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先日、失敗をやらかしてしまった。まあ結果としてはなんとか事なきを得たんだけど、ちょっと忙しさにかまけた凡ミスやったね。最近は調子こいてたんでしょう。ちゃんとそれを失敗という先生が教えてくれた。別に誰かに教えてもらわなくても、ちゃんと失敗先生が注意してくれるのだ。いちばん説得力がある。言葉だけが独り歩きした教条ほど説得力のないものはない。どんどん間違えればいいのだ。間違えれば間違えるほど、失敗先生は顔を出して親切に、ときに厳しく教えてくれる。しかし失敗先生は俺が嫌いなわけではないのだ。成長してほしいから、教えてくれている、ほんとうはやさしい先生なのだ。失敗先生さえいれば、ほかに先生はいらないのではないか、とさえ思う。失敗先生、これからもよろしくお願いします。
2005年10月31日
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学生のころ、合気道が上手くなりたくて本屋で色々な書籍を読みあさっていた。そんなときに出会い、僕の研究に大きな影響を与えたのが武術家、甲野善紀さんについて書かれた「不安定だから強い」(田中聡著 晶文社)だ。この話にはかなり納得するものがあって、いや、当時の僕にはかなりの目からウロコで、「こんな世界があるのか!」と驚いたものだ。そんなわけで、僕は甲野さんは嫌いではない。世間では色々言われているが、基本的な考え方や、ときに批判じみた言い方などが僕のひねくれた性格にマッチする。しかし、最近の研究の結果、甲野さんの言っていることがに「あれ?」と感じ始めた。それは「ねじらない・うねらない」だ。「ためない」は良いとしても、「ねじらない・うねらない」はどうだろうと感じている。というのは僕の技は「ねじる」し「うねる」のである。正確にいえば、体が「ねじれる」というところか。思うに、大切なのは「力を入れるか入れないか」つまり「筋肉を絞るか絞らないか」で、「ねじれる」形は関係ない。一見「ねじれ」ていても、筋肉が絞られてなければ良いと思う。逆に、「ねじらない」ために筋肉を絞ったら、一見「ねじれ」てなくても技は効かないのではないだろうか。やっぱり形は関係ないと最近つくづく思う。
2005年10月30日
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先日、「仮面をかぶれ」というタイトルで日記を書いた。で、今日は「仮面をかぶるな」矛盾?いえいえ、では以下をお読みください。俺は、人間関係においては仮面をかぶらないほうが良いと思っている。では、この前の「仮面をかぶれ」は何だったのか。あれは、人間関係の話ではなくたんなる処世術だ。「話せばわかる、なんて大ウソ」という【バカの壁】の思想に基づいた、社会を渡る知恵である。今日の話は、もっと暖かい、希望のある話である。俺は、人と人の暖かい交流というのは、ほんとうに人にエネルギーを与えるものと思う。何をもって暖かい交流とするかは難しいところだが、人にエネルギーを与える交流を、それと呼んでも良いだろう。(実際は何も定義できていないが、まあよしとする)エネルギーをもらうとは元気になることだ。また「やるぞ」と勇気が湧いてくることだ。俺には、そういうエネルギーを与えてくれる友達がいる。別に、落ち込んでいるときに励ましてくれるとかいうわけでもない。その人が「何かをしてくれる」わけではないのだ。何かをしてくれるわけではないが、なぜかこっちは元気になる。会ったり、電話をしたり、メールでさえも、心が交流したなあ、という感じがあると元気をもらえる。「元気をあげよう」と思っている人から、元気をもらった記憶はあまりない。たとえという名前のある関係でも心の交流が出来る人は少ない。心の暖かい交流をするには、両者が、あるいは三者以上が、頭のよい人で、なおかつウマが合う必要がある。ここでいう「頭の良い人」というのは「バカの壁」にでてくる「バカ」の反対語と思ってもらえばいい。偏差値はまったく関係ない。もっと言えば「頭の良い人」は「オトナ」「自立した人間」「成熟した人間」と言ってもいいだろう。つまり「バカ」とは「コドモ」「親離れできない人間」「未熟な人間」とも言い換えることが出来る。かわいそうなことに、「コドモ」には心の暖かい交流はできない。「コドモ」どうしでウマが合うことはあるかもしれないが、それは心の暖かい交流ではない。相手のことを見ない自己中心性が空回りしていても、お互い自己中心的だから何も気がつかないのだ。もちろん「オトナ」からは「コドモ」扱いされるが、それにも気づかない。だが、見た目はオトナなので、誰も注意してくれない。世間は厳しいが、これが現実だ。そして「オトナ」どうしでも、やはりウマが合わないことがある。おたがい頭はいいのだが、どうしても思想が合わない。これは仕方ないことだ。お互い「オトナ」でウマが合い、心と心が触れ合うような暖かい交流をしたあとは余韻が違う。会ったり、話したり、メールしたり、そのときももちろん愉しいのだが、それが終わった後も、ジーンと心がしびれているような、暖かさが残っているのだ。そういう暖かい心の交流ができる関係になるには、かなりの時間がかかる。みんな始めは仮面をかぶっているからだ。友情の階段は、登るのにかならず時間がかかる。だが、逆にゆっくり醸成した友情は滅多なことでは壊れない。なんでもそう、すぐできたものは、すぐに壊れるのだ。友情の階段を登るということは、一枚一枚仮面をはがしていくということ。不思議なことに、自分が一枚はがせば相手も一枚はがしてくれるようだ。ちなみに「コドモ」の仮面は、すぐにはがれます(笑)ちょっと話が長くなったけど、最後に俺に元気と勇気をくれる友達に感謝して、私の挨拶と代えさせて頂きます。
2005年10月29日
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さっき、昔の稽古日誌を見ていてすごく恥ずかしかった。当時は、今と比べたらかなり下手くそだったのに、ものすごい達人のような言葉がバンバン並べられてるんだね。いやあ、かつての自分とは言え、冷や汗ものです。言葉ほどあてにならないものはないね。さて、今日は立ち方のお話です。昨日、技をかけるときの自分の身体について内省してみたら、立ち方が違うことに気がついた。この前、後輩と稽古したとき、冗談で「消えるんです!」なんて言いながら技をかけていたけれど、おしゃべりをしていたので、自分がどうやっているか分かっていなかった。ただ、なんとなく身体をフワッとさせると技が掛かるなあと思いやっていた。それを、自分はどうやって技をかけているのか研究してみようと思ったら、立ち方が違ったのだ。違ったのだが、これまた説明するとなるとなんとも言いにくい。フワッと立っている、としか言えない。普通に居着いて立っているときとは違い、足裏がフワッとしていて、股関節もフワッと、あとは、胸がフワッとしている。わかりにくい!!(笑)で、この立ち方を「無空術」と名づけようかと思ってるんですよ(笑)もちろん「舞空術」のパクリでね。そんな言葉遊びはどうでもいいとして、この立ち方が「居着かない立ち方」なのかもしれないなあ、と思っているわけです。
2005年10月28日
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「人生は何もしないにはあまりにも長いが、 何かを成し遂げようとするならあまりにも短い」有名な名言である。この金言の「人生」は「一年」でも「一ヶ月」でも「一日」でも「一時間」でもあてはまると思う。そう、時間は大切なのだ。自分の時間は限られている。命は有限だ。俺はいつか死ぬ。だからこそ、大切な時間を無駄に使うわけにはいかない。であるからして、いかにして、嫌いな人や「こまった人」に時間を割かないようにするか考える必要がある。俺はプライドが高い。いいことも多いが、その分短所ともなる。それは無駄に争いを好むということ。勝負をけしかけられるとついつい乗ってしまって、どうやって相手をつぶそうかということばかり考え出す。目には目をと言わんばかりに、やられたらやり返すのが俺の主義だった。しかし最近、すこし考えが変わって、そんなに人を憎むことに時間を使うぐらいなら、人を愛することに時間を使えたらなあと思った。もちろん、すぐにはできない。でも、理想として掲げてもいいんじゃないかって。そのためにはどうするか。それは、「こまった人」の相手を自分の影武者にさせるのだ。この影武者は「こまった人」と戦って時間を稼いでくれる。その間に、自分は逃げて誰かと愛し合っているのだ。この影武者こそが仮面。ペルソナの仮面だ。俺がいつもかぶっている「店員」の仮面を日常の人間関係にも使おうというのである。仮面をかぶれば、生意気な高校生にも「かしこまりました」と言える。仮面はあらたな能力を俺に与える。「こまった人」に本気でぶつかることはない。それは時間を無駄にすることだ。そこに「真理」は必要ない。分厚いペルソナの仮面をかぶって、巧みに相手を上機嫌にさせるのだ。プライドは隠せ。この「隠す能力」こそが「無私の心」。プライドは「持つ」もの。爆発させるものではない。時間を大切にしたい。俺の限られた大切な時間。大切な人を思っていられたら、楽しく過ごせると思うんだよ。
2005年10月27日
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パソコンで作れる年賀状シリーズの常套文句。「超カンタン!」「ラクチン一発印刷!!」「すぐできる!」もうちょっと心こめろよ!!
2005年10月26日
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もう言われつくしたことかもしれないが、まだご存じない方がいるかもしれないので、いちおう書いておこう。万一、これをみて進む道が見えてくる人もいるかもしれない。伸筋技法から脱力へ。この考え方は練気柔真法の考えに基づいている。その言葉と映像を見て、なるほどと思ったので、紹介する。ナマの筋肉の力では技は使えないということは合気道を稽古するものならばほとんどの人は知っている。そこで、よく使われているのが「伸筋技法」である。ここからは独断の解説になるが、伸筋技法とはいわば、余計な力を抜いて、全身の力を連動させ、強大な力を生むというものだ。伸筋技法という名前は、上腕二頭筋などの屈筋(まげる筋肉)を力ませずに、上腕三頭筋などの伸筋(伸ばす筋肉)を使用するということに由来する。これはかの吉丸先生が言われていることとは少し違うものだと思う。これはそれなりに有用である。それに少し稽古すれば誰にでも使えるようになり、つまり即習性があり、合気道の面白さを知る端緒となりうるだろう。僕もこの技法(と思われる代物)を使っていたとき、筋肉を力ませてウンウンやって「これでは効かないね?」とやって、それから全身の筋肉を連動させて「おりゃっ」と倒すパフォーマンスをよくやっていた。しかし、簡単だということはすなわち、限界があるということである。伸筋技法ではどうしても力感が残るし、かなり筋力に差があると、効かない。受けの腰もとれない。だから、やられたほうがなかなか納得のいく顔をしない。受けに笑顔が出ない。それは僕の求める技ではない。やはり僕は「脱力の技」を求めたい。「脱力だ」「脱力では技は効かない」という議論もあるが、そういうのはただの言葉あそびに堕している可能性が高い。伸筋技法を脱力と呼んでいる人もいるし、万生道的な「積極的脱力」(僕の考える真の脱力)をただ脱力という人もいるし、単に力を抜いてフニャフニャになることを脱力と呼んでいる人もいる。これでは議論が成り立たぬのは当然。今、僕が技をやるなかで感じるのは「脱力とも言えるし、脱力ではないとも言える」というのが正直なところだ。おおざっぱにいえば「いい感じで力を抜く」としか言えない。「相手に伝わるように力を抜く」と言ってもいい。個人的に「脱力」という響きが好きではないので、「力を抜く」という言い方にしてみた。というわけで、「筋力でない世界」と一口に言っても、その奥には、ものすごく広い世界が広がっているのだろう。「伸筋」があり「脱力」があり、そしてその次は何が待っているのだろう。ああ、道を歩くことの苦しさよ。そして喜びよ。
2005年10月26日
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常識とは固着である。癒着といってもいい。要するに、くっついているのである。かたまってしまって、がんじがらめなのだ。やわらかさを失っている。たとえば先日書いた「自由=孤独」「束縛=安心」みたいな考えがある。これは常識といってもいい。つまり、自由と孤独、束縛と安心がくっついてしまっているのだ。常識を超えるということは、そのくっついているのをべりべりとはがすということ。常識をべりべりとはがすには、自分が常識にそまっていることを知らねばならない。たとえば、「筋肉がいっぱいある=相手を倒せる」「筋肉が無い=弱い」「栄養がたっぷり=健康」「栄養が少ない=不健康」「結婚=幸せ=束縛」「独身=さみしい=自由」どうしても上のような常識に染まりがちである。二つの選択肢のうちどちらかを選ばねばならないような雰囲気がある。もしくは、その中間をとるとか。しかし、俺が最近思うのは、もっとオイシイ選択肢があると思う。つまり「自由で安心」「栄養が少なく、健康」「結婚していて、幸せで自由」などなど。現実を知らぬ若造の発言ととられるかもしれない。まあ、そう思う人は勝手に思えばいい。俺は常識を超えて、もっと欲張りに生きる。人生のパズルは自由なのだ。「この形はこうだから、ここにはハメられないし、これをとると、こっちに隙間ができるし・・・」などと本当のパズルのように悩むことは無い。ピースを切って削って、くっつけて、好きなようにパズルを完成させればいいのだ。この自由さは、言うほどたやすくない。難多き、いばらの道である。しかし、だからこそ歩きたいと思うのだ。
2005年10月25日
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人間はさまざまな要因に縛られている。しかし結局、自由をさまたげているいちばん大きなものは自分なのだ。たいてい愚痴というのは本当はとらわれていないのに、自分で自分を縛っているときに起る。もっともっと人間は自由なのだ。たとえ「どうにもならない状況」に思えても、考え方さえ変えれば、もっともっと動けるものなのだ。こんなことも合気道から学んだことだ。腕を相手に両手でがっちりつかまれて、どうしたって、不利な状況。「こんなの動くわけない」なんて言いたくなる。しかし実際には身体が自由であれば、簡単に相手を崩すことが出来る。身体が自由ということは、筋肉で自分を縛り付けないということ。筋肉に力を入れるということは自分で自分を縛り付けるということ。まさに自縄自縛!!なんで人は自由でありたいと願いながら自らの手で、己が首をしめてしまうのか。それこそが自由の恐怖なのかもしれない。自由と孤独は紙一重。いや、表裏一体というべきか。自由の恐怖に耐えられず、束縛という安堵に身を委ねる。そして縛られてゆく。しかし、俺が合気道の観点から学んだことは自由は束縛の中にあるということだ。たしかに孤独と自由は似ている。しかし同じものではない。さまざまな制約のなかに自由を求めよ!そのときはじめて、「自由=孤独 束縛=安心」という「常識」をベリベリとはがすことが出来、「自由な安心」を得ることが出来るのだ。常識を超えたとき、矛盾は矛盾でなくなる。
2005年10月24日
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九九というのがある。掛け算のあれだ。だいたいみんな知っている。一の段のレベルはどうがんばっても9である。それがフェイズが変わり、2の段になると18までいく。フェイズ5なら、45まで上れる。これは合気道上達の過程にも同じことが言えると思う。つまりフェイズを変えなければならない。一の段でどれだけ努力してもフェイズ9の人がひとつレベルを上げるだけで、抜かされてしまうのだ。フェイズ2のレベル6もフェイズ3のレベル4もフェイズ4のレベル3もフェイズ6のレベル2も、現時点での実力はで一緒である。しかし、今後の伸び率は天と地ほども違うのである。会社と同じで、現段階だけでなく将来性を考慮するのが大切なのである。
2005年10月24日
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合気道の技の原理は、形を変えて実社会に活きるものだし、実社会で得た経験が技に活きるものと俺は考えている。だから技の検証、つまり方向性の確認というのは技が実際に効いているかということ意外にも、その原理が実社会に役立つか、という観点からも検証することができる。というのは、「実際に技が効いている」というのを確認するのは実は至難なのだ。俺の研究しているような技は、どうしても暗示的要素が多少なりとも入ってくる。それを払拭するために、実社会で役立つ原理か、という視点が役に立つのだ。たとえば、実社会で相手は自分の思うとおりに動いてくれない。相手が自分の都合のいいように動くわけがないのだ。そんなことはみんな知っている。となると、合気道の技でも受けに「このように動け!」と命令するのは良くないということになる。もし、「そういう流派もある」と言われれば、はあ、そうですかとしか言えないが、そんな技は少なくとも俺の求めるものではない。もし、受けに条件指定をして限定条件のもとで稽古がしたいなら「お願い・懇願」せねばならない。そう、実社会でも相手に頼みごとをするときには頭を下げるものだ。こうしたように、「それが実社会でも通用する原理か」という観点で見てみるのも、自分の方向性を確認するのに有効だと思う。
2005年10月22日
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およそ「先生」と呼ばれる人に、ほんとうにすごい人などいない。というのは刺激的に言っただけで、これはウソだ。すごい「先生」も確かにいる。しかし、すごくない「先生」も多々いるということを知っておかねばならない。そんなことは当たり前だと思われそうだが、世間では案外そうでもなく、「先生」という名前だけでヨイショされている人、ヨイショしている人がいる。また本当にすごい「先生」だとしても、その「先生」を尊崇すべきではないと思う。もちろん、やればやるほどその「先生」のすごさが分かり、自然と頭が下がってしまうというようなこともある。しかし、「先生」はあくまでライバルなのだ。超えていくべき存在なのだ。もし「教え」を受けたならば、それは可能だ。武道では「師の半分の時間で同じ実力になるべし」のような言葉がある。合気道の話になるが、俺の実感では「技」を教えることはできないし、教えてもらうこともできない。考え方と稽古法だけが伝承するのだ。しかし、その考え方と稽古法こそが莫大な遺産なのである。稽古を毎日こなすのは「やる気」があればできる。しかし、良い稽古法にたどり着くまでには膨大な時間がかかるし、頭が必要になる。言ってしまえば、よい稽古法を見つけるまでが勝負なのだ。そこで「伝統」が必要になり、そこには良い稽古法が残されているのだろうか。いや、違う。そうではない。「伝統」は普及とともに歪む。これはかなしいが真実だ。つまり、世間に「伝統」とされているものには、良い稽古法と悪い稽古法があるのだ。だから結局自分で見つけなくてはならない。どれが良くて、どれが悪いのか自分の身体を実験台に、突き進んでいかねばならない。だから「先生」を疑え!、と言っている。直感を信じよ。「これでいいのかなあ」と思ったらその疑問を分析せよ。「こういうものだ」と自分に言い聞かせるな。それではやがて思考が止まる。たとえ現時点で「先生」のほうが実力があっても、あと何年で追い抜くというイメージをするのだ。俺はいつもそうしている。「先生」にゴマをすっているヒマはないのだ。
2005年10月22日
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技の調子がいい。「地球波」を使った崩しが好調だ。うまく掛かると、相手の腰がとれてなんか首にくるのかしらないけど、受けをしてくれた人が首をグワングワンさせていた。かなり目指していた技に近い。突きをそのまま掌で受け止めて、相手の腰を崩したり、胸取りからそのまま接点を利用して崩したりできた。冗談で、頭でパンチを受け、そのまま崩すとかもやってみた。ちなみに受けの方は合気道はじめて一年未満の方です、はい。やはり感覚をつかむ稽古は後輩とやるのがいちばん。あー、「魅せる」方向に走らなくて良かった(笑)はっきり言って、「魅せる」のが好きな人は、こんな技はできないよ。もちろんちゃんと稽古してから、それを見せるようになった人は違うけど、その真似からはじめたような人は一生伸びないと思う。一生だよ、一生。恐ろしいことだよ。方向性間違えたら努力もすべて無駄。くわばらくわばら。受けてくれた人の崩されたときの笑顔が嬉しいね。痛めてないから笑顔が出るんです。受けも恐怖を感じないし。なんかで読んだんだけど、取りが「ビビらない」ことはもちろん、受けを「ビビらせない」ような技も大切って書いてあって、それは納得だね。受けが恐怖心を一生懸命なくして怪我するのが怖くて飛び受身、とかどうなん?俺は納得いかないねえ。まあいいや。20年後、気づいたときには絶対に埋められない差がついてますよ。後悔先に立たず。「できない」を認めよ!!
2005年10月21日
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俺は人間には優劣があると思う。そんなことはみんなが知っていることだ。だから「人間には優劣がない。違いがあるだけだ」みたいな主張が跋扈するハメになるし、「世界にひとつだけの花」みたいな都合のいい歌がヒットしてしまう。人間には違いもあるし、優劣もあるのです。これを「同心円理論」と言う。中心点があって、同じ半径上にいるもの同士はたしかに優劣はない。違いがあるだけだ。しかし、半径が違えば当然優劣は出てくる。中心に近いほうが優位なのだ。もちろん「個性」という名の「違い」もある。しかし「個性」があることなどどうでもいいのだ。そんなこと当たり前すぎる。いかにその「個性を伸ばしたか」で優劣が決まるのだ。先日、ある心理テストみたいなのをやらされて、「○○が何ポイント、○○が何ポイント。あなたは○○タイプです」みたいな結果が出た。で、フォローがあって、「この分類には優劣はありません。あくまで違いがあるだけです」みたいに言っていたけど、そりゃないね。ゲームのキャラクターだって、「体力30知力20魔法50」のキャラAと「体力80知力50魔法60」のキャラBがいたりするじゃん。それと同じ。やっぱ、どうしたってBのが魅力的なわけ。Aの弱さを、個性として認められるか?Aは捨て駒に使われるんじゃないのか?世の中に蔓延する甘い言葉に甘えてはいけない。人間には優劣がある。
2005年10月20日
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俺が思う、こうありたいという順番がある。それをベスト4から発表する。ではでは。ジャン!!第4位!最下位です!!「弱音を吐く弱者。」いけませんねえ。「弱いんだから助けてよ」まったく助ける気がなくなりますねえ。むしろ突き落としたくなりますねえ。続いて第3位!!ブービー!!「いばる強者。」感じ悪いねえ。ちょっと強いからって偉そうに。調子こいてんじゃねえ!第2位!!「けなげな弱者。」これはいいですねえ。助けたくなりますねえ。弱者だということに「甘え」ない、すばらしい精神だと思います。そして第1位!!「謙虚な強者。」もう最高。強い、のに威張らない。ほめても謙遜する。ほんとうに実力があるから謙遜ができる。実力の無い人に謙遜する権利はないからね。謙虚な強者になりてえ!!
2005年10月19日
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俺は型を知る・学ぶということは型の意味・機能を知ることと思う。なんでもそうだが、型というのは型だけにカタい。ダジャレのようだがダジャレではない。型はカタいので、解凍してやらねばならない。やわらかくする。つまり分析・理解せねばならない。もっと分かりやすく言えば、型というのはタイムカプセルのようなものなのである。タイムカプセルを受け取った後世はそのフタを開けねばならない。そのフタを開けないで、「大切にしろ」とだけ騒いで、後世に渡していく人がなんと多いことか!!合気道の話をしたいところだが、まずは分かりやすく「ビジネスの型」から話を始めよう。「お疲れさまです」「お世話になっております」「お忙しいところ恐れ入ります」こういう、いわゆる挨拶というのは型の一種である。疲れていなくても「お疲れ様です」なのだ。しかしだね、本当に働いていたら、「お世話になります」「お忙しいところ恐れ入ります」などは、けっして形式だけではないな、というのが分かってきたのです。ホント忙しいときは忙しいからね。電話かかってくると、「マジ勘弁して」って言いたくなる。そういう状態を経験しているから、電話をかけるときに「お忙しいのにすみません」というのがリアルに出てくる。これが、型の意味を知るということなのだ。型の意味が分かってくると「礼」も身についてくる。つまりは「身を守る技術」。ほんとうに忙しい相手に何の遠慮も無く電話をするのは礼がなっていない。それは相手に失礼だから、ではない。自分が損をするのだ。「失礼だ」と相手に思われるのは一瞬。しかし、その後の取り引きで確実に不利を被るだろう。礼とは言い換えれば、好かれる技術といっても過言ではない。けっきょく自分のためなのだ。逆に、身を守る必要が無い場合にむやみやたらと礼を重んじる必要はない。実力の無い先輩などに礼を持って対することはないのだ。その人に教えてほしい、という気持ちがあってはじめて礼が生まれる。一般に流布している「礼」の観念はあまりにも粗雑だと思う。「礼儀正しくあれ」などというのは身体なり頭なりのかなりの訓練をつまねば本当には言えないだろう。「友達とは仲良く」とかもだ。なぜ友達と仲良くせねばならないのかきちんと説明できなくてはならない。「こうだからこうなんだ」としか言えないアホなオトナが多いと思う。「迷惑をかけないため」とか言うのは何も考えてない人だ。気をつけろ!!道徳という玉手箱は開けてみれば素晴らしい。しかし、分析されていない道徳などクソくらえだ!!子供たちよ!倫理を疑え!!オトナたちの言葉を鵜呑みにするな!!そして上の文章の「道徳」を「合気道の型」に、「子供たち」を「初心の人」に置き換えても文意は変わらないのである。
2005年10月18日
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よく言われつくした言葉だけど、俺はマジで実感するから書いてみる。今を楽しめ!!そりゃ、どういうこっちゃ?今が楽しけりゃいい、刹那的な生き方?そんなわけねえ。目的があるから芯が出来る。目標でも目的でもいい。それを持つこと。そしてそれを忘れることが大事なんだ。やっぱ目的を持ったはいいが、それに邁進してしまうと、盲目的になるよ。もちろん、目標に向かって一直線になれるんだけど、それを達成したあとに、虚無感が襲ってくる。燃え尽き症候群ってやつだね。まあ受験とかがいい例じゃない?勉強・勉強で大学に受かったやつなんかロクなやつがいなさそうじゃん。入りたい大学がありつつ、で、なんとなく目指しつつ勉強を楽しむから、上手くいくんじゃん。体操だってそう。身体をやわらかくするための体操だけど、「やわらかくしよう。やわらかくしよう」って焦ると、かえって身体はかたくなる。気持ちよさを求めているうちに、自然にやわらかくなるんだ。睡眠もそう。眠るのは体力回復のため。でも体力回復したい!!って思いまくると眠れない。布団に入った気持ちよさを味わっていると自然と寝ている。デートもそう。付き合いたい!付き合いたい!ってそりゃデートしてんだからまあいつかは付き合いたいかもしれんけど、結局焦ったらパーになる。その場で時間を共有していることを楽しんでいるうちに、いつのまにか付き合っているのが理想じゃない?あとは何やろ。まあそんなもんで十分でしょ。だから「目的を持つこと。そしてそれを忘れること」これが大事なのだと最近気づきました。で、これが今を楽しむって意味なんだね。
2005年10月17日
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生きていくうえでの基本方針というか指針というか、とりあえずの根底の思想というか、ふるさとみたいなものを思いついた。それは「人生は最高だ」というフレーズ。最近よく思うんだよね。人生って最高だなって。まあ傍から見れば、別に普通なんだろうけど、俺は「最高だなあ」と思う。論理的思考がウリの俺だけど、今回は言葉の定義もしない。ただなんとなく「人生は最高だなあ」「おめでたいやつだ」と思っている人も多いでしょう。ありがとう。俺はおめでたいよ。俺は幸せ体質だかんね。幸せになる才能があるのかもしれん。幸せって状態じゃないじゃん。「孤独」と同じで、状態じゃなくて、感情じゃんね。だから外に探しに行っても見つからない。自分の中を探検するしかない。まあ、なんでもそう。答えは自分の中にしかない。人から教えてもらうことも人に教えてあげることもできない。ヒントはやりとりできるけどね。逆に自分の中になんでもある。「アイアム 4次元ポケット」んで、自分の中に探しに行くのが楽しいんだよね。やっぱり「人生は最高」だよ。
2005年10月17日
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先日「バトン」とかいうのを回されて、10の質問に答えた。そのなかに、カノジョに求める条件みたいなのがあって、俺は「母性・知性・かわいらしさ」と書いた。それをつまびらかに書いてみる。つまり母性とは男はバカだということを知っていること。知性とは自らのスケール(尺度・基準)を持っており、他分野の人の話を自分なりに咀嚼し、解釈できるということ。そして可愛らしさとは、男に愛される技術を持っているということである。そういうことなんだなあ、と最近思った。
2005年10月17日
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人間は、自分の心身をおびやかすものに対応する手段として3つの方法を持っていると考えている。それは「おそれ」「いかり」「無心」である。「おそれ」の段階は第一段階のただの「弱さ」である。自らを脅かすものに対してなんら一矢報いることもできず、いわば「犬死に」の状態である。これがいちばん俺の嫌いな段階だ。第2段階「いかり」になると、抵抗が出来るようになる。勝負に勝つか負けるかは結果なので関係ない。抵抗する気持ち、やられまいとする気持ちのあることが大切なのだ。最終段階は「無心」である。このレベルに達すると、相手の騒ぎに動じなくなる。いわゆる「木鶏」の段階である。心身を脅かすものに対して、屈することなく、脅かすことなく、泰然と構えている。いや、構えてはいない。何もしていないのだ。これは、コドモがギャーギャー騒ぐのを「コドモだなあ」と言って、大らかに見ているオトナの心境である。しかし不思議とオトナとオトナの間でもこのような状態になることがある。いや年齢を覆すことさえある。結局、成長する気がないと、身体が大きくなり、地位や名誉を身につけても、コドモはコドモなのだ。いい年したオッサンでもコドモであれば、偉そうにしゃべっているうちに、俺みたいな若造に観察されて心の裏で笑われてしまうのだ。気をつけろ!!ちょっと話がそれたな。で、俺は「怒れない」のはアレだから、「おそれ」てばかりの人には「怒れ!」と言いたい。怒ってばかりの人には、そろそろ次の段階を目指せと言いたい。俺もなんか最近は攻撃的な性格になっているが、もっと無心の落ち着いた状態になれたらなあ。いや、まだ若いからいいや。ガンガンに鋭い牙を向いてやるぜ。落ち着くのは年喰ってからでいいや。
2005年10月17日
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昨日、大須で浴衣を買ってきて、今日から和服生活を始めました。甲野善紀さんの話を聞いてから、いいなあ、と思っていたんだけど、ついに実現!!茶色が貴重の浴衣に、紫の角帯。気に入った。やっぱり和服はいいね。スッとする。姿勢も気持ちも。かなり気に入ったんだけど、このまま外出していいものかどうか迷い中。さすがにタイムスリップした人みたいに思われるかな。いちおう下駄も買ったんですよ。なんか浮世絵みたいなのが描いてあるやつ。これも粋でね。友人にもらった番傘をさして出かけようかなあ。さあ、みんなも和服を起用!浴衣を着よう!
2005年10月15日
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最近、ミクシィとかいうのをはじめたんだけど、連れからバトンとかいうのが回ってきて、これは答えないといかんらしいから、マジメな俺はきちんと回答してしまうのです。1.お名前と性別を教えてください。 ozekey♂2.現在、恋人または好きな人はいますか? さあ、どうでしょう。端的にいえば、秘密だよ。 3.今まで一目惚れしたことはありますか? 無いといえばウソになる。 4.恋人に求める条件を3つ挙げてください。 母性 知性 可愛らしさ 5.今まで付き合った人、好きなタイプと一致しましたか? まあまあ。6.自分から告白しますか?それとも待ちますか? 待った記憶はないね。7.結婚願望はありますか? 今はマジでしたくない。8.失恋したときどう対処しますか? 自分を悲劇のヒーローにした文章を作り、 客観視して嗤う。9.今現在の自分の恋愛を表す曲は? え、わかんないや。 10.お疲れ様でした。次にまわす人を3人指名どうぞ。 こんなことはもう俺で終わりにしたい。
2005年10月15日
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メビウス気流法の坪井先生の本を読んでいて、「形は本能的だ」といった趣旨の文章を読んだ。ふむ。言われてみればそうだ。一般に、「型にはまる」ことはきついとされている。だから修行なのだ、と。しかし、実は型は本能的なのだ。俺がそれを実感したのは書での話。隷書につよく見られる「波磔(はたく)」。横線を書く際にまっすぐではなく、「~(波ダッシュ)」のようにするというだ。しかし、字の形など考えずに早く書いていると。自然と「波磔」のようになることがある。そのときに、「ああ、これは人間の自然なのだな。だから、美しいのだ」と思った。形というのは、意外にも本能的なのだ。
2005年10月15日
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甘いと思われても仕方ないが、俺の「強さ」についての考えを示す。「今日は昨日よりも、明日は今日よりも強く」その一言に尽きる。他者との関係性において「強さ」は決まるが、その他者を一時的に棚上げする。矛盾だ。しかし、矛盾こそが真理なのだ。
2005年10月15日
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言いわけと理由の違いがわからない。「できない」何かがあり、その理由がある。いやしかし、結局できない理由、つまり言いわけをグダグダ述べることになる。できないことに理由なし。あるのは、言い訳のみだ。できないこと語るべからず。できない理由を述べるほど、できなくなる。逆にできることには理由がある。いや、その理由も後付けにしかすぎないのか?因果応報という。しかし、人の目に見える因果など小さなものだろう。なぜ俺にはあることができ、あることができないのだろう。「時間がない」本当にないのか?たぶん、本当にないのは時間ではなく、マルチ能力、つまり切り替え能力だ。ひとつのことにパッと集中し、すぐやめ、またほかの事にパッと入る。どうすればそのようにできる?考えろ。言い訳をして、人を傷つけた代償。どうしたら取り戻せる?考えろ。
2005年10月15日
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これは真理だね。最近実感するわ。よくこれを差別とかいう人がいるよね。「身体障害者の人は健全ではないのか?」みたいな変な倫理感持ち出してくる人。そうじゃないんだよ。健全な身体ってのは、柔らかい身体ってこと。もちろん足が180度開くとかは関係ないよ。身体がいかに割れているか、ということ。とにかく、「健全なる身体」の解釈が間違っているんだね。怪我してるとか、障害があるとか関係ない。「抜けた身体」には確かに健全な魂が宿ると思うよ。うん。
2005年10月13日
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お店がやばい。雰囲気的には崩壊寸前。もう耐えられない。このままじゃどうにかなりそうだ。もうやるっきゃない!!革新だ!刷新だ!改革だ!転覆だーーーー!!おっしゃ、こうなったらもうなんでも来いや!受けて立ってやるぜ。俺がやってやる!改変してやる!!まかせとけ!!おりゃあああ!!
2005年10月13日
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どうも、自分の方向性を見極めず、自分が理想に近づいていると思っている人が多いような気がする。僕の意見としては合気道というのは3つの軸を持っている。それは、「実戦的要素」「技術的要素」「舞踊的要素」である。では、これらの要素をバランスよく高めていけばよいのか。そうではない。僕は、求めるのなら「ひとつ」を求めたほうがよいと思う。ひとつの要素を伸ばし、結果的に残り二つの要素がついてくるぐらいの考えで、僕は研究を進めている。僕は前にも書いたが、「技術的要素」を求める人間だ。だから演舞で素人受けする技をやることもないし、ガチンコのケンカで腕を磨くこともない。だから「キレイ」な技ではないし、「強く」もない。僕は自分でそう言っている。しかし、なかなか自分の弱みを認めない人もいる。極端に言えば、自分の技は魅せる要素があり、なおかつ技は効いており、しかもケンカもできる、的な発言をするのだ。もちろん、ほんとうにすごい先生なら、そういうこともありうる。しかし僕と同じくらいの年で、そんな人は見たことがない。たいていどれかの要素に傾いている。が。それを認めることができないらしい。「その技はガチンコの技で痛めるのには良いが、技術ではない」「その技は素人に宣伝するには良いが、受けが自分で飛んでいる」ということを言うと怒り出す。つまり傷つく。それが弱さの証。僕は「お前は『弱い』」と言われたぐらいでは決して傷つかない。自分の進む方向が明確だからだ。あとは「合気道のためのコミュニケーション」なのか「コミュニケーションのための合気道」なのかをはっきりさせねばならない。それは自由選択で、どちらが正しいというのではない。「みんなで和気藹々と、明るく楽しい合気道」というのはコミュニケーションの割合が高いといえる。それはそれですばらしいのだが、技のレベルは、本気で技を磨いている人にはかなわない。それを認めよ、ということ。思うに、本当に技を求めたら「明るく楽しく」などということは無理だ。本気でやるのは、もっとドロドロした、狂気の世界なのだ。僕の提唱する三要素は究極的には同じものだが、稽古の途上では相互に阻害する要因となる。「大きく見せる」なんてやってたら、技はうまくならないし、相手にバレるから強くもならない。技ばかり求めれば、ケンカには勝てないし、見せる要素も減る。ガチンコに強くても、それが理にかなっているとは限らない。だから、自分で自分の方向を見定め、長所短所を自分で見極めるのが大切なのだ。こんなこと当たり前だと思うけど、出来ない人には出来ないのかなあ。
2005年10月13日
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「ほう、威勢がいいな」「まだ温かい。遠くには言っていないはずだ」「俺はまだ50パーセントの力しか出してないぜ」
2005年10月11日
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「お前さ、この『和泉かねよし』っていう漫画家が好きなんだろ?」「そんなんじゃねえよ。」
2005年10月11日
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人の心に響かぬ、愚痴というものがなぜこぼれるのか。それは、どうにもならない状況だと、自分で思い込んでいるからだ。どうにもならぬことなどない。自分が動けば人は変わる。世界も変わる。人が人を思い通りに動かすことはできない。人の心を作為的に変えることはできない。変えることができるのは、自らの心、つまり行動だけ。固着した(居着いた)人が人を動かすことはできない。自分は正しい。その場から動かない。相手は間違っている。だから変われ。???「鳥かごから出せ!!」「背中に乗せてくれないのかよ」「あんた一人で行ってしまってどうするつもり?!」「飛ぶ気なくなるわあ」???よく見てみろよ!!鳥カゴの鍵は開いてるんだぜ。ほら、飛びたてよ。この崖が怖いのかい?空は待ってるぜ。くちばしじゃなくて、羽を動かそうぜ。
2005年10月10日
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「道」や「芸」の世界に走ると言い逃れが出来る。だが、それは甘えだ。 羽生善治著 「決断力(角川書店)」より
2005年10月09日
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怒りとは、守りである。見た目には攻撃に見えても、本質的には防衛なのである。怒るときというのは何かを守っているのだ。人間の場合はプライドを守っている場合が多い気がする。だから、「カチン」と来たときに、一瞬だけ呼吸をおいて、「自分は何を守っているのか」と考えたら面白いと思う。もちろん素直な人にしかできないけどね。よく考えたら大したものを守ったりしてなかったりする。自分で作り上げた「プライド」に縛られているだけのことも多いのだ。そんなんでカッカしてたら人生もったいないね。ああ、でももちろん怒りも大切よ。ほんとうに守るときはね。怒ることもできないで、やられてしまうのはいちばん情けない。ここでもういちどozekey定義を。三流は、やられる。二流は、やりかえす。一流は、吸収する(認める)。これは合気道でもなんでも同じだと思うのです。
2005年10月09日
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「理想論ばかり語るな。」「もっと現実を見ろ。」よく言われている言葉だ。でも、これを実行している人ってかなり少ないのではないだろうか。むしろ、なにもかもを現実から始めることが出来たらもう「悟り」の領域なのだと思う。現実から始めるということ。つまりは「今ここにあるもの」を認めるということ。「良い」と「悪い」がない世界。働き出してから、人の「嫌な部分」を見る機会がよくある。人のずるさ、勝手さ、傲慢さ。日々そういったものとの格闘だ。昔は、そういう「人の嫌な部分」を認められないでいた。「あいつらはなんだ。ほんとに勝手な人間だ。 もっと相手のことを考えないと」と思っていた。こういう考えが地に足のつかない理想の押し付けなのだ。そうではない。「人間とは勝手なものだ」とまず認める。認めるから、具体策を練ることが出来る。「人間は勝手だ。だから、どうしよう?」となる。NOからHOWへの転換である。理想ばかり掲げていると、愚痴しかでてこない。「はあ、ダメだ」そういう場合は大抵、状況がダメなのではなく、その人自身がダメなのである。「毎日がつまらない」という人は、その人自身がつまらないということを露呈しているのだ。一人で理想を掲げ、周りに押し付け、叶えられないで、現実とのギャップに一人で落胆する。確かに真理というべきものはあると思う。俺は信じている。真理という「本当の自然な正しさ・美しさ・つよさ」があると。そしてまた、俺はそれを求めようと思っている。しかしそれを押し付ければ、すでに真理ではなくなる。真実はいつも静かなのだ。もっと言えば、真理というのはどうでもいいものなのだ。まず現実を認めることが出来なければ、真理はうざったい教条でしかない。今を認めることが、幸せへの第一歩であり、最後の一歩でもあると思う。
2005年10月09日
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いま使っている技の原理を「地球波」と名づけることにした。研究中の原理は「真空投げ」と名づけよう。なんかちょっこカッコイイから。それで、そういったものとその訓練法を総じて、「合身躰術(がっしんたいじゅつ)」という名前にしようかと思っている。まあ単なる名前のお遊びですが。と言っても、合気道の名称と黒帯は俗世とつながるために使わせていただきます。
2005年10月08日
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イヤミがうまい人というのがいる。俺は、イヤミほど弱いものはないと思う。イヤミとは弱みなのだ。往々にして、人に忠告せなばならぬときがある。それは仕方の無いこと。しかし、その忠告に感情を乗せてくる人がいる。ネッチョリとした感情がねばりけのあるイヤミを生み出す。おかげでその忠告はまったく俺に届かない。言葉に重みが無くなるからだ。イヤミは相手の心を固くする。イヤミしか言えない人というのは、相手に何も伝えることができないかわいそうな人だ。もちろん俺もイヤミな言い方をしてしまうときがある。あんな言い方しなくても良かった、とあとから反省する。しかし、その場では相手に怒りをぶつけたくて、嫌な言い方をしてしまう。一時的にスッキリするのだ。だけどそれでは、結局交流ができない。コミュニケーションが成り立たぬ。しゃべることが会話ではない。表面的にしゃべっているかどうかは関係ない。俺にとっての「本当の交流」ができたときというのは、「読後感」ならぬ「話語感」がとても良い。話しているときもそうだが、会話が終わったときに、満足感がある。なかなかそういう「ほんとうの交流」ができる人はいない。だけど、いる。いるのです。そういう相手でさえも、近しくなるのは時間がかかる。やはり人と人との距離は遠いのだ。人と人がほんとうに親しくなるのは難しいのだ。だからこそ親しい友達は大切だし、嬉しいものだ。本当に仲の良い友達がいる人は、そういうことを分かっているでしょう。であるからして、イヤミはあまり言わないほうがよいと思うのです。人「間」にとって、本当の交流をさまたげてしまうから。60億の人間が地球にいても、出会える人なんて限られている。その限りある出会いをイヤミで台無しにしてしまうのはもったいない、と思うわけです。
2005年10月08日
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藤井隆って、かなり頭いいんじゃないかな。このまえ、「さんまのまんま」でさんまとしゃべってたけど、かなりの生きる技術を持っているとみた。裏はマジでいい人。先輩を立てる能力を持つ。そのための愛想爆笑。愛想で爆笑できるのはかなりの技術。もしくは暗示か。かと言ってこびるわけでもない。ちゃんと言いたいことを言える。そのためのキャラ。ちょっと話がもどるけど、暗示笑いというのがあると思う。合気道の師範の技が、その弟子にかかりやすいように、お笑いの先輩の「技」も後輩にかかりやすい。「笑い」には立場が大きく関係する。かなりのつまらない人でも、立場が上になっていくと、下の人を笑わせられるようになる。別に後輩も愛想で笑っている感じではないのだが、実際は「暗示」の部分が大きい。「笑ったほうが、生きるのがラク」というのを身体が知っているのだろう。そういうのをほぼ完璧にものにしているのが藤井隆だと思う。彼はすごいわあ。
2005年10月07日
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ストレスという言葉にストレスを感じるくらい、現代社会はストレスにあふれている。いや、歴史の中でストレスのない時代などないだろう。ストレスという言葉が発明されただけだ。昔から、人が生きるということはストレスまみれなのだ。そのストレスに対応せねばならない。ほおっておくと、どうもよくない。最近の俺の対応策で面白いのが、あえて「燃えるぜ」と言ってみる、というやつ。プレッシャーがググっとかかってくる。心が下を向くと、「ああ、やだなあ」としか思えない。どんどん萎えてくる。そこで、そのプレッシャーを感じたら、あえて「燃えるぜ」と言ってみるのだ。そうすると、強いやつほど戦いたい孫悟空のように、闘志が湧き上がってくるのだ。荷物の量が多いとき、ともすれば気が抜ける。「ああ、今日もこんなにあるよ」違う!そこで「燃えるぜ」と嘘でもいいから言ってみる。すると、やってやろうじゃないか、みたいな気分になってくる。だまされたと思ってやってみてください。あとは「つり橋効果を逆手にとる」というもの。「つり橋効果」ってのはまあ簡単に言えば、ジェットコースターに乗るのも、好きな人に告白するのも、けっきょく心臓の拍動としては同じということ。なので、なんか緊張する舞台とかがあったら、「ああ~、緊張してやだー。心臓がドキドキするよ~」ではなく、「お、心臓がドキドキしてる。 これは好きな人が隣にいるときに似ているな」なんて思ってみるのだ。恋愛でドキドキするのはサイコーに楽しいじゃんね。特に付き合う前なんかさあ。だからプレゼンの前とかでドキドキするのも考え方によってはサイコーに楽しいということになるのです。これが最近のストレス対応策です。ああ、あとはもちろん家に帰ったら疲れた身体を体操によってリセットするし、身体がゆがんできたら矯正もするけどね。どうしてもストレスは身体にでますよ。それから「怒り」の効用もはずせないね。怖い人に対応するにはどうしても「怒り」が必要になってくる。「怒り」は防衛だからね。だから下のものはたまに怒ることも必要と思う。まあ、そんな感じで生活しているのです。
2005年10月07日
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どうも最近、「仕事が出来る人」という言い方がなにかそぐわない気がする。結局「仕事が出来る人」というのは「仕事にやる気がある」ということでしょう。やる気満々で仕事が出来ない人なんているのかなあ。それと「仕事が出来る人に見える技術」とかいうような本も出版されているけれど、はっきり言ってくだらないと思う。「頭が良い人に見える技術」とかね。いい加減にしろよ。ちょっと話がそれたけど、やっぱりやる気なんですよ。やる気があればやるし、やれば成果はついてくる。俺は学生時代はいわゆる「優等生」というやつで、おベンキョウはよくできた。友人から「なんでそんなにできるの?」などと、よく聞かれたものだ。けど、俺やってたからね。提出物はもちろん、予習復習かかさず。それで出来ない訳はないでしょう。おっと自慢話?になったっぽいからもうやめるけど、要は「やる気」ということですよ。「やる気が出ない」っていうけど、やる気が出ないならやらなくていいんですよ。やりたいやつがやればいい。というわけで、「仕事が出来る人」というよりは「仕事にやる気のある人」のほうがしっくりくるんだなあ。
2005年10月07日
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議論。ギロン。ぎろん。議論ですよ。俺は好きだ。こう、人と思い切り意見をぶつけ合うのは楽しいと思う。しかしだね最近、議論って無意味なのでは?って感じてきている。意見をぶつけあって、なにか良いことがあるのか?たとえば論破したとて、たんなる自己満足。負けたとしても、別に意見を変えなければいいだけ。「ディスカッションに勝って、勝負に負ける」ということもあるだろう。頭のいい人どうしの議論なら、もしかしたら意味があるかもしれない。相手の言い分を聞きつつ、主張しあい、良い部分を取り入れようとする二人なら。しかし、単なる背反する意見どうしのぶつかりあいでは、憎しみ以外何も生まれない。「自分が正しく、相手の考えを変えさせよう」という両者では生産的なことは何一つ無い。大切な人生のエネルギーを無駄に消耗してしまう。議論のかたちをしていても、一度怒りが入ったら終わり。怒りに論理は関係ない。ほんと最近つよく思うよ。怒っている人に「正しいこと」を言っても、無意味なのだね。また怒るだけ。相手の「理不尽な」お話を聞いてあげればいい。だから議論が出来る人と出来ない人がいるのだね。それを見極めねば、エネルギーの無駄遣い。議論が出来ない人のお話をじっくり聞いてあげましょう。
2005年10月07日
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昨日の昼から今日の午後にかけて、静岡県は浜松市に小旅行。人生初の社員旅行というやつだ。はじめはかなり気まずかった。知っている人がほとんど誰もいない。30人のなかで同期は3人。かたまって、ひっそりとしていた。ボーリングもはしゃぐにはしゃげず、「社会は厳しいなあ」と思った。それよか面白いのは、ボーリングというのは人が出るスポーツだと思う。ゲームが始まる前から「俺(わたし)、下手だから」と言ってみる人、何も言わない人、「またトップ狙うぜ」的な自信満々な人、などなど。投げる前から、かなり性格が見えて面白い。投げ出すと、また面白い。スコアが伸びず、あからさまに落胆する人。スコアが伸びなくても明るい人。わざわざ人にプレッシャーをかける人。と、まあボーリングはフツーに終わった。2ゲーム目に150超えたから自分としては大満足!!それから、バスに乗って浜松へ。ホテルについてしばし自由時間。宴は6:30より。日々楽しく過ごしている俺だが、やはり飲み会ばかりは憂鬱だ。お酒がほとんど飲めないから、飲ませてくる人が嫌で嫌でしょうがない。でもさすがに20代も中盤にさしかかると、「今日はこれで5杯目だよ」とかなんとか聞いてもいないのに酒量を教えてくれる人もいなくなるので、それは助かる。ホントあれには辟易する。そんで2次会はカラオケ。こっちは大好き。なので新入社員のくせに、がっつり歌ってみた。(ミスチルと聖星矢)先輩には変なナルシストに見えたかも?まあ、好きに思ってくれればいい。カラオケで気づいたのは、10人ぐらいのグループになると、かならず一人はカラオケ嫌いがいるということ。マイクを渡しても歌わない。でも、その人は雰囲気を壊したくないから、一生懸命作り笑いを持続している。う~む。あるコミュニティの全員が楽しむというのは難しいのだなあ。そのあとは風呂に入り、それから部屋で先輩たちと飲んで駄弁る。これは面白かったな。途中で、外からものすごい声がするから覗いてみたらフィリピンパブ(?)で何かしら修羅場になっていて、いちおう警察を呼んでみたりとか、オモロイこともあった。2:30まで裏話などを駄弁り続け、そのあとは寝た。翌日、つまり今日は7時におきて朝飯、そのあと「だいたらぼっちの湯」とかいう温泉に入り、9時には出発。まずは航空自衛隊浜松基地の広報を見学。これはあんまりだった。ただ、みやげ屋で、袈裟を来たお坊さんが、軍事的みやげを興味深げに見ていたのが面白かった。っていうか、かなりのマニアと見た。それからみかん狩りに行くはずだったが、雨のため急遽予定を変更、鍾乳洞を見に行った。おかげで、せっかくバスガイドさんが説明してくれた、「えー、フルーツ狩りと申しましても、色々とございまして、イチゴ狩り、ミカン狩り、メロン狩り、さくらんぼ狩りなど、色々なフルーツ狩りがございますが、いちばん元がとれるのは、さくらんぼ狩りでございまして、といいますのも、さくらんぼは単価が高いからでございまして、りんご狩りなどは1つ食べるとおなかがふくれてしまいまして、そのうえ皮をむく手間もございますが、その点、さくらんぼはその手間もなく、種を出すだけでございまして、本日のみかん狩りも皮をむいて食べるだけでございます」という超笑える解説も水泡に帰してしまった。いやあ、ほんとに説明が下手だったなあ。で、鍾乳洞ね。これはすごいね。1cm伸びるのに100年だって。俺、死んじゃうよ。でまあ、そのあとはフツーにバスにのってぶーって帰ってきたわけですよ。社会・人間・自然を見れた旅でした。「ラク」ではなかったけれど、また来年もいってみようかな。
2005年10月05日
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俺は、本屋という職業がとてもすばらしいと感じている。いわゆる「エリート」という感じではないかもしれないけど、世間がなんと思おうが、俺がすばらしいといったらすばらしいのである。まずは身体を使うということ。これは、心身にとてもよい影響を与える。もちろん身体ができてくれば、パソコンを打ちながらでも身体を動かすことは出来るが、やはり大きく身体を動かせるのは幸せだ。それから、なんか人の情ね。もちろんBtoBビジネスでも人の情はあるんだろうが、こっちのあいては、ビジネスマンではなく「一般人」やからね。つまり相手が「素」。だから人間の色んな部分、たとえば甘えとかが見える。もうほんとに勝手な人とかいて、腹も立ちますよ。けどねえ、「○○が入荷できることがわかりました!」って電話したら、「ああ、よかった。もう無いかと思った」って安堵の声をもらすおばあさんとかいてね、なんかすごく嬉しいわけですよ。あとは、けっこうコワモテのおっちゃんで「兄ちゃん、ポケモンあるか?」とか聞いてきて、横柄だなあと思ってても、場所を案内したとたん、「○○~、ポケモンあったぞ!」とか嬉しそうに子供を呼んでんのね。それから、偶然の出会いね。お客さんどうしでバッタリあって、「○○ちゃん、ひさしぶり~」みたいになってると、その場で働けることが嬉しい。それに美しき本たちがまわりにたくさんいるし、新刊情報に詳しくなるし、良いことだらけだ。だから俺は自分の仕事に誇りをもっている。これは自信を持っていえる。
2005年10月03日
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羽生善治さんの「決断力」を買ってしまった。めちゃめちゃハマる。もうこのごろは本を身体が判断するので、1、2P読めば自分にとって良い本か悪い本か分かってしまう。これは最高に良い本だ。そのなかに、「情報はいかに捨てるかが大事」みたいなことが書いてあった。言われてみればそうだ!!俺はどんなに多くの情報を捨ててきただろう。合気の研究をしていくなかで、多くの本を読み、ネットで情報を探した。いろんな人が「こうすればいい」「これが正しい」と言っている。俺は大いに迷った。色々やってみた。いわゆるボツ案を幾つも出した。しかし、おかげで方向性は決まってきた。今は、要らない情報がだいたい分かる。そう、「偉大な」先生の言葉でも不要なものは不要なのだ。それを「偉大だから」といって取り入れるのはバカの一つ覚えというやつ。情報は取捨選択せねばならない。よく「色んなものから学ぶ」という大義名分をかかげて、なんでもかんでも手を出そうとする人がいるけれど、俺はそういうのはどうかと思う。ただ、選択する能力がないだけではないのか。道を歩き出したら、進むしかない。けれど、培ったものより素晴らしいものを見つけた、と思ってしまったら、その場でそれを捨てる覚悟も必要と思う。執着は終着なり。「これしかない!」と心がとらわれたら、そこで終わりなのだ。信じている。しかし違うかもしれない。そのゆらぎこそが、柔軟性なんだと思う。拾うことは誰でにでもできる。捨てることは誰にでもできない。ちなみに最近買った中村天風先生の本がまったく心に響かず、意外だった。最後まで読めなかった。俺にとっては捨てるべき情報だったのかもしれない。
2005年10月03日
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いわゆる座りの呼吸法というやつ。ちゃんとやれば、よい稽古法と思うけれど、ともすれば危険な練習法だと思う。というのは、よく見かけるのは後方に倒すやり方で、「座技呼吸法」と言ったら、ほとんどこれを指すのではないだろうか。もちろん、相手を「上げる」稽古をしているところもあると思うが、僕が見た中では、後ろに倒すのが多かった。後ろに倒すのがいけないといっているのではない。しかし、後ろに倒すやり方だと、「筋力」でも出来るということが言いたいのです。つまり、ごまかしがきく。「上げる」やりかたの場合、ほとんどごまかしがきかない。どんなに筋力の差があっても、相手の腰を上げさせることはなかなか出来ない。だから稽古法としては「上げる」形のほうがよいのではないか、と思っているんです。難しいけれど。けど、「できていない」ということを実感できる。「できていない実感」というのはとても大切だ。それがなければ、「呼吸法」と言って、顔を真っ赤にしながらリキんで倒すことになる。そういう風にはなりたくないと僕はつよく思っているのです。
2005年10月03日
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極真空手創始者のゴッドハンドこと大山倍達先生の言葉に「技は力の中にあり」というのがあるけれど、僕は自分の進む道の観点から「技は力の中になし」といいたい。僕は「技と力は別物」という考え。一般に、実力というか「強さ」というのは、まあ精神力とかを抜きにすれば、「技×力=強さ」みたいな方程式を作ってもあながち間違いではないと思う。格闘技や柔道においては、わかりやすいと思う。力だけでは勝てない。技だけでも勝てない。その「力」と「技」の積が高いほど、「強い」とされている。「力」と「技」の割合は種目によって異なるが、こと合気道というのは、「技」の割合の高い武道と思うし、そうあることではじめて、合気道の存在意義があるはずだ。(ここでいう「技」とは単なる「テクニック」以上に高度な身体技法も含む)僕の目標は、この積(これを今後「武積」と呼ぶ)を大きくすることではなく、つまり「強く」なることではなく、「力」の部分をゼロにすることだ。これは、僕の知的好奇心が武術的野望以上に、強いことも関係している。だから、僕は「武積」が大きいということにはほとんど興味がない。いや、本当は興味がある。僕はあわよくば「強く」なりたい。でも当面の目標は、「力」をゼロにすること。だからどんどん「武積」は小さくなっていく。1つの視点から見れば、ただ弱くなっているだけで、ぜんぜん上達していないように見えるかもしれない。でも僕は他人がどう思おうが、自分の目指す道を歩く。たとえそれで間違ったとしても、それはそれでいいのだ。焦って「武積」を大きくして、年をとってから限界が来るのは嫌だ。「死に際こそ最強」この言葉を胸に。と、考えているから「武積」が大きいだけの人とはあまり話が合わないかもしれない。この前、研究会をしていたら「むかし合気道をしていた」とかいう初老の男性が口をはさんできて、「大事なのは、力を抜くことだ」とか言っていて、「これはたぶん違うだろうなあ」と思いながら技を見たら、これがまた力技で、ため息が出た。やはり「自分が力でやっている」と気づくのはかなり難しいらしい。年をとればなおさら。でも、その人の「武積」は僕より大きいんですよ。それなりに「技」も「力」もあるから。まだ中途な段階の僕の技はそのおじさんにはかからないだろうし、そのおじさんの力技は僕に効くかもしれない。だからおじさんから見れば、僕は「後輩」なわけです。でも僕から見れば、「他武道」のおじさんでしかない。先輩には見えないのです。あえて言うなら教師です。反面教師という名の。僕は柔道や格闘技を「力技」とは思わない。武術家という人で、やたらと格闘技を否定するのを見かけるけれど、僕はそう思わない。詳しいことは分からないけれど、試合の中で、ものすごい「技」の応酬があるのだろう。そしてものすごい「力」があって、その「武積」たるやほんとうにすごいのだろうと想像する。だから僕はその世界をあきらめたわけです。はっきり言えば。かっこよく言えば逆理の発想です。「武積」という観点で言えば、合気道の平均値はかなり低いと思う。だから他に対抗するには、つまり合気道が合気道である意味というのは、もっと言えば、合気道の個性というのは「力」をゼロにすることだと僕は思っているのです。僕の先輩後輩の観点は「力」の大小なのだ。小さい人は先輩。大きい人は後輩。だからいくら倒されても、「感動」がなければ学ぼうとは思わない。やはり「技は力の中になし」だと思うのです。
2005年10月02日
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