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応仁の乱は先述の通り御霊合戦を契機に前半は京都を中心とした山城一帯が主戦場となっていたが、次第に地方へ戦線が拡大していった。
鎌倉府 が管轄する 関東地方 八ヶ国と 伊豆 ・ 甲斐 は享徳の乱が勃発していたが、足利義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側は西軍と連携する動きもあった。
更に、文明7年には 関東管領 上杉顕定 の実父でその後見人でもあった 越後 守護 上杉房定 が、西軍の 能登 守護・ 畠山義統 と共に東軍の畠山政長が領する越中を攻撃するという事件も起きている [16] 。
東軍は将軍・義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰 院宣 を駆使して「 官軍 」の体裁を整えており、西軍は結果的に「 賊軍 」の立場に置かれていた。
しかし、 正親町三条家 ・ 阿野家 ・ 葉室家 などのように将軍姻戚の 日野家 と対立する公家の一部は義視と共に西軍に投じており、さらに西軍は「 西陣南帝 」と呼ばれた 小倉宮 後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。
宗教勢力の動きでは 蓮如 率いる 浄土真宗 本願寺派 の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・ 富樫政親 の要請を受けて 下間蓮崇 率いる 一向一揆 が政親方に加担。本願寺派と敵対する 浄土真宗高田派 と結んだ西軍の 富樫幸千代 と戦い、翌文明 6 年に幸千代を破っている。
ただこの一件が後に 加賀一向一揆 を勃発させる遠因となった。
開戦と足利義視の西軍攻撃
応仁元年(1467年)5月、細川勝元派である元 播磨 守護家の赤松政則が播磨国へ侵攻、山名氏から播磨国を奪還した。
また武田信賢、 細川成之 らが 若狭国 の 一色氏 の領地へ侵攻し、斯波義敏は越前国へ侵攻した。 美濃 土岐氏 一門の 世保政康 も旧領であった一色氏の 伊勢国 を攻撃している。
5月26日の夜明け前には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を 成身院光宣 が、実相院を武田信賢が占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった( 上京の戦い )。
勝元は匿っていた畠山政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町御所を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。
室町御所を奪還した勝元らは西軍方についた幕府奉行衆の責任を追及し、 6月11日 には恩賞方を管轄していた 飯尾為数 が殺され、8月には 伊勢貞藤 (貞親の弟)が追放された。
5月26日、宗全邸の南に位置する一条大宮の 細川勝久 邸を斯波義廉(管領)の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。
続いて赤松政則が南下して正親町を通り、猪熊に攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡した。
西軍は勝久邸を焼き払い、続いて成之邸に攻め寄せ雲の寺、 百万遍 の仏殿、 革堂 にも火を放ち成之邸を攻撃したが、東軍の抵抗で決着が着かず翌 27 日 に両軍は引き上げた。この合戦で起きた火災で北は 船岡山 、南は二条通りまで延焼した。
足利義政は 28日 に両軍に和睦を命じ、細川勝元の軍事行動を非難しながら畠山義就の河内下向を命ずる一方、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど復権の動きを取っていた。
しかし、 6月3日 に勝元が要請を行うと、義政は将軍の牙旗を足利義視が率いる東軍に下し、
東軍は官軍の体裁を整えた。義視率いる官軍は総攻撃を開始し、 6月8日 には赤松政則が一条大宮で 山名教之 を破った。
さらに義政の降伏勧告により斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもった。
東軍は斯波義廉邸も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は 大舎人町 から 室町 までが炎上した。
六角高頼 、土岐成頼、さらに、斯波義廉(管領)は投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。
大内政弘の入京
しかし 6月14日 には 大和国 の 古市胤栄 が、 19日 に紀伊国の 畠山政国 などの西軍の援軍が到着し始めた。 8月23日 には 周防国 から 大内政弘 が 伊予国 の 河野通春 ら7か国の軍勢1万と2千艘の 水軍 [27] を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。
同日天皇・上皇が室町御所に避難し、室町御所の一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、 北畠教具 を頼って伊勢国に逃亡した。またこの頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。
大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、 9月1日 に畠山義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ 三宝院 に火を放った。
6日 に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。
9月18日 に京都郊外の 南禅寺 山でも戦いが起こり( 東岩倉の戦い )、 10月3日 に発生した 相国寺の戦い は激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。
しかし、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、義就が山名宗全邸の西に移り東軍は劣勢に立たされた。
朝廷においては 10月3日 に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる 治罰 院宣 を発したほか、 12月5日 に 正親町三条公躬 (公治)・ 葉室教忠 ・ 光忠 父子・ 阿野季遠 ・ 清水谷実久 ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である 日野家 と対立関係にあった 三条家 の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。
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