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前回の記事、間違ってました。どの道を通ったのかイマイチ記憶になかったのでてっきり阿弥陀堂へ向かったのかと思っていたら、道なりの大講堂へ着いたようです。そうだよな、そうでないとちょっとおかしいもんな。てなことで、こういう立派な大講堂を前にしながら↓ 前回の三国天台宗の碑を見たあと、さらに奥にも何かあるのに気がついた。 【比叡山筆塚について この筆塚は、全国学生比叡山競書大会の筆塚です。伝教大師を讃仰して始められた この大会は、全国の幼稚園・児童から大学生の諸君まで、その参加者数は計り知れない 数にのぼっています。また毎年入賞作品を根本中堂に掲げ、これを全国からの参詣者に ご覧頂いています。この筆塚は、これらに用いられた古い筆を納め、感謝の心をもって 筆を供養する塚であります。 学生さんならお一人でも参加できますので延暦寺事務所へお問い合わせください。】 (現地解説板より)学生大会なら学生さん以外は参加できなさそうなのに、最後の一文が意味不明だ・・・と思ってたらば、 あ、ここから納めるのか。今は南京錠がかかってるけど、これなら出し入れも簡単にできそうだな。それから、最澄の1,150年遠忌法要の祈念碑もあった↓。 では、大講堂へ向かいます。 ・・・なんか、どっかで見たような雰囲気だよなあ。しかし、それもそのはず、現在のお堂はもともとここに大講堂として建てられたものじゃない。今回は行かれませんでしたが、山麓の坂本にも東照宮があり、そこの本地堂として当初「讃仏堂」という名称で建てられたものだそうな。東照宮の本地堂だから当然江戸期に入ってからの建立。昭和31年にもとの大講堂が焼失してしまったため、坂本の讃仏堂を移築したらしいんだけど、移築の際に「寛永10年9月15日」「寛永10年卯月」などの墨書が発見されたそうな。ただ、「坂本の讃仏堂」に関してはちょっと不思議な解説が各所にある。たとえば『伝教大師最澄の寺を歩く』(比叡山延暦寺監修/JTBパブリッシング)から引用しますと、 【坂本の讃仏堂も、元亀の法難により焼失したが、いち早く復興され、寛永11年 (1634)に落慶法要が行われている。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)「東照宮」がこの世に現れたのはイエアスの死後。元亀の争乱は1571年、イエアスの没年は1616年。織田氏が攻撃した時点でまだ「東照宮」は存在しておらず、したがって「東照宮本地堂」が織田氏に焼かれるハズもない。とすると考えられるのは、東照宮以前に坂本に讃仏堂はすでにあり、それが元亀年間に焼失した。叡山の山麓に東照宮ができたのは元和9年(1623)だというから、その際にもとの讃仏堂の復興もかねて本地堂を建立したってところだろうか。もとの大講堂はどんなものだったか、『山門堂舎記』を見てみると、まず創建は天長元年(824)、最澄とともに入唐しのち初代天台座主となった義真によるものだという。『叡岳要記』では勅による建立で、天長元年9月3日の供養の法会には嵯峨太政天皇が臨席され、元興寺・西大寺・薬師寺の南都の大寺からも高僧たちが参列したという。檜皮葺で9間、ひさしがついており、四隅には箜篌(くご)という弦楽器が置かれ妙なる調べを奏でて荘厳していたそうな。フツー現代人が「荘厳」の文字を見れば「そうごん」と読み、おごそかな雰囲気を指すものと考えると思うけど、仏教でいう「荘厳」は「しょうごん」と読み、飾りやお香・花・音楽などで仏の世界を壮麗に飾ることをいう。法事でお寺さんに行く機会もあるかと思いますが、どこのお寺も内部はキンキラでお坊さんが座る席の真上には大きくて華麗な金の笠みたいの(天蓋)がぶら下がってるでしょう?あーゆーのもすべて荘厳。平たく言えば、目・耳・鼻などで感じる仏の世界を再現したもの、ってところでしょうか。で講堂の真ん中に鎮座するのは、金箔の化仏を背負った8尺の木造毘盧舎那仏。これには脇侍がついており、左には木造の弥勒菩薩、右には十一面観音。毘盧舎那仏と弥勒菩薩は檀越らによる造立で、観音菩薩の方は「弘宗王」のために仁明天皇(桓武の孫)の命により造られたものだという。ほか、彩色の梵天・帝釈天・四天王像。あと、金塗りの基壇の上には文殊師利聖僧像がいたという。承元元年(1207)、宣旨により鎌倉3代将軍源実朝が造営したとある。ここまでが『山門堂舎記』の記述。永和5年(1379)に書かれた『叡岳要記』には康保3年(966)・元久2年(1205)・文永元年(1264)、永仁6年(1298)・元弘2年(1332)の5回火災で焼失したことが書かれており、これに細川政元・織田信長の焼き討ちと昭和31年の火災を加えると少なくとも8回は焼失したことになる。他にも焼失の記録はあるかもしれない。それでも、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には昭和31年に 【焼けた大講堂は桁行九間、梁間六間、一重、裳階付で、もし焼けなければ 根本中堂と共に国宝に指定された事疑いないものである。】とあるので、焼失した最後のものがいつの建立かはわからないけど、焼失するたびに壮麗な建物が再建されたものと思われる。『比叡山時報』第703号には、当時まだ小僧だった叡山のお坊さんが撮った昭和28年頃の写真をもとに当時の様子を語った記事が載っている。 【まだ山にはドライブウェイ建設の話題もなく、麓の坂本にはタクシーもなかった 頃の話である。延暦寺は山の木々を売った収入で一山を経営していた。 当然のことながら貧しかった。】 (「瞻仰尊顔」福田徳衍より)昭和28年といえば坂本ケーブルは戦後返還されて営業を再開していた時期だけど、他にロクな交通の手段もないし、現在のように不特定多数の一般人からの観光収入が見込めるような時代ではなかったらしい。そういう苦しい時期に、当時の重要文化財であった大講堂が焼失してしまったことはかなりの痛手だったろう。そんな時期でも移築という手段をもって大講堂を復活させた。そりゃ新築よりは安上がりだったかもしれないけど、解体して移築するのだってかなりの負担だったろうと思うんだよね。一般には義真による創建だとされる大講堂だけど、『叡岳要記』には「秘録」として講堂は最澄が建立したものだとある。なんでも、「伽藍結界壇場の地域」・・・これは東塔の中心部を指すのだろうけど、その地域を拓く前に胎蔵界の大日如来をあらわす7寸(約21センチ)の鏡を地中に埋めたんだそうな。で、天長に義真が講堂を建立した際、その鏡を本尊(大日如来像)の腹中に納めた。康保3年(966)の火災の時、灰の中からこの鏡が出てきたのでまた腹中に納めた。元久2年(1205)の火災でも灰の中から見つかったので、また腹に納めた。文永元年(1264)の火災でもまた灰の中から見つけ出された。・・・焼け跡から3度も見つけ出されているので、つまりご本尊様は講堂と運命を共にされたようですね。3度も劫火にさらされた最澄たんの鏡はさぞひんまがってボロボロになったんじゃないかという気もしますが、叡山における鏡の受難はここまで。なぜかというと、文永元年の火災で救い出された鏡は、「梶井の源全が大塔の澄覚親王に勧めて、今は大塔にある」となってるからです。梶井門跡は延暦寺の門流のひとつで、京・岡崎の法勝寺(ほっしょうじ)九重塔を「大塔」と言ったようなので、岡崎へ移されたんじゃないかと思います。今は法勝寺はないけどね。ただ、ウィキペディアによると法勝寺は天正18年(1590)に坂本の西教寺へ併合されたようなので、あるいは西教寺へ引き継がれたカモ?え~、で、講堂という名の通りここは論議などが行われる学問の道場。なかでも5年に1度の「法華大会」が最も大きなイベントのようです。法華大会の進行については『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』に簡潔に述べられていますが、読んでて色んな意味で「うわ~、大変だな~」と思う進行・内容です。ま、最澄が始めた法華十講がベースになってるものだしね。この小冊子には法華大会の写真も載っていますが、天皇の使者と思われるおじさんは衣冠束帯で笏まで持ってる。参加する探題は輿に乗って会場まで移動するとか、散花大行道が行われるとか、傍目で見てる分には華麗なる王朝絵巻さながらの貴重なイベントのようですので、機会があったら皆さまも見学に出かけられてはいかがでしょう。にほんブログ村
2015年01月31日

第一駐車場から堂宇へ向かう道すがらにはこういうものがある。 【祖師御行績絵看板について 比叡山延暦寺は延暦7(788)年、伝教大師最澄上人が22歳の時に開かれた 鎮護国家・人材育成の根本道場であります。1700町歩(1700ヘクタール)に わたる延暦寺の寺域は、東塔・西塔・横川の三塔十六谷にわかれており、それぞれの 堂塔伽藍では伝教大師の定められた制式に従って、鎮護国家と人々の平安を祈願して 日夜修行が行われております。鎌倉時代には浄土宗の法然上人・浄土真宗の親鸞聖人・ 臨済宗の栄西禅師・曹洞宗の道元禅師・日蓮宗の日蓮聖人などの各宗のお祖師さま たちが比叡山で修学せされ、それぞれの宗派をお開きになりました。現在にいたり この山は「日本仏教の母山」として教宗派を問わず多くの人々から崇められ、平成6年 12月に世界文化遺産として登録されました。 延暦25(808)年に桓武天皇によって立教開宗が認められ、平成18年をもって 天台宗は開宗1200年を迎えました。この開宗1200年慶讃大法会に当たり10万 有縁のご協賛を得て、伝教大師を始めとする比叡山の高僧や、比叡山から輩出された お祖師さまたちの御行績絵看板を修復して境内に揚げました。 この御行績を拝読されることを通じて、伝教大師による「一隅を照らす」人材養成の 理念に触れていただき、また触れていただくことが国宝的人材のあふれる明るい社会の 建設を資するものであると願って止みません。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)てことで、道路脇にはずらりと絵看板が・・・ この辺は最澄たんの一代記だったのかな。フツーの観光客はこういうものにはほとんど関心を示さないし、もう夕方が近いこともあってか足を止める人はいない。わたくしもかなり時間がなかったので、足は止めずに見ながら歩くにとどめた。 ↑えっと、これは「叡山攻め(71)」で紹介した、小僧の最澄たんが突然叡山で仏舎利を見つけたというシーンの絵だな。あとで東塔のあるところで、延暦寺の会報「比叡山時報」なるものがご自由にお持ちくださいと置いてあったので、あるだけもらってきたんだけど、この中に面白い記事を見つけた。延暦寺では毎年「天台青少年比叡山の集い」なるイベントがあるそうで、その初日「発心会」(ほっしんえ)ではまず天台の勤行式の中にある偈などを唱えたりしたあとで、「おかみそり」「仏舎利」「ループタイ」「念珠」を参加者に授けるんだそうな。「ループタイ」という謎なお品もあるので、ボーイスカウト延暦寺バージョンみたいなものかなと想像しましたが、この場合の仏舎利はもちろん「みなし」でしょうね。それでも、この現代でも仏舎利と銘うったものが流通しているという現実にかなり驚きました。絵看板は沢山あるので全部撮ってたら大変。最澄たんの絵看板を撮ったのはこの1枚ぐらいで、その先にはお地蔵様のおわす小さなお堂があった↓。 その先は叡山が輩出した高僧たちの絵看板だったかな。この頃は寛永寺シリーズの真っ最中だったので、これだけ撮りました↓。 天海たんです。天海が肩からかけているのは御存知「袈裟」。フツーの着物のような「法衣」の上にかけるものでこれは現代のお坊さんも同じですが、当初の袈裟とはだいぶ趣きが変わってるんだそうな。仏教が生まれたインドでは、寒い国のように何枚も重ね着する必要もなく、素肌の上に直接着るような衣服も「袈裟」と言った。つまり、僧服そのものを袈裟と呼んだようです。出家はすべてを手放して質素に生きるものだったから、俗世のように個人的財産の多い少ないという差はない。ただ、生活をする上で私有を許された物もあり、「三衣一鉢」が最低限。三衣(さんね)は大中小の3種類のサイズの長方形の布で、木綿や麻、樹皮などで織られた布を小さく裁断して、それを縫い合わせて作られたものなんだそうな。要するに、粗雑な布のパッチワークみたいな。天海がかけている袈裟は模様入りの細布があみだくじのように走ってますが、これが仏教誕生当時のパッチワークの名残です。「七条袈裟」とか「九条袈裟」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、はぎあわせた小片の数によって七条(7枚の布)、九条(9枚の布)というように呼び方が変わるようです。現代の仏教界にも引き継がれている慣習の中には、いかにも暑い国・インドらしいルールだよなと思うものもありますが、仏教が各国に広まるにつれ、必要に応じて変わったものもあった。僧服もそのひとつで、寒い国じゃインドのように布1枚じゃ過ごせないから、状況に応じて袈裟の下に服を着ることが許されるようにもなった。ま、それは必要があってそうなったから別にいいんだけど、大きく変わったのが袈裟の色や素材。古代のインド人がどういう色の服を着ていたのかはわかりませんが、「清貧」を地でいく初期仏教の袈裟の色は「壊色」(えじき)という一般人とは違う青や黒などの地味な濁った色だった。絵看板の天海の袈裟でアミダ模様になってるはぎ合わせの部分の布はなんとなく高価そうな布だとわかる。叡山で買った数冊のガイド本には現代の叡山の僧侶がイベントに出仕する写真も載っているけど、そこで高僧が着ている袈裟は「綾錦」とか「金襴緞子」という言葉がぴったりのような、実に豪華なもの。長い歴史の中で好むと好まざるとに関わらず、大寺は権力と密接に関わり、江戸期には本末制度もできて僧服がひとつのステータスにもなった。一般的に最も有名なのは「紫衣事件」ですね。見て一発で格がわかるもんね。正直、ガイド本に載ってる豪華な袈裟のお坊さんの写真を見ると「お釈迦様の時代は遠くなったもんだ」と違和感も感じるけど、これも長い仏教の歴史を物語るものだから致し方ない。「輪王寺12」で服飾倒錯説について引用して紹介してますが、きらきらした豪華な袈裟の写真を見てると、確かにそういう側面もあるかもしれないな~と思う。豪華な衣装は性の境界を越え特有の色気を発しただけでなく、聖性をも発揮した。最近知ったんだけど、江戸期の袈裟について面白いエピソードがある。なんでも、罪人が江戸市中を引き回されている際に高僧が袈裟をかぶせるとその罪人は死を免じられ、寺に引き取られだんたとか・・・まあ、すすす~と近寄ってふわりと袈裟をかけてやるんだったらどんなワルも救えちゃうことになるけど、それじゃ被害者は救われない。引き回しを沿道の観衆とともに見ていた僧が袈裟をえいやっ!と投げて、それが運よくぶわさっ!と罪人に引っ掛かれば救ってやろうって事だったらしい。「袈裟懸け」と聞けばほとんどの人が斜めにばっさり斬る時代劇のシーンを思い浮かべると思いますが、こちらは命を救う「袈裟懸け」ですね。袈裟ひとつにも色々な歴史があります。さてさて、東塔の中心部へ向かったわたくしですが、そのまま中堂へ行けば良かったのに、中堂とは反対の方向にある阿弥陀堂へ向かいました。東塔の中心部というのは実に道がわかりにくかったし、ここからケーブル駅までは少し歩くから、時間的に阿弥陀堂の方が良さそうだと踏んだのかもしれない。そもそもどの道を通ったのか覚えてないしな・・・阿弥陀堂の付近にも色々ある。 【この祈念碑は、中国・韓国・日本の三国天台宗が歴史上初めてここ比叡山に集い、 天台大師1400年大遠忌を慶祝しその御恩に報いるとともに、世界の恒久平和を 祈念して建立されたものです。 心のひろばでは、この度三国三山(天台山国清講寺、小白山救仁寺、比叡山延暦寺) が1400年目にして新しい出会い、新しい思いを誓いあえたことに、この上ない 喜びを感じております。 碑文の上に彫り込まれている渦状の紋章んは事が成就する、あるいは対立したふたつの ものをひとつにするという意味があります。韓民族の願いである半島の平和統一を 是非とも成就したいものです。 世界の平和は、宇宙の宝であり、アジアの平和は、世界平和の魁である。 南北の統一は、東アジアの愛である。 私はこの愛が育まれる日まで、祈り続けたい。】この解説版の日付は1996年10月1日。日中国交正常化以降は叡山と中国・天台山との交流が再開され、お互いに訪問しあったりしているそうな。三国だけじゃなく、現在の叡山では世界平和への祈りを込めて、宗教・民族を越えた「比叡山宗教サミット」が開催されている。初回は昭和62年。この年は叡山の開創1200年にあたり、10数ヶ国から約1000人もの宗教関係者が参加したそうな。以後、毎年開かれている。タダでもらってきた『比叡山時報』にはサミット成功の要因を分析した記事があり、そもそも叡山の宗教サミットは1986年に当時のローマ法王・ヨハネパウロ2世が召集した「アッシジ世界平和祈祷集会」に参加した天台座主がその集会の精神を引き継ぎたいと申し出て、翌年に実現したものなんだそうな。かつて数々の戦いや武力抗争を繰り返してきた叡山で世界平和への祈りが続けられていることは、世界遺産への登録ともあわせて長い叡山の歴史にあらたな1ページを書き加えたといえる。にほんブログ村
2015年01月30日

通行禁止の防災道路を抜けて出られるのが第一駐車場。ここにはバスセンターもあるけど、これも冬季は運休なので今回は叡山でバスを使う予定はない。やれやれ、やっと人界に戻ってきたってカンジここには霊園の大きな看板が↓。 今や延暦寺も世界遺産で、オフシーズンにも関わらず観光のメイン部分にはさすがにガイジンも結構いたけど、そういう叡山でさえ霊園経営に乗り出している。輪王寺宮が統轄した三山のうち、現在霊園を経営してないのは日光輪王寺だけ。この霊園は叡山から少し離れた北東にある。往時の寺格を考えれば叡山が霊園経営をしていることに違和感を感じなくもないけど、寛永寺に墓を持ちたかったわたくしのような人間もいるしなしかし、一体どこまで延暦寺でお世話してくれるものなんだろう・・・下賤な想像をしたわたくしに、叡山で買った小冊子『比叡山延暦寺』(延暦寺発行)が答えてくれた。 【6万坪の広大な霊地はすべて南向きで、お盆や春秋のお彼岸には、天台座主が 建墓者ご先祖のご法要を厳修し、毎月1回総回向と法話があり賑わいます。 また、子孫のない人のために、延暦寺が永代にお供養する”久遠墓”は全国の 人びとから喜ばれています。】おお~、天台座主までからむのか!ちょっといいな、コレ・・・とついミーハー心が駐車場には最澄たんもいる↓。 それから、この碑↓。 織田軍による元亀の法難について、叡山では当然のことながら世間一般に思われているようなスタンスを取っていますが、隣にあった解説版には石碑建立の意図についても書かれているので、少し長いですが全文ご紹介します。 【平和の塔 元亀の兵乱殉難者鎮魂塚について 比叡山延暦寺は、元亀の兵乱すなわち織田信長の叡山焼討ちといういまわしい歴史を もっている。今から420年前、元亀2年9月12日、信長軍は、坂本(比叡山東麓) の街を手始めに日吉山王二十一社すべてを焼き払った。次いで比叡山を目指し根本中堂 以下三塔十六谷の堂塔、僧坊500を3日3晩かけてすべて焼き尽くした。また坂本の 街から炎に追われて山上に逃げ込んだ者千余名、山上の僧俗あわせて千余名は、 ことごとく焼殺、斬殺されたといわれる。 天下布武を唱えて天下統一を目指す信長に旧勢力に属する延暦寺が、守護大名である 越前の朝倉家や近江の浅井家などと連携して対抗したのがその基因であるが、あまりにも 悲惨な出来事であった。比叡山は、その後秀吉、家康の庇護を受け復興されるがその 傷跡はあまりにも大きく、その後の比叡山に大きな陰をおとしている。 420年を経た今、犠牲となった人々、仏法のため殉教した僧俗2千余名のためここに 塚を築き、遺品を埋め、塔を建立して追善の回向法要を修し霊魂を鎮め先人達の霊を 慰めんとするものである。なおまた攻め込んだ信長軍の戦没者の霊に対しても10年後に 同じく本能寺で火に焼かれた信長その人の霊にも恩讐を超え、怨親平等の心をもって 追善供養を施すものである。世界鎮護の如法塔の文字は、第253世天台座主の ご染筆によるものでこの塔がさらに心の平安と恒久の世界平和を祈願している。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) なあんとな~く、聖なる寺を焼くから自分も火に焼かれることになったんだろ~って言いたげな気がするのはわたくしだけでしょうか・・・ま、織田軍は焼くには焼いたんだろうけど、世間で言われるほどの凄惨で大規模なものではなかっただろうとわたくしは思ってますのでね。焦土の範囲も現在わかっているところではかなり限定されてるらしいし、そんなに犠牲者が出たんなら、大量の人骨はどこへ行ったんだ?少なくとも今のところ山中ではそんなもの見つかっていない。それに、現在延暦寺が所有する宝物たちの中には平安時代とか鎌倉時代のものも結構あるし、根本中堂の奥深くに安置されている本尊は最澄の自刻との伝承があるもの。最澄真筆の文書も残っている。さらに天海が家綱の誕生祈願に使った良源さんの画像はこの時に横川から流れたものだとも言うけど、山に追い詰めてバッサバッサと見境なく殺した上でことごとく焼き払ったんなら、これらの宝物たちはどうやって生き延びたんだ?山の奥深くに隠したって可能性もなくはないけど、そういう記録が残っているのなら、それこそ被害の深刻さを物語る格好の「使える」エピソードだと思うのに、そういう具体的な伝承を持つ宝物をわたくしは知らない。その点ひとつ取っても、ちょっとおかしいでしょ。まあ、画像や文書なら比較的コンパクトではあるから、決死の思いで持ち出した僧がいたという可能性もアリだけど、仏像となるとそう簡単な話じゃない。元亀兵乱の時じゃないけど、山内の抗争でとある木像が山を降りたことがある。その時は、僧侶が木像を背負っていったんだそうな。そのエピソードは世間でも語られているので、もし元亀兵乱で同じようなことがあれば「こんなに大変だったんだよ~!信長、ひどいっしょ!?」ってアピールするのにとても都合がいいように思うのに、そういう話は知らない。それから、別に織田軍をかばう訳じゃないんですが、こともあろうに不可侵の聖域を焼き払った極悪非道のオンリーワンが織田氏による叡山焼き討ち、ってイメージが世間では非常に強いんじゃないかと思うけど、外部の人間による攻撃は織田氏が最初じゃない。足利6代将軍・義教も弾圧を加え、叡山を包囲している。ただ、この時は重臣たちの反対にあって一旦は鉾をおさめた。和解の際、義教は叡山の僧4人を謁見しているが、あとになってこの4人を招いた。ワナじゃないかと疑った僧たちはなかなか招きに応じようとしなかったが、管領・細川持之が誓紙まで出したので、上洛した。ところが、義教はこの4人の首をはねてしまったという。叡山側は怒った怒った。そりゃ当然でしょう。そこで自ら根本中堂に火をかけ、24人の僧が焼身自殺をするという手段をもって義教に抗議したそうな。ただ、義教の時は全面攻撃には至っていない。が、織田軍以前に大規模な攻撃をしかけたツワモノがおった。流れ公方・足利10代将軍義尹(よしただ。のち義稙)は大内義興さんが保護してやったという経緯で本ブログでも結構顔を出してますが、明応の政変で細川政元らに追われた義尹は義興さんのところへ行く前にまず越中へ行き、ついで越前の朝倉貞景(朝倉義景のジイちゃん)を頼った。この間、細川政元との和睦交渉が続けられたようだけど、これはうまくいかず、軍事行動に出た。叡山もこれに同調した。加賀・越中・越前の武士たちに加え、根来寺・高野山、そして叡山が義尹側に回ったことで包囲される形となった政元は、明応9年(1499)7月11日、延暦寺攻撃の命を下す。麓から攻めのぼった政元の内衆の軍勢は山上へ上がり、根本中堂など主要な堂宇を焼き尽くしたという。延暦寺といえば、白河法皇の「ままならぬもの」として有名。すなわち、賀茂川の流れとサイコロの目、そして叡山の山法師。「僧兵」という名称は江戸期に入ってから使われ出したもののようですが、実は僧兵の生みの親はあの良源さんだという見方がある。それについてはまたあとで書きますが、10世紀には山内で武力行使をする者がすでにいた。その頃には山門と寺門の抗争はすでに始まっており、延暦寺から園城寺への攻撃回数は「大津編(9)」でも紹介してますが、なにも寺門が一方的な被害者という訳でもなく、元気にばんばんやり返している。そのほか、山内でも時代が下るにつれ門流という一種の派閥が出来上がり、ある門流から叡山の重職が出て他の門流が気に入らないような場合、当時者の僧坊を破壊するというような出来事もあった。最終的に山門と寺門の焼き討ち合戦が収束するのが秀吉による刀狩令だろうから、良源さんの頃から秀吉まで、叡山では内部・外部による破壊行動が繰り返されている。そういう状態にあって、織田軍の攻撃だけがクローズアップされるってのもどうかと思っちゃうんだけどねえ・・・ところで、鎮魂塚と言ってもこれはあくまで石碑で塚じゃない・・・あ、でもよく見ると碑の裏に前回道路から見えた「塩の山」があるから、これが鎮魂塚なのか。近くには灯篭もある↓。 ほう、これは寛永寺で見慣れたものに近いタイプだぞ。たぶん江戸期のものだろうけど、本体が立派だから大きな台座もこの下に付いてたんじゃないかと思うけどな。駐車場でトイレを済ませて売店も少し覗いてから、ゲートへ向かう。ここにも東塔の料金所がある。でもわたくしは最初に拝観料を払っているので、悪びれもせず堂々と「すいませ~ん、ウラの方から回ってきたんですけど、通らせてもらっていいですかあ~?」とおじさんに声をかけた。「拝観券ありますか?見せてもらえたらいいですよ」と言うので、はいはいとカバンを覗いて探したけど、ない・・・「ちょ、ちょっと待ってください。あるにはあるんですけど・・・」あわててカバンをまさぐったけど、なかなか見つからない。そうこうしているうちにも車で上がってきた観光客はお金を払ってすいすい入っていくので、「お金払っちゃった方が早いですかね。ハハハ」「いやいや・・・いいですよ~、待ちますから」かなり探したあとで、ようやくわたくしの拝観券がカバンから出てきた。「あっ、あった!ほらコレ~!!」「はいはい、どうぞ~」ほっ、550円助かったぞにほんブログ村
2015年01月29日

八部院の裏手には、ひとつの碑がぽつんと建っていた↓。 「榮西禅師舊跡道」あっ、こんなとこにあった!!叡山の訪問記は数多くネットでも紹介されていて、歴史ファンなどはマイナーなスポットへもそこそこ行って記事も公開されているのですが、具体的にどこにあるとかそこへどうやって行ったらいいかまで紹介してくれてる人はめったにいないので、これもこの辺にあるということぐらいしかわかっていなかった。もし総持坊の先から中堂へ直行してたらここは見つけられなかったかもしれないので、通れなかったことはある意味ラッキーでした。で、この碑ね。文字通り臨済宗の祖・栄西さんが修行した場所へ行かれる道ですが、周りを見回しても道らしい道はない。きょろきょろしてわからないのでもう一度碑文を見ると、文字の上には右方向を指さす手が描かれている。ったって、山の斜面しかないんだけど・・・よく見ると、この碑の裏手あたりにかすかな踏み跡のようなものがあったので、とりあえず斜面を下りてみた。少し下ると、「明星水」の石碑がある↓。 特に水場っぽい感じではなかった気がしたけど、かつてはここに名水の湧く井戸でもあったのかもしれない。この碑の反対側には、道っぽいものがある。が・・・ これはちょっとマズいな・・・少し近寄ってみたけど、地面は水を含んで滑りやすそうだし、おまけに上の斜面からは常にさらさらと砂が落ちている。もしあそこを踏み抜きでもしたら、泥んこになるぐらいじゃ済まされないカモ・・・特にあちらへ行けという表示もなかったので、まず下へ降りてみようと思ったけど、この脇道って位置的に本願堂跡へ出られるんじゃ・・・であれば何とか向こう側へ行きたいと思ったけど、上につかまれるような木や木の根っこもないので、かなりリスクがある。ので、残念だけどこの道を諦めて斜面を降りていった。下りきって小さな沢を越えると、すぐ上り坂になる。こちら側の斜面にはかつて僧坊がこの辺にあったかと思わせる石組などがあった↓。 少し登ると、道の左脇にこんなものが倒れていた↓。 赤い矢印が道の先を示しているように見えたので、そのまま登っていく。 あの上あたりがそうなのかな・・・ そう思いながら歩いていたら、真下に石碑があるのが目に入ってあわてて引き返した。倒れた案内板まで戻ってよくよく見てみると、矢印の方角の斜面にわずかな踏み跡がある。そこを登ってみると、さっき見下ろした石碑の場所に出られた。 なあんだ、道の反対側を行けって意味だったのか~!ホントに具体的な場所がわかってなかったので、上から石碑の存在に気がつかなければあのままずんずん進んじゃってたな~。 「建仁開山千光祖師舊跡」建仁寺の開山にして日本臨済宗の祖・栄西さんの諡号は「千光国師」。話を先送りにしている方ばっかりで何ですが、栄西さんを書くにふさわしい場所が他にあるので、ここでは簡単に。備中に生まれた栄西さんは10歳で出家して、13歳の時叡山で得度。栄西さんといえば禅と茶、のイメージが強いけど、叡山で買った天台の勤行式の裏に描かれている叡山ゆかりの高僧伝には 【東塔東谷において天台教学を学び台密十三流の一つ葉上流の祖となる。】とある。なら、密教のエキスパートでもあった訳か。聖尊院堂や法然堂のあった東谷で学んで、その後こちらへ移ってきたのかな。この場所は沢を挟んで本願堂の向かいともいう位置で、「西谷」と言ってもよさそうだけど、西谷はもう少し離れた場所を言うようなので、北谷に属するのかもしれない。「葉上流」の「葉上」とは栄西さんの坊号なんだそうな。葉上坊栄西か。ただ、ここに葉上坊があったのならそう書いても良さそうだけど、そうとはどこにも書いてないので、葉上坊は東谷にあったのかもしれない。叡山の諸堂宇に関する史料はいくつか手元にあるものの、さすがに僧坊についてまでは書かれていないので、葉上坊がどこにあったのかまではわからない。栄西さんが大陸へ渡ったのは2回。うち1回目は27歳のとき。この時は日本天台宗の立て直しという目的を持って平氏の庇護を受けて南宋へ留学。当時の南宋では禅が流行しており、禅でもって天台宗の振興を図ろうと思いつつもちゃんと天台山を訪れて経疏を持ち帰ってもいる。禅で天台宗を立て直すってのもヘンな話かもしれないけど、最澄は唐で禅も学んでそれを持ち帰って叡山での修行体系に取り入れており、叡山は天台だけでなく禅・密教も行う総合大学のようなものだった。46歳の時、再び入宋。ここで臨済の印可を受け、日本における禅の第一人者的人生が始まる。のちには叡山からの排斥も受けたようだけど、鎌倉幕府の援助を受けて京に創建した建仁寺では禅だけでなく天台・真言の道場も構えたというから、総合大学・延暦寺の卒業生らしい話といえる。碑の近くにはベンチもあったけど、あいにくお掃除用具に占領されていて・・・ もはや石仏だか何だかわからないものもある↓。 ここは南北に細長い削平地で、郭を歩く気分で奥まで行ってみた。これが奥から振り返ったところ↓。 奥から一段下がったところにも、ならされたような地形がある。「下の郭だ」と笑いながら写真を撮っていたわたくし・・・(寺だっつの!) 本願堂跡付近も雪に小動物の足跡が残っていたけど、ここにも落し物があった↓。 う~ん、これは肉食っぽくないな・・・ウサギのようにも見えるけど、シカかもな。緑がかってるから、草を食べた後かもしれない。この付近は下の小沢を含めてかなり水っぽい土地で、シカは泥あびが大好きというからうってつけの場所かもな。東塔中心部のすぐ近くとはいえ、こんなとこほとんど人も来ないだろうし。満足して八部院の方へ戻る。途中、さっきの脇道を何とか通過できないもんかと名残惜しく眺めたけど、やっぱり危ないのでやめた。えっと、これは上に戻った付近にある碑だったかな↓。 「なんみょ~ほ~れんげ~きょ~」だとすぐ日蓮宗を思い浮かべるけど、法華経を最高の経典と位置づける天台宗の正式名称は「天台法華円宗」。ので、これは別におかしくも何ともない。さて、これで東塔のお目当てのマイナースポットは大体ゲットしたかな。もう15時を回っている。今の時期、ケーブルの最終は17時なので、そろそろメイン方面へ向かって残り時間で見られる堂宇だけ見たいんだけど・・・八部院の手前にもこの看板が立っていた↓。 どうやらこの車道自体が歩行者禁止ってことらしいな。と言われても、少し戻ったところには中堂の脇に階段があったけど、 もお、どうしろって言うのよお通れないのなら来た道を戻って延暦寺会館の方へ回ればいいのですが、この時は戻ろうなんて気はさらさらなかった依怙地なわたくし・・・とにかく前へ進むことしか考えてなかったので、通行禁止なんてクソくらえじゃ~とばかりにずんずん進行方向へ歩き出す。 左に写ってる建物が国宝殿。延暦寺の誇る宝物たちを見たいのはヤマヤマだけど、今回はそこまで時間取れそうにないな。それより、前方になんか変わったものが・・・ なんだろう、あれ?現地では塩の山のようだと思ったけど、雪をかぶってるだけです。 にほんブログ村
2015年01月28日

若き日の最澄が崇高な思いを抱いて草庵を結んだ場所をしばし眺めてから道を歩き出す。道路をはさんだ本願堂跡の向かいには僧坊がある。 【総持坊(そうじぼう) この坊は、東塔北谷に属し、天台密教を伝える穴太流の一潅室である。当坊には玄関の 真上に一つ目一本足の奇妙な僧の額が揚げられていて、比叡山七不思議伝説の一つが 伝えられている。 一眼一足の僧は慈忍和尚の変身で、その生涯を愛山護法に捧げ、特に総坊に住して、 戒律を守りながら比叡山の厳しい修行に励み、滅後は「山僧よ、僧侶の本分を忘れる なかれ」と僧の姿に身を変え真夜中に一眼一足に鐘をぶらさげるという奇妙な姿をして 暗闇の山中を廻り、なまけ者や悪僧を見つけると胸につるした鐘を鳴らして警告した。 こうして悪僧やなまけ者を次々と下山させたと伝えられている。】 (現地解説板より)慈忍和尚(じにん・かしょう)は第19世の天台座主。良源さんの次に座主となられた方です。この方も別のところで書きますのでここではカットしますが、名前だけ覚えておいてください。「和尚」と書けば大抵の現代人は「おしょう」と読むと思うけど、慈忍さんに限らず結構「かしょう」って読ませる人は多いので、古くは「かしょう」が一般的なのかと思っていたら、宗派の違いによる読み方の違いらしい。ウィキペディアには、【天台宗では遷化(亡くなること)された時は和尚(おしょう)から和尚(かしょう)へと呼び方が変わる。】とある。叡山の七不思議については関連するスポットでおいおい紹介していきますが、解説で「奇妙な」と連呼している一眼一足の慈忍さんの絵がこちら↓。 こんな風に、玄関の戸の真上におられます↓。 蟇股がなかなか素敵だわ・・・じゃなくて、入口になんか赤い棒が立て掛けられてるなと思ったら 慈忍さんの持ってる棒なんだ~、コレ!!思わず小さく感嘆の声を挙げました(笑)。 解説文には台密を伝える穴太流の・・・とありますが、「総持」という言葉は密教を指すんだそうな。派手さはないけど、なにげに格の高いいい造りをした僧坊だと思いました。 総持坊の先から振り返ったところ↓。 この道の奥の左の谷に本願堂跡があります。このすぐ先の東塔の中心部あたりでは幾度も火事があったりしたようですが、道沿いには古木も残っています。で、こちらが進行方向↓。 山内図を見るとここからそのまま根本中堂の方へ抜けられそうなのに、なんか木の柵でふさがれてるし、おまけに えええ~、ナニソレ!そんなの困るんだけど。この時は木の柵でふさがれてる部分が「防災道路」なのかと思っていたので、そのまま道なりに車道を進む。 ここを通り抜けられればメイン部分へ行かれるのに、今はただ道路から中堂を見ることしかできない。見えているのに入れないとは、ツラいものよ・・・とりあえず妻だけでも撮っておくか。 拝みの部分に描かれてるのは宝珠。金がだいぶハゲかけてるけど、さすがの造り。妻に組まれている部材にも、これまで見たことないような意匠があしらわれている。道路の脇には享保4年(1719)の灯篭がぽつんと建っていた↓。 叡山に奉納されたにしては、ずいぶんとシンプルな造りだな。まあ江戸中期といえば天台の中心は江戸へ移ってたしな。それに、わたくしの灯篭観察の出発点は諸大名の奉納による絢爛豪華な灯篭群だったから、やはり徳川将軍家の霊廟を抱える寺への奉納品は当然のことながら別格だったんだとあらためて思う。さて、道なりに小さな坂を登ると、まだ新しい綺麗なお堂がある↓。 お堂は新しい感じだけど、その前に立つ灯篭には「元文二年八月」とある。1737年、これも江戸中期の奉納のようです。 ここには何も解説はないけど、灯篭の前面には「八部院」とある。ちょっとネットで検索してみたところ、株式会社奥村組様のサイトに平成3年再建とあり、【焼失によって原形はほぼ無くなり、資料をもとに復元に勤めました。】とのコメントが付いている。その後平成16年に台風による被害があったようで、同じく奥村組で補修工事をしたんだそうな。扉はぴっちり閉められていて中は覗けないけど、その名の通り護法善神の八部衆と妙見様が祀られており、法華経の修行者の守護をしてくださるんだそうな。八部衆はあの興福寺八部衆と基本的には同じだけど、興福寺の八部衆は名称がちょっと特異らしい。けどここにもアシュラがいるってことだな。『山門堂舎記』によると、八部院は「法華三昧堂」(法花堂)の西の尾根上にあったという。法華三昧堂は最澄が空海から高雄山寺で潅頂を受けた弘仁3年(812)に最澄が創建したとされるお堂で、康保3年(966)に焼失ののち再建され、元久2年(1205)に再び焼失。以後は再建されず、現在の東塔に法花堂はない。『山門堂舎記』にも詳しい法花堂の場所は書いてないのでイマイチよくわからないんだけど、最澄当時は堂宇の数も範囲も限られていたので、現在の根本中堂付近じゃないかと思う。であれば、現在八部院のある場所は根本中堂より高い西にあるので、大体同じくらいの場所にあったものと思われる。ついでだから書いておきますと、法花堂は延暦寺の不思議伝説とも関係がある。弘仁元年(810)春、最澄が根本中堂にて三部長講を始めた夜のこと。谷の方から法華経の安楽行品を読経する声が聞こえてきた。夜の間中声の主を探しても、誰もいない。灯りを持ってよく見てみたところ、読経の主は朽ちたドクロだった。最澄はドクロを埋めてやって、その場所に法花堂を建てた、とな。『延暦寺 その歴史と文化をたずねて』だと、声は草庵の近くの塚から聞こえており、最澄が法花堂を建てるために地ならししていたところ、血のしたたるドクロが見つかった、てなちょっとおどろおどろしい話になってるけど、「草庵」が本願堂のことを指すとしても、やはり中堂付近といえる。で、『山門堂舎記』によると八部院には1尺5寸の妙見様の像が一体と、同じく1尺5寸の梵天・帝釈天・四天王の像が各1体ずつ安置されているとある。八部衆については書かれてないけど、八部院なんだからなかったハズないよな。最澄の頃は本堂は板葺だったのが、承和年中(834-848)、藤原太政大臣によって檜皮葺に新築。この時、梵天・帝釈天と四天王は中堂へ移され、最澄本願の八部衆像が八部院へ安置される。建暦3年(1213)3月23日、あらたに建立が開始される。上人の勧進により、相模の三浦和田左衛門尉平義盛が造立したものである・・・えっ、相模の三浦?これって、和田義盛のこと!?血の粛清が続いた鎌倉幕府内にあって、三浦一族の分家・和田氏も和田合戦において滅ぼされた。すでに建暦3年2月にはキナ臭い雰囲気になってたので、叡山へ堂宇を寄進してる場合じゃないだろうと思うものの、竣工が3月23日なんだから、堂宇寄進の交渉はそれ以前に済んでたってことだよな。この由来が本当であれば、八部院は和田氏が最後に寄進した堂宇っていえるんじゃ・・・ちょっとオドロキの記事でした。八部院は叡山九院のひとつ。あまり八部院の詳しい情報はないんだけど、ここで最澄の高弟・光定(こうじょう)が没したという。光定さんはまた別のところで書こうと思います。にほんブログ村
2015年01月27日

延暦寺会館脇の凍った雪道の危険なダンジョンを通過して次に目指したのがこちら↓。 円仁廟からスタートしてここまでの道筋と現在地はこちら↓。 【蓮如堂 蓮如堂は、浄土真宗第八祖蓮如上人が18歳のころ、ここで念仏の修行をしたと いわれ、貧困時代に信徒の弥七同行がお茶と、はったい粉を持って訪れ、修行姿の 痛ましさに泣いたと説かれる旧跡です。 「本願は、たのめよ南無の一つ橋踏みはずしなば三途川底」 と呼んで弥七を教化されたといわれます。堂内には蓮如上人在山時代の尊像と、 本願寺第八世を継がれた頃の尊像が安置されております。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)法然の次は蓮如(れんにょ)さんです。蓮如さんもほかのゆかりの地で書きますので、ここでは関係することだけ。よく知られているように、浄土真宗の祖とされる親鸞は公然と妻帯し、その子孫たちも同じくその血を伝えた。性欲は人間の本能とはいえ、いちおう女犯戒というのがあるし、女を囲う僧侶はいてもあくまでタテマエは「キヨラカな身」だった。それを堂々とオッケーとしたのが親鸞で、教義的に妻帯可とした唯一の宗派。その親鸞の直系にあたる蓮如は、母についての詳しい出自などはわかっておらず、父・存如が正妻を迎えた際に母はいずこかへ去ったという。蓮如が5歳の時だった。親鸞の死後、一時は真宗はかなり衰えたようで、蓮如のジイちゃんの頃には青蓮院(天台宗)の末寺となっていたそうな。むか~し、吉川英治あたりの親鸞の小説を読んだ時、確か慈円(じえん:第62・65・69・71世天台座主)が「青蓮院の君」として出てきてたよな。慈円は親鸞やその師・法然を庇護したとされるので、真宗との関係も深いらしい。永享3年(1431)、蓮如16歳の時青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。同じ年、親鸞足跡を尋ねて比叡山に登った。そしてここ東塔の地で21歳まで5年間を過ごしたという。「貧困時代」と解説にあるけど、存如の長男として生まれながら、幼い頃に実母が去り継母に育てられたこと、実家の本願寺自体が苦しい状況にあったことが関係しているのかもしれない。本来出家というのは俗世での縁をすべて断ち切って修行に励むというものだったが、時代が下るにつれ貴族の子弟なども多く仏界に入り、「第二の世俗」とも言うべき状態になる。『沙石集』を著した無住などに代表されるようないわゆる「遁世僧」は、一旦出家して「第一の世俗」を抜け出たあとでさらに「第二の世俗」の官僧の世界からも抜け出した僧侶のことを指す。『今昔物語集』には高貴な女性が叡山のナントカって僧に帰依して仏前にお供えする金品やら僧侶の衣食住を世話したって記述もある一方で、「比叡山の貧しい僧侶がうんたら」って話もあるから、出家した身といえど世俗からの援助などによって実際の修行生活にも差が出ていたものと思われる。我が子に跡を継がせたいという母の思いはいつの時代も同じことで、正妻の子でなかった蓮如は一時は本願寺を継げないカモ、という場面があった。ので、実家からの援助も期待できなかったのかもな、と思った。信者からの差し入れのはったい粉をぐるぐる混ぜながらここでひもじく修行したのか~。このエピソードから、蓮如は「麦粉上人」と呼ばれたそうな。本願寺大躍進のきっかけを作り「中興の祖」とされる蓮如さんだけど、精力的だったのは布教だけではなく、5人の夫人に27人の子をもうけた。弥七の差し入れに蓮如は涙を流して喜んで食べたというので、のちの精力的な活動を支えた一端がはったい粉だったのかと想像してちょっと口元がゆるむ比叡山十六谷のうち、東塔は東西南北の谷と無動寺谷の計5つの谷に分けられ、根本中堂・文殊楼などのもっとも観光客で賑わうメインエリアの裏手にあたるこの場所は「北谷」という。天海の僧坊があったのは南谷。北谷は主要堂宇のすぐ近くにあるというのに、観光客にはほとんど会わなかった。 扁額の上にある蟇股↓。 正面に向唐破風を付けたお堂はなかなか立派な造りだけど、北谷での蓮如の修行は竹の柱にムシロの壁のお堂という実に簡素どころじゃないものだというので、今ある蓮如堂は近世以降の建築だろう。正面の戸にはガラスが入っているので、後世の修築か、近代の建築なのかもしれない。さてこの蓮如堂、戸には「ご自由にお入りになってご参拝下さい」とある。ので、どっこいしょと座り込んで登山靴を脱いでから戸に手をかけようとしたら、 えええ~、ウソでしょ~!?めんどくさいのを我慢して山靴脱いだのに!そりゃないべ~・・・くうっ、仕方ねえ。戸にはくもってるガラスとくもってないガラスの2種類が入っていたので、くもってないガラスから中を覗く。撮影禁止とは書いてなかったので、ガラス越しに写真を撮らせてもらった。 ふう、とりあえず中が見られたからいいか・・・また座り込んで登山靴を履いてから蓮如堂を出ると、真ん前にはこんな碑があった↓。 うん?これ法然堂のことだよな・・・なんでこんな場所に?しかしよく見ると、文字の上にはうっすらと方角を示す手の絵が描かれている。あ、法然堂へはあっちへ行きなさいって意味か。現代風の解説版に加え、山内のいたるところにはこうした碑がある。ぱっと見、碑のあるところがその旧跡なのかとも思ってしまうので、ちょっと注意が必要だな、と思った。蓮如堂から道なりに奥へ進む。この先はカーブになっていて、カーブの先の道路脇の斜面の雪にはてんてんと動物の踏み跡がついているので↓ これはかなり小さい動物だよな、とアニマルトラッキングしてたら、斜面の下の遠いところに何かあるのが目に入った。 なんか、石碑みたいのが建ってる?ぐい~んとカメラをズームしてみると、 「本願堂旧跡」・・・あっ、あれ、最澄が最初に庵を建てたって場所じゃ・・・石碑には一部読めない箇所もあるけど、 【伝教大師初入山●● 虚空蔵尾 本願堂旧跡】とある。虚空蔵尾(こくぞうお)なら間違いない、あそこが叡山におけるすべてのスタート地点だ。この場所は観光案内図には載ってません。大体の位置はこんなとこです↓。 喜んでるピンクの人間がわたくしで、蓮如堂からカーブを曲がった先の場所から見下ろす形になります。道路にも本願堂跡を示す看板などはないので、知らなければ見落とす可能性大です。わたくしもはっきりと本願堂跡の場所をつかんでいた訳ではなかったので、これはラッキーでした。この石碑は平成21年秋、天台座主の揮毫によるものらしい。石碑自体は新しいものだけど、周囲には基壇のようなものがあるし、こちらに面して入口のような跡もある。そしてその正面に灯篭が一本立っていることから、最澄が当初草庵を結んだ時の遺構ではないにせよ、ある程度の時期まではあそこに立派なお堂が建っていたものと思われる。とりあえず手持ちの資料では、元禄16年(1703)に他の堂宇とあわせて大がかりな修理が行われたということまでしかわからない。本尊は薬師如来。初代座主となる義真も本願堂で修行をしたという。あ~、あそこまで行けないもんかなあ。周囲を見回しても下へ通じる道はないし、ここから直行するにはガードレールを乗り越えてうっすら雪の積もった急な斜面を下りなければならない。それはさすがにちょっとな・・・それにしても、現在の東塔のメインである場所より一段下がった東谷や北谷へ庵を構えてもよさそうに思えるのに、さらに下がったあんな場所にまず落ち着いたのか。ちょっと意外にも思えたけど、『叡山大師伝』には松の下・岩の上に坐しセミの声を聞き読経を響かせ、石を部屋とし草を堂とした、てな様子が書かれているので、草庵といっても最初はごく簡素なものだったろうから雨風をしのぐには高い露出した場所よりくぼんだ場所の方が都合良かったのかもしれないな、とも思った。あの裏手には小さな沢もあるしね。でも元々水っぽい場所のようだし、大雨でも降ったら水びたしになってたカモ・・・にほんブログ村
2015年01月25日

円仁廟から聖尊院堂へ戻り、延暦寺会館へ向かう道を引き返す。その途中にはこういう場所がある↓。 浄土宗の祖・法然さんが修行したと言われる場所、法然堂です。法然さんについてはあとの記事で書くのでここでは省きますが、僧侶としての人生を歩み始めた第一歩は叡山の西塔・東塔で、のち黒谷へ移り、その後叡山を下りるまでのトータル30年を叡山において過ごしたようです。一部凍った場所もある石段を注意深く下りていくと、奥に大きな石碑が見えた↓。 左に写っている建物は僧坊と思われますが、なんだか一般住居のような雰囲気。人様の家に勝手に入り込んだようでちょっと気がひけるけど、あれだけ大きな石碑が建っているのだからいちおう進んでもOKということだろう。 はじめ西塔の源光に師事した法然は2年でその教えを吸収し、東塔の皇円を紹介されて皇円のもとで得度。皇円さんはあの「扶桑略記」を編纂したともいわれる方。一般には「法然」という名があまりにも有名だけど、実は法然というのは「法然房」という房号で、法名は「源空」(げんくう)という。「源空」は最初の師・源光と、のちに師とあおぐ叡空(えいくう)から一字をもらったものと言われている。「得度の霊跡」とうたっているからには、ここで皇円に付いて修行をして得度をしたのだろう。得度は久安3年(1147)、14歳のとき。ピッチピチの法然さんはここからどんな景色を見たのだろうと谷の方へ寄ってみると 展望は良くなかったけど、遠くに琵琶湖がかすんで見えた。あとで法然さんゆかりの寺へ行った際、とある事に気がついた。お寺ってのは「○○山○○寺」という名称のように、高い場所にある場合が多いけど、ほとんどは小高い丘とか裏山といったレベル。そして、開祖の墓とか重要なものは山内でも奥まった高い場所に置かれているというイメージがあった。が、叡山では逆に「谷」が重要な要素を持っている。「谷」について、『比叡山 その文化と歴史を訪ねて』にはこんな説明がある。 【山内を地域別に、東を「東塔」、西を「西塔」、北を「横川」の三つに区分している。 これを三塔といい、それぞれに本堂がある。(中略)これら三つの本堂を中心に 合計十六の谷がある。谷と言っても谷底の意味ではない。寺院が集落している場所を 谷と呼んでいるのである。 どの谷にも本堂がある。それを谷本堂と呼ぶ。その谷本堂を中心に山坊がある。これを 一山寺院と呼び、最も盛んな中世には、その数三千といわれた。比叡山三塔、十六谷、 三千の坊と豪語していたのである。】谷底ではないといっても、実際の生活の拠点は低い場所にあり、叡山の高僧たちの墓でそうした場所にあるものも多い。これは本格的山岳寺院という性格のためで、立地に制限があるゆえと思われる。延暦寺の始まりが一般によく言われる「桓武天皇の命により、京の鬼門にある比叡山に最澄が寺を建てた」というものではなかったことは、ここまでの歴バナで書いた通りですが、最澄はそもそも「比叡山に大寺を建ててやろう」なんて思って山に入った訳じゃない。あくまで自然な流れで延暦寺は発展していっただけで、登山者の視点でいえば叡山は低山の部類に入るものの、ここに堂宇を展開しようと思ったら、まずわずかな高い平地に公的かつ主要な堂宇を建てただけでもういっぱいいっぱい。僧坊なんてとても建てられない。「下から見上げると急な山だけど、登ってみたら意外にテーブルマウンテン」て山もあるにはあるけど、叡山は山らしい地形を持ったフツーの山だった。そこで、必然的に下がった場所に平地を見つけて僧坊やら墓を置いたのだろうと思った。巨大山岳寺院ならではの山内配置といえるだろう。法然堂を出て次に向かおうと歩き始めた時、見落としたものがあるのに気がついた。この近くにあるのは間違いないので聖尊院堂のあたりまで戻って道を探したけど、そもそもはっきりした場所もわかってなかったので結局諦めた叡山は古くからの信仰の霊場。「古事記」には藤原不比等の子で藤原四兄弟の長男・武智麻呂(むちまろ)が叡山に登ったという記述がある。武智麻呂の子が孝謙女帝の最初の愛人と世間でウワサされる藤原仲麻呂で、仲麻呂はパパの旧跡をたずねて叡山へ登り、詩を作っている。 近江は惟(こ)れ帝里、神叡(ひえい)はまことに神山、 山静かに俗塵寂たり、谷閑(しず)かに真理専らにあり、 あゝ我が先考、独り悟りて芳縁をひらく。 宝殿は空に臨みて構え、梵鐘は風に入りて伝う。 煙雲。万古の色、松柏、九冬専らなり。道鏡が躍進を遂げた年に最澄が生まれるので、仲麻呂の登山は最澄が叡山に入る以前のことです。世間の俗塵から離れた山深い叡山は「まことに神山」・・・仲麻呂が見た当時より現在はかなり開けたとはいえ、そういう雰囲気は叡山の各所で感じることができます。もっとも、その多くは一般の観光コースから外れた場所ですが。しかし、「神山」と言っても叡山はどこまでも清らかな聖山ではなく、魔所や地獄も存在します。魔所には「三大魔所」といわれるものがあり、わたくしが見落としたことに気付いたのはそのうちのひとつ、天梯(てんだい)権現社。この辺の道から少し入った場所にあるということぐらいしか現地ではわかっていなかったので、脇へ入る道がないか探したけど案内板も何もなく、わからずじまいだった。あとから東塔の配置図を見た時、堂々と権現社も描かれていたことに気づいてちょっとびっくりした。魔所だから秘すべきものかと思っていたけど、そういう訳でもなさそうだな・・・ 右はじの赤マルが天梯権現社。これによると聖尊院堂から円仁廟へ向かう途中に道があるようだけど、そんな分岐気付かなかったぞ。先人の訪問記を見るとどうも権現社にはほとんど道なき道を行くようなので、配置図には立派な道が描かれているものの、どうやらその気になってかすかな道跡をたどっていくしかないらしい。天梯権現社は東谷より少し高い場所にあるようで、そこから中国の天台山と叡山を天狗が行き来していたという伝承がある。天梯権現社じゃないけど、『今昔物語集』には叡山の僧と天狗の話がある。 ある時、叡山の僧が悪ガキどもにいじめられていた古鳶を助けた。 「アタタ・・・くそっ、あのガキどもめ。 おい坊主、助けてくれてありがとな。 この礼に、なにかひとつ望みを叶えてやるぞ」 古鳶は天狗だった。 「何でもいいのか? なら、ぜひともこの目で釈尊が霊鷲山で説法する場面を 見たいものだが、そんなことお前に出来るのか?」 「おう、お安い御用だぜ。 だが、ひとつ条件がある。 その場面を見ても、絶対に信心を起こすなよ。 拝んだりしたらアウトだぜ?」 「ホントに見られるのか!? わかった、約束しよう」 「よし、決まりだな。 チチンプイプイ・・・ホレッ!!」 天狗はお釈迦様が霊鷲山で説法している場面を再現してみせた。 その様子に僧がたまらず我を忘れて礼拝すると、説法の幻影は消えてしまった。 「拝むなっつっただろーが!! お前が約束を破るから、俺は護法天童にしこたま 打ち据えられちゃったじゃねーか! アイタタタ・・・」 (巻19の34)『今昔物語集』には摩訶不思議な話が数多く収められており、怪異に接する機会の多い僧侶のみならず人外の影響は一般人にも及ぶ。以前会った美容師さんは霊感のある人で、天狗はいると言っていたし、その旦那さんはカッパを見たという。わたくしには霊感はないし、今後もそんなものいらないけど、それでも叡山では「ここ、マジでやだ・・・」と思う場所も数か所あったし、逆に無性に離れがたい場所もあった。残り2つの魔所のうちひとつは「魔」というより「聖」を強く感じた。もうひとつの魔所では、後から考えると我ながら実に奇妙な行動をしでかした。天梯権現社へは行かれなかったので何とも言えないけど、円仁廟に行く途中のガーディアン集団の墓の場所はたまらなくイヤだった。墓場に慣れているわたくしでも、たまにそういう場所はある。天梯権現社のすぐ近くには、かつての表参道ともいうべき登山道が通っている。この道は京から見た場合、鬼門を貫いているというのはよく言われるところで、翌日はこの参道を自分の足で歩いたけど、参道のすぐ近くにはこれまたたまらなくイヤな場所があった。その時は、「うう、こんなとこ来るんじゃなかった・・・」と半泣きになりました。この参道はお盆になると死者がぞろぞろ登ってくるという伝承も持っており、そういう場所だからこそ参道の近くに魔所のひとつが存在しているのかもしれない。山麓には地獄への入口という伝承を持つ場所もあり、怪異の話は比叡山全体に数多くあるそうな。その中には最澄にまつわる伝承もある。そういう伝承などもあわせて霊感のないわたくしが山中を歩いて感じた叡山は、「異所」とか「魔界」とか「霊山」と呼ぶのがふさわしい山だろうというものだった。ただ、神と魔は紙一重。魔所のうちのひとつにはとある方の墓もあり、イメージ的には怖い感じだけど、わたくしはそこがたまらなく気に入った。「ここは聖域なんだ」とその時思ったものだ。だから、「聖なる魔の棲む山」と呼ぶのが叡山にはもっともふさわしいとの結論に至った。最澄が選んだのはそういう山だった。にほんブログ村
2015年01月24日

施薬院全宗の顕彰碑である亀塔は歴史ファンの叡山の訪問ブログでもそこそこ紹介されている。が、まるで兄弟のようによく似たものが寛永寺にあることを書いている人はいない。了翁さんと全宗の碑のそれぞれの建立時期はわからないけど、寛永寺の周辺に叡山とよく似たものがあることを考えあわせれば、亀塔の方が先にできてそれを模したものを寛永寺にも建立したと考えるのが自然だろう。日光にも寛永寺と同じ金札があったし、三山の中で共通するもの、似たようなものを自分の目で探し出すのも楽しい作業です。いずれもカギになるのは寛永寺。つまり、寛永寺を知ることで日光と叡山もまた違った楽しみ方をすることができるという訳ですね。さて、聖尊院堂のあるこの場所は「東谷」と呼ばれ、かつては僧坊が多く建ち並んでいたという。付近にはぽちぽち石積みも残り、平坦にならされた地は確かに僧坊の跡地をうかがわせる。 ここはあくまで通過地点。聖尊院堂の裏にはお目当てのありかを示す看板が立っている↓。 ふっふっ、東塔の主要な堂宇を見ずにまず墓参りだすここから350メートルね・・・慈覚大師・円仁さんの墓の場所ははっきりとはわかっていなかった。が、まあとにかくこの道を行くのは間違いないだろう。近代的案内板の他にも、円仁廟への道を示す古い石碑が立ってるし↓。 で、ここから山道らしくなる↓。 はっきりした場所がわかっていないだけに少々心細いけど、ところどころに残る古い石垣がわたくしの目を楽しませてくれる。 御廟道を7分ほど歩いたところで、細い道の脇に墓が現われた。ちょっとここは怖かったので遠くから撮るにとどめた↓。 愛用の頼政の数珠を握りしめながら墓の間を歩く。墓の中には「ナントカ探題」とか刻んであるものもあった。叡山で買った『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』(比叡山延暦寺発行)によると、 【論議の論題を選定する役を探題と呼び、その最古参探題が天台座主に上任される のである。】ということなので、叡山の高僧も混ざる古いお墓らしい。登山道の細くなった橋のような道の両脇にずらりと並ぶ墓を見て、円仁廟を守るガーディアンみたいだな、と思った。ガーディアン集団の場所を過ぎてしばらく歩いても、それっぽいのは出てこない。ここまでは一本道だったけど、円仁廟への案内は聖尊院堂にあったものだけ。なにげに結構下ってきたし、どんどん山の奥へ入っていくな・・・このまま行ってホントに大丈夫なのかな、とかなり不安になった頃、ようやくお目当てが見えてきた↓。 聖尊院堂からここまで、ゆっくり歩いて14分。が、途中何も案内はないのでもっと長く感じた。とにかく、無事に着いてよかった この鳥居は大正12年10月の建立。御廟の前に立つ灯篭も結構新しいもののように見える。 正面で円仁さんにご挨拶してから、脇に回り込んで玉垣の中を覗いてみる。 ほお、無縫塔だ・・・当初からこのスタイルだったのかな。 台座や玉垣はそこそこ新しいもののように見えるけど、無縫塔だけ色が違っているので、塔だけは引き続き古いものを置いたみたいだな。え~、で、円仁さん。叡山が生み出した綺羅星のごとき高僧たちの中でも、この方はかなりビッグなお方。あまりにビッグすぎるので、ひとまずここでは叡山の歴史に関わる部分だけ簡単に紹介するにとどめます。円仁さんなら他に書く機会はいくらでもあるしね。最澄たんが密教を持ち帰るまでは「叡山攻め(74)」~「(77)」に、空海たんとのからみについては「高野山が出稼ぎに来てます(9)」で紹介しました。空海に説教されて以降、空海から密教を摂取する道は頓挫したような形になってしまった。空海の帰国後、最澄はさまざまな困難に立ち向かうことになった。空海の持ち帰った真言密教が一世を風靡したことも要因のひとつだけど、ほかにもそれまでは内包されて表には出てこなかった問題や最澄自身が提示したことが激しい物議をかもすなど、入唐前とはうって変わって鳴門の渦潮の中に放り込まれたような状況になった。ここで、これまでひたすら天台の修行に邁進してきた「最も澄む男」は困難に立ち向かうファイターへと変身した。泰範(たいはん)が最澄のそばにとどまっていたら、あるいは泰範が最澄の後を継いでいたかもしれない。弘仁3年(812)、最澄は遺言を記す。この年、最澄は病床についており、まだ46歳なのに「老病僧」と言っているので、すでに先行きに不安を抱えていたのかもしれない。で、後継者として泰範を山寺総別当に、円澄を伝法座主に指名した。が、泰範は結局帰ってはこなかったし、弘仁13年(822)には義真を後継者として義真が初代の天台座主となった。はい、最澄の通訳として一緒に渡海したあの義真さんです。唐での経験が大きかったんじゃないかと思うけどね。ただ、一旦は円澄に後事を任せてもいるし、ほかの最澄の弟子たちの思惑もあってスムーズに法統を継いだ訳でもなかったらしい。最澄の晩年から死後にかけて、叡山には早くも妖しい雲が漂っていた。義真は円澄より若かったけど、円澄より先に世を去った。義真は自分の弟子である円修に継がせたかったらしいが、それは叶わず円修は叡山を下り、円澄が第2代座主に就任した。円澄の死後、叡山は再び相続問題で混乱する。ま、この頃の方たちは最澄と同じ時間を過ごしているので、「義真派」と「円澄派」のようなゆるやかな流れができつつあった時期といえる。円澄は生前、自分の後継者に円仁を指名していたらしいが、色んな人の色んな考えがあり、天台座主は長いこと空位のままだった。円仁が唐へ留学してより完成度の高い密教を持ち帰った後で円仁が第3代の座主となった。空海の持ち帰った真言密教は「東密」(とうみつ)と呼ばれる。対して、最澄に始まる叡山の密教は「台密」(たいみつ)と呼ばれる。最澄の段階ではまだ台密は不完全だったのが、本場で勉強し直してきた円仁、それから2代あとの円珍によって台密は完成を見た。これでもう叡山は密教に関して引け目を感じる必要はなくなった。この功績は大きい。ただ、これ以降、ゆるやかな派閥はしだいに先鋭化し、ついには大分裂を引き起こす。それ自体は円仁さんの責任ではないけど、色んな意味でターニングポイントとなったとは言えるだろう。結局のところ、最澄が後継者を円澄から義真に変えたことで叡山に分裂の火種が生まれ、しだいにその火は大きくなり、円仁・円珍のあとに大きく燃え広がってのちの山門(延暦寺)・寺門(三井寺)の抗争へ発展したといえるだろう。円仁さんはまだ火種が比較的小さかった時期を生きた訳だけど、彼自身は温厚な人だったという。が、その一方で宗教的政策としてはかなり大胆な変革も行っている。円仁さんが創建、あるいは復興をしたという伝承を持つ寺は実に多い。彼の伝承は東北にまで及ぶ。寛永寺シリーズを書いたあたりから、意外にも関東では天台が強かったことを知って驚いた。関東といっても広いし時代による差もあるかもしれないけど、特に奥武蔵から上野・下野にかけての古道に沿った地域で天台が強い印象がある。それらの寺はおいおい紹介していくと思いますが、最澄が関東を訪れたことも影響しているのかもしれないけど、個人的には円仁の努力が大きいんじゃないかな、って気がする。もし関東で天台が盛んでなかったら、イエアスは関東天台を独立させようとは思わなかったかもしれない。そうなると寛永寺の歴史は変わっていたかもしれないし、場合によっては寛永寺は誕生すらしなかったかもしれない。寛永寺の創建は円仁が活躍した時代から800年近く後のことだけど、そう考えると歴史ってのはすごいもんだな~としみじみ思う。にほんブログ村
2015年01月22日

天海の石碑から道なりに進むと、東塔の入口がある↓。 ここで拝観料を払って、いざ叡山の中心部、東塔へ。観光のメインエリアには各所に案内図も置いてある↓。 ただね、こーゆーとこって道がすごくわかりにくいんだよねわたくしはのっけから位置関係を把握するのに時間がかかった。とりあえずメシが待っているので、延暦寺会館を目指す。歩き始めると、延暦寺のロゴ入りの消防車があった↓。 おお~、山上に消防車を常備しとるのか!いざという時、歴史的建造物を守るために日夜待機しとるのだな。さて、わかりにくいながらも主要な堂宇をスルーして辿り着いたのがこちら↓。 これが延暦寺会館。ここは宿坊も兼ねていて、泊まることができます。ここに泊まれればベストでしたが、冬季は宿泊はやっていないので仕方なくランチだけ予約したとゆー訳です。受付で名前を言うと、2Fのレストランに上がるように言われた。内部はかなり綺麗な作りで、部屋に入るとわたくしの昼ごはんの準備ができていた。 窓際の席で、琵琶湖も見えた↓。 確か「ゆばどんぶり」みたいなメニューがあって、ゆば好きなわたくしはそれにしたかったんだけど、オフシーズンのためかメニューが限られていて、「比叡御膳」なるものを頼んだ。もちろん精進料理です。ここは予約制ですので、ご利用の方は事前の予約が必要です。お姉さんに「お飲み物は」と聞かれたのでコーヒーがあるか聞いたら、それは1Fの喫茶室に行かないとダメらしい。でオレンジジュースを頼んだら、出てきたのは昔なつかしい小ビンのリボンシトロンだったうっわ~、これってまだ現役だったんだ。こんなの何年も飲んでないぞ・・・今どきこれが活躍するのって、法事ぐらいじゃ・・・て、ここで今や叡山も霊園経営に乗り出してることを思い出した。そっか、延暦寺会館では法事の後のお食事会なんかもやってるのかもしれないな・・・思いがけないリボンシトロンの登場に動揺したけど、食事は美味しかったッス。人も少なくて静かだったしね。あ~、ここ泊まりたかったなあ・・・1Fには売店がある。あまり荷物が増えるのも困るけど、ここにはもう寄らないだろうから物色。結構本の類があったので数冊買う。あとお香を物色したんだけど、ちょっとオドロキの品があった。 結局買わなかったので現物の写真はありませんが、上のお香は寛永寺で買ったものです。パッケージがこれとそっくりの品が叡山にあったんですよ。まさか匂いも同じか!?と思って見本をかいでみたのですが、いつ開封したものなのかほとんど匂いはわからなかったが、寛永寺の東叡香とよく似た香りのような気がしました。現在の寛永寺と叡山が仲良くタイアップしてお香を開発するとも思えん・・・が、外見も中身もそっくりなんて偶然とも思えん・・・まさかどちらかが真似っこした訳でもないでしょうが、三山のお仲間がよく似たお香を出していることがかなりオドロキでした。ちなみに、日光輪王寺も数種類お香を出しているものの、日光にはこれと類似するお香はありません。買い物を済ませて外に出る。延暦寺会館の前には小さなお堂やら石碑やらある。 ↑ちょっとこのセンス、いただけない・・・ 「天上天下唯我独尊」かと思った。あとこんなのも↓。 アハハハ・・・しかし、「足利-比叡山完歩記念」てあるぞ。栃木から叡山まで歩いたのか?さて、東塔は3つのエリアの中でも中心的な存在であり、観光客が最も集う場所。が、明日も下りはケーブルを使うからここへまた来るし、今日と明日の空き時間でぽつぽつ東塔の堂宇を見ようかと思っているので、まずは遠い場所から攻めることにする。で、延暦寺会館の脇の道を下ろうと向かったら、まばらに溶けた雪が凍っていて大変なことになっていた。凍っていない場所を探しつつ脇の手すりにもつかまりながらゆっくり坂を下りる。こーゆー時、舗装路は始末が悪い。最初の凍った小さな坂をちまちま下りると、ふっかりと雪が積もっていた↓。 中途半端に雪が溶けた道よりも、こーゆー方が逆に歩きやすい。少し歩くともう雪はほとんどなかった。 さらに少し歩くと、お堂が見えてきた↓。ここまでが舗装路。 お堂へ寄る前に、舗装路の先っぽへ行ってみた。かなり急な斜面↓。 同じ場所から道の先を見たところ↓。明日は自分で登ってくるから、たぶんここへ出るんだろうな。 ではお堂へ向かいます。 この場所は赤マルのところにあたる↓。 古びたお堂は一見素木造りのようだけど、かすかに彩色が残っている。かつては朱も鮮やかなお堂だったのだろう。お堂の真ん前にでーんと1本灯篭が立つのは古い形式のものなんだってね。宝形造りのようだけど、屋根の真上にはプチ大棟みたいなものが乗っていて、変わった造りをしている。中には摩耗してかなり古そうな石仏が一体↓。 ここは聖尊院堂という。が、「亀堂」という名の方が通りがいいかもしれない。亀の由来はお堂のすぐそばにある大きな石碑にある↓。 事前の調べではここの情報は持っていなかったので、亀堂がどーのというより現地では別の視点で嬉々として写真を撮った。 何に喜んだかって、寛永寺にある了翁さんの石碑にそっくりでしょお~!【薬樹院之碑】というタイトルのこの碑は、織田軍による元亀の法難のあと、叡山の復興に努めた全宗さんを称えたものなんだそうな。碑文の全文を読めるほど現地では写真は撮ってこなかったんだけど、一部読める部分には「放火僧侶逃亡」とかそれっぽい文字が刻まれている。織田信長氏による叡山の焼き打ちは有名な話ですが、わたくしは一般に言われているほどの凄惨なものではなかっただろうと思うので、たぶん本シリーズでは自分から触れることはないと思います。が、全宗って・・・まさか、施薬院全宗のこと!?でウィキペディアを見てみたところ、 【元々比叡山菜樹院の住持であったが、織田信長による比叡山焼き討ちの後、 還俗して曲直瀬道三に入門し、漢方医学を極める。(中略)荒廃した比叡山の 再興にも尽力した。】とあった。そうなのか、全宗は叡山の僧だったのか!知らなかった・・・あ~、碑文の全文、写真に撮っておけばよかった にほんブログ村
2015年01月21日

さて、こちらが坂本ケーブル↓。 開設は昭和2年。2,025mを11分で結ぶという、日本で最長のケーブルだそうな。そういえば、これってアレだよな・・・と以前したツイートを思い出した。 【比叡山に特攻基地があったのをご存知?1944年全国のケーブル25線は軍に徴収。 坂本ケーブルは比叡山頂に戦闘機「桜花」のカタパルトを建設するのに使われた。 山頂に作ったのは燃料不足を補うため。完成はしたものの、竣工式の前に終戦となり、 米軍に知られぬようすぐに爆破され軍は撤退したと。】という歴史も持っているケーブルです。よくまあ140字(←ツイッターの文字制限数)以内に収めたよなと自分でも思いますが(笑)、結構衝撃的な事実だったのでね。このケーブルには途中2つの駅があるんだけど、これって通常個人でも途中下車できるものなんだろうか・・・青函トンネルも途中駅はあるけど、普段は下りられないじゃない?ケーブルは30分おきの発車なので、それまで駅舎の周りをプラプラしていたけどそろそろ時間となったのでケーブルに乗り込む。 オフシーズンなので乗客は少ない。外観も良かったけど、内装もクラシカル↓。 車窓から見る叡山は立派な山で急峻なガケも多い。この時、わたくしが注視していたのが積雪の状況。もちろん今回はれっきとした山歩きスタイルで臨んでいるけど、初めての道でもあるしあまり雪が積もっているようだと道を見失う可能性もあるから、登山道の状況によっては計画の変更も考慮に入れなければならない。 高度を上げるにつれ、線路わきの雪は増えてきたけど、山中の道の方は何とか大丈夫そうだな・・・標高176mのケーブル坂本駅から660mのケーブル延暦寺駅まで一気に高度を上げて、快適なケーブルの旅は終わる。 坂本ケーブルには「縁号」と「福号」がある。今回わたくしが乗ったのはフクちゃんの方だった。 ケーブル駅を出ると、そこは雪国であった・・・ ああ、やっぱりね。でもこの程度なら、山中では木々がさえぎってくれるから登山道は大したことないハズだ。もしもの時のために登山用の4本爪軽アイゼンも用意してるから、ある程度の積雪までは対応できる。登山をやっててホント良かったなあとこーゆー時思う。つか、登山をやってなかったらわざわざ叡山くんだりまで来て山歩きをしようなんて思わなかっただろうけど。駅前からは遠く琵琶湖が見えた↓。 こちらがケーブル延暦寺駅の駅舎↓。昭和2年、「叡山中堂駅」として開業して以来の建物で、国の登録有形文化財。 駅舎のすぐ脇には南の方へ延びる参道が続いている↓。こちらにも寺があり、時間があればぜひ寄っていきたいんだけど、今は先を急ぐので見るだけ さて、まずは中心部を目指す。道の脇には雪も積もっていたけど、歩く道の方はおおむね雪かきがされていたのであまり問題はなかった。 「比叡山延暦寺」と一般に言われるものの、「延暦寺」という寺はない。こちら、叡山の全体構成図になります↓。 (現地看板の地図に若干加筆)これらすべてを総称して「延暦寺」という。山上では大きく3つのエリアに分けられ、中心となるのが「東塔」(とうどう)。少し離れたところに「西塔」(さいとう)、最も山の奥まったところにあるのが「横川」(よかわ)。地図でピンクの星印がケーブル延暦寺駅。ここから稜線を回り込んで東塔に至る。歩き出すと叡山の歴史の解説版が現われた。 【比叡山 世の中に山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山をぞいふ 慈鎮和尚 この山は伝教大師最澄上人によって開かれた仏教修練の山岳道場で一千百数十年の 歴史をもつ天台宗総本山延暦寺の山で鎮護国家の霊場として、また日本仏教文化の 母体をなす山である。約2,400ヘクタール(2,400余町歩)にわたる境内には 東塔、西塔、横川の三塔と谷々合わせ16谷あり林間に堂塔伽藍を配し、延暦寺境内 として史跡に指定されている。境内には国宝根本中堂および10棟の重要文化財、 県指定建造物のほか、多数の国宝、重要文化財指定の美術工芸品がある。 見渡す緑の山林の一木一草には、伝教大師の精神が浸みわたり人々の心のふるさとに なっている。鳥類もまたこの山をふるさととして繁殖し、留鳥候鳥数えて70数種に 及び、鳥類繁殖地として天然記念物に指定されている。現在山上、山下に100余の 寺院があり、永い歴史は数々の史実をいまに伝えている。「煙雨比叡の樹林」として 「琵琶湖八景」の一つに挙げられ琵琶湖と共に国定公園に指定されている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)では、東塔へ向かいます。 叡山には一度だけ来たことがある。高校の修学旅行の時だった。今から思うと公立の割に自由な校風というか結構独特な学校で、修学旅行もこんな真冬の時期だった。団体様だから当然バスで山内に入ったのでこちら側の道を歩くのは初めてだけど、大昔ということもあり、おぼろげな記憶しかない。確か座禅体験もしたような・・・が、ひとつだけ鮮明に覚えていることがある。真冬の清冽な空気と大寺の厳粛な雰囲気に触れて、多感なわたくしは「このままここで出家してえ~!!」と思ったのだ。今でも人界のわずらわしさに接すると「山で炭でも焼いていたい・・・」とよく考えるけど、遁世願望は昔からだったんだなま、当時は当時なりに感動したようですが、今のわたくしは叡山で何を感じるのでしょう・・・歩く道々には石積みや石仏も現れる。 このクソ寒いのに、雪だるまを作る物好きもいた↓。てか、雪だるまなら積むのは2段までにしとけや! しばらく歩くと、第3駐車場に出る。ここにいきなりお目当てがあった↓。 場所はこちら↓。赤い■の場所にあります。 いやあ~、細かいスポットの位置まで教えてくれる訪問記ってのはなかなかなくて、場所がよくわからなかったんだよね。目立つ場所にあってよかった。この石碑はずいぶんと新しい。それもそのはず、碑の側面には「天海大僧正三百五十回忌法要記念」とある。平成5年の建立ってことだな。「日本仏教の母胎」ともいわれる叡山では日本仏教各派の祖師たちを数多く輩出し、叡山にとどまった中にも高僧は多い。そういう中で、叡山における天海の評価はあまり高くないように感じる。寛永寺の堂塔整備を一旦置いてまで叡山の復興に努めたんだけどね。現地でお寺の関係者と話をした中で、三山のうちの仲間からはあまり寛永寺は良く思われてないのかな・・・と思う場面があった。結局、日光輪王寺と叡山は同じ時期の創建で寛永寺よりもずっと長い歴史を持っている。それを、新参者の天海と寛永寺が実権を奪ったような形になったので、よく思われてはいないのかもしれない、という印象を受けた。もちろん、現在の日光では天海を復興の恩人として扱っているし、叡山でも表立って天海を悪く言うことはしていない。でも、わたくしはそう感じる場面があった。天海が悪いというよりも、大寺のプライドみたいなものを感じたのだ。ので、こうして天海のための法要が叡山で行われて僧坊跡の史跡整備もされているのを見て少しほっとした。にほんブログ村
2015年01月20日

やれやれ、日光編に思ったより時間がかかっちゃったので2ヶ月近くあいちゃったな。旅行前の忙しい時を除いては、ほぼ毎日更新してたんだけどな・・・さて、予告通りここから叡山編を再開します。だいたい過去のシリーズだと、1日分の行程を書くのに約1ヶ月。この旅は4泊5日だったから単純計算で5ヵ月かかることになり、さらにイベントを1つ書く予定なのでここから半年ぐらい?体調の良しあしにもよりますが、今年は近場をちょっとアグレッシブに回るかもしれませんので、合間にその報告を入れていたら夏越しちゃうかもしれない。去年の短編でさえまだ書いてないのが数本あるとゆーのに・・・ま、地道に頑張りますサアー。で、ここから旅日記に入ります。ここまでの流れは本シリーズだけでなく色々なところにも関わってきますので、簡単に「読み返しといてね」って言える分量でもないですが、仏教史も含めた「叡山攻め(77)」までをしっかり押さえておいてくださいね。え~と、最初の宿は山科に取ったので、一旦山科の宿に寄って荷物を預けるところまで「叡山攻め(3)」で書いたんだっけかな。で、身軽になったところでいよいよ行動開始です。ハイカーならいざ知らず、叡山の史跡めぐりで登山道を歩こうという物好きは全体の数からいえば相当少ないんじゃないかと思われますが、今回の訪問では結構山中を歩くプランを組んだ。なぜって、最澄をはじめとする日本仏教史に名を遺す方々はみんな自分の足で登り下りしていたのだから。最澄の選んだ比叡山というのがいかなる場所なのか、主要な堂宇の建ち並ぶ観光のメインエリアだけを歩いていたのでは体感をすることはできない。建築好きなわたくしですので、歴史ある堂宇を見ることも楽しみのひとつでしたが、それ以前に山中を歩くこと自体が叡山を訪れた目的そのものでもあった。そうは言っても、山中に宿を取れなかったので登り下りすべてを自分の足でまかなっていたのでは時間がかかりすぎる。そこで便利なケーブルを併用しながらの訪問となる訳ですが、山の上に行くには京都側からと滋賀側から2つのケーブルがある。が、京都側からのケーブルは冬季は運行を休止するので、必然的に滋賀側からのアプローチとなる。山科から山麓の坂本へ行くには、JRとおけいはん(京阪電鉄石山坂本線)の2つの電車が通っている。2011年にわたくしは大津へ2回行っていて、その時おけいはんが便利で好きになったので今回もおけいはんで行くつもりだった。JRよりも山麓に近い場所に駅があるしね。が、荷物を預けて時刻表を調べてみると、おけいはんは乗り替えの上時間がかかるのに対し、JRだと山科から1本で早く行かれることが判明したのでJRで坂本へ向かった。結局、この旅では最後までおけいはんは使わなかったんだっけかな。JR比叡山坂本駅に着くと、バスの時間までは少し間があった。歩こうかとも思ったけど、JRからだと結構かかるのはわかっていたので、おとなしくバスを待った。今回、急いでいたのはワケがある。実は山の上でランチの予約をしていたのだ。あちらではケーブルの時間も把握しているので、大丈夫そうな時間に予約を入れたんだけど、遅れるようなら連絡がいると事前に言われていたので、とにかく早く山の上に上がりたかった。んで、バスに揺られて着いたのがこちら↓。 比叡山坂本ケーブルの「ケーブル坂本駅」。登山をしない人の中には、「登山に体力が必要なのは登り」と思ってる人が多いんじゃないかと思うけど、実際に脚力と注意力が必要なのは下山のほう。登りは極端な話、ゆっくりと歩けばある程度の比高なら誰でも登ることはできる。もちろん登りでも筋肉は使うんだけど、足の筋肉をフルに使うのは下山の方なんだよね。足に筋肉のない人が山を下りようとすると、直接関節に来ます。俗に言う「膝が笑う」状態ですね。勝手に膝がケラケラ笑ってるだけならいいんだけど、膝が笑う状態ってのは上体を安定させられない訳だし、当然バランスも悪くなって非常に危険です。今回の旅にそなえて事前に通勤を歩きに切り替えて体力作りをしてはおりましたが、4泊5日と長い旅でもあるし、山を安全に下れるほどの筋肉が今のわたくしにはないことは自分でもわかっていたので、3日間の山歩きのうち、2・3日めは自分で上がってケーブルで下りてくるというプランを組んでおりました。ので、このケーブルに3日間お世話になることになります。実際は2日間だったんだけど。駅舎の外にはこんなものがある↓。 【車石(くるまいし) 江戸時代、大津と京都を結ぶ東海道は往来する旅人で賑わい、また大津港で陸揚げされた 米等の物資を都である京都に輸送する街道として重要な役割を果たした。当時、物資の 輸送手段は牛車(うしぐるま)を用いており、この区間には交通の難所として逢坂峠・ 日ノ岡峠があり牛車での輸送を円滑に行うために車石の敷設工事が施行された。 車石は展示してあるように、石の中央部に溝を刻みこれを車の轍(わだち)のように 二列に並べ敷き詰めて、この溝に車輪を嵌めて運ぶ車道であり、文化元年(1804) から2年がかりで江戸幕府の主導のもと大津宿の札の辻・京都三条大橋の間、約12キロ が竣工した。牛車の轍の刻まれた車石は、今も京津間の旧道沿いの各所に残っており、 江戸時代の画期的な道路行政の一端を知る貴重な文化財となっている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)お~、車石!以前の大津訪問の時にこれの存在を知ったんだけど、その時は見られなかった。それが、こんなところでお目にかかるなんてね。江戸期じゃないけど、琵琶湖疏水もかなり大がかりで画期的な工事だったみたいだし、大都市・京と琵琶湖をつなぐ大津らしいエピソードだよな。解説版にはどんな風に車石を使ったかのイラストも載っている。 すげ~いっぱい俵積んでるんだけどこんな重い荷車を引かされてかわいそう・・・牛さんのつぶらな瞳がより一層哀れを誘う駅舎にはもうひとつ、歴史を物語る解説版がある。今回わたくしはこの史跡のあるルートを通らなかったけど、この先いつ叡山に来るかわからないので、ちょっと長いですがついでにご紹介しましょう。 【土佐日記と南国市 坂本ケーブル裳立山停留所より尾根づたい約500メートルの一角に紀貫之公の 墳墓がある。南国市比江は、奈良時代から平安時代にかけて約百年にわたり国司官舎の あった場所で、紀貫之は第48代目の国司でした。土佐の地で4年の任期を終えた 承平4年(934年)、帰京の際の船旅で記した見聞紀行日記「土佐日記」を世に発表 した事で、貫之と土佐との関わりはより深くなった。わざと自分を女性の書き手として 綴った『をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみむとて すなるなり』の 書き出しはあまりにも有名で、日記のはしばしに貫之の細やかな心情が描き出されている。 紀貫之公を敬慕し比叡山鉄道株式会社のご尽力に預かりながら毎年団参を重ね大津市、 御地史談会、観光協会また京都高知県人会と交流が始まった。 当市関係団体は毎年11月に市内や紀氏邸跡、古今集の庭において「土佐日記門出の まつり」、「貫之時代祭」などの行事を行い貫之顕彰に力を注いでおり、墓地周辺整備と ともに今回墓参20回目の記念事業の一環としてここに掲示するものである。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)へえ・・・「男もすなる日記というものを・・」のくだりはわたくしも知っているけど、土佐日記ってそーゆーものだったんだ~。ウィキペディアによると、土佐日記は【日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のもの】なんだそうな。百人一首「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」の歌で一般にも有名な紀貫之の墓がなんで叡山にあるのかは今回墓に行ってないからわからないけど、なんとなくふたケタ世紀の人かと思ってたら、866?~945?とひとケタ世紀の人だったらしい。ええ~、これって良源さんとカブってるじゃん!良源さんが天台座主となるのは貫之の死後のことだけど、もしかして2人は面識があったカモ・・・なんて得意の妄想が頭をもたげてくる。ま、それはともかく、こういう熱意のある方達が史跡整備をしてくれるおかげでわたくしたち歴史ファンが各地の史跡を辿れるのだということに感謝を捧げなければなりません。今回は行かれなかったけどね。行きたかったんだけどね。にほんブログ村
2015年01月19日

瀧尾高徳水神社の境内。 亀とゆーよりスッポンて感じだけど、水に関係の深い生き物を狛犬代わりに置くところが水を司る神社らしい。この脇からさらに奥へとハイキングコースが延びているようだけど、今回はここで終了。時計を見るとちょうど16時。来た道をずんずん下り、東照宮の脇の道を歩いていた時、「なんか見覚えある光景だな」と思いながら通過しようとして、看板があったのに気がついて通り過ぎてからあわてて引き返しました。 【教旻僧都(きょうびんそうず)の墓 教旻は、勝道上人の従弟で、上人第一の高弟である、上人にしたがって来山し、ともに 苦行を積んで弘仁8年(817)上人の跡を継ぎ、日光山第二祖となった。大千度という 無言の行の創始者でもある。東照宮創建のおり、墓地の移転をしたが、教旻の墓も移そうと したところ、人夫がけがしたり、異変がおこった。そのため、教旻の墓だけが例外的に 現在の地に残されたと伝えられる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)勝道さんの墓の隣に弟子の墓がありましたが、『おそらく当初から師のそばに葬られたのではなく、ここに勝道さんのお墓を移した際に一緒にしたんじゃないかと思われます』としたのは教旻さんのお墓がここに残っているからなのです。教旻さんのお墓があるのはこのへん。東照宮の本社にかなり近い場所です。現在の奥の院付近にはかつて勝道さんのお墓もあったので、山内でもっとも良い場所である東照宮の付近には、勝道さんの高弟たちのお墓が点在していたものと思われます。いやいや、行きにもこの道通ってるんだけどな・・・全然気づいてなくて素通りしちゃったんだ。ごめんなさい、教旻さん。墓の前までは行かれませんが、扉の格子の隙間から覗いたのがこちら↓。 幕府による一大公共工事とはいえ、実際現場で人足として立ち働いたのは日光の庶民だろうから、他の弟子たちの墓を移すのも内心イヤだったろうな。よお~っし、これで今回見たかったところは全部クリアしたな常行堂には行かれなかったけど、あれは大猷院の手前にあるからいつでも行くことができるしな。満足して輪王寺の脇を通りかかると、もう営業終了時刻で三仏堂前から観光客は姿を消していた↓。 人のいない輪王寺なんてなかなか見られるもんじゃない・・・休日の朝の霞が関とか、こーゆー閑散とした光景って好きなんだよね。日光に泊まろうと思ったことはないけど、たまには泊まって人のいない境内を歩くのもいいかもしれないな、と思った。最後に勝道さん(のおしり)↓。 がっしりと筋肉のついた肩とおしり・・・山岳修行について少し学び始めた後だけに、こういう体格の像にした理由が今ならよくわかる。勝道さんの前には、水盤がある。これまでよく見たことなかったけど、 【奉献 北白川宮殿下 御宝前 宇都宮市有志者中 明治三十年】とある。「北白川宮殿下」は北白川宮能久(よしひさ)親王で、最後の輪王寺宮・公現法親王のこと。この方も実に波乱の生涯で、台湾で戦病死された後遺骸は日本に運ばれ、日光山内に宮の墓がある。『宝ものがたり』には宮の死後日光に祀られる様子を描いた『北白川宮能久親王日光御分霊式行列図』という絵が載っており、明治29年に描かれたにもかかわらず古式ゆかしい行列がそこにある。「御分霊」とあるので宮の本墓は他にあるのかもしれないけど、宮の命日の5月28日には日光で毎年法要が行われるという。歴代輪王寺宮の中には寛永寺と日光輪王寺に墓を持っている方も多いので、日光は日光で歴代の宮の墓を建てて供養にあたっているのかもしれない。遠く徳川の世が過ぎても北白川宮の分霊の行列を眺める人々の絵を見て、江戸の民衆が「上野の宮様」を誇りとしたように、日光でも「輪王寺の宮様」を誇りに思い慕っていたのかもしれないと思った。東参道を通って山内を出ると、本宮滝があった↓。 ここではもう滝と呼べるほどの水量はなかったけど、遠く女峰山や赤薙山から下りて滝尾を通った水がここまで流れて大谷川へ流れ込んでいく。これまで歩いた道のことを考えると、ここではかなり水量調節がされているハズなので多くの水は暗渠を通って大谷川へ通されているのだろう。てことは、そういうシステムがなかった昔はもっと水が流れるさまが目に見えたハズで、水量が豊かゆえに苦労した時もあったろうけど、勝道さんがここを聖地と選んだ理由のひとつにこの山の湧水もあったろうという気がする。本宮滝のすぐ脇には、本宮神社への入口がある↓。 本宮神社へは今回初めて行ったのでこの石段を上がったことはないけど、これを上がると鳥居のところへ直接出られるらしい。振り返ると、大谷川の向こうには夕景が広がっていた。 紫雲(しうん)だ・・・勝道さんもこの上からこんな夕景を見たのだろう。勝道さんモードで行った今回を締めくくるにふさわしいうす紫の夕景をしばし眺めたあとで、大谷川を渡る。日光橋を渡ってすぐの場所にあるのが「あさや」さん。 わたくしはここの「豆乳ゆばラーメン」が好きで、いつも山内で冷え切った体を温めている。ここ数年はここで食事をしていないので今回は早めに山内を切り上げて久々に豆乳ゆばラーメンを食べていきたいと思っていたけど、もう時間的にムリだな。と思いながらあさやさんに近付いていくと、こんな看板が目に入った↓。 観光地にはこーゆー名前を付けたお店はよくあるけどね。この奥に別のお店があるのかとも思ったけど、道の奥を覗いてもそれらしきお店はなさそう・・・となると、わたくしがいつも寄っていた食堂は「天海」だったのか~ ちなみに、あさやさんの手前には天海もいます↓。 深沙王堂の前を通る国道120号線は、本宮滝の前にある神橋交差点を過ぎると国道119号線へと名を変える。その119号線の向こう側には、この男が立つ↓。 幕末から明治にかけて活躍した乾退助・・・のちの板垣退助です。天海と乾退助はともに日光山内を見つめており、国道をはさんでほぼ横並びに立っている。明治維新の時、東照宮はピンチに立たされた。歴史を考えれば当然のことでしょう。これが外国だったら真っ先に破却されるべき存在だもの。ここでは詳細は省きますが、旧幕軍が日光に立てこもったため、討伐軍のトップによっては東照宮もろとも徹底的に叩かれたかもしれない。が、その任にあたった乾退助が山内を保護する作戦を採ったため、山内は戦禍による被害を免れた。言ってみれば、日光の恩人。天海もまた日光を復興させた立役者なので、日光の恩人2人が山内を今も見守る形で山内入口に銅像が置かれている。 天海像の先にはこれがある↓。 【日光のおいしい水 磐裂(いわさく)霊水 1200余年前日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が 神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい 水として定評がある。】 (現地解説板より)日光に土産物屋は多いけど、わたくしは極力長年お世話になっているあさやさんでみやげを買うようにしている。このお店がなくなったら困るので、営業協力です(笑)。今回はこんなものを見つけた↓。 「とちおとめ」を使ったカレー。栃木でもこんなものを始めたのか にほんブログ村
2015年01月18日

参道はまだ奥へと続く。が、正面のお堂にはさっきのカップルがいたので、まず右手の方から見ることにした。ここには小さな橋がある↓。 【重要文化財 無念橋(むねんばし) 俗称 願い橋 延宝五年八月教城院天佐掛替 三本杉を通してご神体山の「女峯山」を遥拝するため、自分の身を清め俗界と縁を 切ることを意味する橋であったが、いつの頃からか己の歳の歩数で渡ると女峯山頂上 奥宮まで健脚で登ったことになり、願がかなえられる と言われるようになり、 「願い橋」と呼ばれる。江戸時代までここは日光修験の中心地であったところから 修験者(山伏)達の足腰のたんれんのため修行が原因でこうした伝承が生まれたので あろう。】 (現地解説板より)「無念」といわれると「残念無念」の無念かと思っちゃうけど、ここのは「念が無い」の無念なのか。 特別お願いもなかったのでずかずかと橋を渡り、奥へ進む。 【享保十六辛亥年 奉寄進石燈籠】 1728年、江戸中期の奉納。鳥居の奥、玉垣の中に鎮座するのが 【三本杉(神木) 弘法大師が、この山で修行をした時に田心姫命が現われた場所と伝えられる。 初代の杉は1699、1747、1749年と相次いで倒れ、現在の木は 2代目である。倒れた神木は、そのままにしておく習わしで、今も横たわっている。 この神木の霊験を示す話があり、寛文7年(1667)鶏頭院山舜の下僕が、この 神木を小さいと馬鹿にして、神罰を被ったという。】 【御神木 滝尾三本杉 古代より滝尾境内の最も神聖な処である。以前の三本杉は右側が元禄12年8月15日 (1699年)、中央が延享4年8月27日(1747年)にいづれも静かに夜半 突然に倒れたと古書に記されている。左側は寛延2年6月12日(1749年)夜半 雨の中倒れたもので、手をつけづに今もそのまゝである。その時、改めて石玉垣を設け 現在に至る。したがって、今の御神木は250~300年の樹齢である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)現在の三本杉の前には確かに古木が横たわっているので、一見荒れた場所のようにも見える。ここでも「3」なんだな・・・この時は近くにカップルがいたけど、玉垣の奥に凛として立つ杉は神々しく、厳粛な空間。完全に一人でいたらちょっとこわいぐらいかもしれない。この頃にはカップルの姿は見えなくなっていたので、彼らが陣取っていたお堂へ向かう。 【滝尾稲荷神社 弘仁11年(820)弘法大師が滝尾神社とともに、稲荷神社も創建。祭神は 倉稲魂神(うがのみたまのかみ:稲荷大明神)。昭和41年9月に台風で流出したため、 昭和43年に巴会により再建された。3月25日が例祭。5月25日の講社大祭には、 多くの信者が集まる。昔、滝尾上人が朝のお供えを忘れると、稲荷の神が化けて出ては、 催促したという伝説が残っている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)お供えを忘れることなんてあるのか?しかもこの書きっぷりだと、忘れたのは1度や2度じゃなさそうだしな「お腹すいたよ~。朝ごはん、ま~だ~?」てか? この頃、先行するカップルが脇の方から現われて参道を戻っていった。稲荷神社から下の方を見ると ああ、あっちにも何かあるな・・・神社から下へ降りていくと、こんなのがあった↓。 【酒の泉 本宮の清水(昭和24年の今市地震で消失)、薬師の霊水とともに日光の三霊水の 一つ。弘法大師が、この泉の水を汲んで神に捧げたといわれている。この御供水 (ごくうすい)には、酒の味があるといわれ、持ち帰って元水として酒を造ると、 良酒ができるという。醸造家の崇敬が厚く、古くから栃木県内の酒造家たちで酒泉講が 結成され、秋に祈る醸祭、春に報醸祭が行われる。現在は西神苑の「二荒霊泉」で 行われる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)今はご覧の通り玉垣に囲われているので、酒の味がするという霊水を勝手に飲むことはできません。この下には白糸の滝へと続く小川が流れており これを渡ると滝尾神社の8つのスポットをめでたくコンプリートです。 「日光国立公園 観光とレジャー」のサイトによると、滝尾神社の鳥居は重要文化財で棟数は「3」とある。写真で確認できる境内の鳥居はお梶(♂)の「運試しの鳥居」と三本杉の前の石鳥居、稲荷神社の朱の鳥居、酒の泉前の小さな鳥居、それからここの2つの合計6棟。お梶(♂)の鳥居は確実に「3」の中に入るけど、残る2つはどれだろう・・・まあ、造りと年代からいえば三本杉の前の大きな鳥居と上の写真の奥の方にある石鳥居ってとこだろうか。んでここは 【子種石 古くは、子種権現といわれた。子供が授かるように、また、安産でありますようにと、 この霊石に祈れば霊験があるというので、今日でも参拝者が多い。】 (現地解説板より)開山堂脇の観音堂からここまで、歴史ある滝尾古道は子授け・安産ロードでもあるようです。ばぶう。 この奥の方には近代の砂防工事で滝のようになってる場所があるけど、そこまで行くには道らしい道はない。ので、夕暮れも迫っていることだしここで引き返して滝尾神社を終了とする。参道を戻ると、お梶(♂)の鳥居には誰もいなかったので表に回って運試しをしてみることにした。え~と、何にしようかな・・・人間ドックもそろそろ受けなきゃいけないし、年々問題の項目が増えていく上に最近体調もかなり良くないので「梶さま梶さま、どうか今度のドックで悪いものが見つかりませんよーに」とお願いごとを決めてから石を投げてみた。一投め、全然届かない。少し強めに投げてみても二投めも全然届かず。三投めもかすりもしなかった。・・・・・・・・。まあ、しょうがない。しかし、重文に石を投げつける行為ってのはいかがなもんかと負け惜しみを言いながら神社を出る。行きに石畳の道をそこそこ丁寧に見てきたから、帰りは車道をガスガス歩こうと思って道に出ると、そこにも小さな神社があった↓。 【瀧尾高徳水神社由来 この社は、奥吉野「奈良県吉野郡東吉野村」の水の宗社 丹生川上神社の御祭神罔象女神 (みずはのめかみ)の御分霊を祀り、天照大神の姉君として水に関する一切の御神徳を 授けられた神であります。この社は、ときの栃木県地寺 横川信夫氏により昭和52年 11月26日県内藤原町高徳に創建されましたが、県道拡張のため平成10年6月27日 この地に遷座され災害防止・開運の神としても崇敬されています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)へええ~っ、丹生川上(にうかわかみ)の神!!「叡山攻め」でずっと歴史を追ってきた中で、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬をしょっちゅう丹生川上の神へ奉納してきてたからもういいかげん覚えちゃったよ。ま、勧請自体はずいぶん最近のことだけどね。日光にまで丹生川上神が進出してたことを初めて知って、わたくしの意識がまた1300年昔の彼方へぐ~んと引き込まれました。にほんブログ村
2015年01月17日

では、お梶(♂)の簡単な紹介が済んだところで現地に戻ります。お梶(♂)の鳥居は重要文化財。これもお梶(♂)の私費で奉納されたものだそうな。鳥居の額束の穴に石を通せば願いがかなうというのがいつから生まれたものかはわからないけど、みんなここで鳥居に向かって石を投げていく。前回の写真でカップルがかがみこんでいたのは、彼らが運だめしに使う小石を集めていたからなのです。後ろで見ていると、まず小石を拾うのにモタモタしていたのでその間をぬって通りすぎざまにとりあえず近くで鳥居の写真だけ撮った。 この先に滝尾神社の由来を記した解説版がある。 【滝尾神社(重要文化財) 日光二荒山神社の別宮。本宮、新宮(現在の二荒山神社)とともに日光三社権現の 一つである。女峰山の女神、田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る。 弘仁11年(820)弘法大師が創建したと伝えられる。明治4年の神仏分離までは 楼門に大師の筆といわれる「女体中宮」の額が掲げられ、仁王像が安置されていたと いう。正保3年(1646)の建立。4月の弥生祭の時には、二荒山神社から滝尾の 神輿が渡御する。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)で、こちらが鳥居の先にある楼門↓。 【重要文化財 楼門 重層入母屋造総漆塗り。元禄10年(江戸時代 1697年)に移転新築された。 それ以前は正面参道石段を登った付近にあり、おなじぐらいの門であった。江戸建築の 重厚な建物である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)門の左右には確かに仁王様がおさまりそうな空間があるけど、今はなにもない。神社に仏像である仁王像があるのはマズいから撤去されたんだろうな。空海たんの揮毫によるとされる「女体中宮」の額もない。これの現物がどうなったのかはわからないけど、拓本は現存しており、徳川記念財団の所蔵。拓本をおさめた箱には慶應元年(1865)とあるという。空海たんが神の降臨を祈った時に現れたのが女神だったというのは、つまり滝尾の地の背後にそびえる女峰山=田心姫命が現われたって意味なんだろうな。ゆえに姫神を祀る滝尾の楼門に「女体中宮」を掲げたのだろう。輪王寺の宝物殿で販売している図録『日光山 徳川四〇〇年の文化』には、 【空海が題字を揮毫したという伝承は、輪王寺に伝わる鎌倉期の写本 『日光山瀧尾建立草創日記』にすでに見えている。】とあるので、「滝尾神社の創始者は空海」という伝承は相当古くからあったものらしい。空海の記事の中で過去に「密教21フォーラム」様のサイトを参考にさせていただいてますが、空海の年表もあり、その中では日光における伝承も採用して弘仁11年(820)に関東へ来たという記述になっている。しかし、どうなんだろ、コレ・・・ホントに空海たんは日光へ来たのだろうか。もし来ていないとしたら、なんでそんな伝承が生まれたものか。そこで思い浮かぶのが、勝道さんの依頼を受けて空海たんが撰したという「沙門勝道歴山水螢玄珠碑」。これの描写があまりにリアルで臨場感モリモリだったので、「日光に来てなきゃこんな文章書けないよ~」ってことで「空海日光に来たる」の伝承が生まれたかな、と思った。それから、「女体中宮」の扁額。これはかなりインパクトのある文字で、この頃にはすでに「三筆」として活躍していた時期でもあるようなので、案外この扁額はホントに空海の真筆なのかもしれない。ただ、「沙門勝道歴山水螢玄珠碑」と同じように、日光に来なくても扁額は書くことはできる。日光から依頼を受けて京で揮毫したものが滝尾に安置され、これまた「空海日光に来たる」の伝承を後押ししたかもしれない。ただ、時期的にどうなんだろ?って疑問もある。もともと山岳信仰から始まった日光では本地垂迹も取り入れられ、それぞれの神が姿を変えて3体セットで色んな形で祀られた。整理するとこんな感じのようです。・男体山=大己貴命(大国主命)=千手観音・女峰山=田心姫命= 阿弥陀如来 ・太郎山=味耜高彦根命=馬頭観音で、男体山がパパ、女峰山がママ、太郎山がベビーといった具合にファミリーとされた。が、ウィキペディアによると【二荒山大神に現在の神があてられたのは12世紀頃だとされている】という。御神体の3つの山を家族として崇めたスタイルはもっと古くからあったかもしれないけど、さらにそれを進化発展させて千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音の3仏に当てはめたのは確かに時間をかけた可能性はある。平安の初頭を生きた空海の頃に、母である女神を祀るという考え方が成立していたのだろうかという疑問もある。そうはいっても、空海の伝承は滝尾だけじゃない。2つの玉が現われたのはおそらく白糸の滝の付近だろうけど、大きい方の玉は妙見様として山の上の中禅寺湖畔に祀ったとされるので、日光における空海伝説の範囲は広い。ナゾだよなあ、これ・・・まあ、勝道さんの依頼を受けて文章を書いてるうちに霊地・日光への興味が空海たんの中に湧いてはるばるやって来たという想像もできるけどね。ちなみに、勝道さんの没年は 弘仁8年(817)なので、空海たんがここを訪れたとしても勝道さんとの対面はなかったことになります。楼門をくぐるとすぐに拝殿が現われる↓。相変わらず、写真曲がっとるな 【重要文化財 拝殿 入母屋造り 総漆塗り 本殿・楼門とくらべ小規模であるが高床との調和を考えた格調の高い建築で、 正徳3年(江戸時代 1713年)造り替えられた。古く楼門が参道南方にあった 時代にはこの倍の規模があり左側は谷下まであり清水の舞台式に高床が造られていた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)へえええ~っ、舞台造りの拝殿!!それはすごい。見てみたかったな・・・ 長く尾を引く巴紋は本宮神社と同じだな。裏手の本殿の方へ回ろうとすると、玉垣に囲まれた笹があった↓。 わたくしがここで笹を見ていると、さっきお梶(♂)の鳥居でわたくしの邪魔をしたカップルが素通りしていった。おおい、君たち~!これ縁結びの笹だよ~。ここは見なくていいのか~い?・・・まあ、もう結ばれてるから必要ないのかもしれない。それに、笹の下には「笹の葉を結ばないで下さい」と書かれた木の札が置いてあるしな。で、こちらが唐門と本殿↓。 【重要文化財 本殿 唐門 本殿は三間社流れ造り 唐門は二脚平唐門 総漆塗り 極彩色 この建物は正徳3年(1713年)建て替えられたもので、周りの玉垣石畳も その時設けられた。ご神体の女峯山を遥かに拝むように本殿の裏壁には扉が付けられた 造りになっていて全国でもたいへん珍しい。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 「平唐門」(ひらからもん)は平入りの唐門のことかと思って、じゃあ妻入りの唐門は「妻唐門」て呼ぶのかと思いきや、その場合は「向唐門」(むかいからもん)と呼ぶらしい。アハハ、建築用語ってムズカシイ・・・本殿には蟇股がいくつか見えたので望遠で撮ってみたけど、ブレがひどくて諦めましたが、ここも東照宮と同じ流れを汲む江戸期の華やかな蟇股です。しょうがないので参道を奥へ進みながらいじましく本殿を眺める。 で、こちらが本殿の裏手↓。 解説版にはこれについても書かれていて、「全国的にも珍しい」とあるけど、山内にはこのテの建築がほかにも存在するのはすでにご存じですね。はい、日光三社権現のひとつ、本宮神社の本殿ですよ。山を御神体とする日光山内ならではのスタイルだな。新宮の二荒山神社もこれと同じスタイルの可能性があるけど、二荒山神社は数えるほどしか行ってないからな・・・本殿の裏が見られるかわからないけど、今度行ったら確認してこよう。にほんブログ村
2015年01月15日

滝尾神社へ足を踏み入れる。 日光では男体山・女峰山・太郎山をセットとして祀るなど、「3」が祭祀のキーワード。天海が日光遷座を果たした際もこれにならって「東照三所権現」を造り上げた。もうひとつの「三所」にはタッキーが属しており、本宮神社・二荒山神社(新宮)と別所のタッキーをあわせて「日光三所権現」という。現在はパワースポットとしても人気があり、ゆえにここまでで思ったよりも観光客がいた。そのほかにも安産祈願のスポットもあり、滝尾古道に沿う車道を通れば車でここまで来られるので、歴史に興味のない人でもそこそこ訪れるちょい人気の場所。ま、霊気がすごいとか言ってる人もいますが、わたくしは御存じの通り霊感はありませんし、とにかく薄暗くなる前に東照宮のあたりまで戻らなきゃならないし、わたくし独自の萌えポイントがあるから頑張ってここまで来た訳で、霊気がどーとか言ってる場合じゃございません。 現在の境内は往時よりは縮小されてるけど、小高い場所にあり、入口付近の山腹にはわずかに石垣も残る↓。 石段を上がりきると、だだっ広い光景が広がる↓。 【別所跡 東照宮の遷座以前、日光参詣の中心はこの滝尾周辺であった。日光責めで有名な 輪王寺の「強飯式」(山伏が、大盛りの飯を残さず食べろと責める儀式)も、 ここが発祥の地である。明治になって別所は廃絶。永正6年(1509)日光に来た 連歌師、宗長の紀行文「東路(あずまぢ)のつと」には、「ここより谷々を見おろせば、 院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん。」とあり、盛時の様子が偲ばれる。】 (現地解説板より)う?強飯式はタッキーが発祥?てことは、修験者が滝尾の神に捧げた食料を下げ渡したのがルーツってことか。徳川10代将軍・家治さんもさぞここに来たかっただろうけど、ここがルーツの強飯式にめげちゃったんならそれが滝尾の神の思し召しだったのだろう。かわいそーに・・・歴史ファンの皆様の中には連歌師・宗長の名をご存じの方も多いと思いますが、こーゆー人たちってホントにそこら中に足跡を遺していてすごいよな。まあ、それだけ日光が古くからの観光名所だったってことだろうけど。別所跡の看板のすぐ近くにはもうひとつ解説版がある。 【影向石(ようごうせき) 影向とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。弘法大師(空海)が、 弘仁11年(820)この地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、 美しい女神が現われたと伝えられている。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)で、解説に従って奥へと進みます。 祠の向って左にある苔むした岩が影向石かと思われます。この場所が小玉堂のところで紹介した、池の中から浮かび出た大小つの玉を空海たんが両方ともつかみ取りしたという伝承の地。ただ、ここには池はないけどね。祠の後ろに回って背後の景色を見ると 下との高低差は結構ある。ちょっと山城で下の郭を見おろしてる気分になる。宗長が「ここより谷々を見おろせば」とした「谷」は、こちら側の景色を指すのかもしれない。廃絶したという「別所」について解説には詳しく書いてなかったけど、おそらく滝尾神社の別当、あるいは神宮寺もここにあっただろう。滝尾古道に沿ってずっと続いてた古い低い石積みはタッキーに近い場所あたりからは見受けられなくなったけど、神仏ががっぷり一体化した往時では神社を取り囲むように下の「谷」に僧坊が立ち並んでいたとしてもおかしくない。昌源が植えた木々は宗長が来た頃はまだ若木だったはずで、老木が高くそびえる現在よりは古道の方もそこそこ見通しはよかったろうと思うけど、背後の僧坊と古道沿いの僧坊を合わせてもさすがにこの一帯だけで「院々僧坊およそ五百坊」を一度に見ることはできなかっただろう。参道に建ち並ぶ僧坊をずっと見てきた後でこの小高い場所に立ち、さらに背後にも沢山の僧坊があるのを見てそのスケールのデカさに宗長はこういう表現をしたのかもしれないと思った。今はな~んにもない静かな空間だけど、かつてこの付近を僧侶や修験者や神職が入り乱れて賑わっていた様子を想像すると歴史のロマンだなあと思う。さて、参道に戻ります。参道から下を覗くと、白糸の滝へつながる小川が見える↓。 これは背後の女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)から下りてきた水。この清浄な清水が潤す滝尾の地は日光の聖地ともいわれる。滝尾神社の創建は一般的には空海たんの伝説が幅をきかせているけど、清らかな小川を遡上して、勝道さんもここまで来ていたんじゃないだろうか。参道を進むと、鳥居が見えてきます。実は今回わたくしが頑張ってタッキーまで来たのは、この鳥居が一番のお目当てだったからです。もう夕方近いこともあり、タッキーに到着してからわたくしが出会った観光客は2~3組。決して多いとは言えない数なのに、よりにもよってこの鳥居の前でそのうちの1組のカップルがわたくしの邪魔をしておりました↓。 参道の両脇にある物体はニンゲンです。彼らがこんな恰好をしている理由は、この鳥居が持つ伝承にあります。 【運試しの鳥居 元禄9年(1696)に、3代将軍家光の忠臣、梶定良が奉納したもので、鳥居の 額束(がくづか:中央の縦の部分)の丸い穴に小石を3つ投げ、穴を通った数で 運を試したという。御影石、明神造り。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)という訳で、お梶の奉納した鳥居でございます。いつも個人的愛称を堂々とブログに書いておるわたくしですが、梶定良(かじ さだよし:1612-1698)の愛称は「お梶」。ただ、イエアス側室のお梶(英勝院)と同じで紛らわしいから、定良の方は「お梶(♂)」としておこう(笑)。お梶(♂)は徳川に仕える菅沼氏の出で、早くから家光の側近く仕えたという。家光は才能あふれる家臣に恵まれ、家光の六人衆のうち阿部重次と堀田正盛は家光に殉死した。重次のいとこの忠秋は生きて4代・家綱を支え、智恵伊豆・松平信綱も世間に後ろ指をさされながらも生きて未曾有の大災害・明暦の大火などのピンチを乗り切った。この辺の人達は寛永寺シリーズでちょいちょい顔を出してますので、「上野第二編」あたりを読んでね。お梶(♂)も生きて、4代・家綱の命で日光に移り住み、以後47年の長きにわたり日光山全般の監督を務め、お梶(♂)の死後は彼があたっていた職務を引き継いで日光奉行が置かれた。お梶(♂)は甲州流兵学の創始者とされる小幡景憲(おばた かげのり)の高弟だったともいい、無骨な武士の一面をうかがわせる一方で、毎朝4時に起きて身を清め、大猷院(家光の墓所)に詣でて食事を捧げていたという。生涯独身を通し、家光が死んでなお主君に尽くす姿は人々の感銘を呼び、寛文3年(1663)の家光の13回忌で将軍家綱が社参で日光入りした際にはお梶(♂)の忠義に感じた水戸光圀が大猷院へ捧げる祭文(さいもん)を自ら記し、それは今も輪王寺に残っている。滝尾古道の東を流れる稲荷川はたびたび氾濫を起こしたそうで、はじめ稲荷川沿いにあった本宮神社を安全な奥地へ移してできたのが新宮・・・今の二荒山神社だということなんだけど、お梶(♂)が日光で在番を務めている間も稲荷川の大洪水があり、ほかにも山内で大火が起こるなどなかなか大変な時期だったらしい。そういう災害の際には自腹をきって地元民の救済にあたったといい、日光の民衆からは「梶さま」と呼ばれて慕われたそうな。お梶(♂)の墓は、大猷院の家光の墓の後ろにある。大猷院の二天門の下にある龍光院は大猷院の別当で、水戸光圀がお梶(♂)の霊牌を龍光院に寄進したそうな。お梶(♂)の命日の5月14日には輪王寺一山の僧侶が総出仕してお梶(♂)のための法要を執り行い、彼の家臣の子孫や日光奉行所に務めていた人の子孫による「照光会」のメンバーも参加して、今でもお梶(♂)の冥福を祈っているという。にほんブログ村
2015年01月14日

やれやれ、ただいま~。今日はただ帰るだけの予定だったのが、急きょ待ち時間でひとつ駆け足で観に行ったところがあって新幹線の時間ギリギリになってしまい、結局最後の最後までバタバタの旅でした。休暇を1日プラスしての3泊4日の旅とはいえ、実際の行動は昨日までの3日間にほぼ限られていたので内容的には2泊3日とほとんど変わりはない・・・旅は非日常と申しますが、今回は1000年以上飛び越えての旅だったもので、もう非日常どころじゃございません。毎晩ブログでは何百年という時空をワープしているわたくしでも、頭の中での時空の旅と実際に現地であれこれ観る旅とでは当然のことながらまるで感覚が違いますので、たかが4日と思えないほどの充実感であり疲労感であり、明日からお仕事なんてできるんかいな状態です。ま、旅の話はつもるほどあって今日もその雑談にしようかとも思いましたが、写真がまた増えたこともあってひとまず早いとこ日光編を終わらせなければならないので、早速本編に戻ります。 おお、なんか前方がすごいことになってるな・・・と思ったら開けた場所に出て、 【昌源杉(しょうげんすぎ) 滝尾参道の周辺には、500年以上の老杉群がある。文明8年(1476)日光山 第44世別当になった昌源が、山中に数万本の松と杉を植えたもので、中世繁栄期の 遺産であり、「昌源杉」と呼ばれる。以前はそのうちの1本が、飯を盛ったような 形に繁り目立ったので、「飯盛杉」と呼ばれたが、昭和38年の突風で倒れてしまった。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) わ~お、文明8年?応仁の乱の終結と大内義興さんの生まれる前の年だ日光杉並木と言えば江戸期の松平正綱親子によるものが一般的に有名だけど、植樹の伝統はもっと古くからあったものだったんだ。江戸期に東照宮ができてから山内は華やかに生まれ変わったけど、総合的な繁栄のピークは中世。その頃は僧坊が500にも及んだという。いくら山内が広くて遠く中禅寺湖の方まで寺領が広がっていたとはいえ、500もの僧坊がどこに建ってたんだと思ったけど、この写真も昌源の植えた杉なら滝尾古道に沿ってずーっと僧坊が建っていたとしてもおかしくない。その後一時衰退のうえで江戸期の繁栄につながるんだから、復興の頃にはこちら側の奥の方まであった中世の僧坊はすでに衰退していたのかもしれない。だから江戸期の絵図には奥の方まで僧坊が描かれていないのだろう。なら北野神社からここまで古道沿いに見てきた石垣は中世の石垣ってことになるよな。 昌源杉から少し歩くと、分岐が現われた↓。 史跡探勝路に合流するこの道には へ~、二荒山神社からこんなところへ出る道があったんだ。数多くの日光詣での中でも、東照宮と並び二荒山神社も相当行かない場所なのでこんな道があったなんて全然知らなかった。今度、神社の方からこの道を歩いてみようっと。ん~で、「史跡探勝路12」の将軍の日光社参の記事でタッキー(滝尾神社)へ行くには滝尾古道の他にもうひとつルートがあると書きましたが、それがこの道です。自分で歩いたことがないからよくわからないけど、スタート地点を考えればこの道は恒例山の西側をかすめて通っているルートじゃないかと思うので、滝尾古道よりはおそらく山道っぽい道なんじゃないかな。だから、歩きいいのは滝尾古道の方なので、将軍のご遊覧には起伏の少ない滝尾古道を使ったんじゃないかなって思ったんだよね。まあ、片道は二荒山神社の道を使ったかもしれないけど、滝尾古道なら開山堂とかの見どころもあるし、往復のどちらかは下の道を使った可能性が高い気がする。ここからすぐ先には、古い大きな碑がある↓。 碑文から正しくすべての文字を読み取るのはかなりキビシイです。が、ここにはちゃんと解説版があります。 【大小べんきんぜいの碑 古くは、このあたりに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居などがあり、これから 先は滝尾神社の聖域に入るので、大小便を禁ずる碑が立てられた。庶民にも読める ようにと、「大小便禁制」のうち大小のほかは、「平仮名」で書かれているのが 珍しい。】 (現地解説板より)ということです。ゆえに、ここから先はトイレは我慢してください聖域に入ってもまだ石畳の道は続く。 ほどなくしてこんな場所に出た↓。 滝だ・・・やった~、やっとタッキーに到着だあ~ 【白糸の滝 天狗沢にかかる名瀑。高さ約10メートル、弘法大師修行の場と伝えられる。文明18年 (1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に左の 和歌が詠まれている。 世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この滝尾の たきの白糸】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ウィキペディアの道興准后(どうこうじゅごう)のページには、 【1486年(文明18年)から翌1487年(文明19年)には聖護院末寺の掌握を 目的に東国を廻国。1486年6月に京都を発つと、若狭国から越前国、加賀国、 能登国、越中国、越後国の北国を経て、下総国、上総国、安房国、相模国の関東を廻り、 翌1487年5月には武蔵国から甲斐国を廻り、奥州まで至っている。道興は後に 東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。】 とある。現在の聖護院(しょうごいん)は「本山修験宗総本山」を称している。修験道の長い歴史の中ではその所管に色々な変遷があり、それについてはここでは割愛しますが、聖護院は古くは天台宗(寺門)でもあり、「末寺の掌握」が修験道的な側面なのか天台宗的な側面なのかはわからないけど、同じ天台でも日光山は山門派だったろうと思われるので、日光山に立ち寄ったのはついでの名所観光的なものだったのかもしれない。白糸の滝のほかに山菅の橋(現在の神橋)の歌も詠んでおり、そのあと山を登って中禅寺湖へ漕ぎ出してそこでもお歌。下山してからは一山あげて酒宴が催されたらしい。ハハハ・・・やっぱ、この頃の酒飲み坊主は策彦(さくげん)だけじゃないんだな。(策彦の酒飲み日記は「武将と僧侶のアルコール耐性」を参照) つか、道興さんて関白近衛家の出身なんだけど、自分の足で中禅寺湖まで登ったのか・・・すげえな。日光の後は宇都宮へ向かったらしい。滝の近くにはいくつか碑などがある。 大正5年9月7日、大正天皇が御観瀑になられた際の記念碑らしい。それからこんなのも↓。 駐日米国大使ジョン・ケネス・エマソン(1908-1984)さんが御観瀑になられた記念碑らしい。この碑にはいつ訪問したのかの記載はないけど、その下にはドロシー・M・エマソン(1906-1991)とある。どうやら夫人同伴でタッキー見物に来られたらしい。姉さん女房だな(笑)。ま、写真の通り滝といっても小ぶりなもので、ウワサを聞きつけてやってきたものの「ちいちゃくてガッカリ~」なんてひそかに思った方もおられるかもしれないけど、古今東西、将軍から天皇からガイジンまで数々の名士が「名こそ流れて なお聞こえけれ」ばりにここを訪れたようです。で、滝から流れ落ちた小川にかかる橋を渡るとそこが史跡探勝路の最終地点、滝尾神社の境内になります。 この時点で15:30。でも帰りも歩かなきゃならないから、急がないとな。境内入口にはこんなものがあった↓。 うんうん、これに従えばいいワケね。標準タイムの20分におさめるよう努力せねばな にほんブログ村
2015年01月13日
記事の日付が昨日になってますが、ゆんべは途中まで書いたところで沈没したためです。今回はかなり予定を絞ったつもりだったのですが、やはり往時の規模をある程度残す歴史のある寺だと普通の観光客よりやたら時間がかかるのはいつものわたくしのパターンで、連日時間に追われて色んな面でかなり厳しい旅となりました。初日は思ったより時間がかかっちゃってカットした場所、翌日に持ち越しにした場所などがあって2日めはスケジュール的にかなりタイトになったのでぱっぱかこなすつもりではいたのですが、やはり素晴らしいものを前にすると時間の経つのが実に早くて・・・とある人気の寺では、観光客が必ず寄るお堂の出口で後ろのオッサンが「まあこんなもんか」 と言ってるのが聞こえて「『こんなもん』じゃねーよ!見所ありすぎてすでに半泣き状態な私の身になってみろ!!」と勝手に逆ギレしてました。人気の観光地なため、オフシーズンとはいえかなりの人出があったのですが、やはりここでもほとんどの人が本堂へ直行してそのまままっすぐ帰っていくというパターン。歴史に興味はない・仏教の知識もほとんどない・建築のことも知らないの3拍子揃った人間がこれだけ沢山わざわざ連休を使って寺社に押し寄せるという不可解な現象に首をひねるばかりです。昨日は今回の旅で初めておみくじをひいたのですが、「46番お願いします」と言ったら受付のおじさんは「あ~・・・」というので、「・・・『あ~』、なんだ・・・」「もう一回ひこうか」となり、二回めにひいたら今度は 「悪い人が現れるが、良くするのも悪くするのもアンタ次第だよ」という内容の小吉でした。あ~、これって寛永寺の観音堂で以前ひいたのと同じやつだ・・・やり直して良くなってこの内容かと苦笑いしましたが、とりあえず今回は生死のことには触れてないからまだいいかな。やり直したことの是非については賛否両論あるでしょうが、大凶から大吉に変わった訳でもないので、まあアリだと思います。しかし、建勲神社の宮司さんといい、全部覚えてるとはさすがプロだな。おみくじといえば、今日は思いがけないところで良源さんにお会いしました。大きな仏像たちを見ていたら、足下に小さく「角大師」と書かれたものがあって、暗いし遠くてよく見えないんだけど、良源さん以外で角大師って聞いたことないし、どうにも気になったので監視役のご住職に聞いてみたら、言葉がよく聞き取れないけどやっぱり良源さんぽいことを言っている・・・「じゃあ、良源さんなんですか?」って聞き返したら、ご住職は「良源」という名前を知らなかったらしく、「ゲンザン大師って言って、元旦の3日に亡くなったからそう言われてるんですよ。おみくじもその人が始めたと言われてるんですよ」と説明してくれた。やっぱり良源さんだ・・・このジイちゃん(←住職)は「元三」(がんざん)を「げんざん」だと思ってるんだなあれ、ここって天台宗じゃないよな?と思いがけない出会いに少々混乱しましたが、ご住職いわく宗派を越えて広く信仰されていたので先代がここに置いたとのこと。ただ、肝心のブツは上屋の中におさまっていて全体が見えないし、とにかく暗いわ小さいわではっきりとは見えなかったんだけど、どうも土鈴だったらしい。昔はこういうのが出回ってたらしいんだけど、今ではもう作る人はいないみたいなことを言っていたように思う。(ジイちゃんの耳が遠い上に滑舌も良くないので言葉がろくに聞き取れず、ほとんど会話が成り立たなかった)このお寺は真言律宗だけど、確かにおみくじは天台宗の寺の専売特許じゃないしな。そう考えれば良源さんの土鈴がここにあるのは別におかしくはないよな。そしてその近くにおみくじも置いてあったので、どきどきしながらひいてみたらぬわんと大吉。ハア、てっきりまた手厳しいことを言われるのかと思ってたからまあいいっちゃいいんだけど、良すぎるのも何か変な気分だな・・・今やおみくじも自販機の時代だけど、良源さんの影響とゆーか面影が見え隠れするような場所でのおみくじはキツい内容が多かったから、ちょっと拍子抜けの感がなきにしもあらず・・・体力作りのために1ヶ月前くらいから通勤を歩きに変えてそれなりの準備はしたつもりだったけど、初日から結構腰に来てて、今日のラストは時間ギリギリの中で最終目的地を前にして少し走り出したらグキッと鈍い痛みが腰に走り、危うく二足歩行を放棄せざるを得なくなりそうになりました。結局、もうそこで引き返してすべての行動を終了としました。しょうがないよな、わたくしだってこれでも頑張ったのだ。昔でいえばここは他国で、やはりそのお土地柄というか国ごとの人柄や傾向はある。ぶっちゃけ、わたくしはここの国の人とは相性が悪かったらしい。要するに気分を害したことが多くあった訳ですが、今回の旅の記事を書くのは相当先の話なので、本編を書き出す頃にはその多くを忘れているでしょう(笑)。忘れっぽいのも悪いことばかりではありません。さて、明日は帰りますが、ちと明日の更新は難しいかもしれません。今回の旅の写真は1200枚ちょっと。消し込みをほとんどしていないので整理すれば少しは減るでしょうが、そんなに減らないだろうしな・・・日光編がもう少し早く終わるかと思っていたので、このあともう一本短編を入れる予定でしたが、結構それも写真が多いので、日光編の後はすぐ「叡山攻め」に戻ります。それでも、「叡山攻め」も1200枚ぐらい写真があるからな。未公開の写真ばかりが溜まっていくという、このキビシイ現実・・・
2015年01月11日
わたくし、今日から某所に来ております。日光編は帰るまでお待ちください。叡山攻め以来だから泊まりのお出かけはちょうど1年ぶりだな。わたくしの職場ではじわじわとインフルが広がりつつありまして、昨日はわたくしと背中合わせの席の人がインフルだったことが判明しました。今年のインフルはどうも「いきなり高熱から始まる」という通常のインフルのイメージのタイプではなく、「なんか風邪っぽい」がしばらく続いてその後熱が上がったのが2名。そのほか、「関節が痛い」というのが共通するパターンで、熱が上がるから関節が痛いのかと思いきや、大して熱は出なかったようなのがわたくしの後ろの席の人。なんと彼女は病院に行ったらすでに治りかけてるからもうそのまま出勤していいと言われたそうなまあ多分、本人は相当辛いのを我慢して出勤してたんだとは思うけど、旅行直前のわたくしにしたら「うぎゃあ、マジでええ~!」ってカンジでございます。今週に入ってからは「風邪菌もインフルもお断り」とばかりに仕事中もマスクをしてたので、予防しといて良かったと思いましたが、イマイチ体調もすぐれなかったのでもしや自分もインフルじゃないかと気が気ではありませんでした。今日もせっかくの旅行だというのに朝から気分が悪かったのですが、1日行動できたのでまあ大丈夫でしょう。今回も西に来てます。新幹線で行かれる範囲の場所ですが、関ヶ原が近くなったあたりでトイレに行って身支度を整えてから席に戻ろうとしたら、窓の外は一面の雪景色。確かに数日前、京都あたりでは雪が降ったと言ってたけど、名古屋手前までは晴れてて何ともなかったのが急にどんよりした雪景色に変わったもんだからもうびっくり。まあ、関ヶ原の辺はいつも特別だけどね。関ヶ原の陣めぐりをした時は激戦地のど真ん中でマジな嵐になって大変な思いをしたし。あの時の旅はホント色々あって・・・少し前の記事で書いた相棒のクマ発言もその際の出来事です。 うちの方では4時過ぎると薄暗くなり始めて、5時になるともう真っ暗ですが、今日は5時過ぎてもまだ全然明るくて日本はホント縦に長いんだな~と西に来ると実感しますね。その分朝が遅いんだけどさ。今回も城はありません。すぐ近くには前々から行きたかった城があるんだけどさ行きたいスポットは沢山あったけど、駆け足でさらっと見るのはやっぱりその場所の良さが味わえないので、かなり数を絞りました。それでも今日は予定を全部こなせなかったという(笑)。まあそうなる予感は充分にあったけどね。明日は少し予定を入れ替えて、絶対に外せないところを優先に回ります。けどちょっと大物揃いだからな・・・それでは、明日も早く起きて色々やらねばならぬことがあるので今日の報告はこのぐらいにします。皆さまも良い連休をお過ごしください
2015年01月10日

開山堂の正面側へ復帰。 「地蔵堂常夜燈」とある。古絵図ではちょっと「地蔵堂」は見つけられない。ここの場所は古絵図ではただ「かいさん」(開山)とあるだけでお堂はひとつしか描かれてないけど、1枚目の写真の様子ではなにかしらこの常夜灯のある場所に建物があってもおかしくはないと思われたので、かつては小さな地蔵堂があったのかもしれない。もちろん、山内を整理した時によその場所にあった地蔵堂からここへ移してきた可能性もあるけど。史跡探勝路を進む方への出口↓。 この写真の右側にわずかに写ってるのが どちらも結構大きいです。ひとつめの銘はアウトだった気がする。ふたつめのは結構しっかり残っていて、 妙法蓮華経一萬三千部 佛説阿彌陀經十萬八千巻 供養塔 寶暦四甲戌年十一月廿三日 願共諸衆生 往生安楽國 願共諸衆生 値遇彌陀尊と前と左右の側面にある。背面にもなにやらうっすらと文字は見えるけど、こちらはかなりキビシイえ~、宝暦4年は1754年の江戸中期。法華経と佛説阿弥陀経で合計11万ものお経が納められているとあるけど、ホントかよってつい思ってしまうわたくし・・・が、通路を挟んだ向かいにはこれがあるので↓ 写真じゃ読みにくいけど「法華塔」とある。これとセットの石碑なのかな。このすぐ先にあるのが へえ、これ「滝尾道」っていうんだ。 で顔を上げると 車道と並行してずっと石畳の道が続いている。先を急ぎたいわたくしはどちらを歩くかちょっと迷ったけど、とりあえず雰囲気のある石畳の道を進んだ。開山堂のすぐ先にあるのがこちら↓。 【北野神社 学問の神、菅原道真(天神さま)を祀る。寛文元年(1661)筑紫安楽寺の 大鳥居信幽が勧請したものである。祭日は8月25日。鳥居や祠の奥の巨岩に 天満宮の梅鉢紋がみられる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)古絵図では「かいさん」と「天じん」の間に「十王」のお堂が描かれている。が、今はもう「十王」はない。「筑紫安楽寺」はつまりは太宰府の天満宮のことのようだけど、なんでまた筑紫の僧が日光に勧請なんかしたんだろう。さて、中へ入ります。 背後の山は枯れ木に遮られてあまりよく写ってないけど、仏岩から続く急斜面。 大きな堂宇はないけど、苔むした石造りの祠が周囲の雰囲気と混然一体となってなかなか迫力があります。 うん、石垣もかなり古そう・・・祠の前はこんなんなってて ここにも何か建造物があったのだろうか。してメイン部分は 天神様と巨石信仰系の山岳信仰がいっしょくたになったような、ここも古き良き時代のチャンポンが感じられる。祠の脇には銘があるけど、今ひとつ読めない。が、「元文」とあるような・・・少なくとも解説にある勧請年代の「寛文」には見えない。元文は享保のあとの元号で、江戸中期。この祠自体は後から奉納されたものかもしれない。祠の上と後ろの巨石にはたしかに天神様の梅鉢紋がある↓。 ↑これは結構新しいものっぽいな。わざわざ「二荒山神社末社 北野神社」としているので、神仏分離以降に建てられたものかもしれないと思った。北野神社を出ると、神社の入り口には3体の石仏↓。身にまとっているコケが年月を感じさせる。 ここまでが史跡探勝路での最低のノルマ。でももう少し先まで行かれるかな・・・てことで、滝尾道をさらに北へ進みます。 この石畳の道、見かけよりずっと歩きにくい。先を急ぐわたくしは足元に気を付けながら進んだけど、一度足首がグキッとなった。うっ、ヤバイ・・・しかしこの時は積雪にそなえて登山靴で行っていたこともあり、幸い大したことはなさそうなので先へ進む。車道とはすぐ近い場所を平行しているので歩きやすそうな車道を進めばよかったかな、とも何度も思ったけど、こちらの道の方が道沿いの石垣をよく見ることができるので、せっかく歩くのであれば石畳の滝尾道をお勧めしますね。 ↑これなんか確実に往時の遺物だよな。 手持ちの古絵図では、滝尾道の様子はあまり詳しく描かれていない。開山堂の付近あたりまでは僧坊が建ち並んで描かれているんだだけど、 滝尾道の結構先までも低い石垣が少し離れたところに続いているので、これらの石垣もかつての僧坊を覆っていたのかもしれない。 ↑なんだ、アレ・・・あれが「二社一寺浄水場」かな。なら結構奥まで来たことになる。ヨシヨシ、このままタッキーまで行っちゃえ~! にほんブログ村
2015年01月08日

前回はまとめて開山堂の報告をしましたが、現地では先に観音堂と開山堂の間にある小道を奥へ進んでおりました↓。 はあああ・・・奥へも早く行きたいけど、ここはまず手前に寄るのがスジだよな。開山堂の真後ろにあるのがこれです↓。 【勝道上人の墓 日光開山の祖、勝道上人は仏岩で荼毘にふされた。当初上人の遺骨は、仏岩谷の上方に埋葬 されたが、東照宮鎮座のおり、開山堂が建てられ、遺骨もここに移された。五輪塔の台石 には「勝道上人之墓」と刻まれている。また、隣にある三基の墓は、上人の弟子のもの。】 (現地解説板より)え~、ちょっとここは先へ話を進めますね。こちらが玉垣の隙間から撮った勝道さんのお墓です↓。 五輪塔の台座に刻まれてるのは「勝道上人之塔」なんだけどな山の上の中禅寺湖にも勝道さんの首の骨を納めたといわれるところがあるので、分骨したなら土葬じゃなくて火葬だったのかな、と思っていたらやっぱりそうなんだね。玉垣の中には入れないので、お花を供えているのは輪王寺の僧侶と思われます。この右隣にあるのが弟子のお墓↓。 見るからに古い勝道さんの弟子の墓は山内の他の場所にもあります。なので、おそらく当初から師のそばに葬られたのではなく、ここに勝道さんのお墓を移した際に一緒にしたんじゃないかと思われます。お墓の奥にはすごい光景が広がってます↓。 【仏岩 頭上の岸壁に仏の姿をした岩が並んでいたのが、地震で岩が崩れて消失し、仏岩の名のみが 残ったともいわれる。岸壁基部のくぼみには、梵天、帝釈天と四天王のうちの三体、 不動明王の石造、六体が並んでいる。】 (現地解説板より)そのまま上を向くと ヒィィィィ・・・今にも崩れ落ちてきそーだここはご覧の通りの絶壁で、わたくしが今いる場所は一気に標高が下がるので、この場所が勝道さんの墓の解説にあった「仏岩谷」だろう。勝道さんはここを「離怖畏所」(りふいしょ)と呼んだそうな。こちら側はまったくお初のエリアなので、来る前に先人の訪問記をいくつか斜め読みしてみたところ、「仏岩」が落ちてきたのを混同して勝道さんの墓が落ちてきたとか、この岩のくぼみにある石像たちが落ちてきたとか解釈しておられる方もいてわたくしもそのまま受け止めていたけど、冷静に2つの解説を読むと岸壁の上に仏の形をした岩があって、それが崩れたって言ってるんだよな。ただ、勝道さんの墓は当初この岩の上にあったから、確かに誤解を生みやすいとはいえる。さてね、ここの地形をちょっと図にしてみました。 この山は「恒例山」というらしいですが、マル1が開山堂。マル2が仏岩で、わたくしは今この真下にいます。で、マル3は何かとゆーと、イエアスの墓のある奥の院なんですよ。東照宮から有名な「眠り猫」のある門を通って、イエアスの墓まではずっと石段を登っていく。うねっとした道だけど、整備された一本道なので迷うことはない。が、逆に言うとルートを外れることはできないので、こんな地形になってるとはこれまで全然知らなかった。イエアスの墓からかなり近いでしょう?霊感がないわたくしには霊的なことはわかりませんが、おそらく仏岩の上の恒例山はそういう大事な人を祀るのにふさわしい場所で、だから弟子たちはそこに勝道さんを埋葬したのだろう。そして、天海が日光遷座をもぎ取って日光に東照宮を造ることになった際、やはり恒例山が目を付けられてそこに奥の院を造ることになった。けど、いくら勝道さんが開山とはいえ、神となった東照大権現とごく近い場所に墓があったのでは具合が悪い・・・それで勝道さんには下に降りていただくことにしたんじゃないだろうか。墓の方の解説によると、「東照宮鎮座のおり、開山堂が建てられ、遺骨もここに移された」とあるので、それまで山内には開山堂はなかったのかもしれない。いくら東照宮建設のためとはいえ、勝道さんにただ降りていただくのも申し訳ないので、開山堂を新造して丁重に勝道さんを祀ったんじゃないかという推測をしました。もともと、今の東照宮の場所には850年から新宮(二荒山神社)が祀られていたという。ただ、神仏習合が濃厚な時期でもあり、源実朝のために建てられたという五重塔は東照宮の境内域にあったというから、おそらく東照宮ができる前までは勝道さんのお墓へは今の東照宮側からルートが通っていたと考えるのが自然。仏岩が崩れたといっても基本的な地形はおおむね変わっていないだろうと思うので、わざわざ仏岩の絶壁をよじ登って墓参りなんかするワケがない。あるいは新宮の近くに、旧開山堂と呼ぶべき建物もあったかもしれない。そう考えてみると、当初の勝道さんのお墓は現在の奥の院と近いどころじゃなくてドンピシャ同じ場所だったかもしれない。そう考える方が自然な気がするんだよね。あるいは、同じ場所じゃなくて恒例山の山頂に近い場所にあった可能性もあるよな。その場合、東照大権現より高い場所に墓があるのはやはり都合が悪いってことで移転を余儀なくされたかもしれない。まあ、東照宮サイドじゃそんなことは大っぴらに言えないだろうし、それ自体にケチを付ける訳じゃありません。もし昔のままに勝道さんのお墓が高い場所にあったら、わたくしは勝道さんのお墓参りをできなかったかもしれないんだし。さて、それじゃ仏岩のくぼんだところに鎮座している石像を向かって左から順に見ていきましょう。どれが誰だかわかるかな・・・ ↑武装してない・・・ならこれは梵天か帝釈天だな。 ↑これは四天王だな。石像の割に表情は細かい。ただ、持物がないとちょっとどなたかまではわからないな。 ↑腕は欠損してるけど、3本てことはないと思うので、四面四臂かな。両脇の顔も見てみましたが、 どれもまずまず穏やかなカンジ。お顔が綺麗に残っていてよかった。 ↑今にも走り出しそうなランナーのようですが、反対側から見ると おお、しっかりお不動様だな。持物はないけど右手には剣、欠損している左手には羂索をぶら下げていたのだろう。お不動様の近くには ・・・いつも思うんだけど、なんで日本人って石を積むのが好きなんだろう ひとつ積んでは母のため~てか?とある山中の古戦場でも、こんな風にあちこちに石が積まれていました。そこはおそらく残党狩りなどで血が流されたと思われる場所だったので、ここに石を積むの、シャレにならんからマジ勘弁してぇ~ と心の中で悲鳴を上げながら山道を歩いたもんです。お不動様の後ろにおわすのは たぶん、お首が欠損したから代わりの石を乗っけたんだろう。胴に巻きついている布にはお経らしきものが書かれている。 武将のナリをした四天王の次が最後で、これも中国の装束をまとっているから梵天か帝釈天のどちらか。顔などの印象からすると、最初のが梵天でラストが帝釈天って気がするな。ラストから見た石仏群↓。 場所的にもちょっと普通じゃない雰囲気が漂っているので、ぽつんと一人で見ているとなかなか迫力があります。にほんブログ村
2015年01月05日

養源院跡からちょっと道を進むと、すぐこんな場所に出た↓。(場所はこちら) おっ!来たな。意外に近かったな。現地では前々回の記事の最後の方で木立の向こうに見えていた建物がこれかと思った。けど、よく写真を見てみると朱の鳥居はここにはなかったから別モノらしい。ん~で上の写真の向かって右側の大きいお堂が史跡探勝路でのわたくしの大きなお目当ての一つですが、まず左の小さい方から紹介しましょう。 【観音堂(産-さん-の宮)(県指定文化財) この観音堂に、楊柳観音を祀ったものであり、別名「香車堂」「将棋っ駒」とも呼ばれる。 将棋の駒の香車が戻らずに直進する駒なので、妊婦がこの駒を借りて帰り、自宅の神棚に 祀ると、無事出産できるという安産信仰の社でもある。出産後は、借りた駒と共に新調した 駒を一緒に返納するので、駒の数は増えるばかりである。】 (現地解説板より)この「産の宮」は天保11年(1840)「の日光山諸所案内手引草」には「三の宮」と描かれている。観音堂はその解説の通り 香車でいっぱい。絵馬だとかの人の念のこもった物は撮るなとセキュリティよしおから注意されてるけど、ここは無理だよ、よしおさん。デカい駒が沢山並んでるんだもん。賽銭箱を探したらいちおうお宮の前に置かれてたんだけど、 香車より小さい しかし、なんで「前だけ進む」が妊婦なんだ?たぶん、初めから駒ルールがあった訳じゃなく、誰かが切なる願いをこめてここに願かけしたものが広まっていったものだろうとは思うけど、『宝ものがたり』には観音様の霊験についてこんな解説がある。 【この、「観音経」の一節には「もし女の人が男の子を欲しいと観音さまを礼拝すれば 徳をそなえた利口な男の子を生み、女の子を望めば美しく皆に愛敬される女の子を 生むであろう」と説かれています。】へ~・・・わたくしが覚えた方の観音経にはこんなフレーズなかったけどね。別のお経なのかな。現世利益バリバリの、「いかにもだいじょお~~!!」ってカンジだな。別にバカにしてる訳じゃないですよ。ただ、やっぱり庶民にはこうした生活に根ざしたわかりやすく具体的な内容が必要だったんだな~って仏教史の立場からしみじみ思うだけです。わたくしのお経暗記は例の32の香薬まであと一歩ですが、今はちょうど「人には生まれついた星によって病気に苦しんだり争いばかりだったり人から恨まれたり悪夢にさいなまれたり色々あるもんだけど、このお経を唱えれば万事オッケー!もろもろの災厄からアナタは解放されるのよ。オーッホッホッホ!!」と大弁才天女様が高らかに霊験を宣言しているところです。こういう具体性があってこそ、悩める諸人が食いつくワケです。観音様の縁日、10月18日には輪王寺の僧侶による法楽が行われ、「観音経」も誦経されるんだそうな。それでは少し、観音堂の意匠をば。 どこかの歯ミガキ粉のCMを歌いたくなるぐらい真っ白な歯ですが、この意匠からして江戸期の建立か再建だろうな。建築自体は流造(ながれづくり)の神社様式だけど、意匠なんかだけ見てると寺院建築のようだよな・・・さて、ここまでで「産の宮」に違和感を覚えた方がどれだけいるでしょうか?意匠の印象はあくまで個人的感想だからそこは除いてね。ここ「産の宮」の正式名称は「観音堂」。社前には鳥居が立ち、神社様式建築のお社の中におわすのは楊柳観音様。管理をして今でも変わらず法楽を行っているのは輪王寺の僧侶。法楽で読み上げられるのは「観音経」・・・はい、ここも立派なチャンポン・・・いへ、神仏習合の名残をしっかり残してる訳ですね。わたくしも現地では何とも思わず、写真を見返して記事を書いててギリ気が付いたぐらいで、あまりに自然すぎて違和感もへったくれもないです。鳥居も玉垣も灯篭もご覧の通りかなり古く、明らかに神仏分離で神社ちっくに急造されたものではない。ここは昔から観音様を祀る「お宮」だったんです。こういうのが日本の仏教史だってことをよく覚えておいてくださいね。脇に目を移すと立派な大木があり、そこにも解説版が立っている。 【陰陽石(おんようせき) お産に縁のある、自然石二つからなる奇石。陰(女性)と陽(男性)を意味すると 言われている。観音堂を訪れた人は、ここでも安産を祈願する。】 (現地解説板より)なんだ、木の解説じゃなかったのか。木の隣にあるのが陰陽石です↓。 医学が日々飛躍的に進歩している現代でさえ、お産で命を落とす方がいる。それだけお産は大変だってことだけど、史跡探勝路のずっと奥にも安産に御利益があるとされるスポットがあり、熱心な方はそこまで行くのかもしれないけど、足元にはくれぐれも注意して下さいね。さて、観音堂の隣のお堂。こちらがここでのひとつのメインです。 【開山堂(重要文化財) 堂内には、約4.5米の地蔵菩薩及び日光開祖、勝道上人とその十大弟子の木像が 安置されている。上人は、弘仁8年(817)に83歳で亡くなり、この地に葬られた。 毎年4月1日に開山会(かいざんえ)が執行される。 間口、奥行きとも6間5尺(12.3米)重層宝形造り 日光山第59世公遵法親王筆の「開先院」の額が掲げられている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)公遵(こうじゅん)法親王(1722~1788)は中御門天皇の第2皇子で、毘沙門堂を経て元文3年(1737)に第5世輪王寺宮に就任。延享2年(1745)には第203世天台座主を兼ねる。のち再任し、第7世輪王寺宮と第206世天台座主となった方。輪王寺宮はただの宮門跡じゃないから、日光山では第何世、寛永寺では第何世、輪王寺宮としては第何世、天台座主では第何世と自分でもどの第何世だかわからなくなるんじゃないかと思うけどね宮の中には手持ちの資料ではあまり詳しいことがわからない方も多いけど、歴代の宮の中で輪王寺宮を再任した方は2人しかいない。公遵法親王はそのうちの一人。公遵法親王はそのうちまた出てきますので、今はこれまで。名前だけ覚えておいてくれると嬉しいな。しかし、宮のお手になる扁額があっても これが正面側から見たものだけど、額がないじゃん、額が・・・中にあるってことか。残念。んで、このお堂ね。 確かに宝形(ほうぎょう)造りだけど、あまりこーゆースタイルって見ないような・・・「重層」と解説にあるけど、これ裳階(もこし)じゃないの?だって4.5mのお地蔵様でしょ?内部吹き抜けじゃないと納まらないんじゃ・・・『宝ものがたり』には開山会の様子の写真が載っている。けど小さいし白黒だし、正面に厨子があってその中に勝道さんがおわすのはわかるけどこの写真ではお地蔵様は見えない。勝道さんの後ろにおわすのかな。このお地蔵様は室町期のものなんだそうな。開山会の行われる4月1日は勝道さんの命日。『宝ものがたり』には 【この碑は上人の遺徳をしのんで日光市長をはじめ関係者および信徒の人々約70名余りが 参列して、輪王寺門跡の御導師のもとに一山の僧侶全員がそろって法華三昧の法要を おごそかにとり行います。】とある。日光市長だよ・・・まあ、現代まで続く日光の繁栄の基を築いた方だからね。「日光山縁起絵巻」にも開山堂での法要の様子が描かれていて、長きにわたって勝道さんが日光で大切に扱われていたことがわかる。が、興味深いことに絵巻の中の開山堂は裳階なしのノーマルな宝形造り。手ヌキしたとも思えないから裳階が付いたのは再建によるものだった可能性もあるけど、お地蔵様の背丈は変わらないハズなので、これを裳階なしのスタイルにすると現在のように上部がスマートな形ではなく、階下と同じ間口・奥行きの幅がどーんと高いところまであって、その上にずどーんと宝形の屋根が乗っていることになるので、かなり大きくてインパクトのある建物だったかもしれないここの場合は裳階スタイルに変更して正解だったかもな・・・にほんブログ村
2015年01月04日

史跡探勝路を進む前に少々歴史の話なぞ。この道、将軍様がお通りになった道かもしれません。江戸博で買った企画展の図録「日光東照宮と将軍社参」によると、将軍経験者の日光社参は計17回。「将軍経験者」としているのは、2代・秀忠の大御所時代、3代・家光、4代・家綱の大納言時代(将軍継承前)を含むからです。うち、秀忠が4回、家光が10回、家綱が2回。この後はしばらく途絶えます。5代・綱吉や6代・家宣も行きたい意向はあったらしいんだけど、結局行かれなかった。7代・家継はまだ幼くしかも病弱だったのでムリだった。それを復活させたのが、8代・吉宗。吉宗の倹約政策は有名で、それまでは寛永寺か増上寺のどちらかの菩提寺と紅葉山の両方に霊廟を作っていたのが、自分以降は新たな霊廟の建立はせず既存の霊廟に合祀し、紅葉山には霊廟は築かないというのも倹約の一環だったと思われます。享保5年(1720)に寛永寺にあった家光の上野霊廟が焼失したあと再建されなかったのは「たぶん、日光に立派な大猷院廟があるからあらためて上野に再建しなくてもいいと思ったんじゃないかね(笑)」と冗談半分に「上野第一編(2)」で書きましたが、ホントにそうだったらしい中には社参の予告はしていたものの、諸事情により幻の社参となったものもあり、上記図録によると将軍の日光社参は政治的なものと一般には言われているが、それだけでなく 【家光以降には将軍の実質を帯びた時期にも社参を計画していたことがわかる。 先祖を祀り、将軍の「家」の実質的継承を公に示すところに、社参の「純理」が あったのである。】 (図録「日光東照宮と将軍社参」より/文章は筑波大学准教授 山澤学氏によるもの)なんだそうな。吉宗は将軍の死後の処理について簡略化したたけでなく、各方面に手を入れて財政の立て直しを図ったことはよく知られていますが、何もかもをケチった・・・いへ、倹約した訳でもなく、神君の代からの習わしなどについては旧来のまま、としたんだそうな。日光社参については途絶えていた時期もあったんだからわざわざ金のかかることを復活させなくてもよさそうなもんだけど、吉宗はあえてそれを復活させた。それには彼自身の境遇も大きな理由のひとつだろうと思う。こちら、歴代将軍の大まかな系図になります↓。例によって長幼の順は無視してますのでご了承ください。 水戸様んちが大変なことになっててこれを作るのに相当時間がかかりましたが、なんでこんなめんどくさい事をしてるのかは「上野第二編(32)」や「上野第二編(70)」をご覧いただくとして、一言で言うと頼重・光圀の兄弟は御三家・水戸家当主の子として華々しい出生ができずに弟の光圀が第2代水戸家当主を継ぐことになったからです。兄は弟に、弟は兄に遠慮して水戸家と讃岐松平家の間でこんな変則的な相続が繰り返されたようです。昔の人ってのも大変だなあ~。じゃなくて、6代・家宣も甲府から迎えられてはいるものの、4代・5代の甥であり家光の孫でもあるから直系により血は近い。もしもの時のために用意された御三家から初めて将軍に立ったのが吉宗で、イエアスの血をひいているとはいえ傍系のひ孫であり、母の身分も低い。江戸初期と違って後期に入ると将軍が江戸を出ることはほぼなくなった。将軍の日光社参は文字通り「動座」にあたり、留守を預かる江戸では特別の体制が敷かれ、道中では将軍につき従う行列の他、各宿場の警護を割り当てられた者たちは先行して持ち場へ向かい、準備を整えて行列が来るのを待った。その数たるや相当なもので、俗に行列の先頭が日光に到着しても、最後尾はまだ江戸にいたとも言われるほど。吉宗の子・9代家重は病弱で社参はできなかったが、祖父をこよなく尊敬する10代・家治は祖父にならって社参を果たした。家治の道中のエピソードにこんなものがある。 参詣へのお供の数は数万にものぼったので、行列の先頭は早く進むこともできなかった。 夕暮れ近くなってもまだ遅かったので、家治様は吉十郎を召して 「もう夕方だよ~。 先頭はなにをモタモタやってるワケ!?」 と仰せになるので、吉十郎は 「お供の数が多すぎるんで、ぱっぱと歩くことができないんですよ~。 でもみんなちゃんとやってます。それもこれも、上様の警護を 万全にしようという思いがあるからですよ。」 これを聞いた家治様は上機嫌になり、 「そっか、わかったよ・・・ ならオッケー。 上々だね」 と仰せになった。 これを伝え聞いたお供の者たちはにわかに疲れも忘れ、 「おっしゃあー! このまま数千里までも歩いて行こうぜ!!」 とばかりに奮い立った。 吉十郎の返答も機転がきいていたものであったが、それを理解して 聞き分けなされた上様のお心こそありがたきこと。 以後はみな元気よく進み、君臣が心を一つにして日光を目指していった・・・ (「徳川実紀」より意訳)いずれにしても行列は相当な数であり、各宿場での警護担当者も合わせれば「数万」というのは誇張でもなんでもないだろう。将軍の社参は片道4日程度と少し前の記事に書きましたが、4日で日光に着くんだ・・・と思っていたら、これはかなりのハイスピードだったらしい。そこには経済的な配慮もあっただろうし、吉宗も社参の経費はなるべく抑えようとしたようだけど、どう頑張ったって莫大な出費にのぼるのは致し方ない。将軍が社参に出立する前には御三家やら世子やら先代の奥方様やら色んな人から祝いの品が届けられ、そうしたものまで含めば社参全体で動いた金は相当の金額になる。それでも吉宗は社参を復活させた。分家から宗家を継いだ吉宗としては、正当な後継者であることを神君の威光を借りて示したかったという思いは確かにあっただろうという気がする。だからこそ、社参が「政治的な意図」だと世間に解されてもいるのだろう。歴代将軍の社参の具体的スケジュールまでは調べてないけど、江戸博の図録によると後代の3人の社参の際にはちょっとした観光もプラスされたんだそうな。家治は祖父の例にならって社参をしているものの、吉宗が実際にどういう観光をしたのかまでは手持ちの資料ではわからなかった。が、家治は「徳川実紀」に比較的色んなエピソードがある。それによると、「享保の例により」家治は滝尾権現へ詣でて周辺の景観を鑑賞することを前々から楽しみにしていたらしい。「享保の例」はもちろん吉宗の社参を指すので、吉宗はタッキーへの道を進んでいったものと思われる。あとで写真も出てきますが、タッキーへ向かうには現在2つのルートがある。どちらの道を吉宗が通ったのか知りたいと思ったんだけど、あいにく「実紀」にはメインとなる東照宮・大猷院への参詣以外の詳しい行程は書かれていなかった。でも家治は吉宗と同じように山内の観光を楽しみにしてたんだから、家治の社参が比較的詳しく書かれているなら、家治を参考にすればいいじゃん?と思うでしょう?ところが、家治を参考にできない愉快なエピソードがあるんですよ関西以西の方にはあまり知られていないかもしれませんが、日光でのメジャーなイベントに「強飯式」(ごうはんしき)というのがある。どんぶりどころじゃないくらいデカい三升もの器にぺたぺたとピラミッドのように盛られたご飯を食べるもので、その周囲では山伏が「ホラ食え!オラオラオラ~、がっつり食えよ!!」とばかりに責めたてる儀式で、これの始まりは古く、山で修行した修験者が山中でお供えしたものを持ち帰って下界の人々に分け与えたところから始まったといい、日光三社権現から賜るもの、という意味合いらしい。かつては山内の各所で行われていたらしいが、現在では4月2日に輪王寺の本堂で行うものに一本化されている。『宝ものがたり』によると、江戸期には将軍や大名などの参詣者もこの儀式を受けたらしいが、実は身代わりを立てており、本人は御簾のうちで安穏としていたらしい。で、家治さんが参詣の折にも強飯式が行われました。 この山の古い慣習に、椀飯を勧めるものがある。 山法師どもが天狗の姿をして「我は権現の使者なり」と言って人に食べ物を勧め、 食べなければ太い縄や黒木の棒など持ってきて無理強いするというもので、 これを家治様がご覧になられたが、山法師どもが責めたてて罵るさまは とても恐ろしく騒がしいものであったので、家治様はやがて宿所へ帰られてしまった。 日が変わると、滝尾への御遊行は取りやめとなった。 それほどまでにお心が参ってしまわれたようだが、御滞留の期間を1日のばして 滝尾へ御遊覧されてはいかがかと申し上げるも、自分一人の楽しみのために 滞在を延ばせば下々の者にまで迷惑がかかるだろうと遠慮して、翌日には 御山を下りて帰路に着かれた。家治様が下々のことを考えるのはいつものことで、 御一人だけの楽しみを追い求めることはしない方だった。 (『徳川実紀』より意訳)という訳で、強飯式にビビッた家治さんはせっかく楽しみにしてた観光をやめちゃったそうなんですよまあでもね、タッキーへ行くにはもう1本の道より稲荷川沿いの史跡探勝路の方が歩きやすいと思うので、どなたかの将軍様が一度はお通りになった道だろうとわたくしは想像しますね。にほんブログ村
2015年01月03日

さて、前回の解説版には芭蕉おじさんもちょびっと顔を出しましたね。芭蕉おじさんが養源院を訪れたのは 元禄2年(1689)4月。東照宮宝物館の庭にあるおじさんの句碑を以前紹介してますが、それと同じ時の訪問のようです。あの記事を書いた時には、「パンピーが東照宮へ参拝できたのか?」と思ってそのまま書いてますが、今回養源院のことを知ってその疑問も解決しました。やはり、考えたことを書いておくことは頭の悪いわたくしには無駄じゃないようですおじさんの訪れた前年の元禄元年(1688)には「元禄の大修理」といわれる大規模な工事が始まっており、約2年の月日を費やした。そういう時だったので落ち着いた参詣もできなかったかもしれないけど、おじさんのお伴の曽良が日記を遺しているので、来晃の様子を見てみましょう。まず、鹿沼から今市・鉢石経由で日光へ向かう。前日から雨が降っていたが、朝7時半頃宿を出て時々小雨の降る中を歩き、4月1日の昼頃に日光へ着く。この頃には雨はやんでいた。一行はまず養源院へと向かう。手には浅草・清水寺からの紹介状を携えていた。ここがポイントで、やっぱり当時は庶民が軽々しく東照宮へ参拝できなかったらしいんだな。で何で養源院かとゆーと、お梶の縁で水戸徳川家が養源院の大檀那となったと前回あったでしょお~。つまりは江戸の寺からの紹介状によって、水戸様の権威で参拝への便宜を図ってもらったってことらしいんだな。養源院からの紹介によって当時東照宮の別当を務めていた大楽院からお迎えが来たので、一緒に大楽院へ向かったものの、あいにく来客があり2時間近く待たされた。芭蕉おじさんの「あらたふと・・・」の句は、待たされてヒマだったから句でも詠んでたんじゃないかとつい想像してしまうわたくし・・・午後2時半頃になってようやく参拝が叶い、その夜は鉢石の民家へ泊まる。翌日は快晴。8時頃宿を出て山内周辺を昼頃まで見物したあと、那須・大田原へ向かった、とな。わざわざ江戸から紹介状を用意してくるあたり、おじさんはよっぽど東照宮へ参詣したかったらしい。さてと、それじゃ前回の入口から中へ入ってみましょう。 ほお、なかなか綺麗に石垣が残ってるじゃないか~。しかし、綺麗なのは入口付近だけで、奥へ進むともう石垣は崩れている↓。そして、石垣の内側の奥の方には何やら気になるものが見えた。 石垣の内側へ入るにいい道はなかったけど、低いところを選んで中に入る。これ、ちょっと石段のように見えなくもないよな↓。 これが石垣の内側↓。当時は一体どんな造りになっていたのだろうか・・・ この奥にあるのが その隣にあるのが 宝篋印塔だ・・・これ、墓か!?向かって左の大きい方はいくぶん読める。梵字の下には 【寛永十九年 英勝院 壽位 八月廿三日】とあるように見える。「寛永」の「永」の字がイマイチなんだけど、寛永19年8月23日はお梶の亡くなった日でもある。え、お梶の墓!?でもお梶の墓は鎌倉にあるハズなんだけどな・・・宝篋印塔は必ずしも墓という訳でもないし、ここの銘は現地では見えにくかったので、お梶の墓とも思えなかったわたくしは現地ではお梶が納めた経塚か何かかもしれないと考えていた。けど、あらためて考えてみると「壽位」だし日付も命日と合ってるし、やはりお梶の墓かもしれない・・・ただ、鎌倉の英勝寺に葬られているのはほぼ間違いないと思われるので、養源院の開基でもあるお梶を偲んで建てられた供養塔だろう。家康の側室でもあった訳だから、ここに供養塔を建てるのはふさわしいとも言える。で向かって右の小さい方ですが、これはコケと摩耗で相当キビしいしかし台座で読める部分は 【寛永二年 養源●● 三月廿●日】寛永2年か・・・推測も交えて読んでみると、後の2行は「養源墓 三月廿八日」のように読めなくもない。ならこれは於六の墓かもしれないな。ただ、「三月」部分は間違いないので、そうするとイエアスの命日(4月17日)より前の日付になり、「イエアスの命日に神前で焼香していた時にうんぬん」という世間のウワサは単なる俗説に過ぎないということになる。 振り返ると、石垣の内側は崩れてもの寂しい雰囲気を醸し出している↓。 明治に入ってから廃寺となったのなら、おそらく神仏分離後の明治初期の山内の整理の頃だろう。たかが120~130年。史跡探勝路は歴史ファンも歩くけど、パワースポットとされる滝尾神社へ向かう観光客もちらほらいる。わたくしがここにいる間、一組の観光客が足を止めて入口の看板を見てたけど、彼等は入ってくることはなかった。ここにあるのが於六の墓なら、廃寺にした際にもう少し賑わう場所へでも移してやればよかったのに、とも思わないでもないけど、今ではほとんど人も立ち寄らないひっそりとした場所で、昔のままに於六のために建てられた寺の跡地に静かに眠っている方がいいのかもしれないとも思った。輪王寺は往時より規模が縮小されたとはいえ、歴史が長い寺だし大小を問わず古くからのお堂や石仏を大切にしてそれらの前で決まった日に法楽をしている。年間を通せばその数はかなりのものになるだろう。養源院は今はもうないのでここで法楽をしているという情報は持ってないけど、ここにこうして墓が残されているのなら、墓石に刻まれた於六の命日には静かに小さな法要でも営まれているのかもしれない。道路に復帰して歩き出すと、木の陰に何か建物があるのが見えた↓。 朱の鳥居だ・・・神社かな、お堂かな?四本龍寺の石の護摩壇や小玉堂にも鳥居があったから、山内では鳥居だからといって単純に神社と限定することもできない。あそこ、行かれるのかな・・・この史跡探勝路は舗装された道で車も通れるほどですが、道の脇には 清冽な水がたっぷんたっぷんと勢いよく流れ下っていて、「山の神様がくれた水」ってどこかの天然水のキャッチがよく似合う光景でもあります。この水は朝わたくしが本宮神社の手前で見た場所まで流れ落ちていくのだろう。山内に流れる水はここだけじゃなく、輪王寺から二荒山神社の方へ抜ける下新道などにも日光連山から下りてきた水が流れている。木立と水に包まれて史跡探勝路を進むと、右手に独特な形の山が見えてきた↓。 うわっ、すげえ山だな、アレ・・・そうか、あれが「外山」だな。あれの存在も今回まで全く知らなかったのですが、輪王寺の管轄で毘沙門天を祀るお堂があるらしい。山頂からはかなり眺めがいいらしいんだけど、そりゃそうだろう。あんな形の単独峰だもの。ただ、あの付近、クマの目撃情報が時々あるらしいんだよね日光連山にはクマがいますからね。山の上の中禅寺湖畔なんかもクマ注意の貼り紙があったりするし。まあ、史跡探勝路は外山とは稲荷川に隔てられているけど、近い場所ではあるから史跡探勝路に「出ない」って保証はないんだよな。タッキーは結構奥の方にあるけど、今回はとりあえず勝道さんが守って下さるだろうそれより外山だ。登山をやっていた昔から、わたくしはリスクのある行動はしないことにしているのだ。でも輪王寺の所管なら行きたい・・・久々に相棒でも誘ってみるかな。ちなみに相棒とは長年の付き合いですが、奴と関ヶ原の陣めぐりをした際、小早川金吾が陣を置いた松尾山に向かっていて、「クマ注意」の貼り紙がありました。わたくしはその時「出ない」と思っていたので続行を主張したのですが、普段は楽天的な相棒がその時ばかりは「やめよう」と言い張りました。結局わたくしが勝ってそのまま山頂へ向かったのですが、これでもし万が一のことでもあったらわたくしも後味が悪いし、「ホントにいいの?」と確認したら、「クマよりアンタのが恐い」と言いやがった清楚な乙女に向かって何たる暴言を・・・にほんブログ村
2015年01月02日

あけましておめでとうございます。本年も戦国ジジイをよろしくお願いいたしま~す年明けついでにブログデザインもリニューアルです。今年はこの白いバラのように清楚に可憐にラグジュアリーに・・・(←絶対ムリ)昨日の大みそかは具合が悪くて結局1日寝てました。三が日はちょいと出かけようと思って自分の中では結構盛り上がっていたのですが、やめとく方が無難かもしれません・・・去年に引き続き家で正月を過ごすわたくしですが、元日の楽しみといえば「芸能人格付けランキング」!。無敗のガックン(GACKT)が今年も勝ち続けられるのか、も~ドキドキです。(それを見るので今日は更新が早い)さて、それじゃ小玉堂の続きです。 せめてもうちょっと近づけたらな・・・色んな意匠を撮りたかったフェンスに沿って後ろ側まで来ると 周りの石垣にすっぽり収まる形になっている。面白い造りだな・・・小玉堂から道を北へ進む。「史跡探勝路」は山内の西側にもあるようですが、こちらは東側の道。四本龍寺から北上した道がこれにあたります。こちらにもずっと地味な石垣が続いております。 ↑ここで道は左に折れる。東照宮沿いの道を行った方がわかりやすそうなので、この道をずっと奥まで進む。ここにも石垣が続く。 ↑左が駐車場。ここに史跡探勝路の案内があったので、標識に従って右の小道へ入る。 ↑前方は東照宮の敷地。敷地内のすぐ近いところには東照宮の美術館があるらしい。(あまり行かないので知らなかった)ここから東照宮の敷地に沿ってさらに北へ↓。 へ~、こんな風になってたんだ・・・全然知らなかったな。この道、実はお目当てのひとつが隠されていました。しかしこの時はまったく気がつきませんでした。地味なスポットで正確な位置がわからなかったこともありますが、道の奥に見えている立派な建物の前に立て看板があって、それに気を取られていたんです↓。 特別祈祷ツアー?ナニソレ・・・どこを回るツアーなんだろう。私とカブったらやだな・・・そんなことばっかり考えながら、道なりに進んでいく。石垣はまだ続く↓。 この道を曲がるところに 滝尾(たきのお)神社への案内が。う~ん、タッキー(滝尾神社)へは900mか・・・滝尾神社は東側の史跡探勝路の最終地点。今回のわたくしが目指す最終地点でもあります。900mなら時速に換算すれば何とかこなせそうだけど、途中のスポットで足を止めるし、ある程度の上り坂だろうからやっぱりそこそこの時間はかかるだろうな。なるべく途中では早めにこなそうと思いながら歩を進めると、こんな場所に出た↓。(たぶんこのへん) なんだかよくわからないので、このまま道を進む。 ↑あ、石垣にあんな穴が・・・石垣の上辺はきれいに揃ってるし、この石垣は古そうな感じだな。そう思いながら先へ進むと、入口らしきものがあった↓。 【養源院跡 寛永3年(1626)水戸頼房の養母英勝院が、於六の方の菩提を弔うために 建てた寺である。家康の側室であった於六の方の院号が養源院であったことから、 そのまま寺号として。水戸家が代々の大檀家で、元禄2年(1689)には、松尾芭蕉が 奥の細道行脚の途中、この寺を訪れてから東照宮に参詣した。明治以降廃寺となった。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)お梶が建てた寺!?こんなのあったんだ~(←調べてなかった)お梶(英勝院)については「上野第二編(70)」をご覧ください。お梶の縁で、水戸家が全面的にバックアップしたってことだろうな。江戸期には養源院が水戸家の宿坊になったそうな。え~、わたくしってば現地ではロクに解説版を読んでおらんな、と我ながら思いますが、現地では本文を読むより先に「養源院」の名称に食いついた。なぜって、過去に「養源院」に行ったことがあるからです。わたくしが行ったのは、蓮華王院・・・いわゆる「三十三間堂」の向かいにある小さな寺で、淀殿が父や祖父のために建て、のちに妹のお江が再建したものです。「鳥居元忠の血天井があるところ」と言った方が、戦国ファンの方には「あ~、アレね~」とわかりやすいかもしれませんね。お江とお梶じゃ年代的に同時代なので、なにか京の養源院と関わりがあるのかと瞬間的に考えましたが、解説にしっかり於六の方のためと書いてあるなでイエアス側室の於六さん。ネットで調べると「お梶の妹」としている人が多いけど、於六は今川家旧臣の黒田氏の娘だともいい、お梶は太田氏・江戸氏・遠山氏など諸説あり出自がはっきりしていない。ので、お梶と於六が姉妹だというのはガセじゃないかと思う。於六は慶長2年(1597)の生まれだというので、それが正しければ天文11年(1543)生まれのイエアスとは実に54歳差・・・現代なら犯罪どころの話じゃありませんイエアスが死んだ時、於六は19歳。まだ若い身でありながら一旦は落飾したというので、その際の院号が「養源院」なんだろうな。が、まだ若かったため徳川四天王・榊原康政の養女となり喜連川(きつれがわ)義親(下野喜連川初代藩主・頼氏の嫡男。義親は早世したため藩主を継いでいない)の継室として再嫁する。喜連川は大名じゃなく正式な藩じゃなかったけど、義親の父・頼氏は小弓公方足利家の父と、北条氏康の外孫を母に持ち、血筋はいいんだわ。この祖父母の縁組は名族である足利氏の断絶を惜しんだ秀吉によるものだという。つまりは喜連川を名乗っていても足利氏な訳で、徳川の世になっても歴代将軍は喜連川家を重んじたという。於六はそういうおうちに嫁に行った。年の差カップルとはいえ、仮にも大御所の側室。そういう立場でしかも一旦出家した身が軽々しく再嫁できるハズもない。於六はもともとお梶の部屋子だったといい、それがイエアスの目に留まって苦労して天下を取った祖父ともいえる年齢差の天下人から愛された。お梶のように於六もまたその聡明さを愛されたともいい、まだ若かったこともあって秀忠が配慮したとも思われる。そのまま喜連川さんちで幸せに過ごしていれば、於六のための寺はここにはなかったかもしれない。が、ちょっと於六にはオカルトちっくな伝承がある。養源院が日光に建てられたのは、寛永3年(1626)。その前年の寛永2年、於六はイエアスの命日に日光に参詣。ところが、28歳の若さで社前で急死したんだという。死因は、焼香してる時に香炉が突然割れてそれが額に当たったからだとか山内で雷に打たれたとか色々言われているらしいまあ、雷の方がいくぶん現実的だよな。於六の話には続きがあり、於六の2番目の夫・喜連川義親は早世したと上に書きましたが、義親の没年は於六の死の2年後。こうして若い2人がばたばたと死んだので、嫉妬したイエアスの祟りじゃと噂されたんだそうな・・・ま、死の真相はどうであれ、日光に於六のための寺が建てられたことから山内で於六が不幸な死を遂げた可能性は充分にある。病死だったとしても、山内での死の可能性は高い。お梶は人格者だったと伝えられるので、於六が自分の小間使いから同じ側室の立場になっても、姉のように目をかけてやっていたんじゃないだろうか。この看板のある場所までは、さっき見た石段からずっと石垣が続いている。たぶん、あそこが養源院の正式な入口だったのだろう。てことは結構な敷地を持っていた子院だったと思われ、水戸様の支援があったとはいえ於六を不憫に思うお梶の優しさと愛情が感じられるような気がした。にほんブログ村
2015年01月01日
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