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友人が送ってきたドキュメンタリー"BURIA BUSCA BURIS"の字幕を読んでいる。スペイン北部、asturiasから北米に移民してそれからキューバに渡った友人一家。”いろいろあって”彼と母親、父親はキューバ-北米のあいだで生き別れになる。父の顔を見たこともなく約50年たち、キューバで五十路を迎えたわが友人はスペイン-北米-プエルト・リコを旅してasturiasの一家のルーツと移民先を訪ね、ついに父親との再会を果たす。相も変らぬ経済封鎖を続ける合衆国へ、キューバから入るのには相当困難があったと思われる。 これを撮る準備をはじめていたらしい1993年、わたしは初めてキューバへおでかけしたのだった。住所と写真しか持たずに知人にいきなり会いに行った。彼はわたしが探す知人の住むアパートの一階に住んでおり、留守であった知人の言伝をお願いしたのが「そもそも」だった。わたしも、彼がどこかで知り合った日本のドキュメンタリスタへの手紙を託され(郵便事情は推して知るべし)たり。そのあと、わたしの知人は北米に亡命する。翌年わたしがそこへまた遊びに行きNY経由でハバナに入り彼の近況なんかを友人に知らせていたのだった。友人が日本に送ってくる手紙の消印はいつも違った。あるときはドイツ・フランクフルト、それからスイス・ローザンヌ。くそ寒い冬の欧州でドキュメンタリーを作っていたらしい。その翌年。今度はスペイン・アストウリアスの消印。「2ヶ月はいるから遊びに来いや」ちょうど翻訳を読んでスゲー!と面白がっていたメキシコ在住のミステリ作家も来てるという。万難を排し、万事お繰り合わせの上おでかけする。そこで初めて、「ここにいるほんとの目的」を聞かされる。あっちこっちで集めてきた一族の写真。アンダルシア、ヒロナ、バルセロナ。いろんな場所の特徴的な顔だち。眼だの耳だのの形が、少しずつ彼に含まれている。まるで福笑いではないか。アンダルシアの祖母の眼が、そっくりだった。そこでの旅から戻り、翌年またキューバへ。ハバナの家にはご家族だけで本人は不在。北米に行ってる、と聞かされる。(ああ、あのプロジェクトは進行中なんだな)会えなかろうが、ちゃんと製作できてるんならそれでいいや。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それから数年。こっちもなんだか忙しくて、連絡もとれないからちょっと忘れていた。あるとき、いすぱにやのyahoo!でなんとなく検索かけたらどこかのサイトに書き込んでる跡があった。そこからmailを出してみた。(こんなこと書いてるの、ヤツしかいないもんなあ)翌日、数時間もたたずに返信が。消息を絶っていた期間にいろいろと便利になっていたので、こんなことも容易にできるようになる。そこで、昨年。フィンランドに行くついでに立ち寄ってみたのだった。(立ち寄る、というほど近所ではないが・・・)8年間ほど会わなかった、けどそれはたいした問題ではない。その期間のことはこのドキュメンタリーに記録されている。で、まず字幕だけがやってきた。脚本のないせりふは生々しい。これに絵と音がつくとどうなるのだろう。字だけで読んでいるとつらくなってくる。「あんた、最初に会ったときと大して変わってないじゃん」去年再会したとき、開口一番わたしはそう言った。でも、それはちょっと正確じゃないような気がした。少なくとも「どうして自分がここにいるんだろう」とでもいいたげな雰囲気ではなくなっていたから。まあ、それでもスペインが安住の地だとは言い切ってもいないし。どこを「棲家」とするのか。それは誰にでも簡単じゃないテーマだ。
Jan 31, 2004
お誕生日に何か自分に買ってやろうと思いながら、「べつに」ってもんしか目の前に現れなかった。で、ついにあったのよね。デンマーク、SKAGENのでっかいクロノグラフ。エライごついのに渋いピンクのクロコ(型押し)のベルト。誰かが後につけたのかと思ったら、ちゃんと裏にロゴ。すでに新品を買わねばという趣味なんぞないので、これも質屋の表で買った。5000円。いいのかよ、SKAGEN!まあ、どうせこう言う店で高値を呼ぶものってのは名前が知れてる。ありがたく買っていく。国際線に乗って時間つぶしにduty freeのカタログをめくるたびにここの梨地の銀色の時計が気になっていた。こんなゴツいもんも作ってたのかあ!ちょっと意外。どっちにせよ、北欧ものを何か買いたいなとは思っていた。フィンランドのSUUNTOもいいじゃないか。と思いつづけていたけど、あれってやっぱりお外で暴れる人向きなのね。そういう人向けにできている。わたしのような暴れ方をする者には、ハナから時計なんざ必要じゃないの。なんつって、去年の真冬には仙台でMONDAINE、スイスの鉄ちゃん時計もえらい安かった。これも時々します、夏以外は。携帯電話があるから時計はいいや、って人も多いみたいだけどわたしには必要だ。携帯は必要じゃないもののひとつ。I’m old fashioned,but I don’t mind it,I love old fashion things...♪と、Chet BakerもFred Astairも唄ってるしさ。
Jan 29, 2004
いすぱにや在住、キューバ人(であった)の友人から、彼のドキュメンタリー”BURIA BUSCA BURIAS"の英語字幕が届いた。DVDは郵便で来るのだけど、字幕はつけなかったからWordで読めということなのだった。う、すげえ分量。しかし、これから暫く通勤の友になりそう。このドキュメンタリー、どっかで上映会をやろうと思っている。いつかどこかで、こじんまりとできればなあ。詳細はまた。
Jan 28, 2004
まあ、わたしがやったのはafter session。メインは高田馬場でBAR ESPANOLをやってるみずき嬢とそのお仲間のバイレyカンテyギターラ。それから秋田でフラメンコ・ギターやってるい山人少年、17歳&A田S新報のS氏のカホン。(はっはっは、こちとらこの時点ではタンゴもブレリアも区別できないってのにこのあとよく一緒にやれたもんっす、恐縮・・)実はここに来る二日前、東京にて小松原庸子のフラメンコをあるご招待でみてきたばっかだったのだ。生フラメンコ、初めて見てその3日後にいきなりその中に入ったのだった。(ああ、カホンはフラメンコではああやって叩くのかあ、なんて見ながら納得してただけなのに)心臓、ですねえ。われながら。みずき嬢のバイレも初めて見た。音と一緒にびしっと手先足先が決まるとめちゃかっこいい。気がつけば地元局のカメラまで回ってるじゃないの。環境が変わると同じライブでも扱いが濃くなるね。で、一連のライブが終わったあとのアンコールにカホンを叩かせてもらう。のっけからリズム出せない(フラメンコのルールってものがあるだろう)からなんとなく数小節あとから入る。この手のリズムはじぶんのピアノトリオでも仲間と探求していたこともあり、ちょっとポリリズムが奇数に入った感じでやれればいいのかあ。やりながら色々考える。そのうち、結構決めのポイントがあることにも気づきだし、ああそうか!なんて納得してるうちに終わった。そうそう、コードというか12音階じゃない音の楽器を使って人前でちゃんとセッションしたのはこれが始めてだったのね。そこらへんが自分としては不思議な感触で、自分の言語なのだけどちょっと今まで持ってるものと違うなあ。なんというか、そんな印象。宮城弁を使いつつ(これだって耳から入ってきたものにすぎないけど)秋田的言い回しを取り入れていくのと、ちょっと似た作業。でも、自分の頭のなかでどう分類されてるのかはよくわからない。やさしいお友達たちと、たった今知り合ったばかりの人々がうおっと盛り上がってくれてうれしい。音出すのって、しゃべるのとは別の効果があるんだよね。ちょっとワイン入ってるせいもあるけれど、やっぱりいいっす音出すのって。しみじみと思う。ちょこっと短距離を走ったり、500mくらい一気にクロールで泳いだあとくらいのカタルシス。ただの運動にはない緊張感が音楽にはあるし。映画「モロ・ノ・ブラジル」の中でセウ・ジョルジが「サンバってのは実にすばらしいスポーツだよ」って言ってるのだけど、フラメンコもいい運動だ。「あ、そーいえばあたし。車に手はさんで能代のビョーインなんかに行ったんだった・・」突然思い出し、Aさんにつぶやいてみる。(さんざん暴れたあげくの不用意な発言!)Aさん、にやっとしつつもクールに「ああ、そんなこともあったような気がするねえ」と流してくれた。そうそう、あれはもう昔の話。使いかけの膏薬だけがかばんに残った。
Jan 26, 2004
さて、RH嬢を伴いいざ次の現場からまつ温泉・・とその隣のハモンセラーノ小屋へ。秋田のGRANVIAのマスター所有、ログハウスをああやってこうやってこしらえた逸品だ。この小屋で今晩あれこれやって過ごす。雪はますます深くなり、男鹿での晴れっぷりはどこへ?という感じ。さすがにこの天候での判断ならばヒコーキ引きかえすかもしれぬ。秋田といっても広うござんす。山一つ向こうは違う気候。それでもまだこの冬はそれほど雪が降っていないとかで、ちょっと積もりだしたら近所のおやじさんが我慢できずほっかむり(タオル)で外に飛び出して雪かきを始めてる。これがなくちゃあよ!と思ってるのかもしれない。雪もかかない冬なんて!そんな中を走りつつ、さらにもさもさと積もったからまつ温泉へ到着。この真っ白ななかで今晩何が起こるのか。車を数時間ぶりに降りて外へでる、手足を開放する。しかし、いきなり足もとは30cmの積雪。いいじゃないなかなか!とりあえず中へ入るとすでに人がかなり集まっている。今晩のフラメンコ見物、といすぱにや料理のために雪をまたいで集合した面々だ。GRANVIAのマスターにお会いするのは2度目。すでに巨大なパエリャ鍋に中身満載、これを皆でログハウスの現場にバケツリレー方式で運び込む。しょっつるらーめん二玉の30%しか腹に入ってないのでいきおいこの皿リレーには理性を失いそうだ。しかし何のために30%に抑えたって、夜のためなんだから。雪の中で靴を脱いだりはいたりしながら運ぶ。特大のワイン瓶の群れ、1リットル入りのjugo de naranjaの山。うーむ期待しちゃうよ、いやがうえにも。そんなこんなで皆でセッティングを終える。なんとなく落ち着き、さてと集まり食べ始める。皆ものすごい勢いだ。どんどん皿が空になり、前のテーブルに置かれたスープ鍋(ミネストローネ!sopa de tomate con verdurra)やらパエリャ鍋の前を空の皿と人が頻繁に往復する。いいぞ、この喰いっぷり!もちろんワインの大瓶もどんどん水位を下げている。なんだかいい感じの腹と気分になったころ、マスターのあいさつ。それからビンゴ!このときの賞品はなかなかシブくって「桐のまな板」「スペイン・バルで使用する楊枝」・・・など、など。桐のまな板には皆がどよめき「あれほしい!」・・・「あ、あともうふたつでアガリ♪」「わーん、なんでわたしに来ないの!?」あっちこっちで悩み狂う人続出。なかなか穴のあかない自分のカードを穴あくほどにらみつける。我々のメンバーは平和にまな板を入手。ビンゴやるのはヘルシンキ以来だけど。どこでやっても燃えるっす。と、こんなことをしてまた皆でおかたづけ。そのあとにフラメンコのセッティングが始まった。ここに一斗缶サイズの黒塗りの箱を下げてきた男がひとり。(あれ、カホンじゃん)A氏の顔を見つけるとどーもってあいさつしてる。「さっき男鹿で立ち寄ったとこあったでしょ。そこのA田S新報の人だよ」あ、そうだったのね。楽器を見ると見境のないわたくし、カホンを持ってくるなんてあなたもシブイですねとかいいつつばしっとたたかせてもらう。実はカホン触るのは初めてだ。ほんとはギタリストだけど今回はこれももって来たのだという。いいじゃーん、とちょっとやらせてもらうと、あら調子いいじゃないの!周りの人も優しくてありがたい、あとで一緒にやってみなさいよって背中を押してくれる。では、お言葉に甘えてひっぱたかせていただきます。パンデイロとタンボリンの手つきしか知らないのにいきなりこのフォーム。まあ、要はリズムだもんね。いきなりの乱入、いいのかなあなんてやる前には逡巡すること数秒、だけどやり始めたらそんなことはすぐに忘れてしまう。いつものことだ。
Jan 25, 2004
はっはっは、いつになったらこの旅は終わるのか。RH嬢の不安と緊張の声を羽田空港から受けた後、こちらは男鹿の市街に出てきた。もう雪は止んでいる。「ここらへんでなにか食べときますか?夜にそなえて」「でもあんまり重いものは止したいし・・」などといいつつ、男鹿の魚市場へ。それほど大きくはないけれど、充実した品揃え。魚屋の娘らしいのが成人式らしく、なんかすごい着物を着て市場に来てた。まわりは親戚か。みな同じ顔。そのうちここで威勢のいい声を出すのだろう、その様子がすぐに浮かぶような娘さん。店それぞれを練りあるいてご披露してる。こちらはといえば、生のハタハタなんぞを探していた。まだハタハタを口にしてない人に食べてもらいたいからだ。(わたしは昨年末にとれたばっかのをいただき、履修済み。)しかし、すでにあの大漁の時期は過ぎ(ほんの10日ばかりのブーム)、「生のはないねえ」とどこでも同じ返事。ここではツブ貝を購入。「さて、どうしましょう。どっかで何か・・・」「あ、あれがいい。二人前を三人分にしてもらって食べましょう。そのくらいでちょうどいいでしょ」え、さんにんでににんまえ・・・「しょっつるらーめん」の屋台を市場内でやってるおやじに早速Aさんが交渉にいく。おやじもいいやつで、妙な反応ひとつせず作業に入る。ふたつの麺を一生懸命3分の一にしている背中がいいじゃないか!うれしいよ、こういうの。ほどなくして3人分の適量ならーめんができあがる。寒い市場の中ではふはふすするらーめんのうまいこと。あっという間にいってしまう。こんなことをしているうちに、RH嬢は秋田へ飛行機で向かっているらしい。ここは晴れてるし、着陸OKでしょう。のんきにわれわれは構えている。このあとちょっと秋田魁新報・男鹿支局にAさん立寄り。それから酒を買い足さなくちゃ。と酒の量販店「やまや」へ。それぞれの興味ある品を買い、(ここで売ってたおフランス製ヘイゼルナッツ・キャンデーは秀逸でした)空港へ。空港へ近づくとだんだん雪が増えてきた。あ、これじゃあ「引き返します」なんて、いうかもしれない。男鹿方面の雪が甘かっただけなのだ。RH嬢から電話。無事到着とのこと。(ふふふ、また緊張してぐったりしてるに違いない。すぐ立ち直るだろうけど・・・)人気のあるようないような空港。ちょっと雪積もってる。RH嬢発見。あ、やっぱり少しぐったり気味か?いや、大丈夫そうだ。みんなと会えてほっとしている様子。まんづ荷物を詰めて、移動しよう。車内の密度が上がり、また違うノリが始まった。このままからまつ温泉まで行き、飲みとフラメンコの夜がはじまる。
Jan 24, 2004
お待たせしました(言ってみたかった・・)!「中南米マガジン」14号、堂々納品完了です。外資系レコード屋チェーン、こころやさしい書店さんなどにちょっとずつ並んでおります。平積みなのは、うーん・・・新宿南口のタワレコですね。ここなら一冊お買い上げにつき、もれなく♪のポイントがつきます。四谷の文鳥堂、神保町の書肆アクセスでもごらんになれます。おっと、仙台ならBEANS内・島村楽器の音楽書のコーナーに。さんざんここで喋っていた、ミカ・カウリスマキ氏のインタビュウ。やっとよのなかに出ました。今回は「ひとおり」増量してちょっと厚みが出ました。ヨロピクっす。
Jan 23, 2004
さて、五能線でお帰りになるA産の時間に合わせてチェックアウト。雪がまんべんなく積もった能代の町をながめつつ出発。まだここだけ昭和のような風景がそこここにある。ゆっくり見ていたい気もするが、先を急ぐ。東能代駅でAさんとお別れ。来たときと同じ、ぜんぜんふくれてないリュックひとつで駅へ向かう後姿。またどこかで別の季節にお会いしましょう!3人になってしまった。天気が回復したのか、太陽の薄い光が出てきた。AさんNさん、コンビニでポカリスエット1000ml入りをそれぞれ購入。ついでに背後のクーラーボックスにいる同行者、トゲクリガニやタラたちに氷を追加。ちょっと晴れたのもつかの間、カーボ・ヴェルデのエボラさんの歌声をバックに、またまた荒れ始めた天気の中を進む。「いやー、楽しいなあ。地吹雪来そうですね」Aさん、思い出したように「(年長組)Aさんが前に書いてた一文でね、”今日一日が楽しければ、一生楽しい”ってのがってね・・いかにも彼らしくていいんだよね、そういうの」そうかもしれない。今わたしもとってもたのしいもの。昨日もだけど、今日も。これからどうやっても地吹雪に突っ込めそう。そんな期待感だの昼過ぎに東京から空港に着くはずのRH嬢がここに加わって予想されるテンションの高さ、それ以降の予想できない事やなんか考えるだけでも、もう楽しい。(じゃあ、わたしの一生はもう既に楽しいわけだ。ふふ、いいじゃんそれって)選ぶものさえ選べば、なんだって楽しめるはずだ。そろそろ視界がわるくなってきた。いい感じ。平野の田んぼらしき道の両側に防風用のブラインドみたいなのがずっと並んでいる。これがなかったらここはいったいどんな風が吹くんだろ。地面からもやが立つように雪が這っている。音もなかなか。さっきから一台もすれ違わないし、後ろからも来ない。こんな日はうちでぢっとしていろ、ということなのか。まともな判断に逆らってみるとこんな風景を目にすることができる。贅沢だ。もちろん、ドライバーAさんの運転のおかげさま、なのだけど。さっきからバスや電車に乗る子供みたいに窓にへっぱりついて外をみている。一人、ほっかむりのおやぢが歩いているじゃないの!タフだなあ。やっぱりタオルで顔を覆うのが基本のようだ。雪に埋もれないといいが。何もかも横に流される。ここ数年、締りのない冬をすごしてきただけにこの風景はなかなかいかす。こうでなくちゃね!やっぱり。今とても外には出られないけど、暖房効いてる車内でこれを見ることができる贅沢よ。途中、ある集落のそばを通る。そこが「べらぼう」店主氏とこれから会うシェフK氏の生家があるのだそう。K氏は「べらぼう」の味を「昔ばあちゃんが作ってくれたような味なんだよねえ」と評していた。そのKさんとこに持ってくんだ、と言うととっときの濁り酒の一升瓶を無言で頒けてくれた「べらぼう」店主氏。くうう、シブイ関係だなあ。そういえば、AさんKさんは何か旨いものの話で「ばあちゃんの作った味」という表現をしながら、なんだか懐かしそうな顔をするのだった。ばあちゃんの味で鍛えられた舌。けっして「かあちゃん」じゃないんだなあ。キビシイ!(旅から戻ってきてから読んでいた秋田の食についての本でも、がっこのつけかたで”姑から教わった方法”と”うちで覚えた方法”両方書いてあったりして。”そこのうちの味”・・きっと、かあちゃんだってがんばってるんだぜ。でも、孫はばあちゃんに餌付け&刷り込みされるのだなあ、仕方ないけど。でもそうやって、味覚は伝わっていくのね)「このまま、男鹿半島を走りましょう。坂たくさんありますけど。車酔い、大丈夫ですよね」Aさんの気遣い。おう、大丈夫でい!こちとら「いろは坂」でも何事も起こらぬ身。サケはともかく車は平気。しっかし、ほんとに吹雪いてきた!海側に出て、またもや禍々しい色合いの空を堪能。ウミネコだけは元気で、そこらに浮かんではハタハタのブリコを狙ってる。誰もいない海水浴場に到着。砂が強風で寄せられて、「海の家」が半分埋まっている。うら寂しい椰子の木のペンキ絵。ここでいっちょ降りてみようか、ということに。お、ドアがあかない!と思えるほどの強風。それにもかかわらずAさんさっさと海岸へ出る。ほんとに誰もいない。カメラを持ってまともに立っていようとすると、手ぶれがおきそう。それでもかまわず冬季限定のさびしい風景をフィルムに収めた。お、NさんはNIKON党だったのね。ポケットからさりげなくマニュアルの写真機が出てくる。皆、メカニカルなものが好きらしい。初対面での旅だから、こういう場面でちょこっとずつお互いの趣味趣向があきらかになっていく。楽しい瞬間だ。Aさん、まだまだ一人で海をみている。ジャケットに雪が積もったままだ。
Jan 21, 2004
勤め人の悲しい体質か、深夜バスで移動後ずっと移動して酒飲んで寝た後も「いつもの時刻」に目がさめてしまう。6時30分。なんてこったい。もっと寝たいぞ!しかし寝直したら多分集合できなくなりそうだ。不安だから起きてることにする。外、すごい音の風と粉雪が横に飛んでいる。きたぞきたぞ~、低気圧。本日こそ地吹雪にあえるかもしれない。シャツを一枚多く着た。暇なので湯を沸かしコーヒーいれる。ヘルシンキの救世軍の店で買った一人用ドリッパー。細かい目の金属のフィルターがついている。まともに買えば結構するけど救世軍なら5euro.見つけたときすごくうれしくて、すぐに安宿の洗面所のお湯でUHULA MOKKAを淹れたもんだ。普段は職場で活躍。これの前にはボダムのドリッパーを使ってたのだけど、匂いがつくんだよねえ。使いすぎたタッパーウェアみたい。ともかく、これさえあればどこでもまともでいられる。粉は三鷹の某所で見切り品だったハワイ・コナ(ブレンド)の深煎り。今ではビジネス系ホテルほとんど湯沸しついてるから、いつでも飲める。ほかの人々はどうしているかしら。コーヒーでアセトアルデヒドを分解するのは、わたしだけかなあ。まあ、寝ていたいだろうから放っておこう。そうこうしているうちに7時30分。ロビーにおりるとAさん以外皆きている。「じゃあ、朝めしにしますかあ」3人和食。わたしだけパン焼いてもらって食べる。朝はみんな無口。ものすごい勢いで食べ終わり、わたしだけまだもぐもぐやってる。3人、とりあえず朝刊チェックに入る。こういう朝の習慣てのは変えられないもの。コーヒーを飲みながらぼんやりとTVの画面をながめる。どこかの渡り鳥の話をやってる。誰からともなく「うちの庭に来る鳥」の話をはじめた。なんと、メンバー4人全員が庭に来る鳥さんに餌をやっていた。それぞれの地域でどんな餌をやって、どんなのが集まるか。皆違うから面白い。年長組Aさんなどは餌をやらないと網戸にスズメがはりついてきて請求するという。弘前のスズメは大胆なり。一応東京で餌やってるわたしが話す鳥の名も、およそ東京らしからぬやつばっかりだ。ジョウビタキ、イカル、コカワラヒワ、アオジ、コジュケイ、メジロ、ウグイス、コゲラ。昔はカケスまで来た。さて、腹もおちついたからそろそろ。年長組Aさん、朝の電車で弘前へ戻るのだそう。これにあわせてお出かけすることになる。外はどんより、強風、粉雪が民家の屋根にぶつかってからまた飛ぶ。
Jan 20, 2004
今ほしいもの。「腫れない喉。」金で買えないもので「ほしいもの」が増えてきたよな気がする、近年。自分に何か買ってやろうかと思ったのだけど、サテ何がいいのかわからなくなった。所望するのは「物質」じゃないのかもしれない。先日、相棒が革の財布を買ってくれた。数年来わたしの爆発寸前の酷い財布を見ていたはずで。見かねたのだと思う。遂に。奴はいつも、「わたしがいやがうえにも必要なもの」を知っている。わたしはいつも、自分に何が必要なのか気づいていないみたいだ。無頓着っていうのね。ついでに、最近やることなすこと「濃さ」が増してきたね。軽い気持ちでやったらタイヘンなことになったりさ。ここまでナンカやるのを止めないでくると、他者も結局濃ゆいメンツしか集まらない。そういうのはとても面白い。なんでって。「昔、やってたんだけどね~」などという萎えたフレーズ発したり聞いたりするくらい情けないことはないから。まあ、あとは自身の濃さと要求に耐えうる体力。これでしょね。ほしいもの。ま、色々あるけど。当分、プロポリスがお友達だ。腫れない喉の友。
Jan 19, 2004
早く飲みたい人々の待つ車に戻る。みぞれで地面はぐじゃぐじゃ。わたしが車に乗る、入れ替えに救急車が飛び込んでくる。当直の人々の仕事はこれからが本番みたい。「喉にモチ、かな」「いや、脳卒中だな」正月明けてすぐだからそういう発想もあったが、やっぱりここは秋田。脳卒中説を推す。秋田、脳卒中での死亡率「世界第二位」なんだとか。ついこの間、青森に一位の座を奪われたのだそう。きわめて狭い範囲での競争なのだった。チャンピオンベルト奪還のために、さあ醤油をもうひとかけ、塩もう一振り!・・てなわきゃ、ないでしょうね。さて、今夜のヤサに一路。Aさんがこのツアーのためにシングル×4をとっておいてくれたのだ。宿さえ決まってればあとはどのようにでもなるし。旅の基本。荷物を放り投げ約二日洗わない顔を(会社から深夜バス直行だとこういうことになる)お湯でぶるっとゆすぎ、はいてきたブーツに新聞紙を詰めて乾かし。時間を決めてロビーで集合。みな今晩の飲みに期待するせいか、きっちりと集まってる。これから向かうのは「べらぼう」って飲み屋さん。ところどころの凍った雪に足をとられつつ行く。すでに4人用の座敷をとってあるのだ。完璧。どやどやと靴脱ぎ、まんづビールで喉を洗っておもむろに刺身とがっこ。鮫の刺身、淡白で不思議な食感。頼むもの、もう秋田人にお任せする。店の中はなかなか賑わってる。いつもはもっと年齢層高めなのに、今日は若い衆が多いんだそう。時々ドヒャヒャと大爆笑の響き渡るのが天井に響く。それぞれ好きな日本酒をたのみ、勝手にやりはじめる。なべは鯨となすの味噌仕立て。それからヤツメとねぎ。この二つは、太平洋側の食文化で大きくなったわたしには初めてのもの。なんていうか、どれも酒に合う味なのね。鯨の脂の味はなんだか懐かしい。茄子にもその味がしみこんでて、しつこさがなくなってる。長身で細面の「べらぼう」店主氏、時々顔だしては「これ飲め」と一升瓶をかついできたりとこまめな対応。「そうだ、この人東京からわざわざ来たんだってよ、この本見て」とカウンターで一人で飲んでる男性をちょっと紹介。見ればなんと、五能線ガイドブックを肴にしてるじゃないの!その本の首謀者たちがここでのんびりとくつろいでるんですけど・・・・。年長組Aさん、彼の持つ本の表紙を見るなりちょっと遠慮がちな態度になっていく。板柳でもそうだったけど、ほんとに控えめなんだから。隣の若い衆の宴会、さらににぎやかになっていく。本見て一人できた東京からのお客さんは、われわれがガハハと言って飲んでるうちにお帰りになっていた。そのうち、べらぼう店主氏ふたたび現れ「これ飲んでみな」と一升瓶。注がれたものは、白濁していた。どぶろくかなあ。ちょっと口の中で泡だつかんじ。たくさん飲むと危なそうなのだけはわかる。Aさん「これ、買ってっていい」?店主「だめだよお、本数ないもの」Aさん「明日それ、Kさんとこにもってくんだけど」店主「・・・・・・」しばらくして店主氏、店の外に出て戻り新聞紙とビニール袋と未開封の一升瓶をどさ、と置いていく。体をこわさなそうないい感じに酔って、そろそろ明日もあるから帰ろうということになる。いつのまにかにぎやかな若い衆はいなくなっていて、広い座敷に累々と残る料理の数々。Aさんこれを見て「けしからん。こんなうまいもんを・・生産者のこと考えたことがあるのか!」と怒りつつ卓に残ってたいぶりがっこをポリポリ。Aさんの、食べ物にまつわる怒りというのはいつも生産者の人々への思いにつながっていて、酒の量販店ですごく旨いスペイン産ムール貝の缶詰が150円という破格な値つけにも「これで生産者には幾ら残るんだよ」とやっぱり少し憤っている。もちろん、買って食べるんだけど。手に入れたにごり酒を大事に持って、さらに凍り始めた舗道をそろそろあるいて宿に帰る。わたし以外のメンバーはもうちょっと飲む、とまた出て行く。明日は7時30分、ロビー集合。
Jan 18, 2004
たつまきをさらに楽しもうと、黄金崎あたりで車を降りてみる。さすがにすごい風。色の少ない景色が新鮮だ。「ほら、あのへん」「どれどれ」「あ、もう消えてるし」出ては消えるのを繰り返すたつまきをしばし眺め、天候の悪さもまた一興。公共の施設がまたあるのだけど、どこから来たのか随分と軽装のまま途方にくれてる山帰りのおばちゃんが二人立っていた。タクシーでも待ってるみたい。「ここらへん、タクシー1.2台しかないはずだから大変じゃないの」「いやあ、乗せてってやれたらねえ」「あのイデタチは地元じゃないな。首都圏から来たみたい」「ほっかむりしてないもんな」などと、勝手なことを車の中から言い合い、また走る。途中からどんどん、雪が降ってきた。ついに地吹雪に突入か!と興奮していくのもつかの間、ガードレールに車の鼻先から突っ込んでしまい途方にくれてるおばちゃん4人組がいた。しかも、雪とけっこうな強風つきだ。こういうときに見過ごさずにすぐ車から降り、助けに走れる秋田人たち、カッコイイぞ。車は青森ナンバー。滑ってつっこんで抜けなくなったらしい。はじめは天気が良かったから油断したみたい。しかし、おばちゃんたちは完璧にヒステリックな状態になっており心配な雰囲気だ。そこで車から降りた4人も加わって車を戻すことになった。ドアを開けたまま(握るとこもないし)車を後ろに引っ張る。なかなか動かない。地面も当然、滑るし。そこでわたしの右手に激痛があああ!!!!おい、おばちゃんなんでそこに手があんのにドア閉めるわけえ??え、風だって?ともかく痛いぞ。(こういうときは何割増しで大声を出す、というのは長年の闘争生活で身についてしまってはいるのだが。いや、マジ痛かったす)幸い厚い手袋してたからよかったようなものの。すぐに地面に積もる雪で冷やす。お手伝い、リタイアする。そのうち車、なんとか路上に戻ったのはいいがブチ切れたままのおばちゃん×4はご自分たちの安否のことしかご関心ないようだ。何で人助けして手を傷めなきゃなんないわけよ、えっ!という腹立たしさは隠せない。しかし、ここにいてもしょうはないので「能代についたら病院いってみてもらいましょう」てなことにする。それ以外、どうしようもないし。どういうわけか今回、キューバヘ行くのに絆創膏ひとつもっていかないわたしが保険証を持っていく気になったのだ。ビョーイン、いつ行ってもいいぞ。暖房の効いた車内に戻ると血管が膨張してさらに腫れた感じになる。うへえ、どうしましょ。年長組Aさん、時折心配そうな言葉をかけてくれる。とりあえず、落ち着かないと。ま、指も曲がるし折れてるようなことはなさそう。このまま、手だけはおとなしくしていく。そうこうしてると、八森まで着てしまう。ここでまた魚市場に立ち寄る。まだこれというオスの鱈にめぐり合えてないからだ。それほど大きくはないけれど、魚の種類はそろってるし新鮮だ。魚の活きの良さがぴかぴかして、目に飛び込んでくる感じ。買い物を終えてすれ違う秋田ナンバーの車のおっちゃんが「こんなに降るって聞いてねえよな」と奥さんに話しかけているのを耳にする。あれこれ眺めてから、やっとタラを買うことにする。タラ巡りもこれで終焉か。ああ。余り大きくないのを二本(匹、というにはでかい!)。魚屋のおんつあん、あれこれしゃべりながらあっという間にさばいてしまう。タラって可食部かなり多いみたい。廃棄率低い。脾臓、胆嚢・・・あと、どこらへんかな。投げた部分はとても少なかった。4人であざやかなさばきっぷりに見とれ、なべもの用の形になったのをビニールに入れてもらって、またクーラーボックスに追加。バラされてはいるが、旅の同行者がまた増えた。さて。このまま能代へまっすぐ行く。なんだか、道路に灯りが増えてきた。町に出るのは何時間ぶりだろう。たいした時間ではないけれど、長旅をしてきたような気分になる。「ビョーイン、もうすぐだから」年中組・Aさんが声をかける。あ、そうだった。わたし負傷者だったんだ。酒飲みの前には何とかしとかなきゃな。町に入ってすぐ、でっかいビョーインの建物が目に入る。農協の共済病院。3人に待っててもらい、救急の入り口から行く。受付で事情を話し、暫し待つ。今のところ、急患らしい人は来ていないみたいだ。長いいすで待っていると、白衣の若い当直医師が出てくる。「車のドアにはさまれまして・・・」「とりあえずみてみましょう。それからレントゲン撮影しましょう」曲げるとまだ少し痛む(ような気がする)。内服用の消炎剤でも出しましょう、なんて言っている。じゃあレントゲン室で撮ってきてください。そういわれて、ひとりで薄暗く広いホールを歩く。通りがかりなんですよ~、といったら看護婦さんがついてきてくれた。「また、なんで怪我を」ときくので一部始終を説明する。「人助けしてこれじゃあ、ワリ合わないすよねえ~!」話をきいて彼女はあはは、と笑う。この笑いで何か憑いてるものが落ちた気がした。指も曲がるし、たいしたことないじゃん。笑われるのって、嫌いじゃないからね。レントゲン室の前で別れる。(ああ、もう何でもないや。)暇そう(ごめん)にしていた技師の青年の指示に従い、親指と人差し指でマルを作るショットと、指を広げたのと2つ撮る。数分後、これをまた持ち帰る。ひんやりした、広い廊下。ラース・フォン・トリアーの「キングダム」の病院を思い出す。ドグマ95・・・。勝手な想像が広がる。再び明るい急患の部屋に戻り、若い当直医にさっき渡された封筒を渡す。壁についたライトボックスにふたつ、並べてみる。わたし:「わ、きれいなホネですね!」ドク:「おお、わかります?」なーんか、変な会話だなあ。実は、歯医者さんか検診で肺を撮る以外に自分の骨を見たことってないのだ。何と今まで何事もなく過ごしてきたことか。そのホネは、贔屓目に見なくてもなかなか美しいものだった。なんだ、どこも悪くないじゃん。個人的には手を酷使しているからもっと関節がどうかなってるんじゃないか、と思っていたのだ。今回の怪我とは関係なく。「まあ、ホネに特に異常はなさそうですから。湿布を出しときますからそれでいいでしょう」はっはっは、軽症でした。よかった、よかった。ただ、このまま診てもらわずにいたら気分が落ち込んだろうから、安心料という意味でも大事なことだ。ちなみに会計の段になって「いやあ、通りがかりのもんでして・・・」「こっちに来ることとか」「多分、暫くないと思います・・・」「じゃあ、後で金額をお知らせしますから」・・・てなことで、半月あまり経ってから請求書が来た。3030円。被保険者3割。これって、あとで戻ってくるとはいえその場で保険証無しだったらいちまんえんが飛んだのだ。ああ、保険証って役に立つなあ。いろいろやって、受付の人に挨拶して出る。外のみぞれはますます地面をぐじゃぐじゃにしている。早くサケ飲みたい3人のとこにいがねば。
Jan 17, 2004
人形800体の館をあとに、海沿いを走る。このまままた五能線の線路を追っかけていく。「そろそろ、腹、どうですか~」年中組・Aさんがメンバーに声をかける。この先、自販機一個ない場所を通るからその前に何か入れておこう、ということらしい。深浦のドライブインというか、食堂に決定。選択肢がないので、という理由もあるのだが。中は案外広く、荒れた鋼色の海が見える座敷もある。われわれは普通の席を選ぶ。さて、壁に貼られたメニュウを物色し今晩の飲み・食い具合も加味しつつ皆それぞれの都合で作戦を練る。そこで目についた「いかメンチ丼」。これって・・・。いやあ、試してみるほかなさそうだ。Aさんとわたし、これを試したくてしょうがない。どうも朝から一緒にギンダラ選んでしまうし、つまりは好みが近い所にあるだけか。Aさん、頼む前からいかメンチ丼について食券売りのおばちゃんに調査を入れている。まあ、カツどんが豚からゲソのメンチになっただけのようだが、ともかく試したい。それぞれの望みのものを頼み、わくわくして待つ。年長組Aさん、さっきの寺で缶ビールを目にしたからか、一番飲みたいドライバー・年中組Aさんの目の前で瓶ビール一本頼む。ああ、かわいそうなドライバーよ。で、以下三人で少しずつ飲む。そろそろ頼んだものが揃った。「うお、ごはん減らしてっていったのに~」いきなりつぶやくAさん。今夜のために、着実にカウントダウンを始めている。しかしそれもむなしく厚さ20mm、縦70mm横45mmはありそうないかメンチ様はどんぶりにぎちっと卵とじされておられる。寒かったもんで、勢いよくはふはふと頬張る。たまねぎの下には干ししいたけの煮たのがしいてある。どうも、こっちの地方のカツどんものにはしいたけが必須のようだ。以前、秋田でカツどん食べたときもめしとたまねぎの間にこれが居た。いや、ひょっとするとそこの料理人も深浦の人だとか・・・あれこれ考えつつ、わたしは「減らしてもらわなかった」飯をこなしていく。(しかし、Aさんのとほとんど量は変わらず。どこが”少ない”のかと笑う)小鉢には煮物。紅白が反転したなると(!)やつぶ貝が入っている。しかしこれが。いかメンチ丼は相当ヘヴィなものだった。Aさん、ごはんを残す。(おい!)わたしはきれいに腹に収める。他の人々は好奇心に勝ってもっと控えめなものを頼んでいたようだから、わたしたちよかラクにしている。さあ、また移動だ。Aさん、車に乗り込むなり胃腸薬ドーピング。わたしも、扁桃腺を心配してエキナセアを内服。「ちょっと、ナニひとりで飲んでるんですか!」「だって、夜までに消化しないと困るし~」「おいおい、あんたもナンカ飲んでたじゃないの」「これは喉のために、ですねえ・・・(言い訳がましいのう)]いきなり夜のために備える者に羨望のまなざしが向けられた訳ではないが、なるほど彼はこうやってコントロールしていたのか。一緒に行動すると「こつ」がわかって色々勉強になる(?)。鋼色の海の色が空のほうにまで染みてきた。風景のモノクローム度中。通りがかりで「海の駅」に立ち寄る。ここにも小規模だが魚市場があるのだそうで。さすが、「官」のかほりがする施設。きれいでそつがない。例によって「オスのタラ」を探す。立派なのがごろっと転がっていたが、今まで見たうちのどこのよりも時間が経過しているようだった。勢いのいい売り声も聞こえないし、地元のばあちゃんも座ってないのがなんだかさみしい。ふーん、と何となく物色してWCを借りて終わり。何軒か市場をまわって、すっかり眼が肥えているのだった。ついでに、五所川原あたりからもう「濃いもの」しか受け付けなくなり始めているのにも気が付く。さあ、どんより鋼色の海を胸焼けするまで眺めていこう。こんなときでもBGMはウチナーのサンシンかカーボ・ヴェルデのおばちゃんの歌声だから、内と外でバランスがとれるってもんだ。なんだかんだ、話をしながら、あるいはあんまりな海の色に無口になりながら走る。途中からますます空色が濁り始める。ついでに雨からみぞれに変化。「おお、地吹雪来るかもよ~、このままいけば」台風の前みたいに、皆わくわくしている。天気の悪いほうへ悪いほうへとつっこんでいく。風も強くなってきた。海を眺めていた年長組・Aさんが叫ぶ。「あ、たつまきだ!」え、どれどれ、どこよ。指差す方向には確かに海と空をつなぐ薄いグレーのもやがある。彼は北陸育ちだそうで、海の竜巻には何度も遭遇しているという。「ホントはね、こんなもんじゃないのよ。もう、何十本て竜巻が出てねえ・・・」「あれって、海水を巻き上げてるのよね」「じゃあ、魚もかな」「おれのハタハタも、きっと竜巻ん中だな」巻き上げたあと、どっと落ちて(降って)くる。霙が突然、台風のような勢いの雨に変わりガラスをたたく。「魚が降ってきたらいいのになあ」「やっぱ、ハタハタですか」「あ、貝もいいな。アカザラ!」予期せぬ竜巻の登場がうれしくて、皆好き放題の望みを述べはじめる。こないだまでハタハタ飽きるくらい毎日食べて、三五八漬けももう見たくないよ~、なんて話をきいたばかりなのに。もう生のハタハタが恋しいらしいAさん。
Jan 16, 2004
「津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかもしれない。」(津軽/太宰治/講談社文庫)別に、これを検証するために移動をしているわけではない。文庫は旅のあとに見つけた。ただ、これと符号しそうな場所があった。それが弘法寺だった。ほとんど入り口かなと思われる場所まで何の表示もなく、林と農道をくぐってここまで来た。まわりは雪だし、ますます確定できにくく。弘法寺。弘法大師の石像やら、気の抜けそうな顔をしたタヌキが一緒に並んでいる。「住職に挨拶すれば、誰でも上がれるから大丈夫」年長組・Aさんのアドバイスによりみんなで挨拶。ご自由にどうぞ、と隣のお堂にあがらせてもらう。雪深い土地らしく、玄関の石段が高い、玄関のガラスが厚い。ひんやりとした本堂でまんづ仏さんにあいさつし、(ここは密教のお寺さんだそうで、仏像がちょっと鮮やか)それから奥へ。ひえ~、それにしてもこの床の冷たさよ。ぺたぺたと靴下でいく。ひときわ冷えたその部屋には、天井まで4段ほど区切られた棚にガラスの人形ケースがぎっちりと安置されている。ここは、生前結婚せずに亡くなった人々のために遺族が「せめてあの世で一緒になれるように」と花嫁や花婿の人形を納めるところなのだ。白い息を吐き、ときどきそれを飲みつつ見て歩く。ガラスケースに入れられた白無垢の花嫁人形と故人の写真と名前、命日、住所。それに煙草とワンカップの日本酒や小さな缶ビール、それからかわきもののつまみ。花嫁人形が多い。男子の故人が8割を占めている。もちろん、花嫁人形だけではなく、小さな男の子の写真とそれ相応の雰囲気のお人形が並んでいるのもある。どういうわけか木彫りの熊がケースに入っているのもあり。故人のために誰かが彫ったのか。奉納期間が限定されているものから永代使用しているものまで、納め方もいろいろ。中にはかなり古い、しかしどうにもしようのない壊れた箱にさびしく入っている色あせ綿のはみ出た人形などもあり、足裏からしんしんと伝わってくる床の冷気とあの世の花嫁さんの笑顔に胸をえぐられるような気持ちになってくる。誰かが亡くなったことも、ここで人形を納められたことも忘れられてしまうのだろうか。写真の年代もさまざまだ。紅いパンチパーマにグラサンかけて明らかに暴走族だね、キミ!という風体のバイクにまたがった者、ボンネットのつきだした軽トラックにひじをついてポーズする、藍の半纏にハンチングをかぶったつるりとした顔の青年。出征前の一枚かと思われるものはかなりある。不埒なことだが「これでもか」というような美青年などもあり、佳人薄命という言葉を思い出さずにはいられない。かたや、花婿人形はというとかなり少ない。花婿人形の場合なぜか夫婦の人形が納められているケースが目に付いた。男子に期待をかけていたあまり、このような比率になるのだろう。ここで花婿を納められなかった多くの女子たちのことをしばし考える。ひんやりとして、何の匂いもしない。生きてここを通り過ぎる我々のみが白い息を吐く。何だろう、この胸焼け感は。遺族の無念の思いのようなものがここに濃く漂っている。(ああしてやればよかった、生きていれば今時期こうであろうに。)・・・・まんづ、いろいろあるだろう。深く吸い込むと、息が詰まりそうだ。写真に書かれた住所を見れば、ここに来るまで通り過ぎてきた津軽の土地の名がほとんどだ。水で薄めなければ服用できぬ愛情表現。ここで覚えたわたしの胸焼けな思いの理由を、ダザイさんの一文が、まるで太田胃散のようにすっきりと説明してくれたのだった。そして同じ本に書かれた津軽の凶作年表の数が、その濃さの理由の一部を教えてくれた。わたしの前を、大人三人がどかどかと歩いて「あ~、足つめてえ」とか言っている。そうだ。よかった、わたしは生きてる人々と移動中の身だったんだっけ。本堂に戻り、大仏さんが寝ている絵の身代わり護符を買った。200円。かじかみかかった足に、冷えた靴をまたはいて、次の場所へ。「いや~、すごかったなあ」「・・でしょう?ふふふ」「ほーんと、でも寒くて」「俺さあ、あのケースの中にあるサケが気になってしょうがなくて・・あとで代わりの納めとくからチョーダイ、てのはどうかなあ、なんて考えてた」「古くなると旨くなるやつがいいよね」「泡盛?次来たら古酒になってるっての」「ラムとか焼酎も!」・・・おいおい、結局サケの話になってしまうあたり、わたしはこのメンバーと移動していて心底うれしいよ。生きた国に戻ってきた心地がする。彼らは酒の心配をしていたけれど、わたしの心配は祀られていた故人たちにあった。あの800体の中には奉納用に用意されている花嫁人形があるようで、同じ姿のものを何度か見かけたのだ。あの世でヨメはんを取り違えたりしないのだろうか。「おっと、失礼」ってな事態が発生しないとも限らず。かくして、生きている連中はこんな風に移動を続ける。なんだか腹もへってきた。他の3人はどうだろうか。もう少ししたら、きいてみよう。
Jan 15, 2004
さすがに13日分には収まらない。よって、日付こそ違えどまだおんなじ日のハナシなのだ。さて、板柳でカメラを見たがった大人4人は下りたシャッターの前で途方にくれたりせず、年長さんのAさんが「ああ、ここの名物の川口あんぱんを買って、そこで電話番号きいたらいいよ」・・で、そうしようそうしようと開店したばかりかと思われる「川口あんぱん」屋さんへ入る。週末は二割引。薄い小麦の皮でくるんだ白あんのお菓子。そうねえ、「ももやま」がもっと平たくなったような感じかな。これをふたつ、他のメンバーもそれぞれ思い当たる人に買い、おっと忘れちゃいけない「カメラ屋の電話」・・・・さっそく教えてもらい、かけてみる。が、出ない。「カーテン、閉まってるときはお出かけかもしれないですねえ・・」店のおばちゃんが控えめに加える。朝10時からどやっと来てカメラカメラって言う4人のほうがよほど興味深いらしく、「どっからきたの」ときかれる。「え~、今朝は青森から、ですが・・」それでも遠いとこから来たねえ、という。そりゃ、そうでしょなあ。自足140キロで飛ばしてきたのだもの。なんだか、他にも面白そうなお菓子がああったけど先の道中を想うと荷物は軽くしておきたい。春になったら、また来よう。カメラ博物館を諦めきれないわたしどもは、狭い路地をぐるっと回って裏口まで行く。しかし、本格的にお留守みたい。「まあ、しょ~がないね」さすがに諦めも早い、次の楽しみへ向かうことにする。その足で、「籠大好き」なNさんを先頭に近所の荒物屋へ。ここには、大小順にならんだやかんやなべぶた、ネズミ捕り器やなんかとともにいい形の竹篭が天井からぶる下がっている。Nさん、その中から楕円形をした持ち手のついたのを選ぶ。なかなかよい籠だ。「最近は、なかなか編める人もいなくなって・・」と店の姉さんが言う。実は、このお店も五能線の本の中の写真に登場するのだった。控えめなわれらがライター氏と編集者氏は、「あの、この本で見たんですがこれ、おたくですよねえ」かなんか言って姉さんにページを見せる。姉さん、はっと息を呑んでから反射的に「おかーさん、これ、これ!」と店の奥の方へ駆けていく。おかーさんも出てきて、うわあ、と云う。いいなあ、こういう反応。中南米マガジンで、話を聞いて記事にしたキューバの人たちに本を持ってったときもこんな感じだ。なんというか、「この瞬間のために書いたのかもしれない」と思えるような。見ているほうも、なんだかうれしくなる。それにしても、このふたりのお忍び具合はどうだ。ふふふ。しかしこういう本を通した「うわあ!」な瞬間は、これが最後ではないのだった。すてきな籠を手に入れて、うれしそうなNさん。わたしも人がつくったものは大好きだ。盛岡の紺屋町にある籠&荒物屋さん「ござきゅう」の話などで盛り上がる。やはり、籠好きならいがねばならない店なのだった。(お向かいの通りにある、南部鉄器の店もわたしはお気に入り)次なる目的地は五所川原。何って、「五能線ガイドブック」の編集者&ライター自ら勧める「ここはいがねば」スポットだからだ。メンバーの2分の一がこの本に携わっており、活字にならなかった濃い話つきでの移動だ。ね、豪華でしょ。(・・・・)まず、五所川原駅前の「平凡食堂」。ここは見学のみ。なぜって、腹がすいてないからだ。次は向かいの「バス待合所」。これは・・・・・凄い。編集者A氏、「いちばん濃いのは高校生の下校時刻なんだよ」という。何って、30年前の風景そのまま、なのだそう。今日は休日だから、ちょっと「おめかし」で気合を入れたワカモンがバス待ちでテレビを見ている。ここでバスを待つ人々はほとんど全員、テレビのほうを見ているんだけどちょっと人が入ってくると「ぐわっ」と視線をまとめて向けてくる。なぜだ。寒くなるからか。そいづあ申し訳なぐ。ワカモン以外の年齢層はおっつあん、おばちゃんなのだけど雪のせいもあり「機能性重視」なイデタチがほとんどであった。そう、青森駅付近でわたしがはじめてお話したおんつあんの「タオルのほっかむり+正ちゃん帽(かあちゃんが太い毛糸で編んだのでなけれなならない。色は黒か茶色)+厚い眼鏡+ジャンパー+ゴム長・・・」である。確かに、のちに地吹雪にあった時そのスタイルが一番純粋に機能しうるものであることはよおおおおくわがったのであった。おばちゃんは、なぜか首にマフラーではなく薄いシフォンのような「まきもの」をぐるぐるして上着につっこんでいる。風が出たらほっかむりにもなるからね、これって。そういえば。この「ぐわっ」な視線には以前どこかで遭った気がする。そうだ、メキシコシティ。地元民しか行かない食堂などに入ると、この空気を味わえる。そうか、津軽でもメキシコシティでもやっぱしヨソモノだから、その距離感は変わらない。この、本気でバス待ちしてるか暖をとるだけなのかわからない人々の向こうには、カウンターだけの食堂がある。どんぶりものやうどんそばなど。その対面には煮しまった色の画用紙に「学生ラーメン 200円」の太マジックの文字が。一緒に探索を始めたNさんと「あれ、やっぱり学生だけですかね・・倍払うから喰わせろ、ってのアリかなあ」これまたこってりとお煮しめにしたようなミシン用の気の丸椅子がちいさなテーブルを乱雑に囲む。カウンターからはみ出すほどのお客が食べているところを、ああ見てみたい。さらに、その奥へ。やってるかどうかわからない「手荷物預かり所」。受付窓口という名の穴にはボール紙や模造紙がガムテープで止められ、かえってその窓口を狭くしている。窓口には、人はおらずしかし手荷物を預かるらしい棚はちゃんとある。床に10キロ入り米袋、ふたつ。これは預かり品じゃないよなあ。ちなみに預かり所と学生ラーメン屋は、調理場でつながっているのだった。この手荷物預かり所の背後は、雑貨や。コンセプチュアル・アートであれば「純粋雑貨屋」と名づけなければならないようなお店だ。品揃え、なぜバス待合所にこれが?という深い考察の淵に落ちそうなもの多し。大小さまざま「カメヤマローソク」、同じ棚に「カミノモト」。ならびに台所用品。その背後にはラベルが消えかかったトイレ用消臭剤、ブルーのびん。その上段には端がくまなく黄色くなった便箋。その向こうには贈答用のクッキーやせんべいの見本。これまた懐かしいようなパッケージ。スゲえとこだなあ、と息を殺しながら(なぜか、面白がっているのが見つかってはイケナイような後ろめたい気がするので)笑う。苦しい。「だって、苦しいからさ。」ツシマくん改めダザイさんはそう言った。店のおばちゃんは、わたしたちが息を殺してウケまくってるのなど知らん顔でお友達とのおしゃべりに励む。店のカウンター?とおぼしきものの前には、ダンボールいっぱいのにぼし。このへんは、何の魚で煮干を作るのだろう。アジかなにかのような見えた。さらに、奥へ進む。「←ゲームコーナー」の消えかかった文字も悲しいその空間は、コンクリート打ちっぱなし。半分ガレージのようでもある。その一番奥にはカウンターのみの喫茶店のような店があった。またまたボール紙に黒太マジックで「焼酎 三百円」と大きくかかれている。ちなみにビールは五百円。まだ朝の11時ではあるが、背中を向けてカウンターに座る男の前にはグラスに入ったビール。女将であるところの紅い髪とこってりメイクのおばちゃん、タバコ片手に紫煙の合間からこちらをデロリ眼で睨む。さっきの「ぐわっ」な視線に近い周波数である。わたしはこういう「やる気ゼロ」な店が大好きだ。ここの環境じたいが映画のセットのようで、いやほんとに2004年なのか、今は?と疑いたくなるような。のちに、東京に帰ってからジプシーものギターのCDを好き勝手に編集していて、Django Reinhardtの”MINOR SWING"を選んで入れていたとき、ここ五所川原のバス待合所が脳裏いちめんに広がった。強くてうら哀しい太い音。ゴショガワラとジャンゴ。音感もなんだか仲間っぽいぞ。え、ジャイゴじゃないってば・・・。さてさて、このあとまたもや五所川原の小さなマーケットのような市場に入る。お昼も近いせいか、惣菜や弁当の準備が進んでいた。それにしても。鉄の串に大きなホタテが4つばかりささって、しょうゆとみりんか何かつけてあぶったのや同様の方法で串刺しになった白身の魚などがステンレスの大きなバットにどうだ!と並ぶ。一個売りもしてくれるのだろうか。この惣菜やの傍らでは、ここの焼き魚を入れた弁当が仕込途中。菊の酢の物やおひたしなんか入っていて、基本アイテムだけ同じで魚は選べる、そんな売り方のように見えた。ちょっと立ち止まると威勢のいい売り声をかけられる。乾物、弁当、鮮魚、野菜、・・それから、どういうわけか昆布屋には毛染めが並ぶ。「かわきもの」ではあるが。よく見ればクラブ化粧品の「ホルモンクリーム」(・・・!)の瓶入りのもある。こういうの、並べておくと売れていくのだろうか。不思議な品揃え。威勢のいい現役が声を張り上げる隅で、ストーブにあたってアルミホイルにくるんだおむすびをあっためる番をしている先代とおぼしきばあちゃん。エプロン&薄物のほっかむりという基本的なアイテムで固めている。きっと、毎日家族総出でここで商ってるのだろう。人を眺めているだけでも楽しいし、おしゃべりもできるし。ここでわたし、昆布三束お買い上げ。東京の冷蔵庫に放置してきた、2週間ものの塩豚をこれでウチナー料理風に煮てやろうと考えていたから。帰ってからだって、楽しい事は続く。市場を出てから、また五能線”沿い”ツアーの再開。「木造町」の表示。人気のない道に入り始めたあたりで、年長さんのAさん。「ここの近くに、すごいお寺さんがあるんだけど、行く?人形が800体くらい安置してあってね~、それはもう壮観だよ」例によって「いきたいいきたい~」と以下3名も騒ぎ、進路は一路「西の高野山 弘法寺」へ。
Jan 14, 2004
「ね、なぜ旅に出るの?」「たのしいんだもん。」「あなたの(たのしい)は、おきまりで、まったくいつもどおりです。」濃ゆい旅から戻った初日の昼休み、小宮山書店の均一100円箱から太宰治の「津軽」が呼んでいた。ダザイさんのフレーズを、わたしっぽく我流に弾かせてもらえば冒頭のようなのしかアイデアが浮かばない。彼は苦しいから旅をするんだそうだ。それもいいな、たまには。金曜の夜、池袋から深夜バスに乗って9時間+@、まだ薄暗い青森に着く。雪の質が違う。蹴れば飛ぶようなさくさくした感じ。駅前に着く、と聞いたのにぜんぜん駅前じゃない。友人たちが夕べから前夜祭と称して町のどこかで飲んで、早起きして迎えに来てくれるのだ。ともかく駅にいがねば。タオルのほっかむりに毛糸の正ちゃん帽、ついでに厚ぼったい黒ぶちめがねに長靴というティピカルな服装の犬連れおじいさんにきいてみる。「駅はどっちすか」「このつきゃたりさ」目に付くもの全てが雪をかぶっている。はふはふ息を白くさせて、時々水まきの跡に滑りながら駅へ。青森駅を見るのは何年ぶりだろう。大体、商店街からのアングルを見たことがなかった。あのテント屋台をパッチワークしたような魚市場はすっかり立派なビルヂングに変わっている。変わったのはそれくらいかな。まだ彼らの姿は見えない。少しはしゃっきりしてから会いたいなあ、と駅前でミルクコーヒーを飲む。ついでにいつなんどき撮りたくなってもいいようにハッセルにアグファパン・ISO400を入れる。バスの大荷物入れに収めたまま、冷えた道路を走ってきたせいで冷えひえになっている。諸般の作業を終えて7時過ぎ、雪の凍った駅前で手を振る友人たちのところへ向かう。やっぱり、北の人々は寒い場所で会うほうが生き生きして見える。(気のせいかなあ)まず、朝めしをどうしようか。会うなりこの話題である。共通の問題。まんづ魚市場で定食でも、と例の新しいビルのエスカレーターを下る。あ、あの市場がそのまま地下に潜っただけのようだ。よかった、よかった。あいかわらずの活気だ。こんな朝早くから。「うーん、寿司?」「朝から、なあ・・・」「うにどん?」「・・・・・」周りを物色してついでにわれわれの目的地に持っていくオスの鱈を値踏みする。すごく新鮮で美しい鰭をしている、けど値段のほうも素敵だ。一本9800円。ヒラメにネウにキチジ。わたしに馴染みのある魚が多いのは、ここが太平洋側だから。大きなたこの頭と足を別々に売る。茹で上がったばかりのたこの頭からふうふう湯気が立つ。3軒に一軒は大きなホタテを売っている。貝類の多い店で生牡蠣をひとつ、むいてもらって食べる。ひとつ200円。疲れた体にこれっていきなり効くんだよねえ。前に法事かなんかで飲みすぎたとき、帰りに寄った市場で食べたらすぐに元気になれた。それ以来、生牡蠣のうまそうなのを見るとつい試したくなる。3人で大きなのをずるっとすすって、少ししゃきっとする。この貝を売る店で、ホタテの稚貝が並んでいた。なかなか活きがいい。その下の箱には別の貝があった。貝印のカミソリのマークのような二枚貝。色はえびちゃ。みせのおばちゃんにきくとこれも味噌汁に入れるんだという。「アカザラね。これくったらホタテはくえねぐなるではんでぇ」う、殺し文句だなあ。一同、ちょっとココロが動く。「ホタテの味噌汁だってうまいのに・・・それが喰えなくなるって・・」そんなことを考えると本格的に腹が減り、先に定食屋で何か摂ろうということになった。結局、焼き魚定食を食わせる店のカウンターに落ち着く。好きな魚や箸休めを組み合わせて食べる。魚は時価。ギンダラの焼いたのを定食でたのむ。味噌汁は、あ、ホタテの稚貝じゃないの~。これもいきなり元気になれるもののひとつ。うれしいのでお代わりしてしまう。おばちゃん、一応わたしの顔を見て「ご飯、これでいい」と普通の飯茶碗を出す。無言でどんぶりめしを出されることが多いわたしとしては、この気遣いはうれしい。ギンダラ、脂の乗った身の厚い切り身をとろっと焼いてあるやつ。ああ、朝からこんな贅沢を・・食べてしまうのが惜しい。一同、それぞれの選択したものに集中して楽しむ。そのうち、市場で働く人か魚を買いに来たらしき長靴はいた人が無言でカウンターに座った。すると黙って味噌汁と納豆、どんぶりめしが出てきた。こういう呼吸もいいな。彼は毎日、ここで食べているのだろう。納豆とホタテの稚貝の味噌汁。この組み合わせも飲んで帰った朝にはめしゃくちゃうまい。凄いギンダラを堪能しているくせに、ひとの食べているものまで気になる。それぞれ満足してカウンターを離れ、さっきのアカザラを少し買って帰ろうと店に戻る。と、ない。箱ごと。「あの、アカザラ。ここにあったのって・・・」「ああ、さっき全部売れたの。箱ごと。」ええええええ~。何だよお。箱ごと買うことないじゃん・・「ホタテが喰えなくなる味」・・そんなフレーズをうっかり耳にしてしまったからもういけない。「よその店に出たりするかねえ」「いや、まんづないねー。ここでも、なかなか入ってこないから・・・」「誰が、いつの間に・・」「ジャスコん中の斉藤水産さんだよう。そこに行けば売ってもらえるよ」「・・・・・・・・・」落胆する3人に、ホタテはおまけするよとたっぷりした体のおばちゃんが言う。ああ、おいしいのに「滑り止め」扱いされたホタテ。それでも、半分ずつ買ってわたしは東京に送りつけることにした。よほど残念がって見えたようで、けっこうオマケしてもらったのだった。ついでに、これも良さそうなヒラメも追加。「ああ、アカザラちゃん・・・」それからの道中、3人の頭の中には「ホタテを超える味」の幻想がしょっちゅう現れるようになったのだった。ついでに、毛蟹ではなく「トゲクリガニ」も買う。毛蟹よりも確かに、栗のような形をしていて丸い。売ってるおじさんは、箱の中で元気よく暴れるカニをわしっとつかんで手足(?)を押さえてたたみ、そこに輪ゴムを×印にかけて並べていく。動かず並んでいるのがあまりに普通にみえる。おじさんの手さばきがあまりに見事なので、3人で見とれる。じっと見ていたら今度はおじさんが輪ゴムをカニのトゲにかけそこなった。彼はぼそっとつぶやいた。「見られっと緊張してしまって・・・」いやはや、申し訳ないことで。無言でカニをしばるおじさんは、またこのカニにそっくりな顔をしていた。カニとおじさん、両方をみてると可笑しくなってしまい、買って市場を出た。誰からともなく「あの人、カニそっくりだったなあ・・」「ああ、小さい声も結構聞こえてたからあの場で口滑らすの止したけど、いやあ、似てたなほんと」大爆笑。手に入れたもろもろをクーラーボックスにしまい、この足で弘前まで向かう。実はこれ、まだ始まったばかり。市場周辺にはまだ古い店が残っていて、駄菓子屋のばあちゃんが仕入れるような10円で買えるような玩具の問屋さんがあったりする。ホタテとトゲクリガニとヒト3名の移動が始まった。さて、次の目的地は弘前。ここでもう一人、ヒトが加わることになっているのだ。時速140キロですっとばす誰もいない高速道路の気持ちよさったら、もう。この速度はそういえば、去年スペイン北部のログローニョからバスク地方・ビルバオへ抜ける道もこのくらいだった。当然、友人が運転しているのだが。旅先の道中をクルマで移動する機会が多いのだった。そうそう、今回の旅にはそのときもらった10年ものワインを隠しだまにしてあるのだ。どこで開けたら一番幸せか、熟考したのちの選択。青森県のヒトビトの「わがやま」をあっちこっちのアングルから眺めつつ、弘前へ。山の上の風は強いらしい。雪が煙って見える。高速を降りて一般道へ。そこは、おっと「田舎館村」じゃないか!わたしは仕事でなぜかここの自治体の人とほんのすこしだけ関わったことがある。なんだかスゲー名前だなあ、とHPなんぞを見たら町役場が「お城」なの。天守閣部分に町長室があるんだ、と運転中の友人A氏がさらに濃い情報を。なんにつけ徹底的なのだ、イナカダテ。きっと郷土史家のヒトビトならかなり詳しい講釈がしたくなる場面に違いない。関係ないが、岩手の「姉帯城」のことも気になってるんだよね。(”あねおび”かと思ったら”アネタイ”と発音するのを知って以来、コリャ変なもんだなあ、と。)あ、わたしが郷土史家にならなくてもいいんだけど・・。田舎館村の天守閣を右に見て、左には「レストラン・ジャイゴ」(!!!!)いやー、本気で「地方を遊ぶ」とこうなるんだな、という純粋見本なのよ。自分たちから「在郷」と言い放ってしまえるドライさ、その濃度の高さ。「岩手の一揆、宮城の茶のみ」などとそのおだやかさ、のんきさを指摘される地域の血を濃く引くわたくしなど、到底かないませんことよ。あ、もちろん「じゃいご」という言い回しはあります。(「このじゃごたろが!」などとイナカモンが共同体の中のさらなるイナカモンをちょっと批判する場合に使う・・とわたしの家人は云っている。客観的に見れば目くそ鼻くそ、ともとれるが。)なんつって、ここでのカーステBGMはブラジルのチョーロ、ピシンギーニャの曲や沖縄のさんしんの演奏。安里屋ユンタや小カチャーシーが、りんごの木のある風景と妙にマッチする。さて、町に入ってもうひとりの「ヒト」を迎えにいく。ローアングルで撮りたくなるような弘前の私鉄の駅、とそのまわり。いつか一人で迷いこんでみよう、と決心。その「ヒト」はずいぶん軽い荷物でささっと入ってきた。どこにいくにもかなりの軽装でお出かけするのだそう。いつか極意をうかがいたいものだ。まあ、ハッセルなんぞをお供にする以上、自分に対して軽装の旅はあまり期待できないけど。これで全員がそろった。いよいよ濃度120%の「五能線(沿い)ツアー」が始まる。わたしの肝臓は「約束の地」(笑)唐松温泉までモつのだろうか。ああ、胃袋も。五能線を横に見ながら移動する。ほんとに、能代までナビゲーション・システムの画面には「線路」がいつも横にいた。板柳駅の近くに、写真屋さんが自宅でやってる私設カメラ博物館があるという。「おお、見たい見たい~」と全員が大賛成し、約一名が足をばたばたさせた(わたしですったら)。雪が半分凍ったままの道路、小さな商店街の中にその「博物館」はあった。しかし、シャッターはおりたまま。わたしを除くメンバー、いきなり車から降りてその写真屋のシャッターの前まで行き、約一名シャッターを強引に開けることを試みる。「あかないなあ~」当然である。しかし少しもひるまず新聞受けの隙間から中をのぞく。凍った道がまだちょっと怖いわたしだけが道のこっち側で彼らの積極性に感心しているのだった。カメラ屋なのにシャッターが下りたままというのは、洒落にならん。ネバリがあるとか、30分の1秒でだけ切れなくなるとかいう次元ではないのだ。開けてくれ~。店がジャンクになる前に・・・!だって、寒いんだもん。「いや~、電話がわかればねえ・・」全員、わくわくしていただけに困る。なにせ、看板にもシャッターにも書いてないのだ。
Jan 13, 2004
またもや扁桃腺の話。一番の関心事がこれなんだからしょうがない。サプリメント屋で喉に直接スプレーできるプロポリスを買った。喉が腫れまくってるときはいやー、これすら痛くって。親不知付近まで腫れてるかんじ。声をだすのもおっくうだ。抗生剤内服後、ちと落ち着いてからは反応も穏やか。内服後の一日目は「うう、クスリがきれるう」ってな感じでだんだんと症状が蘇ってくるような感覚があった。二日目、切れそうな感覚は少し遠のいている。朝と晩しか飲まないから、夕方あたりの通勤電車なんか、ちょっとつらい。一番切れかかってるし。そういうときに、プロポリス様の世話になることにした。お、なんだか調子いいじゃん♪などといって、クスリのおかげでこーやって普通に立って歩いていつものように勤務しているくせに、すぐに自分のチカラでできたと勘違いしがちだ。いかん、いかん。もうちょっと「病人気分」は続けなければ。ついでに、早寝すると、早起きしちゃうのよねえ。う、年寄りっぽい。あと一時間も寝ていられるのに、4時とか5時に起きてしまう。で、またもやプロポリス。元気でいるのも高くつく。病気になるともっと。
Jan 7, 2004
休日中、思い切りひきこもったくせに夜鍋などして疲れたらしく、またもやへんとーせんが暴れる。仕方ないので抗生剤もらい、小学生からかかっている医者(じつは外科医)としゃべる。「うーん、もっと体力つけなきゃねえ」意外なひとことのように聞こえた。そもそも、体力って、どーやってつけんの?今までなんだかんだいって暴れてもまあ何とかなっていたので、そんなこと考えてもみなかった。「養命酒」とか、飲むこと?「かんぷまさつ」とか?「風呂上りに水を浴びる」とか?いろいろなことを考えてみたが、結局、わたしは「無理をする」のが好きなのだ。困ったことに。ただ、体がそれに意義申し立てをするのであれば、ききましょう。体がないと、わたしも暴れられんし。っつーわけで、すぐできること「早寝する」。体の存在を無視して活動してると、時々「ナメんじゃねえ」と思わぬ反撃をされる。ま、そんな感じ。ただし、へんとーせんの発熱時って、ロクなことを考えられない。あれってどうにかならんもんかしら。咽喉痛から発病するのはご幼少の砌からの定番ルート。そういうことも、ちっとは思い出しておこう。扁桃気質う~。そんなわけで、本日のBGMはこなか りゆの「長生きしよう」。
Jan 6, 2004
さくら通りの鳥海書房にて。Mary Ominde’s AFRICAN COOKERY BOOKHeinemann Educational Books, NAIROBI.reprinted1984当然(?)300円という値つけ。今までいろんな国で出版された本を買ったけど、ナイロビは初めてだなあ。アフリカのいろんな語族の家庭料理。ルオ語、キクユ語、ルガンダ、スワヒリ語。た、たのしすぎる!一応、調和をとるために?後半に「ヨーロッパ料理」もついている。後に編集されてるところが小気味よいぞ。「アジア料理」・・これは、ケバブだのピラウ、カリーだけ。この本での亜細亜はインドまでなのね。われわれ東北亜細亜圏のものは未知なものらしい。料理の名前がまたイイ。NYOYO(ンヨヨ、と発音。ゆでトウモロコシと豆、玉葱を炒めたもの)IRIO(イリオ、でしょうねやっぱ。トウモロコシ粉をこねたものと豆、じゃがいも、をマッシュしたもの。)うー、どれもシンプルで味がすぐ想像できる。しかし、我々亜細亜圏に住む者にはちと想像できぬものまで掲載。うふふ。”FRIED WHITE ANTS"&”FRIED GRASSHOPPERS or LOCUSTS"どれも”1 cupful 1-2day old.."と指定されている。この章のはじめに「食べるために飼育するか日干しにされたものを市場で買うように」と書いてある。それでだろうか。「生後1-2日のシロアリ」。うう、グルメだなあ。3日目からは何かおいしくなくなるのだろうか。日本では佃煮が普通だけど、かの地ではバターやバターオイルで炒めて塩味でいただくもののようだ。まだ通読したわけではないので、新たな発見がのちにあるかもしれない。「ンヨヨ」はうまそうだ。すぐにできそうなところ、ビールとかに合いそうとこもいい。そのうちやってみよう。でも、暑い季節のほうがうまそうだな。
Jan 5, 2004
休日に入ってから作ったもの。革のショルダーバッグ踝まで隠れるやったら長いヘリンボーンのウールコート(襟はスタンドカラー)など。気合を入れればコートは2日でできる。まだ、ボタンをつけていないけど。買ってから、ハサミを入れるのをためらって数年間寝かしていた生地を、ついにお蔵出し。型紙は昨年の夏、ヘルシンキの書店で買った洋裁雑誌”SUURI KASITYO"に載っていたもの。こういう大物を縫うのはちょっと久しぶりで、根性続くかどうか自信なかった。しっかし、いやあ。できちゃうのよね。着るころには忘れてしまうようなことまで、作っているときには気になる。細部の集合が全体だから。まあ、当然といえば当然だけどもこういう風にできたものがあとになって「手抜きしなくてよかった」と思うし毎年腕を通す一着になったりする。コート、大変だっていう人は多いみたい。でも、ブレザーなんか作るよりもディテールには注意しなくてもいいし。意外とラクだよ。革ものはやっぱり、体力と集中力がいる。今回はちょっと怪我もしたし。ま、マキロン&絆創膏で何とかなる程度の傷。こういうのって、指に力を入れるときに少々不便。革もの、何かひとつ作り終えるとすっかり指先がじんじんしてお湯なんかしみるようになる。今回は、間髪入れずにコートを作り出したりして、かなりこき使われる両手。2日間ウールの生地をさわっていたら、いつの間にか指が治っている。丈夫な手だなあ。ものを作っているときは、縫い目とかラインのことだけ考える。手と眼だけを働かせている、ああいう集中力はちょっと仕事にも似ているけれど、あとで愛用する楽しみが自分に帰ってくるところだけは違うのだった。最近、日暮里で一枚革をずいぶん安く売っていたりするのでいいのがあると重いのもかまわず買ってしまう。ショルダーバッグなんぞは、自分にあった長さに作れるのだから、やっぱりできるとうれしい。気に入らない既成のものをがまんして使うくらいなら、自分にあったものを作ればいいや。壊れても(壊れるほどムズカシイものでもないが)また直せるし。趣味と実用と自己満足と精神的充実。ま、こんなのがごっちゃになって、手を動かしている。早い話が、何につけ手を動かしていたいだけなのかもしれず。楽器があればそれが音楽になるだけの話。3mのダブル幅の布をじゃきじゃき切っていく、あるいは革を切る。あの「あともどりできない」スリルを伴う感覚はどこかでアドリブをやってるときの状態に近いと思う。こういうときのBGMはでかいヘッドフォンでTRIO TOYKEATの”ETUDE"なんかがいい。実際、ものすげー気持ちよかった。やりなおしのできないことをがんがん進める一瞬の決断。
Jan 3, 2004
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