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私と言う人間は、生来と言いますか元々は政治というものに対して無関心であった。乃至は、無関心であろうとしていた。プラトンの「国家論」では有りませんが、哲人による理想的な現世の統治等と言うものは人間の頭脳の中に、それこそ陸続と群雲の様に立ち上がってくる様々な想念の一つであって、自分の如き無能無才なる者には殆ど係わり合いが無い事象だ、と始めから決め込んで良く考えても見なかった。大雑把に申せば、以上のような誠に杜撰なる考えを持っていたわけです。所が、最近は馬齢を重ねた功徳(?)とでも言うのでしょうか、やたらと政治に纏わる事柄が気になって仕方が無い。テレビ等で放映されている一種の「政治ショー」を眺めていると、とても不安な気持ちに駆られます。政治とは、現実の政治とは「何時、如何なる場所や国」であっても、「斯くの如き様相」を呈しているのであろうと、先ずは首肯出来るのでありますが、それとなく薄々は感じていた実体を目の当たりにする時に強い絶望感に襲われてしまうのは、私一人では有りますまい。偉そうに聞こえることを承知で言えば、孔子やプラトンの「無念の想い」が今更ながら思いやられてなりません。自由と権利、独立が保証されているいるのですから、公正なる憲法や法律に違反しない限り人々が何を考え、何を目的として行動しようと、それこそ自由勝手であって、誰にも非難したり、批判したりする事は許されない事。そうして、素晴らしい指導者や偉大な思想家・知識人が輩出したお陰で、今日のこの「体たらく」振り。皆さん、本当にこれで良いのですか、本当に?!すると決まって、こんな声が聞こえてきます。良くたって悪くたって俺達にはどうしようも無いだろう。気を揉んだり心配するだけ無駄じゃないか、所詮はね……。再度お訊ねしましょうか、本当に、本当に、そうでしょうか?私は・草加の爺めはそうは思いませんね。誰もが政治指導者や知的エリートの様に考え、また行動する必要などは全くありませんでしょう。自分なりに銘々がそれぞれの立場や能力に応じて、友人や知人、そして地域コミュニティーの為に役立とうと心を決めれば良いだけの事。それが出来ない境遇にあるなら家族や自分自身の為に少しでも為になることを考えればよい。それがもし出来ないならば、それでも結構。心の中で祈りなさい、世の中かが平安でありますようにと。祈る相手が見つからないならば、天に向かって。「天」等と言われても何のことか分からないと、本心で言うのならその方法を教えましょう。目を閉じて、心を穏やかに保って(もしもそれさえ無理な注文なら、心が波立ち騒然とした状態のままで)、念じて下さい。私をお救いください、神様と。私たちは本来、どの様に転んでも幸せになるように「仕組まれている」のです。所が「罰当たりな事に」人々はその事実が「気に食わない」かの如くに振舞って止まない。心底から「世の為、人の為」を第一にを心掛けて行動している人がいたとすれば、その人は果報者。自慢をするわけではありませんがここ数年の私の生き方は「世の為、人の為」を実践するそれ。勿論無能な独りの老人が出来る本当に限られた範囲において。以前の私は「俺が、俺が」で、他人のことなど構っている余裕など全く無かった。当時は、今振り返ってみると、極たまに享受できる幸福な瞬間を「貪る」様にガッツイテ、掠め取っていた。所が、現在は「心豊かに」楽しみを味わい、何物かに感謝したい気持ちで一杯。客観的には老いぼれて哀れな耄碌爺にしか過ぎないのにですよ。自分ほど恵まれて、ハッピーな人間は居ないな、そう確信して少しも動じないのですから始末に負えない状態ですね、実際の所。それで、自分がしみじみ果報者と思えるから、少しでも他人様の役に立てたらと、益々意気盛んなのですね。どうですか、あきれ果てましたか?こんな生き方も広い世間には有るのだと言う事を、頭の隅に置いておかれても宜しいのではないでしょうか。
2011年11月29日
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先日、このブログの読者からお手紙を頂戴しました。かなりの長文に、写真が一枚添えてありました。そのお便りについて今回は書いてみようと思いますが勿論、プライバシーその他の問題がありますので、話題を展開するのに必要な、したがって最小限度のご紹介に留めます。単にお若い女性と申しましても、68歳の小生からすれば大部分がその範疇に入ってしまいますから、30歳より前の、と言う限定を付けておきましょうか。その方が書いています、「草加の爺」さんは「ブス」こそ最高の美人になる資質に恵まれていると。でも、そんなこと少なくともこの私にはとても信じられない。同封した私自身の写真をご覧下さい、どうですか?これでも美人になれると思いますか。あまり無責任な事は書かないようにしてください、云々。勿論、私はお便りの内容を読む前に、同封された一葉の顔写真に気がついていましたから、彼女が何を言いたいのかが直ぐに具体的に理解できました。成程、その写真には「醜い」女性の顔が写っていました。しかし、念のために断っておきますが醜い・アグリィー(ugly)なのは顔の表面に浮かんでいる表情なのでして、決して、断じてそのconstruction・造作その物ではないのですね。抽象的で分かりにくいと仰る方が或いはいらっしゃるかも知れませんので、もう少し分かり易く具体的に申し上げましょう。ここで個性派の女優・樹木希林さんに、恐縮ですがご登場願いましょう。希林さんとは以前何度かお仕事でご一緒させて頂き、おまけに人気アナの逸見正孝さんと間違えられて(?)サインまでせがまれたことのある私・草加に爺ですから(作り話ではありません、本当に有った実体験です)樹木さんには無断で御許し頂くと致しまして、その希林さんとてもご立派なお顔をされていらっしゃる。まるで貴い仏様のお顔に譬えるしか仕方の無いくらいの素晴らしい、ご聡明なお顔立ち。その女優さんが、たとえば皆さん良くご存知のコマーシャルでは「ブス」あるいは「程々の、美人ではない方」を演じて、なかなか堂に入った名演技を披露していらっしゃる。如何ですか?少しは私が言わんとしている事柄が伝わったでしょうか?兎に角、この世には始めから「ブスで醜くて、下品」な人など存在しないのですね、実際には。所が、現実にはそうなっていない。醜悪だったり、最低・最悪の顔つきをした人が大多数を占めている。それは生まれつきの所為どころか本人の心がけが「醜悪、最下等、下品の極み」なのであって。最初の話に戻りますと、彼女が写真で「ぶす」の典型のように写っていたのはその時の彼女の謂わば心根やそれを反映した表情なのであり、顔立ちそのものは誠に素晴らしい、またご立派過ぎるくらいのものでしたよ。皆さん方は、心を磨け等と言うと異口同音に「心などは目に見えないから磨き様が無いし、結果も分からない」と言われる。所が偉そうに言わして頂くと、さにあらず。見る人が見ると実に明瞭に見える。手に取るように如実に分かる。恐ろしいと言えばこれ程恐ろしいこともありませんが種を明かせば、何のことは無い。誰にでも見えているし、分かっている。ちょっとした訓練さえ受ければ、クリアに心眼に写るように出来ている。謂わば「魂のあり方」と言い換えても良い、この実相は本当に大切。この心の在り方・魂の佇まいを観て、アドバイスする仕方にかけては私は「名人」クラスなのですね、嘘ではありません。これからも折々に、この人生の大事、生き方の大本については言及して参る所存ですので、宜しくご愛顧のほどお願い申し上げます。
2011年11月25日
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前回、私は誰もがハッピー・ライフに必要な豊かな資源に恵まれている事実を、人々が「最低の資産家」と見做すに違い無い「バカ、ブス、貧乏の三大不運者」を例に挙げて説明しました。三大不幸者どころか、この三者の立場こそ工夫次第では「最高の仕合せ者」と変ずるのだと主張しましたね。その方法は愚直に「バカさ、ブスさ、貧乏さ」を磨く事が肝要なのだとも。今回は、それでは「愚直に、磨きをかける」とは一体どの様にするのかというもっと具体的な、説明を試みたいと思っています。先ずは人の真似をしないこと。これが根本です。二番目は、他人と自分とを徒に比較して一喜一憂しない事、これです。そして自分が認識した「厳しい現実」から逃げたり、顔を背けたりせずに、その現実を素直に受け入れ、真っ向から向かい合う。己と真正面から向き合ってじっと我慢・辛抱を重ねて行く。つまり私は世界で一番恵まれた宇宙一の果報者だという確固たる信念を保持して、あらゆる局面に対処し、その時点での最善を尽くす。すると、あら不思議!いつの間にか自分は最高のハッピー・ライフを手にしているのだと気付く筈。宇宙で最高の、ユニークで、溌剌として、魅力満載の人間として自他共に認める無条件に素晴らしい存在として、生まれ変わっている己自身の姿を発見して欣喜雀躍しないでは居られないのですから驚きですよ。人は結局、自分自身で望んでいるような自分になると言われていますが全くその通りだと思います。どうせ、自分を規定し、決め付けるのであればプラス思考の積極果敢な方向に人生行路の舵を執ろうではありませんか。泣いても笑っても一回こっきりの人生、笑顔を常に絶やさずに周囲も自分もハッピーのウィン・ウィン主義で生きたいもの、如何?
2011年11月20日
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蛙の子は蛙、という言葉がありますが蛙の親からは絶対にライオンは生まれてこないという事を表明したにすぎません。しかし、この命題は読み方によっては非常に示唆に富んだ立言でもある、という事実には余り気付かないもの。もう少し丁寧にせつめいしましょうか。蛙の子は蛙なのだ、という言葉の裏側には「カエル」という存在自体への軽蔑なり、侮蔑が含まれている。例えば百獣の王といわれるライオンの方が数百倍も良いので、カエルに生まれてしまったらもう取り返しが付かない。どんなに足掻いても、もがいてもとても追いつかない。何が何でもライオンで無ければダメなのだ。こういう含みが裏側に隠れていて、透けて見えている。そして生き物としてこの世界に処して行くには、少なくともライオンもしくはライオンに限りなく近い強者でなくては話しにも何もならないのだ。そういう強い「主張」が前提として「厳然として」あるのが常識。この常識に反論しようと言うのが今回のテーマですが本当に「蛙の子に産まれてしまったら万事休す」なのでしょうか?少し別の角度から分かり易く論を展開してみましょう。タイトルに掲げた「不美人」、平たく表現すれば「ブス」と言う事になりますが極端な表現を使って、最高のブス、つまり十人が十人、百人が百人とも不美人だと決め付ける様な不器量な女性が居たとします。クレオパトラや小野の小町ほどの絶世の美女もこの世には極めて稀にしか存在しませんので、その真逆の人もそう簡単には発見出来ないとは思うのですが、実際には、或いは現実にはですね。まあ、仮に居たとしての仮定の話ですが、彼女はもうそれだけで生きる価値が無いのでしょうか。幸せにはなれないと諦めなければならないのでしょうか?そんなバカな話は金輪際ありっこない、そう断言して済ませるのが本当なのですが、この世のことは大抵そうは問屋が卸してくれない。仏教で言えば末世も末世。キリスト教その他の所謂啓典宗教(revealed religion)から見てもとっくに終末が来てしまっている堕落の極みにある現代ですから。私・草加の爺は「ブスはブスを磨け」、「バカはバカを磨け」と若い人たちに申し上げたい。本心では、この世に「ブス」等と言う存在は無いのだし況(ま)してや「バカ」等と言う形容に値する人間など一人たりとも生まれたためしがない、と心底考えているのですが世間の人にお付き合いして話を合わせているだけの事にすぎませんがね。自分で自分を本当のばか者だと決め付けているのなら、それなら仕方ないので取り敢えずそのご自分の「バカさ」を大切にして、根気よく磨き上げて御覧なさい。そうすれば、いつの間にかあなたは唯の「バカ」ではなくなる。きっと皆から「あいつはバカはバカだけれど、唯のバカではない」と高い評価を受ける様になる。他人から尊敬され敬われさえする。歴史的にもそういうお人が大勢いらっしゃる。嘘ではありませんよ。妙好人と称される一群の「聖人」たちです。まして況や、「ブス」等と言う女性がその「ブスさ」を大切にして磨き上げて行ったとしたら、ユニークな言葉の本当の意味での「個性豊かな美人」が誕生すること間違い無し。残念ながら、この種の魅力溢れる器量善しは皆無では無いのでしょうが滅多にお目にかかれ無いでしょう、恐らく。私は殊更に詭弁を弄している訳ではありませんで、全能の神の被造物に醜いもの、あるいは不完全なものなど絶対にない。そもそも、その様なけちな人間の価値観など通用しない。その様に心得ているに過ぎない。シェークスピアの「マクベス」に登場する魔女が「綺麗は汚い、汚いは綺麗」というセリフを発しますが魔女が言おうと誰が言おうと、正しい事は正しいのですね。綺麗か汚いかは見る側の事情によって決まることで対象の問題ではない。美人とか異性から持てるとか、そういう事にばかり拘っていると碌な事にはならない。人気があること、他人からちやほやされる事は、人が普通に考える程にはよい事尽くめではない。人気者には人気者の他人からは窺がい知れない悩みや困難がある。そう言ったら贅沢な悩みだと外野から野次が飛ぶでしょうか。しかし、それなら同様の論法で、ブスやバカで悩むのは、本当に悩んでいるとするならばの話ですが、「贅沢な悩み」であり「暇人の心配事」と呼んで憚らない、愚の骨頂ですよ。ブス、バカ、貧乏の三大不幸を私はハッピー・ライフへの「最高の資産家」と褒め称えたい気持ちで一杯の男ですですからね。序でに申し上げれば、齢をとること老齢になる事は悪い事ばかりとも限らない。耄碌爺の私ですが今が人生で一番幸せだと、毎日感謝しながら張り切って生活していますよ。天に対して感謝しつつ、有難い、有難いと、有難尽くめの毎日。こんな事は、若い時代には全く信じられない、本当に嘘の様な現実です。逆転の発想。これが秘訣と言えば秘訣です。もしリクエストがあればこの秘訣を伝授いたします、無論御代は要求いたしませんよ、本当に。
2011年11月17日
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私は草加市役所の近くに住み始めてから、早くも八年半になります。以前住んでいた金町にも近くに都立の水元公園があったりして木々や緑の環境に比較的恵まれた暮らしが出来ていましたが、草加市役所周辺にはコンクリートで囲まれた小さな花壇が幾つも設置されてそれぞれに色とりどりの草花が植えられて、私たちの目を楽しませてくれています。それはそれとして、とても結構な事ですので別段文句をつけようなどという気持ちは、さらさら有りません。しかし私はこの人工的に栽培された可憐な草花を眼にするたびに自然状態で放置されている野原の雑草たちの事を、強く意識しないでは居られないのですね。草加市も東京都から流入してくる住民の増加と共に、農耕用の土地であった場所が激減して、自然状態の野原と呼べるような広場は皆無と言っても過言では無いでしょう。一口に「雑草」と言いますが、その種類は殆ど無数でありましょう。現代人には一寸無理な注文かもしれませんが、一種の原生林というものを想像し、イメージしてみて下さい。そして現代人には想像すら出来ないかも知れませんが、その全体像は清潔で美しいと私は思うのです、丁度太古の日本列島が限りなく美しい海と山々の緑に包まれて光り輝いていた如くに。これは何も誇張ではないのである時仕事で訪れた長崎県の五島列島の、それこそ絵の様に美しい海岸の景色を見て、深い感動に包まれながら思ったことでした。人は田舎の野卑や下品を嫌い、都会・都の華美・上品にこよなく憧れを持つ。その事自体はどうしようもない極めて自然な欲求でしょう。しかし、人間は考える事のできる動物であり、反省の必要があり時にはきちんと反省も出来るように生まれ付いても居る。田舎は清潔・健康・ほど良い上品さを持っていないだろうか?都会は野卑で、野蛮で、下品な一面を隠し持ってはいないだろうかと。私が殊更に「雑草」の美しさを強調するのは世の軽佻浮薄な風潮に対する、ほとんど本能的な反発であり、反動でありますが、それと同時に「全能の神の被造物」に対する無条件の信頼がある。小賢しい人造・人工物より自然の方が遥かに勝っているに違いないと思う揺るぎの無い確信なのですね。つまり「無宗教者と評される日本人の典型」である私・草加の爺は特定の所謂既成の宗教を信ずる者ではないが、正真正銘の原始宗教を無条件に信ずる敬虔な隠れ信者である訳ですよ。そして普段はそれを余り意識に上せたりする事がないだけの事にすぎません。雑草とは無条件に美しい草花のことを意味します。もしその雑草を見て醜い、価値がないと感じる人が居たらそれはそう感じているその人自身が、或いはその人の生き方が醜かったり、無価値に等しかったりする証左ですね、実のところ。
2011年11月14日
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世の中の大部分の人が金持ちになりたい、もっと裕福な暮らしを手に入れたいと血眼になっているというのに何とまあピントの外れ過ぎた戯言(たわごと)をほざくものだ……。そんな風に「シカト」しようとした方がいらっしゃったなら一寸だけで結構ですから、もう少しお付き合い下さいませんか。とても為になる有益な話が聞けるかも知れませんので。前回は商人・実業家・企業家等のカテゴリーで一括り出来るような人々を「不当に」も批判して、現代を代表するような「物識り」から甚く顰蹙を買ったものですから、毒を食らわば皿までとの古人の教えに従い、またまた「暴言」の上乗せを企んだ。と言うのは冗談ですが(私の冗談は、冗談がきつ過ぎて冗談で通らなくなる場合が屡あるけれど)、実体験に基づいたとても有意義な事柄を掻い摘んで申し述べたいと思ったのに過ぎません。序でながら「掻い摘んで」という意味は、このテーマは非常に奥深いものでまた理屈や理論だけではなく、行動や実践の裏づけがあり、更には実践や行動の裏づけを必要としますので、皆さん方が簡単にお考えになられる程には単純でも無いのですね。前置きが少々長くなってしまいましたが、本当に貴重な教訓ともなり得る考え方ですので、その心算でお聞き下さいませ。先ずは貧乏ということの定義から始めなければいけませんね。と申しますのも、私は定年までテレビドラマのプロデューサーでしたので、また今から考えるととても恵まれた環境にあり出会った人々にも大変良い出会い方をさせて頂いたので物心の両面でとても豊かな時間を経験する事が出来、仕事を介して出会った多くの人々に深く感謝しているのですが、それはそれとして、私生活ではとても慎ましい「貧乏」な生活を終始一貫して送ってきております。子供達がまだ小さかった頃に「我が家は貧乏なのだから……」とお説教するのが家内の口癖だったと成人した息子達二人が、口を揃えて、しっかりと証言している所です。まあ、直ちに飢え死にする事は無い程度の貧乏さ、と御理解して頂ければ十分です。ついでに申し添えますと、私が産まれた当座は広い庭つきの一軒家に住んでいた記憶がありますので終戦後の時代にすれば「お坊ちゃん」の生活をしていたのでしょうが現在振り返ってみる時には、常に腹を空かしていた記憶しか有りません。東京下町の「ガキ大将」の端くれで、いつも近所を走り回っていた本当に始末に負えないヤンチャ坊主でしたから、始終空腹だったのも無理は無いのですが……。現在も年金生活者の仲間入りして、貧乏の名に恥じない生活をしているのですが、学習塾の生徒からは私が貧乏人である事実を直ぐには信じて貰えない程、ポーカー・フェイスと申しますか、平然と貧乏を少しも恥じない態度だけは、今だに保持し続けている言わば貧乏人の権化の様な存在です。兎に角貧乏の伊呂波から奥深い奥儀まで窮めた、斯く言う私・草加の爺が自分の一生を振り返って、しみじみ「自分は貧乏で本当によかった。幸せだった」と思うのです。今も時々は身分不相応に「豪遊」する事もあるくらいですから、大きな事も言えないかも知れませんが貧乏であったからガムシャラに勉強しなければならなかったし、貧乏だったからこそ、人の痛み、弱者の立場にある者の辛さ・悲しさ・切なさなどを痛切過ぎる位に理解でき、その苦痛を身近に感じ取りシェアーも出来る。本当に有難い事と常に感謝の念を絶やした事が無い。第一空腹時に口にする粗食の何と美味しい事。京都の最高級の料亭の豪華な料理よりも身にしみて美味しい、実に有難いと天に感謝したくなる。要約すれば、快楽を保証する金銭を追求すれば際限が無いけれど倹しい貧乏生活からでさえ幸福や満ち足りた精神の安定は十二分に可能であるし、倹約こそが私たちに与えられた最低限の義務であり、務めであるという結論になる。如何です、眼から鱗が落ちましたか?
2011年11月11日
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現代に生きる如何なる人も決して口にしたことの無い不文律の掟、または暗黙のタブーを破ろうというのが斯く言う私・草加の爺であります、まさに現代のドン・キホーテと呼ばないわけにはいきませんね。現行の資本主義自由経済の下では、企業の利潤・利益は法を犯さない無い限り極めて正当で正しいサービスに対する報酬である、と主張され、その考え方が世界中で支持されそこに僅かなりとも疑問を差し挟む余地は無いとされる。嘗て欧米列強によって始まった帝国主義的な後進諸国に対する苛烈な植民地支配と激烈な搾取とは人類史上の大汚点であるますが現在尚、熾烈さを加えながら蔓延する大資本による「不当極まりない」搾取・収奪の凄まじさは目を覆わしめるものがあるが、世の心有るとされる識者の誰一人としてこの「暴利略奪」現象に敢えて異を唱える者は居無い。事の成り行きで仕方が無い、また止むを得ない事態なのだということと、それが正義であり人道上好ましい事なのだというのは丸で別物。国境という強靭な壁がなし崩しに崩壊しつつある今、自由経済という名の中原の荒野に新たの覇権を唱えんものと次から次へと、新たな大資本の台頭がありグローバルな経済戦国時代は益々戦線を拡大していく様相を露にしている。成り行きで仕方ない、とさえの言及も無いのは一体どうした事なのか?先進国の経済的な行き詰りによって、漸くグローバルな視点での解決策が模索され始めているとは言い条、企業活動の基本的な姿勢に変化の兆しさえ見えない。何処まで往っても「弱者が食いものにされる」人間社会のあり方は不変である様ですね。しかし、伝説上の話にしても太古の大昔に聖人王による理想的な政治が、人民にとっての最良の統治機構が構想されていた事を思えば、現在の人類の体たらく振り堕落の様相は極限にまで達していると言わざるを得ませんね。近代という科学的合理主義万能、ヒューウマニズム謳歌の人間中心主義、進歩主義などの旗印の下、人類はまっしぐらに「神殺しの一本道」をひた走り今日の混迷・混乱・周章狼狽・ドン詰まりの極北に達しているのです。地球村の現実を前にしても、旧態依然の「人工的弱肉強食」状態を少しも反省しようとしない。やんぬる哉、でありますね。焼け石に水と百も承知で、私如きが「小生意気な警世の声」を張り上げ始めた理由なのですが。
2011年11月09日
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人気とは文字通りに「人々の気が集中している」状態であり、飽くまでも一時的な現象にしか過ぎません。しかも、私が十年近く前まで生活していたテレビの世界つまり芸能界の人気者に典型的に見られるように、人工的に「造り得る」もの。億単位のお金を恰も湯水の如く注ぎ込んで、人気者やアイドルを造作もなく作り出すことが可能なのです。映画なども豊富な資金力にものを言わせれば、あっという間に世界的大ヒット作品の誕生と相成ります。いとも容易い芸当なのですね。ビジネスの世界でも同様に、宣伝次第では驚くような人気の商品もマジックの様に生まれてくる。コカコーラなどがその典型例でしょうか。この様に人為的に作り出せる人気の本質は徹底した量の大きさだけで質とは余り、殆ど無関係です。人間の心理ほど儚く、また時と共に移ろい易いものも無い。実力という筋金がシッカリと通っていないから。こうした現代の風潮を捉えて私・草加の爺は pop king が支配する時代と言う風に現代を捉えています。そもそも人類の歴史を概観してみますと古代には絶大な神々の力を背景に人民を支配する sacred king が君臨し中世から近代に掛けては、巧みな軍事力の行使によって支配者の地位に上り詰めた war king が見られ、現代は pop king がその後を襲っていると、個人的な私見として時々に提示して好評を博している。war king の代表がナポレオンであり、わが国で言えば信長・秀吉・家康などの名を挙げる事ができる。pop king の代表格は言うまでも無く現代社会をリードする世界の政治指導者たち。それでは来るべき次代の支配者はどの様な資格を有して、市民・人民の上に君臨できるのか?これは私の個人的な予測であり、アカデミックな裏付けは何も有りませんが、仮に art king と呼んで置きましょうか。art には芸術の分野を含む事は勿論 artisan 即ち職人の勝れた技をも内包する幅広い概念であり、一芸において際立って優秀な匠(たくみ)的な名人を意味する。技術を駆使した画期的・創造的活動を通じて世の中に一大変革を齎し、人々の生活を根本から改善するような支配者であり文字通りのKINGたるべき傑出した人物。それから、ついでながらに付け加えておきますと、近代から現代にかけて商人・実業家が実質的に世の中をリードして来ていますから、本来なら biz king が有って然るべき所なのですが、残念ながらそうはなっていないのは何故か?BUSINES MAN と呼ばれている人達の猛省を促したいと思いますが、如何?わが国を例に取れば、江戸時代には「士農工商」と最下層に押し込められながらも紀伊国屋文左衛門に代表される目を見張るような大活躍を示し今日では国際的なメジャー企業となっている有名企業人が多数存在する事実があることを考えると、何か不思議な思いに捉われるのは私一人では有りますまい。資本主義の自由経済は国家や社会に様々な形での大きな貢献をしながら、それを相殺するような甚大な弊害をも併せて伴っていた。利潤追求至上主義の商人根性には世人から諸手を挙げて歓迎される為の何か重要なファクターが欠けていたと言わざるを得ないでしょう。現代の、つまり現代人の不幸は無条件で人民に奉仕する「支配者・聖王」の観念を完全に喪失して誰一人顧みない事。「暗黒社会」乃至「弱肉強食」の世を万人が仕方が無いと黙認・是認して、諦め切ってしまっている事にあると断言して憚らないのが、斯く言う私・草加の爺一人なのですね、皆さん。残念至極でありますよ、実際、本当に、紛れも無く……。
2011年11月05日
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人々は口を開けば「自由、自由!」と口々に叫ぶ。人間は自由・平等に造られているとも。福沢諭吉は西洋の知識を借りて「天は人の上に、人を作らず。人の下に人を作らず」と言った。福沢が「天は」と念を押すように言っている所に御注目とだけ此処では言うに止めましょう。人間は一体、本当に自由なのでしょうか?そして現実生活で私たちは確かに平等でありましょうか?自由の辞書的な意味は「思い・(心)のままの様子。邪魔されたり制限を受けたりしない・こと(行動)」となりますが、人間は今だ嘗て「自由」であったためしがありません。歴史的には戦争に負けた民族が征服者の奴隷として家畜並みの待遇を受けたその過酷なくび木からの開放を意味するでしょう。人間は自分自身からさえ自由にはなれない「本質的に制約を受けている」存在です。ある人は「真の意味における自由とは、全体の中にあって、適切な位置を占める能力のことだ」と言っている。一個の人間・人格が完全な自立体であるのは、全体との関連を自ら調整出来るということに過ぎずそれは部分でありながら、全体を意識し、全体を反映し、自ら意志して全体の部分になり得ると言うこと。つまりは自他に対する揺ぎ無い信頼が何よりも大切なのです。そして現代は社会の基本的な紐帯としての信頼感が跡形も無く崩れ去ってしまっている「末世」のどん底。私たちが人生に求めているものは、一時的な快楽の充足ではなくて安定した、静謐さに満ちた幸福。自分が本来居るべき場所に居るという安心感が欲しいのだから。だから例えば「自分の命だから自由勝手に」出来るし、しても良いのだ。誰からも文句は付けさせない。また文句を付けられる筋合いのものではない、などと利いた風な口をきく。しかし、野暮を承知で理屈を言えば、私たちの物などと呼べるものが一体この世に存在するのでしょうかね。私たちの生命にしたところが親からの授かり物。その親はそのまた親から授かっている。大本を辿れば天からの恵みであり、借り受けたもの。そして着る物、口にする物住むところに、歩く所と、どれ一つ取ってみても私たちの物などと呼べるものは皆無ですね。根本のところに立ち返って、ゼロからスタートするとしたら、それが最良の選択でしょうよ、恐らくは。何時だってそういう意味ではやり直すことが出来る。古人も「過ちを改めるに憚る事なし」と教えていますし。無い物ねだりの「自由、自由」の連呼ではなく、幸せを呼び込む信頼の輪・和をすこしずつ、ほんの少しずつ大きくして行こうでは有りませんか、皆さん。どうでしょう……。
2011年11月03日
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