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戦国時代 に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、 明応 8年( 1499 年 )、 管領 細川政元 が、対立する前将軍 足利義稙 の入京と呼応しようとした延暦寺を攻め、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を焼いた。
また戦国末期に 織田信長 が京都周辺を制圧し、 朝倉義景 ・ 浅井長政 らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。
元亀 2年( 1571 年 )、延暦寺の僧兵4千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて 9月12 日 、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。
これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、 山科言継 など公家や商人の日記や、 イエズス会 の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の 10月15 日 に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。
この時の戦いの様子は 比叡山焼き討ち も参照。
信長の死後、 豊臣秀吉 や 徳川家康 らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍 徳川家光 が再建している。家康の死後、 天海 僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山 寛永寺 が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移った ( 現在は比叡山に戻っている ) 。しかし、いったん世俗の権力に屈した延暦寺は、かつての精神的権威を復活することはできなかった。
現代
1956 年 (昭和31年) 10月11 日 午前3時30分に 重要文化財 だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟が全焼した。
1987 年 (昭和62年) 8月3 日 、 8月4 日 両日、比叡山開創1200年を記念して 天台座主 山田恵諦 の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「 比叡山宗教サミット 」が開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「 世界宗教者平和の祈り 」が行なわれている。
1994 年 (平成6年)、延暦寺は「 古都京都の文化財 」の一環として ユネスコ の 世界遺産 に登録されている。
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