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北国に居ると、長い冬を過ごしながら雪解けを待ち、桜の開花が待ち遠しくなります。春になっても寒の戻りなどがあって夏が恋しくなります。今日は、少し蒸し暑い中に雨。また夏が近づくかな、と期待に雨だれの音を楽しむ、これも四季がはきっりした日本の暮らしかもしれません。こんな日は、傘をさして雨を楽しむように散歩をするのもよいものです。実は、散歩ではなく用事で出るのですが、いつも当たり前のように車で出るところ、何となく雨の中を傘をさして歩きたくなったというのが正しいのですが、こう考えると用事も散歩になります。緑が雨に洗われて美しく光ります。日に輝く葉と違い、恥じらいながら揺れては輝く人間味がある美しさです。たとえば柳は、風呂上がりの乙女の洗い髪を思わせたりします。大きな欅は、肩をつぼめながらも、気持ちよさそうにシャワーでも浴びているように。そして、葉という葉は全て青々としています。雨が多少大粒ですので、アスファルトにあたると雨がはねて四方にはじく水滴が産毛のように見えますが、それがあまり活発なのでミドリムシの繊毛のようにも見えます。それが、当たり前の水に変化して側溝に流れ落ち近くの川に流れ落ちるのです。時たま生ぬるい風が頬を触れて通ります。夏の雨です。人は勝手ですので、いつも同じ調子で雨を迎えません。子どもからお年寄りまで、喜ぶこともあれば、憎むこともある、ある時は恐ろしく思うこっともあれば、望むこともあります。ですから民話などでは、不思議なことの前触れだったり、幽霊が出る演出に使われたり、オープニングに使われたり、締めくくりに使われたりします。この雨が、私たち生命を育むだけでなく、様々な感情を呼び起こし、文化を創りあげてきた大切なものであったのは真実です。
2004年05月31日
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山の紫が、藤から桐に取って代わりました。遠くから藤の紫だと合点していた紫が、いつしか桐の紫に。これから梅雨に入ると、梅雨明けまで花の色は紫が主流になります。我が家の庭先もアヤメが咲き始めました。やはり紫。もうじきアイリスが咲き始めます。やはりこれも紫。しかし、垣根の方に目をやると、鮮やかな黄色で山吹が咲いています。「紫なんて邪道だ。花は黄色でないと」とでも主張しているようです。確かに、曇り空が多いこの時期にこの黄色は貴重な存在です。太田道灌ではないですが、はかない歌が詠めそうです。栗駒山に登る道すがら、蕗を採る人を多く見かけます。多くは、家族で食べる分を、楽しみながら採る人たちです。採った蕗を湧き水で洗って、心地よく疲れてからだを癒すように、そんな花たちを眺めるのも山の楽しみです。しかし、花はそこにあるから美しく、来年の咲くことができるのです。感謝の気持ちで、山菜も同様ですが、必要以上な採取はやめてほしいものです。栗駒山の世界谷地湿原もこれからが、花の季節。ここでは、採取は厳禁。ここの花は、ここでしか育ちませんので。
2004年05月30日
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記憶の中の話です。最近はとんとご無沙汰してますのでどう変わっているかわかりません。昨日武蔵野について書いたついでに、そのにおいを求めて、夏目文学を開いてみました。明治後期の東京を様々描いているのが、私にとっての夏目文学の楽しみです。ですから私の記憶でストップした東京を描きます。地下鉄の早稲田駅を東京女子医大の方面にでると喜久井町です。つまり、夏目坂。このあたりの名家であった漱石の父親が名付けたといわれます。漱石の代になって零落し、今は、漱石誕生の碑が建つのみです。坂は上り続けると抜け弁天の交差点にでて、そのまま新宿歌舞伎町につながりますが、逆に早稲田通りを横切ります。その前に、「坊ちゃん」の中で、幼い頃、柿を盗みにくる勘太郎ととっくみあいの喧嘩をするシーンで当時の夏目坂を垣間見ることができます。転げ落ちたのはこの辺だろう、などと勝手に想像してみたりします。早稲田通りを東へそのまま行くと矢来町。「彼岸過ぎまで」に雨の日に客に会わない松本という人物の家があったところです。寂しく閑静な住宅街として描かれていますが、南の路地に入るとそれらしい名残を感じ取ることができます。宮城道夫記念館のあたりでしょうか。ここからは、神楽坂になります。北に赤城神社、いっ気に下って麓は神田川、その向こうの高台は、椿山荘、音羽。この辺の風景も度々作品に登場します。今の季節を描いている作品として「それから」があります。「蟻が座敷に這いだした時期になった」と冒頭にあります。作品の内容としては、厭世的にさせられる点、あまり影響は受けたくないと思うのですが、気持ちはよくわかります。羨ましいと思わないでもないし、そんな生き方が可能ならしてみたいとも思います。その中で、地震が神楽坂で起きます。客観的に身を置こうとする目で地震を描いています。これも漱石ならではと思ったりします。なぜ漱石を急に思い出したのか私自身分かれませんが。東京の自然を深く愛していたという郷土愛が、作品の中に見られることが私を漱石に魅せられる理由かもしれません。
2004年05月28日
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昨日は、気温が上がって、東北でも今年初めての夏日になりました。緑が一気に濃くなっていきます。しかし、まだまだ油断はできません。我が家では、まだストーブを終わずにいます。濃くなる緑を見て、ふと古里武蔵野を思いだしました。武蔵野は、高木としては欅が主流ですが、雑木林は、クヌギ、椎といったこころが主流です。狐のボタンなど草花は、東北より種類も多く、子どもの頃の記憶ではたくさん咲いていたように想います。川越、所沢より狭山丘陵を越えて、かっての武蔵の国の中心に向けて府中街道が通っていますが、街道沿いの農家は、武蔵野独特の強風を避けるため、北側に欅などを中心にちょっとした林をつくっていました。いわゆる武蔵野の屋敷森です。土が火山灰からなる砂地なので、水分をとどめることなく、風にまいあがるためです。ですから水田ができにくく、陸稲と麦の栽培がよく目にしました。小金井、国分寺あたりにいくと「本多」とか名字のような地名があります。これは、江戸時代不毛のローム層大地、武蔵野を開墾した人のの名前がそのまま字名になったと考えられます。この大地の開墾は、まずすぐに食料になる作物を植えなくてはなりません。シラス台地で試し済みの薩摩の芋を持ってきて、大量に栽培したとされます。川越の芋はこのころから江戸で有名になったのではないかと思うのです。水の確保にも苦労が見られます。かって武蔵野の火事は土で消すといわれるほどです。せめて野火事を止める用水路をと川越城主松平伊豆守(通称、知恵伊豆)野火止用水を作りました。最近武蔵野を訪れることがなくなりました。テレビでたまに撮影される武蔵野を見ると、だいぶ変わったと印象を持ちます。確かにかっての貧しさはなくなったようですが、厳しい自然の中で貧しくも力強く生きる、そんな生活も捨てがたいと思うのです。
2004年05月27日
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来年のNHKの大河ドラマが「義経」と決まって、義経の足跡を訪ねようという計画多いようです。世界谷地温泉にもそんな目的でコースを紹介してほしい、などの問い合わせがボツボツあります。栗駒山の麓に金成(かんなり)というところがあります。国道4号線の宮城県最北の町、ここをすぎると岩手県一関市となるところですが、ここは、義経を鞍馬山から脱出させ平泉に紹介した金売り吉次の古里です。ここにおもしろい話が残されています。金成とは、金持ちそうな地名ですが、その通りで、金の産地として平安の昔は豊かな生活をしていました。平安の昔、公家三条家にあこや姫という美しい娘が居たということです。年頃になったこのあこや姫がある日、京清水寺に我が夫となるべき人物を問うたところ、その夜夢枕に清水様のご本尊がお立ちになり、「陸奥の国、栗原郡(ごおり)金成という村の藤太という男の子(おのこ)を訪ねよ」とのお告げがあったといいます。あこや姫は、僅かな手下を従え、家出をするように京をたったといいます。屋敷から持ち出した砂金で道案内を雇い何とか栗駒山を越えた、あこや姫は、金成を訪ね、藤太という人物を捜しました。京と違って人が少ない里ですからすぐに見つけることができたのですが、高貴な京男の子と違った薄汚い炭焼きをして生活する青年でした。あこや姫は、事情を話し、一緒に住まわしてくれるよう申し出ます。青年は、よく事情がのみこめないようで無愛想に頷いたといいます。高貴なあこや姫は、食からきちんとしようとある日藤太に砂金を渡し買い物を頼みます。砂金を渡された藤太は、沢辺という街道筋の市に出かけます。しかし、市に行く途中沼に大きなカモがいたので、その砂金を投げてカモを捕獲し、満足顔で帰ります。それを聞いたあこや姫は、あまりにも無知に大変怒りますが、藤太は、あんなもの(砂金)は、家の裏手になんぼでもあると、あこや姫に見せます。その後、三人の子供をもうけ、長男が、あの義経を平泉に脱出させた吉次です。あこや姫の口利きで京でも有名な金売りとなっていました。あこや姫と藤太の墓は、4号線から金成温泉とは逆に曲がったところに、ほとんど風化していますが、今でも大切にされています。また付近の田圃からは、純金の鶏など宝物も出土しています。あと詳しくは、旧金成小学校(有形文化財)校舎の郷土資料館を訪ねてみてください。
2004年05月26日
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栗駒山の麓に鶯沢という町があります。町の名の通り鶯が多い町で、あちらこちらから鶯の声が鳴り響きます。元来美しい音色ですので、消して邪魔になることはありません。ほほえましいのは、あの独特の旋律をまだマスターしない若鳥が、一生懸命練習する音色も混じることです。「あともう少し」と応援しながら聞ききります。鶯が多いから鶯沢。いかにも田舎らしい地名の由来のようですが、調べるとかなり古くから呼ばれていた地名のようです。古代、都から陸奥への道順は、逢坂を超え琵琶湖を縦に横切り、賤ヶ岳を越え敦賀に出ます。ここから北に船で日本海を進み、酒田か象潟あたりから東に陸路をとり、栗駒山のなだらかな裾野を越えて陸奥に入ります。深い山道から平坦な里の道にかかる入り口にある鶯沢は、旅人の休憩所であり、この鶯は、目印でもあったようです。かって、前九年の役という大きな戦いがあったとき、この街道の警備のため源頼義、義家親子は、鶯沢に陣を張りました。それに対峙する阿倍貞任らは、その沢を越した北側に計須見(けすみ)山に陣を張り、源親子を苦しめました。その時、源親子のもとに白い鶯が飛んできて、陣を勝利に導いたとされています。地元では、白鶯(はくおう)の神として崇められ、鶯をいっそう大事にしたと言われます。鶯は、雀のように枝から枝に飛ぶ姿を見せることが少ないです。セキレイのように沢を渡る姿を見せることも少ないです。静かな山里にどこからとなく美しい声だけを覗かせるおくゆかしく、神秘的な鳥です。山道を越えてきた旅人が、この沢で一服をとり、鶯の声に包まれた休息の一時を想像しながら、また熟練の声を聞く今日この頃です。
2004年05月25日
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本当に久しぶりの青空です。昨日まで空の色を忘れていたようです。去年は、冷害で、今年も5月には入ってから、気温の低い状態が続き心配されました。田圃の稲は、まだ苗のお兄さんと言った感じ。水田の水面に山の姿を映し出すのほどに、まだちびっ子です。カエルが道に飛び出してきます。蛇も久しぶりと言わんばかりに畦道を悠々と散歩しています。山に目をやれば、中腹にぽつんぽつんと紫色に飾るのは山藤です。自力では立てないので、周りの木にしがみついての生き様です。小高い山の山頂付近に「然えんと欲す」赤は石楠花です。ここ栗駒は、自然の石楠花が見られる最北端とされています。川が落ちる谷を見下ろすと、薄暗い中で鮮やかなオレンジ色っぽい川ツツジ。周りでセキレイが遊び回っています。緩やかな斜面に目をやれば、カサのとってのみを逆さにしてすーっと伸びているのがワラビです。もう捕獲は終わって、来年のためにとってあるものです。少し藪のようなところに目を向ければタラです。山菜の王様なんて言われて、撫養に捕獲されているようですが、今頃は二番芽。まだ採っても大丈夫ですが、三番芽は、採ってはいけません。木が死んでしまいます。これは山菜取りのマナー。陽射しもほどよく。少し汗ばむ感じ。目にまぶしい陽射し。夏の足音が聞こえます。
2004年05月24日
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昨日の日朝交渉の報道を見て、ふと、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を思い出した。はて?、と思う方も多いと思う。しかし、舞台になっているところは、違うけど戦争による心の傷とその後のに及ぶ感情の歪みは、変わらないと思う。「アドルフに告ぐ」は、アドルフ ヒトラーと日本に住むユダヤ人のアドルフ、母を日本人に持つヒトラーに洗脳されたナチス幹部アドルフ3人の物語である。ヒトラーは、敗戦時に亡くなるが、残る2人のアドルフは、舞台をパレスチナに変えて闘い続ける。お互いの正義のために。その正義とは、第二次大戦の大儀である。手塚氏は、この作品を書き上げるためにドイツに何度も取材に赴き、とりわけヒトラーがユダヤ人であるというスキャンダルをかなり細かく調査したと聞いている。かなり力が入っている。だから説得力がある。戦争とは肉体に受ける痛みだけではない。心の痛みこそが、大きい。それは、代を越えて果てしなく影響する。朝鮮半島の問題は、1国の支配者だけでなく、多数の国の支配が朝鮮に住む人の心を傷つけてきた。まず最初に日本が、植民地政策をとり、徹底した朝鮮に対して差別意識を日本人に行った。強制労働や強制連行、従軍慰安婦の問題。次に米ソによる世界戦略にかき回される。南は、アメリカの軍事植民地、北はスターリンによる社会主義の押しつけ。それが、今日まで朝鮮半島の政治を支配している。拉致問題もそのような政治背景の基で起きた事件である。北朝鮮の核問題も同じだ。だから単純にはいかない。ソ連は、政治体制が崩壊したが、100年近くこの国を振り回してきた日本やアメリカは、この深く傷ついた国民を癒してあげる責任がある。今回の訪朝で、拉致被害者はかなり厳しい評価をされていたが、また愛する家族を思えばもっともだと思うし、私も何か出来ることがあれば協力したいと思うが、日本やアメリカに戦争がもたらした心の傷を癒す方策がなければ解決はしない。特にアメリカにそのことが分かって欲しいと思う。
2004年05月23日
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いよいよ今日、小泉首相も北朝鮮に行かれるとのことで、拉致問題の解決に期待したいところですが、最近、韓国についても関心が高まり、ブームになっているとまで言われます。きっかけは、「冬のソナタ」。主演の男優さんにあるようですが、確かに、さわやかで好感がもてます。しかし、古代より私達日本人は、長い歴史の中で朝鮮半島に対しては、攻撃的で且つ、差別的な扱いをしてきました。国際的に孤立する北朝鮮という国家と指導者を生み出したきっかけも私達日本人にあります。日本が伊藤博文ら誤った政治家によって、不当な大日本憲法をつくり、朝鮮半島を植民地支配をしなければ、朝鮮半島を分断することはなかったでしょう。今となって振り返ると明らかに日本の行動は、間違っていたと分かるのですが、当時の日本人には気が付かなかったことなのでしょうか。朝鮮半島の人の中には、日本の本質的なことだから分からない、という人もいますが、それは違います。教育が遅れていたために洗脳が容易に出来たことにあると私は考えています。明治以前、日本には児童文学が十分育っていませんでした。子どもに良い本をという考えがなかったのです。あったとしても、昔話を聞かされるぐらいではないかとおもうのです。しかしヨーロッパには、子育て文化がマザーグースを中心に発達していました。印刷技術がまだ一般化していませんから、絵本などは、各家庭の手作りで、読み聞かせなども盛んに行われていました。ですから、文化に飢えた日本の子ども達は、軍国国家が作りあげた軍国洗脳文化を何の抵抗もなく、むしろ歓迎するように受け入れられたのではないかと思います。それが昭和20年の敗戦まで続くのです。しかし、明治後期から大正期に鈴木三重吉らによる「赤い鳥」という子ども達に良い文化をという良識をもった運動も開始されます。また、宮沢賢治らによる優れた児童文学が生まれてきます。その後「綴り方」運動という所謂作文ですが、良識ある先生から広げられていきます。しかしその多くは、戦争推進者によって弾圧されていきます。戦争を好む当時の支配者は、良識が敵であったのです。今はよくなった、なんて安心できません。今も憲法を変えて戦争をしやすくすることを考えている人が沢山います。私は、戦前の朝鮮半島を不当にも支配した間違った国にしないために、子ども達に良い文化を与えてあげたいと思います。未来を正しく判断できる子ども達に。
2004年05月22日
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絵本の絵は動きません。そこが、DVDやビデオと大きく違うところです。逆な言い方をすると、DVDやビデオは、誰が見ても同じ動きをしますが、絵本の絵は見る人の想像力で動かします。ですから子どもは、絵本から色々な発想をします。そして豊かな想像力を生み出し、知的な欲望を生み出し、様々なものに興味を持つようになります。特に、心の痛みや、可哀相に思う感情、嬉しいという感情、ほっとする感情など様々な感情は、誰が見ても同じで、迫力優先で、しかも結論を押しつけるDVDやビデオと違って、最も近しい親の声で読み聞かされて絵から想像しながら、けして押しつけでなく悟るように育てる心の教育こそ今忘れられていると思えます。0歳から絵本を読み聞かされている子は、4歳位になるとある程度作家の名前を知っています。ばばのぼるの本だよ、なんて生意気なことをいう子もいます。そのくらいになると、小学生で読ませる「さっちゃんの魔法の手」や「からすたろう」などを読んで聞かせると涙を零し、様々な感想も述べられます。また遊んでいても擬声語がとても豊で独創的です。しかし読み聞かせの習慣がない子は、小学生になっても落ち着いて本が読むことが出来ません。そんな子に「あなたは小学生だからこの本をよみなさい」と渡されても、その子は、興味がわきませんから、押しつけになって本が嫌いになります。昨日も宇都宮で奇妙で且つ、人騒がせな事件がありました。事件の真相はわかりませんが、印象としては、幼稚の一言です。想像力の欠如した身勝手な行動としか思われません。また、学校でのいじめは、子ども達同士のことでなく、教師、親も加わって問題になります。これも相手のの心の痛みを考えない身勝手な感情が原因になっていることが多いです。特に教師が親が子どもに対して憎しみの感情を抱くという心の貧しさには、驚きです。勝手なことを書き並べましたが、最近よく感じることです。
2004年05月21日
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昨日、松谷みよ子さんの話題で日記に書き込みをおこないましたので、ちょっと表記の件について述べてみたくなりました。子どもに本を与えるとは、躾の問題ということですが、最近の子どもは、本を読まない、理数系離れが激しいとか、学力低下とか社会問題化してしています。そして学校教育に標的がよく当てられています。やはり問題の根本は、大人達の本離れに原因があるように思っています。児童文学とは、小学生高学年になって与えるもの。それまでは、なんでも子どもが喜ぶ本を与えましょう。なんてもっとのらしいことを言う人がいます。しかし、読書習慣がない子にいきなり児童文学書を与えても読みません。読める子というのは、幼児期より親から良書と言われる本に親しんできた子なのです。子どもに勝手に好きな本を与えるとは、子どもに好きな食べ物だけを与えるというのに等しいと考えています。食材と同じように、子どもには本もまた、選ぶ能力がないのです。おかずを買うのに、好きな物を子どもに選ばせる親はいないでしょう。やはりお母さんが、栄養のバランスなどを考えて選びます。しかし、本屋さんでは、「どれがいいの。早く選びなさい。そのアンパンのね。」なんていう光景を目にします。子どもには、親以上に激しい心の発達があります。やはり、その子の成長にあった心の栄養のバランスのとれた本を与える必要があります。本は字を覚える教材ぐらいに考えているお母さんがいます。幼児期は、なるべく本を読んであげることだと思います。所謂「よみきかせ」です。子どもを膝の上に抱いて、子どもも親のぬくもりを感じながら、思いっきり甘えて本を読んであげる。子どもは、想像力が豊ですから、本の作者の意向とは違うことを言います。そんなとき、お母さんは、けして「いいから黙ってみてなさい」とは言わず同じように想像の世界で遊びましょう。このことが数十年後の親子のよい思い出になるのだと思います。本の魅力を知ること。このことが幼児期になかなか為されない光景をよく目にします。英語の教材には一生懸命ですが…。私は、0歳から読みきかせはできるとおもっています。そこで昨日話題になりました松谷みよ子さんです。代表作「いないいないばぁ」は、生後6ヶ月の子でも集中します。(明日に続けます)
2004年05月20日
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お話をまた地元に戻したいと思います。世界谷地温泉は、ここのところ登山客などが増えてきました。山里なのでろくなもてなしはできないと来たお客さんに吹聴するのですが、ところがどうして皆さんご満足顔でお帰りになるのが、とても嬉しいです。お客さんに誉められるベスト1は、お米。地元の私達にとって何時も食べるお米でも、お客様には格別らしいのです。「このお米は、買えないのですか」と決まって聞かれます。農家と契約でもしてるのか、とも。ここは田舎ですから、米ごときに何故契約か、と逆に疑問を持つのです。懇意の農家を教えてあげて「1俵(30k)玄米で1万円ぐらいですよ」と教えます。これは、普通の私達の買い方です。次に、魚が新鮮なことに喜ばれます。今季節柄、鰹の刺身が定番ですが、初めて鰹の刺身を食べたという大阪のお客さんがいらっしゃいました。食い倒れの街といわれる大阪からお出でになって、と首を傾げる。季節は過ぎつつあるのですが、イカの刺身を出したとき、なんで味付けをしたのですかと聞かれたときは驚いた。刺身だから味付けはありません。甘い、甘いと食べてくれます。ここ地元の魚屋さんは毎朝、気仙沼、志津川の市場から仕入れるのが当たり前ですので、確かに魚は新鮮です。そして、やはり山菜。バッケ(蕗の薹)は流石に終わりましたが、これからは、ワラビです。灰で灰汁抜きした鮮やかな黄緑のワラビをお出しします。あともう少しで終わりになるココミ。里蕗が丁度季節ですので、その日にとれた分をお客様にお出しします。これから秋まで、時期、時期の山菜やキノコを味わっていただけるので楽しみです。
2004年05月19日
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新鮮組のゆかりの寺、日野の高幡不動から西へ北野街道を突き当たりまで行くと高尾山があります。高尾山は、日本の南方植物と北方植物が混在する所として貴重な植物の宝庫であることはとても有名な話です。ところで、圏央道建設で高尾山にトンネルを掘る話はどうなったのでしょうか。これは、この山を愛する多くの人にとって許し難いことであるし、目先の便利さと利害に目がくらむ「大馬鹿野郎」の計画として、心から憤りを感じます。信仰の山として、心のよりどころにされた山は、その草木まで千年以上も大切にされた結果今が在るわけですから。ところで高尾山の北向に高尾山よりやや低い山が向かい合っています。この山こそ、八王子の地名の起こりとなった城山です。伝説ですと、菩薩様が現れて八人の王子を下し、関東の平安を祈ったとされ、山頂近くに八王子神社が祀られています。そして、この地を八王子と名乗るようになったのは、戦国時代。小田原北条一族の北条氏照が領したころからです。多摩川を見下ろす滝山城に拠点を置いていた氏照は、武田信玄に何度か脅かされ、信玄から「滝は落ちるもの」と言われたことを機にこの八王子神社を囲むようにこの城山に城を築き、拠点を移し、地名も八王子と変えたことに始まります。現在もこの城山近くは、元八王子と呼ばれ、江戸時代に整備された現在の八王子市街とは、区別されます。この元八王子からさらに北に低い山を越して行くと恩方地区、古い甲州道である陣馬(人馬)街道にでます。ここは、童謡「夕焼け小やけ」の作詞者の中村雨紅の古里であり、童謡「夕焼け小やけ」が誕生したところとして有名です。実は、昨日急きょ、用事ができ、八王子に出かけたので、思い出して今日の日記にしました。
2004年05月18日
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昨日、何気なくテレビをつけたら「新撰組」の再放送をしていました。ここ数年テレビに無関心で、大河ドラマも小中学校の頃ほど熱心に見れなくなっています。ただ、近藤や土方、沖田らは、私と同郷の武蔵野の出身なので、つい日記の話題に出したくなりました。武蔵野と言うっても、国木田独歩に言わせると、八王子や日野は、武蔵野ではないというのですから、私が少年時代飛び回った、久留米、小金井、小平、東村山や田無、保谷(西東京)とは違うのでしょう。確かに、久留米などは田んぼはありませんが、日野や八王子に出ると田んぼが見られます。そのような違いは、様々思い出せるのですが、方言は、同じだったように思います。今は使う人も少なくなりましたが、古くから住む農家の方の間ではだいぶ使われていました。そうすると、沖田や近藤、土方も多摩弁をしゃべっていたと思われます。気持ち悪いことを「うざったい」、押すことを「おっぺす」、蹴ることを「けっぽる」そして基本的に語尾に「だんべ」をつける「だんべ」言葉。「そうだんべ」「あにいうだんべ」(何を言うのか)という具合だと思います。私には懐かしいお国言葉ということでしょうが、地方から東京に来た人には信じられないことのようです。しかし、まだ話せる人がいるうちに記録に残しておきたいものです。
2004年05月16日
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日記も地元に話題を返そうと思います。栗駒山もいよいよ明日登山開きとなります。雪はまだ多いですが、程良いといったところ。これから、徐々に解けて、様々な高山植物が顔を出していきます。栗駒山は、昔から信仰の山として地元では崇められてきました。麓では雪解けの状態を見ては、田植えを始め、残雪の形から占ったりしたようです。また、豊富な山菜と金、銀、鉛、亜鉛といった鉱物などを産し、人々に恵み、富をもたらす山として大切にされてきました。その山の登山開きですから、地元では、本格的な春を告げる一大イベントなのです。栗駒山は、一方で古くからの交通要所でもあり、多くの物や文化を運ぶ道でもありました。古代は、中央から陸奥へは、日本海を利用し船を使い、日本海岸から山を越えて陸奥に入るのが一般的だったようです。その証拠に栗駒山の麓に文字(もんじ)という集落がありますが、ここは古い文献には、「門地」という字があてられ、陸奥の門の地という意味だと伝えられています。ですから前九年の役を始め、古代の戦は、この地に集中し、ここで都からの援助を絶つという作戦が多く取られたのでしょう。栗駒山の頂上から、阿倍貞任が源頼義、義家親子を不意打ちにした「鬼切り部の戦い」などは有名なはなしです。江戸時代も各所に伊達藩による番所が建てられ、秋田越え街道として整備されましたが、その古道が今も残っています。車社会の今日ですが、タイムスリップしてゆっくりと古道を登山をかねて散策するのもよいかもしれません。その古道沿いに「銀明水」という美味しい湧き水があります。歩き疲れた渇いた喉を潤すのは最高の一時です。
2004年05月15日
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昨日の続きになりますが、太刀魚捲きの宇和町をさらに南にいくと、我が仙台の伊達の分家、伊予伊達藩の城下町宇和島に行くところを行かずに山の中に入ります。所謂四国カルストの方に進路をとります。ありきたりの海(それなりに美しいですが)より私は、四国の山が大変珍しく思っていました。私は、山がない関東で育ち、比較的なだらかな山が多い東北に住んでいます。海から僅かな距離で、かなりの標高のでそびえる四国の急斜面の山は、また違った美しさあります。山間の野村町から山合いを高知の県境に進みます。この野村町は、相撲が盛んなところで、「玉春日」の出身地ときいたことがあります。ここからの山間の道こそ、坂本龍馬脱藩の道として有名な道です。藩に決別し、志のために決意新たに通った道なのです。沿道の坂本の志に同調する多くの人が脱藩を助けたと聞きます。急斜面の山、そして深い谷、本当に山が深いという感じです。しかし、この深い山の比較的高いところにポツン、ポツンと集落があります。屋島、壇ノ浦の戦から逃れた所謂、平家を先祖にもつ集落です。地元の人に聞いてみると、下の谷からは、けして集落は見えないが、集落からは、下の谷を見下ろすことが出来るそうです。確かにその通りです。谷からだと、誰も住んでいないただの山に見えますが、夜になると山の上に沢山の電気がともるのです。東北で武芸を鍛えた義経の追ってには、このからくりに気が付く者がいなかっただろうと想像したりします。いよいよ平野部に入ると高知市が近づきます。地元の人の方言が愛媛とは全く違ってきます。四国の不思議は、四国全体の面積が、岩手県よりやや広いぐらいの狭い島で、四つの県が違った方言を持っていることです。険しい山が、人々を遮断してそれぞれに独自の文化を育てたためなのでしょうか。高知と言えば鰹です。鰹を食べなくてはと思い、ある漁師の料理屋さんの暖簾を潜って、色々お話を聞いてみると意外なことを教えて貰いました。お店のご主人が「何故宮城から来て高知の鰹を食べるのか」というのです。つまり、鰹漁師は、多いがとれた鰹は、宮城気仙沼に水揚げするから、本当に美味しい鰹は宮城にあるというのです。確かに、宮城県は、全国一の鰹水揚げ高でした。宮城では、タタキ(土佐づくり)にせず、必ず生の刺身にして食べます。お店のご主人が言うのに「鰹は、たたいたらいかんキ、生が一番じゃケ、しかしコーチン(高知)はたたかんと、くえんというこちゃ」この話は、以外でした。でもご主人がなんと言おうが、宮城より、高知の鰹のたたきが美味しいと思って食べてきました。
2004年05月14日
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東北も温泉が多いところですが、四国愛媛も温泉が多いところで驚いたことをある人の日記で思い出しました。何しろ、「伊予」は湯の国が語源だというのは有名な話です。しかも、松山の道後だけではなく、松山市内でもあちらこちらに温泉があって、安いのです。北条市から松山に入ると「堀江」というところがあってそこに権現(ごんげ)温泉、またそこから数キロ松山市内に向かうとまた一軒、そして道後と東道後、そうそう星ヶ丘という温泉もありました。さらに砥部にもあったかななどと思い出していると、南予の肱川沿い、や宇和の沿岸から野村の内陸にかけてもあったかなと思い出してみます。私は、旅行でしか訪れたことはないのですが、私は自分の足で価値を見出していく主義ですので、訪れると結構細かく廻ります。とりわけ気に入った所は、とことん廻ります。松山はだいぶ気にいた町のひとつです。今の時期みかんの花が咲いて、特に北条市との境目の山々は、良い香りが漂っている頃でしょう。伊予柑の産地だったと思います。松山から予讃線で南に、内子に廻らずに長浜方面の海沿いに路線をとります。現在、鉄道と海岸の間にきれいな道路が出来ていると思いますが、以前は、その道がなかったので、最も海に近い鉄道とか駅とかで有名でした。少し停車時間が長いときは、列車から降りてすぐに海岸に出れて発車を待つというのんびりした光景も眺められました。男はつらいよの寅さんのロケ地としても印象にのっこっています。さらに、南にいくと宇和、明浜、三瓶といった美味しい蜜柑の産地。マアナ(字をわすれました)蜜柑は特に美味しく、さらに太刀魚を串にまき蒲焼きにした太刀魚巻は、絶品の旨さだったと思い出されます。思い出される旅情は、次から次ぎへと思い出され際限がありません。今日はこの辺にしては、明日は、高知にしましょう。
2004年05月13日
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浩宮さんについては、年代も近いし、彼のキャンパス生活のことなども彼と同じ大学の友人からよく聞かされていたりしていました。当時も今もそうですが、特定の家族が象徴という根拠がない特別な地位で拘束する不合理に疑問を持っていました。また本人達もきっと不合理に感じているだろうと思っていましたし、また彼もそのような感じを持っているのではないかと思われる所もかいみられているようでした。一昨日、彼が記者会見で述べた内容は、やっぱりそうかと感慨深く聞きました。敗戦後の昭和天皇による「人間宣言」以来の歴史的発現とでも言いましょうか、しかし一人の人間として当たり前の発言でもあるのかもしれません。そこには、男として、夫としての妻への思いやりと優しさが溢れています。皇室という現代社会とはなじまない非人間的な組織への批判とその中で出来る限り妻を守りたいという叫びが私は、冷静に頷きながら聞き入りました。
2004年05月12日
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昨日、私のビジネスむき出しの日記になりましたが、今日も失礼してその路線でもう少し書かせていただきます。先日のことで、すでに出来た本は、納品したのですが、近所の方で嫁ぐ娘に親からのプレゼントとして親子の思い出を本にして贈りたいというご依頼がありました。原稿は、妊娠中のお母さんの写真、母子手帳、育児日記、娘さんが初めて書いた落書き、や字、お父さんの絵、小学生になってからの作文など、盛りだくさんです。ご依頼してきたのはお母さんでしたが、その編集は、お父さん。しかし、その編集がなかなか私どもに届きません。お母さんのお話によると古い写真を見つめては、なかなか進まないとのこと。しかしどうにか編集されて原稿も揃って大急ぎで作成して納品すると、それを見つめるお父さんは、うっすらと涙をにじませています。お母さんは、サバサバして笑顔満面の満足顔です。「遠いところに嫁に行くわけでもないのに」と父親をからかっています。しかし、父親にとっての娘に対する思いとは、特別なものがある気持は分かるような気がします。
2004年05月11日
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知的な財産などしっかりと後生に纏めて伝える方法として本にするという方法があります。本にするとは、普通お金もかかり、労力もかかるということで、一部の人のことと思われてきました。そこで誰でもが、安価でなるべく簡単に本にすることができるようにしたのが「ぴったんこ」の自費出版システムです。これまで、安価な本づくりといえば、製本が簡単だったり、モノクロであったりするものですが、その辺をこだわり、上製本仕上げにしてオルーカラーにしたのです。現在とりかかる仕事の中に、長年造船工場で働いていた方の画集を製作していますが、職場で職場を描いたので、メモ帳にスケッチしたものや伝票のようなものにスケッチしたものや、うっかりすると捨ててしまうような紙に力強く造船所の様子が描かれています。一服する仲間の似顔絵、朝の静かな職場の光景、仕事を終え、家路に急いだり、飲みに行くかとでも語らい合うような様々な仲間の様子、共に働いていた方々にすると、さぞ懐かしい思いをするだろうと思われる作品ばかりです。スケッチブックなどに描かれたものはほとんどありません。身の回りの紙でインスプレーションで描いたものです。ですから写真より強烈です。紙も傷んで難しい仕事ですが、精魂込めて制作しようと思っています。
2004年05月10日
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私のページに訪れる人は、つまらないことばかりよく書くと言うかもしれません。せっかく訪れたのに申し訳ないと思いますが、どうか私の思いのままに書くことをお許し下さい。ところで古代東北は、蝦夷(えみし)と言われ、中央政権から軽蔑されていました。一方蝦夷は、中央政権からの支配を嫌い、多くの抵抗の戦いの歴史があります。中央政権では、蝦夷は、鬼の住むところとして、蝦夷を追討する軍に「鬼退治」とハッパをかけたと言われます。ただ面白いのは、当時の蝦夷の人たちは、自分たちが鬼と呼ばれることを受け入れて、今でも鬼を奉ったり、鬼が様々な困難を救うという民話が数多くのっこています。しかし、中央政権も何故、遠くて寒い蝦夷を大軍まで入れて支配しようとしたのでしょう。教科書にも出てきますが、奈良の大仏を建立したとき、金がなくて金箔が貼れないと騒ぎになったとき、献上されたのが、蝦夷の金でした。蝦夷には、金をはじめ豊富な資源があったのでしょう。確かに金鉱の跡は多いし、「金成」「砂金川」など金に纏わる地名が多いのでもよく分かります。
2004年05月09日
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木の芽がやっと出てきたと思ったら、あっという間に一面黄緑色に輝く木々たち。命の力に驚く今日この頃です。東北は、落葉樹が多く、冬は雪が降りますので、季節によって全く景色が違うというのが、魅力のひとつだと思っています。以前、国の政策で、この落葉樹、とりわけブナを切り倒して経済性かある杉に植え替えたことがありました。しかし経済性どころか、山に貧困をもたらせ全くの失政に終わっています。その罰当たりか、今杉花粉に悩まされています。落葉樹を残せばそのようなことがなかったのにと思います。栗駒山は、僻地のためか、国の政策に逆らったのか、一部に杉林が傷跡のように残っていますが、ブナ林が多く残っています。これが、ワラビ、今盛りのたらの芽、コゴミ、ゼンマイなどの山菜を恵んでくれます。山の豊かさは、山に任せて人が手を加えるべきではないということでしょうか。
2004年05月08日
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昨日の日記で、つい歴史の話題がでたついでと言うってはなんですが、奥州上街道についてもう少し語ります。歴史はさかのぼり、源頼朝の時代、奥州平泉を討つべく北上した頼朝軍が通ったのもこの奥州上街道です。千本松(山の尾根道に長い自然の松並木があります)で有名な真山(岩出山町)で敵の情報収集を行い、ここから津久毛橋の戦いに臨み、一気に平泉に押し入りました。しかし平泉に入った頼朝が見たものは、ものけのからになった静かな平泉と鎌倉の足下にも及ばない、高い文化に満ちた平泉の町並みでした。頼朝はかなり嫉妬したと言われます。ところで時は前後しますが、津久毛橋の古戦場(金成町)のすぐ近くに栗原寺(りつげんじ)というお寺があります。ここは、義経が初めて金売り吉次に連れられて平泉に来たとき、目の前の平泉に入る前に身支度を整えたり、頼朝に追われる身になった時、奥州藤原三代秀衡が義経を迎えた寺として有名です。かなり大きなお寺だったそうですが、頼朝に破壊されて当時の形、規模は不明のままです。
2004年05月07日
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栗駒山も観光のお客さんも去って登山道も静まり返りました。山を下りて里に出ると今は田植えの準備が真っ盛りです。麓の里には、古い街道「奥州上街道」が所々江戸時代のまま残されています。国から「ふるさとの道」に指定され手厚く保護されているためです。かって、松尾芭蕉が、平泉からまた南に踵をかえして羽前(山形)大石田に向かった道がこの道です。平泉から一関、現在の県境を越えて岩ヶ崎(栗駒町)袋(鶯沢町)真坂(一迫町)そして岩出山で一宿取ります。その途中、衣掛の松(芭蕉が汗に濡れた着物を松にかけて休んだ所)などいくつかの逸話も残されています。この古道をゆっくりと散策すると、山とは、違った新緑の美しさを、里ならではの楽しみがあります。
2004年05月06日
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ゴールデンウィークも最終日になりました。天気は、回復しましたが、気温はかなり低いです。おかげさまで、訪れたお客様は、ロケーションがいいとのことでご満足の様子です。ありがとうございます。関東方面のお客様は、渋滞を回避するとのことで、夕方近くにお帰りになる方、夜の新幹線で帰るというお客様、様々です。ところで「栗駒」という地名についてが話題になりましたのでちょっと触れますと、栗駒の雪がこれから解けていくわけですが、その解けて残った雪の形が「馬」に似ていることから「馬姿山」と古くは言われていたそうです。これが、馬の信仰となって山頂の上社と麓の下社に駒形根神社というのがあります。そして訪れる人は、駒ヶ岳と呼んだそうですが、全国に駒ヶ岳という山が沢山あることから区別するために、ここの地名「栗原」から「栗駒」という名が付いたと言われます。しかし、秋田側に行くと「大日山」、これは秋田側から見ると太陽が昇る山ということのようで、お日様の信仰があったようです。
2004年05月05日
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昨日午後から天気が怪しくなってきました。ここ高原では、天気が崩れ始めると深い霧に包まれます。霧というより雲でしょうか。「雲に包まれる」この方が趣がありますね。登山の途中こんな状況に遭遇すると大変ですが、ここは、宿屋ですから心配はありません。白い水蒸気が一面ブナ林を白乳色にします。林を覗くと、どこまでも続く、どこか空想の世界へ誘うような感じを与えます。あちらこちらから小鳥の声がします。とりわけ鶯の声が大きく聞こえます。静けさそのものです。
2004年05月04日
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世界谷地湿原では、今ミズバショウが盛りです。湿原に施された木道から、雪解け水が流れる中にのぞかせるミズバショウは、可憐です。周りは、一足遅い、山桜が丁度満開。ブナの新芽もやっと出始めたところ。日当たりが悪い山際に残る雪の間からは、遅めの蕗の薹がまだ見かけられるぐらいですから。ブナの新芽は、世界谷地湿原に向かう道路際、特に標高が低いところでは、鮮やかな黄緑を見せています。山の春は、まだ冬を引きずっていますが、確実に夏に向かっているようです。
2004年05月03日
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栗駒山はコニーデ型休火山で、標高1623mです。世界谷地湿原は、その山腹の標高700m位に広がる湿原です。そもそも世界谷地の「世界」とは、信仰の山らしく、仏教用語の広いに由来します。谷地(やじ)は文字通り谷地(たにち)で、古来より陸奥と出羽の通り道で、比較的通りやすい場所であったと言われています。世界谷地湿原の誕生は、古いところで約1万6千年前までさかのぼり、栗駒山の火山灰が水をせき止め、その上にさらに火山灰が降り積もったものだと言われます。湿原の周りはブナ林に囲まれ、さらに保水性を確保しています。
2004年05月02日
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一時は冬眠から醒めたので、日記再開と宣言したのですが、その後、本業の出版の傍ら、温泉再開の準備に追われ、楽天を開くことさえありませんでした。今度こそ日記のタイトルも変えて再開します。(ほんとかな)ほんとです。 ところで、栗駒山というってもご存じの方は少ないと思います。東北の丁度真ん中、秋田県と岩手県そして私の住む宮城県にまたがる標高1600mあまりの休火山です。付近は、温泉が沢山あるのですが、近場で有名と言えば、鳴子温泉。電気がないランプの湯として有名な湯浜温泉、噴湯の小安峡というところでしょうが、私の世界谷地温泉は、数ある付近の露天風呂の中で栗駒山の山容が見渡せる唯一の温泉なんです。もちろん天然温泉です。予約は従来のホームページからできます。ちなみにアドは、http://www.pittanko.net.yazi.htm ですまずは、のぞいてみて下さい。
2004年05月01日
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