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前回は道路から門の外側を見ただけでしたが、今度は上野第四編(2014/1/3)にトーハクへ初詣した際の門の内側からの写真をご紹介しましょう。豪華絢爛な表の顔と違って、どことなく生活感も漂うようなギャップが面白いです。まず、門の脇にはこんなものが積んである↓。 ハハハ、なんでこんなとこに積んでるんだろ。古い瓦かな?修築したはいいけど、捨てるに捨てられないのかな? ↑あれ、あの角材、五角形になってる。面白いな、どういう意味があるんだろ? ↑こちらは脇戸。写真の左端で光ってる部分は いずれ修復もするんでしょうけど、こーゆーのってどうやって直すんだろ?板を張り替えるしかないのかな?これが脇の番所への入口↓。 あれこれ写真を撮ってるうち、トーハクの警備員さんみたいなおじさんが来てこの扉を開けた。おお、ラッキー!!と思って横目で盗み見たら、中はシンプルなフツーの小部屋という感じで、確か畳敷き・・・いや、板敷きだったかな?おじさんはリヤカーで、何かの入った大袋をいくつか運んで来ていた。ホームセンターとかで、園芸用の土とか畑の肥料が大きな袋に入ったのを売ってるでしょ。あんなやつ。何をするのかと思って見ていたら、その大袋を番所に搬入し始めた。中をさりげなく覗くと、すでに同じような大袋がいくつも部屋に積まれている。かつて門の警備にあたる藩士が詰めていた場所は、どうやら現在ではちょっとした物置きになってるらしいそのうち、トーハクの職員さんみたいな人も来て一緒に作業を始めたんだけど、職員さんと目が合ってしまって、じろじろ見るのも悪いかと思ってまた門の撮影に戻った。が、 「ちょっとだけ!ちょっとだけ部屋の中を覗かせてもらってもいいですかあ~」とお色気で迫って部屋の様子をもっと観察させてもらえばよかったと後から激しく後悔した。あんなチャンス、滅多になかったぞ番所部分の壁はこうなっている↓。 ↑あの一番下の穴の部分は、昔からああなっていたのかな?位置的に、床下にあたりそうだよな。番所をそなえた門を(たぶん)見たことがないので、興味津々。今度は門をくぐって外側に出ま~す。ただ、外から見える部分は第二編でほとんど撮っているので、いくつか補足的に撮っただけだけど。 やっぱり、唐門は派手だなあ。さて、因州池田家の黒門は以上です。トーハクの内部には、黒門のすぐ近くにこんなものがありました↓。 【黒田家の江戸屋敷鬼瓦 徳川幕府の参勤交代の制度により、江戸には諸大名の屋敷が設けられた。この鬼瓦は、 筑前福岡藩主黒田家の屋敷(現在の千代田区霞が関、外務省の地)の建物の棟飾り として用いられたものである。鬼瓦といっても鬼面にはなっていない。 複雑な雲文の鰭までを一体に造った大振りなものとなっており、屋根を重厚にする 江戸趣味をよくあらわしている。】 (現地解説板より)へえ、こんなとこにこんなものがあったなんて・・・今年は大河の影響でかんべ~人気も上がりそうだから、旬なスポットになるかもしれんな。んではここからトーハクの正門の方まで戻って、いよいよ上野公園に入ります。ふ~、まだ先は長いぜ・・・公園入口には、こんな看板があった↓。 あれ、上野公園て時間制限あるんだ。でも、ここにお住まいの方達もいるからな・・・夜間の立ち入り禁止といっても、かつて寛永寺時代に山同心たちが容赦なく追い立てたようなことはしないだろうしな。それとも、もう上野公園内にお住まいの方達はいなくなったのかな?いや、それはともかく、これが本坊側から入った上野公園の風景↓。 あらためて見てみると結構広いもので、大噴水が遠くに見えます。ここがかつての根本中堂のあった場所ですが、中堂のできる以前、『寛永寺』の表紙になっている延宝期(1673-88)の絵図だと ピンクの★が現在地で、下の方を見ていることになります。これが、綱吉が中堂を建てた後の絵図になると (『東叡山 寛永寺』表紙の貞秀筆「東叡山之図」より)と変わります。下の絵図だと、右上から左下の方角を見ていることになります。ピンクの★の真下に見えてる建物は左が常行堂で尾張の徳川義直(家康9男。尾張徳川家初代)の寄進によるもの。本尊は阿弥陀三尊。毎年2月15日には涅槃会が行われた。右が法華堂で紀州の徳川頼宣(家康10男。紀州徳川家初代)の寄進。本尊は釈迦三尊で毎年4月8日には仏生会が催された。常行堂と法華堂は双子のように同じ造りをしており、この2つを渡り廊下でつないで、全体を「にない堂」と呼んだ。にない堂は叡山にある堂宇で、武蔵坊弁慶が天秤のように担いだことからにない(荷負)堂と呼ばれるようになったと言われ、寛永寺のにない堂は叡山のものを摸したとされる。で、初期の頃には大体噴水の奥の方(不忍側)にあったと思われるのが、根本中堂ができてからはずいぶん下の方に下がっている。どうも、中堂を建てるために南側に移動させたらしいんだよね。ので、南側から来た参詣客はにない堂の渡り廊下の下をくぐって中堂に参拝するというコースだったらしい。ということで、綱吉時代以降は上の写真の場所からはどーんと根本中堂が見えていたことになります。綱吉の死後、埋葬までの法要は寛永寺の本坊で行ったようだけど、納棺以降の法要は根本中堂に仮の御位牌所を設けて初七日の前夜の法要が行われた。法要を執り行う大導師は、もちろん輪王寺宮。綱吉と昵懇の間柄だったという、公弁法親王です。本坊から輿に乗って中堂の正面に回った宮は、中堂を取り囲む廻廊にある勅額門の前で輿を降りて中へ入る。堂内にはすでに参列者が待機しており、宮が階段を上がってくると奉行以下はみな平伏して迎える。法要が済んだら、宮は入った入口からは出ず、中堂の真後ろにある出入口を通ってまっすぐ本坊へお帰りになる。これ以降はおそらく根本中堂でほとんどの法要が行われたと思われるが、初七日にも宮が大導師を務められ、その後の法要にも宮じきじきに参加をしている。面白いのは、宮の根本中堂への出入り。はっきりしたルールはわからないけど、どうも雨天だと宮は正面ともいうべき勅額門側からは入らず、本坊側に造られた出入口から出入りしていたようなのだ。さすがに、初七日だとかの節目の大事な法要であれば雨の日でも勅額門から入ったのかもしれないけど(笑)。だからね、トーハクの正門と上野公園の間にまたがるあたりは、雨の日には宮が小走りでトコトコと歩いたかもしれないんですよええまあ、噴水広場のあたりが根本中堂跡地だということを知ってる人は多いけど、そんな想像をする歴史ファンは相当少ないと思いますけどね。宮萌え~する人間がいたっていいでしょう?にほんブログ村
2014年01月31日

やあ、ただいま~。昨日は旅の雑談をもう少し書こうかと思ってましたが、ダメでした。新幹線に乗り込んでから名古屋の先までご飯を食べていて、食後は泥になって撃沈・・・帰ってからPCの前にも座りましたが、極度の疲労につき寝てしまいました。なんせ、4泊5日でトータル90,275歩。撮った写真は1,554枚(笑)。歩数の方は1日あたりは私の中では飛びぬけて多かった数字はなかったけど、結構山道も含まれてますし、ホントに朝から寝るまで忙しかったので、とにかく疲れました。それでも、かなり満足のいく旅になりまして、体力的にはキツかったけどそれ以上に楽しい旅で5日間があっとゆー間でした。旅先からの記事の中のいくつかのヒントを基に今回の行き先の見当がついた方もおられるかもしれませんが、わからない方は次回のシリーズをお待ちください。まずは現時点までの上野編をまとめて書いてしまおうと思ってますので。てな訳で、ここから本格的に上野編を再開いたします。両大師から旧本坊跡地であるトーハクへ移って、現在のトーハクの様子を紹介したのが前回の記事でした。第二編ではトーハクへは入らず、正門前を通過してこれを見に行きました↓。 【旧因州池田屋敷表門(黒門) 重要文化財 この門は、もと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に 建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移築された。 のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。 表門は昭和29年3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は 明らかでないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は 入母屋造り、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として 最も格式が高い。昭和26年9月、重要文化財に指定。】 (現地解説板より)個人的に池田輝政はあまり好きじゃないですが、岡山編で少し池田家のことを書いたのもあり、因州なら鳥取の光仲のとこだよな・・・と思って、ついでぐらいの感覚で寄りました。まあ、解説によると江戸も後期の建築らしいから、光仲がこの門を目にしたことはなさそうだけど。それにしてもこの門、ついでに見る程度のものではなく、写真で見るよりはるかに重厚で素晴らしい門でした。まず、デカい。あまりにデカいので、全体を写すには通りを挟んだくらいまで離れないと画面に入りきらない↓。 この時はフェンスの外側から見ただけだったので、望遠で撮った門の細部の写真をいくつか紹介しましょう。 なんで因州池田家で菊紋なんだろう?と思ったけど、たぶん明治に入って宮家の門に使用されてから付けられたものなんだろうな。で、ここも滴水瓦がある↓。 大棟の部分↓。小さい菊が沢山あるから、移築の際に結構手が入れられたってことになるよな。 左右にある門番部屋まで唐破風で、格式もばっちり↓。 とにかく、ホントにすごい。これは上屋敷の門らしいけど、確かにこの風格、上屋敷の表門にふさわしい。上記リンク先の記事でも書いたけど、光政と光仲が岡山と鳥取をチェンジして以降の因州池田家は、徳川家とのゆかりもあるからこれだけのものを造れたのかもしれない。「格」というのは、現代の私達が考える以上に当時重視されていたと思うし、門がこれなら内部の建物もこれに見合うだけのものだったはず。この門の向こうに、当時どんな立派な建物があったのかを想像するだけでもゾクゾクしますね~。丸の内3丁目ってどこじゃい?と思ったら、皇居馬場先門を出てすぐ、現在の帝国劇場とか新東京ビルを含む1ブロックらしい。結構デカい区画。江戸期の江戸って意外にガイドブックの類が盛んに出版されていたらしく、地図なんかもこぞって刷られているので、時代によっては町人町と大名町を分ける内堀東側の内側だけでも結構変遷があったことが窺われるんだけど、鳥取藩池田家はおおむね安定してこの地に上屋敷を構えていたらしい。はっきりした時代はわからないんだけど、馬場先門の外には鳥取藩池田家と岡山藩池田家がお向かいさんになっていた時期があるらしい。両池田家の歴史を考えて思わず鼻で笑ってしまったんだけど、幕末の天保14年(1843)の絵図では岡山藩池田家はこの場所から姿を消している。馬場先堀・日比谷堀のすぐ外側にあたるこのエリア一帯に屋敷を構えるのは、譜代とか縁戚関係がほとんど。福山藩阿部家もこのエリアに屋敷を置いてました。そうした場所に長いこと鳥取藩が上屋敷を持っていたのは、やっぱり家康外孫の家系というのも大きかったのかな~と思った。同じ池田でも、岡山藩の方は督姫の系統じゃないからね。さて、わたくしの手元には『古地図で歩く 江戸城・大名屋敷』(平凡社)という本があります。NHKの「ブラタモリ」はたまに見ると面白いとは思うものの、継続して見るだけの根性がありませんが、「ブラタモリ」に登場する岡本哲志先生が監修された本だそうな。で、その中に「三つの門はなぜ残ったのか」と題して、大名屋敷門の流転を紹介したコラムがある。それによると、大名屋敷の表門は住人である大名の格式によって形式が決められていたが、この因州池田家のタイプは最高の格式を持つんだそうな。そりゃそうだよな~。実物を見れば建築のことを知らない人にもその風格はわかるだろうってぐらいのものだからな~。同書によると、 【高松宮邸にこの門があった時は観光バスが来るほどの人気で、 地元から移築反対の陳情があったという。】なんだそうな。コラムの同じページには、明治期に描かれた「松平因幡守様江戸御屋敷の図」という絵が載ってるんだけど、小さいしちょっと見にくい部分もあるものの、左右の番所はもっと長く前面に突出した形になっていて、門前に立派な枡形を造り出している。現在ではこんな風に↓ ちょっと飛び出た程度の造りになってるけど、あるいは宮家に移築した際、少し番所の長さを縮めたかもしれない。この絵が正しければ、門だけでも結構なスペースを必要とするからね。現在の表門は漆がハゲたように見える箇所はなく、最初から素木造りのように見えるんだけど、「松平因幡守様江戸御屋敷の図」に描かれているのは黒い門。長く前に突き出た番所まで黒く塗られている。「黒門」というくらいだから、往時は黒漆で塗られていたと考えるのが自然かもしれない。両大師にあった、寛永寺の旧本坊表門を思い出してください。規模は池田家表門の方がデカいけど、イメージとしてはあんな感じになるのかな。「松平因幡守様江戸御屋敷の図」では、黒塗りの長い番所を取り込む形で白漆喰の多聞櫓が乗り、白と黒のコントラストが美しい。関東大震災も、先の戦争での空襲も乗り越えたらしいけど、それ以前の明治5年にも大火があったらしく、その難も逃れて現在に雄姿を伝えている。大名屋敷の門や遺構の中には各地へ移転して現在も残されているものもあるけど、約300あった諸藩の江戸屋敷の表門で現在重文に指定されているのは3つだけ。この池田家表門は最高クラスのものだから、こんなのが江戸にゴロゴロしてた訳でもないけど、それでも格下の小大名でも上屋敷の表門ともなればそこそこの体裁の門は構えていたでしょうから、当時の江戸の町・・・特に、江戸城に近い場所はどんだけ華やかだったんだろうと想像せずにはいられない。 門の大黒柱ともいうべき鏡柱もとにかく太いから、乳金物も必然的にデカくなる。要するに、巨乳こちらが向かって左側の番所↓。 いやホント、番所部分だけでもすごいわ。 ↑びっしりと並ぶ瓦の美しさに、ただもううっとり・・・外から写真を撮ってる最中、門をくぐってこちら側に来た人達がいた。そうか、トーハク側からだとくぐれるんだな。 確かに、門の手前にある看板には土日と国民の休日には開門されると書いてある。(ただし、天候などの事情で開かない日もあるそうです)いいな、私もくぐりたいな~。まあいいや、今度トーハクの中に入って、内側から門をじっくり観察しよう。にほんブログ村
2014年01月30日
旅日記には色んな失敗談を書き込んでますので、わたくしの旅には失敗がつきものである事を皆様よくご存知だと思います。どころか、失敗談を楽しみにしている方がちらほらおられることも存じております。今回の旅も今日で4日目ですが、気を付けてるのにやっぱりいくつか失敗がありました。ので、今回の記事は失敗集にします。他人の不幸を楽しむとともに、皆様も失敗にはお気をつけあそばせ。一人旅を始めるまでは、相棒と一緒の旅がほとんどでした。ぼんやりしてて大雑把なわたくし(O型)に代わって、いつも相棒(A 型)が忘れ物のチェックなどをしてくれてました。でも、一人となるとそうしたことも全部自分でやらなきゃなりません。思い返せば、お泊まりの旅は去年の厳島以来だから1年ぶり。先日誕生日を迎えて461歳になったわたくしの脳ミソはだいぶ衰えてきましたので、忘れ物には気を付けなきゃいかんな~と自分に言い聞かせてました。去年の厳島では大事な資料を置き忘れるというドジをやらかしてますので。そこで今回の旅での標語は「見返り美人作戦」。立ったら後ろを振り返って、忘れ物のチェックをしようという訳です。ところがなかなかこれができない。標語があるのを忘れちゃうんだから、できるハズがありません(←重症)おとといは一度、靴を脱いで堂内でお参りした後、閉堂間近で何とか頑張って予定をこなそうと急いで歩き出して、道が下りになったのでストックの長さを変えようとしたらストックがない。やばっ・・・さっきのお堂でストックを外に立てかけておいたまま、忘れちゃったんだ・・・時間がないので泣きたくなりましたが、幸いまだそんなに離れた訳じゃないので急いで引き返しました。 早く気づいてよかった・・・しかし昨日、ついにやっちまいました今回は寒い場所なので、手袋は行動用に薄い指ぬきのを1枚と極寒の時のために厚手のポワポワのを1枚。ホントに寒い時には2枚重ねにするのですが、去年の東西条ではほとんど使わなかった。が、今回は結構使いました。で、昨日帰りの電車から降りて外が寒かったのでポワポワのを出そうとしたら、ない・・・うわっ、記憶にないけど、きっと電車の中で外して膝の上に置いたまま忘れて立ち上がっちゃったんだ・・・環境的に厳しい行程は今日でもう終わったけど、夕方なんかは平地でも寒いとこだし、どうしよう・・・結局、こっちのデパートで代わりの手袋を買いました(泣)。ああ、やっちまったぜ・・・今回は3日間山歩きをしてました。ので、腰に疲労がたまって実は大変なことになってますが、それはしょうがありません。今回はろくに体力造りしてなかったから。ケーブルも通っているので自分の足で歩かなくてもいいのですが、歩きたいと思わせたエピソードがあったんです。で、2日目・・・そのエピソードの現場までたどり着きました。そこに行くにはほとんど道らしい道じゃないとこを通るのは知っていたので、表示が出たところで登山道を離れて斜面を登って行きました。かなり急で、濡れた落ち葉が積もる道だったので、下りは気を付けなきゃな~と思いながら登り、目的地に到着。少し休んでから元の道を引き返しました。ええ、もうお分かりでしょうが、案の定滑りました。しかも、かなりヤバい体勢で。座ってこの記事を読んでる方は、左手の肘を少し曲げた状態で手のひらを床にべったり着けてみて下さい。そのまま~、お尻を50センチ以上前にずらして下さい。無理のない範囲でね。かなり肘が後ろに曲がるでしょう?そんな体勢だったのですが、実際は下りの急斜面で、しかも一瞬でその状態になったので、二の腕にかなりの力がかかってます。転んだ瞬間、痛いとかよりもその体勢に「ヤバい!!」って思ったくらいだから。二の腕か肩甲骨のどこかが骨折したカモ・・・とまっつぁおになりましたが、とにかく立って冷静に状況を観察することに。腕も肩も痛いけど、とりあえず動かせるな・・・痛みも、骨折だったらこんなもんじゃないハズだし。しばらく様子を見てましたが、どうやら行動を中止しなきゃならないほどではないらしい。奇跡だ・・・絶対、ただじゃ済まない体勢だったのに。その後は予定通り行動しましたが、痛みはあるものの、深刻な状況じゃない。もう、ぶっちゃけケガ慣れしてるからね~(笑)。ある程度の判断くらいはできちゃうんだよね~。まあ、そうは言っても無理のある体勢だったので、腕はもちろんのこと、肩や首にもかなりの筋肉痛くらいは出るだろうと思ってました。翌日。思ったほどの痛みは出なかった。奇跡としか言いようがないです。よかったよ、ホント。ケガといえば、一昨年の日帰り旅では派手なケガをしました。覚えておられる方もいるかもしれませんが、あれは岡山行きを2週間ほど後に控えた取手(茨城県)での史跡めぐり。石段を登ったところにある城跡を目指して、お手製の資料を見ながら石段を登ろうと一歩目を踏み出した時。あるハズの階段はそこになく、思いっきりバランスを崩して前のめりに階段に身体ごと突進していき・・・左肘、負傷。擦り傷だけど外傷はひどく、血や体液が流れ出るほどでした。もうほとんどの行程はこなした後だったので、その時はそこで帰ることにしました。帰ってからも、腕はチョ~痛い。病院に行くか迷いましたが、「転んで擦り傷作っちゃいました~」で病院に行ってもいいものだろうかとも思い、自己治療で済ますことにしました。が、その数日後、顔にブツブツが沢山できたので皮膚科に行ったついでに先生に傷口を見せたら、どうやら私の治療法は間違っていたらしい。化膿しているからと抗生物質を出されました。私の身体は抗生物質と相性が悪いので飲みたくないって言ったんだけど、先生は許してくれませんでした。擦り傷が少し落ち着いてきた後も、自転車に乗ってると小さな揺れも肘に響く。擦り傷があまりにひどかったために、その傷口が痛いんだと思ってたけど、自転車の揺れが痛いのはずっと続いたし、頬杖もできない状態だったので、ここにきてようやく「骨、大丈夫かな・・・」と思い始めました。整形外科に行こうと思った頃、やっぱり抗生物質の合併症が出てしまったので、優先順位を考えて婦人科の方へ行きました。で、そのまま岡山旅行に突入・・・擦り傷の方もなかなか治らなかったので、ホータイ巻いたままの出陣となりました。 帰ってから整形外科に行くか迷いましたが、受傷からだいぶ時間が経ってしまったので、今さら行くのも何だよな~と結局行かずじまい・・・しかし、この時行っておけばよかったんです。頬杖ができないのはその後も数ヶ月続き、横になって本を読むこともできませんでした。かなり経ってからようやく痛みは引きましたが、寒い時とか忘れた頃に左肘がズキズキ痛む。1年経っても、2年経っても。今から思うと、たぶん小さなヒビくらい入ってたんじゃないかと思うんです。ほとんど全体重を肘で支えたから。マズったよなあ。階段は以前も尾てい骨を骨折したことがあるし、もう見栄なんかかなぐり捨てて今ではものすごく慎重に乗り降りしてます。 あと、未公開の記事の中での失敗で思い出すのはやっぱ岐阜だよな~。少し前の記事で書いたと思いますが、長良川の戦いのあった場所で、岐阜城の模擬天守が見えるお宿。ポットでお湯を沸かそうとしても、電源が入らない。おっかしいな~、コンセントは入ってると思うのに・・・しばらく奮戦してましたがどうにもならないので、これはホテル側がチェックを怠って不良品を置いたのだろうと判断し、フロントに電話して替えのポットを持ってきてもらうことにしました。来てくれたのはお姉さん。「どうにもつかないんですよね~」と説明したら、確認すると言って部屋に入ってきた。テーブルの下を覗き込んだお姉さんが言うには、テーブルの裏側を通したコードが差し込まれてないということだった。うわ~、ハズカシ!!あまりの申し訳なさに平謝りに謝って、お姉さんを送り出した時、ドアを閉めようとしたお姉さんの動きが止まった。「あの、これは・・・」と遠慮がちに言うお姉さんの行動の意味がわからなくてドアの外を覗き込んだら、なんと部屋のカギがノブにささったままだったうぎゃあああ!!ノブに差したカギを回収しないで部屋に入っちゃったんだ~!!本人はそんな事全然気がついてなかったので、もしお姉さんを呼ばなかったら気づかないまま寝ちゃって、悪い人の侵入を許してたかもしれない。一人旅の時は防犯にも配慮して、夕方部屋に戻ってからは翌日の朝出掛けるまで部屋から一歩も出ないからね、私は。も~、ダブルで恥ずかしい思いをしたけど、結果的には助かった。ホント、後から冷や汗かきましたよ。笑い話で終わったからよかったけど、さすがに家族にはこの話はできませんでしたね。一人旅禁止令が出ちゃうかもしれないから(笑)。まだ他にもあった気がするけど、明日は早いのでここまでとします。明日、帰ります。失敗談を増やさないよう、頑張ります。
2014年01月28日
皆様こんばんは。戦国ジジイでございます。永年勤続のごほーびに長いお休みを頂いたので、今日から某所に来ております。えっと、年末の雑談だったっけ?予定を入れ替えたってアレね。今回は城はありません。寺ばっかし。でも半分以上は山に登ります。寒い場所なのですが、さすがに今日は暖かかったです。おかげで着る物に悩んだけどね。 「新春はケージョーから」がちと長くなったために、直前まで何の準備もしてなくて大変でした。早くやらなきゃいけないのはわかってたんだけどね~。でも、正月の分は一気に書いてしまいたかったんだもん。あらかたの予定を組み終えた後になってから、雪の事を忘れてたのに気がついてまた大変。雪自体はいいんだけど、もちろん初めて歩く道だから、ちゃんとルートを辿れるのかが心配・・・とりあえず、昔取った杵柄の雪用山用具を久々に引っ張り出して準備を進めました。山城に行く時はいつも思うんだけど、登山やっててよかったよなあ。今日はまずケーブルで上まで上がって道の様子を見ながら少し歩いてみましたが、雪はあるにはあったんだけど、登山道はまあ大丈夫そうかな。ただ、明日は朝方まで雨らしいので、天候次第だな。でまあ、山上ではなるべく今日のうちに買い物しようと思ってたんだけど、また本を色々買ってしまった しょうがないな、買っちゃったもんは(←開き直り)。しばらくこちらにおりますので、上野編がまた中断して申し訳ありませんが、帰るまでお待ちくだされ。ただね、今回の中身は「出張寛永寺」みたいなもんです。ここを選んだきっかけが追っかけみたいなもんだから。寛永寺のことを書いてなかったらたぶん今回ここは選ばなかっただろうな。ので、上野編もまだまだ先は長いし、今回の旅の記事も長くなるだろうし、今年は寛永寺関連が中心になりそうです。ゆえに、わたくしの今年の漢字は「寛」。これに決まりだな(笑)。さて、明日の準備して寝るべ。※「ぽち」はサイド欄のバナーからお願いします。
2014年01月25日

それでは両大師の方へ戻ります。寛永寺には歴代輪王寺宮の墓所もあるってことだったけど、夏の時はわからなかった。が、元三の日にもう一度探してみたら、手水舎の先にあった↓。 扉はぴっちり閉められていて、中へは入れないようです。まあ、そりゃそうか・・・この入口のすぐ脇にはこんな石碑があった↓。 「輪王寺門跡祠堂料 一、金拾萬圓也」うん、まあこーゆー碑は他の神社とかでも見たことあるけど、私の目を引いたのはその寄進した方のお名前。「村上天皇皇子 村上具平親王後裔 三木啓次郎」・・・とあるのだ。ハア?村上天皇!?えっと、まず具平(ともひら)親王は村上天皇の第7皇子。村上天皇の皇子たちからは村上源氏の3つの系統が生まれ、その中でも具平親王系は最も栄えたという。で、寄進者の三木さんは一般の方かと思ったから最初は名前を出さずにおこうかと思ったけど、いちおう検索してみたらウィキペディアにちゃんと載っている。碑には年月日が書いてないから、ウィキにある三木さんと寄進者の三木さんが同一人物かはわからないけど、たぶん同じ人じゃないかと思うのでそのセンで話を進めます。御先祖の三木之次(ゆきつぐ)さんは水戸徳川家初代の頼房(徳川家康の11男)に仕えた。頼房はなぜか側室が長男を懐妊すると堕胎を命じており、之次に預けて麹町の三木邸で長男が生まれた。これがのちに高松藩初代藩主となる松平頼重。同じ側室が次に懐妊すると、またもや堕胎を命じて之次に預け、今度は水戸の三木邸で三男が生まれた。これが徳川光圀・・・水戸の黄門様です。変なオヤジだな~。何か事情があるらしいけど、そんなら子作りしなきゃいいじゃん・・・(笑)。この流れからすると、之次は頼房の命をシカトしたってことなのかな。でも、頼重が生まれたあとも之次は頼房に仕えられたんなら、頼房の本心は面倒な事情は別として我が子を好きで殺したかった訳ではないらしい。もしこの時、側室を預けられたのが他の忠実な家臣だったとしたら、あるいは私達はあの国民的ご長寿番組を見ることはできなかったのかもしれない。之次の子孫である三木啓次郎さんは幕末の水戸藩士。ウィキペディアにはこんな話が載っている。 【1918年(大正7年)、啓次郎は桜田門外の変でその後逃走し自刃した 水戸浪士の霊を慰めるため、大阪四天王寺境内を訪れた。そこで二股ソケットを 販売していた松下幸之助と出会った。 経済的に困窮していた松下だが、話を聞いた啓次郎が水戸の田畑を抵当に幸之助を 援助した。後に成功した幸之助は恩義に答えるため、松下電器を水戸黄門の スポンサーとし、浅草寺の雷門、四天王寺の極楽門、水戸の常磐神社境内にある 三木神社などに寄進した。】アハハハ、三木さんは黄門様をこの世に生み出し、黄門様が主役のドラマを長く放映し続けるだけのスポンサーもゲットしたのかTVドラマ「水戸黄門」のファンの方は、三木家に感謝しないといけませんね。ウィキペディアには、上の文章に続けて【皇室とも縁が深く「木戸御免」であったという】とあるんだけど、この三木さんが天皇の血を引く家系だとはどこにも書いてない。ただ、具平親王の系統であるなら、つまりは村上源氏の出ってことか。三木家が村上源氏の家系なのかはわからないけど、水戸徳川家の家臣である三木さんが徳川家の菩提寺である寛永寺に寄進をするというのはそんなに無理のある流れでもないよな。さて、これで両大師での用は全部済んだ。元三の日の時は門の方へ向かいつつ輪王寺宮の墓所の方を見たら、塀ごしにちょっとだけ見えた↓。 これは形からして、灯籠かな。その奥にもこんなものが見えた↓。 左側の笠は一部欠損してるけど、五輪塔のようにも見える。右側のは無縫塔だから、あれは恐らく輪王寺宮のどなたかの墓じゃないかな。元三の日は「新春はケージョーから(8)」で書いた通り、この後お隣のトーハクへ向かいましたが、輪王寺宮の墓所がちょうど通りに面していることがわかったので、もうちょっと中の様子が見れないもんかな~と思って覗きポイントを探しながら歩いていきました。 赤いのぼりが立ってる、塀が一段高くなってる内側が輪王寺宮の墓所。うん、こちら側からは無理だな。この先を回ったところならどうだろう・・・そう思って、墓所の区画に沿って回り込んだら だめだあ~、全然見えね~。ガード固っ!!しょうがない、先行くべ、先・・・こちらが両大師前の道↓。上野戦争ではこの付近で彰義隊側の死者が出てますね。 少し歩いたところがトーハク(東京国立博物館)。寛永寺の旧本坊のあった場所です↓。 位置的に、大体この辺りに本坊の表門・・・今は輪王殿にある黒門が建っていたと思われます。夏の時はトーハクでは「和様の書」という企画展をやっていたので、誰か戦国武将の書状とかも出品されてるのかな~、ちょっと寄りたいな~とも思いましたが、時間的にムリだし。それより、本坊の黒門にあの弾痕たちが付けられたのはこの場所。表門前でも彰義隊の死者が出てますね。夏の第二編ではこのまま通りを少し先まで歩いていきましたが、正月の第四編では博物館に初もうでしに久々に中に入ったので、第四編から少し中の様子をご紹介しましょう。トーハクの奥っかわには一部本坊の庭園が残されているということだったので、「よみがえる江戸城」の整理券をもらって最初の用が済んだところで、まず奥へ向かった。が・・・ ・・・あ、やっぱりダメか~。トーハクのホームページを見ると、庭園は春と秋に公開されるとあったので、それ以外は見られないのか?と思ってはいたんだけど、やっぱりか。これは春を待つしかないな。この立ち入り禁止札は門にかかっていた。ま、せっかく来たので門の外から見える部分だけとりあえず撮っておいた↓。 ↑この道を行った先に庭園があるのかな。正月にトーハクから根本中堂へ向かった時には、庭園の脇あたりを歩いていったので、なんとか少しでも道路から見えないもんかとちらちら覗きながら歩いていったけど、やっぱり見えなかった。くそっ、ここもガード固いな・・・ トーハクの敷地は全部が全部本坊の敷地ではないようなんだけど、正門前のこのあたりは紛れもなく本坊エリア。つまり、日光へ出張していた3ヶ月を除き、歴代輪王寺宮がここで過ごされたのだ。これが正門を入った正面に見えるトーハクの本館↓。建物はご覧の通り近代的なものだけど、頭の中で和風の建物にすりかえてこんな感じのデカい建物がかつてこの辺りにあったんだろうな~と妄想。 宮のかつてのお住まいには、今ではこんなものもある↓。 正面入口から脇に少し行った場所には、大きな木があった↓。 冬枯れしててもかなり大きな木だったので、この木は本坊時代からあったのかな~と妄想は止まらない。なんでも、トーハクの敷地内には有馬家の墓もあるって話だったんだけど、この時はちょっとわからなかった。やっぱりそれも庭園の方にあるのかな。少し暖かくなり始めたら、またトーハクのサイトをチェックせねばならんな・・・にほんブログ村
2014年01月23日

黒光りしている黒門は、重厚感があって本坊にふさわしい立派な門ですが、意匠自体は案外シンプル。まあ、見方によってはそれが逆に威厳があるとも言える。その中で唯一と言っていい飾りがこれ↓。 真っ黒な中に、これは目をひきます。ちょうどこの頃、団体様が門の方へ移動してきて埋没しそうになったので、団体様が引率者の説明を聞いてる前でいくつかの写真だけ手早く撮って逃げることにした。この場合、これ↓が鏡柱というのかな。なにか金属が打ち付けてある。時代的に、鉄かな・・・なら、この部分は筋鉄じゃん(笑)。もちろん、これは城じゃないので扉はフツーですが。 門の真下部分↓。 なんでこんなところに「車止」なんてあるんだろうと夏の時は思ったけど、今から考えるときっと輪王殿で葬儀がある時は黒門の正面の門が開けられてここから人が出入りするようになってるからなのかもしれない。輪王殿の前には駐車スペースもあるんだけど、車はたぶん脇の方から出入りするようになってるんだろうな。こんな歴史のある門をドライブスルーするなんて、ばちあたりもいいとこだもんね。 門扉を裏側から見たところ↓。どこもかしこもピッカピカです。 柱の陰に団体様が一部写っちゃってますが、確かこの時、門に残る弾痕についての説明をしてたんだよな。聞くともなしに聞いてて、ああそういえばそうだった、ジジババが去ったら探そうと思いながら他の写真を撮ってたんだ。さっさと逃げようと思って写真を撮っていても、団体様が私の後からついてくる格好になっちゃってどうにも都合が悪い。だめだ、団体は個人客への配慮なんかないから、ひとまずここを離れよう・・・そう思って一旦黒門から遠ざかったところで撮った門の内側↓。 あ~、ジャマだなあここで、まだ反対側の妻を撮ってないことに気が付いてふたたび門へ接近↓。 ここでようやく団体様が移動を開始してくれたので、落ち着いて写真を撮れるようになった。 ここは疎(まばら)垂木なんだな。裏の板までピッカピカ~。で、これが邪魔者のいなくなった門を内側から撮ったものです↓。 よその場所でもたまにあーゆー団体に出くわすことがあるけど、たいがい道をふさごうがお構いなしで、我が物顔で場所を占領するから悪いけど私はキライなんだよね。そのまま真っ直ぐ門を抜けて、今度は外側から↓。 屋根がデカいからどうしても陰になっちゃう。でも、これで満足しました。で、満足したまま次へ行っちゃいました。・・・はい、大体の想像がついてた方もおられるでしょうが、弾痕探すのすっかり忘れてましたんで、ここからは上野第四編・・・「新春はケージョーから」の両大師本堂を出たあとに撮った写真になります。最初はどこに弾痕があるのか探せなかった。漆がハゲてる時なら見つけやすいかもしれないけど、今は全面ピッカピカなので漫然と門を見ているだけではわかりにくいと思います。門自体もかなりデカいからね。あれ、おっかしいな~・・・と思って外側などから見まわしてもわからない。いや、フツー門を攻撃するならやっぱり扉部分で、門扉を吊り上げてる壺金のあたりとか狙うのが有効かな、とちょっと頭の中で攻撃シミュレーションをしてからもう一度門扉を探してみたら、あった。 んまあ、あるわあるわ。目が慣れると、なんで最初はわからなかったんだろうって不思議なくらい沢山ある。大きいものには、いつものように手持ちのペットボトルで大きさ比較してみました↓。 ↑これなんかは低い位置にあるし、いい形をしているので(笑)扉の厚さがわかる。あいにく穴の先にピントが合っちゃって肝心の扉部分はボケてますが 扉の大きさに比べて、厚みはそれほどない。銃じゃなくて大砲で至近距離から撃てば、結構ダメージくらうんじゃないかな。よく門扉が破壊されなかったよな。(て、だから城門じゃないんだって)え~と、数えてみたら外側から見た場合の向かって左の戸に4つ、右の戸に5つ、あと左の脇戸にデカいのがあってこちらが計2つ。大小さまざまな穴がありますが、小さいのはホントに小さいので、おい薩長、本気でやったのか!?ってちょっとツッコミ入れたくなりました。意外にしっかりした造りの門のようです。 弾痕の説明は前回の「寛永寺だより」からの解説文にありましたが、彰義隊への攻撃の時・・・つまり上野戦争の時のものです。弾痕のある扉が今も使われてるってことは、ほぼ見たまんまの程度の被害だけってことかな。この攻撃で門は突破されたんだろうか。ちなみに、本シリーズでは上野戦争についての話は書きません。彰義隊って、イケイケな若者たちが最後の抵抗をしたって単純な話かと思ったら、当初は旧幕府側から歯止めのために加わってた人達もいたようだし、隊の中でも派閥があってそんなに単純な内容でもないようなのでね。それに、大村益次郎が容赦なく攻撃を加えて悲惨なので、あまり好きでない・・・味方にすれば優秀な軍師ですが、旧幕臣方の立場に立って見ると憎たらしいほどイヤな男です。大村益次郎ってのは。まあ、そうは言っても上野戦争の経過は書かないけど、杉浦日向子先生の「合葬」には「歴史と人物」(中央公論)を参考に作成した戦死者一覧が絵になってるので、寛永寺の栄光の歴史を追う陰でふっと上野戦争の様子も思い浮かべちゃったりするのですが。上野戦争での彰義隊の犠牲者は上野公園内がやはり多いですが、この両大師の門を出たあたりでもちらほら死んでますね。そして、辛くも死地を脱した若者たちは、会津を目指して落ちていったのだ・・・合掌。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年01月21日

こちらが井戸の奥にある鐘楼↓。 ほう、だいぶくたびれた感があるけど(笑)、垂木には沢山飾り金具が付いてるし、かなりいいぞ。往時は相当華やかだったんじゃないかな。 かすかに葵の紋が残ってる↓。 蟇股各種↓。これは「新春はケージョーから」の元三の再訪の方が綺麗に撮れたのでそちらを載せます。 これは麒麟なのかな?1つめと3つめのはフリルのついたエプロンを着けてるようにしか見えないんだけど内部の鐘↓。 おっと、なんかデコラティブだぞ・・・これ、いつの鐘だろ?と思ったら、奉納者は足立区と台東区の某さんとあったので、どうやら近年の奉納らしい。やっぱりここも供出の憂き目にあったか。これで両大師の境内としては一応終わりなのかな。が、その奥には小さな門がある↓。 【幸田露伴旧宅の門 この門は明治の文豪幸田露伴(1867~1949)の旧宅の門で、谷中にあった ものを移築したものである。瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造で、 明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をよくとどめている。 露伴は下谷生まれで、代表作「五重塔」(1893)の主人公「のっそり十兵衛」は、 現寛永寺根本中堂を手がけた大工の棟梁をモデルにしたものだといわれている。】 (現地解説板より)へえ、幸田露伴は上野の出なのか。ホントに小じんまりとした門で、背の高い人はかがまないと通れない位だけど、おかげで屋根の部分が間近に見える↓。 桟瓦葺。この大棟って、両大師に入る前に通りから見た黒門の大棟の変わったデザインとほぼ同じだよな。そっか、こんな造りになってるのか。なるほどね。この門をくぐると、広々とした空間が広がる。左手に建つ大きな建物が輪王殿↓。 これが前回の石碑の解説にあった、天海350年忌であらたに建てられたってやつね。先日、すまほのニュースを見ていたら、音楽プロデューサーのナントカさんの葬儀がこの輪王殿で行われたとあった。へ~、都内での有名人の葬儀といえば増上寺か築地本願寺が多い気がするけど、寛永寺でもやるんだ~、つまり輪王殿はセレモニーホールってことか・・・って別の意味で食い付いちゃいました(笑)。あんまり、寛永寺で葬儀って聞かないんだけどね。なんで寛永寺では大きな葬儀が行われないんだろう、営業力の差かな?と思って検索してみたら、どうやら宗派とかそういう枠を越えて単にキャパシティの問題らしい。結構ここも広いと思うんだけど、有名人の葬儀ともなれば参列者も多いから、そういう面で増上寺か築地本願寺か青山葬儀場かの選択肢しかないらしい。つまり、その寺で葬儀を行うというよりは、貸し会場的な場合が多いんだと。なるほどね。で、露伴の門をくぐった正面に目をやると、奥の方に団体様が・・・ わ~、やだあ。なにあれ~ 彼らが何者なのか、この後どうするのか遠巻きに見ていると、どうやら史跡めぐりの団体様らしい。ちっ、めんどくせーな・・・都内の史跡ぐらい、個人で回ればいいじゃん(←団体キライ)思わず団体様に背を向けて、ちょっと時間つぶしに露伴の門を再びくぐって鐘楼を観察↓。 外側の彩色はほとんど消えかかってるけど、まだかすかに残ってる。細かく装飾が施されてたみたいだな。少し鐘楼を見てたけど、後ろの様子をうかがうと、まださっきの場所にたむろしているので、引率者の説明でも聞いてるらしい。しょうがない、いつまでも待ってる訳にもいかないし、さっさと写真を撮って逃げるか。 で、私が向かったのがこちら↓。 両大師に入る前に、通りから柵にへばりついて眺めていた黒門です。黒いから黒門て呼んでるけど、正式には寛永寺旧本坊表門(重要文化財)。そうです、天海や輪王寺宮がおわした本坊の門です。現地にはこれについての解説板はなかったんだけど、両大師の本堂でもらってきた「寛永寺だより」(平成25年第2号)が黒門の特集号のような感じになってたので、そちらから引用してこの門の由来をご紹介します。 【寛永寺の旧本本坊表門 表題は現在「黒門」の名称で親しまれている門の正式名称である。 というのは、この門は今の東京国立博物館の所に寛永初年に建てられた本坊の表門で、 しかも建てたのは寛永寺の開山天海大僧正自身なのである。 この本坊には天海僧正を初め、二代東叡山(寛永寺)山主の毘沙門堂門跡公海大僧正、 そして三代目の守澄法親王(後水尾天皇第三皇子)から十五代の公現法親王まで、 いわゆる輪王寺宮が住まわれたのである。 このように、天海僧正自身の建立で、しかも本坊として使われ続けてきた訳だから、 寛永寺にとっては何物にもかえ難い大切な建物なのである。しかも、そこには 戊辰戦争(彰義隊の戦争)の折の大砲の弾の痕なども生々しく残り、幕末の歴史を 伝える建物でもある。 昭和12年に現在地に移築されるまでは、現東京国立博物館(東京博物館・ 帝室博物館)の表門として、江戸時代のまま使われ続けて来たという歴史もあって、 早くから国指定の重要文化財に指定されている。 今回この由緒ある門が、文化庁などの援助の下に、美事に修復されたことは極めて 意義深いものであると同時に、寛永寺の歴史の上でも特筆に値することだと言って いいのである。】うん、この文体・・・浦井正明氏に似てるな。浦井氏はこれまで何度も引用させていただいた『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(2007年)の著者で、著作の発表時点では寛永寺の執事長とある。が、「寛永寺だより」(平成25年第2号)ではちょうど新しい執事長のご挨拶が載っているので、現在では執事長さんではないけど、寛永寺のお坊様であることに変わりはない。不思議なもので、論文とかの固い文章でも結構執筆者の個性って出てくる。似たような言い回しをしているものであっても、考察の展開の仕方だとか、総合的にその人独自の世界ってあるもんでね。1回読んで2度と読まないものもあるけど、論文でも一般書でも難しかったり興味深くて何度も読み返すものは何となくその人の世界が染みついちゃったりするので、名前を見なくても誰が書いたかわかっちゃう時があるんだよね。まま、それはともかく、「寛永寺だより」に載ってる黒門の写真には「平成25年1月修復直後」とあるので、「ペンキ塗りたて」ならぬ「漆塗りたて」でまだピッカピカ。「寛永寺だより」には古い写真や絵も数点掲載されていて、昭和後期頃と思われる修復前の黒門はもう漆ハゲハゲで建築に興味のない人ならきっとボロっちいと思ったに違いない。明治10年には第1回内国勧業博覧会の門として使われたそうで、その様子を描いた絵にある黒門の屋根には、デカい時計台がで~んと載っているなんてことすんだって言いたくなるけど、まあ破却されずに残っただけいいか・・・それにしてもこの門、相当デカいです。しかも薬医門だから屋根がどーんとデカくて、プラス総黒漆塗なので重厚感がハンパないです。いやあ、門越しに見るだけだったらどうしようかと思ったけど、近くに寄れてよかったなあ浦井氏の『上野寛永寺 将軍家の葬儀』には「主要伽藍初建年次一覧」という、霊廟関係を除く主要な堂宇が建立年代順に一覧になっている便利な表があって、それによると黒門の建設年は寛永4年(1627)。その2年前に本坊ができて寛永寺がこの世に産声を上げたばかり・・・まだ山内の全域が境内ではなかった本当の初期の頃にこんなデカい立派な門が本坊にあったなんてちょっとオドロキ・・・ホントにこれ、寛永初期の建築かなあ~って疑問も個人的になくはないですが、寛永年間のものであればまだ天海も生きてたし、そうなると初代・天海から最後の輪王寺宮・公現法親王まですべての寛永寺の主がこの門をくぐったことになる。江戸期に生まれていたならまず間違いなくこの門を庶民がくぐることはできなかっただろうから、なんとも感慨深い・・・しかし、漆塗りたてで美しいのはいいですが、裏っかわまでまんべんなく黒漆でピカピカなので、門に色んな背景が写りこんじゃってぶっちゃけ写真は撮りにくいです(笑)。次回は黒門の細部の写真をご紹介しましょう。にほんブログ村
2014年01月19日

え~、思った以上にお正月特番が長引いて申し訳ありませんでした。もちっとコンパクトに収めるつもりだったんだけどなでもほとんどが寛永寺関連だから、あまり違和感なかったでしょ?(←ゴーイン)それではこれより上野第二編を再開いたします。夏の両大師の続きです。ただ、ちょっと所用があって月内は更新頻度が遅れますのでご了承ください。本堂の手前にも天海マーク↓。これはだいぶ新しいものみたいだな。 そのすぐ先↓。どうやら本堂をくぐって行かれるようになってるらしい。(ただし、拝観コースではありません)昔はどういう造りだったんだろう・・・ その先に、両大師の由来を書いたちょっと変わった形の石碑がある↓。 【両大師由来 當堂には寛永寺開山慈眼大師天海大僧正と、大僧正が尊崇された第18代天台座主 慈恵大師良源大僧正を祀る。天海大僧正は本坊内に慈恵堂を設けておられたが、 やがて大僧正の入寂後に建立された開山堂に慈恵大師を合祀したため「両大師」と 呼ばれる様になった。 ここに慈眼大師350回の御遠忌を迎え両大師堂を始めとする寺観を一新すると共に 新たに輪王殿を建立し、以て報恩の一端に擬するものである。 平成5年10月2日】 ふ~む・・・平成元年の火事は残念なことだったけど( 「上野第二編(27)」参照)、ちょうど350年忌でもあり、本堂の再建とあわせて全体をリニューアルさせたってことか。 じゃあ、昭和までの境内とは少し違ってる訳だね。こちらが庫裏かな↓。近代的な建物。 唐破風につく兎毛通は猪目。屋根には金の菊が載る↓。 ここで両大師の敷地としてはどん詰まりになるので、向きを変える。 【御車返しの櫻 この櫻は一本の木に一重と八重の花が同時に咲きます。 後水尾天皇が京の寺で花見を終えた帰路、花の余りの美しさに牛車を返して再び ご覧になったことからこの名前があります。】 (現地解説板より)ん~?帝が愛でた桜?そんな由緒のある桜なら、輪王寺宮がもらってきたのかな・・・いや待てよ、後水尾天皇の在職中の出来事なら、天海が譲り受けたってことか?と疑問に思って検索したら、長野朝日放送のサイトの「新聞に載らない内緒話」というページにもそっと詳しいことが書いてあるのを見つけた。それによると、後水尾天皇の子・守澄法親王が初代輪王寺宮になった際にもらったものなんだそうな。東国へ向かう守澄法親王が、せめて京の香りのするパパの愛した桜をねだったものか、あるいは遠くへ行く息子のはなむけとしてパパが持たせたものか・・・なにせ、皇子が江戸で徳川家のための寺に入った初めての例だからね、朝廷と徳川家の間でもさまざまな軋轢があったし、関係者がそれぞれ複雑な想いを抱えながらこの桜を江戸へ運んだのかもしれないな~と思うと、この木一本だけでも短編小説が書けそうです。後水尾天皇は常照皇寺に花見に行った際、この桜を目にしたんだそうな。鶯谷のウグイスといい、上野周辺には輪王寺宮の縁で京から色々なものが入ってきてたんだな。この桜は、江戸の春夏秋冬の名所を集めたガイドブック・江戸名所花暦では28品の桜の一つとして挙げられているとある。また、池波正太郎もこの桜を愛したそうで、上野周辺の桜が散った後に咲く遅咲きのこの桜を見に、熱燗持参で夕方の境内に一人陣取って御満悦だったそうな。境内で酒を飲んでいいんですか・・・(笑)。御車返しの櫻の下にはこんな岩がある↓。 どう見てもただのデカい岩にしか見えないんだけど、「寝釈迦石」(ねしゃかいし)と立札がある。どうも納得行かなくて、角度を変えて見てみたけど 普段は妄想力のたくましいわたくしですが、どうもこーゆー系のグッズに合点がいくことは少ない。厳島でも牛の形の石と言われてるものがあったけど、やっぱり納得いかなくてぐるぐる角度を変えながら首をひねってたっけ。その先には、かつての井戸らしきものがある↓。 上野第一編から、時々建物の鬼板や蟇股に不自然な「ぽっかり」があるのを見かけましたが、ここにもそれがあった↓。 変だよな~。しかもここの「ぽっかり」には一部ハゲてる箇所があるので、自然に取れるものとも思えないし、意図的に外したと見て間違いないだろうと思うんだけど。まあ、寛永寺の歴史を考えれば外したのは「葵」じゃないかと思うけど、寛永寺内の建造物で葵が付いてる箇所なんていくつもあるしな・・・それに、このままじゃあんまりだから新しく何かはめればいいのに。変だよな~。 ↑井戸はふさがれていたけど、上には滑車が付いてる。てことは、この建物はもとから井戸とセットだったみたいだな。井戸の方には何か彫られている↓。 一部、漢字が難しかったり崩し字だったり磨耗してたりして全文は読めないんだけど、「謹 東叡開山廟前」と最初にあるので、初めから両大師に奉納されたものらしい。寺域に大きな変化のない寺であれば、古い寺でもあまり気にしないで済むものが、寛永寺の場合は闕所前の山内の変遷も大きかったし、明治以降に大幅に規模が縮小されて各種グッズが元の場所から随分移動しているようなので、結構大変・・・つか、めんどくさい(笑)。ただ、正真正銘の「めんどくさい」で終わるものであれば、いちいち銘なんか見ないけどね。めんどくさいと同時に、とんでもない所にとんでもないグッズが移動しているものを見つけると、自動的に妄想スイッチが入るのである意味私向きかもしれない逆の言い方をすると、普通の観光客が目を向けないようなものに寛永寺の歴史を感じることができるので、こういう楽しみ方のできる寺はそうそうないのかもしれません。っと、それでこの井戸の石の銘の日付は正保2年(1645)10月2日。あれ、10月2日って天海の命日じゃん・・・天海は寛永20年(1643)に亡くなっているから、その2年後ってことは、つまり天海の3回忌に奉納されたってことか。天海の墓は日光にあるんだけど、正保元年には上野に慈眼堂ができてるから、日光でももちろん3回忌の法要が行われたでしょうけど、寛永寺でもこの両大師でそこそこ盛大な法要が行われたんだろうな。現在ではふさがれて、ほとんど参拝者の目を引くことのない井戸ですが、寛永寺の歴史の重みを物語る貴重な遺物です。昔日の寛永寺の面影を求めて上野を歩かれる際には、ぜひこうした地味なものにも目を向けてみてくださいね。めんどくさいっちゃめんどくさいんだけど、見つけ出す楽しみがここにはあります。にほんブログ村
2014年01月17日

国際子ども図書館の前には、こんなふたがあった↓。 文話?ナニコレ?電話線でも通ってるのかな・・・それでも、いくら古いふただったとしても「電信電話」ぐらいの表現になりそうな気がするけど交差点を渡って上野公園内を歩いていたら、こんな石碑があった↓。 こんなとこにぽつねんと・・・上野公園内にある小さなフツーの公園の中にも、古い灯籠が立ってたりしたので、丁寧に歩けばこんなのがごろごろ見つかるかもしれないな。上野公園内にはあちこちに道が延びており、結構複雑。寛永寺をお目当てに来るまでは、だいたい上野での行き先は限られていたので歩いたことのない道も多い。今歩いている都美術館沿いの道も、初めて歩く道。と、こんなのが出た↓。 おお、これ上野動物園の旧正門だ!上野第二編でこれも観ようと思ってたんだけど、カットしたんだよね。現在、この風格ある門は使われておりません。次に行ったのが、上野東照宮。境内の様子はこの後の上野第二編の方で紹介しますが、またここに来たのは、正月だから参拝しに来たのと併設のぼたん苑が冬季開苑をしていたから。実は第二編、第三編と東照宮へは続けて来ていますが、夏と秋のいずれの時よりも、やはり参拝客は多かった。パンパンするのに並んだくらいだから。寛永寺の根本中堂で満足すぎるほど満足したので、あとはぼたん苑をさらっと見て今日は終了だと思っていた。ところが、境内に入ってみると夏と秋には見られなくてがっかりしたものが見られた!!今回これが見られるとは思ってもいなかったので、どれだけ私が嬉々として写真を撮りまくったか想像がつくでしょうか・・・いや、ホントにツイてたなあそのツイてた大量の写真たちは、上野第二編でこの後紹介しますね。東照宮は計3回分の写真があり、それを上野第二編で一括して掲載する予定なので、上野第二編は相当長くなりますよ~(笑)。で結局、ぼたん苑は受付終了近くになって入苑。寒い中、けなげに咲いている冬ぼたんをいくつかご紹介しましょう。入ってすぐのぼたんのそばには、変な形の灯籠が立っていた↓。 このぼたん苑は日中友好を記念して昭和55年に開苑。開苑当初は上海と洛陽の植物園から寄贈された中国牡丹を中心に70品種だったのが、現在では和洋中とりまぜて250品種3200株もの牡丹が咲き誇るまでになったそうな。去年の年末から例の話題でお隣の国からいつもの非難が浴びせられておりますが、一旦は対等な立場で公式な交渉を経て国交を結んだのだから、ナントカの一つ覚えのように政治のカードに利用するのはご遠慮いただきたいものだと、かつての友好の証である牡丹を見て寂しく思いました。友好記念に贈られた牡丹の中には、北宋時代に咲いたといわれる珍しい品種なんかも含まれていたらしいんだよね。上野動物園の初代パンダ、ランラン&カンカンだって友好に贈られたものだったのに、それが今じゃ高額レンタル商品・・・それはともかく、寒牡丹を咲かせるというのは大変なことらしく、着花率はなんと2割以下だそうな。 【花の少ない冬にお正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが 冬牡丹です。 春夏に寒冷地で開花を抑制、秋に温度調整し冬に備えるという作業に 丸二年を費やし、厳寒に楚々とした可憐な花をつけます。】 (上野東照宮ホームページより)そうして大切に咲かせた花たちは、みんな雪ん子になってます。 苑内からは、五重塔も見えます↓。 もう夕暮れ間近で、相当疲れたし寒かったけど、ここが都内であることを忘れるような光景です。苑内のあちこちにはベンチが用意されてたんだけど、どのベンチにもこんなのが置いてあった↓。 灰皿?まさかね・・・途中からもしかして・・・と気付いたので手をかざしてみたら、温かかった。おお、親切に火鉢まで用意してくれてるのか~! 結構奥まで進んだところで、こんなのがあった↓。 結構沢山貼ってあったので、みんなどんなのを詠んでるのかと思って見てみたら、風雅なのあり力作ありヘンなのあり・・・みんな恥ずかしげもなく・・・あやや、この寒空の下できゃいきゃい言いながら即席俳人たちが一句をひねり出していったんだな~と思うと、ほほえましくもあり見てるうちいとおしささえ感じてきた。ゆえに、主役の牡丹はさらっと見ただけだったのに、ここに貼ってある句には全部目を通しました。結構、ガイジンも何やら英語で書いてるのがあってね。もちろん、それは5・7・5になってませんが(笑)。てことで、いくつかピックアップしてきましたので上野東照宮ぼたん苑特設スタジオの「奉納冬ぼたん俳句選」から少しご紹介しましょう。 「冬牡丹 気がきく女(ひと)になれなくて」 「靴音に一片散りぬ 冬牡丹」 「上野にも 牡丹乱れし 我が都」 「火のように 笑い開いて 冬ぼたん」 「参賀すみ ほほえみ分かつ 寒ぼたん」 「冬ぼたん 初めて見たけど 良いですね」 「寒ぼたん 五重の塔を 紅く染め」 「てしおかけ ぼたんの花わ うつくしい」 「人の手の 温もりで咲く 冬ぼたん」 「冬コート セールで買ったよ 冬牡丹」 「琴の音に 心洗われ 冬ぼたん」 これをね、詠んだご本人の筆跡とあわせて見るとまた味わい深いものがあるんだけどねともかく、皆様よいお正月を過ごされたようです。めでたい。この後、苑内にある休憩所で甘酒を飲んで少し休んでからまたちょっとだけ補足の確認をしに山内を歩いたけど、だいぶ薄暗くなったのでこれで今回はおしまいとした。翌日は貞子が遊びに来るので、何かお菓子でも買っていこうと上野の駅ナカを探したら、美味しそうなアップルパイがあった。どうやらパイの専門店らしく、いくつかの種類があったけど、大ホールはアップルパイしかなかったのでそれをお買い上げ~。そしたら、パウンドケーキが丸ごと1本ついてきた。太っ腹だなあ~。帰って早速8等分したら、あんなに大きなホールだったのにちっちゃいカットになってしまった。で、ペロリと平らげてしまったんだけど、すごく美味しかった~「手造りパイ マミーズ アン スリール」(mammies an sourire)台東区や文京区を中心に4店舗・・・あ、大丸(東京駅)にも入ってるんだな。ここ、おすすめ~今回はアップルパイしか買わなかったけど、チョコバナナパイなんて珍しいものもあった。あれも美味そうだったんだよな~。今度上野に行ったら、また買って帰ろう。結局、予定以上に頑張っちゃったので(また)相当疲れました。けど、特別企画や期待してなかったものが見られたりと大変満足した年明けになりました。ただ、しばらくは朝イチで行ったあの場所のせいか、ちょっとヘンなことがあったりなかなか寝付けなかったりしましたがやっぱり今年もわたくしの恐がりは治りそうにありません。にほんブログ村
2014年01月14日

ひとしきり参拝者を眺めたあとで、戦線復帰。向かって右側の将軍画像の方へ行ったら、正面側の御簾のすきまから御厨子のようなものが見えた。この付近はかなり狭くて混雑してたんだけど、正面側からそれを確認したくて人をかき分けてもう一度正面の方から暗い奥を覗いてみた。そしたら、「最樹院様」って書いてある。帰ってから調べてみたら、11代・家斉の実父で一橋家当主の徳川治斉のことらしい。なんで根本中堂にあるのかはわからないけど、ともかく治斉は寛永寺に葬られたんだな。せっかく正面に戻ったので、いじましくもまたまたここで仏像鑑賞。だって、普段は見られないものだしさ~。目がつり上がってはいても、結構イケメンでお色気のある仏像ばかりなので、写真を撮って家でもじっくり眺めたいと心の中で泣きました。堂の中央には古い鰐口もあったな(←ほとんど観てない)。結局、油絵の方は全然見なかったんだけど、油絵ロードの最終地点には寛永寺の写真があったので観に行った。そしたら、こんな解説があったので手書きで写してきました。 【現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を移築し、 上野山内の寛永寺本地堂の焼け残った材をあわせて再建され、今に至ります。 近年、須弥壇やその壇上の四天王・十二神将等の修復も終わり、秘仏本尊である 薬師如来像を取り囲む形でお祀りされています。】へえ・・・どれがそうかはわからないけど、綱吉の中堂の一部もこの中にあるんだ。それは知らなかったな。そろそろ15時。まだ後から人はやってくるけど、案内係のお坊さんが「あまりお時間もありませんが、どうぞ中へ」って参拝者へ声を掛けている。最後の最後まで観ていたい気持ちはあるけれど、この後行く予定のところもあるし、そろそろおいとましなきゃな・・・まだ根本中堂でお参りをしていなかったので、最後にお参りをしようと思ったら待ちの人達が並んでいた。ので、ちょっと間を置こうと思って見納めにまた正面へ(←しつこい)。仏前には色々奉納品もあったけど、その中に金一封のようなものが飾ってあった。何か書いてあるのでよく見てみたら、 「天皇陛下 御下賜金」と書いてある。おお~、さすが寛永寺だな!都内には大きな寺院や、目玉商品を抱えていて人気のあるお寺も多いけど、現在の寛永寺はちょっと人気の点では落ちるかもしれない。が、やはり歴史のある寺なので、一味違うなと思った。まあ、他に御下賜金を戴いた寺院が都内にどれだけあるのかは知りませんが。その後で、入口の方に戻ってお参りをした。本当は最初に御本尊様にご挨拶すべきものなので、良い子はマネをしないでね立ち上がって真上の鴨居を見てみたら、正面の蟇股は馬の彫り物だった。おお~、こんなとこに今日第2の縁起物が!!またトクした気分になった。根本中堂を出て周りを見渡しながら歩いていくと、こんなのがあった↓。 あれ?夏にこんなのあったっけ?あったとしても撮ってないから、撮影。 実物はかなりデカいし、正面から鬼と目を合わせると結構迫力あります(笑)。ただ、この鬼の感じだとわりかし新しいものじゃないかと思うけど。ついでに、夏には逆行でろくな写真が撮れなかった家綱霊廟の鐘を撮ってきました↓。 うん・・・一昨日にはこれで除夜の鐘を「ご~ん」したんだな。「ゆく年くる年」で観た増上寺の年越しは、0時ちょっと前から増上寺のお坊さん達が沢山鐘の前に並んで、0時ちょうどの時刻に合わせて全員で「ご~ん」してた。ただ、ちょうど入場を待ってる1万人が0時のカウントダウンをしてたので、民衆の「5・4・3・2・1・ゼロ~~」の歓声に合わせて「ご~ん」してたのが笑えたんだけど。増上寺ほどの人出ではないにしても、寛永寺のこの場所でも同じような光景が広がるんだろうな。来年は寛永寺で年越しってのもいいよな・・・いや待てよ、翌日が元三会だから、ここで年越しすると正月は上野に通いづめになっちゃうなまあ、あと11ヶ月以上先のことなので、また後で考えます。これで根本中堂はおしまい。しつこいようですが、特別公開はものすごく良かったです。もちろん、好みの問題ではあるので、「そうでもないじゃん」ってクレームを寄せられても困りますが。史跡めぐりでもそうそう仏像群を見ることはないのであまり比較はできませんが、「何度でも観に行きたい」と思ったのは寺門の金堂と寛永寺ぐらいだよな。・・・あ、どっちもイケメンがいるな・・・結局、顔かおっと、忘れるところだった。夏の上野第一編で根本中堂前にある銅灯籠を紹介しましたが、あらためて銘を確認してみました。が、どこにも銘がない・・・通常、胴の部分にあるもんだけど、探せなかった。ゆえに、どなたの奉納で元々どこに奉納されたものなのかはわかりませんでした。ただ、笠に葵の紋が付いてるので、徳川家かあるいは庶子あたりだろうな。徳川を名乗らない庶子でも、葵の紋の灯籠を奉納しているのを見たことがあるのでね。いずれ、それは紹介すると思いますが。それから、今回多くの仏像が公開されてはいましたが、実は根本中堂の御本尊様は公開されてませんでした。正面におわした小さなのがそうかと一瞬現地で思ったけど、『寛永寺』で見てたのと違うし、サイズも全然違う。そーなんです。『寛永寺』のいいところは、秘仏系も惜しげもなく写真が掲載されているんです。両大師の良源さんの画像も、天海坐像も載ってるしね。ただし、根本中堂の四天王や十二神将は載ってません。帰ってから『寛永寺』を確認してみたら、やっぱり御本尊様は違っていた。『寛永寺』では「薬師如来三尊像」となってますが、例の近江・石津寺からの薬師如来像と出羽・立石寺からの日光・月光両菩薩像のことです。( 「上野第一編(8)」をご参照ください)正月にも御開帳にならなかったんなら、一般公開される時はないのかな?ま、幸い『寛永寺』にはデカい写真が載ってますので、良源画像などとあわせてご覧になりたい方は、上野で『寛永寺』をお求めください。4回目の寛永寺訪問とは言っても、まだ行ったことのない子院がある。ので、今回は行くつもりでいたんだけど、トーハクにいた時点で時間的にもうムリだと早々に諦めました。で、根本中堂を出て上野公園を目指して元来た道を戻る。途中にはこんな像があった↓。 なんか、上のはいちおう天使らしいんだけど、どうもイヤな感じがした。が、その下には 小泉八雲のレリーフらしいです。どういう由来があるのかはわかりませんが、ここは黒田記念館手前にある国際子ども図書館。 写真はこれだけしか撮ってませんが、建物はめちゃくちゃ立派です。 【東京都選定歴史的建造物 国際子ども図書館(旧帝国図書館) この図書館は、明治5年8月湯島の聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管) 以来の伝統を受け継いでいる。書籍館は幾度か名称の変更を経て、明治30年4月に 帝国図書館となった。この建物は同39年3月帝国図書館新築工事の第一期分として 竣工したものである。 当初の建設構想は大きく、全部が完成すると東洋一の図書館になる予定であったが、 当時の財政事情により全体の四分の一程度が完成するに留まった。その後、建物の 左側の部分が昭和4年に増築され、現在の規模となった。 昭和24年からは、国立国会図書館支部上野図書館として一般公衆の利用に供する ことを主たる目的として運営されてきたが、改修工事を行い、平成12年5月5日 国立国会図書館国際子ども図書館として開館、現在に至っている。躯体はほぼ 創建時のままとすることで、全体として洗練されたネオ・ルネッサンス調の 風格のある建築となり、明治の雰囲気を今に残している。】 (現地解説板より)多少増築されてるとはいえ、それでもせいぜい当初予定の半分ぐらいの規模に留まるんでしょうから、どんだけ大きなのを造るつもりだったんだと実物を目にするとちょっと呆れますが(笑)、あーとくろす上野にふさわしい建物ではあるし、これだけの建物の維持管理も大変だとは思うけど、大切に残していって欲しいものだと思います。にほんブログ村
2014年01月13日

外で少し写真を撮ってから次へ向かう。ミュージアムショップの景品交換はめんどくさくなってやめた(笑)。あ~、楽しかったな~。600円であんなに見られていいのだろうか。と思いつつも、トーハクを出て、西へ。ミュージアムショップで買った本が早速肩に食い込む。重いな・・・通りを挟んだ向かいの上野公園内にもなにやら人だかりがあった↓。 あちこちでお正月企画満載なんだな。しばらく通り沿いに歩いていくと、こんなのがあった↓。(場所はこちら) うん? トーハクの1ブロック内の西端は法隆寺宝物館のはずだけど、こんな建物じゃないし、とっくにそこは過ぎてるはずだしな・・・にしても、これ・・・ なんか、すごいんだけど。何なんだ、これ!?と思ったら、ちゃんと書いてあった↓。 ああ、そっか~。これかあ~!これがこの辺にあるのは知ってたんだけど、場所がイマイチわからなかったんだよね。こんなとこにあったのか~。 【博物館動物園駅 照明復元事業 この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明 器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出に より取外され、永く失われていました。 この駅舎と地下鉄空間の保存と再生を願い20年間にわたる活動を続けてきた 市民グループ、NPO法人<上野の杜芸術フォーラム>による企画と募金活動により、 2010年、漸く1灯の復元が成りました。芸術の中枢機能が集積するこの交差点 <アートクロス上野>に向けた光を復活させるものです。】 (現地碑文より)あーとくろす上野・・・初めて聞いたわまあ、この交差点はトーハクとトーハクの黒田記念館があり↓ 黒田記念館の向かいには東京芸大、そしてトーハクの向かいには都美術館がある。確かにアートな通りではあるよな。この駅は現在は使われてませんが、偶然めっけたのでちょっとトクした気分だった交差点にはこんな案内が立っていた↓。 正月だから、特別に出てるのかな?そーなんです、サブタイトルでもうおわかりでしょうが、ただ今寛永寺の根本中堂を目指しております。案内に従って通りを入っていくと、向かいからぱらぱらと人がやってくる。この先は寛永寺ぐらいしかないから、みんな寛永寺へ初詣に来た人なのかな。さすがに正月はそこそこ人出があるんだな。根本中堂ロードへ入ると、東京芸大の敷地内にぽつんと石塔が立ってた↓。 なんだろ、あれ・・・あの形だと、墓かな?近寄って見たいけど、塀がジャマして銘の部分は見られない。ちぇっ・・・で、根本中堂↓。 お~、夏の時は人もまばらだったけど、今日は沢山いるし、飾り付けもされている。お正月だなあ。根本中堂の入口にはこんなのが立っていた↓。 そっか、どなたでも、なのか・・・やっぱりそうだったのか。これね、前回書いたトーハクの「博物館に初もうで」でのトーハクと寛永寺のタイアップで、徳川歴代将軍の油絵と寛永寺所蔵の仏像が中堂内で公開されるって企画で、当日分のトーハクの半券を持参すると散華をお配りしますってトーハクのサイトに書いてあってね。「散華」ってなんじゃい?と思ったけど、法要などで花びらをまいたりするから、お花か花びらあたりがもらえるのかな~って漠然と想像してた。根本中堂を拝観するのにトーハクの半券が必要とは書いてなかったんだけど、とりあえず半券を持っていけば間違いなく拝観はできるだろうと思って、「よみがえる江戸城」も見たかったし、それでトーハクを予定に組み込んだんだよね。まあ、トーハクは楽しかったし、別にいいや。で根本中堂に近寄っていくと、お姉さんが「東京国立博物館の・・・」って何か言ってる。あ、散華のことかな?と思って近付いて半券を見せたら、こんなものをくれた↓。 【御葩(おはなびら)について 寺院では、様々な法会を執行する際、諸尊諸仏をお迎えする道場を清め、来迎の 諸尊諸仏の徳をたたえ、供養するために御葩をまきます。これを「散華」とも 称しております。 仏教発祥の地インドでは、泥中に根を張りながら、水面には美しく高雅な花を 咲かせる蓮が「最上の花」とされ、仏像の台座にもなっております。こうした 事から、本来の御葩は蓮の生花や樒(しきみ)の葉などを用いていましたが、 現在では、蓮華をかたどった紙製の御葩が主に使用されております。 この御葩は、当山の法会で実際に使用されているものですので、どうぞ大切に なさって下さい。 仏縁と諸尊諸仏の御加護による御多幸を御祈念申し上げます。 合掌】 (御葩に同封されていた説明書より)ん~ん、やっぱり花びらだったか。わりと固めの紙で造られていて、蓮の花びらのようだな。これを使う場面を見てみたいな~。しかし、法会に実際に使われてるものとなると、欲しいと思ってもそうそう手に入るもんじゃないよな。堂宇の売店で売ってる訳じゃないし。せっかく戴いたものだから、このまましまいこんじゃうのも逆にもったいないな~。できれば身近に置いて使いたいけど、どうしよう・・・相当昔にツイートしたことがありますが、私はお寺とか博物館とかの拝観券は自分でパウチっこしてしおりとして使っている。ところが、だいぶ前にうっかりしてパウチの機械を壊してしまったのだ。パウチ用のラミネートフィルム(100枚入り)も沢山残ったままだったけど、また壊しそうだし、そこそこの数のしおりは造れたから新しい機械はその後買ってない。この散華、しおりに使いたいな~。いくら固めの紙だといっても、このまま使ったらすぐボロボロになるに決まってる。やっぱパウチの機械、買おうかな~・・・さて、いよいよ根本中堂の中へ。夏の時は木扉は開いてはいたけど、正面はガラス張りだったし、中堂には近づけないように柵がしてあったので、中は全然見えなかった。夏にはこんな特別公開があるなんて知らなかったし、ぶっちゃけ当時は寛永寺にここまで興味を持つなんて自分でも思ってなかったから、なんだか妙な感慨がある。靴を脱いだらビニール袋へ入れて自分で持ち歩くシステムになっていた。この日はロングブーツだったからちょっと荷物になったけど、両大師なんかは脱いだ靴が沢山あってはっきり言って邪魔だったから、後から来る人にとってはこちらの方がいいよな。中へ入ると、だいたい皆様時計回りに見ていってる。その順路に従えば、歴代将軍の絵から見ていくようになる。が、この絵がどこの所蔵かはわからないけど、日光輪王寺の宝物殿にも同じような絵が飾ってあったからな。あまり時間もないので、将軍の絵はパス。でまっすぐ正面に向かっていったんだけど・・・ちょっと大げさかもしれないけど、そこには夏の時には想像もしなかった夢のような世界が広がってました。堂内は写真撮影禁止だったから、撮れないのがホントに残念だったんだけど、何が夢って、そりゃアナタ、「上野第一編(8)」で紹介した、寛永寺の名作仏像コレクションですよ~!!仏像のことは全然わからないし、好きずきあると思うけど、ここの仏像群はホントに素晴らしかった。中央に小さな(たしか)薬師如来様の御厨子があり、その両脇に重なって居並ぶ四天王・十二神将などの仏像たち。お不動様もいたな。おととしぐらいだったか、トーハクで空海展の立体曼陀羅が話題になったけど、あれは残念ながら観に行けなかったものの、きっとこんな感じだったんだろうな~と思った。とにかく、圧倒的な存在感。一言で仏像の特徴を言っちゃうと、みんな目がつり上がってうすら笑いを浮かべて、ちょっと腰をくねらせて立ってる・・・そんなミもフタもない表現になっちゃうんだけど、じっくり一体ずつ観るとそれぞれに表情もあるし、とにかくホントにすごいの一言。年寄りなんかは、座って観たり拝んだりしている人もいたので、私も正面の左右それぞれに座って観賞させていただいた。ちょっと、もうここから帰りたくないんだけど・・・内部は結構人が入ってる。ひとしきり仏像を観た後で、少し後ろの空いてるスペースに座って遠くから仏像群と観賞している人達を眺めていた。ぱっと見、そんなに信仰熱心とも思えない普通の人達が、若いのも中年も年寄りも大勢来ては丹念に肖像画や仏像を眺めて帰っていく。お寺や神社へ参拝しに来る人を見ると、「やっぱ日本人だな~。日本っていいなあ~」って最近思うようになった。にほんブログ村
2014年01月12日

両大師を出て、お隣のトーハク(東京国立博物館)へ向かう。途中にはポスターがあった↓。 ほお、正月は寛永寺のあちこちで色んなイベントがあるんだな~。他にもこんなのが貼り出されていた↓。 これは「寛永寺だより」最新号の1ページ。なので詳しくは読まずに通り過ぎたんだけど、「特別公開中」って書き方が気になるなあ・・・もしかして今なら個人でも拝観できるのか?と思って心に留めておくつもりだったけどこの後の忙しい行程の中で完全に忘れましたさて、トーハク。本日第2のお目当てがここにあり、重要な用件もある。すでに上野編の方で何度か書いてもいますが、ここは寛永寺の本坊があった場所。が、ここでも新春スペシャル部分のみ紹介します。え~と、これは何で知ったんだっけ・・・両大師の縁日で良源さんの画像が御開帳だというから、それを調べてる時に見つけたんだっけかな。トーハクはなんと、1月2日から営業してるんだそうです。で、2日と3日は正月スペシャルということで特別なイベントが目白押しです。 最初はトーハクの半券に用があっただけなんだけど、この2日間はいいものをやるようなので、両大師の時間を削って少しトーハクに時間を割くことにしました。何が見たかったのかって、これです↓。 これはもともと・・・え~と、何て言ってたんだっけ・・・少し前に何か別の企画で創られたVR(バーチャルリアリティ)作品らしいんだけど、2日と3日にこれの上映をやるってことだった。しかもタダ。スタートが11時で、あとは1時間おきに数回上映されるということだったので、11時の回ならいくぶん空いてるかもしれないな~と思って両大師を早めに切り上げてきた訳なんです。で、入場してまずは11時の回の予約を・・・とずんずん東洋館にあるミュージアムシアターへ行ってみたら、お姉さんが外の入口で整理券を配っていると優しく教えてくれた。ああ、そういえばそう書いてあったっけ(←忘れてた)。お姉さんは、今からだと14時ぐらいの回になっちゃうかもしれません、と申し訳なさそうに言った。14時か・・・他を先に見る手もあるけど、どうしようかな・・・整理券をもらいに行ったら、13時の回にまだ空きがあったのでひとまず券をもらった。ちょっと他の展示も観ようと思ってたから、お昼を食べてちょうどいい時間かもな。本館の前には人だかりがあって、ピーヒャラ聞こえてくる。この2日間は、トーハク内のあちこちで特別企画が色々用意されている。見世物系では、獅子舞・和太鼓・紙切り(江戸の遊芸)・クラリネットコンサート。あの笛の音は獅子舞かな。獅子舞をゆったり見てる時間はないので、少し早いけど東洋館の隣にあるレストランで昼食。まだすいてたけど、席に着いて食事が来るのを待ってたらお姉さんが「お正月のプレゼントです」と言って水引の箸置きをくれた。先着150名様限定のプレゼントだそうで、トーハク内の他のレストランも同じようにお年玉プレゼントの企画がある。食べ終わって出ようとしたら、もうレストランの入口には待ちが沢山いた。トーハク内のレストランは限られてるからな・・・早い時間に入っておいてよかったな~。で、本館へ。人気の企画展の時ほどじゃないけど、結構人出があった。特別室では、新春企画「博物館に初もうで-午年によせて-」と題して、馬グッズを多く取り揃えた展示があった。ゆっくり観てたらキリがないので、ほとんど掛け足で観ただけだったけど、中にはわたくし好みのこんなものもあって 時々立ち止まる。博物館て写真撮影禁止かと思ってたら、トーハクは一部の撮影禁止の展示品を除いては撮影OKなのね。博物館で写真を撮ろうと思ったことがなかったので、ちょっとびっくりした。ま、だからと言って悠長にあれこれ撮ってる時間はないので、ほんの数枚撮っただけ。馬グッズは、たとえばこんなのとか↓。 これはイランで出土した馬のくつわだそうです。他にも、秀吉の所用と伝わる鞍なんかあったな。他の常設展の部屋も軽く見ながら抜けて、甲冑の部屋へ。トーハクには確か、大内義隆の甲冑があるんだよな・・・でも、残念ながらこの日は展示されてなかった。かわりに、旬なものがありました↓。 東照宮の縁起絵巻です。於大の方が子宝祈願に参詣する場面と、家康を出産するシーンのようだな。これは池田光政君が勧請して、岡山の東照宮に伝わるものだそうな。それから、こんなのも↓。 【大身槍 長船祐定 室町後期の槍で、茎(なかご)の一面に「加藤清正息女瑤林院様御入輿之節御持込」 の朱漆書がある。清正の息女瑤林院が初代紀州藩主頼宣に輿入の際持参したもので、 紀州徳川家に清正の槍として伝えられた。別に250cmの青貝螺鈿の柄が 付属している。】ほっ、清正の槍!そんなのあるのか~!実物はこんなに赤くないけどね。あと、新春特別展示として、天正16年に後陽成天皇が聚楽第に行幸した時の和歌をのちに烏丸光広が揮毫したものも出品されていた。過去、トーハクに来たのは企画展ばっかりだったけど、さすがに国立だけあって豪華賞品が目白押しです。展示室の一室には、長谷川等伯の国宝・松林図屏風がでーんと展示されていて、皆様じっくりと観賞しておられた。これはトーハクの投票コーナーでも「見たい国宝」のナンバー1に輝いたそうで、ゆえに正月の特別展示なんだそうな。が、通り過ぎる時に少し見たけど、わたくしにはデカい屏風に薄ぼけた墨絵がちんまり描いてあるようにしか見えなくて、どこがそんなに人気があるのかさっぱりわからない。自分の美的センスのなさに鼻で笑いながら、等伯の部屋を後にしました。そろそろ時間が迫ってきたので下へ降りてミュージアムショップをついでにちょっと覗いたら、目の毒としか言えないような本が沢山ある・・・で、ついこんなのとか いくつかつかんでお買い上げ~。ああ、今年からは少し本を買うのはガマンしようと年末に誓ったばかりだとゆーのに・・・ミュージアムショップで2,000円以上お買い物をすると、正月特別プレゼントがあるってことだったけど、時間がないので景品の交換は後回し。で、急いでミュージアムシアターへ。ここでは凸版印刷とトーハクの提携で様々なVR作品を創っては上映してるらしい。てっきりビデオ上映かと思っていたら、MCの近藤君が時々画面の前に出ては指さしたりしてる。あっ、これ近藤君のナマ説明なのか~声がすごくいいから、プロのナレーターなんだろうな。それで、「よみがえる江戸城」の中身ですが・・・すごく良かった~!!本丸御殿の内部を抜けて、松の廊下から天守へ向かう構成なんだけど、とにかく画像がキレイ。1月4日にはこれをNHKのBSでやったらしいんだけど、おそらく映像の一部だろうし、TVの小さい画面よりミュージアムシアターのデカいスクリーンで見るほうが絶対見ごたえある。VR用シアターだから、TV画面より臨場感もあるんじゃないのかな。ま、わたくしは当然建築の方に目が行ってたんですけどね。でも障壁画もすごく綺麗だったし、よくこんなもの創ったな~ってため息をつきながら観てましたね。もらってきたチラシを見ると、どうやらこの2日間の限定上映じゃなく、トーハクでは3月までやってるらしい。ただし、有料。2日と3日はタダで見られるってことだったんだな。首都圏近郊の方は、この作品をトーハクで観賞されてはいかがでしょう。500円の観賞料を払う価値はあるんじゃないかな。遠くにお住まいの方でも、NHKではたぶん再放送もやるでしょうから、観る機会はあると思いますよ。上映が終わって、満足して出ようとしたらなんとお年玉プレゼントで次回観賞用のタダ券をくれた。次回はこれ↓。 「日本中をブームに巻き込んだ天平のスーパースター」なんてコピーがついてる。映像ならではの至近距離からの撮影や解析がウリらしい。スーパースターなんて言われると、観に行きたくなっちゃうじゃないか・・・(たぶん行く)てな感じで、お正月のトーハクは魅力満載です。お近くの方は、来年はぜひトーハクへ初もうでされてはいかが?楽しかったよお~にほんブログ村
2014年01月11日

そろそろ移動する時間になったので、名残惜しいけど本堂を離れ、補足の写真を撮ってから次へ向かう。本堂前は、中へ入れずに外からのぞいている人がまだいた↓。 帰ってから「寛永寺だより」の最新号を読んでたら、良源さんの命日の法要である「元三会」は当日の1月3日ではなく、その前日の1月2日にやるらしいということが初めてわかった。そっか、3日だと縁日と重なっちゃうから前日にやるんだな。なんてこった~!次の元三会まであと364日待たなきゃならないじゃないかだって、知らなかったんだもん。でも、良源さんの画像は見ることができたし、天海像の首から下も見えたし(笑)、寛永寺の縁日がどういうものか少しわかったので、収穫ではあったよな。同じ天台だから、日光輪王寺のと同じようなものかと思ってたんだけど、護摩祈祷にもいろいろあるんだな。寛永寺は往時の規模より縮小されたといっても、上野山内には寛永寺所属の堂宇がいくつかある。それぞれに縁日もあるようなので、少し早めに行って座る場所を確保できれば落ち着いて見られるかもしれないしな。これは寛永寺諸堂宇の縁日制覇ってのも面白いかもしれんな。ちなみに、「寛永寺だより」(平成26年正月号)のラインナップを紹介すると、元三会についての説明があり、「天海伝」なる新連載がスタートしていた。「天海伝」の方は結構詳しく、でもわかりやすく書かれていたので、これはちょっと今後の展開(ダジャレじゃありまへん)が楽しみだな・・・正月号ということで、寛永寺の各子院の住職連名で新年のご挨拶のコーナーもあったんだけど、その筆頭には 【輪王寺門跡 寛永寺住職 神田秀順】とある。ふむ、確かに日光輪王寺の導師様がおっしゃっていたように、寛永寺でも「輪王寺門跡」を名乗ってるんだな。輪王寺宮は寛永寺と日光輪王寺の山主を兼帯したけど、「輪王寺門跡」は厳密には日光輪王寺の方であって、寛永寺は門跡寺院じゃないんだよね。天海時代にも、輪王寺宮時代にも、メインの拠点は寛永寺にあったのに、なぜ寛永寺に門跡号が下賜されなかったのか・・・色々考えてみたけど、まだわかりません。ただ、寛永寺と日光輪王寺にはどうもそれぞれの役割があったんじゃないかという論文を最近読んだので、なるほどな~と思う部分はありましたが、それはこの後の上野編の方で書きたいと思います。それから、平成25年第2号の「寛永寺だより」で寛永寺の杉谷大僧正が戸津説法の説法師を拝命したニュースを「上野第二編(28)」で紹介しましたが、正月号にその報告が書かれてました。杉谷師はこの大役を見事に果たされたらしく、「全体では宗内外より延べ千人を越えるという近年稀にみる聴衆でした」とある。その千人の中には、寛永寺からの大応援団、70人が含まれていたらしい説法中の写真も載ってるんだけど、お寺のお堂のようだから、東南寺の本堂なのかな。戸が開いてるので、これ、クーラーなしだわ相当暑かったろうな~。けど、無事にお役目を果たされたということなので、そのうち寛永寺から天台座主が誕生するかもしれないよな。杉谷大僧正はお盆やお彼岸にも定期的に法話を行っているので、ぜひ御聴聞くださいと「寛永寺だより」に書いてある。へえ、そんなら私も聞きたいな。てか、もう寛永寺の檀家になっちゃいたいんだけど(笑)。墓は持てないけど( 「上野第二編(6)」をご覧ください)、個人でもなれるでしょ?でも、どうすればなれるんだろ・・・まあ、うちは浄土宗だけど、考えてみれば私自身は長いこと日光輪王寺にお世話になってるんだしな。日光写真館などの記事で、輪王寺関連のいくつかの施設へは通常有料のところをタダで入れると書いたことがありますが、それは優待参拝証を持ってるからなんです。先日、お出かけのために財布の入れ替えをしていたところ、なにげにこの優待参拝証の裏面を見たら、「有縁のご信者として、随時参拝・入場できます」って書いてあった。有縁の信者か・・・言われてみれば、全然意識してなかったけど長いこと私は天台の守護を受けてきてたんだな~って初めて気がついた。愛用の頼政の数珠も、廉価品ではあるけどいちおう寺門で買ったものだしさ。だから、ここで寛永寺の宗徒になったところで何の問題もない。さすがに日光は遠いけど、寛永寺なら近いし。て、寛永寺宗徒になる野望をちょっと抱え出しましたが(笑)、両大師の縁日に来てた多くの人達も、祈願の申し込みって訳じゃなく、檀家さんも結構いたのかもしれないな~と思った。ところで、ウィキペディアでは良源さんを祀るおもな寺院は10ヶ寺紹介されている。京都・大阪・三重に1つずつで残りはすべて関東。群馬・栃木・茨城・埼玉に1つずつ、あと東京に3つ。関東で盛んってのがちょっと意外な気がしたんだけど、埼玉は喜多院だから、これは天海のゆかりかもしれないな。ま、他にもおみくじの記事で参考にさせていただいた丸亀の妙法寺のように、良源さんを大切に祀っているお寺は沢山あると思うけどね。都内のうちの1つはもちろん寛永寺両大師です。あと昭島市と調布市なんだけど、昭島の拝島大師(本覚院)にはちょっと面白いエピソードがある。 【本尊の元三慈恵大師像は良源が自らの姿を刻んだものとされ、本来は比叡山 横川の地に祀られていたと言われる。寺伝によれば、元亀2年(1571年) 織田信長の比叡山焼き討ちの際に、敬タン大僧都が大師像を持ち出した。 敬タンは諸国放浪の末、1578年(天正6年)この地に大師像を安置し 本覚院を創建したと伝えられている。】 (ウィキペディアより。敬タンのタンの字はごんべんに「甚」)どっかで聞いたような話でしょう?忘れちゃった人は「上野第二編(11)」でおさらいくださ~い。ま~、何でもかんでも信長様が悪者にされちゃってるけど、これまでの叡山焼き討ちの一般的な説、「焼き打ちマニア信長の本領発揮!堕落した坊主ども大量虐殺~!」てのはだいぶ疑わしい面があるからなあ・・・一般に、叡山も退廃した時期があったのは確かだと見られているようだし、あるいは焼き討ちがきっかけじゃなく、横川からお宝が横流しされた可能性だってあるんじゃないの?・・・て、それは単なる想像ですが、良源さんの画像の方は伊勢経由で江戸へ向かい、像の方は多摩へ流れ着いた・・・焼き打ちを経て、信長様も明智光秀も滅んだあとに僧たちは叡山へ戻っていったとされているのに、良源さんのお姿を写したものは帰山しなかった・・・ちょっと変な気がするのは私だけ?戦で離散したのはしょうがないとして、世の中が落ち着いた後に本気で叡山の復興を目指すなら、元あった場所に戻すべきだったんじゃないの?まっ、それはともかく、拝島へ引っ越しした良源さん(の像)はそこを拠点に、関東に元三信仰を広めていったという。良源さんを祀るので当然命日には縁日がある。拝島の初縁日の1月2日~3日にはダルマ市が盛大に催されるらしいんだけど、「武蔵名勝図会」には3日は深夜から多くの人が参詣に押し寄せ、夜が明けると良源さんは拝島から上野寛永寺まで飛んでいったとある。縁日のかけもちでっか~!じゃあ、調布は?佐野は?喜多院は?この拝島のダルマ市には例の角大師を描いた真っ赤な厄除けうちわが売られるそうで、これを玄関に飾っておくと悪いものを追い払ってくれるんだそうな。いや、ちょっと欲しいな~って思っちゃったんだけど、ダルマ市って人出がすごそうだし、うちは日光輪王寺の鬼門よけ札の中におわす良源さんが守ってくれるから玄関に置く必要はないし、純粋なうちわとして使うにも、職場で真っ赤な良源うちわなんか使ったら目立つだろうな~とか妄想だけが暴走しております今回、寛永寺に行く前に小伝馬町に寄ったことをいくら懐かしの場所とはいえ、意外に思った方もおられるかもしれませんね。わたくしも、場所が場所なので行くか行かないか結構迷いました。でも、小伝馬町の後は両大師で良源さんの画像にお目にかかれる。万が一、小伝馬町から悪いものが付いてきたとしても、良源パワーで追い払ってくれるだろうとアテにしてたんだよね(笑)。それにしても、拝島の良源さんの像は観たいよな。公開される時があるのであれば、拝島大師も行きたいリストに加えなければならんな。そしてまた行きたい場所ばかりが増えてゆく・・・にほんブログ村
2014年01月10日

身延別院を見終えた頃には、もう9:30近かった。やべえ、9:00過ぎには小伝馬町を出るはずだったのに・・・で、急いで駅へ戻って日比谷線で上野まで。小伝馬町から上野まではすぐだけど、結構電車も人がいたし、降りたら日比谷線ホームも地下鉄の上野駅構内もかなりの人がいた。人が多いのは別に不思議でもないけど、コロコロを引いた人も結構いて、なんかちょっと違う。読者様の中には、1月3日の有楽町の火災のあおりをくらった方もおられるかもしれませんが、私が家を出る前から止まっていた山手線と京浜東北線はまだ動いてないらしい。そうか、Uターンももう始まってるから、JRの利用客がみんなメトロへ流れてきてるんだな。新幹線にまで影響が出ちゃったからね、よりによってこんな日にあんな場所で火事が起こるなんて、痛いどころの話じゃないよな。幸いといっては何ですが、わたくしの今回の行程には影響がなかったので、人の合間をぬって急ぐ。当初の予定では入谷口から出て、JRの線路越しに上野のお山のガケを見ながら歩いていきたかったんだけど、もうそんな悠長なことしてる時間はない。結局、いつもの公園口から出て線路沿いの道をまっすぐ急ぐ。上野公園へ向かう人達は新春ムードでいっぱいなのに、私は時間に追われてあくせくしながら歩く。ああ、きっと今年もこんな調子で江戸の町をあちこち歩き回るんだろうなで、上野編で現在連載中の寛永寺両大師へ着いたのは9:52。ふうっ、ギッリギリ間に合った~この日はこれがあったんです↓。 もうこの筆跡覚えちゃったよ~・・・じゃなくて、両大師の初縁日です。てか、1月3日の「元三」だから、良源さんの命日の法要があるんだよな。法要を見に来たというよりは、この日に出されるお宝を見に来たのだ。ただ、この書き方、どうも気になるなあ・・・事前の調べでも今ひとつわからなかったんだけど、毎月縁日は3日で、この日に護摩祈祷を受けられるようでもあるんだけど、良源さんの法要の後にでもやるのかな?でも、大護摩祈祷は10:00からって書いてあるしな・・・とりあえず、本堂へ向かう。え~、寛永寺を目的に上野に来たのはこれで4回目。ので、この記事は「上野第四編」としてもいいんですが、第三編からは第二編の補足の写真を撮りに何度か同じ場所へ行ったりもしてますので、それらをいちいち時系列に書いてるとあんまりいい構成にならないし、気が遠くなるほど長いシリーズになってしまうと思います。ので、第三編・第四編で撮った写真で連載中の「上野第二編」の本編に間に合うもの・・・つまり、まだ書いてないスポットに関してはまとめて第二編の方で紹介します。とゆー訳で、ここでは新春スペシャル部分についてのみ書いていきますね。本堂の内部については「上野第二編(27)」でさらっと紹介しましたが、この日は第二編の時とはだいぶ雰囲気が違っていた。どう違うのかって、人がいっぱいいたんですよ~(笑)。縁日だから、あるいは周辺の道路に屋台でも立つのかと思ったけど、さすがに寛永寺ではそれはないらしい。急いで本堂の方へ向かうと、前を歩いてる人達はみんな靴を脱いで中に入って戸を閉めている。あれ?夏の時って、靴脱いだっけ?下駄箱もあるけど大した数を収容できない小さなものなので、本堂の前には脱いだ靴がいっぱい。でもとりあえず私も靴を脱いで中へ入ってみた。なんか前は土足で入ったような気がするんだけど、戸を開けてみると畳が敷かれていて、人が沢山座ってる。入口付近はまだ幾分開いてたので、勝手がわからないながらもひとまず座ってみた。結構この時点で観客席はきちきちで、私も法要を最後まで見たいのはヤマヤマだけど、この後も行くところがあるので、10:30ぐらいには両大師を出ようと思っていた。けど、なんかこの感じじゃ中座しにくいな・・・売店コーナーでは何やら人が大勢いて、お札の申し込みなどをしているようだったので座ってる人の間を抜けてそちらへ行ってみた。そしたら、どうもこれは護摩関係の申し込みらしい。やっぱり月イチの護摩祈祷も今日やるのか?どうもわからない・・・少し待ってみたけど、なかなか前の人が空かないので、お守りなどが置いてあるところをちょっと見てみたら、「寛永寺だより」の新しいのが置いてあったので、またまた人の間を割って入って「寛永寺だより」だけゲットしてから本堂の外へ出た。出てみると、まだ人はやって来る。家族連れも多いし、若い人も結構いたなあ。客層が意外な感じだったので、この人達は何が目的でこの日に両大師へやって来るんだろうと不思議に思いながらもそもそしていたら、脇っちょにおみくじがあるのを見つけた↓。 夏にこれ、あったかなあ・・・ともかく、ここは両大師。まさにこれは良源さんのおみくじだよな~と思いながら今年初のおみくじを引いてみたら、大吉だった私は割と大吉を引く方なんだけど、大吉でも結構へこむようなことが書かれてる場合もある。まあ、私は各項目の吉兆よりも、歌の雰囲気で判断してるんだけど。が、今回のおみくじは内容も素晴らしく持ち上げたものだった。ただし、この「第一番 大吉」は上り詰めた頂点の状態なので、精進せよ、ってこともあわせて書いてあったけど。靴を履いて本堂を離れようとしても、後から来た人達がまだ靴を脱いで中へ入っていこうとするのでなかなかこの場所を離れられない。ついでに本堂の入口に沢山貼ってあった宣伝を写してきました。 ほ~、なるほど・・・境内に立ってたのぼりは1万円で買えるのか。 普段は出ないグッズが、正月は特別に出されるんだな。それから、これ↓。 そーなんです。「上野第二編(11)」で徳川家綱の誕生祈願に天海が頼りにした、あの良源さんの画像の御開帳があるんですよ~!これがわたくしにとっての目玉です。ただ、『寛永寺』には画像の写真が載ってるから、見てはいるんだけどね。でもせっかくの御開帳だから、実物をこの目で拝みたかったのです。ちょっと中では予想外の状況に落ち着いて周りを見回せなかったし、はっきり言って忘れてましたこれを見に来たのに、すっかり忘れてしまうほど誰もいなかった第二編の時とはうって変わって賑わしかったんです。そうこうしてるうち、時間が来ていよいよ法要の始まり。外からガラス越しにその様子を覗く。お坊さんがぞろぞろと入ってきたんだけど、各自の席へ向かう前に、本堂正面に一人一人丁寧にお辞儀をしている。そうか、今日の縁日は一山総出って書いてあったもんな。しばらく見ていたけど、結構人数がいるので全員が着座する前に靴を履いて手水舎の方で一息ついた。第二編で綺麗なハスの花を咲かせていた本堂前の小さな池はもの寂しくなっていた↓。 今日は本堂も飾りつけがされている↓。 さてと、どうしようかな。縁日だからそこそこの人出は予想していたけど、ちょっと想像と違っていた。ただ、多いと言っても大観衆という訳ではない。本堂内部は結構広いけど、観客席は限られているので中で今座っている人達は100人前後くらいだろう。それでも、こうしている間にもぱらぱらと人がやって来ては中に入っていくので、観客席はきゅうきゅうだと思われる。あの人達は一体何なんだろう。護摩祈願に来た人なのかなあ?日光輪王寺の護摩祈祷は、一般客でも見ることはできる。ただし、祈祷申し込みをした人は柵の中に入って、ご本尊様と導師様に近い場所に座って祈祷を受ける。が、ここは入場からフリー。申し込みをしてなくても中に入って祈祷を間近で見られる。日光輪王寺と勝手が違うので、何がなんだかわからない。この日が「元三」でなかったら、別に混乱はしなかったかもしれないけど。まだ10:10。これでここを出るのもあんまりだしな・・・もう一度、内部を少し覗いてから移動しようかな。来た時は慌てていてきちんとお参りをしていなかったので、御本尊様にご挨拶をしてから靴を脱いでガラス越しに再び中を覗く。と、両脇に並んで座っているお坊さん達がお~お~言いながら、机の上に山と積まれたお経を開いては閉じ、を繰り返している。手のひらサイズのアコーディオンを想像してください。それを高く掲げて、蛇腹を長く開いて上から下へ下ろす。一つ終わっては次のミニアコーディオンを開き、を繰り返す。表紙は木で出来ているのか、閉じる時と使用後のお経を机に置く時はバン!バン!って大きな音がして、12人くらいでそれをやるもんだから、結構迫力がある。真ん中には赤い衣の導師様が1人いて、その脇の護摩壇に左右1人ずつ。ちょうど護摩壇に火が入った頃で、炎が見えた。へえ・・・護摩祈祷は日光輪王寺のしか見たことないけど、だいぶ雰囲気が違う。面白いな、色々あるんだな。導師様の正面に目をやると、赤い衣の坐像が見えた。あっ、天海像だ!顔の部分は御簾で隠れてるけど、あれは間違いない。えっと、良源さんの画像は・・・と思ったら、正面にいる天海坐像の向かって右手前に暗い絵が掛けてあった。えっ、あれ・・・?写真で見るとそこそこ顔もわかるけど、現物を遠目で見るとほとんどわからない。私は画像の写真を見てるのでかろうじてわかったけど、知らない人には判別は難しいだろう。それくらい、古い画像だった。にほんブログ村
2014年01月09日

こちらが大安楽寺のお隣、身延別院↓。(場所はこちら) 入口に何か解説板がある。 【木造日蓮聖人坐像 この坐像は当初、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(山梨県身延町)の宝蔵に安置されて いましたが、明治16年(1883)に身延別院が創建される際、祖師像として 迎えられました。ヒノキ材の寄木造りで、像高70センチメートル、袖張76 センチメートル、胡粉地に彩色を施しています。 頭は円頂形をし、瞳は水晶製、右手に笏、左手に経巻を持ち、法衣は朱彩、 牡丹唐草模様の袈娑の上に、同じ模様の横帔(おうひ)をかけています。胎内には、 明応6年(1497)7月、施主河島盛正との墨書銘があり、仏師山城発教定蓮が 造立した、室町後期の日蓮聖人坐像です。 関東大震災や第二次世界大戦の際にも焼失を免れ、昭和47年(1972)4月、 都子弟有形文化財に指定されました。製作年代の明確な日蓮聖人の坐像として、 貴重なものです。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)身延別院がどういうお寺か事前に調べていた訳ではなく、特にここにお目当てがあった訳でもありません。ただ、ここも江戸期は牢屋敷の敷地の一角だったので、明治以降になってできた寺ではある・・・てか、明治16年創建て上の解説に書いてあるな(笑)。場所柄、ここに住もうとする人はやっぱりいなかったらしいんだよね。現地では急いでいたので、上の解説は読まずに中へ入りました。 境内はそんなに広くない・・・車も2台置いてあるし、ほとんど建物だけでいっぱいってカンジ。よし、これならすぐ済みそうまずは本堂でお参りをしてと・・・あ。 日蓮宗橘・・・どんつくだあ(←何宗かさえ知らなかった) 写真を撮りながら、自然と口元がゆるむ。まだ「どんつくショック」から脱出できておりません、わたくし。本堂は閉まってたけど、中から読経が聞こえてくる。さすがにお坊様のお経なので、うちわ太鼓持ってどんつく、じゃありませんでした(笑)。本堂の向かって左手前には小さなお堂↓。 【油かけ大黒天神由来 そもそも身延別院に安置する油かけ大黒天の由来を尋ぬるに、現代の名優 長谷川一夫氏は京都伏見の出生にしてそこに油かけ町あり、昔油を売る商人道端の 石像に間違って油をかけて以来商売が大繁昌せりと。同しげ夫人は神仏に深く 帰依し、戦後間もなく、偶々この油かけ天神が夢に出て、帝都に祀り衆人と結縁 せしめよとの霊夢を蒙り早速身延別院の住職藤井日静上人(後の身延山86世法王) に相談すると、上人膝を打ちて喜ぶ。 上人亦幼少の時、藤井家正に火災発生せんとするや大黒天神が槌を以て幼児を 撃たんとす。驚いて目覚め裏に逃げて発火地点に至る。火防の大黒天として祀って 来たれり。長谷川一夫同しげ夫人施主となり、油かけ天神を祀る由来なり。 日蓮大聖人弘安2年の「大黒天神御書」に云く、大黒天神は釈迦如来の後身、 上行菩薩の垂迹(衆生を救うために仮の姿をとって世に出現す)なり。然れば 寂光の都を出でて慈雲三千(世界)をおほい、福徳を恒沙の刹土に満て、慈悲を 塵数の世界に布く。然れば無量の寿福円満せざるということなし。故に大黒という。 亦大暗夜叉と云ひ、或は闘戦塚間浴油神とも云う。油を以て灰身を浴して所求を 成ずるが故に、凡そ尊高の宝冠を改めて卑下の烏帽子を著し、珂雲の玉体を秘して 塗炭の黒身を現す。右の手には一実中道の槌を捧げ法報応の三身を知らしむ。 左の手には円教の袋を執て肩にかけて万法円備の真諦を顕す。極位の宝座を下りて 道祖の草鞋を履いては浴諦常住の理を知らしむ。如説而修行其福不可限、受持法華 名者不可量、所願不虚亦於現世得其福報。 弘安二年四月十日 日蓮 花押 祭日 甲子の日 殊に年の始めと終りの甲子を大切にして参詣すべし。開運、安産、 商売繁昌、福徳円満ならしむ】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)なんとまあ、長谷川一夫夫妻どすか・・・で、その卑下の烏帽子に塗炭の黒身の大黒様がこちら↓。 柄杓が2つ置いてある。これが油なのかな?すくってみると、ずっしりと重い。確かに油。これを大黒様にかけてみたら、ぬた~~~っとしたたり落ちた。確かに油だ(笑)。 面白いな、ここ・・・しかし、ゆっくりしてもいられない。振り向くと、なにやら石造りの立派なドームが↓。 ん~?日蓮さん(自称・上行菩薩)を祀ってるのかと思ったけど、同じ「じょうぎょう菩薩」でもこちらは「浄行菩薩」だな・・・この隣には、何だか古そうな柱↓。 その隣がお稲荷様↓。 鳥居の脇にはなんだかすごく変わった形の灯籠↓。 うしっ、これで全部かな・・・と思ったら、灯籠の後ろに水盤みたいのがあるのが目に入った↓。 うん、水は上の蛇口からひねり出すみたいだけどね(笑)。寛永寺に行って以降、だいぶ銘を確認するクセがついてきたので、これもそれなりに古そうな水盤みたいだし、何か書いてあるかな~と思ってかがみ込んでみた。 これ、絵か・・・?なんか馬っぽくない? 馬だよな、これ!おお~、午年の初めにこんな馬の水盤にお目にかかるとは!ちょっと今年、ツイてるカモ・・・帰ってから絵と思われる部分をなぞってみたら、こんなんなりました↓。 ね~?ウマっしょ これは珍しい。ちょっと覗きこまないとわかりにくいから、もしかしてあまり知られてないかもしれない。ちょっとこれ、いつの制作よ?と思って側面に回り込んだら、デカデカと彫ってあった↓。 「文政三年庚辰三月一五日」1820年だそうです。首都圏近郊にお住まいの方は、午年の今年、この馬の水盤を見に身延別院にお参りされてはいかがでしょう。珍しい油かけ大黒さんもあるしにほんブログ村
2014年01月08日

では、今度は情けの鐘の向かい側にある石碑群を紹介しましょう。 右側にある石碑の中には何か碑文が彫ってあるようですが、全然読めましぇ~ん。この辺りは吉田松陰先生のための特設エリア。公園入口にある「江戸三縁史」から残りのひとつを全文紹介します。 【吉田松陰先生終焉之地 吉田松陰先生は天保元年(西暦1830年)8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の 次男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。 吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の 学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。 安政元年(1854)3月、師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、 下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りと なって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。 「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」 同年9月まで約6ヶ月伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって 帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から 有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名の士が出て、中でも 伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。 わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三 であるが、その明治維新にこれら松下村塾の働きが大きな力となったことを 深く考えたいのである。 後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年(1859) 7月9日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時 「まち得たる 時は今とて武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな」 と決心を歌にのべている。 しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した 10月22日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているが、その中にあるのが 「親思ふ 心にまさる親ごころ けふのおとづれ 何と聞くらん」 の一首である。 また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかゝって 書きあげたのが留魂録で、その冒頭に 「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とゞめ置かまし 大和魂」 十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島に なった沼崎吉五郎に托したが、20年後、当時神奈川県令で塾生であった野村靖に 手渡したものが現在残っている留魂録である。 それによって当時の法廷の模様、訊問応應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、 自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえる ものである。 安政6年10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は、次の詩を高らかに 朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。 「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」 次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。 行年30歳。 明治22年11月正四位を贈位され、昭和14年6月十思小学校々庭に留魂碑が 建設された。】 (漢数字は戦国ジジイが変換、カッコ内一部補足。他は原文のまま)ハア、超長くて腕が疲れた・・・(笑)。この奥も、松陰先生のためのスペースです。 ↑「松陰先生終焉之地」。 ↑「身はたとひ・・・」の歌碑。 ↑顕彰碑のようです。本文は子供向けにやさしく書かれているので、あるいはこれが十思小学校に建てられたものかもしれない。これら石碑群の真ん前には、パンダやコアラがいます↓。フツーの公園の風景です。 公園の奥には池もあります↓。 池の向こうには1基の灯籠。池は渡れないので、ついクセでカメラを望遠にして銘を探しましたが、残念ながら見えませんでした。 この池の先にも石碑群↓。 この前には、不思議なものがある↓。 ナニコレ?「土足禁止」って、足ツボマッサージかな?忠魂碑の前で靴脱いで踏み踏みするの?東京都の健康政策かな 忠魂碑の脇には、細い通路がある↓。ああ、そうそう、こんなんだった~。 この通路の奥に これが十思公園のもうひとつの入口。昔はこの門を出た向かいに小さなパン屋さんがあったんだけど、もうなくなっちゃったみたいだなあ・・・公園に戻って、大安楽寺の方へ戻る。公園の出口にはこんなのが立っていた↓。 あ~、結構この公園てハトがいてね~。おにぎりやパンをちょっとむしっては、ピンと弾いてハトさんにおすそ分けしてました。皆が色々くれるもんだから、ハトの方も慣れたもので遠慮なく側まで寄ってきてたもんなあ。十思公園と大安楽寺の間の通りにあるポールには、こんなものが付いていた↓。 へ~、これはきっと最近付けられたものだろうな。さて・・・小伝馬町に着いたのが、8:40ごろ。この後の予定があるので、ちゃっちゃと写真を撮って9時過ぎには小伝馬町を出ようと思っていた。もう9:10だから、ちょうどいい時間だな。・・・なんだけど、せっかくだからもうちょっとだけ。 もうちょっとなら、時間も間に合うだろう。どうせ戦後の建物だろうから、ぱぱっと写真を撮ればそう時間もかからないハズ・・・と欲が出たので、急いで大安楽寺の隣の寺へ向かう。にほんブログ村
2014年01月07日

しかし、小伝馬町といっても正確には日本橋小伝馬町。刑場つきの牢屋がこんな場所にあるなんてな・・・あれ? そういえば、このご近所さんてどんな感じだったんだろう。あまり知られてないかもしれないけど、江戸の町って7割が武家の土地らしいんだよね。残りが寺社と町人町で、例えば大名・毛利さんちの隣に庶民・白川さんの家があるなんてことはなく、大名町と町人町の区画には厳密な区切りがあったそうな。まさか大名屋敷の周辺に牢屋敷があったなんてことないよな・・・と思って、手持ちの地図で小伝馬町の牢屋敷を探してみた。 (「天保14年 御江戸大繪圖」より)位置的に、ピンクで囲った「牢ヤ」がそれにあたると思われます。東へ行けば両国、西へ行けば大手町。現代の地図のように凡例こそ書いてないものの、白が大名屋敷でグレーが町人町なんだろうな。うん・・・フツーの町中にあったのか。ちなみに、同じ絵図で小塚原はどう描かれてるのかと思って探してみたら、特にそれとわかるような描き方はされていない。ただ、大体の位置からこの辺だろうと思われる場所には寺社がいくつかと近くに「火葬寺」なるものが描かれていて、通りに「小ツカハラ丁」とあるだけ。小塚原の方には生きた人を一定期間収容しておくような施設はなかったのかもな。延命地蔵にお線香を立てて、最後にもう一度手を合わせてから通りを挟んだ十思(じっし)公園へ向かう。(場所はこちら) はい、こちらが懐かしのランチ現場です。相当昔の話なんでどうも記憶が定かじゃないけど、少し変わったような・・・公園内に入ると、見たことないふたがあった↓。 ふたまで撮って、イマイチ緊張感に欠けるきらいはありますが、こここそお馴染みの場所なので、大安楽寺よりはずっと気がラク。園内には綺麗なトイレもあるし↓。てか、こんなの昔あったかなあ・・・ 多少の違和感を覚えながらも、今回小伝馬町へ来た一番の目的へと向かう↓。 左の柱の陰に寝てらっしゃる方がいたので、あまり自由には撮れませんでしたが、これ!何てゆーんだ、これ・・・鐘楼とも違うし、あずまやでもないし・・・とにかくここで、この段々になってるところに腰掛けて晴れた日には毎日弁当食ってました。『歴史散歩 江戸と東京』でこれの写真を久々に見た時、「え~、上に鐘なんて吊ってあったっけ・・・いや、そういえばあったような・・・イマイチ記憶にないなあ」ともんもんとして、もう一度これを自分の目で確認したかったのです。 【東京都指定有形文化財 銅鐘 石町(こくちょう)時の鐘 江戸で最初の時の鐘は、本石町3丁目(現在の本町4丁目・室町4丁目の一部)に 設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた 時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・ 四谷などにも設けられました。 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626)に 本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる 範囲の町からは「鐘楼銭」をあつめて維持・運営が図られていました。 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が 行われました。 現在の銅鐘には「寛永幸卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が 刻まれており、宝永8年(1711)に鋳造されたことがわかります。 「石町は江戸を寝かせたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、 明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に 完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)あ・・・これも鐘楼なんだ(笑)。上の解説は中央区教育委員会のものだけど、これじゃちょっと説明が足りまへん。十思公園の入口には「江戸三縁史」というタイトルの東京都教育委員会の解説板があったので、長いですが「三縁」のうちまず2つを紹介します。 【「石町時の鐘一口」 江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが 鐘楼堂が御座の間の近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に 鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦3年(1657)、寛文6年(1666)、 延宝7年(1680)と3度も火災にあい破損したので、その後身として 宝永8年(1711)に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。 音色は黄渉調長久の音という。享保10年(1725)旧本石町時の3丁目北側の 新造の間口12間奥行19間3尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき 1ヶ月永楽銭1文ずつ当鐚(びた:「びた1文」のびた)で4文ずつを商業地域の 大町小町横町計410ヶ町から集めて維持していた。 鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。 鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名付けて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名で あった。 当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、 目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の9ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古の ものである。 石町鐘楼堂から2丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめて この鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが 処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝え られている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が 寄進を受けて昭和5年9月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し、当時の市長 永田秀次郎殿で初鐘式を挙行した後、東京都に寄進した。 「伝馬町牢屋敷跡」 伝馬町牢は慶長年間(1596-1615)、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷 囚獄が出来るまでの約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして 入牢した者は数10万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、 村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷である。 当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し、南西部に表門、 北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、 揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみで あった。 今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の 鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。 牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御椓場(おたくば)死刑場役は有名な 山田浅右ェ門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人 月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。 伝馬町獄として未曽有の大混乱を呈した安政5年(1858)9月から同6年 12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で、吉田松陰、橋本左内、 頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで 尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が 石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した 事であろう。 尚村雲別院境内には勤王志士96名の祠と木碑が建てられてある。】 (漢数字は戦国ジジイが変換、カッコ内もわたくしが追加)・・・という訳で、この鐘は元からここにあったものではないようですが、この鐘を聞いて様々な思いを抱えた沢山の人達がいたんですよ。なのに、わたくしはそんな事も知らずにこの「情けの鐘」の真下でのんきにランチしてました。この現実を知って、罪悪感のようなものにかられた気持ちも少しわかっていただけるでしょう?当時、公園はもうちょっと広かったような気もするけど、ベンチもいくつかあるにはあります。が、昼時には近隣のサラリーマンやOLがわたくしと同じように弁当持ってここで休憩をしてましたので、全員はベンチに座れない。なので、初めからベンチ狙いではなく、この鐘の真下に座って食べてたんです。わたくしの指定席です。 ↑これが情けの鐘。この鐘の音色をわたくしは聞いたことがありませんが、松陰先生は恐らくお聞きになったのでしょう。ああ、知らないということは何と罪なことなのか・・・にほんブログ村
2014年01月06日

延命地蔵尊の向かって右↓。 の後ろにある塔↓。 結構古そうだから銘を覗いてみたけど、磨耗がひどくてわからなかった。台座にも何か彫られてるけど、はっきりとは見えない。シルエットだとお地蔵様か何かのようだけど・・・延命地蔵尊の向かい↓。 【江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡】え~っと、井戸跡に石垣の残りを置いて省スペースに努めたってことかな?井戸は、囚人たちのノドを潤したのならいいんだけど、「穴」のすぐ脇にある井戸ってことは・・・ てね、リアルな想像しちゃうからいけないんだよね。せっかく霊感なくて何も見えても感じてもいないんだから、ライトに通り過ぎてしまえばいいものを・・・しかし、いくら恐がりの私でも、それが生活の場であれば結構平気だったりする。うちから歩いて少ししたところには古戦場があるんだけど、それを知った当初はまだ子供でもあったし、しばらくの間恐かったけど、いつの間にか慣れて、今じゃ夜に一人でそこ通っても平気。だってそもそも、古戦場一帯は団地になってて大勢の人が住んでるんだもん。私1人が祟られるハズがない。今回は、正直ここに来るか迷いました。が、馴染みの場所でもあるし、霊場めぐりの札所でもあるし、結構沢山の人がここの写真を撮って紹介もしてるから、大丈夫だろうと自分を励ましてやって来ました。しかし、実際何の恐怖体験をした訳でもなく、ただリアルに想像して恐がってるだけなんですが、やっぱり楽しい気持ちがするはずもない。江戸の刑場といえば小塚原(こづかっぱら)と鈴ヶ森がツートップ、板橋を入れて三大刑場と言われますが、知ってる人も知らない人も、常磐線か日比谷線に乗って南千住を通過すれば、もう小塚原に足を踏み入れたも同じです。線路が思いっきり刑場を通ってるんで。三河島・三ノ輪あたりは古くて由緒のある寺なんかもあるので、そのうち行ったついでに小塚原へも行ってみようかなんて思った時期もありましたが、馴染みのある小伝馬町でこれだから、やっぱり小塚原へ行くのはやめました(笑)。で、上の写真の石ですがね、 右の方の石は、確かに石垣の石に見えなくもないけど、棒を差し込んでる部分の四角い穴が気になるなあ・・・まあ、恐らくこの案内板を立てるために一部削り取っただけなんでしょうけど、『歴史散歩 江戸と東京』によると、鈴ヶ森で丸橋忠弥がはりつけになった時、忠弥の縛りつけられた角柱を立てた石の台や、八百屋お七が火あぶりになった時にお七を貼りつけた鉄柱を立てた石の台が鈴ヶ森に残ってるんだそうな。だから、この穴にまさか磔(はりつけ)の柱を立てたんじゃないだろうな、ってつい想像しちゃったんだけど(←コレが良くない)、これじゃ細い柱しか立てられないから、違うっぽいな。今度は延命地蔵の左側エリア。狭い割には色々あります。 朱の鳥居の奥におわすのは、宝安稲荷大明神↓。ご利益は火防・商売繁昌。 鳥居の左手前にあるのがこちら↓。 【化石、神居古潭、白蛇 辯財天使神 北海道、石狩川神居古潭峡の石 古来、アイヌの酋長のシンボルとされ「撫で石」として厄除、息災、招福の石として 信仰された。化石の白蛇は巳が辯財天の使いであることから築地和田久より 寄贈された。】 (現地解説板より)ここを訪れた人の中には、ご住職にこれの由来を直接伺ってネットで公開してる方もおられるんだけど、私は昨日書いたような事情により、ここのことを詳しく調べる気はありませんので、お知りになりたい方はご面倒ですがご自分で検索ください。その左隣↓。 なんで正面が丸いんだろう?と思って数歩戻ってみると どーゆー意図かはわかりませんが、すごく変わった形をしております。 【学問 芸術 商売 江戸八臂辯財天 江ノ島辯財天に三体あり 一、江ノ島神社 二、岩本楼 三、当辯財天なり 胎内には三体のミニ辯財天が収められ、他に十二体(大日如来、聖観音、不動明王等) 経典、金光明最勝王三巻も納められている。胎内は金色燦然と輝く。 この辯財天、胎内の諸仏像は桧漆仕立 真言 おん そらそばていえい そわか 伝 北條政子の発願により作られる。(後略)】 (現地解説板より)・・・なんか、色々書き込んでありますけどね。ホントかどうかはわからないけど、最後の北條政子には目を見張りましたね。シェルター型お堂の前に置かれてるモノ↓。賽銭箱か? 堂の右手前にある灯籠↓。 お堂の扉は閉まってたけど、ガラス越しに中が覗けたのでちょっと失礼をして・・・ おおお、確かにこれはなかなかすごい。てか、手に剣を持ってる・・・弁天様ってこーゆーキャラだったっけ?帰ってからウィキペディアを見てみたら、八臂(腕が8本)の場合にはすべての手に武器系アイテムを持つとある。私のイメージだと、弁天様といえば琵琶を持ってるけど、それは二臂(腕が2本)の場合らしい。まあ、多少のバリエーションはあるんでしょうけど。さて、境内はこんなところかな・・・と思ったところで、ほとんど風もないのにかすかにキイキイと変な音がした。 ああ、のぼりがきしんでるのか・・・揺れるほど、風はないんだけどな。境内が誰もいなくて静かだから、小さな音も変に響くんだよな。ちょっと苦笑いしながら、ヘンなものが写ってればここで消し込みをしていこうと思って、延命地蔵の前で写真を確認し始めた。と、突然背後から、低いゆっくりとしたいかにもな調子で「おぉはよぉ~ございますうう~~」って声がした。ホントに突然、すぐ後ろから声がしたので「うわあああああ!!」って静かな境内に私の絶叫が響き渡った。ちょっと驚いたぐらいなら、「おっ!びっくりしたあ~(笑)」で済ませられるけど、もう、話し方から普通じゃないんだもん。これ以上ないくらい、このシチュエーションに最適な方法で声を掛けられた私の身にもなってよ(←逆ギレ)。心臓が飛び出るかと思うほど驚いて振り向くと、信者さんだかお寺の人だかはわからないけど、フツーのおばさまが自転車を押して境内に入ってきたところだった。でも、それまで全く何の気配も感じなかったし、自転車の音も聞こえなかった。見ればフツーの人なんだから、フツーに「おはよーございます!」って明るく声を掛けてくれたら私もそう驚かなかったと思うのに、何であんな声のかけ方をしたろう・・・誇張でなく、私の方は瞬間的にマジな絶叫を上げたので、おばさまに「おはよう」のお返事もできず、悪いことしたな~と(だいぶ後になってから)反省した。にほんブログ村
2014年01月05日

今日は1月4日。昨日は1月3日。元日の3日です。「元三」です。そうなんです、昨日は良源さんの命日だったんですよ~!!という訳で、(また)行って参りました。寛永寺へが、昨日も結構色々とスケジュールが詰まっていて、ちょっと時間が読みづらい部分もあったので、上野へ行く前に懐かしい場所へ少し寄り道をしました。ホントは昨日、ちゃっちゃとこの記事を上げるつもりでしたが、気分を害したことがあって夜に書くのはやめました。今日は貞子 が遊びに来たのですが、貞子と遊びつつも明るい昼間のうちに書きあげてしまうつもりでした。が、ちょっと遊びすぎた・・・いや、起きるのが遅かったしな。だって昨日疲れたんだもん。で、結局夕方になってから書き始めてる訳ですが、もうしょうがないので、とっとと書いてしまいます。あ~、なんか思わせぶりな書き方かもしれませんが、別に恐い話が出てくる訳じゃないですよ。私がそんなもの書くはずないでしょ。ただ、ちょっとね・・・それでは、本編の途中で恐縮ですがお正月特番(笑)を始めさせていただきます。柏から常磐線に揺られてればそのうち上野に着きますが、昨日は少し手前の北千住から地下鉄日比谷線に乗り替え。で、降りたのはこちら↓。 歴史好きの皆様なら、ここに何があったかすぐわかるでしょう。時代劇なんかで、小伝馬町の牢屋敷はお馴染みですからね。まずは地上に上がります↓。 手前の道が人形町通り。写真のすぐ左手は大きな交差点で、江戸通りとクロスします。で、目の前に見えてる角から2ブロック分くらいが小伝馬町牢屋敷の敷地のようです。横断歩道を渡って右側に歩き出すとすぐ、このお寺があります↓。 これは脇の入口のようで、お寺に沿った小道を左に入ると正面があります↓。 【準別格本山 江戸第五番札所 新高野山 大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は江戸時代、徳川幕府の牢獄の所在仕し所なり。当山開基 山科俊海大僧正、明治初年、高野山より錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十方に布く。時、偶々、此地伝馬町牢、処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悲禁ずる能はず。 幾万余の知られざる無告の霊、鬼哭愁々として寄辺たるを弔ひ、又安政の大獄で 知られる吉田松陰等、当地で処刑された勤王の志士の霊を慰め、又一つには 牢跡を以て浄地となし四隣の繁栄に資せん事を希念し、明治五年より勧進し、 同8年一宇を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。 又処刑場跡には延命地蔵菩薩を建立し、堂塔、伽藍を整備(現十思公園を含む) これを当山の濫觴とす。爾来尊崇の信仰を聚め都心に輪喚の美を競うも 大正12年の大震火災にかゝり昭和四年今日の規模となり現在に及ぶ。 昭和29年都史蹟指定。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換、適宜句読点挿入)え~、今回は都合によりサクサク進めますよ~。本堂の向かって左手の小さなスペースには色々あります↓。これがここでのメインです。 が、まずは本堂へお参り。 お賽銭箱↓。 ・・・の前にあるモノ↓。 それの説明↓。 どうやら、住職様や副住職様があちこちから持ち帰ってきた砂がこの石の花の下に埋められているらしいです。 本堂の中からは読経の声が聞こえてくるので、静かにお参り。本堂の向かって右側・・・庫裏かな?↓ さてと、規定通りご本尊様にご挨拶した後で、いよいよ左のエリアへ。まずはこちら↓。 お地蔵様の下の台座にある字は、山岡鉄舟によるものだそうです。 ちょっとね、こーゆーのを赤字で書くと迫力あるからやめて欲しいんだけど、ひとまず東京都教育委員会の看板から。 【東京都指定旧跡 伝馬町牢屋敷跡 伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、 明治8年(1875)に市ヶ谷因獄へ移転までの江戸の牢獄でした。面積は 2,600余坪。揚座敷、揚屋、大牢(庶民)、百姓牢、女牢などの獄舎や拷問蔵 などがありました。 定員は350名程度、最大700名を収容できたといいます。牢屋奉行には 石出帯刀が世襲しました。安政大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが 収容されていました。】何で新年早々、恐がりのわたくしがこんな場所へ来たのか不思議に思う方もおられるかもしれませんが、実はここ、一時期わたくしの生活の場所だったんです。生活って言っても、住んでた訳じゃないですよ。このすぐ近くに、数年勤めてたんです。で、このお寺の向かいにある公園で、ランチしてました。毎日。当時は日本史は幕末ぐらいしか関心はありませんでしたが、小伝馬町の牢屋敷ったら時代劇にもよく出てくるし、公園内にも石碑は色々あるので、ここがどういう場所かは知ってました。でも、ただ「知ってる」のと現実の生活とはあくまで別モノなので、それはそれとしてフツーに晴れた日の昼には公園で憩ってました。時々は「松陰先生がここにおられたんだな~」なんて思うこともありましたが、ただそれだけでした。普通の牢屋敷だと思っていたので。昼になったら弁当持って公園に来て、時間になったら職場へ戻る・・・向かいにお寺があるのは知ってましたが、入ったことはありませんでした。上の写真の赤字に「御椓場」とありますが、この場所、刑場だったそうなんです寛永寺の記事を書き始めてから、江戸関係の本は日を追うごとに増えていきました。史料類は沢山ありそうだし、高価な本も多く、そもそも史料だとどこから手を付けていいかもわからないので、現在のところ江戸関係の本は一般書に限られています。その中の一冊に『歴史散歩 江戸と東京』(堤紫海著/文化総合出版)という本があり、まだほとんど読んではいませんが、年末に上野近辺のことでも書いてないかとぱらぱら見ていたら、小伝馬町の牢屋敷の項があったので何気に見たらば、公園の隣が刑場だったとゆー衝撃の事実が書いてある・・・!!げえええ~~!マジでええぇぇぇ・・・もうホントにびっくりしました。当時、その事実を知ってたら公園でランチをしなかったのか、それはわかりませんが、ともかくろくな事を知りもしないでのんきにメシ食ってたことが何だか申し訳ないような気がして、それと現地の様子をもう一度確かめたくて、恐いし新年早々なのにいてもたってもいられず、久々にここへやって来たとゆー訳です。別の江戸の本も読んでみたら、江戸時代には一般に死を与えられた場合でもいくつかの種類があるそうなので、昨日、帰ってご飯を食べながら少し刑罰について勉強しようかとすまほで検索してみました。そしたらちょっとおかしな事が起こったので、これは勉強すんなって事かな・・・と思って、ここではそうした詳細については省きます。なので、手持ちの資料を見るしかないのですが、前述の『歴史散歩 江戸と東京』によると、 【責任者の牢頭には、大番衆があたり、「御椓場」といわれた死刑場の係りには、 有名な山田浅右衛門などがいた。与力一人が、見回り吟味にあたり、下に同心が 十名余、獄丁などがいたのである。 死刑場の跡は、大安楽寺門内で、そこにあった血溜りの穴の近くに、今は大きな 銅製の地蔵さんがまつられている。】だそうなので、まさにこの場所なんです・・・都の教育委員会の解説には松陰先生と橋本左内の名がありますが、頼三樹三郎もここで、らしく、安政の大獄関係の方達は96名も、だそうです。あ~、恐くてはっきり言えないんですよ(笑)。恐いんなら行かなきゃいいんだけど、知らなかったことがホントに申し訳なくて、行かなきゃ!って気になっちゃったんだもん。それにここなら、知った場所だから下調べとか何もいらなかったしね。で、このお地蔵様ですが、お寺にはこんな風に書いてあります。 【子育 息災 延命地蔵尊 安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、処刑場跡を供養 するために建立された。 製作者 日展審査委員横江嘉純】にほんブログ村
2014年01月04日

前回、両大師本堂の売店コーナーで色々買ったことを書きましたが、ここでゲットした物の中に「寛永寺だより」(平成25年第2号)がある。これは確かタダだったような気がするけど、帰ってから読んでみたら、結構興味深いことが書いてあった。そのうちのいくつかは、この後行く各スポットでおいおい紹介するとして、ひとつ「おお~~!!」と歓声を上げたニュースがあったので、今回はその話をします。ニュースのタイトルは『杉谷大僧正 戸津説法師を拝命』。ちょっと話は変わりますが、シリーズを重ねるごとに話数が長くなる傾向にあるので、公開を諦めた旅の日付というのが、どんどんずれ込んできてます。数か月前の記事では、確か2011年1月以前の記事を諦めたと書いた気がしますが、もう2011年の分はほぼ諦めました。去年の廿日市編でさえ、ちょっと怪しくなってきてるぐらいなのでただ、その代わりと言っては何ですが、ひとつの旅を通しで書くのは諦めても、関連があるような記事の場合には部分的に抜き出して、別のシリーズに間借りをするような形で公開できるものは公開していこうと思ってます。公開済の記事があればリンクを貼るだけなんだけど、未公開のものが多いので苦肉の策です(笑)。記事としては相当読みにくくなるかもしれませんが、ご了承ください。という訳で、早速初間借りをしようと思います。私、知ってるんですよ、戸津説法(とつせっぽう)。行ったんだもん。説法の場所へ。で、ちょっと2011年10月の旅から現地の様子を少しご紹介します。戸津説法が行われるのは、こちら↓。大津市下阪本にある、東南寺です。(場所はこちら) 【東南寺 延暦年間に伝教大師が創立した寺で、比叡山の東南、戸津ヶ浜にあったので 東南寺という。寛永15年、高島郡今津にあった一堂を当地に移したので 一名を今津堂ともいう。 ここは伝教大師の法華経説法の場であったので、今も毎年8月、延暦寺の高僧による 有名な「戸津説法」が続けられている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)とゆーことで、最澄さんのお手になるお寺だそうですが、門前から西に延びる道はこうなっている↓。 左の車が止まってる先に、赤い傘が見えますね。そこにはこの石碑が建っています↓。 坂本城の石碑はこの近辺にいくつかあり、本丸推定地はここからすぐの場所にあります。それどころか、石碑があることからもわかるように、東南寺は坂本城二の丸跡とも言われてます。この石碑が建つのは北国街道沿い。東南寺脇の道路は、現代の私達からすると入り組んでヘンな造りになっていて、こういう道筋が城址の跡をとどめているものではなかったとしても、いかにも古い町の造りという感じです↓。 東南寺の元の正確な位置はわからないけど、大体この辺にあったものと思われる。『滋賀県の歴史散歩』によると、元亀年間(1570-73)の兵火で焼けたとある。元亀2年(1571)のいわゆる叡山焼き打ちの時ではないかもしれないけど、一連の戦いで被害にあったのかもしれない。そこから寛永15年(1638)までの動きはわからない。信長様による叡山攻めの後、ご存知の通り明智光秀が坂本城を築いてるけどね、現在の東南寺一帯はすべて城内にあたると思われるので、坂本城があった頃は東南寺はどうしてたんだろうという素朴な疑問がわく。ここから坂本城跡として一般的に紹介される場所は、歩いてすぐ。現在の城址の様子↓。 最後の写真は、オマケの明智光秀です。顔が気に入らないけど、狙った訳でもないのに自然の流れで寛永寺の記事にこの写真を載せるのもちょっと妙な気分になりますね。まあ、私は天海=光秀はないだろうと個人的に思ってますけどね。戸津説法に戻りますが、元亀年間以降、しばらくの間は説法も下火だったかもな~と思った。戸津説法は、最澄さんがご両親の追福のために近隣の村人に法華経を説いたことが始まりと言われる。昔は東南寺だけではなく、生源寺・観福寺というお寺も説法の場所だった。どちらの寺も現存してます。観福寺は近くを通ったものの、寄りませんでした。生源寺も行かなかったけど、JR比叡山坂本駅前に歴史を語るものがある↓。 【生源寺(しょうげんじ)の古鐘(通称 破れ鐘) 元亀2年(1571)9月12日の明け方、突如として織田信長の軍勢が 押し寄せるのを発見した土地の古老は、村人に急を告げるため生源寺の釣鐘を 力の限り乱打し異変を伝えたが、何分にも不意打ちのため全山灰燼に帰した。 世に云う、比叡山焼き打ちである。 その際あまりにも力強く打ち鳴らしたため、ひび割れが入って不思議な音色になり、 それ以後この鐘は村人たちから「破れ鐘」(われがね)と呼ばれてきた。また、 祭礼などの合図鐘として長年使用され、村人の思い出の音色でもあった。 坂本村と大津市の合併50周年を記念して、この古鐘を和合促進のシンボルとして 永久に残すため、坂本学区自治連合会が比叡山延暦寺より寄贈を受け、 坂本石積みの郷公園に移したものである。】 (現地解説板より)ちょっと現地ではひび割れはわからなかったんだけど、鐘が割れる程叩くって、ジジイ、どんだけ~って笑うのは私だけじゃないと思いますが、真偽はともかく、そういういわれのあるグッズが駅前にございます。という、都合3ヶ所でそれぞれ10日の計30日にわたり説法が行われてたものが、焼き打ち以降は東南寺で10日間行われるようになり、明治以降は8月21日~25日の5日間に同じく東南寺でのみ行われるようになったそうな。でも、近江の夏ってキツかったからな~。クーラーの効いてる部屋でなければ、結構体力勝負じゃないかな。戸津説法は最澄さんが始めたものなので、現在でもその位置付けは最澄さんに代わって説法師が説法を行うという重要なイベント。まずは最澄さんの命日(6月4日)に叡山で行われる法要で天台座主から直接説法師の指名がなされる。説法師を務めることは、天台座主となるための通過儀礼だそうな。名誉なお役目であると同時に、頑張りどころでもあるんだね。戸津説法がこういうものである事を知っていたので、寛永寺の杉谷師が説法師に指名されたという『寛永寺だより』のニュースを読んで、懐かしさと同時に、叡山だけじゃなくて他の寺からも指名されることがあるのか・・・しかも、寛永寺から・・・とちょっと感慨深くなった訳です。このニュース、1ページまるまる割いて大々的に書かれてるんだけど、その最後がちょっと笑えた。 【当山ではこの勝縁にあたり、皆様とともに大僧正の晴れの説法を聴聞すべく、 団体参拝旅行を計画しております。旅行の詳細などにつきましては別途チラシ などでご案内申し上げますので、是非ご参加ください。】 (『寛永寺だより』より)お~、自慢の僧正様を応援しに、はるばる江戸から近江まで寛永寺あげて駆け付けるのか~ちょっとほのぼのした。おっと、東南寺の内部を紹介してませんでしたね。っつっても、あまり撮ってないんだけど。 実はこの境内には、坂本城落城の際に討死したといわれる明智一族およびその家臣の塚があります。が、ちょっと撮る気がしませんでした東南寺の近くには、「明智塚」といわれるものもありますが、現地ではすっかり忘れてスルーしました(笑)。んじゃっ、最後に生源寺の破れ鐘の近くにある、「若き日の最澄」像でお別れです↓。 どうです、イケメンでしょお~せっかく造るんだから、このくらいイケメンに造っとかないとね~。ちょっと光秀のはいただけないよね~(笑)。有名な光秀の肖像画なんかではなかなかの優男なんだから、それに合わせて造ったら良かったのに・・・像だけ見たら、「う~ん、ヤマトタケル?」とでも言いたくなるような感じじゃない?(←しつこい)にほんブログ村
2014年01月02日

あけましておめでとうございま~す。本年も戦国ジジイ、戦国ジジイをよろしくお願い申し上げま~す。毎年元日は朝早くから出かけるので早目に寝て、「ゆく年くる年」は観ないんですが、トロロヅキさんから頂いたコメントによると寛永寺が中継されることもあるようなので(←ほとんど観たためしがないので知らなかった)、番組を調べたら、今年は寛永寺は出ないけど増上寺がキーステーションだという。ので、楽しみに待ってました。「ゆく年くる年」の初回放送ってラジオで、なんと寛永寺からの放送だったらしいですね~。ああ、じゃあ根本中堂にある家綱の鐘の除夜の鐘を放送したのかな・・・そして始まった「ゆく年くる年」。増上寺の初参りは午前0時を過ぎてからの入場らしく、待ちの人達はなんと1万人!!なんかスゲー鐘がデカく見えたんだけど。現時点では、上野編が終わったらまずは徳川家ゆかりの寺なぞから回ってみようと思ってます。中継の中では増上寺名物(?)黒本尊のことも紹介してましたが、黒本尊についてはわたくしも自分の記事の中で書こうと思っております。明けて元日の今朝は、全国のノドに覚えのある一般人がそれぞれの地元の方言でカラオケをするという番組を途中まで観てましたが、同じ県である安房弁なんて全く知らないのに、各方言の中でいちばん耳になじんで理解できたのが広島弁だったとゆー、いかにもわたくしらしい現実に自分で笑いました。さてと、ご挨拶はこのくらいにして、両大師の続きから始めます。前回の最後で水盤の両脇にツルがくっついてた写真を載せてますが、そういえば江戸期の三が日の宮中では、将軍から献上されたツルを食べてたんだっけ・・・ちょうど今頃、帝がツルの吸い物をすすってたのかもしれんな。(鶴の鷹狩りについては、「新高山城(22)」をご覧ください)手水舎と本堂の間には、小さな蓮池がある↓。 あんまり蓮の花を間近で見る機会ってないんだけど、綺麗だな。不忍池(しのばずのいけ)の方も、ちょうど見ごろかもな。ラッキーと思った後で、今回不忍まで行かれるんだろうかとふと不安がよぎったそういえば、門に大賀ハスのお守りの宣伝があったっけ。これも大賀ハスなのかな?と思って、立て看板を見てみた。 【大賀ハス(古代蓮) この蓮の花は二千年以上前に地上に落ち、長く泥中に眠っていた実が開花したものを 株分けしました。 大賀一郎博士の名を冠し、大賀ハスと名付けました。その生命力と美しさには 深い感動を受けます。】 (現地解説板より)あ、やっぱりね。あちこちで大賀ハスは現在も美しい花を咲かせてるんだなあ。それにしても、花は綺麗なのになんでその後シャワー水栓になってしまうんだろう↓。 池の周りにはトンボさんも飛んでいた↓。シオカラトンボだ・・・うちの方じゃ、あまりトンボも見かけなくなったなあ。 蓮池の前から見上げる両大師の本堂↓。近年の再建だからRC構造だけど、うまく木材を組み合わせていいカンジの建物に仕上がっている。「ゆく年くる年」で映ってた増上寺の建物もすごかったなあ。あれも戦後の再建のはずだけど、さすがに格のある寺院は違うと思った。 お清めもハスとトンボ観賞も済んだところで、本堂へ。鰐口にも丸に二引↓。む~ん、足利のばんな寺を思い出すなあ(笑)。ばんな寺は足利氏の寺なのでね、丸に二引がごろごろしてます。ちょうど鰐口もこんな感じでした。 本堂正面の蟇股↓。 え~っと、内部の写真がないから、撮影禁止だったのかな。堂内は結構広かったです。入って右側に売店コーナーがあり、お守りとか結構色々あった。ここで私が買ったのが、これまで何度も引用し、また参考にさせて頂いた寛永寺教化部発行の『寛永寺』。これを読まなかったら、寛永寺の存在の大きさを知ることもなく、江戸に目覚めることもなかったかもしれません。ただ、最初はひたすら『寛永寺』から吸収するだけだったのが、他にも色々読んで自分でも考えながら書き進める中で、自分なりの考えなども持つようになってはきましたが、それでも『寛永寺』が私の出発点であることに変わりはありません。あと、小冊子『東叡山 寛永寺』もたぶんここで買った。それと、狙っていたのがお香。いちおう、見本は置いてありました。・・・が、おそらくこの感じだと、普段の日は参拝者が少なく、ゆえにお香を買う人も少ないんだと思う。何でかって?ニオイが全然しないんですよ~いつ開封したんですか?ってツッコミたくなるぐらいニオイがわからなくて全然見本の役目を果たさないので、買うか迷いましたが、とりあえず買いました。さて・・・ここ両大師は、開山堂、慈眼大師堂ともいう。「開山」「慈眼大師」はいずれも天海のことを指します。両大師の門に貼ってあった「慈眼大師小史」から抜粋して再度掲載しますと、 【大僧正は108歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で 遷化されたので、その御遺徳を追慕して翌正保元年に慈眼堂が建てられ、 また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大師の御影と共に天下をまもり 万人に利益(りやく)を授けん」と語られた因縁により、慈恵大師を併せて おまつりし、日々不退に御供養することは変わらない。】と、ここが両大師であるせいなのか、良源さんの例の子授け画像とともに天海みずから自分と良源さんを一緒に祀るように言ったのであわせて祀った、って言ってるような印象を受けるんだけど、実際は少し違う。天海を祀る慈眼堂は、家光の命により造られたと『寛永寺』にある。なんにせよ、正保元年(1644)に建てられたことに違いはない。ところが、それ以前の寛永13年(1636)にすでに良源さんを祀る慈恵大師堂が本坊内に建てられているのだ。これは天海が生前に建てたものらしい。良源さんを篤く尊崇する天海らしい話だけど、慈眼堂が建てられた後、慈恵大師堂の方はどうなっちゃったんだろう?詳しいことはわからないけど、台東区のホームページによると、慈眼堂ができたあとに慈恵大師堂を慈眼堂に移して、「両大師」となったとある。『寛永寺』でも同じことを言っている。まあ、普通だったら既存の慈恵大師堂に天海をプラスしたのかもしれないけど、天海大好きの家光がそれじゃ納得しなかったのかもしれないなで、ここには例の良源さんの画像と、天海の木像がある。日光輪王寺にも天海の坐像があって、天海坐像といえばたぶんあちらの方が有名だと思うけど・・・で、資料を探したらちょうど日光輪王寺宝物殿でもらったリーフレットに写真があったので紹介します。 (『天海大僧正生誕の地 会津美里』より)これが輪王寺三仏堂におわす木造天海坐像(重文)。金とか赤の彩色もかすかに残ってるけど、現在はぱっと見単色のようになってる。普段は三仏堂の暗い隅っちょにいてホントに目立たないので、この坐像に立ち寄る人は相当少ない。が、今は工事期間中で、入ってすぐの明るい場所に移動しているので、大変見やすくなってます。私も暗い所でしか見たことがなかったので、明るいところであらためて見て、こんなんだったのか~ってまじまじと見ちゃったもんね(笑)。工事が終わったらまた元の暗い場所に行くのかどうかはわかりませんが、天海像の後ろにも通常よく見ることのできない台などが置いてあって、護摩壇と共に工事期間限定のラッキーなオプションでもありますので、日光に行かれた際はぜひ三仏堂にもお立ち寄りくださいそれで、寛永寺所蔵の天海坐像ですが、こちらは両大師の御本尊なんだそうな。『寛永寺』にはその写真が載ってるんだけど、朱の着物に青と金の袈娑を掛けてる。頭には被り物はなく、ツルッパ・・・いへ、頭部が露出しております。そして、天海自身は色白、と日光輪王寺のに比べてかなりカラフルです。こちらは都の重文で、江戸初期に造られたものらしいけど、そんなに年季が入ってるようには見えない。意外なことに、両大師は上野戦争では被害は受けなかったんだそうな。ただ、それ以前に3回の火災にあったと『寛永寺』にある。台東区のホームページによると、元禄11年(1698)9月、享保5年(1720)5月、元文2年(1737)5月。『寛永寺』ではこのうちの1回が「元禄の勅額火事」と言っているので、「上野第一編(9)」で「瑠璃殿」の勅額について書いた、あの火事のことを言ってるんじゃないかな。ただね、せっかく上野戦争を免れて、空襲を受けたとも書かれてないのに、近年になって火事があったらしい。なんで平成5年の再建なんだろう?と思ってたんだけど、どうやら平成元年に焼失したようなのだ。実に残念だけど、木造だからしょうがないよな。とゆー訳で、都合4回もの火災で本堂が焼失したにも関わらず、天海坐像は燃えずに現在でもカラフルなそのお姿を保っている。さすが、スーパージジイ・・・にほんブログ村
2014年01月01日
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