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今日も働いたよー。最近は連日10時までの残業、残業。でもなぜだか元気なんだなー。やっぱり疲れってのはほとんど精神的なものなんだね。やりがいがあればあんまり疲れない。で、さっき帰ってきて、さっそくテレビをつけて格闘技を確認。ヒョードル強すぎ!!ボビーはどうなるかな?あー、インスタントのそばでもちょっとは気分がでるね。そして明日も仕事!もう笑うしかないね!!
2005年12月31日
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アジカンとバンプとレミオロメンとごっちゃになってます。
2005年12月29日
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「面白いってのは、つまりは『ちょっと怖い』ってことなんだ」
2005年12月28日
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最近は深く考えている。生きることについて、人間について、愛について、俺は考えている。孤独。孤立と孤高のはざまで。でも、悩んではいない。ここ数ヶ月のような弾むような楽しさはない。だが、悩みにさいなまれているわけでもない。俺は自分から考えている。だから辛くはないのだ。ちょっと動けば、すぐに楽しくなる。そう知っている。だから「最近つまんないなあ。なんか楽しいことないかなあ」なんていう情けない思いはまったくない。面白いことなど、いつでもどこでも作れる。面白いことなんて、そこらじゅうに転がっている。だが、俺はそうしない。メールも来ない。メールも送らない。さみしい。だけどそれでいい。それでいいと思ってるんだ。そんなふうに年を越したいと思っている。
2005年12月27日
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「ずるいのはそっちだよ」最近言われた言葉だ。ああ、そうだ。ずるいのは俺だった。はっとした。何も言うことは無かった。俺が先に「ずるい」と言った。だが上のように言われた。ずるいというのは、ずるっとずれているということ。自然な、素直な心と身体がずれている。それが、ずるい。俺は、ずれていた。ちゃんとした人の本を読むと、「俺はまったく人間に成れていないな」とへこむ。成人式はかなり前だが、まだまだ人になっていない。情けなくなる。けれど、そんな俺もまあそれなりに社会生活を営んでいる。俺はこんなに未熟なのに何故なのか。それで思ったのが、周りの人間もそうはなかなか成人していないのではないか、ということ。精神レベルが同じならば、相手が未熟であっても不快に感じることはない。たとえば、幼稚園児レベルの未熟な精神性のオトナが社会にいたとすれば、それはかなり迷惑な存在だ。だが、幼稚園児どうしというのはまあケンカはあっても楽しく遊んでいる。つまりレベルが低くても、周りも同じならそうは問題はなく、つつがなく生きていけるのだ。だからほおっておけば、俺はこのずるさをみんなに慰められながら、生きながらえることができるだろう。「みんなそんなもんだよ」っていう言葉に甘えながら。だが、この期に及んで他人は関係ない。俺は俺として、人に成りたいのだ。それには、色々と苦しいこと・痛いことを認めていかねばならない。自分の弱さを知っていかねばならない。俺は、ずるくない人間になりたい。
2005年12月26日
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「王道を、明朗に往け」
2005年12月26日
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昨日は合気研究会が終わってから名駅に出た。イルミネーションの彩りあざやかに、3連休の最後を楽しむ恋人たちがたくさんいた。「さみしくなんかないさ」俺はそう自分に言い聞かせたが、それはウソだった。俺はさみしかった。すれ違うカップル、カップル、カップル。一人で歩いている人もたくさんいるのだろうけど、目に入らない。見えるのは、俺の孤(ひと)りを浮かび上がらせる「ふたり」の人たちである。だが、「いいなあ」と思うと同時に、「それがどうした」という思いがあった。クリスマスに恋人でデート。体裁はよいかもしれないが、それが幸せとは限らない。メディアの幻想に踊らされてはならない。クリスマス用のカップルなどはお互い、さみしさの傷を舐めあっているだけだろう。実際、そういうカップルも多いのだろう。それで、華やかに街を歩いている。その虚しさ!!俺が「行動する」ということ。そこには大義名分があった。「積極的であったほうがいい」「自分から行動を起こすべきだ」「待っていちゃ何もはじまらない」それはまさにそのとおり。だが、俺はそれを大義名分に「行動」し、さみしさをごまかした。苦しさがから逃げた。それではいけない。俺はさみしさに真っ向からぶつからねばならない。孤りを存分に味わいつくさねばならない。そうでなければ、俺の未来はない。今、俺がすべきは「なにもせぬこと」。「待つ」こと。耐えること。そうすることで、何か見えてくるものがあると思う。寂しさをごまかしたら、それはどんどん大きくなり、いよいよ限界になり、そして俺はゆがんでしまう。寂しさをごまかすな。
2005年12月26日
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昨日の稽古のことをまとめてみよう。まだ自分の中で体系化できず、うまくしゃべれない。まずは「同調」ということ。このためには、単にスピードが同じということではなく、身体ぜんたいの動きが大切であるようだ。身体ぜんたいの動きというのは、一部にリキミがないこと、つまり支点が少ないこと。これが「見えない動き」になり、「見えない動き」というのに受けは「同調」し、触れる前に崩れていく。外から見えない内部の動きということではない。なんというかついていけないような、ついていってしまうような動き。奇しくも、以前やっていた合気道にそっくりなものになってしまった。だが、中身はだいぶ違う。前やっていたのは、演武やキレイさのための、「流れ」であった。それがすこし内実をともなってきた。それとともに、自分は間違っていたのだと気がついた。だが、この道を歩んだことを後悔はしていないし、これからも自分の思う道を歩いていく。それにしても考えて見れば、この予兆は夢で見ていたのだ。そういう世界がきっとあるんだろうなあ。
2005年12月26日
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昨日は「合気・ザ★クリスマス」を開催してきた。かなり面白い発展があった。従来の「重さ」の原理と「抜き」の原理で、合気上げやらなんやら色々やった。あるとき「肩合気」を練習していたら偶然、受けの方が勝手に崩れていた。触れる前に。「今の何でしょうね」二人で顔を見合わせる。で、もう一度、とやると、今度はうまくいかない。何度かやると、たまに成功する。どうもタイミングとかが関係するようだ。ここで浮かんだ言葉が「同調」。じゃあその観点でやってみようということで、色々な技を試してみる。それがまあ見事にかかる。といっても、結局は八百長なのだが、ある意味ではヤラセではなかった。この辺は、各自好きなように受け取ってください。どう思われようとかまいません。で、そんなことをやっているうちに、「速いパンチに対応できないかな?」という話になった。それまでは相手に等速でゆっくり手を取らせる稽古をしていたが、今度は、構えた掌をジャブもどきの手打ちパンチで打ってもらうという稽古。さすがにジャブは速いので、それまでのような身体全体の大きい動きでは追いつけない。なので、動きを小さく小さくしていった。すると、最終的には身体の内部の動きと相手の外部の動きが「同調」すればいいことが分かった。身体の内部の動きとかいうと達人みたいだが、僕にそんなすごいことができるわけもなく、まあそこは一緒に稽古する機会のあった人に説明します。で、その小さな動きでやるといわゆる交差取り一教の質が変わった!くりっとやると相手が腰から返る感じ。こりゃ面白いとばかりに、何度もやった。「やっぱり気を合わせることですね」とかいいながら(笑)いやあ、あの稽古はヤラセくさかったなあ。うさんくさい雰囲気が漂いまくってた(笑)あとは、合気上げを軽く手を置いただけで抑えるのもやった。これは「軽く置いただけで」という言葉のあやで、本当は「軽く置いたから」抑えられるのだと思った。これをやると、合気上げをしようとした人はびょい~んと腰をとられて前に崩れてしまう。だが、相手が抑えようとしたその瞬間に自分たちのレベルなら少しリキミが入る。そこを捉えれば、取りが成功する。「力の抜き比べ」っちゅうのもなんとなく分かったような気がする。なにはともあれ、かなりうれしいクリスマスプレゼントをもらってしまったのでした。
2005年12月26日
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「ねえ くるみ あれからは一度も 涙を流してないよ」「笑いたがる人にはキスを」そんなところです。
2005年12月25日
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真面目に生きることに決めた。やっぱりダメだ。生来の気質というものがある。俺は真面目なのだ。とうてい、遊び人にはなれぬ。無理することはない。認めればいいだけの話だ。直人の名のとおり、正直に、素直に、真っ直ぐに生きてみよう。自分を偽らず、真正面からぶちあたり、納得のいく道を進もう。間違ったっていいじゃないか。失敗したっていいじゃないか。ずるがしこく立ち回るくらいなら、転んで泥まみれになったほうがいい。自分を曲げて好かれるくらいなら嫌われてしまえ!!ずっとマジメに生きてきた。それで苦しいことや嫌なことが色々あった。そんな経験に負け、自分を嫌い、すべてを捨てようと思ったこともあった。だが、それはそのマジメというものが、空虚な規範に従ったものだからだ。学校やオトナが押し付けてくる、都合のいい倫理、うさんくさい教義、そして思考停止した道徳。幼いころの俺は自分に正直だったが、今言ったようなくそったれの規範にも正直であった。それに言い訳をしている自分にも気づかなかった。何かから逃げ、何かに言い訳をし、自分をごまかし、あざむく。そんなことが続けば、やがて自分が分からなくなる。そして「自分探し」などわけの分からないことをはじめるハメになる。そんなのはまどろっこしい。ただ、自分に素直でありたい。それで時には世の規範を破ってしまうかもしれない。そうして何らかの制裁を受けるかもしれない。それでもいいじゃないか。どんなに傷ついたって、自分をだますことよりは何倍も善いことなのだ。とはいえ、自分に正直な道を歩くことはすこぶる苦しいことだろう。大きな困難が待ち構えていることだろう。いま、こうして決心しても、今後一切自分にウソをつかないというのは難しいだろう。だが、この決心を据えて、自分を監視することはできる。「自分に素直であること」これを唯一の規範として、胸の中に掲げるのだ。ああ、なんだろうこの晴れわたる気持ちは。最近あった嫌な出来事と、卑怯で姑息な気持ちがいっぺんに吹き飛んだ感じがする。俺をとりまく世界と、そしてこの名を呉れた両親に、ありがとうといいたい気分だ。自分を大切にするってことは、自分を愛するってことは、自分に素直であることなのかもしれないな。自分の立場とか、財産とか、肉体とかでなく、魂を守ってやらねばならぬのだ。よーし、やるぞ!!
2005年12月23日
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「浮き身」というのは、ものすごく筋肉を鍛えねばできないと思う。甲野さんの言う、垂直離陸も同じなのではないか、と考えている。
2005年12月23日
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今日は午後からの出勤なので、朝は読書しながらのんびり休息。そしたら突然、インターホンが。この家を訪ねてくる人などほとんどいない。インターホンがなると、かなりビクッとしてしまう。なめられぬように「ハイ」と低い声ででると、「宅急便です」え、誰から?まったく想像もつかない。とりあえずドアの小窓から外をのぞく。宅急便のお兄さんが立っているし、うしろにトラックも見える。こりゃホンモノだろう。ガチャとドアを開けるとお兄さんが小さな小包を持っている。受領印を押して荷物を受け取る。そこには「書籍 BABジャパンより」とある。あ!「秘伝」(←雑誌)編集部からだ!そういえば、よくアンケートを書いて投稿していた。2度ほど掲載されたし。今度はプレゼントが当ったらしい。中身はあの小山さんの火の呼吸の新しい本。まだ読んでないけど、とりあえず当選したことにワクワク。心躍るよ!いやあ、なんか嬉しいね。うん、すごく嬉しいよ。当選するって、ロマンだなあ。
2005年12月22日
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人が憎しみあうということは、つまりお互いのコンプレックスがぶつかっているということではないだろうか。逆に、うまくいく二人というのはコンプレックスを補い合える関係なのかもしれない。
2005年12月22日
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昨今、「萌え」が大流行している。いわゆる「オタク」が、2次元キャラがとてもかわいくてたまらない、という時に発する、あの言葉だ。なんでそんなオタク文化が世に流行るかといえば、非オタクの普通の人の心の中にその感情があるからだ。だが、「カタギ」の世界にはその感情を表すよい言葉がなかった。そんなとき、「オタク」の世界にはそんなしっくりくる言葉があるのかと人々は感心し、それが流布しだした。オタクが「萌える」対象が対象だけに、はじめ、「一般の人」は毛嫌いし、「萌え、だってさ」と遠巻きに見ていた感じだった。だが、いまや普通の人が「萌え」という単語を用いるまでになった。やはり、「萌え」という感情そのものはきっと誰もがもつ原始的な感情なのだと思う。いや、そういえば女の気持ちは分からないから、ここからは男の気持ちに限定して書こう。俺はよく「萌え」る。2次元のアニメキャラに「萌え」た記憶はないが、テレビや雑誌のアイドルには「萌え」る。なんとなく抵抗があるため「もえ~」とは言わないが、「超可愛い」とか「たまらんな」とか言って、みけんにしわを寄せながら、ため息がもれたりする。たぶんこれが「萌え」の感情なのだ。これは男なら誰でもあると思うんだけどなあ。それから3次元でも「萌え」ることはある。電車で、街で、タイプの人を見かけると萌えてしまう。やっぱり、もれる言葉は「たまらんな、マジで」。これがいちばんしっくりくる。このふたつの「萌え」に共通するのは、相手に人格がないということ。つまり相手はすべて自分の理想どおりなのだ。そしてこの次に、相手の心に「萌え」る状態があると思う。「その性格たまらんわ~」ってやつ。で、ここまでがいわゆる「恋」だと思うんだよね。最後の「心萌え」は相手の人格がはじめて出てくるんだけど、なんていうのかな、視線が一方通行っていうか。自分勝手と言ってもいい。だからこそ、いちばん楽しい感情。ドキドキワクワク。けど。その先にはやっぱ愛ってやつがあんだよね。うん、ここから先は分からないから書かないけど。でも愛ってのがあると思うんだよ。そのことより俺が言いたいのは、男は「萌え」なくなったら面白くないけど、「萌え」てばっかじゃちょっとアレだろ、ってこと。あれ、なんか普通の結論になっちまった。畜生。
2005年12月21日
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今日はひさしぶりに対人稽古をした。重さを使った技を披露していたら、自分で「ああ、こういう原理か」と納得がいった。意外に単純なもので、拍子抜けといった感じ。まあその単純な原理を面白くするのが腕の見せ所。座っての空中腕相撲で崩すのは不思議感があって、よろしい。あとは肘を地面につけたままできればいいな。今はその原理で、推手も合気上げも呼吸投げもやっている。触れ合気みたいなのもできないこともない。掌の押し合いから、下に崩すのもできた。「肩合気」など「体合気」はうまくいかなかった。剣を使っての崩しもうまくいかない。今日相手をしてくれた後輩は、木刀の素振りを2,3千回こなす猛者だが、「素人持ちでお願い」というと、ちゃんとリキんで持ってくれて、よい稽古ができた。感謝。それと「実際に掛かる」ということと「実践でかかる」ことは別物という論理を発見。僕は、「実際に掛かっ」ていれば、それでよいという考えだ。
2005年12月20日
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今日スーパーに行ったら、幼い兄弟とお母さんが買い物に来ていた。俺がレジに並ぼうとしたとき、お母さんが子供たちを呼んで、「ほら、ここに並びなさい」と合図している。子供たちはレジの近くにいるのだが、はしゃいでなかなかレジに入らない。でも、もうすぐ入りそうな感じ。お母さんはレジに並んでなくて、そばにいて、「早くしなさい」という感じ。俺もレジを早く済ませたかった。昼時で、他のレジは列をなしている。そのレジならすっと入れる。だが、なんとなく入れなかった。<俺にはムリだ>と思い、ぐずぐずしている子供たちにレジを譲り、他の列に並んだ。どうして俺はそのレジにすっと並ばなかったのか。社会は弱肉強食。レジ並びが下手な人は毎回待たされ、うまい人は、すっとレジを済ませていく。なんだってそう、強く主張するものが「道の真ん中を歩いて」いる。俺も、その子供たちを差し置いて、レジに並べばよかったのだ。だが、俺にはできなかった。「譲ればいいや」そう思った。【譲ればいい】何がいいのか?それはひょっとしたら、そのお母さんに「嫌われたくなかった」のではないか、と俺は推測した。「あら、譲ってくれたの。ありがとう」俺はそう思われたかったのではないか。もちろん瞬間の判断だ。そのときは言語化して考えたりはしない。が、心の奥の奥では、そんな感情と勘定があったのではないか。真相は分からない。それにそういう感情があってはいけないということもない。偽善も善のうちである。けっきょく、俺のレジの順番は遅くなり、俺は「損をした」。だが、この「損」というのも厄介なやつで今回は俺は損をしたようなしてないような感じだ。というのも、結局「社会は弱肉強食だ」といって、割り込んでレジに入ったら、俺の魂が損をすると思うのだ。やっぱりね、どんなに「客観的に」得をしても、魂が汚れてしまったら、それは損ですよ。と俺は思うわけです。自分が納得できればそれでよいのではないか。そのための一言。「これでいいのだ」バカボンのパパは偉大だなあ。う~ん、なんか「好かれること・嫌われること・損得のこと」を書きたかったのだけど、うまく書けなかったなあ。また機会を見て書きます。
2005年12月19日
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人間、なにか心の奥の深い部分で抱えているコンプレックスってほんとうになかなか拭えないんじゃないか。俺はそう思う。コンプレックスに打ち勝ったと思っても、それが変な、ときにゆがんだ形で現れる。たとえ抑えてカタチが変わっても、たぶんその量は変わらないのだ。要は、根源的に抱えているコンプレックスがどのような形で顔を出すかという問題で。俺は俺のコンプレックスを知っている。最近、それをしれっと突かれてヘコんだ。相手に悪意はなかったと思う。いつものようなイジワルなツッコミ。へこんだ自分に驚いた。一言ポツリと言われただけで、そんなに傷つくとは。ほかの事では、一言であんなにヘコむことはない。これは俺の弱点なのだ。コンプレックスを感じる話題に関しては自然に、素直に、正直に会話ができない。自分のことを認められない。言い訳がましかったり、不機嫌が顔に出たりする。認めてしまえばいいこと。なのにプライドが邪魔をする。いや、諦めないでおこう。もう少しやってみよう。
2005年12月19日
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ヒマな人にアンケートのお願いです。Q1:年末年始にすき焼きは食べますか?うちだけかと思っていたら、意外にメジャーなのかも。Q2:くまーのプーさんのことを「くまプー」って 略しますよね?
2005年12月19日
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何が難しいかというと、人には優劣があるということです。問題はこれにつきます。だが、なかなかこの「事実」は認められることがない。平等主義の幻想に冒されていればなおさらだ。3次元的にみれば、人に優劣はないのかもしれない。だが、残念なことに人はモノを2次元的にしかみれない。つまり野口三千三先生の言われる、「すべての意見は偏見である」ということ。何かを思考しようとした時点で、人はなんらかの視点に立たねばならない。その意味で、人には優劣があるというのは「事実」である。たとえば、合気道の上手い人と下手な人がいる。基本的には、長年やっている人は上手く、はじめたばかりの人は下手だ。当たり前の話。そういうと、「いやいや初心者には初心者の良さがある」という意見もあるかもしれない。これはまっとうな意見だが、しかし的外れだ。いまは「良さ」の話をしているのではない。上手いか下手かの話をしているのだ。つまり、上のような反論をする人は「下手=悪」というステレオタイプに囚われている。「良さ」はいわば横の基軸、「上手さ」は縦の基軸であるのに、その軸が癒着してしまっているのだ。この場合、怠け者が「ナンバーワンよりオンリーワン」だとか言い出すのだ。オンリーワンになるのは、ナンバーワンになってからなのに。何度でも言います。人間には優劣があります。そして個性があります。これを履き違えた議論が、なんと多いことか。
2005年12月18日
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しつかう(しっこう)の身。漢字で、漆膠。うるしと、にかわ。なんでも、相手にぴたっとくっついて離れないということらしい。それを体得したということではない。その「しつかうの身」を使うと、作業が速くできることに気がついた。作業というのは、お店の作業。まあ色々と身体を使う仕事があるのですよ。それを「しつかうの身」を意識してやると、早いし、疲れにくいのだ。たとえば、本の入った重いダンボール箱や本を運ぶ台車もぺたーっとくっつくように動かすとちょっとはラクに動かせる。この「ぺたー」というのが大事と思う。それはつまり「力を抜くこと」であり「愛」であると思う。
2005年12月16日
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過去は変えられないが、未来はいくらでも変えられる。幸せな未来を築くため、いま努力するのだ!ん?んんん?なあんか不自然に熱いね。まっとうな意見っぽいけど、なんかうさんくさいよね。今日思ったのは、未来は作るものではなく、「待つ」ものだということ。未来には何が起るかわからない。だが、何かは起る。それに対処するのが愉しいんじゃないか。上のような意見だと、なんかこう、未来を自分勝手に決め付けて、「こう努力すれば、こういうステキな未来がある」みたいに傲慢に思い込んでるフシがある。人間ごときが因果応報を勝手に決めるなよって話で。で、勝手に決め付けて、それが外れれば不幸みたいな。見返りを求める努力家はあぶないと俺は思うね。やっぱり無功徳でないと。「これをしたら何かいいことがありますか?」「ありません」でないと。少し希望をもっていうなら「あるかもしれません」。俺は、行動というのは本来的にそういう性質を持つものと思う。なにかしら、行動(努力といってもいい)する。何かが起るかもしれない。起らないかもしれない。だが、行動せねば何も起らぬことは確か。行動しないという行動をとった場合は別だけどね。いやあ、もう最近は愉しいことだらけでね、今日はなぜかちょっとへこんでいたけれど、それもすぐ治るって分かってる自分がいるし、どんな未来がやってくるのかなって、ワクワクしてんだ。それなりに無功徳のタネはまいたからね。どんな花が咲くのかは、咲いてからのお楽しみってやつで。花が咲くころに、またタネをまくしね。タネまいたら、何か知らんけど芽は出るよ。芽が出るんだってば。
2005年12月14日
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たまにすごいお客さんが来る。死人みたいなのだ。たまたま機嫌が悪かったのかもしれない。「金払ってやってるんだ」ってコドモみたいな考えなのかもしれない。真相はわからないけど、とにかくすげー目をしてやがる。ポスっと本を置いて、こっちが値段を言っても、ウンともスンとも言わない。ポスっと金を出す。こっちが愛想よくおつりを返すと、またウンともスンとも言わない。何も言わないどころか、軽くうなずいたりもしないし、とにかく無反応なのだ。最後に商品を渡しても、ピュッと本を持っていくだけ。「今のは死人だったのかな?」と錯覚してしまう。そりゃね、流れ作業みたいなレジ業務しただけでさ、「ありがとう」なんて言ってもらおうなんざ思ってないよ。言ってくれたら嬉しいけど、こっちゃ仕事だからね。お客さんに気持ちよくしてもらうのではなく、気持ちよくするのが仕事だ。けどさ、なんつーのかな、人間としての最低の付き合いってもんがあるじゃん。俺が買い物したら、レジの人に自然に「どうも」くらいは言っちゃうし、言わないときは軽く会釈してしまう。この「~してしまう」がミソで、俺はこれがフツーだと思ってるわけ。だからあの死人みたいな振る舞いがどーしても理解できない。まあきっと心の傷を負った可哀想な人なんだろうけどねえ。「そんなやついるか?」とか思うでしょ。それが結構いるんだよ。「店員」っていう「下の立場」に立ってみると、気の緩んだ「上の立場」の人がよく見えるからね。で、まあ色々みてきて、今日ふと俺の心に浮かんだ言葉。「あー、俺より幸せなやつっているのかなあ」そんなことを思った冬の午後でした。
2005年12月14日
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「長生きしてね」というのは近いうちに死ぬだろうと予想しているようなものだ。
2005年12月14日
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「浮き」という名の「沈み」。浮きはすなわち沈みであり、沈みはすなわち浮きである。胸と腰の連動。腸腰筋。身体の伸縮。呼吸の事。無重力。無抵抗。うまくいけば既存の理論が、つながる。
2005年12月14日
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下の日記に書いたように、学生時代お世話になった先生が最近よく「ジャポニカロゴス」に出演されている。M先生は俺らの研究室の教授で、授業も面白く、かなり魅力的な先生だった。本もたくさん出版していて、学者界では有名な人らしい。まあそうでなければ、フジテレビから出演依頼など来ないだろう。で、今日も先生が出るなら見たいなあと思って、テレビを点けた。しかし今日のジャポニカロゴスは「漢字の成り立ちについて」らしいので、「たぶんM先生は出ないだろう」と思っていた。というのも、先生は英語・フランス語に通達するだけでなくラテン語にも造詣が深く、明らかに非凡な才能の持ち主ではあるが、研究はソシュールの言語学が主であり、漢字に関してはほぼ門外漢であるはずだからだ。授業でも、ヨーロッパの言語に関しての話はよく聞いたが、漢字についての雑学的知識などはほとんど聞いたことがない。さすがのM先生といえど、何もかもを知ってるはずがない。だから、今日テレビでしゃべっていたのは、おそらくテレビ用に調べたものだろう。そういう体系化されていない薄っぺらな知識を先生はしゃべらされている。そして芸能人は「は~、なるほど」と感心する。いや、感心せねばならない立場にある。そしてこれを見て、「日本語の教養が少し身についた」なんて思っている人がいる(笑)そういう人だね、テレビの健康ネタを自慢げに披瀝してくる人は。イタタタ。そして俺が今日思ったのは、漢字研究者のねたみやそねみである。「なんだ、あのMってやつは?あいつは変なギャグばっか言ってる言語学者だろ?きちんとした漢字の知識もないくせに昨日今日調べたような知識で、門外漢が偉そうな顔してるんじゃねえよ」なんていう。これが事実かどうかは漢字を研究されている方の心を開けてみないかぎり分からない。しかし、これに似たようなことを色々と見聞する。先生は、メディアを通してあたかも漢字にも精通しているように見られることをどう思っているのだろう。もし聞いたら、たぶんこう言われるのではないか。「どうだっていいよ、そんなこと」メディアにこだわっていないから、メディア受けする。本質を知っているから、細かいことに気を取られない。他人にこう思われたい、という傲慢さがないから強い。やっぱりあの人はすごいな。そりゃ「ダーリンの頭の中」のトニーと対談もするよ。今では授業中にふざけて、M先生に「死ね!」と言われたのもいい思い出だ(笑)
2005年12月13日
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先日の土曜日、ひさしぶりに大学の友達を集めて遊んだ。なんか適当に材料をぶちこんで、ナベを作った。マイタケのあくがですぎて、黒いナベになってしまった。その翌々日、またまた大学の友達と遊んでいたら、帰り際にぐうぜん大学の友達にばったり会い、しばし談笑。そして今日、大学の友達と電話して、それからテレビをつけたらお世話になった大学の先生が出演しているじゃありませんか。この4日間で、偶然も重なり、かなりの懐旧の情に浸った。まさに4日間の奇跡。何があるか分からないって、ホント面白いよね。
2005年12月13日
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興味のないことをしてみようと思い立った。今考えているのは、洋楽・スカ・HIPHOP・レゲエを聞く。経済誌・政治の本・国内外の情勢・近現代の歴史の本を読む。萌え系のマンガと小説を読む。ギャンブルをする(競馬・パチンコ・宝くじなど)。かなりカジュアルな服を着る(今までジャケットなどカタめが多かったので)。そしてメガネ男子になる(黒ブチ)。とりあえず今日はメガネ男子から。そんなに似合ってなくはないはずだ(笑)ああ、自由っていいなあ。
2005年12月13日
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いや~、ついに納車されましたよ。ものすごいワクワクしちゃうね~。生まれてはじめてのマイカー。30万くらいの中古だけどね、それでも全然ドキドキもんだよ。そとはグハグハ雪が降っているけど、おかまいなしで、運転してみたよ。このエンジンのサウンドがいいよー(笑)↑よく分かってない。いやー、やばいなあ。一人ぐらし最高に楽しいなあ。働くのも、アクティブな休日も、のんびりした休日もぜんぶ楽しいなあ。ワクワク。今日の夕飯は何を作ろうかなあ。いや、その前にちょっとドライブにいってこようかな。ワハハハハハ!!
2005年12月13日
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最近は、いろいろと人間について学ぶことがあるので、ちょっと考えたことを忘れぬようにメモしておこう。今日つよく思ったのは、「人間には熱性の人と冷性の人がいるのではないか」ということ。色々な人の話を聞きます。それぞれにみんなもっともなことを言っているように思う。熱性の人はとにかく熱い。こだわりがある。情がある。湿っている。喜びも大きい反面、かなしみも深い。主観。冷性の人は冷性である。こだわりがない。束縛を嫌う。乾いている。おおはしゃぎしない反面、かなしみも小さい。客観。もちろん、人間がこのどちらかに属するというわけではない。人は、この二つの性質をどちらも持っていて、熱性が強かったり、冷性が強かったりするだけのこと。そしてそのバランスは、個人のなかでも気分や時間によってコロコロと変わると思う。ちなみに今の自分は、熱いんだか冷たいんだか分からないが、すこし熱性が勝っている状態に思う。微熱性の人間というところだろうか。ほんとに人ってやつは色んな種類があるね。
2005年12月12日
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今日、とある人から就職活動の相談を受けた。そういえば、そんな時期だ。なかなかその彼とじゅうぶん時間をとって話すこともできないだろうから、ここに書いておく。ただ、夜の熱情のままに書くので、体系的には書かないし、分かりにくいかもしれない。そこはフィーリングで読んでほしい。その壱:本能ではじめよ!キミの本能は間違っていない。シューカツしなきゃなあと思うならすればいい。まだいいと思うならしなくていい。要はしたくなったときにすればいい。思い立ったが吉日だ。ちなみに俺は3年秋から、ちょこっと動き出した。シューカツサイトに登録するぐらい。その弐:やりたいことをなんてそう簡単に見つかるか!といっても、そんなモンそうは見つからない。無いなら無いでかまわない。っていうか、無いのが普通。だって大学生だもん。「やりたいことがない」なんて焦る必要はまったくない。しいて言えば、絶対やりたくないことだけを決めればよい。恋人の外見のように、最低条件をクリアすればよい。あとはやる気の問題。なんだって、ちゃんとやってりゃ楽しくなる。その参:資格なんてどーだっていい。就職のためには資格が必要?そりゃ必要な職業もあるかもしれないね。取りたきゃ取ればいい。けど、大抵は資格も英語もなんていらないよ。むやみに取ったって、時間のムダムダ!大学生ならキャンパスライフをエンジョイしなきゃ!俺は英検4級もToiecも何にもないよ!4年のころは合気道ばっかやってたよ。その四;体育会系は強い。ラグビーとかね。やつらは手ごわい。有名国立大学のレーベルも、まったく歯が立たなかったなあ。なんつっても、新入社員に必要なのは体力。なまじっか小ざかしくても、役に立たないことは人事は知っているんだね。その五:長所なんてあるか!そんなパパっとうまいこと言える長所なんてあるか!人間には長所も短所もない。あるのは特徴だけだ。でもその特徴だって、なかなか言葉じゃいい表せないもんなんだ。っていうか言葉で言ったとたんに薄っぺらになる。まあ、自分のことをかえりみる良い機会ではあるかもしれない。だがシューカツでは結局ウソを言わざるを得ない。だって質問が質問だからね。とりあえず、長所も特技もないのが普通。その六;会社のことなんて1%も分からない。調べつくしたつもりでも、会社のことなんて入ってみなきゃ分からない。だって、人間一人と付き合ったって、ちょっとしか理解できないじゃん。そんな人間がごうごうとひしめきあう「会社」を「資料」で調べようなんて、「会社」をなめてるんじゃないだろうか。入社して半年以上になるけど、自分の会社がどういうとこか、いまだにまったく分からないよ。人を好きになって付き合おうというときに、相手の身長とかスリーサイズとか、学歴とかそんな「証明書」に書いてあることはどうでもいいのと一緒。シューカツのとき「残業はない」って聞いたけど、実際はある。今日なんか朝の8時半から夜の11時半まで働いてたよ。制度も変わったしね。まあこれも運命。それを「契約違反だ」とごねるか?その七:ウソをつくのはかまわない。どんどんウソをつけ。しかし、ウソをついている自分に気づかねばならない。ウソをついている自分を「本当」と思っていると、腐った「優等生」ができあがる。「人の役に立ちたい」「ありがとうと言われる職業につきたい」「人の笑顔を見たい」「希望を与えたい」「社会に貢献したい」とかは俺に言わせれば「はあ?」って感じ。「いろんなゴミが海や川の魚さんたちを苦しめていることを知りました。 今日から給食を残さず食べ、そうじをしっかりします」とか書いてる小学生じゃないんだぜ。「はあ?」って感じのウソをつかねばならないときもある。しかしそれはすべてウソと知れ!すべては自分のために。「成長」。その一言に尽きる。その八:東京(大阪)にいってみよう。せっかく「シューカツ」という大義名分があるのだから、東京に遊びにってみよう。面接なんて落ちたってかまわない。どうせ就職するのはひとつの会社なんだし。俺は六本木ヒルズに2回もいったよ。浅草も言ったしね。(親のすねかじりで。ありがとう両親★)その九:シューカツ人間を恐れるな!なんかすげーやつがいる。シューカツ大好きみたいな。自己分析はカンペキ、企業と業界も調べつくし、いまはどこが伸び盛りで、将来は株もあがり、最近の動向はこうで、給料体系はこうで将来は、っていうリクルートの申し子みたいなの。それがまた面接もキレイにしゃべるんだ。俺みたいにカミカミにならないでさ。で、まあそういうやつがどうなったか知らないが、「希望の会社」に「シューショク」して「夢を叶えた」かもしれんね。でも俺はそういう「計画的」なのは嫌いでね。だって、「将来的には・・・」ってお前なんかに分かるか!って感じじゃん。未来はいつも白紙なんだよ。計画的なやつに限って、計画がすこし崩れると全部崩れる。その十:結局は覚悟と運命の問題。なんだかんだ言ったが、最終的には覚悟の問題。住めば都で、ちゃんと働いていれば楽しくなる。俺は広告系を希望してた。希望してたっていうかエントリーしてみてた。「企業研究」とかめんどくさいから嫌いでさあよく分からんかったからイメージで。けど、ことごとく落ちた。じゃあ、やーめたと思って、なんとなく昔から好きだった本屋を受けてみたら、受かってしまった。本屋になるなんて、4年の5月まで考えもしなかったよ。それでも今は楽しく働いている。誇りを持って仕事をしている。だから何も心配することは無い。きっとうまくいく。「人事を尽くして人事を待つ」のだ!
2005年12月07日
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負けた。悔しいが、僕の完敗だった。もう何も言うことはなかった。だが、俺は次から次へと言い訳を考えた。一矢報いる捨て台詞を考えた。もうやめろと自分が自分を制するが、言い訳がマグマのようにあふれてきた。だが、それは俺の道をふさぐことになる。成長を止めることになる。それなら今は屈辱だが、負けを認めるしかない。それに大道をいくなら、こんなことは屈辱でもなんでもない。言い訳をして成長を止め、将来大きな屈辱を得るくらいなら今、この青いうちに屈辱にさらされたほうがいいのだ。ただ、俺はいつも負けを認めるのに一日かかる。「認める」までの時間が長いのだ。この時間が短くなれば、それがまた成長の証となるだろう。さあ、また歩き出すか。
2005年12月07日
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雪!雪が降ったよ。どおりで寒いと思った。で、朝起きたらざっくり積もってやんの。幸い休日だったので、雪がとけるまでゆっくりと過ごしました。昨日買ってきた松田隆智先生の「拳遊記」を読んでいたら、むしょうに「拳児」が読みたくなり古本屋で3巻以外を買ってきた。3巻はなかったのだ。ついでに新しいベストも買ってきた。前買ったときは、「色が変だ」と言われまくったので、今回はもっと変な色を買ってきた。そんでこれまた初めて「色シャツ」を買ってみた。色というかストライプ。脱新入社員!みたいな。それからそれから、人生で初めてジャズのCDというものを買ってみた。誰がいいのかまったく分からないので、とりあえずオムニバスで。音楽のことは分からないが、まあ聞いてるとオトナっぽいということなんで。うーん、楽しいね。買い物っていうのは、モノを買うんじゃないね。新しい自分を買いにいくんだ。
2005年12月06日
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言ってしまえば、俺の技は「重さを伝える技」と「支点をなくす技」の二つの原理しかない。前者は、の原理である。後者はの原理である。もちろん俺の定義する、である。だからがついている。はっきり言って、まだまだ俺の合気上げには力感のようなものがある。するすると上がる、なんて言える代物ではない。まあ使えるが、発展途上には違いない。の原理で、小手返しができる。天地投げができる。突きができる。の原理で、四方投げの崩しができる。1教ができる。入身投げができる。基本的にはどちらの原理も同じはずなのだが、どうもこのふたつがつながらない。このふたつをつなぐ、新たな原理を発見せねばならないと思っている。の原理にある透明感をの原理に活かせればいいと思っているのだが・・・。要研究だ。
2005年12月04日
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昨日は武術などまったく知らない友達に「空中腕相撲」(←最近気に入っている)と合気上げをかけてみた。俺のほうが筋力があるとはいえ、さすがに両手でがっちり持って腕相撲に負けたのには友達も驚いていた。3本指でも勝てた。さらに合気上げで浮かせて、(踊り場でやったので)階段にポイと落としたら!「あぶねえ!」と言っていた(笑)最近は、素人さんに技がかかるようになって嬉しい。もちろん今のままでは「素人にしか効きませんと看板を下げて歩かねばならない」程度の恥ずかしい代物である。それに「力を入れてみて」といって、技がかかりやすくしているのも事実である。俺のレベルでは力を抜かれたら正直キツイ。だが、がんばった素人さんに技を掛けれると言うことは、全世界で見れば、何億人にも技を掛けられるということだろう。合気道といわなくとも、武術をやっている人などそうはいない。人間の90%以上は、武術と無関係に一生を終えるのではないか。と思っているので、素人さんに技をかけられるということは俺にとってかなりの自負なのである。もちろん関節技などで痛めつけたり、いきおいで引っ張り崩したりというのは技がかかるとはいわない。あとは、この道を進むまでだ。
2005年12月04日
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予定を決めるのが嫌いだ。数時間後の予定さえも決めるのが嫌いだ。その場で、その瞬間にしたいことを決めたいのだ。なんでかは分からない。何かしら病的なほどかたくなに、束縛されるのを恐れている。だからいきなり電話して、「今から遊ぼう」ということがよくある。俺としては、「俺はヒマだから、万が一ヒマなら遊んでくれよ」という感じ。ムリならムリでショックは受けない。だが、ヒマでない相手は残念そうに言う。「もっと早く言ってくれれば良いのに」こんな俺とも遊んでくれようとするのだ。だが、予定を立てられない。頭の中でふわりと予定を組んで行動するが、相手のある予定を入れてしまうと、フレキシブルでなくなってしまう気がするのだ。相手があれば、ある程度の束縛は当たり前。それさえもできないということは、俺には孤独がお似合いということか。孤独。それもいいのかもしれない。嗚呼、今日の日記は暗いな。
2005年12月03日
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「くまさん」 まど・みちおはるが きてめが さめてくまさん ぼんやり かんがえたさいているのは たんぽぽだがええと ぼくは だれだっけはるが きてめが さめてくまさん ぼんやり かわに きたみずに うつった いいかお みてそうだ ぼくは くまだったよかったな
2005年12月03日
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「ぼくが ここに」 まど・みちおぼくが ここに いるときほかの どんなものもぼくに かさなってここに いることは できないもしも ゾウが ここに いるならばそのゾウだけマメが いるならばその一つぶの マメだけしか ここに いることは できないああ このちきゅうの うえではこんなに だいじにまもられているのだどんなものが どんなところにいるときにもその「いること」こそがなににも ましてすばらしいこと としてこの詩に思うことは、思考の一面性だ。ある思考が脳にあるとき、他の思考は入り込む隙間はない。もちろん、順々に、物事を多面的に見ることはできる。しかし同時にそのもの全体を観ることはできない。つまりボールをひっくりかえしてそのウラ側を見ているときには、オモテ側を見ることはできないのだ。ウラ・オモテ・ウラ・オモテ、と順番に見ていくしかない。オモテを見ているときには人生はばら色である。ウラを見ているときは人生は地獄である。要はどっちを見ているかの問題。だから「ばら色の部分を見ていきましょう」なんていう短絡思考ではない。オモテを見ているときにウラを忘れず、ウラを見ているときにはオモテを忘れない。そうやってウラオモテをぐるぐると見回すうちに、物事を全体で捉えることができると思うのである。結局は、それがウラでもオモテでもないということが分かる。全体は全体なのだ。それが認めるということであり、それがつまりは幸せなのである。
2005年12月03日
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「しあわせって、失って初めてわかるものなんだね」なんていうありふれた考えは、好きではない。というかありふれたものや常識的なものは基本的には好きではない。それはただのひねくれた性格でもあるし、真理を求めたがっているのでもある。俺はたぶん、非常識に傾倒しすぎている。常識的なものを常識的に結び付けてもダメ。非常識なものを非常識に結び付けてもダメ。常識的なものを、非常識に結びつけるのがよいと思うのである。その始まりは、常識を知るということである。常識を知らぬはただのアホだ。常識を知るから、破ることができる。
2005年12月03日
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つくづく、大学というのは異常な空間だと思う。今日は用事があって、卒業した大学に行った。電車から地下鉄の駅に降りると、授業を終えた大量の大学生とすれ違う。その瞬間だ。毎度毎度、大学に行くたびに異様な空気を感じる。「なんだこの空間?!」まるでマンガの「勇者」が悪魔の結界の中に入った感じがする。モヤモヤとして締まりのない空気がどっと流れてくるのだ。こんな空間に自分がいたとは想像できない。たった数ヶ月前まで、「青春を謳歌」していたというのに。ほんの少し働いただけで、なぜ世間から大学生がバカにされるのかが分かった気がした。とはいえ、この「自由」な空気もある意味で必要な時期とは思う。ただ、そのままではどうにもなるまい。「空気に浸かる」という恐ろしさを知った師走の初めであった。っていうか俺のいる環境ももしかしたら「甘い世界」なのかもしれないなあ。何事も、外に出てみないとわからないものです。
2005年12月02日
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差別せよ!平等の幻想を捨てよ!!最近はクソ店員がけっこう多い。最低条件の「いっらしゃいませ」「ありがとうございます」さえも言えない。本当にクソだ。当たった日にゃ不運と思うしかない。いつか「テメーいい加減にしろよ!!」と怒鳴るのが夢だ。何か派手な落ち度をしてくれないだろうか。さてさて、俺はサービス業に従事するサラリーマンである。毎日、「いっらしゃいませ」と「ありがとうございました」「申し訳ございません」の繰り返しである。そういうのはつまらないと思う人もあるだろう。それはそれでよい。でも俺はそう思わなくて、プロとして働く以上は、ちゃんとやりたいと思っている。それは礼儀正しくあるということ。もちろん、これはカタチとしての礼儀ではない。心の暖かい交流という意味での「礼」だ。これは人間として接するということ。もちろん「店員」としての「立場」があるから、仮面は否めない。だから「友人」としての交流はできない。だが、「客と店員」と立場あるものどうしでも人間としての交流はできるはずなのだ。「申し訳ございません」一つとっても、言い方というものがある。無理やり文字にするなら「モウシワケゴザイマセン」と「もぉ~しわけ御座いません~m(_ _)m」と言ったところか。どちらがマトモかは言わずもがなだ。言えばいいってもんじゃない。立場があるなかで、どれだけ暖かい交流ができるか。そういうことを忘れている人が多いんじゃないかと思うんです。心の暖かい交流に必要なのは差別である。子供には子供への、若者へは若者への、老人には老人への接し方ってものがあるんですよ。その接し方を考えて、立場はあるけれどもなるべく暖かい交流がしたいというのが礼儀だと俺は思っているのです。「アリガトウゴザイマシタ」とかしこまって一文字ずつはっきり発音することが礼儀ではない。それを通り一遍のアイサツで済ませようなんざ、まったくプロ意識が欠けているね、うん。俺は社会人になってまだ数ヶ月の若造だけど、その辺はプライドを持ってやってますよ。だからね、その通り一遍のアイサツもできない野郎なんか死ねばいいのに、って思っちゃうよ。アイサツの繰り返しっていうけどね、同じ挨拶は2度とないのだ。だから一回一回を大切にしたいものだ。と言っていて、なんか自分で気が引き締まってきた。よーし、休み明けからまたがんばるぞー!!
2005年12月02日
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今日は久しぶりの対人稽古をしたが、調子はすこぶる良かった。というよりは自信をつけるために、合気道歴1年未満の人とばかり稽古したのだ。効かない相手とばかりやると、リキむくせがつく懼れがあるし。いいですねー。がんがん合気上げが決まります。彼はどうだろう、体重70kgぐらいは軽くあると思うけど、ヒョイと腰を取れる。受けには、俺がどんな人か知らせてないし(黒帯は締めている)、「腰を取ります」とも言ってないから、先輩後輩関係のヤラセではないことは確か。ただ、思いっきり持ってみて、といって合気上げ。上がる。重さもずんずん伝わります。本気でがんばってるようだけど、崩せる。うわー。「合気」っぽい。もちろんこれが合気だなんてまったく思っちゃいませんよ。合気道歴2年未満の女の子にロクにかからないからね。3年未満の人だと、微動だにしないって感じだ。これが俺のいまの実力なんですよ。今からですよ、今から。けど、かなり方向性としては自分の求めていたものに近いのです。こんな技ができるようになるとは嬉しい!!つい2年位前まで、強引な痛めつけの技しかできなかったのに。これも稽古のたまものだ。それにしても俺が合気上げをしたときに、「腰が上がった!」(座)とか「浮かされた!」(立)とか目を丸くするということはたぶん今日が初めての経験なんだろう。「こういう合気道もあるのか」って感じの感想を言ってくれる。オレ程度のレベルでこんなに驚く人がいるなんて・・・。これって由々しき事態だと思いませんか?
2005年12月02日
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結局シンを鍛えることなのだと思う。シンとは芯。それを支える身(シン)。そのための心(シン)。これらは三位一体と思う。もっと言えば、その3つの基本が「信」「親」、つまり地球を「信」じ、重さに「親(ちか)」しくすることとも考えている。そしてそれこそが「真」なのだと。だから「心身を鍛える」という言い方はすこし重複している。精神修行のために座禅を組み、身体を鍛えるためにトレーニングをし・・・というのはどうかと思う。何かひとつのことに熱中して稽古すれば心も身も鍛えられ、芯ができてくるのではないか。心身はバラバラに鍛えるものではないのだ。
2005年12月02日
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時代は変わり、空が変わり、俺も変わり、あの人も変わり。友人も変わる。移ろいゆく世の中。変わらないものなんてあるのかなあ。世界に羽ばたきだした友がいる。あのころには想像もつかなかったオトナの世界。「今○○やってるんだ」って言葉に驚きとうらやましさと、さみしさと。あのころのみんなは、もういないんだナア。みんなオトナになっていく。いや、なりたい人だけなっていく。オトナになるってことは、環境を与えられる立場から、環境をみずから作っていくってことなのかもしれないなあ。
2005年12月02日
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ゆっくりと12月の明かりが灯りはじめましたので、かなり寒くなってまいりました。が、風呂を出る前に冷水のシャワーを浴びるのはやめません。やっぱ毛穴がしまって、保温されるからね。ぜひみなさんも寒がらずにやってみて!あわただしく締まる毛穴を誰もが好きになる。
2005年12月01日
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