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鳥居元忠
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平岩親吉
らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(
第一次上田合戦
)。
また同年には、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、重篤に陥るも、最終的には治った。
勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」に見舞われた。
その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある 龍門寺 の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。
徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる。
家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『 家忠日記 』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と 石川数正 ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。
同年11月13日には石川数正が 出奔 して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。
天正14年( 1586 年 )に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『 当代記 』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・ 朝日姫 (南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる。
さらに10月18日には秀吉が生母・ 大政所 を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。
家康は10月26日に大坂に到着、 豊臣秀長 邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。
こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、 大坂城 において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。
この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた 陣羽織 を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀) .
豊臣家臣時代
天正14年( 1586 年 )11月1日、京へ上り、11月5日に 正三位 に叙される。このとき、多くの家康家臣も叙任された。
11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。
12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の 駿府城 へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。
天正15年( 1587 年 )8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に 従二位 ・ 権大納言 に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から 羽柴の名字 を下賜された。
同年12月3日に豊臣政権より 関東・奥両国惣無事令 が出され、家康に関東・奥両国( 陸奥国 ・ 出羽国 )の監視が託された。
12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から 左近衛大将 および 左馬寮御監 に任ぜられる。 このことにより、このころの家康は 駿府左大将 と呼ばれた。
家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、 北条氏政 ・氏直父子宛ての5月21日付起請文 [41] で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。
* 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない
* 今月中に兄弟衆を京都に派遣する
* 豊臣家への出仕を拒否する場合娘(氏直に嫁いだ 督姫 )を離別させる
家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある 北条氏規 を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。
天正18年( 1590 年 )1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上の断交となり、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には 吉川広家 が豊臣家の城番として岡崎城に入城している( 小田原征伐 )。
尚、これに先立って天正17年( 1589 年 ) 7 月から翌年にかけて「 五ヶ国総検地 」と称せられる大規模な 検地 を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。
この直後に秀吉によって 関東 へ領地を 移封 されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得た ノウハウ と経験は新領地の関東統治に生かされた。
天正 18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、 武蔵国 ・ 伊豆国 ・相模国・上野国・ 上総国 ・ 下総国 ・ 下野国 の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。
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