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『ソーダファウンテン Morozoff』 札幌ステラプレイス店できた頃は、とにかく「ソーダの専門店」ってのが珍しく、だってソーダだよ、いうなればサイダーだよ、そんなん商売になるのん?みたいな感じだったけど、ミントの葉っぱが浮かんだきれいな水を飲んでみるとこれが素敵においしい。日本人の飲んでいるソーダは廉価版だったんか!と小さな衝撃を受けたものだった。店の内装が気に入ったことや、場所柄いつも空いていたこともあって、通りがかれば入って、クランベリーのソーダなんかを好んで飲んでいた。先日も営業途中に一息ついて、遅めのランチをとった。しばらく来ないうちにパスタやデリの種類も豊富になってますます喜ばしい。ワンデッシュにグラタンと牛肉の煮込みが半分ずつ盛られたものを選んで、パンとサラダ、ドリンク付き800円ぐらいだったかな。商品カウンターの前の禁煙席に座ると、ソーダを注ぐ真鍮色のサーバーや輸入もののシロップの瓶が色とりどりに並んでいる棚が見渡せる。明るい店内はステンレス素材とマットピンクがマッチしている。ふと思った。ああ、飛行機っぽいんだ、ここ。デリの味は機内食そのもの。(美味いマズイは二の次)機内食のナイフとフォークってステンレスでしょ。グラスも食器もシンプル。このテイストが好きな理由の一つかもしれない。ソーダってそういえばなんだか金属的。色だとか泡だとか。カラフルでPOPで、もしかしたら飲んじゃいけないものかもしれないって思わせるじゃん。でも甘いんだなー、これが。なんか特別な飲み物。可愛くて幸せそうな泡を目の前に見ながら異空間を味わえる、ソーダファウンテンのおかげでソーダが大好きになった。
2007.03.19
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パフューム調香師である主人公グルヌイユ。この世で唯一無二の嗅覚を持ち、そして体臭を持たない男。体臭がないことを悲しみ、代わりに自分の生きた証として後世に名を残すことを成し遂げようというモチベーションになり、それが究極の香水作りだった。体臭の薄い日本人であり、しかもフツーの鼻しか持ち合わせていない私にはまず理解不能。だからとにかく、彼が感じる匂いを少しでも感じ取ろう、彼の悲哀を感じ取ろう、痛みを分かち合おうと主人公を追っかけているうちに物語が終わった。キーワードでもある「香り」をどう映像で表現するのかとても興味深かったけれど、主人公が感じる匂いを嗅ぎ取れるはずもなく、かといって主人公と同化できないことにもどかしさを感じることもなかった。匂いを感じた場面は唯一、果物売りの女の子がプラムの皮を剥いているところ。プラムの甘酸っぱい匂いと、赤毛の女の子からジャスミンとかオレンジの花のような匂いが漂ってきそうで、官能的で芳しいシーンだった。でもそれで終わり。彼女が画面の中で死んでしまってから、それ以降、さっぱりなーんにも匂ってこなくなった。どんなにCGを駆使しても、色鮮やかな花をたくさん見せられても、どんなに美女を並べられても、『匂い』として伝わってこないのだ。それからは心神喪失状態の匂いフェチがただただ殺人を繰り返していく。そして話題のラストシーン。罪人となったグルヌイユが隠し持っていた究極の香水をハンカチーフに一振りすると、看守も被害者の父親も、知らずに涙が流れ出るほどの感情の昂ぶりと幸福感に酔いしれる。広場に引き出され、群集の前で勝ち誇ったようにハンカチを風の中に放り投げる。司教も魚売りも貴族も乞食も風に舞うハンカチを追って波のようにうごめく。そして誰彼となく抱き合うのだ。そこで初めてもどかしくなった。“愛し合いたくなるってどんな香りなんだろう。やっぱムスクか、それともアンバーか?”香水の材料は、わかりやすく言えば女達の体臭だ。いかに材料が絶世の美女達であったとしても、身体を脂まみれにしてそれをこそげとって蒸留して調合して良い香りになるとはとうてい思えない。さらに、初めて顔を合わせた隣人と愛し合うほどの豊かな感情が湧きあがるような匂いとは、それはいわゆる「香水」ではないんじゃなかろうか。「香水」でないのなら、究極の香りというのは実は類い稀な鼻を持つ主人公グルヌイユにしか認識できない「匂い」=フェロモンだったのではなかろうか。フェロモンというのは、嗅いでいるとは意識しないうちに体内の内分泌系が変化している匂いをいうらしい。そしてフェロモンは動物同士のコミュニケーションの手段の1つだと読んだことがある。物語の中で彼は誰とも会話といえるような会話をしない。一方的にしゃべるか一方的に聞いているかのどちらかだ。そして誰からも愛されなかった。愛されたいという欲求さえ見せなかった。コミュニケーションの始まりは他者に対する感情の揺らぎだ。よくも悪くも感情を突き動かされる無意識の匂い。それこそ究極の、存在のない「香水」ではないか。常人には無意識下の匂いを、作り出し、香水にまで高めた、存在のない男。最後にやっと、究極の香水と自分、そのふたつの存在を確信した彼は、自らが作り出した愛のフェロモンを頭から引っかぶることで、究極の愛を享受したかったのだ。最期の恍惚とした表情が彼の至福のときを現していた。グルヌイユ役のベン・ウィショーは素晴らしかった。頑なで、生まれてから死ぬまで心を閉ざしたままだった稀有な青年を好演していた。
2007.03.04
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「The Producers」今どき珍しいかもしれないミュージカルらしいミュージカル。舞台を観てるような楽しさを味わえる「映画」。最初の触りを観ただけで安心感が湧いて、そのままずーっとリラックスして最後まで楽しめる。なかでもユマ・サーマンが良かった。セリフも少ないし、役柄もパッとしない、登場場面も少ないスウェーデンから来た女優の卵の役。役柄上スウェーデン訛りの英語を“一生懸命”しゃべってる。バカがつくほどでかい。ダンスは下手(身体は柔らかいんだろうけど動きがぎこちない)。歌ももちろん下手。表情が全部同じ。…。それがスウェーデンから来た女優の卵そのものなのだ。“一生懸命”スウェーデン訛りにしていることでスウェーデン人が“一生懸命”英語をしゃべっているように聞こえ、バカでかい身体をもてあまし、頑張って練習してるんだけど、センスがないのでどうも…っていう、孵化する見込みがないので本能的にプロデューサーとできちゃうような女優の卵を物語の中に見事に存在させているのだ。あれがユマの役作りなら脱帽。そして主役の2人はもちろん、主役を喰ったオカマの演出家とアシスタントも、ヒトラー大好きのナチ残党(っぽい)ドイツ移民の脚本家も、見ていてワクワクするぐらい役に“はまってる”。観客はミュージカル映画を観に来ているわけだから、普通の映画に比べてもブロードウェイの夢の世界を楽しんでいるのだけれど、「NYには絶対いるよ、こういう人。」っていう感じで、役者が上手にリアリティを醸し出しているのだ。トニー賞を12部門も獲ったのだからシナリオも舞台も曲も良くて当たり前。役者もみんな個性的で、確かに歌もダンスも上手(ユマ以外は)。でもこの映画が面白いのは、ミュージカルとしての完成度の高さの上に、舞台では絶対出せない映画としての面白さがちゃんとあるからだ。それが個々の役者をクローズアップしてキャラを立たせることで“醸し出されるリアリティ”であって、あたしはこういう映画ならではの面白さが好きだなぁ。舞台組からの出演は唯一、オカマ演出家のゲイリー・ビーチだけだし舞台がどれだけ素晴らしいのかは観てないからわからないけど、まず第一にキャスティングが見事だと思うな、この映画。ちなみに一番笑ったのはやっぱりカルメンの「Yes」だね。
2006.04.09
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「「妖怪大戦争」さすが角川グループ創立60周年記念映画です。大掛かりで、大袈裟で、誇大表現満載。コマーシャリズムも惜しみなく前面に。でも楽しくてハチャメチャで、最後まで飽きなかったし、面白かったですよ。神木隆之介という子どもは、実はあんまり好きじゃない。演技が巧いとも思わない。かといって“どこにでもいるフツーの子”という感じもしない。なんか、きれい過ぎてバーチャルなんだよなぁ。あの年頃に感じるような汗の匂いがしないのだ。そんなことはどうでもいいか。さてさて、そんな線の細い子ども、タダシが主人公です。親の離婚で母親とともに田舎のじいちゃんちに引越し、弱虫、泣き虫といじめられながら、妖怪退治を通じて成長していく物語。でもウラ主人公はやっぱり妖怪です。近藤正臣演じる猩猩が指を差しながら「もーん、もーん」という場面はオースティンに通じるギャグセンスを感じ、1人で悶絶していた。竹中直人はもちろんいつもの竹中直人で油すましを演じているし、清志郎のぬらりひょんはやっぱりセリフ棒読みだ。そして菅原文太演じるじいちゃんも実は妖怪だ。いや、人間だけど、もう充分に妖怪の域に達しているおじいを好演している。ときどき意味のない演出が気になったり、意味のわからないモノも結構出てくる。シチュエーションとして「?」と思う場面もあるし、臭いセリフもある。「あれはどうなったの?」とか、引っかかることもいーっぱいある。でも、こういう映画は理屈無しで観るといい。妖怪は理屈無しで見るものだから。理屈をこねる人間は、妖怪には一生遭えない。すねこすりを見て笑っちゃいかんのだ。妖怪はぬいぐるみに化けたりするんだから。豊川悦司演ずる加藤保徳がどっかで見たことあるような気がしても、首を振らなきゃいかんのだ。悪い奴は往々にしてなんかのてっぺんに立ちたくなるものだから。そう思うとなんでも許せる。この映画が、妖怪が、人間さえも愛しくなる。(角川らしく大袈裟に)だって、彼らの無邪気さを見よ。「祭だ祭だー」って全国各地から東京に集まってくるんだぜ。数百万の妖怪の中で闘っている(つもりでいる)奴は、成り行き上麒麟送子になっちゃったタダシと川姫と川太郎と小豆洗い(これも怪しいな)ぐらいだ。ぬらりひょんだって、猩猩だって及び腰だし。その他はみーんな野次馬根性の物見遊山で「来ちゃったよー、東京までさぁ」という連中ばっかりじゃないか。そしてなんといっても、悪の権化をやっつけたのはひと粒の小豆だよ。あずき。えーっと、あの、たたらが必死に鍛えなおした聖剣は?だったら最初っから、あの、小豆撒いたりしておけば…、あの、えーっと、まぁそんなもんですよね。勝つときってのはね。「宇宙戦争」の最後が“地球のウィルスによる予期せぬ勝利”だったってのによく似てますよ。そう、所詮戦争なんてそんなものだ。大義名分をかけて闘いを始めても、相手が誰だかわかんなくなってきたり、終わりはとてつもなくあっけなかったりするのだ。虚しさをぶつける相手もない。妖怪大翁に扮した水木先生が発したセリフが小気味良い。「戦争は腹が減るだけだ」この映画は、あからさまにメッセージを打ち出している。文明重視への警告、純粋な心への憧れ、戦争の虚しさ。そんなメッセージを、妖怪たちのコミカルな戦争に乗せて伝えようとしている。それがうまく伝わったかどうかは別。嫌みに映る場合もある。でも「日本から妖怪を亡くしちゃいけない。日本人の心から妖怪を消し去ってしまってはいけない。豊かな感受性と、天真爛漫で好奇心旺盛な人の良さと、“まず受け入れる”という懐の深さを、私達はなくしてはいけないのだー。」と思ったのは事実。それは出演している俳優達の楽しそうな顔が一番の要因だと思うね。妖怪っていいな。妖怪のいっぱいいる日本っていいな。そう思える。そして、関係ないけど栗山千明はやっぱかっこいい。彼女の衣装だけ無意味にスタイリッシュなのは良くわかんなかったけど、良く似合ってた。
2005.09.04
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美しいフルCGアニメです。途中寝ちゃったから話の展開は良くわかりません。起きてた相方に聞いても、奴も良くわかってませんでした。盛り込まれるはずのエピソードは随分端折られていたようです。しかし、とにかく感心しきりでした。高度なテクニックに裏打ちされて追及された完成度、こだわり、そして膨大な時間、莫大な予算…。アメリカのCGプロダクションの底力というか、執念みたいなものを見せられたような気がしますた。ブリキや鋼の質感と重量感、アクション、ロボットだけが暮らす街の世界観。どれをとっても見事です。街を移動するのに使うトランスポーターが、レールの上をステンレスの玉を転がすおもちゃだったりとか、実際に目にするものをアレンジしていて、親近感が持ててしかもファンタジックなアトラクションに仕上がっていてとても楽しそうだ。有機物的な印象をもったのは彼らの好物、オイルだけ。あとはぜーんぶ無機物、ツルツルぴかぴか、あるいは錆び錆び、ガサガサ。鳥も草も全部ブリキ。何に当たっても「カーン」とか「ゴーン」とか、そういう音がする世界。音や重さは千差万別、そういうのが細かく表現されていて素晴らしい。そんな世界で繰り広げられるのは、虐げられた中古品ロボットたちの反乱を通した人間賛歌だ。生きていれば誰だって中古品になる。中古だからこその味わいや良さが出てくる。人間はリセットもアップグレードもできない。でもスクラップになっていい人間なんて1人としていない。だからみんな、自分を信じて胸を張って生き抜こうじゃないか!というとっても単純なコンセプト。本来ロボットって人間に使われるためのものだから、アップグレードできないと使い物にならんと思うのだけれど、この世界ではロボットが生きてるので使う方も使われる方もロボットな訳で…、とにかく無機質なロボットが人間臭さプンプンで泣いたり笑ったり怒ったり、なのだ。CGの品質の高さに、妙な敗北感を感じた映画でした。細かいストーリーは…寝てたのでわかりませーん。
2005.08.07
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去年のクリスマスに相方からプレゼントされたiPodmini。大喜びで(まさに尻尾フリフリ状態で)早速iTunesMusicStoreにアクセス。その頃のあたしはネットのサイトに国境が存在するなどとは思ってもいなかった。そして、日本に住み日本のクレジットカードしか持っていないあたしは外国の音楽を買うこともできないという現実にぶち当たり、一瞬放心状態に陥ったのだ。なんでやねんっ?金はあんねや、金は!買わさんかい。好きなだけ!とモニタの前で悪態をついてみても誰にも伝わらず、虚しくなるだけ。…がっくし。あれから半年以上経ち、その間リリースされる関連ニュースに一喜一憂し、SONYのウォークマン発売に焦燥と羨ましさも感じつつ、とにかく待っていたのだ。そして8月4日。やっとです。やっと、夢のようなネットミュージックライフが送れる。登録曲数100万曲を超える!1曲150円から!ジョブスは「アップルは日本を愛している。」って。よーし、買うわよー。覚悟しなさいよー、とばかりに登録を済ませる。しかしなんと、あたしの夢は脆くも砕け散ってしまった。UNDERWORLDの曲さえ買えない。DOOBIEBROTHERSさえ、ない。どんなに検索しても出てこない。1曲も入ってないのだ。試しにiTunes.comで検索してみた。出るわ出るわ。ちゃんと日本語で『曲を購入』って出てるぞ。もしかして、iTMSJapanで登録したから買えるのかなー、なんて淡い期待を胸に抱きつつClick!するとすっとこどっこい。アカウントを訊かれ、入力すると強制的にJapanのサイトに飛んでっちまうではないか。何度試しても同じだった。当たり前か…。しからば、とやいこの新曲を探してみる。「マワルソラ」。検索の曲名のBOXに入力してみると、結果はこれ↓。「該当する検索結果はありません あなたが探しているのは水水ル水水?。」何じゃこりゃ?何度試しても同じだった。文字化けまでしてしまうのね…。ColdplayがあってOASISがないってか。あぁ、いったいどの曲集めて100万曲にしたんだか。ジョブスのうそつき…。くすん。それならば、とエキサイトにユーザー登録し、「マワルソラ」のWMAファイルをダウンロード。よっしゃあ、とiTunesで聞こうとするとプロテクトがかかっていて変換できないですと。挫折…。ということで、音楽配信事業の難しさと空々しさを改めて痛感した、金はあるけど頭も力も持たない1ユーザーであった。こうなりゃ、洋楽好きのあたしとしてはなんとしてでもアメリカでカードを作らねば…!ザッツ本末転倒。
2005.08.06
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お待ちかねです。やっと見れました。思ったとおり基本的にはサウスパークの世界。皮肉とパロディの混ぜご飯にギャグとナンセンスがトッピングされて、スプラッタが罰ゲームのワサビかって言うぐらいてんこ盛、そしてエロがツユだくって感じ。怖いものなし。「チーム・アメリカ」。どこからも頼まれてもいないのに自らを“ワールドポリス”と名乗る、はた迷惑な無敵のおバカチーム。テロリストを倒すためなら、世界の貴重な文化遺産の破壊なんて目じゃない。エッフェル塔も凱旋門もルーブルも一瞬のうちに大誤爆。世界を守るためにはなりふりなんて構っていられない。ピラミッドもスフィンクスも、そこに建ってるやつが悪いのだ。一番最初にぶっ壊すのが、パリの街だっつうのが、とっても皮肉。そう、イラク侵攻へ反対したフランスへの最大級のオマージュか。文化?なんですかそれ。強い世界を築くためには文化など邪魔でしかない。戦いあるのみ!そして戦争に市民の犠牲はつきもの!なんと潔い!脳なしの大バカ野郎たち!彼らが頼もしいのは、内も外も全部ぶっ壊しちゃうところだ。自国アメリカだって例外ではない。役にも立たない国の象徴も、ポリティカルな文化人気取りの大根役者どもも、ぜーんぶふっ飛ばしちゃった。本国で公開されたのが2004年のちょうど大統領選の直前で、ブッシュ政権に反対した俳優達をこき下ろしたことで、共和党支持層には大ウケしたらしい。おいおい、待ってくれよ。彼らがぶっ壊したのは、テロリストや鼻持ちならない俳優達だけではない。世界全てだ。「吐き気がするほどバカバカしい。右も左も上も下もね。まともな奴なんていやしない。俺たちもあんた達も糞さ。それでも回ってる世界ってすんげぇCOOLじゃん!」トレイとマットはそう言っているように思えるけど。サウスパークで見せてる、とことんおゲレツで強烈なバカッぷりはこの映画でも健在。この人たちのアイロニーは、イギリスモノのねちっこさや湿っぽさとは違い、カラッとして底抜けに明るい。内臓が引き千切られたり、首が吹っ飛んだりというグロテスクな場面もガンガン出てくる。人形のぎこちない動きもそのまま、過激にSEXしまくったりもする。ほっぺたが引き攣るような薄ら笑いが込み上げて来る。それが彼らのセンスだ。あの2人は計算のない、感性だけでモノ作りをしているように見える。その感性が、とてつもなく中流知識層の皮肉な感情をくすぐる。それは類い稀な才能なんじゃなかろうか。マットが自作自演する挿入歌を聞いていると、感動すら覚える。こんな映画、日本じゃ作れないよ。絶対。まずネタが転がってない。そしてこき下ろす対象となる俳優も政治家も見当たらない。アホなポリスにサニー千葉と藤岡弘、、軍事オタクのアブナイ政治家に石破元防衛庁長官、強権的な占い師に流行りの細木和子、そしてテロリストはやっぱりオウムのあの人か。それぐらいのキャストしか思いつかん。そういう意味ではつまらんなぁ、この国。個人的には、やっぱりゲロ吐きまくりシーンが好きだな…。
2005.07.31
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「兄を日本人の代表だとは思わないで欲しい」そう語った斎藤さんの弟さん。「政府が派遣している自衛隊は、イラクの復興のため、イラクの人々のためにいるのだから」そうも言っていた。切なくなった。血を分けた兄の死に直面し、どんな姿であれ迎えに行きたいと言ういたわりの気持ちと、その悲しみを純粋に表現するにとどまらず、政治的な背景を口にしなければならない状況の真っ只中にある複雑な胸の内。筋金入りの、プロの軍人だったそうじゃないですか。襲撃を受けて1人残ったときに「捕虜!捕虜!」と叫んだそうじゃないですか。必死に生きようとしたんですよね。何かがあって諦めて「ならば闘おう」と反撃したのでしょう。そして撃たれてしまった。彼は職業人として立派に仕事をし、生きたんだと思います。外人部隊に所属していたことや、金で請け負う民間のセキュリティ会社で働いていたことに、戦争をビジネスにしていると眉をしかめる輩もいます。しかし、お兄さんはきっと、ただ軍人でいることが好きで、戦場にいることが好きで、自分のその性質をそのまま活かせる仕事が外人部隊であり、警備会社であっただけなんでしょう。「職業に貴賎はない」と昔誰かに教わりました。人が生きて生活するところに存在する仕事は、すべてそれらが必要だからそこにあるのです。自衛隊も、民間警備会社も、イラクにいる理由は同じなのですよ。お兄さんは同じようにイラクのために働いていたのですよ。だから、そんな悲しいことを言わないでください。ね。残念なのは、お兄さんがイラクで見、聞き、感じたことを生きて帰って日本の平和ボケ国民に教えてあげることができなくなったということでしょうか。いえ、ご家族の皆さんにとっては、何かを伝えるなどまったく無意味なことですね。ご本人にとっても、そんな下品な使命感などクソ食らえなのでしょう。生きて戻られたなら、きっと傷の回復を待ってすぐにトンボ帰りしたでしょうから。自らの生きる場、職場である戦場に。どうか、自分に忠実に生きたお兄さんを誇りに思ってください。どうか皆さんは顔を上げて生きていってください。ご冥福をお祈りします。
2005.05.28
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JRの事故。事故から6日間の間にボウリングやらゴルフやら旅行やら飲み会やらが行われたと、椅子からずり落ちそうなJR西の「失態」が次から次へと明らかになっている。事故の原因を追求していたはずが、徐々にJR西の組織体質に対する追及へと様相が変わってきた。はて。伊丹駅でのオーバーランの問題はいずこへ?もし伊丹の駅で40mものオーバーランがなければ定刻どおりの発車になっていただろうし、そうすれば、若い運転士が1分半の遅れを取り戻そうと鬼のように速度を上げることもなく、あのカーブを制限速度の範囲内で通過していれば、結果として悲惨な事故は起きずに済んだのではないのか(車両不良や故障が無い限り。)確かに、1分半の遅れを「取り戻さなければならない」という強迫観念を生み出した背景には、彼の所属する組織の問題があったのかもしれない。JR西が安全より利益を優先していたことも確かなのだろう。正確で緻密なダイヤは顧客を獲得するアドバンテージとしての確かな品質となる。料金設定が他の私鉄より高い分、多くの利用客が遅れた時に“不満を漏らす”のも事実だろう。しかし、今回の事故は至極単純で「未熟な技術が招いた」悲劇だったのではないのか。シンプルに考えればそういうことでしょう。優先順位の判断基準を持たない未成熟な人間性も、古い体質(脅しや虐めがあったのだとすれば、だが)の組織のあり方も、危機管理意識の低さも、安全設備の不備も、数え上げれば追及されてしかるべきことはたくさんあるかもしれない。日本人全体が時間にうるさくて、細かいことをチクチク根掘り葉掘りクレームつけたりする民族であるのかもしれない。けれど“事故を招いた原因”は「伊丹駅からの出発の遅れ」だし、運転士が「これはやばい」と思うほどの1分半遅れの原因は40mという「オーバーラン」だ。なぜ、亡くなった運転士はオーバーランしてしまったのだろう。2~3mならまだわかる。そんなミスもたまにはあるわな。しかし40mとか100mとか聞くと一般人の理解の範囲を超える。そんなにブレーキングが難しいなら、操作性を向上させる機種改良を行うべきだったんじゃないの?とか、相応の身体能力が必要なら適性検査や運転士試験を厳格にし、免許も更新式にしたら?とか、新人とベテランとの同乗勤務を増やすべきなんじゃないの?とか、居眠りなどによる操作ミスが多いのであれば、過密な運行ダイヤより過密な労働体系が問題なんじゃないの?人は足りてるの?とか。滅多には起こらないはずの“大きな”オーバーランを客観的に分析し適切な措置をとっていたのか。労働組合も出張ってきて会社の批判をしている。君らは労働者として恥ずかしくないのか。サラリーマンとして根性は無いのか。批判することは誰にでもできるが、日勤教育を批判したって何も戻らない。組織の体質は明日改まるものではない。明日変えるには人を入れ替えるしかない。構成員の力で変えることができないのなら、組織はその構成員を変えるしかないんです。構成員とは君達のことですよ。そもそも、そういう体質がいやな社員は転職しなさい。辞められないなら、自分を見失わずに淡々と確実に仕事をこなすことだ。ましてや日本という国の社会性の問題でも、民族性の問題でもない。それを問題とするなら、いつ何にどういう風に影響するかなんて計り知れない。スピード社会が招いた悲劇だとか言う方もおられるようだが、スローライフだのスローフードだの、そういう生活を望むなら田舎に引越すことをおすすめする。日本の田舎はまだまだのんびりしています。都会に住む人間は安全性と危険性がない交ぜになった社会で生活している。人も企業も常に確率の中で利便性を享受し事業を営んでいるのだ。社会だの組織だの、そんな広い範疇で考えるんじゃなくて、あの日あの路線のあの電車で起こった原因を探るべきじゃないのか。死者に鞭打つつもりは全く無いし、むしろ彼の最期の精神状態を思うと本当に気の毒だと思う。でも、彼は運転士には向かなかったんじゃないかと私は思う。可能性や確率を想像できない人間は、危険なものに触れるべきではない。人には必ず適職がある。活かされるべき道がある。なぜJR西は日勤教育の前に、かの運転士に引導を渡さなかったのだろう。いや、引導を渡されないまま自分の能力の見極めができず、無我夢中で走りつづけている運転士が今日もいるかもしれないと思うとぞっとする。「アナタハウンテンシニハムキマセン。デスガ、ホカニヤッテイタダキタイコトガアリマス。キボウヲモッテアタラシイショクムニツイテクダサイ。」仕事は夢ではない。大きくなればなるほど、個々人がやりがいを見つけ、役割分担がきちんとなされているのが正しい組織だ。良い悪いの判断基準を全ての事柄に対してシンプルに、明確に持って、それに沿って全てが公平に運営されること。労組がそういう組織作りに協力できるかどうか。それが再建の鍵なんじゃないのか。そして、最近一番うんざりしているのは、“お前こそ何様やねん!えらっそうに”と言ってやりたくなるほどモノの言い方を知らない記者の皆さん。君だよ君。大人なんだからきちんと丁寧語を使いなさい。君が“お前ら”だの“死んでんねんでぇー”だのと居丈高に怒鳴れば怒鳴るほど、それを見せられるこちらは幻滅し、被害に遭われた方々へのウェットな感情がどんどん乾いていく。取材する君は我々と同じ第三者であって、決して誰かを責めることのできる立場の人間ではなく、ただ職業としてそこの記者会見場にいるだけだということを忘れてはなりません。君はそこで仕事をすることを許されているだけであって、怒鳴り散らしたり、不遜な態度をとって良いとは誰も思っていないよ。事実を迅速に正確に我々に伝えてくれればそれで良いのだよ。「原因」と「背景」もそうだけれど、もうひとつ「事故」と「災害」もごっちゃにしないようにしたい。阪神淡路大震災のときとは状況は明らかに違うわけで、「皆で駆けつけて人命救助をするのが当たり前だろう」という意見もあるようだが、それでなくても渋滞が起きて救急車が通せんぼされたりして混乱しまくっていたわけだから、事故直後に駆けつけた現場の近所の工場勤務の人たち以外は、プロ(警察やレスキュー隊)がプロとしての仕事をまっとうできる環境を作ってあげることができる人間が現場に派遣されてしかるべきだと思う。そういう、おそらく行政が管理するべきシステムは果たしてできているのだろうか。誰がどんな権限を持ってどのタイミングで付近一帯を通行止めにできるのか。救急車がまともに走っていたら助かった命もあったかもしれない、と医者が言っていた。事故車両に乗り合わせていた運転士2人を出社させたのは明らかに判断ミスだけど。「自分の仕事は何なのか」「仕事ってなんなのか」それをわかってない、あるいは履き違える人間が多すぎることが、あえて言うなら、今、日本が抱えている社会問題なんじゃないのかね。
2005.05.08
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悲しくてやりきれない。目が覚めて、布団から出て、まずトイレに行って、歯を磨いて顔を洗って。あるいはシャワーを浴びてご飯を食べて。おそらくは普段と何ら変わりない何気ない朝。「行ってきます」「行ってらっしゃい」「何時に帰ってくるの」「迎えに行こうか」「気をつけて」お天気も良いし、いい日になりそうだ。抗うことも許されないまま、ものの数秒の間に自分の運命を悟ることはできただろうか。何かを感じた瞬間に、永遠にあとが続かないまま止まってしまった時。JRの責任を追及する声もある。運転士の資質を問う声もある。事故調査委員会は、脱線は複合的原因によるものだと述べた。若い運転士も亡くなってしまった。彼が犯した罪がどれほどのものか、真実はもう誰にも量れない。背負うべき罰は死だったのだろうか。それとも彼は救われたのだろうか。死んでしまっても、生きていたとしても、どうあっても悲しみと悼みは消えない。そう思うと、彼の人生はつら過ぎる。うめき声も聞こえない砂塵にまみれた電車の中で、携帯電話の呼び出し音がいつまでも鳴り響いていたという。レスキュー隊員は、あちこちで光り続ける待ち受け画面に映った「自宅」という文字を見て何を思っただろう。命を持たない小さな機械が、途切れた命のありかを懸命に探すように、数バイトのデータがどこかにいる誰かに語りかける切なさ。「今どこ?」「何してる?返事ください」「無事なの?家に電話して」明日、生きているかどうかわからないんだ。愛する人と頻繁に言葉を交わしておこう。良い日であっても悪い日であっても、それを正直に話そう。いつも反省しよう。ごめんなさいと素直に言えるようにしておこう。どんなことがあっても、大切なものを棄てずにいられるようにしよう。そして自分を捨てる勇気も持とう。今日の自分がダメでも、明日の自分は何とかなるかもしれない。だから、今日の失敗を自分で許すことができるように、自分はいつまでもひよっこなのだからと笑えるように、背負うものを小さくしておこう。亡くなってしまった全ての人が、どうか許しをもって天に昇られますように。遺されてしまった全ての人が、どうか前を向いて生きていかれますように。
2005.04.27
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コンスタンティン。キアヌ・リーブス。連れは「面白かった」と。SF好きで宗教フリークのゲーマーにとっては面白いらしい。いつになくしゃんとした姿勢のまま見入ってたな、そういえば。主人公はコンスタンティンという名の、肺癌で余命1年のエクソシスト。小さい頃から他人には見えないものが見えるという特殊な能力を持っていて、その能力に嫌気がさして自殺未遂(2分間死んでた)を起こした過去を持つ。キリスト教では、自殺者は地獄に行くことが決まっている。だからコンスタンティンも地獄行きが決まっているが、厭世的である反面、あわよくば天国に行きたいという気持ちもあり、L.Aで悪魔払いを続けている。そのエクソシストが、双子の妹の自殺の謎を追う霊感の強い女刑事とタッグを組んで、キリストを殺したとされる「運命の槍」を得て地獄から地上へ這い出ようとするサタンの息子を退治する話。これが全て。いやー、潔いほど単純な話。油断してると「Boo!」ってのが時々出てきたりして、完全にオカルトホラーの王道を行ってる。面白くしているのは、本筋にいろいろと絡んでくるハリウッドお得意のギミックやアイテムの数々。まずは「ハーフブリード」天国や地獄に縛られることなく(天使と悪魔はそれぞれ天国と地獄を出られないらしい)、人間界に自由に出入りできる両性具有、混血(血なんてあるのかな)の存在。人間の耳元で囁いて行動を決定付ける役割なんだそうだ。「トムとジェリー」で、よくジェリーの両肩にとまっていた天使と悪魔。片方の肩から悪戯を戒める天使が囁き、逆から悪魔が悪さをそそのかす。そうやってさんざっぱら迷わせてパッと消えてしまう、あれだ。この映画では天使側と悪魔側2人のハーフブリードにスポットライトが当たっているが、どちらも美形。それから「運命の槍」ゴルゴダの丘でキリストを絶命させた兵士の槍の矢じり。聖櫃と同じでキリスト教徒にとってはいわば第一級のお宝なのでしょう。第2次大戦中はかのドイツ軍も躍起になって探したという。(そのせいか、この映画でも矢じりはハーケンクロイツがはっきり見て取れる旗に包まれて見つかる)キリストの血を存分に吸い込んだこの矢じりがあれば、世界(世界っちゅうのは天国とかね)を征服できるというわけで、サタンの息子が狙っているのだ。冒頭メキシコで見つるのだが、空き瓶を拾って生計を立ててるような男が偶然矢じりを見つけ、手にした途端、正面からぶつかってきた自動車を真っ二つにし、とてつもないパワーに操られるように、やすやすと国境を越えてアメリカに侵入し、その辺にいる牛どもを気功師のようにバッタバッタとなぎ倒しながらL.Aを目指す。(すごい)「ミッドナイトと彼のクラブ」元祈祷師でミッドナイトという名前の怪しい黒人が経営するクラブは、人間界の中で地獄と天国がクロスオーバーしている空間。ハーフブリードの溜まり場。透視能力がないと中に入れない。ちなみにミッドナイトは中立を宣言していてコンスタンティンにも手を貸そうとしない。まだまだあるぞ。「200人もの囚人を地獄に送り込んだ電気椅子」コンスタンティンが、行方不明になったアンジェラを探すために地獄を覗きに行くときに座る椅子。ミッドナイトがクラブの地下室に隠していて、コンスタンティンがはじめっから「椅子貸せ椅子!」ってうるさいので、なんだろうなと思っていたら“そういういわく付き”の椅子だったのね。はあー。「アル中のサイキック牧師とボウリング場のレーン裏に住んでいる考古物オタクとコンスタンティンの助手兼運転手」主要な登場人物なんだけどみんな死んじゃう。あとは虫だの聖水だの悪魔の印だの地獄の聖書だの、魔界グッズのオンパレーーードっ!最後にサタンが出てきて「いよっ!御大登場!」となる。このサタンがまた、数多のハリウッド映画で描かれているまんま、軽薄でインチキ臭い男なんだなこれが。まったくステレオタイプというかなんというか…。そうそう。「水」「聖水」という聖なるものの象徴としての「水」と、コンスタンティンが地獄にワープするときに身体の一部をつける、いわば生と死の世界を「媒介」する物体としての「水」。ワープした瞬間に水(滴)の流れが止まることで空間を超えたことが象徴的に描かれてる。で、あたしが一番感心したのは「無人感」だね。L.Aのど真ん中で繰り広げられる邪悪なものとの闘いなんだけど、最初に悪魔払いをしたアパートの住人以外は、人らしい人が出てこない。最後の舞台になる精神病院も、いるのは地獄側のハーフブリードだけ。ショットガンみたいなもんとか、火炎放射器みたいなもんもぶっ放すし、派手なアクションをかますのだが、逃げ惑う人々も悪魔に対抗する警察官も出てこない。群集がいない。妙に街が静かなのだ。そう、彼らは凡人には見えないものが見える。彼らに見えるものは我々には見えない。そこがミソなのだ。コンスタンティンやアンジェラが闘っている相手は我々には見えないのだ。画面に登場するのを限られた能力を持つ限られた人間に絞ることで(一般人が登場しないことで)、彼らの世界をより際立たせている。彼らがいる世界は、この世界の異次元であって、そもそも彼らの姿など我々人間には見えないんじゃないかと。彼らの闘いは、実は人間界のすぐそばの異空間で、静かにしかし常に行われているのだ。なるほど。実はコンスタンティンはハーフブリードだったのかもしれない、なんてね。最後にサタンの裏をかき、ちゃっかり生き長らえたうえに、癌細胞も取ってもらってすっきり健康体になったコンスタンティン。やっと現実の世界を生きる人間の顔をしている。それでもやっぱりビルの屋上から見下ろす街は彼にとって異次元の街だ。というわけで、アメリカ禁煙協会ご推薦、カトリック普及協会後援オカルトホラー映画でした。できればキリスト教系専門チャネルでTVドラマとして放映してくれ。あるいは医療系禁煙教育専門チャネルでTVドラマとして放映してくれ。ひとつだけ。最後に正体を現したときのガブリエルの衣装がカッコえー。連れ曰く「やっぱりガブリエルってラーメン頭なんだね♪」どーでもえーがな。
2005.04.24
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「コンスタンティン」とどっちを観るかで3分ほど揉めたが、力の勝利。ふふん。さて、宮藤官九郎待望の初監督作品ということで、鳴り物入りの公開のようです。旬の役者が勢ぞろいで、キャスティングの妙もあり、皆さんすんごく楽しそうに演じていて、観ている方も大変キモチが良い。おススメは金々の阿部サダヲと次郎長の古田新太それから魂の良良。掘り出し物でお初の小池栄子。いい顔してるねえ、あの娘は。長瀬と七之助のべたべたラブラブ感はとってもOK。チチ繰り合ってる恋人同士のちょっとしたジェラシーとか痴話駆け引きみたいなもんをきちんと表現してるし、逝っちゃってるだけじゃない、そこはかとなく悲しみが漂う男同士の二人連れを好演している。七之助が巧いね。長瀬を見るときは「愛して欲しいの」っていう目をしてる。2人のキスシーンはちょっとジュンっときましたね。江戸で薄っぺらい現実を生きる市井の人々。ヤク中喜多さんは弥次さんにこう言った。「紙っぺらみたいにペラペラだぁ」リアル(リヤルとは言いたくない)を求めてお伊勢さんに旅立った2人を行く先々で待ち受けるものはリアルとは言いがたい、これまた現実の世界。そう、この世は何処へ行ったってペラペラなんです。人は何処へ行ったって、求めては裏切られ、信じては捨てられる。紙っぺらは表裏一体。リアルと夢もこん然一体、この世とあの世は三途の川の源流をぐるっと回れば繋がってるのさ。ここにあるのはリアルと夢のようだけど、実は生と死しか存在しない。原作をフェイバリットしているあたしとしては、全く別物として観ると決めてました。コトブキ先生の世界はあの絵以外では表現できないと思っているし、原作を読まずに観た「ピンポン」はとっても面白かったので、ああいう脚本を書いた宮藤さんならコトブキ版とは違う弥次喜多を作って見せてくれるかも・と思ったし。それがどちらに対しても礼儀だと思ったので(勝手に)。そう見ると、クドカン版はコトブキ版を意識しすぎているような気がして残念だった。意識しなければもっとハチャメチャのクドカン版ができたような気がするのに。コトブキ版を映画化しようとしたのなら、その時点で失敗だ。楽しい映画ではあったけれど、それはキャラの立て方とセリフやシチュエーションの良さで、キャラに夢中になっている間に観終わっちゃって、結局何を言いたかったのかさっぱりわからんかったのだ。ギミックも効果的に使われているけれど、効果的過ぎてぜーんぶ薄まっちゃったのだ。愛と増と生と死とリアルと夢が。平たく言うと「懲りすぎ」ていながら「おとなしすぎ」。こじんまりとまとまっちゃった。出ている役者はみんなはじけてんのに、クドカン1人遠慮がちってな感じ。コトブキ版は決してギャグ漫画ではない。むしろ息苦しくなるほど切ない愛の物語だ。しかも愛は主人公2人にだけあるのではなく、出てくる人々皆が愛しく思えるほどに溢れている。それをハチャメチャな世界観で見せることによって、愛のくすぐったさとかやぼったさとかをオブラートにくるんでむしろ愛の持つ破壊力を強烈にしている。(ん?これは「inDEEP」のほうか。まあいいや)だからもっともっとナンセンスが欲しいし、大事なところをぼかしちゃいかん。現代の江戸を出すなら、宿場でも時空を飛び越えて欲しかったし。宿場でのエピソードは、面白さだけじゃなくて根底に流れるものが一本なけりゃ。その一本というのは三途の川(=生と死)なのよ(たぶん)。観客は2人と一緒にハチャメチャな宿場宿場を旅しながら死の匂いを鼻先で感じて、知らず知らずに三途の川を遡り、クライマックスでダダーンと源流を回る。そうならなきゃいかんのだ。それに、なんでキノコの森のバーテンの最期のエピソード、カットしたんかなぁ。好きなんだけどなぁ。それから大事なエロの要素。コトブキ版の弥次喜多は枯れた匂いがする。10年以上付き合ってるような、人生の酸いも甘いも噛み分けた大人の男同士の愛だ。コトブキ版の2人からは汗臭いSEXの匂いはしない。クドカン版は若い弥次喜多なんだからもっと汗臭い掘ってるシーンとか、そういう直情的なエロさがあっても良かったのではなかろうか。なんていうか、「おしゃれさん」なんだろうかね、クドカンは。全部を薄く薄―く作ってる感じがする。エロかったのは七之助ぐらいだったもの。しかも醸し出してるっていう程度で。もっともっと原色で、もっともっと際どくて、もっともっとエログロで、もっともっと強烈に愛を!です。追記:お父上はさすがでした。あの衣装を着こなせる歌舞伎役者はそういない。弥次さんと喜多さんが取っ組み合ってる最中、背景に映り込んでいる父上、サイコーです。この場面を観るだけでも価値がある。息子よ、もっともっと芸を磨け!
2005.04.17
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いくらなんでもこれは酷い。あんまりにも民度が低すぎんじゃないの?デモするなとは言いませんし、教科書問題も、歴史認識のズレも確かに何も解決されていないかもしれませんが、かといって民間人を民間人が暴行するのは、こりゃあただ単に「暴力ないしテロ」としか言いようがないでしょう。しかもTV画面を見る限りでは、この騒ぎに便乗しているだけの輩がほとんどのようにも見えまして。未成熟な学生たちがインターネットでいいだけ煽られて、未成熟な正義感ぶちかましにきちゃいました的なノリがそこにあるような気がするのですが。そういう子供たちを押さえきれないのは未成熟な政府の責任でしょう。「デモの原因は日本にある」って、そんなことわかっとるわ。だとしても、それは暴行や投石や破壊行動の原因ではないでしょう。明らかに、理性を欠く国民、法と秩序を欠く国家に原因があるんじゃないのでしょうかね。中国政府は確信犯的に振舞ってはいるけれど、実はとっても困ってたりして…。このていたらくを「わざとほっといてるんです」って取り繕っているようにも見えるんだけどねぇ。そんな中でうちの佐々江さんたら「日中関係の大局を念頭において…」って、イイ感じのヒカリ具合ですこと。「日中関係の大局」って一体何ですの?歴史問題、教科書問題、従軍慰安婦、化学兵器処理、ODA、尖閣諸島に東シナ海のガス田か?問題山積みなのにそんなもん念頭において、今日明日の邦人の身の安全は確保できるのか?「成り行きを見守って」現状が改善されるか?中国は大局を念頭においているから現状を看過してると言ってるんじゃないのか?邦人が外国でテロに遭ってんだぞ。しかも政府公認(に近い状態)で、だ。石に当たって誰か死んでからでは遅いんだぞ。とっとと中国政府の対応のしかたをなんとかしなさい。バカたれ。腑抜け。あ、そうか。これは外務省の常套句ですものね。ちゃんとわかってらっしゃるのよね。とりあえず、二国間の友好関係が一番大事ですからって言っとかなきゃね。うーむ。さてどうしたものかねぇ。いっそのこと、日本国内にいらっしゃる中国の方々には、ご自分のお国に帰ってもらってはいかがでしょうかね。だって、危ないもの、日本だって。いつ何どき、街歩いてて「あんたは中国人か?」と声をかけられ「そうだ」と答えた途端刺されないとも限らんからねぇ。日本国民は元来非常に穏やかな平和主義者であり、さらに島国ゆえのガイジンコンプレックスも相まって、そうそう面と向かって外国人に手を出したりすることはしませんけれども、前途ある若者が勉学を勤しんでいる先で、いわれのない暴力に遭ったときては、そろそろ「いいかげんにしとけよおまいら」と言いたくもなってくるし、アジア人に対してはめっぽう強気だかんね。だから、悲劇が起こる前に、中国から来られた方々には危険回避のため国外退去していただいたほうがよろしいのではないかと。ことが起こってからでは、これまた相手方の政府に何て言われるかわかりませんし。賠償請求されるのは確実でしょうし。ここはひとつ、一刻も早く、国外避難勧告、即強制送還するべきですな。貴国における在留邦人・企業への暴力行為がますます激化し、何ら状況が改善されない中、我が国政府ならびに国民は大変憂慮している次第である。日本国内においても中国系企業への嫌がらせが発生する等、貴国民に危害が加わえられる懸念が生じる事態となっている。このような状況下では我が国での貴国民の安全確保が困難であると判断し、未然に防止するための緊急措置として、日本に滞在する全ての貴国民に対し、日本国外に退避することを勧告し、強制的に本国への送還をするものである。これ以上日中関係の大局に影響を及ぼす事件が起こってはならず、貴国の人民の安全を第一に配慮した上での強制執行であることをご理解いただきたい。また、貴国民の保護ならびに帰国費用については貴国に対する2005年度ODA予算から流用させていただいた。ぐらい何言うてるかわからんように言うたれ。それから仕切りなおして、膝突き合わして、じっくり大局を論じたらいいじゃないのよ。
2005.04.13
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ほんとはベイブ系の映画は観たくなかったのよ。嫌いなのよ。動物なのに人間みたいに口が動いてしゃべるってやつ。ありえないし。相方が「フルCGだよ、たしか」って言うから「それじゃ、あたしが思ってるような映画じゃないかもね」って観に行ったのよ。騙されたわよ。実写で口動いてるじゃん。しっかり。自然に見えれば見えるほどキモチ悪りぃよ。ったく。話の内容はとってもありきたり。ある雨の夜、サーカス団が道端に置き忘れていった小さなシマウマ。それを拾った近所の農場主とその一人娘。その農場主は、もと有名な競走馬の調教師だったが、騎手だった妻が落馬事故によって死んでから、一切馬には触ろうとしなかった。年頃の娘は母親に似て馬が大好き。しかも騎手としての才能にも恵まれていた。娘はいち早く、ストライプスと名付けたシマウマの競走馬としての才能を見抜く。しかし父親は娘がストライプスに騎乗することを許さない。トラウマを乗り越えられない父親と、大人になろうとする娘。本当は強い愛情で結ばれていながら、お互いを認め合えない父娘。ストライプスを通して大切なものを分かり合えた父娘は、ストライプスでケンタッキーダービーに出場することを目指す。人間界はこの父娘を軸に、農場のすぐ隣にある競馬場のいじわるな女オーナーやらトレーナーやら老獪なギャンブラーやらが絡んでくる。そして動物界だ。出てくる動物はどうでもいいわ。牧場にいるありきたりの動物だから。ペリカンはよくわからんな。カラスとかでも良かったんでないの?まあ、腹が立つほどでもない。なんせみんなしゃべるし。その時点でもう「この映画に文句は言うまい」と心に決めてたし。でも、皮肉でもなんでもなく楽しかった。こういう映画の楽しみ方は二つ。ひとつめ。動物のかわいさと演技に酔う。まずシマウマがなんといってもかわいい。小さいんだねー。シマウマって。でも脚はサラブレッドなんかよりずっと太いの。だから大人の馬でも仔馬みたいなの。んでもってストライプス(シマシマ)の模様が入ってるもんだから、かわいくないはずがない。演技といってもたいしたものではない。表情なんてわからんし。だけどうまい具合に、ヤギは気のいい肝っ玉かあさんで、年とったポニーは信頼のおける親父さん、といった感じで動物の持つキャラに劇中のキャラがピッタリ合っちゃってるもんで、それだけで演技の完成度が上がっているように感じてしまう。例えば隣の競馬場の馬達。高飛車なサラブレッドの親子は立ってるだけで居丈高に見えるし、美しい白馬は、きっと優しい娘なんだろうなって思っちゃう。そんなかわいい“演技をしている動物の姿”にホロリとさせられるのだ。ストライプスがボコボコにされて川辺でのびている。身体中蹄鉄の跡がくっきり。仲間達が駆け寄ってくるけれどしばらく起き上がらない。このシマウマ頑張ってるなぁーと、感心する。そういう楽しみ。ふたつめ。ストーリーの展開にも無理がないしわかりやすい。だから脳ミソフル回転しなくても話しについて行けるし、余裕がある。しかも吹替え。月夜に馬達が集まって勝手にレースをしたり、ストライプスが袋叩きにあったり、いじわるされたりする彼らがおしゃべりする世界があって、かたやトウモロコシ畑を刈り取って作ったレース場でゲートインの練習を人馬一体になって何度も繰り返したりする、彼らは決してしゃべらない世界がある。そう。我々がふだん体感している現実としての人間の時間と、あるかもしれない仮想の動物の時間が、スクリーンの中でパラレルに進んでいて、観客はそのどっちも楽しめるわけだ。ホントに月夜にいーっぱい馬が集まって馬だけのレースしてたら楽しいだろうなーって想像しちゃうのだ。それは楽しいでしょう、やっぱり。スパイスとして効いているのが途中から出てくる2匹のハエ。いい味出してるねぇ。役どころもいいポイントでいい動きをしてるしね。ギャーギャーわめいてばっかりで糞面白くもないペリカンよりよっぽど良い。ペリカンが面白くなかったのは吹き替え版の脚本と声優のせい。素直で良い映画なのに、吹き替え版の脚本がまずい(日本人の声優のキャラを、決めゼリフで前面に出そうとする)と大人にはこんなにつまらなくなるという良い見本です。実は一番面白かったのはうちの相方。中島知子の声を「これって里佳子?」柳沢慎吾の声を「これってスピードワゴンだよね?」っていちいち間違ってるし。確認するなら字幕ないんだからせめてちゃんと聞け。
2005.04.04
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はじめてBSでバチカンで行われているクリスマスのミサを見たのはいくつのときだっただろう。サンピエトロ広場は暗く静まり返り、あちらこちらでロウソクの灯が揺れている。それとは対照的に、大聖堂(礼拝堂か)の中は目がくらむような光に包まれ、何語なのかもわからないような魔法の言葉が、抑揚のついた音となってあたりに響いている。厳かで、静かで、清潔で、強くて。ただ涙が溢れた。理由などない。誰もがひれ伏す、全てを覆す、圧倒的な力がそこにあった。この力こそ「神」という存在そのものなのかもしれない。そしてその圧倒的な力を身体に湛えた1人の人間がヨハネ・パウロ2世であるように見えた。全てを見通すような力強い眼差しと優しい微笑み。その声は、言葉の持つ意味を超えて聴くものの心に届き、思考は感情に置き換えられ、心臓の鼓動に訴えかけてくる。「魂が揺さぶられる」ということはこういう事をいうのか。神はこの世の全てのものに祝福を与えてくださる。誰もが許される。私も許される。心の底からそう思えた瞬間だった。あれからもう何年になるだろう。彼が何処の国を訪ねて、世界の平和のために何をしてこられたのか、よくは知らない。私のように、年に一度クリスマスにだけにわかクリスチャンになるようなふざけた人間にとっては、彼との間柄は、常に1対1であり、常に許しと救いだった。自分の悲しみや後悔を、年に一度彼の佇まいや言葉を受け止めることで浄化していたのだ。まるで、久しぶりに帰省して実家の親に愚痴ったり叱ってもらったりするように。だからこんなに悲しいのか。めでたしせいちょうみちみてるマリアしゅうおんみとともにいましますおんみはおんなのうちにてしゅくせられごたいないのおんこイエズスもしゅくせられたもうてんしのおんははせいマリアつみびとなるわれらのためにいまもりんじゅうのときもいのりたまえアーメン
2005.04.03
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繋がらない。ローマ法王が危篤だそうだ。生きてほしい。パパ、今死んではいけません。
2005.04.01
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本日新規開設だって。隊長、よりによって生扉Blogに…。んな訳ないわな(苦)「いたい話」を取り上げるらしい。今後におおいに期待しませう。という訳で、ビール片手にお好み焼き食べながらサッカー観戦しつつ日記。最近あちこちで賑わっているLivedoorのPJが書いた記事。どこで読めるんかいなーとあちこち探してみた。んでもってちょろちょろ眺めてみた。「PJの考えるパブリックジャーナリズム」ほほー。これはちょっと面白いんでないの?ここから引用---PJの講習会でも詳解されていたが、パブリックジャーナリズムのパブリックは、イギリスのパブ(酒場)から由来している。夜な夜な色々な職の人々が酒場に集い、酒を片手に世間話をしていたのを、文章に記録し地域に配布したのが新聞の始まりだと聞いた。 ある意味、肥大化し硬直化してきているマスメディアを回帰させる意味でも、ネットを利用した酒場的な世間話の機会(PJニュース)も、良いのではないか?---ここまであーびっくりした。飲んでたビールが鼻から出そうになったわ。生扉さんがおっしゃるパブリックジャーナリズムの「パブリック」とは何ぞやってのは別にどうでもいいんだけど、“酒場的な世間話をネットを利用してやっちゃっても良いんじゃないの?”って公のニュースタイトルと一緒に並んで言ってしまって良いのかね。それでは偏屈ばばあの「チラシの裏、ボケ日記」と〃レベルじゃあありませんか。なるほど、そうですか。そのつもりで読めばよいわけですな。わかりました。これから酔っ払いのヨタ話が楽しく読めそうです。なんだよぉ、皆さんキャンキャン言うほどのことないじゃん。劇的なオウンゴールにて日本に1点入り、そのまま試合終了。バーレーンの皆さん、サルミーンを殺さないでね。今日はダイエーで丸永の「白くまバー(箱入)」も見つけたし(2箱も買っちった)、とてもいい日だ。ビールの酔いも程よく醒めた。とっとと風呂入って白くまを食べて寝よう。めでたしめでたし。
2005.03.30
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1位 マカロニほうれん荘 鴨川つばめ2位 弥次喜多inDEEP しりあがり寿3位 ブラックジャック 手塚治虫 ここまで別格。4位 11人いる!&東の地平西の永遠 萩尾望都5位 ぼくんち 西原理恵子6位 あたしんち けらえいこ7位 20世紀少年 浦沢直樹8位 鉄コン筋クリート 松本大洋9位 汚染るんです 吉田戦車10位 パタリロ 魔夜峰央脈絡がない。っつうか、メジャーなものしか読んでないねぇ。つげ義春とかちゃんと読んだら違う方向に世界が広がるのかな、もう少し。
2005.03.29
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愛知万博が始まった。マンモスのおケツの臭いをかぎたいと切に願う今日この頃。すぐはずされちゃうらしいけど。相方は旅が嫌いだし、母親は金が勿体無いと言う。誰も一緒に行ってくれそうにない。近所のダイエーで、万博開催記念かなんか知らんけど、名古屋の雄「寿がきや」のカップ麺特売をやっていた。うどんはよく見かけるけど、中にラーメンがあったので思わず買ってしまった。2個も。高校生のとき、学校の帰りに名駅の地下の寿がきやに寄って、やっすい丼に入ったやっすいラーメンとクリームぜんざいを食べて帰るのが慣わしだった。その頃(今は知らんけど)名古屋の公立高校は学区が13あって、2校ずつくっついて1つの学区になっていて、受かってもどっちの高校になるかは運任せだった。おうちの近くの昭和高校に通えればいいなーと思ってたら地下鉄とバスを三つ乗り換えるか、高速バスで一時間という、でえりゃー遠い緑高校になってしまい、母は「昭和に変えてって先生にお願いしてみよう」とかわけわからんことを言ったほどうろたえたものだ。よくもまあ三年間通ったもんだとワレながら感心するけど、気が向いた時に乗った高速バスの終点である名駅でプラプラと遊ぶのは、もともと田舎モンの私には楽しみでもあった。寿がきやのラーメンは、今ではどこにでもある和風の白いスープだけど当時は珍しくて、よく「蛇でダシとってる」とか「カエルの足見えたよ」とか噂されていたものだ。プラスチックの丼にあっさりと盛られ、先が麺をすくえるようにフォーク状になったスプーン(実は非常にスープが飲みにくい)がついて出てくる。具?なにそれ。っていうぐらいの申し訳程度のメンマと、これまた申し訳程度のチャーシューに刻みネギ。このチャーシューがまた人工的な味でねぇ。袋ラーメンの登場に続いてカップヌードルにすっかり毒されていた我が世代が大好きな味なわけだ。さてカップ麺。具の袋と液体スープと「かくし味」と書かれた小袋が入っている。なに、ただの粉末鰹ダシでしょうに。かっこつけちゃって。と鼻で笑いながらお湯を注ぐ。臭いがもう。あーたまらん。細めの麺をひと口すする。なつかしー。(泣)この麺がねー、速く食べないと延びるのよー。高校時代の思い出が、この何ともいえない臭いとともに甦る。一緒に通ってた友達の顔。名駅の地下街の様子。バスターミナルから目的地までの道のり。学校に行く途中にバス停で白い犬を拾って由美ちゃんと家まで帰ったっけ。がっつり先生に怒られた。住んでいた二戸一の長屋みたいな家。ジェームス・ディーンのポスターを部屋中に貼って、チープトリックやデヴィッド・ボウイを聴いたもんだ。ジョン・レノンの死を知ったのもあの部屋だった。…。しばしタイムマシンに乗れました。愛知万博よ、ありがとう。いやダイエーに感謝すべきか、寿がきやの営業努力を褒めるべきか。そんなことはどうでもいい。やっぱり絶対愛知万博に行くぞ。自然の叡智だろうがなんだろうが、関係ない。人類として寿がきやのラーメンのあの臭いと味は残さなければならない。マンモスのおケツの臭いはかげなくても、寿がきやスーちゃんの臭いに感涙だ、きっと。
2005.03.25
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が気になって謎解きどころじゃない。彼の額のほうがよっぽど謎だもの。「ナショナル・トレジャー」冒頭の1分間で、全体像がつかめます。なんたって北極の雪原の中から古ーい難破船をいとも簡単に見つけてしまうのだ。金属探知機で見つかっちゃうの?人の手で掘れるところに埋まってるの?まじで?って腰抜けそうになったよ。これだけで、見る側のスタンスが決まるので、ある意味ラクかもね。独立宣言書にフリー・メイソン、テンプル騎士団、1ドル札。ストーリーはともかく、イマドキの話題のキーワードが散りばめられてるし、小道具も凝っていて、一つ解いたら次の謎が待っていて、適度に敵キャラと絡み、美人でクレバーな学者との恋の予感や親子の確執(ってほどでもないか)もあって…ってな感じで、バラエティに富んでて飽きないし、軽めのTVゲームを楽しむようにトントンと話しが進む。アメリカ人はきっと好きなんだろうな、こういう話。いいなぁ、こういう、そのまんま映画になるような、面白いネタがいっぱいあってさ。ふりー・めいそん、秘密結社だよ。かっこいいじゃん。日本で宝探しといったら徳川の埋蔵金だもんなぁ。糸井重里しか思い浮かばん。でもなんだかインパクトに欠ける。冒険の旅をしないのだ。なんせお宝がアメリカを出ちゃいかんのよ、ナショナルだから。ニューヨーク近辺を最初から最後までウロウロしてる。サソリも毒蜘蛛も魔物も一切出てこない。出てくるのは金持ちとFBIとネットカフェ。なんかこう、こじんまりしてるのだ。あんなに謎解きしたのに、見つけてみたら聖杯のような世紀の大発見でもなく、海賊船から出てきたようなもんがいーっぱいあっただけだし。ふーん。見終わってからふと思った。彼らのナショナル・トレジャーは実は独立宣言書だったのだ。なぜなら彼らの独立宣言書に対する畏敬の念、尋常じゃないもの(まぁ、後半は素手でバッサバッサ閉じたり開いたりしてたけど)。隠されたお宝を追い求めているように見えて、実は独立宣言書こそがお宝の象徴であって、大半はこの独立宣言書を奪い合っていたのだ。そりゃそうだよね、これは”ホンモノ”の国宝なんだもの。彼ら(優秀で一般的なアメリカン)にとって、建国の証は聖書とは違った精神の拠りどころであり、魂と呼べるほどのトレジャーなのだ(きっと)。なーんだ。そういうことか。宝探しは冒険しなくちゃ。毒蛇やサソリや顔の形した砂嵐がバンバン出てこなくちゃ。ゴロゴロ転がる石に追いかけられたり、人が骸骨になっちゃったりしなきゃ。ディズニーだよ、これ。こんなんじゃアトラクションにもならないよ。いっそのこと、中東あたりの異国人に奪われて隠された独立宣言書を奪い返しに、愛国心に燃えるナイスアメリカンガイがルーブル美術館の美人で鼻持ちならない学芸員と謎解きと冒険の旅に出る「ナショナル・トレジャー」にすりゃ良かったのに。やっぱり刑事は増毛してるな。プロピアかな、やっぱ。どうもこの人のアクションものは好きじゃない。アダプテーションはすんごい面白かったけど。ああいう役の方が絶対イイ。困り顔が生きる。ショーン・ビーンがカッコ良いなぁ。隣で「フッ」と笑って欲しいなぁ。いやいや、本当はハーベイ・カイテルが一番カッコ良い。最近こんな役しかやらないみたいだけどピアノレッスンのハーベイ・カイテルは実にセクスィーだった。欲情したもの。ちょっとじじぃになっちゃったなー。ヘンな柄のネクタイ締めてるだけの役じゃなくて、もうちょっと色っぽい役をやってほしいなぁ。ま、ピアノレッスンぐらいしか見てないからわからんけど。
2005.03.20
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面白いものを見た。「WBS」のトレたまで紹介された「Toss-It」とやらがそれ。いやぁ、これ、面白いね。PDA上のデータを無線LANとカメラを使って、文字通り相手のPDAに飛ばす技術らしい。データをやり取りする姿はまさに“Toss(飛ばしている)”コンピュータ上のデータというデジタルなものを、操作する人が放り投げるという一見アナログな方法で、実はデジタルに送ってしまう。東京大学大学院の矢谷先生(先生かな?)の研究チームが開発したとかで、さっそくサイトを見てみましたよ。ビデオで仕組みとか使用例とかを紹介しているのだけど(ナレーションが英語だったので最後まで見てませんが、すみません)学生が素人研修ビデオみたいな出演の仕方をしていて何ともほほえましい。このチームは他にもPDAを使った子供向けのインタラクティブなシステムを研究していたりして、なんだか嬉しくなってくる。何より素敵なのは見ていて面白いのだ。PSPのゲーム「EyeTOY」のCMをはじめてみたときのようなワクワク感がある。(久々に欲しいと思ったゲーム。連れによるとこのゲーム、日本ではあんまり売れてないそうで。アメリカでは受けてるらしいんだけど。幼児受けするゲームだから?お国柄ですかね)何に利用できるのか、どんな汎用性があるのかわからないけど(ないのかもしらんけど)、でも絶対楽しいって、これ。関心の対象が“データを送る技術”から“Tossしている人”に完璧に移行しているんだけどね。こういう、素直に楽しいと思える技術、もっと出てこないかなー。http://www.itl.t.u-tokyo.ac.jp/~yatani/project/toss-it_j.html
2005.03.15
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恐るべし勘違いプロモーションの力。つうか、あたくしが勘違い。「ロング・エンゲージメント」―「アメリ」のジャン=ピエール・ジュネ監督とオドレイ・トトゥのタッグがさらにスケールアップして織りなす愛と奇跡のミステリー―…愛と奇跡っていうか、なんだかシーンと沁みますよ、この映画。舞台は第一次世界大戦下のフランス。美しい海辺の片田舎にある村とパリ、そしてドイツとの激しい戦いが続く戦地“ビンゴ・クレピュスキュル”。モノクロームの画面に最初に映るのは、フランス軍の塹壕の中を、死刑囚となった5人の兵士が引き回される姿。帰りたいがために自らの手で自らを傷つけた罪で軍法会議にかけられ、いわば見せしめで死刑を宣告された5人の兵士。主人公マチルダの恋人マネクもその中の1人だった。5人のプロフィールと人間関係がさっくりと語られ、5人は激戦区“ビンゴ・クレスピュスキュル”のドイツ軍との中間地帯に丸腰で放り出される。そして次々と敵あるいは味方の弾に当たって倒れてゆく。かたやそんなことは露ほども知らずに、片田舎の海辺の村で恋人の帰りを待つマチルダ。彼女のもとに一通の手紙が届く。恋人の死を信じることができず、最後の足跡を辿る旅に出るマチルダ。彼女は図らずも恋人だけでなくほかの4人の運命、いや“ビンゴクレピュスキュル”で何があったのかを、自らの力で一つ一つ明らかにしていくことになる。戦争の象徴として描かれる“ビンゴ・クレピュスキュル”には、愛・憎しみ・怒りが渦巻き、さまざまに生きる人間の姿があった。―プライベートライアンより怖い。機銃掃射の弾道や霰のように降ってくる爆弾のCGがリアルで、のっけからビックリするほど怖い。身を固くしながら「空襲って、きっとこんな感じだったんだろうな。避けきれるわけがない。絶対無理。どんなに頑張っても死ぬって」って思った。背中が気持ち悪い。夢を見たことがある。何かに追いかけられる。逃げているけれど足が動かない背中に手が届きそうな気配。必死に身をよじって逃れようとする。目覚めたときの背中の気持ち悪さ。それと似ている。プライベートライアンの戦闘シーンは悲惨だった。心臓をわしづかみにされるような、居たたまれない悲しみが続く場面だった。この映画の戦闘シーンは、現実の怖さだ。飛び交う弾丸の中を逃げ惑う恐怖。「これは戦争映画だね」。相方が観終わったあとにポツリと言った。そうなのだ。これは戦争映画なのだ。オスカーの美術賞にノミネートされただけあって、映像はとても渋くて美しいし、衣装や小道具、セットも凝っている。物語のところどころでお得意のおまじないめいたものや奇跡に近い偶然が重なって、それがファンタジックな雰囲気を醸し出している。けれど、アメリのときのように決して微笑んで観ていられるような映画じゃない。いつの時代に生きるどんな人間も、たとえクズみたいな生き様であっても生きたいと願う心は誰もが持っている。泥や糞尿にまみれ傷を負い必死に生き延びようとする男たち。倒れそうになる気持ちを必死に立て直しながら生きようとする女たち。戦争が、人も生き様も運命も愛も、うむを言わさずに、大きくあるいは髪の毛1本の太さほど狂わしていく。マチルダが陽だとすれば陰の存在としてティナが描かれる。同じように恋人の死を知らされた2人の対比。1人は生を信じ、恋人の生きる姿を追う。1人は死を信じ、恋人への弔いとして復讐に走る。断頭台の露と消えるティナと柔らかな光に包まれて恋人を見つめるマチルダ。どこかで逆転していたかもしれない運命の危うさ。信じるべきものは何なのだろう?何がティナとマチルダを分けたのだろう?ハッピーエンドではない。決してハッピーではないけれど、マチルダとマネクは幸せだ。マチルダが訪れた“ビンゴ・クレピュスキュル”は野の花が咲き乱れ、戦争の面影は一切なかった。傷はいずれ癒される。ずっとそのままであるものなどこの世にはないのだ。幸せをつかむためには幸せな方を信じようではないか。オドレイ・トトゥは相変わらずアメリ顔。アメリが少し大人になって、相変わらずでっかい目で上目遣いに見上げるいつものしぐさに、大人の女の身体の匂いみたいなものも感じたし、悲しみと、悲しみに負けるまいとする気持ちが交差する、意思の強い、辛抱強い女をきっちり演じていた。マネクのギャスパー・ウリエルは、あまり賢くはなく、一生田舎で灯台守をして暮らす、ただただ純朴な青年を見事なほどそのまんま演じてる。ほんとに頭悪そう。ただねぇ、わからんのだ。話の流れが。というか謎が。そもそも何が謎なんだか。人の見分けもつかんのだ。だってみんな軍服で汚い顔してるんだもん。伍長もたくさん出てくるし。フランス語だからとにかく字幕を見ないとまったくセリフがわかんないし、そうこうしていると「あれ、これ誰だったっけ?ほんで誰の恋人だったっけ?」てなことになる。しかもディテール凝ってるし画面はセピアだし、もー大変。観終わった後ももやもやしてる。そんなに気にならないもやもやだから許せるけど。あとねぇ、やっぱアメリなんだな。マチルダも「車より前にあの角に着いたらマネクは無事に戻ってくる!」って走り出したりする自分の直感に賭ける人なんだけど、なんでアメリにしたんだろうねぇ。妄想癖もあるし。なんかね、「アメリ」でのアメリのキャラとは違って、この映画でアメリの匂いのするキャラは唐突だと思うな。アメリは不思議ちゃんだけど、マチルダはちょっと違うだろ。オドレイ・トトゥが良いだけに残念でした。実は一番ビックリしたのはジョディ・フォスターが出ていたこと。しっかりクレジットもされている。いやあ、あなたこんなところで何してんの?って感じのお久しぶりぶり。中年女の愛欲と悲しみを見事に表現してました。さすが。深いねぇ。フランス語はやっぱり生粋のフランス人とはちょっと違ったね。でもオフィシャルのHPでも一切出てこないし、話題にもなってないのは不思議。
2005.03.13
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店にいてもいたたまれない。こんなときは早々に引き上げて買い物でもしてとっとと帰ろっと。こんなときステラが近所にあって良かった。春の洋服を買うには寒すぎるし、小汚い格好をしているとショップに足を踏み入れるのがどうしても億劫になる。というわけでいつものようにHMVへ直行。お目当てはMAROON5。SUNのサイトでバナーに引っかかった。ちょっとイケメン風に写ってたもので。オフィシャルサイトで試聴したら結構イケルではないか。PVはヴォーカルひとりだけ目立ってるありがちなやつで面白くも何ともないけど、どっかで耳にした曲が何曲かあった。ほほう、グラミーの新人賞を獲ったとな。シンジンですか。でも1995年のデビュー。どうりで音がこなれてるってね。ということで「SONGABOUTJANE」を手に入れました。ニコニコ。ブラブラ店内を歩いていると目に付いたのがグーのジャケット。わっかりにくいロゴなんだけどTheChemicalBrothersとあります。POPの写真を見ると、なんだこのおっさんらは。聴いてみると、これ案外いけるじゃないですか。ふーん。ケミカルブラザースってラップかHIPHOPだと思ってた。ものすごい勘違いだったのね。ということで最新アルバム「Push the Button」を手に入れました。へー。イギリス出身。どうりであたくしのブリティッシュ琴線に触れたわけだ。ハウスやトランスは狭い空間で聴くのが一番。相方に「車に積んでくれ」と泣いて頼んだが「チェンジャー満杯だからダメ」って。ちきしょー。コピーコントロールかかっててMDに録音できないのにー。ヒドイ。部屋でちっさい音で聴くトランスのなんとしょぼいことか。意味ない。やっぱ車買おう。決心した。
2005.03.10
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1986年の暮れにロンドンに3日、パリに4日滞在しますた。献血できないっすか。社員旅行で行ったので、あたしの周りだけでも50人ぐらいはアウツ。全国にしたらそりゃ対象が数十万人にも昇るわな。1日でもっていうのは結構キツイっすね。イギリスでは1999年以降、献血された血液から感染の恐れのある白血球を取り除いて輸血に使っているらしい。全くダメってことになったら、国内産の血液がほとんど使えないもんね。それでも血液の輸入量は莫大に増えてるんだろうなぁ。よくわからんけど大変そうだなぁ。イギリスにいるときに交通事故に遭いたくないなぁ。手術は受けたくないなぁ。実際に輸血による感染例が発表されてるからねぇ…。いやいや。まず彼の地で交通事故になんて遭わないし、手術も受けないだろうから心配ご無用。ってか今後イギリスに行くこと自体がすんごい低い確率です。そんなことより、食べた料理にグレービーソースかかってたと思います。ミンチもどっかで口にしたと思います。何喰ったかなんてもう覚えてないけど。うーん。すでにパフパフになってるのかも。それにしても不思議。特別扱いを受けると良くても悪くてもなんだかニヤついてしまう。「あいたたたた。ちょっとぉ、あたし献血できないってー。ロンドンなんか行かなきゃ良かったなー。困ったな、もう」って大きな声で言っちゃったりなんかして。貧血で献血を断られたときも「そうですかー。残念です」なんて言いながら、ちょっとニンマリしてたし。ホントに特別な人はそんな感覚は理解しがたいだろうけど、凡人ってのは他人とちょっとでも“違う”ところが見つかると、その些細な違いを特別とみなして、拾い出しては温めておき、何かあるごとに引きずり出して見せびらかしたくなるもんなんだよね。わざと行ってみようかなー。献血センターに。やっぱりパフパフかも。
2005.03.08
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キングオブブルーアイドソウル。60を目前にしたおっさんらが、とってもコンフォタブルなライブをやってくれた。最初セッティングにトラブルがあったようだけど、まあ、聞くほうにしたらんなもん、関係ないわね。80年代のグレーテストヒッツから最近出したカバーまで、POP・ソウルなんでもありのグレードの高いパフォーマンス。プライベートアイズでは自分の歳を忘れて手拍子を叩き、ユーアーエブリシングでゆったりと目を閉じてステップを踏む…。ああ、なんかカッコエエなぁ、あたし。 やっぱ歌巧いわ。昔はあの狐顔とキンキン声が嫌いだったけど、歳とって渋さが加わって好い男になったねぇ。ジョンは昔のまんま。ちっさいおっさんだった。まったく見た目も雰囲気も違う2人が揃うとイイ感じなんだよねぇ。不思議だねぇ。2時間があっという間で、とにかく堪能させていただきました。どうもごちそうさま。ひとつだけ文句を言わしてもらえるなら、あのパンフレット。最近の写真を寄せ集めただけの中身のないパンフに2000円も出させんじゃない!イーグルスのときもかなり怒ったけど、今回はぶちきれたね。それに比べてクラプトンのパンフレットのなんと素晴らしいことか。Biography、Discographyともに完璧、Photoも昔からのを並べてイケメン振りをしっかり見せつけ、今回のバックメンバーも丁寧に紹介してる。非常に満足度の高い内容に加えて、バッグまで付けてんだから。まあ、もっとあきれたのはプリンスのときか。なんせ売り切れてたから。はぁ?売り切れってどういうことよってカンジね。計算違い?意図的?買い占め?難しいことは抜きにして、ただただ残念で、がっかりしたね。せっかく昔のパンフと並べて見てみようと思ったのに。今回だって、あれだけ80年代にヒットを飛ばしたグループなんだから、あたしみたいなミーハーにとっては、当時のジャケ写だけ並べてあったって涙うるうるモンのはずだよ。コンサートが8,000円。パンフ2,000円。パンフでどれだけ儲けているか。原価いったいいくらなのよ、このパンフ。(涙)金かけろって言ってんじゃないのよ。過去のデータ集めてくるだけでできるじゃん。こんだけのビッググループなんだから。なんだかんだ言って買うんだからさぁ、きちんと手をかけて作って欲しいよ。ライブがこれで、さらに良いパンフだったら満足度160%だったんだけどねぇ。
2005.03.06
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「ベルヴィル・ランデブー」 Belleville Rendez-vous連れに「ベルギーのアニメで面白いのをやってるらしいよ」と誘われ、ノーアイデアで見に行った。三人の肥ったおばさん達が見事にスイングを歌い始めた。立派なフランス語やん。ベルギーちゃうやん。まったくエー加減なんやから。ブツブツ…。(仏・カナダ・ベルギー合作だった)おばあちゃんと小さな男の子が出てきた。田舎の村に2人きり。疎開でもしているのか、遠くの空を戦闘機がかすめる。パパとママの写真を壁に貼って、おばあちゃんにもなかなか心を開かない内気な男の子。「ああ、これはきっと両親が戦争で死んじゃって寂しい男の子が、成長していく過程でおばあちゃんといろいろあって、まあ最後はハッピーエンドっていう、ハートウォーミングな話なんだろうな」とゆったり構えていたら、大間違い!愉快で、美しくて、けなげで、強くて、優しくて、ちょっぴり寂しくて、とてつもなく可愛いフレンチアニメーション。まず絵。デフォルメされた人物と、線で描く建物や風景。美しい色。ところどころに3Dが使われているけれど、完璧に溶け込んでいて、でしゃばったところもなく、効果的に使われている。大きな船を追いかけて、おばあちゃんと犬が足漕ぎボートで海を渡るシーンは本当に美しい。そしてキャラクター。静かだけれどユーモアがあって、けなげで強いおばあちゃんをはじめ、犬まで立派にキャラが立ってる。マフィアのボスやら、手下やら、ネズミ耳の技師やら、愛すべき人たちがいっぱい出てくる。ストーリー。「おばあちゃんと孫ね。うんうん。へー、ツール・ド・フランス、凄いじゃん。え、何?この人たち。あら、さらわれるの?あらら、なんでこんなとこで自転車漕いでんの。えーっ。」ってカンジ。最後はカーチェイスだから。しかも自転車と車のね。しかも3台の自転車のうち、1台ばあさんが漕いでるから。音楽。古き良きスイングだけじゃなく、三人のばあさんのリズムとハーモニーについつい足が揺れる。ディテール。おたまじゃくしのポップコーンなんて、何てグロくて楽しいデザートか。しかもばあさんは川で発破でカエルを捕まえるんだでー。随所にそういったピリッと辛口のギャグセンスが小気味良く散りばめられていて、大笑いじゃなく「くすっ」あるいは「ぷっ」という瞬間がそこかしこにある。ハリウッドはもちろん、日本のアニメとも違う、見る者に媚びない、それでいてマスターベーションなどでは決してない、潔くて、すがすがしい、原点に立ち返ったようでいてセンス抜群。これが「エスプリ」っちゅうもんかい?かつては一世を風靡した三人のばあさん達は、ゴミ溜めみたいなアパートに暮らし、毎日カエルを喰っては三人で一つのベッドに潜り込んでテレビを見て大笑いする。見ず知らずのおばあちゃんと落ち着きのない駄犬を家に招き入れる。開けっぴろげで無頓着。でも家にある冷蔵庫や掃除機、そして新聞は誰にも触らせない。いつもぴかぴかに磨いて、きれいに折りたたんであるのだ。あとでその理由がわかる。プロのエンターテイナーの顔でレストランで歌うのだ。おばあちゃんは孫のことが大事で、孫を追っかけて当たり前のように海に漕ぎ出す。執念で孫の居場所を突き止める。どんな大胆な行動も自然にしてしまうおばあちゃん。C'est la vie.欲もなく、多くを望まず、それなりの人生。その中に、大切なもの、守らなければならないものはきっとある。それを守るために、実は大変なことかもしれないことを、朝起きて歯を磨くようにできますか?一番気に入った場面は、おばあちゃんがネズミ男の耳カバーをかけて変装するところ。抱きしめたくなるほどかわいい。最後の最後に孫のシャンピオンがひとことだけ台詞を言う。孫だった男の子がいつのまにかじいさんになって。もちろん、おばあちゃんも犬のブルーノもいない。ほろ苦くて寂しくて愛がいっぱいの映画。もう一回見に行こう。
2005.02.27
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塚本晋也のマスターベーションかね。高崎映画祭で最優秀賞受賞とか。その理由が全く理解できない。交通事故で記憶を失った男が、理由もわからないまま解剖学の本に惹かれ、医学生となる。解剖実験で目の前に横たわる検体に奇妙な感覚を抱きはじめる。それは事故の際に同乗していて死んでしまった恋人の遺体だった。解剖を進めていくうちに、徐々に恋人の姿を映像として思い浮かべるようになる男。しかし、男が脳裡に描き出したものは記憶の断片ではなく、記憶の中の女と今の自分が戯れるイメージだった。かつて愛した女が、なぜ、今、自分の目の前に現れたのか。そして記憶と幻想のはざまで揺れる自分の肉体。これは偶然か、誰かの企てか、それとも何かの意思が働いているのか…。記憶を失い、実体といえる魂を持たない、肉体だけの自分。肉体を失い、実体を求める魂だけの恋人。浅野忠信が演じた主人公が、自分が見ているものは実は火星に残された最後のロボットが最後に見ている映像の電気信号かもしれない、みたいな台詞を言ってた。言いたいことはわかるけど。でもなぁ。どうしても「茶の味」の浅野なんだよなぁ。記憶失ってるように見えないんだもん。全然。ことばに澱みやためらいが全くない。生きていることの不思議さや違和感といった、自分自身がわからないもどかしさみたいなものが感じられない。記憶を失って、こんなに淡々と生きられるかしら。相変わらずボソボソと同じしゃべり方をする。桃尻女でも、座頭市でもいつでも「浅野忠信」なんだよなぁ。解剖に没頭する彼に、教授が「もういいじゃないか」って諌めたときに「何言ってるんですか。これからですよ」って、きろりと狂人の目をして見せた。えー。わざとらしー。そして次のシーンでは目の下に真っ黒な隈。まじでー。やめてよー。釣られてんのかしらん…と思ってしまうほどのベタな演出っぷり。そして「?」が満載。なんで首締め合うの?その性癖って映画のプロットとなんか関係あるのかね?落ちる瞬間にあの世の女が幻想を見せるの?なんで死んだ女は南の島で踊るの?なんで前髪短い女はあんなに自分にも暴力的なの?意味がありそうで何にもない?肩透かしを喰らってる感じ。相方は「意図的だな」と一言。まじっすか?
2005.02.13
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ちょっと電車に乗ればすぐ都心。そんなどこにでもある町でのお話。大人たちは都会と田舎を行き来する。どちらにも存在する自分の間を無意識に行き来するかのように。子ども達は自分の世界に生きる。その世界が毎日少しずつ広がっていくのに気づかずに。そうしてゆったりとした時間の中で繰り返される日常。家族が出てくるけれど、家族の話ではない。むしろ個人の成長の物語。縁側でみんなでお茶をすするシーンが結構出てくるけれど、そこに家族の絆は感じられない。かといって主人公と言える人物も見当たらない。家族のほかにヘンな人たちがたくさん出てくるけれど、ストーリーに不可欠な人は誰一人としていない。そして当の家族はといえば、じいちゃん以外みんな一見まとも。その実てんでばらばらで、一番ヘンテコな姿のじいちゃんが一番まともな感性を持っていたりする。それぞれが抱える、悩みとはいえないようなふとした胸の苦しさ。何気なく動いたときにちくっと刺さるちいさな棘。そんな「個」の集団がこの映画を形作っている。そうそう、日常なんてこんなものなんだ。人生なんてそんなにたいそうなものじゃない。「生活」の積み重ねなんだ。「生活」しているといつか人は嫌でも成長していく。成長していくことは、「自分」と「自分以外のもの」との間に起こるまともなこともヘンなことも受け入れて暮らしていくことなんだ。じいちゃんが死んだあと、みんなでじいちゃんの部屋に入り、表紙にひとりひとりの名前が記されたスケッチブックを発見する。形見となったスケッチブックは、一人一人が主人公のパラパラ漫画だった。いつしかそれぞれが自分のパラパラマンガに見入ってしまう。そこにはやっぱり自分とじいちゃんしかいない。他の家族はどこかに行ってしまっていて1対1の絆だけが存在してる。日常が延々と続く様をスクリーンに延々と映し出すことで、人が生きるってこんなことだって心に染み込ませていく。そんな映画。観終わって余韻が残る映画。石井監督と浅野と我修院のトリオだから観に行ったんだけれど、三浦友和が出色。あんなに怪しげなサイコセラピストを職業人としてフツーに演じている。画面の中に生きてる。いそうだもの、ああいう先生。貴重だと思うな。
2005.02.06
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今年も恒例、NORADのWEBサイトでサンタのトラッキングが始まった。既にサンタは北極を出て、いつもの朗らかな笑い声とともに日本の富士山上空を通過した模様。またリアルタイムで見ることができなかった…。悔しい。しかし、JR東日本の新幹線車輌図鑑を見ても、こんな新幹線は載ってないぞ。E3系に近い形ではあるが。空の情報は網羅しても陸には弱いのか?NORAD。http://www.noradsanta.org/english/radar/index.html世界地図があって、地図上にプロットされているトナカイのルドルフの赤鼻(光ってる)で、サンタが今何処を通っているかがわかる。NORADがサンタの追跡を始めて50年。50年前といえば米ソ冷戦時代が始まってアラスカの空に緊張感が一気に高まってきた頃だったろう。日本では自衛隊が発足した年だ。そんな殺伐とした時代に彼らがサンタの追跡をはじめたきっかけとなるエピソードを知ると「ああ、いつまでもサンタを追っかけてください」と心から祈りたくなる。平和は人の心次第なのだ。日本語のサイトはこちらhttp://www.noradsanta.org/japanese/radar/index.html
2004.12.24
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これまた観たい映画がなくて無理やり観た映画。なんか、最近こうゆうパターン多いなぁ。なかなか面白かったなー。設定はありえない(似たような話が実際にあるらしいが)けれど、ドラマの展開はありきたりだ。お人よしの東ヨーロッパ人が空港でのっぴきならない事情で足止めをくらい、そこで数ヶ月を暮らすうちにさまざまな人に出会い、そこに生きる人たちの心に暖かい灯を灯して去っていく。ハートウォーミングなストーリー。ちょっとタルイぐらいだ。でも面白い。ストーリーもしっかりしているし、登場人物もみなチャーミング。しかしなんといっても素晴らしいのは映画の舞台となった空港。空港が本当に素敵だった。一日に何万人もが出入りするニューヨークの巨大な玄関口。大きなキャリーケースを抱えて行き交う人々。飛び交ういろんな国の言葉。きらびやかに飾られ活気に溢れたショップの数々。旅はいつも気持ちを高揚させるものだけれど、空港の喧騒は否が応でもそれを助長させる。画面から聞こえてくるその喧騒が、観客をJFKにワープさせ、チケットを握り締め出発の案内を待っているような気分にさせる。あの空港がぜーんぶセットだと知ってちょービックリした。思い返せば確かにどのシーンもどのカットもきれい過ぎる気もするが、それにしてもやっぱハリウッドはやることが違うわ。5ヶ月ですと。セット作るのに。吉野家まで入ってるし。やり方うまいよなぁ。ステキ。トム・ハンクスの顔は好きじゃない行けど、でもいいねぇ。ドラマは、実は主人公のビクターではなく空港で働く人々の中にある。彼らこそ無意識のうちに何かを待っていて、ビクターが彼らに関わることで、そのドラマ一つずつに光を当てていくことになるのだ。今度空港に行くことがあったら、巨大なビルの中で働く人たちにふと目をとめるようになるような気がする。いや、そこで生活していそうな人を探すかもしれない。いやその前に、旅に出たくなった。
2004.12.19
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さすがPixer。文句なし。4年という制作期間の大半をストーリー作りに費やしたというだけあって、話の展開に無理や無駄やムラが一切ない!元スーパーヒーローの日常生活なんていうまったく非現実的な背景に、子育てやら家族のちょっとした波風やら子どもの成長やらすごく身近なことが描かれていて、その親近感と非現実が見事にマッチしてるんだなこれが。前半はかなりストーリーの進行を急いだ感があって、ちょっと目を離すとついて行けなくなりそうなほど、わたしには忙しい展開だった。でも敵地に乗り込んでからの後半は落ち着いて見ていられる。シンドローム登場の伏線も、エドナがマントを拒否する伏線も「あ、なるほどね」って、あとですんなり入ってくる。観客は実に気持ちよくストーリーに「乗せられる」のだ。で、最後はやっぱりハッピーエンド。これを大満足と言わずになんと言おうか。CGは美しい。水しぶきやバイオレットのぺったりした髪の毛のそよぎを見てたらうなっちゃうよ。キャラも立ってるし表情もいい。ちょい役のボブの上司や国のエージェントがいい。エドナ・モードは物語にとっては全く必要ないキャラなんだけど、最高。アイデアが満載。それぞれの得意技も楽しいし、ロボット、ロケット、島や滝のしかけetc。安心しながら見られる目新しさだね。吹き替えで観たけど、三浦友和、ここでも出色。まったく違和感なかった。グレート!宮迫はちょっと残念。声はキャラに合ってるし巧いと思うんだけど、どうしても「車車車」の轟を連想させる。轟やらなきゃよかったね。黒木瞳についてはノーコメント。コスプレで試写会に出てきた時点で許してやろう。よくやった。地味にサウンドトラックも良かったと思う。そしてへレンが実は一番強い。色んな意味で一番強い。っていうか一番頑張った!やっぱヘレンゆう嫁はんはどこでも強いらしいで。
2004.12.05
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「キモイ顔のCGアニメは嫌だ」って連れに言ったのに、無理やり引っ張って行かれた。しかも吹き替え。ああ、もうサイアク。観る前からやる気なし。どいつもこいつも、ちっともカワイクナイ。アニメのくせにカワイクナイ。許せたのは狼とトナカイぐらいだ。一番許せないのは歌い踊りながらココアを注ぎにやってくる一行。気持ち悪いから、ほんとに。やめて。絵はほんとにきれい。CGならではの映像もたくさんあって、氷の上を滑走するシーンや山の中をジェットコースターのように疾走するシーンでのスピード感、列車の重量感とか雪の質感とか、まさに「動く油絵」。でもきれい過ぎて、屋根の上の変なおっさんホーボーはホントに酸っぱい臭いがしそうだし、ロンリーボーイはほんとに貧乏くさい。見どころはたくさんある。魔法の国なんだけど、妖精達が大きなモニターで今年の子ども達の様子を確認してプレゼントを配る配らないを決めてるし。ああいうの、いいねえ。魔法の国なんだけど、プレゼントを仕分けるベルトコンベアーとか移動のためのカプセルコースターみたいな乗り物とかいろいろあって、遊園地のアトラクションのようで、遊びに行きたくなるし。あれ?魔法の国の話ばっかりか。そうなんだよなぁ。サンタのソリのベルがホントに残っていたのが許せん。しかもサンタを信じなくなった妹にはベルの音が聞こえなくなって、主人公の男の子だけが大人になってもいつまでも聞こえるというのはもっと許せん。安直。子供だまし。深みのない話。つまらん。いつまでもサンタクロースを信じてる大人はアホなだけ。そんな奴はまともじゃない。そうじゃなくて、ベルの音が聞こえなくなったことを素直に受け入れて、サンタクロースを信じていた幼い頃の自分や、子どもの気持ちを大事にしてくれた親をずっと好きでいられる大人になることが大事なんじゃないの。そして小さい頃の自分と同じように、クリスマスの夢や楽しみを子ども達に味わわせてやれる大人になることが大事なんじゃないの。ま、そんなことにプンプンしてる時点でおばさんは素直じゃなくなってんだろうね。ムキーッ。いっそのこと子ども料金にして客を10歳以下に限定しろー!NORADのサンタ追跡サイトを見れば素敵な大人は世界中にたくさんいることがわかるのに。でもサンタはやっぱりヒーローなんだね。聖人でも魔法使いでもなく、エンタテイナーでありスーパースターなのだね。「なりたい」とは誰も思わない不思議なスターではあるけれど。北極にある小さな魔法の国に、とんでもなく偉大なスーパースターがいて、サボりがちな小さな妖精達に整然と仕事をさせながら着々と出番の準備をしていると思うとワクワクするね。そんなイマジネーションを与えてくれただけでも、観て損はなかったか。
2004.11.28
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ヨン様ヨン様って、うるさーーーーいっ!ばばぁが何人もホテルですっころんだって、いちいちトップニュースに持ってくんなー!!http://tokyo.cool.ne.jp/haro_3/
2004.11.26
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子供向けのファンタジー映画。女の子が好きな夢の物語。まったく最後までバックグラウンドのわからない登場人物たちと相互関係。意味のない、というより「?」な台詞。童話的ご都合主義。...そうそう、これは童話だった。原作にどれぐらい忠実なのかわかんないけど、印象としては長い物語の中からエピソードをいくつかピックアップして繋いだって感じかねぇ。ストーリーが地に足が着いてないっていうか…。それでも引っ張られて最後まで見ちゃったからねえ。面白さとしては、絵の美しさとデザインの良さ。特に細かいギミックにくすぐられる。ドアの横のどこでもドアハンドルみたいなやつとか。あ、城自体がギミックか。戦闘機や軍艦も出てくるけど、鉄ではなく“ブリキ”をイメージさせるデザイン。どこかで見たようなデザインではあるけれど、相変わらずきれい。木村拓也は良かった。倍賞千恵子はNG、っていうか勘弁して。あの声では何をしゃべっても説教臭い。歌はいいんだけどなぁ。巧い下手ではなくて、2人とも声で感じる年齢が絵とあってない。結局、かかしのカブさえハッピーエンドなんだけど、たまには良いよね。そういうのも。ほんとに、この世界で起こっている戦争も、どこかの魔法使いがひとこと「止めましょ」って言えば終わるようなシロモノだったら良いのに。ね、ハヤオさん。
2004.11.25
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劇団ひとり最近泣き過ぎ。
2004.11.20
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アメリカ大統領選挙が終わった。マイケル・ムーアが何てコメントしてるか知りたいと思ってサイトをチェックした。彼らに詫びているような気がした。http://www.michaelmoore.com/
2004.11.04
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Imagine there's no countriesIt isn't hard to doNothing to kill or die forAnd no religion tooImagine all the peopleLiving life in peace... 香田さん殺害の犯行声明が出た。2chで誰かがこんなことを言ってたっけ。憎むべきはテロリストであって、怒りの矛先を政府に向けるべきじゃない、と。確かにそうだ。二つ、まったく違う話なのだから。自分の国を愁うことと、同朋を殺した非情なテロリストを憎む気持ちと。日本も悲しいけれど、テロリストも悲しい。そして日本に帰りたいと言った彼が一番悲しい。ただただ黙祷するしかないのか。
2004.11.02
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日本政府にお尋ねしたい。香田さんの遺体を搬送する費用はご遺族が負担されることになるのかね?過去の事例をみるとそうなってもおかしくはないわね。それとも亡くなった場合は『別格』なのだろうかね?ああ、そうか。米軍機に運んでもらうのかね?かわいそうな香田証生君。いっそのこと星条旗に包まれたまま還って来ておくれよ。君がまた戻りたいと願ったこの日本に。手が届くところにいながら自国の民の救出や亡き骸の搬送には蝿ほども役に立たない部隊しか持たないこの国に、人の痛みを分かち合えないほど荒んだ悲しいこの国に、星条旗を身にまとって空の上から唾してやるといい。最期の瞬間、君は何を思っただろうか。あまりにも痛ましいよ。
2004.11.01
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観るものなくて観ました。予告観た時から面白そうだとは思っていたのだけれど、思った以上に○。最後までトム・クルーズ演じるヴィンセントのプロフィールがわからないところがいい。こういう映画って、途中から殺し屋が何で殺し屋になったかとか、過去を引っ張り出してくるパターンが多いけど、結局奴のことは何一つわからないままだった。そこが潔い!タクシードライバーのマックスについても、わかったのはいつかリムジンサービスの商売をするために12年も腰掛けでドライバーをやってることと、病気の母親がいること、律儀な性格だけだ。とにかく2人が出会って別れるまでの1日を、ヴィンセントの仕事振りよろしく執拗に追っかけている。その中で2人にちょっと絡んでくる人が何人かいて、ちょっとずつドラマがあって、意外なストーリー展開があって…。いつもなら「キャラ立ってない!」とか「あの役、無意味!」とか怒るもんだけど、今回はまったくOKだった。女検事もLACPの刑事もマフィアのボスもそれぞれがちょっとずついい味を出している。この「ちょっと」というのが微妙で難しいさじ加減なのだ。L.Aの街の昼と夜と朝焼けもきれいに画面に溶け込んでいる。小品だけど渋くて飽きさせない映画だった。一つ、いつものようにトム御用達の翻訳家が字幕を書いてたけど、マックスの台詞に「I'm a collateral!」(たぶん)というのがあって「俺は巻き添えだぜ」(だったと思う)と訳してた。確かにCollateralには「巻き添え」と言う意味がある。でももともとは「付随的な」とか「副える」要するに「本筋じゃない」という意味だ。マックスのそれまでの生き方や、その後の物語の展開を観ていると「巻き添え」というより「付録」とか「おまけ」とかそんな意味の方がしっくりくるような気がした。「俺は単なるおまけだろ!?」ってカンジかな。彼にとって今のタクシードライバーという職業は本業じゃなく、今の生活そのものがおまけみたいなものだ。マイアミのビーチの写真を5分おきに眺めて心を癒し、メルセデスのカタログを大事そうになでまわして将来を夢見、きっと明日も変わらない1日を過ごすことが今日の時点でわかっている、そんな毎日なのだ。そんな男がヴィンセントという衝撃的な客を拾ってしまって、天地がひっくり返るような1日を体験する。最初はこの状況からただ逃げたいと思っていた。しかしいつのまにかヴィンセントの考え方や生き方に共鳴している自分がいた。タクシードライバーの自分とメルセデスで商売をする自分、どっちがお前の本当の姿なんだ?今がおまけなら本当の人生を歩め。そのためには一歩を踏み出せ。行動するんだ。そうして彼は行動する男に変わってゆくのだ。だから「I'm a collateral!」って大事な台詞だと思うんだよね。「巻き添え」だとその場の台詞的には収まりが良くて腑に落ちるけど、あの映画の意味・コンセプトを伝えるには全くダメだと思うね。
2004.10.31
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札幌ドームに行ってきました。途中15分の休憩を挟んだのには驚いた。あんなコンサートは初めてだね。まあ、パフォーマーも客もおっさんおばはんだからしょうがないか。とにかくジョー・ウォルシュのボトルネックが超COOL!カッコ良かった…ほんとにこれで最後だろうな。12歳のとき、カセットデッキにヘッドフォンを繋ぎ、兄貴が借りてきたレコードから録音したばかりのホテル・カリフォルニアを初めて聞いた。12弦ギターの音色が聞こえた途端鳥肌が立ったことを今でも覚えている。風のように渦を巻くギターとドン・ヘンリーのしわがれた声は、レコードジャケットを扉にしてあっという間に私を夕暮れの乾いた砂漠に連れて行った。時間はたっぷり流れて、彼らも私も変わってしまった。それでも、今聴くあの曲の美しさはまったく変わらない。You can check out anytime you like, but you can never leave...
2004.10.24
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政府は明日の閣議で、下記の政府広報を正式に発表することを決定する見込み。「日本政府は、国民個人の自己責任の欠如に伴なって起こった他国での事件・事故について、その国がいかなる国家いかなる状況下にあっても、今後一切関わりをもちません。頼まれてもいない他国の支援には莫大な国家予算と軍隊を使いますが、国民の皆さんは自らの力と財産で自己解決してください。」ふふふ。日本という国は本当に品のない国になってしまった。拉致されたこと自体が自己責任を軽んじていたからこそ招いた結果であって、彼らは、監禁されている間ずっと、釈放されるか殺されて死体を晒すかという自らの軽率な行動の果ての自己責任のはざ間で恐怖に怯えていたはずだ。その彼らの恐怖やご家族の気持ち、どうして慮ってあげられないのか。人の気持ちが理解できないさみしい国。もちろん、彼らが全面的に正しいとは思わない。経費の一部負担もやむをえないと思います。が、しかーし。経費の話など、戻ってから役人が水面下でひっそりと交渉すればいいことじゃないの。何時でもできるじゃないの。彼らのような人たちこそ、本人の心労が癒え、彼の地が安定したときに、真っ先に行って寝食を忘れて働いてくれる日本人の鑑じゃないですか。自らは動かず、施すこともしない愚鈍な大多数の国民とは格が違う。彼らの意思や今後の人生の芽を摘み、彼らを待っている本当の支援が必要な人々の期待を裏切るような言動を国家自らが行なってはいけない。そんな国家、そんな国民性の国に人道支援などできるはずもない。首相からして品のない、情けない言葉。それに追随する政府与党のお偉方のこれまた心ない発言。あんた達があたしのボスだったら、速攻そんな職場とはオサラバするね。親の介護で有給休暇とるなんてこと絶対許してくれそうにないもん。
2004.04.19
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ここ数年、年越し蕎麦を食べて元旦の真夜中に初詣に行っているがずっと気になっていることがあった。神社が静かなのだ。だいたい何処の神社も元旦0:00前から初詣の参拝客が並びはじめると思うが、昔は列が途切れてもずーっとお神楽が鳴りつづけていたものだ。あたしの田舎じゃ薄暗い境内に松明が焚かれて、それだけで普段はめったに近寄らない神社がより厳かに感じられ、神様と自分の距離感みたいなものを肌で感じた。ところが、最近毎年言っている神社では、3年前を最後にお神楽が聞こえなくなった。それはどうも近所に遠慮してのことらしい。別に行った神社でも聞こえなかった。坊主をしているダーリンの友達が言うには、彼が勤めている寺では除夜の鐘を撞かないそうだ。それも近所に配慮してのことらしい。ほんとかよー。まあ全部が全部じゃないだろうけれど、昔は鎮守の森に守られていた神社も今は人里に入り込んでしまっていて、というより、人が神様のすぐ際にまで近寄っていったのだろうけれど、神様の方が人間に気を使わなければならなくなったということか。ああ、我がニッポンもこれまでなのだろうか。神社のすぐ側の路上にはアイドリングしたままの違法駐車の列ができている。たった年に一度の祭事にこうむるめでたい迷惑も我慢ならないご近所と、その反対側に対峙する他人の迷惑を顧みない自分勝手なアイドリング車。なんだか年の初めから悲しくなってきた。一つだけ、南線神社で振舞われたお神酒が慰めてくれた。「お神酒いかがですか」とテントに招き入れられて、多分氏子の皆さんだろう、年配のお爺さんたちが参拝客にお神酒を注いでいる。そこに並んだ好々爺の、裸電球に照らされてか酔いで火照ったか知らんが、てらてらと輝いた、なんとめでたき笑顔だったことか。まさに七福神が勢ぞろいして、福を招いているようだった。「きっといつか福がくる。何事も前向きに、笑って暮らせよ」と肩を叩かれているような気がした。ほんとに良かった。そう、「笑う門には福来る」。2004年はこれで行こう。笑って過ごせる一年となりますように。
2004.01.01
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サンタクロースが富士山を通過しました。時刻は15:00GMT。NORADのレーダーが彼を追跡し、WebCamがその姿を捉えた!新幹線の百倍以上の速さで富士山上空を走行し、富士山には毎年20万人以上が世界中から訪れていて、サンタもクリスマスイブには毎年ここを通るのだと、アメリカ海軍のマイクなんとかさんが報告している。(英語バージョン)現在(16:00GMT)は中国を走行中。サンタは相変わらず朗らかに笑い声を上げながら元気にトナカイのソリを駆っている模様。中国を最後にアジアを離れ、ヨーロッパに入るようだ。Merry merry Christmas!! Everyone!http://www.noradsanta.org/
2003.12.24
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『ラストオブサムライ』を観ましたぜ。見たい度はそんなに高くなかったけど、KenWatanabeのゴールデングローブ助演男優賞ノミネート祝いということで見ることにした。よくできていました。おすぎが言っていたことがよくわかりました。ストーリーも単調でありきたりだし、これといって魅力的なキャラクターが出てくるわけでもない。トム・クルーズがこれまでに作ってきたような“俺様”映画でもない。(ほんと、びっくりするほど控えめ。渡辺謙が主演か?と思ったほど)それでいて2時間半を超える尺の長さを感じさせない展開の上手さとちょっとした見せ場のはさみ加減の絶妙さ。丁寧な作り込み。台詞も、英語・日本語共に役者がきちんと自分のことばにしようと努力の跡が見られましたね。決して咀嚼しきっていたわけではないけれど。ちょっとした場面で『?』と思うことがあったりもしたけれど、まあ見逃してやろうかと思える。トム嫌いのあたしにとっても、トムがあんまり前面に出ていなかった点で合格。サムライスピリットというと今の日本人には面映いところもあって、終始ちょっと腰が浮き気味だったけど、昔の日本人の良くも悪くも筋の通った力強さを感じましたね。なんといっても特筆すべきはやっぱりゴールデングローブ賞ノミネート俳優の眼力。あのギョロ目がカッと見開かれたり、切なげに潤んだり微笑んだりと、とにかく目の演技が凄い。今思い出せるのはKenWatanabeの目ん玉だけだもん。あれほど存在感のある目をもった俳優はなかなかいないと思うね。ジャック・ニコルソンぐらいか。だってアップじゃないんだよ。でも目が脳裡に焼きつくんだよ。凄いじゃないですか。死ぬときだって、顔中血と泥にまみれて真っ黒なのに目だけは澄んでいるんだよ。きれいに。それだけでぐっとくるじゃないですか。いやぁ、アカデミー賞にもノミネートされて欲しいなぁ。アメリカでも評判がいいというのがわかるような気がする。アメリカ人って好きでしょう、実は。大義名分とか、勇気とか忠誠心とか誠実とか名誉とか、それこそ大好きなお題だもんね。彼らは信仰の中でそういったものを知り、宗教の教義によって身につけていく。日本人は普段の生活にそれがある。その根源にあるものはサムライスピリットだと、そう思っているから、そこに格別の憧れを持つんだろうね。そして「スバラシイ!」とか叫びながら泣くんだろうな。『ギャングオブニューヨーク』と『ラストモヒカン』を思い出しました。構図は微妙に違うけど、一つの時代の終わりと次の時代の始まり、男同士の絆、滅び行くものの悲しみ、同じ民族の闘いの虚しさ、敬意...そういったものが壮大な画面の中に描かれている点で、ふとこの二つを思い出したのかもしれない。あたしとしてはやっぱ、ダニエル・デイ・ルイスに一票!って感じですけど。あの走る姿の美しさに勝るものはありまっしぇん!
2003.12.21
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昨日まで全然雪なんてなかったのに、今日は一面の雪景色の札幌です。札幌ドーム、行って来ました。いやぁ…。もう…。新旧取り混ぜ、硬軟織り交ぜ、素晴らしいperformanceだったと思います。グレエト!エクセレント!やっぱりクラプトンはブルースだよなぁ。と今さらながらぐっときました。ボトルネックをはめた小指を見ただけでエクスタシーを感じたのは私だけではないはず。しかし、いかんせんドーム。演奏は素晴らしくとも音が悲しいほど悪い。アンコールのときの手拍子が反響でズレたように聞こえていた…。しかぁし!それより気になったのは照明。ステージの奥からパターンを変えて天井を照らすセッティングが使われていたんですが、残念ながらドームの天井なので、鉄骨剥き出し、しかも飲料水の看板や地元TV局のバナーがぶら下がっていたりして、模様なんてこれっぽっちも見えない。あれ、もったいなかったなぁ。止めても良かったのに…。でもねぇ、何が悲しいって、マナーの悪さというか、おまいらホントになってない!開演後にあんなに人がウロウロしているコンサートなんてはじめて見たぞ!アリーナ!アリーナ!演奏中にウロチョロすんな!こら!そこ!写真撮影は禁止だろうがゴラァ!!!しかも!し、しかもアンコールの前に席を立って帰るだとぉ?!しかもアリーナがかぁ!泣けてきた…。ホントにごめんね、エリック。手拍子はしねぇわ、スタンディングオベイションもなしだわ、とっとと帰り支度するわ、もうウキーっ!!!!て感じですた。この田舎モンが。もっと楽しみ方を覚えろ。くすん。連れは9,000円って高いよねーとほざいておりましたが、「馬鹿こくでねぇ!神様見れたんだど!」と鉄拳を入れておきました。帰りは、ずっとWhiteroomのドラムの入りとCocainとSunshineofYourLoveとWonderfulTonightを連れに白い目で見られながら歌って帰りましたとさ。神様、またのご来臨を心よりお待ち申し上げます。ありがとうございました。合掌。ホントにまた来てね。
2003.12.07
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イラクで亡くなったお二人の外交官の葬儀があった。志半ばの突然の死に、ご家族に対しても謹んでご冥福をお祈りする。さて、お二人が亡くなってから、日本では懸念したとおりのことが起きている。誤解を怖れずに言うなら、彼らの死はとてもいいタイミングだったような気がしたのだ。彼らの死をきっかけに、世論を巻き返しにかかるだろうと思ったけれど、案の定、政府はこういい始めた。「日本は、テロとの闘いに屈したといわれてもいいのですか?二人の尊い死を、無駄にするのですか?」いやいやちょっと待てください。誰も彼ら二人の死を足蹴にしようというのではない。もちろんテロに屈するつもりも毛頭ない。これからもわが国の国民に、“自国を守る”という目的以外で“無駄死に”をさせないために、きちんとした目的と理由と方法を納得できるまで確認しあう時間が必要なだけなのだ。現在イラクはアルカイダの本拠地が移りつつあり、世界中で最も物騒な、テロリズムの最前線となりつつあるという。何故そうなってしまったか(何が引き金になったか)はこの際置いておこう。アメリカは最初から“テロと闘う”という大義名分を掲げ、今もその大義名分のもとに行動している。確かにあのときの目的であった大量破壊兵器もフセインも未だ見つかってはいない。多分どちらも今日明日見つけるというのは無理だろう。しかし方法論や結果はどうあれ、やっていることはつじつまがあっている。彼らの論理ではそれは正しいのだから。では日本はどうだろう?そもそもイラクには何のために行くのか。復興支援のためではなかったか?であれば、その目的を到底達成することができそうもない今の状況下で、しかも多数の“無駄”な死傷者が出ると誰もが予測できる自衛隊を派遣するのは愚の骨頂といわざるを得ない。そうではない、テロとの闘いに行くというのなら、もとい、テロとの闘いに屈したくないから行くのだというのなら、専守防衛などという曖昧な防衛論を捨て、アメリカ軍のように、テロリスト達を根こそぎ討伐する意気込みで、堂々と武装させた自衛隊を送り込むべきだ。全世界のリーダーとしての役割(そんなものが必要だとは思わないが)と気概をもって、堂々とテロリスト達を抹殺させなさい。「家庭の事情により、命令されても行けません」などと答えるような、自衛隊員の名に恥じるへなちょこは即刻除隊、札幌で年に一度の雪像作りにボランティアとして強制参加させなさい。日本はイラクに何をしに行くのか?復興支援に行くはずだ。では復興支援とは何か?「復興」ということばを辞書で引くと、「一度衰えたものが、再び盛んになること。また、盛んにすること。」とある。とすれば「イラクの国民が、『アメリカによるイラク攻撃』で失われた自分達の日常生活を、一日でも早く取り戻せるように援助すること」だ。イラクの国民とは何か?イラクに住む国民はもちろんのこと、現在イラク国外に逃れているイラク国民も忘れてはならない。彼らの大半は、フセイン政権の終焉を心から喜び、それと同時に自国に帰る希望を持っただろう。抑圧するものはいなくなった。なのになぜ帰れないのか。雇用喪失による生活の不安、テロの脅威による政情の不安、それらがますます高まってきたからだ。仕事がないのは何故?仕事がないわけではない。コントロールができていないだけだ。テロの脅威は?他国の軍隊がわんさか駐留しているからだ。ターゲットがイラクに集ってきているようなもので、これぞ“飛んで火にいる夏の虫”というものだろう。では彼らが故郷に帰って、自分達の国の再建に参加するためにはどうすればいいのか?イラクの自治政府を早急につくるべきなのだ。学校を建て、病院を作り、インフラを整え、石油産業を復興させる。何より、雇用を提供し、教育の場を設けることで、テロを助けている勢力を縮小、あるいは分散できる。それをコントロールするのはどこなのか?今の状況下でそれができる確率が高いのは、非参戦国のNGOなどの民間団体なのではないか。しかしこれはあくまでも確率の話で、テロリストが今、何がしかのスタンスを踏まえて行動しているとは思えない。国連、赤十字、外交官と同じように見境なく攻撃される恐れは十分ある。それでも仕事を使命と捉えることのできる崇高な気概を持ち、常に現場に出ている百戦錬磨の方たちなら、喜んでその仕事に向かってくれるのではないのか。話を元に戻そう。日本は何をしにイラクに行くのか?復興支援だというのなら、無駄な危険を回避し、いかに効率的に最善の方法を尽くして、本来の目的を達成させるか。それが一国を動かす政府の手腕ではないのか。自衛隊を派遣するとかしないとか、そんな議論は実はイラクの復興支援とは何の関係もないことがおわかりだろう。復興を支援したいのなら、他に議論すべきことややるべきことは山積しているのだ。問題をすり替えてはいけないのだよ。月曜にもイラク復興基本計画が閣議決定される。今目の前にある問いと、用意されている答えは単純なもの。イラクに何のために行くのか?イラクの復興支援のために行くのなら、行くのは自衛隊ではなく、そして今ではない。まずは1500億円の使い道を、イラク人とじっくり検討しなさい。テロとの闘いに行くのなら、それは自衛隊を武装させて迷わず今すぐ行くべきでしょう。テロとの闘いかそれとも復興支援か。間違っても、この二つが同じことだと言わないでいただきたい。前者はイラクの国土を舞台にした掃討劇であり、イラクの国民をイラク攻撃後もさらに巻き込んで死傷者を出すこととなり、実際そうなっていて、それもやむなしと言うべきことなのだ。そしてアメリカはそう言い続けている。さて、我が日本には同じようにテロとの闘いを押し切るだけのポリシーと覚悟がおありか?今の日本には、テロを駆逐する材料は何もないし、専守防衛の国に攻撃のポリシーなど必要もない。憲法改正を先送りにしているような国に覚悟なんぞあるはずもない。そしてもうひとつ忘れてはならないのは、テロはなくならないということ。アルカイダを駆逐しても、次のテロリズムが新しい形で台頭してくる。それは自明の理だ。アメリカはテロリズムを叩き潰しにイラクまで出かけたが、彼らが目指したのはアルカイダであって、その後のテロリズムまで根絶やしにできるなど、はなから思ってはいないしするつもりもない。では今や日本の大義名分となりつつある、「テロとの闘い」もとい「テロに屈しない」の“テロ”とは誰なのか?アルカイダが壊滅したとして、いずれ台頭してくるテロリスト達を、アメリカが討伐に行く際には、またまた「テロに屈してはならん!」と息巻いて追随するのだろうか。その頃、朝鮮半島の北に位置する国が、国としての体裁を為さなくなっていれば、金だけ出して知らん顔をするのだろうか。慌てて“なんとか特措法”を制定するのか。また自国民をコケにして。そしてさらにもうひとつ。小泉さん、あなたが泣いても彼ら二人は帰ってこない。今あなたがやろうとしていることは、「テロには屈しないんだぁー」と泣きながら腕をブンブン振り回して目をつぶって相手に突進していく、喧嘩に弱く、頭も弱い小学生のように見える。もっと大人になって、冷静に慎重に考慮し、充分討論し、国民の総意に達してこそ、彼らの死が報われるというものではないだろうか。私はイラクの復興支援にはもちろん賛成だ。しかし自衛隊がイラクの復興を支援できるとは思わない。自衛隊の皆さんには申し訳ないが、多分現地のアメリカ軍を支援することもできない。それどころか足手まといだろう。アメリカ政府を支援しているように見せかけることはできる。しかしそれでは、日本国民はいつまでも蚊帳の外に置き去りにされたままだ。馬鹿にするな。政府のエゴのために死んでたまるか。-----今日のちょっと何それ!?横浜Fマリノスの優勝パレードがあったようで、ニュースの映像で見た。ひっかかったのはオープンカーに乗った、岡田監督と日産のゴーン社長と中川横浜市長の席順。なんで当の優勝監督が助手席にちんまり座っているわけ?なんでゴーンと市長が後ろで手ぇ振ってんの?何それ!?大相撲の優勝パレードだって、優勝した力士は後ろだろうが。
2003.12.05
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ダイエーのリーグ優勝セールで買った白くまバーが最後の一個となった。二人で仲良く半分こした。ホントは一人で全部食べたかった。食への執念は恐ろしい。何か分け合って食べるときはいつも自分の方を少なめにするし、お肉の一切れを多くあげたりする。でも実は同じ量だけ食べられる胃袋だし食欲なのだ。今日の白くまも、ラスト一口こっちにくれてもいいんじゃなーい?あたしが買ってきたんだし、ってちょびっと恨んだもんなぁ。金の切れ目は縁の切れ目とはよく言うが、金がなくたって「あたしはいつも何かにつけてちょっと我慢してんのよ、あんたのために」的キモチは日々溜まっていくものだ。そして、こうしたキモチが溜まり溜まって全然違う場面でいきなり爆発したりするのだ。「なんでブドウ食べるのにそんなにたくさんティッシュを使うわけ?一回一回拭かないで全部食べ終わったら最後に一枚で拭けばいいじゃんよぉ!うちのティッシュを無駄遣いするなぁぁぁあ!」キーっ!ってな具合に。小さな我慢なんかしなきゃいいじゃんって言うけど、我慢しなきゃ人間として下品に見えるんじゃないかと思ったりもするもんね。なんか、どっちにしてもいやしいなぁ。こんないやしさが違う面でも出るんだよなぁ。ああ嫌だ嫌だ。ああ、そして白くまはいったいどこで売ってるんだろう…食べたい…
2003.11.03
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VirginRadioから辿り着いてJohnMayerのSomething’s Missingをダウンロードして聞いた。この子はホントにいい声してる。顔はこんなにアホっぽいのになぁ。クリップ見ない方がいいもんなぁ。耳元で歌って欲しいNo1だね。顔はあっち向いてていいから。好きな声といえばロビー・ウィリアムズもいいねぇ。シェリル・クロウもいけるね。アンソニー・キーディも好きだなぁ。ジョン・キャメロン・ミッチェルも実は声が良い。あとはコートニー・テイラー・テイラーとこの子かな。昔はやっぱStingかねぇ。ポール・ウェラーの蓄膿気味の声も良かったけど。そしてなんと言ってもNo1はフレディ・マーキュリーでしょう。別格。美醜を超越した声。シンガーだけじゃなくても声って大事だよな。人柄や気持ちが現れるもの。表情が見えなくても声でわかったりする。この間人工声帯(咽頭)をつけた人を見かけた。サウスパークのネッドと全く同じで、抑揚のないビブラフォーンな音が言葉を発していた。意思の伝達は可能だろうが、コミュニケーションという点でどうなんだろう?本を黙読しているときだって頭(?)の中でアクセントや抑揚もちゃんとつけて読んでいるはず。単純な言葉の羅列は伝達スピードを遅くしてるんじゃないのかね。あまりにも機械的で、最低限必要な機能しか備えていない感じがした。使っている人こそ、あの音(声とは言えない)は結構苦痛なんじゃなかろうか。自由の身ではやっぱり不自由はなかなかわからん。さらに、不自由の加減ときたら理解できるわけがない。でも、ちょっとでもマイナスがプラスに近づくように、不自由をしている皆さん、声を上げていいのだ。当事者が声を上げなければ他人は解らないのだ。そう言う意味での声も大事。ニッポンの技術よ、頑張ってくれ。私は何もできんけど。
2003.11.01
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松本智津夫被告の最終弁論があった。なんと七年半。そうか、上九一色村とか、サティアンとか大騒ぎしてからもう七年半もたったのか、早いもんだなぁ。結局何も語らないまま結審してしまったようだ。弁護側にはメモやら何やらいろいろとあったようだが、証拠として申請もできなかったって。ずっと裁判を見てきた佐木隆三さんが、最終弁論は賽の河原で石を積むようなもの。むなしいだけだと言っていた。ほんとにそうだと思った。「むなしい。」これほどこの一連の事件にピッタリのことばはないんじゃなかろうか。何人もの人が色んな死にかたをした。因縁のある人も全くない人も、修行のつもりで死んでいった人も。それから、罪を裁かれ罰を受けることになった人も。残った人も残された人も、全てが虚しい。悲しみや怒り、憤り、憎しみ、もし自分が当事者だったとしたら、何に対してどういう感情が湧きあがるのだろう。このおっさんが何をしゃべろうと、罪を認めて遺族や被害者に額をこすりつけて謝ろうと、やっぱり虚しいのではなかろうか。罪を認め、謝った人、かつての教祖を未だに崇拝する人、彼らはいったい何者だったのだろう。何者としてこの世に生まれてきたのだろう。選挙カーの前で歌い踊った人、一心に経文を唱え、飛ぶことを夢見た人、今はどう生きているのだろうか。関わった人全てがかわいそうだ。人生は一度しかない。誰の人生もやり直しがきかないということがつくづく心に染みる。
2003.10.31
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一切のリアリティを排除した、タランティーノのタランティーノによるタランティーノのための映画。客を意識して、何かを描こうとしたとはとても思えない。でもタラちゃん好きにはタマラン映画やね。本国では評価が二分しているらしいけど、バイオレンス?こんなにリアリティないのに?そんなに酷いか?ってな感じ。見終わった後、タランティーノの顔以外何にも残らなかった。公開前のネタばれがけっこうあったから何が出てきてもニヤって笑うぐらいだったし。「おいおい機内持込OKかよ」って突っ込んでもしゃあないし「沖縄でマグロかよ、腐っちゃうよ」って言ってもしゃあないし。世界を股に…って、テキサスとどっか(アメリカ国内)と沖縄と東京だけだし。(あとはVol.2をお楽しみにってか) だからとにかくタランティーノの顔を思い出しながら思いっきり楽しむしかないのだ。タラちゃん好きだからいいけど。でも次はどんな映画を撮るつもりなんだろう?こんなん撮っちゃって…。主役二人のヘンな日本語の台詞より、ソニー千葉のヘンな演技の方がよっぽど可笑しかった。シチュエーションや台詞は確信犯だとしても、千葉ちゃんのあれはああやって演技つけたのかなぁ。ルーシー・リューはカッコよかったなぁ。存在感あったし殺陣がとてもきれいだった。ユマのはただ振り回している感じだったけど、ルーシーはホントにビューティフル。記者会見でもおもちゃの刀に触らなかったって聞いたけど、確かに画面でのイメージを壊さないためにはその判断は賢明でした。あんたはエライ。でもあの最期はいただけないなぁ。落ち武者みたいなんだもん、せっかくのアジアン・ビューティが…。まあ、どっちにしても彼女ほど欧米人が感じるアジアの美とは何ぞやというのを全身で体現しているアジアン女優はいないなぁ。クレイジー88を引き連れて店の中を歩いたシーンはぞくっとしたね。いやあ、堂々としていて素敵でした。うっとり。栗山千明はまあまあOK。鉄球振り回すアクションも様になってたよ、ちゃんと。でももっともっとクレイジーでも彼女ならやってのけたと思うけど、設定が甘かったんじゃないのかなぁ。言い寄ってきた男、飲んでた一升瓶で正面から頭叩き割るとか。アクションも短かったし、ちょっともったいなかったなぁ。そしてタランティーノの音楽のセンスには脱帽。ほんとに凄い、この人。どっからこんな音を見つけてくるんだろう。全部ぜーんぶはまってる。パルプフィクションもジャッキーブラウンもそうだったけど、やっぱりこれもサントラが欲しくなる逸品。ああ、でもまだ二人しか殺してない。あと三人。またニヤニヤしながら観ることになるんだろうなぁ…そしてブラック・マンバの意味はなんなんだろう…。
2003.10.26
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