全7件 (7件中 1-7件目)
1
子供は褒めて育てるのが一番よいと誰もが異句同音のように申しますが、ただ闇雲に褒めればそれで良いというものでもありません。やはり物事にはコツというものがあります。と偉そうに書いておりますがなにも私自身が発見したり、発明したりした事柄ではありませんのでみんな子供たちから直接間接に教えられた結果なのです、タネを明かしますと。とにかくお座なりな褒め言葉を言ったところで、彼らは決してこちらの意図通りには動いてくれませんよ。ではどうしたら良いか、そうです基本は何時でもおなじですね、相手と正対し辛抱強く付き合うこと。言葉にすれば至極簡単なように聞こえますが、どうしてこれが中々に難しい。まあ大多数の大人や親御さんはこの段階で失格の憂き目をみる。そのくらいに難しく、また困難を伴う。大体において大人や親という者は自分の好き勝手な都合が何時の場合でも最優先と相場が決まっていますからね。肝心の対象である子供の「都合や勝手」に最後まで付き合うなどという芸当は出来ない。そのようなものが子供にあろうなどとは天から認めようとしないばかりか目の前の子供の存在すらその眼中にない、といった有様。こういった具合ですから、話しにもなににもなりようがない、本当のところ。少し脇道に逸れるようですがとても大切な点ですので念を入れて申し上げるのですがそもそも、自分自身という肝心要の相手に対してさえ、まともに正面から正対したことのないお人が、世の中には大勢いらっしゃるのですからね。その分身と見做している子供になど本気で、忍耐・辛抱・我慢の限りを尽くそうなどとは、実に想いもよらぬこと。表現が少しく回りくどいことになりましたが、それ程に困難なことで実行するのが易しくないと強調したいのです。辛抱や忍耐を支えるものは勿論深い愛情。これが無くては話が始まらないのですが折角の深い愛情も使い方を間違えたりすればもう台無しですね。かくのごとく幾多の障害を乗り越え、乗り越えしてようやく辿り着くのが子供の褒めどころであります。この様なプロセスを経て獲得された貴重な(客観的に見て取るに足らない些細な事柄かも知れませんが)「褒めどころ」は当の子供を心底から納得させるポイントとなる筈。ですから、そこを絶妙のタイミングで指摘し、上手に言葉で表現して肯定的に評価してあげれば、間違いなく受け入れてくれる。受け入れてもらえれば前向きでプラスの効果が得られる事は確実ですね。
2011年05月26日
コメント(0)
近代から現代という時代は人によってそれぞれに評価が分かれるとは思いますが、小人ばかりが幅を利かす小人全盛の時代なのかもしれません。そして、大人つまり大人物の名に値する傑出した人間は、ごく稀に存在する本当に少数になってしまったかあるいは、ことによるともうとっくの昔に絶えて地を払ってしまったのかのどちらかかもしれません。いやいやそうではない、こういう例があるあちらにもこちらにもこのようなある種隠れた存在の大人物が沢山いらっしゃる。そういう声があちこちから無数にあがってくるそのような期待を込めて、前回皆さんにお願いの呼びかけをしておきました。そして、今このように書いてきて、ふと大人は世に数多く存在するそれはまた、ある地域だけに限定されて知られる、いわば知る人ぞ知る的な密かに隠れた存在者なのかも知れないと思いつきましたが、如何でしょう。寒山・拾得の例を持ち出すまでもなく、日本には伝統的に「神的な尊い者」は一見しては乞食か物乞いのような粗末な形をしているという伝承がありましたがその伝で、あまり人の目を引かずひっそりと慎ましやかに暮らしている。そんな真の意味の傑物のあり方は考えただけでも、なにやら思わず知らず手をあわせたくなる有難い想いに駆られますね。きっとそうなのでしょう。いや、そうに違いない。まさにそういうあり方こそ大人物に相応しいではありませんか。作られたスター、人為的に意図して祭り上げられた偶像や英雄・豪傑などそれぞれに存在価値が高いので世に持て囃されるわけですが、そのような派手できらびやかな「虚名」だけでは、この人の世は成り立たないのでありましょう。それにつけても「人気」という現代の「カリスマ」の力は絶大でありまして、人々はその反動として如何に莫大な損失を蒙っていることか……。私・草加の爺が「ポップ・キング」と名づけた現代の寵児は向かうところ敵無く、ますますその猛威を逞しくして留まるところを知らないといった有様。大酔状態の人に酒の害を説いてみたところで無益なように、pop king万歳を叫んでいる無数の人びとにその弊害、害毒の恐ろしさを力説したところで空しい限りだと百も承知の上で、それでも空恐ろしい、と叫ばずにはいられません、何度でも、何度でも……。
2011年05月24日
コメント(0)
我々のような凡人やそれより劣る低級な人間は暇な時間などを持たされると、その貴重な時間の有意義な使い方を知らないので、結局は碌な事をしないで無駄にしてしまう。そういう言葉がありますが、それでは極少数者に限られるであろう大人、つまり大人物がいたとして、その人は「暇」な時間をどの様に使い、どの様な事をするでしょうか?今回は我々が普段には殆ど考えた事も想像すらしたことのない命題を真剣に探求してみたいと思います。ここまで書いてきて、私・草加の爺は正直、はたと思考停止状態に陥ってしまいました。何故ならこの世に生をうけてこの方70年に近い年月を閲するなかで、「大人物」の名に値するお人にお目にかかった経験が皆無だったから。本当に不思議なことと今改めて吃驚仰天している。「論語」を勉強して古代中国に堯・舜と呼ばれる聖天子が居た事を知識として教えられた。これなどは大人物の呼称にもっとも相応しい存在なのでしょうが、残念ながら大まかな事績は伝わっていても細々とした日常の行動までは窺い知る事はとてもできません。わたしが密かに師事しているソクラテスや孔子は共に文句無く大人物と呼んで差し支えないでしょう。彼らは二人共に偉大なる教育者、真の教師でした。しかし、教育の分野以外にも大人物はいてもよいし、また居る筈なのですが不幸にして、あるいは不肖、寡聞にして私自身は直接に、近代や現代の大人物に直接・間接にお目に掛ったり風の便りにでも耳にしたことがありません。ですから、現代の大人物たるお人が生存していたとして、閑暇には一体どのようなことをなし、どのような考えを廻らしておられるものなのか、とんと見当がつかない。これは皮肉でもなければ、私が生来へそ曲がりな性格の持ち主だから言明しているわけでもありません。心底、ほとほと困り抜いて漏らした正真正銘の本音であります。英雄と俗称される「大量殺戮者」を世間並みに大人物と祭り上げる悪趣味は今の私には微塵もありません。偉人・天才などと世間で喧伝されるある種の「異能者」を持ち上げて大人物などと呼びたくもありません。するとどういうことになるのでしょうか?この世には所謂小人ばかりが生き永ら得ていて待望する大人などはとっくの昔に絶滅してしまったのか……。そうでないことをわたしは切に願うのですが、誰かわたしのこの様な哀れな質問に明快な回答を与えてはくれないでしょうか、どうぞ。お待ちします。
2011年05月23日
コメント(0)
前回からの続きですが、生物界では個体の死は他の生物の生存にとって利益となる利他的な行為となっているが、その原理がそのままで人間の場合にも当てはまるのかを考えてみようと思います。しかし、元々自分自身の意思でこの世に生まれてきた者など昔から誰も居ないわけですから、その様に受身で始まった人生の最後だけを自分の意志で「思うまま」に完了させることは出来ない理屈でしょう。私たちに辛うじて許されているのは「利他的な生き方」をするだけ、ということになりますね。家族の為、親類縁者のため、地域やコミュニティーに役立つように生きる。社会や国、延いては全世界の為に役立つように努力して生活する。また世界平和という崇高な使命に一命を捧げる。それだけではありませんね。地球環境の保全に務める。他の生物例えば絶滅が危惧されている動植物の保護活動にミッションとして参加する。などなど目的や意識、思考のあり方が異なるとはいえ、つまり利他的な人生を生きるという点では共通なわけですし、その様に生きることは誰にとってもその気にさえなれば、決して不可能なことではありません。しかし私がここで申し述べたい事は、このような謂わば意識的で模範的な生き方だけをクローズ・アップし、それを自他に推奨するということではありません。傍からみてどんなに「無意味」あるいは「利己的」、又は「自分勝手」な生き方であったとしても、個々人の生はその根底の所で「利他的」であるように謂わばソフトがプログラミングされているという、誠に有難い事実を指摘し、皆さんがたの注意を喚起したいことなのです。誰が一体そんな風に勿体無くも有難い計らいをして下さっているのでしょうか……。そして個人は徹底して自己のみの限定された生に徹頭徹尾、強く、そして執拗に執着して止まない存在ですが、そうした狭隘な個人本位な意識や生き方ははっきりと間違いだと、そう主張したいのであります、はい。人類全体が地球村の住人となった今日、非常に鮮明になったこと。個人は人類全体の一部にしか過ぎないという事実。このことを改めていま明確に自覚しよう銘々各自が。そして全体を本当に優しく、慈愛溢れる「眼差し」で包み込んでくださっている「存在者」に虚心坦懐に合掌し、純真無垢な幼児のような赤心にもどって感謝の誠を捧げようではありませんか!私たちは実に、有難くも生かされている。そしてそれは全体との調和の中で絶妙に、実に精妙にして不可思議な仕方で。肩の無駄な力を抜いて、安心して、伸び伸びと生きてみよう。そう感じないわけにはいかないではありませんか、どうでしょう。
2011年05月18日
コメント(0)
或る生物学者の言によりますと、生物界ではある特定の固体の死というものは生物界の全体を生かすために重要な意味を有している、とのこと。生物界の連鎖、殊にその食物連鎖は弱肉強食によって、より弱いものが上位者の餌食となりその頂点に君臨する「王者」も死しては、最微小生物の働きによって再び土に還元され、植物の栄養素としてその根から吸収されてゆく。それでは、人間の死はどうでしょうか?個人の死は人類全体のために利益を齎す「貴い行為」となっているでしょうか……。結論を急がず先ず手始めに、細胞レベルの現象を考えてみる事にしましょう。受け売りですが例えば手足の指が完成するプロセスでは、必要のない細胞が自ら判断して自死する。つまり全体の為に犠牲となり自ら進んで死を選択する、と言います。そうでないと単純な二分割を繰り返す細胞分裂で、私たちの複雑極まりない人体を完成させることは不可能。とても説得力の有る説明だと感心して記憶に鮮明に残ったのです。人類全体に対する個人の関係がこの個々人の細胞との関係にそのまま置き換えることが出来るのか。もし可能なら個人の死は人類全体の為にとても重要な働きをする「利他的行為」なのだとする一つの命題が成り立ちますね。そして人間という種もまた地球という惑星の中で誕生し、他の生物に支えられその生を享受出来ているからには少なくとも他の動植物との調和・共存を深く、深く慮り、行動すべきものという事に、いわば論理の必然として、当然結論付けられる。いわば当たり前すぎるほどに当然の事柄。しかし、現実はどうでしょうか?「驕り昂ぶった万物の霊長」たる人類は20世紀にいたり自然に対し、また同胞に対して「悪逆非道の限り」をつくし、後戻りが殆ど不可能なほどに荒廃の極にまで追い込んでしまいましたね。少なからず難しすぎる問題をテーマに取り上げましたが私たちがいやおう無く現実に直面している難局とは、大雑把にいえば以上のような有様なのでした。個人の努力や工夫だけでは到底解決できない。そうした現実のありようを先ずシッカリと見つめなおすことが何よりも肝要でしょう。次回に続けます。ご意見やご感想を心よりお待ち申します。
2011年05月16日
コメント(0)
一体全体、教育は誰の為に行われるのでしょう?そしてまた何の為に、つまりどんな目的でおこなわれるのでしょうか。色々な目的があり、従って様々な答え方があると思います。曰く国家の為に有為な人材を育てる為だ。いや、個人つまり市民が豊かで有意義な人生を構築する為に必要な知識を施すのだ。いやいややはり子供をこの世に送り出した親の責任として、立派な人物になり立身出世をして一家を構え、延いては子孫繁栄・家名隆盛を図ってもらうのだ。まだまだあります。企業や組織での新人教育や研修では、企業・組織の目的に合致した有能な人材に育て上げること。つまり「実用」のための教育ということが普通には最大の眼目となるでしょうね。しかし私・草加の爺は敢えてこの大切な実用を越えたところに、教育の教育たる真の目的があるのだと主張したいのであります。しかし、いい訳をするつもりではありませんがこの真の目的を言葉で表現する事は想像以上に困難なことなのですね。例えばプラトンはその書簡の中で次のように述べています。一番大切なことは言葉では言い表す事ができない。プラトンはご承知のように膨大な量の著作をのこしていますが、その中には彼が師・ソクラテスから決定的なそして重大な影響を受けた「人間にとって最も大切な事柄」については何も表現できずに終わった。そういう一見信じがたい事実が、本当に驚くべき告白が秘められているのでした。プラトンの師・ソクラテスはなにも美少年の「尻」ばかり追いかけていたわけではありませんで、内面の美しさがそのまま肉体の美しさに反映している「素晴らしい若者」の美しい魂に「一期一会」の万感の想いを込めながら、まさに入魂の教育を直接的に施していたのでした。似非知識人のソフィスト(彼らは説得だけを事とし真理や善などとは無縁のやからです)の目にはソクラテスの本当に貴い行為が自分たちには理解不能であるがゆえに、胡乱で何か怪しげな、前途有為な若者に害毒を及ぼす怪しからぬ行為と映った。まことに残念至極ではありますが、これは時代や所を変えても繰り返し行われている事実で、今日でも本質は古代ギリシアとかわりません。この様に大変な「難事業」をわたしごときが易々と説明できる物でもありませんが、誤解を恐れずに申し上げましょか。人間は、人間らしく生きるとは只生きているだけではダメ。立派に、正しく生き、真実を追究する。この世に生きてある間中その基本姿勢を変えないこと。人間として正しく立派に生きるとはどういうことかを、常に自らに問い続けながら生きること。このように書いてきましたら東洋にも同じ教えを弟子たちに語り伝えた大先生がいましたね。そう孔子様のこと。蛇足ながら付け加えますと万人がその様に生きなければいけないという意味ではありません。ただ理想としてあるべき理想の姿を述べたまでです。しかし誰でも、才能も無く何の取り柄もないと自らを評価している凡人でも、理想像を追うこと、たとえ稚拙でも不満足でも、そこに向かって「完全燃焼」しさえすれば、十分な生甲斐と十全な満足感とを容易く得る事はできるのです。これは理屈などでは有りません。飽くまでも、そして徹頭徹尾、実践にかかわる真実なのです。是非とも明日と言わず今日からでも騙されたと思って実践してみてください。
2011年05月13日
コメント(0)
世の中の親という者は大体において身勝手なものと相場が決まっているようです。何かというと「子供の幸せの為」子供の将来の為になるから、と勝手な理屈をつけては実のところ客観的に観察してみると、独断的なエゴから発した注文を自分の子供に無理やり押し付けたがる顕著な傾向がある。しかし、建前上はそうでも本心や本音のところでは自分自身がなんとかして安心したいの一心のみ。ところが現実には今度の東日本大震災に見られるとおりにいつ何時想いもよらない事態が出来しないとも限らない。俗に言う一寸先は闇。己一個のお粗末な「浅知恵」を軽はずみにも「この世の宝」である子供に無理強いして、子供たちの将来に重大な禍根を残す失態を幾世代にもわたって繰り返している。そして反省するならまだしも「私の言う事をちゃんと実行しなかった」などと、まことに始末に負えない無知蒙昧ぶりを遺憾なく発揮して懲りない ―- いや、そもそも自分の側に落ち度が有ろうなどとは少しも感じていないのですから反省の仕様も無い。まことに、まことに私たちにとって慙愧の極みとはこのことでしょう。世のため人のためにこれほど残念な事態もありません。子供たちの一番身近にいて、最も影響力の強い立場の親が「子供の為」と言いつつ実は決定的な「害悪」を加える。まさかそんな馬鹿なことがある筈がないと、誰もが思うであろうことが罷り通る。そうした現実こそ本当に恐ろしいのですが、見方を変えてみると不思議と申しますか、世の中はよくしたもので「悪い結果」ばかりが出てきている訳でもありません。そして何とか帳尻だけはあっている。本当にラッキー。だからこれまでのようで構わないという理屈にはならない。反面教師という言葉がありますから、実際には生来賢明なる子供たちは親たちの専制的な言動に対しても大局的見地から見たときに、まさに絶妙な反応を示してきた過去の歴史があり安心できるのですが……。私が大人たちの「罪」や「非」を声高に批判するのは根本的には教育の問題に帰結するわけですが、それは教育の専門家・教師の側の問題ではなく私たち全員が真剣に向き合い、考えを尽くす必要がある重大テーマなのです。
2011年05月12日
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1


