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同じことを続けているうちに、だんだん新鮮味がなくなってきます。そのうち初心を忘れ、いつの間にかやめてしまうことってありませんか。そのような時ちょっと氣分を変え、普段と違うことを試みることによって、新たな発見をすることがあります。 仕事が忙しくなってくると、ついウォーキングをサボってしまうことがあります。昨夕はいつものコースではなく、自転車に乗ってゴミを拾いながら、違うルートを自転車で走ってみました。歩きなら何でもない急な坂道が、自転車ではとてもシンドイことを知りました。 普段から変化をつけるよう習慣づけていると、その時その時によって対応の仕方も違ってきます。知らないうちに、物事を多方面から見たり考えたりするようになってくるようです。 先日、氣付いたことですが、悩んでいる時って、同じ方向や同じ立場から物事を考えているからではないかと感じたのです。思考方法がワンパターンの人ほど、多方面から解決策を考えることが出来ないのではないでしょうか。 ちょっと見方や考え方を変えれば、問題が問題ではなく、その出来事によって自分の考え方や生き方を変えるチャンスと捉えることも出来ます。 そして大事なことは、いつまでも同じ状況は続かないということです。自分が勝手に、いつまでも同じ状況が続くと思い込んでいることが最大の原因なのかもしれません。自分を変えないで、周りを変えよう、あるいは変わってくれればいいと考えているから、何も進展しないのではないでしょうか。 普段から新しいことを取り入れるよう工夫していると、物事を固定して考えなくなってきます。臨機応変も自然に身についてくるのではないでしょうか。 変化に対して嫌々対応するのではなく、変化を新しい自分になるチャンスと考えてはどうでしょうか。積極的に変化を受け入れ、更に楽しんでみることかもしれません。 悩みに使う頭を、楽しさを見つける時間に変えてはどうでしょうか。今までと違うことに時間と頭を使えば、そのような現実に変化してきます。 楽しんで生きている人は、そのようなことを考え実行しているからです。反対にいつも心配をしている人は、心配するのが趣味の人ではないでしょうか。本人次第で、どちらの生き方も出来るのではないでしょうか。 まずは自分を変える訓練です。練習を繰り返していると、身に付いてきます。私も歩き始めて1年半になりますが、心身共に大きく変化してきました。実際にやってみなければ分かりません。2009年カレンダー表紙(サイズ9cm×9cm、フロッピーケース入り。 ¥840円+送料) だいじょうぶなんとかなるだいじょうぶ ありがとう※第4作目の詩画集が、いつ出版出来るか分かりませんが、題名はいつも考えています。ネーミングはとても大切ですから。
2008年10月31日
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来年のカレンダーづくりの季節になってきました。カレンダーを作り始めて、約8年になるかと思います。短文に季節の花を添えてきたのですが、ほとんどが花の絵を描いてきました。そして昨年は描く材料がなくなり、数枚は花ではない絵を描き添えました。 今まで通り花を描くにもマンネリになってきましたので、今年は氣分を変え、違う絵を入れようと考えました。そしてある時ふと出てきたアイデアは、来年こそ飛び立つ意味も込めて、鳥の絵がいいかと思いました。 早速描いてみようと、以前買った鳥の本を参考に描こうとしたのですが、実際に自分がこの眼で見た鳥の姿ではないため、描く氣力さえ生まれてきませんでした。 そして次に出てきたアイデアは、山の絵を描いてみることでした。1年半近く山を歩いていますので、その時撮った感動の画像が手元にたくさんありましたので、その中から感動に残るシーンを選び出し、スケッチしてみました。 興味のないことは描く氣も起きなかったのですが、反対に興味のあることなら、意欲が全然違うことを改めて感じたのです。何か特別なものを探そうとするよりも、案外、答は身近にあるのかもしれません。 健康のためウォーキングを始めた時もそうでした。実際に始めるまでは、スポーツジムに行ければと考えていましたので、地元に運動する場所があることに、その時は氣付きませんでした。 とりあえず家の近くを歩き始めたら、今までは大変だからと、登ることを嫌がっていた山々が、家のすぐ近くにあることに氣付いたのです。そこは単なる健康のために歩くというより、自然の中ですので季節感もあり、ルートを変えればとても変化に富んでいることを知りました。 それが縁となって富士山に登ることを予定し、その練習や準備として家の近くばかりでなく、日帰り出来る範囲での登山が始まったのです。1年以上続くとは夢にも思っていませんでした。関心のあることだから、その魅力にとりつかれたのかもしれません。 特別なことをするのではなく、まずは関心のあることから探っていけば、新しい何か生まれてくるのではないでしょうか。初めてのことをやるのに、試行錯誤は当たり前です。何か少し答が見つかってきたような感じがしてきたところです。実際の寸法は9センチ角で、フロッピーケースに入っています。現在の生き方を変えれば未来も明るくなってくる悩みとはものごとを固定して考えることからはじまる
2008年10月30日
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私たちの体や、日々起きている出来事も、すべては常に変化している。水は高いところから低い方へ流れる。結果には何らかの原因がある等、宇宙にあるさまざまな法則を無視せず生きれば、無理がありません。 人間のつくった法律はその時代にその国によって様々ですが、宇宙の法則は、国や地域や人種によって変わってくるものではなく、万人共通の真理とも言えます。 先人の研究や貴重な体験の中から真理が発見され続けています。しかしその時代、真理とされた考え方が、後の人によってそのことが間違っていたということも度々起きていることです。 私たち人間は、間違いに氣付き、体験を通して学習するために、この世に生を受けたのかもしれません。痛い思いをして、やっと氣付くこともあります。 現代医療はめざましい進歩を遂げています。現代日本では、病気になると病院へ行くのは当たり前のことです。そして手術や薬によって改善に向かうようにしてくれます。 そして知らぬ間に、病気は医者が治してくれるものと勘違いするようになってきました。本来病気になったのは急になったように見えるだけで、それぞれに、そのような結果を招いた原因があります。 原因をそのままにして、結果だけを変えようとしても、それは一時しのぎで、また違う形で結果が出てくるのではないでしょうか。死亡原因でいちばん多いのはガンだそうです。今までは遺伝とされてきましたが、そうではなく、食事や物事の考え方の癖が家族同士似ているから、同じような結果を招くのではないでしょうか。 ガンが転移するのは、怖い病気だからと思っていました。実はそうではなく、その人の生き方や考え方、そして生活習慣が以前と同じであれば、形を変えて違う部位に出来るのは明らかです。原因を変えない限り、結果も変わってきません。 楽な生活を続けていると、いつの間にか少しでも楽をしようと、それが習慣化されてきます。駐車場に車を止めるとき、少しでも近い位置に止めようとしていませんか。 考え方を変え、車を少し遠くに止めることによって足の運動にもなります。楽をしているうちに筋力はますます衰え、本来のことから少しずつ、ずれてくるのではないでしょうか。本来、人間の体は動くように出来ています。 高い山に登るのは、辛く苦しいかもしれません。しかし登ってはじめて分かることがあります。出し惜しみは体に良くありません。エネルギーは出せば、新しいものが入ってきます。心の便秘、していませんか。富士山の夜明け木曾、宝剣岳。一歩まちがえば、転落です。高い山に登ったら雲の上は青い空だった目先のことでバタバタしなければ私たちはいつもまもられている今日もいちにちありがとうございました明日もよろしくお願いします
2008年10月29日
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そのときは理解出来なくても、経験を積むことによって、後で分かることがあります。 「今を生きる」という言葉があります。高僧の方や、いろいろな方々が言ったり本で書いてありました。しかしその意味を肌で感ずるようになったのは、私の場合、50歳を過ぎてからでした。それまで、その言葉の示している本当の意味が分かりませんでした。 たまたま、私と年齢の近い人たちの死に、短い期間に三度、接する機会がありました。更に思いがけず、自分が交通事故に遭いそうになりました。そのとき、「今を生きる」ことの大切さを、体験を通して実感したようです。 当時、悩み事も多く、ふた月三月あるいは1年先のことが心配で、不安な日々を過ごしていました。そして現在に生きていない自分を知ることが出来たのです。悩んでいるときは、現在を生きていないときのようです。 私たちは過去や未来があるように思っていますが、実際にあるのは現在の連続があるだけです。現在の生き方によって、未来も過去もつくられていくのです。したがって現在の生き方が変われば、過去も未来も変化していくのではないでしょうか。 最初のきっかけは本に書いてあることだったり、人の話だったりします。何となく頭では分かるような氣はするのですが、そのことが本当かどうかは分かりません。しかし不思議なもので、そのようなことを思っていると、現実に体験する出来事が起きてくるようです。 体験をすることによって、単なる知識だったことが、自分の身に付いてきます。身に付いてくると、他のことにも応用出来るようになります。最初は頭での理解、そして自ら体験することによって本当の意味が分かってくるようです。 この数年、特に不安な出来事が、連日ニュースを賑わしています。うっかりするとますます不安材料ばかりが集まり、現実にそのような結果を招くことになりかねません。 だからこそ、ひとり一人の生き方が問われている時代なのではないでしょうか。安心して生きるためには、自分でその方法を探すことが大切と思われます。かつての良い時代は他人任せでも良かったのですが、これだけ不安定な時代になってくると、他人任せの生き方ではなく、ひとり一人が本質的な生き方・考え方を身につけるときではないでしょうか。 生き方を変えるには、とてもいい時代なのかもしれません。切羽詰まれば、人間は変わることが出来ます。来年のカレンダーに使う絵を、描いてみました。新しい情報はどんどん出していった方が、更に新しいものが生まれてくるようです。
2008年10月28日
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壁にぶつかったとき、今までと同じ方法では前に進めませんので、初心に戻って、今までにやってみたことのないことを試してみるのはいいかもしれません。 最初の頃は右も左も分からず、色々と試行錯誤を重ねるものです。失敗を繰り返しながらも方法を探しているうちに、新しい方法が見つかるのではないでしょうか。 現在2009年のカレンダーを制作しているのですが、今までずっと文章のわきに花の絵を描いてきました。花には季節感があり、何年も続けているとマンネリになってきましたので、今回は違う題材にしようと、普段登っている山を中心に描いてみようと、久し振りに新たな氣分で描き始めています。 焼き物で独立したときにも、1年余りは釉薬等の試作の繰り返しでした。そして師から学んだ練り上げという技法を始めたのですが、10年近くやっていたら、このままで良いのかと疑問にぶつかり、1年近く制作できなかった時期もありました。 そのときも初心に戻り、原点から出発してみようと、それまでやったことのなかった手びねりの技法を始めました。当然経験がありませんので教えてくれる人もなく、ひとり試作の繰り返しで、1年余り試行錯誤を繰り返し、新しい方法で作品を作るようになりました。 私たちは壁に当たらないと、なかなか新しいことを始めてみようとする氣にはなれないのかもしれません。会社の組織でも同じかもしれません。現在のままではどうしようもなくなったとき、知恵を絞り、新しい方向を探すのではないでしょうか。 5年ほど前までは益子の街全体が、そのうち景気が良くなるだろうと、淡い期待を抱いていたようです。私は10年以上前から民芸陶器の衰退期が来ることを予想し、違う方向をずっと探って現在に至っています。 そして現在やっと景気の問題ではなく、消費者がたくさんの物を欲しがっていないことに氣付いてきたようです。ものがあり余っているのです。私自身、最近は必要最小限の物しか買わなくなってきました。 それに代わって精神的なものを求める時代になってきたのではないでしょうか。物にあふれても、心が豊かでないことにやっと多くの人たちが氣付いてきたようです。 更に、経済中心の物質優先の生き方になるにしたがって、病気になる人も増えてきました。これからはますます病気になる人は増えてくると思います。いろいろな不祥事が続いていますが、やっと多くの人たちが食の大切さや本当の生き方に氣付く時代になったのかもしれません。新しいことにチャレンジしていると初心を体験できる初心に戻ればやり直すことができる汗を流して無心になればこころも軽やかいいと思ったらやってみるやってみなければ本当にことはわからない
2008年10月27日
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毎日同じことを繰り返していると、新鮮味がなくなり、緊張感も薄れてくるのではないでしょうか。そして次第に自分のことも客観的に見ることもなくなり、生き方も消極的になってくるような氣がします。 自分が変わろうとしなくても、実際には次から次へと新しい出来事が起きてくるのですが、それに対処するためにはエネルギーを必要とします。体力の低下と共に新しいことに取り組むことを避けるようになるのは、加齢と共に自然な成り行きなのかもしれません。 ではどうすればマンネリから打破出来るのでしょうか。そのためには日頃から新しいことに対して興味を抱き、チャレンジしようとする精神が必要なのかもしれません。 初めてのことは、結果もどうなるか分かりませんので、全神経を働かせ、可能な限りの安全策も考慮しなければなりません。もちろん頭も働かせ、工夫も必要となってきます。 特に何事もなければ問題もないのですが、毎日同じ道を通って、同じ仕事を同じような仲間でしていると、次第に使っている脳も体も同じところばかりなのではないでしょうか。予期しないことが起きたとき、慌てるのは本人です。 ときには違った道や違った方法を試すことによって、新たな発見もあり、感動に出会うこともあります。感動することを久し振りに味わっていない方は、生活自体あるいは生き方もマンネリになっているのではないでしょうか。 久し振りに汗を流し、やっとの思いで頂上に着いたとき、その感動は数十年忘れかけていた新たな喜びとなってきました。仕事に追われているうちに、たくさんの汗を流すこと、無心になって歩き続けることをすっかりと忘れていました。 体調の変化と共に、止むを得ず運動を始めたのですが、それがきっかけとなってチャレンジ精神も新たに芽生えてきたようです。 やる氣のなくなっている方は、それ以前に、体力の低下が原因なのではないでしょうか。体力の低下、更に食生活が乱れていれば、ストレスまみれの現代では病気になるのは時間の問題で、当然の結果ともいえます。 マンネリ生活は病気の予備軍なのかもしれません。とりあえず少しの時間でもいいですから、歩くことから始めてはどうでしょうか。そして出来るなら、歩く場所も同じ道ではなく、変化を持たせるといいようです。 最初から大きな感動を求めなくても、身近なところにある小さな感動から、出発してはどうでしょうか。探そうとすれば答は見つかる知人からいただいた「かぼす」です。さりげなく書いた文が、心を伝えてくれます。
2008年10月26日
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周りや人のせいにしているうちは、自分と向き合えないのかもしれません。どうしようもなくなって最後の最後になってくると、自分がいちばん問題であることにやっと氣付くのかもしれません。 実は自分が問題だから、それに氣付かせるために、神様が次から次へと問題を提供しているのではないでしょうか。そして自分の内面を見つめるようになると、同じような出来事が起きても、対処の仕方が違ってくるようです。すると次第に出来事の意味も分かってきて、バタバタしなくなってくるようです。 私たちの目は外を見るにはとても便利に出来ていますので、他人の姿はよく見えます。しかし自分の内面を見るには、肉眼で見るのではなく、心の目が必要になってきます。 心の目はどちらかというと、目を閉じて心が静かなときの方がよく見えるようです。目を開いていると、どうしても目の前のことが強烈ですので、現象世界だけが現実のようについ思ってしまうのかもしれません。 一日のうちに一度でもいいから、静かな時間を持つことによって、内面を見つめる習慣がついてくるのではないでしょうか。ただ忙しく仕事に追われているだけでは、うっかりすると無理をした生活になり、氣付いたときには自分が思わぬ方向に進んでいることに氣付くのではないでしょうか。 自分に正直に生きていますか。やりたくないにもかかわらず、無理をして仕事をしていませんか。もし無理してやっているのであれば、何らかの目に見える形で、不都合な症状が出てくるのではないでしょうか。 でも考え方が変わると、同じような仕事をするにしても、その姿勢が違ってくるようです。嫌々やっていればそのような結果が出てきますが、納得してやる人にとっては、何故そのような仕事が与えられているかが分かってくるからです。 自分には関係ないと思っていたことが、実は何らかの形で関係があるから出来事として起きているのではないでしょうか。私自身、好き嫌いで生きていた頃は問題も多く、悩みも絶えませんでした。そして内面的な生き方に変化してきたら、動揺することがほとんどなくなってきました。 どんなに辛くても、その人に必要なことしか来ていないようです。腹を決めて向き合うことによって、出来事の意味が分かってきます。すると問題も次第に解決されてくるようです。本当の自分に向き合えば、関心が違ってきますので、見える世界も違ってきます。真実に出会うために、出来事が用意されているのかもしれません。ねるまえに「からださんきょうもはたらいてくれてありがとうゆっくりやすんでください」 ※ メールマガジンが発行されました。「館長の独り言」、ご覧ください。
2008年10月25日
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そのときは大変と思っても、過ぎてみれば何とかなるものです。初めて体験することは、特に先が見えませんので不安になりがちですが、正面から取り組めば何とかなるものです。 なぜ最初の一歩が踏み出せないのでしょうか。未体験のことに対して、不安ばかりが募るからではないでしょうか。いろいろな体験の多い人はそれなりに何とかなることが経験上分かっているから、新しいことに対しても躊躇なく踏み出すことが出来ます。 何もしなくても、時はどんどん過ぎていきます。私たちは永遠に生きている訳ではありません。逆に言えば、いつ何で死ぬか分かりませんので、希望を持つことも出来るのではないでしょうか。 希望や理想があれば、そのための準備もありますので、おのずから毎日の生き方も変わってきます。目先だけで生きている人にとっては、見える世界だけが中心なのですから、希望を持つこともないのかもしれません。だから現実世界に振り回され、右往左往するのではないでしょうか。 夢や希望を持っていますか。そしてそのための具体的な行動をしていますか。単なる夢は儚い夢ですが、それに向かって行動を起こせば、現実に変化が起きてきます。 誰にでも出来ることがあります。他人が書いた文章ではなく、自分でなりたい自分を紙に書いてみることです。さらに毎日それが実現している姿、イメージを繰り返すことです。イメージを継続していると、実際にどうするか試されるときがやってきます。そのとき理想通り行動すればいいのです。すると次第に身についてきます。 急に変わることは出来なくても、少しずつ積み重ねていけば、人間は大きく変わることが出来ます。考え方を変えれば、何も大きな変化でなくても、ちょっとした変化でもいいのではないでしょうか。大切なことは、そこに喜びを見つけることかもしれません。 ときには自分を褒めることも大切です。それなりにみんな懸命に生きているのですから、身近な人にも褒めることを忘れないで下さい。褒められれば、元氣が出てきます。行動すればあたらしい変化がはじまる本当に願っているなら朝夕に祈ること静かに祈ることはできる
2008年10月24日
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現実を受け入れ行動すればあたらしく生まれ変われる勇氣を出して一歩踏み出せば何とかなるもの大きな変化はまたとない天からのプレゼント※ 2009年のカレンダーづくりのため、前に書いた文章を見直しています。
2008年10月23日
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その人がどのようなところで生まれ、どのようにして育ったかによって、その人間の基本が形づくられてくるようです。親や身近な人たちの価値観に影響され、私たちは育ってきます。 私が大きく変わっていったのは、修業のため師(松井康成氏)についてからでした。20歳から31歳までのほとんどの時間を師と過ごしました。休日もなく自宅には帰って寝るだけでしたので、その当時、両親との会話は殆どなかったように記憶しています。 毎日どのような環境で過ごすかによって、考えることも大きく違ってきます。父はサラリーマンでしたので話の内容も特別なものでなく、ごく平凡な生き方でした。それに比べ入門した師のところは個性が強く、陶芸という物づくりと僧侶でしたので、関心事全てにおいて波風が多く、変化に富んでいました。 普段の会話は世間話ではなく、真に迫った真剣勝負の世界でしたので、慣れるまでは緊張の連続でした。発想の仕方も自由でしたので、そのような中から知らずのうちに、今日の基本を身に付けていったようです。 もし私がサラリーマンの道を歩んでいたら、考え方も価値観も多くの人たちと同じだったかもしれません。そのような意味でも私たちは出会いによって生き方が大きく変わるということです。長期にわたる影響はその人間を変えていくようです。 古い自分を脱皮しようとするとき、頭の中だけで脱皮しようとしてもなかなか変わることは出来ないようです。しかし行動を起こすことによって、少しずつ変化が出てきます。更に行動を続けていけば、ゆっくりですが、過去の自分を変えることが出来ます。 考え方を変える、明るいイメージを繰り返す、そして行動を続けることによって、私たちは古い自己にサヨナラして、新しく生きることが出来るではないでしょうか。 変化を楽しめるようになったら一人前なのかもしれません。そのためにも、健康な心と体づくりは基本になります。 体力が落ちてくると、新しいことにチャレンジしようとするエネルギーも低下してくるのは自然なのかもしれません。年齢を重ねたから穏やかになったのではなく、体力が落ちてきたから、心身ともに動きが鈍くなっただけなのかもしれません。 氣付いたときが、始めるときです。早速始めれば、ゆっくりかもしれませんが、確実に変化が出てきます。氣付きとは、またとないチャンス到来なのです。萌芽失敗を恐れていたとき自分を守るため不自由だったいつもゼロが出発で失敗は一歩前進の体験と知ったときとても楽になった生きるとは結果より学ぶことが大切とわかれば新しい試みで駄目とわかるのもいいし未経験の一歩を踏み出すもいいどちらにしても初々しい発見がある練習でない真剣の積み重ねは知らずのうちに心が決まり思ってもいなかったことが芽生えてくる
2008年10月23日
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日々、口にしている言葉には、自分自身そして周りの人たちに大きな影響を与えていることを忘れてはなりません。冗談で言ったつもりでも、何もないところからはそのような言葉が出てきません。普段思っていることが、つい言葉となって出てくるのではないでしょうか。 従って言葉になる前には、私たちの思考、考え方の癖がその大元にあるのではないでしょうか。普段から何を考えているかによって、その人が発する言葉も大きく違ってきます。 心配性で物事を暗く解釈する癖の人は、未来についてもあれこれとマイナス要因を探し、マイナスの未来を勝手に描いてしまうので、つい発する言葉も暗くマイナスが多いのではないでしょうか。 一方、楽天的で氣楽に生きている人は、必要以上に心配することもなく、どんな出来事であっても前向きに解釈し、具体的な行動を取りながら対処していくのではないでしょうか。 私は暗い性格だから仕方がないという人がいますが、本当にそうなのでしょうか。自分をそのように決め付けているから、いつまでもそうなのではないでしょうか。 思いがけない経験をすることによって、考え方が大きく変わり、性格までも変わった人は沢山います。一番の原因は、自分を変える氣がないことにあるような氣がします。 先天的に明るい性格の人もいるかもしれませんが、案外そのような人は少なく、実際には途中から明るくなった人が、最初から明るい性格のように見えるだけなのではないでしょうか。体験を通して何かが吹っ切れ、結果的に明るく生きるようになったのが真実なのかもしれません。 明るく前向きな人と話していると、こちらまでも元氣になってきます。反対に、不満ばかりで感謝の心を忘れてしまった人は、会っているだけでも、こちらまでもその暗さがうつってしまうような氣がします。自分が周りに影響を与えていることを知らないのは、本人だけなのかもしれません。 もし、なりたい自分があるなら、具体的に、まず紙に書いてみることです。そして1日のうちに何度でも、その言葉を繰り返し唱えてみてはどうでしょうか。それが長続きすれば、やがて実現するのではないでしょうか。実現するには、ある程度の努力は当然のことです。 明るいイメージは明るい言葉となってきます。明るい言葉は、明るい現実を引き寄せます。そして大切なことは、行動を続ければ身に付くことです。誰でもが、変わる氣になれば変わることが出来ます。自分を否定しないことです。時にはこのような格好もします。帽子がなくても、代用できるものはあるものです。夕暮れの日光男体山
2008年10月22日
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入院している父の主治医から連絡があり、疥癬(かいせん、痒みの伴う皮膚病)に感染したので、これから治療を続けるとのことでした。昨日の父は、夕方にもかかわらず目を閉じて眠っている状態でした。布団の下には父の両手がひもで拘束されていました。かゆみのために肌を掻かせないようにとの処置なのでしょうが、家族としては、やりきれない氣持ちになります。 胃瘻(いろう、胃に直接、流動食を入れるために、おなかにパイプが出ている)の手術を主治医に勧められたとき、実はどうするか悩みました。母が入院していた時タンがつまり、そのために喉に穴を開け、2時間おき位にチューブで吸引していました。とても苦しがっていた母の姿が忘れられなかったため、父の手術もためらっていました。 考えに考えた末、父に胃瘻(いろう)の手術を受けさせました。そのおかげで確かに生命を維持することが出来ましたが、ほとんどが暗い表情の父になってきたように感じます。 父が元氣だったころ、病気になった時どのようにしたいか等、一切話をしませんでした。自分が病気になった時、どのようにしてほしいか考えるのも嫌だったのかもしれません。実際に具合が悪くなってみると、本人に判断力がなくなったとき、決断するのは家族なのです。 医療の発達していなかった数十年前だったら、物が食べられなくなったら、栄養は点滴だけに頼ったと思います。それ以前は点滴もなかったでしょうから、食べられないことが死に直結したのではないでしょうか。 医療のお陰で死を免れることはで出来ても、本来の生命からは離れているように感じられてなりません。生きることをすぐに諦めてしまうことも問題ですが、生に執着する医療も多くの問題を抱えているように感じられるのは私だけでしょうか。 出来るなら元氣なうちに、もし自分が病気になった時どのようにしてほしいか、家族と話し合ってみてもいいのではないでしょうか。突然死であればどうしようもないのですが、自分の命に対する考えを話し合っておくことは、とても大切と思います。 私は長男のため、入院している父の現実の姿をつぶさに見ていますので、他人事とは考えなくなってきました。病院にはこのような高齢者が、これからますます増えてくるのではないでしょうか。入院している多くの高齢者は、悲しい虚(うつ)ろな顔をしています。予定して入院した人は一人もいないのではないでしょうか。 他人事ではありません。氣付いたときから生き方を変えることではないでしょうか。父は無言で私たちに、人間としての生き方を問うているのかもしれません。早朝の戦場ヶ原から見る日光男体山女峰山
2008年10月21日
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ややもすると私たちは、無難に無難にと、知らないうちに平均化されて生き易いのではないでしょうか。年齢を重ねてくると、失敗の怖さから、新しいことにチャレンジすることが億劫になってくるようです。それらを中年症候群というそうです。 経験の少ないうちは怖さを知りませんので、初めてのことにも果敢に取り組むのですが、何度か失敗を重ねるうちに、今度も失敗するだろうと最初からチャレンジしない傾向に移っていくのかもしれません。 更に体力的な問題も大きく影響しているのではないでしょうか。先日の山登りで、68歳でとても健脚な方にお会いしました。何十年も山登りを続け、冬になるとスキーとのことでした。20歳くらい若い歩き方で、年齢を感じさせない清々しさを感じさせていただきました。 私たちは心がけひとつで、あのようになれることを直接見させていただきました。疲れたからと家でゴロゴロしていれば、肉体はますますサビ付き、それ以上に脳の動きも悪くなり、生きることに億劫になってくるのかもしれません。 そのようなことを考えながら、うつらうつらしていたら面白い夢を見ました。音楽グループの発表会で、演奏している知り合いがいました。ドラムを叩いている彼は、何故かその日は音が小さくメリハリがなかったのです。 そこで一曲終わってから、もっと思い切って叩いてもいいのではと、私がアドバイスしたら、彼は指導者が大きく叩くなと言ったから叩かないのだと、その理由を言っていたところで目が覚めました。 年齢を重ねるに従って、素直に人の話を聞くことを忘れてしまうのかもしれません。自分という小さな狭い尺度で、物事を判断することを知らずのうちに身に付けてしまうのかもしれません。言い訳を言っているときは、古い自分を守っていることを忘れてはなりません。注意したいものです。 本来の若さとは年齢に関係なく、素直で前向きな生き方を指すのかもしれません。急にやろうと思っても出来ませんので、勿論そのためには普段からの心がけが大切なのかもしれません。体力・氣力・脳力は、訓練次第で大きく変わるのではないでしょうか。心の若い人は直ぐに行動します。大真名子山から撮影。左から小真名子山、帝釈山、女峰山。帝釈山から撮影。右から大真名子山そして日光男体山、ふたつの山の中間点の麓から歩き始めました。朝6時半頃から歩き始め、女峰山頂上に着いたのは午後2時頃でした。高い山の登り下りを、4回重ねて帰路に着きました。
2008年10月20日
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どちらに進めるか選べるから、悩むのかもしれません。後ろに戻れないとき、過去に戻れないとき、私たちはそのままじっとしているか、それとも前に進むしかありません。 現代では職業にしても結婚にしても、自分で選べる時代になってきました。車のナンバーでさえ、お金を余計に払えば、自分の好きな番号を入手出来るそうです。 一見すると、とても自由でいい時代になったように思えるのですが、これをどんどん推し進めていけば、ますます自分の思い通りに生きようとする生き方を助長するような氣がします。 人間中心、自分中心の生き方はやがて新たな問題を生むようになるのではないでしょうか。現実を受け入れる習慣がなくなってくると、考えの違う相手を受け入れようとする努力も、最初から放棄する習慣になりかねません。 かつての時代を奨励する訳ではありませんが、もし自分で選べないとき、その現実をいかにしてうまくやっていくかを考えるのではないでしょうか。文句を言っていては自分が暗くなるばかりですので、その対処法を自分なりに見つけて来たのではないでしょうか。 私が自分中心に生きていたとき、悩みが尽きませんでした。だから相手中心に生きなさいと言っている訳ではありません。私の場合は、天を中心とする生き方になってきてから、生活態度も大きく変わってきました。 それまでは自分の立場でしか物事を見なかったのですが、もっと大きな目、客観的に全体的に自分の姿を見られるようになってから、悩むことがなくなってきたようです。 あれにしようかこれにしようか悩んでいる時間もなくなってきました。前に進む生き方・考え方になってきたら、頭で考えてばかりいるのではなく、行動するのが早くなってきました。ほとんどの場合、行動することによって何か新しい方向が見えてくるものです。 行動は人間を変えることが出来ます。もしやるかやらないか悩んでいるのであれば、やってみることかもしれません。自らの体験は確実に新しい一歩となるのではないでしょうか。女峰山(2483m)※17日夜、家を出発し、奥日光の戦場ヶ原でテント泊し、18日朝6時半頃から歩き初め、日光大真名子山・小真名子山・帝釈山・女峰山と四つの山を縦走してきました。約10時間半、歩き続けました。今回も、紅葉渋滞はハンパではありませんでした。
2008年10月19日
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急に現在に至った訳ではありません。小さなことでも積もり積もってくると、大きな結果を招くようです。それが良いことの場合もあれば、悪い結果を招く場合もあります。結果には原因がありますので、原因を変えない限り、結果も変わってきません。 物事に対する考え方・解釈の仕方によって、私たちは大きく違ってきます。目先の現象に振り回されながら生きていると、心の動揺も大きいのかもしれません。一方、現象の奥に隠れている真実を見ようと生きている人にとっては、物事の流れを大きく捉えることが出来るのではないでしょうか。 部分にとらわれて生きる近視眼的な生き方もあれば、全体を見ながら部分も見ていく大観的な生き方もあります。どちらの方法で生きるのも、その人の意識の持ち方で変わることが出来るのではないでしょうか。 人に頼って生きているうちは、生き方を変えることは出来ないのかもしれません。自ら考え方を変えようとしない限り、現在の自分を新しい自分にすることは難しいのではないでしょうか。 決心し、しかも続けることによって願いは叶ってきます。多くの場合、一度は決心するのですが、何らかの理由で続けることをやめてしまうようです。頑張り過ぎると、やる氣があるうちはいいのですが、初心を継続することは難しいのかもしれません。 飽きっぽい私でしたが、少しずつ変化してきました。興味のあること、しかも楽しみが伴えば長続きするのではないでしょうか。無理をしては長続きしないようです。急な進歩を望むことも、疲れる原因かもしれません。 ぼちぼちがいいのかもしれません。昨日の自分より、ほんの少しでも今日の自分が変わっていればいいのではないでしょうか。焦りは体に良くありません。 今日生きているのですから、身近なところに楽しみを見つけながら生きてみてはどうでしょうか。探す氣になれば、見つかるものです。生き方を変えると見える世界が違ってきます。 不満を中心とする生き方もあれば、感謝を中心とする生き方もあります。選んでいるのは、他の誰でもなく自分なのです。散歩の途中でパチリ、下水の蓋陽氣がいいイライラするのは周りに原因があると思っていたがそれは大きなまちがいでどうも私の中に悪いところをみつけるマイナス思考という原因があったから
2008年10月17日
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縁あって昨日は、宇都宮病院准看護学校の戴帽式に出席させていただきました。これから病院という現場で実習に出る前の節目の式典で、厳かに進められました。看護師になろうとする人たちにとって、初心に戻る、印象に残る日となったことでしょう。 式典のあとの記念講演として、「生命の尊さ」と題して80分ほど話をさせていただきました。まさか私が、看護師になろうとする人たちの前で話すとは夢にも思っていなかったことです。何が縁になるか分かりません。 人との出会いによって、その先どのような展開になるか分かりません。人から人へと縁が広がり、お互いに影響し合うことが出来るなんて、これが生きている素晴らしさかもしれません。お骨折りいただいた方々に感謝です。 私は講演や個展の依頼があったとき、余程の理由がない限り断らないようにしています。たとえ少人数であっても、たとえ狭い会場であっても、本当にやってほしいとの依頼であれば、相通ずることがあるからです。そこには真心があります。 それらの積み重ねによって現在の私があります。もし私には無理だと思って断っていれば、現在の私はありません。初めての体験はとても勉強になります。集まる人たちによって話の内容、話の進め方を変えなければ、聞き手に伝わり難いからです。 チャンスは殆どの場合、人が運んできてくれるのではないでしょうか。ただそれをどのように受け入れるかによって、その先の展開が大きく違ってくるようです。私の言うチャンスは、自分にとって都合のいいことだけではなく、自分にとって都合の悪いことも含まれていることを記憶に残して下さい。 帰宅してテレビのスイッチを入れたら、マラソンランナーだった松野明美さんと、そのお子さんが放映されていました。お子さんがダウン症だったことを、今までずっと世間に隠していたとのことでした。子供のことよりも、世間的な自分中心に生きていたことに氣付き、公に発表したとのことでした。 それまでは人よりも速く走ることに価値があると思っていたことが、「ゆっくりその人なりに歩んでもいい」ことを次男から教えられたとも言っていました。思いがけず生まれてきた子供によって、親の考え方が大きく変化したようです。 事実を受け入れるまでは大変だったかもしれません。でもこれからは新しい松野明美さんとして、お子さんと一緒に歩んでいくことと思います。何が縁で、価値観が変わるか分かりません。「産んで良かった」が、とても印象に残る言葉でした。宇都宮病院、准看護学校は最上階の7階でした。
2008年10月16日
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私たちは、つい周りのことに影響され易いです。不愉快な人に出会ったとき、偶然起きたトラブル等で、心が乱れるものです。 しかし同じ状況でも、すごく動揺する人と、それほど動揺しない人がいるのは何故なのでしょうか。出来事は同じであっても、直ぐに影響されてしまう人と、そうでない人がいます。 初めての体験は、どうしたらいいか分かりませんので、慌ててしまったり、頭がまっ白になってしまったりするかもしれません。しかし経験を重ねることによって、少しずつその対処法が身についてきます。 高所恐怖症の人は、高いところに登ろうとするだけで足がすくんでしまい、ほとんどの場合チャレンジしないようです。しかし必要があって、どうしてもやらなければならないとき、一歩踏み出さざるを得ません。 私たちは少しずつ慣れることが出来ます。一氣に数10メートルの高いところは無理であっても、はしごを一段登ることが出来るのではないでしょうか。自分のギリギリ体験出来る高さまで登って、10分ほどその場所にいると、不思議にもその高さに慣れてくるそうです。そのようにして、少しずつ慣らしていくといいようです。 自分には絶対無理だと思い込んでいることが、最大の原因なのではないでしょうか。行動する前から結果を決め付けていませんか。相手の悪い面ばかりを見ていないですか。マイナスの思い込みは、そのように実現してしまいます。 何にでも訓練は必要と思います。小さな積み重ねが、大きく人間を変えていくようです。私の場合、最初人前で話したとき、何をどう話したらいいか分からず、とても大変でした。しかし数を重ねるにつれ、少しずつ余裕を持つことが出来るようになりました。逃げなければ何とかなるようです。背伸びしないことかもしれません。 誰でも、どんな時でも出来る対処法が、呼吸法なのではないでしょうか。腹式呼吸は心を落ち着かせてくれます。更に、「大丈夫」、「何とかなる」などのイメージを習慣づけることです。何かあったら直ぐにイメージするよう、習慣づけることです。最初の頃は意識してやりますが、そのうち考えなくても出来るくらい習慣づけることがいいようです。 心が乱れているときはバタバタするだけですので、闇雲に動いても何にもなりません。心を静めることから始めてはどうでしょうか。心を静めると、全体が見えてきます。自分の姿も見えてきます。深呼吸目をとじて静かな時をすごすと私の周りに満ちていた 透明な空気を実感するゆっくりした深い呼吸とともにそのエネルギーは体内へ流れ主張することもなく形を変えて生き続けているふと気付いたら安心という静けさの中に私は包まれていた
2008年10月15日
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いつも同じような生活をしていると、自分の現実の姿が分からないものです。しかし何かをきっかけにして、違うことをやってみると、客観的に自分を知ることが出来ます。 運動会の季節ですので、普段ほとんど走ることのない人が走ったとします。すると次の日はどうでしょうか。綱引きでみんなと一緒に綱を引っ張った次の日、体に何の変化もなければ大丈夫なのですが、多くの大人たちは足の筋肉が痛かったり、腕やあちこちが痛くなってくるのではないでしょうか。 普段使っていないから、その筋肉が実際には相当弱ってきていることを知らないだけなのです。急に筋肉が弱くなってくる訳ではないですので、ほとんどの場合、その変化に氣付かず生活しているのではないでしょうか。 頭のカタサも同じようです。学生時代は必要があってやっていても、就職し仕事に従事すると、案外同じような頭の使い方ばかりをするような傾向があるのではないでしょうか。本人がそのことを意識しなければ、知らず知らずのうちに、固定した考え方が身に付いてしまうのは仕方のないことかもしれません。 パソコン等の操作が苦手だからと、それまでやらなくても済んでいた人が、はからずも転職してパソコンを使わざるを得なくなったとき、自分の頭のカタサに氣付くのではないでしょうか。 でも大丈夫です。そこから逃げなければ、たとえ時間はかかるかもしれませんが、人間は慣れることが出来ます。少しずつ学習することによって、身に付いてくるものです。 筋肉も頭も、使わないと退化していくのは自然なことなのですから、もし少しでも若さや健康を保ちたいなら、それなりの行動を起こすことではないでしょうか。何もしなければ、確実に筋肉がなくなり、頭もサビ付いてくるでしょう。 体が痛くて、悲鳴を上げているような同年代の男性をマッサージする機会がありました。病院でリハビリはしているようですが、自分から積極的に治そうとしていないようでした。出来れば、薬で楽に治ることを願っているようでした。 しかし体がギリギリになってきましたので、このまま病院通いを続けるか、自ら運動などをして本氣で治す道を歩むか、迷っているようでした。どうしようもなくなってくると、決断せざるを得ないのかもしれません。 多くの人たちは、出来るなら楽をして治したいものです。でもそのことを断ち切り、他人に頼ることをやめ、自分で治そうとしない限り、健康からはどんどん離れていくような氣がします。自分の体の声を聴くことが出発なのかもしれません。日光・白根山から見る、手前から弥陀ヶ池・菅沼・丸沼。そして遠くに、左が燧ヶ岳、その右でなだらかな山が会津駒ケ岳。日光・白根山から見た富士山。来年も登りたいです。五色沼を間近に見ると、普通の沼でした。
2008年10月14日
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紅葉の季節ですので、少しでも早く出発すれば渋滞に巻き込まれないだろうと、朝4時半、家を出ました。しかし連休のせいか、人間の考えることは同じく、まだ暗いにもかかわらず、国道には相当数の車が走っていました。 今回、紅葉には1週間ほど早く、目的地の日光・奥白根山(2578m)には予定通りの7時半前には着いたにもかかわらず、駐車場は既に満杯の状態でした。 高い山ですので、さぞ紅葉が素晴らしいだろうと期待したのですが、期待は私の見当違いでした。よく考えてみれば、標高2000数百メートルを超えたところには木が生えていないことを改めて知ることが出来ました。木がなければ紅葉もありません。 ある程度の標高であれば木の種類も多く、紅葉を楽しめることを知りました。夕方は帰る車が相当混雑することを予想して、少し時間をずらして車を走らせたのですが、案の定、普通20分位で走れるところが2時間以上かかりました。 多くの人たちは同じようなことを考えることを、今回も強く印象付けられました。昨年尾瀬に行ったとき、時間が半日ずれたため、大多数の人たちと向かう方向が反対でしたので混雑に巻き込まれなく、ゆっくり紅葉を楽しむことが出来ました。 みんなと同じことをやろうとするから、時間の無駄が出来るのではないでしょうか。正月・お盆の帰省ラッシュは毎年のことです。私はやむを得ず出かける必要がある場合を除いて、その時期は余り外に出ないようにしています。 日本人の多くは、他人と同じことを好むといわれています。同じ行動していると安心するようですので、渋滞もそのようなものとあきらめている方々が多いのではないでしょうか。 へそ曲がりなのかもしれませんが、私は以前から人と同じことをするのが嫌いです。従って常識的に生きることにあまり関心がありません。宇宙の法則に則って生きることは良いのですが、その時その時代の人間の作った常識は、あまり信用していません。 もっともっと個性的に、ユニークに生きてもいいのかもしれません。同じ発想では新しいものは生まれてきません。独創的な発想は、独創的な生き方から生まれてくるのではないでしょうか。同じ行動からは、同じ発想しか出てこないことを、再度確認する一日でした。白根山頂から見る五色沼白根山頂から、初めて富士山を見ることが出来ました。日光・湯の湖は紅葉でした。
2008年10月13日
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同じ状況はいつまでも続きません。人生後半の人は特に、自分の体一つとってみても、どんどん変化していることを、誰もが実感出来るのではないでしょうか。 変化するのは物事の自然な姿なのですから、どうせ生きるなら、スンナリと受け入れた方がいいのではないでしょうか。良いことも続きませんが、良くないことも続かないということです。悩んでいる人の一番大きな間違いは、現在の状態がいつまでも続くと錯覚していることにあります。 常に変化しているということは、考え様によってはいつもがチャンスなのです。変化を一つのチャンスと捉えれば、私たちは変わることが出来るのです。しかし何となく生きていては、変わることは出来ません。ただ歳をとるだけで、人間的にあまり成長しない人もいます。過去にこだわった生き方です。 本人が本氣で変わろうとすれば、生き方を変えることが出来ます。しかし現実には、そう簡単に自分を変えることが出来ないのも事実です。多くの場合、新しく生きようとしても初めてのことですので、不安がつきまとい、どうしても過去を引きずる生き方に戻ってしまうようです。 私たちは理屈や頭では分かっていても、それを実行に移す人は少ないです。顕在意識では分かっていても、潜在意識が古いままですので、当然変わることは出来ないようです。 本氣で自分が新しく生きようとするなら、まず潜在意識を変えることが必要です。普段、何氣なく思っていることが、私たちに大きく影響していることを忘れてはなりません。口癖もその一つです。よく周りの人を観察してみて下さい。口癖のように現実化していないですか。 私たちの現実は、普段思っていることが実現しているだけのようです。だから心配ばかりしている人は、心配のつもりだったことが実現してしまうのです。反対に前向きに生きている人は、そのような結果を招きます。 紅葉の季節になりました。この季節は日1日どんどん変化していきます。移り変わりを客観的に楽しんでこようと、朝4時半に家を出発し、妹夫婦と、日光の奥白根山に登ってきました。
2008年10月12日
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山に登って、とても喉が渇いたとき、水の美味しさは格別のものです。お腹が空いて食べたとき、たとえそれがパンのひと切れであっても、深い味わいがあるものです。 托鉢でお金がないとき、食パンを買って食べてもいいことに氣付きました。何もつけなくても、お腹が空けば美味しいからです。 現代日本は飽食の時代ですので、いろいろな店の味比べをすることが多いのですが、食べることの原点を問うことを忘れているような氣がします。お腹が空いているとき、ものがいちばん美味しいことを。 物質的に豊かになった分、その喜びはなくなってきたのかもしれません。私が幼少の頃、現代のように物があふれていませんでしたので、物を大事に使いました。そして物がなければ、自分で工夫して作った記憶もあります。 お金を出せば求めることが出来るようになると、私たちの頭から「工夫する」という、とても大切な能力が退化していってしまうのかもしれません。簡単にロープウェーで登った山は感動はしますが、浅い感動なのではないでしょうか。 教育も然り。与えられた問題を正しく回答することは出来ても、自分で問題を提起し、自ら答を探そうとする人は減っているのではないでしょうか。物質的に満足してしまうと、好奇心も活動しなくなってくるのかもしれません。 私たちは結果ばかりを求め過ぎていないでしょうか。本当はその途中、過程にこそ生きる意義があるのではないでしょうか。明日でなく、今日生きていることに価値があるのではないでしょうか。 私もかつて途中を楽しむことをすっかり忘れていたときがあります。我慢しながら頑張って生きていたときです。余りにもシンドク、その余裕さえなかったのかもしれませんが、現在では、どのような中にも楽しみを見つけるよう心がけています。 楽しみを見つけようと意識を変えると、特別なことの中にだけ楽しみがあるのではなく、日常の身近なところにも発見出来るようになります。 お金や時間をかけなくても、出来ることが沢山あります。身近な風景をデジカメで楽しむ。ふと感じたことを、言葉で表現してみる。初めての、違った道を歩いてみる。一歩外に出れば、たくさんの小さな発見が待ってくれています。 動くことが出来なければ、窓を開けてもらい、新しい外の空気を入れ、空でも眺めてみましょう。潜在意識に働きかける、イメージの訓練をすることも出来ます。 探さない人は見つかりませんが、探し始めると見つかるものです。どんなときでもいつもがチャンス明るいイメージで潜在意識を変えていくと今日の生き方が変化してくる
2008年10月11日
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その人その時によって、時間の使い方が違ってきます。私の20歳から30歳は、寝ても覚めても修業の日々でした。そのためには多くのことを犠牲にして集中してきました。 30代は独立して自由の身となり、仕事中心から脱皮し、多くの人間関係を学びました。 36歳で結婚をして、40歳頃からは家族のためもあり、本腰を入れて陶芸に打ち込みました。家を造るため借金もしましたので、遊ぶことは考えず無我夢中で働き続けました。まだまだ体力にも自信がありましたので、健康のことなど一切考えず、相当無理をした生き方でした。 無理な生き方は当然、物事の考え方もそうだったのかもしれません。道理に反した生き方をすれば当然、問題も起きてきます。そのためにはどうしたらいいか悩んだ時期でもあります。 人間、答を探そうと思えば、時間がかかるかもしれませんが見つかるものです。50代からは関心が、陶芸という物作りから人間観察へと移ってきたようです。どのようにしたら、苦しまず生きられるか等です。ほとんどの方々が、何らかの悩みを抱えていることを知りました。 一見順調にいっているように見えても、多くの場合、50歳前後を境にして病気になる人が増えてきます。それまでの生活習慣が目に見える形として表面化してくる年代なのかもしれません。よく言えば、人間的に成長出来る時期ともいえます。 そして60歳間近の現在、運良く仕事に追われることもなく、自由に時間を使えるようになってきました。またとないチャンスかもしれません。さんざん自分を犠牲にしてまで働いてきたのですから、自分に対する褒美の時期なのかもしれません。あるいは、これからのためのひと休みの時期なのかもしれません。 私たちはその時その時、自分で重要と思われることに時間を使っています。少しでも多く稼ごうとすることもいいかもしれません。しかしお金は、どのように使うかによって意味合いが違ってくるのではないでしょうか。 何といっても人との出会いが、その時その時の私を変えてくれたようです。不思議にもちょうどいい時に、ちょうどいい人に出会うようです。人間関係で苦しんできましたが、自分が変わることによって、人間関係が楽しみに変化してくるのですから、何がどうなるか分かりません。 関心があるからこそ苦しむのかもしれません。そのうち何らかの方法が見つかると思います。山登りの頂上間近は苦しいのですが、もう一歩かもしれません。頂上のあのパノラマは実際に登った人にしか分かりません。転機あるとき 形や色や文様という目に見える世界を中心に生きている自分に氣付きものが作れなくなってしまった精神が大切といいながら 実際には評価されやすい外側ばかりに生きていた私だったそして一年余り何も作ることができなかつたあるとき ふとものづくりの原点から出発してみようと子供や素人のやるような効率の悪い 手びねりをはじめ暗中模索からの再出発だった今ふり返ってみると壁に突き当たったからこそ新しい世界に出会うことができたのだ苦しい行き詰まりがあったから無理のない生き方に出会えたのだ
2008年10月10日
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順調にいっているときは、変化の必要はないかもしれません。しかし問題が次から次へと重なってきたり、行き詰まってどうしようもなくなったとき、それまでの方法、あるいは生き方では通用しないことが分かったのですから、これを機会に変化せざるを得ません。 自ら変わろうとしても、なかなか変わることは出来ませんが、やむを得ない状況のときこそ、大きく変われるチャンスなのではないでしょうか。状況の変化をうまく利用し、自分の生き方を変えることです。 私たちは、今度はこうしようと頑張ってみても、直ぐに挫折してしまうのは何故なのでしょうか。それには、なりたい自分を明確に文章化し、それを1日のうちに何度も見るよう心がけ、行動を続けることかもしれません。 勢いのあるうちは行動するのですが、日数が経つにつれ忘れてしまうことが多いのではないでしょうか。日々新しい出来事が起きてきますので、つい目の前のことに心を奪われ、理想とした大事なことを忘れてしまうようです。 そのためにも文章化して、1日のうちに何度でも見られるよう潜在意識に知らずのうちに入っていく位、印象づけていくことが必要なのかもしれません。それ位の心構えがないと、なかなか簡単にそれまでの習慣を脱皮し、新しい自分になることは難しいのかもしれません。 現在の自分で満足しているのであれば、行動の必要はありません。しかし本当に変わろうとするなら、何でもいいから出来ることから始めることです。ほんの少しでもいいから、今日から始めることです。 後で、とよく言う人がいますが、後ではありません。私にはやる氣がありませんよ、という意味のことでもあることを忘れないでください。重ねて言いますが、後ではありません。今すぐ何らかの行動を始める癖づくりが、自分を変える第一歩なのではないでしょうか。 行動をする人は変われます。しかし行動しない人はいつまでも変わることは出来ないばかりか、ますます問題が深みにはまっていくのではないでしょうか。行動、そして続けられるかどうかで明暗が分かれるようです。なりたい自分を明確に文章化し見えるところに貼っておく
2008年10月09日
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食べ物の好き嫌い、運動に対する考え方、物事の解釈の仕方など、それぞれその人によって癖があります。バランスよくやっていれば問題がないのですが、習慣化してしまうと、たとえそれが相当偏っていたとしても、本人には氣付き難いようです。自分の姿はいちばん見え難いからです。 それが積もり積もってくると、病気になったり、体調を崩す結果を招くようです。良くない結果が出てはじめて、私たちは自分を客観的に見るのかもしれません。 私は運動が苦手でしたので、ほとんど興味もなく、仕事中心に生きてきました。そして40歳を過ぎた頃から腰痛が悪化し、やっと運動の必要性を感じました。しかしそのための時間を作ることに熱心になった訳ではなく、必要最小限のストレッチ体操をやるだけでした。 そして昨年よりウォーキングをはじめ、それが山登りへと発展し、物事に対する考え方もずいぶん変化してきました。最初は健康のためにと思って歩き始めたのですが、少しずつ変化し、現在では楽しむために歩くようになってきました。 いちばん根の深いのは、物事に対する考え方の癖なのかもしれません。いつも物事を悪く解釈する人は、生活全般にわたって暗くマイナスに解釈しますので、ますますそのような結果を招くようです。 一方、物事を明るく解釈するようになると、どんな出来事でもチャンスと捉えるようになってきますので、毎日を興味津々生きることが出来るようになります。 理屈では分かっていても、なかなか行動に移せないのが多くの人たちです。でも大丈夫。逃げるところがあるうちは逃げられますが、そのうちに逃げるところがなくなるときが来ます。そうすればやっと自分と向き合うことが出来るのではないでしょうか。新しい始まりです。 本当に自分を変えようと思ったとき、それは行動となってきます。実際に行動を始めれば、それまで想像出来なかったような思いがけないことが起こり始めます。自分の殻を破れば、別世界が待っています。状況の悪いときは、古い過去を卒業するときなのかもしれません。新しい生き方をすればいいのです。再出発みたつもりわかったつもりの私だったもう一度新しい氣持ちでやってみる 底力宋休肩の力をぬきゆっくりと呼吸をすれば何とかなる
2008年10月08日
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現状維持を願っても、現実にはその願いは空しく、私たちはどんどん変化せざるを得ません。健康で若いときが続くならいいのですが、現実には思いがけない出来事が起きたりと、人生はハプニングの連続なのかもしれません。そして日々確実に、誰もが死に一歩ずつ近づいています。 変化を避けようとする生き方は、自然の法則に反した生き方でもありますので、精神的肉体的に苦痛が伴うことが多いのではないでしょうか。 一方、変化を受け入れ、変化と共に自分の生き方を変えることによって、無駄な労力はずっと減るのではないでしょうか。 同じ高いところから落ちても、赤ん坊は案外ケガすることが少なく、大人は身を守るため手足を骨折することが多いようです。赤ちゃんは体の力が抜けているから、やんわりと着地するのかもしれません。無駄な抵抗をしないからではないでしょうか。 今のままでいたいと思っても、50歳を過ぎた頃から1日の過ぎるのが早くなってきます。何もしなければ確実に老化現象が増えてきます。ただ単に歳を取りたくないと思っているだけでは、自分の願望とは反対に益々老化が進んでいきます。 しかし老化を受け入れ、そのためにはどうすれば老化を遅らせることが出来るかを考え、実際に行動する人たちもいます。その人たちは同年齢であっても、パワーが全然違うのではないでしょうか。肯定的人間と否定的人間の違いです。 病気も然り。なりたいと思って病気になる人はいません。殆どがその人にとって一大事です。そして同じ病気であっても、そこから逃げようとする人たちがいる一方、病気を受け入れ、これを一つのチャンスと捉え、それまでの生き方を変える人たちもいます。何がチャンスになるか分かりません。 ハプニングは自分を変えるためにあるのではないでしょうか。それまでの生き方・考え方を変えるために、天が与えてくれているのではないでしょうか。 頭だけでいくら考えていても、一向に問題は解決しません。自分に出来る解決策を自ら探し、直ぐに実行することです。そして一度や二度で諦めず、続けることによって生き方が変わってきます。すると不思議にも、出来事の意味を肯定的・前向きに解釈出来るようになります。自分に起こる出来事に、無駄なことはありません。現実を受け入れ行動すれば積極的人生が今日から始まる変化は またとない天からのプレゼント水は流れているから、勢いがあり、清さを保つことが出来るのかもしれません。葉の色も、どんどん変化しています。ホーム・トップの全体の画像です。
2008年10月07日
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不真面目も問題が多いかもしれませんが、真面目過ぎるのも良くありません。ちょうどいい真面目であれば、融通性もありますので、自由に物事に対処出来るのではないでしょうか。 真面目な人は案外、自分の知っていることを受け入れることは出来ますが、未知の世界や、初めての体験に対して慎重になるのではないでしょうか。先人の歩いた道はある程度の確実性があるため、間違いや失敗が少ないからです。 かつてのように時代の流れが遅かった時代はそれでも通用していました。しかし現代のように地球的規模で変化が早くなってきた時代では、かつての常識が通用しなくなってきた現実があります。 ということは単に過去の知識を集めるだけでなく、まったく新しい方法や生き方を模索する必要のある時代になったという訳です。つまり創造性が今まで以上に求められる時代になったのではないでしょうか。 創造性は新しいことへのチャレンジですので、常に失敗も伴ってきます。数多くの失敗という貴重な体験を乗り越えて、新しいものは生まれてきます。始める前から失敗を恐れている人たちに、創造性を求めるのは無理かもしれません。 生活に、あるいは精神的に余裕があるとき、遊ぶという心の余裕も生まれてきます。しかし一生懸命頑張ってるとき、ふと氣付くと、心に余裕のないことを感ずることがあります。自分が頑張って苦しいとき、他の人のことを理解する余裕も生まれてこないのかもしれません。 毎日同じパターンで生活していると、少し状況が変化しただけで、その変化に対応出来ないのではないでしょうか。ときどきは積極的に初めての体験をすることによって、懲り固まった頭を柔らかくすることが出来ます。 やってみれば何とかなります。新しい世界に一歩踏み出せば、少しずつ世界観が広がってきます。ちっぽけな自分だけの世界で生きているから、苦しいのかもしれません。井の中の蛙、状態です。機会を見つけて古い井戸から出てはどうでしょうか。現在苦しいのは、生まれ変われるチャンスが、目の前に来ているのです。考えてばかりでは一歩も進みません勇気を出して一歩踏み出せば何とかなりますゆっくり構えると心の重心が下がり腹が決まってくる焦りは何にもなりませんゆっくり歩いてみると違う世界が見えてくる会津駒ケ岳、頂上近くから
2008年10月06日
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汚れた服は、洗濯機に入れるとキレイにすることが出来ます。しかし案外忘れているのは、心の洗濯なのかもしれません。 心をそのままにしておくと、いらなくなった古いものがこびり付いてくるのではないでしょうか。過去に引きずられて生きる姿は、心の掃除を忘れている状態なのかもしれません。働くばかりでは、そのうち新しい発想を受け入れる余裕がなくなってきて、疲れが溜まるばかりです。 ときどきは意識的に心の洗濯を心掛けた方がすっきり生きられるのではないでしょうか。毎日懸命に生きている自分にも、ゆっくりした時間をプレゼントしてはどうでしょうか。 普段と違ったことをやってみる、あるいは行ったことのない初めての場所に足を延ばしてみる。非日常を体験することによって、日常の自分を客観的に見ることが出来ます。新しい世界があることを知ることによって、いかに小さなことにこだわり続けて生きている自分を知ることも出来ます。 心がさらの状態になると、固定観念がなくなってきますので、謙虚に物事を見たり、人の話を聞くことも出来るようになるのではないでしょうか。分かっていると思っていたことが、実際には分かっているつもりなだけで、本当のことが何も分かっていなかった自分に氣付くこともあります。 心から余分なものがなくなってくると、あれもこれもやろうとは考えなくなり、シンプルに生きられるのではないでしょうか。大切なことが何か分かれば、決断も早くなります。大事なことを先延ばしにする生き方にも、サヨナラ出来るようになります。 体重が増えてくると歩くことが困難になり、ますます運動をしない体になり、やがて生活習慣病へと変化していくようです。心も同じように、心が重くなったと感じたら、軽くなる方法を考え実際に行動に移してみることです。 心は少しずつ汚れてきますので、本人は氣付かないものですが、周りの人からはその汚れがよく見えるのではないでしょうか。仕事中毒で、心の洗濯を忘れていませんか。深呼吸が大切なように、ときには新しい空氣が必要です。ときどきはゆっくりと自分にもほうびを尾瀬,上田代(標高1620m)尾瀬ケ原から見る至仏山燧ヶ岳(ひうちがだけ)、俎(まないた)ぐらから見た尾瀬沼
2008年10月05日
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久しぶりに晴れた日が続いたので、3日間、家を空け、急遽、福島県桧枝岐村に行ってきました。尾瀬の燧ヶ岳(ひうちがだけ、2356m)、そして会津駒ケ岳(2133m)に登って来ました。 山登りのときいつも感ずることですが、頂上に行くまでの8割ぐらいは林の中を歩いたり、ただただ先の見えない歩き難い山道を歩き続けます。しかもずっと急斜面のときは、何で登っているのか疑問に思うこともあります。 そしてやっと頂上が見える頃になると、急に視界が広がってきます。今までの地味な登山が嘘のように、登ってきた人にしか分からない世界があります。進む度に景色が変わり、これに出会う為にその前段階として、ひたすら登り続けることが必要なのかもしれません。 会津駒ケ岳は今回初めて登る山でした。人が薦めるわりには、頂上まではこんな山なのかと、それほど魅力的には感じませんでした。ところが頂上を越え中門岳に向かうに従って、それは別世界でした。山のてっぺんに小さな池がいくつもあるのです。遠景に山並みが見える、自然の空中庭園のようでした。 大したことはないだろうと、もし頂上までで下山してしまったら、あの先にあのような素晴らしい風景があることに氣付かず、自分の体験したことのみを記憶に残すことになるでしょう。 今回時間的に余裕があったので、同じ道を下山するのではなく、5時間くらい遠回りして尾根伝い(大津岐峠)を歩いてきました。その風景も実際に行った者にしか分からない感動がありました。 日常生活でも、私たちの普段の仕事は地味な作業が続くのではないでしょうか。そしてあるとき突然、世界が広がってくるようです。しかし大多数の人たちはこの先行っても何もないだろうと、感動の一歩手前で、何らかの理由をつけてあきらめてしまうのかもしれません。 ものになった人は、普通の人たちよりも少し地味な作業を続けたから、新しい世界に巡り合えたのかもしれません。行ってみなければわからないあきらめず歩き続けていればあるとき突然視界が広がってくる会津駒ケ岳からの風景遠くに見えるのが、燧ヶ岳
2008年10月04日
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まもられているからだいじょうぶこころあらたに最初からやってみるこんなわたしをいつもまもってくださりありがとうございます ここのところ、潜在意識について考えることが多いです。日々考えていること、そして何氣なく口癖として発せられた言葉が、その本人に大きく影響していることが分かったからです。 何でもそうかもしれませんが、単に物事の道理を知っても、知っているだけでは何の変化も起きません。私たちはいいと思ったことを実際に行動に移して初めて、それが自分のものとして実現されてきます。しかも1回やっただけで、直ぐに実現するようなことは少ないのではないでしょうか。 身につけるまでは意識して続けることが大切です。現在ためしていることに、「安心している姿をイメージ」することです。何か心配しそうになったとき、意識を明るい方向に転換し、「安心している姿をイメージ」するのです。 散歩をしているとき、仕事の休憩のとき、トイレに入ったとき、お風呂に入っているときなど、1日のうちに何度でも機会を見つけてやってみるといいようです。1日に1回や2回では、やらないよりはいいかもしれませんが、ぜひ実現したいのなら、1日のうちに何度でも習慣になるくらいやってみることです。 私の場合、なりたい自分や物事の道理に氣付いたとき、それを文章化して短冊やハガキに書いて、見えるところに置いておきます。機会あるごとに見るたびに脳にインプットされ、最初は無理であっても、少しずつそのようになってくるから不思議です。何の努力もしないで、出来ないのは当たり前です。 機会あるごとに実践するから、自然に身についてくるのかもしれません。言葉だけ知っていても実際にやらない人は、いつまでも本質的に変わることはありません。知ったら自分なりに行動していくことが、その人間を変えていくようです。少しずつ変わればいいのではないでしょうか。やっていれば、自分の方法が見つかります。 最近、散歩のとき、携帯を持っていることが多いですので、ふと浮かんだ短文を直ぐに携帯にメモしておきます。仕事机に向かって文章を作ろうと思ってもなかなか出てきませんが、リラックス状態のとき、思いがけずいろいろな発想が湧き出てくるようです。※ 新しいパソコンにしてから、画像処理がうまく出来なくなり、2日かかって、やっとその原因が分かりました。ちょっとした入力ミスが原因でした。途中から何度やっても駄目でしたので、最初からやってみたら、今まで通り使えるようになりました。ブログホームの最上段の画像も、自分で撮った写真を入れられるようになりました。知らないことは、聞いてみることかもしれません。
2008年10月01日
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