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さて、いよいよ輪王寺(りんのうじ)です。私が日光に来る目的のほとんどがこの輪王寺な訳なので、私にとっては大事な場所です。まずは、大ざっぱな配置図から。 実際の建物の大きさとは見合ってませんので、ご了承ください。それから、ひとくちに輪王寺と言っても、あちこちに飛び地を持ってるので、これはほんの一部。山内の西の端にある徳川家光の廟所、大猷院(だいゆういん)も輪王寺の所管だし、いろは坂を登ったところにある立木観音もそう。はては、奥日光の湯元にある温泉寺、これも輪王寺の一寺。山内だけでも、大猷院の他に「あれ、ここも~」ってくらいちょろちょろ輪王寺の管轄のものがあって、かなり入り組んでる。それもそのはず、かつては全山すべてが「日光山」として一つのものだった。開山は奈良時代、勝道(しょうどう)上人による。東参道から輪王寺の境内域に入る入口に、大岩の上に雄々しく立つ勝道上人様がおられます。 かなり大胆に独特なお顔で造られていますが、もの静かなお坊さんというよりは修験者の雰囲気をよく表してると思います。日光に到着した勝道上人御一行様は、まず大谷川を渡るのに難儀する。(その伝説については、「神橋」をご参照ください)どうにか大谷川を渡り、天平2年(766)、現在の四本龍寺あたりで祈祷していた時、にわかに紫色の雲が湧き上がり男体山の方へとたなびく光景を目にした。不思議な美しい光景に、この地は四神守護の霊地じゃああ・・・!!とピピンと来た上人様が輪王寺を開創したと伝えられる。四神とは、ゲームなんかでもお馴染みの青龍、朱雀、白虎、玄武。ただし、この時点では「輪王寺」とは名乗ってなかったらしい。まあ、この時代のお坊さんてば、行基様なんかもそうだけど、とにかくエネルギッシュ。寺の開創後は現在の本宮神社付近に男体山の神を勧請。天応2年(782)に男体山山頂に登り二荒山神社奥宮を建立。延暦3年(784)には中禅寺湖畔に男体山の遥拝所として二荒山神社中宮祠と中禅寺を開く。昔の日光は、そもそも大谷川を渡るのにも困るような、山深く険しい地形だったのだろう。私は山をやってる頃、いつか男体山にも登ろうと憧れていたけど、富士山だとかの直登タイプが苦手なので、結局果たせないまま現在に至る。ので、男体山の登山道の様子はわからないけど、登山道なんか整備されてないこの時代、あの高くそびえる山に登るってのは相当大変な事だったろうと思うんだよね。「道なき道を行く」なんて生易しいもんじゃないから。絶対。が、信仰心とはすさまじいもので、勝道上人様はそれを成し遂げた。けど、初チャレンジで運良く成功した訳じゃない。最初は32歳の時。「あの山の頂に立たねば、悟りは開けぬ」との決死の覚悟を持ってチャレンジ。それも、お釈迦様が雪山で苦行をしたというエピソードから、あえて4月上旬の残雪期を選んで山頂を目指したというんだから、ハンパない。「我に七難八苦を与えたまへ~!!」って名言で有名な某人気戦国武将もまっつぁおなレベル(笑)。しかし、アルピニスト・勝道氏の初チャレンジは嵐にあい撤退・・・リベンジは46歳の時。同じく残雪期を選んで臨んだが、またしても悪天候で失敗。けど、燃えるアルピニストはここで諦めず、翌年にまた同じ時期を選んで再チャレ。男体山の麓に広がる中禅寺湖畔で7日間お経を読み続けて霊峰へ分け入った。山中で2泊野営して、念願の登頂を果たしたという。・・・たぶん、現代の夏山だったら、登山口から日帰りのコースだと思うけどね。でも、当時はもちろん整備された登山道なんてないし、しかも雪がまだ残ってる時期だから。そして、観音菩薩様の住まいとされる補陀洛山(ふだらくさん)から二荒山(ふたらさん)と名付けた。パイオニアにはいつだって命名権があるのだ。のちに「二荒山」の「二荒」を「にこう」と音読みにして、それが「日光」へと転じて現在の日光の地名が起こったといわれる。この流れからもわかるように、日光は山岳信仰から始まった。男体山の山頂付近の遺跡からは、奈良時代頃のものと比定される仏具などが出土しているらしい。現在の男体山は、富士山などのように入山期間が決められていて、毎年山開きには厳かな儀式の様子などがニュースになる。これは関東でしか放映されないかもしれないけど。確かこの時には、修験者がほら貝吹いてたりしたような・・・少し時代が下った嘉祥元年(848)には慈覚大師円仁様が登場。三仏堂・常行堂・法華堂などの堂宇の建立や境内の整備を行ったとされる。その後も時の権力者の崇敬を受け、室町時代には所領18万石、僧坊は500にも及ぶ大寺院にまで発展したという。(今がちっちゃい訳じゃありません・・・決して)が、後北条氏の敗北のあおりをくらって秀吉に一時寺領を没収されるという憂き目にあう。江戸時代に入り、家康のブレーンといわれる慈眼大師・天海大僧正が住職に就任し、寺を再興。元和3年(1617)、徳川家康を祀る日光東照宮が創建される。承応2年(1653)、徳川家光の霊廟である大猷院が建立される。明暦元年(1655)、後水尾上皇から「輪王寺」の寺号を賜る。以降は「日光門主」と呼ばれる輪王寺宮法親王(皇族出の僧侶)が14代住し、幕末に至る。以上、概略ですが、まあとにかく歴史のあるお寺です。さて、勝道上人様にご挨拶をしたらば、駐車場を抜けてここへ寄るのが最近の恒例。 大変立派な、雪隠です(笑)。数年前まではもっと地味な、いかにもトイレ~って感じの建物だったと思うんだけどね。記憶が定かではないのは、私が山内でまず最初に行くトイレは、上の境内図で言うと相輪塔の近くにあるトイレを愛用してたからなのです。そのトイレが最近使えなくなって、ここに立派なものができたのでこっちをまず使うようになった。ついでだから、中もご紹介しましょう。 ウッディーでとても綺麗なトイレ。世界遺産だからね。トイレもちょっと格を高めないとね。冬の日光のトイレでいつも感動するのが、ウォーム便座なこと。ウォーム式じゃない真冬の日光の陶器の便座なんかに座った日にゃあ、出るものも出ませんしね年寄りなんか、心臓発作を起こしちゃうかもしれない。ウォーム便座のぬくもりに、「あったか~い」 ってひとときのやすらぎを覚えるのは私だけではあるまい・・・暖かい便座で膀胱の準備を済ませてトイレを出ると、目の前にあるのが三仏堂。 見ての通り現在修理中ですが、内部の拝観はできます。工事終了予定は平成30年・・・なげえ~しかし、工事の様子も見学できるそうなので、近いうちにまた行ってみようかな・・・私、ここタダで入れるんだよね(通常は有料です)今回は後で行こうと思ってて、気がついた時には寒さで体力が底をついてたので三仏堂には入らなかったんだよな~。ここは年末のすす払いなどでよくTVに映りますが、中におわす大仏様はとにかくデカいです。そして大仏様の前の通路は狭いので、思いっきり顔を上げて見上げないといけないという、頸椎にはちょっと過酷な場所(笑)。普通の人はそう長居しませんが、真ん中におわす阿弥陀様は私の守り本尊でもあるので、首が限界になるまでホケ~っと眺める。メインの三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)の他にも、沢山の仏像などが色々あって、じっくり見るとそれなりに時間はかかります。大抵の人は、三仏を見てすら~っと進んじゃうけどね。堂内は撮影禁止なので、内部の写真はありませんが、三仏に向かって右隅には天海僧正様の木像がおわします。三仏堂の内部は全体的に暗いんだけど、天海僧正様のいるあたりは特に暗くて、まあ足を止める人はほとんどいませんね(笑)。けど、私はいつも会ってく。なぜかというと、坐像の前には天海僧正様のありがたいお言葉が書かれているので、ここを訪れるたびに読み返して心に刻んで帰るのだ。 気はながく 勤めはかたく 色うすく 食ほそくして こころ広かれシンプルだけど、ハードル高いんだわ~これが。特に、「色うすく」・・・「アンタには無理」と私の相棒はいつもクールに言う。人を色ボケジジイみたいに・・・失敬なにほんブログ村
2013年01月31日

昨日、母親が急に「ね~え、さっきテレビに八幡宮が写って、すごく寂しげなところだったんだけど、こーゆー八幡宮へ行ってるワケ?」と聞いてきた。「え・・・は、八幡様なんて日本に腐るほどあるじゃん・・・」「でも、この中で八幡様巡りをしてるんだけど、山口とか広島のも写ってて、すごく寂しげなんだけど・・・」と言って、浅見光彦シリーズのビデオを探し始めた。(ヤバイ・・・寂しげな八幡様どころの話じゃないぞ。ほっとんど人の来ない山の中の、しかも実戦経験アリの城で1日の大半を過ごしてるなんてバレた日にゃあ・・・)どうやって誤魔化そうか考えながらその画面が出てくるのを少し待ってみたけど、ちょっとお目当ての八幡様を探すのに母親がモタモタしてたのを幸いに、「ね・・・ねえ、もうお風呂入ってきてい~い?」と逃げ出してきた。ヤバイぞ・・・もういい加減、感づいてるのかもしれん。いちおう、旅に出る前にはスケジュールを書いて置いてきてるんだけど、聞いたことない城の名前ばっかりだし、怪しんでるのカモ・・・母親は自分ではネットは使えないんだけど、他の娘に「ねえ、このお城ってどんなお城か調べてくれない?」とか「このお寺に行くって予定表に書いてあるんだけど、寂しいところじゃない?」とかって調査を依頼したりしたら…メジャーな観光スポットだけを書いておく手もあるけど、それじゃ万が一の時に役に立たないからな・・・そもそもフツーの観光スポットなんてほとんど行かないし、ウソ書いたんじゃ意味がないし・・・う~~~ん・・・・以上、危機感を募らせているわたくしの近況でした。近況といえば、昨日はちょっとツイートで弱音吐きましたが、「東西条バトル編」の写真の整理はやっと3日目の途中まで来ました。1日フルに行動した日は、だいたい平均で1日500枚くらい写真撮ってるから、そう簡単に作業が進むはずはないんだよな・・・けど、3日目の城は思ってたより写真が少なかった。でもやっぱりその日も500枚くらい写真がある。じゃあ、何をそんなに多く撮ってたのかとゆーと、山を降りてから古い町並みを歩いたんですね。古い民家もまあ良かったんだけど、とにかく広島の方って家にお金をかける。ので、ひたすら屋根・瓦・留蓋・留蓋・留蓋・・・・・もう瓦と留蓋の写真ばっかり!!古民家の方が案外シンプルなので、それよりは現代の一般民家の方が面白かった。上ばっかり見て写真撮りまくってたもんで、この日は首が痛かったもの本編を再開したら、そのうち屋根と瓦と留蓋ばっかりの記事が何話か続くと思うので、そしたら「あ~、コレかあ~」って笑ってください。面白かったよお~、ホントあの町は。さて、最後に今日のテーマの「文才」。ブログを始めてから、「やっぱモノを書いて食ってくってのは大変なことだよな~」とつくづく思います。内容と文章力、それからブログみたいに「素」が出るものなんかは、性格の善し悪しも関係するしね~(笑)。戦国を好きになって最初の頃よりは、だんだんマイナー路線に偏り始めたこともあって、真面目な考察の類や郷土史家の書いたもののお世話になることが多くなった。私は熱しやすく冷めやすいの典型的なO型なので、何かを始めるととにかくあれこれ欲しくなって色々買う。戦国熱はまだ当分冷めそうにないけど、去年あたりは毛利家の概略とか総論みたいのをまとめて数冊ネットで買った。図書館も活用するけどね。で、その中の一冊を買ってしばらくしてからパラパラと見たんだけど、どうも口調が鼻について、読むのが苦しい。それを書いたのは、とある郷土史家の方だってことは後から知ったんだけどね。郷土史家に限らず、これまでも戦国史上有名な事件の新説とかの本を読んだことがあるけど、頑張って自力で導きだした結論をなんとかわかってもらおうと、肩に力が入りすぎて「~なのだ」とか「~に違いない」を連呼してるのが多くて、内容の是非よりも表現にツッコミを入れたくなるのが結構あった。とある人気のブログをちょっと覗いてみた時も、はっきりわかってない事を事実だと断定した上であれこれツッコミを入れている文体だったので、その方の知識がすごいのはわかるし、私が弱いエリアを扱っている方だったから、できれば読み続けて勉強させてもらいたかったんだけど、ちょっと私には読めない文章だった。文章で表現するってのも難しいもんだよな~ってつくづく思ったね。プロはさすがにそういう事は少ないかとは思うけど、やっぱり好みはあるから、時には読んでて苦しくなることがある。例えば、「真田太平記」。話はわかりやすいし、面白い。・・・面白いんだけど、結構最初のあたりから苦しかった。それでも勉強にもなるし、我慢して読み続けたけど、結局関ヶ原の手前で挫折しました。文章が鼻につきすぎて。で、結局大人買いした全巻(新冊)は、段ボール箱の中にきっちり収められて今はブックオフに売り出される日を待っております。もうこれは、いいとか悪いとかの問題じゃなく、単に好みの問題だけどね。私はイヤになるととことん嫌うタイプだから(笑)。ちなみに、最初の郷土史家の方の本も売りに出す予定です。あれも私にはもう読めない~。まあ、自分も稚拙でワガママな記事を毎日恥ずかしげもなく公開してる手前、人様の文章をあれこれ言える立場じゃありませんけどね。けど、私のはお金取ってないし(そういう問題じゃないか)。ただ、色々見てるとホント表現って難しいわって思うだけ。と同時に、こんな私のブログでも読み続けて下さる方々には、本気で頭が下がりますm(_ _)m他人事のように頭下げてるよりは、もっと勉強しろって?(笑)にほんブログ村
2013年01月28日

小休止宣言をした翌日に、雑談開始(笑)。いやいや、これも一連の山城攻めと関連があるのですよ~。「東西条バトル編」ではほとんどを山の中で過ごしてたようなもの。1人だし、山中ではほとんど人に会うことがなかったので、視界に遺構がない時なんかは色々なことを考えてた。そのうちのひとつが、今回のテーマ。前回の福山・正月の安芸と山城へ多く行くプランを組んだので、事前の準備としてネットで公開されている訪城記をいくつか読んだ。その中で、当日すごく具合が悪かったのに、これを逃したら次いつ来れるかわからないから無理して来たというのがあった。それ以前にも、真夏の山城で大汗かいて、下山してからビールが超美味かった~、プハーーーー!!とかってのを読んだことがあるし、登山者の立場から言わせると、オイオイ・・・頭、大丈夫か~!?って城好きが結構いる。正直者のため、言葉が悪くて申し訳ないとは思うけど、それがどういう事なのか危険を認識していないのは明白なので、あえて素の言葉で言わせていただきます。そういうのを山中で1人思い返しながら、そういえば、以前「山城攻めをされる方へ」って書いて山へ入る城好きに注意喚起をしたんだっけ・・・続きを書くかな~って考えてた。2011年秋に京の山城へ行った時、下山であまり道の良くない場所で「こーゆー風に歩くといいよ~」って同行してくれた友達に教えたら、「先に教えてよ!」って逆ギレされたので、山の基本を実践編として書いてみるかな・・・って気になったワケです。今回の記事は、登山においては当たり前のことしか書かないので、「私は山も知ってるし、山城経験も豊富だから大丈夫~」って方は読む必要はありません。また、過去の記事「山城攻めをされる方へ」を忘れた方や読んでいない方は、是非そちらからお読みください。まあ、そうは言っても私自身が登山において最もやってはいけないひとつの過ち(女1人の単独行)を犯し続けているので、あまり偉そうなことは言えないんですが・・・(笑)。今回はあくまで登山者目線で書いてます。それと、前回は辛口だったにも関わらず好意的なご意見を沢山いただきましたが、今回も相当辛口ですのでご了承ください。それでは、本題へ入りましょう。実践編なので、まずは装備からいきますか。どんなカッコをしても、そのツケが回ってくるのは自分自身だし、個人の自由でもちろん構わないんですが、山に入る以上はとにかく足ごしらえだけはしっかりしましょう。普通の靴屋さんで安く手に入るトレッキングシューズもいいですが、やっぱり山では登山靴にかなうものはありません。特に、登山では荷物の軽量化は当然のことですが、必要なものをきちんと揃えると、それなりの重量になることがあります。重いザックを背負って足場の良くない山道を歩くとなると、軽いトレッキングシューズよりは、ずっしりと重い登山靴の方が重心が安定します。靴に限らず、登山用具ってのは実に機能的に出来ているので、何かの時には普段の生活でも重宝します。私は、雪が降ったりすると登山靴で通勤するし。登山靴を買う場合には、ちゃんとした山用品のお店へ行って、プロに相談して自分の足に合ったものを買いましょう。次は、ウェア。何を着てもいいですが、山の世界では「綿は最悪」なことは理解しておきましょう。しかし、環境が厳しい場合はウェアにも配慮することをお勧めします。ただ、配慮する以前の問題として、山へ行く時期と場所は選びましょう。「夏山」って言葉があるんだから、夏=アウトドア=山~!!って単純に考えてる向きをたまに見かけますが、標高と気温の関係を知っていますか?一般的に、100m上がると気温は0.6℃下がると言われています。1000mで6℃。2000mなら平地より-12℃で、3000mなら-18℃。平地で30℃ある日でも、ある程度の高山になればこれだけ山上の気温は下がるので、真夏でもそれなりの行動は可能です。もちろん、太陽光線の強さとか風とか、諸条件によって環境は変わってきますけどね。「夏山」っていうのは、登山ではこういうレベルの山のことを指すんです。一方の山城は、せいぜい300~600mの山がほとんどで、低山、あるいは超低山に属します。平地で30℃の日に標高300mの山に登ったら、30℃-1.8℃で28.2℃。平地とほとんど変わりません。加えて、夏はヤブが多いし山腹は風通しも良くないし、しかも運動量が多いので、平地以上に体熱は上がる。人体の放熱のシステムは、汗が蒸発する時に身体の熱を奪っていくというもの。しかし、上記のような条件下では、汗が蒸発する前に次から次へとどんどこ汗が噴き出してきて、熱を逃がすのが追いつかない。追いつかなくなれば、すでに熱中症の入り口にさしかかってます。これを頭に入れておいてくださいね。てな訳で、夏の山城攻めは私に言わせれば論外なので、夏のウェアはカットしまして、冬の服装。汗のかき方とかは個人差があるので一慨には言えませんが、城の遺構を見に山に入るくらいだから、大抵の人は途中でちょいちょい足を止めて写真を撮ったり、縄張の確認をするでしょう。つまり、それなりの標高でひたすら前へ進む登山よりは運動量も少ないし、汗をかいてもすぐに冷える。私は汗っかきでしかも寒がりなので、正月の装備には汗と保温のバランスをどう取るかでホントに頭を痛めた。「鏡山城(4)」にも簡単に書きましたけどね。いくら厳冬期とはいえ、多少の汗をかくのは必至だし、そうなれば汗冷えが心配。保温を前提にしたウェアを買いにいった時、「運動量が少なくてすぐに冷えるであろう登山」ってスタイルをショップの人になかなか解ってもらえなくて、アドバイスを受けながら最後は自分の感覚で決めた。自分の体質を一番把握してるのは、自分だからね。なので、皆様も自分の身体と相談しながら、ウェアを選んでください。ただし、冬も綿は最悪です(笑)。ちょっと値段はお高めですが、やっぱり山のウェアをお勧めしますね。装備品としては、コンパスくらいは持ちましょうね(縄張図は言うに及ばず)。これも、まあ地図が読めれば問題はありませんが、オリエンテーリングの基礎知識くらいは持つのが理想です。あとは、熊鈴ね。一般的に熊鈴というものの、もちろんクマがいない山でも有効です。基本的に、野生動物ってのは人間を恐れるもの。「ここに人間がいるよ~」って遠くからでもわかるように知らせておけば、大抵の動物は出くわさないように向こうから避けてくれる。一大コロニーを形成して、人を恐れなくなった猿とか野犬の場合は避けてくれないかもしれませんが、事前にそういう情報がある山はパスするのがベストでしょう。人間同士でも、常に誰かがしゃべり続けている超元気なパーティー以外は、山の中では普通に歩いてても案外静かなもので、すぐ近くに来るまで存在に全く気付かなかったってこともよくあります。相手が人間なら別に問題はないんだけど、これが野生動物だと全く話は違う。野生動物でトラブルが起こるのは、大抵が出合い頭なんだそうです。急に人と野生動物が出くわして、「おお、びっくりしたあ~!!」って驚いて、場合によっては相手が自分の身を守るために攻撃的になったりします。その結果、人に危害が加えられて後からハンターの皆様が出動する事にでもなったら・・・そういう不幸な出来事を呼びこまないためにも、山ではなるべく自分の存在をアピールしましょう。ラジオをかけて歩く人もいるけどね。さて・・・最後に歩き方かな。特別難しい事もないんだけど、粘土質の道だったり濡れて滑りやすかったり、足場のよくない道では「歩幅は小さく、ガニ股」。これが有効です。もう膝からがっぽり開いて、ちょこちょこと男らしく堂々と歩いてくださいもちろん、足を置く場所はちゃんと選んでね。下りの岩場とか、危ない場所では潔く腰を落として安定性を確保して下さい。岩場でさらに傾斜がきつかったりした時は、山側に向き直って(進行方向に背を向けて)両の手足をフルに使ってゆっくりと降りましょう。岩場といえば、低山でも時々補助に鎖やロープが垂れ下がってることがあります。が、私に言わせればほとんどの場合、必要ありません。(本格的な登山の場合を除く)むしろ、なまじ素人が使うとそれに頼っちゃって危ないと思う。それよりは、知識を身につけましょう。私はクライミングはやらなかったけど、基本中の基本ぐらいは知ってる。その基本とは、「3点支持」。両手・両足で計4本ありますね。このうち、動かすのは1本だけ。左手を進めるなら、右手と両足はしっかり大地をつかむ。左足を進めるなら、両手と右足はしっかり大地をつかむ。こうやって3点を安定させながら着実に体重移動をしていく訳です。ところが、上からぶら下がってるロープなんかに頼っちゃうとそれで安心しちゃって、素人はどうしても足元がおろそかになりがち。ロープを使うなとは言わないけど、基本さえ押さえておけば自分の身ひとつで大抵の道はこなせますよって話です。ひとまず、今回はこんなところかな・・・口は悪いですが、皆様に安全で楽しい山城攻めをしてほしいという気持ちは前回「山城攻めをされる方へ」を書いた時と変わっていません。お互い、素晴らしい山城を存分に楽しみましょうにほんブログ村
2013年01月26日

皆様、こんばんは。源氏名・大内りりこと戦国ジジイです。日に日にマイナーロード爆進中の感があるにも関わらず、根気よく読んで下さる方々、毎度ありがとうございますさて、今日はタイトルの通りの内容ですが、「東西条バトル編(4)」でかねてよりお知らせしていました通り、これより少々忙しくなりますので、ここで一旦お休みに入らせていただきます。全く書けないという状況ではないので、できれば少しでも先に進めたいところではあるのですが・・・なにしろ私は、勢いとモチベーションと本能の人間。しかも、頭が悪い。夏に山口編があともうちょっとってところで時間切れになり、ミワラ行きのために途中で中断して、帰ってきてからさあ再開しようと思ったら、それまでに何を書いて、これから何を書くつもりだったのかをすっかり忘れてしまい、書く意欲を失った。再開してからの残りの数話を上げるのに、どれほど辛かったか・・・私は通史なんか書く気はさらさらないし、あくまで行った史跡や城とその背後にある歴史をかいつまんで紹介するスタイル。加えて、本能の人なので脱線も多い(笑)。だから、色んなところで色んな話を書くので、記事が増えるにつれ、自分でもどこに何を書いたか把握しきれなくなってきた。同じ事を何度も書くのはイヤなので、1度書いた話とか関連のある話は2回目以降はリンクを貼るだけにしてますが、最近じゃ自分でも過去の記事を探せなくなってきて、ブログの検索機能を使って過去の記事を探し出したりしてる特に、書きたいことが沢山ある時には、同じシリーズの中でさえどこまで書いたか覚えてなくて、ちょいちょい自分の記事を読み返したりしてる。よくこんな頭で毎日ブログを書いてるよな~って、自分でも感心するほど頭の働きが悪いで、東西条バトル編の2日め、2013年の元日は実に素晴らしい城へ行きまして。遺構の紹介だけでも相当な量になると思われるのに、さらに歴史面でも書きたいことが富士のお山ほどに積もってる。今までの城の記事で一番長かったのは、備中松山城かな(15話)。でも、次の城は確実にこれを越えると思う。だから、今2日目を書きだすとまた途中で中断して後がしんどくなるのがわかっているので、ちょうど1日めが終わってキリがいいので、ここでお休みにしようと思ったワケです。ハイ。このスキに、うやむやになりかけてる日光写真館を少し続けてもいいんですが、ちょっと集中してやりたい事もあるしなあ・・・日光シリーズもね、ある程度まで行けばあとはひたすら写真を貼りまくるだけなので、そこまで行けばいくらかは更新できるかとは思いますが、まだそこまで行ってないし・・・う~ん、どうすっぺ・・・ちなみに、「東西条バトル編」の再開は2月中旬頃になると思います。この後の3つの城は遺構も歴史も(私にとっては)すごいところばかりなので、再開したらなけなしの脳ミソをフル回転させて頑張る所存です。しつこくあれこれ書きすぎて、「もうついてけねえ~」って方もいるかも・・・(笑)。まあ、私のブログは明らかに一般ウケしない内容だし、その上話も長いので、とにかくひたすら自己満足と「これも書いとけ~」ってシリーズの主役となる方々の霊界からの指示を受けてしこしこと書き続けている訳ですが、中には熱心に読んで下さる奇特な方もいて、「私のブログって、『くさや』みたいなもんなんだろうな~」と常々思います。「くさや」も嫌いな人が多いし私も苦手だけど、好きな人は好きだからね~。どちらも、クセになる何かがあるらしい・・・(笑)。だって、1回の記事でたまに短めのものがあると、「短けーよ!!」ってクレームが付くことがあるんだからね私が読者だったら、こんな長いの読むの絶対イヤなのに。鏡山城も含め、ここまでのところ、「東西条バトル編」はにほんブログ村のランキングではかなりの好評価を得てます。これはもちろん、私の記事がどーのという話ではなく、鏡山城とその周辺の歴史が評価されている結果だと思うので、大内氏の記事が中心でもあったし、大変嬉しいことです。この後の記事でも、少しでも安芸の歴史と山城の良さを知ってもらえるよう、がんばります。んじゃあ、まずお休みの手始めに東西条バトル編の写真の整理をするかな・・・(笑)。まだ1日めの分しかやってないんですよ。しかも、福山の写真もまだ手つかずという・・・写真が多すぎるから、作業するのすら気が重いんだよね。ハハハハ・・・・・にほんブログ村
2013年01月25日

前回条里制の説明なんかしたおかげで、雑談が1話で終わらなかったので(笑)、今回もその続きです。何しろ、このブログは私の備忘録でもあるので、思った事とかはなるべく書き残しておきたい。て事で、今日は変わった看板の紹介から。 西条の駅前からまっつぐ延びる大通りは通称・ブールバール。広くて綺麗な道なんだけど、この通り沿いにこんな看板があって、思わず激写(笑)。 ・・・・・・・・・。笑っちゃいけない内容だと思うけど、笑える~!!旅先でのこーゆー出会いがたまりませんわ・・・。この通りには警察署もあって、綺麗で立派な建物。やっぱり東広島っておかねもちなんじゃ・・・ (たぶん)わたくしは悪人ではないと思うんだけど、宿の近くに警察署があるってだけでなんか緊張する。連行されないように、身を慎まねばならんな・・・ ところで、今回は狭いエリアを丁寧に歩くというパターンではなく西条を拠点にあちこち移動するというスタイル。バスを色々調べてるうち、西条駅から出てるバスに「豊栄行き」というのがあった。豊栄(とよさか)という地名があるのを初めて知ったので、私は少なからず驚いた。もう覚えてる方もいないでしょうが(笑)、「山口編(16)」で訪れた毛利元就を祀る神社、あれが「豊栄神社」なんですね~。しかも、地図を見ると豊栄には「乃美」という地名もある。私はまだ、小早川家の家臣の領地などについては具体的に把握してないんだけど、この地名からすると乃美氏はたぶんこの辺りを治めてたんだろうな。乃美氏で著名なのは、小早川水軍の提督として隆景ちゃんの元で活躍した乃美宗勝。それから、元就に嫁いだ乃美大方(のみのおおかた)。乃美大方は四男・穂井田元清、七男・天野元政、九男・毛利秀包を産んだ。元清様は岡山編あたりで何度か顔を出してます。秀包(ひでかね)様は、「大津編(12)」 と「小早川隆景の知名度」あたりにちょろりと書いたのかな。秀包様は、一旦備後国人の養子となった後に、子のなかった兄・隆景の養子となった方。兄弟といっても、34歳もの開きがあるからね~。立派な親子の年齢差。秀包様が生まれた永禄10年(1567)は、隆景ちゃんが三原城の築城を開始したと一般的にいわれてる年。長兄の隆元に至ってはすでにこの世を去っており、顔をあわせてもいない。唐突ですが、戦国武将に必要なものは何だと思いますか?と聞かれたら、あなたなら何と答えますか?Aさん:先見の明!Bさん:それを現実に役立てる、冷徹な実行力。Cさん:強力なリーダーシップとカリスマ性も必要だよね。はい、おっしゃる通りですね。しかし、徳川家康を見てると寿命も必要(豊臣家をつぶすまで執念で生き抜いた)だと思うし、毛利家を見てると繁殖力も必要だな~とつくづく思うんだよね。(家康も子は多かったが、色々混ざってた)私は最近、元就さんに「ビッグダディ」ってあだ名をつけたんだけど(笑)、ビッグダディは確かにものすごい人だった。しかし、彼の王国造りを支えたのも、また維持に大きな力を発揮したのも、数多くの優秀な息子たちだった。その優秀な息子のうち3人の子を産んだ乃美大方の出身地が豊栄・・・これは、豊栄神社の名称と何か関連があるのか!?と思ったんだけど、自分の記事を読み返してみると「豊栄」の神号を与えたのはあくまで朝廷ってことになってるしな・・・しかし、なんでまた「豊栄」って神号にしたんだろう?豊かに栄えるだから、めでたい号ではあるけど。神号を賜ったのも、明治2年だしなあ・・・なんだけど、妙に気になる・・・今度行ったら、社務所に寄って由緒書をもらってくるかな。たぶん、同じ事しか書いてないとは思うけど。最後は、太閤殿下のご登場です。「小早川家文書」に「豊臣秀吉上洛泊次第写」というのがある。これは「三原城(7)」でも簡単に紹介してるけど、秀吉が肥前名護屋から上洛する際のお泊りのスケジュール表で、秀吉の自筆とされているもの。本文の前に、「コノ文書ハ、天正廿年、若クハ文禄二年ノモノナルベシ」と注釈がある。天正20年(1593)は文禄元年でもある。あれ、これって・・・赤間ヶ関で殿下が死にかけたアレか!?って思ったけど、あの時は海路って聞いたんだけどなあ。いやでも、小倉を出て次は長門の「関」ってなってるから、溺れかけてここから陸路に切り替えたとか(笑)。関って言っても上中下あるから、どの関かまではわからないけどね。そういえば、亀山八幡宮で参拝記念に能を奉納したとかソテツを植えたなんて話があったな・・・いやいや、もしこれが病気の大政所のために急いで帰る行程だったら、そんな悠長なことはしないだろ。亀山八幡宮に参拝したのは、きっと行きの時だな。うんうん。ま、とにかくその遠足のしおりは、「ふかえ(深江)とまり」の筑前から始まって、名島~宗像~蘆屋~小倉と来て本州へ渡り、長門・周防を経由して安芸。 おかたとまり ひろしまとまり さいてうとまり ミ王らとまり・・・で摂津兵庫までの計24箇所の宿泊地が書き出されている。あっ、ミワラ(ミ王ら)は備後だけどね(笑)。おかた(小方)は広島県大竹市の小方かな?大竹市玖波(くば)町の西国街道沿いには、「太閤の振る舞い井戸」なんて史跡もあるらしいし。その井戸の水でお茶を点てて殿下に差し上げたところ、大層喜ばれたという話が残っているそうな。で、ひろしま(広島)に泊まって、次がさいてう(西条)・・・広島は、やっぱり広島城でしょうね。出土品からも、殿下の宿泊所としての位置付けだとする説もあるくらいだしね。わかんないのが、西条のステイ先。一体、どこに泊まったんだ?この辺りは殿下を迎えるような大きな平城はたぶんないと思うし、すでにある程度は殿下の城割令によって山城も整理されてたんじゃないかと思うけどね。私が知らないだけかもしれないけど、ひとまず殿下ご逗留のために御殿とかを新築したって話は聞いたことないし。とすると、あとは寺か。西条付近の大きな寺もいくつか行こうと思ってたけど、今回は結局福成寺しか行かれなかった。でも、見た感じ大きくて格がありそうなのは、やっぱり安国寺?福成寺も昔は安芸でかなり栄えたって看板に書いてあったから、可能性としてはアリだよな。輝元が泊まったりもしてるくらいだし。ただし、山の中だけどね。う~ん、わからん・・・ひとまず、西条に関してはこの位かな。あ、そういえば鏡山城のところで書くのを忘れたんだけど、平成24年12月1日に鏡山南西の「ががら山」で現地説明会が行われたそうな。【外敵の侵入を防ぐために自然の傾斜を利用して整地し、溝や柱を立てた跡を確認。鏡山城の外も広範囲に守っていたことなどを学んだ。縄文時代に動物を捕獲していた落とし穴跡も見て歩いた。】(’12/12/2付 中国新聞より)地図には「ががら山」なんて書いてないからはっきりとはわからないんだけど、御殿場から南西に見えたこの山がそうなんじゃないかな。 って、鏡山城シリーズの方に追記しとけって?(笑)鏡山城といえば、山麓と城内でつぶれたドーナツを食べた事を書きましたが、朝起きたら、台所にドーナツが置いてあったんだよね。夜のうちに近くに住む義兄が持ってきてくれたらしいんだけど。知らないお店のドーナツだったけど、後から聞いたら埼玉のナントカってショッピングモールに出店してる有名なお店らしくて、マメな人だからわざわざ買いに行って並んでゲットした貴重品だったらしい。うちは全員そーゆー事にうといので、そんなありがたいモノだとはつゆ知らず、私はつぶれるのを承知の上でザックに入れたし、平気でつぶれたドーナツを誰もいない城跡で食べていたという、義兄が聞いたら涙を流すんじゃないかってオチが付いてきました。無神経な娘の母はやはり無神経で、購入経路を聞いた時、「暮れの忙しいのに、そんなとこまで行ったんですか~!?」って爆弾発言をしたらしいしすいません、お義兄さん・・・さて、前回のスーパーに行ったところまで話を戻すと、その後でコンビニに行って晩御飯のラザニア(←年越しそば)を買って宿へ。宿は広くていい部屋だったけど、エアコンの所に「温風が出るまで約7分かかります」と書いてあってたまげた冷え切っていたので、部屋の中でもしばらく上着を脱げませんでした。この日の歩数は17,445歩。半日の割には、まあまあ歩いたよな。 にほんブログ村
2013年01月24日

おじさんに降ろしてもらったのは、黒瀬川にかかる石ヶ瀬橋。 黒瀬川は、さっき見てきた吾妻子の滝の下流にあたり、吾妻子の滝の先からぐぐっと北上して、途中で大きく西に向きを変え、この写真の先でさらに南に向きを変えるという、面白い形をしている。大きな地図で見てると、このまんま堀としていけるじゃん!てな地形なんだけど、鏡山からはちょっと遠いし、当時もこんな形をしていたのかはわからない。 くろせがわ~流れる岸辺~思い出は~帰らず~・・・(←違います)ここから食料調達にスーパーまで歩く。すぐ近くにコンビニもあるんだけどね。途中のふた↓。 あんまり綺麗じゃなくてごめんなさいね。だいぶ薄暗くなってきてたもんでしかし、東広島はいろんなふたがあるな~。市役所も大きくて綺麗なものに建て替えてたし、鏡山公園の遊具は立派だったし、東広島っておかねもち・・・? 安芸の大内領で迎える、初めての夕暮れだあ~今回行く城のうち、3/4は実戦経験のある城。つまり、古戦場。前回の福山編についてはまだプロローグしか書いてないけど、前回から投入した新アイテム・腕輪念珠は実は今回のために買ったものだった。1人で古戦場に行ったことはこれまでにもあるけど、今回は本格的な山城で、当然山の中ばかり。まあ、近世城郭と違って、大抵の山城は戦いの歴史を持ってると思うけどね。「古戦場が恐いなら、行くんじゃねぇ!!」って自分で自分にツッコミ入れてみたりするけど、ひたすら萌え~で行き先を決定した後に「そういえば、ここ、バリバリの古戦場だっけ・・・」て感じだったので(笑)。今回はすごい城ばかりなので、恐怖心よりもとにかく「行きたい!行くんだ!!」モードではあるけれど、それでも何かのはずみで恐怖心が顔を出すことがある。でも、よく考えてみたらここは大内領なんだ・・・そう思ったら、何だか気が楽になった(←単純な大内バカ)。基本的には西条での行動は今日で終わりで、明日からはここを拠点に周辺国人の城へ出勤する。まだ何となく恐さの残る城もあるんだけど、帰ってくるのは大内領だから、きっと大丈夫(笑)。さて、ちょっと文字数が余ったので(笑)東西条について書き残したことをいくつか。まずは、東西条(とうさいじょう)の名称ね。最初に字ヅラだけを見たとき、「ひがしさいじょう」かと思った。フツー、そう思うよね。何で東を「とう」と読むのか・・・これは、元は「東条」と「西条」に分かれていたからなんだそうなんです。「東条」と「西条」。この「条」は奈良ごろから使われていた条里制からきている。条里制の歴史的背景とか目的については、最近見直されてるらしいけど、ひとまずここでは条里制の実際についてだけ簡単に。条里制のベースとなるのは、約109m四方の正方形。場合によっては長方形だとか菱形なんかのこともあるらしいけど、これは地形によっても影響されるんでしょうね。日本は山国だからね。歴史に詳しい方はご存知でしょうが、この109mは「1町」と表現した。ついでに言うと、室町時代の守護大名の平均的な館の規模も1町四方。これは、「大内氏館(2)」でも書きました。大内さんちはもっとデカかったけどね~。そして1町四方の区画を「坪」あるいは「坊」と呼んだ。今度は発展形。坪をタテヨコに6コずつ。1町×6コで6町四方の単位を「里」と呼んだ。里の中の坪はそれぞれナンバリングされたが、並び方には大きく分けて「平行式」と「千鳥式」がある。ここまでを図にすると、こんな感じかな。 この図で、例えば1番の区画だったら「一ノ坊」なんて呼び方をされたらしい。今度はもっと大きくなりま~す。里をタテヨコに並べて、ヨコを「里(り)」、タテを「条」としてさらにナンバリング。これで住居表示が可能になる。 もしアナタが、図のピンクの区画にお家を持ってたとしたら、「ご住所は?」と聞かれれば「三条三里一ノ坊で~す」って感じになるのかな。なかなか明快なシステムでグッドだと思うんだけど、荘園制の衰退とともに次第に使われなくなり、太閤検地以降はわずかに一部の地名を残すだけになったんだそうな。ああ、なんで私、条里制の説明なんかしてるんだろう。すいません、東西条とは直接の関係はないんですが、面白いなと思ったものでで、東西条。上の夕焼けの写真を撮った場所のすぐ先に、半尾川(はんのおがわ)という川がある。(地図のリンクはこちら。地図の真ん中を南北に流れるのが半尾川)この半尾川を境に、東を「東条郷」、西を「西条郷」と呼んだ。時代が下って南北朝頃になると、東条と西条をあわせて「東西条」(とうさいじょう)と呼ばれるようになり、さらに戦国頃にはなぜか「東」だけが取れて「西条」と呼ばれるようになった。もっと広域の、現在の東広島のほぼ全体を表す東西条という呼び名自体は残ってたみたいなんだけどね。さらには、江戸時代に入って元々「東条」にあった四日市村が宿場となって西条の中心となり、狭義の「西条」を指すようになった。半尾川より少し西に行ったところには、現在「西条町西条東」という地名がある。西条東は半尾川より西にあるわけだからもともと「西条」で、東条と西条の境目の近くにあって西条の中では東にあるから「西条東」。これは、歴史的に正しい。が、上のような地名の変遷を知らずに現在の地図だけを見れば、「西条より西にあるのに、なんで西条東なのお~?」って思わず笑ってしまうようなことになっている、とな。まあ、つまりはこの辺は古くから栄えてたってことだよな。それにしても、地名も奥が深い・・・話は変わって、今度は陶(すえ)氏についてちょっとばかり。陶氏は陶隆房(のちの晴賢)でそこそこ名が知られてると思うけど、実は大内家の傍流。平安時代の終わり頃に大内盛房の弟が右田氏を興し、さらにそこから3代目で陶氏が誕生した。大内持世の時代に周防守護代となって以降は、陶氏が周防守護代を世襲した。大内教弘の時代の寛正6年(1465)8月26日、陶弘正が安芸で討死。この辺は、細川との争いが激しくてあまり詳しい事はわからないんだけど、時期的には幕府から東西条を武田氏に渡すよう求められて西条衆が鏡山城の奪還に乗り出したちょっと後で、細川氏との対立から教弘が自ら伊予に渡った頃。(「鏡山城(8)」をご参照ください)で、教弘の背後を守るような形で、陶弘正が安芸に在陣していた模様。弘正の戦死後はその弟が跡を継ぐんだけど、応仁の乱で京で戦死。その子・弘護(ひろもり)が家を継いだが、やっぱり応仁の乱がらみで文明2年(1470)安芸の廿日市に進軍する。どうやらこの辺りから、陶氏と安芸の親密度が増していったらしい。「鏡山城(11)」で一瞬顔を出した陶興房、この人がまたすごい人で、安芸へ来ーの九州行きーのあちこち出かけていっては、軍事面で大活躍。興房の跡を継いだ隆房も、安芸へ出陣して大内氏重臣として華々しい活躍をした。で・・・、東西条代官は世襲ではなかったため、任地での独自の勢力を築くことができなかったと「鏡山城(2)」に書いたんだけど、その一方で陶氏はたびたび安芸に出陣し、国人衆を率いて軍事行動を共にするうちに、次第に寄親と寄子のような関係ができていったんだと。大内氏滅亡の前段階、「大寧寺の変」については、私は「隆房ちゃんコワイから、従うしかなかったんだもん・・・」て古くからの通説じゃなく、初めから毛利元就は積極的に加担していたという近年の研究結果を支持している。( 「大内氏館(4)」 「三原城(2)」 あたりもよかったら参考程度にどうぞ)クーデターに先立って隆房が取り込んだのはもちろん安芸の国人衆だけじゃないけど、元就の協力は隆房にとって大きかった。今回、東西条に行くにあたっていろいろ調べてるうち、上のような陶家と安芸の関わりを見るに、もし東西条代官が1つの家系に固定されてもっと力を持ってたら、大寧寺の変の展開もちょっとは違ってたかもしれないな・・・なんて思った。まあ、結果は同じだっただろうとは思うけどね。にほんブログ村
2013年01月23日

追慕碑と墓の奥には道があったので、上がってみた。 へえ、このスタイルは珍しい。天竺様っていうみたいなんだけど。鐘撞き堂でこのタイプを見たのは、私は初めてだな。 県の重文に指定されている5点のうち、ひとつは銅鐘なんだけど、それには寛正2年(1461)の銘があるそうで、この鐘は昭和54年鋳造と刻印されてるので、これは重文の鐘ではないらしい。けど、この鐘の銘文は ・・・梵字なの。これも初めて見た。鐘堂の内部を見まわしていたら、何か書いてあるのに気がついた。 天井とか、内側の壁にこんなのがびっしり書いてあった。しかもこれ、読み仮名までふってあるし~!この奥にも、ぽつりと古い建物があったんだけど、何だかよくわからなかった。境内には他に鎮守社とかもあるそうなんだけど、とてもゆっくり見てられる状況じゃないし、もうここは終わりにしよう・・・寒いし、何だかどっと疲れちゃった~(色んな意味で)。橋を渡ってどんどんと門まで歩きだしたら、またこれがあった。 解説文の上半分は元就さんの概略を書いたもの。下半分は福成寺の簡単な紹介で、これにはこんな風に書いてあった。 【大内氏の氏寺として安芸国で最も栄えた寺の一つで、毛利関係の古文書も 残っています。天正12(1584)年、毛利輝元が伊予河野氏と当寺で会見し 数日滞在して寺宝等を見学しました。】へ~、数日滞在・・・なら当然、大内氏の厨子も見たよな。てるは何を思ったんだろうか。帰りはある程度は歩こうかと思ってたんだけど、夕暮れも迫ってるし、できればもうひとつ途中に寄りたいところもあったから、結局タクシーを呼んだ。↓福成寺の前の光景。 随分デカい駐車場だな・・・私がここにいた間は、部外者は誰も来なかったけど、これから闇の中の山を登って参拝客がやって来るのだろうか。ここだったら、除夜の鐘も撞くかもしれないな。待ってる間はチョ~寒かった。お迎えに来たタクシーの暖かい車内に乗り込んだら、来た時と同じおじさんだった。途中、寄りたいところの近くには小学校があるはずなので、行き先を告げてタクシーは走り出した。山をぐんぐん下ってる最中、畑の中でぽつんと寂しげにたたずんでる牛が見えた。うわ~、この寒い中・・・小屋とかに入れてもらえないのかな~。てか、あの子、あんなところで何してるんだ?いまどき、農作業に従事する牛なんて日本におるのか?行きと同じく静かな車内・・・けど、しばらくの間、私の頭の中でドナドナが回ってたのは言うまでもない。さて、行きとは違う山道っぽい細道を通って、おじさんが車を止めた。「滝が見えるのは、この辺だと思うんですけどねえ・・・」そう、次に行くのは滝なんです。確かに遠くには見えたけど、もっと近くから見られるハズなのだ。遊歩道みたいのも設置されてるって話だったし。それをおじさんに話すと、首をかしげながら車を走らせた。でも、思ってたよりも滝だったな~。いや、地図で見てるとどうも平地のようなのに、滝ってあるんだもん。なんだかよくわからなかったんだよね~。おじさんは心当たりを走らせて、滝の上に着いた。ここからは車は入れなさそうなので、ちょっと待っててもらう。 ↓滝の上部にかかる橋から。 途中からはだーーーっっ!!と水が流れ落ちて、結構立派な滝。 写真じゃ全然わかんないと思うけど。これに沿って道があったので、入口へ行ったらまず解説があった。 【吾妻子(あづまこ)観音の由来 今より762年前、源頼政公の息女菖蒲の前は我が子のために、 父頼政公の守本尊を7日の間勧請して追善供養を営む。 是れより、世の人が種若丸の墓を「滝の観音」と云う。 吾妻子の滝の由来 元久年中、頼政公の息女菖蒲の前は西國に下り下って、當郡下原村滝の岩谷に 来られ、旅路の疲れを休める内に、若君種若丸俄に病気になりあえなく世を去る。 菖蒲の前悲嘆にくれ、石を重ね墓のしるしとせられ、子を思う親の手向草として 「吾妻子や千尋の滝のあればこそ広き野原の末を見るらむ」 と詠じられ、是れより世の人吾妻子の滝と云う。】 (句読点は適宜戦国ジジイが挿入)息女?あ、まだ裏に解説がある。 【はるか東方に見ゆる福成寺の二本の大杉は、高さ5米天然記念物として、又 菖蒲の前の御手植の大杉として空高く聳え立ち、今尚760年前の物語りを 申し伝えている。 「すぎとすぎはにごりなく二世も三世もつれそうぞかし」】 (漢数字は戦国ジジイが変換。誤字と思われるものもついでに修正)で「福成寺建之」とあるので、これは福成寺による解説らしい・・・??? この下の方がもっと豪快に流れ落ちてるんだけど、今回はこれ以上撮れませんでした。ここは「吾妻子の滝公園」というらしく、先へ進むとまた解説板があった。 【吾妻子の滝 西条盆地を南流する黒瀬川にかかるこの滝は、呉市三永(みなが)水源地の 取水口が設けられ大きく形は変わっていますが、市内でも最大級の滝です。 落ち口の幅36m、高さは現在約15mを測ります。 昭和初期までは雄滝と雌滝に分かれて流れていましたが、雄滝には現在 水は流れておらず、今の滝はいわゆる雌滝に当たります。滝の基盤は 花崗岩の岩盤です。滝を境に下流は黒瀬川によって大きく侵食されていて、 上流は平坦地が広がっています。これは、滝の岩盤によって 侵食が食い止められていることを示しているものと思われます。 平安時代末期、源三位頼政の妻菖蒲の前は、遺児とともに平氏の追手から 逃げてこの滝のそばに隠れました。しかし、頼政の遺児は病死し、 滝のかたわらに葬られました。菖蒲の前の悲しみは深く 吾妻子や 千尋の滝のあればこそ 広き野原の 末をみるらん と詠んだと伝えられます。後に頼政の遺児の霊を祭るために 石塔が建てられました。】こっちは妻だよな・・・何なんだこの付近には、「東子」(あづまこ)という字)あざ)が残るらしく、これについて財団法人東広島市教育文化振興事業団の「ひがしひろしま歴史散歩」では 【吾妻子の滝は、元「千尋の滝」と呼ばれていた。(中略)<頼政の遺児が 亡くなって>以来、千尋の滝は吾妻子の滝と呼ばれるようになり、 滝のある一帯を東子と呼ぶようになったと伝えられる。 菖蒲の前の伝説は、市内の各所に残り、西条盆地の伝説に彩を添えている。 しかし、江戸時代末期に書かれた「田口村国郡志御用ニ附下調書出帳」によれば、 「東子」の地名は、田口村を大きく3つに分けた際の呼び方、西から「西郷」 「中郷」「東郷」(あずまごう)のうち、「東郷」が誤って東子と 書かれたものであり、滝も「東郷の滝」であったものが、「東子の滝」と されたものであるとしている。 現在の田口にも「中郷」の地名は残っており、ロマンチックとはいい難いが、 どうもこちらの方が真相に近そうである。菖蒲の前の伝説は、東子の地名から 連想された創作と考えたほうが良いのかもしれない。】 (<>内は戦国ジジイが追加)おおお~、地元にしてはクールだな(笑)。まあ、伝承をバカにする気はないんだけどね。さらに奥へ進むと、六角堂があった。 おっ、これだな。おじさんを待たせてるから、あんまり遠いところじゃなくて良かった お堂はシンプル。格子の隙間から中を覗くと・・・ この宝篋印塔が、頼政と菖蒲前の子・種若丸の墓と言われてるものです。ウィキペディアには、享年3歳とある。伝説の真偽はともかく、お堂の前で手を合わせ・・・散策路はここでおしまいなので、走ってタクシーへ戻る。最後の車内でも静かだったけど、滝を見てる時にわざわざ車を降りてきて「写真撮りましょうか?」って言ってくれたので、いい人だ~と思った。自分の写真はどうでもいいから、悪いとは思いつつ断っちゃったんだけどね。さあ、これで今日の行程は終了。宿の近くで降ろしてもらって、スーパーと思われるところへ歩く。途中にあったふた↓。 このバージョンはこれまでにもあったんだけど、枠の中に埋め込まれてる丸い玉がぼろぼろ取れちゃってるのばかりだった。けど、ここのは綺麗にプチプチが揃ってるなにほんブログ村
2013年01月22日

本堂の脇には、小さなお宮がある。 ここにも売り物のお守りとかいっぱい置いてあって、ああ、なんか・・・う~ん・・・そして本堂の脇には、ここでのもうひとつのお目当てがある。 【源三位頼政卿竝西妙尼一族 追慕碑】この碑自体を見に来た訳じゃないけどね。実は、福成寺はこんな歴史も持っているそうな。 【源平合戦の際、平氏が立てこもっていたとされる寺です。源氏の猛攻を受け、 寺の伽藍は消失。その再建をしたのが、源頼政の妻・菖蒲前といわれています。】 (大河ドラマ「平清盛」広島県推進協議会HP:「ひろしま 清盛」より)福成寺について資料をそろえている時にこれを見つけて、「えええ~、頼政(の妻)あ~!?」って思わずのけぞったね。まさか、こんな時にこんな所で頼政(の妻)が出てくるとは・・・!!そういえば、ちょうど去年の今頃に頼政のところへ行こうとして、その日体調が悪くなってそのまま行かれずじまいな場所があるんだよな・・・「いつになったら来るんじゃ!!」って頼政に呼ばれたかな?頼政についてはあちこちに書いてますので、長らくの読者様は私の頼政好きもよくご存知のことと思いますが、おさらいしたい方は 「大津編(11)」 「大津編(26)」あたりをご覧下さい。妻といっても、菖蒲前(あやめのまえ)は側室みたいだけどね。お香の世界も色々深いようだけど、お香のゲームみたいなものの中で「組香」(くみこう)というのがある。組香の中にはさらにシーズンものがあって、このうち夏の組香として頼政と菖蒲前に題材を取ったものがある。 【鳥羽院の女房に菖蒲前という美人がおり、頼政は一目ぼれをしてしまう。 頼政は菖蒲前に手紙をしばしば送るが、返事はもらえなかった。 そうこうしているうちに三年が経過し、このことが鳥羽院に知られてしまう。 鳥羽院は菖蒲前に事情を聞くが、顔を赤らめるだけではっきりとした返事は 得られない。そこで、頼政を召し、菖蒲前が大変美しいというだけで 慕っているのではないか、本当に思いを寄せているのかを試したいと発願する。 そこで、菖蒲前と年恰好、容貌がよくにている女二人に同じ着物を着せ、 頼政に菖蒲前を見分けて二人で退出するように申し付けた。頼政は、どうして 院の御寵愛の女を申し出ることができようか、ちょっと顔を見ただけなのに 見分ける自信がない。もし間違えれば、おかしなことになり、当座の恥どころか 末代まで笑いものになってしまうと困って躊躇していると、院から再び仰せが あったので、「五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引きぞわづらふ」という歌を 院に奉る。 院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡す。】 (ウィキペディア「香道」の項より)これは「源平盛衰記」からのエピソードだそうな。ものによっては、頼政がヌエ退治に成功したごほーびとして菖蒲前を賜ったという話もある。お香に限らず、頼政に題材を取ったものは能とか謡曲とか沢山あるけどね。私は菖蒲前を知らなかったんだけど、ウィキペディアには菖蒲前は平治の乱後にこっちに逃げてきたとある。でも、平治の乱で逃げる必要あるか~?逃げるとしたら、頼政の挙兵後の話じゃないのかね。ただ、挙兵後だったとしたら、大いなる疑問が残る。そもそも西国は平氏の勢力が強かった地域だし、近くの沼田(ぬた)庄なんかも、小早川氏が入る前は平家の領地だった。(「三原編(2)」にもちょこっとだけ書いてます)以仁王が令旨を出してから平家方にバレるまではすぐだったから、頼政の息子を連れた菖蒲前にも追手がかかったんじゃないのかね。かかってなくても、平家の領地をいくつも通過しなければ東西条までは来られない。「女子旅」だったんならともかく、男連れでホントにここまで来られたんだろうか。どうもよくわからない。この際だから、菖蒲前を中心にいくつか調べてみたんだけど・・・え~と、まず、昔の人って色んな伝説を持っていて、源平の関係者なんかは特にかなり広い範囲にわたって、生存説とかいっぱいあります。例えば、大好きな(平)教経様なんかは一ノ谷で死んだともいうし壇ノ浦で華々しく海に散った・・・といわれる割には、地方に生存説が残る。安徳天皇の生存説については、「赤間ヶ関編(20)」でいくつか書いたみたいですね(←忘れかけてた)。生存は絶望的だろうという安徳天皇に20もの生存説があるのに、なぜか頼政の伝説は生存説ではなく、お首のありかについてのものばかり。首だけが諸国を漫遊・・・いえ、放浪したような、見方によっては冗談みたいなエピソードが今なおそれぞれの地元で語られております。色んなルートを通ってあちこち行ってる訳だから、お首の最終的な落ち着き先もこれまたあちこちにある。頼政はヒドラか!!人間なんだから、首はひとつだろーが!!!みたいな~。でね、菖蒲前も実は複数の伝説を持ってるそうなんですよ。ここ西条には、 【平安時代末の治承4(1180)年、平家追討のため以仁王の令旨に応じて 挙兵した源三位頼政が平家に破れ、自害すると、その室菖蒲の前は追手を逃れ 幼子とともに安芸国賀茂郡西条千尋の滝の岩屋に身を隠した。】 (財団法人東広島市教育文化振興事業団「ひがしひろしま歴史散歩」より)とあるし、静岡県沼津市にも 【源頼政の妻、菖蒲御前が源頼政と子仲綱の遺骨を持って禅長寺に出家し、 潜んだという伝説から頼政堂が建てられました。菖蒲御前の墓も敷地にあります。 (源頼政の墓もあると伝えられます)】 (沼津市役所ホームページより)とあるし・・・・・しかも悪いけど、沼津の解説はとってもビミョー。「頼政と子仲綱の遺骨を持って」・・・「子仲綱」?「頼政の子・仲綱」って言いたいだけかもしれないけど、私は最初「菖蒲前の子・仲綱」と読んだ。「な・・・仲綱は嫡子だから違うだろ~!?」ってあわてて調べ直しちゃったよ言葉って難しいね。仲綱が頼政と共に平等院で自害したことは 「大津編(26)」 で書きましたが、仲綱の嫡男も同じく平等院に散った。が、仲綱の次男の有綱は知行国の伊豆にいたため生き残ってのちに頼朝の挙兵に参加したという。だ・か・ら・・・西条付近に何らかのツテがあったのなら、多少の脚色が入ってもそれについて語られてもよさそうなもんだけど、今のところ私は知らない。縁もゆかりもない土地に、まして敵方の追求が激しかろういくつもの地域を越えてはるばる西条までやって来るよりは、腹違いの子の任地だけど、その縁を頼って伊豆方面へ落ち延びたって方が現実的だよな。まあ、伊豆あたりだって頼政の挙兵当時は平家が押さえてた土地なので、危険な逃避行であることに変わりはないけどね。あと、頼政が挙兵に先立って菖蒲前の生まれ故郷である伊豆長岡に帰したって話もある。も~、やたら伝説がありすぎて砂吐きそうなんだけどまあ、ツッコミは入れるけど、伝説の真偽を問うつもりなんかはさらさらありませんので、西条との関連について話を進めましょう。 【建久二年、後鳥羽天皇の御代に源氏の世となり、賀茂一群を菖蒲の前に賜われた。 菖蒲の前は深く喜ばれ、我が薗よと言う意味で 下原村を御薗宇と改名した。】 (東広島市・観現寺のホームページより)御薗宇(みそのう)の地名は、鏡山からほぼ真東の位置に、現在も残ってます。そしてその周辺には、いくつか菖蒲前に関連する寺社や史跡があります。今回はそれらのすべてには行かれなかったけど、あと一つだけ行った。西条では菖蒲前の伝説はなかなか地域に根ざしているらしく、次に行く史跡の近くにある小学校では、歌・踊り・詩吟などで菖蒲前伝説の創作表現に取り組んでいるそうな。「いやいや、こんなとこまで菖蒲前が来るハズないって~!ハッハッハ!!」なんてツッコミ入れちゃいけませんよ(私だけか)。個人的には、菖蒲前についてはかなり眉ツバだと思うけど、何かしら元ネタになる出来事はあったとは思う。それも恐らくは、悲劇がね。で、福成寺。 【菖蒲の前は,この地にある福成寺で尼となったそうです。この福成寺の境内には、 菖蒲の前が植えたとされている頼政と菖蒲の前の夫婦杉があり、二人を偲ぶ碑も 建てられています。また、この福成寺には菖蒲の前自らが彫ったと伝わる像や、 宝物殿には菖蒲の前の嫁入り道具の鏡、矢を放つ頼政の姿が描かれた掛け軸などが あります。】 (東広島小学校『わがふるさと 御薗宇 「∼響∼」』より)命がけの逃避行に嫁入り道具・・・くうう~っっ!!(←ツッコミたい)現地ではこれまでに書いたような当日の状況から、境内をまんべんなく見ることはできなかったんだけど、あらためて写真を見てみたら、屋根付き橋の向こうに夫婦杉っぽい木があった。 追慕碑の脇には、墓石群。これについてはっきりとはわからないけど、菖蒲前一族ゆかりの寺とあるから、縁者の墓なのかもしれない。宝篋印塔とか五輪塔もあるし、結構古そうだもんね。 にほんブログ村
2013年01月21日

本堂の妻と蟇股↓。 本堂脇に置かれていた瓦↓。大棟についてた紋とは少し違うみたいだけど・・・ 本堂の裏↓。 む~ん・・・・個人的にはビミョーに我慢を強いられる本堂ですが(笑)、実は国の重文を納めています。 【国指定重要文化財 福成寺本堂内厨子及び須弥壇 厨子は、入母屋造妻入の1間仏堂を模倣した宮殿系厨子と呼ばれるもので、 間口1.4m、奥行1.1m、高さ3.4mです。 軒を支える斗供(ときょう)の特徴など禅宗様主体の様式となっていますが、 折上支輪(おりあげしりん)や軒を平行垂木にしている点などは和様の特徴です。 屋根は、たるみが小さく、妻飾りを強調した大型のものです。こうした特徴は、 室町時代後期に瀬戸内地方で主流となるもので、本厨子はその初現となるものです。 正面の桟唐戸(さんがらと)の内側には、八方天像と飛天像が描かれています。 なお、垂木小口の金具には大内氏の家紋である唐花菱紋が浮彫されており、 大内氏の強い影響がうかがえます。 須弥壇は、厨子を安置するための台で、間口3.2m、奥行1.4m、高さ1mです。 上下の框(かまち)は刳形(くりがた)で、四隅に立てられた束柱は和様ですが、 腰部のくびれが大きいところは禅宗様の特徴で、和禅折衷様式となっています。 また、高欄(こうらん)はなく、正面腰部に入八双(いりはっそう)形の格狭間が あります、このように本厨子及び須弥壇は、室町時代前期から中期にかけての 特徴をよく示しており、15世紀初頭の造立と考えられます。また、16世紀に 瀬戸内地方で多く見られる宮殿系厨子のはじまりとなるものです。】 (現地解説板より)建築用語バシバシですが、この詳しい説明のおかげであらかたの構造は脳内でCG化できる。ここに掲載されてる用語すべては解説してませんが、基本的な用語・・・この文章の半分くらいの語句はこれまでの記事で簡単に書いてきてますので、忘れた方は検索機能などを使っておさらい下さいね。15世紀初頭とあるけど、15世紀前半の大内家当主は盛見・持世・教弘。おそらくこの3人の誰かの時代なんだろう。盛見(在任期間:1400-1431)は宇佐神宮の再興をしたり、朝鮮貿易で大蔵経を輸入したり、大般若経を出版してそれを配ったり、その他禅への関心なども高かったようなので、一番可能性が高い気がする。家督相続のゴタゴタはあったものの、最終的には盛見は東西条での勢力は回復している訳だし。持世(在任期間:1432-1441)はちょっと前に書いたけどね~、何しろ期間が短いし・・・その短い在任期間の間は、豊後・筑前において戦をした他、永享12年(1440)には長府の住吉神社に参詣した記録があり、この参詣の後に上洛して翌年に死亡。長府の住吉神社を持世が修理した記録もあるので、寺社の保護も短い任期の間でそれなりにしたみたいだけど、東西条は飛び地だしねえ・・・3人の候補の中では、やっぱり可能性は低いと見ざるを得ない。教弘(在任期間:1442-1464)の時代には、史料上で東西条代官が顔を出すし、東西条の拠点である鏡山城は遅くとも教弘の代には築かれていただろうし、東西条の経営により力を入れ始めた時期でもあるので、これも可能性が高いだろう。解説には、この厨子の絵と思われるものもあった。↓。 本堂の中を覗くには、靴を脱いで階段を上がらなければならない。しかし、周囲の視線が痛かったし、登山靴を脱ぎ履きするのは非常に面倒。誰もいなかったら、おそらく頑張って靴を脱いで、もし中が覗けるようだったら双眼鏡で大内菱が見えるかチャレンジしたと思う。・・・が、今回は断念した。すでにここまでで相当テンション下がってたし。厨子に大内菱が使われてるというから、本堂にももしかしたら大内菱が使われてないかな~って期待をして探した訳だけど、見つからなかったのは前回書いた通りです「文化遺産データベース」とかに厨子の写真が載ってないかな~って探したけど、なかった。けど、「広島県教育委員会」様のホームページ「ホットライン教育ひろしま」の中に見つけた(リンクはこちら)厨子と言っても、相当華麗。彩色だってだいぶ色あせているはずなのに。それに、妻とか軒下の細工ってなんかすごいんだけど。間近で見たいな~、これ・・・そしてそのページの解説には、こんな事が書いてあった。 【垂木(たるき)木口(こぐち)の飾金具に、瀬戸内西部地方の大守護大名・ 大内氏の家紋である唐花菱紋(からはなびしもん)があり、その形が 応永27年(1420)大内盛見(おおうちもりはる)寄進の豊前国(大分県) 宇佐八幡宮所蔵の御輿の唐花菱紋飾金具に酷似していることから、 当時の大内氏当主・大内盛見が強く関与して造られたと考えられる。 なお、附の板絵は応永21年(1414)頃の製作である。】一般的には、盛見の名は「もりはる」の読みで紹介されることが多いけどね、私は「もりみ」の読みで通してます。どちらが正解かは、わかりません。いやいや、そんな事より解説の中身だよ(笑)。大内菱が使われてるという、垂木の木口はこの部分(○で囲ったところ)。 (日光・大猷院の水盤舎)豊前にもいずれ盛見の影を求めて行くつもりですが、私はまだ宇佐神宮には行ったことはない。でも、解説にある宇佐神宮の御輿の現物は見た。なんでか~?うっふっふ、赤間へ行った時の、北九州での企画展、あれに出品されてたのだ。福成寺のこの厨子は、残念ながら出てなかったけどね。大内菱っつったら、大抵の人は (山口市・妙見社)これを思い浮かべると思うけど、この家紋にも色々変遷があるらしく、北九州に行った時はそれを詳しく知らなかった私は、展示室に入ってまずば~ん!!と置いてあった御輿に付いてた紋を見て、「なんかちょっと違う~」と思いながらメモ帳にスケッチしたよ(笑)。図録の写真を掲載する訳にはいかないけど、チラシは許されるだろうから、そちらを載せますね。ああ、著作権てめんどくさい・・・ 自分で現物を正面から撮った訳じゃないからわかりにくいと思うけど、屋根についてるうっすらしたのが、その紋です。後世の洗練されたものに比べると、ぽってりとしてかわいらしい感じ。自分の目で厨子を見てないからはっきりした事は言えないけど、これはもう盛見の時代ってことでほぼ確定なのかな?附(つけたり)の板絵については、詳しい事は福成寺の解説にも広島県教育委員会の解説にも書いてないけど、福成寺の解説の方にある桟唐戸の内側の八方天像と飛天像がこれにあたるのかもしれない。ところで金具が酷似しているという宇佐神宮の御輿は、 【宇佐宮では式年造営にあたっては、神事に使われる諸物を新調して利用することと なっており、ご神体に捧げられる御装束をはじめ、身辺に侍らせる置物・道具など 多くは京都へ発注された。神輿についても、その障子絵が京都の絵師 加賀守によって描かれていることからみても、神輿本体も京都において 作成された可能性が高い。】 (「大内文化と北九州」展図録より)なんだそうで、華麗な福成寺の厨子ももしかしたら京で作らせたものかもしれないな・・・って思った。だって盛見は、妙見社での二月会で使う童舞の2,000万円の衣装を京に発注したりもしてるしね。ホラ、大内さんちってみんな京大好きだし~。福成寺の別当職を興隆寺に寄進したのは義弘だから、盛見の時代には福成寺は興隆寺の末寺となっていたと見ていいのだろう。末寺といっても、単に「東西条に店舗を新たに出店しましたあ~」ってフランチャイズ的なものではなく、安芸における拠点・東西条での興隆寺の代替機関ともいえる重要な宗教拠点との位置付けだったんだろうと思う。別当職を寄進してるくらいだからね。であれば、安芸のプチ興隆寺(=福成寺)を盛見は大切にしただろうし、寄進する厨子にも気合を入れた可能性はあるよな(笑)。にほんブログ村
2013年01月20日

橋の手前にあった手水鉢の水は、凍ってた。 山の上だし夕方だし、さすがに寒くなってきたなあ~。あんまりここの池は風情があるってもんじゃなかったけど、中の島がある。 ん?手前のコレって・・・ ・・・船だわ。ちょ~お小さいけど、確かに船。「釜本丸」って書いてあるし。う~ん・・・・・橋の途中で分岐があって、中の島へ渡れるようになってるので立ち働く人達の視線を気にしながらも渡ってみた。 「天神社」って書いてある。由来はわからないけど、天神様を祀ってるのか。 小さなお宮には、ぎっしりと・・・ ・・・ま、まあ、参拝客の多い時期だから、気張って飾り付けしたのかもしれないしね ただ、天神様の前をスルーした記憶は私にはないんだけど、申し訳ないけどちょっとこの時は手を合わせる気にはなれなかった。おみくじ大好き人間にも関わらず、ここでは引かなかったし。来る前の期待とは裏腹に、ちょっとテンション下がり気味・・・このお宮の脇には、宝篋印塔とか五輪塔があった。 銘は覗きこまなかったけど、崩れてるのもあるし、結構古そうだな。橋を渡ると、本堂がある。あれこれ働いてる方達は、家族の方なのか氏子さんなのかはわからないけど、こんな日にやって来た私を遠巻きに、けど確実にじろじろ見ているのがわかるので、なんか居心地悪い。もちろん、大晦日の夕方なんて時に来た私が悪いんだけどね。忙しいさなかをお邪魔して、すみませんね橋を渡った時はちょうど本堂の前で何やら作業していたので、周りから攻めていくことにした。 宝物館。この中に、歴史あるお宝が収められているのかな?ここの留蓋は、 これは、初めて見るタイプだぞ・・・何だろ、これ?波?一般の民家も含め、広島の建築は地域性が強いことを少し 「東西条バトル編(2)」で書いたけど、建物全般としては西条あたりは三原と同じ部類に入っても、留蓋はまた別。三原はとにかく、ハト、ハト、ぽっぽっぽ~!!って感じだったけど、今回の旅ではこのバージョンを多く見かけた。これだけカラーが違うと、面白いよなこの隣には、福成寺所蔵の県の重文についての解説板があった。ひとまず、福成寺文書の分だけ載せておくかな。 【後醍醐、後村上天皇の綸旨をはじめ、毛利弘元・輝元、また、小早川隆景の書状など 9通の文書と福成寺縁起文1巻が所蔵されている。これらから、南北朝時代の 福成寺と南朝方との結び付き、また、その後の周防(山口県)の大内氏の 東西条支配をめぐる動向、当寺で毛利輝元と河野通直が会見したことなどが わかる。】 (現地解説板より。誤字と思われる一字は修正)あら・・・隆景ちゃんの書状なんてのもあるのね。歴史はあるんだよなあ、このお寺。なんだけど・・・う~ん・・・「おいおいジジイ、どうした~?前回といい、やけに歯切れ悪くないか!?」と思ったアナタ・・・言いたいことは色々あるんですけどね、何しろこの記事を誰が見るかわからないし、毎回読み続けて下さっている方なら私の性格もだいぶ把握して頂いてるとは思いますが、福成寺に行くつもりで調べている一見さんがこの記事を読んで万が一「福成寺ってイマイチっぽいからやめとこ~」なんて事になったら、営業妨害になってしまうせっかくの大内氏ゆかりのお寺なのに。だから、今回は(珍しく)控えます。言葉を濁してるところは、「精一杯ガマンしてるな~」と笑っていただければ(笑)。さて、宝物館の手前には、新しいっぽい石像が。 この石像の裏側には、「江戸時代 文政ノ頃ノ供養塔」って札みたいのが立てかけてあるんだけど、どう見ても供養塔じゃないしな。宝物館の手前には、お墓みたいのに「弘法大師之土」って書いてある何だかよくわからないものがあるので、これは弘法様なのかもしれない。石像の台座には、「福成寺住職69世五十周年」うんたらって刻まれてるので、その方が発注したんでしょうけど。しかし、う~ん・・・(笑)。その隣には、大きくて立派な宝篋印塔がある。 ちょっとピンと来ないけど、こちらの方が供養塔なのかもしれない。そして本堂。 アラ、外も中も垂れ幕は大内菱じゃないわ本堂のどこかにさりげなく大内菱が使われてないかな~って期待したんだけど、なかった。ちなみに、毛利紋もありませんでした。本堂の蟇股↓。 この感じからすると、少なくとも近世に入ってからのものみたいだな。江戸中期以降かな。蟇股の他にも、彩色された跡がかすかに残る。 あれ、ゾウの上の斗(と)が5つ組になってる・・・平三斗については「三原編(18)」に簡単に書きましたが、平三斗に1コプラスして4コ組の「連三斗」(れんみつど)ってのがあるってのは知ってた。けど、5つもあるのは私は見たの初めてかも。 色の残り方がなんかヘンだけど・・・ この写真で、垂木を直接支えてる柱はだいぶ後のものっぽいから、何度か修築をしてるみたいだな。そもそも本堂にはガラスの窓が入ってるし(笑)。屋根は赤瓦。申し訳ないけど、屋根はあんまり綺麗じゃなかった。維持管理も大変だよね(←フォロー)。けど、大棟には龍がいた。右のが寺紋かな? にほんブログ村
2013年01月19日

※「鏡山城(11)」の続きです。次に目指す寺は、ちょっと辺鄙なところにある。交通費の節約のために、東広島駅までバスで出てそこからタクシー・・・ってのも考えてたけど、日の短い時期だし、ゆっくりしてはいられない。ので、鏡山公園からタクシーで向かった。近くないのはわかってたけど、思ってたより遠かった。しかも、途中からはぐんぐん山へ入っていく。まあねえ~、すぐ近くには天文台があるくらいの場所だから、そういうところなんだろうとは思ってたけどね(笑)。タクシーのおじさんは、物静かな人だった。ので、イマイチ会話もはずまないまま目的地へ着いた(場所はこちら)。 【福成寺(ふくじょうじ)の指定文化財 福成寺は、縁起文によると、奈良時代、神亀3(726)年ころの開基と伝え、 当時は福納寺(ふくのうじ)と称されていました。 平安時代の寛仁年間(1017~21)に現在地に移され、室町時代には、周防国 (山口県)の守護大名大内氏の宗教的拠点として栄えました。 福成寺には、国指定の文化財1件、広島県指定の文化財5件が残されており、 いずれも、寺の長い歴史を伝える貴重な歴史資料であると同時に、東広島市の歴史・ 文化を理解する上で欠くことのできないものです。】 (現地解説板より)ふっへっへここも大内氏のゆかりです。県の重要文化財である5件のうち、「福成寺文書」については「広島県教育委員会事務局」様のホームページに次のような解説がある。 【福成寺に伝わる南北朝時代(1333~1392)から安土桃山時代 (1573~1602)にかけての9通の文書群。 西条盆地の歴史を知るうえで貴重な資料である。 後醍醐天皇綸旨(りんじ)と後村上天皇綸旨は福成寺が建武政権の庇護を得、 南朝勢力の拠点であったことを示す。毛利弘元書状は山口の氷上山興隆寺 (大内氏の氏寺)別当宛で、室町戦国時代に東西条(西条盆地と黒瀬川下流域)が 大内氏直轄領でこの寺がその精神的拠点であった時期のもの。 天正12年(1584)6月付の毛利輝元書状と同奉行人連署禁制は 伊予の河野通直が土佐の長宗我部氏の攻撃をうけ、毛利氏の救援を求めて 安芸に渡海し、この寺で輝元と会見したことを示す史料である。(以下略)】どうです、なかなかの歴史でしょお~。大内氏の氏寺・興隆寺の名前が出てきましたね。山口市にある興隆寺については、「山口編(21)」以下数話にわたって書きましたが、あそこは大内家とゆかりがあるどころの話じゃない。したがって、今に残る「興隆寺文書」も、大内氏を知る上で重要な史料。「鏡山城(2)」で、「ひろよんの長男・義弘の時代には、すでに東西条は大内家の支配地となっていたらしい。これは、東西条の寺に対する義弘の処置から窺われる。」と書きましたが、「東西条の寺」はこの福成寺のことを指します。応永元年(1394)10月、福成寺の別当職を大内義弘が興隆寺に寄進したという内容のものが「興隆寺文書」にある。そして、福成寺は興隆寺の末寺となった。義弘の応永の時代には東西条で大内氏が支配権を持ち、福成寺が大内氏の宗教的拠点となったというのは、ここからきている。そんな歴史を持つお寺だから、ちょっと不便なところにあるものの、是非ともここには来たかった。車道を上がって、まず現れるのは山門。 門にはこんなものが貼ってある↓。 はいい~!?門にお賽銭を捧げる人がそんなにおるのか?気が早いのう・・・で、門の両脇におられるのはこのお2人。 つまり、これは仁王門な訳ですね。ここの仁王様はお顔も独特だけど、手も独特(笑)。そんな角度で、疲れませんか? 「三原編」で寺町めぐりをしてる辺りで、あちこちの寺を回ってる方のことを何度か引き合いに出したけど、その方は福成寺も回っておられて、今回も参考にさせていただいた。その方は建築を主眼にして見ている方で、実は福成寺についてはあまりいい評価をしてなかったんだけど、まあ評価は人それぞれだし、もちろん私は私の視点で見ようと思っていた。歴史もあるお寺だし。で、向かって右の仁王様の玉垣にはこれが設置してあった。 う~ん・・・門に取り付けられてる賽銭箱って、私は初めて見たような気がする。奥まで行くのがしんどいから、ここでお賽銭を済ませちゃうのか?すでにこの場所が山の上なのに?それとも、仁王様があまりにお茶目だからつい節分の豆まきみたいにお賽銭を投げつけたくなる人が多いのだろうか。門には、こんなものもあった。 「足腰が強くなりますよーに」の願かけって感じだけど、掛けられてるのはこれだけだから、ホントに足腰関係で霊験あるのか?ましゃか、お寺で使ってるものを干してる訳じゃないよな。裏から仁王門を見ると、こんな感じ。 う~ん、悪くはないんだけど・・・先へ進もう。 門から先は、少し歩く。大内家当主でここに来た方がいるかはわからないけど、少なくとも毛利輝元と河野通直はここに来たらしい。河野通直さんについては、そのうち書く機会があるでしょう。福成寺境内の樹は「福成寺の巨樹群」として県の天然記念物に指定されている。解説板には「いずれも数百年の樹齢を経ていると推定されます」とあるけど、この通り沿いからはよくわからなかった。けど、その中には大内氏時代を知る樹木もあるのかもしれない。で、その解説板の近くにはこんなものもあった。 これの裏側とか林の中に文書を納めてるような宝物館とか何らかの建物があるのかと思ったけど、何もない。何でこんなところにおもむろにこれを設置したんだろう参道の奥の左側には、現代風の歌碑とか何やら色んなものが置いてあったんだけど、その中にこれもあった。 ふ~ん、仁王門は最近修築されたのか・・・あの門がいつ造られたものかはわからないけど、手入れの仕方とか、あんまり当時のままって感じじゃなかったもんな。で、同時に新築された渡廊下はたぶんこれの事を指すんじゃないかと思います↓。 橋だけどね。庫裏の方は今回見られなかったからはっきりとは言えないけど、ぱっと見た感じ渡り廊下っぽいのはなかった気がするから、この橋を言ってる気がする。 橋は、鉄筋コンクリート造りです。う~ん・・・橋には貼り紙があって、元日から3日までは法要、2日の昼からは護摩法会があると書いてある。ああ、そうか・・・呑気に私はこんなとこ来てるけど、世間では大晦日だもんな。橋にはライトアップ用のろうそくみたいのが置かれ、橋の向こうの本寺域でも数人が掃除したり何やら飾り付けをしている。今日の夜から三が日の間は、参拝客が多く来るのかもしれないな。にほんブログ村
2013年01月18日

今日は1年に1回の人間ドックの日。職場で仕事中にできる健診もあるんだけど、仕事しながらちょいちょいトイレに立たなきゃいけないのがイヤで私はいつも休暇を取って外部で受ける。健診項目は色々あって、キライなのは肺活量の検査と聴力の検査。聴力は、個室に入って、音が聞こえてる間はずっとボタンを押し続けるんだけど、あれって絶対反射神経も関わってくるからね~。年寄りにはキツイ検査だよな。1度、私の反応がおかしいのか検査にすごく時間がかかった事があったし。肺活量の方は、「これ、キライなんですよね・・・」って言うと看護師さんは皆親切なので、親身になって一緒に付き合ってくれる。タバコを吸ってる割には、肺活量も正常だったし、ぱっと見たところではまだレントゲンにも異常はなかった。ただ、タバコっていうと皆大体肺がんを連想すると思うし、確かに関連はあるんだけど、タバコを吸ってまず体内を通過するのは、のど。だから、咽頭がんとかのリスクの方がどちらかというと高いんだけどね。日常的な運動はしてないものの、心電図とかの循環器系は褒められた。たぶん、旅行の1~2ヶ月からは体力作りとして通勤を歩きに切り替えてるし、旅先では大抵ひたすら歩いてるから、それが影響してるんだと思う。あと、年を取るとどうしてもボンヤリしてくるから、検診といってもほとんど緊張しないのもあるよな(笑)。「リラックスしてるなあ~」って先生と一緒に自分の心電図や血圧を見ながら思ったねさて、好き嫌いの問題じゃなく、身体に負担がかかるのが、バリウム検査と婦人科検診。ジジイだけど、どうも女に生み落とされたらしいので現実問題として婦人科検診は受けなきゃならん。婦人科の内診を受けた経験のある人はわかると思うけど、あれは決して楽しいものじゃありません。ただ、検査をしてくれる人によって当たり外れがある。上手い人の時は、ほとんど苦痛はない。私は毎年同じ病院で検査を受けてるんだけど、去年から婦人科のやり方が変わった。それまでは看護師さんが検体を採取してただけだったのが、去年からドクターによる採取と子宮がんの検査になった。検査の変更点について、事前の説明を読んだ時は「えええ~、こんなことするのお~!?」って思ったけど、去年は無痛だった。「やっぱ、ドクターは違うぜ・・・」と思った。で、今年はといえば・・・めちゃくちゃ!めちゃくちゃ痛かった~!!痛くて目がチカチカしたもの!!私はたぶん人より婦人科治療の経験が多い方だと思うんだけど、それでもあれだけの痛みはそうそう感じたことはない。検査の後はしばらく、変な歩き方をしてましたよ・・・そして、バリウム。あれは重労働なのだ。まずはお腹を膨らます発泡剤を飲む。飲んだら、ゲップを我慢しなきゃいけない。でも、こんなの後の大変さに比べたら序の口。続いてバリウムを飲む。飲みやすいものじゃないし、私は飲み物をゴクゴクと一気に飲むのが苦手な方なんだけど、年々飲みやすいものに変わってるし、許容範囲。ここからが本番。台の上で、隣の部屋にいる技師さんから「右から1回転して~。左の腰をちょっとだけ上げて~。はい、息止めて~。左から回って~。思い切り息吸って~」って次々と出されるミッションを、黙々とこなしていかなければならない。たまに右と左を間違うと、「反対ですう~。右、右!」ってすかさずツッコミが入る。台の上で回る時も、もたもたしてると「もっと早く!」って厳しく指導が入るそして一番イヤなのが、この検査のハイライト(と勝手に呼んでる)、自分の乗った台が90°近くまでさかさまにせり上がるのだ。もちろん、ただ乗ってるだけだったら真っ逆さまに滑り落ちていくので両脇にあるバーを掴んでるんだけど、つまりは両の手だけで自分の全体重を支えなければならない。これがキツイんだわ~。今日なんかは、ズリズリ落ちそうになったし。去年だったか、ドックデビューした私の同僚もこの現実に衝撃を受けたらしく、後から「あれが大変なんだよね~」って言ったら、「先に言ってよ!!」って逆ギレされたさて・・・検査が終わっても、まだ終わりじゃない。飲んだバリウム様に、私の体内から速やかにご退出いただかねばならないのだ。私の汚物系の話には皆様すっかり慣れっこだと思うので遠慮なく書かせていただきますが(笑)、元々頻便体質の私は普段下剤なんか飲まないし、バリウムを飲んだ時でも下剤は不要じゃないかと思うんだけど、そこは検査直後に飲むように下剤を渡されるので、飲まなきゃならない。下剤の力で、バリウム様はどんどん出ていきますよ。ちゃんと出てるのに、1度、翌日の仕事中に猛烈な腹痛に見舞われたことがある。相当な痛みで、中で固まっちゃってるのかな~、どうしよう・・・と我慢をしていたら、しばらくしてから痛みはなくなった。が、最近は同じように検査後に腹痛が出ることが増えてきた。今日は検査後にちょっとだけ用事を済ませてから、電車に乗って最寄り駅まで戻った。駅前のスーパーで買い物をしてる時にもトイレに行ったんだけど、そのうち、お腹が痛くなってきた。これがまた結構な痛みで、背筋を伸ばすと痛みが増すので、背中を丸めながら急いで買い物を済ませた。いつもなら病院まで自転車で行くんだけど、今回は今週頭に首都圏に大混乱をもたらした雪がまだ道路脇とかに残っているので、ただでさえケガの多い私は自転車なんて恐くて当分乗れない。ので、駅から歩きだしたけど、痛みで足が前に出ない。バアさんが背中を丸めてちまちま歩いてる光景をご想像ください。そうやって、私も普段より倍くらいの時間をかけて歩いて帰った。あまりに痛いので、タクシーに乗ろうかなとも思ったけど、今日大きな買い物で大散財をしたばかりなので、倹約モードに入っている脳内財務省からストップがかかっていた(笑)。どうにか家まで辿り着いたものの、激しい痛みはまだ続く。職業柄、変な想像力だけは旺盛で「去年とかも、特に右が痛かったよな・・・虫垂(盲腸)あたりにバリウムが入り込んで、固まっちゃってたらどうしよう・・・」とかの不安がよぎる。陣痛って、このくらいの痛さなんじゃないかと思うくらい、痛い。問診の時、去年の痛みを話して下剤を多くもらったんだけど、そこで「何だったら、バリウムやめますか?」って聞かれた。けど、ここでバリウムをやめたら別の日に胃カメラを飲まなきゃならない。どうしてもって必要のある時以外は胃カメラなんか飲みたくはないので、「大丈夫です!大丈夫だと思います!!」と言い張って検査を続けたんだけど、やっぱマズかったか・・・でも、今まででここまでの痛みが出た事はなかったんだもん。検査が終わってから、今は5時間くらい経過した。トイレにも何度も行って着実にバリウム様は出てるけど、まだ右腹は痛い。身体への負担があるので金曜日の予約を入れたんだけど、正解だったな~。もう来年からはバリウム飲まない方がいいカモ・・・にほんブログ村
2013年01月18日

尼子経久に鏡山城を奪われたことで、大内氏の安芸戦線は大きく後退することとなったが、経久が伯耆の平定に集中していた大永4年(1524)5月、ついに大内義興さんが安芸の奪還に乗り出した。大内軍は総勢25,000もの大軍。その中には、嫡子・義隆の姿もあった。義隆にはこれが初陣で、この年18歳。主戦場は安芸西部。これは別のシリーズで書く予定ですので、ここではカットします。が、結果だけ言うと、またもや毛利元就の活躍で大内軍は退却するハメになりました。元就の武将としての才覚を再認識した大内家では、元就に帰参を打診。毛利側でもこれを承諾し、有利な条件で大内氏に帰属を果たす。とは言っても、その場で尼子と明確に手を切った訳ではなく、あいまいな態度をしばらく取り続けたらしい。元就の帰参に元気の出た義興さんは、翌5年(1525)、武勇の誉れ高く右腕とも頼む陶興房(すえ・おきふさ)を安芸へ出陣させた。ここで興房は、元就と共に安芸での大内方の勢力の回復に努め、鏡山城もこのあたりで奪還した。奪い奪われ~の歴史を繰り返してきた鏡山城だったが、先年の鏡山城の戦いで防御力に不安を抱いた義興さんは、大永7年(1527)頃、鏡山の北西にある曽場ヶ城山(標高607m)に新たな城を築き、拠点を移した。しかし、ちょっと曽場ヶ城山が高すぎたのか最終的に槌山城(標高489m)を拠点とした。そして鏡山城は廃城となり、その役目を終えたと推測されている。鏡山城の廃城から大内氏の滅亡までは、30年ほど。大ざっぱな言い方をすると、安芸での大内氏の歴史はほとんど鏡山城とともにあった。まあ、そもそも築城年代がはっきりわかってないし、一時期奪われてた期間もあったけどね。個人的には、結構初期の段階から鏡山に何らかの拠点は置いてたんじゃないかなって気がするんだけど。(何の根拠もありません。そんな気がするだけ)現在見られる遺構は、大永年間(1521~1527)の改修のものだと考えられてるらしい。鏡山の最上部、御殿場にはベンチも設置されてたし、今日一番の展望を見ながらこれらの壮大な歴史にまったり浸りたかった・・・がっ!御殿場には遮るものがないので、冷たい風が容赦なく吹きつける。今日一番の展望には、これまた今日一番の強い風がもれなくついてきた。しかも、予報では最高気温1℃という寒さ。こんなとこに座り込んでたら、あっとゆー間に冷え切っちゃう。ので、他の郭のように1郭内をウロウロ歩き回って写真を撮った後で、早々に御殿場から撤収した。あ~、まったり萌え~したかったな・・・でもここでの萌えは必然的に鏡山城の戦いになっていくので、逆に良かったのかも(←恐がり)。さて・・・充分堪能したし、まだ15:00。これは、ちょっと遠くて厄介なあの場所へ行かれるな。今日行っておくと後がラクだから、ちゃっちゃと行っちゃおう。てんで、早々に下山を開始。 帰りは、最初に見た堀切を降りていく。登山道からも竪堀が見える↓。 同じく登山道から見上げる5郭・下のダバ↓。 こんな遠くからでも、ホントにすごいわ・・・下のダバと上の2郭・中のダバの比高は約13mと解説にあったけど、下のダバの切岸も同じくらいの高さがあるんじゃないかな~。なんか、ピラミッドみたい・・・ 直登ルートだから急なのかと思ってたけど、案外広くていい道。ここも人の手が入ってるね。↓また竪堀。 ずかずか歩いてたら、こんな立札に出くわした↓。 出丸?と思って寄ってみたら、細長くてそんなに広くはない区画だった。 この辺はかなり木が繁ってたし、下山をそれなりに急いでいたのであまり周りの地形は見てないんだけど、位置的にはいいポイントだと思う。木のなかった当時は、下までよく見渡せたことだろう。あれ、まてよ・・・これって、看板の縄張図でいうとここにあたるのかな(ピンクの丸の部分)。 この先の道はこんな↓。 直登ルートは、上の縄張図の水色のラインで引いたあたりを通してるんだと思う。東出丸は登山道からすぐのところにあったし、道の脇は土塁っぽいから、この先の道は東出丸から延びる竪堀を使ってるのかもしれない。下りはさすがに早かった。まあ、登りもそんなに大したものではないけどね。降りてもなお、人の手が入ってるらしい地形がある。ちょっとこれは遺構かはわからないけど。 鏡山公園まで降りて、ふとあのグリーンの無縫塔のあたりまで行けば鏡山の全景が写せるかもしれないと思って、池に沿ったウォーキングルートを少し歩いてみた。パノラマじゃないので撮りたかったんだもん。 う~ん、全体を写すにはもっと奥まで行かないとダメだな・・・と思ってさらに歩いてみたけど、木があったりしてどうもイマイチ。そんなに時間もかけてられないし、ほどほどのところで入口まで戻った。 うひゃあ・・・遠目にも、あんなにはっきりと形がわかる。5郭・下のダバと2郭・中のダバの間はあんなにえぐれてる印象なかったんだけど、縄張図では5郭と2郭が接する北面はぱっくりと大きな竪堀が下へと向かってるから、遠くから見るとあんなすごい地形になるのかな。鏡山城は、南北は竪堀、東西を堀切で防御する構造になっている。今回は見てないけど、どうも西側の大堀切も見れそうな感じだから、やはりこれはリベンジか・・・今回は、東側の尾根から上がって本丸の郭を見ただけだから、そんなに大きいという感じはなかった。でも、思ってた以上に遺構は素晴らしかった。何と言っても、大内氏の山城だし公園入口にあるトイレに入ってから次へ向かおうとしたら、手洗い場にはデカいクモがいて驚いた(←クモ嫌い)。 ちょっとお~、今日って相当寒いけど?西条のクモは寒さに強いらしい。※「東西条バトル編(5)」へ続きます。にほんブログ村
2013年01月17日

前回はやたら色んな事を書いて、「ジジイ、ついにボケたか!?」って心配した方もおられるかもしれませんが、あれすべて前置きです、前置き~。でも、あれでも全部書いてない。全部書いてたらキリがないので、カットできる部分は思い切ってごっそりカットしています。ホントは直接今回の記事とは関連のない事柄も含まれてるんだけど、そこはこれから安芸の旅日記がえんえん続くと思うので、書ける時に基本的な事を書いていかないと後がキビシイな~ってことで内容を選びながら書いてる訳です。さて、ほぼ1話まるごと前置きに使って、やっとスタートライン。ここからは鏡山城の歴史で最も有名な「鏡山城の戦い」に入ります。知ってる人にはかなり有名な話だし、大内・毛利ファンの私にとっては関ヶ原と同じくらいメジャーな戦いの気分なので(←大げさ)「今さら書かなくてもいいよね~」って言いたくもなりますが、それじゃ前置きを書いた意味がないしな・・・でもたぶん、鏡山城の戦いを知らなくても「ああ、このエピソードってこの時の話なんだ~」って思う方もきっとおられるはず。それくらい、ひとつの大きな転機を迎えた戦いです。時は大永。大内義興さんが京より帰国してからは、石見と安芸で尼子との争いが一層激しくなった。尼子経久に奪われていた鏡山城も、再び取り返したらしい。「石芸の国人ら、昨日は大内に質を出し、今日は尼子に礼を執りて」とは「陰徳太平記」の記述で、相変わらず国人衆は大国に振り回される日々が続いていた。毛利家では、元就と共に幼主・幸松丸の後見を務めていた高橋久光がとある合戦で討死し、唯一の後見人となった元就の存在感はアップした。同時に、安芸で勢力をふるった高橋氏の立場は低下し、代わって毛利家の立場が相対的に上がることとなった。また、この数年前に元就は初陣を果たし、大内義興さんを裏切った武田元繁を討ち取って武名を上げている。尼子経久は、国人衆の調略に励んでいたが、大永に入って尼子方の武田光和(元繁の子)の協力を得た厳島神主一族の友田興藤(おきふじ)が大内方の桜尾城を奪って公然と大内家に反旗を翻した。ほくそ笑んだ経久は、ついに腰を上げた。狙いは鏡山城。居城である月山富田城から出陣した経久は、大永3年(1523)6月、大軍を率いてまずは毛利領の北に位置する高田郡北池田まで進んだ。そこで重臣の亀井秀綱を使者として毛利家の本拠・郡山城へ送り、自軍への参加を要請した。毛利家中では当然困惑したが、大軍を前にしてはもはや選択の余地はない。幸い、尼子寄りだった吉川家とは姻戚関係もあったし、一揆の同盟者である平賀氏などもこの時点で尼子方となっていたので、孤独な裏切り者という状況にはならなかった。決断した元就は、9歳になる幸松丸を連れて尼子本陣へ向かった。経久66歳、元就27歳。英雄同志のごたいめ~ん「元就殿が同行するなら、猿掛城はカラにな~な・・・どげだらか、尼子の兵を留守居にしては?」 (←出雲弁)「いや・・・そりゃぁちぃと・・・」ここで毛利家家臣の桂元澄が助け舟を出した。「わしががっちり守っとくんから!安心してつかぁさい!!」英雄のお見合い、ハナから怪しい雲行き・・・安芸国人衆を従えて鏡山までやって来た尼子軍ご一行様。元就は鏡山の東北に位置する八幡山の麓の満願寺に、経久は下見峠、あるいは鏡山の北の陣ヶ平山に陣を置いたという。義興さんはこの時、九州に出陣していた。惜しかったなあ、もし義興さんがいたら鼻血モンの超豪華キャスティングだったのに(笑)。もちろん、義興さんの九州参陣を見計らって経久が来た訳だけど。これまで鏡山城の維持に貢献してきた西条衆も、この時ばかりは尼子の大軍を見て後詰めを諦め、自分の城を守るのが精一杯だったそうな。尼子軍は、一説によると数万だったともいわれる。経久の見守る中、元就は吉川軍ら4,000の兵と共に6/13に城攻めを開始。鏡山城を守るのは、蔵田房信。「鏡山城(2)」で東西条代官として名前の出た方です。代官とはいっても、平和な時代のことじゃありませんから、蔵田さんは文官じゃなかった訳です。それから房信の叔父・蔵田直信が副将として鏡山城を守備した。通常、城将が本丸にいるもんだと思うけど、この戦いでは本丸が手狭だという理由で房信が二の丸、直信が本丸にいたらしい。確かに本丸はそんなに広くはなかったからな。礎石建物が御殿場にあったというけど、あそこにそんなものがあったらもっと狭いわ。ここまでの本丸エリアの写真を思い出して下さい。あそこで実際に大内軍と毛利・吉川連合軍の激しい戦いが行われたんです。そして、鏡山城はなかなか落ちませんでした。ここで、元就さんの登場です。大内軍には後詰めも期待できないんだし、どこかに隙があるはずだ・・・そう考えた元就さんは、副将の直信に使者を送りました。「このままじゃ、蔵田の家は全滅じゃ。房信の首を取ったら、あんなぁ(彼)の所領をそのままあげるけぇ。蔵田の血を絶えさせるんか?」利にさとかったとも、甥である房信に不満を抱いていたともされるが、ともかくこの誘いに直信はあっさり乗ってきた。叔父の手痛い裏切りに驚いたのは房信。それでも本丸で一昼夜防戦したともいわれるが、最後は妻子の助命を条件に切腹を願い出た。・・・て事は、妻子は城内にいたんだね。東西条代官みんながそうかはわからないけど、少なくとも房信さんは単身赴任じゃなくて、家族と共にここで生活してたんだ。まあ、居館は別のところにあったかもしれないけど、東西条は最前線であり周囲の環境も複雑なところだから、妻子も城内で起居していた可能性は高い。房信の申出を経久に取り次いだところ、経久もこれを快諾。6/28に城は開城され、房信は自刃した。尼子方と大内方の殊勲者、元就と蔵田直信はそろって経久の本陣へ向かった。が、経久は房信の申出は受諾したものの、直信の裏切りについては激しく非難した。そして直信の処刑はすぐに実行されたという。この当時、裏切りは特に珍しいことでも何でもない。大内と尼子の争いひとつ取ってみても、安芸や備後で鮮やかに白と黒が入れ替わるオセロのようなことが幾度繰り返されてきたことか。オセロの駒は、もちろん国人衆。そしてこの先も、オセロは続く。だから、元就も直信も当時の慣習としてそこは割り切っていた。直信を処刑した経久の真意はわからないが、一般的には他の国人衆への見せしめ、それから元就への牽制といわれる。思いっきり約束を反故にされた元就は、まっつぁおになった。このままじゃ、下手したらイソップのオオカミ少年になってしまう・・・!しかも、出陣の際、経久は尼子の兵を猿掛城に入れようとした。この一連の出来事により、元就は経久への不信感を抱いたといわれる。この戦いには、もうひとつ有名なエピソードがある。蔵田房信の首実検に、9歳の幸松丸も立ち合わされたというのがそれ。幸松丸が房信の首を見たところ、房信の眼がぎょろりと動き、歯を3度噛み鳴らした。あまりの恐ろしさに幸松丸は卒倒し、そのまま息を引き取ったという。これの真偽はわからない。が、吉田郡山に戻った直後に幸松丸が発病して7月15日に亡くなったというのは事実。陣中で何があったにせよ、参陣による多大なストレスで幼い命を縮めた可能性は充分にある。先代の興元には、幸松丸の他には女子が1人あるだけ。9歳の幸松丸には、当然子はない。直系の男子で家督を継ぐ者はいなくなったので、元就が次代の当主となる訳ですが・・・ここでは書きませんが、元就の家督相続に関しても経久が絡んできた。それをするりとかわして当主の座に着く訳だけど、その後も尼子の思惑は元就に絡みついてきて、ついには自分の弟と家臣を粛清するという事態に発展した。この辺からも、経久の元就に対する警戒心が垣間見える。元就さんも、私と同じく結構執念深いタイプだからね、経久が用意したアジリティーをひとつひとつクリアしていくたびに、元就の中に暗い炎が静かに燃え広がっていったんじゃなかろーか。もちろん戦は感情論じゃないし、幸松丸が仮に参陣しなかったからといってそのまま長生きできたかどうかはわからない。けど、この戦いでひとつの流れが確実に変わった。経久は、幸松丸の参陣を強要したともいわれる。もしそうだったとしたら、アジリティーという名のジャンプ台の他に、経久自身も知らぬ間に元就飛躍のチャンスを自ら与えてやったようなもの。さすがと言うべきか、元就に警戒心を抱いた経久の目は確かだった。けど、詰めが甘かった。その詰めの甘さが元就の成長に力を貸し、のちに自らが築いた帝国を滅ぼす強力なライバルを育てる要因を作ったことを、鏡山にいる経久はまだ知らない。にほんブログ村
2013年01月16日

大内政弘の子が義興さん。義興さんが7~8年の長きにわたって山口で前将軍・足利義尹(よしただ)を保護し、その後義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛戦を開始したことは「山口編」を始めあちこちで書いてますが、これに勝利して将軍の後見となり、以後7年間(上洛開始からは11年)京にあって幕政の中心となりました。東西条はひろよん以降、長く所有してきたものの、大内家歴代当主で初めて安芸守護を任じられたのは義興さんの時。一説には船岡山の戦い(1511)に勝利した後、義興さんはすぐに帰国しようとしたらしいけど、それは叶えられなかった。細川高国との連合政権による足利義稙(←義尹から改名)の治政は事実上、義興さんの強大な軍事力に支えられたものだったからね。しかし、世間では下剋上の風潮が激しくなってきた頃。そもそも室町幕府ってのは、守護は京にあって将軍の側近く仕えるってのが基本方針だったから、京での長い単身赴任で領国との縁が薄くなりがちな守護よりも、任地で実際の経営にあたっていた守護代が在地の豪族と結びついて勢力を伸ばすってのは当然の話で、してみれば戦国時代は室町幕府自らが招いた必然的結果だといえる。山口の菜香亭で買ったDVDの中で、花園大学の福島教授が「大内氏は室町と共に現れ、室町と共に消えた」と言っておられたけど、戦国の荒波を乗り越えた守護なんてごくわずかだし、これも歴史の必然・・・義興さんが帰国を決意したのも、将軍・義稙や細川高国との不和もあったけど、尼子経久が歴史の表舞台に登場してきたからだった。経久は、義興さんの上洛戦にも参加していたという。はっきりした事はわかっていないものの、当時の尼子と大内では歴然とした力の差があったので、恐らく参加しただろうってことらしい。安芸の国人衆も多くが義興さんに従って上洛したんだけど、実はその多くが途中で勝手に領地に戻っている。経久も、(参加していたとしたら)同じように途中で帰ったらしい。そして永正9年(1512)、中国の侵略へと乗り出した。時期などのはっきりした事はわからないが、鏡山城は一度、経久に奪われたらしい。その他、備後の国人などへも手を伸ばし、大内氏との衝突が次第に増えてくる。これまで大内VS細川の最前線だった安芸東西条は、大内VS尼子の最前線へと変貌を遂げ、一段と激しさを増していく。そんな中、戦線離脱して勝手に領国に帰ってきた安芸国人領主たちは、永正9年(1512)ふたたび一揆を締結した。・・・これたぶん、「鏡山城(2)」に書いた応永の一揆以来だと思うんだよね。前回から100年以上経ってる。大国に翻弄され続けてきた国人領主たちの自主防衛手段、一揆。締結は実に108年ぶりというこのタイムラグからも、一揆の背景にある緊迫感などが窺い知れるのではないでしょうか。で、一揆の内容はといえば、「将軍とか大名の偉い人から何か命令されても、ボクたちは何でも話し合って皆で決めようね!」「よそから家出した人間を雇うのはやめようね!」「もし戦になったら、皆で協力しあおうね!」となかなか勇ましく自主性を強調したものになっている。が、一揆締結のひとつの要因が、京に同行させられて長く戦わされた義興さんへの不満だったにも関わらず、さすがに大内家からの離反までには踏みこんでいない(笑)。「男ならすっぱり反逆せんかい!!」ってツッコミ入れたくなるけど、そこは弱小領主たちの生きる知恵逃げ道はちゃんと確保しておかねばならん。逃げ道の他に、国人衆は保険もかけた。それが、婚姻による同盟の強化。この時の毛利家当主は、興元。元就の同腹のお兄さんで、「興」の字は義興さんからの偏諱です。で、この一連の結婚ラッシュの中で元就さんも後に奥さんを迎えることになります。必要部分だけを図にすると、こんな感じ。 高橋さんちは相当知られてないと思うけど、石見出羽(いずは)城主で、今回の一揆中最大の実力者。当時、多治比猿掛城主で毛利家次男坊の元就さんの年収が約300貫だったのに対し、高橋さんちは1万2000貫だというからすごいものです。さて、中国で尼子経久が暴れ出しても、義興さんはすぐに帰ることはできなかった。そこでひとまず、もはや配下も同然の安芸分郡守護・武田元繁を安芸に戻して鎮圧にあたらせようとした。元繁を帰国させるにあたって、義興さんは公家のお姫様を自分の養女として元繁に娶合わせて、予防線を張った上で「義息よ、頼んだぞ!!」と送り出した。が・・・義興さんの悪い予感的中、腐っても安芸(分郡)守護の武田元繁は、ここぞとばかりに大内領の切り取りを始めた。まず奥さんを離別。そして大内方で厳島神領衆の己斐(こい)氏が守る己斐城を包囲した。「虎を野に放ってしまったああ・・・」と義興さんは激しく後悔したが、落ち込んでばかりもいられない。そして、毛利興元に己斐城救援の指令を出した。「興元さあ~ん、ご指名でえ~す」の連絡を受けた興元は、一揆と主命の狭間に立って悩んだ。しかし、ここで断ったら毛利家の末路は目に見えている。実は、興元の父・弘元も同じ苦悩を味わっている。弘元の場合は、義興さんの上洛戦に参加するか否か、の選択だった。そして出した結論が、突然の隠居と8歳の興元への家督相続。「ぜんっぜん結論になってないじゃん!!」ってツッコミが当然入るので、結果、大内方へは名代を出陣させ、幕府には大内氏追討の先鋒を務めるという約束をさせられるハメになった。幸い、この時は幕府でうちわもめが起こったのであまり深刻な状況にはならずに済んだらしいんだけど、悩める弘元は酒浸りとなり、39歳の若さで突如亡くなった。「三原編」を読んだ方は、「あれ、こんな話、どっかで聞いたような・・・」て思い出しませんか?沼田小早川家の扶平(すけひら)さん、あの方も義興さんの上洛戦で苦悩して命を縮めた一人です(扶平さんについてはこちら)。義興さんたら、罪なお方・・・で、興元はといえば、義興さんの指令を引き受けて後方を攪乱するという戦術に出て、無事役目を果たした。ついでにこの戦いを通して、吉川家との親密度を増すことに成功した。↑すみません、ただでさえ長いので、はしょれるところは端折ります。が・・・。8歳で家督を継ぎ、15歳で上洛戦に参加し、帰国してからもご近所さんとの小競り合いや大内家からの圧力・・・戦いとストレスの連続だった興元も、父と同じく酒に走り、この大役を果たした翌永正13年(1516)、24歳の若さで死亡。あ~、どなた様もホントにお気の毒・・・今回のサブタイトルは、「弱小国人哀話」に変えようか。ま、弱小ったってあくまで比較の話で、結構みんな元気に戦ったり裏切ったり仲良くしたり、安芸の勉強を始めたばかりの私にとっては「ちょろちょろすんじゃねえ~!ちったあ大人しくしとらんかい!!」って言いたくなるくらい活発な動きがある訳ですが、時にはこんな悲劇が生まれるような過酷な時代であることに変わりはないようです。元就この時19歳。兄を失った悲しみは相当のものだったようで、「ワシャぁ、この世でひとりぼっちになってしもぉた・・・」と後に振り返っている。実際には腹違いの兄弟も甥っ子も姪っ子もいたのに、だよ?元々オーバーな人のようではありますが、そこを差し引いたとしても、意図的に天涯孤独を装ったというよりは、そのくらいの喪失感に苛まれたということでしょう。ただ、父と兄がそろって酒で若死にしたことで、2人を反面教師とした元就さんは生涯酒を慎み、74歳まで長生きします。毛利家の話をもうちょっと。当主・興元を失った毛利家では、その遺児・幸松丸(こうまつまる)が2歳で家督を継ぐことになった。もちろん2歳では当主の責務は果たせないので、父方・母方のそれぞれの親戚にあたる元就と高橋久光(上の図にある高橋元光の父)の2人が後見となり、脇を譜代の重臣が固める形で新たにスタート。武将としてはスロースターターの部類に入るであろう元就さんですが、こうして一歩一歩歴史の前面へと歩き始めます。にほんブログ村
2013年01月15日

安芸の歴史は複雑です。様々な有力国人に大国や幕府の思惑などが複雑に絡み合い、ひとつの出来事を書くにもその背景が複雑すぎて、一体どこから話を始めたらよいものやら・・・まあ、安芸国人衆についてはおいおい書いていくと思いますので、ひとまずここでは東西条と鏡山城に関連することだけを(たぶん)ごく簡単にご紹介しようと思います。大内氏が安芸に進出して、盛見が死ぬところまでは鏡山城シリーズの最初の方で書きましたが、ここからはその後の話です。盛見の後に家督を継いだのは、持世。(系図は「山口編(4)」をご参照ください)この人は跡目争いを制して当主となったのに、足利義教が赤松満祐に弑逆された「嘉吉の乱」に持世も同席してたがために巻き添え食って、それがもとで後日死亡。当主としての在任期間が短かったため、大内家の歴史を紹介するにあたってはどうしても飛ばされてしまいがちな、実に不運な方。んで、ここでも飛ばします(笑)。が、持世の代には東西条は幕府から安堵されてました。持世の後が教弘。長禄元年(1457)、安芸西部で武田氏と厳島神主家のゴタゴタが起こった際には厳島神主家に援兵を出し、ついでに現在の竹原市・沼田(ぬた)小早川家の所領の一部を占領した。この少し前、永享11年(1439)6月に幕府が勝手に東西条の一部を削って沼田小早川氏に与えたなんて出来事があったので、意趣返し?(笑)寛正2年(1461)、またもや幕府の横槍が入る。すなわち、東西条を安芸分郡守護・武田信賢の代官に引き渡すよう言ってきた。使者に立ったのが、沼田小早川煕平(ひろひら)と宮中務丞・・・これは、備後国人の宮氏かな?宮氏は備後でかなり力を持った家柄だったから、充分ありえるな。教弘は渋ったものの、煕平が山口まで押しかけて粘ったので結局従うことになったという。鏡山城には、武田氏の代官が入った。が、すでに60年以上も東西条を領有してきた大内方では、こんな横暴に泣き寝入りなんかしない。で、大内方の西条衆、野間・阿曽沼・平賀・竹原小早川などの国人衆が東西条奪還のために鏡山城を攻撃した。もちろん、教弘の思惑が絡んでのことでしょう。これに対し、武田氏と同じ細川方に属する沼田小早川家は、武田氏の救援のために、主力軍が不在となった竹原小早川家の木村城へ攻め込んだ。沢山の庶家を有する小早川氏の中でも、特に独立心の強い竹原家は、沼田の総領家といくつもの確執を抱えてたことや、時期によっては沼田家による庶家のコントロールがきかなくなっていた事については「三原編」(15とか)のあちこちで書いたけど、この時も同族で干戈を交えた訳です。そもそもこの頃は、それぞれのバックが違っていた。沼田家は細川方。沼田家と幕府の近しい関係は、大内義興さんの上洛戦あたりまで続く。沼田家が三原の領有権を与えられたのも、細川政元によるものだし。(「三原編(26)」もご参照ください)幕府内で細川氏と対立していたのが、山名氏。その山名氏と姻戚関係などを持ち、かつ対外貿易で細川氏と対立していたのが、大内氏。その大内氏と長らく親しい関係にあったのが、海へ進出していた竹原家。今に残る竹原家の書状には、「ウチの外交の基本は大内氏をバックにするものだからね。沼田本家は、同族とは言っても油断ならない相手だからそこんとこ間違わないよーに」とまで惣領家への警戒感をあらわにしたものがある。しかし、反発しつつも2度もの沼田家の危機に際しては竹原家は救いの手を差しのべてるんだから、小早川の歴史も一筋縄ではいかない(「三原編(35)」あたりもご参照ください)この頃の関係を大ざっぱに図にすると、こんな感じになるのかなあ・・・ 途中、陣替えなどもあるので、大体こんなとこ~って程度に見てください。東西条明け渡しの使者に立った沼田小早川家の煕平が惣領家を相続する時も、上の図の背景が絡んでひとモメあった。煕平の父は、佛通寺の整備に力を入れた小早川則平。(「三原編(56)」あたりもよかったらご覧ください)則平には7人の男子がおり、長男は持平、次男が煕平。一旦は長男・持平に家督を譲ったものの、何を思ったか則平は後になってそれを取り消して次男の煕平に相続させ直した。何でそんな事になったのかはわからないけど、「おいおい・・・オヤジ、マジかよ~!!」って持平が不満たらたらだったのは言うまでもない。トラブルの種を播いた張本人・則平も後々に不安を抱いていたらしく、自分の弟に相続関係書類を預けるなど後事を託して大内盛見の跡を継いだ大内持世の九州出陣に参戦したが、陣中で死去。則平の予想はぴたりと当たり、持平と煕平の兄弟間で跡目争いが起こった。まずは持平・煕平ともに自分の正当性を幕府に訴え出た。これに対し、時の将軍・足利義教は煕平の相続を認める。が・・・変わり者で有名な義教のこと、翌年には臆面なくその裁可を取り消し、なんと竹原家の盛景に与えると通告してきた。小早川氏の分裂を狙ったものだとの見方もあるが、当の義教は嘉吉の乱でまもなく討たれてしまう。なんのことはない、トラブルがさらに増えただけだった。義教の死後、幕府はあらためて煕平の相続を認めたものの、持平はそれでは収まらない。持平一派は要害に立て籠り、京にいた煕平は使者を出して兄の説得を試みるが、心配した幕府が周辺国人に対し煕平への加勢を要請するなどもうすったもんださらには、義教からいきなり本家の相続権を与えられた竹原家の盛景も、自分の正当性を主張してきた。このウラには、大内氏の思惑がある。唐突に小早川家の話になって相当脱線した感がありますが、小早川家についてはまだまだこの先も出てくる予定だし、複雑な安芸の情勢の一例として書いておきたかった訳です。で話を元に戻しますと、西条衆はめでたく鏡山城の奪取に成功してふたたび大内氏が返り咲いた。その後は文明7年(1475)。まだ応仁の乱は終わってない。細川氏と敵対する伊予の河野通春を支援するために伊予に渡海して陣中で病没した大内教弘の跡を継いだ政弘は、応仁の乱で西軍の重鎮として京で転戦していた。この文明7年は加賀で一向一揆が起こった年でもあったが、安芸では10月に徳政一揆が起こった。徳政一揆はまぎれもなくデモ系の一揆ね。一揆の背後には、あるいは細川方の意図が絡んでいたかもしれない。というのも、これと時期を同じくして細川方の武田・沼田小早川が再び鏡山城を攻撃してきたから。ここでは細川方から大内方に陣替えをした毛利豊元(元就のジイちゃん)が頑張って、鏡山城を包囲していた武田・沼田小早川を追っ払い、さらに徳政一揆の鎮圧に貢献した。この働きにより、政弘から東西条の一部を所領として与えられたという。前回の記事で書いた「安芸国西条鏡城法式条々」はこの後に制定されたもの。そして応仁の乱後には、政弘に東西条の領有が安堵された。にほんブログ村
2013年01月14日

馬のダバから上がると、2郭。 【2郭(通称:中のダバ) 鏡山城の中で最も広い郭で、西の1郭とともに本丸を形成し、周囲の切岸は急峻です。 東西約50m、南北15mと細長く、上中下の3段に分かれています。上・中段の 南側には、幅1mの土塁が築かれています。また。井戸跡が2基あります。】 (現地解説板より)↓上がったところから馬のダバを見下ろしたところ。 アラ、大手道見えないわなるほど、2郭からは見えないのか。そんなに馬のダバは広いって感じじゃなかったけど、それなら馬のダバが大手を守る要ってことだな。東の端から下のダバを見下ろす↓。すんごい高さ・・・ 上に目を転じると、東の山が見える↓。 カメラを少し右に降ると、南東。あの山のずっと向こうに、竹原小早川の領地がある↓。 2郭北側からも、竪堀が見える。 ↓そこからの展望。 おお、だいぶ上がってきたな~。↓2郭にある井戸跡。 ・・・すっかり埋まっちゃってました(笑)。↓北側の展望。 ↓地面には、何かの石組の跡もある。 ↓もうひとつの井戸跡。ホントに井戸かよ?って感じのデカさでした。 こんな山に井戸?って感じだし、もう今はほとんどが埋まっちゃってるのであんまり実感湧かないけど、幾度かの戦いの歴史を持つ鏡山城では、実際にこれらの井戸が城兵の喉を潤したのだ。2郭の西奥、一段上がったところにあるのが1郭。ここには石垣が残ってる。 【1郭(通称:御殿場) 鏡山城の中で最も高い場所にある郭です。 東西約30m、南北約11mで西側が突出した方形をなしています。方形の上段と L字状にそれを取り組む下だんからなり、礎石立建物がありました。この建物の 存在から「御殿」場と呼ばれています。】 (現地解説板より) ↓御殿場から2郭・中のダバを見下ろしたところ。 ↓同じく南斜面を見下ろしたところ。 ふむ・・・3郭(馬のダバ)は1郭にかかってないから、ここからは大手方面が見通せるのか。↓そのままカメラを上に向けたところ。 ↓こちらが北西。 おお~、さすがの眺めだな~今日一番の展望だわ。ここから大内氏が東西条に睨みをきかせてたのか~。これで本丸エリアは全て制覇した。この最上部の北側直下には北郭群があり、西側には二の丸がある。二の丸まで行けるかはわからないけど、少なくとも北郭群までは行けたらしい。・・・が、『広島近郊の山城と史跡ベスト33』にはそれは書いてなかったし、この時はそこまで行かれるもんだとは知らなかった。ので、この先へは進まなかった。ちぇっ、惜しいことしたなあ。南郭群も今回は見なかったので、西条付近にはまだ行きたい城もあるし、リベンジするか・・・まあ、このガイドブックが完璧に網羅してるんじゃないってことがわかったのは収穫だよな。誤解のないよう申し添えておきますが、この本はかなりいいですよ。手軽に城跡とその周辺の史跡の情報が把握できるので、広島の大きな山城に行かれる方には、オススメですただ、情報は集められるもんなら広く集めた方がいいって事をあらためて学習したって言いたかっただけです。特に、前回の福山で超が10回付くほどのマイナー山城へ行って苦い経験をしたばかりの私には、情報の大切さが身にしみてますので・・・(笑)。その失敗談についてはもうちょっと先の公開になると思いますが、なるべく早くアップできるよう努力します。鏡山公園の解説板に「井戸跡は5ヶ所もあり多くの人が城内にいたことをうかがわせます。」ってあったけど、造りはすごいものの、歩いてきた感じではそんなに収容人員が多くはなさそうな気がする。まあ、見た他にも郭はあるし、本丸よりは二の丸の方が大きいって話だし、登山道に沿って見ることのできる遺構なんてごく一部だからね。これだけで鏡山城を評価する訳にはもちろんいかないよな。この安芸における重要拠点を、大内氏は厳重に管理しようとした。大内政弘が応仁の乱から帰って以後、政弘は領国の経営に力を入れ、法令も多く整備した。その法令、「大内家壁書」には、鏡山城についての記述もある。 【安芸国西条鏡城法式条々 一 当城衆当番以名代不可勤仕事 一 当城普請、毎日不可有懈怠事 一 仮雖為城衆知人、不可入城内事 一 置兵粮無為之時、不可配当城衆事 (一 博奕堅固可停止事)】・・・で、これを破ったらおしおきよ~、って文言でシメている。だから、仮に貴方に鏡山城に詰める大親友がいたとして、「友達なんだからいいじゃん!ちょっとだけ入れてよ~。誰にも言わないからさ。ね」っておねだりしたところで、文明10(1478)年6月20日以降は城内へは関係者以外立入禁止だった訳です。てか、わざわざそんな事を壁書で言うあたり、当時の慣習として城への出入りはそんなにユルかったのか?あと、戦国時代の陣中では息抜きとしてかなりギャンブルが流行ったって話だけど、すでにこの頃もバクチってたって事だな。兵の生活が垣間見えて、面白い。にほんブログ村
2013年01月13日

【4郭 鏡山城の大手門が築かれていた郭と考えられます。 上の3郭とは広い通路で結ばれており、南郭群側には石垣が築かれています。 また、西側には、3郭から延びる土塁と、石垣があります。】 (現地解説板より)石垣は見れるもんなら見たいけど、見られる場所が普通の斜面だったら、場合によっては危険を伴うので単独行の多い私は無理して降りることはしない。人に踏まれることのない斜面は地面がゆるくて危ないし、それでなくてもここは敵の侵入を阻害するのが目的の山城。どんなトラップが落ち葉に隠れてるかわからない。けど、おじさんの情報で安心した私は、4郭の石垣求めてウキウキしながら下へ向かった。実際に降りてみると、落ち葉に隠れて確かに木段が設置されてた。今回の一連の城攻めにあたって私が主にベースとしたのが、『広島近郊の山城と史跡ベスト33』という本。これには今回行きたかった山城がすべて含まれてたし、ベンチの位置とか結構詳細に絵が描かれていて、大体のコースの様子全体がつかめる良い本だったので、これにプラスして実際に各城へ行った方の訪城記をいくつか調べただけだった。去年の12月はめちゃくちゃ忙しくて、準備に時間もかけてられなかったし(↑いいわけ)。で、その事前の調べの中でこちらの道を紹介している記事は私は見たことがなかったので、この道の存在を知らなかったのだ。う~ん・・・て事は、大手道もおおむね整備されてるってことで、鏡山城へ登るルートも鏡山公園からだけじゃないってことか。やっぱり、地元の情報は貴重だなあ。おじさん、ありがとうして、降りてすぐの場所から4郭を見上げたのがこちら↓。 いし・・・石垣だああ~!!なるほど・・・確かに門っぽいわ。けど門の幅はかなり狭いし、ここは山城だから門は冠木門かせいぜい棟門くらい?それで右側の小さく突き出た平坦部に物見と防御施設を兼ねた建物を置いて、そこと連結してたかな。当時の様子を想像すると、自動的に脳内シミュレーションが始まって、正面の見えない櫓から狙われているような気分になってくる。鏡山城は、実戦経験アリアリだしね。ハイテクの近世城郭もいいけど、高低差を存分に活用した山城は近世城郭とは全然違った格別の面白さがある。南側の登山道は4郭を回り込む形で付けられてたんだけど、道の途中からも落ち葉に埋もれた竪堀が確認できる。 畝状だよ・・・当時はもっと深くえぐれてたはず。アレ?当時の冬ってどんな感じになってたんだろう?いやでも、当時はもっと木が少なかったはずだから、ここまで落ち葉に埋もれることはなかったのか(笑)。ちょっと登山道を降りただけで、上の4郭との高低差はかなりある。 そして4郭下には、一部岩盤のようでもあるけど、石垣の名残のようなものも確かにあった。 4郭を少し回り込んだところから主郭部を見上げると、結構な高さ↓。うへえ~、ここを具足着けて攻め上がるのかあ~。ハードな肉体労働だなあ。けど、ボケッとしてたら確実に死ぬししかも、写真じゃわかりにくいけど、最上部直下にはまた別の郭も設けられているので、上に詰める兵からはここは完全に丸見え。 この道の、写真で言えば左側にはさっきの畝状竪堀があるので、この辺は当時の大手そのままの道なんだろうな。たぶん、このまま少し行くと南郭群の跡があると思うんだけど、こちら側の状況は全く把握してなかったし、まだ上の郭を全部見てないので、この辺りから上へ戻った。4郭から上って元の道に復帰すると、次の郭へ向かう分岐に出る。 私は右の下のダバから来たので、今度は左へ向かう。上がる道にも、大きな石がごろごろしていた。 少し上ると、3郭。通称・馬のダバ↓。右端に写ってるのが、最上部。随分急な斜面でしょ? 【3郭(通称:馬のダバ) 2郭の南東下に位置し、城の防御上重要な郭です。 東西約30m、南北約11mと細長く、西端に土塁と竪堀、南側には畝状竪堀群が 配置されています。また、東西には石垣が築かれています。馬のダバとは、 3郭が城の南側(干支でいう馬)に位置する段場から付いた名称です。】 (現地解説板より) 馬のダバを奥まで進んで見下ろすと、解説の通り畝状竪堀群が見られます。 ↓特に、右奥に見える竪堀なんて相当なもの。たぶんこれが、縄張図に描かれている3郭奥の大きな竪堀なんだろうな。 ↓これがその上部。 ↓かなりうっすらだけど、たぶんこの辺が土塁。 縄張図と写真をあわせて見てもらえばわかると思うけど、南側の斜面は広いものの、これらの畝状竪堀群に阻まれて自由に斜面は往き来できません。かといってモタモタしてると大内軍の矢つぶての格好の餌食になりますから、速やかに攻め登って下さい。まあ、鏡山城は簡単には落ちなかったそうですが。 馬のダバからは、この木段を上がります。たいして大きくも高くもないはずの鏡山で、この高低差・・・山城、ほんとにすげえ~・・・にほんブログ村
2013年01月12日

斜面を下る竪堀を横に見ながら、本丸エリアへ上がる。最初は5郭、通称「下のダバ」。山麓にあった看板に掲載の縄張図での本丸エリアはこんな感じ。 下のダバを登山ルートから見上げた写真は前回の記事に掲載しましたが、ここの高さはかなりのもので斜度もきつく、直登はまずムリ。別に、登ろうとした訳じゃないですよ(笑)。遺構は大切にしなきゃいけません。で、下のダバなどのある主郭部へは、斜面に取りつけられた木段を登る。 ここの木段が異様にミニマムで、足をフラットに置けないほどに取りつけてある。足を全面地面にフラットに置いてしっかり足場を確保するのは登山の基本だから、城攻めとは言っても山城では登山者としての顔がちょいちょい出てくる私には、ちょっとこれはなじめないこの時は落ち葉がかなり積もってて足場もあまりよくなかったし、これは下りが危ないな・・・なんでこんなに細かく段を設置したろう?この先はいくつかのルートに分かれるので、どこから行こうか迷っちゃうんだけど、まずは手前にある下のダバから。 おお、これ礎石か石段かあ~?ただし、ここも落ち葉でほとんど隠れてるのでしっかり足場を確認しながら歩かないとちょっとあぶない。↓これが上がったところからの大体の下のダバ全景。東西に細長く、結構広い。 ↓右手には土塁。もう甘食程度のかすかな盛り上がりしかないけどね(笑)。 【5郭(通称:下のダバ) 鏡山城の中では、2郭に次ぐ大きさです。東西約30m、南北15mで、 2郭との比高差は約13mあります。 入口の東側には土塁が築かれており、その北側には方形の低い段が設けられて います。また、郭の西側には井戸跡があります。】 (現地解説板より)上がってすぐのところにあるのが、井戸跡。 だいぶ埋まってるけど、それでも石組みはしっかり確認できる。ここから見上げる隣の2郭、通称「中のダバ」は5郭ほどの斜度のきつさはないけど、高低差は充分にある。 土城では、私は郭内をつらつら歩き回る。大抵のお目当ては、礎石とか瓦類とか。何かないかな~って下を見ながらぐるぐるゆっくり歩く。城に興味のない人が郭内を歩く私を見たら、オリの中をうろうろと歩き回る熊のように見えるんじゃないだろうか(笑)。もちろん、ここでも歩いた。石があれば落ち葉を蹴ってどんな状況なのか確認したり。あと、ここには方形基壇があると書いてあるのでそれを探して歩いたけど、落ち葉のせいか残念ながらわからなかった。で、東の端まで行ってさっきの堀切の方を見下ろすと、ここからも竪堀が見えた(左の端)。 下から見上げても高かったけど、上から見下ろしてもかなりの高さがある。これを人の力で造るんだから、すごいよな~北の端からは、ちょっと木があるけどまずまずの展望が広がる。 ↑隣の山の向こうには、「下見」という住所がある。 尼子軍がここに来た時、経久は下見峠に陣を置いたともいうので、あの山の向こう側にいたのだろうか。峠だから、上の写真の右側の木の部分が鞍部になってるから、案外あの辺にいたりして・・・とか思ったけど、大内氏が鏡山城のすぐ隣の山を放置する訳もないしな・・・簡単な向城とか砦くらいは置いただろう。 そんな事を考えながら方形基壇を探したけど、結局諦めて次へ向かうことにした。次に行くのは4郭、仮称・大手門跡。下のダバの入り口から正面に見下ろせる位置にある。 鏡山は、冬は深い落ち葉にごろごろした石が隠れてるけど、中には↓こんなのも隠れてるから、冬場に歩く時は気をつけてね。 で、ここが4郭。 便宜上、郭という名がついてるものの、ここはかなり小さなスペース。写真を撮ってたら、4郭の脇のおよそ登山道らしくない斜面からさっきのおじさんが上がってきた。病気をしたのか、少し手足が不自由そうだったおじさんは、斜度のきついところでは落ち葉にずるずる足を滑らせながら一生懸命登ってきた。「こ・・ここは道なんですか!?」って思わず聞いたら、「道だよ~。ここを下っていくと、農場の方に出る」と教えてくれた。農場?ああ、広島大学のかな・・・4郭から見下ろすと全然道には見えないんだけど、石垣とか見えるかな・・・と思って、試しにちょっと降りてみた。↓ランキング参加ちう~。本年も、「ぽち」っとよろしくお願いしますにほんブログ村
2013年01月10日

公園内を奥まで進むと駐車場があり、その手前に登山道がある。 鏡山の標高は335mだけど、比高は100mほど。山としては裏山感覚で行かれるレベル。 最初は木段から始まる。 少し上がると、最初に通る予定だった山腹の道との分岐にさしかかる。このまま稜線へ上る道をAルート、山腹を辿ってから直登する道をBルートというらしい。 で、この案内板には親切にもAルートの木段数の書き込みがある(笑)。 え~っと、佛通寺の含暉って何段あったっけ・・・あれよりは当然多いよな。私、木段って嫌いなんだよね。んでも、しょうがないのでここから276段登りま~す。 ゆっくり木段を登りながら両脇を注意深く見ていると、うっすら竪堀ちっくなものやわずかに削平されたような地形もぽちぽち見える。 ・・・写真じゃ全然わからないわね(笑)。落ち葉が深く積もってるし木もあるので、この辺の登山道脇の斜面は肉眼でもかなりキビシかったもんな~。 少し上がると、小広い平坦地に出る。ここも何かしらに使われたのだろう。ここからの展望はご覧の通り↓。 この先はおもむろになだらかな道になる。おお、近くなってきたカンジだな~。結構大きな石がごろごろしてるけど、石垣とかの名残かな? ・・・迷うような分岐もないし、道なりだからそんなに頻繁に案内いらないんだけど(笑)。いやいや、こんなにきちんと整備してもらってるのに、ツッコミ入れちゃいかんな。 しばらく平坦な道を歩く。ベンチもところどころ設置されていて、子供連れのピクニックにはいいかもね。この辺りからは、はっきりと竪堀が確認できる↓。 途中の道には、ところどころ石畳の跡らしきものも見える。 この先に現れるのが・・・ おおお~、きたっっ!!いよいよ主郭部だ!!! しっかし、豪快だな~・・・このすぐ先にも、竪堀が続く。 この反対側は竪堀となってそのまま斜面を下っていく。 帰りは最初の堀切の分岐を下っていくことになる。ここまで誰にも会わなかったし、そろそろさっきの続き食べよ~そして残りのドーナツとサンドイッチをぱくつき・・・よく食うよな、ワシ(笑)。今シーズンの寒さは厳しいので、寒さ対策として通常の登山なら絶対に持っていかない防寒グッズを各種取り揃えてきた。ちょっと出し入れも面倒だけど、寒いとそれだけで体力が奪われるし、無駄に苦行めいたことはしたくない。手持ちの登山用ウェアは、暑がりのため防寒を考えたものではなかったので、今回のために新しく買い足した。裏起毛の腰巻(いわゆるラップスカート)も装着してきたので、はたから見れば流行りの山ガール風に見えるかもしれない。けど、私は実用性重視のタイプなので、オシャレでスカート巻いてきたんじゃないんだよ。私には鹿の尻皮と同じなんだよ(笑)。そんなあったかグッズに守られながらのんびり軽食を楽しんでいたら、地元のおじさんらしい人がウォーキングといった風情で直登ルートを上がってきた。ほお、山中で初めて会うニンゲンだ。結局鏡山城ではこの人にしか会わなかったんだけど、どうやら鏡山をよく歩いている人らしい。軽食を終えて、いよいよ核心部へ。少し進むと、こんなため息の出る光景が広がる。 すごい!すごい!!大内氏の戦国土城だあ~!!「山口編」では華麗な大内文化を多く紹介してきたので、優雅な一族のイメージを抱いている方もいるかもしれませんが、実は数多くの戦いの歴史を持ち合わせています。戦いの歴史についてはわかっていても、実際に大内氏の戦国山城を目にするのは私は初めてだったので、「やっぱ武家だな~」なんてあらためて思ってみたりして・・・(笑)。鏡山城の訪城記はそこそこ公開されているので、私も色んな人のサイトで写真は見たけど、写真と実物では当然のことながら迫力が全然違う。ので、ここだけでテンションが一気に急上昇したのは言うまでもない。山麓の看板に掲載されていた縄張図とかには書いてないけど、この撮影地点付近が「日本城郭大系」に書かれている「屋敷跡」になるのかな?にほんブログ村
2013年01月09日

宿に荷物を預けて、いざ鏡山へ。もう12:30過ぎちゃったよ・・・もっと早くスタートできるはずだったのに(←まだ怒ってる)。西条駅から南に延びる駅前通りは、通称ブールバール。バスに乗ろうと思ってバス停へ向かったら、遠くに鏡山らしきものが見えた。 あいにく、次のバスまでは少し間があったのでタクシーで向かった。 鏡山(標高335m)の北麓は、現在では鏡山公園として整備されている。鏡山城へは、こちらから登る。↓右側が主郭部。 ↑これは望遠だけど、郭の段々が遠くからでもはっきり確認できる。 鏡山の麓はウォーキングコースにもなっているらしく、色々な看板が建つ。その中には、こんな解説もあった。 【西条盆地は大昔、大きな湖だった! 今から50万年以上も前のこと、この地方は琵琶湖の約半分くらいの大きな湖でした。 最大満水時の湖面の標高は約250mで、鏡山や二神山などは湖面に浮かぶ島でした。 崖の露出面では、地層の堆積状況を観察することができます。西条盆地は、 吾妻子(あずまこ)滝を境に、広大な平坦面が今なお保たれている北部盆地と 侵食地形の南部盆地とに分けることができます。】 へええ~、湖ねえ・・・なんでなくなっちゃったんだろ?吾妻子滝は後ほど行きますので、旅日記の方で紹介します。ちょっと(私には)びっくりな史跡だったんだよ、そこ。あと、こんな看板もある。 「東広島市内の毛利元就関連遺跡案内」として、このテの看板はこの後もあちこちで見かけることになる。 【鏡山城跡 鏡山城は、山口の守護大名大内氏が安芸国西条地区支配のため築いた山城であり、 築城の時期は明きらかではありませんが、安芸国支配の拠点として重要視されました。 大永3(1523)年、出雲の尼子経久によって包囲攻撃を受けても城は容易に 陥りませんでしたが、武将毛利元就によって落城したと伝えられています。 城跡は約800m四方の範囲に広がり、南側を大手とし、城跡内には石垣や 5ヵ所の井戸跡が残り、南北両山麓には畝状の竪堀群が巡らされているなど、 安芸国の中心であった往時の姿を偲ばせています。】 (現地解説板より)さらには、こんな看板も・・・ 【ポイ捨て、犬のふんの放置は、やめましょう! この地域は、「東広島市ポイ捨て等防止に関する条例」により指定された 環境美化強化地域です。空き缶やたばこの吸い殻などをポイ捨てしたり、 犬のふんを放置すると1万円の罰金に処せられることがあります。】うわあ・・・犬のウンチで、いちまんえん!?ちょっと高くね・・・東広島、キビシイ~・・・・「また汚物の話かよ~」って声が聞こえてきそうですが(笑)、あれこれ看板を楽しんだ後で、まずは広い池にかかるこの橋を渡って、対岸へ。 ↑こちらは池の右側。ん・・・遠くに見える、あの変な植え込みは・・・ アハハハハ、グリーンでできた無縫塔だあ~!!無縫塔(むほうとう)ってのは石塔の一種で、古い墓石には宝篋印塔、五輪塔などがありますが、無縫塔は主に坊様の墓石として使われるもの。しかし、何だってあんな形に刈り込むんだろう・・・上から下までずん胴にしておけば、誰も無縫塔なんて思わないのにって、あれを見て無縫塔なんて言うの私ぐらいか?面白いなあ、東広島。池を渡ると、正面に立派な休憩所。 朝ごはんも軽く食べて、羽田でおにぎりとパンも食べたけど、なんだかお腹すいたな・・・でもちょっとここは日陰で寒いから、別の場所で食べよう。公園内には、ちゃんと案内板も設置されております。 案内に従って奥へ進むと、こんな看板が。 この注意書きがあるのは、事前の調べで知ってたけどね。福山の時はちょっとびくびくしてたけど、この寒さならもう問題はないハズ。しかし、なんでマムちゃんに蝶ネクタイなんか付けるんだろう。本気で注意喚起したかったら、見事な銭型模様を背負ったリアルな写真を載せた方が効果高くね?(笑)さて、城跡へ上がるには2通りの道がありますが、私が選んだコースはこの道順。 登りと下りに使う道をつなぐ山麓の道を行こうとしてまず行ってみた。 ↑これが直登するルートの入り口。ここを下ってくる予定。で、分岐する道はといえば・・・ タクシーのおじさんは、朝ちょっと降ったと言っていた。う~ん、ちょっとやな感じだな・・・で、この道はやめて下の道へ戻る。公園内の舗装された道を進むと、児童園地にさしかかった。 なんか、立派な遊具だな~。おっと!お店も開けるようになっとるぞ。 奥には東京タワーまで(笑)。 世間では大晦日のせいか、ほっとんど人影はない。ここのベンチが日なただったので、今日3度めのお食事(笑)。寒いからさ~、カロリー消費も早いんだよね。家から持ってきた、つぶれたドーナツを1コ食べたところで親子連れがやってきて賑々しく遊び始めた。静寂を破られて機嫌が悪くなった私は、途中で中断して先へ進むことにした。この園地にはトイレもあったので、しっかり活用してからね。にほんブログ村
2013年01月08日

ひろよんの嫡子・義弘は今川了俊の娘を娶ったといわれている。そして九州にも従軍し、南朝の追討に大きく貢献した。なので、了俊が大内氏の安芸での勢力温存を認めたのは、義弘の縁や実績が支えたものであったかもしれない。前回の記事で大内氏が安芸国衙領の押領問題の解決に携わっていたことを書いたけど、康暦2年(1380)の御教書によると、ひろよんも国衙領の押領組に入っていたんだそうなで、その実態というのは、「芸州大将」に率いられた武力集団をバックにしたものだった可能性があるという。しかも、「芸州大将」なんて名称から察するに、この武力集団はある程度常駐軍の体をなしていたんじゃないかとの推測がなされている。さて、義弘が堺で討死したことは「山口編(7)」に、盛見が家督を継いで幕府との関係修復に努めたことは「山口編(15)」にそれぞれ簡単に書きましたので忘れた方や読んでない方はそちらもあわせてご覧ください。で、話はひろよんから子の代へと移ります。まだまだ話長そうだぞ~、おい・・・ひろよんの長男・義弘の時代には、すでに東西条は大内家の支配地となっていたらしい。これは、東西条の寺に対する義弘の処置から窺われる。大内氏が東西条をゲットした経緯については、『臥雲日件録』という相国寺の僧・瑞渓(ずいけい)周鳳の日記にこんな風に書かれている。 応仁3年6月8日、昭蔵主から聞いた話 昔鹿苑院殿(足利義満)が花見をしようと、伏見から木幡まで行ったところ、 にわかに雲が出て、あいにくの雨になってしまった。 鹿苑院殿は大内某(義弘)を召して、 「雨なんだけど」 と下問されたところ、大内某はすぐさま和歌を詠じた。 「雨しはし雲にかすらん木幡山 伏見の花を行てみん程」 と、みるみる雨が上がり空は晴れわたった。 感動した鹿苑院殿は、 「ねえねえ、何か欲しいものある?」 と大内某に問いかけた。そして問われた大内某も 「んじゃ、東西条を」 と遠慮なく答えたんだそうな。毎度のことながら、超現代語訳戦国ジジイ風ですのであしからずいくら足利家とゆかりの深い相国寺の僧の話であろうと、これが書かれた時より80年くらい前の出来事だからね~。信憑性についてはなんとも言えないものがありますが、少なくとも応永元年(1394)には義弘は東西条を自由にできる立場にあった。結構、東西条って安芸の中心部あたりだからね。ひろよんからスタートしてわずか2代目にしてこのエリアに進出するってのは、なかなか・・・義弘が討死したのが応永6年(1399)。その跡目をめぐって兄弟間で血の争いが繰り広げられ、勝者となった義弘の弟・盛見が家督を認められたのが応永8年(1401)。応永10年(1403)頃には、安芸での勢力も少しずつ回復していたという。ただし、周防・長門の守護は認められたものの、盛見に安芸守護の任は与えられなかった。安芸の国人衆といえば、有名なのが「一揆」。一揆っつっても、百姓一揆とかのデモ系の一揆じゃないですよ。近隣の国人達が連携して上からの圧力に対抗しようとした共同体のことで、いわば安芸国内に勝手にプチ共和国を作っちゃったようなもんかな。これはなかなかの威力を発揮したようで、現に応永11年9月23日付で33人もの国人衆で結成された一揆の時には、応永10年(1403)に安芸守護として下向した山名巨部(おそらく満氏)と3年にわたって対峙して、結局守護のリコールを成立させたというパワーを持つものだった。この一揆の背後に盛見の暗躍があったかまではわからないけど、幕府はこの一揆のパワーに手を焼き、結果として安芸には守護の権威が定着するまでには至らなかった。絶対的な権力が存在しないままの安芸において、大内氏は着々と勢力を固めてゆく。そして応永32年(1425)、東西条内の内海村を竹原小早川弘景に預けた書状が残ることから、この時点で盛見が東西条を有していたことが確実視されている。「三原編」でも何度か書いたように、竹原家は沼田本家に比べて、大内氏と親しい期間が長いんでね。永享3年(1431)盛見が筑前で討死したあとの跡目争いにおいても、盛見の遺領として東西条が顔を出す。以降も、鏡山城より北東に本拠を持つ平賀氏に一部所領を預けたり、国人に加冠して諱を与えるなど、東西条を拠点として周辺の国人衆に対する影響力を強めていった。安芸支配にあたっては、大内氏は東西条代官を置いた。史料に最も早く現れるのが、「大内氏壁書」の中の長録4年(1460)11月25日付「養子御法事」で、陶・内藤・杉ら大内家重臣9名による連名に混じって「安芸国東西条御代官」とある。鏡山城の築城年代ははっきりしておらず、長録3年(1459)、大内氏が東西条を直轄領に組み入れ、翌4年に史料に東西条代官が顔を出すことから、この頃を築城時期と見る向きがある。・・・が、少なくとも60年前には東西条での支配権を確立してた訳だし、どこかに拠点は置いたはずなのだ。西条盆地の真ん中に位置し、ロケーションの良い鏡山をおいて他のどこに拠点を築くというのだろう。まあ、鏡山城を廃城とした後、大内氏は東西条の拠点を2度ほどお引っ越しさせるし、近くには小高い古墳(←城や砦なんかに転用されたりする)なんかもあるにはあるので、鏡山以外に拠点を置くなんてあり得ない!!とまでは言えないけど。ただ、そもそも大内氏が東西条の経営を開始したのが室町前期の話だから、もし鏡山に築城しなかったとしたら、他の可能性としては後に引っ越すことになる槌山とかの峻険な山よりは、平城(てか、居館)もアリなのかもしれない。平地に置いた居館跡なんてものは見つかってないけど。東西条代官として知られる者は数名いる。いちおう名前を挙げておくと、仁保盛安・安富行房・神代兼郷・蔵田右京進・蔵田房信・弘中隆兼。この他にもいるかとは思うんだけど、わかっていない。で、上の中では蔵田氏が2代続くものの、その他はみんな姓が違う。つまり、世襲ではなかった。代官の職務としては、今に残る書状などから類推するに、「西条衆」と呼ばれる周辺の大内家傘下の国人の統率、愁訴の取次ぎ、本国からの指令の伝達、配下の所領安堵の推挙など、実に様々・・・そういえば、隆景ちゃんの竹原家相続の際にも仲介の任にあたっていたそうな。「代官」の名の通り、なんだかあまり強権を発揮したって感じじゃない。大内氏の領国経営は、古くからの分国には守護代を置いていて、周防は陶氏、長門は内藤氏、豊前は杉氏・・・といった具合に守護代の地位が固定化されていった。固定化されるということは、必然的に守護代と国人衆との個別の結びつきが強くなるということ。逆に、固定化されない東西条代官は、任地で独自の勢力を作り上げることがなかった・・・というか、できなかった。この辺については、また後で少し書くかもしれませんので、ちょっと覚えていてくれると嬉しいな。ふう・・・歴史の話を書くのは、疲れます(←軟弱者)。気分転換にそろそろコースの紹介に入ろうかと思いますが(笑)、最後に寛正2年(1461)6月29日付「大内家掟書」に見える安芸での大内氏の領土をちょっとご紹介。 【従山口於御分国中行程日数事 東西条七日、請文十九日 呉島五日、請文十五日 能美島四日、請文十三日 日高島七日、請文十九日 蒲刈島六日、請文十七日】この掟書は、それぞれの分国に対し訴状などの期限を定めたもので、安芸は上の5つが書かれてます。寛正2年といえば、画聖・雪舟が最初に山口を訪れた頃で、応仁の乱のちょっと前。東西条を除いては、みんな沿岸部・・・つーか、島?安芸内陸部の拠点としては唯一となるのが東西条。つまりは、大内氏の東の最前線にあたる訳です。大内氏の進出を快く思わない周辺の国人との摩擦、それから中央での権力争いを反映した小競り合い、さらには応仁の乱を経て突入した下剋上の時代を迎え、東西条の拠点である鏡山城は幾度かの戦いを余儀なくされていきます。鏡山城の戦いの歴史については、また後ほど・・・にほんブログ村
2013年01月07日

鏡山城<広島県東広島市西条町鏡山2丁目>(住所をクリックするとMapfanにリンクします)※「東西条バトル編(4)」の続きです。 【国史跡 鏡山城(かがみやまじょう)跡 南北朝から戦国期にかけて、この地域は「安芸国東西条(とうさいじょう)」と 呼ばれ、山口の守護大名大内氏の所領でした。大内氏は、九州博多を有して 海外貿易に力を入れていました。 鏡山城は、大内氏が安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる 目的で築いたものです。大内氏は、鏡山城に「東西条代官」を置き重臣を任命して いました。安芸国は、大内氏と海外貿易をめぐって対立する細川氏との接点と なっていたため、鏡山城をめぐって攻防が繰り返され、特に応仁の乱では、 主要な舞台の一つとして激しい戦いが行われました。 戦国時代に入ると、出雲尼子氏が勢力を伸ばし、大永3年(1523年)、 鏡山城を攻め落とします。同5年(1525年)、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、 その拠点は盆地西方の杣(そま)城、槌山(つちやま)城に移され、 鏡山城はその役割を終えました。 城跡は、標高335mの山頂に位置する御殿場と呼ばれる郭を中心に 約300m四方に広がる大規模なもので、ダバ(段場力)とよばれる郭や堀切、 畝状竪穴群、石塁などからなり、中でも井戸跡は5ヶ所もあり多くの人が 城内にいたことをうかがわせます。 平成10年1月14日、室町時代を代表する地域の拠点的な城跡として 国史跡に指定されました。】 (現地解説板より)はいっ、もうおわかりですね。そうなんです、安芸ですが、ここは大内領だったんです。山口で過ごす年末年始を諦めた私が安芸デビューに選んだのは、安芸における大内領でした。うふふそれもただの領地じゃありません。安芸支配の拠点とした地なんです。私らしい選択でしょ上の鏡山城の解説は十分に長くてしっかりしたものですが、大内ファンの私としては非常に物足りない。ので、まずは歴史の話から入ります。大内氏と安芸との関わりは古い。大内氏をちょっと知ってる人なら、「安芸守護も兼ねてたんだから、そりゃ領地でしょ?」ぐらいの想像はつくかもしれないけど、もっともっと古い。話は、ひろよん(大内弘世)までさかのぼる。ひろよんは「山口編」で結構名前を出してますので、覚えていただいた方もおられるかもしれませんが、公開済の「山口編」は初回の山口訪問という事もあり、歴代当主をほとんど登場させたものの、個々についてはごく簡単な紹介にとどめました。また、本拠地である「山口編」では大内文化を中心とする文化面を主に紹介しましたが、ここは本国ではありませんので、「山口編」よりは政治的・軍事的な面での紹介になると思います。で、ひろよんについては 「山口編(6)」でこれまた大ざっぱに書きましたが、今回はもう少し詳しく。元々、在地の地方公務員であった大内家に生まれたひろよんは、南朝方として同族の大内長弘を下して周防守護のステータスをゲットした。北朝方の元周防守護・大内長弘は、鷲頭(わしず)長弘として紹介されることのが多いかも。この人は、ひろよんから見れば大叔父さんにあたる人で、宗家を差し置いて周防守護の地位にあり、幅をきかせていた。一説には守護ではなく、守護代だったともいうけど。そういう家庭の事情に南北朝の混乱が加わって、他家と同じく大内一族の間でも南朝・北朝に分かれて争いが起こり、最終的にひろよんとそのパパ(弘幸)の宗家組が覇権を奪い返した。そして南朝から周防守護を授かったのが、観応2年(1351)。続いて北朝方の長門守護・厚東(ことう)義武を攻めて、延文3年(1358)南朝より長門守護を授かる。ここまでは、南朝としての活動。正平18年(1363)、足利2代将軍・義詮からスカウトを受ける。ここでひろよんは、既得権の安堵・・・すなわち、現在有している防長2国の守護を引き続き北朝にも認めてもらうことを条件に、北朝に帰順した。あざやかなる転身を果たしたように見えるけど、ひろよん始め大内家の心中は果たしてどんなものだったのか・・・その辺は、「築山館(4)」にも少し書いてますので、忘れた方は見てね。さて、ひろよんの快進撃はまだ続きます。貞治5年(1366年)6月~9月の間に出家。7月には石見へ出陣しているので、6月末頃の剃髪だろうと「大内氏實録」は述べる。出家したからって大内家当主としての頑張りに何ら変化はなく、 7/13 青龍寺城 7/16 有福城 7/22 大石城(落城は26日) 7/25 久佐金木城とガンガン行っちゃって、石見平定。実はその2年前、初めて上洛して足利義詮に謁見。『多く金帛を将軍の左右に賄賂』して石見守護の地位をゲットしていた。ま、金品をばらまいたのは、「山口編(6)」に書いた通りお偉い方々へだけじゃありませんけどね。幕府から守護に任じられたからといって、丸腰で任地へ行って「お上からのお達しで、今日からボクが君たちの上司だからよろしくね」と宣言したところで「あ~、そうですかあ~。遠いところをようこそ!ぜひぜひ、仲良くしてくださいね~」なんてタマが当時おるハズがない。上からの大義名分と、身体を張っての実力(武力)行使。この2つが揃って初めて自分の領国といえるものができるのだ。そして、ひろよんも名実ともに石見の国主となった。頭を丸めたのは、平定祈願のためだったんじゃないかとか思っちゃうんだけど石見平定においては、石見の国人・益田越中守兼見の協力を得られた事が大きなポイントだったようだけど、この益田さんちの兵などを自軍にプラスして、ひろよんは今度は安芸へと攻め込んだ。この辺りをもって、大内氏による安芸の直接支配が始まったといわれる。もちろん、始めから一気に全域支配に至った訳じゃないけどね。「守護に任じられた」とつるりと言うけど、中世には「平成○○年度 守護補任表」といったようなものは残されていない。辞令をもらった側で大事に保管していた場合はいいんだけど、そうでない場合には、実際の行動やら残された書簡・文書から誰がどの程度の権限を有していたかというものを推測し、「こういう活動をしているから、この時期この武将は守護職にあったのであろう」と同定をしていくんだそうな。で、この頃の記録を見てみると、貞治年間(1362-1367)は諸豪族に所領を安堵した書状などが残されていることから、武田氏信が守護的地位にあったものと思われる。応安年間(1368-1374)の始め頃には武田氏はなりをひそめ、応安4年(1371)今川了俊が安芸の歴史に守護として登場する。大宰府を占拠するなど南朝の勢力が強くなっていた九州の鎮圧のため、応安3年(1370)に九州探題に任命された今川了俊(貞世)は、任地へ下向する準備が整った頃、安芸守護を兼任することになった。ただ、九州探題の在任中は安芸だけでなく備後・筑前・筑後・豊前・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の守護も兼ねたっていうんだからすごい。もちろんそれは、自らの領国の国人衆を動員・指揮する権限を与えられたことを意味する。了俊の探題就任の最大の使命は、南朝の討伐にあった訳だからね。で、応安に入ってすぐの時期から了俊の守護的活動が文書等で確認できるまでの数年間、ひろよんが守護ちっくな活動をしているのが散見されるのだ。ひとつは、厳島神主家と内藤氏の仲裁。今ひとつが、東寺造営料所であった安芸国衙(こくが)領を国人衆が押領していたことに関しての、問題解決への尽力。じゃあ、了俊が来てからは、すごすごと安芸から手を引いたのか?いえいえ、そうじゃないんです。応安4年以降、正式な安芸守護は確かに了俊でしたが、その了俊のもとでひろよんが守護に準じた行動を取っていることを窺わせる文書があるんです。ま、言ってみれば守護代みたいなカンジ?つまり、権力者がきれいに交代したというよりは、武田氏信~今川了俊の間にひろよんがぽちっと築いた安芸での地盤を、了俊政権下でも大内氏がそのまま保持していたって事らしいんだな。ただ、個人的には了俊とひろよんってあまりソリが合わなかったんじゃないかな~と思うんだけど、そこをカバーしたのがきっと嫡男・義弘なんでしょう。にほんブログ村
2013年01月06日

※現地での雑談については、「東西条バトル編」(1)~(3)をご覧ください。やあ、ただいま~。三原編が終わったあと、しばらく本編の休止をお知らせしておりましたが、それは今回の旅から帰ってから始めるつもりで言った言葉でした。その後で、本編の再開を2月までずらそうとひそかに決めていたのですが、旅を終えてそれはとてもマズイ選択だという事に気がつきまして。今回行った城は4つ。あと、麓から見た城もあったけど、これは登らなかった。その4つの城は、歴史もあるし(←だから選んだ)、想像してた以上に遺構が素晴らしかった。そして例によってまた写真を撮りまくり、さっきカメラをPCにつないだら、4泊5日で1,866枚・・・でもこれ、現地で少し消し込みしてるんだよミワラよりも写真が多いのはわかってたけど、実際どのくらい撮ってるのかは、旅の最中は確認する気になれなかった(←小心者)。が、4日めの夜、すべての行動を終えてからそろそろ現実を把握しなけりゃならん・・・と意を決して数えてみたら、その時点で1,860枚近くあった。しかも、山城・・・石垣が多少残ってるところもあるにはあったけど、ほとんど完全な土城と化している。今回は、まずメインの山城に登って、下山してから時間の余り具合で寺とか史跡へ行くという行動パターンだった。どの山城でもかなりゆっくりしたので、ほとんどが山の中で撮った写真だし、土城だから少なくとも1,500枚くらいは土と石と落ち葉の写真ばっかり・・・(笑)。現地で写真をチェックしてても、例えば浅い竪堀なんかだと、ほんの数日前の事なのに、もう自分でも何を撮ったのかすでにわからないどの山も落ち葉が深く積もってたし、人間の目で見る通りには写真には写らないのでね。ヤバイぞ・・・!この上1か月以上空けたら、ホントに判別できなくなる・・・!!と危機感に襲われて、とにかく書けるうちに少しでも書いておこうという気になった。ま、ちょっと一時中断する時もあると思いますが、あまり丁寧な訪城記を公開してる人のいない城が多いので、歴史と遺構の両面からできるだけ丁寧にコースの紹介をしていきたいと思ってますので、本シリーズも夜露死苦きちんと紹介することが、これだけの素晴らしい遺構を見せてもらった事への恩返しになると思うのだ。1日目<2012/12/31(月)晴れ>今日は大晦日。帰省のピークはもう過ぎてると思うけど、羽田はやっぱりいつもの連休より人が多かった。今回も広島空港からバスを使うんだけど、大丈夫かな~(広島空港でのバスの失敗については、「備後トラブル集(1)」をご覧ください)到着便に遅れが出ているとゆー事で、今回もヒコーキの出発が少し遅れた。う~ん・・・まあ、今回は現地までリムジンバスに揺られるんじゃなくて少し路線バスに乗って電車に乗り換えるから、もし間に合わなくてもタクシーで駅まで行ってもいいしな。今回のバスはICOCAが使えるので、空港での乗換には時間はかからないハズだけど。で、無事に広島空港に到着。機内のアナウンスでは、広島空港の気温は1℃とのことだった。結構、広島も寒いんだよね。しかも今回は、盆地だし現地まではそう時間もかからないので、トイレには寄らずコロコロが出てくるのを待った。荷物を回収してから足早にバス乗り場へ向かう。この時点で、バスの出発時刻を1~2分過ぎてた。私が乗るバスは、バス停にはいなかった。他の各地へ向かうリムジンバスはまだいたから、もしかしてまだ来てないだけなのかも・・・と思って、少しバス停で待ってみた。が、定刻より10分くらい待っても来る気配がなかった。ああ、行っちゃったか・・・!まあ、路線バスだから電車との接続もあるし、これはしょうがないよな・・・とおとなしく諦めて、宿に着いてからするつもりだった着替えとか荷物の整理をして時間をつぶした。諦めてから次のバスが来るまで、だいたい20分くらい。空港には、こんなのが貼ってあった。 広島ってホント、カープとサンフレへの愛がすごいからな・・・ 11:10発のバスが来たので、乗り込んで待ってたら、運ちゃんが何やら乗客ではない女の人と話してる。どうも、何分まで出発を遅らせられるか話してたみたいで、「17分くらいかな~」って運ちゃんが答えてた。・・・え?路線バスだから、ヒコーキの到着は待たないんじゃないの?と思って不安になったけど、定刻の11:10分を過ぎてもバスが出る気配はない。おい!!こっちの乗り継ぎはどうなるんだよ!!・・・結局、大幅に遅れてバスは出発した。そのため、順調にいけば乗れるはずの電車から、3本遅い電車に乗るハメになった。現地への到着は、50分以上遅れた。おいおい・・・広島空港、いい加減にしとけよ!!前のバスが定時に出ちゃったのは、まだいい。電車との接続があるから。でも、それだったら次のバスもきっちり定刻を守るべきだろ!!つじつまが合わないんだよ!待ってるこっちの身にもなってみろ!!も~、ホントにやだ、この空港・・・次も広島行きが決まってるんだけど、その後はもう広島行くのやめようか・・・のっけからガラの悪い文句ばっかりですいませんね。でもこれが、広島空港のバスの現実です。前回、たまたま運が悪かっただけじゃないんです。おそらくここは、いつもこうなんです。首都圏じゃこんな運行は許されんぞ。これがお土地柄だとゆーなら、広島人は気の長い人が多いに違いない。広島人って、エライなあ。前回に引き続き、イライラしながら電車に乗り換えて、降りたのは東広島市・西条駅。古くはこのあたりは「東西条」(とうさいじょう)と呼ばれていた。今回の宿は、駅から少し離れてる。駅のすぐ近くにも宿はあるんだけど、私は居住性を重視するタイプなので、遠いけど部屋が広い宿を選んだ。駅からバスも出てるけど、歩いて15分くらいだし、道などを確認しておきたかったからコロコロを引いて歩き出した。駅を出てすぐ、西条のふたがお出迎え。 おお~、いいふたが揃ってんじゃん!!東広島は酒どころらしく、西条の駅からすぐの道を入った通りには酒蔵が建ち並ぶんだけど、私は日本酒は飲まないし、たぶんここへ寄ってる時間はないと思う。酒蔵通りに入る角っこには観光案内所があったんだけど、年末年始は休業とのことだった。ハハハハ・・・そっか、そうだよな~。まあ、どのみち普通の観光はできないと思うので、案内所でパンフレットがもらえなくても問題はない。酒蔵通りへの道を過ぎて歩き出すと、こんな自販機が目に入った。 なんじゃ、こりゃ!?そのまま後ろ向きに数歩戻って、謎の物体を確認・・・ だしだ、だし~!! 【万能調味料 お水で割るだけ 『簡単・便利』 焼きあご入り(あごと昆布入り):650円 昆布入り:450円 あごが入ることであっさりとした、甘目のだしになります。 これ1本で「うどん、鍋物、煮物、おでん、玉子かけご飯」いろいろ楽しめます!】面白いな・・・こんなの、買う人いるのかな。でも、650円のと450円の2種類のだししか置いてないから、それなりの需要があるってことだよな~。でも、「あご」ってなに!?自販機にはあごの絵が描いてある。 羽がついてる・・・なんだこれ、トビウオ?帰ってから調べたら、やっぱり「あご」はトビウオのことだった。トビウオの英名はFlying fish、学名はCypselurus agoo(ホントビウオ)。山陰から九州にかけて、トビウオのことを「あご」というらしく、「あご」の語源については、あごが落ちるほど美味しいからだとか、学名から来てるんだとか、はたまたシーボルトさんが長崎の方言として紹介したものが学名になったんだとか、色々あるみたい。後日、ここを通った時、実際に買ってる夫婦がいた。お店では売ってないのかな?この辺じゃ、急にだしを切らしちゃった時に「アナタぁ~、駅前でおだし買ってきてぇ~!」って光景が繰り広げられるのだろうか にほんブログ村
2013年01月05日

今日は安芸3日め。楽しいけど、そろそろ疲れてきました。←根性なし今日のメインも山城。城としてはあまり有名じゃないかもしれないけど、西国の戦国史では重要な鍵を握る城です。城の詳細については本編に譲るとして、今日も旅の雑談をば。地味で人のほとんどいないところばかり行ってるにも関わらず、今回は色んな人とお話してて、たくさん親切にしてもらってます。話しかけてくるのは、例によってじじばばばかり。そもそも私が行くのは、若い人なんかほとんど行かないとこだし。 いくらジジイを自称しようとも、本物のじじばばからすれば自分より若く見えるらしい私が「千葉から来ました」と言えば「千葉から、1人で!?若いのに偉いわね~」といった感動がじじばばの年齢判定装置を狂わせるらしく、「学生さん?」と続くことが多い。今日はおじいちゃんに「高校生?」と言われて、これにはさすがの私もたまげた(゜∀゜;ノ)ノ実年齢を言ったら腰抜かしそうだから言わなかったけど。そんな大きな勘違いから、あったかい広島弁に優しさがプラスされてさらにあったかくなるので、広島弁で話しかけてもらうのが快感に変わってきた。別に、若く見られるのをほくそ笑んでる訳でも自慢してる訳でもないですよ。今日は山城から下山した後、古い城下町を歩いた。古い建物も良かったけど、こっちの方ってゴージャスな瓦葺の家が多い。関東じゃ、地域差はあるでしょうけど、一般家庭の屋根にシャチ載ってる家なんかほとんどないし。ただ、一口に広島県といっても、地域ごとに特色がある。福山とミワラでは全然違ってた。今日のとこは、ミワラと同じ部類に入るかな。なので、またもや瓦の写真撮りまくり(笑)。山城でも山ほど撮ってるし、写真の総数が一体何枚になるのか今からコワイ…( ̄○ ̄;)間違いなく、ミワラ(←約1200枚)よりは多いであろ・・・デジカメ様々ですわ(笑)。その中には、面白いものもいっぱいあったよ民家の瓦や寺社の写真をバシバシ撮りながら、「城巡りよりこっちの方が向いてるんじゃなかろーか」とふと思って1人でニヤニヤしてた。前回の福山では、いくつか寺社は予定してたけど、あくまでメインは山城だったのでそっちに時間がかかりすぎて結局ほとんど行かれなかった。福山では色々トラブルはあったものの、人は良かったし楽しかった・・・けど、建築をろくに見てないので、どこか消化不良の感が残った。特に、夏にミワラの素晴らしい寺社群に大満足した後だったから、余計にそう感じたのかもしれない。でも城も寺社もどっちも好きだし、でもでも山城はシーズンが限定されるし、おまけに大抵の山城は時間はかかるし、城と寺社巡りの2つの欲望を満足させるプランとなると難しいものがあるよな私の旅にはもうひとつ、ふた探しのお楽しみがありますが、今回はなかなかミワラはやっさバージョンしかなかったもんね(笑)。急に立ち止まって地面にカメラを向けては、「なんだコイツ」と不審者に見られるのはいつもの事ですが、今日はそれをはるかに上回る不審者がいました(笑)。友達にメールするのに遠くから写真は撮ったけど、ブログに載せるのはマズいかもしれないので載せませんが(←ホントは載せたい)、でろでろに疲れて駅から宿へ向かう途中、道端にぺたりと座り込む母と息子・・・「なんだコイツら」と思って凝視しながら歩いて、何してたかわかった。大きな紙を地面に広げて、ふたの拓本取ってたの!!うひゃあ・・・マニアってあんなことまでするんだま、ふた好きの私の友達は、メジャーでサイズまで測ったりするしね。どちらも立派な不審者。しかも、この拓本作業の現場は交番のすぐ近くだった。勇気あるなあ(笑)。私の後に通ったおじさんはこみ上げる興味を抑えられなかったらしく、真剣に作業してる親子に話しかけてた。そしたら、ママの方が「せめて人の少ない時間にと思って・・・」とインタビューに答えてた。そりゃそうだよな~(笑)。世の中には、色んな人がいるもんだ・・・そこいくと、私のふた撮影なんて可愛いもんよ(笑)。にほんブログ村
2013年01月02日

あけましておめでとうございま~す。本年もよろしくお願いいたしま~す。いつも以上にしまりがないのは、とにかく疲れたからです。今日の城は実に素晴らしかった・・・4時間くらいで終わるかな?と思ってたんだけど、もうとにかく見まくり歩きまくりで、予想より下山は遅くなった。まあ満足したし、朝は寒かったけど日中は日射しが結構あったので、日なたは暖かくてよかった。で、下山して近くの神社へ初詣した後、近くにあるはずの寺に行こうと思ったら、詳細な地図を用意してなかった。今回は、準備に充分な時間をかけてられなかったからさ・・・それに、地図で見てるとホントに近くだから、すぐわかるかと思ったんだよね~。幸い、寺への行き方を示す看板がひとつだけあったので、それを参考に歩いてみたけど、どうにも見つからないそのうち雨が降ってくるし、も~歩いて歩いて歩いて・・・疲れた。初詣に行った神社には自販機のおみくじがあったんだけど、なんか調子が悪かったらしく、神職らしき人が自販機の裏でごそごそやってた。ええ~、おみくじひけないのお~?と思ったら、みんなお金をばんばん入れてひいてる。え、あれってもしかして・・・手動!? 神職さんの手元がはっきり見えた訳じゃないけどね。でもたぶん、お金を入れたら神職さんがポイッっと吐き出し口に投げ入れてたんじゃないかと思う。それが上の写真(笑)。笑える~!(≧∇≦)試しに私も、「お金入れても大丈夫ですか?」って確認した上でやってみた。そしたら、間髪入れずにおみくじが出てきた。おじさん、反射神経いいじゃん!肝心のおみくじの中身はといえば・・・『心正しく行いをすなおにしないと家の内に不和が起こって災いが生れます』『特に男女の間をつつしめ』『旅行:連れあればよろし』・・・・・・・・・・・・( ̄○ ̄;)男女の間?ええええ~、ブログでねちっこく愛を叫ぶなってこと!?連れ?こんな俺様な旅に他人なんか連れてけないし!!今日は素晴らしい場所で素晴らしい元日を過ごしたのに、神様のお告げはちょいと冷たかった・・・にほんブログ村
2013年01月01日
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