全6件 (6件中 1-6件目)
1

アパレル興亡の作家 黒木亮氏が 「誠実さが無ければ、会社は、生き残れない。」・・・と語っております。 約60人に取材。 其のうちの1人が、この私です。羽富 都史彰です。 本の中では、 堀川利幸という名前で、登場しております。 この人物には、4,5人のエピソードを一人の人物にまとめている。・・・と解説しております。私の体験や情報が投影されています。 村上ファンド事件では、「東京スタイル株事件」として、マスコミに数多く取り上げられた。この時は、もうロコレディに入社していた。いたたまれない気持ちで、 東京スタイル東京・四谷の本社にFAXを 高野義雄社長に送った。 もちろん、返事なんか期待は、していない。なぜか、なぜか、手紙を書こうと思った。 自然に手が動いた。もちろん、創業者羽富 正三にも、報告した。「そうか、としあき。感謝の気持ちを持つことは、素晴らしいことだよ。」と言われた。 東京スタイルで、数々の学びを得た。 感謝の気持ちでいっぱいです。 営業マンとして、色々な体験をしました。 色々な気づきを頂きました。東京スタイルの社風は、軍隊のような 上下関係が、厳しい社風でした。ドンドン、人は退職していく。退職を見込んで、採用人数を拡大していたようです。私が、入社した時は、酒井取締役人事部長さんでした。それは、それでよかったが、 やはり、やはり、やさしさも大切かと思いました。 嘘をついて、「名古屋に帰って、名古屋の会社に勤める。」と言って 退職した。ロコレディに入社して、 12月30日に、当時の上司木村係長から、 電話をもらった。 涙を流し、涙を流し、 「ウソをついて申し訳ない。」と謝りました。 「もう、終わったことだ。何とも、思っていないよ。 飯でも、一緒に食べよう。」と言われて涙があふれて、あふれて・・・・・。 そして、東京スタイルがTSIホールディングスになった。 そして、東京スタイルは、休眠会社になった。自己資本比率75%。経常利益率10%以上あったが、サンエーインターナショナルに全て持って行かれてしまった。 まとめ 心の経営の時代が、到来です。#東京スタイル#ロコレディ#磯貝勝#羽富 都史彰
2024.06.18
コメント(0)

やはり、年配者は、色々な経験をしています。その経験が、マイナスだと思いません。経験から、身に付けた気づきや、技法も沢山あります。創業者からの教えを参考に描きますね。「創業者の話しは、よく聴け?????」 会長故正三(しょうぞう)と車に、乗って市場をリサーチした時の話しです。もう、15年以上?20年になりますかね~。 「いいか、最低20回は、攻める市場(出店場所)に出かけよ。 よく観察しろ。」と、教えてくれた。 そして、昼時にあるレストランで、食事をした。 「会長、ナニにしますか?」 「エビチリ焼飯にする」と会長が言います。 そして、配膳されると、ウェイトレスさんに向かって 「エビが、サンプルより少ないですね」「サンプルには、4匹エビが、乗っているよ。」と。丁重に言います。 と会長が、言うと「サンプルですから。」と女性スタッフさんが。 「ウソはダメだよー。だったら,サンプルです。」と記載するべきだよー。 優しい言い方で対応された。 義父であったが、 いつも鋭い解説をして商いの道を教えてくださった。 感謝の気持ちでいっぱいです。 そうか、ココでも勉強になる。 会長が、大きな目で、キラリと光る眼差しで、 「いいか、としあき。自分が考えていること と違った場合 普通、怒ったような顔になる。 逆なんだよ。 優しい顔で、言うのだよ。 物静かな言い方するんだ。 じぶんが勘違いということもあるからな。 そのように、対応しながら、自分を鍛えるのだヨ。」 と子供を諭すような 言い方をする。 血のつながりのない親子関係であっても、愛情を注ぎながら、 心の経営を教えてくれる。 先日も、私ごとでありますが、興奮して、顔色を変えたつもりでは、なかったが ある人を誤解させてしまいました。 「静かな言い方で、しゃべれば、 しゃべるほど、相手に効く。 興奮したり、感情でしゃべれば、 自分の負け」 「大手企業は、看板があるから、殿様商売すれば良い。 中小零細企業は、相手を優しく包む感じで、打ち合わせするのだぞ。」 「電話で、商談はするな。誤解の原因になる。」 本当に、勉強になった。 そして、すぐに、実践するよう努力する。 「いいか、としあき~。 心の経営が、あってはじめて、テクニック論が通用する。 いきなり、効率とか、テクニックで 商売をしようとすると、 一時的に成功したように見えるが 長くて3年であろう。 なぜこの年寄りのオレ、84歳が わかるか? それはな~、自分でもそうやって 失敗したからだよ。」 私は、黙って運転するのみでした。 「いいか、もう一度、言うぞ。としあきの目的は、何だ? それはな~、会社を安定させることでは、ないか~。 全社員が、後1分、後1枚、後1コ、後1つ。 経理は、後1枚仕分け伝票を書く。 どうしたら、後1円経費が浮くか?社員が、後1分(ぷん)。 会社がどうしたら、よくなるか? 考える。営業担当は、後1人に声をかけよう。後1枚お勧めしよう。 その考えを付けさせる環境は、社長自らの仕事である。」 眼に涙が溜まり、運転しづらくなりましたが、黙ってうなづく私でした。 「心の経営にマニュアルはない。すべて、素直に勉強。そして、経験のみである。」と故会長正三は言って、 また一言付け加えて、 「常に、どうしたら、出来るか? これを考えろ。何故失敗したか これも大切だが、 どうしたら、もっとよかったか? モット、良い方法は なかったか? この方が、もっと大切である。」 と指導してくれました。
2024.06.14
コメント(0)

異業種さまの経営者様から、アドバイスを頂きました。反省から、気づきを頂く。失敗や、過ちから、数多くのヒントを頂く。9勝6敗の経営。6敗の負けから、次の勝ち(価値)のヒントがあります。深く、考える。創業者故羽富 正三から「いいか、としあき。 考え、考え、考え抜くことだ。」「そして、悩んだら、他人の頭脳を使え。」まだまだ修行の身だと感じました。会社経営は、先輩社長さまより、9勝6敗の考えが、大切だよ。失敗を1つ1つつぶしていくことだよ。
2024.06.12
コメント(0)

私は、大学生時代に就職先に、アパレル業界は 全く考えていなかった。将来、新聞記者になろうと思った。 だから、勤労奨学生として、新聞配達をした。でも、新聞配達をして、新聞業界の裏を知った。丁度その時に、読売巨人ジャイアンツ江川選手の空白の一日事件があった。各社の新聞記事は、江川選手を大げさに記事にした。新聞も良く売れた。ペンの怖さを学んだ。母方のじぃさんからは「新聞記者になったら、出入り禁止だ。」と脅された。明治生まれのじぃさんには、頭が上がらない。(父親が、ガンで亡くなった。経済的な応援が、少しは、あったからです。)話しを戻します。毎朝、3時半起床。 配達所から、大学まで、1時間15分。30分早くおきなければ、ならいない。夕刊も、集金も、新規拡張も行っていた。昭和53年の10月末に ばぁちゃん(母親方)から、新聞配達先の寮に 夜7時ごろだったと記憶している。 「トシ君、あなたのお父さんは、ガンなのよ。末期のガン。 手術が成功しても、3年か生きられない。あなたのお母さんには、胃潰瘍の手術だと言ってるが、もう手遅れのなのよ。」と言われた。 11月頭に手術。 その日は、朝刊を配り終えて、休みをもらった。新聞配達の所長に 嫌みを言われながらも、名古屋に帰省した。 そんな労働条件の当時でした。 「胃潰瘍位の手術で、名古屋に帰省を言うと 甘い。」と言われながらも、懇願しました。 次の日の15時ごろには、もう 配達所にいました。(川崎市多摩区 JR稲田堤駅付近) そして、昭和58年からは、 東海大学の無返済奨学金(勤労奨学金)に合格しました。 3年間、頂きました。 大学3年生の時です。 父親を昭和55年10月に亡くしました。就職の件では、悩みました。 担当ゼミの先生にも、相談しました。 そして、 東海大学の就職課の長岡さんという職員さんにも、相談しました。 「トシ坊、アパレル業界に行けよ。オマエみたいな営業向きな男は、 アパレルメーカーの営業マンだ。 アパレルに興味が無い? そんなことは無い。アパレルメーカーの営業マンは、今不足気味だ。 東京スタイルという東証一部上場会社に勤めて、 お母さん孝行をしろよ。」と言われましたが、 名古屋支店のある会社が、第一希望でした。 就職の件で、 名古屋に帰省しました。 長男である兄貴に、 「トシ坊、名古屋に帰って来い。 兄弟3人で、お母さんを助けよう~」と言われました。 次男である私も、それが良いかと思って、名古屋支店がある会社を選ぼうとしました。 そして、戻って 就職課に出向きました。 「長岡さん、私は、父親を大学3年生で亡くしています。名古屋支店のある会社 三陽商会が第一希望です。」と伝えました。 昭和56年8月に、三陽商会名古屋支店の支店長の面談を受けました。 「良い感触を得た」と思い、内々定の返事を頂きました。 本面接の為に、就職解禁日の10月1日を迎えることになりました。 晴天でした。朝5時に起床。 小田急電車に乗って三陽商会の本社に向かいました。 日経新聞をもって、並びました。 そして、昭和56年10月1日の朝7時に、到着。 東証一部上場の「三陽商会の東京本社(信濃町))に、スーツを着て並びました。 もちろん、東京スタイル(東京・四谷)にも、8月末には、会社訪問をしていました。 結果は、三陽商会第一次面接合格。でも、携帯電話の無い時代です。 電報が、届かなかったのです。( 当時の電電公社の配達人さんは、アパートが判らず、配達しなかったのです。) あとから、判明しました。(もう、頭にきました。) 合格の自信はあった。 なぜなら、三陽商会の名古屋支店長から「内々定」の返事が、あったから。 就職課の長岡さんが、三陽商会人事部に電話すると 「おたくの大学の学生さん、合格でしたが、今日、第二次面接に来ませんでしたので、不合格にしました。 営業マン希望300人から、100人に絞り込みました。残念ですが、諦めてください。 電報が、届かない。そんなことは、わが社には、関係の無いこと。電電公社に言ってください。」と。 涙を流しました。 薄電球のアパートに帰りました。 泣き崩れました。 亡き父親の遺影を観ると 「笑っている父親になっていたのです。」 そう見えたのです。(後からきづきました。東京スタイルに入社して、ロコレディに入社する運命だったのです。) 頭にきて、父親の遺影を投げ捨てました。 「おれは、三陽商会名古屋支店に行くんだ。母親を助けるんだ。」とその写真に向かって言いました。 その後、形だけの第二次面接を三陽商会本社で、人事部役職無い人が、小さな部屋で、1人だけで、受けました。 気持ちの無い第二次面接でした。 「もう、形だけの面接ということを悟りました。もちろん、不合格でした。」 ライバルは、三陽商会だ。 今に、見ていろ~。・・・と心の中で、誓いました。東京スタイルに絶対受かってみせる。 三陽商会の第2次面接(電報で、指定されていた10月5日)の日程では、 東京スタイルの第2次面接を受けていました。 会社説明会は、約1,500人(営業・デザイナー、生産部門などの全ての希望者) 第2次面接を終えて、第3次面接では 営業部門だけで、350人でした。 役員面接でした。 高野社長から、質問をうけました。 「どうして、東京スタイルという会社を希望したか?」 「大学生時代で、嬉しかったことは? 悲しかったことは?」 この3つを聞かれました。 「私は、営業マンになりたいのです。アパレルのことは、全くわかりません。 入社して、アパレルのことを学びます。営業マンになりたいのです。 嬉しかったことは全国の友人を持てたことです。悲しいことは、大学三年生時に、 父親をガンで、亡くしたことです。父親は、剣道家でしたので、私の心の中では、父親は、生きています。 勤労奨学生として、新聞配達をして、新聞拡張学生チャンピオンなったことが、嬉しかったです。だから、営業マンになりたいのです。」と答えました。 ファッションについては、一切言いませんでした。 わかるはずは無い。興味が無いアパレル業界ですからね~(苦笑い) ファッションを語った学生(青山学院、慶応大学、早稲田大学)は、ほとんどの学生は、不合格でした。 見事に、私は採用が決まりました。(営業マン71人の採用です。) 昭和56年年末に 名古屋に帰省すると 長男である兄貴に「トシ坊、おまえは、わざと三陽商会の面接落ちたな?????」といきなり、 殴りかかってきました。 「兄貴、信用してくれ。おれは、三陽商会名古屋支店の支店長からは、内々定を。そして 第一次面接合格していたんだよ。 合格の電報が配達されなかっただけだよ。信じてくれ。」と答えました。 母親は、「としあき、お前は、東京へ行け。 亡くなったお父さんは、としあきには、好きな道を行かせろ・」と言っていたよ。 そして、昭和57年4月1日に 東京スタイル本社勤務になりました。 寮は、東京杉並区高円寺北に遭った東京スタイル高円寺寮に入寮して、 軍隊のような営業マン活動がはじまったのです。 月末の2日間は、会社で、寝泊りが当たり前。 売上目標がいかないと、罵声を浴びさせられる。 月末の棚卸しは、フロアーにゴミ一つ落ちていない状態で。 「高野社長、巡回」という言葉から、在庫のチェックが始まります。 「ご苦労様です。」・・・この言葉は、先輩であっても 「ご苦労様」という言葉で、統一されていました。 ラルフローレン事件は、 3階に集合でした。(私が所属する百貨店3部は、4階でした。5階は、量販店グループ) 3階は、百貨店第2部のフロアーでした。 「ラルフローレン ブランドが、オンワードグループにとられた。」 と高野社長から発言がありました。昭和60年の3月から、小売業の転職を考えていました。 「おれは、小売店向きだ。名古屋に帰るぞ。」と。 すると、 セゾングループのバイヤーさんから 「茨城県のロコレディという会社が、トシ坊に会いたがっている。」と 言われました。 「羽富 正三という社長さまが、オマエに会いたがっている。」と言われました。 つくば万博の時です。 約20回の面接・面談を繰り返しました。 昭和62年10月に入社しました。 そして、平成元年5月に 結婚しました。 養子縁組です。 人生は、塞翁が馬ですね。
2024.06.10
コメント(0)

ロコレディは、2024年4がつから、婦人服ブティックチェーンと名乗っていません。地代の流れで、専門店向けアパレルブランドの統廃合が進んでいます。主要取引先さまとこの3年間試行錯誤しながら、打ち合わせを何度も、何度も、繰り返してきました。よって、ビューティーアパレルエステ事業と名乗るようにしました。トータル的な美を提案することが、本当の美ではないか?それと、他人と比べるのではなく、昨日の自分自身を返信することを目的とします。美と健康と食の文化を育むロコレディを一歩、一歩前に進んでいきます。現在は、アパレル店舗は、2店舗キッチンカー、ケフェイベントを主体とした事業は、3つ。そして、温熱療法を含んだエステ事業にも、取り組んでいます。#ロコレディ新事業#トータルビューティーの世界#伎芸(ぎげい)の世界#新事業の立ち上げオーダー・メイド型雇用人事制度を開発し、茨城県内に9店舗を展開しています。この制度は、女性スタッフの心理や働く環境を研究し、失敗を重ねながら練り上げたもので、女性が長く勤めてもらえる仕組みとなっていますまた、高齢者を活用し、会社の経営を安定させることにも力を入れており74歳の最高齢者も社内にいます
2024.06.09
コメント(0)

大学の無返済奨学金制度を受けようとしました。もちろん、不合格でした。奨学金の説明会には、2,000人???全く、記憶がありませんが、最終書類提出は、700人を超えていたかと思います。45年も前の話しです。記憶が定かではありません。不合格。父親の命が、3年持たない。ガンで、あと3年弱の命。授業料が払えなくなる。1年契約の新聞配達勤労奨学金を延長するか?・・・とも、考えました。すると、何と補欠合格になったのです。「君の熱心さには、負けたよ~」「これからは、しっかり勉強するだよ。」と学生課の職員さんに言われました。30人の採用で、一人が辞退したので繰り上げ合格になったようです。毎月、2万円3年間 大学から、奨学金を頂きました。新聞配達の経験が、今でも、生きています。
2024.06.04
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1
![]()
![]()
