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『人新世の資本論』について(1) 『人新世の資本論』について(2) 私は、二度にわたって『人新世の資本論』について検証してきた。このたびはさらに、『国家と文明』(竹内芳郎著)の理論内容とからめて批判的にまとめておきたい。ここで強調したいのは「マルクス主義の史的唯物論」の受け継ぎ方として、『人新世の資本論』にはどのような意義と問題点があるか、という観点である。(一部、重複するが・・・)〔意義〕第一に、史的唯物論の公式にとらわれず、(特に晩期の)マルクスがロシア農村共同体の研究を通して『資本論』をも問い直そうとしていたこと、精神労働と肉体労働の対立(分業)の克服、都市と農村の対立の克服について言及していたこと(308頁)、労働者たちの能力の全面的な発展をめざしていたこと、など重要な点をとりあげていることがある。 第二に、生産力発展論こそが定式化された「史的唯物論の大きな柱」だったわけだが、この生産力主義をマルクス主義から切り離そうという斎藤の試みは評価できる。これは、『国家と文明』(竹内芳郎著)で展開されている論と共通する視点だともいえる。〔問題点〕 上記のように斎藤は、史的唯物論を硬直した公式ではなく、晩年のマルクスや『資本論』を踏まえて柔軟に問い直そうとしているにも関わらず、史的唯物論の第一の公式である「土台‐上部構造論」については無批判に(硬直した形で)受け入れてしまっているように見える。 ここではまず、「土台‐上部構造論」に関する過去記事の一部を採録しておこう。 土台とは何か? 社会全体を規定する生産様式(=経済の構造・仕組) 上部構造とは? 社会的、政治的、精神的生活の全体(生産や経済以外の領域)具体的には「社会・政治制度や文化、人々が共有する価値観など」 Q 土台・上部構造論とは? 生産様式(経済の構造)こそが土台となって、それが上部構造である社会的・政治的・精神的生活の全体を規定(決定)する、という仮説Q なぜ生産様式が重要なのか?A マルクスの回答 「人間たちは〈歴史を作る〉ことができるためにはまず生きることができねばならない(・・・)したがって、最初の歴史的行為とは、こうした欲求(食うこと・住むこと・着ることなど)を充足させるための諸手段を産出すること、物質的生活そのものの生産である」⇒ どんな社会でも生活するために必要な物資の「生産と分配」といった経済的要因が社会を根本的に規定する。Q 土台・上部構造論の問題点は? 経済的な生産様式とそれ以外の人間的諸営為とを截然と分け、「土台(経済的な要因)が上部構造(他の要因)を決定する」という仮説にはかなり無理がある。Q それはなぜか? 人間においては生産と分配(経済)の根底にある物質的生活や物質的欲望そのものがその社会における文化によって全面的に規定されているからである。例1)衣類の生産は生きていくために不可欠な「物質的生活そのものの生産である」と同時に、その民族の宗教や慣習、美的なものを求めるファッション(すべて広義の文化)と不可分である例2)熱帯アフリカに現在も残っている部族共同体の場合も、生産様式(経済的要因)とその他の要因は切り離すことができない(未分化である)。 仮に、この未分化の状態から経済の近代的な概念に当てはまるものだけを抽出し、それと 「その他のもの」との関係を調べてみても、現実には同一の土台(経済)の上に異なった上部構造を見出す例は多い。例えば熱帯アフリカの土着民の経済生活はほとんど同じであるが、婚姻関係の慣習等がしばしば異なっている。Q 理論再構築の道は?・「生産様式」を科学的抽象によって(社会全体から経済的要因のみを抽象することによって)成立するもの、としてはっきりと位置づける ⇒「生産様式」と「社会構成体」(その時代の社会の総体)とを理論的に峻別する。・生産様式・・・人間の社会から物質的生産に関わるものだけを抽象して成立する単層的カテゴリー(経済構造)(例)農奴制生産様式、資本制生産様式・社会構成体・・・経済生活だけでなく様々な社会諸制度、文化、人々が共有する価値観などを重層的に含みこんだ「社会の総体」(例)中世封建社会、近代市民社会Q 生産様式は社会の他の要因を規定・決定するのか? 生産様式は他の要因(例えば社会制度)を因果的に決定しないとはいっても、かなりの程度規定する重要なポイントだ といえる。(現代の例 : 日本の国会で制定・改定(規制緩和)された「労働者派遣法」は「市場原理主義的な資本制生産様式」によって、強く規定されている。) 過去記事の採録は以上 さて、史的唯物論の公式である「土台‐上部構造論」を斎藤は無批判に受け入れている、というのが冒頭における私の主張だが、それはどういうことだろうか?要するに、「資本主義体制下で気候危機が解決可能だという主張は、非現実的な空想に過ぎない」、という斎藤の断定の中に誤謬があるのではないか、斎藤は「経済的土台である資本制生産様式」と「近代市民社会という社会構成体」とを混同しているか、前者が後者を因果的・全面的に決定するという機械的な理論(硬直した土台‐上部構造論)の立場に立っているのではないか、ということである。 竹内芳郎による理論再構成のpointは、1,「生産様式」(経済の構造‐例:資本制生産様式)と「社会構成体」(例:近代市民社会、その延長上にある現代社会)とを峻別すること、それによって、2,「生産様式」が「社会構成体」のあり方を因果的・全面的に決定するのではないという現実を認めることであった。つまり、政治・社会諸制度、文化、人々が共有する価値観などはある程度自立したものとして(非資本主義的要素も含めて)「社会構成体」の中には重層化して存在しうるのである。 そうでなければ、「universal designの実現や公害問題の解決に必要な法整備」は、この体制下では不可能だったろう。ところが、現代の社会構成体の中には、「障害者差別解消法」や「改正された公害対策基本法」(→「環境基本法」)、「二酸化炭素税」などの非資本主義的な法制度(利潤追求の原理自体からは出てこない法律)が、存在している。 そもそも「労働者の権利を含む人権思想」などは、利潤だけを考えるのであれば、邪魔ものでしかなく「経済構造によって思想・文化も決定されるとすればこの社会には存在しえないもの」ということになってしまう。しかし、「人権思想」はこの社会に存在し、それに基づいた法・制度はいくつも制定されてきた。だとすれば、大切なことは、社会における非資本主義的要素を創造・活用しながらそのさまざまな弊害の克服に力を尽くすことではないだろうか。 資本制生産様式というこの経済体制の中で、「非資本主義的な法・制度は基本的に存在しえない」「仮に存在しても全く無力である」、したがって「資本主義体制下で気候危機は原理的に解決不可能だ」‐ほぼこういった内容を斎藤は断定的に主張しているかに見えるが、それは土台‐上部構造論を硬直した形で受け入れた誤謬ではないのか。少なくとも、そのような断定の根拠を『人新世の資本論』は示しえていない。 そもそも、斎藤が例示する「バルセロナ(フィアレスシティー)の取り組みや、労働者協同組合の取り組み等々」自体、現代の社会構成体が様々な「非資本主義的な営みや要素」を重層化しつつ含みこんでいけることを立証するものであろう。 そのことを斎藤が自覚するのであれば、彼我の違いは大きなものではないのかもしれない。「人権」や「気候危機への真剣な対応」という観点から、市場原理主義・強欲資本主義のあり方を問い直していく必要性については、私自身、特に異議を持ち合わせていないからである。にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)「
2022.01.23
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『人新世の資本論』(斎藤幸平著)について、引き続き検討します。 『人新世の資本論』について(1) (人新世の資本論について 全文PDF)3、根本的な問題と思われる点・技術革新の問題点も含め、自らの主張に関する検証・立証が不十分で、それを抜きにした断定が目につく。認識の仕方に問題ないか。「上空飛翔的」な認識(上空から世界の全体を俯瞰するように自らの枠組みに当てはめていく認識)になっていないか。実践を積み上げながら、自らの認識の枠組み自体を検証していく姿勢が大切。(晩年のマルクスからはそのような姿勢をこそ学びたい)。自説にとって都合の悪いdataも参照しながら認識の枠組みを問い直しつつ鍛えていくこと。例:電気自動車の功罪を検証するためにはIEAの資料(斎藤は90頁で紹介)だけでは不十分。例えば(1)でも紹介した下記資料なども含めた検証が必要。1)資源不足の時代を終わらせるために Part 1 2)同 Part 2 – 想像を絶するクリーンエネルギーの豊かさを手に入れる上記論文の要約 著者:ナフィーズ・アーメド(Nafeez Ahmedの論文より) ※「マルクス主義の歴史的敗北」に充分向き合っているとは思えない。・マルクス主義は経済論であると同時に歴史理論。本来は「歴史の中で勝利を宣言するはずの思想」だったが、それを基盤にした国づくりは分権的なものも含めことごとく失敗している。 ・その理論は体系をなしており、「都合の良い部分を引用して賛美する」というのは説得力に欠ける。ある意味で、某政党の取り上げ方と共通している。歴史から教訓を汲み出すには、「マルクスを権威として自説を根拠づける」といった姿勢を、注意深く拒否することが必要ではないか。そもそも、「手紙や草稿」など発表を想定して書かれていないものと、出版されたものとを同列に扱うのみならず、「前者(手紙・・・)こそがマルクスの本当の思想だ」という形で後者を否定するのはいかがなものか?※マスクスの真意云々ではなく、(最晩年のマルクスから示唆を受けつつも)斎藤自身が「史的唯物論のやり直し」を具体化すべき。そうでなければ「空想的社会主義」段階に戻ったといわれても仕方がない。(ただし、「空想的社会主義者」とされているフーリエやオーウェンは、具体的実践によって社会主義的な共同体や工場を創ろうとしており、その点では斎藤よりも進んでいる。)晩期マルクスがそれ以前の自らの主張を明確に否定・撤回していない以上、本人に代わってその再構成をすることで「マルクス主義」を乗り越えることが重要ではないか。⇒(『国家と文明』)史的唯物論の再検討 で竹内芳郎は、それを力強く試みている。 ・斎藤は「ザスーリッチあての手紙と草稿」をもとに史的唯物論のやり直しを提起。その際、晩年のマルクスがロシアにおける農村共同体に注目し、「ヨーロッパ中心史観」からの脱却を図っていた点の指摘はいい。が、その性格を十分検討しないままcommonと共同体の復権を主張することについては検討を要する。なぜなら、当時のロシアにおける農村共同体は明らかにツァーリズムという専制君主体制の下部組織(『国家と文明』100頁)だったからだ。これは昭和初期の日本における農村共同体〔入会地‐commonを共有していた〕が同時に集団同調主義的な天皇制共同体の下部組織であったのと類似している。従って共同体といっても復権すべきは、支配者のもとに統合されているそれ‐第二次共同体‐ではなく、あくまでも対等平等な共同体‐第一次共同体‐であり、前者と後者を峻別することが必要である。それを理論的に明確化・整除しているのが『国家と文明』の135頁以降。)Q 初期マルクス思想と中期の思想(生産力主義)をまとめて否定するのか?初期マルクスの思想(疎外論)と『資本論』およびそれ以降の思想とは切断されたのではなく、深く関連しているにも関わらず、斎藤の記述では、この点が不明確である。「初期から中期の思想をひとまとめにして否定する」とすれば、そこには問題がある。・「〇〇はアヘンである。資本主義下で解決できるとするのは幻想である。」このような断定(実はマルクス主義の弱点)を、無批判に受け継いでいる。「短期間で脱成長communismが実現できるというのは幻想でなければいったい何か」という形で跳ね返ってくるだろう。 竹内芳郎は『文化の理論のために』(1982年刊行)で次のように述べている。「マルクス主義はその徹底した歴史的見方によって、現行の社会制度とそこでのideologyのすべてを相対化し、その相対化を通じて人類の新たな未来を設計してみせた」けれども、(・・・その)史観の理論的枠組みそのものが、実は西欧近代文明の一所産にすぎず、相対化の営為そのものが「人類史の中だけの局部的相対化」かそうでなくても「西欧近代文明の所産にすぎぬ近代〈進化論〉にそのまま依拠した〈人間至上主義〉の枠を一歩も超え出ぬもの」にすぎなかった。真に必要な相対化は歴史そのもの、人間文化そのものを、非文化のコンテクストから文化に対して〈他者〉(例えば野獣:補)の目でもって遂行されるより深い相対化の営為なのだ。」根本的に、あらゆる幻想と無縁な「現実的社会関係(人間)」など存在しないにもかかわらず、「吾ひとりは一切の幻想過程から醒めて、真に現実的地平に立ちうるとするマルクス主義が、それ自身、歴史の中でまたひとつの途方もない阿片として作用するほかなかったことを、彼(マルクス)はついに予見することなく終わった。」(『文化の理論のために』,P.231、262頁)・「SDGsはアヘン」か? 宗教やアヘンに引き寄せられるほど、多くの人々はSDGsに引き寄せられていない。状況の認識がずれていないか。むしろ「持続可能性の重視」を国連のレベルで合意したことを評価しつつ、「開発」に伴う欠点・問題点を克服する、という構えが必要ではないか。例えば松下和夫は以下のように述べる。 「実はSDGs自体に現行経済社会システムを根底から変革する思想が埋め込まれているのである。なぜならばSDGsに掲げられた目標を徹底的に追求していけば、強欲資本主義のあり方そのものを変えざるを得ないからである。」「企業はSDGs washとの批判を受けないために、持続可能性を自社の事業戦略の中核に据え、事業を通じてSDGsの達成に向けた意欲的取り組みが求められる。」「一方消費者は、企業が謳う『SDGsに取り組んでいます』という言葉に安易に飛びつかず、その事業が本当に持続可能性向上につながるか、情報は第三者機関によって評価されているか、透明性があるか、などをしっかりと見極めることが重要だ。(・・・)企業にも消費者にもSDGsに関する高度のリテラシーが求められる。」いたずらに、「SDGsは大衆のアヘンである」との警句を発することは、企業や市民の持続可能な社会への行動変容へ踏み出す一歩を押しとどめるマイナスの効果しかないだろう。」(引用は以上)資本主義体制下でも2019年における「投資会社の意思統一など」は、重大な影響を及ぼすはず。その不十分さをあげつらうのではなく、「持続可能性」という観点から取り組みを鍛えなおすこと(例えばgreen wash企業かどうかを判断し、本物の取り組みを評価しながら消費行動、さらには運動を進めていくこと)が大切なのではないか?・北欧・EU諸国の事例など、削減に一定の成果を上げている取り組みの充分な検証・評価を抜きに「思い込みで否定」していないか。「マルクスが言っているから資本主義体制下では解決不可能だ」という自身の思い込みでないことをどう立証するのか。例:東横インの不祥事や公害問題。確かに、資本の論理、利潤追求至上の原理を貫徹させたままでは解決不可能だが・・・。「universal designの実現や公害問題の解決(必要な法整備)は、この体制下では不可能(communismに移行する以外の解決策はない)」と断定してはいけない。・具体的生活に居直る直接民主主義的な運動(「障害者」の人権保障要求運動や反公害闘争)が、この体制下でも現状の変革(例えば障害者差別解消法の制定、公害対策基本法の改正、「無過失責任」の法制化など)につながった。・「南」への矛盾の押しつけは当然問題にしていかなければならない(83~85頁)が、それは基本的に「狭域環境汚染・環境破壊」(及び、過重労働)の問題だ。日本や欧米の公害問題と同様、それに対処することは必要であり可能である。当然そうすることで採掘costは上昇するが、問題は克服できる。〔例:2010年に多くのアナリストが、価格の高騰をrare earthの供給不足の兆候であると誤って予測。実際には、価格の上昇にともなって「備蓄量の増加、休止中の鉱山の再開、探鉱者による新たな鉱床の探索と発見、recycleの増加」が起きた。企業はcost削減と性能向上を同時に追求し、高価な材料をより節約して使用し、可能な限り安価で優れた代替策を採用。さらに、今後の需要増加にともなう鉱物の価格上昇は、採掘による収益を増加させ、recycleをより安価にし、以前は実現不可能だった新しい循環型経済の実践や産業のための新しい市場を生み出す。また、さらなるinnovationの促進にもつながる。〕 資源不足の時代に終止符を打つために Part 1 – 鉱物資源の不足がクリーンエネルギーを頓挫させない理由 同論文の要約 より。・文化革命・生活仕方全体の変革という視点が弱いように見える。マルクスに従って、生産仕方の変革(生産手段の共有など)をすれば、問題は解決するかのような「幻想」に陥っていないか。(「帝国的生活様式」という言葉を頻繁に用いていながら・・・)例:株式会社のHondaが協同組合になれば、車の生産は半分以下になるのか? 地方の公共交通機関の急速な拡大・利便性の増大が期待できない中、「自家用自動車による通勤」が急速に減少していくことは考えにくい。そのような現状においてQ 電気自動車化などの技術革新は意味がないのか?(必要ないのか?) 確かに(斎藤が指摘するように)電気自動車の生産にも二酸化炭素の排出が伴う。だが、ガソリン車を継続的に生産し、購入・運転し続ける場合と比較して全排出量がどれくらい違うか、定量的に検証することが大切だろう。例えば、減少するのは走行時に排出される二酸化炭素量だけではない。石油、Gas、石炭の需要が激減すると、大量の化石燃料を世界中に輸送するために稼働している巨大な物流・輸送インフラは必要なくなり、石油掘削装置、石炭発電所、原油精製のために稼働する石油化学コンビナートなどの膨大なインフラも必要なくなる。輸送・精製の過程で排出する二酸化炭素量を極小化する再生可能エネルギーへの転換は、膨大な二酸化炭素の排出削減を可能にするはず。このような点を考慮していないIEAなどの試算に大きな問題があることをナフィーズ・アーメドは上記論文で指摘している。Q 脱成長communismに向かう展望を斎藤は示しえているのか? FEC自給圏の取り組みや、協同組合を増やしていく取り組みは重要だと考えるが、多国籍企業を含む巨大な「私企業・株式会社」が別のもの(例えば協同組合等)になっていく展望を、斎藤が示しえたとは考えられない。 目標・理想は本質的に「幻想」であり、そこに向けた具体的な実践こそが大切。・机上の空論にならないためには実践をしたうえで、その困難・乗り越え難さを理論に組み込んでいく必要がある。例:鳥取県岩美町での実践。地域ぐるみ-長井市の実践に学び、「岩美町への提言」を作成・提出した。しかし、それに対する批判(「美しいね。しかし、それは地域の人々や高校生が本当に求めている取り組み・学びなのか?」といった批判)も受けた。おそらく、この批判は以下の宇沢の見解とも関連する。・宇沢弘文の見解。『社会的共通資本』19頁。「計画経済(社会主義‐生産の公的管理:補)は中央集権的なものは言うまでもなく、かなり分権的な性格を持つものについても例外なく失敗した。その原因は・・・より根源的には、計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾するということにあった。体制を変えれば問題が解決するという単純なものではない。上記宇沢の主張や、ユーゴ労働者自主管理の変貌(自主管理社会主義の失敗)などについても、十分検討・検証することが必要だろう。「脱成長communismしかない」と断定するのではなく、様々な方法を模索しながら可能な取り組みを力強く進めていくことが大切だと考える。にほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2022.01.08
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私も、気候変動対策については当Blogでも繰り返し言及しているが、ここ一二年、『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著)が注目されている。気候危機に関する問題意識については共有できる点が多いものの、同書には違和感を覚える点もかなり見える。 このたび、その内容に関して2回にわたり「批判的考察」をまとめることにする。(人新世の資本論について 全文PDF) ただ、その内容・要約に関しては松下和夫の簡潔な要領を得たものがあるので、最初に引用しておきたい。1、京都大学名誉教授・地球環境戦略研究機関シニアフェロー松下和夫 脱炭素大競争時代と『人新世の「資本論」』による要約・斎藤によれば現代は「人類の活動が地球を破壊する『人新世』(地球危機)の時代に入っており、気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならない」。・資本主義の本質を見抜いていた晩期マルクスを踏まえれば「唯一の解決策は〈コモン(生産手段の共同管理)〉を基盤にした潤沢な脱成長コミュニズムだ」。 『人新生の資本論』の論旨(松下の「大胆な」要約)①気候危機はすでに現実化しており、この状態を放置するとこの社会は野蛮状態に陥る。②資本主義は、利潤のあくなき拡大を目指してすべてを市場と商品化に巻き込み、自然の略奪、人間の搾取、巨大な不平等と欠乏を生み出してきた。それを変えなければ、解決にならない。気候変動の原因である資本主義の枠組みを維持したままでは、どのような方策も気候変動危機を止めることはできない。③資本主義の本質を見抜いていたマルクスもそのことを指摘している。晩期マルクスが残した研究ノートを詳細に検討した最近の研究結果(MEGAプロジェクト)によると、マルクスは、資本主義のシステムに代わるエコロジカルで持続可能性を重視した〈コモン〉を自分たちで共同管理するシステムを構想していた。④これは従来のマルクスの資本論の理解(資本主義による恐慌と失業から社会主義革命が起こり、資本を管理する主体が資本家から労働者に代わり、共産主義社会が実現する)とは異なる。そしてマルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、生産力至上主義を脱却した脱成長コミュニズムである。それは平等で持続可能な脱成長型経済であり、自然資本を含む協同体的富が地域に根差す非営利的で平等な市民により共同で管理される。「生産力至上主義を捨てるなら、生産力の高さは、歴史のより進んだステージにいることの証明にはならない。破壊的技術だけを発展させても、意味がないからである。・・・晩年のマルクスは、進歩史観そのものから決別せざるを得ない。史的唯物論はすべてがやり直しとなるのだ。」(人新世の「資本論」166頁) ⑤私たちは資本主義を脱して、エネルギーや生産手段など生活に不可欠な〈コモン〉を自分たちで共同管理する「脱成長コミュニズム」に進まなければならない。(具体例は後述)⑥脱成長コミュニズムの柱は以下の通り。・使用価値経済への転換:(交換)価値ではなく「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する・労働時間の短縮:労働時間を削減して、生活の質を向上させる・画一的な分業の廃止:画一的な分業を廃止して、労働の創造性を回復させる・生産過程の民主化:生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる、ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)により生産手段を〈コモン〉に・エッセンシャル・ワークの重視:使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を⑦「SDGs(持続可能な開発目標)」でも「グリーンニューディール」でも、成長至上主義がある限り、加速度的に進む環境破壊と温暖化は止められない。先進国で達成したかに見えても、そのツケは途上国に押し付けられるだけである。 (引用は以上)2、『人新生の資本論』、その意義と課題(私の切り取り・考察)・気候変動に絡めて帝国的生活様式を問題にしている点。資本主義体制そのものを根本から問い直す必要があるという明確な提起。少なくとも、これまでの資本主義の「歴史」において利潤追求は環境の破壊や二酸化炭素の大量排出に繋がってきた。・資本は「人工的希少性」を生み出しながら発展する。(・・・)いくら経済成長をしても、その恩恵が社会の隅々まで浸透することはないという指摘(253頁)、ブランド化と広告が生む相対的希少性(255頁)等、利潤追求によって暴走してきた資本主義の根本的な問い直しを呼びかける。⇒ 気候危機の解決とこの問い直しは不可分であることを提起。・共産主義(communism)に対する偏見の払拭に一定貢献し、マルクスの著書(『資本論』や「ザスーリッチへの手紙」)を読みなおす機会になりうる。 ・技術的進歩を過大評価することに対する警鐘。楽観論を戒めることも大切。 ・トヨタなどに典型的な「形だけの環境配慮」を鋭く問題にしていく視点。・平等な共同体の復権やcommonの重要性を指摘。具体例:市民エネルギーの取り組み(日本でも全国各地で展開) 生産手段を自分たちの手に取り戻すワーカーズコープの取り組み(262頁) 270頁では資本論の一節を引用「社会化された人間、結合された生産者が(・・・資本の)盲目的な力によって支配されることをやめて、これを合理的に規制し、彼らの共同の管理のもとに置くこと(・・・)。この国のかなたに、自己目的として行為しうる人間の力の発展が、真の自由の国が始まる。労働日(労働時間)の短縮は根本条件である。」(引用部分の表現を短縮・若干修正)・マルクスが(特に晩期)ロシア農村共同体の研究を通して『資本論』をも問い直そうとしていたこと、精神労働と肉体労働の対立(分業)の克服、都市と農村の対立の克服について言及していたこと、(308頁)労働者たちの能力の全面的な発展をめざしていたこと、など重要な点をとりあげている。・バルセロナ(企業や国家を恐れないフィアレス・シティ‐恐れぬ自治体)の画期的な取り組みを例示。同市は草の根の声を市政に持ち込むシステムを整備しつつ、水の権利を「コモン」として奪い返し、一旦民営化された水道事業を「再公営化」。2020年1月に「気候非常事態宣言」を行い、2050年までに脱炭素化(カーボンゼロ)をめざす。さらに生活協同組合、共済組合、有機農産物消費グループなど「社会連帯経済」を実現し、製造業、農業、教育、清掃、住宅等の分野でも地域住民主導の街づくりが始まっている。このようなバルセロナの取り組み‐(「コモン=社会の共有財産」を市民に取り戻す取り組み、様々な協働組合の創造)は確かに注目に値する。〔斎藤が同書で触れている宇沢弘文の社会的共通資本(および内橋克人FEC自給圏)の問題意識にもつながる。:補〕Q1 宇沢弘文の社会的共通資本とは?大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラ教育、医療、司法、金融制度などの制度資本などを宇沢は「社会的共通資本」と呼び、これらを市場原理に任せるのではなく公的に(委託された専門家の良心と見識に基づいて)守っていくことが、人間らしくが生きていく基盤となると主張。Q2 斎藤は、宇沢との違いをどのように説明しているのか?斎藤によれば、〈コモン〉は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理することを重視する。そして、最終的にはこの〈コモン〉の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克をめざすという決定的な違いがある、という。めざすべき究極的な目標(理想)としては共感を覚える。energyの地産地消 ⇒ FEC自給圏に通じる記述(261頁) Q3 内橋克人のFEC自給圏とは?食糧(Foods)とエネルギー(Energy)、そしてケア(Care=医療・介護・福祉等)をできるだけ自給する地域コミュニティ。これを実現していくことが、地域の生存条件を強くし、雇用を生み出し、自立することにつながるという。例:山形置賜自給圏山形県の置賜地方を一つの「自給圏」としてとらえ、圏外への依存度を減らし、地域資源を利用することで地域産業を興し、雇用の確保を実現しようというもの。 具体的な活動としては、[1]地産地消に基づく地域自給と域内流通の推進、[2]自然と共生する安全・安心な農と食の構築、[3]教育の場での実践、[4]医療費削減の世界モデルへの挑戦 の4つ。 もともとは山形県長井市の地域内循環の取り組み(地域で発生した生ごみを堆肥化し、地域の有機農業に活用し、安心安全な作物を食卓に提供するという取り組み)から発展。地域内循環は「街づくりデザイン会議での市民による議論」を経て具体化していった。ただし、このような取り組みは時間がかかる。そして、議論・実践に時間をかけなければ意味はない。だとすれば、「10年以内にCO2排出量の半減を」という気候危機への対応としては間に合わない。少なくとも、脱成長communismをめざすことと現体制で可能なことは同時進行で精力的に取り組んでいく必要があるのではないか。確かに斎藤の言う労働者協同組合やバルセロナ等の自治体からの取り組みは貴重。Q4 しかし、これらの動きによって現行資本主義が根底的に転換されうるのか?歴史的に積み上げられてきたこれまでの協同組合活動によって、斎藤が問題とする資本主義systemそのものを変えることができなかったことも事実である。Q5 様々な運動(集団的な取り組み)を進めていくための条件は?「合意」。しかし、気候危機への対応こそが最重要課題と考える人間は全体の何割なのか? そのうち脱成長communismという方針で合意できるのは何割か?「脱成長communism以外にない」という断定は、気候変動に本気で取り組みたいと考える人々を分断することにならないか?Q6 欧米の若者を中心とするgeneration leftは脱成長communismを支持している?例えば米国でサンダーズを支持する若者の多くは、「気候変動対策」と「社会民主主義的な改革」に共感した個人だといえるが、多くが「グリーンニューディール」を否定しているとは考えられない。その点、資本主義体制下での取り組みを米国の若者は否定していない。 ・生産力主義をマルクス主義から切り離そうという斎藤の試みは評価できる。これは、『国家と文明』(竹内芳郎著)で展開されている論と共通する視点だともいえる。・斎藤は選挙によって実現する「改革」を「政治主義」と批判し、意思決定過程における直接民主主義的な運動の意義を強調。『国家と文明』(マルクス主義の国家論を丁寧に検討し、公私の分裂‐精神労働と肉体労働の分業を乗り越える原理として直接民主主義を提唱)と比べれば感覚的ではあるが、共通する視点でもある。・斎藤の挙げる例:気候市民会議 これは、制度的には「大統領制および議会制度を補完するもの」(市民会議自体は決定権を持たない)というのが現状。しかし、直接民主主義的な抗議運動「黄色いベスト運動」(216頁)を機に導入された制度である。この事例を強調することは大切なこと。〔しかしながら、「人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。」「深夜の営業・・・年中無休もやめればいい」303頁などの記述については誰がどのような手続きで禁止するのか、という疑問も生じる。禁止するかどうかも含めて、幅広く議論し合意形成するのでなければ、斎藤の言う「気候毛沢東主義」になるのではないか。〕 (斎藤の主張)「資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れきってしまうことで、別の世界を思い描くこともできない。」⇒上記は「体制変革が極めて困難であること」を示唆するものだ。『国家と文明』が理論化した「周辺革命の傾向的法則性」‐成熟した社会よりもその影響を受けた周辺地域から社会変革が成立‐からすると、成熟した資本主義体制においては、構成員の生活・意識そのものがその爛熟した文化に飲み込まれてしまっているため、根本的な変革は極めて困難。大いなる「文化革命」が変革の条件となる。地球環境問題に関してもとことん学習し、消費行動を変えつつその解決に向けての意思を固める、という時間のかかる過程がおそらく不可欠。 ・「全く別のライフスタイルを生み出し、脱炭素社会を作り出す可能性を技術は抑圧し、排除する」という斎藤の主張は検証が必要。Life styleの刷新と技術革新を同時に追求することは必要だと思われる。原因‐結果の一方通行ではなく、相互関係がある。1)資源不足の時代に終わらせるために Part 1 – 鉱物資源の不足がクリーンエネルギーを頓挫させない理由2)資源不足の時代を終わらせるために Part 2 – 想像を絶するクリーンエネルギーの豊かさを手に入れる上記論文の要約 著者:ナフィーズ・アーメド(Nafeez Ahmedの論文より)『人新生の資本論』について(2)に続くにほんブログ村教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2022.01.03
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