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2024年06月08日
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カテゴリ: 中世





また、その後の六角氏との簗瀬河原での合戦でも幕府の主力として織田敏定、浦上則宗、若狭武田氏の逸見弾正の名が見える [6] 。義寛は将軍家に越前侵攻の支援を望んでいたが、明応2年(1493年)の明応の政変により越前奪還の夢は完全に潰えることとなった。


斯波氏の失脚


明応3年(1494年)に美濃守護土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、織田寛広(伊勢守家)は斎藤妙純方に付き、石丸利光方に付いた織田敏定・寛定父子(大和守)がそれぞれ陣没・戦死するなど尾張国内が乱れたため、遠江も駿河守護の今川氏親の配下であった北条早雲の侵攻を許すこととなった。


以降の斯波氏は今川氏との長い抗争に終始することとなる。なお、船田合戦終結の翌年、斎藤妙純も近江で戦死したため、伊勢守家は後ろ盾を失い急速に勢力を失った。


その後、斯波義寛の後を継いだ義達は遠江奪還のための遠征を繰り返したが、この際の義達の軍勢に織田氏は従軍しておらず、一連の遠征は織田氏にとって決して賛同できるものではなかったと思われる。このため永正10年(1513年)にはついに守護代・織田達定が守護・義達に叛旗を翻したものの、義達によって返り討ちにされてしまった。


守護代の下剋上を阻止した義達はなおも遠江遠征を続行させるものの、永正12年(1515年)に決定的な敗北を喫して捕虜となり尾張へ送還されたために失脚し、わずか 3 歳の斯波義統が当主となり、斯波氏の権威は失墜した。



5、「織田弾正忠家の台頭と信長の出現」


このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信・信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。


大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏の今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康・広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。


その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。


さらに尾張へ進出してきた今川義元を桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。


信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国の浅井長政や越前国の朝倉義景、さらに本願寺や甲斐国の武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。


元亀年間には武田信玄が西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、将軍義昭は山陽道の備後国へ追放され、室町幕府の滅亡により織田政権が樹立される。


その後も信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正 10 年には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠も二条城で自刃したため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。


勝幡織田氏(弾正忠家)織田敏信(清厳) ? 織田良信(材厳) ? 織田信定(月厳)織田信秀(桃厳)織田信長(泰厳)織田信忠(仙厳)織田秀信(圭厳)


「織田 達勝」 (おだ たつかつ / みちかつ)は、戦国時代の武将。室町幕府管領斯波氏の家臣。尾張国下四郡の守護代。官位は大和守。尾張清洲城主。


『信長公記』によると父は織田寛定(織田勝秀とも)。


永正10年(1513年)、兄とされる先代の織田達定が尾張守護の斯波義達と争い、殺害された後(義達の遠江国遠征が原因とされる)、まもなく清洲織田氏(織田大和守家)の後継者として歴史の表舞台に登場する。清洲三奉行の補佐を受けるも、やがて、三奉行家の一つで家臣筋の「織田弾正忠家」当主である勝幡城主・織田信定が台頭するようになる。


永正13年(1516年)、妙興寺に寺領安堵の判物を出している。清州三奉行の連署による物である。


享禄3年(1530年)、守護の斯波義統の代理として兵を率いて上洛したが、軍事目的ではなかったのでそのまま帰還した。


この行動は織田氏一族の反発を招いてしまった。天文元年(1532年)頃には信定の後継者である「織田弾正忠家」当主の織田信秀と争い、達勝は同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と戦ったが、その後、和睦している。


没年については不詳であるが、永正年間後半から天文年間の後半まで存在が確認され、非常に長期間にわたり守護代の地位にあったと推測される。その後は達勝に代わり、信友が新たな守護代となった。


なお織田氏の出自については諸説あるが、永正15年(1518年)、達勝自身が勝獄山円福寺(愛知県春日井市)に提示した制札に「藤原達勝」とあり、このことから少なくとも達勝自身は藤原氏を称していたと伝わる。






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最終更新日  2024年06月08日 06時39分25秒
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