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-良くも悪くも 人生の先行きは、誰にも実に予測できない- 誠は、身体不調海軍退役の落胆失望のどん底から、国鉄へ再就職。その勤め先でミヨに出会って恋に落ち、一挙ときめく青春、恋愛、結婚へと愛の上昇気流に乗って上り詰め、美しい妻ミヨと新婚生活まで、一途に入っていった。 故郷田川のローカルな片田舎で、幸せいっぱいの気持ちで誠は青春を謳歌したのだった。 -誠とミヨの確執のある結婚-...ミヨとの結婚で、誠が唯一心を痛めた事は、実家の父聡一郎の祝福を得られなかった事だけだった。 岩崎聡一郎家は、駅から離れた山里の、広い田畑を持つ親代々の大地主であった。 一方ミヨの両親は、炭鉱に移動してきた出稼ぎの労働者夫婦で、遠賀川沿いの、被差別地域に住む地の人達と一緒に住んでいた。 ミヨの住むこの被差別地域には、朝鮮から強制的に連れて来られた家族も多くいた。ほかに、住所の無い河筋に住む者や流れの炭鉱工夫達が、所狭しと入り乱れて住んでいる極めて特殊な集落地域であった。 そしてそこに住む者たちの特徴と言えば、只一つ「結婚は、この地域に住む者たち同士で行う」のが常であった。それで、その地域には同姓が多かった。 一方、当時普通の旧家の結婚相手としては、何処に住んでいるかは、両親は健在か、職業は何か、と同じ程重要視されていた。 その意味でミヨは、特殊な地域に住んでいたという他、既に幼少時に父親を亡くし片親育ちで有ったし、ミヨの母親は、炭鉱夫相手の飯屋と一杯飲み屋のおかみで有った。結婚相手として双方の家庭環境は、何から何まで相当の違いがあった。 この違いこそが両家子息の結婚の確執を生んだ。 結婚は、誰でも認めるように、二人だけの結びつきだけではない。家と家の新たな結び付きでもある。 俗に相性がいいとか悪いとか聞くが、総じて同じ背景、同じような家庭環境、教育環境に育った者同士は、相手に合わせ易いものだし、また家庭のやり方、考え方も似ているので、親戚付き合いの点でも問題が少ない。誠の父聡一郎は、息子の結婚に関して、そういう持論が有った。つまり家の繋がりと言うモノを重視していた。 ミヨの家柄は「嫁として岩崎家に、不釣り合い」と、父聡一郎はこの結婚に反対だった。 誠にとっては、そういう家柄やどこの出身などと、全く無意味に思えたし、ミヨとの育ちの違いも二人の結婚生活に障害にはならないと確信が有ったので、どんなに反対されても結婚を諦めない決意があった。 ミヨもまた自分の親族の中で、家柄の違いすぎる誠との結婚に、誰もが反対し、孤立していたので一旦は、諦めて断った。そうだった...のだが、誠の愛と熱意を前にして自分も深く誠を愛している事が解ると、悩み抜いた末、誠の結婚の申し出を受け入れる事にした。 家柄の違う確執のある結婚なので、後々生じる全ての障害を受け入れる覚悟を決めて、二人は結婚した。 誠もミヨも子供として、出来れば...双方の、親や兄弟の祝福を得て結婚したかった。 が...それは望む方が無理だと双方とも充分承知していた。 だが... 誠の母ツネの考え方は違っていた。 沈没しかけた息子が、奇跡的にも浮上し助けられた、それが、ミヨの愛の力であるならば、反対する理由が無い、と思っていた。 ツネは結婚に猛反対の聡一郎に、許してやる様にと説得していた。 「貴方...誠もこの結婚が尋常ではないって事、知っていますよ。」「い、いや、解っていない。恋愛と結婚は別のものだ。後で厄介な事に巻き込まれるぞ。そうなれば二人とも不幸になる」「私も...そういう親族の揉め事を聞いた事が有りますわ。でも、そうでない人も居ますわよ。」「わしは、 自分の子の事だけで反対しているンじゃない。相手の娘さんだって、一時の恋心だけで決めて、一生幸せな結婚かどうかなんて解らないというものだ。あちらのお母さんだって、反対していると言うじゃないか」「そう伺いましたけれど...、母親なんていう者は、最後には折れますよ」「...お前は楽天的で目先の事しか考えん女だなあ」「はい、それで宜しゅうございます。当節こんな情勢ですから、先の事等分かりませんわ」「まあ、そうだが...」「結婚も人それぞれですよ。誰と結婚しても本人が幸せを感じなければ、意味が有りませんもの」 息子を立ち直らせたのは、親でも説教でもない事実を認めていいと思った。 ツネは、ミヨと会ってみてミヨの人柄の良さと誠の強い意志の前に、只、何処に住んでいるか、何処の家の出か、だけで結婚を反対するよりむしろ、難しい結婚だが、陰ながら応援していこうと決意していた。 母心である。母親と言うものは理屈より、困難に立ち向かう子供の応援団長になる。 ミヨと誠の結婚はこの母親ツネの陰の支えと助けで、実現できたのだった。
February 28, 2011
そうなんですよ~ 恋が芽生えないと 武さんは生れて来ない ですよ! で・・ 本日は武の父「誠の恋」の物語 です -誠は、本家、分家が固まっている実家を出て、筑豊電鉄の勤め先の駅に近い古い社宅に住む事にした。- 飯塚から、北九州の鉄工業地帯の八幡、石炭積み出し港の若松迄を繋ぐ筑豊本線は、全長66キロの主に石炭の積み出し経路だった。熱源が石油に取って代わるまで、石炭産業は筑豊地域に潤いと活気をもたらした。 鉄道もまた石炭産業の発展と景気に伴って重要な役割をなしていた。今でこそ石炭の積荷は皆無だが、その後石炭に替わって、暫くセメントが積み出された。 この辺の山は、石灰岩の岩山だったので、山の形が変わるほどダイナマイトで斜面は崩され剥ぎ落とされた。遠賀河の砂利もろともに、トロッコで運び出された。 セメント産業は外国の安いセメントが輸入されるようになる迄、日本経済を支える花形産業として急成長した。 石炭、セメントを輸送し続けた筑豊電鉄は、その後、際立った輸送物もなくなり、鉄道も寂れたただのローカル線である 駅の回りの街は、工場や産業が利用するようになったので、少しずつだが人口は増えていった。 だがこの辺の駅の利用者と言えば、当時より今の方がずっと少ないと思う。十数年前でも、筑豊電鉄沿線には、駅員の居ない無人駅は幾つもあった。 誠は、駅も炭鉱も賑わった時代に筑豊電鉄に務めた。 駅の近くには食堂も2,3軒並んでいて、一人暮らしの生活でも、食べる事に不自由はなかった。むしろ海軍と違って、規律に縛られない自分の時間を、いかようにも自由に、ゆっくり満喫出来てうれしかった。 生活場所が変わり、誠の人生の目線も変わった。仕事の同僚は、海軍の仲間とは全く違って堅苦しさも競争心もない。自分の地のままに気を楽にして生活出来た。 母ツネは、と言うと、どんなふうに息子は新しい仕事と生活に順応しているかと案じて、駅までやって来るのだったが、......誠の様子は思いの外、生き生き見違えて見えた。「え、えっ... あれは誠?」とツネは自分の目を疑った。誠は別人に見えた。 家に戻ったツネは聡一郎の帰りを、幾度も時計を見ながら窓の外を確かめ、落ち着かない様子で待った。日も落ちて、植木の間から姿の見えた聡一郎が玄関の引き戸を開けると、ツネは走り寄った。「誠、今日も見ましたよ、あの子っ!」ツネは開口一番「見た」と言いだしたが、それからどう話そうかと一瞬 戸惑った。「うむ... で、誠がどうか したのか ?」 聡一郎もまた、ツネが何時もと違って何かを言いたげな様子でいる事に気が付いた。 子煩悩な父親で、息子が可愛くない訳はない。国鉄の仕事が相当単純作業だと聞いていたので、誠が果たして続けて行けそうかと気になっていた。 「もう誠は親がどうこう心配する歳ではないゾ、余り構うな」と言いつつも、ツネの外出の度に、さりげなく様子を聞き出そうとしていた。「はい...構ってはいません、近くを通って見るだけです。 でも誠は、気が付いていきませんわ」「気が付いていない? ...で どうナンだ ?」「それが...何だか吹っ切れていましたよ。 いいえ、心なしか以前より楽しそうにしているって言うか、...あんな誠を見るのは、入隊以来初めてですよ」「ふうん、そうか。...そろそろ鉄道の仕事にも慣れたのだろう。」「私は、仕事ではないと思いますね... きっと別の事...、例えば 誰か好きな人でも出来たとか。これは女の勘です」 ツネの観察は正しかった。 がらりと変わった誠の生活の中に、色めくものが新たに加わっていた。 ツネはそれからもちょくちょく誠の勤める駅前通りで買い物をした。 そして有る日、ついにツネの何処かで秘かに期待していた通り、誠ともう一人、...二人が楽しげに笑って喋っている現場を見た。 誠の前に現れた若い娘は、街角の食堂で働く、健気で美しい娘ミヨであった。恋は砂漠も楽園に変える。ミヨの存在は、誠にとって電撃的なオアシスだった。 誠はミヨと出会って、独身男性の生活が一変し、充実し、心が弾んでいた。 聡一郎が心配していたような単純で、味気ない、只同じ作業を続ける仕事だとしても、誠のモチベーションが下がる事はなかった。人を愛すると、誰しも愛は、人を活気づけ、新たな力を生じさせる。 愛も恋も突然やってくる。 男女の出会いは、何時でも誰でも、予測つかないモノである。まして、その結婚と言う結びつきは、親の決めた許嫁でない限り尚の事、誰にも解らない。
February 27, 2011
今日はつづきからアップします。 うまくプライバシーの問題に抵触せずに ノンフィクションに近づけるよう努力してみます。武さんの父方の実家は旧家の教育意識の高い家庭だと思いました。 岩崎家の週末の夕食は、当主聡一郎の定めた週一日だけ一緒に食べる慣わしがあった。帰された「訳有り」の誠に対しても、その習慣は、特別扱い無く親から要求された。 男の多い家族ではあったが、誰もが兵役を退いた誠に思いの外優しく、聡一郎も誠の兄弟達も、今はそっとしてあげようと、出来るだけ自然に振る舞っていた。 誠は何時もの冗談を言う口の悪い男兄弟と違うだけに、気遣われているのが反って辛かった。 ただ、妙に母ツネだけが、家に帰って来た誠を手放しで喜ぶので、腹を立てるのも申し訳ない事だが、身の置き所がないほど恥ずかしかった。 食事の時は仕方が無いとしても、出来れば人前で、母と顔を合わせるのを避けていたかった。ツネの前では黙っているのが一番だと悟った。 「好しいじゃありませんか。ここには仕事も有りますし、もう兵隊に取られる事も無いでしょう。誠は小さい時から、他の兄弟より熱を出す事が多かったですから」 誠はこんな風に自分が未だに母親に守られ、弁解して貰っているようで、情けなかった。 誠としては、戦前の不穏な時期に、国のお役にも立てずに九州男児として身体不調などの理由で海軍を出る等とは、近所をはばからず歩けない程、みっともない事だった。兄弟にも分家の従兄にも、合わす顔が無かった。それを男兄弟はそれとなく察してくれて、からかいもせず又気休めを言わないだけでも、有り難く思った。女親だけは誠のそんな思いなど知る由もない。何時までも、よく熱を出して寝込む、子供の時と同じ誠であった。 誠は食べ終わるとさっさと自分の部屋に引き返した。誠がテーブルを立つとそれを合図のように他の兄弟もそれぞれ自分の部屋にと出て行った。 二言三言、言葉を交わすだけだが、それでも兄弟が示す愛情の表現を、誠は十分嬉しく思っていた。 ツネと聡一郎は、最後までテーブルに残ってお茶を啜っていた。頭の中には、部屋から出て行った口数少ない誠の後ろ姿が残っていた。 「あれは、教授や教師になるより、海軍一筋だったからなあ、切り替えるのも時間が必要かも知れない」「…… 本当に 誠は 体が悪いのでしょうか?」 「軍医の手紙には、風邪かも知れないと思うが、微熱の続くのが気になると書いてあった。軍に残す事も出来たが、万が一を考えてとある。...まああいつはあれで気を使って、私の事を考えて、安全策を取った積りなのだろう。後は...私たち親の仕事だからなあ」「解っています。軍医のその方の ...私共を思いやって下さいました御判断には感謝しております」 「まず、静養だな。ここは空気もいい」「そうですね。船の中は空気が悪いと聞きますわ。小さいころからあの子、扁桃腺炎ですぐ熱を出していましたから、機械室とか金属の飛沫が飛ぶ部屋で毎日働くのでは咽にも肺にも最悪ですわ」「だから言っただろう。誠は本ばかり読んでいるので最悪条件に弱い。もっと体を鍛えて、他の兄弟たちのように武道でもさせろと言ったのだ」聡一郎は、思わず今更言っても仕方のない愚痴を並べた。 ツネから見て心配なのは、下船した誠が、嘗ての誠とは異なって見えた事だった。無気力で、抜け殻のようになって見える息子が、再びやる気が戻るものだろうか...そう出来るならば、母として、どのような事でもしてやりたいと思っていた。 聡一郎も仕事から帰ると、 ツネに最初に聞く言葉は誠の様子だった。 「誠は今日も、部屋に閉じこもったままだったのか?」「はい、 ほら、誠が高校時代に、貴方が買ってあげたあの大きな模型の船を、今日も一日中眺めているんです」「船か ...もういい加減その事から立ち直ってもいい頃じゃあ...ないか」 「そうおっしゃっても貴方。誠は今や、あの子の部屋に置かれたあの大きな船の模型と一緒で、落として壊れて沈没しかけている船みたい、ですのよ」「あの、落として壊した模型船が 誠...だと?」「はい、このままでは、きっと ゆっくり沈んでいきますわ」 ツネは、入隊以来誠の部屋に入るたびに、部屋に飾られた精巧な軍艦船の模型を見ては輝いている息子を思っていたが、有る日、聡一郎がうっかり服に引っかけて模型を落とし、壊してしまったその船が、今やどこか「ゆっくり沈没!」して行きそうな誠のように見えた。 「でも...お願いしておきました誠の仕事先は、如何でしたか......ここに居ても辛そうですからね」 ツネは落ち込んでいる息子の様子を見て、これから先の誠を案じていた。 まさかその辛さの傷口の上に、ツネがパラパラ塩を振るっているなどと、夢にも気が付かなかった。 「それは大丈夫だ。国鉄で働けるように頼んでおいた。体を動かす単純な仕事だが、反って誠の体を鍛えていい。」「それはようございます。誠は小さい時から乗り物が好きでしたから、きっと立ち直りも早いでしょう」「多分、お前がそう言うと思った。実は...給料の良い別の仕事も有ったのだが、遠くにやればお前はまた心配するだろうからな」「あなた、鉄道だって筑豊の、この地域のお役に立てるのですから、好いでは有りませんか」 聡一郎とツネの奔走で、仕事の少ない時代に、誠の新しい仕事は見付けられた。 その勤め先とは、筑豊電鉄の引き込み線と社宅の有る某駅であった
February 26, 2011
某出版会社にファイルを送ると ・・・ 多分一人ひとり短評を下さるのね。 この残留孤児物語にも 丁寧な短評を下さいましたよ。 さすがプロの文章でしたからネ 物語の短評でも へーそういう表現にもなるんだ と 感嘆しましたわ その中に 「 プライバシーに配慮して・・」と有りました 主人公の残留孤児武さんは 仮名ですが ・・・ 環境は狭いので 登場する人物が良くも悪くも特定される事を避けなければなりません 出来るだけ地域も場所も特定されないよう配慮が要るかも 知れません 一般使用の表現で有っても、露骨に差別用語?も使わないよう配慮が必要でした極めて特殊な背景 ・・・ 日本中に同じ特殊な地域はあります が 大正11年以来社会運動として展開されてきた差別解放地域の一つ です が 武さんは知っていません が・・ 日本に帰って来て最初に住んだ住居が そのような地域でした 武さんの母方の墓が有り 1973年墓参りが許されて帰国した時の家が 駅の近くに有りました 武さんの父方の墓は 全く別の豊かな田園 山里地域に有りました1999年に 父方の親族と逢いました 其れまでは父方の親族の その存在すら知りませんでした いずれにしても・・・「知られたくない」という方のプライバシーに触れては ならないのですわ武さんに係わる人で そう言う方が居られるかどうかは 解りません ノンフィクションなので、事実を書くとしても ・・・そうした配慮が必要である という事を知りましたよ 確かに・・・書けない事が有る以上 事実は・・ 小説より奇なんですワ
February 25, 2011
うららは帰国して某出版会社の営業マンと会った。自費出版なら直ぐでも出版に掛れる・・と知る。だが、それには180万円必要だった。 お金が無いので、自分で校正し直す事にした。出来れば電子書籍にしたい。「残留孤児物語」の根幹はノンフィクションですが 物語に肉付けしています。どうぞ、まえおきから読んで下さると 大変うれしいです。 「 不確かな中で前向きに生きる 」 - 「父は結核だったって、母は言っていました」 - 武の話は悲劇の結末から始まった。 ミヨと誠、この美男美女の二人の結びつきは、誠の突然の病で終局を迎える。 ドラマであれば極めて束の間の愛で、果かなく、クライマックスに達して、あっけなく、空しく主人公は病で倒れて死亡し、舞台から消えてしまった事になる。 「結核...ですか...」うららは、反復した。 昔から、肺結核を「ろうがい」と言い、不治の病の代表的な疾病で恐れられていた。エジプトのミイラにも結核の跡が発見されていることから、有史以来の人間の難病で有ったに違いない。 当時は、肺炎菌に有効なペニシリンの発見(1928年)はあったものの、治療薬としての普及はまだ遠く、発病すると、やはり血を吐いて殆ど死んだ。伝染率も死亡率も高く、引き続き不治の病の筆頭として恐れられていた。 家族の一人が結核に罹ったり、結核で死んだりすると、その残る家族と接触する事さえ恐れられ、避けられていたので、発病しても病を隠して療養した。こうした状況は感染の悪循環を生んでいだ。 まして船の様に個室が狭く、幾人かと寝起きを共にする所では、結核感染は起き易く特に恐ろしがられた病である。船内感染を防ぐため、軍隊での検査は入念に行われていた。 「海軍にいたという事は、初めは元気だったという事ですよね ... 」「そうですね...」武は 多分という顔をした。うららはもう一度写真を見つめ、恐らく入隊当時、誠は元気だったに違いないと思った。船内感染か... 肺に起こる結核菌の感染は飛沫感染からゆっくりと緩慢な経過をたどる。 - 誠は結核菌で発病し倒れるまで、結婚もしている。 勝利も 武も生まれた。- だから、こういう事であろう...と想像していた。 誠の体の不調は、当初結核との断定には至らず、風邪に寄るものだろうと思われ ていた。 軍医は...「風邪かもしれん。だが...」と、軍医は診断書の結果に目を落とし、おもむろに「気の毒だが岩崎、他にもこの船から罹患者が出た。大騒ぎなのだ。それに、君の親父さんとは旧制中学からの友達でなあ。万が一の事も有る。...やはり 下船だな」軍医は勢いをつけて、重ねた書類にポンと判を押した。 選択や希望の余地はない。軍医の決定は絶対だった。 こうして誠は定期健康診断の結果が、思わしくない、顔色も悪いという理由で、父親の友達であった海軍医の決定で、誠は船から下される事になった。 軍医が父親の友達であるという事は、入隊時に都合のよい事も有ったが、万が一だったらという病の疑惑さえも見逃せないという友情ならではの都合の悪い事も有る。 ...だが、数年後の誠の発病をもって、結果的にこの軍医の所見は当たっていた事になる。 家に戻った誠は、心を海に残したまま、暫く自分の思いを切り替えられずに沈んでいた。部屋で目にするものが全て、ここから出て行った輝かしい日を思い出させた。入隊した日に着た軍服、海や船の写真、帆船や軍艦の模型が、今や現実の自分を映すように、青春の夢を粉砕させていく。 誠はカーテンを閉じた部屋で、静かにクラシックを聞いて長い一日を過ごした。日中はそれぞれ家を出て行くので顔を会わせる事もなく、家族が一堂に揃う日と言えば、ただ週末のみであった。週末は気が重かった。 誠には、九州帝国大学院へ通う二人の兄と、旧制高等学校へ通う弟がいた。分家の中にも、海軍に入隊した従兄もいたが、みんな揃って剣道の有段者で有り、質実剛健な逞しい男達の出入りする本家であった。その男達が揃うと、なんとも精悍な眺めである。 その男どもに囲まれると、誠は自分が落ちこぼれた腑がいない男に思えた。
February 25, 2011
不確かな中で前向きに生きる- 武は生れて直ぐ父親を病で亡くしていた。父親の事と言えば何も知らず、只母ミヨの語ってくれた想像上の父親像が有るのみであった - うららはテーブルの前にGーさまと並んで座り、片肘を付きながら武の話を聞いていた。男にしては優しい顔立ちの武と、鴨居に飾られた一枚の水兵帽を被ったセーラー服の凛々しい青年の古い写真を見比べた。武は、どっちに似ているのだろうか...「若い頃の...お父さんなのね...」うなずく武を見ながら、今度は武の母ミヨを想像した。「武さんのお母さん、て、さぞきれいな方でしたでしょうねえ」武は笑った。「そうですね、村の人は、みんなそう言いましたよ」武から、美しい母を持つ子供の、誇りの様なものが感じられた。「お父さんだってハンサムですよ。 海軍だった、ンですね」「はい。...この写真は、母が大切に持っていた只一枚の父の写真です。これだけが残りました。」 比較的大きな額に入れられた武の父誠の写真は、まるで昔の映画スターみたいに顔の整った写真で、若過ぎているせいか、顔は武に似ていなかった。生活感がないので、いったいどのような方だったかと、想像する余地のないブロマイドのような写真だった。 武の母ミヨが、いかにこの写真を大切にしてきたかは、写真の保存状態と、その混乱した時代も、武が帰って来るまでの長い年月も生き残った事から窺える。 うららは写真のないミヨを、武の顔から想像してみた。きっと武の母ミヨは結婚当初相当の美少女で有ったに違いない。そして、どちらかと言えば、きっと武は、母親似なのだろう。 武の父誠も、想像逞しく描き出すならば、村では評判の若い娘達が憧れるかっこいいイケ面の水兵さんであっただろうと、ミーハーな発想をした。-「父は...船を下りて、家に近い国鉄の駅に勤めていた様です。......僕が生まれると直ぐ...病気で死んだ のです。」-「病気?...ですか... 本当に若いのに!」 うららは武の話を聞きながら、今では治る病も、戦前ではまだクスリや治療法がなく、ただ死ぬのを待つしかなかった武の父誠の無念さを思った。 静養以外に治療法がないとされた病も、医学が発達し、死亡率は減少した。だが代わって、当時なかったエイズや癌のような新しい病が今、人の人生を変えている。病気は、何時の時代も、人類共通の戦ってきた最大の敵である
February 24, 2011
電子出版をしたいうららは 次に出来る事は 文章校正にチャレンジです。ブログを普通本スタイルに変えるって、日頃本を読んでいないうららには 結構大変です。まず、生活紀行ブログは後に回して、本っぽい実話を下にした「 物語 」から編纂アップしてみます。どうか、本好きの真摯な方 文章校正の点で、お気付きがございましたら、ご指導下さい 第一部 中国残留孤児の物語 ノンフィクション 氏名は全て仮名です まえがき この「残留孤児武さんとの出会い」は、十年前にうららとG-さまが、現地で中国語を学ぼうと決意を固めた起点となった。 武さんと出会った頃の会話能力は、NHK中国語ラジオ講座とテレビ講座の初級程度であり、いつも、もう少し話せて、もう少し聞き取れたなあ、と、もどかしさを感じながら互いに、自分のノートと普段使っている辞書をテーブルの上に置いて、真剣に相手の話す事を知ろうとする交流であった。 この様な形の武さんとの意志の疎通は、便利な電子辞書と筆談にも頼ったが、顔の表情やボディーランゲージ(身体言語)に依る力は、語学力の足りない部分を想像以上に補って、余りあるものとなっていた。 毎週ニ回ニ年間通った武さんとの友情は、今でも心に熱いものがある。 言葉の壁が有りながらも武さんを知ったうららは、「武さんが生き抜いた孤児たちの証」を残したいと思った。 それは、戦争が終わり、六十五年経った今日に至る日本は、目覚ましい復興と発展、発達をみせたが、文字通り置き去りに、余儀なくされた日本人孤児たちが、長い閉ざされた中国国交の陰で、どの様に困難に打ち勝ち生きて帰って来たか、 同世代を生きた人間として、「同情心も無く知らないまま過ぎ去る」というのは、余りにむごいと思ったからである。 日本が当時、満州国と呼んだ中国東北3省を故郷に持つ中国人は、その後残された日本人が、どの様に辛酸を嘗めたかを祖父母達から聞いて知っている。ニ十代後半の若い世代でさえ、彼らの記憶の中に日本人孤児たちの生きた証は生きているのである。皮肉だが、何も知らないのは、同胞である日本人の方ではなかろうか。もう暫くすれば、帰って来た残留孤児たちの語れる世代さえも消えて逝くのだ。 武さんとの交流を基に、武さんの語った半生の来歴と武さんの幸せに大きく影響を与える家族の係わりを、丁度うららが、日本が恋しくなった頃、書いたブログから幾らかの繋ぎ上の推測も有るが、短い「残留孤児の物語」に編纂した。 「残留孤児のその後の暮らし」、其の実うららも知らなかった世界だが、テレビドラマの「大地の子」を見て、その壮絶な残された当時の有り様を想像した。 「大地の子は ・・・・凄かったねえ」 とG-さまは言った。意外にも、当の残留者、武さんもこのドラマを見ていて― 「主人公は大変恵まれていた。僕は、あんなものじゃなかった」 と、しみじみと語った。ー これが次の話のきっかけとなったのである。
February 23, 2011
以下文章 67歳うららおばさんの 「私にも出来ます中国生活」のタイトルより抜粋・・・・・・ ・・・・・ ・・・・・・こうして娘から、海外でも使えるらしい新しい3Gの携帯電話2台と、WINDOWS・XPの彼女が使っていた一番新しいパソコンと、ブログの作り方の本を1冊手渡された。・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・「ブログって何なの ?」聞いた事も無い耳新しい言葉で有った。「パソコンを使って日記を書く事よ、今 流行っているのよ。そうだ、お母さん、情報は本にだってなるかもしれないのよ。」娘は返答に、これからブログを書こうとする私の意欲を強めた。「えっ本に。」結構乗り易い親である「そうよ。お母さん達、情報が無くて本を探したでしょう。資料が少ない所に情報提供のニーズが有るンだからね。」娘は説得する。「なるほどね。書くわ、書くわよ。目的が幾つも有るっていいわねえ、結構充実した生活が過ごせるかもしれないわ。」相当単純でもある。老人の渡航中国を心配する子供に、中国生活をそのままブログで伝えるからと約束をした。パソコンのお礼の意味も有る。 以上は ブログより自分で編纂した文章の一部 さて、今日のブログのタイトルの様に 貴方のブログを本に無料で出来ると このブログの下に広告が載ったのよ 。無論二つの目的意識を持って書いて来たブログだったから 1・・・家族とのコミュニケーション 2・・・記録を本に出版したい原稿を即効 ファイルで出版会社に送ったのよ。 日本に帰国した折 ・・・ 「会いましょう」とおっしゃって下さった某出版会社の営業マンに会いましたよ。 結論から言うと、無料は リスクの少ない出版 「 可愛い猫ブログの写真本 」を 見ました多分 ペット動物系 料理系レシピは 無料になる確率が高いと思う だが これ以外は ていうか・・ 有名作家さん以外は 売れない可能性の リスクが有る ・・ ので有料出版 つまり自費出版となる そうだったよ。 出してみないと解らないと言う営業マン ・・・ ちょっと 営業されちゃった感じがあるワ これ、喜んでいいかって 初版1000冊180万円弱 だった よ 高! 無論宣伝や 販路は充分確かだったけれど・・ 自分のブログを校正して貰うと きっと 素晴らしい文章に変身しますよ って言うのも本当 そういう赤ペンだらけの文章を例として見せて貰った。 元々の字など見えなかったワ でも・・餅屋は餅屋で・・ 校正されれば どんな文章でも見違えるワ ブログは 早い話200万円あれば・・・本になるのだと 解った。文章は 書きなおせば書きなおすほど 良くなって行くのが自分でも解る・・・とりあえず・・・ 書きなおしてみよう と思う 電子書籍にしたい!
February 22, 2011
フィギヤースケートを見て・・ 年齢をゴマ化して登録した中国チームを見た お国の為なんだから・・そんな事 いいじゃん っていった人が テレビに映っていた日本でも 年齢制限2ケ月足りなくて 出場出来なかった選手もいる 多分 涙を呑んだだろう 中国では・・年齢は 正確である事より 損か得かの方が 重要である いや そういう人も多い と言っておこう そんな習慣が 公式の選手権大会でも まかり通る と思ってる感覚は・・ やはり お国柄っていう他あるまい スケート選手でなくても・・出生の年号で税金が 変わるので・・(変わったので) 1年多めに 親から登録を 詐称された 女の子を知っている 妊娠した時に 先取りで 登録したのかァー? それとも まとめて後から 登録出来たのかァー それは 解らない ・・ が出来る のよ・・・年齢詐称は 珍しい事ではない お国の為じゃん いいじゃんか って言ってた あのテレビに映った中国人 それってアナタ 中国の中だけだよ まかり通るのは!
February 18, 2011
60歳以上の・・技術者級の・・ 就労ビザの発券をしないって ! 中国は今 日本の技術者がもっと欲しい所でしょうけれど・・・すごい勢いの発展国だもの 技術者がいなくったって その欲しい技術を 戴いちゃう お国ですよ !! その内きっと 追いつき追い越すと 思うわ 事実・・ 中国のGDPが日本を抜いて 世界第2位だって ! ちなみに日本は40数年上位だったそうですが 今や3位 どこでも・・・ 国際出稼ぎ・・ランダム・ブームだよね 出稼ぎだって 中国人の華僑 世界中で仕事をし、すご~く稼いでいるもの、 日本のパチンコ屋のほとんどは 中国人の経営だって言うよ あれって 中国のGDPに 貢献していません ? していない ! でも・・・ 日本の意欲有るリタイヤ組の出稼ぎを 締め出すなんて・・ ズルくなイ ?いや・・・日本の労働戦士は、もう充分働いてきたのだから ・・ 中国では・・・ 観光で入って お金を沢山使って行ってね って 事ね それも 解るケド ・・ うららたち 60歳を 確かに超えているけれど・・・働く事には 全く関係が無いんだけれど・・・ ビザ 取れるか心配しましたよ 使うだけなら い~いんじゃないか! って いう事かな?でも 観光ビザではなく・・・・ マルチビザ 180日が取れましたよ マルチで入るには 中国滞在先住所と 連絡携帯番号の記入と 証明写真が必要でした。
February 17, 2011
春秋航空チケット購入で ・・・ (¥12000円 の 格安)医師の診断書が必要になった高年齢者に該当するG-さまの血圧は 147-87某お医者さまから 診断書を拒否され ・・・ (その時160だった)別のお医者さまから お薬を呑むようにと 勧められました クスリ ?同年輩の30年来薬を呑んでいるというご主人さまはクスリ代 月1000円 35日分だそうですうららの母者も 同じです 月1000円 ジェネリック薬 使用ですが・・ これからずーっと薬を呑み続けるには ・・・ 健康保険が必要になる海外に転出しているG-さまは 健康保険なし・・・10割で月10000円薬代に必要となるうららも ・・中性脂肪値が高い し・・ これから健康保険にも 世話になりそうです そこで・・・再び転入して 健康保険料は幾らになる ? と 麻生区の市民課に尋ねました 健康保険料は 月3400円 介護保険料が夫婦で 月4000円 だったわ (41歳から65歳までは健康保険料に入れて徴収 65歳以上は一人月額2000円) 市民税は ・・・ 年金が少ないので非課税でした 淋しくほっとした。 ちなみにG-さまの年金232万円だったが 妻も年金を受給して目減り199万 これが非課税です 有りがたい事で・・・ いや 有りがたい事 かァー ? 事です! 高血圧の原因は 腎臓系 ホルモン系は1割で 9割は 遺伝 生活習慣 食事に起因すると言われ改善も出来る病気らしいのです クスリ嫌いのG-さまは (自分の健康に自信の有ったG-さまは) たっぷり睡眠と減塩・ダイエットと運動で ・・様子をみたいと言う 転入は ・・・ 戸籍謄本を取り寄せ 麻生区役所に行くだけで いいのです が・・ 次回と 言う事に したいG-さま です G-さまや! 介護保険支払う前に 介護が必要になったり だけは 断じてなりませんように!
February 14, 2011
究極の格安チケットは 何といっても春秋航空チケットです 茨城 - 上海 往復 ¥8000です 片道でも ¥8000 です ただし 18席のみ 購入限定です うららの年齢は高齢者該当 ぎりぎりオーケー だがG-さまは70歳 この高齢者扱いの70歳以上は ・・・ 飛行機に乗っても大丈夫という 医師の診断書が 要る この診断書は ¥2000で書いてくれる 簡単なものでいいの だが 日本の医師は ちょっくらと書いてはくれません 中には心電図をとるとか言ってましたG-さま 半年前のドックで 高血圧と診断されました でも・・・ 最大145 最小90 でしたよ 軽高血圧ですよ さて 近所の医院で測ると 最大が160 2回測っても同じ でした。 よって飛行機に乗っても大丈夫など と言う診断書を 書いてくれません 仕方ないので・・ 反日ドックで かなり詳しく診て貰ったクリニックへ行きました 診断書を書いて貰いましたが ・・・ 血圧のお薬を呑むように 勧められました 薬を呑むのは 常識だ とも言われました 死にたいですか ! っとおっしゃいました 急に心配になり ・・・ 本を2冊買い G-さまは 目下通読中 ですうららも血圧を 測ると ・・・最大140 最小 90 少々高いです これって 高血圧ですよね 危険です さて・・・娘が 「父さん 息を止めないで 測るのよ !」 と言いました実は G-さま 息を止めるのが 癖なんです 呼吸法が悪いのです えっ?そうなんですか ? 知りませんでしたァ 実は夫婦で血圧を測る時 ・・ いつも自然に 息 止めていました 息を止めずに血圧を測るようになった うららは・・・今 最大120 最小80 ちょっと低いそして・・G-さまは・・10時前後に寝て・・・ 充分睡眠を摂る ・・ようになったG-さまは 最大140以下 最小87 に なりましたよ まだ3日目だけれど (本を買ったのが3日前) 一般に高血圧とは 最大 150以上 最小90以上 なのだが ・・・ 世界国際保健機関WHOの基準値では 最大160以上 最小95以上 のいずれか 一方 および両方の 持続した血圧 でしたよー ちょっと幅がある こう言う時には 国際基準でいきたいわでも・・・ 日本の先生で 飛行機に乗るために 診断書を書いて下さる先生 て いませんよ! よって 70歳以上の発生リスク度の高い高齢者 と 妊産婦 怪我人 病人は 診断書がなければ 搭乗出来ませんおまけに ・・航空会社からは 一切のリスクは負わないという 念書も書かされましたよ で・・・ ¥8000円です 無料で持てる荷物は機内持ち込み分合わせて 合計で15キロ迄で 超過は 1キロに付き 1500円です これも厳しい条件です スーツケースがすでに重い(7,8キロ有る) これでは 中身の選別に苦労しそうです船で帰国したうららたち ・・ 着替えも日本に残して戻らねば・・ ポン酢 も ダシつゆの元も 調味料も もって帰れません(戻れません) スカイマークの 花のスチュワーデスも 佐川急便のねえちゃん みたいだったけれど・・春秋航空に おねえちゃんは ・・・ 果たして いるのかなあ ? でも・・ 試しに 乗ってみるわ ちなみに 医師の診断書書いて貰ってる間に ¥8000は売り切れてしまいました 次に安いチケットは ¥12000で 2枚 チャージ代 空港使用代 合わせて 夫婦二人飛行機代 ¥29500 な~り 買いましたよ 東京駅よりリムジンバスで茨木空港まで 二人¥1000円 な―り (但し 春秋航空に搭乗する証明みたいなものが必要です) サービス一切なしの飛行機 って どんなやねん ・・ 興味有りませんこと? 実は ・・・ワタクシ ちょっと ・・・ 怖い のよ
February 13, 2011
この半年で中国入国ビザは いろいろ変わったそうです まず60歳以上の就労ビザ(ジェットビザ)は発券しない 無くなった! つまり日本人60歳以上は 中国で働けないと言う事ですわ 65歳以上のビザを申請するのにも 戸籍謄本が要り様になったんです Lビザ(観光旅行)か Fビザ(マルチ商用)のどちらかで 発券して貰う事になる が 多分Lビザになりそう ・・ これは向こう側が判断する模様でした 大使館員に友好な中国人の旅行社に 2年ビザ 180日の条件で・・ ビザの発券を代行してもらうと代金¥48500円 ・・・ 1万円高くなっていた でも確実に取れる パスポートの印紙代が¥16000円だったので 一人 合計¥64500円 な~り です。 今回パスポートを取るのにも戸籍謄本の附票が必要で 3回パスポートセンターに通った ビザ発券にも戸籍謄本が必要で すでに初回旅行社に行ったが まだ手にしていない あと2回 駒込まで通って ビザ完了となる 合計3回通う事になる 戸籍謄本を取り寄せる ・・ 長く住んでいた九州に残したままだったので・・ 日数も 費用も余計に掛った 不便極まりないのに・・ なぜ引っ越しの時移さなかったか ? と言うと 嫁に出た 娘の名前が 消えるので・・ 娘の名前を戸籍上に 残して置きたいというG-さまの意向 だった ・・・ が すでに 娘の名前は 消えていた!! なぜ? 移すぞー
February 12, 2011
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