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米誌「ナショナル・ジオグラフィック」が社員記者を全員解雇したという報道に驚いた。1888年9月22日に学術雑誌として創刊された。世界中に読者を持つ。本拠はワシントンDC。現在のオーナーはディズニーである。同誌は今後も継続して刊行され、記事の質は落ちないと同社広報の弁である。・・・愛読者が懸念するのは、長年記事を執筆してきた社員が全て入れ替わって、果たして科学的なまともな記事が掲載できるかどうかということだろう。 私は「ナショナル・ジオグラフィック」誌によって初めて知った事柄が少なくない。 メキシコやユカタン半島で発見される巨大な丸石についての記事は、ちょうど私が卵形象徴についの研究過程で日本の丸石信仰についても研究が進展し、海外の丸石の存在に視野を広げるきっかけとなったのが「ナショナル・ジオグラフィック」誌の記事だった。現在も資料ファイルに保存してある(下に画像掲載)。 また、ロサンゼルスに実在する「サイモン・ローディアの塔(通称ワッツ・タワー)」についても、私は早くから「ナショナル・ジオグラフィック」誌の記事とカラー写真で知っていた。のちに私はアウトサイダー・アートを研究するようになり、ワッツ・タワーを驚異の建築の事例とした。アンドレ・ブルトンが発見して世間に知らしめたフランスの郵便配達夫シュバルの驚異の城に匹敵するものである。 これらの記事が掲載されたのは1960年代半ば頃だったので、当時は英語版しかなかった。新刊は銀座のイエナ書店(2016年閉店)や日本橋の丸善で買ったり立ち読みし、神保町の古書店でバックナンバーを探したものだ。 最近では「ナショナル・ジオグラフィック」はインターネットで動画を発信している。それはそれで興味深い映像に出会うけれど、私が自分の研究資料に保存しておこうと思うと、やはり文字に書かれたものに如くはない。その記事を誰が書いたかが明確だからだ。 同社広報担当者の弁明どおり、科学雑誌として確かな記事を期待しよう。【下は私の資料ファイルにある1967年の"National Geographic"より】
Jun 29, 2023
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大谷翔平選手の27号・28号連続ホームランに驚きつつ一句 驚喜する打球の音や氷菓子 青穹(山田維史) 【追記】米アナハイム現地時間27日、エンゼルス対ホワイトソックス戦、大谷選手は2番・投手兼指名打者で先発。1回に27号ソロ・HR、7回に28号ソロ・HR。登板試合で2本のホームランは初めて。投手としては6 1/3、4安打1失点、10奪三振。7勝3敗、試合はA4-W2。
Jun 28, 2023
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玄関脇の一隅にアガパンサスと二人静を植えている。もう花の時期は過ぎてしまった。二人静はその名に似合わないたくましさで、2年前に植えたときはほっそりとして小さかったのだが、今や株も増え、葉も大きく、なんだかふてぶてしいほどだ。これぞ白拍子静の芯の強さが現れたのかもしれない。 ところでアガパンサスと二人静の勢いに気圧されもせず、小さなカタバミ(酢漿草)が一輪の可憐な花を咲かせていた。カタバミはいわゆる雑草である。我が小庭は雑草大歓迎で、むしろ雑草しかない。園芸店で売られている花は一つもない。カタバミもいつの間にか片隅に居どころを見つけたようだ。元来が丈10cmほどの三つ葉の植物。その三つ葉の中央からすっくと細い茎が伸び、最初は豆の花のような花からすぐに五弁の花となる。鄙に稀なる美少女、という感じがする。 和名の漢字表記が示すとおり、口に含むと酸っぱい。昔はこの葉を集めて鏡を磨いたという。その知恵を思うと、どうしてそれに気づいたのだろうと不思議になる。植物の葉は種々あるが、その膨大な種類の中から、鏡の曇りを磨くにはカタバミがよいと、・・・つまり文化の発祥に興味がわく。 かたばみや合わせ鏡の古女房 青穹(山田維史)
Jun 27, 2023
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ロシアの民間軍事会社ワグネルによるクーデターに、西側世界は不意を衝かれた感じで急遽連携して外相会議をおこなったようだった。ワグネルの部隊はモスクワまでおよそ200 kmの地に進軍した。様々な憶測が飛び交う中、しかし、ワグネルを率いるプリゴジン氏はモスクワへの進軍を停止し、ベラルーシに向かうと発表。世界をざわつかせたクーデターは短時間で終息した。ロシア国防省は、反乱に加わらなかったワグネル戦闘員(反乱に加わった兵士も含むという報道もある)との、新たな契約に署名したと発表した。 いったいこの「騒動」は、何であったのか? プリゴジン氏の直接の動機はなかなか解明できないらしいが、ただ西側世界が知り得たのは、クレムリン(ロシア政権)もロシア正規軍も「弱体化」しているということだろう。 民間軍事会社の目的は、平和の維持ではあるまい。ロシア政府との契約で国家利益の防御という大義はあろうが、会社組織の利益追及が戦争にあることは言うを待たない。もし反乱行動を遂行したとして、それは民間軍事会社として資金の出所を失うことになる(なりかねない)。プリゴジン氏の反乱をロシア大統領はプリゴジン氏の「私利私欲」と指摘し、チェチェン首長も同じく「私利私欲」の取引に失敗した結果の暴発、と言っている。一方で、プリゴジン氏はウクライナ侵攻前線におけるワグネル部隊に対するロシア国防省の「裏切り/欺瞞」を指摘する。前線に武器弾薬を供給せず、膨大な戦闘員が死ぬのを見捨てた、と。軍事会社組織の継続のためには、戦線でいかに戦果をあげているか自己宣伝する必要があろう。いや、そのような自己宣伝は民間軍事会社に限ったことではない。いかなる軍隊も、敗戦は語らない。常に戦果を誇張して宣伝するものである。 さて、このたびのワグネルの反乱に勝敗をつけるとすれば、私はやはりロシア国防省の勝ちだと言おう。とすれば、ワグネルが存続してゆくためには、正規軍に組織化されるか、少なくとも従属組織にならざるを得ないのではあるまいか。おそらく今までどおり国防省と正規軍に対して鼻息荒く息巻いてはいられないのではなかろうか。ただ、プリゴジン氏のワグネルがベラルーシに向かったということは、ワグネル部隊が温存することを意味するのだろうか? もしワグネルがそのまま温存されるとなると、この「反乱」そのものがプーチン氏とプリゴジン氏とによる戦略的政治的な謀略ではないか、という疑念が出てくるかもしれない。対外的にはマイナスのイメージをあえて引き受け、しかしながら国内的には2024年の次期大統領選挙を控えてプラス・イメージとなるという、弱体化しつつある政治権力の思い切った起死回生策である。反乱後のブリゴジン氏の処遇について、プーチン氏はベラルーシ大統領に仲介を頼んだという報道がある。しかもプリゴジン氏を処罰しないという。・・・クーデターの首謀者に対していかなる処罰もしないというのは、国内流血を回避するためというのがプーチン氏の言い分のようだが、通常では考えられないことだ。 プーチン氏は権力維持のために何としてでもウクライナを占領しなければならない。占領しないまでも、自らのこれまでの主張に分があるような戦争の終わり方をしなければなるまい。戦争に勝利するためにはウクライナ戦線で戦果をあげてきた民間軍事組織ワグネルの(使い捨てできる)戦闘員が必要なのだ。 プーチン氏とプリゴジン氏とは出身地を同じくし、精神的・心理的に共通するところがあるというのが大方の認識である。手を結びやすいが、それだけに反発・離反も激しい。プーチン氏としては、このままプリゴジン氏を置いておけば、爆弾を抱えているようなものだ、という思いはあるだろう。平静であるはずはない。ワグネルの戦闘員は新たに国防省と契約を結んだ。ワグネルは解体したのだろうか? プルゴジンはベラルーシに向かった。プリゴジン氏はワグネルを失ったのだろうか? プーチン氏の盟友プリゴジン氏が創設したワグネルは戦闘員に受刑者を含む。ワグネルはプーチン氏の私兵とまで言われた。しかしプーチン氏は権力闘争に立ち上がったプリゴジン氏を切り離すだろう。そしてワグネルは解体するにしろ戦闘員は国防省支配下に組み込まれて兵員数確保のため何らかの形で温存されるだろうと、私は情報分析する。ベラルーシに出国したというプリゴジン氏のその後の所在についての情報が無い。これが何を意味しているか。(ベラルーシに到着していないという情報がある。4/26) 西側世界は新たな視点で注視するだろう。 また日本としてもNK國との関わりで、ロシアの現政権の動向はまったく見過ごしにできない問題である。
Jun 25, 2023
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ロシアが内戦状態のようだ。共にウクライナ侵攻を進めてきた、ロシア国軍(正規軍)とロシアの民間軍事会社ワグネルとの関係が、険悪化している。ロシア国防省がワグネルに対して正規軍の傘下に入る契約をするように命令した。ウクライナ侵攻戦争においてワグネルの存在が大きくなり、正規軍がコントロールできなくなってきている。そのため正規軍の傘下に組み込めば国法でコントロールが可能になる。そのような意図があっての契約命令と推測できる。この命令をワグネルは拒否した。そのため国軍がワグネルのキャンプを攻撃した(これについては両軍の言い分は異なる)。戦闘員に大勢の死者が出たワグネルは国軍(ロシア政府)に対する反撃を宣言した。クーデターと言ってよいだろう。大統領は急遽、ワグネルの武力反撃を裏切りの犯罪として厳罰に処す、と演説した。ロシア連邦保安局は反乱容疑でワグネルを捜査開始した。ワグネルはモスクワを目指しているという情報がある。
Jun 24, 2023
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深海3800mに眠るタイタニック号残骸を見るツアーの潜水艇は、深海圧力に耐えられず圧壊(水圧で潰されて破壊)し、操縦士一人と乗客4人は傷ましい死を遂げたとみられている。タイタニックの舳先からおよそ490m離れた海底で潜水艇のコーン状の後部(米沿岸警備隊スポークスマンの英語ではそのように言っていた)の残骸が発見された(日本の新聞報道では破片の一部と書いている)。また潜水艇と母船との連絡が途絶えたほぼ同時刻に、米海軍が圧壊音を検知してい、捜索チームに連絡していたという。ツアー運営会社も乗員5人への弔意を発表した。 1997年に映画『タイタニック』を制作したジェームズ・キャメロン監督は、タイタニック号沈没事故とこのツアー潜水艇タイタンの事故との共通点を次のように指摘している。 タイタニック号は航海中の前方に氷山があると何度も警告されていたにも関わらず、船長は月明かりのない暗い海を全速力で氷原に突っ込んで行った。 (一方、タイタニック残骸見学ツアーの)認証されていない潜水艇に関する警告は聞き入れられなかった(*)。(CNNに拠る)(*運営会社の従業員が潜水艇は深海4,000mの水圧に耐えられないことを会社に警告していた。この従業員は解雇された。) この二つの傷ましい事故は、所も同じ場所で起こった。そしてなんという因縁であろうか、潜水艇の操縦士の妻ウェンディー・ラッシュさんは、タイタニック号沈没で亡くなった老夫妻の子孫(玄孫)であるという。老夫妻は当時の米国小売業界の名士で米百貨店「メイシーズ」の共同オーナーのイジドー & アイダ・ストラウス夫妻。キャメロン監督『タイタニック』で、救命ボートに乗らずにベッドで抱き合って死を選んだ老夫妻のモデルなのだそうだ。英国公文書館のタイタニック関係文書によれば、実際のストラウス夫妻は、救命ボートに乗るように促されたが老人が乗るより若い人が乗った方が良いと言った。夫妻はデッキで手を固く握りあっていた姿が目撃されていた。・・・この老夫妻の玄孫(ひ孫さんの娘)が、タイタニック残骸見学ツアー潜水艇タイタンの操縦士の妻だという。 ところで私は、キャメロン監督の上述の指摘・・・タイタニック号と潜水艇との警告無視の結果の事故という共通点に、もう一件、知床半島沖観光船の沈没事故も全く同じ警告無視だったと付け加える。 2022年4月23日に起こったこの事故は、乗客乗員26名が亡くなった。そして現在もなお6名の御遺体は行方不明である。操舵していた亡くなった豊田船長は、事故のおよそ一ヶ月前に友人に当てたメッセージに、「ブラック企業で右往左往」と書いていたという。無理な出航命令や過酷な労働、さらに船の修理を頼んでも無視された、と。 これらの事件に現れているのは、経営者/指揮官あるいは自称他称の指導者の「傲慢」であり、誤った自信により「聞く耳を持たない」ことだろう。こういう人格は、破局がおとずれるまで突き進む傾向にある。その例は、上記三者に限らず、歴史にも、現代の我々の社会に、そして世界中に、擧げるにことかかない。 このたびの潜水艇事故は、限定的な傷ましい事故ではなく、広く大きな社会に共通な問題を例示していると、私は思ったのである。
Jun 23, 2023
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まだ梅雨は明けないらしい。朝方ポツリポツリの小雨が降ったり止んだりしていたが、いま19時前になって降りかたに勢いがついてきた。 夕刊を取りに行くと、郵便受けに数通の手紙や葉書が入っていた。新聞は新聞で、郵便は郵便でまとめて、それぞれプラスティック袋に入れてある。雨に濡れないようにという親切な気遣いである。この気遣いは今日に限ったことではない。雨や雪が予想されている日はいつものことである。 私はこのような仕事をする人(会社)が大好きだ。職業人は、それがどんな仕事であれ、こういうさらりとした、しかしながら行き届いた神経がなくては、ね。新聞を配達してくれた人、郵便を配達してくれた人の、自分の責務に対する静かなプライドを、私は感じる。「ありがとう」 ところで、もう10日ほども前になるが、山桜の熟れた実をたくさんもらった。いわゆるサクランボである。ブルーベリーに見紛う色あいだけれど、ブルーベリーよりずっと小粒だ。 私は一粒口に含んで見た。苦い。・・・それはそうだろう、改良に改良を重ねたサクランボではない。一粒数千円もする「宝石」のようなサクランボではない。・・・到来の山桜のサクランボは、野育ち、山育ちで、地面にバラバラ落ちた実を拾い集めたものだ。 さて、レジ袋に入れた山桜の実を、食べてくれと私にくれたのでもなさそうだったが、私は何か工夫して食べてみようと思った。よく熟れているので優しく丁寧に洗い、鍋に移し、やや多めの砂糖とたっぷりの水を加えて火にかけた。焦げ付かない程度まで煮詰め、途中で清酒を加えた。 冷めたところで一粒食べてみた。野趣があって捨てがたい味だが、いかんせん苦い。それにほとんどが種である。濾すにしてもうまくいきそうになかった。私はそのまま放っておいた。別に考えがあって放っておいたわけではない。 3日ほど経ってから鍋をみると、とろりとしてジャムと飴の中間のような具合になっていた。再びスプーンで掬って口に入れてみた。「美味い!」 美味いのだ。やや苦みはあるが、嫌な苦みではない。むしろ味に深さがある。相変わらず種ばかりの感は免れないが、口の中でしばらく噛んでから種を吐き出す。まあ、上品な食べ方ではないが、味は上等だ。・・・はははは、口の中は濃い紫になった。 一人で笑いながら、3万年前の旧石器人、1万数千年前の縄文人が、野生の木の実を食べていたであろうことを想像した。食えることを発見して以後、長い長い年月をかけて改良を重ねてきたのであろうことを想像した。・・・文化を。
Jun 22, 2023
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去る4月、和歌山市の選挙応援会場で岸田首相に向かって爆発物を投げて逮捕され送検された木村隆二容疑者が、この事件より先に、公職選挙法において立候補に年齢制限を設けているのは違憲だとして国に対して10万円の賠償を求めた訴訟で、木村隆二の敗訴が決定した。 賠償額10万円という数字をどのような根拠で算出したか私はわからない。木村が経済的実損害があったわけでは無いので(民事訴訟なので金銭的実損害の有無が裁判の焦点になる)、考えようによっては金額が問題であったのではなく、違憲か否かの裁判となることを予想して、この訴訟がマスコミによって広く報道されるであろうことを企図したのかもしれない。 しかしながら、木村隆二は参議院選挙時に立候補申請したところ、立候補年齢に達していなかったこと並びに選挙供託金の資力がなかったという事実があった。衆・参議院議員立候補の現行の供託金は、選挙区選出の場合は300万円、比例区選出は600万円である。木村の事実は、私のみるところでは、必ずしも一般化・普遍化できないかもしれず、立候補年齢制限ならびに供託金制度が違憲か否かを争う法廷にはならない可能性があった。そうであれば、裁判は既存の法律に基づいて判断されるので、木村隆二のこの訴訟は(私は)はじめから敗訴が予想できた。これについて私はすでに4月18日のこのブログ日記で指摘した。 敗訴の判決に対して木村は上告しなかったそうだ。つまるところ、木村隆二にとってこの訴訟は自らの一身を賭したものではなかったのであろう。 ・・・首相襲撃事件で鑑定留置中であるが、良いにしろ悪いにしろ、私には輪郭線が描けない24歳の男の人格である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先日、50年ぶりに会った漫画家の小澤一雄氏からお葉書を頂戴した。また会える機会があれば嬉しい。 それにしても、20代とはすっかり面変わりした老人顔の私を、よくぞすぐにお分かりになったと、少しびっくりしましたよ。
Jun 21, 2023
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これは何故? と考え込んでしまった。小庭の鉢植えのガクアジサイのことである。いわば裏側になる一本の枝からふた枝に別れてそれぞれに花が咲いていた。しかし元枝は倒れているのではないが横這い状態だ。花の枝も下の方で日陰になっていた。そこで私は横ばいの元枝ごとまっすぐに立て、花のついた枝に支えをつけた。これで他の枝花にまじって日に当たるだろうと思った。 半日ほど経って、ふとその枝を立てたアジサイをみると、花も葉も萎れきっていた。「うん?」どうしてだろう。同じ株の他の枝の花も葉も生き生きしている。水もたっぷり与えている。しかし、私が良かれと思って立てた枝の花も葉もまったく無惨な状態だ。 理由が解らない。 私はしばらく理由を探って想像をめぐらした。 横這いに成長した枝は、無理やり立たせられたことによって体内揚水システムの能力不足のため水を吸い上げることができないのではあるまいか? ・・・これは仮説である。同じ株から出た枝であっても、生育の状態(あるいは状況)によって植物本能に能力差がある。・・・この私の仮説は本当だろうか? 今のところ私にエビデンスは無い。
Jun 20, 2023
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平岩弓枝氏が去る9日に亡くなられた。享年91。 平岩弓枝氏を追悼いたします。 平岩氏の代表作の「御宿かわせみ」シリーズは、私の亡母の愛読書だった。亡母は寝たきりの在宅医療に入る前までの十数年間、片目の視力を失い、励んでいた書道もできなくなり(真っ直ぐに書けずどんどん曲がってしまうのだった。亡母の書はこのブログ左フリーページ下方「山田芝恵書道展」に)、しかし見える片目で読書に励むようになった。正座した膝に本を広げ、屈み込むように背を曲げて三日に一冊の割合で読んでいた。本の買出しは私がした。新刊本ばかりでは私の出費もかさむので、ブックオフのような新本古書店でまとめ買いをしたりした。一作家の著書を棚にあるだけ買うので、察した書店が欠本を補って仕入れてくれていたようだった。その中に平岩弓枝氏の「御宿かわせみ」シリーズがあった。平岩氏の逝去を知って、亡母生前の読書する姿を思い出した。
Jun 19, 2023
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さすがに疲れた。夕食をすませてから、ぐったりしている。DIYをやっていた。DIYじゃないな、Do it myaselfだ。7時間を越す仕事。傷んだ床板の一部分を自分ではりかえたのだ。材料は昨日までに調達しておいた。昔からなんでも自分でやってしまう質(たち)だが、またぞろ「ほな、わいがやってやる。まかしとき!」と、後期高齢者の爺ちゃんのヤマイが出た。7時間もかかるとは予測していなかったが、まあ、できました。うまいもんだっせ。あとはP-タイルを敷き込むだけ。それはまた別の日だ。
Jun 18, 2023
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ある企画の考えがまとまらず、途方にくれる。気持を切り替えようと動画をたてつづけに2本見た。これがたいへん面白かった。 一つは、元宇宙飛行士クリス・ハドフィールド(Chris Hadfield)氏が、宇宙を題材にした映画を見ながら科学的な批評をする。 宇宙物理学とご自分の宇宙滞在体験を基にして、映画で描かれていることが正しいのか、それとも噴飯ものなのかを具体的に指摘している。フィクションといえど、科学的に正しくなければ成立しない世界があるということだ。しかしながら、ハドフィールド氏の映画評が優れているのは、作品を貶しているのではない。地球とはまったく異なる宇宙物理学を丁寧に説明し、また、一人の宇宙飛行士が十数年間訓練を受けて、それが人間的にどのような成長をもたらし、なぜその結果が宇宙で必要であるかを教えている。 ハドフィールド氏が科学的に正しく、優れていると指摘した映画は、『2001年 宇宙の旅(2001 A Space Odyssey)』と『アポロ13号(Applo 13)』。 『2001年 宇宙の旅』は、1968年公開当時に人間を乗せた宇宙船で起こることを的確に予見してイメージ化していること。また、映画『アポロ13』における飛行士とNASAとの緊急通信の語法(話方)は、後にNASAにおいてそれを採用して実際に使用するようになったという。 クリス・ハドフィールド氏が最後に語る言葉は本当にすばらしい。「人間は理解し、解釈する。だから人間はすばらしい」と。「解釈」は「応用」へ導く論理の主体的未来性を示唆する概念である。これは人間だけに備わった能力である。 元宇宙飛行士が観る宇宙映画 二つめは、ユタ大学およびユタ自然史博物館の古生物学者マーク・ローウェン(Mark Loewen)氏が観る恐竜映画について。『ジュラシック・パーク』や子供向けアニーメーションなど、たくさんの恐竜映画がある。現代によみがえった恐竜、あるいは現代まで秘境に生きつづけた恐竜、あるいはまた恐竜と人類が共存していたとする1億年近い時代の物語。もちろん全作品がフィクションであるが、そこに登場するいろいろな種類の恐竜について(恐竜デザイン)について、現代最先端の化石学・古生物学の見地から批評する。恐竜の視覚について、牙・歯について、筋力について、体表について、体表の色彩について、テリトリーについて・・・等々。 現在『恐竜博2023』が開催されている。東京展は間もなく終了する(上野・国立科学博物館 6月18日まで)。このあと大坂展が始まる(大坂市立自然史博物館 7月7日〜9月24日)。恐竜博士の映画評を参考にして博物館に足をはこぶのも面白いかもしれない。 恐竜博士と観る恐竜映画
Jun 14, 2023
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紫陽花や東都は雨に打たれけり 青穹(山田維史) 梅雨空を眺めて鳴くや雨蛙 雨蛙まばたきをして払う梅雨 釘折れの夏書(げがき)に花の雫かな ため息や予報たがわぬ梅雨の空
Jun 11, 2023
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大型ホッチキスが壊れた。長年使っていたので寿命が尽きたのだろう。しばらくあれこれ工具で修理をこころみたが、修理復不可能と判断した。午後3時になるところだったが、急遽、買いに出ることにした。どうせならと、雨つづきの天候も晴となり明日から再び雨になりそうなので、運動も兼ねて例によって自転車で遠出することにした。 老若男女やたらに往来がはげしいので、何事かと思えば、「あじさい祭り」の看板が出ていた。なるほどこれかと、私もちょっと気になったが、看板を横目で見ながら通りすぎた。 我家の小庭の紫陽花もいまを盛りと咲いている。我家の紫陽花は或る植物園から苗を購入したもので、大切にしてはいるが、到来後もう数年になるのに開花ははかばかしくなかった。それがどうしたことか、今年は白いカシワバアジサイも紫のガクアジサイも見事に咲いた。 カシワバアジサイは穂状花、つまり藤の花のような形で上を向いている・・・と言いたいが、重いのでどうしても頭をかしげてしまう。ひとつの穂状花の大きさは、そうだなー、ティッシュペイパーの箱くらい。それが現在、一株に十個咲いている。 ガクアジサイは、その名のとおり、小さな粒状の蕾のような花が密集し、その周囲を大きないわば普通の花が額縁のように囲んでいる。この大きな花は、じつは花ではなく咢片である。ガクアジサイはアジサイの原種である。さすがに植物園由来・・・と、私は楽しんでいるのだ。ガクアジサイは水を好むので、無精者の私がちょっと油断すると、しょぼんとしてしまう。あやまりながら水をたっぷりやると、すぐに元気をとりもどす。私にとっては梅雨時の雨降りは、ガクアジサイにあやまらずにすんでいるのである。 遠出はしたけれど、目的の大型ホッチキスを買うと、きょうは本屋にも寄らず脇目もふらず帰って来た。まだ未読の本が積んである。
Jun 10, 2023
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日本にやってきた観光客は、その多くが訪問地で経験した親切や優しさを語る。 すべての日本人が親切で優しいわけではない。現に私は、電車の中で日本人の乗客からヘイトスピーチ攻撃されている欧米系の女性を救い、さらに別の日にアジア系の女性を救ったことがある。特定の個人を標的にしていなくても、人種的偏見をぬぐいきれない日本人が集団を形成してヘイト・スピーチを繰り返しているのは、まったく稀ではない。彼らに正統な理があるわけではないのは、たとえば、コロナウィルス禍により海外からの観光客がゼロにちかいほど激減した途端に、地域経済は壊滅状態になった。理知のない人種主義のヘイト言行などしている場合ではないことを気付かなければならないのだ。 しかしながら、そのような日本の恥を晒している、井の中の蛙のような日本人が、愚かに跳梁跋扈しているにもかかわらず、日本人の無償の親切心と優しさはたしかに世界の多くの人々の意識にかたちづくられてきた。 「世界市民」として互いに手をとりあってゆく・・・「困ったときは相見互い」「あすは我身」、そんな世知を日本人は文化として育んできた。・・・はずであった。けれどもたったいま国会で成立した『入国管理難民法(改正案)』は、せっかく市民レベルで世界にアピールしてきた「外国人に対する日本人の親切と優しさ」を、完全にくつがえしてしまった。 私はいかなる政党にも組しないし、その意味ではまったく政治的人間ではない。それでも、この法案の審議過程においては、「この改正法が成立すれば難民申請者が強制送還され、投獄、拷問、虐殺されることになり、この改正法は人の命を奪う法律になるであろう」という主旨の、立憲党と共産党の反対主張は正しいと思った。他国におけることではあるが、強制送還された難民が屠殺場に送られた動物のように虐殺された事例を,私も聞いているからだ。戦争難民、政治難民、経済難民等、各人事情は違うであろうが、自国がそのような国であるからこそ難民として命からがら脱出したはずだ。しかも日本を頼ってたどりつくのは、陸つづきの周辺国へ逃れるのとは異なりその道程に一層の困難さがあるだろう。しかしながら両党の主張は、最終的には、渋々だかあっさりだか知らぬが、頽れてしまった。どうやら彼らの主張は本気で日本の「世界市民」たることの法的アピールではなく、党利党略による反対のための反対であったらしい。 この『入国管理難民法』は、国内法ではあるが、世界各国の人を相手にしているので、じつはきわめて重要な法律のひとつであるがずだ。さらでだに入国管理施設における被収容者の死亡事件はあとをたたない。人権侵害もとおりこして、まるで不作為殺人と言いたくなるような悲惨な事件がおこっている。事件がおこるたびに「今後このようなことがないようにする」とか何とか言うが、被収容者をはじめから人と思わないかのような対応をしているということは、入国管理官や諸々の関係職員の人格に深く根ざした傲慢があるからではないか。入管「常勤」の医者が勤務中に酒に酔って女性収容者を診察したなどは、呆れたではすまされない。このような勤務状態が常体化していたのではないか。そしてとりもなおさず我が立法府(国会・衆参議員)の堕落であろう。そのような人物を選出した我々日本人の堕落であろう。 私は、『入国管理難民法改正法』は、改悪されただけでなく、人種差別思想と棄民思想が潜在する人間的に堕落した法律であると思う。
Jun 9, 2023
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仏文学者・美術評論家の栗田勇氏が去る5日に亡くなられた。享年93。 私にとって懐かしいお名前を聞くことになった。ロートレアモン全集の個人全訳をされた仏蘭西文学者としての栗田勇氏だった。そのロートレアモン全集を私の書棚から出し、画像を掲載して御冥福を祈ります。 ああ、この本を読んだのは52年前、私は26歳だったのか・・・と、思いながら。人文書院 1968年5月15日 初版刊行 1971年6月15日 重版刊行(上掲画像) 装丁 粟津潔上掲『ロートレアモン全集』付録一枚の雁皮紙に片面印刷して六折り(上)右の絵はダリによるロートレアモン19歳の肖像(下)左はロートレアモン自筆手紙 右の絵はフェリックス・ヴァロットンによる ロートレアモンことイシドール・デュカス肖像・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ フランソワー・ジロー氏が6月6日、ニューヨークで亡くなった。享年101。 !943年にピカソと出会い、モデルとなり、また愛人として10年間共に暮らし2人の子どもをもうけた。ピカソの女性遍歴において、ただひとりピカソを振り切って(捨てて)強く生き、ニューヨークに移り住んで自分自身の美術創作に打ち込んだ。1964年にピカソとの共に暮らした日々と別れを詳細に書いて出版した。『ピカソとの日々』(カールトン・レイク共著。翻訳;野中邦子。白水社刊)。 フランソワー・ジロー氏を追悼します。
Jun 9, 2023
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きのう書いた日記、映画『牛若丸』をめぐる私の解釈は、じつは3日の日記をアップロードしてから後記として付け足した。その付加は3920字になった。書き終わったところでアップロードのタブをクリックした。なんと、その途端に書き足した3920字の文章が完全に消失しまったのである。どんな操作をしても復元が不可能だった。 私は落胆すると同時に、カッと頭に血がのぼった。血圧があがったのが分かった。危ないと思ったので血圧を測定してみた。165mm/hg だった。私としては随分高い数値である。・・・落ち着くのをしばらくまってベッドに入った。 翌朝4日、朝の習慣にしている血圧測定をした。上が119mm/hg、下が70mm/hg。通常どおりに戻っていた。 さて、消えてしまった文章が惜しくなった。6日、すなわち昨日、消えた文章がまだそっくり記憶されていた。たぶん、ほぼ一言半句間違わずに復元できるだろうと思った。少々の違いはあっても、論理とその構成が復元できれば、もちろんそれでよい。 そうしてタイピングして書き上げたのが、昨日のブログ日記『美空ひばり映画「牛若丸」をめぐってひとつの解釈』である。アップロードしてから読み直してみて、さらに少し書き足した。 ・・・ハハハハ、市の福祉課から、もう後期高齢者なのだから認知症予防のために、検査を受けたらどうか、という案内が来ていた。 「どうする?」と自問して、「心配してくれるのはありがたいが、3920字を二日後までそっくり記憶してい、再現できるのだから、検査はみあわせてもいいんじゃないかい」と自答した。
Jun 7, 2023
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芸術作品はそれを観る人、読む人、聴く人によってそれぞれの解釈がある。作者の意図しないような解釈も出るであろうし、作者の意図をよろしく超える解釈が出ることもあるだろう。それらさまざまな解釈に対して、多くの作者は反論しない。それが芸術作品の本来的な宿命だからである。しかしながら、芸術作品の隠れた「謎」解きのような昨今の流行をどう考えたらよいだろう。そもそも作者だけが知り得る秘密を、「謎」として作品に潜在させることがあり得るだろうか。作者は常に何事なりとも意図して、不特定多数の観客(読者、聴衆)に伝えるために思考と技術の限りを尽くしている。それが「表現」ということだ。観客に伝わらない「謎」を作品に潜在させたとして、それに何の意味があるだろう。表現しない表現者など、自己撞着以外ではないだろう。作者の表現を見て取ることは、その観客の感覚や知に関わることなので、見てはいても何も見えない人もいるのではあるが・・・ さて、以上は前置きである。 1952年9月17日に初公開された松竹映画、美空ひばり主演『牛若丸』を先日70年ぶりに再観して、子どもの私が思いもしなかった一つの解釈が成り立つかもしれないことに気がついた。果たしてそのことが、映画制作者の意図したことだったかどうかは判らない。 製作・杉山茂樹、企画・福島通人、脚本・八住利雄、監督・大曾根辰夫。 企画者の福島通人は横浜国際劇場の支配人だったが、美空ひばりの才能を認めてマネージャーになった。美空ひばり映画のほとんどが福島通人の企画である。美空ひばり出演映画は全160本以上あるが、『牛若丸』以前にすでに31本の作品がある。(Wikipediaによる) 数多い ”ひばり映画” のなかで、『牛若丸』はほとんど話題にされなかったかもしれない。その理由がわからないでもない。 ”ひばり映画” の特徴は、ひとことで言えば、明るい華やかさである。大衆の嗜好を知り尽くして、恋あり歌あり、じめっとしないほどに涙あり、何より活力にあふれ、娯楽に徹している。しかしながら、『牛若丸』はいささか暗い。物語はフィクションであるが、史実に寄りかかっているので美空ひばり流の華やいだ娯楽に徹していない。それだけに、特異な作品と言えよう。 美空ひばりは牛若丸と桔梗という名の少女と、二役演じている。桔梗はフィクショナルな創造であるが、美空ひばりに二役演じさせる企画は、観客の反応を知っている企画製作力である。このフィクションの創造で映画が生きた。歴史書ないしは古典文学に依拠した映画において、一種の思想的対立を映画制作者がフィクショナルな人物を造形して制作者の立場を伝えるドラマ作法は、日本映画ではかなり珍しいかもしれない。 ちなみにご存知歌舞伎『勧進帳』は、義経と武蔵坊弁慶の安宅の関における物語である。この『勧進帳』と、同材の能『安宅』とを下敷きにして、黒澤明は1945年(昭和20年)に大河内傳次郎の弁慶で『虎の尾を踏む男達』を制作した。しかしGHQは、義経と弁慶の主従関係が民主主義に反するとして上映を許可しなかった。公開されたのは1952年4月26日(二日後の28日に占領終了)である。美空ひばりの『牛若丸』の公開年と同じ年、『牛若丸』より4ヶ月と9日早かった。私は後年、『虎の尾を踏む男達』を観た。 私の子ども心に深く刻まれ、いまだにあざやかに甦るのは、先日述べたとおり、牛若丸と桔梗が手をつないで鞍馬寺の山道を駆け登ってゆくシーンである。そしてこのシーンに、私は1952年という公開年の時局に鑑みてひとつの解釈を試みたくなるのである。 『牛若丸』の時代設定は、貴族政治から武士政治へと変わりつつあった1100年代後期。絶え間ない覇権争いと荘園(領土)獲得争いによって国中が荒廃していた。保元の乱が1156年。平治の乱が1159年。この戦で平清盛が藤原信頼と源義朝(牛若丸のちの源義経の父)を破った。翌1160年、源義朝は尾張の国で家人の長田忠致・景致親子の裏切りで落命し(史実。映画では言及無い)、源氏の衰退がはじまった。映画の物語はこの時点から始まる。源氏絶滅を狙う平清盛に、義朝の妻常磐御前は身を差し出し、代わりに幼児牛若丸の命乞いをした。牛若丸は、源氏から寝返って清盛に扈従した新田太郎吉光の監視下に鞍馬寺に預けられた。そして、母は死んだと聞かされたまま、いまや心ひそかに源氏再興を夢見る少年に成長した。自分の意志とは関わりなく出家修行させられる身に、友達は新田太郎吉光の娘桔梗だけである。 さて、私の記憶に刻まれたシーンは、先に述べたとおり、この寝返った裏切り者を父にもつ娘桔梗と牛若丸が、手をつないで山道を駆け登るのであるが・・・ 私は今、このシーンにこの映画が公開された当時の時局を重ねてみる。 戦後占領期(1945.9.2~1952.4.28) が終わってようやく5ヶ月になるところだった。7年間という長い占領に日本国民は、口にこそ出せなかったが、そろそろ飽きてきていた。9歳の美空ひばりがデビューしたのは、まさにその頃である。天才少女歌手はその活力ある歌声でみるまにスターダムにのしあがってゆく。 どっかり「君臨」していた占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、すでに1950年4月11日付けでトルーマン大統領によって解任されていた。マッカーサーは5日後にアメリカに帰国した。しかしその1年前、1949年2月、アメリカは日本の市場経済をふたたび活性化させるという目的で使節団を派遣してきた。その中に、独裁的に敏腕を揮うことで知られたジョセフ・ドッジがいた。彼は「経済の帝王」と称されていた。日本国民は二人の「君主」に統率されることになったのである。いや、国民にしてみれば三人だった。二人の君主の下に、その意向を実現すべく、国民に対して時に巧みに詭弁を操る吉田茂内閣の日本政府があった。 ジョセフ・ドッジの有無をいわせぬ方針は、「ドッジ・ライン」と言われた。子どもの私の耳にもその言葉は残った。ここに詳しくは述べないが、彼の日本経済についての根本的な考えは、消費を抑制し、安価で輸出を促進するということだ。そのために円の切り下げがされた。彼は独断で1ドル=360円に設定した。この為替レートは随分長い間、昭和40年代までつづいたように私は記憶している。 ドッジの企業合理化策と吉田首相が強力に押し進めるレッド・パージ(赤狩り)との併用によって、数万人の労働者が失業した。これにより労働運動が弱体化した。そして、戦前の奴隷労働にも似た労働条件下にあった人たちを、戦後に解放したはずの労働規準法の労働関連諸法が、ほとんど有名無実になった。公共事業や福祉や教育関連の予算はバッサリ削られた。 とはいえ、これで日本経済が上向きになったかというと、そうは行かなかった。国際状勢は日本の外側で大きく動いていたのだった。価格を下げたからといって輸出が伸びたわけでもない。 国民の心は日に日に不安に沈んで行った。国民は、政府上層部には終戦直前に国有財産である軍需物資を隠匿して私腹を肥やし、終戦直後にはそれらを闇市に流して私腹を肥やした人物が少なからず存在していることを知っていた。「裏切り者」が戦後政治の中枢で大手を振っていることを知っていた。 ところが1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。日本は思わぬ「特需景気」に湧いた。アメリカに要請されるかたちで軍事産業が復活した。いままで眠らされていた日本人の緻密な機械整備技術にアメリカは目をみはった。アメリカは日本の再軍備を求めた。30万兵を擁する軍隊をつくれという求めである。吉田茂首相はアメリカと日本国民に対して詭弁で説得し、「軍」という名称ではなく「警察予備隊」をつくることで両者をまるめこむことに成功した。「警察予備隊」は、30万兵とはいかないが、7万数千人を擁し、れっきとした兵器を備えた。新たらしい日本国憲法に明示された「平和主義」と「民主主義」は、これを主導してきたアメリカによって有形無実となり、食うに困らない、着るに困らない、寝る所に困らない・・・人間の幸せがそこにあるとすれば、いまや日本国民はまさに幸福を手にしたのだ。 そして、吉田茂首相の詭弁を用いる政治技術は、その後の政権を担う政治家に「遺産」として引き継がれることになる。 心ある人は気がついていた。「他人の苦しみによって我身の幸福はあるのだ」ということに。そして日本人はこのときから、心に捩じれをいだくようになるのだ、と。捩じれから生じて心に潜在する闇だ。押し込めようとすればするほど、限りない深さにもぐってしまう闇・・・ 『牛若丸』において、牛若丸と裏切り者を父にもつ娘桔梗が、手をつないで山道を駆ける姿に、私が上記のような思いを重ねるのは、制作者の意図するところではないかもしれない。しかしながら牛若丸と双子のようなフィクショナルな桔梗を創造した意図・・・それについては述べないでおくが・・・は、たんなる娯楽一辺倒に終始するものではあるまい。戦中戦後の自局が、平安時代末期の歴史的事実のフィクショナル化を通して、象徴的に形象化されていると、私は思うのだ。 黒澤明の『虎の尾を踏む男達』が同監督の初期作品として注目されるのは、その後の『蜘蛛巣城』の先取りとなる能の様式美を取り入れていることと、大俳優大河内傳二郎が主演し、また、これも後の『隠し砦の三悪人』の千秋実と藤原鎌足が演じた凸凹コンビ(喜八物の伝統による人物)の滑稽の先取りとなるエノケンこと榎本健一が滑稽役を演じたこと、そして何より巨匠監督の若き日の作品がGHQの検閲によって上映不許可になったことが挙げられよう。 その黒澤作品と登場人物をほぼ同じくし(片や少年時代、片や青年時代ではあるが)、公開も1952年で同じであるけれども『牛若丸』がほとんど語られることがなかったのは、大曽根辰夫監督にとっては残念だったかもしれない。美空ひばりがデビュー当初から「こましゃくれた子供。子供のクセに」と音楽関係者から蔑視され、その人気にもかかわらず出演映画は一段低い「大衆娯楽作品」とみられていたこと、しかもその "ひばり映画” の中でもいささか暗く、異質であったことが、語られることがなかった理由かもしれない。が、両作品を観た私の感想は、大曾根辰夫監督の『牛若丸』は、新田太郎吉光が敵に寝返った裏切りを、愛する娘の死によって目覚める、史実を離れて創作した物語の結構は、時局に照らして志操的(そして思想的)な象徴性の点で、黒澤明『虎の尾を踏む男達』より一層の深さがあると思う。 ・・・それもまた観客の解釈次第。黒澤明は自分の映画が解釈されることを嫌ったと思えるふしがある。上記の私感も、とりあえずは、観客の解釈は自由だということにしておこう。芸術的表現者はむろんのこと、そうでない人も、嵐の船出に関わりない言動などありえなかったのである。そして、大曾根辰夫監督『牛若丸』は、その時節に幼児だった私の最初の映画経験であり、その映像は70年後の現在まで記憶されたのである。
Jun 6, 2023
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豪雨去り 豪雨にも負けじと耐えて柿の花 青穹(山田維史) 耐えてのちほろほろ散るや柿の花 滴りて敷石滲むなめくぢり* (なめくぢり;蛞蝓)
Jun 5, 2023
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今月24日は美空ひばりさんの34回目の命日である。それにちなんでファンがアップしたのかもしれないが、美空ひばりさん15歳のときの主演映画『牛若丸』がYouTubeに掲載されている。 じつはこの映画こそ、私が最初に観た映画なのだ。私はもうずいぶん前、このブログに「完成しない美空ひばり論」を書いた。いまだに読んでくださる方がいて、読者は数千人になる。私はこの拙文の冒頭に、私にとって美空ひばりさんは歌手であるより先に映画女優であったと書いた。その映画が『東京キッド』であり『牛若丸』だった。長野県川上村梓山の公民館の二階で上映された。梓川に架かる橋を渡ってすぐ左のグラウンドの奥に公民館はあった。 映画『牛若丸』は、記録によれば1952年に公開されたとあるが、川上村で上映されたのは1年ほど後だった。私が7,8歳のときである。この映画のなかで美空ひばりさんは二役を演じている。鞍馬山にあずけられている牛若丸と、桔梗という少女である。 私の記憶に消えずに現在までずっと残っているのは、山道の上り坂を二人が手をつないで駆け上ってゆくシーンで、子供心に「あっ、おんなじ走り方だ!」とヘンに感銘したのである。しかし、その私の記憶が正しいのかどうか。私はずっと疑心暗鬼で、自分の記憶をかかえこんでいた。 きょうYouTubeに『牛若丸』が掲載されていることに気付き、驚きながら見てみたのである。 いやー、私の記憶にまちがいはなかった! まちがいがなかったどころではない、思い出すと眼前に浮かんでくる映像が、まったくそのとおりにスクリーン(モニター画面)に映し出されたのである。なんと70年間、その映像は年月に変形されずに、私の頭の中にあったわけだ。「15歳の美空ひばりさん、すごいですねー!」やはりあなたは、私にとって最初の映画女優でした。 さて、ご興味あるかたはYouTubeでごらんになってください。早々に削除されてしまうかもしれません。美空ひばり15歳の映画『牛若丸』
Jun 3, 2023
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豪雨! 豪雨! 生い茂った庭木に降りそそぐ雨が、その葉叢に溜まり、溜まった大粒の雨滴は降りしきる雨と二重になって、敷石に瀑布のように落下している。 気象予報は、四国から東海地方にかけて線状降水帯を形成し、大雨に警戒するよう呼びかけていた。しかし、どうやら関東地方にも降水帯は発達しているのかもしれない。 我が家近辺は、一時的にせよここ2,3年間になかった異常な大雨である。 私は今朝、早起きして、よんどころない用事のために電車で出かけた。その時、山の下り坂は、舗装路ではあるが、むしろそのためもあって、雨は急流となって路面を下っていた。電車内の電光掲示板に、各路線情報が出て、線路状況確認のために運転をやめている路線もあった。帰宅を早めになければなるまい、と私は電光掲示版を見ていたのだった。 帰宅後に夕刊紙を見ると、台風2号とあった。線状降雨帯は、やはり関東甲信越を覆いつつある。
Jun 2, 2023
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先日、5月18日のこのブログ日記で、私は「一枚の写真」と題して臆面もなく家族写真を掲載し、その写真をめぐる1950年(昭和25年)から1954年ころまでの家族の物語と裏側にはりついている日本の戦後の歴史を粗述した。家族の物語は主に鉱山技師としての若き父の勤務状況をめぐって書いた。 しかし、戦後のこの時期、5歳前後だった私の記憶も、じつは敗戦国日本の状況を記憶していたことを、後年になって分かったのだ。現在、インターネットを媒体として多くの人が様々な情報を発信している。それらを頼って私は子どものころの記憶とその記憶された事象の意味を確認しようとしている。しかしながら、発信者の年齢がおそらく私よりずっと若いと推測され、また市公報のようなサイトであっても70年以上昔のこととなると情報はきわめて少ない。しかも終戦直後に一般市民が写真撮影することなど思いよらなかったかもしれない。 というわけで、昭和25年に5歳だった私が見たことが、終戦後の日本の一地方の何であったのかを、もういちど思い出しながらアトランダムに書いてみようと思う。 昭和23年頃から北海道羽幌町に進駐軍専用列車が何度か到着した。羽幌駅は私の家からそんなに遠くなかったので、私は駅前の通りに見に行った。そしてアメリカ兵に赤い表紙の小さな本をもらった。何が書かれてあるか知らないままに、私は茶箪笥の抽出に何冊も所持していた。この本、ないしは冊子がいかなるものか、現在も不明である。 もうすこし後だったと思うが、年上の子が、アメリカ兵に「ガム・チーン」と言ってガムをもらう、と聞いた。私は米兵にねだって本をもらったわけではない。米兵の方から、背囊から出して、私にくれたのだ。 いつであったかははっきりしないが、この進駐軍専用列車に、私たち家族はまちがって乗ってしまったことがある。 進駐軍列車に乗ってしまった私たちは、しかし米兵から注意されることもなかったようだ。私はデッキと車室との間に緑色の丈の長いカーテンがさがっていたのを憶えている。 祖母が一緒だったので、江差近傍の土橋から我家を訪問しての帰りだったかもしれない。母方の家は代々の僧侶。曽祖父顕月は、江差にあった東本願寺別院塔頭の、不慮の火災によって(松前藩御家騒動門昌庵事件)二百数十年間失われていた圓通寺を、土橋に再興した。曾祖父も祖父もすでに亡く、当時は祖母の長男である伯父がその圓通寺の住職だった。 ・・・たぶんその来宅のときだったと思うが、私は祖母にブリキのオートバイの玩具を買ってもらった。商品が何もないガランとした玩具屋の棚に、一台だけそのオートバイは飾られてあった。電池が入っていて豆電球のヘッドライトが一つ、小さなバーを倒すと点灯した。新式の玩具だった。私の三つの玩具の一つだ。 もう一つは、路傍で昼飯を食べていた人たちを気の毒がった両親が、我家で食事するように招き、普段のその礼にと私に贈ってくれた「いろは積木」。そして三つ目は、川上哲治選手と同じ色の子供用赤バット。母がシーチング(生成り木綿)の布でユニフォームを作ってくれた。ズボンの脇に赤いテープでラインを入れ、上着の胸にどこかで見つけてきたドラゴンのワッペンを縫い付けてあった。私はそのユニフォームを着て赤バットを持って得意になっていたが、じつのところ町には子どもの姿をほとんど見かけなかった。私はたった一人でバットを振り回していた。・・・ じつは、私たち家族は昭和27年ころにも再び進駐軍専用列車に間違って乗った。長野県に移転したあとで、母と私と弟だけだったと記憶する。接収した軽井沢の別荘へ行く将校専用列車だったかもしれない。夫人連れで、静かに笑いながら会話していた。母と私と弟は座席に座っていた。もちろん日本人は私たちだけだった。このときも何の注意もされず、差別もされず、ごく普通に、むしろ快適に旅行した。米軍の将校クラスは、夫人ともども、教養があったのだと思う。 このときのことは後に笑い話になった。私はアメリカ婦人のスカートからのびた素足の脛の裏側に茶色っぽい筋を見たのだ。私は母にそっと聞いた。「お母ちゃん、あの人の足のスジは描いたの?」すると母は、「そうかもしれないわね」・・・まるで素足のように透けているナイロンストッキングを母も見たことがなかったのだ。脛の裏側の「スジ」は、シームだった。 1949年(昭和24年)からGHQの協力で吉田茂政権は「レッド・パージ(赤狩り)」を強力に押し進めた。当初、公的関係者が主な標的であったが、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると民間人にも狙いがつけられるようになった。 これをめぐる我家の様子と私の記憶については先日書いた。そして同年11月2日に父はおよそ4年間勤務した羽幌町役場を退職して以前の鉱山技師に復職した。 父がまだ役場勤務していたころ、牧畜農家に頼まれて綿羊を飼う資金を出し、預け飼育をしていた。私は一度父に連れられて牧場に見に行った。しかし父はすぐに役場を退職し、一家は長野県に引っ越した。羊は牧畜農家に無償であげた。何年か後、一家が福島県八総鉱山に移ってから、牧畜農家から一反の布が送られてきた。贈った綿羊から刈り取った毛で織った布だという。ブルーグリーンに染色された見事なウールだった。父は会津若松の北小路町にあった、我家に出入りの紳士服仕立屋にオーバーコートをつくらせた。 羽幌町では家が3軒変った。伊豆の土肥から移転した当初は羽幌町役場近くの町長だった伯父の家。次にその向かいの家。この家で弟が生まれた。昭和23年である。そして町営運動場のすぐそばの新築の家である。この家の裏庭側にせり出た座敷の板壁に一間四方ほどの鶏小屋を据え付け、数羽の鶏を飼った。採卵して食糧の足しにするためであった。 裁判所の近くの松林のわきに畑を借りて、ジャガイモを作っていたことも思い出す。 三番目の家に移ってから、どういう経緯なのか私は知らないが、役場の小使さんを下宿させていた。下宿代などは受け取っていなかった。高校生くらいの少年だった。黒い詰襟服で勤めていた。私はその少年が運転する自転車の幼児椅子に乗せてもらっていて、町営運動場の方から来て家まで20mくらいのところで、裸足の右親指を車輪のなかに突っ込んで大怪我したことがある。肌色の粉薬を塗り包帯で固定したのを憶えている。外地から引揚げてきた鍼灸師の資格などををもつ伯父が、まだ施療院を開く前だったが、白いホーロー引きの小型機器を携えてやはり我家に一時的に同居してい、その伯父が治療してくれた。・・・この伯父は、戦災で火傷を負った人のケロイドを治療し、後々まで感謝されていた。 昭和24年9月22日、羽幌町南3条1丁目の羽幌劇場から出火した。煙草の残り火が原因といわれた。17棟全21世帯が被災する大火である。この火事を私は家の座敷の窓から見た。いや、見ようとしたが、父や伯父や小使少年が窓を占領してしまい、私は三人の大人のお尻で地団駄踏んでいたのである。 現在、インターネットに『消えた映画館の記憶』と題するサイトがある。日本全国のいまは廃業廃館した映画館の情報を網羅しようという、熱意にあふれた見事なサイトである。すべての映画館の詳しい館史記録があるのでもないらしく、開館年や閉館年には推測もまじっている。 羽幌劇場についても記載がある。しかしながらこの劇場が出火元であった昭和24年9月22日の大火災については全く言及されていない。開館年が1947年と1950年と二度あったことが記されているが、この二度の理由が、じつは火災のためであり、その後に再建されたのである。 1950年に再建され、何月何日に開業したかは私もはっきり言えないが、しかしながら私は、たぶん開業記念の興行だった舞台を見ている。能『土蜘蛛』を翻案した舞踊劇と、昭和14年に梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲の流行歌『長崎物語』を翻案し、芝居にしたものである。私はマホガニー色のニスの匂いも真新しい二階最前列の席で見た。土蜘蛛の巣をかける千筋糸の仕掛けが目に焼き付いた。また、「赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 泣いて別れたジャガタラお春 未練の出船に ああ鐘が鳴る らら鐘が鳴る」という歌を、その場で覚えてしまった(現在でも歌える) さらに翌1951年6月4日、羽幌港祭が挙行され、羽幌劇場において洋裁学校主催の『ニューモード・ファッションショー』が開催された。私はこのショーにモデルとして出演した。洋裁学校から子ども服を作らせてほしいと言ってきて、母が承知したのだ。お隣の同年の女の子も一緒だった。二人は「お手てつないで」の曲にあわせてステージに登場した。 港祭りの光景も思い出す。大きな漁網に厚紙に彩色した色とりどりの魚が1m足らずの細紐で網に結ばれていた。四方から網を持った人たちが掛け声をあげながら網を上下に激しく揺すると、紙の魚が宙に飛び跳ねた。一本足駄の赤い天狗もいた。赤い狩衣を着て、錫杖を突いていた。私は役場の事務所で天狗の扮装を準備しているのを見ていた。一本歯の高下駄にびっくりしたのを憶えている。芸者衆が乗った山車も出た。私と母はその山車に父が上機嫌で乗っているのを見つけた。母は呆れていた。 別の日、母に連れられて「まるた」という料亭に父を迎えに行ったとき、山車の芸者衆のなかの一人に私は講談社の「虫のいろいろ」という絵本をもらった。私の昆虫好きは、この絵本が出発点だったと言ってもよい。 じつは子どもは私と隣の家の女の子と、たった二人だけだった。上に述べたとおり、町に私ぐらいの年齢の子どもがいなかったのである。父親になるはずの男がほとんどいなかったのだと思う。昭和20年を境にその前後1,2年の間に、戦地から復員していなければ、私と同年齢くらいの子どもの父親にはなれない。壮年の男の働き手が少なかったからであろう、父は頼まれて鰊漁の手伝いに小型発動機船に乗りこんだこともあった。 しかし徐々にではあるが結婚も行われるようになっていたのだと思う。ある時、私は母に連れられて郵便局に行った。母が用事をすませている間、私は出入り口に立って通りを見ていた。通りの向かい側を花嫁行列がやってきた。文金高島田で、綺麗だった。用事を済ませて出てきた母に、私は言った。「ボクにもきれいなお嫁さんをカッテ(買って)ちょうだい!」 (私は民生委員だったときに、周囲に子どもがいなかった幼年時代の話をしたことがある。すると、私より若いには違いないが年輩の婦人が、「お母さんが子どもたちを見つけてくれそうなものだけど」と言った。私は一瞬呆れてしまった。この婦人の父親だって応召し、命からがら復員し、そして子どもが生まれ、戦後を生き抜いた。しかしこの婦人は、今は年取っていても、あのころはまったくの子どもで社会の何事も見てはいなかったのだ。ああ、そういうものか、と私は口を噤んだのだった。) 洋裁学校主催の『ニューモード・ファッションショー』にも時代は反映している。戦後復興の一つのおおきな運動であった、杉野芳子氏による洋裁学校「ドレスメーカー女学院」の開校である。「ドレメ」と称して、この運動は全国にひろがって行った。私がファッションモデルとなった羽幌町の洋裁学校もまさにその流れの中にあった。 前述の羽幌劇場の開業時の演目について、私がいまだに不明としていることがある。それはGHQが徹底しておこなった検閲の問題だ。検閲はラジオ放送、新聞、映画、小説や詩、絵画、漫画、書籍、雑誌、教科書はもちろん、伝統芸能の能や歌舞伎をふくむあらゆる舞台芸術や流行歌等の表現に及んだ。規制がややゆるくなったのは1949年ころからである。羽幌劇場の開業記念興行は1950年なので、おそらく検閲はゆるくなっていたのであろう。もし厳格な検閲がおこなわれていたなら、日本の侵略的軍国主義を象徴すると解釈されかねない魔物征伐の物語である『土蜘蛛』や、日本と同盟関係にあったイタリア人とその妾である日本女性お春との悲恋物語『長崎物語』が、認可されなかったのではあるまいか。・・・この上演に関する状況はまったく不明だ。 古来の伝統といえば、仏教行事である釈迦聖誕祭『花祭り』が、羽幌町で1948年(昭和23年)に開催されている。このとき満2歳だった私は、御稚児さんとして、御坊様に手を引かれながら行列に参加した。歩きながら私は眠ってしまったので御坊様が手を引いたのだと、母が言っていた。在来宗教に厳格だったらしいGHQだが、こんな純然たる仏教行事は検閲しなかったのだろうか。 さらに、大相撲は戦中戦後を通しておこなわれていた。多くの力士が応召した。戦後は昭和20年12月に国技館が進駐軍に接収されて本場所はできなかったが、それにかわる場所でつないだ。相撲協会はよくGHQと折衝し、多難を克服していた。そのような状況で、じつは羽幌町で巡業相撲が行われたのである。 私はその公式記録を探せないでいるが、昭和23年ではなかっただろうか。二所ノ関部屋と高砂部屋の合同巡業だったのではないかと思われる。その頃、この二つの部屋がしばしば合同で巡業した記録が残っている。 羽幌町の巡業で、我家に使者がやってきて、所蔵する弓を弓取式のために貸してほしいというのだった。もちろん断る理由もないので、父は即座に応諾し、弓を貸した。現在は相撲協会が自前の弓を所持しているのであろう。戦後間もなくのその当時、そうした式用の弓はどうなっていたのだろう。GHQが武器とみなしていたのだろうか。 それはともかく、そのとき我家の弓で弓取式をおこなったのが若き日の若ノ花だった。 弓取式は元々は千秋楽のみの行事であった。現在のように毎日行うようになったのは、昭和25年5月場所からだと物の本にある。そしてそれを行う力士は幕下ときまっているらしい。 羽幌町の巡業は昭和23年と上述したのは、弓取式を幕下の力士が行うということから推測した。 若ノ花幹士(本名:勝治)は、昭和21年11月に初土俵。そしてわずか3年半後の昭和24年5月場所で十両に昇進している。ということは、我家が伊豆の土肥から羽幌町に転居したのが昭和22年6月で、私は2歳。この年は除かなければならないので、残るは昭和23年だけということになる。 私のおぼろげな記憶にあるのは、弓取式の若ノ花のこととともに、その若ノ花に稽古をつけているという力道山という力士のことだ。 雑誌の検閲をめぐって思い出すのだが、1949年(昭和24年)に集英社が少年少女雑誌『おもしろブック』を創刊した。私は創刊号こそ読んでいないが、すぐに購読者となった。発刊されると本屋が届けてくれた。私は上述の「いろは積木」によってすでに文字が読めたので、山川惣治作「少年王者」に夢中だった。アメンホテップなどという登場人物の名前を74年後の現在でも覚えている。 集英社が現在インターネットで発信している「集英社小史」に、『おもしろブック』創刊号の画像が掲載されていて、その表紙に「少年王者」の文字が刷られている。この雑誌の’目玉読み物’だったことがわかる。 私がいま、なぜ検閲を思い巡らすかといえば、この「少年王者」はアフリカ冒険物語であるが、蛮族としての「土人」表現があり、創刊直前までの検閲が厳格だったころにはあるいは認可されなかったかもしれないと思うのである。 「おもしろブック」という誌名が左から右へと書かれていることにも、あたらしい時代の反映を注目してよいだろう。それまでの誌名は右から左に読むものがほとんどだった。 私がこの雑誌の読者だったのは小学3年生までで、八総鉱山時代は田島町の本屋が毎月届けてくれた。その後は弟に引き継がれたので、あいかわらず毎月届いていた。弟に引き継がれたとはいえ、1954年ころから連載がはじまった杉浦茂の漫画「猿飛佐助」は大好きだった。猿飛佐助の顔が、丸いおにぎりを少し潰したようで、まんまるな目をしていた影像がいまも脳裏に浮かんで来る。はたして、その記憶が正しいかどうか。この漫画で私は真田十勇士(フィクションであるが)の名前をおぼえた。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道(兄)、三好伊左入道(弟)、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎・・・ハハハ、いまでも覚えている。 私が長野県川上村で小学校に入学した1952年(昭和27年)以降は、私の購読誌は「おもしろブック」のほかに誠文堂新光社の『子供の科学』が加わった。 『子供の科学』の刊行史は長い。創刊は1924年(大正13年)である。終戦直後の1945年8月15日、退任を控えた文部大臣は、つい数日前までの軍国教育から手のひらを反して、「科学力と精神力」を高めることを国民に求めるメッセージを残した。以後、日本の学校教育は、新たに就任した文部大臣前田多門のもとで基礎科学に力を注ぐ方針がとられた。 小学校に入学した私が『子供の科学』を購読するようになったのは、そのような時代思潮に一致してはいたが、しかしながら私が文部大臣の教育方針など知るはずもなかった。私の自然観察への関心等が『子供の科学』購読を引き寄せたのであり、両親や担任教師が私の関心事を察知したからだった。日本のテレヴィジョン開発の初期動向も、私は『子供の科学』で知った。 「集英社小史」より 誌名の下に「少年王者」とある。 1950年(昭和25年)7月15日から8月23日まで旭川市で旭川開拓60周年を記念して「北海道開発大博覧会」が常磐公園や石狩川河畔、北海道神社を会場にして開催された。主催は北海道庁と旭川市。後援は、総理府をはじめとするすべての行政省、日本国有鉄道、日本交通公社、日本放送協会、日本商工会議所、全日本観光連盟、日本貿易会だった。開拓60周年記念と銘打っていたが、戦後復興にかける大々的な催しだった。北海道の全市がパビリオンを設営し、全都道府県が出展し、アメリカ館のパビリオンもあった。あらゆる日本の産業館があり、美術館があり、アメリカ図書館の展示もあった。 私は両親につれられて見に行った。忘れられないのは、動物園(東京都多摩動物園が動物をつれてきていた)や「おさるの電車」、そして「子どもの国」の「飛行塔」や「魔法の家」。私は「魔法の家」でベンチに座ったまま、閉じられた部屋が逆さまになった恐怖と、そのときの室内に起こった叫び声や影像を78歳のいまでも思い出す。 ウィキペディアによれば、この博覧会の入場者数は514,309人であった。大人1名の入場料が前売り100円、当日120円、子ども当日60円だったというから、当時としては高額であった。 私は、当時の羽幌町の地図があれば、いまならまだ記憶が抜けていないので、もうすこし街の様子を書けるのだが、と思っている。しかし軍事的な問題からなのだろうか、戦中戦後数年間の町の詳細な地図は作成されなかったのだろうか。見つからない。1948年(昭和23年)4月 私2歳11ヶ月羽幌町の花祭り 寺院の庭で(この寺院はどこだろう? 金銅の釈迦誕生仏があった。 甘茶を掛けたおぼえがある。) 1951年(昭和26年)6月9日 私6歳 羽幌港祭り 羽幌劇場における 「ファッション・ショー」に出演後
Jun 1, 2023
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