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の 新刊
の棚にありました。 2024年の12月31日
の 新刊
です。 横尾忠則
の 「飽きる美学」(実業之日本社)
です。字が大きくて読みやすいです。「絵を描くのに飽きた!」 とまあ、こういう書き出しです。で、まあ、 「飽きた」 ということについての蘊蓄があれこれあって、たとえば、
と言ったり書いたりしたもんだから、「エエーッ」と驚いた人がずいぶん沢山いたのに驚いた。驚いた人たちの多くは、この「飽きた!」という言葉にえらい新鮮さを覚えたというのです。
「飽きたが!」 そんなに新鮮なのかな?
だって僕は3歳からずっと88歳になるまで絵を描いているんですよ。だから飽きて当然じゃないですか。(P2)
三島由紀夫さんの死は結局生きることの意味や必然性がなくなった結果だったのかもしれません。つまり人生に飽きたわけでしょう。 などという、まあ、過激極まりない発言まであって、
飽きない間は不自由なんです。自由が見つからないから飽きないのです。 という展開ですから、
ああ、はあ、そうなん!? と、わかったような顔でもして、うなづくほかないわけですが。結論はこんな感じです。
まあ僕的に言えば、「飽きた!」状態で描く絵はどんな絵なのか、それを見てみたいという好奇心があるのです。ここからが「飽きる」始まりなんです。つまり「飽きる」というのは無意識行為なんです。意識して飽きるのではなくて、気がついたら飽きていたのです。「気がついたら、こんなんできてましたんや」というのが「飽きる」美学なんです。浅田彰さんが僕の作品は「無意識の底が抜けている」と言いました。つまり底が抜けないと「飽きた!」とは言えないんです。無意識の底が抜けるということは他力と自力が一体化したことではないかと思います。 とこうなって、論議は、もう一息続いて
他力と自力が一体化は死とギリギリです。 と、まあ、 「飽きる美学」 が 解説(?) 、 宣言(?) 、いや、ボクには 無意識の呻き として述べられているんじゃないかという感じがしますが、深いような、浅いような、
で、もちろん、その向こうには 「霊性」 ですね。
他力と自力の一体化は三島流に言えば霊性です。霊性は言葉では説明できません。それは霊性イコール徳だからです。 「飽きた!」 ことは無意識の底の抜けた陰徳です。
駄法螺エッセイ(笑)のはじまりです。 この エッセイ集 の中で、 関西弁 の 「知らんけど」 という、何かわけありげに言った後にくっつける言い回しに言及していらっしゃったのが、ボクには一番面白かったんですね。こういうのが、面白い人には面白いと思うのですがと勧めたところ、うちの 同居人 は
眠くなる! と言って放り出してました。
「おかーちゃん、横尾さんって、さん付けやったけど、あんまり、ええようには言わんかったなあ。」 というのが 同居人 の記憶ですが、 高校時代 に 「郵便友の会」 とかに熱中している 男子同級生 に、いい思い出を持つ 女子高生 は少ないでしょうね。 知らんけど(笑) 。
追記
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