温故知新 0
徐福 0
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4、「南北朝・室町時代」南北朝時代の争乱においては、11代信能は足利氏方に属し、土佐国守護であった細川顕氏の下で長岡郡八幡山東坂本において南朝勢力と戦っている。その功で香美郡吉原庄(現・香南市吉川町西部)の他、長岡郡・香美郡・土佐郡の各地に計1134町(後世の天正期検地の石高、1町はおよそ10石)の土地を与えられ、発展の基礎を築いている。12代兼能は、貞和元年(1345)細川氏により吸江庵(現・吸江寺)寺奉行に任じられている。吸江庵は文保2年(1318)に夢窓疎石によって創建された、当時の名刹であった。寺奉行を解任されたという記事は16代文兼までないので、そのまま世襲されたと考えられる。14代能重の代には、至徳3年(1386)頃、吉原庄全域を支配下に収めている。土佐国守護代として細川頼益(細川遠州家 初代)が入部したのは康暦2年(1380)であり、細川氏とのつながりを背景に、吸江庵寺奉行と吉原庄を持ち、相当な勢力を有したと考えられている。 戦国時代に入り、16代文兼の代では、応仁の乱の戦乱を逃れ一条教房(土佐一条氏 初代)が土佐に下向している。文兼は文明3年(1471)、長子元門(17代)を追放しており、それがもとで吸江庵寺奉行を解任され、幾つかの領地も支配下から離れている。元門はこの際に久武氏・中内氏を連れて武者修行に出て、伊勢国桑名において桑名氏を家臣に加えた。これら3氏は、のちに長宗我部氏の三家老に数えられる。文兼・元門の争乱は、元門の弟・雄親(18代)が家督を継ぐことで決着し、雄親は幾つかの寺の再興も行なっている。応仁の乱以後、全国的に争乱が始まる。中央で大きな権力を持った本家の細川政元が暗殺(永正の錯乱)されたことで、土佐守護代の細川氏を含め各地の細川氏一族は京都に上洛。これにより土佐もまた、守護による領国支配が終わって戦国時代を迎えることとなる。この時期の土佐国は、盟主的存在である土佐一条氏の下に、土佐七雄と呼ばれる長宗我部氏を含めた七国人が割拠していた。土佐七雄一覧 (『長元物語』より。1貫 = 1から2石)土佐一条氏 - 土佐国司。七雄にとって盟主的存在。幡多郡 16,000貫*本山氏 - 長岡郡5000貫*吉良氏 - 吾川郡5000貫*安芸氏 - 安芸郡5000貫*津野氏 - 高岡郡 5000貫*香宗我部氏 - 香美郡 4000貫*大平氏 - 高岡郡 4000貫*長宗我部氏 - 長岡郡 3000貫この他、『土佐物語』には山田氏、片岡氏を加えた9氏が有力豪族として記載されている。このように最も弱い勢力であった長宗我部氏は、19代兼序(兼序は法名。正式名は元秀)の時、岡豊城を追われ、一時滅亡する。その経緯には、諸説ある。兼序は主君細川政元存命時はその威を借りて勢力を伸ばしたが前述の政元暗殺後、周辺豪族の反感を買い永正5年(1508)、本山・山田・吉良・大平連合軍3千により落城したという説(『土佐物語』)。吸江庵の寺領問題で、大津城を拠点とした天竺氏に滅ぼされたという説。いずれの説においても、戦乱で兼序の遺児千雄丸は城を脱出し、土佐一条氏のいる中村に落ち延びて保護されたとされる。千雄丸は土佐一条氏当主一条房家の下で元服して長宗我部国親を名乗った。そして房家の配慮により永155年(1518)岡豊城に帰還して長宗我部氏を復興、20代当主となる。国親は本山氏と表向き手を結んだ上で、吉田氏と婚姻関係を結び地位の安定を図ると共に、近在の天竺氏・横山氏・山田氏ら周辺豪族を滅ぼし、勢力を拡張した。永禄3年(1560)には本山氏に反旗を翻し長浜の戦いで敗走させたが、同永禄3年(1560)病死した。国親の跡を継いだ21代長宗我部元親の時代に、長宗我部氏は最盛期を迎える。元親は父・国親の遺志を継いで永禄5年(1562)本山氏を滅ぼし、同永禄6年(1563)には弟・親貞を吉良氏に入れ併合、同永禄12年(1569)には安芸氏を滅ぼしている。*「安芸氏」(あきし)は、土佐の国人領主。土佐国東部の安芸郡を支配したが、戦国時代に長宗我部元親によって滅ぼされた。安芸氏の出自は、通説では壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に味方した結果、土佐に配流となった蘇我赤兄の子孫が土佐の東端である安芸郡などに拡大して台頭し、国人になったものと伝わる。ただし別説も多く、詳細な出自に関しては不明である。室町時代に強勢となった安芸氏は、香美郡大忍庄に侵出して勢力を拡大した。安芸氏が勢力拡大に成功した背景には、安芸川という交通の要衝を利用した貨幣経済の発展に、土佐という土地経営を巧妙に生かして成長したのが要因といわれる。永享11年(1439)、当主の安芸元実(もとざね、摂津守)が摂津国内で戦死(大和永享の乱の影響によるものか)し、分家の畑山氏より安芸元信(もとのぶ)が養嗣子に迎えられた。しかし、応仁の乱で東軍(細川勝元方)へ加勢した元信とその嫡男の元康(もとやす)が共に戦死するなど苦境に見舞われる。
2024年06月15日
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3、「長宗我部の郎党頭」土佐に入国した長宗我部氏は、長岡郡岡豊(おこう、現・南国市岡豊町)の地を拠点とした。当時の土佐国は高知平野(現・高知県高知市中心部)が未開拓地であったことから、香長平野(長岡郡・香美郡)を中心としていた。戦国時代には長宗我部氏は岡豊山に築いた岡豊城を居城としているが、これは初代能俊が入部後に築いたものを南北朝時代に修築、戦国時代において城郭としての規模を整えたと伝えられている。*「岡豊城」(おこうじょう)は、高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている[1]。南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。七雄の抗争は翌年の永正5年(1508)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。 従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574))主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591))新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。) 7代兼光の頃には多くの庶流を出していることから、当時の一般的な支配体制である惣領制により発展したと考えられる。
2024年06月15日
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2、「長宗我部の出自」長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。土佐国長岡郡によった国人の一族で、土佐国の七豪族(土佐七雄)の一つに数えられた。戦国時代に入って勢力を広げ、長宗我部元親の代で他の豪族を討滅・臣従化して勢力を広げて戦国大名に成長し、土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一する。その後も勢力を伸ばし、ほぼ四国統一までこぎ着ける。しかしながら、羽柴秀吉の四国征伐の前に敗れ、土佐一国に減封され豊臣政権に臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。子・長宗我部盛親の代で関ヶ原の戦いに西軍として参戦・敗北し改易される。その後、盛親が大坂の陣で大坂方に味方して刑死したことにより、嫡流は断絶した。他家に仕えるか帰農した長宗我部子孫が、現在に残っている。「長宗我部」の名称と表記、長宗我部氏のよった土佐国長岡郡宗我部郷の名が古くより「宗部」・「曽加倍」[1]と記載されるなど一定しないこともあり、氏の名も「長宗我部」・「長曽(曾)我部」の両方が用いられている。長宗我部氏の出自には諸説あるが、秦氏祖先説が通説である。秦氏祖先説に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏であるとされている。秦河勝は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(587)にて聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功をたて信濃国に領地を与えられたので、子・秦広国を派遣した。*「丁未の乱」(ていびのらん)は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。 大和国から河内国へ入った蘇我陣営の軍は餌香川の河原で物部軍と交戦し、戦後の河内国司の言によれば双方合わせての戦死者は数百に上ったという。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏の軍勢は強盛で、守屋自身も朴の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけ、大いに奮闘した。皇子ら追討軍の軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺し、総大将を失った物部軍は総崩れとなる。この好機に追討軍の寄せ手は攻めかかり、守屋の一族らを殺し、結果守屋の軍は敗北して離散した。生き残った守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。この結果、蘇我氏は親子二代に渡って対立してきた宿敵・物部氏の勢力を中央から完全に排除することに成功し、厩戸皇子と連携して更に権勢を強めていく。また、物部氏を中心としていた仏教反対派の発言力が衰え、仏教の国内浸透も本格化していくこととなった。この頃、厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。)これにより信濃秦氏が始まる。後年、信濃更級郡に居住していた秦能俊(初代 長宗我部能俊)が土佐に入ったのが、長宗我部氏の始まりとされる。能俊の入国時期には諸説ある。延久年間(1069~1073)説。*保元の乱(1156)に際し崇徳上皇方に属して敗戦した結果土佐に奔(はし)ったという説。*承久の乱(1221)において仁科氏と戦い、その功で所領を与えられ地頭となったとする説。これらより、正確な時期はわかっていないが平安時代末~鎌倉時代初期に入国したものと考えられる。能俊は土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷、現 南国市岡豊町・国分周辺)に定住したため宗我部氏を自称したが、近隣の香美郡宗我郷(宗我部郷、現・香南市赤岡町・吉川町周辺)によった宗我部氏を名乗る一族があったため、長岡郡の一字をとって「長宗我部」とし、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」を名乗るようにし、互いに両者を区別したと言われる。1201年には「香宗我部」の書状が見えることから、この時期にはすでに区別されている。 なお、『元親記』などに基づいて長宗我部氏が国司として下向し土着したとする説があるが、国司任官を実証する史料はない。
2024年06月15日
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「長宗我部一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「長宗我部の出自」・・・・・・・・・・・・・・・43、 「長宗我部の郎党頭」・・・・・・・・・・・・・・84、 「南北朝・室町時代」・・・・・・・・・・・・・・115、 「戦国時代の四国情勢」・・・・・・・・・・・・・186、 「元親の阿波・讃岐へ侵攻」・・・・・・・・・・・347、 「長宗我部の調略」・・・・・・・・・・・・・・・508、 「秀吉の元親への降伏交渉」・・・・・・・・・・・689、 「秀吉の四国攻めの開始」・・・・・・・・・・・・8910、「長宗我部元親の降伏」・・・・・・・・・・・・・9911、「戦後の元親とその後」・・・・・・・・・・・・・10712、「元親の逸話と評価」・・・・・・・・・・・・・・11313、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・123 1,「はじめに」長宗我部氏は、中世土佐の武家、長曾我部とも書く。長岡郡宗部郷(元南国市)を領したことから長宗我部氏と称し、岡豊城を本拠に勢力を伸ばした。長宗我部氏の出自には諸説はあるが、まだ明確に解っていない。 室町期には守護細川氏の配下に属して活動していたが、永正4年((1507)京都で細川政元が暗殺されると、国内で孤立を深めていった。 まもなく、当主長宗我部兼序(かねつぐ)は周辺の国人達に襲撃を受けて岡豊城で自害をした。 この時、兼序の子長宗我部国親(くにちか)(1504年~1560年)は幡多郡の一条氏の下で逃れたが、やがて岡豊に戻って長宗我部氏の再興を勧めた。永禄3年(1560)国親が急死すると、その子長宗我部元親が家督を継いで近隣の国人層を次々に従えて、天正3年(1575)土佐統一を達成し、更に阿波・讃岐を制圧し、伊予にも侵攻したが、1585年に豊臣秀吉に従属を拒否し戦いになった。秀吉は毛利氏と連携し元親へ出兵を決意し、羽柴秀長を総大将として四国へ侵攻させた。多くの家臣団が参戦した。黒田孝高に淡路に先鋒と派兵した。元親も各地に防援軍を配置した。讃岐には宇喜多秀家軍が備前・美作の兵を、播磨から蜂須賀軍を編成し、仙谷軍が加わった。秀長軍の率いる大和・和泉・紀伊の軍勢は堺から船出し阿波に土佐伯に上陸し、元親防衛戦を次々突破し、長宗我部元親は最後には折れて秀長の停戦条件を飲み降伏したのである。元親は土佐一国は安堵されて、今後、秀吉に帰順する事で終結したのである。秀吉に敗れて服属した。 秀吉の下で諸国を転戦するが、慶長4年(1599)に元親が死ぬと、家督を長宗我部盛親は翌年の関が原では西軍に属した。このために、徳川家康は土佐一国を長宗我部から没収したところ、遺臣らが反発して浦戸一揆など、度々蜂起が見られた。元和元年(1615)盛親は大坂夏の陣で敗れて殺害され、一族は滅亡した。
2024年06月15日
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「高僧名僧伝・円仁」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「円仁の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「修業時代」・・・・・・・・・・・・・・・・・194、 「入唐八家」・・・・・・・・・・・・・・・・・355、 「唐への留学」・・・・・・・・・・・・・・・・466、 「天台山を目指すも規制と滞在」・・・・・・・・507、 「在新羅人社会の助け」・・・・・・・・・・・・578、 「五台山巡礼」・・・・・・・・・・・・・・・・669、 「長安への求法」・・・・・・・・・・・・・・・7310、「帰国の旅の苦難」・・・・・・・・・・・・・・9711、「円仁帰国後の活動」・・・・・・・・・・・・・9912、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・153 1、「はじめに」円仁(794年~864年)平安前期の天台僧。下野国都賀郡の人。俗姓は壬生氏、父は都賀郡の三鴨駅長麻呂。幼時、栃木県下都賀郡岩舟町に現存する大悲寺の広智に師事し最澄の創始した天台宗触れる。808年(大同3)広智に伴われて比叡山に登り、以後最長の下で修業。814年(弘仁5)の年分得度者として得度。「摩訶止観」を学ぶ。817年、最澄の東国巡錫に随行し、上野国の緑野寺で最澄から伝法灌頂を受け、また故郷下野国の大悲寺で円頓菩薩大戒を授けらえた。823年4月、延暦寺での菩薩大戒受戒にあたって教授師となり、ついで最澄の本願に基ずき12年の籠山に入る。828年(天長5)山内の諸僧の要職により半ばにして籠山を中止。以後、延暦寺から出て天台宗の布教に尽力。835年(承和2)請益僧として遣唐使に随行し渡唐することになり、翌年5月、遣唐使とともに難波を出帆。しかしこの年、および翌年の大宰府からの出発は、逆風にあって2度とも失敗した。838年6月、3度目の渡海に成功し、同年7月、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村、南通県堀港・呂四の中間地帯に上陸。かって師僧最澄が登山した天台山に行くことが目的であったが、許可されず、ひそかに唐にとどまり求法の旅を続けることを決意し、こののち、847年まで足掛け10年間、苦難の求法に明け暮れた。なかでも会昌の廃仏という仏教弾圧の苦しみを現地で体験。その記録は「入唐求法巡礼行記」帰国後、天台宗の布教に専念し、天台座主となる。864年(貞観6)没。866年7月、慈覚大師諡号を贈られた。
2024年06月14日
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8、「山名氏と赤松氏が播磨奪回戦」応仁元年(1467)5月からの応仁の乱では、政則は東軍(細川勝元側)に与した。政則は山名主力が京都に集中しているのを見て、応仁の乱開始直後に山名宗全が率いる西軍と京都で交戦しながら、家臣の宇野政秀らを播磨へ攻め込み赤松氏の旧領であった播磨・備前・美作に侵攻させた。播磨奪回においては赤松家の旧本拠だった事もあり旧臣・牢人から寺社・百姓・土民までが協力して数日で奪回した。他の旧領である備前・美作も応仁2年(1468)までに奪回した[12](加賀半国は富樫政親が奪回)。文明3年(1471)には侍所頭人に任じられるなど、義政の信任と寵愛を受けた。政則は猿楽の名手であり、それが義政に気に入られた理由という。ただし、旧領奪回という悲願が果たされながら、今度は赤松家内部で家督争いが起こった。一族の有馬元家が赤松惣領家の地位を狙って政則に叛旗を翻したのである。政則は応仁2年(1468)に元家を殺害して鎮圧したが、以後の政則は内紛にも苦しめられていく事になる。応仁の乱は文明5年(1473)に東西両軍の首脳である山名宗全・細川勝元が相次いで死去したため、翌年にそれぞれの後継者である山名政豊と細川政元が講和を結んだが、政則はこの講和に最後まで反対した。これは戦乱の終結で奪回した3か国を失う事を恐れたためとされるが、政則が奪回した領国はそのまま赤松家の分国として保全された[15]。播磨支配と相次ぐ内紛文明10年(1478)、応仁の乱が終結した頃から赤松家の播磨支配にも動揺が見られだした。先の有馬氏の反乱の他、文明3年(1471)には赤松家の一族で播磨北部に勢力を持つ在田氏が仙洞御料所の松井荘を横領するという事件を起こした。この時は政則が派遣した宇野政秀と堀秀世により鎮圧された。だが在田氏と政則の対立は続き、文明12年(1480)5月にようやく政則は在田一族を失脚させたが、同年9月には残党が所領を再度横領するなどした。しびれを切らした政則は文明14年(1482)閏7月、在田一族4名を殺害した。この一連の争いは在田氏が赤松惣領家の家督を狙っての事とされている。領国支配の動揺が見られる一方で政則の中央政界における立場も悪化しだした。文明11年(1479)8月、幕府より政則は出仕の停止を命じられた。理由は赤松領における寺社領において将軍・足利義尚の意向に沿わなかったためとされているが、当時の幕府は権力が衰退して赤松家に限らず各地の守護大名がやっていた事であり、理由に関しては義尚とその父で大御所の義政の対立があり、政則は義政の寵臣だった事が原因ではないかと推測されている。文明12年(1480年)10月には播磨で徳政に関連する土一揆蜂起の風聞も流れ、赤松家は土一揆を起こすなら厳しく対処すると宗徒に通告した。このように播磨など旧赤松領内では赤松一族の内紛、中央政界での立場悪化から支配が不安定になっていたが、これは赤松家が再興し播磨を奪回した際に在地の豪族を被官に取り込んでいたから、赤松家の基盤は彼ら在地豪族の協力で成立しており、彼らの協力を得られなければ赤松家そのものが存続できなくなる危険性を孕んでいた事が原因であった。山名政豊との戦い赤松政則が播磨をはじめ、山陽に勢力を回復したため、旧赤松領を支配していた山陰に勢力を張る宗全の孫・政豊との対立・抗争が起こり、応仁の乱の収束後も抗争は続いた。政則は山名領の因幡で強大な勢力を保持していた国人・毛利次郎貞元を支援して因幡守護・山名豊氏を圧迫させたが、政豊により鎮圧された(毛利次郎の乱)。また伯耆でも山名豊氏の弟で同国守護の元之と豊氏の子・政之による争いが起こり、政則は政之を支援して元之の追放を目論むなどした(山名新九郎・小太郎の乱)。このため文明16年(1483)7月に松田元成が山名政豊軍を手引きしたため、山名方の赤松領侵攻が開始された(山名氏の第1次播磨侵攻)。浦上則宗より山名軍に攻められる福岡城への救援を求められると、政則は援軍を送る一方で山名氏の本領である但馬攻めにこだわった。このため赤松軍は軍を二分して山名軍と当たり、その結果同年12月25日に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗し、逆に播磨へと追撃された。大敗により後詰も失敗して福岡城も陥落してしまった。政則は生き残った家臣らと姫路を目指したが途中で行方不明になるなど大失態を演じた。政則の大敗という大失態を知った則宗は激怒した。この大失態により則宗と小寺則職ら重臣らがいったん実権を握り、政則は海路から堺へと出奔した。文明16年(1484)2月5日、則宗は政則の守護職と家督の廃位を宣言し、新たに赤松分家の有馬氏から有馬慶寿丸(有馬元家の孫)を擁立する動きを行ない、他の有力被官である明石・依藤・中村・小寺の各氏を説得し、彼ら全員の総意として幕府に申請を行なった。第9代将軍・足利義尚はこれを承諾したとされるが、『大乗院寺社雑事記』では政則の解任は無効であると記されている。また、政則の失脚はかえって赤松家内部での分裂を激化させ、赤松一族の摂津有馬の他、在田・広岡氏は山名政豊に味方して新赤松を擁立した。堺に逃れた政則は別所則治の助けを得て3月に将軍の義尚と謁見し、12月には播磨への帰還を果たした。これら政則の一連の復帰を助けた別所氏は以後政則の片腕となり、播磨東部守護代に任命されている。また、一連の赤松の内紛を突いた政豊の進撃により美作と備前を奪われ、則宗・則職の専横に他の家臣が反発して政則の復帰を求めて則宗は窮地に陥った。
2024年06月13日
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応仁の乱の頃の宗全は60を越える老齢のためか、若い頃の剛毅な性格はあまり見られなくなった。文明2年(1470)6月には宗全が東軍に降参する、あるいは副将格の大内政弘が赦免を望んでいるという奇妙な噂も流れ、西軍の結束力に乱れが起こった。西軍が擁立した足利義視と畠山義就の不和も生じ、8月には山名一族の山名教之が東軍に転じたという噂も流れたという。このような事態のためか、文明4年(1472年)8月に宗全は家督を政豊に譲っている。嫡子の教豊は応仁元年に死去していたためである。応仁3年(1469)、東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払ったという記録がある。しかし年齢による衰えは隠しようもなく、文明2年には重度の中風に冒されて自筆もできずに花押印を使用していた。またこの頃は宗全が和平を望んでいるという噂が頻繁に流れたという。文明5年(1473年)1月、一族の最重鎮だった教之が死去、後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死した。享年70歳。先年に切腹未遂を起こした時の傷が悪化したのが原因とも言われているが、詳細は不明。死後宗全死去から2ヶ月後の5月11日に勝元も死去、文明6年4月3日(1474)4月19日、政豊と勝元の子政元の間に和睦が成立、細川氏と山名氏の和解が実現した。東西両軍の残存勢力はなおも戦ったが、最終的に文明9年(1477)に終結した。政豊は和睦後も播磨・備前・美作を巡って赤松政則と衝突、文明15年(1483)に政則に勝利して1時は3ヶ国の大半を制圧したが、政則と家臣団が団結して反撃、文明17年(1485)から劣勢に傾き、長享2年(1488)に播磨から撤退、3ヶ国は政則が領有した。また、播磨奪還の失敗から次男の俊豊(としとよ)を擁立した備後国人衆と対立、政豊は俊豊を廃嫡して事態を収拾させたが、国人が力をつけるようになり、領国支配は揺らいでいった。因幡、伯耆それぞれの山名氏も抗争を起こし、没落の端緒となっていった。】 7、「室町時代後期」宗全の死後、家督は孫(四男とも)の山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退してゆく。領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、播磨、備前、美作は赤松政則(赤松満祐の大甥)に奪われ、政豊は奪回を企てるが長享2年(1488)に敗れ、播磨から撤退した。さらに備後守護の嫡男・山名俊豊や備後国人衆とも対立した。戦国大名山名氏政豊は山名俊豊を廃嫡して三男の山名致豊を後継者に決めて、国内混乱の決着をつけた(山名俊豊の子孫は備後に土着し備後山名氏となる)。しかし国人衆の要求を呑んだこと、またその過程で国人衆の支持を取り付けるために各種の特権を与えたため、守護権の縮小に繋がり、結果として国人衆とりわけ守護代の垣屋氏が力をつけた。家臣筋である垣屋氏に城之崎城(豊岡城)を制圧された政豊・致豊は九日市の守護所を放棄し、より守備力がある丸山川対岸の此隅山城に移ったが、そこも攻撃されるような状態となった。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前守護代・浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に山陰道山陽道の領国は奪われていった。更に永正から享禄にかけて但馬・因幡両守護家では内紛状態に陥った。但馬では但馬上守護代・垣屋氏や但馬下守護代・太田垣氏らによって致豊が排除されて弟の山名誠豊が擁立され、因幡では山名豊時の子である山名豊重・豊頼兄弟が守護を争った。1528年(享禄元年)には誠豊が死去し、甥で養子の山名祐豊(致豊の子)が但馬守護家を継ぎ、同じ頃に豊頼の子・山名誠通が豊重の子・豊治から因幡守護を奪ったことで一旦は内紛は収拾された[10]。但馬の山名祐豊は垣屋氏・太田垣氏・田結庄・八木氏ら但馬の有力国人衆を次々と武力で征した。更に一族で因幡山名家の山名誠通が尼子氏の従属下に入る(尼子晴久から偏諱を得て改名し、因幡国の支配権を譲り渡す)とこれを討ち、弟の豊定を因幡へ派遣し因幡守護代(陣代)とすることで、「因幡守護家の山名誠通の遺児が成長するまで政務を後見する」という形で因幡を実質支配した。また、因幡の国人たちに対してもこれを武力で従え、地位を失いつつあった守護大名山名氏を但馬因幡の戦国大名山名氏へと成長させた。なお、正式な守護職は幕府より、出雲尼子氏に与えられていた。豊定の没後はその地位を祐豊の長男の山名棟豊が継いだが早世したため、豊定の子の山名豊数が継承し、また誠通の子山名豊儀が一時期、出雲の尼子氏に支援されて因幡守護家を再興していたともいわれている]。さらに、新興勢力である毛利元就とも手を結び、あるいは対立し、因幡国人および因幡守護家を支援して勢力を拡大しようとする出雲尼子氏ら周辺諸国と抗争を続けた。*「山名 是豊」(やまな これとよ)は、室町時代の武将、守護大名。備後・安芸・山城守護。山名持豊(宗全)の次男。子に頼忠(よりただ)がいる。父とは不仲であり、寛正元年(1460)に兄の教豊が父と対立して播磨へ下向した時に家督を譲られることを望んだが却下されたこと、寛正3年(1462)に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山城で畠山義就と戦ったこと(嶽山城の戦い)、寛正5年(1464)に山城守護職にも任命されたことなどが原因で応仁の乱では東軍の細川勝元方につき、父の率いる西軍と争った。
2024年06月13日
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嘉吉の乱から隠居まで嘉吉元年(1441)6月24日に足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出し、領国の播磨で挙兵した満祐を討つため、7月28日に侍所頭人を解かれた後は同族の山名教清・山名教之や嫡男の教豊と共に討伐軍を率いて但馬から播磨へ侵攻。満祐の城山城を陥落させて鎮圧に貢献し、赤松氏の領国を加えて播磨を獲得、5ヶ国の守護となり(教清は石見・美作、教之は伯耆・備前を領有)、山名熙高の因幡も合わせて10ヶ国の守護職を回復して権勢を得た(嘉吉の乱)。だが、一方で赤松満祐を討つ前から持豊は勝手に自らの守護代らを播磨に送り込み、同国内の所領を横領するなど、幕命を無視する行動を続けており、公家の万里小路時房は持豊が守護に任じられれば「一国滅亡」になると嘆いている。嘉吉2年(1442)に出家して宗峯と号し、長禄年間に宗全と改めた。東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、幕府に申し出て文安元年(1444)にこの3郡も領有した。同年10月に不満を抱いた満政が播磨へ下向したが、翌年(1445)1月から4月にかけて満政を討伐、東播磨を実力で領有した。しかし、この後に赤松氏の領国奪還運動が続いていくことになる。嘉吉3年(1443)には嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせ、文安4年(1447)には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗した。結果、享徳3年(1454)にお家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功、勝元と共に幕政の頂点に立った。享徳3年(1454年)11月2日に赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立、宗全退治を命じられた諸大名の軍勢が京都に集結したが、細川勝元の取り成しで宗全退治は中止され、宗全は家督と守護職を嫡男の教豊に譲り、但馬へ下国。同年、赤松満祐の甥則尚が播磨で挙兵して、教豊の子で宗全の孫に当たる山名政豊を攻撃した。宗全は但馬から出兵して則尚軍を破り、則尚を自害に追い込んだ。結局、但馬で4年間過ごし長禄2年(1458)に赦免されて再び上洛、幕政に復帰した。寛正元年(1460)に教豊と対立して教豊が播磨へ逃れる事件が発生、程なく和解している。寛正3年(1462)に次男の是豊が備後・安芸守護に任命、寛正5年(1464)に山城守護も兼ねたが、勝元の引き立てがあったとされる。元々、明徳の乱で厳罰を受けた山名氏が応永の乱の功績で備後や安芸、石見が与えられたのは大内氏を牽制させる意図であったのに、山名氏が大内氏と結ぶことはその戦略を大きく狂わせるものであったから、この動きに対抗するために宗全と是豊父子の関係に楔を打とうと考えたとみられる(実際、応仁の乱中に勝元は宗全に従う山名政清に代わって是豊を石見守護としている)。三管領家の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持、幕政を巡り婿である勝元と対立するようになった。斯波義廉のみならず、大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶべき諸大名は次第に宗全と関係を深め、宗全は彼らの盟主的存在(「大名頭」)へとなっていった。応仁の乱と最期寛正6年(1465)に男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する。文正元年(1466)には勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる文正の政変を行う。同年12月には畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる。応仁元年(1467)には畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる。さらに御霊合戦では義就に加勢し、政長を駆逐させる。勝元も巻き返しを図り、5月には宗全と対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こり、5月26日の上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まった。宗全は出石此隅山城に各国から集結した西軍を率いて挙兵し、京都へ進軍する。当初室町亭の将軍らを確保した勝元率いる東軍に対して劣勢であったが、8月には周防から上洛した大内政弘と合流し、一進一退の状況になる。文明3年(1471)に小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐された。文明4年(1472)には和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗、5月には宗全は自害を試みている。
2024年06月13日
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文明9年(1477)9月22日には主戦派の畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内国に下国する。そして、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘が、11月11日(1477)に京から撤収したことによって西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。足利義視・義材(後の10代将軍)親子は、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。なお、能登守護の畠山義統や土岐成頼はこの和睦に納得せず、京の自邸を焼き払ったという。西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられる。9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。乱の終了後も畠山政長と義就は戦い続けていたが、山城国では度重なる戦乱に国人が団結し、勝元の後継者であった細川政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485)に山城国一揆を起して両派は国外に退去させられた。また、加賀では東軍に参戦した富樫政親が長享2年(1488)に加賀一向一揆に居城・高尾城を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。 6、、「応永の乱と山名氏再興」ところが、明徳の乱で殺された氏清の遺児らを保護していたのは他ならぬ時熈であり、時熈は惣領として分裂した一族の和解と再結集に努めている。 応永6年(1399)に発生した応永の乱で戦功をあげて、山名氏は備後・安芸・石見の3か国の守護に任じられ、今度は大内氏に対する最前線を務めることになる.その結果、明徳の乱からわずか8年で6か国の守護としての地位を回復した。また、山名時熈は幕政にも深く関与して第6代将軍・足利義教からは長老として遇された。だが、時熈が3男の持豊を後継者にしようとしたところ、将軍義教は自分の側近である次男の持熙を次期当主と定めた上、その持熈が義教の怒りを買って追放後に討たれると持豊が改めて後継者に決定されるという事件発生している。赤松氏討伐と応仁の乱家督を継いだ・山名持豊(宗全)は、嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱で第6代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺されると、同嘉吉元年(1441)、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。この功績によって山名氏は、新たに備前・美作・播磨の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。宗全は、城之崎城・九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。だが、先の家督継承の経緯から持豊は幕府に反抗的な態度を取り、享徳3年(1454年)には第8代将軍・足利義政が持豊討伐の命を下すが、管領・細川勝元の奔走で持豊が一時隠退することで事態を収拾させた。しかし、幕府に復帰した宗全は幕政の主導権をめぐって細川勝元と対立する。また、足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、応仁元年(1467)には応仁の乱の勃発に至った。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である。文明5年(1473)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。宗全の嫡男・山名教豊は山名氏を継承したものの、父に先立ち陣没した。教豊の弟のうち、山名勝豊は山名氏一族が継承していた因幡守護に任じられ因幡山名氏を興し、山名是豊は家督をめぐり父と対立したため細川勝元の陣に加わり、東軍より安芸・備後の守護職に任じられ備後山名氏の祖となる。*「山名 宗全」 / 山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)は、室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。家督相続応永11年(1404年)5月29日、山名時熙の3男として生まれる。同20年(1413)、10歳で元服、4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊 を名乗る。同28年(1421)12月、初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かい、翌年(1422)に京都へ戻った。応永27年(1420)に長兄満時が死去し、後継問題が浮上した。応永35年(1428年)に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じた。間もなく時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。ところが、永享3年(1431)5月には持熙が義教の勘気を受けて廃嫡されたため、永享5年(1433)8月9日に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。病気がちの父に代わって義教に仕え、永享7年(1435)には父が死去、同9年(1437)には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する。永享11年(1439)、正四位下左衛門佐に任官し、翌年(1440)には幕府侍所頭人兼山城守護となる。
2024年06月12日
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応仁2年(1468)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。管領の斯波義廉は西軍についていたものの、将軍・義政から直ちに解任されなかった。このため、将軍が主宰する御前沙汰など、幕府の政務も管領不在のまま行われていた。 だが、応仁2年(1468年)、義廉が幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に和睦を提案、宗全と義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる[30]。足利義視の西軍入り応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注してい。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。細川勝元と山名宗全の死去文明3年(1471)5月21日には斯波義廉(管領)の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。このことで東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった。文明4年(1472)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている。文明5年(1473)の3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去した。宗全の死を契機に、双方で停滞していた和睦交渉が再開されたが、畠山政長と畠山義就の大反対で頓挫している。また、宗全の死後に西軍で擁立されていた西陣南帝も放擲されている。
2024年06月12日
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各勢力の動向応仁の乱は先述の通り御霊合戦を契機に前半は京都を中心とした山城一帯が主戦場となっていたが、次第に地方へ戦線が拡大していった。鎌倉府が管轄する関東地方八ヶ国と伊豆・甲斐は享徳の乱が勃発していたが、足利義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側は西軍と連携する動きもあった。更に、文明7年には関東管領上杉顕定の実父でその後見人でもあった越後守護上杉房定が、西軍の能登守護・畠山義統と共に東軍の畠山政長が領する越中を攻撃するという事件も起きている[16]。東軍は将軍・義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して「官軍」の体裁を整えており、西軍は結果的に「賊軍」の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視と共に西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。開戦と足利義視の西軍攻撃応仁元年(1467年)5月、細川勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨国へ侵攻、山名氏から播磨国を奪還した。また武田信賢、細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ侵攻し、斯波義敏は越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。5月26日の夜明け前には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を成身院光宣が、実相院を武田信賢が占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった(上京の戦い)。勝元は匿っていた畠山政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町御所を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。室町御所を奪還した勝元らは西軍方についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。5月26日、宗全邸の南に位置する一条大宮の細川勝久邸を斯波義廉(管領)の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。続いて赤松政則が南下して正親町を通り、猪熊に攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡した。西軍は勝久邸を焼き払い、続いて成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿、革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが、東軍の抵抗で決着が着かず翌27日に両軍は引き上げた。この合戦で起きた火災で北は船岡山、南は二条通りまで延焼した。足利義政は28日に両軍に和睦を命じ、細川勝元の軍事行動を非難しながら畠山義就の河内下向を命ずる一方、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど復権の動きを取っていた。しかし、6月3日に勝元が要請を行うと、義政は将軍の牙旗を足利義視が率いる東軍に下し、東軍は官軍の体裁を整えた。義視率いる官軍は総攻撃を開始し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに義政の降伏勧告により斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもった。東軍は斯波義廉邸も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。六角高頼、土岐成頼、さらに、斯波義廉(管領)は投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。大内政弘の入京しかし6月14日には大和国の古市胤栄が、19日に紀伊国の畠山政国などの西軍の援軍が到着し始めた。8月23日には周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢1万と2千艘の水軍[27]を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。同日天皇・上皇が室町御所に避難し、室町御所の一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。またこの頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に畠山義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、義就が山名宗全邸の西に移り東軍は劣勢に立たされた。朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
2024年06月12日
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5、「応仁の乱と山名氏」細川氏・山名氏の連携管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。しかし、持国には子が居なかったため、弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣神保氏・遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452)に死去)。このため享徳3年(1454)4月3日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、細川勝元、山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、8月12日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃。難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒。処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬国に下向すると13に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった。なお、文安4年(1447)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。播磨・備前・美作播磨・備前・美作は元は赤松氏領だった所を山名宗全・山名教之・山名政清ら山名一族が嘉吉の乱で奪い取った経緯があり、再興を目指す赤松の遺臣達にとって山名氏との衝突は避けられなかった。長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣の浦上則宗と共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。宗全からは敵視され文正の政変で失脚したが程無く復帰、応仁の乱では在京して則宗と共に西軍と戦った。播磨3ヶ国では宗全を始めとする山名一族は軍勢を引き連れて上洛したため、好機と捉えた宇野政秀ら赤松氏家臣団は3ヶ国の奪還に動き出した。乱勃発直後の応仁元年5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。また、乱における活躍で赤松政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。文明5年に宗全と勝元が死去したことをきっかけに両軍は和睦に動き、文明6年に細川氏と山名氏は単独で和睦を結び戦争から離脱した。赤松政則は和睦に反対したが、文明9年の終戦で3ヶ国守護と侍所頭人の地位を保証され赤松氏の再興を果たし、側近の浦上則宗も侍所所司代として赤松氏の重臣に成り上がった。しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった。備後・安芸備後は宗全の次男山名是豊が治めていたが、宗全と不仲であった所を勝元に籠絡され、山名氏の大半が西軍に属したのと異なり唯一東軍に与した。安芸国は大内氏と武田氏の対立の場となっていて、安芸国人の殆どを勢力下に収める大内氏に対し、武田氏は大内氏に危機感を抱く細川氏の支援で対抗した。文安4年に安芸国で最初の衝突が発生、これ以後は大内氏が度々安芸に侵攻しては勝元が武田氏と反大内の国人を支援して侵略を阻止していった。伊予国で大内氏が河野氏を支援したことも勝元が大内氏と対立する原因となった。乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年7月20日に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。対する武田信賢・国信兄弟と毛利豊元・吉川経基・小早川煕平ら反大内の安芸国人は東軍に加わり、是豊も上洛して東軍と合流した。上洛せず安芸・備後に留まった国人勢力も二分されそれぞれ争ったが、備後は宗全の影響力が健在だったため東軍が不利で、応仁2年11月に是豊が一時 帰国しなければならない程であった。文明元年に是豊は再び上洛、その途上で摂津の大内軍を破り山崎に布陣して翌文明2年西軍と交戦、備後が西軍の加勢でまたもや劣勢になったため12月に帰国した。一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。
2024年06月12日
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しかし翌元中8年/明徳2年(1391)11月、分国出雲の仙洞領(上皇の所領)横田荘を押領したという理由で義満から守護職を解任され京都からも放逐された。さらに先に満幸らが追討した山名時煕・氏之の復帰を義満が認めるという噂を聞き、怒った満幸は氏清の分国和泉を訪ねて誘い、ともに室町幕府と戦う約を誓う。12月、山名軍は丹波で挙兵して京都へ攻め込むが、幕府軍の応戦により敗れて氏清は戦死し、満幸は山陰へ逃れた(明徳の乱)。その後、満幸は剃髪して僧になり一旦は九州筑紫まで逃げるが、応永2年(1395)、京都の五条坊門高倉に潜伏していたところを出雲守護京極高詮の手により捕らえられ、斬られた。満幸の死により再び嫡流の師義流から、時義流の時煕およびその子孫に惣領権が移った。『明徳記』には、満幸は怯懦な性格であると批難されている。】*「土岐康行の乱」(ときやすゆきのらん)は、南北朝時代の康応元年(1389)から明徳元年(1390)にかけて発生した、守護大名の土岐康行が室町幕府に討伐された事件である。美濃の乱、美濃土岐の乱とも呼ばれる。土岐氏、美濃源氏の土岐氏は美濃国で大きな勢力を有し鎌倉幕府の有力御家人となった。土岐頼貞は南北朝の争乱では北朝方について室町幕府から美濃守護職に任じられ、足利尊氏を助けて功績が大きく幕府創業の功臣となった。その孫の頼康は美濃国・尾張国・伊勢国の3ヵ国の守護に任ぜられて評定衆に連なり、土岐氏の最盛期を築いた。三代将軍足利義満の時、頼康は管領細川頼之と不和になって勝手に帰国してしまい、義満を激怒させ討伐令を出されたことがある(後に謝罪して許された)。康暦元年(1379)の康暦の政変では斯波義将とともに細川頼之排斥に動いている。頼康は幕府創業以来の宿老として重きをおいた。嘉慶元年(1387)頼康が70歳の高齢で死去。土岐氏の惣領は養子の康行が継いだ。康行は従兄弟の詮直を尾張守護代とし、弟の満貞を京都代官として義満に近侍させた。将軍専制権力の確立を目指す義満は統制が困難だった有力守護大名の弱体化を狙っていた。嘉慶2年(1388)義満は美濃国、伊勢国の守護職の継承のみを康行に許し、尾張国は満貞に与えてしまった。満貞は野心家で尾張守護職を欲して度々義満へ康行と詮直の讒言をしていた。義満はこの兄弟の不和を利用して土岐氏の分裂を図ったのである。これに激怒したのが尾張守護代の詮直で、満貞は尾張国へ下向するがこれを拒んで尾張国黒田宿で合戦になり、満貞は敗れて敗走した。京へ逃げ帰った満貞は康行と詮直の謀叛を訴えた。義満はこの機を逃さず、康応元年(1389)4月に康行を謀反人と断じて討伐を命じ、土岐氏一族の土岐頼忠・頼益父子が征討に向かった。翌明徳元年(1390)閏3月に康行は美濃国池田郡小島城(岐阜県揖斐川町)で挙兵するが敗れて没落した。康行の美濃国・伊勢国の守護職は没収され、美濃国は戦功のあった土岐頼世(頼忠)、伊勢国は仁木満長へ与えられた。『䕃涼軒日録』によると義満は土岐氏の断絶を考えたが、雲渓支山のとりなしでこれを思い止まり、義満は頼世へ支山に感謝して在所を寄進するよう命じ、頼世は美濃国玉村保を寄進したという。義満の有力守護大名弱体化政策は続けられ、明徳2年(1391)には11カ国を領して『六分の一殿』と呼ばれた山名氏一族が征伐された(明徳の乱)。応永6年(1399)には6カ国の守護だった大内義弘が義満の挑発によって挙兵して滅ぼされた(応永の乱)。美濃守護職は後に土岐頼益へ譲補され、以後、頼益の家系が土岐氏の惣領として美濃国を支配する。康行は明徳2年(1391年)に許されて明徳の乱で戦功を挙げ、応永7年(1400)に伊勢北半国守護に再任された。以後、康行の家系は伊勢守護職を継承して土岐世保家と呼ばれた。満貞は明徳の乱に参戦するが、卑怯な振る舞いがあったと咎められて明徳3年(1392)に尾張守護職を解任されている。尾張守護職は土岐氏から離れて、応永7年(1400年)以降は斯波氏が継承することになった。乱の発端となった詮直は応永の乱の時に大内義弘に呼応して尾張国で挙兵して美濃国へ討ち入り、美濃守護の土岐頼益に敗れている。】
2024年06月12日
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12月30日早朝、氏清の弟山名義数、小林上野守の700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘の300騎と激突して合戦が始まった。大内勢は下馬して雨のように矢を射かけた。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野守は討ち死に覚悟で突撃。義弘は上野守と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。義数も討死、山名軍は緒戦で敗れてしまう。義満は義弘の武勇を賞して太刀を与えた。次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3000騎で激戦となるが、義満の馬廻5000騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ落ちた。氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、一色氏と斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範・満範父子に討ち取られた。こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去った。幕府軍の死者は260余、山名軍の死者は879人であった。戦後明徳3年/元中9年(1392)正月、論功行賞が行われ、山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範(父の範詮は若狭国今富名を与えられて若狭守護領を回復する)、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は山名氏家(反乱に加わったが、降伏して許された)、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられた。11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か3か国に減らされてしまった。また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示した。同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落。応永2年(1395)、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。その後も義満は明徳の和約で南北朝合一を成し遂げ、応永6年(1399)大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼし(応永の乱)、将軍権力を固めていく。一方、山名氏はこの乱では幕府方として活躍し、その戦功により(大内氏を牽制する意図を含めて)山名時熙に備後、山名満氏に安芸、山名氏利に石見が与えられた。満氏・氏利兄弟は氏清の遺児であったが、時熙に匿われてその後赦免を受けていたのである。乱の様子を詳細に記した『明徳記』は太平記の流れを汲む軍記物語で、著者不明で全3巻。同書は資料性は高いものの、幕府寄りの視点で書かれている。*山名 氏清(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。興国5年/康永3年(1344)、山名時氏の四男として誕生。父・時氏が2代将軍・足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。建徳2年/応安4年(1371)に父が没すると長兄・師義が惣領となるが5年後に死去、氏清の弟・時義が後を継いで山名氏の惣領となった。氏清は父の遺領から丹波を相続、天授3年/永和3年(1377)に侍所頭人に任じられ、翌天授4年/永和4年(1378)に次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命された。しかし惣領になれなかった事に不満を持ち、時義と常に対立していたという。元中5年/嘉慶2年(1388)8月17日、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利するという武功をあげ(平尾合戦)、義満から感状を賜る(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。元中6年/康応元年(1389)、時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだ。康暦の政変で管領・細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍・足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍命令として氏清とその甥(婿)にあたる山名満幸に対して時熙、氏之の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時熙を攻めて追放、恩賞として時熙の領国但馬を手に入れた。しかしその後、義満は時熙・氏之を赦免し、時熙を攻めた責任を満幸に問うとまで言い出した。氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に元中8年/明徳2年/(1391)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。妻も殉死しようとしたが叶わず3年後に死去した。】*「山名 満幸」(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395)3月31日))は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。父師義は山名氏の惣領であったが、天授2年/永和2年(1376)の死後、長兄の山名義幸ではなく惣領に叔父の時義がなったことに強い不満を抱いていた。 義幸の下で守護代として働いていたが、義幸が病の療養のため国もとの所領に下国すると師義流の家系の長となり室町幕府に出仕、弘和元年/永徳元年(1381)に丹後・出雲・隠岐の3ヶ国の大守護となる。元中6年/康応元年(1389)、時義が没してその子の時煕が惣領を継ぐことになると、山名氏嫡流の血筋を自認する満幸の不満が頂点に達した。翌元中7年/明徳元年(1390)、将軍・足利義満に命じられて叔父で舅の氏清と共に、時熙およびその義兄弟(時義の養子)となっていた次兄の氏之を攻め勝利した。その功により氏之の領国伯耆が与えられた。これにより4ヵ国の守護を兼任する満幸の勢力は山名氏中最大となり、自他ともに認める惣領の地位に就いたかにみえた。
2024年06月12日
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これに対して、氏清とその婿の満幸が不満を示す。元中6年/康応元年に時義が死去、惣領と但馬・備後は時義の息子時熙が、伯耆は時義の養子になっていた時熙の義兄弟の氏之に与えられた。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていった(義幸は永徳元年/弘和元年(1381)に病を理由に丹後・出雲・隠岐守護を辞任、満幸が3か国を継承した)。また、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代家臣、師義が佐々木氏(京極氏)に追われた後も彼に随従したことから重用された出雲出身の家臣、支配地域で新たに登用された家臣に分かれて争うようになり、それが主家一族の内紛に拍車をかけた[1]。明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。時熙と氏之は挙兵して戦うが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め、翌元中8年/明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落した。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。備後も満幸の兄義熙が継承したが、同年に細川頼之に交替させられた。山名氏との対決義満の挑発山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放したが、氏清と満幸の勢力が強まってしまった。義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行っていく。元中8年/明徳2年(1391年)、逃亡していた時熙と氏之が京都に戻って清水寺の辺りに潜伏して義満に赦免を嘆願。義満がこれを許そうとしているとの噂が広まった。氏清は不安になり、同年10月の義満を招いての宇治の紅葉狩りを直前になって病を理由に中止してしまい、義満の不興を買う。3月に斯波義将が管領を罷免され、後任の管領に頼之の弟で養子の頼元が就任、四国に逼塞していた頼之が赦免され上洛したことと、政変に参加していた土岐氏が勢力削減されたことから義満は斯波派の打倒も図ったと推測されている。その一方で、山名氏の内紛は観応の擾乱において時氏と師義が一時的に対立して以来の長期にわたる構造的な問題であること、時熙と氏之が討伐された後に氏清が山城守護に任じられた理由が説明できないことから、足利義満による守護大名家惣領への権力集中を回避する政策があったとしても、山名氏そのものに対する一族への分裂策や挑発が実際にあったかどうかは不明で、むしろ山名氏の内紛の深刻化に乱の原因を求めるべきであるとする考え方もある。同年11月、満幸の分国出雲において後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪され京都から追放されてしまった。仙洞領の保護はかつて応安大法によって規定されたもので、同法の施行時には守護や守護代が召集されて、当時幼少であった将軍義満および管領細川頼之から直々に遵守を命じられた経緯がある土地政策の基本法令であった。当時、幕府による守護統制は重要な課題となっており、幕府にとって重要法令と言える応安大法を無視した守護・満幸に対して解任という厳しい処分を下すことで、他の守護に対しても警告を示すと言う側面もあった。怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。氏清もこれに同意して一挙に京へ攻め上ることを決意する。満幸を分国丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせ、氏清は堺に兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説いた。義理は躊躇するが遂に同意した。氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜される。幕府に氏清、満幸謀反の報が12月19日に丹後と河内の代官より伝えられた。幕府重臣らは半信半疑であったが氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)が一族と合流すべく京都を退去するに及んで洛中は大騒ぎになり、重臣達も山名氏の謀反を悟る。12月25日、義満は軍評定を開き、重臣の間では和解論も出た。氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、必勝を確信していたわけではなかった。山名氏の勢力は強大であり、時氏の時代には山名氏の軍勢によって2度も京都を占領されているからである。義満は和解論を退け「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決める。内野合戦幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機した。一色氏は若狭国の守護であったが、前任守護の斯波氏の時代に小浜など若狭国の主要部を占める今富名が恩賞として山名氏に与えられたために守護領のほとんどが失われて以来、歴代の若狭守護は領国経営の基盤を持てずに苦しんでおり、山名氏に対する強い反感を持っていた。山名軍は決戦を12月27日と定めて、氏清の軍勢3000騎は堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍した。丹波路を進む満幸の軍勢は26日には内野から三里の峯の堂に布陣する。しかし、氏清は河内守護代遊佐国長に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始める。12月29日夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り3隊に分かれて京に進撃。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけた。闇夜の進軍のため各隊の連係は乱れがちで各個に京へ突入することになった。
2024年06月12日
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永享7年(1435年)7月4日、京都で69歳で死去。法名は大明寺殿巨川常熙大居士。但馬黒川(兵庫県朝来市)の大明寺に葬られた。また、父時義と並ぶ墓と木像が兵庫県豊岡市の円通寺にあり、この2つの寺や大同寺・楞厳寺など時熙が中興開基・創建した寺が多く残されている。山名氏は明徳の乱で没落したが、時熙の代で勢力を取り戻し、安芸守護に満氏が、石見守護に氏利が、因幡守護に従弟で猶子となった熙高が任命され、時熙と氏之の領国伯耆と合わせて7ヶ国の領有を果たした。山名氏の家督は時熙の家系が受け継いでいった。*「山名 満幸」(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395)3月31日)は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。父師義は山名氏の惣領であったが、天授2年/永和2年(1376)の死後、長兄の山名義幸ではなく惣領に叔父の時義がなったことに強い不満を抱いていた。 義幸の下で守護代として働いていたが、義幸が病の療養のため国もとの所領に下国すると師義流の家系の長となり室町幕府に出仕、弘和元年/永徳元年(1381)に丹後・出雲・隠岐の3ヶ国の大守護となる。元中6年/康応元年(1389)、時義が没してその子の時煕が惣領を継ぐことになると、山名氏嫡流の血筋を自認する満幸の不満が頂点に達した。翌元中7年/明徳元年(1390)、将軍・足利義満に命じられて叔父で舅の氏清と共に、時熙およびその義兄弟(時義の養子)となっていた次兄の氏之を攻め勝利した。その功により氏之の領国伯耆が与えられた。これにより4ヵ国の守護を兼任する満幸の勢力は山名氏中最大となり、自他ともに認める惣領の地位に就いたかにみえた。しかし翌元中8年/明徳2年(1391)11月、分国出雲の仙洞領(上皇の所領)横田荘を押領したという理由で義満から守護職を解任され京都からも放逐された。さらに先に満幸らが追討した山名時煕・氏之の復帰を義満が認めるという噂を聞き、怒った満幸は氏清の分国和泉を訪ねて誘い、ともに室町幕府と戦う約を誓う。12月、山名軍は丹波で挙兵して京都へ攻め込むが、幕府軍の応戦により敗れて氏清は戦死し、満幸は山陰へ逃れた(明徳の乱)。その後、満幸は剃髪して僧になり一旦は九州筑紫まで逃げるが、応永2年(1395)、京都の五条坊門高倉に潜伏していたところを出雲守護京極高詮の手により捕らえられ、斬られた。満幸の死により再び嫡流の師義流から、時義流の時煕およびその子孫に惣領権が移った。『明徳記』には、満幸は怯懦な性格であると批難されている。】*「明徳の乱」(めいとくのらん)は、南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。山名氏は新田氏の一族であったが、山名時氏の時に鎌倉幕府に対する足利尊氏の挙兵に従い、南北朝時代の争乱でも足利氏に味方して功があった。観応の擾乱では尊氏の弟足利直義に加担して戦い、直義の死後は幕府に帰参するが、再び叛いて南朝に降って一時は京都を占領する勢いを示した。その後は直義の養子直冬を助けて戦い山陰地方に大きな勢力を張り、2代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の5か国の守護となった。時氏の死後も山名氏は領国を拡大する。惣領を継いだ長男の師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国(正確には68か国だが、1、.陸奥・出羽は守護不設置なので除く、2、「嶋」扱いなので対馬・壱岐を除く、3、 狭島・遠島扱いの隠岐とあまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いの志摩を除いたため通称全国66か国にしたとの3説あり)のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。「将軍権力の強化」室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものであった。正平24年/応安2年(1369)に3代将軍に就任した足利義満は将軍権力の強化を図った。天授5年/康暦元年(1379)、康暦の政変により幕府の実権を握っていた管領細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任する。義満は細川氏と斯波氏の対立を利用して権力を掌握。直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化した。これに加えて、義満は勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る。元中4年/嘉慶元年(1387)、幕府創業の功臣であり、美濃、尾張、伊勢3か国の守護である土岐頼康が死去した。甥の康行が後を継いだが、義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発して康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中6年(1389)に義満は康行討伐の命を下して、 翌明徳元年/元中7年(1390)にこれを下した(土岐康行の乱)。康行は領国を全て取り上げられ、康行の弟満貞が尾張を領有、土岐氏の惣領は叔父の頼忠に移ったが、美濃一国の領有しか許されなかった。義満の次の狙いは11か国を領する山名氏であった。山名氏の内紛山名師義は天授2年/永和2年(1376)に死去し、4人の息子義幸、氏之、義熙、満幸は若年であったため、中継ぎとして末弟の時義が惣領となった。
2024年06月12日
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*「山名 氏清」(やまな うじきよ)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護。興国5年/康永3年(1344)、山名時氏の四男として誕生。父・時氏が2代将軍・足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。建徳2年/応安4年(1371)に父が没すると長兄・師義が惣領となるが5年後に死去、氏清の弟・時義が後を継いで山名氏の惣領となった。氏清は父の遺領から丹波を相続、天授3年/永和3年(1377)に侍所頭人に任じられ、翌天授4年/永和4年(1378)に次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命された。しかし惣領になれなかった事に不満を持ち、時義と常に対立していたという。元中5年/嘉慶2年(1388)8月17日、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利するという武功をあげ(平尾合戦)、義満から感状を賜る(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。元中6年/康応元年(1389)、時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだ。康暦の政変で管領・細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍・足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍命令として氏清とその甥(婿)にあたる山名満幸に対して時熙、氏之の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時熙を攻めて追放、恩賞として時熙の領国但馬を手に入れた。しかしその後、義満は時熙・氏之を赦免し、時熙を攻めた責任を満幸に問うとまで言い出した。氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に元中8年/明徳2年/(1391)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。妻も殉死しようとしたが叶わず3年後に死去した。】*「山名 時義」(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人・小侍所別当、美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護。応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)は孫に当たる。正平元年/貞和2年(1346)、山名時氏の五男として誕生。父に従い中国地方を転戦、正平18年/貞治2年(1363)秋、足利直冬や南朝と結んで度々室町幕府に反抗していた父が幕府の誘いを受け帰参を表明した際、時義は兄・氏冬と共に父の名代として上洛し、2代将軍・足利義詮に謁見、美作守護に任じられた。但し、正平21年/貞治5年(1366)に次兄・義理に交替させられている。建徳2年/応安4年(1371)に父が没し長兄・師義が惣領となった時は伯耆を受け継ぎ、天授元年/永和元年(1375)には幕府により侍所頭人、小侍所別当に任じられた。翌天授2年/永和2年(1376)、師義が49歳で病死し、弟の一人である時義が山名氏当主となり、合わせて但馬守護職も継承した。時義の相続には甥で師義の子・山名満幸や兄・氏清が不満を持ったとされ、後の山名氏における内紛の原因となる。文中元年/応安5年(1372)に但馬に此隅山城を築城、天授5年/康暦元年(1379)に起こった康暦の政変で今川了俊に代わって備後守護に任じられ、元中元年/至徳元年(1384)に侍所頭人に再任された。山名氏はこの時点で全国66ヶ国の内11ヶ国も領有、「六分一殿」の通称を付けられる程の勢力を誇った。元中6年/康応元年(1389)、死去。享年43歳。長男・時熙が惣領と但馬を、甥・氏之が伯耆を継いだが、程なくして「時義は生前将軍に対し不遜な態度があり、時熙と氏之にもそれが見られる」として3代将軍・足利義満から命じられた氏清・満幸らの追討を受けた。更に時義の死から2年後の元中8年/明徳2年(1391)には時熙・氏之を赦免した義満の挑発により挙兵した氏清・満幸らが敗死し、山名氏の勢力は大きく衰退した(明徳の乱)。墓所は兵庫県豊岡市の円通寺にあり、時熙と共に墓と木像が伝えられている。】*「山名 時熙」(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。室町幕府相伴衆、侍所頭人、但馬・備後・安芸・伊賀守護。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟(従兄)に氏之。正室は山名氏清の娘(山名師義の娘とも)。子に満時、持熙、持豊(宗全)。猶子に熙高(ひろたか)。官位は宮内少輔、右衛門佐、右衛門督。法名、常熙(じょうき)。康応元年/元中6年(1389)に父が死去し、家督を相続。しかし、山名氏の惣領権を巡る争いから明徳元年/元中7年(1390)3月には氏之と共に3代将軍足利義満から討伐を受け、伯父の山名氏清、従兄の山名満幸(氏之の弟)らに攻められ、但馬から備後へ逃れ、但馬を取り上げられ氏清に替えられた。翌明徳2年/元中8年(1391)には義満に赦免され、氏清らが挙兵した明徳の乱では義満の馬廻勢に加わり戦い、戦後氏清の分国但馬を拝領する。だが、一方でこの乱で敗れた従兄の満氏(みつうじ、氏清の子)・氏利(うじとし、同)兄弟や従弟の熙高(ひろたか、叔父高義の子)を秘かに匿っていた。応永6年(1399)に堺で大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、備後の守護となる。相伴衆として幕政にも参加し、4代将軍足利義持から6代足利義教時代まで仕える。応永21年(1441)、永享4年(1432)には侍所頭人を務め、畠山満家と共に宿老となる。応永23年(1416)に鎌倉府で起こった上杉禅秀の乱では、同時期に京都から出奔しようとした足利義嗣と共に内通疑惑をもたれる。応永34年(1427)の赤松満祐出奔事件では討伐軍に加わる。永享5年(1433)に家督を持豊に譲り、日明貿易に関する横領疑惑で失脚。
2024年06月12日
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4、「六分一殿と明徳の乱」時氏から惣領を継いだ長男の山名師義は丹後・伯耆、次男の義理は紀伊、3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城・和泉、5男の時義は美作・但馬・備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。師義の後は病弱だった嫡男の義幸でなく、師義の5弟の山名時義が惣領となり時義の後は山名時煕が継承した。この時煕の惣領継承には、師義の3男の山名満幸が、強い不満を持っていた。1390年(元中7年・明徳元年)、将軍・足利義満の命により満幸と氏清(満幸の義父で叔父)が時煕を攻め但馬国外へ追放した。しかし1391年(元中8年・明徳2年)、時煕を許すという将軍義満の変心に対し満幸は、氏清・義理の両叔父と共に幕府に対して挙兵(明徳の乱)、同元中8年・明徳2年12月には山名軍が室町幕府のある京都を制圧したが、最終的には幕府軍の反撃にあって満幸は逃亡、後に捕えられて処刑、氏清も戦死、義理は出家して没落した。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時熙の但馬守護職、氏之(満幸の兄)の伯耆守護職、氏家(氏冬の子)の因幡守護職のみとなり、一族は大幅にその勢力を減少させた。山名氏の惣領は時煕に戻り、師義の嫡男・山名義幸および嫡孫・師幸は伯耆国日野郡で山名日野家として続く。*「山名 師義」(やまな もろよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所所司、丹後国・伯耆国・但馬国守護。嘉暦3年(1328)、山名時氏の嫡男として誕生。父に従い興国2年/暦応4年(1341)の塩冶高貞追討と正平2年/貞和3年(1347)の楠木正行との戦闘に参加、観応の擾乱では足利尊氏ら北朝方に属し父・時氏が足利直義ら南朝方に寝返った後も北朝に留まり、正平7年/文和元年(1352)の八幡の戦いでは尊氏の嫡男・義詮と共に南朝の男山を攻めている。しかし、若狭国にあった所領の知行を佐々木道誉に妨害されていることに怒り、父や兄弟達と共に南朝に帰順、直義の養子・直冬を奉じて北朝方の赤松則祐と争い、中国地方における勢力拡大に務める。正平18年/貞治2年(1363)に父が北朝に帰順すると、丹後・伯耆の守護職を引き継ぐ。幕政においては管領・細川頼之らと派閥抗争を繰り広げた。建徳2年/応安4年(1371)に父が死去すると惣領となるが、5年後に師義も49歳で死去。嫡男・義幸は病弱で他の息子も幼少のため、弟・時義が後を継いだが、これが山名一族内紛の一因となる。また、伯耆に打吹山城を築き、時氏統治時代の居城田内城から移転している。】*「山名 義理」(やまな よしただ/よしまさ)は、南北朝時代の守護大名。美作国・紀伊国守護。延元2年/建武4年(1337)、山名時氏の次男として誕生。正平21年/貞治5年(1366)、弟・時義に代わって美作守護に任ぜられる。建徳元年/応安3年(1370)6月、内談に出仕。天授4年/永和4年(1378)、紀伊で挙兵した南朝方の橋本正督討伐を命じられ弟・氏清と出兵、紀伊守護を兼ねる。元中8年/明徳2年(1391)、山名氏の弱体化を図る3代将軍・足利義満の挑発に乗って氏清と甥・満幸が謀叛を決断。氏清は義理の分国紀伊を訪ねて同心を説得、義理は躊躇するが、氏清の熱弁に圧されて同意する。氏清と満幸は挙兵して京へ攻め込むが敗れて氏清は討死、満幸は逃亡した。義理は兵を発せずに紀伊から動かなかった(明徳の乱)。乱後に義理は義満に謝罪するが、義満は許さず紀伊と美作を没収して大内義弘と赤松義則へ与えた。美作の兵は赤松義則に降伏、元中9年/明徳3年(1392)に大内義弘は兵1000騎をもって義理が在国している紀伊へ討ち入った。義理は抗戦を試みるが紀伊の国人は皆背いてしまった。義理は一族63人と共に舟で脱出して紀伊由良湊まで逃げ込み、この地の興国寺で子の氏親、時理ら17人と共に剃髪して出家した。その後の動向は不明。孫(義清の子)の山名教清は後に嘉吉の乱で功績を挙げ、石見国及び美作守護として大名に復帰した。*「山名 氏冬」(やまな うじふゆ)は、南北朝時代の武将。因幡国守護。略歴山名時氏の三男として誕生。観応の擾乱では足利直義方に属した父・時氏に従い、兄弟達と共に播磨国・美作国などの守護である北朝方の赤松氏と争い、山名氏の中国地方一帯における勢力拡大に務める。正平18年/貞治8年(1363)に山名一族は北朝に帰順し、氏冬は因幡の守護を任じられる。】
2024年06月12日
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3、「南朝時代と山名氏の台頭」南北朝時代、新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従った。尊氏が征夷大将軍に就任、室町幕府を開くと、時氏は建武4年(1337)に伯耆国の守護に任じられ、以降南朝方の勢力の根強い山陰地方の守護に任じられて最前線で戦い、守護大名として大勢力を張った。山名を称する武家も複数あったが時氏は山名氏宗家として尊氏から公認され先祖にちなむ「伊豆守」に任じられた。その後の観応の擾乱では足利直義に従ったが、室町幕府第2代将軍・足利義詮時代には幕府側に帰参し、赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで数えられるに至った。*「山名 時氏」(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、引付頭人。伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる。嘉元元年(1303)あるいは永仁6年(1298)、上野国の新田氏の一族である山名政氏の子として誕生。今川貞世の著した『難太平記』によれば民百姓の暮らしをしていたとされるが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は貞世がライバル関係にある山名氏を貶めたものと考えられる。その一方で、鎌倉幕府において活躍していた山名氏は庶流である山名重家(山名義範の子)や山名朝家(山名重国の子)の子孫であり、朝家の兄・山名重村の子孫である嫡流の活動は確認できない(重村は時氏の高祖父にあたる)とする指摘もあり、この指摘が正しければ貞世の記述が必ずしも山名氏(嫡流家)を貶めたものとは言えない、ということになる。なお、重家や朝家の子孫は鎌倉時代末期の政争や幕府の滅亡に伴って没落しており、時氏こそが山名氏の嫡流の地位を回復させた人物と言うことになる。足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加、その功で延元2年/建武4年(1337)には名和氏の本拠である伯耆守護に任ぜられる。その後も南朝との戦いで楠木正行、名和氏の掃討などを行い、興国2年/暦応4年(1341)の塩冶高貞討伐で功績を挙げ、その功で丹後・出雲・隠岐守護となり、正平2年/貞和3年(1347)に楠木正行と戦い敗北したが、翌年に若狭守護となる。正平5年/観応元年(1350)、室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟である直義と、足利家執事・高師直の対立が発展して観応の擾乱が起こると、時氏は初め師直を推して直義排斥のクーデターにも参加するが、12月に京都を脱出して南朝に属し、師直を滅ぼした直義に従う(ただし、出雲にいた嫡男・師義は離反して尊氏に従っている)。翌正平6年/観応2年(1351)に直義が死去すると一時は将軍派に転身するが、出雲や若狭守護職を巡る佐々木道誉との対立もあり、正平8年/文和2年(1353)には師義と共に室町幕府に対して挙兵して出雲へ進攻、6月には南朝の楠木正儀らと共に足利義詮を追い京都を占領するが、7月には奪還される。時氏は領国に撤退した後、尊氏の庶子で一時は九州で影響力を持っていた足利直冬を奉じ、翌正平9年/文和3年(1354)12月には斯波高経や桃井直常らと再び京都を占領するが、撤退。その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨国の赤松則祐とも戦う。幕府では細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、正平18年/貞治2年(1363)8月には子・氏冬と時義を上洛させ、大内氏に続いて室町幕府に帰順、時氏は伯耆・丹波守護に、師義は丹後、氏冬は因幡国、時義は美作国守護に任命され(後に次男・義理に交代)、山名氏は5ヶ国の守護となった。また、引付頭人にも任じられ幕政に参加した。翌正平19年/貞治3年(1364)3月には若狭の今富名が与えられて若狭守護ではない時氏が小浜などの同国の主要地点を掌握した。幕府では義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世ら共に反頼之派の武将であった。建徳2年/応安4年(1371)、死去。享年69歳。伯耆大雄山の光孝寺(現山名寺倉吉市厳城)に葬られ、嫡男・師義が後を継いだ。時氏は南北両朝や守護大名同士の抗争に付け込んで自勢力の拡大に注力し、因幡に二上山城、伯耆には田内城と打吹城を築き、やがて山名氏は山陰地方随一の勢力となった。5人の息子も時氏の死後に所領を増やしていったが、それが将軍家に危険視され、後の同族争いに繋がっていくのである。「人物・逸話」幕府に敵対しながら5ヶ国の領国を安堵されたため、『太平記』では「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかりけれ」と人々が噂し合ったという。かつて敵であった時氏が大勢力を保持したまま帰順したことが皮肉られたと思われる。『難太平記』では時氏は自分の体験を子供達に語り、道理を弁えた自分でさえ上意をおろそかにする時があるため、子孫は度を過ぎて上に警戒されるのではないかと心配したという逸話もある。真偽は不明ながら、時氏の死から20年後に山名氏は明徳の乱において将軍家から追討されることになり、勢力は削減されてしまった。】
2024年06月12日
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2、「山名氏の出自」山名氏(やまなうじ、やまなし)は、山陰地方を中心に勢力を持った武家(守護大名・戦国大名)である。鎌倉時代山名氏の本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁・鎮守府将軍・源義家の子・義国を祖とする名門・新田氏の一門。新田義重の庶子・三郎義範(または太郎三郎とも)が上野多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)を本貫として山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。*「山名 義範」(やまな よしのり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。山名氏の祖。新田義重の庶子として誕生。上野国多胡郡八幡荘の山名郷[2]を与えられ、山名氏を称した。承安5年/安元元年(1175)から安元3年/治承元年(1177)頃には豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比較されて義範のみ新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の庶流の中でもかなり冷遇されていたと見られる。父・義重は治承4年(1180)8月に挙兵した源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の下に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された。治承8年(1184)2月の源義経率いる平氏追討軍に参加。文治元年(1185)8月には伊豆守に任じられる。文治5年(1189)7月の奥州合戦に従軍。建久元年(1190)、頼朝の上洛に供奉。建久6年(1195)の2度目の上洛では東大寺供養の際に頼朝に近侍し、その嫡子・頼家の参内にも従っている。いち早く頼朝のもとに参陣したのは、早くから足利氏との縁があったためであると伝わる。】 山名氏の祖の義範は鎌倉時代には早くから源頼朝に従って御家人となり、頼朝の知行国(関東御分国)の一つである伊豆の国主に推挙され伊豆守となる。源伊豆守の公称を許され源氏の門葉として優遇された。逆に本家の新田氏は頼朝へ参上することが遅れたこともあり、門葉になれなかった。通説では山名義範の嫡男重国の長男の重村が山名郷を継承し、山名氏の嫡流になったとされている。系譜上においては通説通りで問題はないものの、実際には重村の弟・朝家の系統と重国の弟(すなわち、重村・朝家の叔父にあたる)重家の系統が鎌倉時代における山名氏の中心的存在であったとみられている。朝家の子孫は鎌倉幕府の法曹官僚、重家の子孫は六波羅探題の奉行人を務める家柄であったが、朝家の曾孫の俊行が正安3年(1301)に謀反の疑いで滅ぼされ、残った重家の子孫も鎌倉幕府滅亡と前後して没落したため、結果的に鎌倉時代を通じて不振であった山名重村の子孫だけが残ったとみられている。なお、重家の子孫とみられる山名氏が丹波国・出雲国・備前国などに所領を有していた可能性があるものの、重村の子孫である守護大名の山名氏による支配との連続性は確認できないため、別物とみなされる。
2024年06月12日
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「山名氏の一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「山名氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「南北朝と山名氏の台頭」・・・・・・・・・・・・64、 「六の一殿と明徳の乱・・・・・・・・・・・・・・105、 「応仁の乱と山名氏」・・・・・・・・・・・・・・376、 「応仁の乱と山名氏の再興」・・・・・・・・・・・567、 「室町時代の後期」・・・・・・・・・・・・・・・648、 「山名氏と赤松氏の播磨奪回」・・・・・・・・・・859、 「織田家の侵攻と滅亡」・・・・・・・・・・・・・9110、「江戸時代の山名氏(但馬)」・・・・・・・・・・9311、「江戸時代(但馬山名子孫。清水山名氏)・・・・・10112、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・111 1「はじめに」南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。
2024年06月12日
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「山名氏の一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「山名氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「南北朝と山名氏の台頭」・・・・・・・・・・・・64、 「六の一殿と明徳の乱・・・・・・・・・・・・・・105、 「応仁の乱と山名氏」・・・・・・・・・・・・・・376、 「応仁の乱と山名氏の再興」・・・・・・・・・・・567、 「室町時代の後期」・・・・・・・・・・・・・・・648、 「山名氏と赤松氏の播磨奪回」・・・・・・・・・・859、 「織田家の侵攻と滅亡」・・・・・・・・・・・・・9110、「江戸時代の山名氏(但馬)」・・・・・・・・・・9311、「江戸時代(但馬山名子孫。清水山名氏)・・・・・10112、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・111 1「はじめに」南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。 「
2024年06月12日
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日没後も松平勢はよく持ちこたえ、その夜は矢作川を前に宿陣した。今川軍は思わぬ苦戦の結果、渥美半島の田原城から戸田氏にその背後を衝かれることを恐れて、翌朝には東三河の今橋城を経て本国へ撤退した。この勝利で長親の武名は大いに上がり松平党における求心力を増した(なおこの戦いは永正5年(1508年)説もある)。一方、岩津松平家は滅び、長親の安祥松平家が代わって惣領になったものと考えられる。同年、長男の信忠に家督を譲って隠居した。この時点での隠居は早すぎると思われるが真相は不明確。信忠が暗愚だったのを知らなかったためとも、長親自身が1501年の時点ですでに入道していたためともいう。もっとも、その後も信忠・嫡孫清康の後見人として今川軍と戦っている。晩年の後継者問題隠退後、入道し道閲と号した長親は、なおも信忠を後見・補佐したが、信忠は力量乏しい上に一門衆・家臣団からの信望が薄く松平党が解体の危機に瀕した。そのため、家老・酒井忠尚(将監)の嘆願により道閲・信忠父子は、信忠の隠居と信忠の嫡子清康への家督継承を受け入れた。晩年は福釜・桜井・東条・藤井と新たに分家を輩出させた息子たちの中で、とりわけ桜井家の信定を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ広忠(長親の曾孫)が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。このために家臣団の失望を招いたという。後には広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(長親から見れば玄孫にあたる)に自分や清康と同じ竹千代と命名するように命じている。後の徳川家康である。しかし、長親の溺愛した信定は広忠の代まで家督に固執して松平氏一族とその家臣団に内紛を引き起こし、結果的には少年時代の家康の苦難の遠因となった。死去・天文13年(1544年)8月22日、死去。享年72。 6、「松平 信忠」(まつだいら のぶただ)は、戦国時代の武将。安城松平家2代目にして、松平氏宗家第6代当主。 家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲ったが、その背景には諸説がある。文亀3年(1503年)8月頃、父・長親の隠居により家督を継いだと推定されるが、実権は長親が握っていたという。家督継承から程無い永正3年(1506年)7月には今川氏親の三河侵攻が始まり、永正5年には西三河の松平領も攻撃を受けた。岩津松平家の岩津城が伊勢盛時の率いる今川の大軍に包囲されていたが、父道閲の主導の下に安城松平軍は岩津近郊の井田野(現岡崎市井田町周辺)で決死の戦いを挑み、辛くも今川軍を撃退した(永正三河の乱)。しかし、この今川軍との戦いにも信忠の確かな戦功や軍事的采配の記録は見えず、大久保忠教の『三河物語』では信忠を不器用者(統率者としての器量の無い者)としている。『三河物語』は宗家の「家憲」として当主の具備すべき「武勇・情愛・慈悲」のいずれも信忠には備わっていなかったと指摘し、暗愚・強情な人物とされた。このため、家中衆も民・百姓も怖れおののき、松平一門衆や小侍までもが信忠を慕わず、城に出仕しない者まで多く現れた。また謀反の動きも有ったとされ、これは信忠自身が事前に察知して首謀者を手討ちにしたが、この情況を挽回するには至らなかった。結局、大永3年(1523年)には一門等が協議の上で信忠の隠居と嫡男清康への家督譲渡の方針が決まり、家老の酒井忠尚(将監)が代表して信忠にその意を伝えると、信忠はこれを受け容れ清康に家督を譲って、三河国幡豆郡大浜郷称名寺(愛知県碧南市大浜地区築山町)に34歳にして隠居・出家した。その後は長命した父道閲とともに、まだ若い清康を弼けたとも言われている。なお、信忠の代から、岩津、滝等の寺院にも寄進状等を出していることから、今川氏らの攻勢で岩津松平家が滅び、代わりに安祥松平家が惣領となったものと伺える。享禄4年7月に隠居先の大浜郷で父に先立ち死去した。信忠早期隠退の背景信忠が早期に隠退させられた背景には、『三河物語』によれば、長男である信忠に家督を譲り、戦巧者の優れた家臣を付け、能力不足の主君を支えよとの道閲の意志を尊重すべきだという一門衆・家中衆の意見がある一方、一門衆・家中衆の中には不器量の信忠よりも、家憲の3条件を兼ね備えた次男の信定を跡継ぎにすべきという意見もあって、松平党が二派に分裂して紛糾していたとされ、今川氏再侵攻の脅威の中で一門・家中の決定的な衝突を回避する必要があったからだという。またさらに、現代の研究者達の考察において、実は道閲は次男の信定を偏愛し、不器量の長男・信忠には父子間で対立があったのではという柴田顕正の見方があり、井田野合戦後に壊滅的打撃を蒙った岩津松平家領を安城松平家の直領にしたことが戦功への恩賞をめぐる不満につながったと推定する新行紀一の見解や、恩賞への不満よりもむしろ、井田野合戦後に岩津松平家に代わり安城松平家が惣領家の位置に台頭することで松平党内に軋轢が生じたからではないかという平野明夫の見方もある。「松平 清康」(まつだいら きよやす)は、戦国時代の武将。三河松平氏(安祥松平家)の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子。三河国安祥城城主および岡崎城主。安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。徳川家康の祖父にあたる。三河統一へ永正8年9月7日(1511年9月28日)、第6代当主・松平信忠の嫡男として生まれる。母は大河内氏。
2024年06月10日
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「松平保親」戦国時代に入ると安祥に進出するなど西三河を中心に勢力基盤を広げ、戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。長命で子も多く、『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』によると48人の子供がいたという。自身の子を分立させ、竹谷松平家、安祥松平家(後の松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家が各地に置かれた。滝村萬松寺や岩津信光明寺、岩津妙心寺(明治時代に京都市中京区円福寺町の圓福寺と寺号交換)などを建立し、岩津城で逝去した。逝去により家督は三男の親忠が継いだ。生没年について信光の生没年については異説・諸説がある。A応永20年(1413年) - 長享2年7月22日(1488年8月29日) - 享年76説B応永11年(1404年) - 長享2年7月22日(1488年8月29日) - 享年85説C応永8年(1401年) - 長享3年7月23日(1489年8月30日) - 享年89説などであるが、はっきりした確証がなく、特定できない。ただし、文亀元年(1501年)12月26日の大樹寺勤行式定に月堂(信光)の月忌が22日であると記されているので、22日であることは確実である。なお、『朝野旧聞裒藁』が引用する資料では「本多氏蔵御系図」を除き、すべて長享2年7月22日卒と記している。。 「松平 親忠」(まつだいら ちかただ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。松平信光の三男。母は一説によると一色氏。松平氏4代当主。初め額田郡鴨田郷(現岡崎市鴨田町)を根拠地としていたが、長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継ぎ、安祥城主・安祥松平家初代となる。しかし、間もなく出家して西忠と号した。親忠自身の治績はあまり知られておらず、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。『三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康・家康ら松平氏を代表する人物が現れたため、親忠が4代当主扱いされたと言われている。応仁元年(1467年)井田の郷(岡崎市井田町)での第一次井田野合戦で、品野(瀬戸市品野町)や伊保(豊田市保見町)の軍勢を破る。文明2年(1470年)、現在の岡崎市伊賀町に伊賀八幡宮を創建。文明7年(1475年)鴨田郷の館跡に、井田野合戦の戦死者を弔うため、松平氏菩提寺の大樹寺を創建。文明9年(1477年)大恩寺(愛知県豊川市御津町御津山山麓)の開基として同寺を中興する。長享元年(1487年)、麻生城の天野景孝を滅ぼし、九男・乗清を分立して成立した滝脇松平家を配置した。明応2年(1493年)第二次井田野合戦で、上野城主阿部氏、寺部城主鈴木氏、挙母城主中条氏、伊保城主三宅氏、八草城主那須氏らを破り、武名を挙げた。明応5年(1496年)、三男・長親に家督を譲り、隠居。また子を分立して大給松平家、滝脇松平家などを成立させたほか、第四子の存牛は出家し、信光明寺住持などを経て、京都の浄土宗総本山知恩院住持を務め、皇室との関係を深めた。文亀元年(1501年)8月10日に71歳(または63歳)で死去した。「松平 長親」(まつだいら ながちか)は、戦国時代の武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。徳川家康の高祖父。明応5年(1496年)、父の隠居で家督を継いで安祥城主・安祥松平家第二代となる。 しかしこの頃、隣国駿河国の今川氏親からの攻撃を受けるようになり、長親は苦戦を強いられていた。氏親の家臣であった伊勢盛時(北条早雲)と戦ったこともある。しかし長親は優れた武将で、今川軍の攻撃をよくしのいだ。また、連歌などの教養にも秀でていたと言う。長親は三河国の国人領主であった松平氏を戦国大名として飛躍させるための基礎を築いた人物であると考えられている。今川の大軍を退ける『柳営秘鑑』にある、文亀元年(1501年)9月の項に記されている。「其後信光公の御孫徳川次郎三郎長親公の御時 文亀元辛酉年九月 今川家大将 伊勢新九郎長氏入道早雲と岩付の城下に於て御合戦御勝利なり。此時の先陣ハ 酒井左衛門尉氏忠入道浄賢 舎弟与四郎親重 并本多 大久保 柳原所なり」『徳川実紀』では、永正3年(1506年)8月20日のこととする。『三河物語』等の記述によると、大軍で東三河を制した今川氏親は西三河に進攻、長親は籠城策を採らず野戦を選択。みずから手勢を率いて安祥を出陣。駿・遠と東三河の勢を合わせて1万余という大軍に対し長親は、井田野(現岡崎市井田町周辺)において500余の手勢で迎撃を試みた。松平勢の決死の戦いぶりに今川方は戦意の低い東三河勢がまず破られた。その後も長親は新手を撃ち破り、最後は今川軍の大将の伊勢盛時の旗本勢まで打ち崩した。
2024年06月10日
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酒井氏との関係また、後に松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、同氏の始祖広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。 ただし平野明夫の研究によると、松平信重の長女が坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。いずれにしても松平、酒井両氏は縁戚にあたる。「松平 泰親」(まつだいら やすちか)は、室町時代初期(14世紀後半から15世紀初め頃)の三河国の松平氏の第2代当主とされる人物。新井白石の『藩翰譜』や『寛政重修諸家譜』などには、松平親氏の嫡子として生まれ、異母兄は酒井広親とする系譜が記されている[4]。泰親の息子としては信広、信光がいるとする。 しかし泰親は松平氏初代の親氏の叔父か弟ともいわれる。「徳川家譜」(『好古類纂』収録)によれば、泰親は親氏の弟で父を徳川親季、その子には益親、久親があり、甥の信光を養子にしたと伝える。また『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』によれば、益親・久親のほかに守久、家弘があるとされる。親氏が松平郷(愛知県豊田市松平町)に郷敷城を築き、近隣の諸領主の平定に乗り出すと、泰親は親氏を助けて活躍した。親氏の死後、家督を継承して松平氏を近隣十数か村を領有する有力国人領主に成長させた。松平氏が額田郡岩津(現在の岡崎市北部地域岩津町。松平郷からは低い山を越えた南)を占領し、西三河の平野部に初めて進出したのは泰親(または信光)の時代とされる。以降の松平氏泰親の後を継いだ信光(実際は親氏の子とされる)が岩津松平家を継承し、岩津に居城を移して本格的に西三河平野部を平定していった。一方、松平郷は信光の兄・太郎左衛門信広(これも親氏の子とされる)が継承し、松平郷松平家の祖となった。異論・諸説しかし、上述したような泰親の事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことが出来ず、実在を疑われてもいる。「松平 信光」(まつだいら のぶみつ/しんこう)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。三河国松平氏3代当主。岩津松平家の祖。信光は『朝野旧聞裒藁』や江戸期の系譜類は2代当主・松平泰親の子とされるが、『松平氏由緒書』では初代当主・松平親氏の子であるとする。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。妻は一色氏(一色満範あるいは一色宗義)の娘。松平氏当主として系譜の史料で実在が確認できるのは信光からである。信光以前の系譜は確証が乏しいため、松平氏勃興の事情は未検証である。信光は三河の土豪かつ被官で、岩津城(愛知県岡崎市岩津町)を拠点とする岩津松平家の祖となり、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。長禄2年(1458年)、駿河国守護・今川氏の分家関口氏(今川関口家)の関口満興の岩略寺城(愛知県豊川市長沢町)を攻め、落城後に十一男の親則を城主として入れた。以降は、岩略寺城に近く満興の弟・長沢直幸の居城だった北側の長沢城(愛知県豊川市長沢町)を居城と定めたため、氏族は長沢松平氏とも言われ、以降の岩略城は長沢山城とも呼ばれている。寛正元年(1461年)には保久城(愛知県岡崎市保久町)の山下庄左衛門を滅ぼす。寛正6年(1465年)5月、三河守護細川成之の要請により、貞親の被官として室町幕府8代将軍・足利義政の命により額田郡一揆を鎮定している(『親元日記』)。その恩賞として、一揆勢が有していた深溝(愛知県額田郡幸田町深溝)などの所領を幕府から与えられた。信光は、同じく伊勢氏の被官であり、東三河の有力武将である戸田宗光に娘を嫁がせた他、応仁の乱では東軍に属して三河守護・細川成之と共に、三河復権を狙う一色氏を破った。また、西軍方である畠山氏一門の畠山加賀守が拠る安祥城(愛知県安城市)を奇襲しこれを奪い、五男松平光重を岡崎城主・西郷頼嗣の娘婿とし、岡崎城も勢力下とした。
2024年06月10日
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2、「松平氏出自」(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。松平氏の起源松平氏について、同時代資料で確認できる最も古い記録は、3代松平信光以降についてのものであり、それ以前は判然としていない。後世の徳川氏・松平氏の系譜によると、徳川氏の祖と名る松平親氏は清和源氏の新田氏の支流で、上野国新田郡新田荘得川郷(えがわ — 、現在の群馬県太田市徳川町)を拠地とする得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)の後裔(こうえい)と称する時宗の僧で、松平郷の領主松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという。親氏とその弟(叔父とも)あるいはその嫡子とする泰親の代には松平郷近隣に勢力を拡大したらしいが、同時代の史料にその名は見えない。おそらく親氏以前の記録は、家康が系図を整える頃にはすでに失われていたものとみられる。伊勢氏の家臣同時代の史料によって実在が確認できるのは、親氏の子とも泰親の子ともいわれる3代の松平信光で、室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官となり、京都に出仕したと記録されるのが武家としての松平家の初出である。これにより三河の足利将軍家直轄領である御料所の経営に食い込んだ信光は、松平郷から見て南の平野の玄関口である額田郡岩津城(岡崎市北部岩津町)に居城を移すと、西三河の平野部に勢力を拡大し各地に諸子を分封して十八松平と称される多数の分家を創設した。また、同じ頃(寛正年間)に近江国菅浦荘・大浦荘(滋賀県長浜市西浅井町菅浦・大浦)に派遣された京極氏の代官に松平益親という人物がおり、菅浦住民と対立した際には三河からも援軍が来たと記録されている。この近江の松平氏も三河の松平氏の同族の1人と考えられている。三河守護一色氏の衰退三河の守護は一色氏であったが、山名氏の与党でもある一色氏の勢力を恐れた室町幕府6代将軍足利義教は、三河守護一色義貫を暗殺し、暗殺に功のあった管領細川氏の一族細川持常を突然三河守護に任じた。これにより三河国内は内戦状態になり、井ノ口砦(岡崎市井ノ口町)を拠点とした額田郡一揆も生じた。この期に乗じた幕府政所執事伊勢貞親被官の北三の松平信光や尾張出身の戸田宗光が勢力を伸ばした。応仁の乱では、松平信光は三河守護細川成之とともに、三河復権を狙う一色氏を破った。なお松平氏は信光の時の内室が一色宗義娘であるとされ、一色氏と姻戚関係にあったとされる。戦国期における松平氏
2024年06月10日
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「松平氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「松平氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「安祥松平家の発展」・・・・・・・・・・・・・・・・・64、 「家康の徳川改姓の家臣化」・・・・・・・・・・・・・・85、 「松平親氏」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106、 「松平信忠」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・237、 「松平広忠」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・308、 「安城合戦」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・359、 「森山崩れと井田野合戦」・・・・・・・・・・・・・・・5510、「徳川家康」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6411、「松平氏庶流」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10912、「松平氏傍流」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12113、「岩津松平家」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12414、「近代・現代における松平氏」・・・・・・・・・・・・・14115、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144 1、「はじめに」中世後期の三河国の武家、近世の大名・旗本、惣領家は永禄9年(1566)に徳川と改名し後に江戸時代の将軍となり、一族の多くが大名・旗本となった。江戸幕府官選の「朝野旧聞裒藁」によると足利氏の迫害をうけた清和源氏新田氏の庶家徳川氏の末裔が、本貫地上野国新田郡徳川郷を退去して時宗の僧となり、諸国を流浪し、親氏が三河国加茂郡松平郷の松平信重の娘婿となったという。新田氏の末裔説は後世の付け合わせであるが、遍歴僧婿入り話は地元の伝承見て事実とみて良い。2代泰親は15世紀前半に額田郡岩津に進出し、3代信光は室町幕府の政所執事伊勢貞親の被官となっており、額田郡など将軍直管領の下代官で、寛正6年(1465)額田郡一揆鎮圧や応仁・文明の乱における三河での戦功により、岡崎・安城などの領地として給封されたという。次代は伊勢氏低に出仕した親長(岩津家)とみられるが、16世紀初頭の今川氏来襲で滅亡し、安城を本拠とする親忠を初代とする。安城家4代の松平清康は岡崎家を追って本拠を同地に移し、三河統一を進めたが天文5年(1536)12月に織田信秀の尾張国守山城城を攻撃中、家臣阿部弥七郎に殺害された。子の広忠は今川義元の後援を得て一族の内訌を収拾したが、その後も一族の分裂と信秀の来攻に悩まされた。1549年3月に広忠が家臣に殺され、今川領国に編入された。1560年の桶狭間の戦後に今川氏から独立した家康は1565年まで三河をほぼ統一して戦国大名の地位を確定し、1566年に松平姓を徳川氏に改め織田信長と同盟して領国を拡大していった。
2024年06月10日
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6月4日、神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した。そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗を始め侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)と書かれるほどの敗戦であった。三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた。この結果、それまでの膠着状態から戦局が崩れて、高国の滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。敗戦の混乱の中、高国は戦場を離脱。近くの大物城への退避を行おうとしたが、既に赤松方の手が回っていたため尼崎の町内にあった京屋という藍染屋に逃げ込み藍瓶をうつぶせにしてその中に身を隠していたが、三好一秀に6月に捕縛された。尼崎で高国を捜索した一秀はまくわ瓜をたくさん用意し、近所で遊んでいた子供達に「高国のかくれているところをおしえてくれたら、この瓜を全部あげよう」と言うと子供達はその瓜欲しさに高国が隠れていた場所を見つけたという計略が逸話として伝わっている。そして同月8日、仇敵晴元の命によって高国は尼崎広徳寺で自害させられた。一方、破れた浦上軍の将士達は生瀬口(兵庫県宝塚市)から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の追撃に遭い、ほぼ全滅したと伝えられる。赤松政祐は伏兵を生瀬口や兵庫口に配置し、落ち延びる兵を攻撃したからである。から始まった細川家の養子三兄弟の争いは、大物崩れで最後の養子高国が自害させられた事により終わる事となる。】 享禄4年、または、天文3年(1534)、以前から仲の悪かった同じく浦上氏の家臣であり、尾根向かいの長沼荘高取城主・島村盛実の奇襲を受け砥石城にて自害した(この後、砥石城は浮田国定が領有したことから浮田氏の内訌とも、上意討ちとも諸説あり)。法名は常玖、または常珍。家督を継いだ興家は暗愚な人物だった(またはその振りをしていたとも)といわれ、砥石城落城の際に幼少(3歳、または6歳とも)の直家を連れて落ち延びた。宇喜多氏の再興が図られるのは、この孫の直家の代になってからである。なお、大永4年(1524)に京都南禅寺の僧・九峰宗成に描かせた能家の肖像画が岡山県立博物館に所蔵されており、国の重要文化財に指定されている。※「永正の錯乱」(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。細川政元の3人の養子明応2年(1493年)、第27代室町幕府管領職に就いていた細川政元は第10代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていたために実子はおらず、兄弟もいなかったため細川京兆家には政元の後継者がなく、関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしたため、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。応仁の乱で諸大名家が跡継ぎ争いを起こし弱体化を招く中、細川家では勝元の後継者に養子の勝之を推す動きは一部であったものの、勝元の実子である政元が嫡男として継承することでまとまっており、その結果政元の時代には細川家は幕府の中での地位をより強固にすることができた。しかしその政元に血縁の近しい後継者がおらず、ここにきて他大名家よりも一代遅れで京兆家にも跡継ぎ争いが発生するに至ったのである。永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。政元暗殺(細川殿の変)永正4年(1507年)6月23日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。
2024年06月09日
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4、「宇喜多 能家」(うきた よしいえ)は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣。宇喜多久家の子。備前国豊原荘砥石城主。備前国の武将・宇喜多久家の子として誕生。赤松氏の下で守護代を務めていた浦上則宗、村宗に仕え、備前豊原荘の砥石城を領していた。智勇に優れた人物で、則宗らからの信任が厚かった。15世紀末当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配しており、この頃から宇喜多氏はその被官として名を伺われるようになった。しかし応仁元年(1467)からの応仁の乱を契機に戦国の世が備前にも及ぶこととなると、文明15~16年(1483~1484)には、福岡合戦と呼ばれる騒乱が勃発した。これは室町初期には備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏らが、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとしたことが遠因になったとされる。こうして浦上氏と松田氏は備前国内で勢力を争うようになった。なお明応5年(1496)頃に、父・久家が宇喜多の代表として部下に宛てた書状などが存在しているが、明応8年(1499)には既に宇喜多の代表は能家に代わっているため、家督相続はこの頃のことと推測される。さらに浦上家中では家督をめぐって内訌が生じ、明応8年(1499)には浦上則宗と浦上村国とが合戦に及んだ。則宗は戦いに敗れ白旗城に篭城したが、村国の包囲で落城寸前になり、一族のものまでが則宗を見捨てて落ちのびようとするにいたった。この時、能家が義を説き、励ましたことで城兵は奮戦し、やがて村国は兵を引き揚げた。文亀2年(1502)冬、能家は浦上軍の総大将として松田勢との戦に赴き、吉井川を越えた宍甘村付近で自ら敵将・有松右京進を討ち取るなどの奮戦をした。 文亀3年(1503)、能家は浦上勢と共に吉井川を渡り、松田勢と雌雄を決すべく上道郡に進入した。松田元勝も自ら兵を率い御野郡笠井山に陣を定め、旭川の牧石の河原で両軍は激突した。松田勢は山から軍を駆けおろして浦上勢を包囲する形となったが、これを見た能家は宇喜多全軍を率いて旭川をわたり救援に向かった。能家は兜に矢をうけ槍で突かれながらも奮戦し、乱戦を制して松田勢を敗走させた。則宗の跡を継いだ村宗は、赤松氏からの自立を図っていたため、赤松義村と不和となり、永正15年(1518)には居城の三石城に退去した。これを権力拡大の好機ととらえた義村は、自ら兵を率い三石城へ侵攻した。浦上氏にとって主筋にあたる義村の攻撃は、城中を動揺させ多くの逃亡者を出したが、将兵の信頼を得ていた能家の活躍により赤松勢の猛攻に耐え、やがて船坂峠の戦いでこれを敗走させた。永正17年(1520)、赤松義村は再度兵をおこし、三石城には浦上村国を、美作国東部を攻略すべく小寺則職を向かわせた。東美作で赤松勢は浦上勢を圧倒したが、能家は踏みとどまった少数の兵を率いて朝駆けを行うなど、離散した兵を糾合し赤松勢と対峙した。さらに村宗は小寺氏の家臣を寝返らせることに成功し、これをもって東美作の赤松勢を敗走させた。これらの度重なる敗北により義村の権威は失墜し、逆に村宗の勢力は拡大した。遂には播磨国に侵入して西播磨一帯を制圧し、義村を隠居させ幽閉し、大永元年(1521)に殺害した。ここに浦上氏の下剋上となったのである。大永3年(1523)、義村の子・赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国と小寺則職を討つため、浦上村宗は播磨に出兵した。この戦いで、先陣を務めた能家の次男・四郎が村国の策略にあって討死すると、それを知った能家は自ら死地を求めて敵陣に突撃奮戦し、結果的に浦上軍に勝利をもたらした。この能家の奮戦を伝え聞いた室町幕府管領・細川高国は、名馬一頭と名のある釜を贈ったと伝えている。大永4年(1524)に家督を子の興家に譲って出家し、享禄4年(1531)に高国と主君・村宗が細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて両者とも死去する(大物崩れ)と、それを機に砥石城で隠居したとされる(1524年に家督を譲ったと同時に隠居したとする文献も)。※「大物崩れ」(だいもつくずれ)は、戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。 赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。桂川原の戦いで敗れて近江に逃れた管領細川高国は、伊賀、伊勢、備中、出雲を巡ったが救援を拒絶された。管領の権威が失墜した高国の援軍に援軍を差し向ける勢力が無い中で備前守護代の浦上村宗が要請に応じた。※「桂川原の戦い」(かつらかわらのたたかい)は大永7年2月12日(1527年3月14日)夜中から2月13日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。桂川の戦いとも言う。八上・神尾山両城の戦い香西元盛は管領細川高国の家臣だったが、同族の細川尹賢の讒訴を信じた高国によって自害させられた。これに対して香西元盛の2人の兄弟波多野元清と柳本賢治は元盛が自害させられたことを知り、丹波八上城・神尾山城両城出反旗を翻した。驚いた高国は、大永6年(1526年)10月23日、神尾山城に総大将細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。
2024年06月09日
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3、「室町時代に台頭する宇喜多氏」応仁の乱とそれに続く長い抗争を経て、赤松氏は山名氏を排して播磨・備前・美作の支配を守護として取り戻していくが、宇喜多氏は、未だ山名氏の影響が残る文明期に、宇喜多寶昌と宇喜多宗家の名が西大寺周辺の金岡東荘に権益を持つ土豪として文献に表れてくる。当初は緩やかに赤松氏の支配に属する在地領主であったが、赤松政権内での守護代別所氏と浦上氏の主導権争い、さらに浦上村宗による下剋上の動きの中で浦上氏との紐帯を深め、その軍事力を認められ宇喜多久家の子能家は浦上氏の「股肱の臣」として活動し、多くの戦功を立てた(『宇喜多和泉守三宅朝臣能家寿像賛』)。 しかし、浦上村宗の死もあって一旦没落、能家も殺害された。これにより宇喜多大和守が残った宇喜多氏の最有力者として浦上政宗に仕えていたが、尼子氏侵攻に伴う政宗と宗景兄弟の分裂抗争の中で没落家系の直家が宗景について下剋上を始め、政宗方の大和守家を倒してその権益を奪取し、のし上がっていく。物。修理進。代々「家」の字を通字とする宇喜多氏の始祖ではないかと思われる人物。伝承ないし系図上は、三条信宗(傍流であるので「三条」の姓では無かった可能性も)の子。妻は児島高家の娘。 宇喜多久家は実子、或いは児島信徳(実在したか怪しい人物であるが実在したならば妻の兄か弟にあたる人物であると思われる)の息子を養子縁組したのではないかと言われている]。文明2年(1470)に、赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺文書に残されているので、赤松氏の被官であったと思われる。かなり不明な点が多いが、系図などによると元々は藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる公家の名門、三条家の人間とするものが多い。室町時代後期に起きた応仁の乱の戦火から逃れるために、この頃は地方へと下向する公家も多かったが、宗家もその中の一人ではないかと考えられている。 赤松氏を頼り備前へと下向した宗家は、そこで児島高徳の孫にあたる児島高家の娘と入婿という形で婚姻関係を結び、宇喜多を称したという。これらの流れからも分かるように、宗家は藤原氏の三条家を出自とする公家であり、児島との血縁関係は皆無である。 この為、児島との縁を強調したい宇喜多氏は、久家を児島信徳の子とする系図では宗家の存在自体を無視するという扱いをしているが、 西大寺文書や大永6年(1526)邑久郡弘法寺 (瀬戸内市)への寄進状に名が残る以上、「宇喜多宗家」という人物が存在した事は確実であり、久家を児島信徳の子とする説を信用するならば宗家が久家を養子にとったのではないかと考えられる。 ただ、その場合は「信徳という男子が存在しているのに何故、養子をとる必要があるのか?」「何故、児島の嫡流として生まれたはずの久家をわざわざ余所者である宗家へ養子に出す必要があるのか?」等の矛盾が数多く生まれる。 さらに、この系図自体が「これは久家は宗家の実子であって、一応は母親が児島の人間であるので児島の後裔を称する事に問題は無いのだが、やはり女系の系図を強調する事に不自然さを感じた人間が後付けで作り出した系図では無いか?」との意見もある。だが、久家が宗家の実子であった事の裏付けとなる史料も存在せず、やはり不詳とせざるを得ない。 また、宗家が西大寺に土地の寄進を行う一年前の文明元年(1469)に宇喜多五郎右衛門入道寳昌(現存する古文書で確認できる最古の宇喜多氏)なる人物が成光寺に寄進をしたとの文書が残っている。これは宗家と同時期に下向をした父の信宗ではないか等、諸説あるがこれもまた詳細は一切不明である。「宇喜多 久家」(うきた ひさいえ、生没年不詳)は、室町時代後期の人物。備前国の出身。赤松氏の被官、もしくは浦上氏の被官であると考えられている。宇喜多宗家の子とも児島信徳の子とも言われるが定かではない。宇喜多能家、宗因、浮田国定の父。宇喜多興家、宇喜多四郎の祖父。宇喜多直家の曽祖父。蔵人佐、三河守。家督相続の時期などについては不明瞭だが、文明2年(1470)に赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺文書に残されているので、少なくとも家督相続はこれ以後であると思われる。宇喜多氏の出自の多くは不明であるが、この久家の頃から動向が比較的明らかになってくる。延徳4年(1492)に西大寺へ寄進をしている。年不詳ながら難波豊前に討たれた父の遺領の相続を認める旨を伝える文書が残っている(この文書の文中、赤松政則の諡号「松泉院」が使われているため、この文書は政則死後、明応5年(1496)以後のものと思われる)。 また、明応8年(1499)には子の能家が浦上則宗に仕えて活躍しており、久家の名前もこれ以後に全く見当たらないため、この頃にはすでに家督を能家に譲って隠居、もしくは既に没していたのではないかと推察される。
2024年06月09日
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2、「宇喜多氏の出自」(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には出自に諸説有る備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗っていた。なお、宇喜多姓自体は、鎌倉期の『吾妻鏡』や南北朝期の『太平記』等にもその名は確認できず、室町時代において『西大寺文書』に記載された「宇喜多五郎右衛門入道宝昌」とあるのが文献で確認できる初出であることから、守護・地頭といった鎌倉時代以降の統治機構に元々は組み入れられていなかった人々により、室町時代に成立した比較的新しい苗字であると考えられている。以下に、最近の極少数説も含めて概説する。百済王族子孫の三宅氏後裔説従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の3人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を備前三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする。この説は、『宇喜多和泉能家入道常玖画像賛』(『宇喜多能家画賛』)の記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ、20世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地方公共団体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている。備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた備前軍記では、『宇喜多能家画賛』の全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもある、古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東21カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している。なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある。浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の『岡山県史』では宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする。ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ、三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり、宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる。藤原北家閑院流三条家後裔及び百済王族子孫説一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島の三宅氏の先祖であるとする極少数説もある。百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める。具体的には三条実親の玄孫にあたる参議・三条実古の子公頼(加茂次郎)が、山城国大荒木村宇喜多又は、山城国大荒木田宇喜多社領から備前国東郷に下向、公頼の子・実宗(東郷藤内、土佐守)の時水沢姓が分かれ、実宗の子・信宗(宇喜多十朗)が宇喜多姓を称し(赤松家家臣浮田四郎敏宗の養子となったともいう)、信宗の子宗家(宇喜多修理進三郎、土佐守) が文明2年(1470)上道郡西大寺に居住したとする。なお、三宅姓は古くから確認できるのに対し、宇喜多姓自体は室町時代の『西大寺文書』が文献で確認できる初出である(既述)。その他の説他の説として、宇喜多氏を児島高徳の後裔とし、高徳を宇多源氏佐々木氏の一族、あるいは後鳥羽天皇の皇子・冷泉宮頼仁親王の子孫とする説もある。また、能家自身は平朝臣を意味する「平左衛門尉」と称した記録があり、宇喜多氏自身の称する本姓にも揺らぎがあったようである。
2024年06月09日
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「宇喜多氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「宇喜多氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・33、 「室町時代に台頭の宇喜多氏」・・・・・・・・・・74、 「宇喜多能家」・・・・・・・・・・・・・・・・・115、 「宇喜多直家」・・・・・・・・・・・・・・・・・316、 「宇喜多秀家」・・・・・・・・・・・・・・・・・847、 「宇喜多騒動」・・・・・・・・・・・・・・・・・1178、 「関ケ原の戦いに参戦」・・・・・・・・・・・・・1199、 「秀家の末路」・・・・・・・・・・・・・・・・・12410、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・135 1、「はじめに」宇喜多氏は室町から安土桃山期の武家、出自は百済王子、備前国児島などに諸説はあるが、16世紀初頭には、備前国邑久郡豊原荘を本拠とする国人で、同国守護代浦上氏の麾下にあった。宇喜多能家(?~1534)の代に浦上麾下の有力武将として台頭するが、天文3年(1534)能家は浦上の内訌で討たれ、その子宇喜多興家も逃亡先で客死して一時衰亡した。しかし興家の子、宇喜多直家が浦上宗景の下で家名を再興し、やがて浦上氏を滅ぼし、備前・美作・備中に勢力を拡大し、織田信長と結んで毛利氏に対抗した。直家の子宇喜多秀家は豊臣秀吉に従い、その四国、九州、小田原征伐へと出兵し、さらに朝鮮侵略に功を立て、57万石余の大名になり、五大老の一人として豊臣政権の中枢を担った。しかし慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで秀家は西軍に属して敗れ八丈島に流され数奇な運命を辿った大名の没落であった。
2024年06月09日
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「織田 信友」(おだ のぶとも)は戦国時代の武将。尾張下四郡の守護代。大和守として知られる織田達勝の後継者である。実父は織田達広(たつひろ、又はみちひろ、織田因幡守)とされるが不明。一説に伯父とされる織田敏定が養父になったという(『寛政重修諸家譜』)。諱は広信(ひろのぶ、初名か)、また信豊(のぶとよ)とも。通称は彦五郎。尾張清洲城城主。尾張下4郡を支配した守護代・清洲織田氏(織田大和守家)の織田達勝の後継者であるが、継承時期は不明である。主家・斯波氏の当主・斯波義統を傀儡の守護として擁立した。しかし、信友自身は家臣である坂井氏や河尻氏に家中の主導権を握られていたようである。また元々は家来筋であった清洲三奉行の1人「織田弾正忠家」当主・織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争ったが、後に和睦している。信秀の死後は織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信秀の後を継いだ織田信長と対立する。信長の家臣の鳴海城主・山口教継の謀反に乗じ、萱津の戦いを起こすも、守山城の織田信光に支持された信長に敗れ、家臣・坂井甚介を失う。さらに信長暗殺計画を企てたが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られて、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受けるなど追い込まれていく。天文23年(1554年)、信友は小守護代と呼ばれた家老の坂井大膳と図り、斯波氏の家臣の大部分が斯波義統の子の義銀に従って城外に出かけた隙に義統を暗殺した。義銀は信長を頼り逃亡。義銀を擁した信長の反撃を受けた信友は安食の戦いで敗れ、家臣・河尻左馬丞、織田三位等も失う。翌天文24年(1555年)、生き残った坂井大膳の進言により信光の調略をするも、かえって信光の謀略にかかり、ついに大膳は今川氏に逃亡した。信友自身は主殺しの咎によって信光に殺害された。これにより清洲織田氏は断絶し、信行も弘治3年(1557年)に信長に謀殺され、岩倉織田氏(織田伊勢守家)で尾張上四郡守護代の織田信安も子の信賢によって居城岩倉城から追放、信賢も永禄2年(1559年)に信長に降伏して追放。信友の傀儡から信長の傀儡と化した義銀も信長排除を図ったため追放され(後に信長に帰属)、尾張は信長によって名実ともに統一支配された。「織田 信賢」(おだ のぶかた)は、戦国時代の武将。通称は兵衛、左兵衛。官位は伊勢守。尾張国岩倉城主。尾張上四郡守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の織田信安の嫡男として誕生。母は織田信定の娘・秋悦院か?。父・信安が信賢の弟・信家を寵愛し跡継ぎに定めようとしたため、居城岩倉城から父と弟を追放し新城主となった。末森城主・織田信行、美濃国の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」出身の織田信長に対抗するが、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信長に敗れ、翌永禄2年(1559年)、居城岩倉城も包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。その後の行方は不明だが、このときに自刃したもしくは旧臣の山内一豊に土佐国に招かれ、200石を給したという説があり、山内家墓所の日輪山真如寺に信賢の墓がある。 「織田 信安」(おだ のぶやす)は、戦国時代の武将。尾張国上四郡の守護代。尾張岩倉城主。岩倉城(現在の愛知県岩倉市)を居城として、尾張上四郡を支配した織田伊勢守家(岩倉織田氏)の当主。ただし、尾張下四郡を支配した織田大和守家(清洲織田氏)の出身者とされる。また織田信長の一族・織田弾正忠家とは別流。一説に父とされる織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主となるが幼かったため、織田大和守家の家臣筋にあたる清洲三奉行の一家・織田弾正忠家当主・織田信秀の弟で犬山城主・織田信康の補佐を受けたというが定かではない。信長とはその父・信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。しかし、信秀の死後、犬山城主の織田信清(信康の子)と所領問題で争い、そのこじれから信長とも疎遠となった。天文22年(1553年)3月27日、家老の稲田大炊助が信長と内応している疑いがあり、稲田を殺害。弘治2年(1556年)の美濃国における長良川の戦いで信長の岳父である斎藤道三が子の義龍に討たれると、信安は義龍と呼応し信長と表立って敵対するようになり、同年の稲生の戦いで信長の弟で末森城主・織田信勝(信行)が信長に反乱を起こした際は信勝に味方した。弘治元年(1555年)に織田大和守家当主・織田信友が守護・斯波氏への謀反で信長に討たれ、弘治3年(1557年)に信勝が謀殺された後も勢力を保っていたが、長男・信賢を廃し次男・信家を後継にしようとしたため、かえって信賢により信安は岩倉城から追放されることとなる。その信賢も永禄元年(1558年)の浮野の戦いに敗れ、まもなく織田伊勢守家は滅亡したため、信安も尾張に復帰する機会を失った。その後、信安は斎藤義龍の家臣となり、義龍の死後もその子・龍興にも仕え信長に抵抗したが、その都度敗れた。やがて美濃斎藤氏が信長の前に滅ぼされると、信安は京都に逃れた。しかしやがて同族の誼から、信長より罪を許されて美濃白銀に所領を与えられ、晩年は安土総見寺の住職になった。信家は信長の嫡男信忠の家臣となった。
2024年06月08日
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延徳3年(1491年)には、斯波氏の織田敏定、赤松氏の浦上則宗の両名は、第10代将軍足利義稙から戦功を評され剣が与えられている。また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏の逸見弾正の名が見える[6]。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。斯波氏の失脚明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか3歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。 5、「織田弾正忠家の台頭と信長の出現」このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信・信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏の今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康・広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元を桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国の浅井長政や越前国の朝倉義景、さらに本願寺や甲斐国の武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。元亀年間には武田信玄が西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、将軍義昭は山陽道の備後国へ追放され、室町幕府の滅亡により織田政権が樹立される。その後も信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠も二条城で自刃したため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。勝幡織田氏(弾正忠家)織田敏信(清厳)?織田良信(材厳)?織田信定(月厳)織田信秀(桃厳)織田信長(泰厳)織田信忠(仙厳)織田秀信(圭厳)「織田 達勝」(おだ たつかつ/みちかつ)は、戦国時代の武将。室町幕府管領斯波氏の家臣。尾張国下四郡の守護代。官位は大和守。尾張清洲城主。『信長公記』によると父は織田寛定(織田勝秀とも)。永正10年(1513年)、兄とされる先代の織田達定が尾張守護の斯波義達と争い、殺害された後(義達の遠江国遠征が原因とされる)、まもなく清洲織田氏(織田大和守家)の後継者として歴史の表舞台に登場する。清洲三奉行の補佐を受けるも、やがて、三奉行家の一つで家臣筋の「織田弾正忠家」当主である勝幡城主・織田信定が台頭するようになる。永正13年(1516年)、妙興寺に寺領安堵の判物を出している。清州三奉行の連署による物である。享禄3年(1530年)、守護の斯波義統の代理として兵を率いて上洛したが、軍事目的ではなかったのでそのまま帰還した。この行動は織田氏一族の反発を招いてしまった。天文元年(1532年)頃には信定の後継者である「織田弾正忠家」当主の織田信秀と争い、達勝は同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と戦ったが、その後、和睦している。没年については不詳であるが、永正年間後半から天文年間の後半まで存在が確認され、非常に長期間にわたり守護代の地位にあったと推測される。その後は達勝に代わり、信友が新たな守護代となった。なお織田氏の出自については諸説あるが、永正15年(1518年)、達勝自身が勝獄山円福寺(愛知県春日井市)に提示した制札に「藤原達勝」とあり、このことから少なくとも達勝自身は藤原氏を称していたと伝わる。
2024年06月08日
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『名古屋市博物館研究紀要』には明応5年(1496年)愛知郡内の公文名を実成寺に安堵し、明応7年(1498年)には熱田座主に笠寺別当職を安堵したとある。明応9年(1500年)9月、実成寺に寺領安堵したのを最後に文献から寛村の名は途絶え、文亀3年(1503年)頃には寛村に代わり、次代・達定(兄寛定の子で甥)が守護代となっているので、その前後に隠居もしくは死去したと思われる。また在任期間が短いので、一説にこの両者を同一人物とする説がある。「織田 達定」(おだ たつさだ/みちさだ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾張国下四郡守護代。通称は五郎。官位は大和守。清洲城主。略歴織田寛定の子として誕生。継承時期については不明であるが、先代(叔父とされる)織田寛村の名が文献から途絶え、文亀3年(1503年)、清洲に勢力を持つ守護代として妙興寺に政札を出していることから、この頃に「大和守家」(清洲織田氏)を継いだと思われる。 また一説に嫡流「伊勢守家」(岩倉織田氏)の当主にもなった説もある。初名については不明だが、後に尾張守護・斯波義寛の跡を継いだその子義達の一字「達」の偏諱を受け、達定と名乗った推定される。文明14年(1482年)、斯波義寛に従軍し、近江国へ出陣したという。永正10年(1513年)、義寛の跡を継いだ守護・斯波義達に対して反乱を起こすが敗れて自害する(遠江国遠征を巡って対立があったといわれている)。達定に代わり、一説に弟でその養子とされる達勝が新たな守護代となる。没年月日について『定光寺年代記』では4月14日、『東寺過去帳』には5月5日とあり、諸説ある。】 尾張守護代を世襲した織田氏惣領家は代々伊勢守を称したため伊勢守家と呼ばれ、主君である斯波氏とともに在京生活を送って中央政界での権力闘争に終始し、尾張には在国の又守護代(守護又代とも)として、代々大和守を称する一族(大和守家)を配置して統治を行っていた。なお、室町将軍のブレーンであった醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によれば、正長元年(1428年)8月6日、織田常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、これが織田弾正忠家(後述、織田信長の家系)の史料上の初出と見られている。 4、「応仁の乱と織田氏の分裂」織田氏の主君である斯波氏は7代当主の斯波義淳の没後、8代義郷・9代義健と短命の当主が続き、家中の実権は執権の甲斐氏をはじめ織田氏・朝倉氏などの重臣層と、斯波一族の大野家などが握っていた。やがて重臣層と一族衆の対立が深刻化し、寛正6年(1465年)には重臣層が推す渋川義鏡の子義廉と大野家出身の義敏が家督を巡って対立する武衛騒動が起こることとなった。この争いが将軍家・畠山氏の家督相続と連動したため、応仁元年(1467年)の応仁の乱が勃発、義廉と甲斐氏や織田氏などの主だった重臣層は西軍となり、義敏と斯波一族、そして一部の重臣やその庶流は東軍となり争った。この時、義廉は京都で西軍の主力として戦い、義敏は守護職回復を狙って越前で戦っている。また義敏の子義良(義寛)は尾張に居たと思われ、文明7年(1475年)遠江国は東軍である駿河守護今川氏の侵攻を受け、同じく東軍であった遠江守護代甲斐敏光とともにこれを防ぎ、今川義忠が敗死に追い込んでいる。しかし、越前国では西軍から東軍に寝返った朝倉孝景が越前守護を称して西軍の勢力を越前から一掃していき、さらに文明13年(1481年)頃までには朝倉氏は同軍であり主君でもある義敏・義良親子の勢力も駆逐してしまった。この間、義廉も将軍足利義政の不興を買って管領職・三ヶ国守護職・斯波氏家督の全てを剥奪され、都落ちを余儀なくされている。尾張国では、守護代の織田敏広(伊勢守家)が西軍ということもあって西軍の優勢な地域であった。この頃、尾張の守護所が下津城(中島郡)から清洲城(春日井郡)に移されたという。このため都落ちを余儀なくされた義廉も尾張へ落ち延び、敏広とともに勢力の巻き返しを図ることとなった。しかし、応仁の乱が終結した翌年の文明10年(1478年)、東軍であった尾張又守護代・織田敏定(大和守家)が室町幕府第9代足利義尚から正式な尾張守護代と認められると、敏広と義廉は兇徒と断じられて討伐対象に指定されて清洲城を追われた(義廉は以後の記録には見えなくなる)。しかし、伊勢守家は、織田敏広の岳父であった美濃国の斎藤妙椿(旧西軍)の支援を得て盛り返し清洲城を包囲した。この時、織田敏定は右目に矢を受けたという。翌文明11年(1479年)、再三の幕府の介入により、織田敏広と斎藤妙椿は清洲城の包囲を解き、尾張上四郡(丹羽郡、葉栗郡、中島郡、春日井郡)を伊勢守家、尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡)を大和守家が治めることで和睦したとされる(しかし、実際には知多郡と海東郡は一色氏が分郡守護であった)。文明13年(1481年)3月に伊勢守家は大和守家と争って勝利した。織田敏広の後を継いだ寛広は斯波義寛(義良)に帰順した。文明15年(1483年)には京から尾張に下向した斯波義寛が清洲城に入城し、守護・斯波義寛、守護代・織田敏定の体制で尾張はひと時の安定期を迎えた。守護・義寛のもとで安定化した尾張であったが、長享元年(1487年)に近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると義寛は両織田氏を率いて将軍の元に参陣した。
2024年06月08日
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そのため斯波義廉を擁立して西軍に属した岩倉城を拠点とする織田氏の総領「織田伊勢守家」出身の守護代である織田敏広と対立した。文明8年(1476年)11月、主君・斯波義敏の命で、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、織田敏広とその岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。この際に下津城は炎上したため、織田敏広は山田郡の国府宮(稲沢市)に敗走したという。しかし、その後の尾張は西軍優勢となったようで、敏定の動向は定かではないが、尾張を離れて京都に滞在していたとされる。文明10年(1478年)9月9日、応仁の乱が東軍の勝利に終わると、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられ、「凶徒退治」(凶徒とは西軍に属す斯波義廉と織田敏広を指す)を下命されて京都から尾張に下国した。これによって敵方であった美濃守護の土岐成頼・斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に無事入城した。同年、10月12日に再び勢力を盛り返した織田敏広と戦い勝利するが、12月4日に織田敏広は清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広救援に乗り出してきたため形勢は逆転した。この時、敏定は美濃牽制のため、信濃国の小笠原家長に援助を求めたという。この戦いで清洲城は一時的に炎上し、敏定は山田郡の山田庄に敗走している。また實成寺所蔵(現在名古屋市博物館に寄託)の敏定の寿像上部に記された横川景三の賛文によるよると、この戦いで右目に矢を受けたといい、実際に寿像下部の肖像画には隻眼で描かれている。不利な状況のため、翌文明11年(1479年)1月19日には斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦した。大和守家は尾張の南東部(中島郡と海東郡山田郡の一部)を安堵されて伊勢守家と尾張を共同統治することになった。後に大和守家は愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡の下四郡を支配する守護代となっている。その後、斯波義敏の嫡男で尾張守護・斯波義寛と共に在京していたという。文明12年(1480年)、元侍所所司代の多賀高忠から弓道書の『犬追物記』を借り、筆写したことが実成寺に伝わっている。文明13年(1481年)3月に伊勢守家と再び争うが、勝利している。その後に織田敏広は死去している。同年7月、敏広の後を継いだ養子(甥)の織田寛広、敏広の弟・広近らが斯波義寛に帰順した。さらに同年8月には織田寛広、織田広近らと共に敏定も上洛し、8代将軍・足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて礼物の献上をしたという。長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐(長享の乱)に参陣した斯波義寛に伊勢守家と共に従軍している。同年、主君・義寛の名代として敏定は越前国の主権を幕府に願い出ているが、要求は退けられた。延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐でも義寛に従軍し、軍功があったという(延徳の乱)。その後も伊勢守家と対立を続けるが、翌年の明応4年(1495年)7月、布陣中に死去したという。享年は44とされる。『船田戦記』によると病死とあり、『武功夜話』では戦死したとも。戒名は「蓮光院殿常英大居士」。日蓮宗との係わり(清洲宗論)敏定は熱心な日蓮宗の信徒で大和守家の宗旨決めのため、文明13年(1481年)に当時本末を争っていた甲斐身延山久遠寺と、京都本圀寺を清洲城内で論争させた。結果は本圀寺方の勝訴となり、久遠寺方に帰順の起請を提示させた。以後、敏定は日蓮宗寺院の長久山實成寺を庇護するなど日蓮宗の振興に務めている。「織田 寛定」(おだ とおさだ/ひろさだ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾張国下四郡の守護代。通称は五郎。官位は近江守、丹波守。尾張日置城主。略歴尾張の海東郡・中島郡・愛知郡の三郡(後に尾張下四郡)を支配した清洲城の守護代「織田大和守家」の織田敏定(『信長公記』では織田寛広)の嫡男として誕生。主君の尾張守護・斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け、寛定と名乗ったと推定される。明応3年(1494年)、美濃国守護・土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、石丸利光の娘を正室に迎えたため、土岐元頼・石丸利光方に味方して、土岐政房・斎藤妙純方の岩倉の上四郡守護代で織田伊勢守家当主の織田寛広と戦うが、明応4年(1495年)7月、父が陣中に死去する。構わずに寛定は布陣を継続したが、一度、尾張へと下国して寛定は家督を継いだ。しかし、同年9月には美濃で討ち死にした。家督は一説に弟とされる寛村が継いだ。「織田 寛村」(おだ とおむら/ひろむら)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾張国下四郡守護代。通称は六郎。法名は常勝。尾張清洲城主。5略歴織田敏定(『信長公記』では織田寛広)の子として誕生。明応4年(壱四九五年)5月、土岐氏の家督争いである船田合戦では石丸利光へ援軍を送った。同年9月、父・敏定の跡を継いだ兄とされる寛定が討ち死にするとその家督を継ぎ、石丸方敗退に構わず織田伊勢守家と対立を続けた。その後、美濃国の斎藤妙純を仲介に対立していた嫡流「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の岩倉城主・織田寛広と和睦した。
2024年06月08日
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古文書などでは、応永9年(1402年)7月20日の大徳寺文書に、「教広」が守護代の権限を行使しているのが初出。応永10年(1403年)8月9日の醍醐寺文書に、「織田伊勢入道」とあり、教広と同一人物である場合、この時期に出家したと見ることができる。醍醐寺座主・満済の日記(『満済准后日記』)によると、正長元年(1428年)8月6日、常松は病に侵され危篤状態にあったとされ、満済が常松の許に見舞いの使者を送った際、織田弾正という者が応対したという記述があり、この頃まで生存が確認される。正長2年(1429年)4月29日の大徳寺文書には、守護代として織田朝長の活動が見えるので、それまでに交代したと見られる。『建内記』の永享3年(1431年)3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあることからこの間に死去したと思われる。異説『前野家文書』「武功夜話」では、伊勢守入道常松と織田郷広(教長の子とされる)を同一人物としている。初名を「信広」と名乗り、尾張守護の斯波義郷の偏諱を受けて「郷広」と改めて織田氏の最初の尾張守護代となり、応永5年(1398年)に尾張に入国したとある。しかし、この文書の信憑性については諸説あり、またこの当時斯波義郷は生まれておらず、その父である義教(義重)の代である。「織田 敏広」(おだ としひろ)は、室町時代後期の武将。室町幕府の管領斯波氏の家臣。尾張国上四郡の守護代。通称は与次郎。官位は兵庫助、伊勢守。織田伊勢守家(岩倉織田氏)の祖とされる。また、従兄弟の織田久広と同一人物という説がある。斯波氏の被官である織田氏の一族。敏広の家系は元々は尾張の守護代を世襲して織田氏の総領家の立場にあった。嘉吉元年(1441年)、父とされる先代の守護代・織田郷広が寺社領・本所領を横領して逐電したため、翌嘉吉2年(1442年)頃には郷広に代わり、久広(敏広か?)が尾張守護代となったとされる。8代将軍・足利義政の乳母・今参局の介入で郷広が再任を計ろうとしたため、宝徳3年(1451年)頃、主家・斯波氏に命じられ、越前国で郷広を自害に追い込んだという。文正元年(1466年)、敏広の娘と婚約していたといわれる山名入道(名不評)の要請で、敏広は弟・広近と共に上洛している。翌応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると管領で尾張守護・斯波義廉と共に西軍に属し、斯波義敏を擁立して東軍に属した分家の織田大和守家当主の織田敏定と対立する。文明7年(1475年)11月、京都から主君・義廉を伴って尾張へ下国し、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城に入城した。この頃、尾張守護代となったとされる。翌文明8年(1476年)、岳父である美濃国の斎藤妙椿の協力を得て清洲方と戦うが敗れた。この際に下津城は落城したため、山田郡の国府宮へと逃れた。しかし、後に敏広が巻き返して、大和守家の勢力を尾張から一時的に追放する。文明10年(1478年)、室町幕府は敏広を更迭し、新たな尾張守護代に敏定を任じて、義廉と共に織田氏嫡流であった敏広は兇徒とされた。そして同年の10月12日、尾張に下向した敏定に尾張春日井郡にある新たに守護所が置かれた居城清洲城を奪取された。12月、再び妙椿の後ろ盾を得て、敏広は清洲城奪還に乗り出し、敏定と戦って清洲城を囲むが、再三の幕府の介入で清洲城を断念して清洲方と和睦した。これにより尾張を分割することになり、葉栗郡・丹羽郡と山田郡(後に春日井郡、中島郡へ分割編入)の大半と春日井郡・海西郡と那古野を除く愛知郡)を安堵され、大和守家との共同統治となった。後に尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配する守護代となっている。翌文明11年(1479年)、美濃に近い尾張丹羽郡に岩倉城を築城し、岩倉城を居城とした。2年後の文明13年(1481年)3月、大和守家との和睦が崩れ、清洲方と戦って敗れた後病死(3月以前に戦死とも)。家督は弟・広近の子で養子(甥)の千代夜叉丸(寛広)が継いで、岩倉織田氏として続いた。「織田 敏定」(おだ としさだ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尾張国下四郡の守護代。室町幕府の管領斯波氏の家臣。清洲織田氏(織田大和守家)の当主。清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されており、真偽は不明。尾張守護職・斯波氏の被官である織田氏の一族。敏定の家系・「織田大和守家」は元々は「織田伊勢守家」(尾張守護代)の弟筋であり、初代は守護代の更に代理である又守護代を勤めた家系であった。後に敏定が伊勢守家と争って守護代の地位を獲得し清洲城を居城としたため、この家系は「清洲織田氏」とも呼ばれた。父は楽田城主・織田久長、母は朝倉教景の娘といわれる。通称は三郎、五郎、伊勢守、大和守。号は常英。兄弟は常寛、敏任。子は寛定、寛村、敏信、敏宗、良信、秀敏。その他は信定、信安、飯尾定宗、大雲永瑞とされており、続柄については諸説ある。また、織田信友が養子であったともいわれる。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起きると、先代の尾張守護・斯波義敏と共に東軍に属した。
2024年06月08日
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文明10年(1478年)、室町幕府は敏広を更迭し、新たな尾張守護代に敏定を任じて、義廉と共に織田氏嫡流であった敏広は兇徒とされた。そして同年の10月12日、尾張に下向した敏定に尾張春日井郡にある新たに守護所が置かれた居城清洲城を奪取された。12月、再び妙椿の後ろ盾を得て、敏広は清洲城奪還に乗り出し、敏定と戦って清洲城を囲むが、再三の幕府の介入で清洲城を断念して清洲方と和睦した。これにより尾張を分割することになり、葉栗郡・丹羽郡と山田郡(後に春日井郡、中島郡へ分割編入)の大半と春日井郡・海西郡と那古野を除く愛知郡)を安堵され、大和守家との共同統治となった。後に尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配する守護代となっている。翌文明11年(1479年)、美濃に近い尾張丹羽郡に岩倉城を築城し、岩倉城を居城とした。2年後の文明13年(1481年)3月、大和守家との和睦が崩れ、清洲方と戦って敗れた後病死(3月以前に戦死とも)。家督は弟・広近の子で養子(甥)の千代夜叉丸(寛広)が継いで、岩倉織田氏として続いた。 「織田 郷広」(おだ さとひろ)は、室町時代中期の武将。尾張国守護代。織田教信または織田常松の子として誕生。「郷」の一字は斯波義郷から偏諱を賜ったもの推定される。郷広の被官・坂井七郎右衛門広道(号:性通)が公卿・万里小路時房の代官と称して寺社領・本所領を横領。その後、郷広の推挙で時房は坂井を実際に代官としたが、横領行為を止めないため時房は管領・細川持之に陳情した。嘉吉元年(1441年)、その責任を逃れるため、郷広は逐電した。嘉吉2年(1442年)、郷広の跡を受け、次代・勘解由左衛門尉久広(弟。甥または嫡男とされる敏広と同一人物とも)が尾張守護代となる。郷広は守護代の再任を計るため8代将軍・足利義政の乳母・今参局に働きかけ、今参局の進言で義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母・日野重子がこれに怒り、困惑した義政が赦免を反故にしたことにより断念した。幕府の後ろ盾を得ることを諦め、宝徳3年(1451年)、直接主家の斯波義健に許しを請うが受け入れられなかった。後に越前国にて将軍・義政の上意を得た甲斐常治に派遣された久広らに殺害された。異説[編集]『前野家文書』「武功夜話」では、織田伊勢守入道常松と郷広を同一人物としてる。しかし、この文書の信憑性については諸説ある。また『建内記』の1431年(永享3年)3月8日の条文には「織田故伊勢入道」とあり、既に故人であり、この両者を別人としている。「織田 淳広」(おだ あつひろ)は、室町時代の武将。尾張国守護代。略歴尾張守護・斯波義淳より偏諱(「淳」字)を賜り、淳広と名乗る。永享3年(1431年)以降から先代・織田教長の名が文献から途絶え、永享6年(1434年)頃、淳広が尾張守護代となる。しかし、それ以降は文献から淳広の名も途絶える。一説に織田久長と同一人物とする説がある。 「織田 教長」(おだ のりなが)は、室町時代の武将。通称は勘解由左衛門尉。尾張国守護代。尾張下津城主。略歴[編集]織田教信または織田常松の子として誕生。初名は朝長。後に教長(足利義教からの偏諱か)。応永35年(1428年)閏3月23日、又守護代「織田勘解由左衛門尉」が織田常松から指示を受ける。正長2年(1429年)4月29日、「織田勘解由左衛門朝長」が守護代として活動[4]。永享元年(1429年)11月28日、「織田教長」が守護代として活動[4]。永享元年(1429年)12月27日、「織田勘解由左衛門尉」が斯波義淳から指示を受ける。永享3年(1431年)には守護代として織田淳広の活動が見えるので、それまでに交代したと見られる。「織田 常松」(おだ じょうしょう)は、室町時代の武将。管領・斯波氏の被官。尾張国守護代。受領名は伊勢守。常松は法名であり、織田教長の父である織田教信(- のりのぶ)と同一人物とされる。また、最近の研究では、応永9年(1402年)頃、織田一族で最初に尾張守護代に任命されたと見られる織田教広と同一人物であるという見方もある。教信、教広の「教」の字は同国守護の斯波義教より偏諱を受けたものである。鎮守府将軍・藤原利仁(またはその岳父・藤原有仁)の一族と思われる藤原兵庫助将広(または同一人物もしくは同族)の子とされ、織田常昌とは同人物ともされる。尾張守護代は当初は甲斐氏が務めていたが、応永9年(1402年)頃、尾張守護でもあった管領・斯波義教が尾張守護代・甲斐将教(祐徳)を更迭し、織田伊勢守入道常松を新たな守護代に任じ、以後織田氏が尾張の守護代職を世襲するようになったといわれる。しかし、守護・斯波義教を補佐するため、在京することが多く、弟と推定される一族の織田出雲守入道常竹が又守護代として尾張を在地支配をしていたとされる。
2024年06月08日
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3、「室町・安土桃山時代の織田氏」斯波氏の重臣元弘3年(1333年)、建武の新政において足利高経(斯波高経)が越前国の守護に補任されて以降、越前守護職は斯波氏が世襲していくこととなり、越前の国人であった織田氏も暫時その被官層に組み込まれていったと考えられる。後に斯波氏は応永7年(1400年)に尾張守護を、応永12年(1405年)に遠江守護をそれぞれ加えられると、斯波氏の筆頭家臣であった執事の甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任し、織田氏は尾張守護代を世襲するようになった。織田氏の最初の守護代は織田将広の子の織田常松(織田教広)であるとされ、この頃より織田一族は越前から尾張へ移住していったものと見られる。斯波家中においては、将軍直臣扱いで室町将軍の御成を受ける程の家格を誇った甲斐氏に次ぐ序列二位であり、宝徳3年(1451年)、織田郷広を8代将軍足利義政自らが赦免して尾張守護代へ復帰させようとした問題は、義政の母日野重子が出奔して抗議する程の事件となった。 「織田 常竹」(おだ じょうちく)は、室町時代の武将。尾張国又守護代。官位は左京亮、出雲守。常竹は法名。略歴応永7年(1400年)頃、尾張守護を兼ねた管領・斯波義教から尾張守護代に任じられた織田伊勢守入道常松の弟(または同族)と推定される。斯波義教補佐のため、在京することが多かった常松に代わり、守護所が置かれた下津城で又守護代として在地支配をしていたと考えられている。応永9年(1402年)5月28日、醍醐寺文書法眼光守注進状に「織田左京亮」とあるのが初出。同年12月26日、妙興寺文書妙興寺末寺寺領坪付注文では「沙彌常竹」とあり、この年に出家したことがわかる。応永34年(1427年)12月25日、醍醐寺文書沙彌常松遵行状に「織田出雲入道」と出てくるのが最後。応永35年(1428年)閏3月23日には又守護代として織田朝長の活動が見えるので、それまでに交代したと見られる。「織田 五郎」(おだ ごろう)は、室町時代の武将。尾張国又守護代。五郎は通称で諱は不明。受領名は大和守。後に織田久長が大和守を名乗っており、さらにその子である敏定が五郎を名乗っているため、久長の父に該当するか。略歴嘉吉3年(1443年)3月、「織田大和守」として妙興寺に禁制を出している。嘉吉3年(1443年)11月22日、「織田五郎」が守護代織田勘解由左衛門尉久広の指示を受ける[2]。文安元年(1444年)6月23日、「織田大和守」が守護代織田久広の指示を受ける[2]。 「織田 五郎」(おだ ごろう)は、室町時代の武将。尾張国又守護代。五郎は通称で諱は不明。受領名は大和守。後に織田久長が大和守を名乗っており、さらにその子である敏定が五郎を名乗っているため、久長の父に該当するか。略歴嘉吉3年(1443年)3月、「織田大和守」として妙興寺に禁制を出している。嘉吉3年(1443年)11月22日、「織田五郎」が守護代織田勘解由左衛門尉久広の指示を受ける。文安元年(1444年)6月23日、「織田大和守」が守護代織田久広の指示を受ける。「織田 敏広」(おだ としひろ)は、室町時代後期の武将。室町幕府の管領斯波氏の家臣。尾張国上四郡の守護代。通称は与次郎。官位は兵庫助、伊勢守。織田伊勢守家(岩倉織田氏)の祖とされる。また、従兄弟の織田久広と同一人物という説がある。生涯斯波氏の被官である織田氏の一族。敏広の家系は元々は尾張の守護代を世襲して織田氏の総領家の立場にあった。嘉吉元年(1441年)、父とされる先代の守護代・織田郷広が寺社領・本所領を横領して逐電したため、翌嘉吉2年(1442年)頃には郷広に代わり、久広(敏広か?)が尾張守護代となったとされる。8代将軍・足利義政の乳母・今参局の介入で郷広が再任を計ろうとしたため、宝徳3年(1451年)頃、主家・斯波氏に命じられ、越前国で郷広を自害に追い込んだという。文正元年(1466年)、敏広の娘と婚約していたといわれる山名入道(名不評)の要請で、敏広は弟・広近と共に上洛している。翌応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると管領で尾張守護・斯波義廉と共に西軍に属し、斯波義敏を擁立して東軍に属した分家の織田大和守家当主の織田敏定と対立する。文明7年(1475年)11月、京都から主君・義廉を伴って尾張へ下国し、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城に入城した。この頃、尾張守護代となったとされる。翌文明8年(1476年)、岳父である美濃国の斎藤妙椿の協力を得て清洲方と戦うが敗れた。この際に下津城は落城したため、山田郡の国府宮へと逃れた。しかし、後に敏広が巻き返して、大和守家の勢力を尾張から一時的に追放する。
2024年06月08日
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「織田氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「織田氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「室町・安土桃山と織田氏」・・・・・・・・・・・・64、 「応仁の乱と織田氏の分裂」・・・・・・・・・・・・265、 「織田弾正忠家の台頭と信長の出現」・・・・・・・・306、 「織田敏定」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・407、 「織田信秀」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・478、 「織田信長」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・569、 「織田信忠」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10610、「織田秀信」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11811、「織田信長系の末裔」・・・・・・・・・・・・・・・13512、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・146 1、「はじめに」室町時代から戦国時代の武家。越前国丹生郡織田荘を発祥の地とする。「織田系図」などによると平重盛の孫親真を祖として、織田荘の剣神社の神官を継いで織田氏を称したとされる。しかし、平姓としたのは源平交替思想によるもので、本来は藤原姓である。小田氏は越前守護斯波氏に仕えるが、斯波義重が尾張守護を兼務すると尾張守護代になり、応永年間(1394~1428)に織田守護代となって尾張に赴いた。その後、斯波氏2派に分かれて戦うと織田氏も清州により、愛知・知多・海東・海西の尾張下4郡を領した織田敏定に始まる岩倉織田家に分かれて抗争をした。両織田家の抗争を自ら勢力を衰えさせた。このなかで清州織田家の三奉行の一人であった織田信秀が台頭して主家を凌ぐ勢いになった。その子織田信長は尾張を平定し、さらに諸国を平定し、さらに全国を統一し事業を進めるが天正10年(1582年)に本能寺の変で嫡子信忠とともに殺された。さらに信忠の子秀信が関ヶ原の戦いに西軍に属したために織田宗家は滅亡した。江戸時代には信長の次男信雄と弟の長益の子孫が大名として続いた。
2024年06月08日
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開城・降伏の条件は北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。氏直に上洛をさせる。であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして切腹を命じた。7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、氏政とその弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動した。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、高野山に蟄居を命じられたが、翌年2月には家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、8月に1万石が与えられたが、11月に病死した。北条氏は紆余曲折の後に河内・狭山藩の小名として豊臣・徳川期と存続した。一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城へは、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城した。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、続いて宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。後北条氏の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。 *「小山 政種」(おやま まさたね)は、安土桃山時代の小山氏当主。小山秀綱の嫡子。母は成田氏長の娘。異母兄に小山秀広がいる。天正5年(1576)に北条氏の祇園城攻略によって所領を失った小山秀綱父子は秀綱の娘婿岡本禅哲を頼って常陸国に逃れる。禅哲は主君の佐竹義重に乞うて秀綱父子を同国古内宿(現在の茨城県城里町)に匿った。この頃、政種は秀綱から家督を譲られている。だが、天正9年(異説もある)に14歳で没した(北条氏との戦いで戦死したと言われている)。このため、父の秀綱が再び小山氏当主となった。 *「小山 秀綱」(おやま ひでつな)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名。小山氏18代当主。下野国祇園城主。享禄2年(1529)、小山高朝の長男として誕生。当初は父・高朝の1字を取って氏朝(うじとも)、後に氏秀(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い古河公方・足利氏より偏諱を受けたものと思われる。秀綱はその後に名乗った。永禄3年(1560)頃に家督を継ぐ。この頃の関東は古河公方・足利晴氏の嫡男・藤氏を擁し上杉憲政より関東管領を受け継いだ上杉謙信と、藤氏の異母弟・足利義氏を擁する北条氏康の二大勢力の狭間にあった。永禄4年(1561)、小田原城の戦いでは秀綱は謙信に与し後北条氏の小田原城攻撃に参加するが、永禄6年(1563)には北条氏に内応。翌永禄7年(1564)に居城・祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟・結城晴朝と度々争っていたという。天正3年(1575)、居城の祇園城を北条氏照に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このとき既に北条氏から離反していた晴朝や近隣の宇都宮広綱・佐竹義重の協力で北条氏政に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった。翌天正4年(1576)に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子・伊勢千代丸(後の政種)と共に佐竹義重の許へ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。その後、佐竹義重の協力で祇園城奪還を試みるものの、天正9年(1581)には嫡子・政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。そのため、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟・晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子・秀広は結城氏の重臣に迎えられた。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の福井藩移封には従わずに隠退した。慶長8年(1603)に病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した。家督は秀広の子・秀恒が継いだ。*「小山 秀広」(おやま ひでひろ、生没年不詳)は、安土桃山時代の小山氏当主。小山秀綱の庶長子。子に小山秀恒がいる。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐によって所領を失った小山秀綱父子は秀綱の実弟結城晴朝を頼る。晴朝は養子の結城秀康に乞うて秀広に所領を与えて取り立てた。この頃、秀広は秀綱から家督を譲られている(既に嫡子小山政種は病死)。だが、年次不明の3月29日に35歳で没したという。恐らく関ヶ原の戦い前後、結城氏の越前移封以前と推定されている。なお、この移封に従わなかった秀綱も程なく病死している。了
2024年06月07日
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7、「秀吉小田原征伐で小山氏も滅亡」*「小山 秀綱」(おやま ひでつな)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名。小山氏18代当主。下野国祇園城主。享禄2年(1529)、小山高朝の長男として誕生。当初は父・高朝の1字を取って氏朝(うじとも)、後に氏秀(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い古河公方・足利氏より偏諱を受けたものと思われる。秀綱はその後に名乗った。永禄3年(1560)頃に家督を継ぐ。この頃の関東は古河公方・足利晴氏の嫡男・藤氏を擁し上杉憲政より関東管領を受け継いだ上杉謙信と、藤氏の異母弟・足利義氏を擁する北条氏康の二大勢力の狭間にあった。永禄4年(1561)、小田原城の戦いでは秀綱は謙信に与し後北条氏の小田原城攻撃に参加するが、永禄6年(1563)には北条氏に内応。翌永禄7年(1564)に居城・祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟・結城晴朝と度々争っていたという。天正3年(1575)、居城の祇園城を北条氏照に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このとき既に北条氏から離反していた晴朝や近隣の宇都宮広綱・佐竹義重の協力で北条氏政に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった。翌天正4年(1576)に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子・伊勢千代丸(後の政種)と共に佐竹義重の許へ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。その後、佐竹義重の協力で祇園城奪還を試みるものの、天正9年(1581)には嫡子・政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。天正10年(1582)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。そのため、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟・晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子・秀広は結城氏の重臣に迎えられた。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の福井藩移封には従わずに隠退した。慶長8年(1603)に病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した。家督は秀広の子・秀恒が継いだ。※「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており]、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年とも呼ばれた。北条氏康から氏政の時代へ戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康は武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政や足利晴氏などを排除し、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正8年(1580)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、織田信長とも和睦を試みているが天正10年(1582)に信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。
2024年06月07日
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更に10月2日には鉢形城の上杉顕定を討つために北条早雲の援軍を仰いで再度高見原に出陣していた上杉定正が荒川渡河中に落馬して死亡したのである。扇谷上杉家は養子の朝良が継承したが定正の死が戦況を大きく変えることになった。定正生存中から関係が悪化していた古河公方足利成氏が上杉顕定側に支持を変え、一方、相模三浦氏では三浦高救の養子・義同が内紛に勝って家督を継いだ(従来、義同が時高を攻め滅ぼしたと言われてきたが、実際には信頼の出来る裏付けは無いと言われている)。このため、実父・三浦高救や婿の太田資康も義同の口添えで扇谷上杉家に復帰したのである。なお、10月17日には顕定の実父である越後守護上杉房定が病死して顕定の実弟上杉房能が継承している。終結長年、明応4年(1495)に北条早雲が謀略をもって大森氏を継いだ大森藤頼から小田原城を奪ったと言われてきた。ところが、この翌年にあたる明応5年(1496)、上杉顕定は足利政氏と連合して相模に侵攻して扇谷上杉側の長尾景春・大森藤頼そして北条早雲の援軍と戦い、大森藤頼と援軍を率いてきた早雲の弟・弥次郎が籠る小田原城を攻め落としているのである。つまり、従来早雲が小田原城を手中に収めたとされている時期には追放された筈の大森藤頼が未だに小田原城主であり、早雲が盟友として藤頼を救援しているのである。この事実について近年では明応10年(文亀元年・1501)までに何らかの理由(大森藤頼の山内上杉側への内応か?)で早雲が相模守護である上杉朝良の許しを得て小田原城を占拠して自分のものとしたと考えられている。ここで注目すべきは、仮にも同盟相手とは言え他国の大名の家臣に領土の一部を譲り渡すという事態はそれだけ、朝良の戦況が苦境に立たされていた事の反映であると考えられている。早雲の武将としての才覚は勿論の事、彼が後見する駿河守護今川氏親(早雲の甥)の軍事力を朝良は必要としていたのである。事実、早雲の軍事的支援を受けて朝良は顕定に奪われた相模の諸城を取り戻している。こうして戦線は再び武蔵国内に戻る事になった。永正元年(1504)8月22日、上杉顕定は上杉朝良の拠点である河越城の攻撃を開始するが、らちがあかないと見るや今度は南の江戸城を攻撃しようとした。ところが途中で北条早雲が今川氏親と連合して武蔵国に向けて進軍中との情報を入手して武蔵国立河原(現在の東京都立川市)に軍を結集した。9月27日上杉顕定・足利政氏連合軍と上杉朝良・今川氏親・北条早雲連合軍が立河原で激突した。この立河原の戦いの戦いで上杉顕定側は2千人以上の戦死者を出して潰走した。ところが、この報聞いた越後守護上杉房能は兄の顕定を救うべく、守護代長尾能景を鉢形城に派遣して11月に今川・北条の援軍が撤退して守備が手薄となった河越城を攻撃し、その勢いで椚田城(現在の東京都八王子市)と実田城(現在の神奈川県平塚市)を攻め落とした。皮肉にも立河原での扇谷上杉家の大勝が越後上杉氏による扇谷上杉家に対する大規模な侵攻を招く結果とあったのである。永正2年(1505)3月、再度顕定の軍勢に河越城を包囲された上杉朝良は降伏を表明した。顕定はかつての戦場であった須賀谷原近くの菅谷館に朝良を幽閉して出家させ、朝良の代わりに甥の上杉朝興を当主に立てることを扇谷上杉家臣団に強要した。だが、扇谷上杉家臣団の反発が強く、また古河公方家足利政氏と嫡男高基との不仲が問題化すると、顕定もこの方針の修正を余儀なくされ、朝良が解放されて河越城に戻ると直ちにこの話は無かった事とされた(なお、朝興当主説を後に朝良の子に代わって当主となった朝興周辺が家督相続を正当化するために作った創作とする説もある)。永正4年(1507)、顕定の養子上杉憲房と朝良の妹の婚姻が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活したのである。】*「小山 政長」(おやま まさなが、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代の武将。小山成長の子。小山小四郎、小山高朝の養父。左京大夫。第2代古河公方・足利政氏より偏諱を賜い、政長と名乗る。永正7年(1510)、政氏・高基父子が対立し、関東諸侯も2派に分かれて抗争した。小山氏も成長が政氏を小山祇園城に迎えるなど政氏派の主力となって活動した。永正11年(1514)には佐竹義舜・岩城由隆らと共に宇都宮氏の宇都宮忠綱を攻撃したが、宇都宮成綱、結城政朝らに敗れ、政氏方は次第に劣勢になる。永正13年(1516)、小山氏が高基側に転向、政氏は祇園城を追われ、隠居を余儀無くされる。この背景には政長が父・成長に代わって小山氏の実権を掌握し、事実上の小山氏の指導者となったからではないかと思われる(この前後、成長の消息は途絶える)。しかし、年代は不明ながら政長は男子を残さずに若年のうちに死去したとされる。その跡をめぐって、父・成長と同じく山川氏(小山氏の支流)出身の小四郎と、同じく小山氏支流、結城氏出身の高朝(結城政朝の三男)が争い、高朝が家督を継承した。これにも古河公方家の対立(足利高基・晴氏父子)が関係しているとも、小四郎が先に家督を継いでいたが高朝に奪われたともいわれている。
2024年06月07日
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※「長享の乱」(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出を許す結果となった。上杉氏と古河公方足利成氏との間で30年近くにわたって続けられた享徳の乱の間は上杉一門は一致協力して、成氏とこれを支持する関東の諸大名に対して戦いを続けてきた。だが、文明8年(1476)、顕定の重臣長尾景春が顕定との確執から突如謀反の兵を挙げると、山内上杉軍は総崩れと化した。これを鎮めたのは同族の扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(太田資長)である。道灌の活躍で景春の反乱自体は鎮圧されたものの、関東管領である顕定と山内上杉家の権威は落ち込み、道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まった。かつては世間から「鵬躙之遊」(大きな鳥と小さな鳥)と呼ばれて嘲笑され、定正を嘆かせる程の小さな鳥であった扇谷上杉家が、大きな鳥である山内上杉管領家と並ぶ実力を有するに至ったのである。これを憂慮した顕定は定正に対して道灌の才能はやがて上杉一門を危険に陥れると警告して定正の猜疑心を煽る一方、古河公方足利成氏との和解に踏み切って秘かに定正との戦いの準備を進めていた。やがて、定正は道灌を遠ざけるようになり、道灌も自分の忠義を評価しようとしない定正に不安を抱き始め、万一に備えて息子資康を足利成氏への人質に差し出していた。文明18年7月26日(1486)、相模国糟谷館(現在の神奈川県伊勢原市)にいた上杉定正の元に出仕していた道灌は定正の配下によって暗殺されてしまう。その後、太田資康は江戸城に戻り家督を継承したが、定正は間もなく江戸城を占領して資康を放逐した(江戸城の乱)。扇谷上杉家の支柱として内外の信望が高かった道灌の誅殺は、扇谷上杉家中に動揺をもたらした。特に相模三浦氏では当主の三浦高救(定正の実兄)が定正に代わろうと図って、先代当主である養父三浦時高に追放されるという事件が発生している。翌長享元年(1487)、顕定と実兄の定昌(越後守護)は扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国足利庄勧農城(現在の栃木県足利市)を奪い、ここに両上杉家の戦いが勃発したのである。経過長享2年(1488)に入ると、顕定は実父の越後守護上杉房定の支援を受けて、2月に太田資康や三浦高救とともに本拠のある武蔵国鉢形城を1000騎で出発、一気に定正の本拠糟谷館を制圧しようとした。ところが、定正は留守を兄の朝昌(定正の養子・朝良の実父)に任せて同じ武蔵の河越城に滞在しており、直ちにわずか200騎でこれを追跡、糟谷館郊外の実蒔原(さねまきはら、現在の神奈川県伊勢原市)で顕定軍に奇襲攻撃をかけた。予想外の奇襲に顕定軍は潰走したものの、定正側も朝昌の居城の七沢城(同厚木市)を失った(なお、この時朝昌も死亡したという説があるが、実際にはその後も生存が確認されている)。更に3月には上野国白井城(現在の群馬県渋川市)に滞在していた上杉定昌が自害を遂げており、扇谷上杉氏や長尾景春方の襲撃の可能性も指摘されている。憤慨した顕定は6月に今度は河越城を襲おうとするが、今度は先に顕定に反逆して逃亡していた長尾景春が足利政氏(成氏の子、父の隠居後に古河公方を継ぐ)の援軍を引き連れて定正軍に加勢し、須賀谷原(すがやはら、現在の埼玉県嵐山町)で衝突し、またもや定正軍が顕定軍を退けた。11月には今度は定正軍が鉢形城に攻め寄せたため、顕定軍は高見原(同小川町・鷹野原(同寄居町)で迎え撃ったが3たび敗北した。山内・扇谷両上杉の軍勢が激突した実蒔原・須賀谷原・高見原(鷹野原を含む)の3つの戦いを俗に「長享三戦」と呼び、いずれも扇谷上杉陣営の勝利に終わったが、太田道灌誅殺後の軍民の離反は続き、逆に連敗した山内上杉陣営は後方に越後・上野国両国を有しており、その支援によって鉢形城を保ち続けていた。一方、先の享徳の乱の折、足利成氏に代わる鎌倉公方として上杉氏が招聘した足利政知は、鎌倉に入ることが出来ずに山内上杉家が守護を兼ねていた伊豆国に留まって堀越公方と名乗っていた。ところが、肝心の上杉氏と古河公方との和解が成立してしまったために堀越公方の支配圏は伊豆1国のみに押し込められ、足利政知は延徳3年(1491)に病死した。その後堀越公方内部に内紛が生じ、その間隙を縫って駿河今川氏の客将であった興国寺城城主・伊勢宗瑞(北条早雲、以後よく知られた「北条早雲」と呼称)が、明応2年(1493)に将軍足利義遐(堀越公方家出身、なお正式な就任は翌年の事である)の命を奉じて伊豆に侵攻して堀越公方から同国を奪ったのである。これには領国相模を背後から脅かす伊豆国内の山内上杉陣営勢力とこれに支えられた堀越公方の存在を煙たがった上杉定正の画策があったとも言われている。事実、直後に定正から早雲に対して対顕定討伐への協力依頼が出されている。ところが、明応3年(1494)に定正の名代として相模の東西半分ずつを支配していた三崎城の三浦時高(9月23日)と小田原城の大森氏頼(8月16日)が相次いで亡くなり、その後継を巡って三浦・大森両氏は内紛状態に陥った。
2024年06月07日
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その結果、成氏は古河公方、政知は堀越公方となった。それらの現状は、上杉氏の勢力と小山氏、結城氏の勢力が均衡を保っていた結果であった。強大な上杉氏に対抗するだけの勢力を有するまでに小山氏をしたのは持政の手腕であった。晩年享徳の乱の間に嫡子の氏郷(うじさと、「氏」は成氏の偏諱を賜ったもの)と嫡孫の虎犬丸(とらいぬまる)を病気で失ったために、持政は老齢にもかかわらず小山氏の当主として成氏を助けて、各地を転戦して上杉方の軍勢との合戦を続けた。長享4年(1460)、寛正5年(1464)、文正元年(1466)と将軍義政から再三にわたって帰順の命令がきたが、持政は頑として拒絶し、成氏の支持を続けたが、文明3年(1471)に4度目の帰順の命令が持政にきた。一族、重臣の離反の危機などをうけて、ついに持政は幕府の命令に応じた。その後の持政の動向は不明だが、この年の内に亡くなったものと思われる。その後、小山氏は従甥で養子の小山成長が継いだ。その他一族叔父に結城氏朝(小山泰朝・満泰同一人物説では実の兄弟)、従弟に結城持朝、結城朝兼、結城長朝、結城成朝。甥に宇都宮明綱。孫に虎犬丸。※「結城合戦」(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。永享7年(1435)からの鎌倉公方・足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から永享10年(1438)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍・足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年(1440年)3月に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。幕府方は総大将・上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。嘉吉元年(1441)4月16日、結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城した。持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。その後戦火は鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火し、持氏の叔父でありながら永享の乱で幕府側に寝返った篠川公方・足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれ、翌年には京都において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍・義教が家臣の赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)。文安3年(1446)に関東諸将の要請で持氏の遺児・成氏の鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活したが、成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。結城合戦は永享の乱の延長線上の出来事であるが、合戦の規模は永享の乱よりも大きい。結城合戦を描いた『結城合戦絵詞』も存在する。なお、読本『南総里見八犬伝』は父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。】 *「小山 成長」(おやま しげなが、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代の武将。山川景胤(かげたね)の子。小山持政の養子。小山政長の父。下野守。従伯父で先代の小山持政に子がなかったため、一門の山川氏から養子として迎えられ、小山氏の当主となっている。古河公方・足利成氏より偏諱を受けて成長(「長」は鎌倉時代の小山氏歴代当主の通字)と名乗る。室町時代後期、結城氏の力は結城合戦やその後の相次ぐ当主の早逝がなどにより衰退しており、家臣筋の山川氏や多賀谷氏の力が増大していた。また、小山氏と結城氏は結城合戦や享徳の乱を巡って対立を抱えていたのに対して、山川氏は家臣筋とは言え小山氏と同様に結城基光の実子(山川基義)が家督を継いだ経緯があり、両氏の間の親近感が強かったからとみられている。長享元年(1487)、古河公方を押さえ込み、さらに強大になった上杉氏にほころびが見え始めた。それは上杉一族内部での主導権争いであり、山内上杉家と扇谷上杉家という上杉氏内部の有力家が対立し、両家の当主である山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で争いが生じ、関東はまたもや騒乱の嵐に巻き込まれた
2024年06月07日
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6、「上杉謙信の登場と小山氏」永禄3年(1560)の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東出兵によって、関東地方のありさまは激変する。関東管領上杉憲政を奉じて関東に出陣してきた長尾景虎は、上野国国内の北条方の諸城を鎧袖一触に粉砕すると、永禄4年(1561)には、関東全域に檄をとばし、北条討伐の軍を起こす。その檄に応じて参集してきた関東の諸将を率いて北条氏の本拠地である小田原城に進み、これを包囲するなどした。そして、上杉憲政から上杉の苗字と関東管領職を譲られ、長尾景虎を改めて上杉政虎(その後輝虎、謙信と改名)と名乗った。小山氏ではこれに対応して、反北条であった高朝の主導のもと、上杉軍に参加し、足利晴氏の嫡子の足利藤氏の公方就任にともない、上杉謙信・足利藤氏の関東支配に参加した。上杉謙信の関東出兵によって関東には足利藤氏・上杉謙信という支配体制と、足利義氏・北条氏康という支配体制が並存するようになる。結果、小山氏もそれらの対立に巻き込まれる。高朝の三男で、秀綱の弟で結城氏を継いだ結城晴朝は結城氏の方針である足利義氏・北条氏康体制支持を明確にし、小山高朝、秀綱路線と対立することになる。上杉氏と北条氏の対立の中で、小山氏は翻弄されていく。上杉謙信が関東に進出してくると、上杉氏に従い、上杉謙信が越後に帰国すると、北条氏の攻勢に怯え屈服するという状況が続いた。このころの小山氏は平安時代以来の名門の力も、鎌倉時代の武門の誇りも失われていた。当主秀綱も明確な方向性を見出せない状況が続き、家臣団も北条派と上杉派に分かれるなど、小山氏の惣領制度、支配体制にも大きな問題が生じていた。北条氏の強大化と反北条連合の結成天敵と思われていた北条氏と上杉氏が越相同盟を締結し同盟したことは関東の諸将には安堵と不安を与えた。去就を迷い、近隣の諸将同士の戦いが減るであろうことに安堵した。しかし、越相同盟によって上杉氏の影響を考えなくてよくなった北条氏は、これまでのような古河公方足利義氏を利用しながらの統制から自己の武力による版図拡大路線へ政策を転換した。この北条氏の政策の転換は秀綱や結城晴朝・那須資晴らの北条氏を支持してきた諸将ですら、敵対してきた佐竹義重・宇都宮広綱らと反北条という統一見解に至り、北条氏の北進策に徹底抗戦していった。下野小山氏の終焉とその後しかし、強大な武力によって北条氏は着実に勢力を拡大。下総の古河・関宿などの諸城は北条氏の攻勢の前に陥落。その支配するところとなり、ついに天正3年(1575)、北条氏は小山氏領に侵攻。1度は退けるも、翌年、居城の祇園城は陥落。秀綱は佐竹義重を頼り逃亡し、ここに400年続いた関東の名門、小山氏は滅亡した。その後、北条氏は北条氏照を祇園城代に任じ、秀綱もその一配下となることで小山復帰が認められる。だが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏は没落し、小山氏の旧領は結城晴朝に与えられる。ここに至って秀綱は晴朝に従うことになった。秀綱は小山氏の再興を運動したものの果たせず、小山政種、小山秀広ら息子たちに先立たれ失意のうちに病死した。小山氏の家督は秀綱の後は孫の小山秀恒が継ぎ、後に秀恒の子の小山秀堅が寛文年間に水戸藩士として取り立てられ存続し、現在に至っている。】*「小山 貞朝」(おやま さだとも)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。小山宗長(むねなが)の嫡男で、下野国の有力豪族・小山氏の7代当主。小山城城主。元亨3年(1323)10月の北条貞時十三回忌法要において「小山下野前司」が銭百貫文を寄進していることが確認でき、『常楽記』元徳2年(1330)条に「十月一日 小山下野前司他界 」と書かれているので、これが史料で確認できる唯一の活動内容とみられる。逆算すると弘安5年(1282)生まれとなり、貞朝の名乗りは、元服当時の北条氏得宗家当主・鎌倉幕府の執権(第9代)であった貞時から偏諱を受けたものとされる。*「小山 持政」(おやま もちまさ、生没年不詳)は、室町時代から戦国時代初期にかけての武将、守護大名。下野の豪族小山氏当主で、下野守護。小山泰朝の長男・小山満泰(みつやす、「満」は足利氏満の偏諱を賜ったものとされる)の子。元服時に鎌倉公方・足利持氏より偏諱を受けて持政と名乗る。小山氏の復興小山氏は小山義政の乱の後、嫡流が断絶し、庶流の結城氏から小山泰朝を当主に迎えることによってかろうじて存続を許されていた。泰朝の次男・氏朝が伯父の結城満広の養子に迎えられるなど、小山氏と結城氏とは引き続き親密な関係にあったが、長男・満泰の子の小山持政(氏朝の甥)の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437)の永享の乱では鎌倉公方・足利持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟を擁して永享12年(1440)に結城城で幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。この時、結城氏が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として幕府軍と戦ったが、持政は幕府軍に味方して活躍した。結城合戦は幕府軍の勝利で結城氏は没落した。合戦後、持政は下野守に任ぜられるなど自立した。嘉吉元年(1441)に義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰し小山氏は宗家断絶後の復興を成し遂げたのである。関東の争乱と持政鎌倉府が絶えると上杉氏の勢力が強大化した。それに対して多くの関東諸将は室町幕府に鎌倉府の再興を願った。足利持氏の遺児成氏が赦免されて鎌倉公方として下向した。しかし、新公方成氏と上杉氏は対立、享徳3年(1454)、ついに成氏が側近に命じて関東管領上杉憲忠を暗殺し、関東地方は公方成氏派と管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱と後に呼ばれる争乱が始まった。この乱では持政は一貫して公方成氏を支持して活動し、享徳4年(1455)には上杉派の同国の宇都宮等綱と戦っている。後に成氏の信頼を得た持政は目覚しい活躍を見せ、成氏と「義兄弟の契り」を交わすほどの人物となっていく。しかし、形勢は幕府が積極的に介入してきたことにより成氏は鎌倉を維持できなくなり、成氏は持政の影響力が及び、鎌倉府の御料所の多い古河に本拠地を移した。以後、成氏は古河公方と呼ばれるようになる。成氏は小山氏、結城氏らの支援を得て上杉方と対峙した。幕府も長禄元年(1457)に成氏にかわる鎌倉公方として、8代将軍足利義政の異母兄の足利政知を関東へ下向させた。しかし、成氏を支持する小山氏、結城氏らの勢力を恐れて鎌倉へは入らず、伊豆堀越にとどまった。
2024年06月07日
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(満兼は父の偏諱と区別するために「兼」の字を授けていた)とする指摘が行われ、小山泰朝が小山氏継承後に足利満兼の偏諱を受けて満泰と改名したもので両者は同一人物とする新説が出されている。満泰の子の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437)の永享の乱では持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して永享12年(1440)に結城城で幕府に対する兵を挙げたが(結城合戦)、持政は幕府軍に味方して合戦後に持政は下野守に任ぜられるなど自立した。文安4年(1447)、持氏の遺子の足利成氏が赦免されて鎌倉公方として下向したが、享徳3年(1454)、成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し、関東地方は古河公方成氏派と関東管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱が始まった。この乱では持政と成氏は「義兄弟の契り」を結ぶなど、持政は一貫して成氏を支持して活動し、享徳4年(1455)には上杉派の同国の宇都宮氏と戦っている。その後、幾度となく幕府からの帰順命令を退けて成氏方として活動してきたが、文明3年(1471)に幕府からの4度目の帰順命令に応じた。理由は不明だが、子と孫に先立たれた事や一族・重臣の中に幕府方に転じた者がいたこと等が考えられる。その後間もなく持政の活動が途絶えたことから、死去したと見られている。この2度目の断絶を受けて、一族の山川氏から養子の形で家名を存続させた。その養子が小山成長である。 5、「関東争乱、小山氏の3度目の断絶」文明14年(1482)に成氏と上杉氏は和睦したが、永正7年(1510)に関東管領上杉顕定の戦死後の山内上杉家の家督争いをきっかけとして成氏の子・政氏と孫の高基が対立、関東を2分した大争乱が発生した。小山成長は政氏を祇園城に迎え入れるなど政氏派として活動したが、子の政長は高基派として政氏を追放、大乱を切り抜けたが政長も嗣子の無いまま死去する。政長には一族の山川氏出身の小四郎と同じく一族の結城政朝の3男、高朝の2人の養子がいたが、高朝が家督を相続した。結城氏・小山氏連合高朝は実兄である結城政勝と小山・結城氏連合を形成して、周辺の有力な敵対する大名である宇都宮氏・小田氏・佐竹氏らに対抗しようとした。政勝には明朝という男子があったが、幼くして死去したため、高朝の3男の晴朝を政勝の養嗣子として迎えて結城氏の家督を譲り、連合の結束力はさらに強化されることとなった。小山氏を北方から虎視眈々と狙う宇都宮氏に対抗すべく、結城・小山連合は宇都宮氏の勢力の北東にあって宇都宮氏と対立する那須氏と連携を深めていった。それに対抗して宇都宮氏は那須氏の南東、結城・小山連合の北東に位置する佐竹氏、小田氏と連携する様相になり、下野国・常陸国などの北東関東地方では、結城・小山・那須連合と宇都宮・佐竹・小田連合が互いに牽制しあう状況になった。天文14年(1545)10月、河越夜戦が起こる。古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉家らは連合して北条氏康の関東侵略を阻止しようと、北条氏康軍と河越で衝突した。しかし、結果は北条氏康の大勝利に終わった。氏康は武蔵北部から下野・下総・常陸に及ぶ広大な範囲へ勢力を伸ばそうとし、敗戦した古河公方足利晴氏は北条氏の影響下に入らざるを得なかった。天文21年(1552)、北条氏康は古河公方足利晴氏を押し込めて、自分の妹と晴氏の間にできた子である甥・義氏に家督を譲らせた。古河公方押し込めによる交代は結城政勝・小山高朝兄弟をはじめ、関東の諸将に衝撃と動揺、そして困惑を与えた。義氏が古河公方になったことで、北条氏康は関東管領のように振舞うことになり、今までは北条氏に対して関心のなかった北関東の諸将たちも北条氏に対する対応を考えざるを得なくなった。北条氏の台頭によって関東地方には大きな転換期が訪れた。それへの対応をめぐって小山・結城両氏の連合に歪みが現れる。また、小山氏の内部でも高朝とその子の秀綱との間に意見のずれが生まれた。高朝・秀綱父子は、足利晴氏と緊密な関係を結んでいた。そこへ義氏が古河公方に着任したことで、問題が起こった。それは、これから足利晴氏、足利義氏の父子のどちらを支持するからということであった。高朝は晴氏を支持する立場を堅持するとし、秀綱は義氏を新たに支持する立場への転換を明確にした。高朝・秀綱父子は意見が対立したが、小山氏の分裂することはなかった。しかし、結城氏は義氏を支持することを明確にしたため、結城政勝と小山高朝との間には進む方向に亀裂が生じ、結城・小山連合はここに解体することとなった。
2024年06月07日
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禅秀の乱の波紋室町幕府では乱に際して4代将軍の足利義持は持氏を支援するが、一方では義持の弟の足利義嗣が出奔する事件が起こり、義嗣は捕縛されて幽閉されるが、幕府内で上杉氏憲と内通していたと疑惑を持たれる人物の名前があがるなど波紋が広がる。室町幕府応永24年、氏憲の死後に自分の身に対する危険を感じた足利義嗣は京都を脱出するが、間もなく義持側近であった富樫満成に高雄で捕らえられ、義嗣の身柄は仁和寺から相国寺へ幽閉されて10月20日に出家させられた。ところが、11月に入ると義嗣の取調べにあたった富樫満成から出された報告が問題を呼んだ。そこには義嗣とともに現管領細川満元、元管領斯波義教をはじめ、畠山満則、赤松義則、土岐康政、山名時熙、更に公家の山科教高、日野持光らが共謀して上杉氏憲に呼応して義持打倒を計画していたと言うのである。これを受けて土岐持頼(康政の嫡子)が伊勢国守護の地位を奪われた他、満元以下有力守護や公家たちが揃って謹慎・配流を命じられた。明けて応永25年(1418)に入ると、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害される。ところが、この年の11月には逆に満成が義嗣に加担し、なおかつ義持の妻妾・林歌局と密通しているとの疑いで追放されてしまったのである。これは件の告発によって義持と富樫満成ら側近集団に実権を奪われた細川以下の有力守護大名側の逆クーデターとも言われている(満成がかけられた義持妻妾との密通容疑は後に別件で失脚した同じく義持側近の赤松持貞に対しても容疑としてかけられたものであった)。なお、満成は高野山に逃亡したものの、応永26年2月4日(1419)に畠山満家の討伐によって殺害されている。鎌倉公方室町幕府のこの反乱に対する立場は、義嗣や南朝との連携を危惧して氏憲討伐に乗り出したのであって、本心から鎌倉公方である持氏を支持していた訳ではなかった。持氏も幕府中央の混乱に乗じて関東・奥州各地に発生した武装蜂起に対して自己の政権の権限と基盤の強化に乗り出して幕府中央の権威を否定する動きを以前から見せていたからである。幕府から追討を受けている筈の氏憲の遺児が実は幕府に保護されていたという事実は、持氏が幕府に対して反抗する事態を考慮したからである。鎌倉府と敵対的でありながら室町幕府の意向を受けて禅秀討伐に加わった下野国の宇都宮持綱が乱後に上総国の守護に任じられたり、足利氏ゆかりの足利荘が鎌倉府から室町幕府の直接管理に移されたりしたのも、持氏に対する牽制であったと考えられている。禅秀の死の翌年にはその旧領であった上総において上総本一揆と呼ばれる旧臣である国人達を中心とした一揆が発生している。更に禅秀方についた大名らは持氏からの報復を危惧して鎌倉への出仕を取りやめる者が相次いだ(実際にその後山入与義や大掾満幹が鎌倉出仕中に持氏の軍勢に攻め滅ぼされている)。その後、持氏は岩松氏や佐竹氏(山入氏系)などの氏憲の残党狩りや京都扶持衆の大名など関東における反対勢力の粛清などを行うと同時に(この一件を称して「応永の乱」と呼ぶこともある)自立的行動を取りはじめる。その一方で、奥州南部の統治のために派遣されていた叔父の篠川公方足利満直は犬懸上杉家との関係が深く、乱後の持氏との関係の悪化とともに鎌倉府からの自立を図るようになる。やがて、守護任命などを巡り幕府は鎌倉公方を警戒し、鎌倉公方と関東管領との意見対立も続き、関東地方での騒乱は永享10年(1438)の永享の乱、永享12年(1440)の結城合戦などに引き継がれた。】 この時期に「関東八屋形」という概念が生まれ、その中には小山氏も含まれた。なお、従来小山氏の系譜などによって泰朝と満泰は親子で、満泰は古河公方足利満兼(氏満の子)の偏諱が与えられたと解釈されてきたが、近年になって古河公方で「満」の字を偏諱として授けていたのは満兼の父である足利氏満だけである。
2024年06月07日
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再興と2度目の断絶足利氏満は小山氏を滅ぼしたものの、小山氏の名跡が絶たれることを惜しみ、小山氏と同族の結城基光の次男、泰朝をいれて小山氏を継がせた。この時期、小山氏は鎌倉時代以来続いた名門としての権威は失われ、小山氏は結城氏の影響の下で勢力の回復に努めざるをえなかった。泰朝の子の満泰は応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に祖父・結城基光とともに鎌倉公方足利持氏に味方して活躍し、応永29年(1422)から翌年にかけての小栗満重討伐にも出陣している。※「小山 泰朝」(おやま やすとも)は、室町時代前期の武士。小山氏12代当主下総結城氏9代当主・結城基光の次男として誕生。小山氏は下野国守護を務める名門であったが、天授6年/康暦2年(1380)からの小山氏の乱により、11代当主・小山義政が2代鎌倉公方・足利氏満や宇都宮基綱と対立した結果滅亡した。同族であった結城氏は鎌倉公方に従って戦い、小山氏が有していた旧領と下野守護の地位を得る。結城基光は次男・泰朝を当主として小山氏を再興させ、結城氏の影響下に置いた。一般的に知られている小山氏の系譜によれば、泰朝は早い時期に没し、長男・氏朝は泰朝の実兄・結城満広の養子として結城氏を継承し、次男・満泰が後を継いだとされている。ところが、江田氏によって満泰の偏諱と系譜の矛盾が指摘され、満泰は泰朝の子ではなく、泰朝自身が小山氏継承後に足利氏満の偏諱を拝領して改名したものであるとする説を唱えた。この説が事実であるとすれば、氏朝に代わって泰朝=満泰の後継者になった子は系譜上では満泰の子とされている小山持政であったと考えられる。※「上杉禅秀の乱」(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代の応永23年(1416)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。鎌倉府は南北朝時代に室町幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。応永16年(1409)に3代鎌倉公方足利満兼が死去すると満兼の子の持氏が新公方となった。当初、山内上杉家の上杉憲定が関東管領の地位にあったが、応永18年(1411)に憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領に就任した。氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近して若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとした。ところが、応永22年(1415)4月25日の評定で氏憲と持氏が対立すると、5月2日に氏憲は関東管領を更迭され、18日には後任の管領として山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が管領職についた、氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、氏憲の婿にあたる岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政や地方の国人衆なども加えて翌23年(1416年)に持氏への反乱を起こした。応永23年10月2日の戌の刻頃、足利満隆が御所近くの宝寿院に入り挙兵し、氏憲と共に持氏・憲基拘束に向かうが持氏らは家臣に連れられて脱出していた(『鎌倉大草紙』)。その後、氏憲と満隆は合流した諸氏の兵と共に鎌倉を制圧下に置いた。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられているが、氏憲らは持氏を支持する諸将が鎌倉に不在の隙をついて挙兵をしたとみられている。駿河の今川範政から京都に一報が伝えられたのは10月13日で、当初持氏・憲基が殺害されたという誤報を含んでいたことと、将軍義持が因幡堂参詣のために不在であったために幕府内は騒然となった。幕府に詰めた諸大名は会合して情報収集に努めることにして夜に義持が帰還するのを待って対応を決めることとした。その後、持氏・憲基らは無事で、鎌倉を脱出した持氏が駿河の今川範政の元に逃れて幕府の援助を求めていることを知ると、義持は諸大名とともに会議を開き、義持の叔父である足利満詮の進言もあって、持氏救援に乗り出すことになった(『看聞日記』同年10月13・29日条)。幕府の命を受けた今川範政・上杉房方・小笠原政康・佐竹氏・宇都宮氏の兵が満隆・氏憲討伐に向かった。このため、氏憲らは駿河を攻めるが今川氏に敗れ、更に上杉氏らに押された江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して武蔵から氏憲勢力を排除した。翌応永24年(1417)元日の世谷原の戦いで氏憲軍が江戸・豊島連合軍を破り、押し返すがその間隙を突いて今川軍が相模に侵攻、1月10日に氏憲や満隆、持仲らが鎌倉雪ノ下で自害した事で収束した。また、乱で敗北した事により犬懸上杉家は滅亡した(ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けている)。また、武田信満は追討軍によって自領・甲斐まで追い詰められて自害、岩松満純は捕らえられて斬首された。
2024年06月05日
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義政の死後、子の若犬丸(小山隆政)がしばらく抵抗したものの敗れ消息不明となり、隆政の子も蘆名氏により捕らえられ鎌倉に留送中に三浦の海に沈められ、平安時代以来の下野国に君臨してきた小山氏宗家は断絶した。南北朝期の小山氏の守護補任に関する論争鎌倉時代初期の小山朝政以来、建武政権期に小山秀朝・朝氏(朝郷)に至るまで小山氏によって下野守護職が継承されたことについては異論が出されていないが、その後の小山義政の守護補任までの経緯に論争がある。諸国の守護補任について体系化した佐藤進一は1337年の小山城陥落時に小山氏が一時下野守護を更迭され高師直が任じられたと推定した。1980年代に入ると、新川武紀が佐藤説の一部を修正し、観応の擾乱後に仁木頼章、小山氏の乱以後に上杉憲方・結城基光が補任され、さらに小山持政以後しばらくは(乱後に結城氏によって再興された)小山氏の世襲になったこととした。これに対して、磯貝富士男が嘉吉元年9月5日(1441)付の小山持政宛口宣案に記された「依為当国守護、追先例、宜任下野守」により、南北朝時代以後下野守護は下野守に補任される慣例が存在しており、下野守補任の記録がない小山氏政は守護には任じられず、反対に同時期に下野守であった宇都宮氏綱が守護であったとした。これを受けて新川は自説を修正し、宇都宮氏綱が下野守であった時期に小山氏政も守護の職権として下野島津氏への恩賞申請をしていること、宇都宮基綱と小山義政の両名の下野守が在任が重複している時期があったことから小山氏(氏政―義政)と宇都宮氏(氏政―基綱)の半国守護制が確立していたとした(ただし、小山・宇都宮両氏半国守護説は渡辺世祐『関東中心足利時代之研究』(1926年)以来、存在していた)。また、旧説の上杉憲方に代わって従来守護代と思われていた木戸法季(貞範)を正式の守護とした。さらに永和3年11月17日(天授3年/13(1477)付で鎌倉・円覚寺造営のために棟別銭徴収を命じる関東管領奉書の存在(「円覚寺文書」)が注目されている。これは、小山義政・宇都宮基綱の両方に同日付で発給され、ともに宛先を「下野守」としていること、守護の権限とされていた棟別銭が両方に命じられていることである。佐藤進一や後述の松本一夫・江田郁夫は守護権力の及ばない有力武家にも棟別銭徴収を許可したものと解したが、磯貝富士男や新川武紀はこれを下野国に2名の守護がいた証拠として捉えている。その後、松本一夫・江田郁夫がこれらの説を批判して、小山氏の乱によって小山義政が守護を更迭されるまでは原則的には小山氏の世襲(秀朝―朝氏―氏政―義政)が維持されており、宇都宮氏からの守護補任はなかったとする説を出した。松本は小山氏側から、江田は宇都宮氏側からこの問題を追及しているが共通する指摘が多い。その要点として、磯貝説の根拠となる口宣案の「先例」は、下野守護が下野守に補任された事例が多かったという指摘にはなっても、全ての下野守護が下野守であったと断定する証拠にはならない(さらに持政の下野守補任に関しては文安3年11月24日付の口宣案も存在しており、磯貝の根拠とする文書が偽文書の可能性もあるとする)。例えば木戸氏・結城氏は下野守護であったが下野守ではなかった。さらに磯貝説で下野守護とされている宇都宮氏綱自身も1352年に下野守から伊予守に補任されたことは足利尊氏の御教書などから判明しており、当の氏綱自身も伊予守の署名をした文書を発給しているが、磯貝説ではこのことに関する説明がつかなくなる。小山朝氏から氏政にかけての小山氏は南北両陣営からの誘いがもっとも盛んであった時期である。もし、この時期に小山氏を守護から更迭すれば、同氏が南朝方に寝返るリスクの方が大きい。また、実際には同氏が最終的に南朝方に寝返ってはおらず、小山氏を守護から更迭する理由も存在しない。宇都宮氏綱が観応の擾乱の戦功で上野・越後守護に補任されているが、仮にこの段階で下野1国もしくは半国守護であれば、2、5もしくは3ヶ国の守護となってしまう。室町幕府から見れば外様で下野1国も掌握していない宇都宮氏にこのような待遇が与えられる理由が不明で、むしろ小山氏が握る本国下野守護の代替として両国守護が与えられたと考えられる。円覚寺造営を巡る棟別銭は隣の常陸国においては大掾氏・小田氏に対して命じる文書も残されているが、当時の同国守護は佐竹氏であり、棟別銭の徴収者が全て守護であったわけではない(勿論、鎌倉府が宇都宮基綱に棟別銭徴収権や下野守を与えることで、下野守護である小山義政に対して牽制を行った結果、両者の争いに発展した可能性はある)。半国守護説についても小山氏の乱後に木戸法季や結城基光が継承した守護職が小山氏の持っていた半国分でしかないとすれば、依然として残り半国の守護であることに変わりがない筈の宇都宮氏当主(宇都宮満綱以後)が守護職を継承できなかった理由が全く示されていない。などの指摘を行い、小山氏が守護の地位を失ったのは小山義政の反乱が原因であり、それ以前は下野国内最大の勢力となっていた宇都宮氏といえども同国守護には補任されなかったと論じた。なお、松本は守護である小山氏が建武政権の国司を兼ねたことを足がかりとして国衙の権力機構を継承したこと、勢力的に小山氏を上回る宇都宮氏や那須氏には干渉できず、加えて国内には足利庄など室町幕府御料所(下野守護補任説のある高師直や仁木頼章は足利庄代官であった可能性がある)も含まれていたために守護権力の行使できない地域が相当数存在し、それが小山氏の持つ守護権力に対する制約になったとしている。
2024年06月05日
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