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年越しの一時帰宅。まっすぐ家に帰るのも芸がないと思い、ふだんごぶさたしている叔母、父の妹の家に寄った。1年ぶりに会ったが、めっきり老け込んで痩せたのに驚いた。77~8歳くらいのはずだが、母よりよほど年寄りで病人のように見える。老々介護の疲れもあるにちがいない。少し遠回りをして、冬の海を見に銭函へ行く。ちょうどお昼時になったが、大みそかでほとんど店は閉まっている。さてどうしたものかと思ったが、そば屋が開いていた。海景庵といい、名前の通り店内からは海が見える。母はかも南蛮を食べた。そばはあまり好きではないようだが、おいしいと言って珍しく全部食べた。「そばアイス」まで食べた。おいしいものを食べさせてくれる店というのは、この世の宝ではないだろうか。空と海の境がなかった天気も食事をしている間に晴れてきて、正面に海、側面には山や半島を望むことができた。鉛色のオホーツク海に比べると日本海はまだ明るい。年越しそばは昼に食べたので、夕食は10種類の野菜のサラダ、オニオンスープ、若鶏の半身焼きとお鮨。母はビールと貴腐ワインをほんの少し、「おいしい」と言って飲んだ。「第九」と「紅白」を交互に見ながら、聞きながらの食事。そんなことができるだけで、何という幸福な時間だろうかと思う。幸福とは何か、哲学者たちの探求は数千年続いている。答えは簡単。生きてここに在ること、それが幸福のすべてだ。
December 31, 2005
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母の体調はよい。食欲も充分にある。きょうは弟が病院に来たのでむかしの話はあまりしなかったが、「瀬戸内ムーンライトセレナーデ」という映画の話から、汽車の旅はたいへんだったというような話になる。あの映画は、戦死した息子の骨を郷里の墓に届ける一家の旅を描いたものだった。18歳まで岩手の寒村で育ち、いきなり朝鮮へ渡り、終戦の年の12月に20歳で帰国した母は、戦艦に乗って帰り着いた博多から岩手まで3~4日かけて鉄道で帰ったのだそうだ。引き揚げ者は鉄道は無料で、引き揚げ者証というものを見せるとフリーパスだったという。終戦直後でもそういうことがきちんと機能した日本の官僚制のすごさというか、秩序を重んじる日本人の性質には感じ入るものがある。岩手に帰る鉄道の旅でその映画にあったような何かエピソードがないかと思ったが、通路まで人で埋まっていても「そんなものだ」と思っていたので特に印象に残ったことはなさそうだった。鉄道の旅はたいへんだった。そのたいへんさは、けっこう最近まで残っていたと思うが、むかしはかなりの苦行を覚悟しなければならなった。土砂崩れなどでよく不通になったし、座席の背は直角で硬く、温度も暑いか寒いかのどちらかだった。それでも、それがあたりまえと思っていたから、誰もさほど不満にも思わなかったのだ。1960年の秋、箱根や東京、日光などを旅したあと岩手の実家に寄った旅の話を聞いた。3歳のぼくを連れての初めての里帰りということか。秋の岩手は寒く、ぼくは熱を出してしまったのだそうだ。しかし医者もいない寒村。思いきって町に出、抗生物質を買って飲ませ、そのまま北海道へ帰ることにしたのだという。そうしたら、途中ですっかり元気になってしまったのだと言って愉快そうに笑った。母はこのように豪傑なところがある。人生でもっとも古い記憶は、その旅で日光の東照宮を訪れたときのものだ。薄暗く、寺のようなものがあり、人が多かった。名所旧跡を訪れる旅がキライなのは、そのときの印象が影響しているのかもしれない。寺や神社や教会を見ても、何がおもしろいかと思ってしまう。数分も見れば飽きてしまう。そんなものより、海や山や花や美女の方が何百倍も魅力がある。こちらは、何時間眺めていても決して飽きるということがない。ヨーロッパがいいのは、自然の風景をひきたてるように山の中に趣味のいい小さな教会が建っていたりするからだ。むかしの記憶を呼びさまそうと努力するうちに気がついたのは、日常的なことはほとんど記憶に残っていず、旅のような非日常の体験ばかりが思い出されるということだ。もう少し、日常のことを思い出す努力をしてみよう。
December 30, 2005
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きのう母は岡崎大五の「添乗員騒動記」を読んだ。その中に、春だというのに大雪のアトラス山脈を越え、メルズーガ砂丘まで強行軍で訪れる話があり、行ったことがあったので印象に残ったらしい。いきおい、モロッコを旅したときの話になる。母とモロッコを旅したのは97年。母が70歳のときだ。ゴールデンウィークを含む1ヶ月、その中の一週間ほどをモロッコに費やしたのだったと思う。数えてみると、母と旅した外国は15ヶ国。そのほかに何度か母はひとりで外国に行っている。その中で、いちばん面白かった国を聞くと、やはりモロッコだという。タイやネパールもよかったが、日本人にとっては文化が似ていてあまり外国という感じがしない。中米はけっこう欧米化されていたし、欧米のことは日本にかなり情報が入っているので、カルチャーショックは少ない。その点、モロッコは何から何まで日本と異なっていて、旅の好奇心を刺激するところだった。このときの旅の第一の目的は長年、憧れていたスペインに行き、セヴィーリャの祭りを見ることだった。スペインももちろんおもしろかったが、憧れていた分、期待はずれのことも多かった。春だというのに寒かったのもある。そこで予定を変更して暖かい国に行こうということになり、ジブラルタル海峡をフェリーで渡ってモロッコに行くことにしたのだった。だからモロッコにはほとんど予備知識がなく、それもまた旅の印象をいっそう深めることになったのだと思う。モロッコは、ガイドと称する客引きがうるさいことを除けば旅のしやすいところだった。岡崎大五のそのときの旅と同じように、マラケシュからアトラス山脈を越えた。ワルザザードを経由してザゴラという小さな町に滞在した。ザゴラから何キロか行くと小さいが砂漠がある。そこらの安宿に荷物を下ろして外へ出るとじゅうたん屋が「サバク、サバク」と日本語を使って砂漠ツアーに勧誘する。ラクダに乗って砂漠まで行き、そこで一泊するのだという。これはおもしろそうだと思って話に乗ることにした。町から砂漠の近くまではクルマで行く。景色はどんどん変化していく。だんだん植物がなくなっていき、岩がゴロゴロしているような場所から、その岩が石になり、さらに小石になり、土だけの場所へと変わっていく。その風景の変化の妙は、日本では絶対に見られないものなので感銘を受けた。一口に砂漠と言ってもいろいろあり、それぞれの美しさがあるということをはじめて知った。砂漠の近くで、ひとりの少年が2頭のラクダを連れて待っていた。ラクダに乗り、目指す幕営地まで2時間。ラクダはけっこう背が高い。背に乗るとかなり高度感があって緊張させられる。慣れるまで足が痛くなった。やがていわゆる砂漠の中に突入した。それまでの景色とも全く違う、どこか神秘的で荘厳な風景だった。全身の細胞が沸騰するような気がした。夕方になり、砂漠のあちこちにテントが張られて夕食の宴が始まっていた。われわれのガイドの少年は、しかしさっぱりテントを張る気配がない。ラクダに結わえ付けている荷物にもそれらしきものはない。1997年4月23日の母の旅日記にはこうある。~~4時ごろラクダにのって出発。ラクダの背中はよくゆれる。ももがすれて痛い。2時間ほどで、とある砂丘のかげで泊まることになるが、砂の上にジュータンを敷いただけとは驚いた。砂漠は、まことにおだやかで暖かく、やさしい。こんな表情をもつ砂漠は想像していなかった。ラクダひきの19歳だという青年がたんねんにタジンを作ってくれて、星空の下で夕食。毛布をかけて寝る。星と月が輝いて静かで、ほのかに暖かくて、あまりよくは眠れなかったが、夜を満きつ出来てさいわいという所。ラクダはおとなしくて、のんびりした愛きょうのある顔~~じゅうたんに毛布で砂漠に「野宿」したあの夜のことほど、強烈な印象に残っている旅の想い出はない。もし神があと一度だけ旅のチャンスをくれるなら、知識がなかったためにあのとき行きそこねた、メルズーガ大砂丘を選ぶ。ランドローパーでも借りてオアシス街道を走るのだ。見渡す限りの広大なアマポーラ群落、砂漠に沈む夕陽、羊を追う遊牧民・・・旅のささやかなエピソードのひとつにすぎないと思っていたあの体験は、いまから振り返ると幸福の絶頂だったのだ。
December 29, 2005
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今日は母が朝鮮にいたときの話を聞いた。母が朝鮮にいたことがあるのを知ったのは中3のことだった。何かの拍子に母の学歴を書いたものを見た。そこには「京城女子師範卒」とあった。京城とはソウルのことである。そのころは無知だったから、実は母は朝鮮人なのかもしれないと思った。父は台湾生まれだったから、中国系なのかもしれないとも思った。友人に両親の出身を話したら、何人かは去っていったという経験もある。自分は日本人ではないのかもしれないと短い期間だが思ったのは自立心を養う上でよかった気がする。とはいえ、歴史を勉強して、1945年まで台湾も朝鮮も「日本」だったことを知って変な話だが安堵したものである。母が朝鮮に渡ったのは19歳のころらしい。昭和19年というと、かなり敗戦色が濃くなってきたころだ。軍国主義一色の日本に窮屈さを感じ、植民地にいけば少しはのびのびできると思ったらしいが、植民地の学校に行くと優遇措置があったのだろう。しかし、日本軍国主義がフランス式の同化政策を押し進めていた朝鮮は、本国以上に窮屈だったという。敗戦後、植民地にいた日本人は、アメリカ軍の指導の下にかなり整然と帰国した。大邱医学校の宮下医師とソウル大医学部の某医師が、GHQと交渉して朝鮮からの帰国民の防疫や健康管理に尽力。母はソウルでそれを手伝ったのち、プサンに移動したのだそうだ。無給で、衣食住が保証されるだけの4ヶ月だったという。毎日、何百人もの引き揚げ者にDDTを振りかけたりしていたのだ。朝鮮からの引き揚げ者、特にプサンから引き揚げた人の多くは母にDDTを噴霧されたはずだ。悲惨だったのは旧満州からの引き揚げ者だったらしい。女性は男装し、食うや食わずでソウルもしくはプサンまでたどり着いた人たちがほとんどで、みな顔は土気色だったという。満州だか朝鮮で収容所生活を送り、命からがら帰国した郷里の同級生がいて、その同級生からは今年も年賀状が来て「同級生で生きているのは、ぼくとあなたの二人だけになりました」とあったという。マコトという名のその小学校しか出ていない同級生は、戦後、岩手県警のトップになった。帰郷したとき、ちょうど彼の母は畑に出ていた。顔をくしゃくしゃにし「マコトか、マコトか」と泣きながら走り寄ってきたという。60年前のちょうど今ごろ、引き揚げ者が少なくなり、20歳の母は釜山発福岡行きの巡洋艦で日本に引き揚げてきた。日本兵の中には、現地の女性と親しくなり、日本を捨てた人も少なくなかったようだ。そういう人たちは数年後に始まった朝鮮戦争で悲惨な目にあったにちがいないが、そういう人たちにスポットライトをあてた歴史家を寡聞にして知らない。
December 28, 2005
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26日、股関節を痛がる母を連れて整形外科に行った。レントゲン写真を一瞥した医師は、「がんの骨転移にまちがいないと思います」と言う。目の前が真っ暗になった。その足ですぐ乳腺クリニックに行き、入院。骨を固める点滴薬の投与を行った。抗癌剤の投与は順調にこなし、癌細胞は抑えられていると思いこんでいたので、青天の霹靂だった。心の中に鉛の雨が降る。あるいは、タールの雨が降る。26、27の両日はそんな気分で鬱々と過ごした。食べ物ものどを通らず、カロリーメートのゼリーで何とかしのいだ。母に取りついた癌細胞はよほど性質の悪いものらしい。奇跡でも起こらない限り、母に残された時間はそう長くはないようだ。この2年、特に父が亡くなってからの1年は、すべてを母優先にしてきた。食事も、母が好きなもの、しばらく食べていないもの、食べたことのないものと考えて作ってきた。だから、入院されてしまうと、何をどうしたらいいかさえわからなくなってしまう。ぽっかりと心に穴があいてしまったようだ。たとえようのない虚無感、虚脱感に襲われた。子どもの成長だけを楽しみに生きてきた人が子を失ったときにはこんな風に感じるのだろうか。母を連れイタリアには3度行ったが、あんなに憧れていたシチリアに連れて行くことはできなかった。動物好きの母をアフリカのサファリに連れてゆく夢も果たせなかった。プラハ、エディンバラ、マチュピチュ、ヴィクトリアの滝、メルズーガ砂漠、カラコルム、タイの小さな島・・・いずれも夢に終わった。もう一度ナポリのオペラハウスでテナーの美声に酔うことも、ヒマラヤで満天の星空を見ることもかなわなかった。せめてもう一度沖縄にという夢も、どうやら意地悪な神さまは許してくれないようだ。呪ってやる。神仏など糞くらえだ。常に後手後手にまわり、危機管理能力のない日本の医療にも失望した。やはりMDアンダーソンに連れて行くべきだったのか。恨み言を言ってもしかたがない。むかし読んだ沢木耕太郎の「人の砂漠」には衝撃を受けた。新聞のわずか数行の記事の背後に、実は底知れぬドラマが隠されていることを暗示するルポルタージュ。謎は謎のまま提出され、知ったふりの解釈がいかに底が浅いものか、ひとりの人間の生の重みを痛感させられた。いままでもそうしてきたが、これからは一分一秒でも母といる時間を長くするようにしよう。家族ができることというのは少ない。いちばん大事なのは、ひとりにしないこと、何もしなくていいから、ただ一緒にいることだと本で読んだ。母がどんな人生を歩んできたのか、実はよく知らない。ほとんどの人がそうではないだろうか。母と話したこと、聞き出したこと、思い出したこと、誰の役にも立たないかもしれないが、こんな人生を送ったひとりの女がいるのだということを、こうして書かずにはいられない。
December 27, 2005
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母の総コレステロール値が250を超えたのを機に始めた「鮨療法」。効果があった。常時200を切るまで下がった。6年前、母は虚血性脳血流障害というものになり、約12時間ほど呆けたことがあった。そのとき、唯一異常値を示していたのがコレステロール値で、やはり250を超えていた。それを下げるために試したのが食事療法で、サバ、サンマ、イワシなどを毎日のように食べた。ほどなくして200を切った。そして呆け症状は完全に消えたのだった。アメリカの大規模な調査では食事とコレステロールに因果関係はないという結果が出ている。しかし、母に関して言えばはっきりと関係がある。ソフトクリームを食べると上がるし、ひかりもののお刺身を食べると下がる。毎週、計っているのだからわかる。やはりアメリカの調査ではコレステロール値が高い人ほどがんになりにくく、低い人ほどがんになりやすいというデータもあるらしい。だから、コレステロール値が低いからと言ってよろこんでもいられないし、高いからと言って悲観することもない。10月の健康診断ではコレステロール値は165だった。これはいかにも低すぎる。せめて200に上げるようにしたい。年末年始のメニューは決まった。ポークステーキとウニイクラ丼。ウナギの柳川風に牛トロ鮨。もちろんデザートはハーゲンダッツ。コレステロールづくし。
December 23, 2005
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家のプチ・リフォームが終わった。いままでの経験ではのんびり一週間くらいかけていた作業をたった一日半で仕上げていった。やはりかなり景気がよくなっているのだろう。いつも思うのは建具屋やクロス屋といった職人さんたちには「いい人」が多いことだ。モノを作る仕事をしている人たちは、人間関係の煩わしさなどがなく、上下関係もない。そういうことが関係しているのかもしれない。固定した人間関係ほどストレスになるものはない。ほんのわずかに広くなった部屋は、しかし狭いことにかわりはない。リフォームを機に空にした、狭いことに変わりはない部屋には、思いきって余分なものを持ち込まないことにした。ファンダメンタルズに関わる(大竹セミナーの資料を含む)書類専用の机と、テクニカル分析のための(というかチャートブックを参照するための)机。その横にパソコン。ほかには、よく開く本数冊と、よく聴くCD数枚、それに猫の爪研ぎだけ。新しい年、新しい相場を迎えるための準備が整った。ここを砦に、あるいは出島として、市場(相場)という大海を自由に泳ぎまわるのだ。前途は洋々としている。
December 21, 2005
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『運命じゃない人』(内田けんじ監督)は、アイドルをつかわず原作小説などなくても、さらに言えばカネをかけなくても十分におもしろいエンタテイメント映画が作ることができるという見本のような映画だった。ネタバレしないようにこの映画のことを書くのは難しい。どこがおもしろいか、というか着想のおもしろさを書いても、半分以上はネタバレになってしまう。脚本は監督自身が書いている。こういう脚本を書くことのできるのはかなりユニークな才能であり、普通の人のアタマとは違う「映画的」なアタマの構造を持っている人だと思う。通俗的な2時間ドラマの脚本を書いている連中にぜひこの映画を観せてやりたいものだと思う。きっと自分の仕事に嫌気がさすことだろう。凡庸な才能ならテレビの2時間ドラマとほとんど変わらないものになっていたかもしれないストーリー。それが、カンヌで4つも賞をとることができたのは、ひとえに脚本の力によるものだ。同じ時間軸を異なる側から描いたこの手法は、他に類例がないわけではない。この映画ほどではないが、サスペンス映画ではあたりまえに使われている手法かもしれない。それに、この手法を使えるのは一度きりだろう。同じ手法でもっといりくんだ内容の作品を作る方向へ行くのか、あるいは既成の映画文法をひっくり返すようなおもしろさを別の手法で感じさせてくれるのか。これほど次作が楽しみな映画監督はほかに思い当たらない。
December 19, 2005
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大雪の中、めげずに出かけて映画を観てきた。自由学校「遊」主催の「ジャマイカ 楽園の真実」、2001年のアメリカ映画。会議室での、ビデオプロジェクターによる上映。要するにホームシアター。意外と映像はきれいだが、やはり映画を観る環境というか条件としてはよくない。映画がこういう扱われ方をするというのが、まずしのびない。映画は、BBCのドキュメンタリーをもう少し自由にしたような作り。とはいえ、IMFや世界銀行、そのバックにいるアメリカが悪でジャマイカはその経済植民地にされている、という「世界観」を補強し説明するだけの映画。客観的な風を装った反グローバリズムのプロパガンダ映画というほかない。やはり、映画という媒体がこういう扱い方をされるのを観るのはしのびない。白人観光客の無邪気な姿と、ジャマイカの人たちのおかれたシビアな状況の対比などは、使い古されたステレオタイプな表現。あれなら、日本映画「地の群れ」の方が市民社会の無垢な醜悪さを残酷に描いていてはるかに優れている。この映画はハズレだったが、「遊」は、3月には「百合祭」を上映するらしい。ぜひ観たいと思っていた映画なので行くつもりだ。
December 17, 2005
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この時期、帰省する人が増える。外国に出ている人などが里帰りしたりして、思いがけず消息を聞くことも少なくない。同世代の人たちはキャリアのピークにいる。民間企業なら取締役のすぐ下の現場のトップ。大学なら助教授から教授、医者なら院長、公務員でも係長からやっと課長になる人が増え始めた。たぶん、数年後には団塊リタイアの影響でもう一段のキャリアアップが待っているのだろう。いちばん出世しているのは、やはり早くに外国へ出た人たちだ。20代前半までに外国へ出たかどうかで大きな差がついている。1ドルが200円以上だった1970年代は、外国は月ほども遠かった。年収5000ドル程度の時代に、ヨーロッパ往復の飛行機代は同じくらいだった。1960年以前に生まれた人は、20代前半で外国に行くチャンスなど、新婚旅行のハワイやグアムを除けばほとんどなかったはずだ。次に出世しているのは、東京に出た人たちだ。東京の大学に行った人は、ランクがかなり下でも、地方の有名大学出身者よりはるかに出世している。外国や東京のような大都市には、チャンスへの回路が豊富にあるということだろう。機会としての平等。新聞を開くとキャリアのピークにいる人たちの活躍がいやでも目に飛び込んでくる。むかしの仲間の消息を見ない日も少ない。もともとエネルギーと知力に富む人たちだったから、パージされても逆にそれを糧にしてキャリアの創造に成功し、新聞記者にメシのタネを提供している。貧窮のうちに26歳で死んだプロレタリア文学の天才、石川啄木はこう書いた。友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買いきて 妻としたしむこの歌のすごさを理解するのは、40代ではまだ難しいかもしれない。ぼくならこう書く。友がみな われよりえらく見ゆる日よ 株を買いきて ひとり儲けるかわいそうな石川啄木。彼は文学しか手にしていなかった。
December 13, 2005
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何年後かに、きょう聴いたブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」を思い出すことがあるだろうか。きっと思い出さないだろうと思う。30年近く前に聴いた小澤征爾の「幻想」、小林研一郎の「マンフレッド交響曲」、秋山和慶のエルガー「交響曲第1番」、尾高忠明のマーラー「交響曲第5番」・・・ブルックナーでは、札響の常任指揮者だったペーター・シュバルツが指揮した4番、7番、8番の演奏はいまも耳に残っている。札響がまだまだ未熟だった時期の破たんだらけの演奏だったが、胸を打つ何かがあった。オトマール・マーガという指揮者は、悪い指揮者ではない。欠点を探そうと思ってもすぐには見つからない。この日のブルックナーの演奏も、かなり充実したものだった。外面的な効果を狙うことのない誠実な演奏で、テンポも中庸。速すぎず、遅すぎない。ドイツの指揮者にありがちなひきずるような重さもない。オーケストラもよく鳴っていて、しかもうるさくない。しかしそれでは、なぜこのコンサートは印象に残らないのか。音楽には2種類ある。日常性の音楽と非日常性の音楽である。ヨーロッパで行われているのは日常性の音楽である。よくも悪くも、音楽が生活の一部になっていて、いつも圧倒的に感動的な体験を求めるわけではない。そこそこの演奏でじゅうぶん楽しみ、そして満足しているのがヨーロッパ人だ。しかし、音楽会の数が少なく、しかも料金が破格に高い日本では、聴衆はコンサートに圧倒的な体験、非日常的な感動を求める。しかも曲がブルックナー、フィナーレのラスト3分に「神」が現れる、あの「ロマンティック」である。いささか感受性が摩耗し世間ズレした中年男の胸のうちにさえ、「時間よ止まれ、きみは美しい」と叫ばせる時間が提供されてしかるべきだった。立派な演奏なのに、そういう神がかりの瞬間はなかった。だからこの演奏が記憶に残ることがないだろうと思ってしまうのである。カリスマ性の不足と言ってしまうこともできるかもしれない。レナード・バーンスタインがロンドン交響楽団を指揮した映像を見ると、マーラーの「復活」のフィナーレでは、奏者や歌手たちが、まるで何かに取り憑かれたように演奏していて、そこには日常と隔絶された崇高で神秘的な時間が流れているのがわかる。そういう時間の創造に、この日のマーガと札響は失敗したのだ。もしぼくが日刊紙の編集長なら、一面トップはこの記事にする。このことに比べれば、みぞほ証券の300億円損失事件など、事件としてのスケールが小さい。
December 10, 2005
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シューベルトがこんな詩をのこしていたなんて知らなかった。 民衆に訴える 時代の青春は終わった 民衆の力も 流れ行く群衆のなかに埋もれて 使いはたされた 苦しみにさいなまれ あの力の名残りさえ 時代にさまたげられて 実りなく消える 民衆は歌を忘れて 病んだ時代をさまよう あの日の夢を捨てて 顧みることもなく ただ歌だけが運命に 立ち向かう力をくれる かがやく思い出をえがき 苦しみを和らげて1820年代のヨーロッパは、フランス革命のあとの反動の時代だった。「冬の旅」のミュラーもシューベルトも、この時代に30歳そこそこで死んだが、この詩を読むと、夜警国家で生きることを強いられた芸術家の感性が、どんな思想に裏打ちされていたかがわかる。「黒テント」で知られる斉藤晴彦が日本語で歌う「冬の旅」は、最初は耳が拒否反応を起こした。聴き慣れたクラシックの歌手による演奏とはあまりに違うからだ。ときどき、というよりかなり頻繁に音程もはずれるし、なかなか「音楽を楽しむ」という感じにならない。しかし、何曲か進み、ピアノ伴奏つきの詩の朗読を聴いているのだという風に耳がリセットされると、ドイツ語で歌われてるとひたすら「暗い」だけのこの歌曲集の裏側に隠されたユーモアや風刺、批評精神が浮き彫りになってくる。高橋悠治のピアノは相変わらずすばらしい。マウリツィオ・ポリーニの完璧な演奏を聴いても「あんな風にピアノが弾けたらいい」とは思わない。ひたすら圧倒されるだけだ。しかし、高橋悠治のピアノを聴いていると、「あんな風にピアノが弾けたら気持ちがいいだろうな」という気がしてくるから不思議だ。耳に心地よいというより、身体的な快感があるのだ。なぜそう感じるのか、ずっと考えていた。音楽的に言えば、まずテンポ感覚がいい。「冬の旅」の旅人のように、後ろを振り返らず、立ち止まらない、少し速歩のテンポ。逆に、速い曲では速すぎず、走り出さない。それが端正な印象を与える。次に、フレーズ感がいい。呼吸すべきところで呼吸するので、重たい曲でも決して息苦しくならず、いつも爽やか。こういう風に感じさせるピアニストは、ジャズの世界にはときどきいるが、クラシックではほかにグレン・グールドくらいだ。そのグールドも、高橋悠治に比べると作為的に聞こえる。この世には、自分の音楽を押しつける、あつかましい音楽家の音楽があふれている。聴く人の中にある音楽的感性を呼びさます音楽や演奏というと、高橋悠治をおいてほかにはいない。そういう演奏だから、「あんな風にピアノが弾けたらいい」という生理的な快感を伴う感想が生まれるのだろう。何度でも思う。今度生まれ変わることがあるなら、あんな風にピアノが弾けたらいい。コンサートの最後は新曲「民衆に訴える」(高橋悠治)。今年聴いた、最も感動的な音楽。
December 9, 2005
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映画を観てきた。『9songs』というイギリス映画。数年前に観て感動した『インティマシー』と似た映画のようだったので期待したがハズレ。柳の下に二匹目のどじょうはいなかった。まあ、69分で600円だったから諦めもつく。映画の半分ほどを占めるセックスシーンが『インティマシー』では自然だったのに、この映画では自然さを狙った不自然さが鼻につく。主人公のひとりが若い女なのも失敗した理由だ。若い女が奔放に生きても、風呂屋の脱衣場でみなが裸なのと同じで、何の意外性も発見もない。「孤独」がテーマなのだろうけど、都会で根無し草のように生きる人たちの孤独など底が浅い。要するに、この映画の監督は孤独というもののほんとうの深さが分かっていないのだ。私費制作したらしい映画をけなすのはしのびないが、私費制作だろうが大企業のひもつき映画だろうが、ダメなものはダメだし、いいものはいい。それだけのこと。それにしても、映画における監督の重要性をあらためて感じる。チェーホフの「小犬を連れた貴婦人」は何度も映画化されているが、それらの多くとミハルコフによる『黒い瞳』には月とスッポンどころではない落差がある。予告編でおもしろそうな映画を見つけた。珍しく日本映画。内田けんじ監督の『運命じゃない人』。この監督は日大を落ちてサンフランシスコ州立大学に留学した人らしい。「映画は映像ではなく脚本が命」と言っているのには共感する。この映画ではクラシック音楽の「ソナタ形式」の発想を応用しているという。さっそく初日に行ってくることにしよう。
December 3, 2005
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12月になると思い出すことがある。地域の商工会で知り合った近所のスナックのマスターのことだ。5年前の大みそかに脳出血で死んだ。まだ50代なかばだったと思う。外出するときは、外側にかんぬきをかけて夫を閉じこめておく。それほど病的にヤキモチ焼きだった奥さんが癌で亡くなった8年前、保険金がドンと入った。次の年、店の敷地が道路拡幅工事のため買収となり、移転費用など補償金が入った。合わせて2億円近いおカネが労せずして手に入ったのだった。そのおカネで3階建てのビルを新築。1階がスナックと床屋、2階がレストラン、3階が住居という変わった建物ができた。レストランと床屋は二人の息子がやっていた。残った1億3千万円のゆくえが気になるところだが、亡くなるまでの2年間に使い切ってしまった。奥さんに閉じこめられていた反動か、オンナに狂ったのだった。判明したところによると、近所の人妻一人、ススキノのクラブホステス6人、合計7人の愛人に蕩尽したらしい。健康保険も払えなくなり、そのため高血圧の薬を切らしてしまい、あっけなく死んだのだった。葬式は、愛人のひとりだった近所の人妻が費用を出して行った。ホステス連中は、ただのひとりも顔を出さなかった。そのビルは、しばらく閉鎖されていたが、数年前に入居者がついた。2階のレストランは「レストラワン」という名前のレストランになった。超ブロンクスな住宅街で客など来るのだろうかと思っていたら、何と大盛況だ。犬を連れて入ることができるレストランなので、犬好きな人たちが犬連れで集まるのに使われたりしている。うまい商売を考え出したものだと感心する。妻を亡くした淋しい男は、お金で女性の歓心を買うしかなかったのだろうか。それにしてもすさまじい蕩尽だ。1日に20万円近くつかわなければ、1億3千万ものお金を2年で使い切ることなどできない。ロト6で3億2千万円当たった人のブログがある。金銭感覚が狂ってきている様子が見てとれる。大金をつかんで狂わない人というのはめったにいない。たいていはこのマスターのように悲惨な最期を遂げるのがふつうだ。グレアム=バフェット流の原則的な株式投資による複利運用を身につける以外、大金をつかんで正気を保つことはできないのではないだろうか。原則的な株式投資には、大金の魔力から人間を守り救うという重要な一面がある。
December 1, 2005
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