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★☆ 神秘的でロマンティックな海辺の公園 ★☆~ 角島観光(「夢崎波の公園」遍)~ 「夢崎波の公園」は、「角島灯台」の周辺の海側に隣接した公園で、北長門海岸国定公園として指定されている「角島」を含む山口県北部の海岸線の日本海に沈む夕日を見ることのできる絶好のスポットになっています。この公園は、灯台の設計者であるイギリス人技師プラントンにちなんで、英国風につくられていて、のんびりと海を眺めながら歩くだけでも、とても神秘的でロマンティックな雰囲気に浸(ひた)ることができます。 公園入り口にある「夢崎波の公園」の案内図板です。公園の全体図が描かれています。この図の上部分が海岸線側を示しています。 ★☆『 h501 TsunoShima no Reihaidou 角島の礼拝堂 HD 』★☆白いベンチと中央にギリシャ風の白い大きな壺、海側の奥に海に向けて設置されている赤い大きな門扉、右側には屋根のある円形の小さな展望台があります。 こうして見ると左右対照的な英国風の公園という雰囲気です。平日の早い時間帯だったので、それほど人はいませんでした。でも、週末は家族連れも多いのですが、恋人やカップルで連れ立って歩く風景もそそかしこに多いようです。 これは、「角島灯台」の上から北西方の海側に向けて撮影した「夢崎波の公園」の一部です。 これも同じく灯台の上から下にある公園を撮影したものですが、やや西寄りに向けて波立つ海の海岸線を見たものです。 これは、灯台の西側直下の公園の状況を撮影したものです。英国風に生け垣や花壇が綺麗に整備されている状況がよくわかります。 これは、公園の北側海岸線を散策すると見つけた海に向けてたたずむ白い大きな社です。おそらく、海の平穏と安全を祈願するための神を奉るために建設されたものなのでしょう。 これは、灯台から北側直下を撮影した観光客用の駐車場です。 写真左は、上の写真の駐車場で見かけたもので、大量に吊したイカを早く天干しするためにクルクルと回転させていました。珍しい風景なので撮影しました。写真左は、そこのお店で美味しくいただいたイカ焼きとサザエの壺焼きです。新鮮なのでなかなか美味でした。 「角島」のことをもっと知りたければこちらをどうぞ!!↓↓↓↓↓ " 「角島ナビ」サイト " (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/08/24
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★☆ 明治9年(1876)生まれの灯台は今も現役 ★☆~ 角島観光(「角島灯台」遍)~ 「角島大橋」を渡り、いよいよ「角島(つのしま)」を道なりにしばらく進行すると、島の西北端の夢ヶ岬にたどり着き、そこには島のシンボルでひときわ目立つ白亜の「角島灯台」があります。この灯台は、イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計したもので、1876年(明治9年)に初点灯、歴史的にも日本海側で最初に設計・建設された本格的洋式灯台とされています。高さは43m、光達18海里(かいり)、レンズは日本でも6箇所しかない特大のフレネルレンズで、第1等灯台に指定されています。他の5灯台は、犬吠埼(千葉県)、経ヶ岬(京都府)、日御碕(島根県)、室戸岬(高知県)、沖ノ島(福岡県)にあるようです。 これは、「角島灯台」の入場券で、 灯台付近の全景が撮影された写真になっています。★☆『 TsunoShima Toudai 角島灯台 』★☆ 灯台周辺の「夢崎波の公園」から「角島灯台」を撮影しましたが、逆光で撮影したためなのか、白くかすんでいますが灯台の全景です。130年以上前に建設されたものですが、石造りなので今でもちょっとやそっとでは崩れないしっかりした構造に見えました。 写真左は、灯台の下から撮影したもので、ロマネスク風の尖塔部分が印象的です。写真右は、この灯台への入場口です。初めてなので、ドキドキでした。 写真左は、この灯台の狭い螺旋(らせん)階段です。写真右は、尖塔部分の外から尖塔部分を覆うガラス窓を撮影しました。青い空と光り輝く尖塔とのコントラストがとても美しく見えました。 これは、尖塔部分の外から下に見る「夢崎波の公園」の駐車場が見えます。ここからの景色はとても絶景でした。ここから見える公園の様子は、次回の「夢崎波の公園」遍でご紹介しましょう。 この左の白い石造り建物は、かってこの灯台を守り暮らしていたイギリス人技師の住居でした。今は、「角島灯台記念館」となり、灯台に関する様々な資料が展示されています。中の部屋にある石造りの洋風暖炉を見ると、いかにもイギリス人が暮らしていたという面影が残っていました。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/08/19
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★☆ コバルトブルーの海に映える白く長い橋 ★☆~ 「角島」観光(「角島大橋」遍) ~ 山口県の北々西端に位置する下関市豊北町の海岸に行くと、コバルトブルーの海に 「角島(つのしま)」と本土を結ぶ白くとても長い橋が見えます。この通称「角島大橋」は、周囲の美しい海や島の景観を楽しめる爽快なドライブコースとしても有名です。ここ周辺は、日本離れした美しい海岸が続いていて、まるでアメリカ西海岸風の雄大で美しい雰囲気を感じることができます。橋を渡った先の「角島」を道なりに進むと、その西北端には、明治時代にイギリス人によって建設・維持されていた白く美しい「角島灯台」、そして、その周囲には駐車場や美しく整備された「夢崎波の公園」があります。今回は、写真を多く掲載する関係上、「角島大橋」、「角島灯台」、「夢崎波の公園」の3回に分けてご紹介することにします。 「角島(つのしま)」は、特牛(こっとい)港沖に浮かぶ周囲17.1kmの島で、以前は本州とは海士ヶ瀬戸で隔てられていましたが、2000年に1780mの「角島大橋」が竣工し、離島へ架けられた一般道路橋としては群を抜く存在となっています(沖縄県の「古宇利大橋」に次ぎ全国第2位)。 橋の本土側にある「角島大橋」と記載のある青い海の波をモチーフにしたモニュメントです。直線的な橋が続き、遠く橋の左手に見える小さい島は、「角島」ではなく、「鳩島(はとじま)」という小島で橋のほぼ中間点付近に位置しています。 橋の本土側の道路の中央から「角島大橋」を「角島」に向けたアングルで撮影しました。訪れた日が平日であったこともあり、交通量はそれほど多くはありませんでした。 「角島大橋」開通以後、「角島(つのしま)」は、テレビドラマや映画のロケ地として取り上げられる機会が増えているようで、2005年公開の映画『四日間の奇蹟』(浅倉卓弥の小説が映画化されたもの)では、ほぼ全編に渡って角島を舞台としたほか、2006年に放映のフジテレビ系ドラマ『HERO』のスペシャル版でも主たるロケ地(ただし、劇中では「虹ヶ浦」と称されている)ともなっています。 写真の左は、橋の本土側から南方の海岸線でコバルトブルーの海の色がとても美しい景観です。海に小さな黒点が見えますが、これはサーフィンで波に戯れ遊んでいた若者たちでした。写真右は、橋の本土側北方にある駐車場から撮影したもので、橋の中間点にある「鳩島」がよくわかります。 これは、上の写真の海岸線のさらに南方に目をに向けて撮影したもので、写真中央左側には十字架のある尖塔のある美しいキリスト教会の建物がとても印象的です。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/08/18
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★☆ 日本の熱い日はここから始まった!! (歴史探訪) ★☆~ 日本を動かした若き志士たちの足音が聞こえる?~ (夏休み特別企画) 山口県萩市のJR西日本山陰本線東萩駅を下車、東南に徒歩で20分ほど歩いたところに吉田松陰(よしだしょういん)を祀(まつ)った「松陰神社(しょういんじんじゃ)」(国指定史跡)がありますが、その敷地内には、江戸末期当時のままの状態で保存された「松下村塾(しょうかそんじゅく)」(国指定史跡)、杉家旧宅(松陰幽閉の実家である旧宅・国指定史跡)、蝋人形で吉田松陰の生涯が再現された「吉田松陰歴史館」があります。この歴史探訪も、記録を残したままの放置状態でブログでの公開をすっかり逃していましたので、時間差での紹介となります(夏休み特別企画!)。この地には、過去、どういうわけか天皇皇后両陛下、皇太子妃殿下をはじめ、総理大臣を退陣した直後の小泉前首相などもご訪問されています。 「松陰神社(松下村塾)」の所在地は、山口県萩市椿東松本1537番地です。この神社前に「松陰神社前」のバス停もあり、電車やバスで訪れることもできますが、この神社内の敷地には、広い駐車場や公衆トイレもありますので、マイカーでの訪問も楽にできます。・・・この「松下村塾」については、ちょっとした思い出があります。それは、REALISTが東京で大学生活をしていたころのある日、大学の親しい友人からREALISTが山口県出身であることを知ってか、「山口ならよく知ってるよ。確か・・萩に有名な『マツシタムラジュク』ってのがあるよね?」と尋ねられ、それを聞いてREALISTは、「・・『マツシタムラジュク』?何?それ?」・・しばらく沈黙・・「ハハハ、それは『松下村塾』って漢字では書くけどさぁー、正しくは『ショウカソンジュク』って呼ぶんだよ!」と答えると、その友人は、「ハハハ、そうなの?そうかぁー!ハハハ」と互いに笑い転げた思い出があります。 この説明文によると・・明治23年(1890年)に松下村塾出身者らの協力で松下村塾を改修、安政6年(1859年)5月に江戸伝馬町で処刑された「吉田松陰」の遺著、遺品類を整理して、吉田松陰(通称・寅次郎)を祀(まつ)り創建されたもので、「明治40年(1907年)に松陰の門人であった伊藤博文らが公式に神社創建を出願した」とあります。 ・・・それから、やはり大学生の夏休みに久しぶりに帰省したある日、今は亡き父が突然、「萩に行こう!」と言い出し、父、母、叔父や兄弟ととても暑い夏の日にドライブで観光に訪れた地のひとつがこの「松下村塾(松陰神社)」でした。この日は、他にも「萩城跡(指月公園)」、「前原一誠旧宅」などにも訪れたようです。 ★☆ 吉田松陰と松下村塾に集うキラ星の如き若き志士たち ★☆ ~ 松陰が幽囚の身で処刑までのわずか2年半余りの門弟指導の場 ~ この小さな小屋の様な建物(8畳)が、最初の「松下村塾」でした。ここでの松陰の教育は、兵学・漢字・歴史・地理・和算など多方面にわたり、塾生は身分や階級のわけへだてなく採用されましたが、比較的、下級武士の子弟が多かったようです。 「吉田松陰」は、天保元年(1830年)8月4日、萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、通称「寅次郎(とらじろう)」、また対外的には「松陰」と名乗っていました。幼くして叔父吉田大助の養子となり、大助の死後、山鹿流兵学師範を継ぎ、わずか11歳にして藩主の毛利敬親の面前で兵学を教授し、その優秀さを認められ、九州・関東・東北遊歴の旅を経験し見聞を広め、江戸で佐久間象山を訪ね師事、嘉永7年(1854年)2度目のペリーの黒船来航の際には、金子重之助とともにアメリカへの密航を企てて失敗、幕府に自首して江戸の獄舎に幽閉され、後に萩の野山獄に移され収容されました。 門下生には、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一・伊藤博文・山県有朋・山田彰義・品川弥二郎・木戸孝允・前原一誠らが育ち、維新の原動力となり、久坂・高杉など途中倒れたものを除き、後の明治政府の中枢を担うことになりました。 安政2年(1855年)に保釈となり、父杉百合之助の預かりとなり、実家で幽囚(刑務所ではないが自宅で監禁された状態)の身となり、幽囚室で講義をはじめ、1857年11月から松下村塾を主宰、門弟が増えたことから、門弟と共に10畳余りの広さの講義室を増築、1858年7月に藩から家学教育の許可も得ましたが、江戸幕府は尊皇攘夷運動は危険と見なし、安政6年(1859年)、大老井伊直弼が「安政の大獄」で幕府に批判的な勢力を弾圧、処刑していますが、吉田松陰もその危険人物の一人と見なされ、再び幽閉の後、同年5月に江戸まで護送され、処刑されました(松陰29歳)。したがって・・処刑されるまでのわずか2年半余り(松陰26~28歳時)が、実質的に「松下村塾」が機能した期間でした。 「松下村塾」の前に設置されている説明文のある木札です。 ★☆ 松陰の力説した「飛耳長目(びじちょうもく)」 ★☆ ~ 松陰の基本姿勢は現代にも通じる ~ 「飛耳長目(びじちょうもく)」は、中国の「管子(かんし)」に出てくる言葉で、儒教でも使われた言葉だそうですが、松陰はこれを兵学の「敵を知り、己を知るが戦略の基本」に通じる考えとして、「世の中の動静に関心をもち、正しい判断をくだすためには、常に情報の収集と分析が大切で、そこから自分のすべきことが見えてくる。」と塾生たちに常々説いていたそうで、この姿勢は、松陰自らが海外渡航を企てたことからも松陰の基本姿勢をうかがい知ることができ、現在社会にも十分通じることだと思いました。 ここは、塾生が増えたことから、松陰や塾生たちが共同で増築した10畳余りの広さのある講義室で、その前で訪れた若者に地元の年配の男性がわかりやすく解説している風景です。この様な風景はずっと以前から変わってはいないようです。 吉田松陰をはじめ、少年の様な門下生たちが炎の様に燃え、歴史的変革をもたらした原動力はいったい何だったのでしょうか?・・それは、「長い鎖国体制の江戸幕府の力ではとても不平等条約を迫る欧米列強にはとても対抗できず、大国である清国(今の中国)や他のアジア諸国同様に、欧米の植民地となるのは時間の問題!!」と、非常な危機感を抱いていたということで・・そのためには、自分たちが立ち上がり、この国難を救うため、時代遅れで古い封建体制を敷く江戸幕府を早く倒し、強力な天皇を中心とする民主的で統一的な新国家(ドイツのワイマール国家の様な)建設が急務で、欧米先進国の工業技術や様々な制度、憲法、法律学、文化などを早く学び吸収しなければならないという使命感の様なものも持っていたようです。 松陰が処刑される直前に詠んだ有名な辞世の句・・「親思う心にまさる親心、今日のおとずれ何ときくらん」・・がある石碑です。死ぬ最後まで親に対する感謝の気持ちを現した松陰最期の句です。松陰は29歳の生涯を終え、その数年後、門下生の高杉晋作も様々な活躍の後、27歳の若さで下関で亡くなります。 これは松陰辞世の句に関する解説文のある木札です。かなり古い様で、長い間の風雪を経過したためか、木札の表面にヒビ割れがあり文字も消えかかっています。 神社の一番奥にある松陰神社の本殿です。付近には社務所もあり、若い巫女さんが様々なお守りなどの売り子をしていました。もちろん、REALISTは、拝殿し、お守りや携帯のストラップを買いました。 神社本殿前でたたずんでいたところ、どこからとなく「ニャァー」と鳴きながら、人見知りもせずに図々しくもREALITにすり寄ってきた猫ちゃんです。人に慣れているので、おそらく飼い猫でしょう。頭を撫でてあげたら満足げにしていましたが、カメラを取り出したところ、恥ずかしがり屋なのか顔をよそに向けてしまいました。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/08/09
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★☆ 若き童謡詩人の巨星「金子みすゞ」探訪 ★☆~ 詩人西條八十から「若き童謡詩人の巨星」と賞賛 ~ 山口県では、種田山頭火、中原中也など多くの文人を輩出していますが、その中でも、最近、多くの国語教科書で作品が採用されている童謡詩人「金子みすゞ」のゆかりの地を訪ねてみました。・・とは、いっても随分以前の訪問なので時間差での紹介となります。訪問先は・・山口県長門市仙崎、JR西日本美祢線「仙崎駅」付近にある通称「みすゞ通り」の一角にある・・金子みすゞが生まれ育った書店兼自宅をリアルに再現した「金子みすゞ記念館」でした。気ままに一人で行くのも良しですが、夏休みなので親子で自由勉強に行くのも良し、可能なら共通の趣味や興味を持つカップルや仲間などで文学談義をする際の話題や知識を盛り上げるために行くのもきっと楽しいでしょう。ただ言えるのは・・行って見て絶対に損はありませんし、決して後悔することはないでしょう。彼女の幼い子供の様なやさしさのカケラに触れた感覚は、きっと癒されるに違いありません。 左写真は、「金子みすゞ記念館」入場パンフレットより抜粋、右はREALISTの愛読書「金子みすゞ」・・本名テル、明治36年(1903年)山口県大津郡仙崎村(現長門市仙崎)で生まれ、20歳からペンネーム「みすゞ」で詩作をスタート、雑誌に投稿を始め、西條八十から「若き童謡詩人の巨星」と称賛を受け、23歳では結婚、童謡詩人会に推されて入会、「日本童謡集」に作品「大漁」、「お魚」が掲載され、長女ふさえも生まれるなど幸せの絶頂期であったが、夫の放蕩(ほうとう)で26歳で離婚の後、睡眠薬自殺 ・・長い間彼女の作品は埋もれたままだったが、手帳に残された512遍の詩が1984年、初の全集にまとめられ、「幻の童謡詩人」として再注目ブームとなり、その代表作が多くの国語教科書に採用されるようになった。長門市仙崎は、山口県の山陰側に位置し、萩市の西隣にある漁業を中心とした小規模の町です。その北側の日本海側には「青海島」があり、付近一帯の美しい海岸線は、北長門海岸国定公園として指定されています。 JR西日本美祢線の仙崎駅の北側に位置する通称「みすゞ通り」に行けば、その道路沿いに「金子みすゞ記念館」があります。昔ながらの町並みのため、道が狭いですが、記念館の裏手には専用駐車場もあります。 ★☆ 「金子みすゞ記念館」に行けば、彼女のエピソードや秘密がわかる! ★☆~ リアルに再現!!金子みすゞが少女・青春時代を過ごした書店兼自宅 ~ 「金子みすゞ記念館」は、天才詩人「金子みすゞ」が生まれてから20歳までの少女時代~青春時代~詩人のスタートに至るまでの長い日々を過ごした「金子文英堂」という書店兼自宅のある2階建ての実家がリアルに再現された建物であり、書店の受付で入場手続きを済ませて、店内から居宅内に入ると当時の古い家具などが置かれた各部屋、炊事場、風呂場、井戸のある中庭、2階に上がるとみすゞの勉強部屋が再現されてありました。居宅から併設されたメモリアル・ミュージアム本館・展示室などに移動すると、そこには彼女が生まれてから、少女時代・青春時代の日々を過ごした多くのエピソードのある遺稿、手紙類の資料・品々・写真、恋愛のお話などなど・・・彼女の詩人としての素地を育んだ出来事の数々が時系列順にわかりやすく展示されていてとても見応えのあるものでした。地味な外観とは打って変わって・・中に入ると若い女性から年配の人、カップルや親子連れまで多くの訪問客・「みすゞファン」でいっぱいでした。 当時のみすゞが生まれ育った自宅は、書店「金子文英堂」を経営しており、父庄之助、母ミチの長女として生まれ、ここで少女時代を経て、大津郡立大津高等女学校の青春時代を過ごし、20歳に詩作活動をスタートさせるまでに過ごした居宅でした。看板類や窓の作りなども当時のままに再現維持されています。この正面入り口に入れば、店内も見慣れない当時の古い書物・雑誌類の表紙で再現されたレプリカの本がズラリ書棚に並べてあり、みすゞのいた当時の世界にタイムスリップした気分になります。左奥には入場整理券売り場の女性店員がいます。この2階の左側の窓がある付近がみすゞの勉強部屋で、古い平机や家具や小物類が置かれて当時の状況が目に浮かぶ様なリアルな再現が施されていました。2階に上がり、「みすゞは、この窓から下の風景をいつも眺めていたのかな?」とついつい下の古い町並みを眺めてしまいました。 中央が「金子文英堂」で、この前の通りが、通称「みすゞ通り」と呼ばれているところです。まだまだ、この一帯は、古い町並みが保存されていて、みすゞが付近を遊んだり通学した当時が容易にイメージできるように感じました。みすゞは、常に優秀な学生で、17歳での高等女学校卒業時にはトップの成績で「答辞」を読んでいます。高等女学校時代の写真の展示もあり拝見すると、明るくはつらつとしたイメージの綺麗な女学生でした。 写真では、人が写っていませんが、わざわざ人通りが途絶えたわずかな瞬間を撮影したものです。この通り自体の人通りはそれほどでもないのですが、「金子みすゞ記念館」の中に入ると、たくさんのみすゞファンや観光客などが資料や作品を興味深そうに見入っていました。この手前の白い建物は、観光客のための休憩棟になっています。ここの資料や展示物の中には、「金子みすゞ」に関するエピソードや恋愛感情的なものもありますが、故人のためにも・・訪問してのお楽しみということでここでは触れずにおきます。 「 金子みすゞ記念館 」のオフィシャルサイト↓↓↓↓↓ Kaneko Misuzu Memorial Museum★☆ 新聞記事に見るみすゞの実父の死亡説は病死 ★☆~ 清国(今の中国)営口で通説の他殺が病死と判明 ~ みすゞの実父庄之助(当時31歳)は、みすゞが3歳当時、上山文英堂書店(下関)の清国営口支店長として海外単身赴任中に死亡しています。その死亡説は、反日の清国人や馬賊に殺害されたという他殺説がこれまでの通説だったようですが、「当時の現地にいる日本人向けの邦字新聞を発掘したところ、急性脳溢血であったことが判明した」という記事が、2006年4月20日付けの読売新聞で報道されていました。そして、余談ですが、みすゞの実母ミチは、みすゞが16歳当時に上山文英堂主人松蔵と再婚しています。当時は、既に国際社会のまっただ中で、日本人も中国などに積極的に海外進出していたという歴史的状況がよくわかります。この記事だけ読んでも、「明治39年(1906年)当時でさえ、既に下関にあった書店が中国に海外支店を置くなどして責任者などの駐在員を派遣して商売していたのだという」、当時の国際環境を知ることができました。松たか子が演じる女流童話詩人・金子みすゞの26年という短い生涯を描く感動作DVD 明るいほうへ 明るいほうへ 童謡詩人 金子みすゞ(DVD) ◆20%OFF!(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/08/04
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