全30件 (30件中 1-30件目)
1
紅葉が終わると、里山の風景も一変します。冬の準備のために落葉が始まり、木々の生活もシンプルになってくるようです。 登山道は落葉のじゅうたんとなり、それらはやがて木々の栄養分へと変化します。柔らかな土は、毎年の落葉があるからなのかもしれません。 余分なものを落とすことによって、寒い冬の雪から身を守ったり、最小限のエネルギーで厳しい冬を過ごすのかもしれません。 私たち人間も同じように、成長期にはどんどんプラスしてもいいのですが、変化の時期や再生の時期には、余分なものを整理することが必要なのではないでしょうか。シンプルに生きることによって、本当に大切なことは何なのか、原点に返ることが出来ます。 葉の落ちた木々を見ると、私にはじっと瞑想しているように思えるのです。静かな時間は目に見える急激な成長はないかもしれませんが、それがやがて春先の再生のエネルギーになるのかもしれません。 冬を越え再生したものだけが、新緑の季節を迎えるから、あのエネルギーが出てくるのではないでしょうか。温室育ちは冬の寒さに対応出来ないため、枯れてゆくのは自然の姿です。 発想を変え、思い切って冬山に出かけてみるのいいものです。夏山とはがらりと姿を変え、寒く厳しいのですが、そこには冬にしか味わえない感動があります。 今日は茨城県つくばで用事があり、ついでに午後3時近くから筑波山に登ってきました。夕日を見たいと思ったからです。運良く、遠く、しかも大きくはっきりと、富士山を見ることが出来ました。暗い中、ライトをつけて下山でした。失敗したときは思いっ切り反省してやり直せばいい
2008年11月30日
コメント(0)
いくら悔やんでも、過去に戻ることは出来ません。だから人生って面白いのかもしれません。 良いことだったらいいのですが、もしも嫌なことがいつまでも続くようであれば、人生は苦痛に満ちています。しかし実際には、自分にとって良い事も悪いことも、いつまでも同じ状況は続きません。だからいいのではないでしょうか。 期限も同じです。期限があるからその期限までにやらざるを得なかったり、判断せざるを得なかったりします。するとそこでひと区切り出来、ひとつの結果が出てきます。いつまでも結果が出なかったら、あれもこれもと頭の中もパンクしてしまうのではないでしょうか。 期限を上手に利用することによって、頭の中も整理出来ます。その期限までに、やれることをやればいいのです。計画が多過ぎると、計画倒れで終わってしまい、無計画で始まれば、結果もそのような結果を招きます。 人間にとって最大の期限は死です。しかもそれがいつ訪れるか分かりません。一日生き延びたと表現することも出来ますが、違う言い方をすれば、毎日が死に一歩近づいているとも表現出来ます。 物事を頼むとき、忙しい人に頼めという鉄則があります。暇な人ほど仕事も遅く判断力も鈍いから、人に頼られることもなく、暇なのかもしれません。そのとき出来ることを先延ばしにせず、丁寧に生きている人は、結果を出すのも早いから、仕事も上手にこなすのかもしれません。 血液の循環も然りです。運動不足の人は血液の循環が悪く、手足や頭まで血液がスムーズに流れず、何らかの問題が生じてくるようになるのではないでしょうか。流れが悪いと栄養分を送るスピードも遅く、体に良くないものを排出することが出来ず、疾病の原因になるようです。 過去に執着する生き方も、流れが悪い生き方なのではないでしょうか。私たちは今日出来ることを、その人なりにやることしかありません。無理して背伸びすれば、そのような結果が出てきます。 さあ今日も、個展に向けて花器づくりです。行動すれば形がはっきりとしてきます。人生、結果が分からないから、楽しいのではないでしょうか。楽しみながらつくったものにはあたたかさや明るいエネルギーが入っている背のびせず誠実に生きていると天が応援してくれる
2008年11月29日
コメント(2)

高い山の11月は既に雪山です。山に登りたいのですが、来年1月に個展を控えていますので、そのための制作に追われています。 夏山も危険がいっぱいなのですが、冬山は更に厳しく、ちょっとした判断ミスが死を招きます。登山の場合は、人間の都合を中心にすることは出来ません。私たち人間が、自然に合わせて対応しなければなりません。 危険な場所を通過するとき、その場所に応じて方法を変え、安全策をとらないと、転落につながります。ちょっとした氣の緩みや判断ミスは通用しません。人間が相手のときは言い訳することも出来ます。しかし山には通用しませんので、知らずのうちに慎重さが身についてくるのかもしれません。 厳しい自然の中で生活していると、人間のわがままは通用しません。そして常に正しい状況判断が要求されますので、観察力も身についてくるようです。 一方、人工的な場所で生活していると、あらかじめ危険の少ないようある程度整備されていますので、何となく暮らしていても直ぐに死に直結するようなことは少ないのかもしれません。だから感覚的動物的な能力も次第に退化していっているのではないでしょうか。 人工的な場所でばかり生活していると、人間にとって都合のいいように自然を変えていますので、それが現代人特有の自分勝手につながっているのかもしれません。蛇口をひねれば水が出てくる生活はとても便利ですが、もし電気が止まったら、成す術がないのは多くの現代人ではないでしょうか。 厳しい自然が相手のときは、私達が自然に合わせますので、適応力も身についてきます。体力が衰えてくると事故につながりますので、そのための準備も必要となってきます。自分中心の生き方は、自然には通用しません。 厳しい環境の中で育った人間は、少しのことではへこたれません。いつも何らかの方法を探していますので、そのためのスイッチが入っているから、活き活きしているのかもしれません。 条件が整っているうちは、温室育ちでも生きていけますが、厳しい時代になると淘汰されるのかもしれません。政治の世界も同様です。厳しさは人間を育ててくれるようです。2週間前くらいから準備を始め、やっと制作に入ったところです。数日かけて、もっと高く、少しずつ積み上げていきます。焼き上がるとブルーの作品になります。
2008年11月28日
コメント(0)
初めてのことをやるときは、何も分かりませんので、全神経を使いとても集中します。慣れてくるに従って、大体のことが分かってくるようになると、うっかりすると大事な基本のことまで忘れてしまうことがあります。 「あいうえお こどものように 自由にたのしく かいてみる」という短文を以前つくりました。年中、筆を手にしている訳ではありませんので、知らずのうちに初心を忘れてしまうことがあります。 そのようなとき大きな文字で、「あいうえお」と書いてみると、初めて文字を書き始めた頃の記憶がよみがえってきます。その氣持ちを大切にして文字を書いてみると、素直な子供のような氣持ちになって書くことが出来ます。 私たちは毎日少しずつ変化していますので、本人が知らないだけで、マンネリとなって手抜きをしたり、つい大雑把な方法で仕事を進めがちです。人間関係でも同じようなことがあるのではないでしょうか。 感動のない生活も同じなのかもしれません。毎日同じことを繰り返していると、新鮮味もなくなってきますので、緊張感も薄れてくるのではないでしょうか。 そのような意味では、初めてのことや新しいことにチャレンジすることを常に心がけることによって、ハッとする感動を味わえるのではないでしょうか。何もしないからマンネリになっていくのですから、それなりに行動すれば、新鮮に生きることも可能なのではないでしょうか。 本人の心がけ次第で、出会う人物も出来事も変わってくるようです。心に柔軟性がなくなってくると、好奇心も薄れ行動することも億劫になってくるようです。物事を前向きに解釈することが出来ず、閉鎖的になり、ますます自分中心の生き方に偏ってくるのではないでしょうか。 子供の頃のように、初心者は知らないことを素直に人に聞くことが出来ます。失敗をそれほど恐れることなく、それ以上にチャレンジ精神があるのではないでしょうか。初々しかった頃を思い出し、久し振りに体験してはどうでしょうか。 何でもいいですから、失敗を恐れず、新しいことにチャレンジしてみることです。いつ何があるか分かりません。出来るときに、やることが基本です。後ではありません。あるのは後悔と、人生の終わりが待っているだけではないでしょうか。億劫(おっくう)は老化の始まり試行錯誤で工夫することが頭にも体にもいいようだ何がチャンスになるか分からない可能性があるのだからひとつのことにこだわらず楽しめばいいあたらしい体験を重ねていけば人間は変われる
2008年11月27日
コメント(0)
急に起きているように思えますが、どんなことにでも原因があるようです。偶然、起きているように思えるので、自分には関係ないと考える人は多いのではないでしょうか。 ほとんどの出来事は、何らかの形で直接関係しているものもあれば、ひとつのメッセージとして出会っていることもあるようです。ボーッと暮らしていた頃は氣付きませんでしたが、真理につながるアンテナを張って生きるようになってから、無駄なことはなくなってきました。 いろいろなチャンスが毎日のように来ているのですが、氣付かない人にとってはその小さな動きを見逃して暮らしているから、いつまでたってもチャンスがやって来ないと思っているのかもしれません。 本人の生き方によって、見える世界も聞こえてくる音や声も違ってきます。出来事の解釈の仕方も、結果だけを見て右往左往する人もいる一方、出来事の意味を考え、即行動する人もいます。 あまり好きな言葉ではありませんが、自業自得という言葉があります。自分でまいた種は自分で刈りとるという言葉もあります。自己責任と表現する場合もあります。 他人に対してこれらの言葉を使うと厳しい言葉になりますが、自分に対しては殆どの場合、当てはまるのではないでしょうか。他人や周りのせいにしない生き方です。謙虚な生き方とも言えます。 文句や批判は、自分のことを抜きにして考えているから出てくるのかもしれません。自分にも責任があると思っていれば、簡単に相手を責めることは出来ません。相手を変え自分は変えない生き方は、年齢には関係なく、成長が停止した幼い生き方とも言えます。 結果には原因があるのですから、原因を変えることによって自ずから結果も変化してきます。私たちは出来事を通して改めることを知り、自分を変えることが生きることなのかもしれません。どんな出来事にも何らかの原因がある
2008年11月26日
コメント(2)
いちばん厄介なのは、自分の心なのかもしれません。出来事によって心配したり、イライラしたり、喜んでみたりと、かつての私は目先の現象に左右されて生活していました。 そして、いつ頃からか目先の現象だけで判断することはなく、少しずつ精神的に安定してきたようです。偶然が重なったのかもしれませんが、私の場合は約20年の結婚生活にピリオドを打ち、離婚してから大きく変化してきたようです。 生き方が大きく変わってきました。それまで仕事中心にずっと生きてきたのですが、自分の健康にも配慮するようになってきました。ウォーキングをするようになってからは更に行動的になり、山登り等で楽しむ時間をつくるようにもなりました。 行動的になると、物事の考え方も前向きになっていくようです。よく考えてみれば、離婚が原因のように思っていたのですが、実際には体力の衰えが知らず知らずのうちに消極的な生き方になっていたのかもしれません。 体力が衰えてくると、精神的にも余裕がなくなり、前向きに物事を考えることが難しくなってくるようです。しかし行動を起こし、少しずつでも運動することによって、徐々にですが生き方にも変化が現われてくるのではないでしょうか。 自分を限定していれば、目の前にチャンスがあったとしても、そのことに氣付くことはありません。しかし可能性に結びつけて行動する人にとっては、すべてのことがチャンスにつながるようです。 先ほど、寝床でブログの原稿を書いていたら、突然、来客がありました。ホテルで私の文章を読み、興味があったので出向いてきたとのことでした。突然どのような展開になるか分かりません。同行者は「さかなクン」のプロデュースをしている方でした。もしかすると、また新しい出会いに展開するかもしれません。 ちょうどいいときに出会うようです。最近墨書した、まだ制作途中の作品をお見せしましたら、これは絵を入れず文だけの方がいいとのことを教えてくれました。何氣ないアドバイスでしたが、新しい出発につながるような氣がします。出会いに感謝です。
2008年11月25日
コメント(1)
余裕があるときなら何の問題もないのですが、ギリギリのとき試されることが多いのではないでしょうか。単なる思いなのか、それとも本当に思っているのかが実際の場面で試されるようです。 私の場合、ある真理に氣付いたとき、案外すぐに実際にどうするか直面することが度々あります。京都の山中で1週間にわたる行を終えたときもそうでした。 「自分にとって不都合なことを受け入れる」ことに氣付いたときでした。山中で急な山道を下るとき、細い道で対向車に遭い、相手がバックしなかったため私の車がバックをして、車の後部を電柱にぶつけてしまったのです。 そのとき私は相手のせいにすることなく、これが実践の第1回目の出来事だと察知し、自分にとって不都合なことを受け入れ、その記念としてしばらくの間、車を修理せず乗っていたことがあります。車のキズを見る度に、「不都合なことを受け入れる」ことを思い出し、実践してきました。 最初は意識しながらの実践でしたが、数を重ねていくと身に付いてくるものです。現在ではお陰さまで特別な抵抗もなく、私の中ではごく自然なことのようになってきました。 個展前の制作に追われている時期も、何故か来客が多かったり、マッサージの仕事が特に多かったりするようです。自分の都合を中心に考えれば断ることも出来るのですが、現在の私は一期一会を基本として生きていますので、ほとんどの場合、断ることはありません。 そのときやれることをやっていれば、何とかなるように出来ているからです。どんな出会いも全てがチャンスと捉えるようになると、全てが好しと思えるようになってきました。 自分の都合を中心に生きていたとき、悩みも多かったようです。物事の解釈が常に自分にとって良いか悪いかだけの目先の判断で生きていた頃です。でも最近は必要なことが出来事として起きていると考えていますので、逃げたり拒否したりすることもなくなってきました。 流れに任せて生きるようになってくると、肩の力も抜け、一方的に自分の意見を押し付けることもなくなってきました。それぞれに生き方があるのですから、何とかしようと思わず、やれることをやっていれば時間はかかっても変化していくのではないでしょうか。 人を変えることは難しいことですが、自分を変えると、周りも変わってくるようです。ほとんどの場合、問題の最大の原因は自分だからです。人生は本人の考え方次第でどのようにでもなっていくのかもしれません。
2008年11月24日
コメント(0)

理、つまり道理に反した生き方を無理といいます。宇宙の道理に反すれば、当然うまくいきません。道理を知らないことを無智とも言います。 病気や失敗も、理に反したひとつの結果なのかもしれません。それらの体験を通して間違いに氣付き、少しずつ修正されていくのかもしれません。 結果が出ているにもかかわらず無視して生きていれば、本来の生命よりずっと早く死を招くのではないでしょうか。あるいは生きていても、苦痛の伴う不自然な生き方を強制されるような氣がします。 私たちはうまくいっているとき、反省することはありません。しかし痛い思いをしたとき、それまでの生き方を客観的に見ることが出来るのかもしれません。謙虚に反省することが出来る人は、痛い思いがきっかけとなって、それまでの生き方を変えるよう努力します。 何度も同じ失敗を繰り返す人は、学びのない人生を自ら選んでいるのではないでしょうか。反対に体験を通して学ぶことが出来る人は、失敗が学びのチャンスとなります。そのような意味では失敗を恐れることもありません。 失敗を恐れ、行動しない人はチャンスの機会を最初から放棄していますので、当然学びもありません。学びのない人生は、同じ失敗を繰り返している生き方と同等なのかもしれません。心の成長がとまったままの人生とも言えます。 昨夜は急きょマッサージの仕事が入り、5人施術しました。帰宅したのは24時過ぎでした。でもお陰さまで、腰の調子も回復してきました。 今までだったら、痛みがとれればそれでストレッチ体操等もやめていたのですが、今回は同じ失敗を繰り返さないよう、出来るだけ継続して、出来るなら根本的に腰を改善出来ればと考えています。栃木県那須あたらしい空氣をとり入れるとあたらしい発想が出てきます
2008年11月23日
コメント(0)

ほとんどの講演会では圧倒的に女性の参加者が多いです。平日の場合は仕事があって、男性は参加出来ないのかと思っていたのですが、実は女性の方が、他を受け入れることが得意なのかもしれません。 女性は人の意見を聞こうとする協調性がありますが、男性の多くは仕事柄、対立的に物事を考える癖が知らずのうちについてしまうのかもしれません。 現代のように変化の激しい時代は、固定観念の強い人は生きるのが益々難しくなってくるでしょう。融通性のない人も時代の変化についていけず、辛さや苦しみが多くなり、病気になったり死を選ぶ人も多くなってくるかもしれません。 ではどのような人たちが変化に対応出来るのでしょうか。拘り(こだわり)もいいかもしれませんが、いつまでも過去に拘っていると、自分は変わっていなくても時代の方がどんどん変化していきますので、生き難い世の中になっていくでしょう。 ほとんどの悩みは過去か未来に関するものです。過去の失敗がこれからも続くであろうと不安になったり、益々ひどくなっていくだろうと未来を心配しているときです。 悩んでいる人には共通点があります。情報収集する割には、行動が伴っていないのではないでしょうか。頭の中で解決しようとするタイプの人たちです。実際には行動してみないことには本当のことは分からないのですが、自分の少ない経験の中で判断していきますので、行き詰まってしまうようです。 でも考え方によっては行き詰まりがあるからこそ、そこで過去を手放したり、新しいことにチャレンジするのかもしれません。古い自分から脱皮することにより、新しく生きることが出来るのではないでしょうか。 性格だから変わらないと言う人もいます。本当にそうなのでしょうか。実は自分を変えたくないというのが本音なのかもしれません。そのような人たちは、始める前から物事を否定的に捉える癖が強いのかもしれません。 自分を変えるには、とてもいい時代と思います。頭を柔らかくすれば、結果も直ぐに出てきますので面白い時代ともいえます。生きているうちにどれだけ変わることが出来るか、それが成長なのかもしれません。いろいろあるからこそ、勉強になるのです。栃木県那須、朝日岳近くからの風景
2008年11月22日
コメント(0)

講演会をいろいろなところで開いているのですが、実際には当日になってみないと、どのような方々が参加されるか分かりません。参加予定の人が急に都合が悪くなり、来なくなる人がいる一方、たまたま誘われて来場する方々もいます。 縁がありそうで、ない人もいれば、反対に縁がなさそうで縁がある人もいます。どちらの場合も、それがいいのではないでしょうか。ちょうどいい時に出会うように出来ているようです。 昨日の講演でお世話になったお店のオーナーが、昨年初めてお会いしたとき、もっと早く会っていればいい旨を私に伝えました。その数年前からお会いしようとしていたのですが、何度か私が出向いて行ったとき、たまたまお店が休みだったりして、縁がないのかと私は思っていました。 そして昨年初めてお会いしたとき、お互いにとっていちばん良かったと、私は解釈しています。もし仮に3年前にお会いしていても、それぞれの準備が出来ていなかったならば、それほどの影響はなかったのではないでしょうか。昨年出会ったのがちょうど良かったのです。 今回の講演では、思いがけない方が遠方から来場して下さいました。まさかその方が来るとは思っていませんでしたので、とても嬉しかったです。私のような粗末な人間の話を、わざわざ遠くから来てくれたことに感謝です。でも、今回のような出会いがあるからこそ、そのような方々からエネルギーをもらっているのかもしれません。 ハプニングがあるから、人生は変化に富んでいるのではないでしょうか。予定していないことが起こるから不安になるのではなく、それは自分が一方的に思い込んでいるだけなのかもしれません。神様は私たちに、ちょうどいい時に、ちょうどいい体験を与えてくれているようです。だから、何があってもいいのです。 悩むタイプの人たちは、何でこのようなことになったのかと原因を探します。私もかつてそうでした。でも最近の私は悩むのではなく、実際に何をしたらいいかを前向きに考え、行動するようになってきました。原因をいくら追求しても、行動がないところに状況の変化はありません。 思考も大切ですが、それ以上に行動することは更に重要なのではないでしょうか。行動が人間を変え、更に状況も変えていくようです。知っているだけでは本人が分かったつもりになっているだけで、実際には行動してみないと、本当のことは分かりません。 生きている間に、どれだけ深い体験を数多くすることが出来るかによって、人生の質も決まってくるのかもしれません。弱者の立場になってみて初めて、その痛みも分かり、人間の温かさを知ることも出来るのではないでしょうか。出会いには人間を変える力があるようです。仕事場が狭いので、食堂にて、彩色している私です。良いことも悪いこともちょうどいい時に出会っている生きてさえいればどんなことがあっても最終的にはうまくいく
2008年11月21日
コメント(1)

やるべきことが重なってくると、つい目の前のことだけに心を奪われてしまいがちです。そして次第に余裕がなくなり、懸命にやっている割には効率的に進めることが出来ないのではないでしょうか。 よく考えてみれば、仕方なくやっている場合は、そのこと自体が楽しくありません。そして早く済ませようと投げやりになると、更に予期しない出来事を招くようです。 ちょっと距離を置いて自分の姿を見てみると、そんなに焦っても何にもならないことが分かってきます。もし時間がないのであれば、あれもこれもやろうとするのではなく、その時間内で出来ることを丁寧にやることが基本なのかもしれません。 少し心に余裕が出てくると考え方も変わり、苦しみを見つめるばかりではなく、どんな状況の中でも小さな楽しみを見つけることが出来るのではないでしょうか。 何事でもそうですが、本人の心がけ次第によって、どのようにでも解釈出来るのではないでしょうか。昨夕も父の入院している病院に洗濯物を取りに行ったら、父の食事のためのパイプ(胃瘻)が外れていて、衣服に流動食が流れ出ていました。 看護師さんが綺麗な服に交換する間、最初は待っていようと思ったのですが、ちょうど運動をしていませんでしたので、病院の周りを20分ほど散歩することが出来ました。ただ待っているのではなく、時間の有効活用でした。 楽しみがないのではなく、楽しみは自分で見つけることが基本です。探す氣になれば、見つかるものです。自分で探さず、楽しみは人が与えてくれるものと勘違いしているから、ただただ慌ただしい毎日が過ぎていくのではないでしょうか。 子供の頃は自分で工夫して遊びをつくっていました。しかし年齢を重ねるに従って仕事中心の生活になってくると、知らずのうちに遊び心を忘れている大人が多いのではないでしょうか。 今日はこれから少人数を前にしての講演です。人数が多いばかりがいいのではなく、腹を据えて各人に焦点を合わせ、ゆっくり話すことが出来ると思います。どのような方々と出会えるか、とても楽しみです。生きてさえいればどんなことがあっても最終的には乗り越えられるから大丈夫
2008年11月20日
コメント(0)

3ヶ月前位から、給湯器の安全弁から水が漏れ出し、次第に水の出が多くなり氣になっていました。この1週間前からやっと重い腰を上げ、修理をしていました。経済的に少しでも出費を抑えようと、自分で部品を取り寄せ新しいものと交換してみましたが、一向に水漏れが止まらずガッカリしていました。 仕方なくメーカーに電話して聞いてみたところ、減圧弁の故障ではないかと教えてくれましたので、いつもお世話になっている地元の業者さんに修理を依頼したところ、2日で直ってしまいました。さすがに本職です。 今回、自分で出来ることは、やるだけやっての依頼でしたので、いろいろと勉強になりました。もし経済的に余裕があれば最初から業者に依頼するでしょうから、ボイラーの構造にも関心なく、原因を追求することもなく済んだでしょう。次回のトラブルのときには方法も分かりますので、役立つと思います。毎回、快く来てくれる業者さんに感謝です。 普段から何事にも工夫している習慣は、新しいことを手がけるとき、とても役に立ちます。特に人のやらないことをやるとき、聞く人もいませんので、自分で考える癖が必要になります。これからは工夫の時代かもしれません。 予定表はほとんどが空白なのですが、現実には色々な出来事が起きてきます。約ひと月前には合併浄化槽のブロアーの故障がありました。生きていると、よくもまあこんなにも変化に富んでいるのでしょうか。心配するのではなく、逆にいろいろな体験が出来るのですから、これを機会に楽しめばいいのでしょう。 バタバタしなければそれなりに解決していくようです。これから12月いっぱいは来年1月の個展に向けて集中です。昨日は8ヶ月振りの粘土づくりでした。長年やってきたものは、始まると直ぐに勘が戻るから不思議です。初めての大作、仕上がり寸法120cm×270cmの作品が、何とか仕上がりました。やるだけやったら天におまかせ
2008年11月19日
コメント(1)

いろいろな腰痛体操がありますが、実際に自分の体をよく観察しながらやってみると、どの辺がおかしいのかが分かってくるようです。闇雲になっても長続きしないので、要所を押さえながら続けていこうと思います。 私の場合、骨盤が相当狂っているようです。そのためO脚ですので、靴底の減り方も外側に集中するようです。右足の靴下が歩いていると、ねじれてきますので、一定方向に無理な力が働いていることが分かります。 ただ痛いところを早く治そうとするのではなく、まず自分の体の癖をよく観察すること、そして特に大切なことは、長続きさせることが明暗を分けるのかもしれません。 何となく治ってしまう位だったから、本氣になって治そうとは思わなかったのかもしれません。何でもそうかもしれませんが、本人がその氣にならないと、大きな変化は望めないようです。 筋力を保つために歩くこと、そして骨格の正常を維持するための矯正体操、更に柔軟に生きるためにも、心と体をほぐすことなどを実践していきたいと思います。からだのカタイ人間が、どこまで柔らかくなっていくか実験です。このように公表することも、続けるひとつの方法ではないでしょうか。 体や心の癖は積もり積もってある程度の結果が出てから、本人も氣付くようです。何となく過ぎてしまえば、それほど真剣になって考えたり行動することはないのかもしれません。そのような意味では氣付いた時こそ、生きる方向を変えるチャンスになるのではないでしょうか。 結果には、それぞれその原因がありますので、根本的なところから取り組めば、結果もおのずから変化してくるのではないでしょうか。 腰痛対策の情報はたくさん持っているのですが、現実には実践していない私がいることに、今回改めて氣付かされました。何もしなければ、情報も何の役にも立たないことのようです。深く反省です。栃木県日光・女峰山。何度か登っていますが、最近やっと、短時間で行けるルートを知りました。現象は急になった訳ではなく積もり積もってその結果が出ているだけ
2008年11月18日
コメント(0)

行き詰まってくると、新しいことに取り組まざるを得ない状況になってきます。モノづくりをしていると、時々体験させられます。同じことをしていて、それで通用するならいいのですが、現実には変化のスピードが以前よりずっと早くなっているのではないでしょうか。 ひとつのことにいつまでも囚われていると、なかなか新しい発想で物事を考えることが出来ません。普段から視点を変える練習をしていれば、自分の方から見るばかりでなく、相手の立場で見たらどうなるのかという、別の立場でも見ることが出来るのではないでしょうか。自分中心の生き方は、これから益々生き難くなってくるでしょう。 以前のサラリーマンそして街の商店等は、みんなと同じことを毎日続けていても、それで生活が出来ました。しかし現在ではただ言われたことを繰り返すのであれば、特に人件費の高い人間を使わなくてもロボットを使ってもいいし、国内で生産する必要性もなくなってきました。 厳しいかもしれませんが、創造性のある企業や商店、そして人材が今まで以上に求められる時代になってきたようです。あぐらをかいている企業は、これからどんどん倒産する可能性があります。 陶芸家も、今まではモノを作れば売れた時代がありました。しかし現在ではモノを作っても売れない時代になってきました。工夫や創造性のない人たちは辞めざるを得ない状況になっていくと思われます。景気の問題ではなく、時代が大きく変化しているからではないでしょうか。 あれだけたくさんあったガソリンスタンドも、相当数のお店が閉鎖されていますが、それで不自由になったかといえば、現在の数でも十分に間に合っている現実があります。 楽ばかりしていると、いつの間にかチャレンジしようとする柔軟性のある心がなくなってしまうのかもしれません。大変な時代になってきたと思うのではなく、根本的に生き方を変えるには、とてもいい時代なのではないでしょうか。 探していれば見つかるものです。それには先ず、心をリラックスすることから始めてはどうでしょうか。バタバタしているところに、いい発想は生まれてきません。福島県桧枝岐村、会津駒ケ岳。右側遠くに見える高い山は尾瀬の燧ヶ岳です。
2008年11月17日
コメント(1)

少しでも自分を良く見せようと、無理をして生きている人は多いのではないでしょうか。だから失敗や内面では氣にしていることであっても、それを口しないことが多いような氣がします。 離婚にしても、何らかの事情によりその結果として離婚に至った訳ですが、失敗と解釈することが多く、恥ずかしいから出来るだけ口にしません。親子関係で問題があっても、出来るだけ避けて通っている人もいます。 問題を解決しようと躍起になっても解決する訳ではありませんが、避けて通っているだけでは、いずれその問題が大きくなり表面化してくるのではないでしょうか。 一見何もなさそうに見えても、何の問題もない人はいないのではないでしょうか。たまたま順調にいっているときもありますが、それぞれの人生の中では、山あり谷ありが人間として自然な姿なのかもしれません。向上するために生まれてきたのですから。 知的障害の施設に非常勤で働いていたときがあります。その中に、幼少の頃から自宅でなく親の元を離れ、施設で育ってきた青年がいました。問題行動が多かったため、体罰の中で育ったのかもしれません。そして私の勤めていた施設に移ってからも、暴力が絶えませんでした。 女子職員を殴って眼鏡を壊したり、利用者への暴力も度々でした。もしかすると彼は愛情に恵まれず、育ったことに原因があるのではと思いました。本氣で彼のことを叱ってくれる人がいなかったのではないかと思い、暴力行動の後、私はひとつの行動に出ました。 良くないことは分かっていましたが、暴力がどのようなものか、体で覚えさせることを選択しました。山の上へ彼を連れて行き、私が自分の足で彼の足を何度も何度も蹴りました。もしかすると彼の足が駄目になってしまうかもしれないとの、ぎりぎりの行為でした。もちろん私の足も同じです。 それから少しずつ彼の行動に変化が現れ、職員にも甘えるようになってきました。彼がいちばん欲しかったのは、うわべでない心からの愛情だったのかもしれません。 一見すると彼に問題があるように思えますが、実は職員の方に問題があったから、暴力が絶えなかったのかもしれません。通り一遍では本当のことが伝わらないのではないでしょうか。人間として生まれてきたのはどこかでは辛い体験を通して新しい自分になることかも※縁のある方が、身内での傷害事件に遭いました。これには何か深い原因があるのかもしれません。物質的に恵まれていても、愛情のない環境で育っている人たちも現実には多いような氣がします。
2008年11月16日
コメント(0)

群馬県の、あるお店の宴会場の壁面用にと、大きな詩画作品(120cm×270cm)の依頼がありました。大きな和紙を4枚並べて書く、初めての試みです。 茨城県立つくば養護学校のときも、初めての大きな陶壁(1m×6m)作りでした。そのとき私に出来る知恵と技術を総動員しての制作でした。あのときも、やり直しの利かない一発勝負でした。 小さな作品だったらいくつか作り、その中から選ぶという方法もあります。しかし作品が大きい場合、時間に制約もありますので、簡単にいくつも同じような作品を作るのは難しいのです。 本の題字を書くときもそうなのですが、やはり最初に真剣に書いたものがいいようです。たとえ少しバランスが崩れていても、一発勝負の不思議な力が出てくるのかもしれません。2回目以降は1回目の駄目なところを訂正しようと、頭が働き意識過剰になり、勢いがなくなってしまうのかもしれません。無心で書ければいいようです。 やり直しが出来ると思って書いた文字には、心の準備がないため、表面的な文字の配列で終わってしまうのかもしれません。そのとき1回のチャンスと思ってやることは、何事にも通ずるのではないでしょうか。 上手に書こう、上手に話そうとすること自体が問題なのかもしれません。比較の世界はどこまでいっても比較の世界だからです。上手下手を超えたところに感動や味わいがあるのではないでしょうか。背伸びしても、内面が見えてくるものです。 講演のときも、実際には話の内容だけでなく、話し手の生きる姿勢がより多くの情報として伝わっていくと聞いたことがあります。話し方や内容も大切ですが、それ以上に体全体から出てくるエネルギーが影響を与えるのかもしれません。 私たちは何となく、明日も今日のように生きていると思っていますが、実際には何が起こるか分かりません。私たちに出来ることは、今日を丁寧に生きることではないでしょうか。ちなみに心配は何にもなりません。一期一会もしもあと数時間の命だったら何を残しますかもしも一枚の紙しかなかったら何を書き残しますか明日もあるような氣がしますが明日のことはわかりません今日を丁寧に感謝しながら生きたい
2008年11月15日
コメント(1)

ウォーキングの途中で、ストレッチ体操や腰痛体操を取り入れていたら、ふと思いました。これは運動ばかりでなく、陶芸で作品を作るときも同じであることに氣付きました。 もし白黒の世界であっても、濃淡があれば変化に富んできます。料理でもそうですが、隠し味があることによって味に深みが出てきます。陶芸でも微妙な色を組み合わせることによって、何とも言えない世界が表現されてきます。 シンプルはとても大切なことですが、単調だと長く使っていると飽きてしまいます。かといって複雑過ぎるのも何が中心か分かりませんので、毎日使っていると疲れるものです。程よく組み合わせることが、長続きするコツなのかもしれません。 普段からすべてのことに工夫する習慣があれば、同じ運動をするにしても、メニューに変化を持たせるのかもしれません。ただ単に筋力をつけるために歩いていたから、長続きすることが難しかったのかもしれません。途中、違う体操を取り入れることによって立ち止まるため、周りの景色を見る余裕も出てきます。 ただ一生懸命でなく、心に余裕が生まれてくれば、同時に新しい発想も出てくるのではないでしょうか。昨夕のウォーキングでは、夕日の微妙な空の色が綺麗でした。そして、山から出てきた大きな丸い月を見ることも出来ました。 ウォーキングを始めた最初の動機は、腹周りが太ってきたことにありました。そして筋力が付いてきたら、山登りへと変化してきました。更に再度の腰痛にて、からだ全体への配慮へと興味が移ってきました。これも飽きっぽいけれど、あきらめない私だからこその、工夫なのかもしれません。 生き方も変化を避けるのではなく、上手に取り入れることによって、新しい体験をすることが出来るのではないでしょうか。やる氣になれば、お金をかけなくても運動が出来ることに感謝です。変形した腰がどのように変化するか楽しみです。長野県木曾・宝剣岳。岩山で怖い山でしたが、また登ってみたい山です。自分の生き方が変わってくると見える世界も出会う人物も日々の関心も変化してくる
2008年11月14日
コメント(0)

長野県の御嶽山に行った時、久し振りに温泉でサウナに入りました。ほとんどのサウナ室内には音楽がないのですが、そこでは静かな音楽が流れていました。目を閉じてゆっくり呼吸をしていたら、音楽の大切さに氣付かされました。 流れるような音楽は集中力をつけてくれるようです。静かな時間が流れていました。マッサージの時も、音楽やわずかな香りを演出することによって、リラックスの度合いが増します。耳や鼻、そしてからだ全体の皮膚を通して、全ての感覚を使うことによって味わえるのかもしれません。 忙しい生活ばかりを続けていると、つい私たちは静かな一人の時間の大切さを忘れがちです。一人の静かな時間は内面を見つめる時間でもあります。つい目に見える表面の現象世界に影響されやすい私たちですが、目を閉じて静かな時間を持つことによって、表面世界の裏側に隠れている真理に氣付くことが出来るのではないでしょうか。 肉眼で見るだけではなく、心の眼で見ることは、更に大切と思われます。肉眼で見える世界は表面の世界ですので、時間と共にどんどん変化していきます。でもその変化の中にこそ、氣付きがあるのではないでしょうか。 移り変わりの激しい時代ですが、真理は変化していないのではないでしょうか。案外、変化を起こさせている最大の原因は人間なのかもしれません。便利にしよう便利にしよう、楽をしよう楽をしようとしているから環境も悪化し、原因不明の病気も益々増えているのかもしれません。須走口(すばしりぐち)、富士山八合目からの御来光。発想を変えて、頂上でなく、途中からでもいいのではないでしょうか。なぜ多くの人たちは頂上で見たがるのか、私には分かりません。人それぞれ、いろいろな方法があるということです。
2008年11月13日
コメント(0)

1週間振りに、昨日からやっとウォーキングを再開することが出来るようになりました。今までは、足をある程度を鍛えれば、腰も同時に正常になるかと思っていましたので、歩く以外には特別なことをしていませんでした。 昨日は歩くだけでなく、途中に何度か立ち止まり、腰のための運動も取り入れるようにしました。筋力がつけば何とかなると勘違いしていたようです。同時に骨盤を正常に戻すことも大切なことを改めて知ることが出来ました。 体操の時間を新たにとるのは面倒だと思っていたのですが、腰を正常に戻すため、寝る前にストレッチ体操や自力整体を実行してみます。 人間の体は筋力だけでなく、しなやかさや柔軟性が同時に必要なことを、今回の腰痛で知ることが出来ました。骨格を正常に戻すためには、それなりの努力をしなければ正常に戻ることはなく、そのままにしておけば益々歪みがひどくなり、今回のように強い痛みとなってくるのでしょう。 私たちはそれぞれの仕事によって体の使う部分が違ってきます。毎日同じ動作を繰り返すことによって、ある部分だけが使われ、使っていない筋肉は次第に弱っていきます。そして知らずのうちに、偏った体になっていくようです。脳も同じようです。 そのためには普段使っている方向とは逆に、体を伸ばしたりすることが必要になってきます。首筋が痛くなってくるのも、同じ個所だけを使っていて、次第に使用範囲が少なくなっていることも原因なのではないでしょうか。当然、血液の流れもよくありませんので、それが痛みとなってくるようです。 何もしなければ改善されませんが、今回の痛みを機に、腰痛ともオサラバ出来るよう再チャレンジしてみようと思います。88歳で人生の花が開くよう(遅咲き)計画していますので、そのためにも59歳で腰痛では先が思いやられます。さあこれから、どのように変化していくか楽しみです。 すべてがチャンスです。これでまた生き方が変われば、痛みにも感謝です。歩けば筋力がつくことは分かりましたが、曲がってしまった背骨がどのように変化するか実験してみます。動き出せば、情報が集まってきます。栃木県益子町、雨巻山(あままきさん、533m)山頂。家の直ぐ近く、私の運動場です。
2008年11月12日
コメント(2)

隠しているうちはよく見えませんが、本音で生きるようになると、自分の良いところも悪いところも見えてくるようです。よく言えば個性が出てくると言えますが、反対に自分の毒も出てくるのではないでしょうか。 私たちは知らないうちに、精神的肉体的に外部からいろいろと影響され、蓄積されてきます。それが体にとって良くない物質であったり、心に影響を与えるストレスだったりします。 何もせず日々暮らしていると、それらが積もり積もって、ある時、表面化するようです。よほどそれらの毒に対して心がけていないと、病気になって初めてそのことが分かるのではないでしょうか。病気にはなっていなくても、多くの人たちが未病、すなわち病気になる前の状態が多いような氣がします。 私の今回の腰の痛みも久し振りでした。この1年ウォーキングをするようになってから山登りをするようになり、腰が改善されたと思っていました。3日間歩き続けても、1日くらい腰が痛いことはあったのですが、次の日は大丈夫でしたので腰のための運動を改めてしていませんでした。 そして、知らず知らずのうちに骨盤のずれや体がかたくなってきたため、今回のように痛い思いをしたのかもしれません。ただ歩くだけでなく、これからは原点に返ってストレッチ体操もしようと思います。 更に良い機会ですので、久し振りに腰痛対策の方法も、再度、勉強し直してみようと思います。何が縁になるか分かりません。昨夜からやっと体操が出来るようになってきましたので、こつこつ始めます。栃木県那須、茶臼岳浄化格好つけず本音で生きるようになると毒が出てきてスッキリした自分になれる
2008年11月11日
コメント(0)

以前の生き方は、何とかしよう何とかしようと、出来るだけ自分の計画したように進むことを願って、懸命に働いてきました。ところが向きになるほど焦りも出てきて、努力した割には良い結果が出ないことに氣付いたのです。 最近では体力的にも無茶苦茶なことは出来ませんので、目標に沿って進めながらも、全体を見るようになってきたのかもしれません。直感や出会いを大切にするようになってきましたので、無理してまでやらなくなってきたようです。 忙しい時に限って、新たな仕事や出来事が入ってくることがあります。以前だったら私にとっては予想外のことですので、嫌々対応したりして、その意味が分かりませんでした。でも最近では目先の一生懸命やっていることを少し離れなさいとのメッセージと捉えるようになってきましたので、これも一つの縁として出来るだけ丁寧に対応するようにしています。 ガンバッテ・ガンバッテたくさんの作品を作ったからといって、作品自体にゆとりが無ければ、ただたくさん出品しただけのことで、来場者にもその心が伝わってしまうのではないでしょうか。 生活必需品を作っている訳ではありませんので、作品の中にゆとりや余裕がなかったら、単なる販売用の商品になりかねません。まず作者が安心した心で、臨機応変を楽しむことかもしれません。そこに新しい発想が生まれてくるのではないでしょうか。 講演の時も同じようなことが言えます。以前だったら計画通りに話そうとした時もあります。しかし最近ではメインの内容は話すようにしますが、後はその時の会場に合った内容を直感的に話すようになってきました。だからハプニングがあっても、それを上手に取り入れるようになってきたようです。 計画通りの人生もいいかもしれませんが、実際には予想外のことが起こるのが人生ではないでしょうか。流れに任せるとは、嫌々仕方なく任せることではなく、積極的にハプニングを楽しむ人生と言えるのかもしれません。 腰痛も一つのチャンスです。痛みが分かれば、解決法も本氣で探すようになります。何がきっかけになるか分かりません。※昨日は、地元、綱神社(重要文化財)の秋祭りでした。来年は当番組ですので、注連縄(しめなわ)等の準備をします。拝殿前での酒盛りがとても賑やかで、これが本来の氏神さまとの関係なのかもしれません。
2008年11月10日
コメント(1)

本の題名はとても大切です。図書館や本屋さんで初めての本に出会った時、氣になった書名や表紙のデザインによって、その本を手にするかどうかが決まります。 中身も大切ですが、最初は外観によって縁が出来るかどうかの分かれ道になるのかもしれません。そして目次、更にあとがきを確認することによって、その本が自分にとって関心のあるものかどうかが分かるのではないでしょうか。 2000年、友人の出資によって1冊目の詩画集『あるがままに』が出版されました。そのとき初めて編集者の力量を感じさせていただきました。まだ表面に出ていない作者の可能性を刺激し、新しい作品へと結びつけてくれたのです。単に数ある作品の中から作品を厳選するだけでなく、客観的な目で読者と作者を結びつけてくれました。 編集者やデザイナーの感性によって、同じ作品であっても全然違ったものとなってくるようです。出会いによってお互いが刺激され、より完成度の高いものになっていくのかもしれません。 焼き物の制作にあたっても同じことが言えます。私の場合、食に関する関心が薄かったため、食器を作ることは苦手でした。でも単なる飾りものでない花器には特に関心があり、ある個展の時にお花の先生との出会いがありました。 お陰さまでその出会いにより、花器づくりへの関心は益々広がっていきました。出会いによって育てられたとも言えます。単に器に花を活けるのではなく、器の魅力を引き出すその活け方には、いつも感心させられています。 一人では大したことが出来なくても、お互いにチームワークを組むことによって、それぞれの魅力が発揮されてくるようです。そのような意味でも、出会いはたくさんの可能性を秘めています。 お互いにとって、ちょうどいいときに出会っているようです。一見するとたまたまのように思えるかもしれませんが、実は必要だから出会っているのではないでしょうか。もしかすると、新しい本の出版になるかもしれません。谷川岳にておかげさまで今日も一日大丈夫でしたいつも護っていただき有難うございます
2008年11月09日
コメント(2)
焼き物作りで、以前制作が出来なくなった時があります。新しい作品を作ろうと、文様のデザインを変えたり形を変えたり色を変えたりして、新しい作品を作っていた氣分になっていたことがあります。 しかし、本当の意味で新しいものは生まれてきませんでした。ただ見える世界を変えただけの、小手先を変えていたことに氣付いたのです。 私の生き方が変わらなければ、作品も変わらないことに氣付いたのです。それから1年余り、作品を作ることが出来なくなりました。そして試行錯誤の末、手びねりという方法を着手するようになり、作品も変化してきました。 私たちは自分の生き方が変わると、見える世界も変わってきます。それまで足元にあっても氣付かなかったことが、氣付くようになってきます。要は自分の目が曇っていたから、見えなかっただけなのかもしれません。 生き方が変わると、物事の関心も変わってきます。関心が変わってくると、話題も変化してきます。同じ出来事であっても、その人の解釈の仕方によって全然意味が違ってくるようです。 最近の私は、何があっても無駄なことはなくなってきました。その時その時、私にとっていちばん必要なことが出来事として起きていることに氣付いてから、現実を受け入れるようになったのかもしれません。 嫌々受け入れているところに、新しいアイデアは生まれてきませんが、前向きに明るく解釈するようになると、臨機応変も次第に身に付いてくるようです。 現在、どの地方都市でも同じかもしれませんが、多くの経営者たちは、どのようにしたら元氣な街づくりが出来るか、模索しているのではないでしょうか。小手先では何も変わることはないのかもしれません。いちばん期待出来る方法は、まず自分の生き方を、根本的なところから変えてみることではないでしょうか。 周りや人に期待することをやめ、まず自分から可能性に向かって行動していくことではないでしょうか。新しく生まれ変わるためには、暗中模索も当然経験しなければならないと思います。 本氣になって探せば、答は見つかるものです。今こそ、目に見える上にする成長することばかり考えることをやめ、根を深くする時期なのかもしれません。根っ子が地中深く育てば、やがて地上の部分も変化が現われてくるのではないでしょうか。
2008年11月08日
コメント(0)

準備が出来ていないところに、チャンスはやって来ないのかもしれません。目標なり、生きる方向が分かっている人は考えているだけでなく、日々そのための準備をしていますので、あらゆることがチャンスにつながるのではないでしょうか。 心の準備のない人にとっては、何でもないことのように思えることであっても、常にチャンスにつながる一つの出来事として捉えるようになると、少しずつ何かが見えてくるようになります。 昨日、講演の翌日は以前からの予定であれば、群馬県前橋まで足を延ばしたついでに、妙義山に登ってくる予定でした。しかし天気予報では午前中雨、更に予定変更せざるを得ない大きな理由として、腰の痛みがありました。 普段から流れに任せる生き方になっていましたので、知人の勧める方にお会いしてきました。私としては、何かの縁につながればいいとの思いでした。そして話をしてみると、奥様の妹さん(58歳)が数ヶ月前に倒れ、そのまま意識がない状態が続いているとのことでした。 姉妹である奥様は大きなショックを受け、立ち直れない状況のようでした。たぶん今回、山に登ることが出来なかったのも、違う役目があったからそのように運ばれたと考えることも出来ます。天気が悪く腰痛だったから、その方とお会い出来たとも言えます。 偶然のように思えるかもしれませんが、ちょうどいい時にちょうどいい人に出会うようです。一方的に自分の思いが強い時、そのような出会いに氣付かないのかもしれないません。キャッチするこちら側のスイッチが入っていれば、出来事の意味も分かってくるのではないでしょうか。 探す眼を持てば、やがて答に出会うようです。ぼぉーとしている人には見えないことでも、スイッチが入っていれば、感ずることが出来るのではないでしょうか。 この2日間、いろいろな方々とお会いすることが出来ました。生かすも殺すも本人次第なのかもしれません。腰は痛かったのですが、新しい出会いを感ずる2日間でした。 帰宅途中ドラッグストアに寄り、腰を温めるための子供用ゆたんぽを購入してきました。現在では電子レンジで温めて使える便利なものが製品化されていました。友人の奥様から教えていただいたので、早速の実行でした。美味しい手作り豆腐でした。※群馬県伊勢崎市にある、円座(えんざ)伊勢崎店、御縁があり食事をごちそうになってきました。
2008年11月08日
コメント(0)

今日の夜は、群馬県前橋の前橋青年会議所主催による講演会を予定しています。今回は特に広い会場で入場者も多いとのことですので、出来るなら体調も万全であればと思っていました。 しかしここ数日の無理が表面化したのでしょうか、久し振りの腰痛です。ということは、理想的な格好いい話をするのではなく、現実の自分の姿をさらすことから話を始めてみようと思います。 私たちは痛い思いをしないと、なかなかそれまでの生き方を変えることは出来ません。ストレッチ体操が体にいいことは十分に分かっているのですが、ついさぼっている私がありました。そろそろ根本的に治すことを考える時期なのかもしれません。 ほとんど毎週のように、どこかの山に登っていました。来年1月に個展を予定していますので、作品づくりが秒読みの段階に入ってきました。そういう時にこそ、いろいろと試されることがあります。 普段、マッサージの仕事は忘れた頃にやってきます。数日前もそうでした。谷川岳に登ったため、1日に10時間以上歩き続けましたので、その日は何でもなかったのですが、翌日少し腰が痛い状態でした。そのまま何もしなければいいのでしょうが、そのような時に限って、マッサージの仕事が入ってくるのです。 ホテルからの電話では2人のお客様だけかと思っていたのですが、途中追加があり一晩に4名、夜12時近くまでの仕事でした。お客様あっての仕事ですので、つい無理をしてしまうようです。 更に、今日お渡しする詩画作品づくりも同時に進めていましたので、寝る時間も削っているところでした。父が入院している病院にも行かなければならず、それらの結果、腰痛でした。 考え方を変えれば、無駄なことはありません。とりあえず話の糸口が具体的な体験談で進められることに感謝です。ハプニングを楽しめるようになると、しめたものです。栃木県宇都宮市、古賀志山
2008年11月06日
コメント(4)
人生、何が起こるか分かりません。若いうちに成功して、あるとき、今まで築き上げてきた評価を台無しにしてしまう人が時々います。 音楽プロデューサーの小室哲哉さんが詐欺の容疑で逮捕されました。急に現在に至った訳ではなく、次第に道がずれてきたのかもしれません。しかし彼にとって、これからが人生の本番なのかもしれません。 私たちは順調にいっているうちは、それほど人間的に成長はしないのかもしれません。はからずも大きな失敗や突然の病気等によって、それまでの予定が狂ってしまったとき、そこからどう生きるか、問われるのではないでしょうか。 その出来事によって生き方が変われば、霊的にとても成長するのかもしれません。世間での成功は表面的なもので、イコール人間的成功ではないと思います。だから本人が氣付くようにと、転落が準備されているのかもしれません。 私たちは現在の状態がいつまでも続くと錯覚しがちです。しかし実際には、いつまでも同じ状況は続かないようです。その変化に対応すれば問題も起きないのでしょうが、状況が変化しているにもかかわらず、自分を変えないことに原因があるのではないでしょうか。 自分の力で成功したと思ったとき、歯車が狂ってしまうのかもしれません。そのような生き方の中には感謝の心がないのではないでしょうか。自分の思い通りに出来ることは一見幸せそうに見えますが、転落するのは時間の問題なのかもしれません。 人間の幸せ度は、感謝の心に比例しているのではないでしょうか。いつも文句ばかり言っている人には感謝の心がありませんので、本人も幸せとは思っていないのかもしれません。 謙虚さを忘れたとき、人間は奢って(おごって)くるのかもしれません。当然、他人の意見を聞くこともなくなり、信頼も次第になくなってくるのでしょう。 南田洋子さんと長門裕之さん夫妻の現在の姿がテレビで放映されていました。よく公表したと思います。私たちは成功したときだけが人生ではありません。長い人生では思ってもいない体験があるから、それぞれ成長するのではないでしょうか。立場が逆になってはじめて、分かることがあります。辛くても一から出直し這い上がれば本物になれるのかも
2008年11月05日
コメント(0)

異質なものを排除するのではなく、うまく付き合えるようになると、抵抗力がつくようです。 現代日本では清潔志向が盛んで、抗菌グッズや消毒殺菌の品々がテレビCMで日常的に流され、多くの人たちはそれが体にもいいと思い込まされ、使っている人たちが多いのではないでしょうか。 違った見方をすれば、薬品を生活の中にばらまいている状態とも言えます。確かにバイ菌を殺すことは出来ますが、それと同時に、私たちに必要な菌までも殺していることを忘れてはなりません。 体や手を、薬品を使ってまでの洗い過ぎは良くないようです。体を守っている菌や皮膚までも取り除いてしまうため、新たな細菌に対して無防備になってしまうようです。何事もほどほどがいいようです。 排除思想は一見すると合理的に思えますが、異質なものを追い出し、自分たちの都合の良いものだけを残そうとする、とても狭い考えとは思えないでしょうか。自分の氣に合わないものは受け入れない生き方とも言えます。簡単に言うなら、とても自分勝手な生き方を習慣づけることになりかねません。 山を歩いていて、いつも感ずることですが、自然はとても厳しいです。山に登る人はそれに逆らわず、うまく対応しなければ死に直結します。 雪山を歩くとき、普通の靴では足が滑り、谷底へ転落です。そのためには滑り止めを付けなければ危ないことを学びます。時に応じて対応を変えるのです。 予定通り、明るいうちに下山出来ればいいのですが、途中何が起こるか分かりません。歩き難い岩場を通過するのに時間がかかり、暗くなってしまったとき、ライトの準備があればそれに対応出来ます。まっ暗闇では何も見えません。 人との対応も同じではないでしょうか。異質なものと付き合うとき、相手を変えようとするのではなく、まず初めにこちら側の対応の仕方を変えることかもしれません。自分が変われば、大した問題ではなくなってくるから不思議です。 人とうまく付き合える人は、頭も考え方も柔軟なのかもしれません。自分からの一方的な見方・考え方をしないから、そんなに腹が立つことがないのかもしれません。腹が立ちやすいのは、実は本人の心が狭いことが、最大の原因なのではないでしょうか。頂上から尾根伝いに下山してきました。思った以上に急な岩場がありました。てっぺんは頂上の人たちです。右側奥が、とても危険な「一の倉沢」です。
2008年11月04日
コメント(1)

以前から一度は登ってみたい山、群馬県と新潟県境にある谷川岳に、昨日出かけてきました。登山をはじめて4ヶ月目の妹夫婦と一緒でしたので、どこまで行けるかそれほどの期待もなく、初心者用として、行きはロープウェーを利用しました。 当然、麓から歩いて行く人は少なく、殆ど多くの観光客はロープウェーを利用して双耳峰の頂上を目指し、帰りもロープウェーを利用しているようでした。 11月に入っていましたので、私にとっては雪があって当たり前ですので、もしもの為にと、妹夫婦には雪用の滑り止め「アイゼン」を購入することを伝えました。 やはり頂上一帯は積雪が15から20センチで、雪のための準備をしている人は少なく、頂上を越えてその先まで行く人は少数者でした。 ロープウェーから頂上まではそれなりの感動はあるのですが、谷川岳の真の魅力は感じませんでした。 運よく今年最初の積雪でしたので、多少の危険はあったのですが、頂上を越えてその先の「ノゾキ」まで行ってみました。すると谷川岳の恐ろしさをほんの少しだけ知ることが出来ました。世界で有数の転落事故の多いところだそうです。 頂上で下山していれば、あの驚くような景色を見ることも出来ませんでした。そして少数者の私たちは、下山のルートを西黒尾根ルートを選び、歩いて下りることにしたのです。 ある程度の予想をしていたのですが、初心者にとっての数多くの岩場は、いい体験になったと思います。危険はさておき、そのルートから見える景色は迫力があり感動の連続でした。眼下の谷間には、万年雪を見ることも出来ました。 多少危険もつきまといますが、実際に行ってみたから、あの感動を味わうことが出来たのではないでしょうか。簡単なルートを利用しただけでは、谷川岳のほんの一部を垣間見たにしか過ぎないのかもしれません。 朝7時から登りはじめ夕方6時、暗くなってやっと駐車場に着くことがで出来ました。10時間を超える山行でしたので、初心者の妹夫婦は良く歩き続けたと思います。そしてその前後に、私は往復約400キロの運転がありましたので、無事帰宅出来たことに感謝です。 体験に勝るものはないのかもしれません。また登ってみたい山です。次回は逆コースから更に、一の倉岳まで足を延ばしたいと思います。麓から見た谷川岳遠く富士山を見ることも出来ました。
2008年11月03日
コメント(1)

昨日は茨城県つくばに行く用事がありましたので、午前中仕事を済ませ、ついでに足を伸ばし、午後1時半から約2時間半、筑波山に登って来ました。 下山途中、何人かの人たちを抜いたのですが、その中の一人の女性が、「膝が笑っている」と言っていました。膝がガクガクすることを何故そう言うのか、下山しながら考えてみました。 そして実際に自分で笑ってみましたら、笑ったとき、ハァハァハァと息を吐いていることに氣付きました。試しに笑ってみてください。息を吸いながらは笑えません。 小学生の頃教えてもらった深呼吸の方法は、たくさん吸うことが先だったように記憶しています。そしてある程度経験を重ねてきたら、吸うことではなく、十分に吐くことが先であることを知りました。 十分に息を吐き切れば、後は自然にたくさんの空氣が入ってきます。子供の水泳教室でも、最初に息を吐くことを教えてもらっていたようでした。 息を吐くと力が抜け、リラックスしてきます。力を入れて頑張っている人はリラックスしていませんので、うっかりすると力んでいる状態ですので、本来持っている力を出せないのかもしれません。 意識して息をゆっくり吐く練習をすることにより、どんな時でも緊張がとれていくことを経験出来ると思います。力を入れるばかりではなく、力を抜くこともとても大切です。 笑いが健康にいいことはいろいろと証明されていますが、案外、息を吐くことによって、体の中から余分なものを出ていってしまうのかもしれません。 悩みを溜めやすい人は、手放したり、余計な考えを捨てたりすることが下手なのかもしれません。どうしようもないことまで、体や頭の中にしまい込んでいるから、心身共に便秘状態なのではないでしょうか。 本来出すべきものが、体から出ない状態が便秘です。便秘の人はそれほど重要と考えていないかもしれませんが、やがて体にさまざまな症状を引き起こすことを忘れないでください。体も心も便秘状態だから、すっきりしないのではないでしょうか。筑波山駐車場近くに、秋だというのに、桜が咲いていました。今頃咲く品種なのでしょうか。※今朝4時、家を出発し、21時半、谷川岳登山を終え帰宅したところです。約10時間歩き続けました。山頂は15センチ以上の積雪でした。事故もなく下山できたことに感謝です。
2008年11月02日
コメント(0)

時には日常を離れ、非日常を体験することも大切です。友人の栃木県粟野町(現鹿沼市)の山中にある道場で、1週間にわたる沈黙断食道場があることを知りました。久し振りに参加したい氣もするのですが、個展を目前に控えていますので今回の参加は無理のようです。 私たち殆ど多くの人たちは、会話をすることが日常当たり前です。言葉を発している時間が多いほど、逆を言えば、自分の内面に向かう時間もないということです。 時には余計な会話をしないことによって、内面に向かうことが出来、自分の原点が何なのか見つめることも出来ます。 40代半ばで私が大きく変わったのは、7日間にわたる別時念仏を、1年のうちに4回参加してからでした。朝から夜までお念仏を唱えるか、朝夕の勤行でお経を唱えているかでした。その他は一切会話することを禁止され、食事も無言です。外とのやりとりも禁止され、ひたすらお念仏と沈黙の7日間でした。 最初はありとあらゆる雑念がどんどん出てくるのですが、ある時ふと、自分という存在を意識することがなくなってきました。出るものが出れば空っぽになるのは、便秘だけでなく、頭の中も同じなのかもしれません。 それから不思議なことに、少しずつ直感が働くようになり、日常に戻っても氣付くことが度々でした。それまで何も感じなかったことでも、ふと感ずることがあり、それを短い文章に書き始めたのです。 何とかしよう何とかしようと、行動するだけでは解決出来ない時もあります。1日や2日だったらやらないよりをやった方がいいかもしれませんが、1週間にわたる静かな時間は、人を大きく変えるようです。方法が見つからない方、行き詰まっている方には、一度体験することをおすすめします。 7日間という時間は、ある意味では限界を体験する時間とも言えます。私たちは知らずのうちに自分を限定し、ややもすると狭いところから物事を見つめる習慣になり易いからです。 日常を離れると、自分の現在の姿を客観的に見ることが出来るようになります。病気での入院も同じなのかもしれません。栃木県日光市、雲竜渓谷、氷の世界でした。栃木県奥日光湯元、冬の風景
2008年11月01日
コメント(3)
全30件 (30件中 1-30件目)
1


![]()