全186件 (186件中 101-150件目)
日曜日だがいろんな私事の合間にやはり仕事だ。帰り道の途中に文昌宮へ参拝。 日本植民統治時代で、中国大陸からの商人が置いた文昌帝君をこの辺の人が祀ることがきっかけで小さい道観が建てられた。受験祈願で参拝者が増えたため、さらに規模が大きい文昌宮が建てられた。そして、地下鉄の建設などの経緯で、現地へ移転されたのだ。 正殿の主祭神は「学問の神様」の文昌帝君である。道教は、五文昌と呼ばれる5柱の学問の神様を祀るが、文昌宮は呂祖を祀っていない。代わりに、干支によって輪番で人の禍福吉凶を管理する太歳星君を祀る。別殿には、三国志演義で軍神として知られる関羽(雲長)が学問を守る神様として神格化した関聖帝君、文魁夫子、朱衣神君が祀られる。古くから伝わった民間の話には、関羽は朱衣神君の転生であるともいう。 文昌宮は台北市の「三大受験祈願のメッカ」の一つとして日本の観光ガイドに紹介されているらしいが、わしは意外と学生時代でここへ参拝したことがなかった。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、文昌帝君を主祭神として祀る寺院へさらに頻繁に参拝するようになったため、ここへも参拝してまいった。
2024.01.21
コメント(0)
大得民牛肉麺館の向かいは、恵済宮という道観と寺が合わせた寺院である。文化財であるため、たいわんだけではなく日本のからの観光客も多いが、わしにとって小さいころから参拝してきた寺院である。台湾に戻ったら必ずここへ参拝する。 正面の入り口から階段に登り、芝山岩という丘に登るのだ。 芝山岩隘門。いわゆる関所、関隘。これは1825年に建てられた文化財。清国は台湾を領土としたばかりの時、大陸の住民の台湾渡航を厳しく制限したが徐々に緩和してきた。すでに福建省から多くの人が台湾に渡ったが、漳州と泉州出身の人はよくケンカしていた。漳州の人は守りやすい丘に恵済宮を建て、さらにそれを守るための関隘も設置したのだ。日本の寺、神社も同じく、かつて戦争時に城、関所として機能することもあり、丘、山に立たれたのだ。上野東照宮もまさにこのような理由で上野戦争の時彰義隊の本陣となったのだ。上野の寛永寺はお寺であるが、西国、都に何があった時、天皇を京都から迎えるための御所のため建てられたのだ。 台湾の道観、寺、道観と寺による寺院には多くの神様を祀るのだ。ここもそうであった。主祭神は、開漳聖王、観音菩薩、文昌帝君。中国の唐の時、まだ未開発の福建省漳州で起こった反乱を鎮めた後に、開発に着手した陳元光という将軍がのち漳州の人に開漳聖王と呼ばれ、神様として祀られている。文昌帝君は中華圏における学問の神様の一人である。恵済宮は文昌帝君を主祭神としているため、受験時期で多くの受験者とその保護者が参拝しに来る。わしも小さい頃から受験合格のためここへ参拝してきた。今は、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。 この写真は去年の夏の帰省で撮影したものである。今大規模修繕工事が行われているため、きれいな写真が撮れない。 恵済宮は日本近代史における芝山巌事件という出来事の舞台でもある。恵済宮を参拝した時、隣の裏道から進むと、「六氏先生之墓」が見える。 1895年(明治28)、台湾は清国から日本へ割譲され、日本の植民地となった。伊沢修二・台湾総督府民政局学務部長は長期統治のための教育政策を行うための責任者となり、日本語を普及させるために、当時まだ道観だった恵済宮の前身である恵済堂を間借りし、日本語教師の養成の学堂を開いた。伊沢とともに、教育に当たったのは、山田耕造、だけではなく、初代群馬県令楫取素彦の次男で吉田松陰の甥にあたる楫取道明、井原順之助、関口長太郎、山田耕造、中島長吉、桂金太郎、平井数馬であった。しかし伊沢と山田が乙未戦争のため台湾へ出征し、病死した北白川宮能久親王の棺とともに日本へ一時帰国した時、台北周辺の治安が悪化してしまった。結局、1896年1月に楫取、井原、関口、山田、中島、桂、平井と用務員を合わせ7人が抗日ゲリラに殺害された。六人は不憫と思う住民に埋葬された。この事件はいわゆる芝山巌事件である。殺害された六人の先生は六氏先生あるいは六士先生と呼ばれた。 六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々を祀るため昭和5年(1930)に創建された芝山巌神社の社殿の前に、1896年に建てられた「学務官僚遭難之碑」がある。 伊藤博文の揮毫によるものである。芝山巌事件がきっかけで日本は統治政策をさらに強化したという。 蒋介石や中国国民党は1949年に台湾へ逃げた時、芝山巌神社をはじめ多くの神社をつぶした。芝山巌界隈で多くの特務関係の機構が設置されたため、芝山巌神社の本殿跡に蒋介石の側近で特務のトップとして知られ、国民政府軍事委員会調査統計局副局長を務めていた戴笠を記念する「雨農閲覧室」を建てた。実際にここから、台湾の情報・治安機関を統括する国家安全局の本部にある陽明山への大通りのところもほぼ一本道ぐらいで近い。なお、戴笠という名前も本名であるかどうかわからないという。 この時、恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。のち台湾の民主化が推進された時、六氏先生之墓や学務官僚遭難之碑の復元も果たせた
2024.01.19
コメント(0)
勝海舟の旧居の跡地からそのまま赤坂見附界隈へ豐川稲荷東京別院に初詣。豐川稲荷の正式名は「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」。主催神は宇迦之御魂神だとずっと誤解していたが、ここは稲荷神社ではなく、お寺。仏法守護の善神である豊川ダ枳尼眞天を祀る。豊川ダ枳尼眞天は稲穂を荷い、白い狐に跨っているから「豐川稲荷」と呼ばれることになった。豐川稲荷は日本二大稲荷、三大稲荷として必ず挙げられる。 社務所は3時までだが、今日午前中に参拝しにまいった。このため、無事に御朱印をいただいた。また、境内の七福神めぐりの色紙と地図を入手したため、無事に前回の参拝で見つけられなかった壽老神を見つけた。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.08
コメント(0)
龍土神明宮への参拝が終わった後に、速やかに赤坂界隈へ移動。ある意味で自分にとって六本木は危険な地域である。 坂道だが無事に赤坂の氷川神社に到着。日本に来てから三回目の参拝だ。 元麻布、白金にある氷川神社と区別するため、赤坂氷川神社と呼ばれる。氷川という名称の由来は、出雲国の簸川(現在の島根県斐伊川)にある。簸川の上流は素盞嗚尊の「八岐大蛇退治」の舞台という。天暦5年(951年)、東国を遊行していた蓮林僧正が霊夢を見て、一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)に氷川明神の社殿を建ったという。 享保15年(1730年)、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の命により、現地に移転された。江戸七氷川の筆頭として知られる。現在の社殿はこの時に造営されたもので、安政の大地震、関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲など数々の災禍を奇跡的に免れ、創建当時の姿のままであり、東京都の有形文化財に指定されている。赤坂氷川神社は明治元年(1868年)准勅祭社に列し、東京十社の一つである。 祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命。素盞嗚尊は天照大神の弟神、勇猛果敢な神様であり、日本神話では八つの頭と尾を持つという八岐の大蛇を退治した。その際に得た、神剣である天叢雲剣は、三種の神器の一つ「草薙の剣」と言われる。 境内の摂末社である九神社。 天祖神社、春日神社、鹿島神社、八幡神社、諏訪神社、秋葉神社、厳島神社、金刀比羅神社、塞神社社を合祀した神社である。 四合稲荷神社。 明治31年(1898年)に、古呂故稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社を合祀したことに由来する。 その際に、勝海舟が「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、四合稲荷(しあわせいなり)と名付けた。大正14年(1925年)に鈴降稲荷と縁起稲荷、昭和9年(1934年)に明徳稲荷を合祀した。氷川神社の社務所が四合稲荷の御朱印を配布している。 西行稲荷。文政8年~11年(1825~1828年)に調査された『町方書上』によると、もともとは赤坂田町4丁目に鎮座していたようだ。5丁目に住んでいた西行五兵衛が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と言われ、「火伏の稲荷」として信仰されてきた。 東側の参道。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。 旧氷川小学校の跡地に設置される勝海舟・坂本龍馬の師弟像。ここは勝海舟の屋敷の跡地でもある。勝海舟は赤坂で3回住居を変えたことがあるが、ここは3回目の屋敷。勝海舟は明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
2024.01.08
コメント(0)
三連休の最終日だが、来週末までの仕事をできる限り先に進めたいため、やはり出勤。しかし、やはり神のご加護が欲しいので、乃木坂駅を降りた。 六本木方面へ少し歩いたら、天祖神社に到着。 至徳元年(1384年)、つまり南北朝時代に創建された神社。主祭神は、天照大御神、伊邪那伎命、伊邪那美命。品川沖から毎夜、竜が御灯明を献じたという逸話によって、「竜灯」→「竜灯」と訛り、神社の場所が「竜土」と呼ばれるようになった。このため、神社も龍土神明宮と呼ばれるようになった。 境内の満福稲荷神社。元々、孫太郎稲荷と呼ばれたが、近隣の稲荷社を合祀して、満福稲荷神社となった。港七福神の福禄寿を祀る。港七福神めぐりは昭和8年発足の「麻布稲荷七福神詣」が起源であった。戦争の影響により昭和15年で中断したが、昭和41年に巡拝所の再編で、「港七福神めぐり」として再開された。七福神に加え、宝船を含めた8カ所をめぐるのが特徴だということである。港七福神めぐりは毎年元日から成人の日まで行われるが、今日は御開帳の最終日ということだ。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.08
コメント(0)
三連休の日曜日なのにいつもの日曜日より早く目覚めてしまった。 せっかくだから、去年のクリスマス以来ぶりの亀有を降りた。アリオ亀有方向へ進んだら、亀有香取神社に到着。 建治2年(1276年)に創建された。主祭神は経津主神。亀有は当時下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取大神宮の神領地であったから、香取大神宮からの分霊を迎え、村の鎮守として祀るのだ。香取神社は正式な名称だが、亀有香取神社という通称として知られる。経津主神および相殿に祀る武甕槌神は武神であるため、現在では「何事にも打ち勝つ、除災招福開運厄除の神様」「スポーツの神様」として崇敬される。 境内の道祖神社。相殿でお祀りされている岐大神、および道案内・道を導き、集落の外部よりの災いを防ぐ道祖神は、「足腰健健康の神様、家内安全の神様」として崇敬されている。 「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」。もともと社務所側に設置されたが、社務所の改築で今の場所へ移動された。2003年に先代の後を継いだ宮司は、参拝者減少に悩様れたが、地元を舞台とした漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に描かれていることにちなんだキャラクター銅像の設置やアニメ絵馬の販売を取り組んだ。 さらに大きい神社の門前通りに団子屋や甘味処があることで、パティスリーの有名店であるラ・ローズ・ジャポネを金町から境内へ誘致した。店は環七側の鳥居の近くにあり、常に行列ができている。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.07
コメント(0)
帰宅する前にもう一食を食おうと思うが、途中に阿佐ヶ谷駅を降り、住宅区へゴー。 10分ぐらい歩いたら、馬橋稲荷神社に到着。 随神門。昭和50年(1975年)に鎮座700年記念事業として建てられた。 社殿。主神は、宇迦之魂神、大麻等能豆神。相殿は、伊弉册神、美都波能賣神、菅原道真朝臣。 鎌倉時代末期に創建されたというが、明らかではない。天保3年(1831年)に京都白川神祇伯家御役所から「正一位足穂稲荷大明神」の神号を拝受する。明治40年(1907年)に村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を合祀した。住居標示の改正によって、昭和40年(1965年)、住居表示改正により馬橋の地名がなくなり、梅里、高円寺、阿佐谷となる。「馬橋」の地名を惜しみ、後世に伝えようと、神社を馬橋稲荷神社と改めた。 境内の厳島神社。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
コメント(0)
新井天神を出た後に、道を渡って薬師柳通りから新井薬師へ参拝。 新井薬師として親しまれる梅照院は真言宗豊山派の寺院。山号は新井山。新井薬師は中野区で最も大きい寺院だけではなく、都内でも有名で、武相四大薬師として知られる大きい寺院だ。 山門。 不動堂。左右は水子地蔵とお願地蔵。 霊堂と聖観音像。 本堂。 永禄年間に入りし時、総州(相模国)より沙門行春(僧)が、行脚の途中に訪れた新井の村に来た。新井の村は、かつての争乱で四散し痛手を追った一族の定住の村であるが、村の人々は討伐し賊害した一族の臣の出の行春の出自に問わず、かつての痛みを水に流して行春を迎え入れた。 ご本尊は薬師如来、如意輪観音であるが。ご本尊の像は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体である。12年に一度、寅年のみに開帳される。御朱印も同じ形で書いてくれる。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が新井薬師の薬師如来に眼病平癒を祈願したら、たちまち回復したため、眼病治癒で有名になった。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
コメント(0)
相棒と別れた後に、都区内パスを最大限に活用したくて中野を降りた。 新井界隈まで歩いて、通称「新井天神」の北野神社へ参拝。創建の年代が不明。古くは天満宮でご当地に鎮座されてきた、あるいは天正年間(1573~1592)、新井薬師の開祖である沙門行春が建立したとも言われる。新井薬師とのかかわりで、新井薬師として知られる梅照院は新井天神の旧別当寺であったという。 正面の鳥居から拝殿への道の近くに撫で牛がある。天満宮、北野神社と言えば撫で牛だね。 祭神は学問の神様である菅原道真、また食物を司る保食神である。本殿と拝殿は令和御大典奉祝事業で2019年10月から改築・新築された。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大でたぶん工事が遅れたこともあったかな。相棒と一緒に参拝しに来た時は旧社殿だったが、その旧社殿は昭和23年に再建されたのだ。 境内社の大鳥神社。祭神は日本武尊。大阪府堺市にある大鳥大社を総本社とする神社である。諸国を平定した日本武尊は伊吹山の荒ぶる神と戦ったが、祟りで病となった。大和へ向かうものの伊勢でなくなった。陵が造られた時、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったというのは、大鳥大社の起源という。町の発展を願って大鳥大社から分霊を勧請した。毎年11月に、鷲や鳥にちなむ寺社と同じ、酉の市が開かれている。 境内社の稲荷神社。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
コメント(0)
一心から出た後に、いつものように喫茶店で相棒とお話しするが、途中に相棒の紹介で気象神社へ参拝。 日本唯一の気象神社は、高円寺氷川神社の境内にある。 高円寺氷川神社の公式紹介では、創建の由緒が3つの可能性があるってこと。まずは、源頼朝が奥州征伐の際にここに立ち寄り、安達藤九郎盛長に社殿の建立を命じた。また、源頼朝の奥州征伐に従った村田兵部といわれる人がここに留まり、武蔵国にある氷川神社本社の使者からの伝言を受け、現地に社殿を建立したともいう。そして、宿鳳山高円寺と同時期に開かれ、氷川神社はその別当寺という。御祭神は素盞嗚尊。 気象神社は、昭和19年(1944)4月、杉並区馬橋地区にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に建立された。軍にとって気象条件は戦略を講じるのに大事な要素であり、科学的根拠に基づいた予報がなされていたが、予報適中を祈願するなど、気象観測員の心のよりどころとされていた。戦後、神道指令で撤去されるはずだったが、調査漏れにより残存。高円寺氷川神社の先々代宮司の山本実が受入れを決断し、昭和23年(1948)9月に遷宮祭を斎行し、高円寺氷川神社に遷された。社殿老朽化が進んだため、遷宮五十五周年記念として、平成15年(2003)に再建され現在に至る。 祭神は、八意思兼命。『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記される。多くの人間の知恵を一同に結集させることができる「知恵の神様」である。また、かつて再び世界に「太陽」を取り戻し、世の中を救うことに成功したため「気象の神様」として祀るようになったとも言われる。八意思兼命はその名の通り「晴」「曇」「雨」「雪」「雷」「風」「霜」「霧」という八つの気象条件を司ることができるともされている。 裏にも稲荷神社がある。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
コメント(0)
DURAMENTEIを出た後に、すぐ職場へ移動しようと思ったが、近くに歴史のあるお寺があるので参拝してから出発しようと。 無事に、普門院を見つけ。真言宗智山派の寺院で、山号が福聚山。大永2年(1522年)に武蔵国豊島郡三原で開基されたらしい。元和2年(1622年)に現在の土地に移った際、船で釣鐘を運ぼうとしたところ、誤って隅田川に落としたが、引き上げることができなかった。これは鐘ヶ淵の地名の由来という。 境内が工事中なので、ご本尊の参拝ができない。ご本尊は大日如来であるが、もともと聖観音だったという。工事中のため、境内がかなり雑乱のようで、寺務所を見つけるのもちょっと難しい。唯一わかりやすいのは入り口にあり、明治期に活躍した歌人、小説家の伊藤左千夫の墓、および毘沙門堂である。 亀戸七福神の毘沙門天を祀る。ほかの七福神めぐりと同じ、ご開帳は7日までであるが、毘沙門天への参拝は通年でできるそうだ。ただし、住持が必ずいるとは限らないため、御朱印をいただけないこともある。また、境内の工事がなかなか進んでいないようで、廃墟とも口コミで言われているが、参拝できるってこと。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.05
コメント(0)
1月5日は年末年始と成人式の三連休の間に唯一の平日だ。ゆっくり参拝したいため大きい神社への参拝なら三ケ日を避けるとはわしの考え方だ。 というわけで、錦糸町を降り、歩行で亀戸天神社へゴー。 亀戸天神への参拝は、去年の1月13日以来だった。職場から離れる亀戸に来づらいので、通常なら年2回ぐらいで参拝してきたが、去年の勤務状況が結構やばかったので、1回しかできなかった。 参拝者が想像より少ないので助かった。 天気もいいので、スカイツリーもはっきり見える。藤棚の藤が開花すればもっと綺麗だね。 天満宮の総本社にあたる太宰府天満宮に対して、亀戸天神はは東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と呼ばれている。明治6年(1873)に東京府社となったため亀戸神社と号し、昭和11年(1936)に亀戸天神社となった。。 正保3年(1646)、太宰府天満宮の神官である菅原大鳥居信祐(菅原道真の末裔・亀戸天神社初代別当)は神の告げにより、天神信仰を広めるため諸国を巡り歩き、最後に江戸の本所亀戸村にたどり着いた。村には元々あった天神の小さな祠に神像を祀った。 明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめた。四代将軍徳川家綱は菅原天神を鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。寛文2年(1662)、太宰府天満宮に倣い、社殿や回廊など造営したのだ。 昭和52年菅原道真公神忌1075年大祭記念とし奉納された5歳の時の菅原道真の像。 鷽(うそ)の碑。昭和15年に奉納された。 摂末社の御嶽神社。菅原道真の教学上の師である延暦寺第十三代座主、法性坊尊意僧正を祀る。 寛文5年(1665)に太宰府天満宮心字池畔の志賀社を勧請した弁天社。七福神の弁財天を祀る。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.05
コメント(0)
三ケ日の三日目だが、やはり出勤。しかし、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で原材料の輸入が難しくなり、十分な数のご神体を揃えることができないため、去年に恵比寿様のご神体がいただけないという心残りで、北千住を降りた。 去年と同じ時計回りで千寿七福神めぐりを始めた。まずは仲町氷川神社へ参拝し、弁財天様の御朱印をいただいた。東都七天神として知られ、境内にある関屋天満宮にも参拝。 河原町稲荷神社へ参拝し、福禄寿様の御朱印をいただいた。 八幡神社へ参拝し、毘沙門天様の御朱印をいただいた。ここの八幡神社の社務所は普段人がいないようだ。口コミによると、この八幡神社と毘沙門天の御朱印をいただきたいなら、千寿七福神めぐりの時しかできないという。 千住神社へ参拝し、恵比寿様の御朱印だけではなく、恵比寿様の御神体も無事にいただいた。三ケ日の三日目なので、数が少ないとしてもなくなるわけがなかろう。 延長4年(926年)、伏見稲荷より分霊を勧請し、稲荷神社が創立された。八幡太郎源義家は、奥州征伐の際、荒川を渡り、現在の千住神社の所在地である二ッ森に陣営し、神前に戦勝を祈願したと記載されている。弘安2年(1279年)、武蔵国一ノ宮氷川神社より分霊を勧請し氷川神社が創立された。 明治5年(1872年)、両社は村社と定められ、明治6年(1873年)、両神社を合祀して西森神社と名を改めた。明治7年(1874年)、郷社と定められた。大正4年(1915年)、千住神社と改めた。東京大空襲で社殿が焼失されたが、昭和33年(1958年)再建された。千住神社はたぶん千寿七福神めぐりの中で境内が最も広いほうだ。 北千住から最も距離のある元宿神社へ参拝し、寿老人様の御朱印をいただいた。元宿神社は、甲州に住んでいた鈴木因幡守貞宗の長男蔵人が大永六年(1526)に武州安達郡への移住を経て陸羽街道「元宿」に転居し、その子である左エ門尉信義が、天正元年(1573)に当地を開拓し、翌年(1574)に八幡社を奉斎したのが起源である。 大川町氷川神社へ参拝し、布袋尊様の御朱印をいただいた。大川町氷川神社はたぶん千寿七福神めくりの中で境内が最も広い氷川神社だ。 最後は北千住駅に最も近い千住本氷川神社へ参拝し、大黒天様の御朱印をいただいた。10時半に過ぎたか、駅から最も近いか、参拝者がかなり多い。 武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染が緩和した最初の年末年始のため、七福神めぐりだけではなく、初詣の参拝客もかなり多いので、七福神の御尊像を完璧にシャッターで収めることができないのだ。 が、とりあえず無事にご朱印だけではなく、恵比寿様の御神体もいただいたので、七福神が揃った。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたい。 北千住駅→氷川神社(弁財天)→河原町稲荷神社(福禄寿)→八幡神社(毘沙門天)→千住神社(恵比寿)→元宿神社(寿老神)→五丁目大川町氷川神社(布袋尊)→千住本氷川神社(大黒天)→北千住駅、という時計回り、あるいは逆時計回りでめぐりするなら、終点が駅に近いため電車に乗るのが便利である。
2024.01.03
コメント(0)
上野大仏を出て、上野公園に戻ったら、すぐ清水観音堂の看板が見えた。 清水観音堂は、寛永8年(1631年)に寛永寺の開山、天海大僧正によって建立された。寛永寺は、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したため、建立された。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立したが、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖にと見立て、清水観音堂は京都の清水寺を見立て、建立された。 元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)年に現在地に移築された。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物である。平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現させたのである。清水観音堂に安置された千手観世音菩薩像は天海大僧正に奉納され、年始の1日から7日までのみ御開帳である。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
コメント(0)
上野東照宮を出た後に、上野公園から職場へ向かおうとしたら上野大仏の看板を見たので、参拝しようと思って、階段に登った。 寛永8年(1631年)に越後村上藩主堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立したのは上野大仏の始まりだが、幕末までに火災や地震に度々遭い、その都度で復興された。明治8年(1875年)、上野恩賜公園の整備に際して仏殿が撤去された。露座となった大仏は、大正12年(1923年)の関東大震災で頭部が落下してしまった。震災後、頭部と胴体は再建に備えて上野寛永寺に保管されていたが、第二次大戦時に軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、顔のみが残された。 胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で2000年代前半頃から受験生らが祈願するようになり、「合格大仏」と呼ばれている。 昭和42年(1967年)、関東大震災の50回忌にあたり、上野観光連盟が願主となり大仏再建を願う祈願塔(大仏パゴダ)が建立された。本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。御本尊は撮影禁止。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、命が「これ以上落ちない」ということで、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
コメント(0)
五條天神社を出た後に、そのまま根津方向へ向かった。わかりにくいが、今回地図をちゃんと見ているので、無事に上野東照宮への道を見つけた。 気づきにくい不忍口鳥居。明治6年(1873年)に江戸城内の紅葉山東照宮より移築された。 正面の鳥居なら上野公園から行ったほうがわかりやすい。 神門。参拝客よりも観光客が多いようだ。 唐門への道。天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に創建した多くの伽藍の中の東照社(寛永4年創建)が上野東照宮の起源だという。 正保3年(1646年)に朝廷から正式に宮号を授けられたため、「東照宮」となった。 金色の拝殿と唐門は慶安4年(1651年)に三代将軍家光の命令で造営替えられた。日光という遠いところへ参拝できない江戸の人々のために、日光東照宮に準じた豪華な金色殿を建立したという。唐門への道にある灯籠をはじめ、約250基の灯籠はこの造営替えで全国の大名から競うように奉納されたものである。創建当初の祭神は「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」であったが、今は、徳川家康(東照大権現)、徳川吉宗、徳川慶喜。上野戦争、関東大震災、東京大空襲でも無事だった上野東照宮は強運の象徴ともなった。 唐門の近くにある親子虎の石彫。作者・奉納時期は不明であるが、徳川家康の生まれ年の干支であるにちなんだ彫刻という。 神楽殿は明治7年に奉納されたもの。 五重塔は仏教の施設で本来東照宮所属であったが明治の神仏分離令により、現在の上野公園全域を寺地としていた寛永寺の所属となった。徳川将軍家の菩提寺として知られる寛永寺は上野戦争により焼失され、寺地の大半が公園用地として没収され、上野東照宮から離れた地で再建された。この五重塔は今東京都所管という。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
コメント(0)
覆麺・智を出た後に、職場の近くの寺院、神社へ初詣をしたくて上野界隈に来た。 去年も来た五條天神社へ。 前回は根津界隈から歩いてきた。今回は上野から歩いてきた。このため、初めて正面の鳥居から境内へ。 景行天皇在位の西暦110年ころ、日本武尊が東征のために上野忍ケ岡を経由した時、薬祖神の大己貴命と少彦名命のご加護をもらったことに感謝するため、創祀したという。室町時代で神社が五條天神と呼ばれるとされる。寛永18年に菅原天神が合祀された。寛永寺の境内拡張で南海に移転され、昭和3年(1928年)に創祀の地に最も近い現在地に遷座された。五條天神社は、薬祖神として医療・薬事関係者に尊崇されている。日本橋にある薬祖神社も五条天神社からお霊を迎えたのである。また、江戸三大天神として入れたこともある。 すぐ隣にある花園稲荷神社は五条天神社の兼務社であるが、創始の年月が不詳だ。ここは幕末の時に彰義隊の戦いにおける最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としても知られる。明治6年に再興され、花園稲荷と改称。 稲荷神社といえば赤い鳥居だね。 花園稲荷は縁結びのパワースポットとしても有名だ。 穴稲荷は旧社殿とされる。 伊藤博文による「神徳惟馨」の扁額も掲げられている。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
コメント(0)
会合の後に大掃除の一部が控えてあるのでそのまま帰宅。帰りの途中に秋葉原界隈を経由したが、気になるところがあるので、裏道へ。 すぐ講武稲荷神社を見つけた。講武とは講武所が由来したのである。黒船来航をはじめとした外国船の来航で、時の老中・阿部正弘は幕政改革・軍制改革の一環として築地に、役人、旗本・御家人およびその子弟が対象で剣術をはじめ、洋式調練や砲術などを教授する講武所を安政3年(1856年)に設置した。講武所は万延2年(1861年)に小川町(現在の神田三崎町一、二丁目)へ移転した。講武所があったことから、神田の花街も「講武所」と呼ばれた。 安政3年に大貫伝兵衛という人物が講武所附属地の払い下げを出願して許可が下りた。このため浅草橋場の長昌寺の稲荷を旅籠町に移し造営した。安政4年(1857年)に防災目的の火除地であった空き地に宇迦之御魂命を祭神として祀った祠ができたことは、講武稲荷神社の起源と伝えられている。なお、この空き地は次第に防災機能を損なわない程度の娯楽利用が認められるようになった。講武所設置の際に、付属地として徴収された利用料が講武所の運営資金となった。明治以降このあたりは花町が形成され、そこの芸妓たちは「講武所芸子」と呼ばれた。このため、講武稲荷は、神社のある地が火除地だったことから「火伏せの神」だけではなく、幕末以降発展されてきた花街によって「水商売の神」としても尊崇されるようになった。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2023.12.28
コメント(0)
職場へ行く途中に、妻恋神社の旗を清水坂下で見かけた。そろそろ年越の大祓の時期だね。 そのまま妻恋神社へ参拝。 日本武尊は東征で三浦半島から房総へ渡ろうとした時、大暴風雨に遭ったが、妃の弟橘姫が身を海に投げて海神を鎮めた。日本武尊は帰り道で妻を恋い慕う「妻恋明神」と号した。妻恋神社は、当時の野営陣地で行宮の後と言われる。祭神は倉稲魂命、日本武尊、弟橘姫命。江戸時代以降「関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」と伝えられ、「日本七社(日本七稲荷・日本七大稲荷)」の一つとしても知られる。 神社は元々妻戀台で、湯島天満宮の南東の台地にあったが、徳川家康が二町四方の社地を寄進。明暦の大火で現地に遷座。関東大震災、東京大空襲の時に焼失されたが、昭和29年再興。社務所は土日祝のみ対応ということで、御朱印、縁起物がほしいなら土日祝に参拝してください。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないもののせめて負けないように参拝いたした。
2023.12.16
コメント(0)
勤務時間までかなり余裕があるので、湯島界隈にある麟祥院へ参拝。 麟祥院は徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺である。入口の辺にある春日局の銅像は2019年10月14日に移設された。 山門の近くに「春日局終焉之地」の石碑もある。 庫裡の正面である。 本堂である。春日局が本郷、湯島に隠棲所となる寺院を建立しようと思うことを知った徳川家光は本郷湯島の土地を寺地として贈った。春日局は、寺院を「報恩山天沢寺」と名付け、寛永7年(1630)に渭川周劉禅師を住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺とした。寛永11年(1634)に春日局が渭川周劉禅師から法号を送られたことを喜んだ家光は春日局の法号をもって「天澤山麟祥院」と寺号とすることを命じた。春日局は寛永20年(1643)9月14日65歳で麟祥院で永眠した。 1887年には井上円了が、麟祥院における建物を借りて東洋大学の前身である哲学館を創立した。そのため、1987年に境内に「東洋大学発祥之地」の碑が建てられた。。 さらに中に入ると墓所となる。まずは佐倉堀田家の墓所。堀田正俊の正室で、稲葉正成と春日局の嫡孫稲葉正則の娘の墓である。 右側は山城国淀藩稲葉家の墓所。稲葉正成系稲葉家宗家の墓所ってこと。 左側は館山藩稲葉家分家の墓所。初代藩主の稲葉正明は、淀藩8代目藩主稲葉正親の三男として生まれ、10代将軍徳川家治の小姓となり、のち御側御用取次をはじめ要職を歴任してきた。田沼時代で田沼意次に同調していたため加増され、天明元年(1781)に1万石の大名、安房館山藩主となり、天明4年(1784)に越前守に叙任され、天明5年(1785)に3000石を加増された。家治の死去で田沼意次が失脚すると、田沼派の排除を図る松平定信によって幕府中枢から排除されたが、館山藩稲葉家の存続は許された。稲葉正明は寛政元年(1789年)に家督を四男の正武に譲って隠居し、寛政5年(1793年)に死去した。享年71。 春日局の墓所の隣は、稲葉正則の正室で、毛利秀元の娘である正厳院(万菊)の墓である。 正面は春日局の墓所である。一番立派なものである。
2023.12.06
コメント(0)
駅へ向かう途中に常盤橋公園へ寄り道。 公園には日本資本主義の父と称される渋沢栄一の銅像が建てられる。渋沢栄一が第一国立銀行(現・みずほ銀行)の創設や東京株式取引所(現・東京証券取引所)の設立などの事業にかかってきたので、日本橋界隈では渋沢栄一ゆかりの場所が多い。第一国立銀行の跡地に建てられたみずほ銀行兜町支店や東京証券取引所のある道は渋沢ロードと呼ばれている。 公園には国指定史跡「常盤橋門跡」の枡形石垣の一部が保存されている。 国指定史跡「常盤橋門跡」の枡形石垣の一部のその二である。
2023.11.27
コメント(0)
「日本橋 らぁ麺 めだか堂」を出た後に少し散歩しよう。 すぐ近くにある白旗稲荷神社へ参拝。 創建年代は不詳であるが、新編江戸誌によると、和銅4年(711年)に鎮座したという。また、前九年の役か、後三年の役かわからないが、源義家が奥州へ向かった時勝利を祈願して白旗を立てたことが始まり、とも言われる。日本橋本石町3丁目周辺(福田村)の鎮守社として祀られていたが、関東大震災の後に旧日本橋区本銀町へ遷座し、さらに昭和49年1(1974年)、東北・上越新幹線の線路敷設に伴い現在地に遷座した。令和3年(2021)の改修では、ライトアップを行ったため、夜間でも常時参拝ができるようになった。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないもののせめて負けないように参拝いたした。
2023.11.27
コメント(0)
リクエストで唯一の平日の休日だが、松戸駅からやや距離のある戸定歴史館に来た。 ネットではいろんな組み合わせと書いてあるが、この看板、および戸定歴史館のオフィシャルサイトからみれば、戸定歴史館は、戸定が丘歴史公園、戸定邸と庭園、歴史館(博物館)、松雲亭(茶室)から構成されると考えたほうがよさそうだ。 正面の入口である。 入口のすぐ近くに置いた紹介。戸定邸は、徳川第十五代将軍慶喜の弟、水戸藩第11代藩主で、つまり最後の藩主であった徳川昭武が造った別邸である。松戸は江戸時代で江戸と水戸を結ぶ水戸街道の宿場町である松戸宿として知られ、水戸光圀ゆかりのスポットも結構ある。しかも、あの伝説の時代劇、「水戸黄門」第1部の第1話の最後は、水戸光圀(東野英治郎)、助さん(杉良太郎)、格さん(横内正)ご一行が松戸宿で藤井紋太夫(佐藤慶)に放された刺客に襲われたという話であった。 吉沢亮主演の大河ドラマ「青天を衝け」で徳川昭武を演じた板垣李光人は、番組の放送期間中に戸定邸に訪ね、徳川昭武がよく座っている廊下にも座り、写真の撮影を受けた。このポスターは戸定邸であちこち貼ってある。 戸定邸とその庭園は、国の重要文化財として指定されている。 戸定邸の入口。 戸定邸の庭園。 戸定邸も関東の富士見百景に選定されており、無料で見学できる東屋庭園の東屋から富士山が見えるが、高層ビルの建設で今見づらくなってしまった。東屋庭園の周りに与謝野晶子が書いた和歌の歌碑も建てられている。 明仁上皇も天皇時代で今の上皇后と一緒に戸定歴史館へ訪ねたことがある。 戸定歴史館はいろんな展示を定期的に行う。来年1月8日まで、企画展「徳川公爵家のバックヤード ― 最後の家令が見た半世紀」が開催される。これから時間があればまた見学しに来たい。
2023.11.23
コメント(0)
リクエストで唯一の平日の休日なのに柴又に来た。 駅前にすぐ『男はつらいよ』の主人公である「フーテンの寅」こと車寅次郎、つまり寅さんの銅像が見えた。1999年に建てられ、フーテンの寅さんの像とも言われる。 すぐ近くに旅に出る寅さんを見送る妹のさくらさんの像も2017年に建てられた。 柴又の観光案内所の前にも寅さんのマスコットがある。 柴又帝釈天への参道。近くの常夜灯は寅さんを演じた渥美清が寄贈したものである。 すぐ近くにも山田洋次監督直筆の石碑が建てられている。 少し歩いたら、通称柴又帝釈天の題経寺のの二天門が見えた。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大が緩和されそうで、地方のツアー客だけではなく海外の観光客も多いようである。授与所の会計も手渡しではなく、コンビニに設置された精算機で自分で行うのである。 題経寺は寛永6年(1629年)に禅那院日忠上人によって開山された。日忠上人の弟子であり、第二代題経院日栄上人が実際の開基である。題経寺には、日蓮聖人御親刻と言われる帝釈天のご本尊が安置されていたが、江戸中期に所在不明となっていた。しかし、安永8年(1779年)の春、第九代亨貞院日敬上人が本堂改修中の梁上にご本尊を発見した。庚申の日にご本尊を見つけたため、庚申を縁日と定めた。日敬上人は帝釈天の板本尊を背負い、天明の飢饉、疫病に遭った江戸の意図立ちに拝ませ、不思議な後利益を授けたという。 帝釈天は、帝釈天は仏教の天部の守護神だけではなく、その最高位に属する。正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神様。ご利益は、戦勝祈願、国家安泰の高徳があり、災難から守られ立身出世や蓄財が出来るとされている。ただし、独尊となることがほとんどないそうだ。そのため、題経寺のように帝釈天をご本尊として祀るとは珍しい。なお、公式HPでは、御本尊を帝釈天としているが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する大曼荼羅である。また、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王は帝釈天に仕える。柴又七福神の毘沙門天(多聞天)の像は帝釈天の隣に置かれる。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントから守っていただきたく参拝した。
2023.11.16
コメント(0)
本郷の職場に出勤する前に湯島天神へ参拝。 境内には、第45回菊まつりが11月1日から22日まで開催される。 今回の菊人形はNHK大河ドラマ「どうする家康」の信長、家康、瀬名である。やはり有村架純ちゃんは可愛いね。
2023.11.15
コメント(0)
買い物を済ませた後に、帰宅するために赤坂駅へゴー。 途中に赤坂不動尊へ参拝。 江戸時代で紀州徳川家の祈願寺になっていた。 御本尊は立派な建物の1階に祀られている。ご朱印は二回の事務所でいただくことになる。 延暦24年(805年)に、伝教大師最澄が唐より日本へ帰国の途中に暴風雨のため船が沈みそうになり、その際に自作の不動明王を海に沈めて祈願し、無事帰国した。天安2年(858年)、越後国三島郡出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)の漁師はこの不動明王像を発見して祀った。永承6年(1051年)、源頼義が戦勝を祈願し、康平6年(1063年)に霊験を感じて下総米沢(現在の千葉県香取郡神崎町)に不動明王の御尊像を迎えた。鎌倉時代の文永11年(1274年)、執権北条時宗が文永の役に戦勝祈願したことで寺は興隆した。慶長5年(1600年)、住僧良台は御本尊の夢のお告げによって、現地へ寺を移転させ、開山した。御府内八十八ヶ所霊場75番札所でもある。
2023.11.13
コメント(0)
飯田橋界隈の職場の勤務が終わった後に、買物のために赤坂へ。いろんな場所に支店がある電気屋だが、帰宅のルートなど考えれば赤坂のお店へ行ったほうがよいのだ。 その前に久しぶりに、豊川稲荷東京別院へ参拝。本ブログを始めたばかりの時にもここを紹介したことがある。 本殿。 大岡越前守忠相公御廟。 恵比寿。入口の近くにある。 大黒堂と大黒天。 布袋尊。 摩利支天。 毘沙門天。 福禄寿。 弁財天。 寿老人の像を見当たらない。しかもご朱印の授与は午後3時まで。時間の関係で帰らなくてはならないが、また参拝しにくる。
2023.11.13
コメント(0)
薬祖神社を出た後に、近くにある福徳神社へ参拝。 日本橋の一等地に立派な鳥居が建てられている。福徳稲荷、芽吹稲荷(めぶきいなり)とも称される。 明らかではないが、清和天皇の貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされる。日本橋室町二丁目界隈は、当時福徳村と呼ばれていた。当地の稲荷神社として祀られたため、地名で福徳神社を社号としたという。また、江戸幕府二代将軍徳川秀忠が、慶長19年(1614年)の正月28日にここへ参詣した際、椚の皮付き鳥居に、春の若芽の萌え出でたのを見て、福徳神社の別名である「芽吹稲荷」を名付けたとされる。 古くから源義家をはじめ武将の信仰が厚い。徳川家康は江戸入府した天正18年(1590年)の8月に参拝してから数回参拝しに来た。徳川秀忠は元和5年(1619年)2月に江戸城内の弁天宮を福徳神社に合祀し、自ら神霊を納め、大和錦の幌を奉納し、社地を333坪余と定めたのである。 関東大震災後の区画整理により日本橋区室町2丁目4番地に遷座、昭和48年(1973年)1月に中央区日本橋室町2丁目4番14号に遷座し、平成18年(2006年)、日本橋室町の再開発による建て替えに伴い、4度目の遷座となった。平成26年(2014)に今の社殿が竣工したのである。 主祭神は倉稲魂神『宇迦之御魂神』、相殿は天穂日命、大己貴命【大国主命】、少名彦名命、事代主命、三穂津媛命。江戸時代前に合祀は太田道灌、江戸時代に合祀は弁財天、徳川家康『東照大権現』。
2023.11.13
コメント(0)
「REGISTA 日本橋店」を後にし、出勤のために三越前駅へゴー。 途中に薬祖神社へ参拝。東京薬事協会の公式HPによれば、明治41年(1908年)に、東京薬事協会の前身にあたる東京薬種貿易商同業組合が、東京上野の五條天神社から薬祖神の御霊を迎え大祭を執行し、昭和4年(1929年)に事務所建物の屋上に薬祖神社の初代社殿)を造営し、昭和58年に昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿を造営し、平成28年(2016年)に福徳の森へ第三代目の薬祖神社を遷座したという。御祭神は、大己貴命、少彦名命。御利益は、無病健康、病気平癒。
2023.11.13
コメント(0)
月曜日なら飯田橋界隈の職場へ出勤するが、その前に近くとはいえやや距離のある平河天満宮へ参拝。 年始以来の参拝だね。 江戸平河城城主太田道灌はある日に菅原道真公の夢を見、さらに翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたため、その夢を霊夢であると思い、文明10年(1478年)に城内の北の梅林坂に天満宮を建立した。オフィシャルサイトの紹介によると、徳川家康が江戸に入城した間もなく、築城のため、平河天満宮を平川門外に奉遷し、二代将軍秀忠が慶長12年(1607年)に、貝塚(現在地)へ奉遷したという。平河町という地名も平河天満宮にちなんで名付けられた。平河天満宮は幕府をはじめ、紀州・尾張徳川家、井伊家等の祈願所でもあった。新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。主祭神は贈太政大臣贈正一位菅原朝臣道真公、相殿は誉田別命(八幡宮)、徳川家康公(東照宮)である。 境内には平河稲荷神社がある。創建や由来は不明であるが、宇迦之御魂神を祭神とする稲荷は徳川家康の江戸入府の前からすでに平河天満宮の境内社として祀られていたかもしれぬ。 稲荷神社の隣に設置された「筆塚」は嘉永5年(1852年)2月の菅原道真公950年忌を記念して作成・奉納されたものである。表記の文字は禅庵蟻道により書かれたという。 正面の鳥居の近くに境内社の三殿宮がある。祭神は、日本武尊命、豊斟渟神、木花開耶姫命である。
2023.11.06
コメント(0)
「らーめん亭 ひなり竜王」を出た後に、京急蒲田駅へ向かう。 立派なお寺を見かけた。密乗院という。 歴史がありそうなお寺なので参拝。本尊は不動明王だというが、しまったままだ。 帰宅後に調べたら、玉川八十八ヶ所霊場第な七十七札所であり、承久年間(1219年~1222年)、真栄によって開創されたお寺であるという。徳川家康が狩に来て、ここに休んだとの伝説もある。
2023.11.02
コメント(0)
ラーメン大木戸から出たら、まだ時間があるので、狙っている三軒目のお店へゴー。もし行列ができていればあきらめるってこと。 途中に結構古い神社を見つけたので参拝。大森界隈にも八幡神社があるとは思わなかった。 ネットの情報によると、大森八幡神社は建武年間(1334〜1336)の創建と伝えられているが不明であるという。御祭神は、品陀和気命、つまり、応神天皇、誉田別命ということである。 境内社は火伏稲荷。 稲荷様の賽銭箱が珍しい形だと思ったら黒猫が寛いでいるってことだった。後に調べたら、大森八幡神社の境内で猫が多いようだが、今日この子としか出会っていない。
2023.11.02
コメント(0)
勤務が終わった後に手土産を買うために御徒町へ。 ちょうどいいタイミングなので、徳大寺へ参拝。寛永年間に日遣上人によって創建され、仏教の守護神である開運大摩利支尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも呼ばれる。寺宝として奉安する摩利支天像は、宝永五年(1708)9月安置され、関東大震災、東京大空襲の際に本堂が火災で焼失されたものの無事であった。摩利支天は、「厄を除き、福を招き、運を開く」の神様である。中世以降、武士階級では守護神として摩利支天への信仰が広まり、楠木正成、足利尊氏、毛利元就、立花道雪、山本勘助、前田利家、立花宗茂、徳川家康などの武将も摩利支天を信仰したと言われる。本堂正面の扁額「威光殿」は吉田茂・元総理大臣の揮毫である。もともと自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちにやられているので、摩利支天のご加護をいただきたい。
2023.07.26
コメント(0)
いつものように土曜出勤だが、出勤の前に湯島天満宮へ参拝。 今週木曜日から日曜日にかけて湯島天神の例大祭が行われる。湯島天神の周辺にすでに多くの出店が出展される。 見物の外国人の客も多いようだ。 参拝の客も多い。学問の神様に自分を、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントから守っていただきたくて参拝いたした。 去年に完成した神輿。去年の例大祭は新型コロナの影響で規模縮小で行われた。このため、神輿の担ぎがなかったのだ。ある意味で普通の生活で過ごすことになったため今年の例大祭が無事に行われることになった。
2023.05.27
コメント(0)
太田姫稲荷神社を参拝した後に、出勤のために靖国通りへ進んだが、途中に小川町界隈へ寄り道しよう。少し歩いたら、五十稲荷神社を見つけた。 神社の正式な名称は栄寿稲荷神社である。五十稲荷は通称。創建年代は不詳であるが、慶長年間に既に伏見稲荷大社から分霊を勧請して祀られてきたらしい。正徳年間でここが戸田長戸守邸となるが、屋敷神として祀られてきた。戸田家は足利に祀っていたお稲荷様を合祀したということで、「栄寿稲荷」と称されるようになった。五と十の日に月次祭が行われ、一般参拝が許された。明治時代になり、戸田家が転居した後も五と十の日に縁日が行われた。このため、「五十稲荷(ごとういなり)」と呼ばれるようになった。今の社殿と社務所は、令和3年で竣工されたものである。 公式ツイッターとインスタで限定御朱印の情報を発信している。出勤しなくてはならないため書置きをお願いしたが、社務所で手書きを待つ方も多い。限定の御朱印の人気も高いようである。ところで、参拝せずに御朱印をスタンプのように集める外国人もいたので残念。
2023.05.15
コメント(0)
月曜日だから飯田橋界隈の職場へ出勤するが、今日はちょっと気分転換のためルートを変えよう。 新御茶ノ水を降り、少し駿河台界隈に進んだら、太田姫稲荷神社が見えた。室町時代の末頃、関東一帯には天然痘が流行していた。太田道灌の姫もその病いに罹ってしまったが、京都の一口稲荷神社が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、姫は全快したという。のち寺社奉行にもなった太田道灌は、相模国の守護上杉定正の命により江戸城を築く時、その鬼門(鬼の出入りする方向、即ち東北、江戸城を基点とすると私たちの地がその方角になる)除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を勧請した。徳川家康の江戸入府後の慶長11年(1606年)に城外鬼門にあたる神田川のほとりに遷座した。明治5年に村社と定められ、名も太田姫稲荷神社と改めたが、大正12年の関東大震災において社殿が焼失され、湯島天神に避難した。昭和3年に再建された。昭和6年に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、現地に遷座された。 御朱印はないが、スタンプ台に3種類のスタンプ、赤と黒などの色の朱肉が置いてある。セルフでスタンプを御朱印帳に押すということである。
2023.05.15
コメント(0)
無事に飯田橋界隈の職場の勤務を終えた後に、池袋界隈へ移動。 時間的に結構余裕があるので、池袋駅を降りた後に、やや距離のある子安稲荷神社へ参拝。 子安稲荷神社の創建の時期がわからないが、天正以前から既に現在の地に奉斎されていたと言われる。安土桃山時代の前期でこの辺りは徳川氏の家臣である斎藤惣左衞門という旗本の領地となった。ある日惣左衞門が領内を視察した時に急な雷雨に見舞われた。そこで、稲荷の使いという老人が現れ、雨宿りができる社に案内された。惣左衞門は老人より、稲荷の社祠を再建したならば、領内の五穀豊穣が約束され、災いからも守られるというお告げを聞き、社殿を建立したという。また、正徳 5 年(1715 年)にこの辺りで疫病が流行したが、この稲荷神社により、多くの子どもたちが病から助かったため、「子安稲荷」と称えられる。 なお、限定の御朱印情報を公式ツイッターと公式インスタグラムで発信している。
2023.05.08
コメント(0)
タクシーでJR足利駅から東武鉄道の足利市駅へ移動するが、運転手に依頼し、寄り道で行くことになった。 最後のスポットは『渡良瀬橋の歌碑』だ。渡良瀬橋と言えば、森高千里が唄った名曲だ。足利市は、渡良瀬川によって南北に分かれているため、12本の橋で南北の連絡をしている。その一つは渡良瀬橋だ。森高千里は渡良瀬橋の周辺を散策し、そのイメージを使って、『渡良瀬橋』の歌詞を書いた。森高千里はこの大ヒット曲で足利市から感謝状を贈られ、2015年に足利市から「あしかが輝き大使」に任命された。2007年に、渡良瀬橋と夕日が共に見える場所に歌碑が建立された。『渡良瀬橋』のメロディも東武鉄道の足利市駅、JR足利駅に使われている。まだ夕方になっていないが、帰宅の電車の関係でこの時間帯でしか来れないため、このような感じで写真を撮った。
2023.05.02
コメント(0)
足利学校を出た後に、さらに町内へ進んだら、鑁阿寺への指示が見えた。鑁阿寺はもともと足利氏の祖、源義康が構えた足利氏の居館であった。元々砦、城の機能を持つ寺社は戦国時代にかけて結構多かった。実際に寺は境内の周りに土塁と堀がめぐっているため、鎌倉時代の城の面影が見えると言われる。2006年に「足利氏館」として日本100名城(15番)として選出される。 楼門、つまり山門は栃木県の県指定文化財であり、足利幕府十三代将軍足利義輝によって再建されたものである。両側の仁王像は桃山時代の作品。写真を撮るためのスペースがないので、仁王像の写真を撮らないことにした。 本堂。2013年に国宝として指定される。源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、血縁的に近い河内源氏の一族でもあり、以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあったため、足利氏の二代目である足利義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた。源頼朝が源氏の一族を次々に粛清すると、足利義兼は建久6年(1196年)に出家し、翌年に居館で持仏堂を建てたことで鑁阿寺を開基した。足利氏は義兼がなくなった後に鎌倉幕府での地位が低下してきたが存続できた。三代目の足利義氏は伽藍を整備し、方5間の大堂を建立したが、大堂は1129年の火災で焼失された。今の本堂は、室町幕府の初代征夷大将軍尊氏の父、貞氏が正安元年(1299)に再建したものである。 中御堂(不動堂)。足利市の指定文化財。 一切経堂。足利義兼が創建したものであるが、現存の経堂は1407年に関東管領足利満兼により再建されたもの。国の指定重要文化財 多宝塔。栃木県の県指定文化財。足利義兼の創建と伝えられ、元禄5年(1692年)に江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が再建したものである。 鑁阿寺の近くに足利尊氏の像が建てられる。 JR足利駅の近くに太平記館がある。平成3年(1991)放送された大河ドラマ「太平記」放映を記念にして建てられ、足利の観光案内や土産品の販売など行い、足利地域のお菓子やオリジナルグッズ、加工品などを取り扱う施設である。中に「太平記」の主演を務めた真田広之(足利尊氏役)が撮影中に着用していた鎧も飾られている。
2023.05.02
コメント(0)
時間的にはかなり余裕があるので、電車で足利駅に戻った後に近くにある足利学校へ見学。足利学校は日本で最も古い学校として知られる。創設の時期に関しては、奈良時代か、平安時代か、鎌倉時代か、室町時代かという様々な議論があるが、室町時代から戦国時代にかけて関東地方における実質的な最高学府であった。天文18年(1549年)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、ここを「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介した。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろした。1921年(大正10年)3月3日、「足利学校跡(聖廟および附属建物を含む)」として国の史跡に指定された。 正面の入口は入徳門という。 入徳門に入ったすぐ近くのところに孔子の像が建てられている。向かいは切符売り場と事務所である。 入口の近くにある「正一位霊験稲荷社」は、現在学問の守り神「足利学校稲荷社」として信仰を集める。御朱印とお守りなどは、切符売り場で授与される。 学校門である。 教壇門。 教壇門のすぐ近くに大正天皇が皇太子時代で手植えだ木である。 孔子廟である。孔子座像と小野篁公像が中に設置されるが、入れない。 中にも、明仁上皇と上皇后が天皇・皇后時代でここへ行幸した時に手植えの木がある。 衆寮である。僧房または学生寮として使われた。 方丈、書院、庫裡の建物。中に今展示コーナーが設置される。また、東照宮大権現、すなわち徳川家康の位牌、および徳川家三代から十一代将軍までの位牌が安置される。 足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903年)3月に足利学校遺蹟図書館が発足され、大正4年(1915年)に現在の建物が完成され、開館した。 「足利学校中興の祖」として平成2年(1990年)中興550年祭の際に設置された「上杉憲実公顕彰碑」である。
2023.05.02
コメント(0)
連休中の平日だが、足利市へ。 今日のメインは、あしかがフラワーパークへの花見だ。通常ならフジはこの時期で満開しているが、天気が変なので、すでに散り始めたって感じ。残念だが、わしはこの時期しか来れないので仕方ない。なお、恋人の聖地サテライトの認定を受けているが、わしはそのような目的でここに来たわけではない。 また、あしかがフラワーパークの藤棚「奇跡の大藤」は足利市堀込町(現:朝倉町)から現地へ移植されたが、大藤(当時樹齢130年)の移植は前例がなかった。この移植は日本で初めての成功例となった。さらに、「奇跡の大藤」は、『鬼滅の刃』で鬼を退治する組織「鬼殺隊」になるための「最終選別」の地として登場し、藤の花が咲き誇っている「藤襲山」とそっくりしたため、『鬼滅の刃』の聖地としても知られる。
2023.05.02
コメント(0)
小石川大神宮へ参拝した後に、道にわたって、少し進み、さらに坂道へ登ったら、「牛天神 北野神社」に到着。1184年(元暦元年)に源頼朝が創建したという。この界隈にあまり来ないので、今日は3回目の参拝だ。 源頼朝は当地にあった岩にに腰掛けて休息した時、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ、「二つの幸がある。満足が得られたら社を営んで報いよ」と告げられた。その後、1182年(寿永元年)に嫡男の頼家を授かり、1183年(寿永2年)に後白河法皇から宣旨を賜わって東国の支配権が認められたという二つの幸を得た。1184年、頼朝は太宰府天満宮を勧請し、この岩を奉り牛天神を創立。 このため、境内にある牛の形をした岩を撫でると願いが叶うという。 牛天神は公式ツイッターで限定の御朱印情報を発信している。牛天神は月ごとで限定の御朱印、祭りを行う日や行事の日などで限定の御朱印を授与しているため、神社巡りの方々の間にかなり人気がある。ところで、牛天神は、御朱印と御朱印帳の転売を防止するための対策も今までわしが参拝したことのある神社の中で最も厳しいほうだ。まず御朱印は手書きのみ。また、御朱印帳を授与したい場合、スタッフの監視で御朱印帳に名前を記入しなくてはならないのである。
2023.05.01
コメント(0)
櫻木天神を出た後に、後楽園方向へゴー。20分ぐらい歩いたら、小石川大神宮に到着。初めてここへ参拝するのだ。 丸勝佐佐木土木株式会社の創業者であり、神宮崇敬者総代となった佐佐木勝造の提唱によって創建された神社である。伊勢神宮より海外公民団の申請でのみ授与される皇大神宮特別神璽を異例で授与されたため、東京における伊勢神宮の遥宮(とうのみや)として位置づけられている。公式インスタグラムで限定御朱印の情報も発信している。
2023.05.01
コメント(0)
「銀座 らーめん 一郎 神田分店」から出た後に、本郷の職場へ仕事する。 その前に、職場の近所にある櫻木天神へ参拝。 櫻木天神は、文明年間に太田道灌が江戸築城の際に北野天神をに勧請したものである。江戸幕府になって二代将軍徳川秀忠の時代に湯島の台坂上なる旧桜の馬場の地に遷座され、櫻木神社と名付けられた。五代将軍徳川綱吉が同所に湯島聖堂を中心とする昌平坂学問所を設立するにあたり、1691年に現在地に遷座したという。
2023.05.01
コメント(0)
西武池袋本店から出た時、勤務時間までかなり余裕があるので、西池袋界隈で散歩しよう。 住宅街で少し歩いたら、池袋御嶽神社に到着。 創建年代不明であるが、天正年間の可能性が高いらしい。また、武田勝頼の家臣団が甲州征伐の後に甲州から池袋の地に逃れ、ここに神社を造営したという伝承も残っている。貞享四年(1687)に社殿創建とは確実らしい。元々社名は三嶽神社だったが、昭和13年(1938年)に村社に昇格した際に、御嶽神社へ改められた。 倭建命、神武天皇、武甕槌命を祀り、池袋西口界隈の鎮守である。主祭神の倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)、ヤマトタケルは神話で倭姫命(やまとひめのみこと)から三種の神器の一つである天叢雲剣/草薙剣(くさなぎのつるぎ)を与えられ、威霊によって駿河の野火の災難を逃れたため、から災難除・厄除・防火にご神徳があると伝えられている。 北池袋に鎮座する神社と同じ名前の子育稲荷神社は、子育て・子授け・安産に崇敬を集めたという。 平成14年(2002)に境内で設置された梟親子像。池袋の袋と鳥の梟の発音が良く似ている。また梟は苦労を除き福を呼込む(不苦労・福籠)神様とも言われるため、近年梟のお守りも授与している。
2023.04.17
コメント(0)
北野神社から出た後に、京急蒲田駅を経由し、反対方向へ。 少し歩いたら、蒲田八幡神社に到着。 御祭神は誉田別命(応神天皇)である。登記上の宗教法人名称は八幡神社であり、もともとの名前は新宿八幡神社であった。創設の年は不詳である。蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として、薭田神社から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分霊した。新宿分村は慶長の頃か平安末期か鎌倉初期か決定的な史料がない。神社のお由緒によれば、諸般の事情を推論して、慶長五年を新宿分村、当社御鎮座とさだめ、平成十二年に御鎮座四百年祭を執行したという。やはり戦災により社殿は焼失されたが、再建され、戦後復興していく蒲田の中心になった。このため、ため、昭和24年8月、新宿八幡神社を改め「蒲田八幡神社」と改めた。 蒲田界隈で最も大きい神社だし、蒲田が外国人観光客が乗り換えのためによく来る待ちでもあるので、今日神社へ参拝しに来た外国人も結構いた。 通常のご朱印は書き入れと書置きで授与するが、桜の季節に限定のご朱印も書置きで授与する。今日参拝した御園神社、女塚神社、椿神社、薭田神社、北野神社を兼務するため、兼務社の書置きのご朱印も授与する。
2023.04.06
コメント(0)
大木戸から出た後に、京急蒲田駅界隈へゴー。 天神橋から吞川を渡ったら、北野神社に到着。 神社のフルネームは、蒲田井府北野神社という。寛文元年(1661年)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社が奉斎された。呑川の洪水によって、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体は度々流され、再三にわたり北蒲田新宿南の杉原重右衛門宅前に留まった。その都度天神森に返したが、七度目にいたり、嘉永2年(1849年)矢口村と交渉して、杉原家地内の諏訪神社の傍らに社を建てて安置した。明治時代になって、諏訪神社と合祀して北野神社と総称することになった。境内は杉原家より奉納された。昔は呑川の北側にあったが、改修工事によって南側へ移された。 自分の業界における台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴に心身をやられているし、おそらく将来の道も塞がれた。業界全体でも、この「偽神様」をかばおうとしている。そのため、学問の神様である天神様のご加護があれば少なくとも命だけ守ってもらえるかと思い、できる限り天神様へ参拝したくて参った次第だ。
2023.04.06
コメント(0)
椿神社から出た後に、逆方向で大道へゴー。 すぐ薭田神社に到着。椿神社へ向かっている途中にすでに神社の場所が確認できた。 創設は和銅2年(709年)か貞観6年(864年)かあいまいである。御祭神は誉田別命、天照大神、武内宿禰命、荒木田襲津彦命、春日大神である。社名はもともと「蒲田神社」であったが、誤写しで「薭田神社」になったと言われる。しかも読み方は「ヒエタ」か、「ヒエダ」かわからないようである。いずれにせよ、境内がかなり広い神社である。
2023.04.06
コメント(0)
女塚神社から出た後に、京急電鉄の梅屋敷駅界隈へゴー。 住宅街へ進み、京急電鉄の線路へさらに近付いたら、椿神社の鳥居が見えた。 創祀は不祥であるが、百日咳の治癒に御神験あらたかなりとして、古くより土地の人の信仰の厚い神社である。御祭神は猿田彦命である。猿田彦命は道案内の神であり、道陸神、道祖神として村の境を守る関の神であるが、咳の神と信仰されるようになったと思われる。椿神社には、風邪をひき咳が出る時、額堂に掛かっている麻を戴き首に巻き、治ると麻を二倍にして額堂に納めて感謝し、線香も供えるという神仏混淆の特異な習俗が現在まで残っているという。
2023.04.06
コメント(0)
「しなそば 天味」から出た後に、そのまま近くにある女塚神社へ。 創建年代は不明である。昔蒲田駅の近くにあり、「八幡社」と呼ばれていたが、1888年(明治21年)に鉄道建設により、古墳「女塚」がある現在地に移転し、「女塚神社」へ改称された。 鎌倉の足利方が新田義興の暗殺を謀って、義興の臣下であった竹沢左京亮を義興側に送った。少将局という女性は義興公に文を届けて、夢見が悪いから七日間は外出しないようにと招待に応じないよう伝えたが、竹沢に殺され、亡骸がそのまま捨て置きされた。里人がこれを憐れんで祀ったのが女塚であるという。
2023.04.06
コメント(0)
全186件 (186件中 101-150件目)