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★☆ 家庭では良き父・夫であり、古参職業軍人の「シュッミット上等兵」★☆ ~ ライフルの腕前は師団一のドイツ陸軍(国防軍)歩兵部隊狙撃手 ~ 引き続き、前回の「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の2人目の戦士に焦点を当てた物語風タッチでのご紹介です。 その戦士は、分隊の中で一番年長の「シュミット上等兵」です。彼は、1941年6月22日発動の「バルバロッサ作戦」の6年前の1935年の29歳当時にドイツ陸軍(国防軍)に入隊した古参の職業軍人です。 「シュミット上等兵」・・・彼はケルン出身の36歳、彼の父親は時計店を経営していたが、1929年の世界大恐慌の波に追われ、ドイツでも経済破綻や企業の倒産、札束は紙くず同然となり、失業者であふれていたが、彼の父親も時計店の倒産となりしばらくは家族が流浪の民同然の極貧生活をしていた。シュミットは、その貧しい中でも父の裕福な祖父方のはからいで、青年時代はギムナジウム職業訓練校で機械工の技術を学んでいた。1933年、ドイツ国内ではナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を取り、国内の急速な復興を目指し、様々な社会資本設備やアウトバーン(ドイツ国内高速道路網)の建設を開始、シュミット自身も1年間この建設作業に従事し生活もやや安定していたが、さらなる生活の安定を目差して、1935年にドイツ陸軍(国防軍)入隊したわけである。 彼は、機械工としてルール地方でしばらく働いていたが、26歳で4歳下の看護師の妻と結婚、シュツットガルトに転居し、今では7歳の長女と6歳の長男がいる。家庭では良き夫であり、子煩悩な父親である。今の悩みは、遠いウクライナまでやってきたために、そんな妻や娘たちともう3カ月近くも会えないことである。それでも慰めになるのは、彼の上着の内ポケットに納まった家族の写真と昨日届いたばかりの妻の手紙である。 シュミットは、歩兵師団一のライフル銃の腕前の持ち主として知れ渡っている。先週は、訓練中の射撃優等者として師団長から勲章を授与されたばかりである。彼の愛着があり、頼りになるこの「モーゼルKar98kライフル」との付き合いは、もう6年を迎えることになるが、暇さえあれば銃の整備は怠らない。銃の分解から組み立てまで、彼の腕にかかれば5分を要しない。彼は、キリスト教徒であるが、仮眠をするときは、家族や自分を含めた分隊仲間、そしてこの銃に対する安全と神の加護を祈ることを欠かさない。 生活の安定のためにと職業軍人となり、有事とばれば命令のままに出動することは当然覚悟していたが、まさかドイツからはるか2000キロを超える地に来るとは思わなかったのが本音である。そして、ロシアの地が想像以上に広大であることも実感した。進んでも進んでもはるか地平線まで続く見渡すばかりの平原、山を越えると再び続く平原の繰り返しであり、この先いったいどうなるのだろうと不安がよぎる。 最近、気になることがある。実は、新兵ハンスのことであるが、彼はまだ23歳で若く、独身である。子供もおらず、兵士としての猛訓練にも耐え抜いた実績があるが、所詮は徴兵された新兵であり、「こんな若い兵士がバタバタと倒れるのは、もう見たくない。どうにか生き抜いて欲しい。」と戦闘中にたびたび願っているほどである。こんな感情が起こるのは、自分が子を持つ父親であるためだろうか・・・。 ドイツ軍人としての誇りと名誉もあり、今おかれた祖国ドイツをスターリンのだまし討ちによるソ連の赤軍の奇襲から救うには、先制攻撃しかないことはよく理解してるが、倒しても倒しても何処からともなく消耗品のようにいくらでも繰り出してくるソ連軍の大部隊にはどの兵士たちも辟易となりかなり神経質になりつつあるようだ。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/29
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★☆ 大学で考古学専攻の研究生だった「ハンス二等兵」 ★☆ ~ ドイツ陸軍(国防軍)歩兵部隊機関銃装填手 ~ 前回の作品「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の作品はかなりお気に入りなので、REALISTの独断と偏見でしばらくその個々の戦士に焦点を当てて物語風タッチでご紹介しようと思います。 まずは、分隊の中で一番若い「ハンス二等兵」をご紹介しましょう。彼は、一番若く、階級も最下位ですが、学歴は彼が最高位なのです。それは、彼は、職業軍人ではなく、徴兵により兵士に採用された新兵だからでした。 ★☆『 Operation Barbarosa 1941 invasion of soviet union 』★☆ 「ハンス二等兵」・・・彼は、ミュンヘン出身の23歳、1940年にドイツ陸軍(国防軍)兵士に徴兵されるまでは、ハイデルベルク大学でギリシャ・エーゲ文明の考古学専攻の研究生だった。しかし、約1年間の歩兵部隊の様々な猛訓練を受け、以前のひ弱そうな体から筋骨隆々の体に変身、今や誰もが認める一人前の若き戦士となり、1941年6月22日発動の「バルバロッサ作戦」に初出動となったわけである。多くの戦友が倒れる中、どうにか生き抜いてシュタイナー分隊のクルーガー上等兵(MG34機関銃手)とコンビでMG34機関銃の装填手を務めている。ハイデルブルクには、高校時代から交際していた恋人がいる。 ドイツ本国から約2000キロを行軍に次ぐ行軍を続け、やっとウクライナの首都キエフに到達した。小隊の半数は戦死、わがシュタイナー分隊も10人から今では生き残りは遂に4人となった。途中、補給部隊の補給をたっぷり受け、MG34機関銃弾のぎっしり詰まった鋼鉄製の収納箱を左肩から体の前後に2個掛けているが、強靭な体にもその重さがしっかり肩に食い込みつらい。 ウクライナの首都キエフは、遠い国だった。でも、66万5000人のソ連軍を打ち破り、市内に入ると・・・驚いたことにウクライナの市民たちからは歓声と拍手や笑顔で手を振り迎えられたことには、驚くとともにうれしかった。市民たちは、わがドイツ軍を「赤軍や共産主義者、ポルシェビキたちからの解放の戦士たち」として歓迎していたのだった。言葉は理解できないが、町の女性や農民たちから食糧やワインの差し入れを受け、非常に好意的であったので、記念写真を撮り合ったり、ハンスたちも好意を示して配給を受けたウインナーソーセージをお返しに与えた。 ハンスは考古学とは全く無関係な陸軍兵士となり、戸惑いや戦争に疑問をもつことがあるが、今回の作戦は、「今、ソ連をたたかないと、スターリンは独ソ不可侵条約を破ることを命じ、国境に集結しつつあるドイツ軍の数倍の兵力を誇るソ連軍が押し寄せて来るのは時間の問題であり、このままではドイツが滅ぶ」という危機感からの作戦と聞かされており、ハンス個人も家族や恋人、国家のためにも、仕方ないことだと思っている。 ハンスたちの歩兵部隊は、ドイツ本国のザクセンハウゼンを発ち、軍用列車でポーランドのワルシャワまで輸送され、その後、輸送トラックに揺られ、スロヴァキア、ハンガリーを経由して来た。身につけた個人装備品は、雑のう、ガスマスクケース、水筒、短スコップ、飯ごう、短剣、ライフルなどを含めると約20キロ以上となる。 彼は、以前、悲惨な戦闘を繰り返す人類の歴史や研究に没頭していた時期もあったが、今の自分がそんな歴史の中に埋没してしまったことに気づいた。 戦地に出てから、ミュンヘンの両親とハイデルブルクの恋人あてに、ここの最初の写真を同封して、近況や異国での珍しい出来事などを書き手紙を送った。ハンス2等兵の胸のポケットには、先日送られてきたばかりの恋人の写真と両親の写真がいつも納まっている。 戦場では、つい先ほどまで笑顔で笑っていた同僚が目の前で突然、敵の攻撃を受け倒れていくことがしばしば、やらなければこちらがやられるという恐怖感・・・・ソ連軍は無尽蔵に繰り出してくる。倒しても倒しても敵の群れが襲ってくる。いったい、この戦争はいつ終わるのだろう?・・・・ ハンスにとって幸いなのは、よき分隊仲間が心の支えになっていることだろう。まずは、勇猛果敢で尊敬できる頼りがいのある分隊指揮官の分隊長であるシュタイナー軍曹、それから、いつも陽気で笑いの絶えないMG34機関銃手のクルーガー上等兵、また、ライフル銃の腕前なら天下一品で心やさしいシュミット上等兵だ。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/25
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★☆ バルバロッサ作戦(1941年)でのキエフ攻略と休息 ★☆ ~ WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941) ~ 1939年8月23日、ソビエト連邦(以下ソ連)とドイツは「独ソ不可侵条約」を締結しましたが、その際にドイツとソ連は、ポーランドを分割占領することを密約しました。まずは、9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、その後ソ連も9月17日に侵攻開始、その結果、9月28日には両国はポーランドを完全分割占領し、事実上ポーランドは消滅しました。 この作品は、「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)です。 1941年9月26日、ウクライナの首都キエフをほぼ攻略、ドイツ陸軍のある歩兵分隊の生き残り4人が建物が崩れ落ちた町の一角を敵の残存兵士がいないか巡回しています。 ★☆『 独ソ戦1941バルバロッサ 中央軍集団映像 BRBAROSSA 』★☆・・・それから、しばらく独ソ間には平穏な日々が続きますが、ドイツ首脳部がスターリンの指示によるソ連軍のドイツに対する大規模な先制攻撃計画(ソ連軍258個師団で一挙にドイツ占領中のポーランドを横断、ドイツ本土内に侵攻)に関する情報を入手、それによって、ヒトラーは激怒し、その攻撃の裏をかくためのソ連に対する先制攻撃計画を命じ、急きょ極秘にその計画が策定されました。 先頭兵士はMG34機関銃を肩に、続いてMP40シュマイザーを肩にかけた分隊長の軍曹、さらにモーゼルKar98kライフルを手にした兵士二人、最後尾の1938年型略帽着用の若い2等兵は、MG34の機関銃弾の入った重い弾薬ケース2個を肩にかけています。 作戦名は、「バルバロッサ(BARBAROSSA)」で、それは、1190年、十字軍を率いて聖地エルサレムを異教徒から奪回した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ・バルバロッサから取ったネーミングでした。これは、異教徒であるソ連の赤軍や共産主義者を殲滅(せんめつ)することと同一視したためでした。 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」 Box Art (By DRAGON) 以前作成した広告円柱のあるロシアの町の一角と今回の歩兵のフィギュアをコラボさせました。街の風景にピッタシ溶け込んでいるように思えました。 1941年6月22日午前3時、ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、ドイツ軍は、歩兵師団164個、機甲師団21個、自動車化歩兵師団10個、空軍3000機で独ソ全国境線での一斉攻撃を開始、この1日だけで1200機以上のソ連軍戦闘機・爆撃機が地上で撃破されました。 ここで、束の間の休息をとることにしました。9月の終わりに近いとはいえ、まだまだ暑さが残っており、ヘルメットを脱ぎ、腕まくりをしています。分隊長は暑さのためか水筒の水をグビグビ飲んでいます。あまりの飲みっぷりに部下たちも興味深く見ています。 また、この作戦には、南方にハンガリー・ルーマニアの14個師団、北正面にフィンランド軍13個師団もドイツ軍との共同作戦に加わっていました。 特にドイツ軍の中央軍集団がめざましい成果をあげ、約1週間で白ロシアの首都ミンスクに到達、7月10日までにソ連軍約32万2000人を捕虜、戦車等車両約3000両、火砲1800門を鹵獲(ろかく)、7月16日には、モスクワの関門となるスモレンスクを包囲殲滅、ソ連軍捕虜31万人、戦車等車両3200両、火砲約3200門を鹵獲しています。 あまりの飲みっぷりに、部下たちは「分隊長!よくそんなに飲めますねぇ!」、すると分隊長は、「ああ、これはだな、ここに来る前に世話になったウクライナ人においしいワインを入れてもらってたのさ!」・・・「あらら・・そうなんすか!」 また、その後、ソ連軍の大規模な反撃もありましたが、その攻撃を撃退、8月7日までにソ連軍25個師団を殲滅、10万3000人を捕虜としました。さらに、東部に侵攻したところ、要塞化されたウクライナの首都キエフが立ちふさがり、これを包囲攻撃の結果、9月26日までにほぼ制圧、ソ連軍66万5千人を殲滅または捕虜、火砲3718門、戦車等車両886両を鹵獲しました。この作戦はほぼ当初の目的を達成していますが、9月30日、さらにヒトラーによるモスクワ攻略のための「タイフーン作戦」が発動されました。 部下が「分隊長!大丈夫ですか?そんなに飲むと・・・」、分隊長は、「なに?心配ご無用さ!俺の家はモーゼル地方でワインを生産しているので、子供のころから飲んでいるから、お茶のようなものさ!」 伸びきった補給線から補給物資が次第に滞り、また、10月から秋の長雨による道路の泥沼化で進撃が進まず、さらにそれに続く厳しい冬が迫り、モスクワまであと数十キロと迫っても冬の装備を欠いたドイツ軍にマイナス40度の厳寒に耐える力もなく、極寒用のエンジンオイルの準備不足からすべての車両は動かず止まり、倒しても倒しても繰り出すソ連軍の集団に対する攻撃もできなくなり、あちこちで損耗していくドイツ軍部隊が敗退していきます。これで、「タイフーン作戦は」失敗に終わるわけです。 機関銃の上等兵が、「分隊長!この戦争はいつごろ終わるのでしょうか?」・・分隊長「さあな、俺にもわからない、国に早く帰れたらいいよな!」 ★☆ このモデルの感想とあるこだわり ★☆ > このモデルは、「DRAGON」という中国の香港に拠点をおく世界的に有名なメーカーの輸入品ですが、御覧のとおり、兵士一人一人のバランスや動きのあるスタイル、顔立ちもいかにもドイツ人らしい彫の深いメリハリの利いたものであり、頭髪の表現についても当時の記録映画か歴史的な写真資料を参考にした様なリアルさはピカ一の素晴らしいものでした。 REALISTは、フィギュアのドイツ兵の頭髪の塗装では、どれも一律に金髪を採用していますが、現実にはそうでなくても、それは単なるドイツ人=金髪だとする頑固なこだわりでしかありません。 部下たち・・「あらら・・・・分隊長殿はまだ飲んでるぜ!」 ドラゴンモデル 1/35 スケール WW.II ドイツ国防軍兵士 行軍バルバロッサ 1941【6105】楽天で購入 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/20
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★☆ モデラー必見の「第2次大戦 ドイツ軍装ガイド」 ★☆ ~ GERMAN SOLDIERS OF WORLD WAR TWO ~ REALISTのプラモデル作成では、そのテーマがリアリズムの追求であるために、必然的にその歴史的考証を求めることになります。つまり、「歴史的に事実や実際はどうだったのか?」ということを知るためには、それに関する資料がどうしても必要になるわけです。たとえば、第2次世界大戦時のドイツ軍将兵の身につけた制服や装備の種類、色彩や色の配分はどうだったのか?大戦初期から終戦時までにどのような変化があったのか?迷彩服の模様やパターン、色の配分はどうだったのか?国防軍の陸軍、武装親衛隊、空軍、海軍兵士の服装やタイプの違いはどうなのか?・・・等々、時系列的な戦車などの新兵器の出現とその当時の兵士の服装や所属部隊との整合性も要求されるわけです。 左は、ドイツ陸軍(国防軍)の突撃砲兵科将校(少尉)の1944年当時の制服姿と右は、野戦時の将校(戦車長や戦闘指揮官)としての少尉の必需品となるドイツ軍特有の喉(のど)マイクとヘッドフォンセット、 1938年型略帽、P38ワルサー(ピストル)用1943年型ホルスターに作戦地図 最近のことですが・・久しぶりに福岡の行きつけのプラモデル店内をブラブラしていると、書籍コーナーでREALISTの目に留まったのが、その表題の「第2次大戦 ドイツ軍装ガイド~GERMAN SOLDIERS OF WORLD WAR TWO ~」とあるA4判大の写真資料集でした。その表紙は、第2次世界大戦時の様々な制服に身を包んだドイツ陸海空軍将兵のカラー写真が掲載されており、被服ばかりか身につけた個人装備類も当時のままが再現されたもので、まさにモデラーや歴史研究家、服飾研究者にとっても必携の基礎資料になるものと断定し、早速購入してしまいました。その結果は、期待を裏切らない実物を使用した貴重で詳細な写真や解説に驚き、感激、満足したわけです。今後は、プラモデル作りの過程で活躍することになるでしょう。 左から順に、1941年時の黒ずくめの戦車兵制服、1944年時の上着及びズボンに多数の収納ポケットが追加された機能的な戦車兵制服(これは従来の黒制服の上に着用できた)、1944年時のオランダ人志願兵の武装親衛隊砲兵将校(少尉)の将校制服姿と迷彩制服姿 、1941年5月20日クレタ島降下作戦に参加した空軍降下(パラシュート部隊)猟兵 本書籍は、フランスで2005年に刊行された「GERMAN SOLDIERS OF WORLD WAR TWO(増補改訂版)」(フランス人歴史研究者のジャン・ド・ラガルド著)を日本語に全訳されたもので、ヨーロッパ全土を席巻した世界最強のドイツ軍について、1939年の電撃戦勝利から1945年のベルリン陥落までの7年間のドイツ陸海空軍及び武装親衛隊将兵が着用した様々な軍装を400点余りの実物写真で年代別に時系列で紹介されており、特殊部隊や迷彩服など珍しい写真も多数収録、被服や個人装備の構造、細部のクローズアップ写真も掲載されていました。ドイツ軍被服装備の主要な知識は全てこの1冊で間に合うのではないかと思います。 左から順に、1944年時の自走砲兵将校(少尉)、1944年時の迷彩スモック、迷彩ヘルメットカバー着用の東部戦線作戦出動の武装親衛隊旅団歩兵(上級曹長)、1943年時のオートバイ兵スタイルの野戦憲兵(上級曹長)、1944年時のドイツ陸軍(国防軍)グロースドイッチュラント師団歩兵将校(中尉)、1940年5月フランス戦線当時の初期のドイツ陸軍(国防軍)歩兵伍長 ここに紹介したのは、その一部の11種類のドイツ陸軍を中心とした制服ですが、陸軍だけでもこの他にも別に多くのバリエーションがあります。これに、空軍、海軍、武装親衛隊を加えると驚くほど多くの種類があることがわかりました。また、大戦初期では、歩兵の長めのブーツが大半なのが、大戦末期に近付くほど、短めの編み上げ式アンクルブーツに変更され、迷彩服や迷彩ヘルメットカバーが多用されたことがわかります。とにかく、7年間でも驚くほどの制服の進化や変遷がわかりますが、旧日本軍や他の連合軍諸国に比べその洗練されたデザインや機能美は見事なもので、ドイツ軍が考案した迷彩服はその有効性が認められ、現在の世界中の軍隊や特殊部隊で受け継がれ採用されています。【中古】 第2次大戦ドイツ軍装ガイド /ジャン・ドラガルド【著】,石井元章【監訳】,後藤修一,北島護【訳】 【中古】afb楽天で購入第2次大戦ドイツ軍装ガイド(ジャン・ド・ラガルド著)(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/16
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★☆ クラシカルなヴァイオリニスト界のきみまろを目指す?! ★☆ ~ 出産直後も全国コンサートを続けるパワフルさ ~ 先日、REALISTの姪(めい)の女子高校生と会う機会があり、黒い収納ケースをとても大事そうに持っていたので、「それは何?」と尋ねると、「ヴァイオリン!部活でやってるの!」と返答があり、間近で見たことがなかったので、その収納ケースを開いて見せてもらった。少し年期の入った感じの木製のヴァイオリンであったが、その付属の弦を見るととても柔らかそうな物だった。興味本位で触ろうとしたら、「それはとても壊れやすい物なので弦には直接触らないで!」と注意された。 そんなこともあり、ヴァイオリンに多少興味を抱いたわけであるが、こちらの地方でも今年の春、ヴァイオリニストの「高嶋ちさ子」はコンサートを開催した。残念ながら日程の調整不能で鑑賞できず残念だったので、コンサートのポスターはそのまま部屋にしばらく掛けていた。 クロスオーバーセレクション クラシックセレクション Shimba ベストコレクション ☆ ★ CD版 ★ ☆☆「クロスオーバーセレクション」→●発売日2005年11月2日/収録時間約63分☆「”クラシック” ・セレクション」→●発売日2005年11月2日/収録時間約62分☆「Shimba ~ ベストコレクション」→●発売日2002年9月21日/収録時間約67分 今日のNHKのテレビ番組”スタジオパーク”を見ていると、たまたま彼女が登場、彼女はまだ出産して間がないそうだが、もうすでに全国をコンサート回りで活躍しているそうだ。出産時の苦労話をしていたが、その語り口調も飾り気がなくて、本人も自認しているように・・とてもひょうきんで面白く楽しそうな人であった。その番組中のアナウンサーとの会話のやり取りの中で・・「私は、クラッシックの女性ヴァイオリニストですが、お高くとまっている存在として見られたくない、”ヴァイオリニスト界のきみまろ”を目指しているんです!・・だから、コンサートでは、積極的に観客を楽しませるような演技やお話をしています。」と言っていたのが印象的だった。これまでのヴァイオリニストの堅いイメージを打ち破るような異色な存在であり、今後の活躍を期待しているところである。 ARIA ベストコレクション freedom~Chisako style music12人のヴァイオリニスト ヴァイオリン・ファンタジ-★ ☆ CD版 ☆ ★☆「ARIA ベストコレクション」→●発売日2003年2月1日/収録時間約77分☆「freedom~Chisako style music」→●発売日2004年7月21日/収録時間約48分☆「12人のヴァイオリニスト ヴァイオリンファンタジ-」→●発売日2008年5月21日/DVD付★最新/58分 コンサートは、これまでソロによる演奏が普通だったが、ここ最近は、高嶋ちさ子と美女12人の一流ヴァイオリニストによる・・動きのあるヴァイオリンのハーモニー的演奏でコンサートを開催して観客を魅了しているそうだ。今回のテレビ番組でも美女12人が初登場、その12人によるバイオリン演奏を鑑賞することができた。また、高嶋の若いヴァイオリニストに対する指導は、かなり厳しいようで・・はしゃぎ過ぎな様子を見かけると、あんな綺麗な顔をしてていても、「キャピキャピするな!」と叱ることもあるそうだ。 ヴァイオリン独特の高貴で歯切れのよい演奏は、とてもすがすがしく、秋の季節の匂いがするような、また、郷愁感のようなイメージを頭に描くことができるようでした。 高嶋ちさ子12人のヴァイオリニスト~Chisako Takshima 12Violinists 「高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニスト」メンバーによるブログ(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/02
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★☆ いつも子供たちを見守ってくれた母の愛 ★☆ ~ かあさん、Mother、Mutter、Mama ~母には心から感謝している。REALISTは、母が21歳の時に生まれた。父はジャーナリズムに生きた人で53歳での定年退職後は、ほとんど仕事らしい仕事もせずに自由に気ままに生きていた。海外特派員の経験もかなりあり、随分と中身の濃い仕事に追われたようで、定年後は好きな読書や文章の創作、郷土史の執筆や若い青年たちを集めての勉強会をしていた。それでも、家計のこともあって父が退職金で菓子工場と店舗を構え、ケーキ類やクッキー、和菓子づくりの得意な職人を福岡から採用した。 真夏の暑い陽射しの中を海水浴を済ませ疲れた表情で歩くREALIST(右)、弟(中)、それを見守る母(左)・・・逆光で父が撮影(REALIST小学2年当時) 当初、職人やアルバイトの他にはいつも母が朝から晩まで働き、父は仕事らしいことは特にせず母に任せていた。そのうえ、販売先の開拓、注文取りから原料の調達、売り上げ金や支払いなどの会計簿冊の整理、税金の支払い、家計簿も別にいつも几帳面に整理して、三人の子供の世話、掃除洗濯、朝昼晩の食事作りから食料品などの買物にも行き、忙しく分刻みで毎日こなしていた。こうして、実質的に家計を支えたのは母一人だった。 その姿は子供の目にもスーパーウーマンに見えて尊敬していたが、半面、気ままに過ごす父に比べ、自由に過ごせる時間もつくらず、ひたすら「子供たちのために」と働いている姿は、とても可哀そうに感じた。それでもケーキや洋菓子などの味や食感が好評を得て売上が伸びたのは幸運であり、クリスマスシーズンなどではデコレーションケーキ・クリスマスケーキ作りでとても忙しくなり家族総出で手伝った。ケーキ工場はケーキのクリームやチョコレートの匂いでいっぱいだった。直径30センチ級のケーキもずらりと並んでいたが、いつも完売で、売り切れ後も多くの客が「ケーキはありませんか?」と買い求めに来たものだった。 そんな母にも得意な趣味があった。それは、洋服づくりや手芸だった。母は、手先が器用でちょっとした暇を見つけては、子供たちに手編みのセーターやカーディガン、上着やズボンまで服飾デザインの本を参考に洒落たデザインに仕上げて作ってくれた。また、その腕を知った近所の女性たちから最新流行のモード雑誌を参考に注文を受けてオーダメイドで女性のツーピース、ワンピースを作り売っていた。母の若いころの夢は、「服飾デザイナーになり、東京で店を構えることだった」といつか本人から聞いたことがあった。東京でというのは、母の兄が日本銀行に勤務しており、東京に住んでいたからだろう。 こうして母は、職人の技をすべて学び取りパティシエとなり、その職人が退職後も頑張り続け、子供たちを大学まで進学させてくれた。父の死から10数年後、それを追うように母も63歳で突然眠るように亡くなったが、REALISTに母のこうした偉大さを超えることは到底できないだろう。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/01
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