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文明9年(1477) 9月22日 には主戦派の畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内国に下国する。
そして、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘が、 11月11日 (1477)に京から撤収したことによって西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。足利義視・ 義材 (後の10代将軍)親子は、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。
なお、能登守護の畠山義統や土岐成頼はこの和睦に納得せず、京の自邸を焼き払ったという。西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられる。9日後の 11 月20日 、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され 11 年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。
この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。
主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。
乱の終了後も畠山政長と義就は戦い続けていたが、山城国では度重なる戦乱に 国人 が団結し、勝元の後継者であった細川政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485)に 山城国一揆 を起して両派は国外に退去させられた。
また、加賀では東軍に参戦した 富樫政親 が 長享 2年(1488)に 加賀一向一揆 に居城・ 高尾城 を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。
6、、「応永の乱と山名氏再興」
ところが、明徳の乱で殺された氏清の遺児らを保護していたのは他ならぬ時熈であり、時熈は惣領として分裂した一族の和解と再結集に努めている。
応永 6年(1399)に発生した 応永の乱 で戦功をあげて、山名氏は 備後 ・ 安芸 ・ 石見 の3か国の守護に任じられ、今度は大内氏に対する最前線を務めることになる . その結果、明徳の乱からわずか8年で6か国の守護としての地位を回復した。
また、山名時熈は幕政にも深く関与して第6代将軍・ 足利義教 からは長老として遇された。
だが、時熈が3男の 持豊 を後継者にしようとしたところ、将軍義教は自分の側近である次男の 持熙 を次期当主と定めた上、その持熈が義教の怒りを買って追放後に討たれると持豊が改めて後継者に決定されるという事件発生している。
赤松氏討伐と応仁の乱
家督を継いだ・ 山名持豊 (宗全)は 、 嘉吉 元年(1441)、 嘉吉の乱 で第6代将軍・ 足利義教 が 赤松満祐 によって 暗殺 されると、同嘉吉元年(1441)、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。
この功績によって山名氏は、新たに 備前 ・ 美作 ・ 播磨 の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。
宗全は、 城之崎城 ・ 九日市城 を詰め城とする九日市( 豊岡市 九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている。
だが、先の家督継承の経緯から持豊は幕府に反抗的な態度を取り、享徳3年(1454年)には第8代将軍・ 足利義政 が持豊討伐の命を下すが、 管領 ・ 細川勝元 の奔走で持豊が一時隠退することで事態を収拾させた。
しかし、幕府に復帰した宗全は幕政の主導権をめぐって細川勝元と対立する。また、 足利将軍家 や 畠山氏 、 斯波氏 などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、 応仁 元年(1467)には 応仁の乱 の勃発に至った。
この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である 。 文明 5年(1473)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。
宗全の嫡男・ 山名教豊 は山名氏を継承したものの、父に先立ち陣没した。教豊の弟のうち、 山名勝豊 は山名氏一族が継承していた因幡守護に任じられ因幡山名氏を興し、 山名是豊 は 家督をめぐり父と対立したため細川勝元の陣に加わり、東軍より安芸・備後の守護職に任じられ備後山名氏の祖となる。
*「山名 宗全」 / 山名 持豊 (やまな そうぜん / やまな もちとよ)は、 室町時代 の 武将 、 守護大名 。家系は 新田氏 庶流 の 山名氏 。 室町幕府 の 四職 の家柄で 侍所 頭人。 但馬 ・ 備後 ・ 安芸 ・ 伊賀 ・ 播磨 守護。 山名時熙 の3男で、母は 山名氏清 の娘。 諱 は 持豊 で、 宗全 は出家後の法名。 応仁の乱 の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは 宗全入道 または 赤入道 と呼ばれていた。
家督相続
応永11年(1404年)5月29日、山名時熙の3男として生まれる。同20年(1413)、10歳で 元服 、4代 将軍 足利義持 の 名の一字 を賜り、 持豊 を名乗る。
同28年(1421)12月、初陣として父の従弟に当たる 因幡 守護 山名熙高 (ひろたか)と共に備後 国人 の討伐に向かい、翌年(1422)に 京都 へ戻った。
応永27年(1420)に長兄 満時 が死去し、後継問題が浮上した。応永35年(1428 年 )に山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍 足利義教 が自分の側近であった次兄 持熙 を後継に立てるように命じた。
間もなく時熙の病状が回復したために一度は先送りになったが、将軍の意向が示されたことで山名氏は動揺した。ところが、永享3年(1431)5月には持熙が義教の勘気を受けて廃嫡されたため、 永享 5年(1433) 8 月 9 日 に家督を相続、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名になった。病気がちの父に代わって義教に仕え、永享7年(1435)には父が死去、同9年(1437)には持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する。永享11年(1439)、 正四位下 左衛門佐 に 任官 し、翌年(1440)には 幕府 侍所 頭人兼 山城 守護となる。
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