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(現地看板より)上の図で右の「本丸」とあるあたりが当初の江戸城と思われるエリア。「本丸」と「西ノ丸」の間にある「紅葉山」が寛永寺シリーズなどで幾度となく出てきたあの紅葉山。本丸や二の丸のあるエリアは現在では皇居東御苑として一般開放されており、西の丸や紅葉山のあるエリアが皇居。当初は西の丸エリアは城外だった。 権現様の関東ご入国の頃、今の西の丸の場所は野山で所々田畑などがあり、 天地庵と云う常念仏堂もあったそうです。春には桃・桜・つつじなどの花が咲き、 貴賤を問わず江戸での遊山所になっておりました。 その後、そこを権現様の御隠居所にしようということになり、外構のお堀や石垣などが 整えられ、お屋敷も建てられて「御新城」と呼ばれていたのですが、本丸とは別になっていて、 紅葉山下通りを半蔵門の方へ抜けることができ、紅葉山は引き続き諸人の慰み所に なっておりました。 しかし、関ヶ原の後天下一統となると、権現様の御隠居所は御新城ではなく駿府になったので、 御新城は曲輪の内に組み込まれて、紅葉山下と坂下に門ができて通り抜けができなく なりました。そのため、諸人は紅葉山にあった山王社への参詣ができなくなり、 江戸庶民が困っているとの話がお上のお耳に入りましてな。それならばと半蔵門の外の お堀端にあらたに山王社を建立したので、そちらは大変繁盛したようです。 イエアスの隠居所ができてなお、すぐ隣の紅葉山に庶民が参詣できたというのがいかにも初期らしい、実におおらかな話ですが、山王社については 権現様が小田原から江戸へお移りになる際、榊原康政殿を召されて 「この城に鎮守の社ってあんの?」 「ここより北の方の郭に2つはありますね」 「へえ、ちょっと見に行こうよ」 とおっしゃるので榊原殿の案内で見に行かれました。 そこは小坂の上に梅の木が沢山植えてあるところで、以前の城主だった太田道灌は 歌人なので、梅林の中にある2つの社のうちひとつは天神社でした。 権現様はいまひとつの社をご覧になり、拝礼されておっしゃるには 「ここの鎮守の社がなかったら、坂本から山王を勧請しようと思ってたんだけどさ、 なんとまあ、ここにあるのは山王社じゃないか!不思議なこともあるもんだ」 「いかにも、奇妙なことでございますな~。これはこのお城が末永く続き、 お家が繁盛するという吉兆でございましょう」 「だよねだよね~ お前もそう思う?」 と大変ご機嫌のように見えたとのことです。「叡山攻め」シリーズを読んだ方には、「坂本の山王社」が比叡山東麓の日吉大社を指すことはすぐにわかりますね。天海とイエアスの出会いの時期ははっきりしていない。天正年間と慶長年間の2つの説のうち、慶長年間の出会いの方が今のところ有力なようだし、仮に天正18年説が正しかったとしても、まだ出会ったばかりの天海がイエアスに大きな影響を及ぼすところまでは行ってないだろうと思う。ので、なんでイエアスが坂本から勧請しようと思ったのかは不明ですが、イエアスの入城以前から山王社は城内にあった。そしてそれは、太田道灌が川越から勧請したものだとされる。もともと関東は天台宗が強いお土地柄だったからね。小坂の上にある梅林は現在でも「梅林坂」として名称が残り、のちの大奥に近い場所にある。道灌の城とイエアスの城では規模が違うので、道灌時代には本丸の北の奥まった場所に山王社と天神社があったことになり、山王社は本丸から紅葉山へ移転し、ついで城外の現・国立劇場付近に移り、明歴の大火ののち現在の赤坂へ移転する。2010年の元日はこの江戸城の鎮守・赤坂日枝神社へ初詣に行きましたが、あいにく写真が行方不明なのでここは先へ進めます。ちなみに、天神社の方は特に指示もないうえに普請の邪魔になったので平川門の外に遷座させて、のちにこれも城の拡張にともなって現・国立劇場の近くへ移転して、現在も平河天満宮として残っている。平河天神はのちに輪王寺宮の所管となったそうな。え~、ここまでで「当時は地形がまったく違っていた」と何度も書きましたが、特に何の知識がない人でも江戸城付近の地形を何となく知っていれば誰にでもわかる最も大きな違いというのが、海がすぐ江戸城の近くまで迫っていたこと。いちおうMapfanの地図をこちらにリンクしておきますが、江戸城(皇居)から東は隅田川まで陸続きになってますね。ところが昔は江戸城のすぐ東まで日比谷入江という浅瀬の海が深く入り込んでおり、日比谷入江を挟んで「前島」という半島が江戸城の東にあった。Mapfanの中心部分が大体前島の先端部といわれるあたりで、そこには漁で生計を立てる漁師たちが住んでいたそうな。 現在の八代洲河原岸のあたりには漁師たちの家があり、魚などを買い求める時には この漁師たちの所で用が足りました。 権現様のご入国の翌年あたりと聞いていますが、長雨があったそうでな。さらに南から 大風が吹いて高潮が上がったのでその漁師町は水に浸かってしまい、漁師たちは 船に妻子と家財道具を積み込んで現在の馬場先門内あたりの畑の中にある大木に船を繋いで 食事等の準備しているところを、当時お城へ上る途中のご家中衆が見かけたそうですよ。 ところでご入国の際には現在の桜田門の場所には大扉はなく、代わりに木戸門があって 名前を小田原門といいました。その後、御新城ができて西ノ丸下の郭などもできて 外桜田に門ができた時、今後は小田原門という呼び名は一切やめるようにとの 厳しいお達しがあったそうです。 西ノ丸のあたりは一般に地面が高く、そこにお堀も掘られたので大量の余土が出ましてな。 その土でもって例の漁師町近辺の葭原をおおかた埋め立てて、漁師町もひと続きの町と なりました。そこは日比や町といって魚屋のほか色々な品が売られていましたので 大変繁盛したようですが、のちにそこも郭の内となったので現在の日比谷町へ引き移った そうですよ。八代洲(やよす)は八重洲(やえす)のことで、ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともにオランダ船リーフデ号で豊後に漂着したヤン・ヨーステンの住まいがあったことから来ている地名だという話はあまりにも有名ですが、首都東京の中心地で多くのビジネスマンや買い物客、世界各国から集まる観光客などが忙しく行きかう東京駅のあたりはほんの400年前くらいまでは地味なイナカの漁師町だったのですよ遠山時代には海側にいくつかの粗末な木戸門があって、その木戸門の内側には重臣の大きな家や小さな家があり、たぶんこれは道灌時代からのじゃないかと思うけど2~3の寺もあったそうな。寺については徳川城の普請の際、金をやって城外に移ってもらったという。揚土で整備された土地はほかにもある。 権現様が慶長5年(1600)に関ヶ原で勝利されると、西国大名では藤堂高虎、 東国大名では伊達政宗を代表として、 「江戸のご城下に屋敷を建てさせて欲しいんですう~」 との要望がありました。権現様は、 「いや、みんな大坂に屋敷を持ってんじゃん。 わざわざ新しく江戸にまで屋敷を持つことはないよ~」 「いや、江戸に欲しいんです、江戸に! 大御所様、是非に、ぜひにぃ~」 と熱心な願いようだったので、それならばと外桜田と現在の大名小路(平成の世では丸の内) のあたりに外様大名の屋敷を作ることを許されました。 それより以前、前田利長殿(前田利家の子)は母君(まつ)が江戸に下向された折に 秀忠様より大手先にお屋敷を賜り、すでに結構な建物を持っていたので、 そこを江戸屋敷とされたようです。 また、浅野幸長殿は父・浅野長政殿が外桜田の霞が関という名所の地をすでに賜っていたので、 そこを上屋敷として、父君の隠居所には添屋敷を賜ったそうです。 当時、大名小路あたりは葭原でしたが、お城の揚土をいただいて地形もどんどん整備された そうです。外桜田あたりになると土地の高低が激しかったので、土地をならすための 土の入手にはずいぶん苦労したようですが、諸大名が願い出て御新城の外構のお堀を 掘り広げたので今の通りずいぶんとお堀も広く深くなり、それによって出た大量の揚土を 方々で引き取って地形を整えたそうです。 外桜田に屋敷を拝領したのは、加藤清正をはじめ黒田、鍋島、毛利、嶋津、伊達、上杉、浅野、 南部、伊東、亀井、金森、仙石、相馬、水谷、秋田、土方といった大名衆で、東西の諸大名が 参加した工事なので、下々の者や工事関係者が西ノ丸外のお堀を、西塔の武蔵坊の心を取って 「弁慶堀」というようになったようですが、弁慶堀と呼んだことについては特にはっきりした 理由はないようです。 前述の浅野幸長殿が拝領した添屋敷は浅野長治殿(幸長の弟・長晟の子)が住んでたのですが、 ある時邸内で井戸工事をしたところ、地面から二間ばかりの底から葭の根が沢山出てきた そうです。何も知らない長治殿が 「ナニコレ?」 と不思議がっていると、徳永玄兵衛という家老が 「おじ上がこの屋敷を拝領した当時、このあたりは深い谷間でしてなあ。 井伊殿の屋敷の前のお堀から出た土でもって埋めたからですよ」 と物語りなぞしたそうですよ。埼玉の川越には「霞ヶ関」という地名がある。初めてそれを知った時、「ダさいたまの、しかも川越なんてド田舎に霞ヶ関ぃ~?ちゃんちゃらおかしいぜ」と鼻で笑いましたが(←千葉と埼玉は永遠のライバル)、なにかの本で昔そのあたりは沼沢地だかの水っぽい土地でよく霧がたちこめたから、というような地名の由来を読んで納得した。東京の方の霞ヶ関について国土交通省のホームページでは 【「霞が関」という地名の由来には諸説あり、古くは、日本武尊が蝦夷に備えて設けられた もので、雲霞を隔てる地であったことからつけられたという伝説があり、平安期より 歌枕の地として多くの和歌によまれています。】と説明しているけど、江戸城の南側なんかは現在でもかなり起伏の激しいエリアで、ちょっと掘ればヨシの根っこが出てきたというあたり、谷間の部分はヨシが生い茂るじめっとした場所で、ゆえに川越と同じくすぐに霧がたちこめるような所だったのかもしれない。弁慶堀の由来は結局わからないみたいだけど、「西塔」が叡山の西塔を指すことは皆様とっくにおわかりですね。にほんブログ村
2016年01月31日

前回の続き。 【北条氏綱は、江戸に拠点を移すべきであったのに、そうはしなかった。もはや関東圏は 成立しないと知ったのか、小田原に尻をすえてしまった。中途半端である。たぶんに、 父の早雲が伊豆韮山にいて、西のほうを気にしていたのに影響されてであるが、 箱根・足柄両山の東と西の双方を領有する戦国大名早雲の出現によって、道灌死後も ちらついていた坂東圏の残り火も完全に消えた。】 (『賤民の場所 江戸の城と川』より)塩見氏のこの本はとても面白いが少々難もある、と旅日記の方で書きましたが、長い長い歴史をひと通り自分なりに追った後でまたこの本に戻ってくると、塩見氏独自の視点はやはり示唆に富むものが多いとあらためて思った。江戸へ拠点を・・・確かにそうだ。後北条氏が独立構想を持っていたかは置いておくにしても、関東の覇者を目指すのなら、版図が東に伸びた時点でもっと関東のど真ん中に引っ越してくるべきだった。氏綱が武蔵に手をかけた段階の江戸は、道灌時代の繁栄もまだ残っていたにせよ本拠を置くにそれほど魅力ある土地ではなかったかもしれない。それにしたって、せめて鎌倉の近くあたりまで移ってきたってよかったとわたくしも思う。ベストは武蔵だと思うけど。これまでの関東の支配者は、がっちり関東を囲いこんでいた。もちろん、いつだって一枚岩という訳じゃ全然なかったし、政治的事情によって多少の管轄の入れ替えもあったけど、でも関東、いや「坂東の盟主」としてのテリトリーははっきりしていた。「坂」より西をあわせて領有したのは、後北条氏が初めてだった。抵抗勢力が強かったから?・・・それもあるかもしれない。でも後北条氏は太田氏のように婚姻を通じて積極的に国人の取り込みも行って他国衆として組み入れている。氏綱や氏康ほどの人なら、その気になれば武蔵に腰を据えることは可能だっただろう。なんで東に引っ越してこなかったのだろうか・・・塩見氏は続けて言う。 【関西から入ってきた北条は、関東の中心に居城をおけなかった。箱根の山の東のすみ、 関東平野の西のすみを本拠地にした。結果、西の文化からも取り残されたし、坂東武者の 荒夷(あらえびす)の夢を再現することもできなかった。やはり、どこか中途半端 なのである。そのあと、西からきた徳川は、はじめ小田原城を居城にしたがったが、 秀吉がそれをきらい、江戸城に入れと命じた。京からより遠く、より僻地へと追いやった。 家康はよくがまんしたが、なにが幸せになるかわからない。 東京はこの偶然から生まれたのである。】 (前掲書より)けっして小田原が悪いと言ってるんじゃない。でも、関東には他のエリアとは違う独自の伝統と気質があった。そういうところへあらたな支配者として切り込んで尻を据えるのなら、みずから「伝統」の中へ飛び込むべきだったんじゃないのか。時間をかけて辛抱強く、またあざやかに勢力図を塗り替えていった後北条氏は、たいしたもんだと素直に思う。前支配者たちが後北条氏の進出を手助けするようなスキばかり持っていたにせよ、名将を続けて輩出した後北条氏の実力は誰もが認めるところでもあるだろう。それなのに関東でどうも影が薄いのは、「坂」の真下にいつまでもとどまっていたことがひとつの要因なのかもしれないと塩見氏の文を読んで思った。さて、徳川氏。徳川家臣の間で語り継がれた話では、江戸に本拠を置くことが決まった時、イエアス周辺の家臣たちはブーブー言ったという。現代では、江戸に本拠を置いたのは「厭離穢土 欣求浄土」の「穢土」(えど)を「江戸」に見立て・・・みたいな風水説もさかんで、そういう見方は江戸期からあったものの、その一方で江戸期の家中では当初は喜ばしいことだと受け止められなかったという言い方もされている。「(29)」で紹介した『徳川実紀』のエピソードは、小田原城を見下ろせる陣中で秀吉とイエアスがしょんべんしながら語ったものだとも言われるけど、連れションの事実はさておき、江戸に本拠を移すことはイエアスの本意ではなかった可能性をうかがわせる。ではここからは、『落穂集』あたりを中心に江戸入府から徳川の江戸城初期の頃にかけての流れを紹介しましょう。『落穂集』は享保12年(1727)に大道寺友山重祐が発表したもので、質問者の問いに答える形になっている。江戸中期に書かれたものなので、「まあホントかどうかはわかりませんがね」という言葉も文中に見られるものの、大体が「年寄りに聞いた話によりますと」としているので、正確な史実ではなかったとしても、家中ではこういう風に語られていたのかと考えると興味深い史料でもあります。小田原攻めにあって後北条氏第5代・氏直が降服を申し入れたのが天正18年(1590)7月5日。その後、イエアスは駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を召し上げられ、かわって後北条氏の遺領である相模・武蔵・伊豆・上野・上総・下総および下野の一部と常陸の一部の関八州を与えられた。同年8月1日にはイエアスが江戸へ入る。1日は朔日ともいい、江戸入府が8月朔日であることから「八朔」と呼ばれ、以後八朔は徳川家にとって重要な記念日となる。のちの江戸では、記念すべき八朔の日には吉原の遊女も白無垢を着たという。国替えにあたっては徳川四天王の1人、榊原康政が惣奉行に任命され、ほかに青山忠成・伊奈忠次・板倉勝重や目付衆を中心として準備が進められた。まずは大身・小身に関わらず、とにもかくにも知行割を急ぐようにとの言いつけで家中の諸役人を全員江戸へ呼び寄せた。 まあ、当時の御城内には前城主の遠山綱景の家が残ってると言いましてもなあ、 長い籠城のため城内はロクな手入れもされないままになっとりまして、 あちこち破損してるわ、上板で葺いた屋根の上は土で塗り固められてたもんで 雨漏りがするわで畳や敷物なんかも腐っておりましてなあ。 とりあえず、本丸はもとより二の丸・三の丸・外曲輪にある家々まで残ってましたので、 当面の住居には不自由はしなかったそうです。 とはいえ、城内の家々は瓦葺きどころかこけら葺きでさえ1つもなく、 屋根はすべて日光杉や甲州杉、台所は茅葺きで、広いには広かったんですが、 とにかく古い。玄関はといえば、上段には幅の広い船板を二段に重ね、 板敷きはなく土間。権現様のお住居としてはあんまりなもので、本多正信殿などは 「殿ぉ~、ちょっとコレ、あんまりじゃないッスか? これじゃ他国から使者が来ても応対できないし恥ずかしいッスよ。 まず玄関廻りの普請から始めましょ~よ~。」 と申し上げたそうなんですが、権現様はからからとお笑いになって 「なんだよ、お前。 普段言わないようなずいぶん立派な伊達を言うじゃねーか」 とお取り上げにならず、まずは本丸と二の丸の間にある堀の埋立て工事を お急ぎになったそうです。 さて、役人衆がしゃかりきになって知行割を終えると、権現様はご家中衆へ それぞれ下し置いた知行所へ軽く陣屋を構え、ただちに妻子を引っ越させるようにと お命じになったので、これは手早く片づきました。 知行割にあたっては、権現様は旗本で小身の者には江戸に近いところへ知行を下され、 高禄の者ほど遠い場所へ割り渡すように、ただしどんなに遠くても道中一泊の場所が 限度だと仰せになったそうです。 御隠居前に秀忠様に「旗本で小身の者達に良く目をかけ、親しく使う事が大事なんだよ」と 言い残されたという権現様らしい御差配ですなあ。 御大身の家臣には北条家の旧城地を下し置かれたのですが、誰にどこを、ということについては 権現様が自らのお考えでお決めになったそうですよ。 ま、各自で陣屋を構えると言ってもお国替えでやることは山ほどありますし、 自分のことだけに構ってもいられませんので、小身の者は名主の家や寺などを借りて 当座の住まいとしたのが多くあったようです。 そうしてご家中衆が妻子をそれぞれの知行所へ移すと、自身の身と人馬だけを引き連れて 御城の周辺に場所を受け取り、御用にあたりました。 小田原攻めの際には江戸城の周辺は焼かなかったので家々もそのまま残っており、 御城の近くには家中の御番衆を下宿させる町家はいくらでもあったそうでな、 知行所の遠い者はそういう町家に何日も逗留して、非番がどーだとか言うこともなく 皆毎日出勤しておったそうです。 当時は御番帳に名前を書いておけば1ヶ月、2ヶ月も勤めを済ますことができたそうで、 そのうち段々と家を建てるようになっていったようです。 例の玄関の船板も長い間放っておかれたようで、そのうえ御殿の普請でさえ 質素な様子だったので、ご家中衆が自分の屋敷を質素にしても とがめる者もなかったそうですよ。 そんな具合で家中が一丸となって作業に当たったので、国替えのあった同年の 9月~10月頃には早くも家中の侍たちの引っ越しもおおむね終わりました。 そして、権現様は秀吉公に 「引っ越し終わりました~。ウチの旧領はもういつでもどこへでも 引き渡せますよ~」 と使者を通じてご報告したところ、秀吉公は大層驚かれ、 「いや~、旧領のうち三河・遠江・甲斐あたりはまだわかるけどさ、 本城の駿府までも同じようにこんな早くに引き払うなんて、 ちょっと考えられなくね?一体、どんな風に作業をやったんだろう。 いやはや、イエアスちゃんのやることは凡人には理解できないよな」 と浅野長政に申されたそうです。まとめるとこんなカンジ?もうごっそりお国替えだからね。小田原城のように整っている城へ入るのならともかく、 江戸に城はあるにはありましたけど、太田や遠山などいずれも上杉や北条の 小身の侍大将の城だもの。本来であれば、江戸が関八州の太守となられた権現様の 居城になることなど、あり得ないものだったのですよ。という所へまるっと引っ越して2~3ヶ月で完了させるなんて、秀吉でなくても驚いただろう。非番の日も倦まずに城に詰めて骨身を惜しまず働いた家臣たちの努力があってこそですが、そういう侍を下宿させる町家はいくらでもあったと言ってるから、やはり江戸城周辺にはそれなりの商業圏が残っていたものと思われます。にほんブログ村
2016年01月27日

江戸城を落としたことは、武蔵進出への大きな足がかりとなった。北条氏綱は江戸城本丸に富永政直、二の丸に遠山直景を入れ、香月亭には今回の功労者である太田資高を配した。扇谷上杉朝興は結果的に江戸城を取り戻すことはできなかったけど、だからといって敗北してそのまま歴史の闇の中に消えていった訳でもなく、江戸城奪還および後北条氏掃討を目指して長きにわたる精力的な活動を展開する。そのさ中には、反目していた山内上杉家や古河公方とも和睦し、さらに甲斐の武田信虎(信玄の父)とも手を結んで、そのうえ小弓公方勢とも協力して後北条包囲網を築き、しゃかりきになって北条氏綱に対抗しようとする。甲斐武田氏との同盟にあたっては、扇谷朝興は自分の娘を武田信虎の嫡子・晴信に正室として嫁がせたという。武田氏に詳しくないわたくしは、えええええ~、晴信の奥さんて三条殿じゃないのぉぉぉ~!?と仰天しましたが、三条殿は継室だったらしいんだな。朝興の娘は晴信に嫁いだ翌年、難産によって若くして亡くなったらしい。後北条氏と今川家とは、この頃までは父・早雲のラインを引き継いで友好な関係にあり、氏綱は天文4年(1535)には今川氏輝(氏親の子)の要請を受けて甲斐国境に出陣したりもしていたが、今川氏輝が急死するとその跡目をめぐって弟たちが争った(=花倉の乱)。この時、北条氏綱はのちに勝利して当主となった義元を支援するが、義元は当主となった翌年、武田信虎の娘を正室に迎えて甲駿同盟を成立させてしまう。個人的には氏綱にはあまり激しい人という印象は持ってないんだけど、義元の甲駿同盟には氏綱は相当怒ったといわれ、今川氏とも争うようになって後北条氏は今川氏からの完全な独立を果たした。周り中敵だらけ、という中を氏綱はよく辛抱し、敵の内紛にも助けられてすくすく育った子の氏康とともに内陸の河越まで進出した。でもそこまで行くには時間がかかったし、扇谷朝興の頑張りというのもなかなか見上げたもので、江戸城奪還までには至らなかったものの扇谷朝興によって江戸城に火がかけられたこともあったし、一時は相模・玉縄まで攻め込まれてもいる。江戸城を後北条氏に奪われた後には、扇谷朝興は早雲や氏綱とそっくりな花押を使って品川の寺に禁制まで出しているそうでね。氏綱と扇谷朝興との争いは、天文6年(1537)4月に朝興が病死するまで続いた。『快元僧都記』では、扇谷朝興の兵がちょいちょいやって来ては火をかけて村々を荒らし回って困っていたので、相模の人は朝興の死を喜んだとしている。江戸城を奪われてから朝興が死ぬまで13年。その間ずっと相模に扇谷軍が入っていった訳でもないだろうけど、名将の氏綱にこれだけしぶとく対抗したのだから、扇谷朝興も有能な将だったと言っていいだろう。後北条氏はその後も関東に勢力を伸ばし続け、機動的な連携のために支城ネットワークが張り巡らされた。後北条氏の本城は言わずと知れた小田原城だし、後北条時代には沢山の支城の中で江戸城はあまりぱっとしない。でも東京湾の制海権という点では重要な城だったと思うし、後北条2代・氏綱の頃の制海権は東京湾の東半分に留まっていただろうに、扇谷朝興がまだ生きてる間の享禄元年(1528)にはなんと八丈島に後北条の陣屋を置いたというからオドロキ。まあ、相模や伊豆の方から船を出したかもしれないけど、房総には里見氏とかもいるし、この時期に八丈かよ、すげえなと素直に思った。さて、後北条配下となってから、江戸の町は城代・遠山氏などによって治められていた。この記事の冒頭で、江戸城本丸には本丸に富永氏が入って、遠山氏は二の丸に入ったと書きましたが、3人の城代のうち本丸の富永氏が城代トップかと思いきや、【同時代の資料(宗牧の記述)によれば、遠山氏を城代として重きを置いている】とウィキは言う。扇谷家から後北条家に寝返った太田資高は北条氏綱の娘を娶ったようで、その辺の詳しい経緯はわからないけど、たぶん江戸城が後北条方になって以降のことだろうな。それによって太田氏は新参者の他国衆にも関わらず、一門並の処遇を得る。太田資高と北条氏綱の娘との間には、男子が生まれた。母方の伯父であり主君である後北条3代・氏康から偏諱を受けて康資(やすすけ)と名乗ったその子は、氏康の養女を妻に迎えた。氏康の養女は江戸城代・遠山綱景(直景の子)の実の娘といわれるので、旧城主と新城主およびその重臣が婚姻を通して密接な関係を結んだことになる。太田康資は後北条家臣として戦功も挙げるが、のちに上杉方への復帰を目論んだとされる。その理由については、戦功に対する恩賞に不満があったとか、もともと江戸城は太田氏のものだったのに城代止まりで城主になれなかったのを根に持ったとか言われているようだけど、いずれにせよこれは北条氏康にすぐバレたらしい。康資がつなぎを付け、氏康にバレて逃げ込んだのが同族である岩槻の太田資正・・・のちの三楽斎ですが、この頃の関東における上杉氏の勢力はもうほとんど風前の灯といった状態で、ゆえに上杉を継いだ上杉謙信がしつこく関東に出張ってきていた頃で、数少ない上杉方である太田康資・資正の救援のために謙信は安房の里見氏に出陣を要請し、自身の軍とあわせて後北条軍を挟撃しようとした。こうして起こったのが第2次の国府台合戦で、経過の詳細はここでは省きますが、後北条方は本隊のほか、江戸城からも兵を出した。江戸城代の遠山氏と富永氏も出陣したが、太田康資とともに城代であった2人とも・・・特に遠山綱景は自分の娘婿でもある康資の寝返りに気付けなかったことに責任を感じていたともいわれ、遠山・富永の両氏は本隊に先駆けて兵を進め、2人とも討ち死にしてしまう。これで一旦は里見軍が勝利したかに見えたものの、後北条軍が夜襲をかけて結果的に後北条方の勝利に終わった。太田康資は里見氏を頼って安房に落ち延びたとされるが、その後については諸説あり、実のところはわからない。ちなみに、この太田康資の娘がイエアスの寵愛を受けたお梶(英勝院)と言われます。お梶の出自も諸説あるけど、太田康資の娘という説が一番メジャーかな。第2次国府台合戦を経て、築城者一族だった太田氏は江戸城の歴史から姿を消す。以後は遠山氏が江戸の支配に力を持ち、秀吉による小田原攻めまでそれは続く。江戸城の整備も遠山時代に行われている。して、いよいよの小田原攻め。武蔵松山城が攻略された15日後の天正18年(1590)4月27日、江戸城は開城した。もうこれは相手が悪かったからしょうがない、と「(29)」で書きましたが、それにしても駿河の端からスタートして最終的には関東一円を支配するに至ったのに、後北条氏がいつまでも小田原なんかに居座っていたことは関東人としてはどうも理解に苦しむ。塩見鮮一郎は 【平将門のころに成立した坂東圏イデオロギーは長く生きつづけたが、いつのころからか 効力をなくした。たぶん、そのイデオロギーの最後の体現者にして破壊者は、太田道灌 であったろう。】 (『賤民の場所 江戸の城と川』より)とする。「(29)」では天下の険に守られて関東独自の経済圏ができていたらしいとも紹介しましたが、これは小和田哲男先生と下山治久氏の対談にあった話で、お2人はこんな話もしている。 下山 断言めいた言い方をするなら、後北条政権は中央との関係を断つ状態にあった。 そう言っても的はずれではありませんでしょうか。 小和田 むしろ独立していたと言っていい。 下山 それも意識的に。(中略)ところで、この意識的独立への姿勢は、 何から生まれてきたんでしょうね。 小和田 それなんですがね、この関八州東国国家の構想は、うがった見方と言われる だろうことを承知で言えば、平将門にありと実は考えているんですよ。 どうですか、この憶測は・・・。 下山 将門ですか、なるほど。将門こそ中央と抗い、なにするものぞといった気魄で対峙し、 独立を欲しいままにしていたからね。その精神に倣ったというわけですか・・・。 小和田 そうした精神が伝統として関東に根づいていたんじゃないでしょうか。中央とは 一線を画すという風土があって、後北条はその影響を受け、独立意識を強めて いった・・・。 下山 なるほどね、面白い。さもありなんというものですよ。 (『真説【戦国北条五代】』より) え~とこの本は1989年発行なので、その間研究も色々進んでいるし、お2人とも今では違う考えを持っておられるかもしれないけど、ひとまず対談の時点では「将門」をどう捉えるかで塩見氏とは解釈が違っている。共通している部分は、将門が独立国家構想を持っていたという点で、違っている部分は塩見氏は「武」に重点を置いている点。なぜ塩見氏は太田道灌が体現者にして破壊者だというのか。 【丹波からはるばると東国へ流されてきた太田氏も、いつしか相模から武蔵にかけて 根をはった。その足軽を使った戦法といい、江戸城内で毎日行われていた訓練といい、 坂東武者の伝統を受けついでのことである。そして江戸の周辺には、まだ秩父氏の 末裔たちが城をかまえていた。たぶん、このころまで、道灌は自分がよって立つ場が どこかをちゃんとわきまえていただろう。 だが、彼の無双ぶりが評価され、気をよくして、風雅の道にいそしんでいるうちに、 しだいに骨抜きになった。同時に、関東在地の豪族とのあいだに隙間風が吹き始めた。】 (『賤民の場所 江戸の城と川』より)それで秩父流平氏の豊島氏は反乱を起こし、最後は主君に殺されたのだという。かなり辛口の評価で、素直に支持しかねる部分もあるものの、さりとて小和田氏の考えもどこかなじめない。中央なにするものぞ、という気魄は確かに関東にはあった。ただ、ここまでを見てきた中でわたくしが感じたのは、関東は中央に反発する反面、権威が大好きでかなり相当ものすごく保守的なお土地柄でもあるということ。その「伝統」は貴種を鎌倉に戴いたことに始まる。むしろ、「風土病」や「伝統」に後北条氏が染まらずにどこまでも「よそ者」だったからこそ、後北条氏の意識的独立政策が生まれたんじゃないのか、な~んて風にもちょっと思いました。にほんブログ村
2016年01月23日

江戸城※「将軍たちの宝(31)」の続きです。いやいやいや、このところ寺の記事ばっか書いてたもんで、城の記事はカテゴリーを分けるという自分のブログルールをすっかり忘れてましたここから読み始める方は前回の記事もご覧ください。あ~んど、ここまでを読んだ方は歴バナも思い出してください。「将軍たちの宝(25)」で、江戸城の歴史においては後北条氏はロクな記述がなされていないという塩見鮮一郎氏の文章を引用しましたが、前回『落穂集』から紹介したように、徳川家の間では江戸氏もカヤの外になっている。でも、イエアスと同じ場所に秩父から東進してきた江戸氏が館を置いたらしいことは史実で、「(13)」でも少し書いたけど、江戸氏は結構生きながらえていて、庶家は浅草や石浜にも定住していたらしい。秩父トリオの他の2家(畠山・河越)にくらべて歴史の中で江戸氏は少し地味なせいか時代が下るほど正確なところがわからなくなっているようだけど、鎌倉公方・足利基氏によって上杉憲顕が関東管領に復帰したその後に起こった平一揆の乱で憲顕方に敗北してから江戸氏は没落したというのが一般的な見方なのかな。まあ、武蔵平一揆の中心的存在だった河越氏ほどの厳しい処罰はなかったようだけど、鎌倉府ができて少しした頃には、かつて手広く交易をしたほどの江戸氏の勢力はもうなかったのだろう。そういうところへ、太田資清・資長(道灌)という有能な家宰を持った扇谷上杉氏が進出する(「23)」参照)。この時まで江戸氏が千代田の館にいたのかはわからないけど、太田道灌は江戸氏と同じ場所に城を築いた。城が完成したのが長禄元年(1457)。江戸氏の館の構成についてはわかっていない。道灌の江戸城についてもあまり詳しいことはわかっていないけど、江戸城を訪れた道灌さんの文人トモダチが多少書き遺してくれている。それによると、道灌当時の江戸城には子城(ねじろ)・中城(なかじろ)・外城(とじろ)の3つの郭があったらしい。各郭が江戸期の江戸城のどこに対応するのかまではわかっていないようだけど、中城が城域でもっとも小高い、江戸期の江戸城の本丸の場所にあったという点ではほぼ一致していると塩見氏は言う。当時は今とは地形が違っており、周囲を海と川、それと堀に囲まれていてそれぞれの郭を橋で結ぶ構造だったらしい。中城には道灌の屋敷が置かれ、これは「静勝軒」と呼ばれた。居館のほかに2つの客用の施設もあり、塩見氏は静勝軒と渡り廊下で結ばれていただろうと推測しておられるが、それぞれ「含雪斎(がんせつさい)」「泊船亭(はくせんてい)」という。塩見氏は含雪斎は西に伸びた建物で富士の雪が見えたことに由来し、泊船亭は東に伸びた建物で江戸港の船がよく見えたことに由来するとしておられるが、このネーミングからしてたぶんその通りなのだろう。道灌が江戸城を築いた頃は古河公方とのドンパチ真っ盛りの頃で、もちろん城内には戦に備えた施設などもあっただろうけど、数々の戦に出陣しながらも文武両道に秀でた道灌さんらしく城内はアカデミックな雰囲気も多分に持っていた。そもそも江戸城を築いたのが道灌24歳の時だから、あんまり長生きはできなかった彼だけど、江戸城にはちょうど30年住んでいた。その間には文明10年(1478)に日吉神社・荒神社・天神社などを城内に勧請し、文人墨客を招いて連歌の会を催したり、文明18年(1486)には鎌倉の建長寺・円覚寺の学僧を招いて大川に船を浮かべて詩歌の会を催したりしている。その一方で、ウィキによると【城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取りそれを兵たちへの茶代にあてたという】から、マルチな人というのはどんだけマルチなんだと呆れるほどで、道灌さんが殺されなかったら一連のドンパチは一体どんな展開をしたんだろうと思わずにはいられません。道灌さんが殺された2年後には江戸で強風が吹き、品川に係留されていた商船のうち数隻が難破している。江戸城を考える時に厄介なのが水の流れで、北から江戸城の東側へかけて流れる「平川」という川が存在していた。なんで厄介かって、平川は今はもう存在しない上に、段階的に流路の付け替えがあったらしいのだ。道灌当時の平川の流れは、江戸城すれすれに日比谷に流れ込んでいたという説と、もう少し東の江戸港に流れ込んでいた説とにおおむね分かれているらしい。徳川が江戸に本拠を置いて以降、城の周辺ではかなり大規模な土木工事が行われたことは有名な話ですが、河川の付け替えもそのひとつ。前の記事に出てきた日本橋川は、地下鉄銀座線を作った時の地質図などによって完全なる人工の川であることが判明したそうで、一般的にはイエアスが平川を道三堀や外堀に付け替えて、その後の埋立てによって残った水路が日本橋川となった(前々回の図も参照)という見方がされているようだけど、日本橋川を開削したのは道灌さんだという説もある。当時、大量の物資の輸送に活躍したのはやはり水路で、大川沿いにある浅草は時代によって多少の変遷はあるかもしれないけどそれなりの経済圏は長きにわたって存続していただろうと思う。海から来た場合、その浅草の手前にあるのが江戸港や品川港であり、塩見氏は武蔵に来た船は江戸港や品川港で帆を休めただろうとしておられる。で、品川で商船が難破したという話に戻りますが、道灌さんの文人トモダチは『城の東に川があってさ、その流れは曲がって南の方で海に入ってさ、商用や旅用の大小の船がいっぱいいて、「高橋」の下で停泊しててさ、人々がウロコやアリのように沢山集まってきては日々市が立ってるんだ』と言っていて、塩見氏は城の東の川を平川、川が曲がって南で海に入るあたりをすでに日本橋川ができていることだと解釈した上で、 【この「高橋」を現在の常磐橋のあたりとするのが大方の意見である。そこの岸(河岸)が 陸揚げ場になっていて、同時に市がひらかれる場でもあった。各国から、米や茶や 銅や竹矢、漆や染料、塩魚や薬までが運ばれてきて売られた。もちろん、近くの漁師は 魚や貝を売りにきただろう。最大の買い手は江戸城であるが、近在の商人、職人、農民も 集まってきた。万里集九は、「みないう一都会なりと」と記している。】 (『賤民の場所 江戸の城と川』より)とする。塩見氏の豊かな想像力のたまものと思われる部分を差し引いても、江戸城を訪れた人たちがすぐ近くの海を行き来する船を眺め、予想以上に賑わっている市の様子を見て少なからず驚いたであろうことは道灌さんのおともだちが書き遺した通りで、商船は道灌さんの死後も品川のあたりをウロウロしている。こうしたことから、道灌さんは江戸城をただの軍事拠点にしただけでなく、経済にも目を付けてそれを取り込もうと周辺の工事なども行い、地域の発展に貢献したのだろうと思われる。さて、道灌さんが殺されたあと、江戸城は子の資康(すけやす)が継いだ。が、ほどなくして扇谷家当主の上杉定正によって資康は江戸城を追われ、扇谷家の城代として曾我氏が江戸城に入ったとされる。その定正が長享の乱の最中に死ぬと、扇谷家は定正の甥で養子の朝良(ともよし)が継いだ。ちょうどこの頃が、扇谷家が今川家に加勢を依頼したあたりで、すぐ上のリンク先では定正が死んで北条早雲が兵を戻した事しか書きませんでしたが、扇谷朝良も今川家に援軍を要請し、今川氏親・北条早雲がともに武蔵に出陣している。その甲斐あって、扇谷・今川連合軍は山内・古河公方連合軍に勝利した。ところが、今川軍が引き揚げたあとに越後上杉家から山内家への援軍が到着し、扇谷朝良は今川軍との連携を遮断されて逆転サヨナラ負けしてしまう。扇谷朝良の敗北によって長享の乱は終結、朝良は甥を養子に迎えて家督を譲り江戸城で隠居生活に入る。まあ、先代の定正が道灌さんを殺してから扇谷家の求心力は落ちていたとはいえ、まだプライドはあったのか扇谷家内では山内家による処断に不満があったようで、引き続き朝良が当主としての職務を続けたようなんだけど。朝良さんという人は武より文を好んだようで、そういう朝良の隠居によって江戸城には再びアカデミ~な雰囲気が訪れた。有名な連歌師の宗祇・宗長なども永正6年(1509)に江戸城を訪れて、朝良とともに連歌の会を催している。一方、江戸城を追われた道灌の子・太田資康は長享の乱では山内方に付いて戦ったという。父を殺され、城を奪われ、だもんな。乱が終結すると扇谷家への復帰が許され、朝良の下で江戸城へ戻ったというが、舅にあたる三浦氏が後北条氏に攻められると援軍に駆け付け、討ち死にしたとされる。太田資康の跡は子の資高が継いだ。資康の死の5年後には扇谷当主・朝良が死去し、甥の朝興が跡を継ぐ。太田資高は弟の資貞とともに家老として江戸城で扇谷朝興を補佐していたが、主家との過去の因縁からか、東へ東へと勢力を伸ばしていた北条氏綱に内応。後北条軍と扇谷軍は品川で激突するが、扇谷朝興の軍は総崩れとなり江戸城に立てこもった。江戸城へ追撃してきた後北条軍を城内へ誘導したとされるのが、秘密裏に内応していた太田資高・資貞の兄弟。朝興軍は板橋に敗走し、そこも攻められると河越まで引いた。その後も扇谷朝興は江戸城奪還に努力するが、ついに江戸城を取り戻すことはできなかった。にほんブログ村
2016年01月21日

一石橋の歴史は意外に古く、江戸初期にはすでに木造の橋が架けられていたという。前回の図で外堀の東側の町人地は、日本橋川の北に金座があり、金座の南には「本両替町」、日本橋川の南に「呉服町」があった。一石橋の名の由来は、元の橋が破損した際、本両替町住人の金座支配・後藤庄三郎さんと呉服町住人の呉服町頭取・後藤縫殿助さんのダブル後藤が援助して橋を再建したため、後藤を「五斗」として五斗×2=一石と洒落たものだそうな。また、後藤さんの再建につきまんま「後藤橋」と呼ばれていたともいう。そのほか、「八つ見橋」という名も持つ。これは一石橋の上から一石橋も含めて8つの橋を一度に見渡せたことに由来するそうで、 まず一石橋で1つ。外堀に架かる常磐橋・呉服橋・鍛冶橋で3つ。道三堀の道三橋と銭瓶(ぜにかめ)橋で2つ。日本橋川の日本橋と江戸橋で2つの計8つ。条件的には銭瓶橋なんかも8つ見通せそうだけど、ちょっと外堀より内側に入ってるからな・・・角度と位置のわずかな差で、一石橋の方が橋見には有利だったのかもしれない。それに、コの字になってるところは言わずと知れた桝形門で、外堀より西は町人が気軽に立ち入れないエリアでもある。現在では一石橋は呉服橋に名称を乗っ取られたような形であまり世間に知られてはいないけど、かつての一石橋は八つ見の橋ということで江戸の名所のひとつだったそうな。現在?・・・は、常磐橋方面は手前の道路に遮られてるし、日本橋方面は前回ラストの写真のように首都高に遮られてこれまた見通せない。道三堀や一石橋から南の外堀は埋立てられてもう橋はないし。さて、一石橋に背を向けて外堀通りを南下するとすぐ呉服橋交差点がある↓。 写真に写ってる車道の半分から向こう側はかつての外堀。外堀通りとクロスするのが永代通り↓。 これが道三堀だったら楽しいのだけど、あいにく道三堀はちょっとうねった形になっていて現在の永代通りとは重ならない。が、上の写真でビルに挟まれている車道の向かって右半分くらいの位置に呉服橋があり、橋の向こうには桝形を具えた御門があった。呉服橋の交差点を渡って信号待ちをしていたら、福山通運のトラックが停まってた。も~う、「福山編」以降福山通運のトラックを見かけるとバックを確認するクセがついちゃって、この時もさりげなくチェックすると あったあ~!ばらのまちステッカー!!時々、ステッカーを貼ってないトラックも見かけるけどね。これを見るとちょっと嬉しくなる。ここから永代通りを西に向かいます。外堀通りを渡る時に南側を撮った写真↓。 場所によっても多少の違いがあるけど、この場所は車道がまるごと外堀という訳ではなく、車道部分は往時も通りになっていて、右に写ってる建物あたりが堀。なので、呉服橋交差点で外堀通りを西に向かって渡る時にはちょうどこれから呉服橋を渡ろうかという格好になる。それで、右に写ってる新鉄鋼ビルはこの時工事中だったんだけど、工事用外壁にはかつての呉服橋の写真のパネルが展示されていた↓。 たった150年ほどで街並みがこれだけ変わるなんて、当時は誰も思わなかったに違いない。それにしても、かつての外堀は石垣で覆われていたのに、江戸城を守った大量の石たちはどこへ行ってしまったんだろう。今もビルの下に埋もれてるのかな?いやでも、近代の大規模ビルなんて基礎工事でかなりの深さまで手が入るみたいだから、石垣の石がゴロゴロ埋もれてたら邪魔か。永代通りを西に進んでいくと、通りの反対側に誰かいた↓。 ナニアレ・・・金色のメロスが走ってるのかと思った 永代通りを西に歩いていくと、JRの高架が現れる。すぐ南には東京駅。永代通りの北側は大手町、南側は丸の内。歩くわたくしの眼にはオフィス街らしい光景が映る↓。 これが大手町ファーストスクエアで複合ビルなのかな。大体この辺りが道三堀を渡るような格好になる場所で、大手町ファーストスクエアのあるあたりにはかつて「御作事方」があり、道三堀を挟んだ向かい側には「御評定所」や「伝奏屋敷」があって、永代通りはこの先で「歩兵屯所」を突っ切る形になる。それを突っ切ると出るのが 江戸城。日本一の巨城がもうひとつの「将軍たちの宝」でございます。実はわたくし、江戸城をまともに見たことがございません。もちろん、堀越しに見たり新年の一般参賀で皇居に行ったことなどは何度もあるけど、城に興味を持ってから中に入ったことがなかったんです。ので、せっかく日本橋まで来たんだし、ここはやはり登城しておくべきだろうと思って。しかし、この時点からすでに多くの観光客の姿が遠くに見えている。ここはガイジンも多く来るだろうし、人が多そうだけど仕方ない。写真奥の真ん中あたりに見えてるのが現在の大手門。かつては写真を撮った場所あたりに「腰掛」が設置されていた。定例や行事の際の大名の登城日にはこの付近もかなりのラッシュだったことだろう。え~、やっと江戸城までたどり着きましたが、ここで少し江戸城の始まり頃までの歴史の話に移ります。まずは『落穂集』が語る江戸城の創始から。 Q:ご当地のお城はいつ頃、誰が縄張りを行い、築いたのですか? A:私が若い頃に聞いた老人の話によりますと、以前相模の国に「両管領」といわれる 上杉氏がおりましてな。一方は山内殿、もう一方は扇谷殿といいまして、扇谷殿の家老に 太田備中守資清という人がおりました。資清の子息には左衛門大夫資長がいて、出家して 道灌斎と名を改めました。道灌斎は文武両道に秀で、とりわけ築城術にたけた人でも ありました。 道灌斎は当時、武州川越の城主だったんですが、鎌倉との連絡のために江戸付近に ひとつ城を設けようということになり、あちこち場所を物色して最初は元吉祥寺 (現・水道橋付近)の高台に地面取りを始めたそうです。そんなある日の夜、 夢でお告げを受けたそうで、道灌斎がこれから築城しようとしている場所に行って 葉のついた竹を城の縄張の境界へ刺し、土地の百姓を呼んで聞きました。 「この竹より内側の村の名はなんという?」 「へえ、千代田、宝田、祝言村という三ヶ村です」 「国の名は武蔵、郡の名は豊島、村の名は三ヶ村とは実にめでたい名ではないか。 ここに城を築けば末々までの当家の繁栄は間違いないな。 よっしゃ、ここにけって~!!」 としてこの場所に決めたそうで、したがって権現様の御入国以前はこのお城は 「千代田が城」といったそうですよ。 (巻1)というちとウソくさい話になってますが(笑)、江戸付近は河口なので高台を選ぶのは当然のことでもあり、ゆえに秩父から進出してきた秩父流平氏の江戸氏も同じ場所に館を構えたのだろう。ただ、大川(隅田川)の東側と違って東京湾奥の西側エリアは起伏に富んだ地形でもあり、選択肢はいくつかあったものと思われる。塩見鮮一郎氏は上野のお山も好条件を備えた場所だろうに、なぜか上野は一度も城が建てられなかったのが不思議だとしておられる。 【当時の城地にしては、少々、広すぎたのかもしれないし、木々がうっそうと茂り、 手を加えるのが大変だったのかもしれない。その山中には、細い道が一本通じ、 五条天神(上野公園内にある)とか小野照崎神社(小野篁をまつり、今は台東区下谷) などがあるだけだった。】 (『賤民の場所 江戸の城と川』河出文庫より)う~ん、江戸氏の館、太田道灌の江戸城ともに徳川の江戸城と同じ場所にある。けど、同じといっても規模はケタ違いで、江戸氏・太田氏はのちの江戸城本丸の場所に城を構えた。本丸はのちほど紹介しますが、ひとつの郭としてはかなり広い。が、同じ広さでもそれが城の一部なのか城全体なのかではずいぶんと違ってくる。城全体として考えれば、本丸エリアは道灌当時としては確かに手頃な広さともいえるし、それに比べれば上野のお山はちと広すぎるような気もする。でも場合によっては上野のお山が日本の中心地になってた可能性もあった訳だよな。上野に城ができてたら、あるいは今頃パンダさんがいたのは千代田だったのかもしれない。にほんブログ村
2016年01月19日

日本橋の南詰側にはひらがな書きの「にほんばし」の文字が。これもケイキさんのお手になるものなのかな?↓ 都内でおのぼりさんよろしくカメラをぶら下げて歩くのにもだいぶ慣れてきたけど、まだ一抹の恥ずかしさは残る・・・でもここでは平気。時代劇などでも有名な日本一の名橋なだけあって みんなバシバシ写真を撮ってるから。さて、南詰もいくつかのオブジェなどがあり、綺麗に景観が整えられている。 2枚目の写真は橋についてのものではなく、中央通りが「日本の道100選」に選ばれていることを示すもので、 【道の起点としての日本橋 日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。 慶長8年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、 明治44年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変った。また日本橋から銀座に かけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を 呈している。】 (現地解説板より)日本橋より50年ほど後に架けられた両国橋でも、火災や水害などによって少なくとも10回以上の架け替えがあったからな・・・江戸期にはもちろん木造の橋だし、橋の維持管理とひとくちに言っても大変だったろうな。日本橋の架かる日本橋川の南側は、建物が建ち並んでいて川沿いを歩くことはできないので、建物を挟んで川沿いを通る道を西に向かって歩く。歩いてすぐのところにローソンがあったので、ここで昼メシを調達。が、時節柄(←10月) なんてものがあった。フルーツサンドもマスカットも好きなわたくしは、すぐ手に取った。しかし、ランチをしようと思っている場所まではもう少し歩く。天気のいい中でこんなもの持ち歩いていて腹でも壊したらどおしよう・・・もうすぐ13時でお腹もすいてたし、食べたいのはヤマヤマだったけどしばらく悩んだ末今回は諦めた。上の写真は、これを食べたくて寄ったローソンで後日買ったものです。食べた感想は・・・う~ん、シャインマスカットじゃなくて皮をむいたマスカットにした方が美味しいんじゃないかとシャインマスカットはご存じの通り皮ごと食べられるものですが、それだけを食べてる時は皮は別に気にならない。が、パンという柔らかいシロモノと一緒に食べるとどうも皮に異和感を感じてしまってね。で、おにぎりなどの無難なものを買ってさらに西へ。 現在ではなんてことない都内のオフィス街ですが、江戸期このあたりは町人地で「西河岸町」といういかにもな名称の場所だった。その西河岸町をずんずん歩いていたら、通り沿いにこんなのがあった↓(場所はこちら)。 延命地蔵?なんか解説板があるなと思って近寄ってみると、 【板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時21歳の 無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千世の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂 (昭和24年、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願をしました。「日本橋」は檜物町 (現、日本橋3丁目、八重洲1丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、 お千世は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千世に起用されて好演し、 これが出世役となりました。 ここに所蔵される「お千世の図額」は、二度目のお千世役である昭和13年の明治座上演の 際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小林雪岱は、「日本橋」の本の装丁や 挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この 「お千世の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されて います。(見学ご希望の方は、本堂まで申し出てください)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)なんだ、地蔵堂そのものに関する案内板じゃなかったのか。寺の歴史については別にあった。 【当寺に安置してある地蔵菩薩は、人皇44代元正天皇(715-724)の御宇、諸国 巡歴中の名僧行基菩薩が、衆生結縁のために暫く遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を 構えた折に、地蔵菩薩の霊告を受け、自ら御丈2尺8寸の御尊像を彫刻したものと 伝えられています。この地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして 御利益を授かるところから、「日限地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかな 事は古来より広く世に知られています。 享保3年(1718)9月、勝縁の地としてここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を 数えます。建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺で ありました。その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年9月の関東大震災や戦災などによる 多くの変遷を経て、今日に至っています。なお、現在の堂宇は昭和52年4月新たに建て替え られたものです。】て?・・・んかい?行基様自刻の伝承を持つ仏像なんかは全国に腐るほどあるから、そこにいちいちツッコミを入れるのは不毛な作業だと思いますが、天海の持仏ってのはちと無理がないかい?ただ、現在ここは曹洞宗系の寺らしいけど、かつては天台宗だったようだからあながちウソっぱちとも言えないかもしれんな。解説の「天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺」って意味がよくわからんのだけど、まあ格式の高い寺だったってことだろう(←大ざっぱ)。縁日の四の日にはかつては多くの参詣者で賑わった寺らしい。ただちょっと、名前が引っかかるんだよなあ。わたくしのこれまでの経験だと、延命地蔵ってのは処刑場だとか旅の途中であえなく倒れた人馬を埋葬した場所だとか、「延命」というコトアゲをする必要がある場所に多かったからな。んで、お堂。 見ての通り小さなお堂で、しかも周囲は と、林立するビルのはざまにぽつんと建っている。お千世の図額見学希望者は本堂までお申し出くださいとあったけど、どこが本堂じゃ?ここから離れた場所にある本堂に事前に予約しておかなきゃならないってことだろうな。ともあれ、よくこんな場所にお堂を残したな~なんて思いながら参拝。「お地蔵様、こんにちは~」とわたくしがガランガランと鳴らした鈴が土曜の静かなオフィス街に鳴り響く。さて、日限延命地蔵堂を出てさらに西へ。少し歩くとすぐこういう広い場所に出る↓。 目の前に横たわるのが外堀通りで、写真右手にある高架が日本橋川の上を走る首都高。ここから外堀通りを南下する予定だけど、まずは写真に写ってる横断歩道を渡って一旦日本橋川の方へ向かう。すぐ先には、川にかかる橋がある。現在では一般的にここを「呉服橋」と呼ぶんだけど、現地で橋に付けられているプレートには 呉服橋じゃなく、「一石橋」(いっこくばし)とある。一石橋から顔を左に向けて車道を見ると車がびゅんびゅん走ってますが、 江戸期この外堀通りはまんま江戸城を守る外堀だった。ちょうど上の写真のあたりが外堀が北西へと角度を変える場所で、外堀と日本橋川が交差する堀の十字路でもあり、付近には4つの橋が架かっていた。 これが周辺の大ざっぱな図で、水色がかつての水路。水路に斜線が入ってる部分が現在は埋立てられたところ。外堀を境に黄色と薄紫に色を変えてますが、黄色が町人地で薄紫が武家地。南北に橋が架かる一石橋と銭瓶橋はそれぞれ同じエリアをつないでるのでフツーの橋ですが、外堀に架かる常磐橋と呉服橋の西詰には御門が設けられていた。そういうある種の緊張感がある場所だったここには現在では首都高環状線の呉服橋入口があるため、チョ~現代的な景観となっている↓。 にほんブログ村
2016年01月16日

戦国の三大奇襲のひとつと呼ばれる河越の合戦は、関東全体での大きなターニングポイントとなった。戦いの経過については別の機会に譲りますが、河越合戦を経て扇谷上杉家は大打撃を受け、山内上杉家は本拠が直接後北条氏の脅威にさらされることになり、古河公方家では家督の介入を許すことになり、さらには後北条氏へ抵抗を試みた古河公方第4代・晴氏が後北条氏によって幽閉され、後北条氏の血を引く第5代の古河公方・義氏が古河から関宿城へ移ることになる。後北条氏が勢力をどんどん広げる一方で、かつての支配者たちは衰退したり辺境へ移らざるを得なくなり、関東の勢力図が塗りかえられていった。そういう中、上杉一族の盟主ともいえる山内家の憲政はどうにも持ちこたえられなくなり、山内家の家督と関東管領職を手放す決意をする。わたくしが単に「戦国ファン」と表現する場合、長い戦国時代のホントのラストの一般的に有名で人気のある時代が守備範囲、とする人々を指しますが、その戦国ファンにもよく知られているのがここからの流れです。戦国ジジイからスタートしたわたくしも興味のおもむくままに色々と勉強してきて、ぶっちゃけ今では「人気のある戦国時代」にはほとんど関心を持たなくなってまして、NHKの大河で1~2年おきに「人気のある戦国時代」をやると聞くと「またかよ!?」とウンザリ状態です。日本史なんて面白いテーマがそこら中に転がってるのに、ちょっと立ち位置を変えただけの同じ時代をこれでもかって繰り返しやるのを見ると、NHKは「戦国やってれば視聴率取れるだろう」という安直な発想しか持ってないだろうと思っちゃうんだけどね。じゃなくて、上杉氏には多くの氏族がいることを「(19)」で一瞬書きましたが、越後にも越後上杉氏がいた。山内上杉憲政が頼ったのがこの越後上杉氏。といっても、越後上杉家では当主が守護代の長尾為景に下剋上されており、その後ももろもろの内紛が絶えなかったのを平定していったのが長尾為景の子。もと僧侶だった為景の子はのち「軍神」と呼ばれ、圧倒的な武力とカリスマ性を発揮する。はい、もうおわかりですね。山内憲政から山内の家督と関東管領を譲られたのは、「越後の龍」長尾景虎・・・山内上杉氏から名跡を譲られて「上杉景虎」と改名し、のち出家して「上杉謙信」となる訳です。ただの「戦国ファン」だった当初のわたくしは、景虎が上杉憲政から名跡と関東管領を譲られたと聞いても「ふ~ん」としか思いませんでした。しかし、そこに至るまでの数々の背景を知ると、幕府と強いパイプを持っていた上杉氏の嫡流である山内憲政が、上杉氏の傍流に過ぎない越後上杉氏のそのまた家臣である長尾氏の小せがれに上杉の名と関東管領を譲らなければならなくなったというのがいかに苦渋に満ちた決断であったのか、そして景虎が関東管領の就任式を鎌倉の鶴岡八幡宮で行ったことや、景虎が関東にあれほどまでの執拗な出兵を繰り返した理由などがよく理解できるようになりました。ま、景虎の行動は上杉氏の歴史を背負ったもので、景虎の実家の長尾氏も上杉氏と姻戚関係にあったので引き続き従来の支配層である上杉氏の活動と取れなくもないけど、実際血統が変わっちゃってるし、従来の上杉氏とはほとんど別モノと言ってもいいでしょう。毛利に乗っ取られた小早川みたいなもんだそして、景虎といえば武田晴信(信玄)がもれなく付いてくる。長尾上杉・武田・後北条といったメジャーな面々が出揃って、関東の「伝統」はようやく終わりを告げる。さて、第1段の歴バナもようやくラストまで来ましたが、最後はおなじみイエアスさんの登場です。歴史の結末を知っている後世の人間からすると、小田原攻めでの後北条氏の対応はいかにもマズかった、秀吉を甘く見すぎていた、などとロクな評価がされませんが、まああれは相手がマズすぎた。誰だって、短期間のうちに秀吉があれだけ急成長するなんて思わなかったに違いない。それに、天下の険に守られた関東では自立した独自の経済圏が出来上がっていたそうで、そういう背景などもあり後北条氏は意識的に西との交流を断っていたフシがあるんだそうな。ま、情報収集をせずに自領の経営だけに集中していたのは甘いといえば確かに甘いけど、西の展開があまりに急激だったのでもうこれはしょうがないとしか言いようがないだろう。では、『徳川実紀』が語るイエアス入府の経緯を紹介しましょう。 小田原城がまだ落城する前のこと。 秀吉が笠掛山の新営にいる時、山の端に小田原城がよく見通せる場所があり、 秀吉とイエアスは連れだってそこへ行き、軍議などをしていたところ秀吉が 「小田原城が堕ちたら、そっくりそのままイエアスちゃんにあげちゃうから 楽しみにしててね~。 ・・・ところで、イエアスちゃんはどこへ住むつもり?」 「ええ~、当面は小田原城に住むしかないでしょ~」 「いや、それはどーよ? だってここは、東国ののど元にあたる要害の地だよ。ここは軍略に優れた家臣に 任せてさ、もっと東の江戸って場所が形勝の地みたいだから、そこに住んだら? ここだけの話、これが終わればボク奥州を攻めるつもりなんだよね。 だから、イエアスちゃんが江戸に住めばそこを拠点にできるじゃん?」 と内々の話があった。 そして落城後にあらためて正式な転封の話が出たが、後北条のように小田原に住むのか、 あるいは武家の先蹤にならって鎌倉に住むのかなどと議論になったが、最終的に 江戸に決まり、周囲はみな驚いた。 秀吉はといえば、大久保忠世を召して 「アンタはイエアスちゃんの股肱の臣だからさ、箱根の山とこの城を イエアスちゃんからもらったらいいよ」 と申しつけ、これが大久保家が代々小田原城を守る始まりとなった。 表向き、秀吉は徳川家のために重臣を選んだようにも見えるけれども、その実、 東西に変があった時のことを考えて大久保忠世に私恩を売ったものだった。 本多忠勝には佐藤忠信(義経の臣)の胄が下賜された。ま、ホントかどうかはわかりませぬが、江戸を本拠とすることには確かに周囲は驚いただろう。一般的に、イエアスが入府するまでの江戸はうらぶれたド田舎だと言われるけど、平安期の江戸氏以降、扇谷上杉氏の太田道灌も江戸に城を築き、その後は後北条氏が入った。うち続く戦乱で荒れたりはしたかもしれないけど、それなりの商業圏は存続していたんじゃないかという気もする。とはいってもそれはあくまで一般的に言われるほどの未開の土地じゃなかっただろうというだけの話で、畿内のきらびやかな世界から較べればド田舎であることに違いはなかっただろうとは思うけど。なんであれ、徳川は江戸を本拠と定めた。後北条氏のようにイエアス本人が直接武力で切り込んでいったんでないにせよ、秀吉の大軍勢によって武力でもぎ取られた土地にあらたな支配者として割り込んできた「よそ者」という点では徳川も後北条も違いはない。だけど、徳川氏は後北条氏のように関東人から目をそむけられることはなかった。そりゃそうでしょう。だって徳川氏は関東に初めて本物の「都」を作り上げたのだから。各時代における「都」がどこなのかは、なかなか難しい。鎌倉幕府は鎌倉に「武士の都」を作った。初期はまだ朝廷に従属するような立場で、承久の乱で力関係が逆転したようにも見えるけど、まだ「時に朝廷と肩を並べることができた」ぐらいのレベルで、鎌倉を日本の首都と呼ぶにはちと無理があるような気がする。室町期には鎌倉に鎌倉府ができた。でもそれはあくまで幕府の出先機関で、本家の将軍家は京に本拠を置いた。だから、特別な存在ではあっても鎌倉はここまでナンバー2止まりだった。それが、関ヶ原を経て江戸は名実ともに日本の首都となった。それまでの将軍家も朝廷にあれこれ介入はしていたものの、徳川家は表向き朝廷を重んじつつも、完全に朝廷の上に立った。東国は坂東武者に代表されるような荒々しい気質を持ってるとよく表現されるものの、その実、長らく上部権力にしがみついてきて伝統大好きなお土地柄でもある。後北条氏の進出によって一旦途絶えた伝統が、江戸の開府によってグレードアップして再び始まったことを関東人は喜んだんじゃないのかと一連の流れを見て思った。さ~てと、歴史の話は一旦ここまでとして、久々に現地に戻ります。どこまで書いたんだっけ・・・と思って「(4)」を見てみたら、ハッピー・ハロウィンとか言ってる(実際は言ってないけど)やべえ、このシリーズ、去年の10月から始めてたんだ・・・忙しくて更新頻度が落ちてたからな。がんばらんとな~。そういえば、こないだ観た箱根駅伝では日本橋を渡ってすぐ三越のところを曲がっていってたな。最終走者はもっと堀伝いを長く走ってたような記憶があるんだけど、前からこんなルートだったのかな?じゃなくて、日本橋。歴史あるこの橋は、現代ではかなり洋風な雰囲気となっている。 ↑これが「(3)」の現地解説板にあった橋の真ん中に建つ照明灯で、 国の重文。「お江戸」の象徴ともいえるかつての日本橋とはだいぶ趣きが異なるけど、派手こい装飾品は圧倒的なほどの存在感で、見る者を飽きさせない。にほんブログ村
2016年01月14日

北条氏綱が江戸城を攻めた大永4年(1524)、氏綱はもうひとつの対抗策を実行する。すなわち、累代の姓「伊勢」から「北条」へと改めた。これについて下山氏は『真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡』で 【まず、この上杉氏を関東から追い出すには、政治的なイデオロギーが是非とも必要である。 関東の伝統的政治世界に、他国者の伊勢氏が乗り込んでいくためには、それなりの 国人、土豪層が納得する政治方針がなければならなかったのである。関東には伝統的に、 源頼朝が鎌倉幕府を開き、源家三代の統治のあと、藤原氏が将軍職、執権職=副将軍職に 北条氏が就任していた歴史があった。室町幕府も鎌倉に幕府の出先機関である鎌倉府を 開いて足利一門が統治していた。それを具現化していたのが、管領職の両上杉氏だったので ある。】とする。ふむ、後北条氏は実力でもってあらたな関東管領的立場に立とうとしたということか。しかし、関東管領はあくまでナンバー2だからな・・・「上司」がいないじゃん、上司が・・・と思ったら、いた。氏綱は娘を第4代古河公方・晴氏の継室として嫁がせ、その姫は晴氏の次男・義氏を産んだ。長男はちゃんといたが、北条腹の男子ではなかった。氏綱の跡を継いだ後北条第3代・氏康の代になると古河公方と後北条氏の関係は悪化し、古河公方は上杉氏と組んで河越で対決するも、後北条方に大敗を喫する。そういうこともあって、氏康は自分の甥にあたる義氏を古河公方に立てる。さらに氏康は自分の娘を義氏に嫁がせる。後北条氏といえば武力でブイブイ関東に勢力範囲を広げた一族というイメージがあるものの、「貴種」への外戚作戦も同時に行っていたのだ。過去の記事での大永年間といえば、安芸では大内氏が鏡山城を尼子経久に奪われて翌年に大内義興さんが奪還に本腰を入れ、備後では国人衆があらたなボスを迎え入れようとした「神辺和談」が行われていた頃。つまりその頃の西国では思いっきしドンパチな戦国ムードだった訳で、武力行動以外の後北条氏の戦略を見ることで関東と他のエリアとの違いがより鮮明になってくる。北条氏綱は相模の寺社の再建なども積極的に行っているが、無残にも戦火の犠牲となった鎌倉の鶴岡八幡宮の再建も行っている。これは10年以上をかけた力の入れようで、「鎌倉」が特別な存在だったことはこれまでの記事でおわかりでしょうが、その鎌倉のシンボルともいえる八幡宮の造営を行ったことも「自称・関東管領」たる後北条氏の正当性のアピールにつながるものといえる。ちなみに、ウィキペディアには八幡宮の再建にあたって 【氏綱は関東の諸領主に奉加を求めたが、両上杉氏はこれを拒否している。】とあるけど、ここまでの流れを理解すれば上杉氏のこの行動が当然のものだということがよくわかる。そうね、こんな大事業は本来の関東管領であるアンタ達がやるべきもんだったのよ。この時期、関東の独自性を象徴するものがもうひとつある。 だいぶ以前に作った系図なので、古河公方は全員を載せてませんが、第4代古河公方・晴氏の父が第3代の高基。高基の兄弟の義明が「小弓(おゆみ)公方」となってますが、義明はもともと出家して僧侶となっていた人だった。古河公方第2代の政氏とその子・高基は親子で争っていたが、東関東に勢力を持つ古河公方の配下の一家に上総の真理谷(まりがやつ)武田氏がいた。真理谷武田氏はその名の通り、あの甲斐の武田氏の分家ですが、この頃の真理谷当主は勢力を伸ばしたいという野望を持った人だった。が、古河公方には鎌倉府時代からの親密な国人衆が複数いたので、真理谷氏が彼らを飛び越えて勢力を広げるにはちと無理があった。そこで真理谷氏が目をつけたのが、当時まだ僧侶だった義明。真理谷氏は義明を還俗させて下総の小弓城に迎え、「小弓公方」として擁立した。小弓公方にからむ数々の出来事もいかにも関東らしくチョ~複雑なのでここではごく簡単な紹介にとどめますが、小弓公方・義明を使って真理谷氏は勢力を伸ばし始める。ところが、真理谷氏が自分のよこしまな思惑で勝手に義明を「公方」に仕立てあげたにも関わらず、周辺の国人衆も義明への接近を図る。ウィキペディアではここを 【義明が持つ「貴種性」が真里谷氏の思惑を越えて広がり、義明自身も里見義通に対する 書状で、本佐倉城(千葉氏の本拠)・関宿城(古河公方最大の支城)への野心を示すに 至った。】と解説する。いやあ~、いくら義明が古河公方の血を引くとはいっても、小弓公方なんて単なる「自称」だよ?ま、当初は真理谷氏の傀儡として立てられたはずの義明も、ウィキの解説にあるように次第に自身の野望を持ち始め、しかも武将としてはなかなかの人だったようだから、そういう義明自身の資質に惹かれて周辺の国人が集まってきたって可能性もあるけど、やはりカギはウィキの言う通り義明の「貴種性」にあるんだろうと思う。関東における正当性はすなわち伝統的支配層にあり、「貴種性」にある。世間では実力本位の世の中に移行しているのに、関東ではいつまでも古い伝統にしがみついて泥沼の戦いを繰り広げている。こういうところに切り込んでいく後北条氏も土地の伝統をハナから蹴散らす訳にもいかず、上に書いたように古河公方家と姻戚関係を結んで家督に介入したり、小弓公方とも当初は敵対する立場を取らなかった。しかし、各公方家と関係は結びつつも、後北条氏にとってそれはあくまで政治的な戦略のひとつの手段でしかない。事実、別の手段の「武力」で相模から武蔵に進出して東京湾の西側を手中に収めると、東京湾東沿岸を支配する小弓公方方としては静観していられなくなる。かつ、小弓公方・義明もただの傀儡として終わらず勢力を伸ばしていたので、公方家の本家である古河公方としても小弓公方のこれ以上の進展を食い止めたくなり、古河公方と後北条氏が手を結んで古河公方・晴氏は小弓公方退治を命じる。そして始まったのが2回ある国府台(こうのだい)合戦のうちの1回めで、首尾よく小弓公方・義明を討ち取った北条氏綱に対し、古河公方・晴氏は関東管領を与えたという説もある。古河公方自体が昔に比べて相当落ち目だった上に、幕府との連絡役でもある関東管領職はもともと幕府に任命権があるものだから氏綱の関東管領補任は「カラ手形」以外の何物でもないと思うけど、伝統にしがみつく関東ではそれなりの「大義」を得たとも言えるかもしれない。と、個々の出来事だけを見ると後北条氏も「風土病」に侵されつつあるようにも思えるけど、彼等は決してそれに染まることはなかった。次第に領国を拡大していく中で、氏綱は家中での制度も着々と進め、後北条氏のことをあまり知らない戦国ファンが後北条氏と言われて思い浮かべるいくつかの特色は、おおむね氏綱の代に整えられている。その跡を継いだ3代目・「相模の獅子」氏康がまた優れた武将で、後北条氏当主の中でわたくしが一番好きな方ですが、最大版図はラストの時期が最も広いものの、政治的には氏康の頃がもっとも安定していたといえるんじゃないかな。そういう安定さを反映したものか、初代・早雲、2代・氏綱とももうけた男子の数はそう多くはなかったが、氏康にはボロボロ男子ができた(笑)。しかし、 【北条五代、約百年にわたってほとんど内訌(ないこう)がなかったということは、 日本史はおろか世界史的にも稀有なことである。なかんずく男兄弟が七人もいると いうのに、身内の騒動なしでやり過ごせたということは、中世の戦国にあっては 珍事とさえいえよう。】 (前掲書より)「男兄弟が七人」というのは氏康の子供達のことで、その中には秀吉による小田原攻めの際に強硬な姿勢を取ったといわれる氏照などもいる。それでも、内紛が起きなかったというのだ。上の引用文は、小和田哲男氏と下山治久氏の対談を編集部がまとめたもので、その中で氏康の子供達に内紛が起こらなかった理由の可能性として、ほとんどの男子が同腹から生まれていること、氏康の威厳と教育ぶりがハンパなく優れていたことなどを挙げ、さらには「想像をたくましくすれば」と断ったうえで同腹の男子たちは別々ではなく一緒に育てられて疎遠になることはなかったかもしれない、という推測も挙げている。確かに、氏康自身の資質によるところは大きいだろう。けど、ここまで一連の長い歴史を追ってきたわたくしとしては、伝統が生きつづける特殊な土壌の関東に割り込んできた「よそ者」の後北条氏だからこそだったんじゃないかという気もする。歴バナといってもかいつまみすぎて各時代のロクな紹介にもなってませんが、後北条氏の発展を後押ししたのは、関東の上層部のお家騒動だった。それをひとつひとつついばみながら大きくなっていった後北条氏には、内紛の持つ危険性というものが身にしみて理解できたんじゃないのか。もちろん、他家の内紛を利用した輩なんか、古今東西腐るほどいる。それに、色々苦労した初期の当主にくらべておぼっちゃま育ちとなる後代の当主になればなるほどそういう危機意識が薄れていく可能性だって充分にある。それでも、秀吉に滅ぼされるまでの約100年間、他家の美味しいエサとなるような内紛は起こさなかった。ここが後北条氏のすごいところだと思う。氏綱が氏康に遺した遺言としては、「勝ってかぶとの緒を締めよ」などの5ヶ条がある。後北条氏は一見快進撃を続けたようにも見えるけど、その実、風土病の深刻な患者たちが手を結んで包囲網を築いたりして結構苦労もしている。氏康が河越で勝利を収めてからは南関東の覇権もおおむね入れ替わったけど、まだかつての支配者たちを完全に駆逐した訳じゃない。そういう時代を戦いぬいた氏康だからこそ、父・氏綱の義にもとづく遺言に加えて一族の団結の必要性なども子供達に教え込んでいったんじゃないかと思った。怖いオヤジがいたところで、死んでしまえばもう自分の好きにもできる。でも、氏康の子供達は好き勝手しなかった。関東特有の風土病に侵されなかったからこそ、関東的な自滅をすることなく関東で覇を唱えることができた。後北条氏の強さの要因は、当主の資質とか政治力、武力など色々あるのは当然だけど、風土病の怖さをよく知ってそれを克服し、子孫に伝えていったことが隠された最大の要素じゃないのかと思った。にほんブログ村
2016年01月12日

新年あけましておめでとうございます。本年も戦国ジジイをよろしくお願いいたします。トモダチが少ないもので、受け取る年賀状も必然的に少ないのですが、今年はなんかいつもより多め・・・気のせいかな?と思いながら順々に見ていくと、なんと叡山と寛永寺から年賀状が来てました確かに去年はどちらのお寺ともご縁が多少増えたものの、正式な檀家になった訳でなし、フリーの信者として多額の寄付をした訳でもなし・・・いや、これは驚きましたね。これで日光輪王寺から賀状をもらえば三山そろい踏みじゃん!!とまたバカなことを考えましたが、三山のうちでもっとも「有縁」なのは間違いなく日光・・・でも日光からは賀状をもらったことない(笑)。いいんです、別に。ただ、思いがけないところからダブルで年賀状をいただいたので、正月からテンション上がっただけです。え~、それでは北条早雲飛躍の第二段に移りますが、その前に。今川家の家督問題を片づけた早雲がふたたび京へ戻らなかった理由について、ウィキペディアにこんな記述がある。 【この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。 これは、文明13年(1481)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆 庄元資の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったことが 知られている。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を 京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある。】えええ~、備中の庄元資え~~~!?懐かしい名前に思わず身を乗り出してPCの画面を穴があくほど見つめましたが、歴代庄氏のあまり詳しいことはよくわかってないらしく、守護・細川家に反旗を翻したあの元資なのかイマイチ確定できない・・・でもまあ、早雲と時期がカブる可能性は充分にあるし、一族内でその頃「元資」を名乗った他人も見受けられないので、同一人物かもしれない。戦国の梟雄として名高い早雲が借金問題で家に帰れなくなった、な~んてこれが本当だとしたら実に面白い話ですが、ついでに庄氏についてあらためて調べていたところ、なんと庄氏は「武蔵七党」の一つ、児玉党の出身だったそうな。庄氏が武蔵武士団だったとはね!まま、庄氏はともかく、伊豆を手に入れた早雲の夢はさらに東へ広がる。ただ、早雲という人はウソかホントかわからないエピソードを沢山お持ちの方で、ゆえに「一介の素浪人が一代でのし上がった」という見方ができたようだけど、近年ではずいぶんと定説をくつがえすような研究が進んでいるそうで、前回の「伊豆討入り」・・・足利茶々丸を追放のうえ殺し、伊豆を平定した件については京で10代将軍となった清晃が母と弟の仇である茶々丸の討伐を伊豆のすぐ近くにいた早雲に命じたとも言われている。であれば、これまで幕府の命を受けて関東に介入してきた今川家と同じようなもんだけど、早雲の活動は伊豆に留まらなかった。前回書いたような扇谷上杉氏の手引きが本当かはわからないものの、山内上杉家と扇谷家の両上杉氏のせめぎ合いが続いていたことは事実で、扇谷家の太田道灌が当主・定正に殺されたあとの長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、「長享の乱」と呼ばれる内紛を続けていた。その過程では、山内家に反逆した長尾景春が古河公方と結んで扇谷家に加勢するなど、各陣入り乱れて飽きもせず風土病が吹き荒れていた。わたくしがもしタイムスリップできたら、「ヤバいよ、アンタたち!早いとこ矛を収めないと取り返しのつかないことになるよ~!!」とリキ入れて説得したいところですが、当の本人たちは危険な状態がすぐそこまで迫っていることなどつゆ知らず。そして明応3年(1494)、扇谷定正は早雲に加勢を要請する。この頃の関東各国の領国支配状況が今ひとつわからないんだけど、ウィキによると扇谷家では相模を三崎城と小田原城で分けて支配していたという。それが、同年に両城の当主が相次いで亡くなってそれぞれで家督争いが起こった。さらに同じ年、山内家を攻めようとして荒川を渡っていた扇谷定正は落馬してそれがもとで死亡。道灌さんの死の間際の予言が現実のものになろうとしていた。この頃までに出家して「早雲庵宗瑞」となっていた早雲は韮山城に居を移していたが、扇谷定正の死亡によって武蔵から兵を戻したという。従来の説では、小田原城主となった大森藤頼に早雲が何かと贈り物をしたりして接近し、藤頼がすっかり気を許したところで「鹿を追ってたらお宅の山へ入り込んじゃってぇ~。追い出すために、ウチの勢子を入れてもいいですかぁ~」と言って藤頼がOKしたところへ勢子に扮した早雲軍が一気に小田原城を攻め落とした、ってウソくさい話になってたんだけど、これも近年では新しい説が出ていて早雲が小田原城を奪ったとされていた年の翌年に、小田原城を追われたはずの大森藤頼が小田原城で山内家の攻撃を受け、しかも早雲が大森藤頼を救援していたことがわかっているそうな。これについてウィキでは 【この事実について近年では明応10年(文亀元年・1501年)までに何らかの理由 (大森藤頼の山内上杉側への内応か?)で早雲が相模守護である<扇谷当主>上杉朝良の 許しを得て小田原城を占拠して自分のものとしたと考えられている。ここで注目すべきは、 仮にも同盟相手とは言え他国の大名の家臣に領土の一部を譲り渡すという事態はそれだけ、 朝良の戦況が苦境に立たされていた事の反映であると考えられている。】 (<>内は戦国ジジイが補足)としている。まあ、あざやかすぎる手口で小田原城を攻め取ったんであれ、扇谷家の苦しい事情から譲り受けたんであれ、ここでも「お家騒動」という美味しいエサによってさらに東へ進出したことに違いはない。早雲のバックには今川氏がいる。これまでは早雲の快進撃ばかりが語られてあまり世間に認知されてない気もするけど、早雲は晩年までずっと甥である今川氏親を「屋形様」と呼び、今川軍を率いて遠江・三河平定に尽力している。だから、早雲の代ではまだ独立した戦国大名とは言えないかもしれない。ところで、正月といえば箱根駅伝。以前は毎年観ていたものの、近年は忙しくてまともに観ておりませんが、TVの前を通る時にちらりと観ていて、今年はふと「そうか、箱根駅伝て『坂東』の中に収まるもんだったんだな~」なんてことを考えました。まあ、東京・大手町と箱根の芦ノ湖を往復するんだから当たり前っちゃ~当たり前のことなんですが(「坂東」は足柄峠の東をさす)、今ちょうどこういう記事を書いてるもんで、上杉一族の領国内をえっちらおっちら走ってるのかと思うとちょっとおかしくなったりもして・・・しかし、箱根といえば天下の険。標高自体は高山でもなんでもないですが、駅伝5区の登り、6区の下りの場面を観てると、傾斜はかなりきつい。ゆえに、時には各校で「山のスペシャリスト」が登場してチームを引っ張る。わたくしの母校は数年前に「神」が登場して、それまで予選会あがりの常連だった我が校を優勝へ導いた。この箱根を、完全なる自力で越えて武力で勝ち取るのは大変だろうけど、早雲はチャンスに恵まれて(自力よりは)楽して箱根を越えた。運も実力のうちとは言うけど、早雲は大したラッキーマンだったよな~なんて、TVの中で一生懸命走るランナーを観ながらぼんやり考えてました。小田原城を取ってからの早雲は小田原城に入ったと思ってる人もいるかもしれないけど、早雲自身は韮山城を居城としたままで、小田原城には住まなかったらしい。姓ももとの「伊勢」のままで、今川氏親を補佐するような立場で終わった。早雲がじわじわと相模を平定していく中では、扇谷家とも敵対するようになる。そして、武蔵や房総に手をかけたあたりで子の氏綱にバトンタッチするんだけど、京では管領の細川政元が「永正の錯乱」で家臣に殺され、同年には越後守護の上杉房能が守護代の長尾為景(謙信の父)に殺され、古河公方家では内紛が起こるなど社会の混乱も加速していく。んで、2代・氏綱。良い息子を持ってよかったね~とつい早雲に語りかけたくなるこの2代目は江戸城を落とし、河越まで手を広げて南関東のど真ん中、武蔵の平野部の美味しいところをがっちり押さえた。氏綱という人は、合戦とは勝たねばならないものだけど、だからといってどんな卑劣な手段を使ってもいい訳じゃない、という美学のようなものを持っていたらしいんだけど、歴代当主の版図を見るといや、よくここまで切り込んでいったな~とつくづく思う。氏綱が東武蔵を押さえたということは、イコール上杉氏の領土が減ったことにもなるけど、下山治久氏は 【まさに、この江戸城奪取こそ北条氏が今川家の守護代的地位から独立して、関東の 戦国大名へと飛躍する重要な場面であった。上杉氏への挑戦は、つまるところ 関東管領への挑戦であり、関東に政権を確立する必要条件であったのである。】 (『真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡』歴史群像シリーズ/学研より)と語る。この頃の関東管領は、鎌倉府が存在していた当時などと比べればもはや価値があるんだかないんだか状態だったろうと思うけど、思い返せば関東を支配してきた人たちはどなたも政治的理由で入植してきた人ばかりで、それが関東のプライドでもあったろうという気がするし、後北条氏のように武力で割り込んできた人はこれまでいなかった。平安期には平氏や源氏の一部が関東へ引っ越してきたりしたけど、一部のエリアに土着した程度だったり、京から派遣された国主の場合は任期が終われば京へ戻っていって、現地に残った郎党もやはり限定的な地域を支配する程度。南北朝期の北畠顕家は関東を突破してるし、北条氏の残党が鎌倉を落としてもいるけど、彼らは一時的なもので定着して支配することはなかったから、エリア全体で見れば後北条氏が武力による侵略者第1号と言っていいんじゃないのかな。にほんブログ村
2016年01月03日
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