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さて、ぼたもちの2つめは「東叡山」の名称。長らくの読者様で記憶力のいい方は、何を今さら・・・って思うでしょうが、「東叡山寛永寺」で一般的に紹介されるのは、天海が「東の叡山」を造ったというもの。ただ、わたくしが知る限りでは寛永寺を紹介している歴史ファンの中で寛永寺以前に関東に東叡山が存在していたことを知る人って案外少ないように思う。史跡めぐりの記事をアップする自称・歴史ファンなんて、自分で検証や考察をすることもなく、他人の文章をほとんどコピーしてるくせにさも自分が書いてますって形態の人が多いからな。おっといかん、つい毒が寛永寺以前の東叡山は、仙波喜多院。もともと喜多院・・・つか、北院が属する無量寿寺は「星野山」だったのが、慶長18年(1613)に東叡山の号を賜った。が、その後寛永寺ができて東叡山の号を遷したので、喜多院はもとの星野山に戻った。ここまでが過去の記事で紹介してきたもの。ところがですね、無量寿寺以前にも「東叡山」の号を持つ寺が関東にもあったんですよ。これにはマジたまげましたね~。しかも、そちらの東叡山は今もって「東叡山」だというんです。そのもうひとつの東叡山は、埼玉の桶川にある泉福寺。正式名称を東叡山勅願院円頓房泉福寺といいます。泉福寺の歴史は古く、慈覚大師円仁様が天長6年(829)に開山したと伝えられ、無量寿寺よりも長い歴史を持つ古刹です。わたくしが泉福寺の存在を知ったのはほんの数日前のことで、年内いっぱいで切れる東武のタダ券消化のために円仁さんゆかりの寺でも行こうかな~とご飯を食べながら叡山のおじさんにもらったムックをぱらぱら見ていた時でした。「円頓房」とはいかにも天台らしい名称ですが、「勅願院」というのは淳和天皇の勅願によって開山されたという朝廷とのゆかりを示すもので、「東叡山」の方は鎌倉期に中興されて以降の山号だそうです。なんでも、源平の乱の時にまきぞえ食って荒廃していたのを叡山の僧・信尊さんが中興したそうで、ついで信尊さんの弟子・尊海さんは無量寿寺の中興をしたことから、泉福寺が関東天台の祖山としてあおがれて東の叡山を名乗ることになったという流れらしいのですが、イエアスが入府した際には五石の朱印状をもらったものの、 【朝廷とのゆかりの深さから領地を与えるという徳川幕府の使いからの申し出を 拒んだこともある。】 (「慈覚大師円仁と行く ゆかりの古寺巡礼」より)という関東天台の中心らしい、気骨のあるお寺だったようです。しかし、天海だけを見ていると「東叡山」てものすごく重要な意味を持つ号なのに、一体これはどういうことなんだ?仙波と桶川なんて近いんだし、関東天台の中心だったらなおさら、天海が泉福寺のことを知らなかったハズもなし・・・ウィキペディアには、泉福寺は戦国時代の永禄3年(1560)兵火で焼失し、江戸期の正保4年(1647)に復興されたとある。天海の死から4年経ってのことだった。復興前がどの程度すたれていたのかがわからないので何とも言えない部分はある。ほとんど廃絶した状態だったのなら、とりあえず天海の存命中は2つの東叡山は併存しなかったという見方もできるけど、寛永寺はその後もずっと繁栄を続けていくんだから、泉福寺復興以降は現在に至るまで2つの東叡山が関東にあったことになる。少し話は変わりますが、ブログをほとんど書かなかったこの1年、にほんブログ村のデータによるとわたくしが365日で記事を更新したのはたった16回だけだそうで(しかもほとんどカレーとかだし)、1ヶ月間1日も休まずに記事をアップしてた時期と比べてのあまりの変わりように我ながらびっくりですが、歴史への興味がなくなった訳ではなく、本はそれなりに読んで勉強だけはしておりました。そのうちの1冊、『満済』(森茂暁著/ミネルヴァ書房)は図書館の書架に並んでいるのをたまたま見つけてなにげに借りた本ですが、足利6代将軍・義教の将軍選任時のエピソードで出てきたぐらいで満済がどういう人かほとんど知らなかったし、室町初期に関心の高い時期だったのでいっちょ読んでみるかあ~!と思った程度でした。ところが、読み進めるうちに満済についての経歴だけではなく、大変示唆に富む内容が多いもので、しぜん天海に思考が向かっていった。似てるんですよ、満済と。それから、満済がひそかに敬慕していたフシのあるという、満済の何代か前の師・賢俊とも似てる。将軍に信頼され幕政に深く関与して「黒衣の宰相」と呼ばれたところとか。もっとも、江戸初期の「黒衣の宰相」は天海じゃなくて崇伝なんだけど、名称の問題じゃなくて中身が崇伝よりも天海に似てるとわたくしは思った。それで、『満済』の書き出しにこういう文章がある。 【日本の中世国家の性格を考えるとき、政治(王法)と宗教(仏法)との関係は 大変重要な論点の一つとなる。宗教が精神的な面から政治を支えるという役割を 担っていたからである。そのことは当時の史料にみえる「王法は仏法に寄りて栄へ、 仏法は王法に依りて弘まる」といったような表現に如実にあらわれている。 神道については「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によて運を添ふ」という 言葉があるが、これも広い意味では同種の表現と言えよう。 政治と宗教の関係は、いわば鳥の両翼、車の両輪である。両者は相依関係によって 固く結ばれていた。国家的な宗教行事の主催権の所在は、王権をめぐる問題を 考えるための手掛かりを提供する。】 (文中の出典は割愛しました)平安期は現実と目に見えない世界との境界がものすごくあいまいで、目に見えない世界に政治が大きく左右される時代でもあったから、なんとなく平安期頃の古い時代の方が宗教べったりってイメージがあったんだけど、これを読んであらためて考えてみると、べったりはべったりでも案外政治と宗教は切り離されていたのかもな、って思った。サポートはしても、政治には介入しない。政治の方からは介入したけど。諮問ぐらいはあっただろうけど、後世の密着度とは質が違う気がするのだ。むしろ、後の時代の方がより政治に深く関わっていくというのが意外だったんだけど、キビシイ戦国時代を経て朝廷や宗教界をも管理するようになった江戸幕府においてさえ、時には大きな発言権を持った僧もいた。天海についての勉強を始めた頃は、ギラギラしたイメージが強かった。 【こうした例は挙げていけば際限がない訳で、要は天海僧正が如何に 比叡山を東に移すということに執心していたかを知っていただければよい。】 (『寛永寺』より) 前にも書きましたが、『寛永寺』は私のすべての出発点。 この文章を読んだ当初は、叡山のコピーから始まってしまいには叡山のお株を 奪おうという、ギラギラした天海像をイメージした。これは「上野第二編(52)」で書いた文章ですが、『満済』を読んでするりとその呪縛から抜け出たような気分になった。 さてそれでこれらの材料を基にあらたな推測を加えた「寛永寺創建のナゾ2017バージョン」ですが、ハデな変化はないです。それどころか、考察の結果はどんどん地味になっていってます。でも、最初の頃よりはずっとマシになってきたんじゃないかと自分では思ってます。まあどのみち手持ちのカードは少ないんだし、第一人者の浦井正明氏にだってわからないことが多いナゾを解き明かしてやろうなんて気負いはさらさらありません。過去の材料をそのまま使う場合は極力リンクを貼るようにしますので、興味のある方はご自分でも考察を広げてみてください。まず今回思ったのは、寛永寺にせよ輪王寺宮のことにせよ「最初から最後まで一貫したプランに基づくと考える方が無理がある」ってことだった。家康との出会いから天海の死までには、長い年月の経過がある。2人の出会いは徳川政権の草創期にあたり、三河の土豪の小せがれが戦国の最終勝利者となって、鎌倉幕府も室町幕府も秀吉でさえも、かつて武家が誰も踏み込んだことのない領域にまで到達し、それを軌道に乗せるための施策を続けていた、そういう社会の転換期にあった。フツーの人が江戸時代と言われて思い浮かべるのは、時代劇で見るような風俗とか慣習とか封建制じゃないかと思うけど、例えば女性の髪型ひとつ取っても、島田とか丸髷とかの「高く髷に結った結髪」ってのは江戸も中期に入ってから広く浸透して確定したスタイル。髷の基が結われ始めたのは天正期の遊女だと言われてるけど、一部のモードな遊女が男髷を真似たとか、忙しく立ち働く下々の女性が実用性のために下ろした髪の先っぽを丸く結ったりとかする程度で、江戸に入った頃の身分の高い女性は、まだまだ昔さながらの垂髪だった。有名どころでは淀殿の肖像画として有名な(奈良県立美術館所蔵)赤っぽい着物を着た女性も垂髪だし、菱川師宣の「見返り美人」(東京国立博物館所蔵)も17世紀中盤~後半に描かれたのに(菱川師宣:1618-1694。割りと早い段階の作と言われるけど、どんなに早くても17世紀中期以降のハズ)、下ろした髪をねじって結っている。髪型に限らず「江戸時代らしい」スタイルや制度はかなりあとになってから確立したもので、特にイエアスが生きてた頃なんかは戦国時代や安土桃山の前時代の雰囲気を色濃く残していた。それを、新しいものに変えていく。その過程で豊臣家を滅ぼし、朝廷や宗教界を抑え、幕府の権威も右肩上がり。イエアスの信任を得た天海は「東照大権現」の成立も成功させ、これまた右肩上がりで栄達を遂げていく。社会の変化に応じて考えや方針が変わるのはむしろ必然。変わらなきゃ乗りきれない。さて、天海。前半生はひたすら吸収に努めた。色んなものを学び、山門派出身の天海が寺門にまで教えを請うている。その勉学の末に、やっぱり山門にとどまっている。世はあちらこちらでドンパチやってる戦国末期。天海自身も戦乱の影響で常陸に引っ越したりしている。 【「東源記」によると天文末年、20代の天海は、叡山神蔵寺の実全から 玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)を学んでいる。また、36歳の元亀2年 (1571)には、豪盛から三重七箇大事(さんじゅうしちかのだいじ)を 授与された。これらは叡山の檀那・恵心両派を代表する教学であり、その内容は 本覚思想、つまり現実の徹底的肯定である。】 (『神君家康の誕生』(曽根原理/吉川弘文館より)「檀那」は檀那院覚運、「恵心」は恵心僧都源信の流派で、覚運・源信のどちらも良源さん門下の四哲と称された方です。関東天台では主に恵心流が伝わったと言われることが多いけど、檀那流の方も入ってきてたようです。それで、本覚思想を学んでいた・・・キビシイ現実にさらされながら、現実の肯定を続けてきた。 【幅広く学ぶこと自体は、あるいは当時にあっては特別なことではなかったかもしれない。 ただ天海の場合、そうした成果を終生おろそかにはしなかったようだ。】とは前掲書における曽根原氏の言ですが、おろそかにしなくっても寺の奥でただ自分の研究だけに打ち込んでいたら花は咲かない。研究の大成を見たなら「ひとつの花を咲かせた」ということもできるかもしれないけど、仏教はやはり実践を伴ってこそだし、長寿に恵まれたために天海には長い期間で培ったものを実践するだけの充分な時間もあった。その実践段階で食いついてきたのがイエアスで、大坂の陣直前3年間での御前論議の回数は尋常じゃない。イエアスは確かに悩んでいた。長く戦国武将として戦いぬいてきた自身の罪業滅消、豊臣家との決着、徳川政権のゆくすえ・・・およそ仏教とはかけ離れたテーマでの論議も催される中で、天海は持てる知識をいかんなく発揮しただろう。浄土宗の家に生まれたイエアスが天台宗に改宗すると言い出したのもうなずける気がするけど、そういうイエアスを押しとどめた天海はシビアに現実を見ていたイエアス以上に冷徹なまでの現実的思考を持っていたのだろう。にほんブログ村
2017年10月29日

さてここからは江戸の前期を中心に浅草寺の歴史を見ていきます・・・んが、浅草寺というのは寛永寺を考えるうえで大変重要な役どころにあります。それゆえに、前回言い訳した通り本シリーズがなかなか進められなかったワケで、テーマは浅草寺でありながらポイントは寛永寺に置くという、例によって視点のズレた記事になることをご了承ください。前回は現地の看板に沿って江戸期まで入りましたが、解説板が頼朝からイエアスまで飛んだからといって、その間有力者の庇護を受けなかった訳じゃない。寺社の保護は為政者の重要な責務だからね。現に、浅草寺のホームページでも、足利尊氏が参詣して寺領を安堵したとか、鎌倉公方の足利持氏が経蔵を寄進したとかいう歴史を紹介している。現地の為政者の崇敬だけではなく、明応年間(1492-1501)には後土御門天皇より天下安全の祈祷を命ぜられるといったニュースもあり、浅草寺の観音様の霊験は遠い貴人にまで届くほどのものだった。室町期も後期に入ると、建前は室町幕府の出先機関だった鎌倉公方は古河へ逃げ、代わって関東初の「侵略者」・後北条氏が次第に坂東に食いこんでくる。当然、後北条氏も浅草寺を庇護する。大永年間(1521-1528)には北条氏綱が浅草寺を祈願所に定め、以後浅草寺の別当は後北条氏配下の遠山氏か伊丹氏から出すこととされる。天文4年(1535)および元亀3年(1572)には浅草寺が火災で炎上するが、時の当主北条氏綱や氏直は火災からほどなくして浅草寺の再建にあたっている。天正18年(1590)の小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、同年関八州を与えられたイエアスが入府してあらたに浅草寺が祈願寺に定められる。その後をかいつまむと、前回の解説板のようなカンジになるのですが、もうちょっとだけ付け加えると、5代将軍綱吉の不興を買った浅草寺の別当は追放され、以後は輪王寺宮が浅草寺別当を兼帯して寛永寺の支配下に入り明治を迎える。綱吉以降、将軍家からまったく見はなされた訳でもないけど、それ以前ほどの強いつながりはなくなった・・・が、庶民の強い信仰がその後の浅草寺の繁栄を支え続ける、という感じかな。て、ここで終わらせればわたくしも実にラクなんですが、それじゃロクな紹介にもならんし、いくつか勉強したことなどもあるのでもう少し続けます。浅草寺も寛永寺も、ともにメジャーな大寺。しかし、江戸期においては両者はかなり対照的な歩みをすることになった。対照的だからこそ、浅草寺の歴史をたどっているうちに寛永寺のことが頭から離れなくなり、寛永寺シリーズや日光シリーズなどでさんざん考えた寛永寺の創建のナゾをゼロからおさらいするハメになった。まあ、結局は収拾がつかなくなって知恵の輪がさらに複雑にこんがらがっただけですが、数日前、行方不明の資料を探しているうちにとある論文を印刷しておいたものを見つけ、「天台談義所」なるものの存在を知った。「檀林」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。仏教界における学問所のことだそうで、論議・談義をする談義所は大ざっぱに言って檀林と同義語になると思います。『中古天台に於ける談義所』(尾上寛仲)によると南北朝・室町期に入って天台談義所は次第に数を増していったらしく、【(1)近江國一、(2) 美濃國六、(3) 尾張國一、(4) 信濃國一、(5) 上野國八、 (6) 下野國十、(7)常陸國四、(8) 下総國一、(9)上総國一、(10)相模國一、 (11)武藏國七、(12)肥後國二、(13)計四十三となる。此の外國名の到明しない もの若干がある。】だそうな。ぶっちゃけ、もういつ印刷したのかも覚えてない論文で、内容の把握も全然していなかったけど、あらためてこれを読んではっと天海の前半生頃を思い出した。あいにく、同論文には各談義所の名称がすべて掲載されている訳じゃないけど、室町期に入ってできた談義所の中に「長沼談所」、「仙波佛藏院談所」がある。さらに、ウィキで「檀林」を検索すると、天台宗の著名な檀林の中に「中院」と「江戸崎不動院」の名がある。これらの寺や地名は、「上野第二編(14)」に出てくるもので、「長沼談所」は長沼宗光寺のことで、天海が復興させた寺。「仙波佛藏院」は仙波無量寿寺の北院のことで、中院も無量寿寺に属する。北院はのちイエアスと出会った後に喜多院として天海が復興させている。「江戸崎不動院」は蘆名盛重とともに常陸に移ってきた天海が入った寺で、関東八壇林のひとつに数えられている。そうか、天海って「学僧」だったんだな。あちらこちらで勉強しまくってたもんな。天海というと政治向きの話題が多くて学僧ってイメージは一般的に薄いと思うけど、『寛永寺』が語る天海の事蹟のひとつとして天台教学の振興が挙げられてたしな。天海が学僧だってことを思い出すと、それまでとはまた違った見方ができるようになる。武蔵には7つの談義所があったと尾上氏は言っているけど、当時の武蔵って広かったからね。武蔵の談義所のすべてを知っている訳ではないので確実なところは言えないけど、おそらく奥武蔵がほとんどで神奈川にいくつか、といったところじゃないかと思う。つまり、いわゆる「江戸市中」あたりは関東天台からすると辺境の地で、ロクな・・・いへ、教学の盛んな寺はやっぱりほとんどなかったんだろう。別に浅草寺をおとしめるつもりはさらさらありませんが、もし浅草寺サイドが採用している「天海の推挙によって浅草寺が祈願寺となった」という説が本当であれば、なおさら江戸市中は天台教学の空白地帯だと言えるんじゃないかとも思った。だって、もしそういう寺が沿岸付近にあったなら、学僧の天海はまず教学の盛んな寺を推したんじゃないかと思うから。でも、そういう寺はなかった。わたくしは天海が推挙した説はないと思ってるけど、誰かが祈願所となる寺を探していたことには違いがないワケで、天海でなくとも向学の気風の高い寺をリストアップするだろう。あるいは、大道寺重祐は祈願寺となるような天台の寺を探せと下命があったと言ってるけど、イエアスは「天台か真言の寺」と言ったかもしれない。とりあえず、祈願ができれば良かったんだもの。まだその頃のイエアスは天台に執心してた訳でもないだろうから、天台でも真言でもどっちでも良かったのかもしれないよな、と思った。ま~、真言宗は皆無といっていいほど縁がないので、実のところはどうだか知りませんが、たぶん真言も付近には大した寺はなかったんじゃないのかな。だから、古刹の浅草寺がクローズアップされて祈願寺の地位をゲットした。天海とイエアスの出会いの時期については、これまでは状況から考えてただ漠然と慶長12年(1607)説を採っていた。それ以前に顔合わせぐらいのことはあったかもしれないけど、きちんと面識を得るのは天正18年(1590)じゃちょっと無理があるだろうと思っていた。でも、天正17年(1589)に天海が入った江戸崎不動院、慶長4年(1599)に不動院と兼帯で天海が入った無量寿寺、慶長9年(1604)に天海が久下田の地から旧地の長沼へ移転して復興させた宗光寺。これらの寺を復興させたこと自体は知っていたけど、その中身が教学の盛んな寺だったということになれば、天海の経歴はただいくつかの寺を復興させただけのものではなく、関東天台の重要な古刹を次々復興させたという華々しいものになる。その手腕がイエアスの耳にまで届き、慶長12年(1607)の叡山の紛争解決依頼につながる流れなのか、と1人で納得した。そこで見事にミッションを果たした天海はイエアスの信頼を得、その後の御前論議などでこれまで培ったものをいかんなく発揮して2人の親密度が深くなっていったんだろうという推測はそう無理がないと思う。2015年にニホニウム(元素記号113)が新元素として認定されたというニュースは日本人にとっては感動的なものでありましたが、研究グループのリーダー・森田先生のことをニュースか何かで見てた時、「新元素はゼッタイある!!!」という信念に基づいて、先生が「113」という数字にこだわる生活をずっと続けていたというのを知った。あんまり細かいことは覚えてませんが、お賽銭は必ず113円というこだわりを持っていつも持ち歩いていたって話がすごく印象的だった。「あきらめないで信念を持ち続ければ、いつか道は開ける」そういうエピソードを知って、いくつか抱えている歴史上のナゾを自分も食い付き続けていこう・・・TVを見ながらひそかに決意したわたくしは、その後もスキあらば寛永寺や小早川隆景の相続問題についてあれこれ考察を続けてきましたが、浅草寺の勉強を始めて以降寛永寺と輪王寺宮の洗い直しに取り掛かった1年前は、考えすぎてほとんど自滅したようなもんでした。どうにも考えがまとまらなくて、「もういいや~、ライトにいこう」とやっつけモードになって再開したとたん、タナからぼたもちがいくつかぼとぼとと落ちてきました。めぐりあわせというのは実に不思議なものだと思わず苦笑いも出ましたが、まあ人生なんてそんなものでしょう。ぼたもちの1つは談義所を知ったことですが、次回はほかのぼたもちを基に考察のしなおしの簡単なまとめをしようかと思います。※これまでの寛永寺創建についての記事は「上野第二編(16)」以降数話「上野第二編(52)」「上野第二編(65)」あたりかなあ・・・あちこちで書きちらかしているので、わずかな記述の分はもう思い出せませぬ・・・にほんブログ村
2017年10月27日

さて、平安期の終わりにはこの方の登場です。 【源頼朝の参詣 治承4年(1180)、源頼朝は平家追討に向かうため浅草の石浜に軍勢を揃えた際、 浅草寺に参詣して戦勝を祈った。やがて鎌倉に幕府を開いた後も信仰を寄せた。 鎌倉鶴岡八幡宮造営に際しては浅草からも宮大工を召している。このように武将や 文人らの信仰を集めた浅草寺の霊名は次第に全国に広まっていった。】ものによっては、文治5年(1189)の奥州征伐の際にも頼朝は戦勝を祈願し、土地を寄進したとある。浅草寺のホームページにもそう書いてある。このところ、ブログをサボって休んでいたわたくしですが、勉強だけは続けておりました。ぼちぼち本編を再開しようかな~と思い始めた頃はちょうど『吾妻鏡』を読んでいたところで、まだ義経が謀叛を起こしたあたりまでしか読んでいなかったので、少し先へ飛んで奥州出陣にからむ浅草寺の記述を探したのですが、そういう記述は見つけられなかった。『吾妻鏡』に書かれていると言っている人もいるのに。『吾妻鏡』を読む限りでは、頼朝という人はなかなか信心深い人だったらしく、特に法華経を大切にしていたので、誰かと対面したりしても、相手が法華経信者だったりすると途端に気を許して待遇を良くしたりしている。まあ囚人生活が長かったから、心のよりどころにしていたんだろうな~と思った。で、自分のステータスが上がるにつれ、寺社の保護なども積極的に行うのですが、奥州征伐にあたってはかなり力を入れていたらしく、縁の深い寺社に念入りな祈祷を依頼している。まずは、当然の鶴岡八幡宮。それから武蔵の慈光山。こちらには自身が日頃から崇敬していた愛染明王の像を送りつけ、愛染様を本尊として戦勝祈願に専念するようよくよく命じたとある。それから、出陣前にはちょうど出雲の杵築大社の神主が鎌倉に来ていたそうで、出雲に帰って丹精込めて祈祷するようこれまたよくよく命じている。祈祷の目的ははっきり書いてないけど、時期的に当然奥州での勝利と思われる。あと駿河の帝尺院にも田地を寄進して勝利の祈祷を行わせている。他には、舅の北条時政が伊豆国北条の先祖ゆかりの地に伽藍の造営をしている(願成就院)。出陣の前夜には、伊豆山の僧・良暹に留守を守りしっかりと祈祷するように命じ、さらに出発してから20日ののちに邸の後ろの山に仏堂を建て、頼朝が年来本尊としていた正観音像を安置するように言い渡している。建てるといっても柱ばかりの簡素なものだけど、それは他の大工などにはさせずに良暹自ら建てるようにと厳命している。んで、出陣してからは途中の下野で宇津宮(うつのみや:現宇都宮神社)社に祈願をし、無事に征伐ができたなら、捕虜1人を神職に進めますとの願を立てて上矢を奉幣したとある。その言葉の通り、帰路にまた宇津宮社に立ち寄り、荘園1ヵ所を寄進してとある捕虜の一族を神社の職掌としたそうな。頼朝の遠征中には妻の政子が女房に鶴岡八幡宮でお百度詣りをさせ、頼朝が帰還してからは鎌倉長谷にある甘縄明神社にお礼参りをしているので、甘縄社にも政子が願をかけたものと思われる。と、身内を含めあちらこちらに祈りちらかしたことが「吾妻鏡」には書かれているけど、浅草寺に大々的な祈祷を依頼したとの記述は見受けられない。もちろん、書いてないからそういう事実がなかったという断定にはならない。このページ最初の引用文にある、鶴岡八幡宮造営にあたって浅草から宮大工を招集したというのは有名な話なので、当時も浅草は充分進んだエリアだったんだろうし、石浜まで来れば古刹に立ち寄るという可能性は充分にあるだろう。さて、現地の解説板では頼朝の後はイエアスまで時代が飛ぶ。が、鎌倉幕府と江戸幕府のあいだの室町幕府将軍も浅草あたりへ来た記述が「太平記」にある。浅草寺には直接の関係はないものの、ちょっと面白かったのでここで紹介しておきましょうかね。時は足利尊氏の弟・直義が急死した翌年の1352(正平7年/文和元年)。南朝方の北畠親房らが中心となって京と鎌倉の東西の都の奪還に乗り出すと、新田義貞の遺児や中先代の乱を起こした北条時行、さらには直義派の面々も参戦したといわれる。尊氏は現在の東京都小金井市および府中市あたりで新田軍を迎え撃ち、かなりの激戦になったらしい。新田義貞の三男・義宗は「尊氏は天下にとっては朝敵。 俺にとっては親の仇。 今こそ尊氏の首を取って軍門にさらす時!!」と、他の兵には目もくれず、ただひたすら尊氏の所在を示す丸に二引の大籏を目指して遮二無二尊氏を追い続けた。逃げる方も必死で馬を走らせてとうとう石浜までやって来た。尊氏はもうこれまでと鎧の上帯を切って投げ捨て、今しも己の腹に剣を突き立てようとしたが、必死にいさめられ、近習の20騎ばかりが引き返して敵を足止めし討ち死にする隙に対岸へ駆け上がることができた。新田義宗は歯噛みしたが、すでに日が落ちていたのでやむなく本陣へ引き返した、とな。(「太平記」武蔵野合戦の事)ま、「石浜」の具体的な場所については諸説あるらしいんだけど、浅草近辺とは言えるだろう。当時はまだ付近の干拓もされてなかったし、水っぽい土地ではあったもんね。場合によっては浅草は尊氏ご臨終の地だったかもしれないと妄想するとちょっと楽しいで、解説板に従い今度は江戸まで飛びます。 【徳川将軍の篤い保護 天正18年(1590)江戸に入った徳川家康は天海僧正の勧めで浅草寺を祈願所と 定め、寺領500石を寄進した。元和4年(1616)には家康を祀る「東照宮」の 造営を認め、随身門(現、二天門)も建立されるなど浅草寺への信仰は篤かった。 寛永年間に観音堂が炎上した際も徳川家光により慶安2年(1649)再建された。 以後、関東大震災にも倒壊せず、国宝観音堂として参詣者を迎えた。だが、昭和20年の 東京大空襲により焼失、現在の本堂は昭和33年に再建された。】 (【】内はいずれも現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)うむ・・・説明のためのスペースは限られているし、これはこれで致し方ない。が、過去の記事から少しおさらいしますと、天正18年のイエアスの入府は確か。ただ、天海とイエアスの出会いには2つの説があり、2つの説は17年もの開きがある。解説文では天正18年説を採用し、天海が祈願所の進言をできるだけの関係を築いていたとする。でも天正18年の出会い説の方は、その後しばらく2人の接点が確認できないことからちょっと疑問視されている。もし天正18年に天海が祈願所の選定に関われる関係があったのなら、その後10年以上も空白の期間があるのはおかしい気もする。大道寺友山重祐が語る菩提寺と祈祷寺のなれそめについては「上野第二編(16)」で紹介した通りで、そちらではただ単にイエアスの入府当時、江戸に浅草寺以外にロクな天台の寺がなかったからだとしている。おおかた、そんなところだろうなとわたくしも思っている。関東は歴史的に天台の強いエリアではあるけど、割と内陸の方により強いカラーが集中してるように思うんだよな。いわゆる「江戸市中」にはあまりそういう寺はなくて、ゆえに浅草寺に白羽の矢が立ったんじゃないかという気がしている。さてね・・・最後の浅草寺の記事を書いたのが、去年の11月18日。なんともう1年近くの日々が経とうとしております。ブログを書いてる時間がなかった諸事情もありますが、それにしたって1年。日帰り(それも半日)だからスコーンと上げられると踏んでスタートしたはずなのに、なんでここまで滞ったかとゆーと、江戸初期の浅草寺の歴史がわたくしの食い付きポイントと見事にクロスして、またもや巨大なジャングル、もしくはシュヴァルツヴァルトの黒い森をえんえんさまよい歩いていたからなのです。じゃ~、1年経って抜け出せたのかとゆーとそういう訳でもなく、それどころか「もうヤダ・・・ 浅草寺、書きたくねえ~~~~・・・」って拒否反応が出るようになってしまいました・・・ホントは、別のシリーズを始めたい。もっと「安産」で済むハズのネタも沢山あるし。でもいつまでも中断したままという訳にもいかないので、1年ぶりに自分にムチ打って再開することにしました・・・でもね。「考えすぎるのやめよう。 ライトに行こうぜ、ライトによ」というスタンスに切り替えたので(←どこがムチじゃ)、極力ライトに続行しますにほんブログ村
2017年10月22日

引き続き、ホネ。 元の姿がこれ↓。 【アロデスムス 誕生したばかりの日本海に最初にすみついた海生哺乳類のひとつがデスマトフォカ科 の鰭脚類(ききゃくるい)である。その姿はアシカのようでもあるが実際はアザラシと 共通の祖先をもつ、絶滅した系統群である。アロデスムスは、温暖な外洋で魚や タコやイカなどを捕食していたが中新世中期後半の冷温化に伴って束柱類とともに 絶滅した。】アロちゃんは石川県珠州市で見つかったものだそうな。 ↑その隣にいるのがパレオパラドキシア・タバタイという早口言葉に良さそうな名を持つ束柱類(そくちゅうるい)で、元の姿がこちら↓。 【パレオパラドキシア 日本海が誕生したちょうどそのころ日本から北アメリカにかけての 太平洋沿岸に生息していたのが束柱類のパレオパラドキシアである。 パレオパラドキシアは温暖な海域に分布し、河口近くの内湾で生活 していたと考えられている。この標本はもっとも完全なものでネオタイプ (ホロタイプが失われた時に新たに分類の基準となる唯一の標本)に 指定されている。】束柱類って聞かない名称だけど、コトバンクで調べると 【およそ3000~1000万年前に日本や北米などの北太平洋沿岸に生息していた 哺乳類。歯が柱を束ねたような形状をしていることから名付けられた。(中略) 陸生か海生かといった生態については研究者の間で見解が分かれていたが、 2013年4月、海中で生活していた可能性が高いとする研究成果が日独の研究チームに よって発表された。】 (知恵蔵miniの解説より)だそうな。前から見るとこんな風で↓ 結構大きいし、何も教えられずにこれだけ見たらたぶん恐竜だと思う人が多いんじゃないかな。それから2Fの北翼へ移動。え~っと、これ、何観に行ったんだっけ・・・(←もう忘れた)ここは去年、江戸時代の屍蝋をお目当てに行ってるんだけど、今回は去年撮らなかったものを撮ってきました。 今度はヒトのホネでございます。 【骨を読む 縄文人はどんな人たちだったか 縄文人の骨は、北は北海道から南は沖縄に至るまで、時代の古さの割には 比較的たくさん発見されている。これは、カルシウム分を多く含む貝塚、 あるいはその周辺に埋葬されていることが多いためである。同じ縄文人でも 早・前期の人骨は全体的に華奢であるが、中・後・晩期になるとがっしりと 筋骨たくましくなる。現代の本土日本人と比べると顔や眼球の入る眼窩は 上下に短く、鼻筋が通っている。中・後・晩期人の平均身長は男性が158cm 女性が149cmほどである。】その先におわすのが 【骨を読む 弥生人はどんな人たちだったか 弥生人とは弥生時代の日本列島に住んでいた人々のことであるが、骨の 特徴を調べると大きく2種類の人々がいたことがわかる。ひとつは北九州や 本州西部から発見される、いわゆる渡来系弥生人、もうひとつはそれ以外の 地域から発見される縄文人的な特徴を残した在来系弥生人である。渡来系 弥生人の顔形は縄文人とはずいぶん異なり、鼻の付け根が平坦で顔は全体的に のっぺりしていた。渡来系弥生人の平均身長は男性が163cm、女性が 151cmほどで、縄文人よりもかなり高かった。】へえ、弥生人の方が大柄だったんだ。すらりと立つ全身骨格の他に、こういうホネもある↓。見てこの細いホネ!! 【縄文時代の手厚い介護 この縄文時代の10代後半の個体(おそらく女性)の四肢骨は、異常に細い。 おそらく幼少時に小児麻痺か何かの病気にかかり、麻痺したまま一生を寝たきりで 過ごしたものと思われる。 彼女がこの年齢まで生きることができたのは、縄文時代にあっても仲間の手厚い 介護があった証拠と考えられる。】全身の骨すべてが揃っている訳ではなさそうだけど、これだけ綺麗な状態で見つかったということは、手厚い介護のみならず手厚い埋葬があってのことだろう。家族の人情はいつの時代も変わらぬことよ・・・さて次はなかなか迫力がありんす↓。 日本各地で見つかった、時代別の頭部のホネが一同に会した一瞬ぎょっとするような展示です。まあ、時代ごとの差というのもあるんだろうけど、個体差ってのも当然あるからな・・・向かって左半分の真ん中へんに横向きになってる黒っぽいのが弥生人男性で、右半分の真ん中へんの黒っぽいのが江戸時代男性のもの。個体差があるといっても、江戸期男性のは他とくらべてかなり小さい。これが今の若い人になると、もっと小さくなるんだろうな・・・しかし、これだけ頭骨がずらり並んでるとちと写真を撮っていいものかと小心者の面が顔を出す。が、展示品に付けられているプレートを見るとここまでのところどれもレプリカだったので、ほっと胸をなでおろす。で、この隣にあるのがこちらのホネ↓。 おデコの部分に損傷がある・・・生前に傷でも負ったのか、あるいは死亡から発掘されるまでの間に外的な力によってなんらかの損傷を受けたのか・・・ところが、そんな理由でこうなったワケではなかった。 【梅毒 梅毒が江戸時代の、特に江戸市中で猛威を振るっていたことは有名である。 この標本は江戸時代の男性個体のものであるが、頭骨の前頭部は梅毒性肉芽腫 により壊死化して破壊性骨病変を、また脛骨は梅毒による骨膜性骨増殖に よって肥厚を呈しているのだと判断される。江戸市中の梅毒の蔓延は、当時の 特殊な社会的状況により結婚適齢期の男女の比率が極端に男性に偏っていたことと 関係がある、と考えられている。】うっひゃああああ、梅毒って骨まで破壊しちゃうんだおっそろしい病気だの~。過去の記事でもちょろりと書いたけど、江戸市中の男女比率は7:3ぐらいだったとされる。だからつまり、女遊びで梅毒患者が増えてったって言いたいんだろう。戦国武将も海外遠征で梅毒にかかったとか言われてる人は結構いるしな。武将の中でもこうしたホネを持つ人もいたのかもしれない。皆様、梅毒には気をつけましょう。この隣が例の屍蝋で、このフロアはここで終わり。あとはいくつかさらっと展示を見て、休憩がてら「日本の四季」みたいなビデオを観てかはくを出る。さて、上野の山内に入れば当然寛永寺にも寄る。できれば本堂の方へも行きたかったけど、今回は両大師だけ。あとひとつどうしても観なきゃならないものがあるんだけど、両大師とどちらから行くべきか・・・もんもんと考えたあげく、先に旧寛永寺本坊・・・現在のトーハクへ向かう。チケットを買って中に入ると、こんなものが置いてあった↓。 すげえな、日傘の貸出まで始めたんだ今回のお目当ては常設展。常設展示といえど各室では色々とテーマを組んで展示品の入れ替えもあり、今回は 1室/仏教の興隆 3室/仏教の美術 8室/書画の展開 と11室の彫刻、13室の金工・密教法具あたりを狙っていた。あと、5室には榊原康政所用の甲冑の展示もあったな。長らくの読者様にはわたくしの良源さん好きをよくご承知と思いますが、ここへ来る少し前、何かの調べ物をしていた時に良源さんの御遺告(国宝)がトーハクで展示されていたことを知って思わず身体がくずおれた。 だって、去年(2016年)だよ、去年!!そんなの、知らなかった!!!知ってれば絶対観に行ったのにィィィィィィ~・・・・めそめそ。御遺告は良源さんと縁の深い廬山寺の所蔵です。でもトーハクに寄託されてるんだな。わたくしの持ってる本にも写真が載ってるけど、実物が観たかったんだよお。それ以来、時々思い出してはトーハクの展示を確認するのですが、国宝ゆえかなかなか開示されず今回もあいにく御遺告の展示はありませんでしたが、でも今回はこれがある↓。 【重要文化財 慈恵大師坐像 蓮妙作 木造、彩色、玉眼 鎌倉時代・弘安9年(1286) 滋賀・金剛輪寺】かつて、天台宗寺院で良源さんを祀らない寺はないと言われたものの、現在良源さんの木造がどれだけ現存しているのかは知らない。でも写真で公開されてるものもあるんだけど、割合的には元三大師像といえばわたくしが知る限りではこの金剛輪寺のようにキツい顔をしたものの方が圧倒的に多い。こーゆー顔にした方が威圧感があって良源さんのイメージに合うのだろうか・・・ともかく、墓参りの時期にこの像の展示があってラッキーだった。もうこれでトーハクでの用はほとんど済んだようなもの。あとは狙っていた部屋をガスガス目指してさらっと観る。写真撮影禁止のものもあるし、いちいち写真を撮ってたら遅くなるのでほとんど写真は撮らなかったけど、でもこんなものもあった↓。 「普賢延命像」。この仏画自体が眼をひいたのではなく、描き手の方です。これを描いたのは武田逍遥軒・・・武田信玄によく似ていたので信玄の影武者を務めたともいわれる、信玄の弟です。書画に長けた人とは聞いたことなかったけど、うまいもんじゃないか~。あと、これね↓。 こちらは絵の方ではなく、その上の賛(さん)の方です。 一番右にあるように、この賛を入れたのは一休さん・・・もとい、一休宗純なんだそうな。書の良し悪しなんぞさっぱりわかりませんので、ほ~・・・としばし足を止めてからガスガスと部屋を出る。トーハクを出ると、上野公園入口にはアイス屋さんがあった。 暑いし、色んな味があるので食べようかとも思ったけど、300えんだか350えんだかやたら高かったのでやめた。でも通りがかった中国人はこの高いアイスを買ってべろべろなめていた。さて、ラストはおなじみの両大師。 いつものように宮の墓域にお参りしてから本堂へ。今回はちと思うところがあり、お参りのあと隅っこの方にしばらく座っていた。本堂の入口は閉まっていることがほとんどなので、中に入れることを知らない人は外からの参拝だけで帰っていく。中に入る人もぼちぼちいるけど、わたくしが行く時はほとんど人は来ない。が、この日は珍しく数組の客が中で座ったりしていた。1人で静かに浸りたい時に限ってこうなので、ぼんやりと他の人を見るともなしに見ていると、明らかに両大師にはそぐわないロリ系のカッコをした若い女の子が上がってお参りをしていた。若い子には珍しく、感心じゃないか~と思って見ていると、受付で御朱印を受け取って帰っていった。なんだ、御朱印集めかそのあとでわたくしが出ていくと、彼女は長玉の大きなカメラを構えて本堂を撮っているところだった。いわゆる御朱印ガールってとこだろうな。あとで写真とともにブログにでもアップするのだろう。以上で今回の訪問は終わり。駅ナカで恒例のパイを買いにいくと、鯖寿司があった。京都駅に寄るといつも買って帰るような肉厚のサバだったので、パイとともに土産にして帰ったら、美味しい鯖寿司だった。お店の名前は忘れちゃったけど、また今度も買って帰ろうにほんブログ村
2017年10月08日

お久しぶりでございます。長らく間が空きまして、お待ちいただいていた方がいたら申し訳ござりませぬ。あまり間が空きすぎて、深海展のシリーズはあれで終わりかと思っていた方もおられるかもしれませぬが、実はまだ終わってはおりませぬ(笑)。会期の早いうちに行ったので今回こそは充分に宣伝をできると思っていたのに、このていたらくまあ、10/1に深海展は終わってしまいましたが、かはくのホームページによると、最終日には入場者数が60万人を突破したそうで、盛況でようございました。しかし、終わったからといってこのシリーズを未完に終わらせることもできないので、とりあえず残りの報告をいたします。会場には、しんかい君の他にも地球深部探査船「ちきゅう」の1/100模型もあった↓。 全長 210m 全幅 38m 総トン数 56,752トン 航海速力 12ノット 定員 200名 【2005年に就航した、海洋研究開発機構所有の世界最大の科学掘削船。 全長210m、幅38m、船底から高くそびえるやぐらの頂点までが130m。 6基のアジマススラスタにより、誤差数mの精度で海上の同じ場所に留まることが できる。国際深海科学掘削計画(IODP)の主力船として、地震発生帯や 海底下生命圏などの研究航海を行い、生命地球科学に貢献している。将来的には、 前人未到のマントル掘削を行うことが期待されている。】マントル掘削!?そんなことが可能なのか?この近くにはダミー研究者がいて、 【ドリラーズハウスとサイバーチェア サイバーチェアは、船上で掘削作業の全てをつかさどるドリラーズハウス内に 2台設置されており、ドリラーとアシスタントトリラーの2名で作業を分担 する。金網に囲まれているのは、掘削パイプなどの重量物が落ちてきた時のため。 展示のスクリーンに映っているのは、ドリラーズハウス内と、ドリルフロアの 様子。ここに映る様々な掘削機器をサイバーチェアに座って遠隔操作する。】上の写真ではサイバーチェアの前は黒く映ってるだけだけど、実際の船上を写したパネルには確かに金網に守られたハウスの中に研究者たちがいて、金網の向こうはフツーに外の世界が広がっている。危険と隣り合わせの研究だけど、ちきゅう君を所有するJAMSTEC(国立研究開発法人 海洋研究開発機構)ではJFAST(東北地方太平洋沖地震調査掘削)というプロジェクトが進行中で、JFASTの成果も簡単に紹介されている。まずは温度計測をしたそうで、 【温度計測をしたところ、2011年東北地方太平洋沖地震で生じた摩擦熱により、 プレート境界断層は周囲より温度が高いことが判明した。この温度異常をもとに 地震時の断層における摩擦係数を求めたところ、約0.1と非常に低い値が 得られた。このことは、地震時に断層が非常にすべりやすかったことを意味する。 これにより断層上の陸側プレートが大きくすべり、その結果、海底が大きく 変動して巨大津波を引き起こしたことがあきらかとなった。】さらに 【採取したコア試料を分析したところ、プレート境界断層の大部分はスメクタイトと よばれる非常に細かい粘土で構成されていることが明らかとなった。このスメク タイトを用いて地震時の断層運動を再現する実験を行ったところ、0.1前後の 非常に低い摩擦係数が得られた。この結果は温度計測結果とよく合っており、 断層運動の再現実験からも地震時に断層が非常にすべりやすかったことが 実証された。】で、徳島から採取された「鱗片状構造」というものが展示されていて、これに直接さわれるようになっている↓。 お子ちゃまに交じってわたくしもこれをさわってみましたが、おっそろしいほどツルツル。断層がこんな状態になっているなんて、考えるだにオソロシイこのあたりからは地学的分野の展示にスライドしてきていて、世界有数の地震国である日本における地震観測システムについての展示もあった。 【DONET(海底地震・津波観測監視システム) 海洋研究開発機構が開発した「DONET」は、海底に設置した多数の地震計と、 津波観測の水圧計を接続したケーブルを、陸地まで延ばしてリアルタイムで 南海トラフの海底地震や津波を観測する装置。東南海地震震源域に「DONET」、 南海地震震源域とその周辺に「DONET2]が設置されている。】その観測網がこちら↓。 ええと、これはDONETとは違うのかもしれないけど、こういう長期観測ステーションを海底に置いて堆積物とか生物などの観測を続けているんだそうな↓。 この先も、海底資源とかについての展示が続く。レアアースの展示なんかもあったな。人目をひきやすい深海生物から始まって、ちと地味な地学系の展示で終わる「深海展2017」。最後の方はあまり丁寧には解説は読まなかったけど(スイマセン)、それでも個人的には地学系の展示の方が面白かったな。かはくの夏休み大型企画展といえばお子ちゃま向けのイメージのが強いような気もするけど、大人にも十二分に楽しめる展示でございました。深海展はこれで終わり。なんか面白いモノないかな~と売店コーナーも覗いてみたけど、目ぼしいモノはあいにく見つからなかった。 さてと、駆け足で企画展を観てきたけど、1時間半ぐらいいたのかな。実はかはくの後にもいくつかぱぱっと見ようと思っているのがあるので、早く次に移動したいところではあるけど、せっかく入場料を払って入ってるのだから(←貧乏性)、常設展で去年観られなかったものを観ていこう。 去年も書いたけど、かはくってなにげにフクザツな造りでね。建物自体はたった2つなんだけど、建物間の移動でも出入りでも通路を通っていくので、慣れないと結構わかりにくい。ので、企画展を出たところにある屋上のスカイデッキでおやつを食べながらお目当てがどこにあるかを下調べして、常設展のある日本館へ向かう。で、まずは日本館3F北翼に鎮座ましますこちら~↓。 へい、こちらが去年諦めたフタバスズキリュウでございます。去年も朝から暑かったし、おしゃべり好きの京都のジジイのせいで余計な時間を使ってしまったので、時間切れになって諦めたのだ。ま、時間切れといってもたかが都内。夕方まで頑張れば時間はたっぷりあるにはあるんだけど、どうも最近、近場だとあれこれ見たい反面、早い時間に帰りたいという衝動にかられてしまう。そういう訳で、今年も暑いというのもあったし、手早くお目当てを済ませて昼すぎには帰ろうと目論んでおるので、今回も常設展を丁寧に観る予定ではない。ん~で、フタバスズキリュウ。 綺麗な首長竜・・・これが実物かあ~とひたすら感動してたら、これは復元のレプリカらしい。んじゃ、実物が展示されてるってのはウソか!?と思ったら、宙に浮かぶ骨格標本の下にあるこちら↓ これが発掘された現物らしい。これだけじゃよくわからないけど、図が置いてあって 全身のうちのグレーの部分だけがここにあるということらしい。 【フタバスズキリュウ産状 展示されているフタバスズキリュウは、環太平洋地域でも有数の、良好な首長竜化石 である。ほぼ1体分の化石が仰向けになった状態で発見されたが、化石が発見された ときには川の流れによって、尾と後頭部などが浸食されて失われていた。また、長い 首が付け根付近で切断され、首の大部分も浸食などによって失われたのではないかと 考えられる。】ということだそうな。ここ3F北翼は「日本列島の生い立ち」というテーマで、日本列島誕生前後あたりを中心にした展示となっている。で、かつての日本列島に生息していた大型動物たちの骨格標本も多い。わたくし、ホネって結構好きなんだよね。 (ヤベオオツノジカ)元の姿がこれ↓。 【大型哺乳類の絶滅 更新世後期の日本列島には、現在よりもずっと多くの大型哺乳類が生息していた。 しかし、今からおよそ2万年前にあった最終氷期のピークの、前とあとの二つの 事変をへて、絶滅したことが明らかになってきた。すなわち、比較的暖かいところを 好むナウマンゾウを中心とした動物たちは、氷期のピークに達する前(23000年 前頃)に絶滅し、寒冷気候に適応したマンモス動物群は、氷期のピークのあと 急激に温暖化が進んだとき(16000年前頃)に絶滅したと考えられている。】 ↑こちらはかつて日本にいたゾウたちの化石だそうで、向かって左がアケボノゾウ、右がトウヨウゾウ。 【日本にいたゾウたち 更新世以降の過去約200万年間で、化石の年代や産地などがもっともよく わかっている陸生動物はゾウのなかまである。この期間に日本からは、5種類の 化石ゾウ類が知られている。アケボノゾウは鮮新世から日本にいたミエゾウの 子孫である。ムカシマンモス、トウヨウゾウ、ナウマンゾウは、それぞれ約110 万年前、60万年前、34万年前に、中国南部または朝鮮半島経由で九州や 本州へ移住した。また、ケナガマンモスは約6万年前以降に、シベリアから サハリン(樺太)経由で北海道に移住したことがわかっている。】 (ここまですべて【】内は展示解説より) (更新世中期) (更新世後期)へえ~っ、そんなにゾウがいたなんて知らなかったゾウ。にほんブログ村
2017年10月07日
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