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古い映画の話で恐縮です。「男はつらいよ」の寅さんの話です。いつも無様な恋愛をして、古里柴又を恋しながらも、古里に居着くこともできず、いつもお金もなく、ふらふらと気ままにその日暮しの旅生活。というのが映画の設定ですが、寅さんは、そんな自分をいつも変えようと努力するのです。それが、また映画の笑いを誘うところですが、私は、そんな姿が、なんか自分に重なって涙が出て仕方がありません。人間らしさの根本は、未来を意識する事です。未来を意識する事が出来なくなると人間は、人間らしさを失います。寅さんは、果たしてそう意識してるか分からないですが、無意識にそう感じているような台詞が、所々にあって、寅さんを見ると人間らしさを取り戻した気になります。大企業の課長さんが鉄道自殺を図ろうとします。しかしブレーキが利いて事なく得て寅さんに出会います。親切な寅さんは、温泉旅館に彼を連れていくのですが、彼は仕事が気になるから帰ると言い出します。寅は、「死のうとしたやつが、何で気になるんだ」と言い放ちます。すると無断欠勤をしているからと彼は帰る主張を曲げません。すると寅は、「おまえが居ないと会社がつぶれるのか」と聞きます。彼は、その言葉でしばし、寅と同行する決意をします。ストーリーはその他色々ありますが、結局彼は立ち直って、従来の仕事に復帰していくのですが、エリート社員として学んで身につけた世界観と寅なりにこれまで学んできた世界観という対比で、現在の教育観に疑問を投げさせる作品だと思っています。寅が、エリートのように学ぼうとしたこともあります。寅は常々妹のさくらに「そのうちきっと」という言葉をはきます。おいちゃんおばちゃんにも、「いつかはきっと」と「奮闘努力」を誓います。しかし、彼の行動は、社会が受け入れないのです。しかし、作品を見ると、社会が受け入れないから寅が悪いのか、彼を受け入れない社会が悪いのかを考えさせます。常識とは何かという問題にも似ていますが、当たり前に自然に行う彼の行動は常識から外れることが多いかもしれませんが合理的です。しかしいくら合理的でも常識から外れるから抹殺する。これは、社会発展の観点から見るとどうかと本当に考えさせます。日本経済などが硬直している現在、いろいろな世界観を受け入れる寛大なな社会の構築が、今、求められているような気がします。
2004年06月09日
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いよいよ、東北も梅雨入りとのニュースが飛び込んできました。五月に多少暑くなっても、ヤマセという独特の北方からの寒気が入り込み、また若干気温が下がりやすくなります。所謂梅雨寒です。このヤマセが真夏まで長引くと冷夏ということになり、冷害がおきます。ところで、この時期、旧暦だと五月。ふと表題の句を思い出しました。この句は、明智光秀が主君織田信長を打つという決意を連歌会で示した句ですが、連歌会に同席した俳人蕉巴は、すぐにその句の真意を悟り、「いく川の 流れの末を せき止めて」と受け、無謀な決意を思い止めようとしました。明智光秀がなぜ謀反に及んだか、様々な説があります。私も当然お会いしたこともない過去の方ですので、そのわけは当然わかりませんが、記録の上で知る彼からは、確かに想像しがたいことです。私は、記録にない心の内面の問題だろうと想像したりします。彼は、礼節を重んじ、かなりの知識人であったことが想像できます。当然武士道を重んじ、主君を打つなど、とんでもないことは、日常、思いも寄らない事だったと思います。しかし、その反面、知識人特有のプライドの高さはあったと思います。織田信長は、野望丸出しのいわゆる「やり手」の武将でした。伝統やしきたりより、目標達成が至上という、世界観の持ち主です。しかし明智光秀は、なによりも天下国家の安泰に捧げるという大儀名文で行動するタイプだったように思います。これは、二人の育った環境にあると思うのですが、織田家は、守護大名斯波氏の家臣の家柄です。いくら父織田信秀が主君を押さえたというっても、家臣としての教育しか受けていないし、家臣としての家柄(家庭的雰囲気)しかありません。一方の明智家は、守護大名土岐氏と血縁関係がある大名の家柄という家庭的雰囲気がありました。ですから大名の一族として恥じない高い教育や作法を身につけていたと想像できます。事実、信長が上洛したときも、将軍家への作法は光秀しか心得ておらず、天皇家への接待も光秀が全て指示したと伝えられます。そんな光秀が信長に使えたのも、荒れた戦国の世を安泰にしたいという大義名分があったからこそだと思われます。しかし、力を大きくするに従い信長は、比叡山を焼き討ちにしたり、自らの目的(野望)のためには、民への虐殺を行い、家臣に対しても無謀な命令を下したりします。これは、知識人明智光秀には耐えられないことだった思われます。「こいつを野放しにしたら、また大変なことになる」とまで考えたと思います。ですから、明智光秀は、政権を信長から取って代わろうというよりも、世のためにも信長を打つという思いで裏切ったのではないかと想像します。これは、光秀の心の内面の問題です。だから、謀反の理由が分かりにくいと思うのです。先日の佐世保の小学生による殺人事件も同じです。本当に不幸な出来事です。それだけにその真相は、単純には分かりにくいと思います。生活環境、人間関係、テレビやパソコンという新たなメディアが及ぼす影響、子どもの世界の状況、それらが目に見えない心に様々な影響を及ぼす。事件当事者だけの問題として簡単に片づけてほしくないと思います。全ての子どもたちのために社会が正面で重く受け止めるべきでしょう。
2004年06月08日
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昔々のお話です。秋田のある長者(お金持ち)の家に辰子という,美しい姫がおりました。その美しさは、言葉に表すことも出来ないほどで、どこに行っても人々を驚かせ、大事に扱われてといいます。(つまり、ちやほやはれました)辰子は、いつまでもこの美しさを保ちたいと願い、不老の泉を下男に探させ、程なく見つけることが出来ました。辰子は、泉の近くに祠をたてさせ毎日不老を願ったといいます。そして願いがかなう時が来ました。泉の水は量を増し、辰子の皮膚にウロコが現れ、見る見るうちに竜に化身しました。泉の神が現れ、「そなたの願い、不老不死の竜にしてかなえよう。泉を湖に変え、その主になるがよい」と語ったといいます。田沢湖のシンボル、辰子姫像にまつわる伝説ですが、秋田の美人といえば、「花の色は…」で百人一首に登場する小野小町が有名ですが、彼女もあまりにも美人であったために終焉は、そのねたみなのか、事実なのか分かりませんが、よい話は、残っていません。第一、彼女の墓とさせるところが何カ所もあります。宮城の古川にもありますし、京都にもあります。つまり、彼女をしっかりと看取った方がいない、孤独な終焉であったということは事実でのようです。山梨県の甲府に善光寺があります。川中島の戦いの時に、戦火から守るために武田信玄が、長野から移したと伝えられる立派なお堂です。鳴り竜でも有名ですが、ここに小野小町の像というのがあります。それは、ここまでしなくてもというぐらい醜く彫刻されています。説明には、小町の心は、このように醜かったのだとされています。当時の人が作ったのか、後の人が伝え聞きで作ったのかわかりませんが、事実はどうあれ、人の心をここまで醜く表現する憎悪の念の方に醜さを感じます。宮城、古川の小野小町の墓の説明文では、一世を風靡した小野小町も年をとるにつれ、病を繰り返し、晩年は、孤独だったそうです。しかし、最後は、生まれ故郷の秋田雄勝で死にたいと、最後の力を振り絞って秋田に向かうが、その力果てて、この地で亡くなったとしています。美人は、生まれついてのことですから、本人に責任はありません。また、ああ美しいと評価を下すのも世間ですから、本人の責任ではありません。しかし、それに踊らされるのは、本人ですが、踊るなという方が無理でしょう。このように考えると、美人も辛いものです。
2004年06月07日
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昨日に続いて、秋田の方とまた、方言の話になりました。私が、宮城弁の「また、たございんね」が東京の人に受けたという話から、秋田では、「また来てください」は、どういうか聞いてみました。秋田の方は、「うん~」と腕組みをして暫く考えた後、「その場合秋田の人は、方言は使わないのではないか」という意外な返事が返ってきました。つまり、秋田弁は、分かりにくいという自覚が秋田県人にはあるので、なるべくお客様には、標準語を使うはずだ、というのです。さすが、観光先進地秋田だ、と私も頷いて聞いていましたが、それでも突っ込みを入れたくなって、でも秋田弁を聞くと差程宮城弁と変わらないよだが、と聞くと、秋田の人は、にんまりと笑って、「ままけっと おまいのあばよばってら」「まだかしぇーでるで すてこまで」といきなり秋田弁を使い始めた。言葉はなんか朝鮮語のように聞こえるが、イントネーションは、フランス語のようでもあります。秋田の人は、ちょっとわからないでしょ、と得意げに笑います。意味を聞くと「ごはん食べろとおかあさんが呼んでいますよ」「まだ仕事をしているから、ちょっとまっていてくれ」と翻訳されるそうです。なるほど、これは九州の「ととと」より強烈だと合点してしまった。これは、大曲や角館あたりの方言で、県北に行くともっと上品で分かりにくいといいます。しかし、秋田県の多くの人にとって、懐かしい言葉だと言います。東京にぽっつんと一人で働いていても、どこかでこの言葉が耳に入ると、無性に懐かしくなると言います。ある時は、涙が出るときがあるとまでいいます。古い歌謡曲に「あゝ上野駅」という歌を思い出しました。「♪どこかに故郷の香りを乗せて~♪」東京生まれの私ですが、無性にその歌が口ずさみたくなりました。
2004年06月05日
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昨日、ある東京のお客さんと方言の話になりました。「またいらっしゃい」を宮城では「またございんね」という。その響きがいいという話から話に花が咲いたわけですが、その方が言うには、標準語からすると東北弁は、遠くに感じない、むしろ田舎らしい素朴さを感じるが、関西や九州に行くと違和感を感じるのはなぜだろう、と問題提起してきました。成る程、そういわれればそうかなと自らの経験を思い起こしてしまいました。私が一人、博多始発の南へ向かう各駅停車に乗ったときです。入線と同時に乗り込んだので、さほど混んではなかったのですが、発車時刻が近づくにつれ除々に混みだした時です。初老の方が私の座る席の近くに来ていきなり、「ととと」と声をかけてきます。意味が分からず、もしかしたら私に声をかけたのではないのかなと思い、一応顔を見て、笑顔で迎えるのですが、また「ととと」と言うってきます。その「と」が3つは何だろうと考えていると、ムッとしたようにその初老の方は、立ち去ってしまいました。後で地元の人に聞くと、その席をとっているのか、と聞いたんだということがわかりました。方言とは、冷静になれば意味はわかるのですが、とっさだとこのようなものです。同じく九州の話ですが、ある小さなお店で、たまたま材料があるからとメニュー以外の料理を出されたときです。「辛くなかとですか」と聞かれ、香辛料も入っていないようなのにと思いながら、「いいえ、でもちょっとしょっぱいですね」と無遠慮に正直に答えると「やぱり、辛とですか。ちょっとよかとですか」と料理を引っ込めて何か加えるつもりらしいのですが、別に辛いとは言うっていないのにな、と不思議に思ったことがあります。後で聞くと、辛いもしょっぱいも全て辛いで片づけるそうだとわかりました。方言に戸惑うのも旅の楽しさです。そもそも標準語は、ラジオ開局の際、放送語として作られたとある本で読んだことがあります。この放送の力で、宮城では、若い人はほとんど方言を話さなくなりました。よいことか、悪いことかわかりませんが、寂しいことであることは間違いないことです。
2004年06月04日
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昨日、今日と大変よい天気になりました。東北でも汗ばむほどです。木々の緑もどんどん濃くなるし、草もどんどん背丈をのばしていきます。一時は気温が低く心配された稲も、ここにきてだいぶ持ち直し順調のようです。東北人は、よく「もくもくと文句も言わずに働く」といわれますが、熱帯の植物である稲を育てるために、品種を改良し、土地を開拓してきましたが、どうしても変えることができない自然との闘いが、最も厳しいものでした。だから、「もくもく」とただ一生懸命働くしかないのです。自然には文句の言いようがないですから。怒りを抑え、うまつき合っていくしかないのですから。ジブリの「おもいでぼろぼろ」でも台詞の中で出てきますが、東北の風景は、自然との闘いの風景なのです。「自然の風景」とか「田舎の風景」とかよくマスコミで紹介しますが、森一つとっても、川の流れ一つとっても、それぞれ歴史があり、生きていくために人が配置したものなのです。古代、東北は蝦夷と中央政権から見下げられ、支配と強めようとしました。中央政権より自然の支配に従う蝦夷の民は、長い間、中央政権に抵抗してきました。それでも生きるために中央に従うものも現れたりしましたが、屈辱的な扱いを受け抵抗することもしばしばでした。もちろん、今は、時代も違いますのでそのようなことはないのですが、しかし、国の減反政策で草がぼうぼうと荒れた田圃が目に付きます。農業軽視の政策で農業経営の困窮や後継者不足で離農する人も後をたちません。日本の食料自給率の低下が叫ばれ、輸入にたよる日本の食料事情。今こそ国に対して声を上げなくてはならないのではないかと考えたりします。
2004年06月03日
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ジブリの作品「となりのトトロ」は、できてからだいぶたちますが、まだなかなかの人気で、私も好きなアニメの一つです。舞台は、昭和30年代初頭、始まる季節は5月、舞台となるのは、所沢から東村山にわたっての武蔵野台地です。マックロクロスケは、ススワタリという妖怪でこの話は、私も子どもの頃聞かされたことがあります。「ススマワシ」とか「ヤシキグロ」とも言われたみたいですが、誰も住まなくなった家に住み着き、人が住むようになると、またどこかに行ってしまう。昔から、すまない家が汚れると、この妖怪のせいにしたとのことです。それはそうとして、気になるのは、作品全体にわたって現れる水田風景です。はたして武蔵野にこんなに広い水田があったろうかと疑問に持ちます。この水田だけがどうも武蔵野らしくない気がしてしかたがありません。武蔵野は、やはり赤土の畑です。それに挟まれるように河川や湿地のところに小さな水田がある、こんな風景だろうと思うのです。5月なら黄金になろうとする麦畑。大きな葉っぱを付けようとする里芋畑。そして、芽吹く薩摩芋やジャガイモ。こんな風景だろうと思います。僅かに現れる小さな電車。西武鉄道は、赤土の舞い上がる土埃の中、かっては、力強く近辺の足となり、収穫された農産物を運んでいました。楠にすむトトロ、なぜ欅ではないのかという疑問がありますが、それはそれとして、森から森へ走り回る猫バス。そんな想像が豊かに繰り広げられる豊かさが武蔵野にはあったのです。
2004年06月02日
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クレヨンしんちゃんといえば、見る人からは絶大な支持があり、見ない人からは、「下品」「悪いこ言葉遣い」などの非難があったりしますが、私は、子どもはもちろん、大人も同じように楽しめる名作として、毎週土曜日は楽しみにしている番組です。なによりも関心するのは、子どもの世界のジョークと大人の世界のジョークを見る人の感性に委ねて笑わせるところなどは、すごいと思います。そして最後は、共通の感動としてまとめ上げています。しんちゃんのIQはすごいんじゃないか、実際にはしんちゃんみたいな子は、いない、とか冷めた、アニメを見る目でしんちゃんを見てはいけないと思います。やはりしんちゃんは、あくまでも幼稚園児として見るから作品は生きるのです。幼稚園児しんちゃんだから出る台詞。幼稚園児しんちゃんだから行う行動。とありのままを受け入れて見るのが、しんちゃんの一番の楽しみ方だと思います。幼稚園児といえば、理解できる言葉は、まだ少なくても、会話は普通どうりできつつある年頃です。ですから様々な勘違いがあったり、行動にあどけなさがあったりするころです。また心の痛みや人を思いやる心が育つ頃でもあります。そんな年頃のしんちゃんが、濁りのない目で、様々なしがらみに縛り付けられている大人の滑稽な行動を諷しするのです。しんちゃんを見て赤面する大人もいますし、はたっ、と反省することもあります。
2004年06月01日
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北国に居ると、長い冬を過ごしながら雪解けを待ち、桜の開花が待ち遠しくなります。春になっても寒の戻りなどがあって夏が恋しくなります。今日は、少し蒸し暑い中に雨。また夏が近づくかな、と期待に雨だれの音を楽しむ、これも四季がはきっりした日本の暮らしかもしれません。こんな日は、傘をさして雨を楽しむように散歩をするのもよいものです。実は、散歩ではなく用事で出るのですが、いつも当たり前のように車で出るところ、何となく雨の中を傘をさして歩きたくなったというのが正しいのですが、こう考えると用事も散歩になります。緑が雨に洗われて美しく光ります。日に輝く葉と違い、恥じらいながら揺れては輝く人間味がある美しさです。たとえば柳は、風呂上がりの乙女の洗い髪を思わせたりします。大きな欅は、肩をつぼめながらも、気持ちよさそうにシャワーでも浴びているように。そして、葉という葉は全て青々としています。雨が多少大粒ですので、アスファルトにあたると雨がはねて四方にはじく水滴が産毛のように見えますが、それがあまり活発なのでミドリムシの繊毛のようにも見えます。それが、当たり前の水に変化して側溝に流れ落ち近くの川に流れ落ちるのです。時たま生ぬるい風が頬を触れて通ります。夏の雨です。人は勝手ですので、いつも同じ調子で雨を迎えません。子どもからお年寄りまで、喜ぶこともあれば、憎むこともある、ある時は恐ろしく思うこっともあれば、望むこともあります。ですから民話などでは、不思議なことの前触れだったり、幽霊が出る演出に使われたり、オープニングに使われたり、締めくくりに使われたりします。この雨が、私たち生命を育むだけでなく、様々な感情を呼び起こし、文化を創りあげてきた大切なものであったのは真実です。
2004年05月31日
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山の紫が、藤から桐に取って代わりました。遠くから藤の紫だと合点していた紫が、いつしか桐の紫に。これから梅雨に入ると、梅雨明けまで花の色は紫が主流になります。我が家の庭先もアヤメが咲き始めました。やはり紫。もうじきアイリスが咲き始めます。やはりこれも紫。しかし、垣根の方に目をやると、鮮やかな黄色で山吹が咲いています。「紫なんて邪道だ。花は黄色でないと」とでも主張しているようです。確かに、曇り空が多いこの時期にこの黄色は貴重な存在です。太田道灌ではないですが、はかない歌が詠めそうです。栗駒山に登る道すがら、蕗を採る人を多く見かけます。多くは、家族で食べる分を、楽しみながら採る人たちです。採った蕗を湧き水で洗って、心地よく疲れてからだを癒すように、そんな花たちを眺めるのも山の楽しみです。しかし、花はそこにあるから美しく、来年の咲くことができるのです。感謝の気持ちで、山菜も同様ですが、必要以上な採取はやめてほしいものです。栗駒山の世界谷地湿原もこれからが、花の季節。ここでは、採取は厳禁。ここの花は、ここでしか育ちませんので。
2004年05月30日
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記憶の中の話です。最近はとんとご無沙汰してますのでどう変わっているかわかりません。昨日武蔵野について書いたついでに、そのにおいを求めて、夏目文学を開いてみました。明治後期の東京を様々描いているのが、私にとっての夏目文学の楽しみです。ですから私の記憶でストップした東京を描きます。地下鉄の早稲田駅を東京女子医大の方面にでると喜久井町です。つまり、夏目坂。このあたりの名家であった漱石の父親が名付けたといわれます。漱石の代になって零落し、今は、漱石誕生の碑が建つのみです。坂は上り続けると抜け弁天の交差点にでて、そのまま新宿歌舞伎町につながりますが、逆に早稲田通りを横切ります。その前に、「坊ちゃん」の中で、幼い頃、柿を盗みにくる勘太郎ととっくみあいの喧嘩をするシーンで当時の夏目坂を垣間見ることができます。転げ落ちたのはこの辺だろう、などと勝手に想像してみたりします。早稲田通りを東へそのまま行くと矢来町。「彼岸過ぎまで」に雨の日に客に会わない松本という人物の家があったところです。寂しく閑静な住宅街として描かれていますが、南の路地に入るとそれらしい名残を感じ取ることができます。宮城道夫記念館のあたりでしょうか。ここからは、神楽坂になります。北に赤城神社、いっ気に下って麓は神田川、その向こうの高台は、椿山荘、音羽。この辺の風景も度々作品に登場します。今の季節を描いている作品として「それから」があります。「蟻が座敷に這いだした時期になった」と冒頭にあります。作品の内容としては、厭世的にさせられる点、あまり影響は受けたくないと思うのですが、気持ちはよくわかります。羨ましいと思わないでもないし、そんな生き方が可能ならしてみたいとも思います。その中で、地震が神楽坂で起きます。客観的に身を置こうとする目で地震を描いています。これも漱石ならではと思ったりします。なぜ漱石を急に思い出したのか私自身分かれませんが。東京の自然を深く愛していたという郷土愛が、作品の中に見られることが私を漱石に魅せられる理由かもしれません。
2004年05月28日
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昨日は、気温が上がって、東北でも今年初めての夏日になりました。緑が一気に濃くなっていきます。しかし、まだまだ油断はできません。我が家では、まだストーブを終わずにいます。濃くなる緑を見て、ふと古里武蔵野を思いだしました。武蔵野は、高木としては欅が主流ですが、雑木林は、クヌギ、椎といったこころが主流です。狐のボタンなど草花は、東北より種類も多く、子どもの頃の記憶ではたくさん咲いていたように想います。川越、所沢より狭山丘陵を越えて、かっての武蔵の国の中心に向けて府中街道が通っていますが、街道沿いの農家は、武蔵野独特の強風を避けるため、北側に欅などを中心にちょっとした林をつくっていました。いわゆる武蔵野の屋敷森です。土が火山灰からなる砂地なので、水分をとどめることなく、風にまいあがるためです。ですから水田ができにくく、陸稲と麦の栽培がよく目にしました。小金井、国分寺あたりにいくと「本多」とか名字のような地名があります。これは、江戸時代不毛のローム層大地、武蔵野を開墾した人のの名前がそのまま字名になったと考えられます。この大地の開墾は、まずすぐに食料になる作物を植えなくてはなりません。シラス台地で試し済みの薩摩の芋を持ってきて、大量に栽培したとされます。川越の芋はこのころから江戸で有名になったのではないかと思うのです。水の確保にも苦労が見られます。かって武蔵野の火事は土で消すといわれるほどです。せめて野火事を止める用水路をと川越城主松平伊豆守(通称、知恵伊豆)野火止用水を作りました。最近武蔵野を訪れることがなくなりました。テレビでたまに撮影される武蔵野を見ると、だいぶ変わったと印象を持ちます。確かにかっての貧しさはなくなったようですが、厳しい自然の中で貧しくも力強く生きる、そんな生活も捨てがたいと思うのです。
2004年05月27日
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来年のNHKの大河ドラマが「義経」と決まって、義経の足跡を訪ねようという計画多いようです。世界谷地温泉にもそんな目的でコースを紹介してほしい、などの問い合わせがボツボツあります。栗駒山の麓に金成(かんなり)というところがあります。国道4号線の宮城県最北の町、ここをすぎると岩手県一関市となるところですが、ここは、義経を鞍馬山から脱出させ平泉に紹介した金売り吉次の古里です。ここにおもしろい話が残されています。金成とは、金持ちそうな地名ですが、その通りで、金の産地として平安の昔は豊かな生活をしていました。平安の昔、公家三条家にあこや姫という美しい娘が居たということです。年頃になったこのあこや姫がある日、京清水寺に我が夫となるべき人物を問うたところ、その夜夢枕に清水様のご本尊がお立ちになり、「陸奥の国、栗原郡(ごおり)金成という村の藤太という男の子(おのこ)を訪ねよ」とのお告げがあったといいます。あこや姫は、僅かな手下を従え、家出をするように京をたったといいます。屋敷から持ち出した砂金で道案内を雇い何とか栗駒山を越えた、あこや姫は、金成を訪ね、藤太という人物を捜しました。京と違って人が少ない里ですからすぐに見つけることができたのですが、高貴な京男の子と違った薄汚い炭焼きをして生活する青年でした。あこや姫は、事情を話し、一緒に住まわしてくれるよう申し出ます。青年は、よく事情がのみこめないようで無愛想に頷いたといいます。高貴なあこや姫は、食からきちんとしようとある日藤太に砂金を渡し買い物を頼みます。砂金を渡された藤太は、沢辺という街道筋の市に出かけます。しかし、市に行く途中沼に大きなカモがいたので、その砂金を投げてカモを捕獲し、満足顔で帰ります。それを聞いたあこや姫は、あまりにも無知に大変怒りますが、藤太は、あんなもの(砂金)は、家の裏手になんぼでもあると、あこや姫に見せます。その後、三人の子供をもうけ、長男が、あの義経を平泉に脱出させた吉次です。あこや姫の口利きで京でも有名な金売りとなっていました。あこや姫と藤太の墓は、4号線から金成温泉とは逆に曲がったところに、ほとんど風化していますが、今でも大切にされています。また付近の田圃からは、純金の鶏など宝物も出土しています。あと詳しくは、旧金成小学校(有形文化財)校舎の郷土資料館を訪ねてみてください。
2004年05月26日
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栗駒山の麓に鶯沢という町があります。町の名の通り鶯が多い町で、あちらこちらから鶯の声が鳴り響きます。元来美しい音色ですので、消して邪魔になることはありません。ほほえましいのは、あの独特の旋律をまだマスターしない若鳥が、一生懸命練習する音色も混じることです。「あともう少し」と応援しながら聞ききります。鶯が多いから鶯沢。いかにも田舎らしい地名の由来のようですが、調べるとかなり古くから呼ばれていた地名のようです。古代、都から陸奥への道順は、逢坂を超え琵琶湖を縦に横切り、賤ヶ岳を越え敦賀に出ます。ここから北に船で日本海を進み、酒田か象潟あたりから東に陸路をとり、栗駒山のなだらかな裾野を越えて陸奥に入ります。深い山道から平坦な里の道にかかる入り口にある鶯沢は、旅人の休憩所であり、この鶯は、目印でもあったようです。かって、前九年の役という大きな戦いがあったとき、この街道の警備のため源頼義、義家親子は、鶯沢に陣を張りました。それに対峙する阿倍貞任らは、その沢を越した北側に計須見(けすみ)山に陣を張り、源親子を苦しめました。その時、源親子のもとに白い鶯が飛んできて、陣を勝利に導いたとされています。地元では、白鶯(はくおう)の神として崇められ、鶯をいっそう大事にしたと言われます。鶯は、雀のように枝から枝に飛ぶ姿を見せることが少ないです。セキレイのように沢を渡る姿を見せることも少ないです。静かな山里にどこからとなく美しい声だけを覗かせるおくゆかしく、神秘的な鳥です。山道を越えてきた旅人が、この沢で一服をとり、鶯の声に包まれた休息の一時を想像しながら、また熟練の声を聞く今日この頃です。
2004年05月25日
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本当に久しぶりの青空です。昨日まで空の色を忘れていたようです。去年は、冷害で、今年も5月には入ってから、気温の低い状態が続き心配されました。田圃の稲は、まだ苗のお兄さんと言った感じ。水田の水面に山の姿を映し出すのほどに、まだちびっ子です。カエルが道に飛び出してきます。蛇も久しぶりと言わんばかりに畦道を悠々と散歩しています。山に目をやれば、中腹にぽつんぽつんと紫色に飾るのは山藤です。自力では立てないので、周りの木にしがみついての生き様です。小高い山の山頂付近に「然えんと欲す」赤は石楠花です。ここ栗駒は、自然の石楠花が見られる最北端とされています。川が落ちる谷を見下ろすと、薄暗い中で鮮やかなオレンジ色っぽい川ツツジ。周りでセキレイが遊び回っています。緩やかな斜面に目をやれば、カサのとってのみを逆さにしてすーっと伸びているのがワラビです。もう捕獲は終わって、来年のためにとってあるものです。少し藪のようなところに目を向ければタラです。山菜の王様なんて言われて、撫養に捕獲されているようですが、今頃は二番芽。まだ採っても大丈夫ですが、三番芽は、採ってはいけません。木が死んでしまいます。これは山菜取りのマナー。陽射しもほどよく。少し汗ばむ感じ。目にまぶしい陽射し。夏の足音が聞こえます。
2004年05月24日
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昨日の日朝交渉の報道を見て、ふと、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を思い出した。はて?、と思う方も多いと思う。しかし、舞台になっているところは、違うけど戦争による心の傷とその後のに及ぶ感情の歪みは、変わらないと思う。「アドルフに告ぐ」は、アドルフ ヒトラーと日本に住むユダヤ人のアドルフ、母を日本人に持つヒトラーに洗脳されたナチス幹部アドルフ3人の物語である。ヒトラーは、敗戦時に亡くなるが、残る2人のアドルフは、舞台をパレスチナに変えて闘い続ける。お互いの正義のために。その正義とは、第二次大戦の大儀である。手塚氏は、この作品を書き上げるためにドイツに何度も取材に赴き、とりわけヒトラーがユダヤ人であるというスキャンダルをかなり細かく調査したと聞いている。かなり力が入っている。だから説得力がある。戦争とは肉体に受ける痛みだけではない。心の痛みこそが、大きい。それは、代を越えて果てしなく影響する。朝鮮半島の問題は、1国の支配者だけでなく、多数の国の支配が朝鮮に住む人の心を傷つけてきた。まず最初に日本が、植民地政策をとり、徹底した朝鮮に対して差別意識を日本人に行った。強制労働や強制連行、従軍慰安婦の問題。次に米ソによる世界戦略にかき回される。南は、アメリカの軍事植民地、北はスターリンによる社会主義の押しつけ。それが、今日まで朝鮮半島の政治を支配している。拉致問題もそのような政治背景の基で起きた事件である。北朝鮮の核問題も同じだ。だから単純にはいかない。ソ連は、政治体制が崩壊したが、100年近くこの国を振り回してきた日本やアメリカは、この深く傷ついた国民を癒してあげる責任がある。今回の訪朝で、拉致被害者はかなり厳しい評価をされていたが、また愛する家族を思えばもっともだと思うし、私も何か出来ることがあれば協力したいと思うが、日本やアメリカに戦争がもたらした心の傷を癒す方策がなければ解決はしない。特にアメリカにそのことが分かって欲しいと思う。
2004年05月23日
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いよいよ今日、小泉首相も北朝鮮に行かれるとのことで、拉致問題の解決に期待したいところですが、最近、韓国についても関心が高まり、ブームになっているとまで言われます。きっかけは、「冬のソナタ」。主演の男優さんにあるようですが、確かに、さわやかで好感がもてます。しかし、古代より私達日本人は、長い歴史の中で朝鮮半島に対しては、攻撃的で且つ、差別的な扱いをしてきました。国際的に孤立する北朝鮮という国家と指導者を生み出したきっかけも私達日本人にあります。日本が伊藤博文ら誤った政治家によって、不当な大日本憲法をつくり、朝鮮半島を植民地支配をしなければ、朝鮮半島を分断することはなかったでしょう。今となって振り返ると明らかに日本の行動は、間違っていたと分かるのですが、当時の日本人には気が付かなかったことなのでしょうか。朝鮮半島の人の中には、日本の本質的なことだから分からない、という人もいますが、それは違います。教育が遅れていたために洗脳が容易に出来たことにあると私は考えています。明治以前、日本には児童文学が十分育っていませんでした。子どもに良い本をという考えがなかったのです。あったとしても、昔話を聞かされるぐらいではないかとおもうのです。しかしヨーロッパには、子育て文化がマザーグースを中心に発達していました。印刷技術がまだ一般化していませんから、絵本などは、各家庭の手作りで、読み聞かせなども盛んに行われていました。ですから、文化に飢えた日本の子ども達は、軍国国家が作りあげた軍国洗脳文化を何の抵抗もなく、むしろ歓迎するように受け入れられたのではないかと思います。それが昭和20年の敗戦まで続くのです。しかし、明治後期から大正期に鈴木三重吉らによる「赤い鳥」という子ども達に良い文化をという良識をもった運動も開始されます。また、宮沢賢治らによる優れた児童文学が生まれてきます。その後「綴り方」運動という所謂作文ですが、良識ある先生から広げられていきます。しかしその多くは、戦争推進者によって弾圧されていきます。戦争を好む当時の支配者は、良識が敵であったのです。今はよくなった、なんて安心できません。今も憲法を変えて戦争をしやすくすることを考えている人が沢山います。私は、戦前の朝鮮半島を不当にも支配した間違った国にしないために、子ども達に良い文化を与えてあげたいと思います。未来を正しく判断できる子ども達に。
2004年05月22日
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絵本の絵は動きません。そこが、DVDやビデオと大きく違うところです。逆な言い方をすると、DVDやビデオは、誰が見ても同じ動きをしますが、絵本の絵は見る人の想像力で動かします。ですから子どもは、絵本から色々な発想をします。そして豊かな想像力を生み出し、知的な欲望を生み出し、様々なものに興味を持つようになります。特に、心の痛みや、可哀相に思う感情、嬉しいという感情、ほっとする感情など様々な感情は、誰が見ても同じで、迫力優先で、しかも結論を押しつけるDVDやビデオと違って、最も近しい親の声で読み聞かされて絵から想像しながら、けして押しつけでなく悟るように育てる心の教育こそ今忘れられていると思えます。0歳から絵本を読み聞かされている子は、4歳位になるとある程度作家の名前を知っています。ばばのぼるの本だよ、なんて生意気なことをいう子もいます。そのくらいになると、小学生で読ませる「さっちゃんの魔法の手」や「からすたろう」などを読んで聞かせると涙を零し、様々な感想も述べられます。また遊んでいても擬声語がとても豊で独創的です。しかし読み聞かせの習慣がない子は、小学生になっても落ち着いて本が読むことが出来ません。そんな子に「あなたは小学生だからこの本をよみなさい」と渡されても、その子は、興味がわきませんから、押しつけになって本が嫌いになります。昨日も宇都宮で奇妙で且つ、人騒がせな事件がありました。事件の真相はわかりませんが、印象としては、幼稚の一言です。想像力の欠如した身勝手な行動としか思われません。また、学校でのいじめは、子ども達同士のことでなく、教師、親も加わって問題になります。これも相手のの心の痛みを考えない身勝手な感情が原因になっていることが多いです。特に教師が親が子どもに対して憎しみの感情を抱くという心の貧しさには、驚きです。勝手なことを書き並べましたが、最近よく感じることです。
2004年05月21日
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昨日、松谷みよ子さんの話題で日記に書き込みをおこないましたので、ちょっと表記の件について述べてみたくなりました。子どもに本を与えるとは、躾の問題ということですが、最近の子どもは、本を読まない、理数系離れが激しいとか、学力低下とか社会問題化してしています。そして学校教育に標的がよく当てられています。やはり問題の根本は、大人達の本離れに原因があるように思っています。児童文学とは、小学生高学年になって与えるもの。それまでは、なんでも子どもが喜ぶ本を与えましょう。なんてもっとのらしいことを言う人がいます。しかし、読書習慣がない子にいきなり児童文学書を与えても読みません。読める子というのは、幼児期より親から良書と言われる本に親しんできた子なのです。子どもに勝手に好きな本を与えるとは、子どもに好きな食べ物だけを与えるというのに等しいと考えています。食材と同じように、子どもには本もまた、選ぶ能力がないのです。おかずを買うのに、好きな物を子どもに選ばせる親はいないでしょう。やはりお母さんが、栄養のバランスなどを考えて選びます。しかし、本屋さんでは、「どれがいいの。早く選びなさい。そのアンパンのね。」なんていう光景を目にします。子どもには、親以上に激しい心の発達があります。やはり、その子の成長にあった心の栄養のバランスのとれた本を与える必要があります。本は字を覚える教材ぐらいに考えているお母さんがいます。幼児期は、なるべく本を読んであげることだと思います。所謂「よみきかせ」です。子どもを膝の上に抱いて、子どもも親のぬくもりを感じながら、思いっきり甘えて本を読んであげる。子どもは、想像力が豊ですから、本の作者の意向とは違うことを言います。そんなとき、お母さんは、けして「いいから黙ってみてなさい」とは言わず同じように想像の世界で遊びましょう。このことが数十年後の親子のよい思い出になるのだと思います。本の魅力を知ること。このことが幼児期になかなか為されない光景をよく目にします。英語の教材には一生懸命ですが…。私は、0歳から読みきかせはできるとおもっています。そこで昨日話題になりました松谷みよ子さんです。代表作「いないいないばぁ」は、生後6ヶ月の子でも集中します。(明日に続けます)
2004年05月20日
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お話をまた地元に戻したいと思います。世界谷地温泉は、ここのところ登山客などが増えてきました。山里なのでろくなもてなしはできないと来たお客さんに吹聴するのですが、ところがどうして皆さんご満足顔でお帰りになるのが、とても嬉しいです。お客さんに誉められるベスト1は、お米。地元の私達にとって何時も食べるお米でも、お客様には格別らしいのです。「このお米は、買えないのですか」と決まって聞かれます。農家と契約でもしてるのか、とも。ここは田舎ですから、米ごときに何故契約か、と逆に疑問を持つのです。懇意の農家を教えてあげて「1俵(30k)玄米で1万円ぐらいですよ」と教えます。これは、普通の私達の買い方です。次に、魚が新鮮なことに喜ばれます。今季節柄、鰹の刺身が定番ですが、初めて鰹の刺身を食べたという大阪のお客さんがいらっしゃいました。食い倒れの街といわれる大阪からお出でになって、と首を傾げる。季節は過ぎつつあるのですが、イカの刺身を出したとき、なんで味付けをしたのですかと聞かれたときは驚いた。刺身だから味付けはありません。甘い、甘いと食べてくれます。ここ地元の魚屋さんは毎朝、気仙沼、志津川の市場から仕入れるのが当たり前ですので、確かに魚は新鮮です。そして、やはり山菜。バッケ(蕗の薹)は流石に終わりましたが、これからは、ワラビです。灰で灰汁抜きした鮮やかな黄緑のワラビをお出しします。あともう少しで終わりになるココミ。里蕗が丁度季節ですので、その日にとれた分をお客様にお出しします。これから秋まで、時期、時期の山菜やキノコを味わっていただけるので楽しみです。
2004年05月19日
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新鮮組のゆかりの寺、日野の高幡不動から西へ北野街道を突き当たりまで行くと高尾山があります。高尾山は、日本の南方植物と北方植物が混在する所として貴重な植物の宝庫であることはとても有名な話です。ところで、圏央道建設で高尾山にトンネルを掘る話はどうなったのでしょうか。これは、この山を愛する多くの人にとって許し難いことであるし、目先の便利さと利害に目がくらむ「大馬鹿野郎」の計画として、心から憤りを感じます。信仰の山として、心のよりどころにされた山は、その草木まで千年以上も大切にされた結果今が在るわけですから。ところで高尾山の北向に高尾山よりやや低い山が向かい合っています。この山こそ、八王子の地名の起こりとなった城山です。伝説ですと、菩薩様が現れて八人の王子を下し、関東の平安を祈ったとされ、山頂近くに八王子神社が祀られています。そして、この地を八王子と名乗るようになったのは、戦国時代。小田原北条一族の北条氏照が領したころからです。多摩川を見下ろす滝山城に拠点を置いていた氏照は、武田信玄に何度か脅かされ、信玄から「滝は落ちるもの」と言われたことを機にこの八王子神社を囲むようにこの城山に城を築き、拠点を移し、地名も八王子と変えたことに始まります。現在もこの城山近くは、元八王子と呼ばれ、江戸時代に整備された現在の八王子市街とは、区別されます。この元八王子からさらに北に低い山を越して行くと恩方地区、古い甲州道である陣馬(人馬)街道にでます。ここは、童謡「夕焼け小やけ」の作詞者の中村雨紅の古里であり、童謡「夕焼け小やけ」が誕生したところとして有名です。実は、昨日急きょ、用事ができ、八王子に出かけたので、思い出して今日の日記にしました。
2004年05月18日
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昨日、何気なくテレビをつけたら「新撰組」の再放送をしていました。ここ数年テレビに無関心で、大河ドラマも小中学校の頃ほど熱心に見れなくなっています。ただ、近藤や土方、沖田らは、私と同郷の武蔵野の出身なので、つい日記の話題に出したくなりました。武蔵野と言うっても、国木田独歩に言わせると、八王子や日野は、武蔵野ではないというのですから、私が少年時代飛び回った、久留米、小金井、小平、東村山や田無、保谷(西東京)とは違うのでしょう。確かに、久留米などは田んぼはありませんが、日野や八王子に出ると田んぼが見られます。そのような違いは、様々思い出せるのですが、方言は、同じだったように思います。今は使う人も少なくなりましたが、古くから住む農家の方の間ではだいぶ使われていました。そうすると、沖田や近藤、土方も多摩弁をしゃべっていたと思われます。気持ち悪いことを「うざったい」、押すことを「おっぺす」、蹴ることを「けっぽる」そして基本的に語尾に「だんべ」をつける「だんべ」言葉。「そうだんべ」「あにいうだんべ」(何を言うのか)という具合だと思います。私には懐かしいお国言葉ということでしょうが、地方から東京に来た人には信じられないことのようです。しかし、まだ話せる人がいるうちに記録に残しておきたいものです。
2004年05月16日
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日記も地元に話題を返そうと思います。栗駒山もいよいよ明日登山開きとなります。雪はまだ多いですが、程良いといったところ。これから、徐々に解けて、様々な高山植物が顔を出していきます。栗駒山は、昔から信仰の山として地元では崇められてきました。麓では雪解けの状態を見ては、田植えを始め、残雪の形から占ったりしたようです。また、豊富な山菜と金、銀、鉛、亜鉛といった鉱物などを産し、人々に恵み、富をもたらす山として大切にされてきました。その山の登山開きですから、地元では、本格的な春を告げる一大イベントなのです。栗駒山は、一方で古くからの交通要所でもあり、多くの物や文化を運ぶ道でもありました。古代は、中央から陸奥へは、日本海を利用し船を使い、日本海岸から山を越えて陸奥に入るのが一般的だったようです。その証拠に栗駒山の麓に文字(もんじ)という集落がありますが、ここは古い文献には、「門地」という字があてられ、陸奥の門の地という意味だと伝えられています。ですから前九年の役を始め、古代の戦は、この地に集中し、ここで都からの援助を絶つという作戦が多く取られたのでしょう。栗駒山の頂上から、阿倍貞任が源頼義、義家親子を不意打ちにした「鬼切り部の戦い」などは有名なはなしです。江戸時代も各所に伊達藩による番所が建てられ、秋田越え街道として整備されましたが、その古道が今も残っています。車社会の今日ですが、タイムスリップしてゆっくりと古道を登山をかねて散策するのもよいかもしれません。その古道沿いに「銀明水」という美味しい湧き水があります。歩き疲れた渇いた喉を潤すのは最高の一時です。
2004年05月15日
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昨日の続きになりますが、太刀魚捲きの宇和町をさらに南にいくと、我が仙台の伊達の分家、伊予伊達藩の城下町宇和島に行くところを行かずに山の中に入ります。所謂四国カルストの方に進路をとります。ありきたりの海(それなりに美しいですが)より私は、四国の山が大変珍しく思っていました。私は、山がない関東で育ち、比較的なだらかな山が多い東北に住んでいます。海から僅かな距離で、かなりの標高のでそびえる四国の急斜面の山は、また違った美しさあります。山間の野村町から山合いを高知の県境に進みます。この野村町は、相撲が盛んなところで、「玉春日」の出身地ときいたことがあります。ここからの山間の道こそ、坂本龍馬脱藩の道として有名な道です。藩に決別し、志のために決意新たに通った道なのです。沿道の坂本の志に同調する多くの人が脱藩を助けたと聞きます。急斜面の山、そして深い谷、本当に山が深いという感じです。しかし、この深い山の比較的高いところにポツン、ポツンと集落があります。屋島、壇ノ浦の戦から逃れた所謂、平家を先祖にもつ集落です。地元の人に聞いてみると、下の谷からは、けして集落は見えないが、集落からは、下の谷を見下ろすことが出来るそうです。確かにその通りです。谷からだと、誰も住んでいないただの山に見えますが、夜になると山の上に沢山の電気がともるのです。東北で武芸を鍛えた義経の追ってには、このからくりに気が付く者がいなかっただろうと想像したりします。いよいよ平野部に入ると高知市が近づきます。地元の人の方言が愛媛とは全く違ってきます。四国の不思議は、四国全体の面積が、岩手県よりやや広いぐらいの狭い島で、四つの県が違った方言を持っていることです。険しい山が、人々を遮断してそれぞれに独自の文化を育てたためなのでしょうか。高知と言えば鰹です。鰹を食べなくてはと思い、ある漁師の料理屋さんの暖簾を潜って、色々お話を聞いてみると意外なことを教えて貰いました。お店のご主人が「何故宮城から来て高知の鰹を食べるのか」というのです。つまり、鰹漁師は、多いがとれた鰹は、宮城気仙沼に水揚げするから、本当に美味しい鰹は宮城にあるというのです。確かに、宮城県は、全国一の鰹水揚げ高でした。宮城では、タタキ(土佐づくり)にせず、必ず生の刺身にして食べます。お店のご主人が言うのに「鰹は、たたいたらいかんキ、生が一番じゃケ、しかしコーチン(高知)はたたかんと、くえんというこちゃ」この話は、以外でした。でもご主人がなんと言おうが、宮城より、高知の鰹のたたきが美味しいと思って食べてきました。
2004年05月14日
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東北も温泉が多いところですが、四国愛媛も温泉が多いところで驚いたことをある人の日記で思い出しました。何しろ、「伊予」は湯の国が語源だというのは有名な話です。しかも、松山の道後だけではなく、松山市内でもあちらこちらに温泉があって、安いのです。北条市から松山に入ると「堀江」というところがあってそこに権現(ごんげ)温泉、またそこから数キロ松山市内に向かうとまた一軒、そして道後と東道後、そうそう星ヶ丘という温泉もありました。さらに砥部にもあったかななどと思い出していると、南予の肱川沿い、や宇和の沿岸から野村の内陸にかけてもあったかなと思い出してみます。私は、旅行でしか訪れたことはないのですが、私は自分の足で価値を見出していく主義ですので、訪れると結構細かく廻ります。とりわけ気に入った所は、とことん廻ります。松山はだいぶ気にいた町のひとつです。今の時期みかんの花が咲いて、特に北条市との境目の山々は、良い香りが漂っている頃でしょう。伊予柑の産地だったと思います。松山から予讃線で南に、内子に廻らずに長浜方面の海沿いに路線をとります。現在、鉄道と海岸の間にきれいな道路が出来ていると思いますが、以前は、その道がなかったので、最も海に近い鉄道とか駅とかで有名でした。少し停車時間が長いときは、列車から降りてすぐに海岸に出れて発車を待つというのんびりした光景も眺められました。男はつらいよの寅さんのロケ地としても印象にのっこっています。さらに、南にいくと宇和、明浜、三瓶といった美味しい蜜柑の産地。マアナ(字をわすれました)蜜柑は特に美味しく、さらに太刀魚を串にまき蒲焼きにした太刀魚巻は、絶品の旨さだったと思い出されます。思い出される旅情は、次から次ぎへと思い出され際限がありません。今日はこの辺にしては、明日は、高知にしましょう。
2004年05月13日
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浩宮さんについては、年代も近いし、彼のキャンパス生活のことなども彼と同じ大学の友人からよく聞かされていたりしていました。当時も今もそうですが、特定の家族が象徴という根拠がない特別な地位で拘束する不合理に疑問を持っていました。また本人達もきっと不合理に感じているだろうと思っていましたし、また彼もそのような感じを持っているのではないかと思われる所もかいみられているようでした。一昨日、彼が記者会見で述べた内容は、やっぱりそうかと感慨深く聞きました。敗戦後の昭和天皇による「人間宣言」以来の歴史的発現とでも言いましょうか、しかし一人の人間として当たり前の発言でもあるのかもしれません。そこには、男として、夫としての妻への思いやりと優しさが溢れています。皇室という現代社会とはなじまない非人間的な組織への批判とその中で出来る限り妻を守りたいという叫びが私は、冷静に頷きながら聞き入りました。
2004年05月12日
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昨日、私のビジネスむき出しの日記になりましたが、今日も失礼してその路線でもう少し書かせていただきます。先日のことで、すでに出来た本は、納品したのですが、近所の方で嫁ぐ娘に親からのプレゼントとして親子の思い出を本にして贈りたいというご依頼がありました。原稿は、妊娠中のお母さんの写真、母子手帳、育児日記、娘さんが初めて書いた落書き、や字、お父さんの絵、小学生になってからの作文など、盛りだくさんです。ご依頼してきたのはお母さんでしたが、その編集は、お父さん。しかし、その編集がなかなか私どもに届きません。お母さんのお話によると古い写真を見つめては、なかなか進まないとのこと。しかしどうにか編集されて原稿も揃って大急ぎで作成して納品すると、それを見つめるお父さんは、うっすらと涙をにじませています。お母さんは、サバサバして笑顔満面の満足顔です。「遠いところに嫁に行くわけでもないのに」と父親をからかっています。しかし、父親にとっての娘に対する思いとは、特別なものがある気持は分かるような気がします。
2004年05月11日
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知的な財産などしっかりと後生に纏めて伝える方法として本にするという方法があります。本にするとは、普通お金もかかり、労力もかかるということで、一部の人のことと思われてきました。そこで誰でもが、安価でなるべく簡単に本にすることができるようにしたのが「ぴったんこ」の自費出版システムです。これまで、安価な本づくりといえば、製本が簡単だったり、モノクロであったりするものですが、その辺をこだわり、上製本仕上げにしてオルーカラーにしたのです。現在とりかかる仕事の中に、長年造船工場で働いていた方の画集を製作していますが、職場で職場を描いたので、メモ帳にスケッチしたものや伝票のようなものにスケッチしたものや、うっかりすると捨ててしまうような紙に力強く造船所の様子が描かれています。一服する仲間の似顔絵、朝の静かな職場の光景、仕事を終え、家路に急いだり、飲みに行くかとでも語らい合うような様々な仲間の様子、共に働いていた方々にすると、さぞ懐かしい思いをするだろうと思われる作品ばかりです。スケッチブックなどに描かれたものはほとんどありません。身の回りの紙でインスプレーションで描いたものです。ですから写真より強烈です。紙も傷んで難しい仕事ですが、精魂込めて制作しようと思っています。
2004年05月10日
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私のページに訪れる人は、つまらないことばかりよく書くと言うかもしれません。せっかく訪れたのに申し訳ないと思いますが、どうか私の思いのままに書くことをお許し下さい。ところで古代東北は、蝦夷(えみし)と言われ、中央政権から軽蔑されていました。一方蝦夷は、中央政権からの支配を嫌い、多くの抵抗の戦いの歴史があります。中央政権では、蝦夷は、鬼の住むところとして、蝦夷を追討する軍に「鬼退治」とハッパをかけたと言われます。ただ面白いのは、当時の蝦夷の人たちは、自分たちが鬼と呼ばれることを受け入れて、今でも鬼を奉ったり、鬼が様々な困難を救うという民話が数多くのっこています。しかし、中央政権も何故、遠くて寒い蝦夷を大軍まで入れて支配しようとしたのでしょう。教科書にも出てきますが、奈良の大仏を建立したとき、金がなくて金箔が貼れないと騒ぎになったとき、献上されたのが、蝦夷の金でした。蝦夷には、金をはじめ豊富な資源があったのでしょう。確かに金鉱の跡は多いし、「金成」「砂金川」など金に纏わる地名が多いのでもよく分かります。
2004年05月09日
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木の芽がやっと出てきたと思ったら、あっという間に一面黄緑色に輝く木々たち。命の力に驚く今日この頃です。東北は、落葉樹が多く、冬は雪が降りますので、季節によって全く景色が違うというのが、魅力のひとつだと思っています。以前、国の政策で、この落葉樹、とりわけブナを切り倒して経済性かある杉に植え替えたことがありました。しかし経済性どころか、山に貧困をもたらせ全くの失政に終わっています。その罰当たりか、今杉花粉に悩まされています。落葉樹を残せばそのようなことがなかったのにと思います。栗駒山は、僻地のためか、国の政策に逆らったのか、一部に杉林が傷跡のように残っていますが、ブナ林が多く残っています。これが、ワラビ、今盛りのたらの芽、コゴミ、ゼンマイなどの山菜を恵んでくれます。山の豊かさは、山に任せて人が手を加えるべきではないということでしょうか。
2004年05月08日
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昨日の日記で、つい歴史の話題がでたついでと言うってはなんですが、奥州上街道についてもう少し語ります。歴史はさかのぼり、源頼朝の時代、奥州平泉を討つべく北上した頼朝軍が通ったのもこの奥州上街道です。千本松(山の尾根道に長い自然の松並木があります)で有名な真山(岩出山町)で敵の情報収集を行い、ここから津久毛橋の戦いに臨み、一気に平泉に押し入りました。しかし平泉に入った頼朝が見たものは、ものけのからになった静かな平泉と鎌倉の足下にも及ばない、高い文化に満ちた平泉の町並みでした。頼朝はかなり嫉妬したと言われます。ところで時は前後しますが、津久毛橋の古戦場(金成町)のすぐ近くに栗原寺(りつげんじ)というお寺があります。ここは、義経が初めて金売り吉次に連れられて平泉に来たとき、目の前の平泉に入る前に身支度を整えたり、頼朝に追われる身になった時、奥州藤原三代秀衡が義経を迎えた寺として有名です。かなり大きなお寺だったそうですが、頼朝に破壊されて当時の形、規模は不明のままです。
2004年05月07日
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栗駒山も観光のお客さんも去って登山道も静まり返りました。山を下りて里に出ると今は田植えの準備が真っ盛りです。麓の里には、古い街道「奥州上街道」が所々江戸時代のまま残されています。国から「ふるさとの道」に指定され手厚く保護されているためです。かって、松尾芭蕉が、平泉からまた南に踵をかえして羽前(山形)大石田に向かった道がこの道です。平泉から一関、現在の県境を越えて岩ヶ崎(栗駒町)袋(鶯沢町)真坂(一迫町)そして岩出山で一宿取ります。その途中、衣掛の松(芭蕉が汗に濡れた着物を松にかけて休んだ所)などいくつかの逸話も残されています。この古道をゆっくりと散策すると、山とは、違った新緑の美しさを、里ならではの楽しみがあります。
2004年05月06日
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ゴールデンウィークも最終日になりました。天気は、回復しましたが、気温はかなり低いです。おかげさまで、訪れたお客様は、ロケーションがいいとのことでご満足の様子です。ありがとうございます。関東方面のお客様は、渋滞を回避するとのことで、夕方近くにお帰りになる方、夜の新幹線で帰るというお客様、様々です。ところで「栗駒」という地名についてが話題になりましたのでちょっと触れますと、栗駒の雪がこれから解けていくわけですが、その解けて残った雪の形が「馬」に似ていることから「馬姿山」と古くは言われていたそうです。これが、馬の信仰となって山頂の上社と麓の下社に駒形根神社というのがあります。そして訪れる人は、駒ヶ岳と呼んだそうですが、全国に駒ヶ岳という山が沢山あることから区別するために、ここの地名「栗原」から「栗駒」という名が付いたと言われます。しかし、秋田側に行くと「大日山」、これは秋田側から見ると太陽が昇る山ということのようで、お日様の信仰があったようです。
2004年05月05日
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昨日午後から天気が怪しくなってきました。ここ高原では、天気が崩れ始めると深い霧に包まれます。霧というより雲でしょうか。「雲に包まれる」この方が趣がありますね。登山の途中こんな状況に遭遇すると大変ですが、ここは、宿屋ですから心配はありません。白い水蒸気が一面ブナ林を白乳色にします。林を覗くと、どこまでも続く、どこか空想の世界へ誘うような感じを与えます。あちらこちらから小鳥の声がします。とりわけ鶯の声が大きく聞こえます。静けさそのものです。
2004年05月04日
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世界谷地湿原では、今ミズバショウが盛りです。湿原に施された木道から、雪解け水が流れる中にのぞかせるミズバショウは、可憐です。周りは、一足遅い、山桜が丁度満開。ブナの新芽もやっと出始めたところ。日当たりが悪い山際に残る雪の間からは、遅めの蕗の薹がまだ見かけられるぐらいですから。ブナの新芽は、世界谷地湿原に向かう道路際、特に標高が低いところでは、鮮やかな黄緑を見せています。山の春は、まだ冬を引きずっていますが、確実に夏に向かっているようです。
2004年05月03日
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栗駒山はコニーデ型休火山で、標高1623mです。世界谷地湿原は、その山腹の標高700m位に広がる湿原です。そもそも世界谷地の「世界」とは、信仰の山らしく、仏教用語の広いに由来します。谷地(やじ)は文字通り谷地(たにち)で、古来より陸奥と出羽の通り道で、比較的通りやすい場所であったと言われています。世界谷地湿原の誕生は、古いところで約1万6千年前までさかのぼり、栗駒山の火山灰が水をせき止め、その上にさらに火山灰が降り積もったものだと言われます。湿原の周りはブナ林に囲まれ、さらに保水性を確保しています。
2004年05月02日
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一時は冬眠から醒めたので、日記再開と宣言したのですが、その後、本業の出版の傍ら、温泉再開の準備に追われ、楽天を開くことさえありませんでした。今度こそ日記のタイトルも変えて再開します。(ほんとかな)ほんとです。 ところで、栗駒山というってもご存じの方は少ないと思います。東北の丁度真ん中、秋田県と岩手県そして私の住む宮城県にまたがる標高1600mあまりの休火山です。付近は、温泉が沢山あるのですが、近場で有名と言えば、鳴子温泉。電気がないランプの湯として有名な湯浜温泉、噴湯の小安峡というところでしょうが、私の世界谷地温泉は、数ある付近の露天風呂の中で栗駒山の山容が見渡せる唯一の温泉なんです。もちろん天然温泉です。予約は従来のホームページからできます。ちなみにアドは、http://www.pittanko.net.yazi.htm ですまずは、のぞいてみて下さい。
2004年05月01日
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冬眠からの目覚めが悪いようで、日記もまだまださぼりがちです。ところで神社の鳥居は、そもそものおこりは、神からの使者である鳥をお迎えするためにあると何かで聞いたことがあります。しかしどうでしょう。誰が罰当たりのことにしたのでしょうか。その鳥に恐ろしいウイルスがあるというのです。普通ではないことが起こりつつあるような予感がします。
2004年03月04日
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暫くぶりとなりました。東北の冬は暖冬だとはいえ、やはり寒いです。ここのところ少し暖かくなりましたので、全く身勝手ですが、日記を再開します。冬眠している間、自衛隊はイラクに行くわ、オウムの麻原の判決はあるわでなかなかあわただしいようです。また騒がしい世の中をのぞきながらつれずれなるままに日記にしていきたいと思います。
2004年02月25日
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たまには画像を送ってみようと思いつきました。以前の日記で白鳥を話題にしましたが、そのころの画像です。また、最近ですが飼っている犬のお話をしたかと思いますが、まだ、子犬の時代ですがその画像です。一緒に写っている電車ですが、日本一料金が高いと言われる存続が危ぶまれる地元の私鉄「くりでん」こと栗原田園鉄道です。
2003年12月19日
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昨日は、風が強い一日でした。鳴子方面で用を足した後、仙台市内に向かう道々、車を運転するには雪がない分、楽であること実感するのですが、冬らしさがないと寂しいものです。鳴子のスキー場もまだ雪がありません。不景気の上にこの状態では、観光関係も大変だろうと思います。温泉も豊富な湯をお客のいない湯場にコンコンと流し込むだけ。鳴子の湯は乳白色の本物の硫黄泉でしかも「かけ流し」なのに、勿体無いことです。「一泊2食付き3000円にしてもお客がこない」と嘆いていた旅館店主の顔を思い出します。今は、いい温泉、安い料金だけではお客がこない厳しい現実があります。季節感がはっきりしているというこれまでの東北の魅力まで異常気象取り上げられて寂しい年末を迎えつつあります。
2003年12月18日
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数ヶ月前より、発明を得意とする地元企業や特許を持つ企業、そして住民有志での共同で風力発電機の開発をしようという話しが持ち上がりました。ここで言う風力発電機とは、よく海辺などで見かける大きな物ではなく、家庭用でしかも価格は30万円以内という普及品のことです。それがいよいよ試作品が完成して来年早々には公開できるめどがついたとのことでプロジェクトを実行組織に切り替えようと私に事務局の大役が廻ってきました。この発電機の特徴は、プロペラで風を受けない方式で場所も畳半分ぐらいしかとらないということ。さらに地元S社の特許である回転増幅装置を使用することで1kw以上の発電が可能であることで、商品化すれば世界一の能力を持った小型風力発電機と言うことになります。すでに関西の病院や地域ぐるみで設置を検討しているなどの問い合わせもあり、今後が楽しみになって来ています。
2003年12月17日
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もう1年になるだろうか。あるお宅に行ったら子犬が沢山生まれて困ったということだだった。半分は父親犬の飼い主が引き取ったとのことだが、残りは貰い手がない。しかたがないからどうせ雑種だし保健所に処理してもらおうという話であった。それは可哀相だと、私は全部引き取って飼い主探しをしたが、どうしても1匹だけ貰い手がなく、私が飼う羽目になった。というよりその犬が私に飼うようにとし向けているようでもあった。貰い手候補が見に来ても其奴だけぐったりして不健康なふりをしたり、目を合わせないようにしたりする。私一人にだけは、愛想も良いしお茶目な振る舞いもする。この犬、買い始めてからも不思議な振る舞いをする。きわめて犬らしくない。私もたいした躾もせず飼い主らしくないのだが、まず、絶対に家の中に入らず、自分の身分をわきまえたような振る舞いをする。私の気分を読みとろうとする。私が機嫌いい時は、少しイタズラをしても大丈夫だと心得、機嫌悪いとおとなしく目が触れないようにする。最近は、お腹をすかした狸に餌を分けて身の上話を聞くようなそぶりをする。この奇妙な犬と私は、これから何年つき合うかわからないが、なんか良きパートナーになる雰囲気である。
2003年12月16日
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何かと忙しくなりました。バタバタと動き廻っていますが、どこかで一息入れないとなんか進んでいないようでまた不安になって、また動き出します。思い切ってどこかで休憩を入れて行動を整理しなくてはなりません。そんな訳で、楽天の日記も危うく抜けるところでしたが、このように書き込んでいます。ところで最近、東京からこちらに移り住んだ方がいました。ここは、自然とか環境とかは抜群ですが、生活を維持するには大変な所です。退職してあと隠居暮らしという人と違って、まだまだ働かなくてはならない我々には、かなりの能力を求められます。振り返ると東京にいたときより、こちらで仕事をはじめた方が自分自身成長したような気がしています。東京には逃げ道もありましたが、人口が少ないこの狭い田舎では、ごまかしがききません。息抜きとして夜半にそんな雑談をしてきました。
2003年12月15日
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小さな町に住んでいるので、結構大役もまわるのです。今回は町の広報の新年号特集の座談会に出席しろとのことで、町長含め私以外町民2名のつごう4名の座談会に出席しました。 新春ですから、題目は「未来または将来について」みたいなことになるのですが、その中で若者についての話題提供もありました。そんな話題提供をするぐらいなら、この中に若者も入れればいいのにと腹の中で思ったのですが、懇談の内容からはずれていきそうなので黙ったのですが、私はふと、「若者たち」という歌を思い出しました。これは、若き田中国衛さんの名演で知られる映画のテーマ曲ですが、かく言う私もその映画の封切り当時はまだ理解し得ない小僧でしたが、その当時の「若者たち」と今の「若者たち」と少し比較するような回路で私の頭が回りはじめました。 そういえば町長さんもその当時の「若者たち」ではなかったかと思い、言葉を投げかけると、大きく頷きながら安保闘争のことや無邪気なぐらい世の中の動きに敏感に反応する仲間達のことを語りながら、最後に「来年から施行される国立大学の独立法人化など、よく無抵抗で認めるなと不思議に思う。私達の頃は、おそらく大騒ぎになるだろうね」と結んだ。そういえばと私は、自分の高校生だったことを思いだし「今の高校生は、制服から髪型から、訳のわからない必要以上の規則によく従ってますね」と発言すると、元教員という人が、「学校は、生徒指導に自信を無くしているんですよ。生徒の行動にビクビクしています。ですから実際に暴力はなくても暴力じみた強制力で生徒を押しつけたいのかもしれませんが、それがかえって生徒のストレスになって犯罪の増大のような不自然な学校教育になるのでしょう」それを聞いた婦人会の代表の方が「生徒もよりよい学校生活を望んでいると思うのです。しかも高校生と言えば、子どものようでも大人として社会に入れる年頃でもあるのだから、学校は生徒の希望や学ぶ環境、規則や服装に至るまで対等に生徒と対峙して話し合える寛大さが必要ですね。生徒にとっても学校と自分たちの要求について話し合うという訓練は社会人として必要な教育の一つだと思います。」 なるほどと頷く一同は、結論的に若者を論ずる前に、果たして自分たちは若者とどのように接しているのか。目に余るとされる若者の行動は、私達大人の行動の写しであって、大人がしっかり襟を正すべきだという結論になりました。
2003年12月14日
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挿し絵とは、私のような本の制作者にとっては、空白を埋める道具であったり、読者の想像力を補強するものであったり、イメージを醸しだしたり、様々な役割を果たします。ですから通常のカットを依頼するよりも本の主題からはずれない作風を持つ人に依頼しないとかなりチグハグになったりします。この間、本の依頼をしてきた方が、挿し絵は、「いわさきちひろ」風にと言われました。勿論「いわさきちひろ」の絵はそのまま載せられません。しかし依頼された本のテーマが親子愛と平和といったものなので確かに「いわさきちひろ」だな、と思ったのですが、果たしてそれほどの書き手はと迷っているところです。それは、それとして「いわさきちひろ」といえば、松谷みよ子さんと組んで童心社をはじめとする出版社から絵本も出されていますが、大人が読むには、大変ほのぼのとしてよい作品だと思うのですが、子どもにはどうだろうと疑問を感じます。しかし子どもに与える物を親の判断で白黒つけるのもよくないとは思うのですが…そこで今回のことで気がついたのですが、「いわさきちひろ」はやはり挿し絵向きなのかもしれない。こんな事をいうと「いわさきちひろ」に失礼だとお怒りになるファンの方もいるかもしれませんが本にとっての挿し絵の重要な役割で悩む現在の私にとってそう思うのです。そして、この方の画家として裁量に改めて敬意を表ざるを得ない気持にもなるのです。
2003年12月12日
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雪が静かに降る光景が毎日見られるようになりました。ここは、いわゆる豪雪地帯とは違って、太平洋側になりますから日本海側の雪が風に乗って余ったやつがチラチラときます。ですから晴れていても降ります。近所の農家では、正月のしめなわ作で大忙しです。雪がチラチラくる中納屋でご家族でしめなわ作りをする光景は、この地域の当に年末の風物詩です。国道、県道では、地吹雪よけの防雪壁をたてる工事が大忙しです。これもこの地域の当に年末の風物詩です。今年もあと二十日。
2003年12月10日
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昨日日記を書いた後、そうそうあれがあったと思い出したのでまた絵本についてちょっと書いてみました。読み聞かせる絵本の魅力は、読み手の親と子どもが肌を触れ合い、お互いにぬくもりを感じながら共に感動するという、当に心を育て、親子の思い出づくりには最適ですが、そんな親子の会話の話題提供に最適なのは、「からすたろう」です。残念ながら今手元にないので作者と出版社は忘れてしまいましたが、ただ絵はおせいじにも綺麗とは言えないです。ですから書店で見かけてもあまり手に取られることもないだろうと思われる装丁です。しかし中身は違います。人を思いやり、認めあるとはどのようなことか、短い文章ながら如実に描かれています。主人公のちびは、クラスの子ども達のなかで一番僻地の山の中から毎日学校に通ってきます。あまり勉強もしません。クラスでも目立つことはありません。しかし一番長い通学時間を持つちびは、学校でだれもできない「あること」ができます。さてそれは、そしてどのようにその「あること」が見出されるのでしょう。それは読んでのお楽しみ。
2003年12月09日
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絵本を子どもに読み聞かせる。子どもは、絵本のストーリーからはずれて様々な想像を働かせてまた新たなお話を作る。一緒にテレビを見るのとは違った創造(想像)の世界でのふれあいを味わうことができます。私が個人的に好きなのは、「わたしのワンピース」(こぐま社)空から降りてきた白い布で作ったワンピースがお花畑に来るとお花の色に、雨が降ると水玉模様にと変化する。そして変化することにワンピースを着ているウサギさんが「わたしにあうかしら」と繰り返すのは、どの子に読み聞かせても喜びます。けして新刊ではなく、かなり前からある本ですが、何回呼んでも飽きることはありません。絵本の魅力に少しつかってみようかしらん。
2003年12月08日
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昨日は初雪が降りました。雪とは8ヶ月ぶりの再会です。東京では雪が降ると大きな事件が起こるなどと言う人がいました。確かに2.26事件や赤穂浪士の討ち入りも雪でしたがそんなこともないでしょう。東北ではそんな迷信じみたことは言うってられません。これから毎日のように雪が降ります。 そんな雪の中を日頃親しくしている近所の年輩の紳士が訪ねてきました。あまりにも突然だったので「どうしたんですか」なんて失礼な言葉で迎えた私でした。紳士は「忙しかったですか。なら出直そうか」と笑顔で帰る仕種をするだけで、全く帰る気がないのがありありと見えます。私も「まあどうぞ」と招き入れる言葉かけると、紳士は「たまには雑談でもと思って。いいでしょう?」と言いながらズカズカ中に入ってきます。 紳士の雑談はこの地域で抱えているカドミニウム汚染の件でした。私の住む地域は、以前鉛鉱山があった関係でかなりカドミニウムによる汚染が進んでいるいますが、これは地域のタブーになっています。農家が風評被害が恐れているからです。しかし出荷検査は他の地域より厳しく行われているのでむしろ安心なのですが、紳士が言うのは、これではいけないというのです。住民がカドミニウム汚染と正面から向き合い汚染除去の運動と研究を公然とやらないかという誘いなのです。私は別に承諾したわけではないのですが、紳士は承諾したものと早合点をして満足顔で話は、これまた地域の重要問題の町村合併問題、社会保障の切り下げの問題、そしてイラク問題と際限なく続きます。そして結論的には、合併問題にしろイラク問題にしろ、庶民の気持ちが政治に届かないような施策を政府はやっているように思うと言うのです。それには私も大きく頷き、ある政治家が「庶民は政治の素人だから庶民の声を受け入れたら混乱する」と発言したことも同時に思い出しました。しかし私は、「ITの発達によって政治に庶民の声を届ける手段が増えたのだから、大いに活用していけば、庶民の声で政治を動かすことも可能でしょう」と応えてみました。紳士は、多少物足りなさそうでしたが、紳士のその時の気持はわかる様な気がします。先の選挙で2大政党制が叫ばれましたが、政権の交代が可能になるだけで庶民の声が届いたとは思いません。国民の声は2種類ではありませんし、むりやり2つのうちどちらか選べと言う方が民主主義にとってどうかと思うのです。イラクにしても国民の大多数が派兵に反対なのにその声は一向に反映されそうもありません。むしろ政府はその声を敵視しているようにも見えます。政府は、国民よりもアメリカが大事なのでしょうか。
2003年12月07日
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