な感覚を持っている。だから、不自然を感じることができる。自然に近づくことができる。俺はそういう方向を求めたい。
2005年11月26日
コメント(3)
不幸だということはある意味で、傲慢だということだ。不幸には後悔がつきものである。「あの時、ああすればよかった」「ああしておけば、幸せになれたのに」後悔も、不幸と同じく傲慢である。なぜか。それは選択しなかったほうの運命が幸せだったと、自分勝手に決めているからだ。それがに対する傲慢だということ。「あの時、ああすればよかった」「ああしておけば、幸せになれたのに」こんなものは不幸をもてあそび、悲劇を演じているに過ぎない。AとBで迷ったが、結局Aを選んだ。しかし、それは思ったものと違った。それならBを選んでおけばよかった?違う!Bを選んだって、Aと同様に思ったものと違う可能性はあるのだ。実際には、というものは存在しない。すべてはである。であり、である。今は就活まっただなかだけど、会社選びだってそうでしょう。色んな会社の長所と短所を調べつくして、自分に合ったよい会社を!みたいなのにはもうウンザリ。どれだけ調べつくしたって、入ってみなけりゃわからない。思ったより、良いことも悪いこともある。就職活動で知れる情報なんてほんのコンマ何パーセントだろう。最後は直感。身体が納得するかどうか。勤務地はどこで、給与はどうで、ボーナスは?出世は?福利厚生は?上司は?会社の雰囲気は?それを全部して、これがこうで、この会社に決めました!なんて大抵ウソっしょ。そんなんはっきり言えるなんて、そうとうしてるってだけ。幸せにゃほど遠い。おっと話がそれてしまった。なんで俺は昨今の就活事情を批判してるんだ(笑)とにかく、選択を迫られたら、「歩むが道!」といって進むしかない。俺が踏んでるこの大地が、「しあわせ」なのだ。
2005年11月23日
コメント(0)
言葉はかならずウソだ。本当の言葉があるとすれば、それはものすごく長い文章になるだろう。言葉は約束だ。人間は同じ感情を持つという前提の。信じあえなくて、どうして言葉が伝わる?いや、信じれば言葉は伝わる。ウソとしての言葉が伝わるのだが、真実が伝わる。いや、真実ではない。「信」実だ。俺の感情は一生誰にも伝わらない。他人の感情は一生誰にも分からない。だから信じるしかない。それは言葉を、ではない。言葉を越えた何かを信じねばならぬのだ。言葉とは感情をお届けする冷凍パックである。受取人は解凍せねばならない。言葉にしたら終わりなんだ。生の感情は凍ってしまう。でも、言葉にしなきゃならない。何かを信じて、言葉にし、何かを信じ、言葉を受け取る。言葉にしていいときと、言葉にしなくていいとき。その使い分け。「好きだ」の一言で足りるとき。足りないとき。俺は今、言葉が嫌いだ。何も言いたくない。
2005年11月23日
コメント(0)
まだまだ頚部と胸部の癒着が激しく、到底、自由とは言えない。首がスッとなり、頭がポンと乗れば、もっと成長できるだろう。あと、ちょっと怠慢が首をもたげてきたので、また屈辱を味わいにいこう。
2005年11月23日
コメント(2)
抜き放たれた刀身は、真剣かあるいは竹光か。その真価を世に問え!後悔なき未来を思え。果たして勝つのは武蔵か小次郎か。
2005年11月22日
コメント(0)
今日の日記はたぶん愚痴だ。小さいことを見つけてはすぐにピーピー言う人がいる。人のアラを探すのが趣味なのかもしれない。アラ探し的にミスを指摘されると、どうしても認める気にならない。もちろん、俺がすっと認めればいいことなんですよ。でも俺もそこまでオトナじゃない。やっぱ言い方ってもんがあるでしょう。まあそういう人は治らんでしょうね。俺も言い方には気をつけよっと。相手がミスを認めやすい状況を作ってやること。糾弾したって、自己満足にすぎなくて、双方にいいことないもんね。で、俺は俺で、どんな言い方をされてもミスは認める、というのをがんばってみよう。でもごめん、やっぱ最後に一言いわせて。「へだいなしいうな!」(会津弁で「つまらないことを言うな」の意)
2005年11月21日
コメント(0)
形のあるものは必ず壊れる。その反対は、「形ないものは必ずしも壊れない。」つまり形なきものも壊れることがあるということです。
2005年11月19日
コメント(4)
車を買いたくなったので、地元のディーラー(?)に見に行った。候補は二つ。スターレットかサニー。未来は、ここにない。未来は見えぬ。しかし今、選ぶしかない。二つも車を買えぬ。どちらかを選ばねばならぬ。どうしたら後悔しない決断ができるか。車など、乗ってみてば分からない。税金のこと、年式のこと、安全性のこと運転のしやすさ、ガス代、排気量・・・。選択の基準が多すぎる。二つ、買いたい。二つとも乗ってみて、良かった方を選びたい。しかしそれはできぬ。選ばねばならない。今見えている、「いま」という表紙だけを頼りに、未来というページをめくらなければならない。決断することは、諦めることだ。何かを得ることは、何かを捨てることだ。住まば都。とはいえ、住めば都。しかし、住まば都。いや、住めば都だ。決めちまえよ。決めるのも決められるのも捨てるのも捨てられるのも、苦しいのは迷ってるときだけ。決めちまえば、ラクになれるぜ。未来なんて誰にも分からないんだ。人間万事、塞翁が馬。決めちまえよ、ほら。さあ、決断のときだ。
2005年11月19日
コメント(3)
宇城先生の「武道の心で日常を生きる」を読了。う~ん、いい本だ。だが、一点だけ「あれ」と思う部分があった。それは「宗教と(武術)は決定的に違う部分があります。 宗教は『他力』ですが、武術は『自力』であるところです」という部分。僕は、武術こそ究極の「他力」発想なのではないかと思っている。もっと言えば、武術は宗教であるとも思っている。これを読んで「ふざけるな」と思う人は、おそらく宗教をバカにしている。低く見ている。僕は本来的には宗教も身体性をともなうものだと信じている。宗教が「無思考」で単に「開祖」をあがめたてまつるだけのものだとは思いたくない。もちろん、言葉だけの教義と無思考に堕してしまった「宗教」もあるだろう。しかしそれは武道にも言えることで、武術のいい点と宗教の悪い点を比べて、武術家が宗教家をバカにすることはできない。武術をやっていれば、自然と「神」をうやまうようになるだろう。それを野口三千三先生は「おもさの神」と呼んだ。そこに、我を捨てた「任せ」が生まれる。自分は神(の力)の通り道となる。自分は透明になる。則天去私であり即「地」去私である。そして他に対する自信が生まれる。神(天地)に対する、謙虚さが生まれる。武術は究極的には宗教である。と、若造の僕がこんなにも偉そうなことを言ってのけるのだから、言葉とは信用ならぬものと用心せねばならない。
2005年11月18日
コメント(2)
ヒマな時間はもったいない。時間は貴重だ。しかし不思議なことにヒマな時間はできる。どんなに管理しても、管理に予想外はつきもの。ポッと時間に空白ができたりする。さて、どうする?ヒマができたらぼおーっとする?答えはNO。読みかけの本を読むのだ。何かで読んだ。「読みかけの本があることは幸せだ」まさしく。言い得て妙。しかし本といっても、実際に書籍である必要はない。俺にとっての本とは「合気研究」だ。ヒマだなあ。はい、稽古。お、時間ができた。はい、稽古。電車がぜんぜん来ないよ。はい、稽古という具合に、ヒマが見事に有効に使える。なんでもいいと思う。カレのためにセーターを編むのでもいいでしょう。実際に本を読んでもいいでしょう。ルービックキューブをやるのもいいでしょう。つまりは、「やりたくてやりたくてたまらないことを持て」ということになるのです。そうすると、普段はできないんだけど、それが空白の時間にすっとはいってくる。まったく無駄がない。俺は一生かかっても読みきれない合気研究という本を手に入れた。ああ、幸せだ。
2005年11月18日
コメント(2)
最近感じるのは、身体の刃筋を整えるということ。突きや蹴り、そして小手返しの型で、身体の刃筋を整えると、すっと手足が出る感じだ。なんといったらよいのかよくわからないが、とにかくすっと手足が出たときは気持ちいい。透き通った感じ。この感じを強めていきたいと思っている。
2005年11月16日
コメント(3)
清潔だということは、一般に「良い」こととされている。しかしそれだけに偏りすぎると、なんともならなくなる。清潔とはなんだろう。不潔とはなんだろう。清潔は一種の「礼」であるとも思う。相手をおもてなしするのに、不潔では「失礼」だ。ここでいう「失礼」は「心の暖かい交流」をする準備ができていないということ。形式の礼は関係ない。清潔は一種の礼儀であるが、それもやりすぎると相手は不愉快になる。けっきょくは相手に合わすということ。「キレイ」だから「良い・正しい」のではない。心の暖かい交流のために、「清潔」が必要なのだ。だが、純潔がそうであるように、清潔もまた、やりすぎれば「弱さ」になる。家のどこにもホコリひとつ落ちていない状態。それはそれで、美しいかもしれない。しかし、その状態を保つことばかりに腐心して、他のことがおろそかになれば、それは本末転倒というもの。友達が遊びに来て、ポテトチップスひとつこぼそうものなら目の色を変えて、大騒ぎ。そんなんでは、友達もいなくなる。人間は本来的に清潔でも不潔でもない。逆に、清潔であり不潔であるのだ。ちょっとぐらいの汚れものならば、残さずに全部食べたいものである。その意味で、この日記は「無浄随感」、清く正しくならずに、思ったことをそのまま書こう、というものなのだ。白河の 清き流れに 魚住まず 濁れる田沼 今は恋しき
2005年11月16日
コメント(0)
バイトの「こまった君」が近々に辞めるらしい。彼はほんとうに「こまった君」で、俺も社員としてかなり手を焼いていた。というのは彼は相当のコドモで口から出るのは一に言い訳、二に言い訳、三四がなくて、五に自慢という感じだった。当然のごとく、バイトのみんなからけむらがられていた。けれど彼は精神的自立ができてないのだろう、あまりにも未熟な精神は、他人との距離がとれず、妙に慣れなれしかった。それでいて、すぐに手柄をたてたがり、ちょっとファインプレーをするとその詳細をつまびらかに話してくるという有様で、バイトのみんなをして「がんばって探しても長所が見つからない」と言わしめるのも、ある意味当たり前だった。そんな彼が辞めることになった。普段温和な店長からの、厳しい注意が効いたのだろう。辞めることを決意してから、彼のため息は増えた。重い足取り、重い表情、重い呼吸。これらは、すべて自然のものではない。作為に満ちたわざとらしい「演技」。しかし彼の中では演技ではない。自分が演じていることに気がついていないのだ。それか気づきたくないのだろう。俺らに気持ちを伝えないのは分かる。だが、誰も聞いてくれはしない。「俺が辞めてもさみしくないよね?」と聞いても、みな口を閉ざすばかりで、「さみしいですよ」とウソさえも言ってくれない。さすがの俺も少しかわいそうに思った。しかし、情にひきずられてはいけない。彼の「悪行」の数々を慮れば、これは当然の報いなのだ。冷たいようだが、これがコミュニティの現実だ。この経験を通して、彼が少しでも人間関係について学んでくれたらいいな、と思う。そしていま俺の胸にある、なんだか重くて苦いかたまりも俺の成長の一材料となるのだろう。キラワレモノの末期は、誰にも幸せをもたらさなかったのである。
2005年11月14日
コメント(2)
★ことわざ改変シリーズ 飼い主に手をかまれる。 2階から胃薬 犬も歩けば、サマージャンボ宝くじにあたる 猿も木から落合監督 寝耳にミミズ ★よくあるタブー 事務所的にNGです。★ozekeyの「よく考えてみろよ」 コブクロって、子宮のことじゃないのかよ。★突然マジメに「愛するってことは、感情や行動ではないと思う」★アキバで「萌え」の対義語は「萎え」だと思う。★
2005年11月14日
コメント(0)
困難とは陰のようなものである。逃げればどこまでもついてくる。しかし、自分自身が止まれば、困難は追ってきたりはしない。そして立ち向かえば、その陰は逃げていくのである。
2005年11月14日
コメント(0)
X JAPANの「Forever Love」を原曲キーでコンプリート。
2005年11月14日
コメント(0)
相手の力をいなさないことが大事だ、ということに気がついたのはいいが、結局自分も相手が強いと感じると、いなしてしまう。まあ以前はいなすことが全てと思っていたから、それに比べれば、すこしは発展したんじゃないか。いなすことを俺は「ヒマラヤ理論」って呼んでた。インドがユーラシア大陸にぶつかって、ヒマラヤ山脈ができたみたいに、力と力がぶつかって、いなされて新しい方向にいく、それを技だと思っていた。しかもそれが合気の愛だと勘違い。恥ずかしくて、冷や汗もんですね。まあ身体も今よりまったく出来てなかったし、ヒマラヤ理論もそれなりに体系化できて説得力があるもんだから、俺はかなり納得していたんだけどね。今となっては、もうそんなそんな、力ぶつけた時点で負けだし、相手の力をいなしたら、もう途切れるし、それは違うっしょ、ってタイムマシンにのって昔の俺を正してやりたいくらいだけど、まあ過去のことはおいておこう。それに、未来の俺がきっと「ああ、あの下手くそめ」といって、今の俺を見ているだろうから、まあさっさと稽古でも始めようかな。話がかなり「いなされて」しまったが、何が言いたかったかと言えば、俺も偉そうなこといって、「いなし」を使っていたのだと気づきました、ということです。反省です、ということです。
2005年11月13日
コメント(2)
くっそ~。やっぱし効かないなあ。まあ新たな稽古法をはじめてから一週間だから当たり前か(笑)ちょっと忘れないように新しい観点をメモしておこう。★波、胸肩の抜き(既存)★二重螺旋構造★緩急自在★割れと正中面(右と左の意味を知る)★技の形で鍛錬する★つま先と「浮き」、そして「肚(はら)」★鍛えるべき筋肉★姿勢の大事わー、「ごちそう」がいっぱいある。言葉はごちそうです。噛んで噛んで、飲み込みます。そしてまた、つぎのごちそうへ。これが武の無限ご飯(笑)
2005年11月13日
コメント(0)
ずばりと抜き放たれた刀は、つまるところ何も斬ることがなく、いや峰打ちと素振りを繰り返すだけで、すと鞘の中へと入りき。嗚呼、鞘の中で風が鳴る。
2005年11月12日
コメント(4)
目の前の人は憎めないと思う。どんなに嫌な人でもその場にいて、たとえ愛想笑いでもしていると本気で憎むことはできない。もちろん陰では本当に嫌っている。しかし、嫌っていることを悟られぬためにちょっと仲良い感じをだすと、その瞬間は憎む気持ちは消えている。これは、身体活動がいかに心に影響を及ばすかという証であり、また「脳は一度にひとつのことしか考えることしか出来ない」ということの証左でもあると思う。たとえ瞬間的にいろんな考えが浮かぶとしても、その一瞬一瞬はやはりひとつのことしか考えることは出来ないのだ。これを「思考の線状性」と呼ぼう。この思考の線状性のおかげで、人は忙しくしていれば、悩みも減るのである。たしか芥川龍之介の言だったと思うが、「恋愛の痛みを消してくれるのは、 理性ではなく、多忙である」みたいなのを読んだ。まあうだうだ考えず働けっちゅうことか。おっと、かなり話がそれたな。で、まあ「その場にいる」「会う」ということは大事なのだなあと思った。「会う」って不思議だなあ。「会う」ってなんだろうなあ。「会う」って素敵だなあ。
2005年11月10日
コメント(8)
最近言われること。「やせたね。っていうかやつれたね」と「手が黄色いね」その二つくらいしかない。僕は病気ではない。大いに健康である。無駄な心配はゴム用。いや、ご無用。手が黄色いのはみかん好きだから仕方ないのだ。別に肝臓が悪いわけではないのだ。黄色人種の代表格なのだ、俺は。だからみんなこの黄色い手をうらやましがりなさい。ムキーっ!!
2005年11月08日
コメント(0)
人見知りする人はそれが何か悪いものであるように「俺(わたし)人見知り激しいから・・・」という。しかし俺が最近思うことは、ほんとうにまったく人見知りしないやつというのは結局、ただ人と人との距離感が分かっていないだけで、深く人と交わることを知らないのではないかと思う。そういうやつに限って群れている気がする。人見知りとはおそれである。人をおそれることは良いことだ。他人との間に距離を感じることは素晴らしいことだ。それを埋めるプロセスこそが楽しいのだ。人見知りはするものだと思う。
2005年11月08日
コメント(0)
大衆向けの広告なら許す。「今なら、お得なチャンス」だが、人のブログにコピペで書き込んでくるやつほど腹の立つことはない。商売でやってんだか、ただ自分のブログを誇示したいだけなのか。もちろん、匿名性がウリのインターネットだ。エロサイトからの書き込みも多い。言ってみれば、コピペの時代なのかもしれない。だが、俺はそれにはついていけないし、ついていく気もない。だから俺は、コピペで書き込んでくるようなやつは、徹底的に削除。削除・削除・削除!!!ただ、そのコピペで書きこまれたあいさつに「ご訪問ありがとうございました」とか返信しちゃう人もいるんだよね。ダメダメよ。もっと人を疑わないと。文章から本意を読み取らないと。「ランダムで来ました。素敵なブログですね。よかったら私のも見てください」とかいうのは、無視しなさい。そして削除すべし。何が素敵なブログだ。俺のブログのどこが素敵だ。本当にちゃんと読んだら、何かしら意見を言いたくなるだろう。それを「素敵」だなんて、ウソに決まってる。上のような書き込みに、はしゃいでしまうようではダメだ。それは安物のプリンターでコピーされたラブレターではしゃぐのと同じだ。
2005年11月06日
コメント(1)
「その他」の重要性に最近気がついた。いや、「その他」こそが重要なのだ。「その他」とはある事柄を体系付ける際に、その体系に含まれきらなかったものだ。漢字一文字で書けば、「雑」だと思う。ある複雑な事象を整理するとき、「体系化」が役に立つ。大きなものから順番にまとめていき、だんだんと細かいカテゴリーを作っていく。そのうち、「ここまで一カテゴリーにしたら、 ちょっと細かすぎるだろう」という限度がでてくる。そのボーダーライン以下をまとめたものが「その他」である。一見、「キレイに」体系付けられない「その他」は邪魔者に見られがちだ。「『その他』がなければ、見事な体系になるのになあ」と完璧主義者は思う。しかし実際には「その他」のない体系などないのだ。例外のない法則がないように。なぜ体系に「その他」はつきものなのか。それは「体系」というものじたいが、自然をそのままあらわしたものではなく、あくまで人間の、便宜的な表現であるからだ。結局、体系も「ウソ」に他ならない。本来は、「その他」も含めた、もっと全的なものなのだ。しかしたとえ「ウソ」でも、体系化しなければ、モノ・コトを捉えるのは容易ではない。だからどうしても、モノ・コトを見るさいには、「その他」が生じる。だがそれは決して、邪魔者などではない。むしろ、それは「体系の新たなる可能性」として重視されるべきものなのだ。完成された体系は、無意味であると言える。無味乾燥と言ってもいい。 面白みがないのだ。それに完成されているから、発展の余地がない。の字の訓読みは「り」である。その他「雑」の部分から、新しい可能性が生まれる。であるからして、「その他」を排他せず、むしろ刮目し、積極的に活用したいものだ。
2005年11月06日
コメント(0)
最近痛感するのは、合気道の技はなんらかの技法ではない、ということだ。僕は合気の研究を始めるまでに、合気道を10年強やっていた。で、小さな道場のアシスタントみたいなこともしていた。子供たちに教えるわけだね。場合によっては中高生とか。自慢だが、僕の教え方にはわりかし定評があった。「わかりやすい」と。しかし今にして思えば、あれらは本当に表面的なことでしかなかったと感じる。手の角度をこうして、足をここに置いて云々、そんなことはどうでもいいことだ。そういうのはお勉強の「答え」にあたる。25×16=400ですよ。といきなり解答押し付けるようなものだ。そうではなく、まずは九九から教えねばならない。場合によっては、掛け算の原理から話し始める必要がある。そして「九九が早くできるようになりなさい」と伝えるしかないし、それが上達の最短の道なのだ。だから「こうやるのです」「ああ、こうですか!わかりました 先生は分かりやすいですね」というのは本質的にはありえないと思う。先生がくれるものは常にぐちゃぐちゃに絡まった毛糸玉だ。それを解くのは生徒(弟子)の役目。毛糸の絡みを解いて、新しいセーターを作るのだ。だから先生のお言葉はいつも意味不明でなければならない。「わかりやすい技法」には結局何も含まれていないということは、最近とくに感じる。
2005年11月05日
コメント(2)
いやー、いかんわ。やっぱり技はまだまだ下手くそそのもの。調子こいてた。ごめんなさい。合気会の初段クラスでも技を掛けられないね。合気道初めて半年から一年強くらいが限界だわ。ちくしょー。なんで掛からないか知らんけど、初段クラスでも初心者とは体が全然ちがうんだね。「抵抗力」っていうのかな。粘りがあってやりにくいんだよねー。筋トレで作った体と違うこの体。医学的にはどうなっているのかなあ。それはともかく、俺にはあんまり「抵抗力」がないね。ダメだ、もっと稽古しないと。後輩のほうが伸びがよいのは自然の摂理だが、このままじゃいつまで経っても、初心者にしか技を掛けられないやつになってしまう。それは嫌だ。もちろん、俺の伸びも先輩よりは早いからだんだん追いついて「高段者」の技もそんなにはかからないんだけど、(といっても俺の尊敬する人はいつまで経っても先にいるけど)そんなことよりやっぱり後輩には技をかけたいじゃん?うむー、研鑽あるのみ。もうすぐ「合気修得の道」も手に入ることだし、新たな情報と考え方も得たことだし、もういちど心機一転、新たな理論を考えてみよう!
2005年11月04日
コメント(4)
「分かりやすい解説書」に載っていることは何か。それはウソである。ウソが満載なのが、「分かりやすい解説書」なのだ。本来、モノはどんなことでも難しい。体系というのは複雑で、どこかになにかの「つながり」があり、パッと説明できるものではない。しかし、それを一気に説明してしまうとまったく意味が分からなくなる。だからウソを言って、概要を分からせるしかない。それが「分かりやすい解説書」だ。たいてい、「分かりやすい解説書」を書くのは頭のいい人だ。難しいことを知らないのは三流。難しいことを知っているのが二流。難しいことをやさしくかみくだけるのが一流と俺は思っている。一流の人は、難しいことを解説するにはウソが必要ということを知っている。だが。まれに、というか大衆向けの本にはそのウソを微塵も感じさせない作りになっているものがある。本当は難しいけど、解説のためにウソを言ってますよ、という説明をなくして、これは簡単なものなんです!!誰にでもできます!ということを標榜しているのだ。お金のために。これには腹が立つ。簡単に解説して、大衆に知ってもらおうというのだろうが、それはその対象を冒涜することになる。結局、その対象が間違った形で普及し、自らの首を絞めることになるのだ。分かりやすい解説書には、くれぐれもご注意を。
2005年11月04日
コメント(0)
なにやら難しいタイトルになってしまった。が、中身はカンタン。結局は、ドゥ・ザ・ベストってことよ。「こだわりの職人」などという。料理人なら、最高の食材と最高の道具を持って、最高のシェフが最高の料理を作る、みたいな。もちろんそれもありだろうけど、俺が言うのはちょっと違う。というのも、そんなに最高のものが揃うなんてことは、滅多にないことだ。完璧ということはありえない。もしあるとすれば、それを絶対的最善と呼ぼう。しかし、そんなものを求めていては、常に不満が残るし、言い訳も出る。「今日は包丁の研ぎ加減が悪いからいいものができなかった」「○○の食材が届かなかったから、ダメだ」これはたとえ話で、ホントの料理界のことは知らないが、絶対的最善を求めると、こうなると思う。俺がよいと思う相対的最善は違う。今日は包丁の調子も悪い。食材の鮮度もいまいち。けれど、今ある状況のなかで、いちばんおいしいものをつくろう。この考え方こそが俺の思う「相対的最善」だ。状況をすぐに変えることは出来ない。すぐに変えることが出来るのは己の心だけだ。この考え方でいくと、不調とかスランプとか、そういう考えもなくなる。「昨日よりも『実績』が悪い。ああ、最悪だ」から「昨日よりも『実績』は悪いけれど、仕方ない。 この調子でやるしかない」と思えるようになる。そう、やるしかないのだ。逆に自分のなかで最善をつくせば、結果はどうでもいいのだ。結果や実績を求めると、「理想の形」があるような気がして、そしてそれと現実のギャップに落胆してしまう。だが本当は落胆などしている暇はない。やるしかないのだ。理想は掲げるものであって、求めるものではない。満足しては終わりだが、納得しながら道を歩むことは大切だ。そうするために大切なのが、相対的最善の考えかたなのです。どうでしょう、こんな考え。
2005年11月04日
コメント(0)
人を幸せにするのではない。自分が幸せになるのだ。幸せになりやすい状況を与えることはできても、究極的には、他人を幸せにすることなどできない。俺は今、幸せだし、そのことで誰かが幸せになっていると信じている。もちろん誰かを幸せにしたいと思ったこともある。しかし、結局俺が誰かを幸せにするなんてのは傲慢な考えで、幸せを与えたり、もらったりできるものと考えている「常識的な」観念にすぎない。「常識的な」観点からは幸せにはなれない。莫大なお金だとか、豪華な家だとか、豪勢な食事だとか、高い車だとか、みんながうらやむようなことの中に、幸せがあるわけではない。幸せとは今を認めること。世界を否定せぬこと。幸せとは考えかた。状況ではない。しかし一般には、「今を認めることが容易い状況」のことを幸せと呼んでいるようだ。もちろん状況には差がある。幸せになりやすい状況と幸せになりにくい状況がある。で、この幸せになりにくい状況で幸せになってしまおうというのが生きる面白さだと思うのです。なんでそんなことができるか、といえば、それは幸せが結局は考え方だからだ。今を認めよ。幸せになれ。俺が幸せになれば、世界が幸せになる。
2005年11月04日
コメント(0)
友人のブログを見ていたら、高校で、そこになかった部活を自分たちで作ってしまった女の子の話が書いてあった。ああ、すごいなと思うと同時に、これこそ愚痴云わぬコツなんだなあと実感した。たとえば、自分が野球が好きなのだが、そこには野球部はないとする。そんなとき「この高校はダメだよ。超メジャーな野球部もないんだから」と言うか「へー、ないんだ。じゃあ自分で作ろう」と考えるのは大違いだ。前者は現実を認めていないのに対し、後者は現実をあっさり認めている。だから、前者は不幸だし、後者は幸せである。加えていえば、前者の考えを捨てぬ限り一生幸せにはなれぬと思う。愚痴とはいい訳である。やらぬ言い訳である。やれぬ言い訳でもある。愚痴が増えれば、やれぬ理由が増えていく。動けなくなっていく。自分が動けなくなると世界も動かなくなる。ますますつまらなくなる。そしてまた愚痴が増える。そしてつまらない人間になる。恐ろしい悪循環!!本来的に自分は世界の一部なのだ。だから、自分が動けばかならず世界は反応する。かならずだ。俺はそう信じている。世界を直接動かすことはできない。しかし、自分を通じて間接的に世界を動かすことが出来る。その喜び!!赤ん坊は、自分が泣いたり笑ったりすることで、母親が反応することを学んでいく。生まれた瞬間から、俺らは世界を動かせることを知っているのだ。そして幼児期になっても、親や先生を「反応させる」ことばかりする。暴れてみたり、すねてみたり、悪いことをしたり、興味を引きたいのだ。それは子供だから許されること。大人になっても「フキゲン」で相手の気を引こうとする人がいる。といっても、俺もたまにはやってしまう。「俺はキゲンが悪いんだよ。気づいてよ!!」みたいなね。まだまだ未熟です。愚痴は云うまい。何でも自分でやってやろう。「むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ。」ちょっと違う気もするけど、そんな言葉が浮かぶのです。
2005年11月02日
コメント(2)
昨日偶然「筆で遊ぼう」みたいな本を見ていて、「活かす字と殺す字を考えましょう」みたいなアドバイスを読んだ。ほれで、昨日はちっちゃなレポートみたいなものを書いてたんだけど、やっぱそのレイアウトっていうか構成も、活かしたい部分を目立たせるだけじゃなく、むしろ殺す部分を積極的に殺すことで、自然と活かしたい部分が活きてくるって感じと思った。何もかも目立たせたいとなると、結局ぶつかってごちゃごちゃになるだけ。ね、髪型とかも立たせるとこは立たせるけど、サイドは抑えめに、とか美容師さんに言われるじゃん。本の陳列とかもそうなんだろうなあ。ちょっとお店で研究してみよう。何を売って何を売らないか、それを考えないといけないのかもしれないなあ。
2005年11月02日
コメント(1)
かの有名なエキス=パンダーX(仮名)の名言に「泣いたり笑ったり、はみだしたり浮かんだり グッときたりすればいいさ!!特にはみだせ」というものがある。これが最近分かってきた。はみ出すことが肝要なのだ。はみ出した絵の具は修正される。しかし、はみ出したからこそ、どこまで絵の具を塗ってよいのかが分かるのだ。つまり限度を知る。怖がって、はみださないと、いつまで経っても限度が分からず、自分で自分を抑え込むことになる。もったいないし、苦しい。制限は自分自身でするものではない。自制とか我慢とか美辞麗句にまどわされてはいけない。やはり、制限は誰かにしてもらうものなのだ。我慢好きの人は他人も我慢を強いる。自制する人は自制しろと人に言う。それはもはや「自制」ではなく、「他制」である。人間、自分のすることは他人にもさせたがるものだ。だから、みんながはみだせばいい。「何をー?」と言われても困るが、とにかくはみだせばいい。そうしてはみ出たもの同士がぶつかり、和合し、それぞれの境界がやんわりと決まるのだ。あくまでもやんわりと。世界に境はない。それぞれが、はみだしあっているのだ。だから今こそ、はみだせ!!!
2005年11月01日
コメント(3)
「どうでもいい」という生き方が好きだ。それはこだわらぬ生き方。「なんでもいい」「どうでもいい」は、けしてマイナスの発想ではない。むしろ、究極的に幸せになる法だと思う。「どうでもいい」というのは「どうでも良い」、つまり「なんでも素晴らしい」という思想だ。俺は仕事も将来も基本的には「どうでもいい」どうなったって、良いふうになると考えている。根拠は無い。そして目標もない。このまま現場にとどまろうが、本部の出世コースを歩もうが「どうでもいい」。なるようにしかなるまいと思っている。そしてなるようになれ、と思っている。どう「する」か、よりもどう「なる」かと考えるほうが面白い。俺の基準は面白いかどうか。だから面白そうなのを選ぶ。「どうなるか」は想像ができないし、計画も立たない。神のみぞ知る。俺は神、つまり自然を「おそれて」いるのだ。言ってみれば、「将来の計画」なんてのは傲慢な話だ。人生80年?そりゃあくまで平均の話だろう。あと2分で俺は死ぬかもしれない。それか150歳まで生きるかもしれない。そんなの分からないんだ。80年生きられる保証はない。80で死ぬと決まったわけでもない。だから「どうでもいい」んだ。しかし、そんな俺にも「どうでもよくないこと」がある。「どうでもよくないこと」には熱情をそそぐ。だから激しい苦しみと激しい喜びが交錯する。そしてそのとき、生きていることを実感する。俺は俺にとって何が大事か、何が大事でないか分かっている。情熱を注ぐのはほんの少しのことだ。ほかの事はどうでもいい。どうでもいいと思っていることは幸せだ。
2005年11月01日
コメント(4)
好きといわずに後悔することはあっても、好きと言って後悔することはない。愛せばよかったと悔やむことはあっても、愛しすぎたと悔やむことはない。
2005年11月01日
コメント(2)
全43件 (43件中 1-43件目)
1


