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深草十二帝陵京都市伏見区深草坊町京阪本線・藤森駅より北東へ徒歩11分深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)は、「深草十二帝陵」と呼ばれる12人の天皇が合葬されている陵墓です。鎌倉時代にこの地に安楽行院という寺院が創建され、その法華堂に12人の天皇の遺骨が納骨されていました。応仁の乱以降に安楽行院は焼失し、法華堂は残ったものの、その後は荒廃します。江戸中期に再建され、明治時代には法華堂の周辺が深草北陵として整備されました。<鎌倉時代>後深草天皇(第89代)、伏見天皇(第92代)、後伏見天皇(第93代)<南北朝時代>後光厳天皇(北朝第4代)、後円融天皇(北朝第5代)、後小松天皇(第100代・北朝第6代)<室町時代~桃山時代>称光天皇(第101代)、後土御門天皇(第103代)、後柏原天皇(第104代)、後奈良天皇(第105代)、正親町天皇(第106代)、後陽成天皇(第107代)また、初代伏見宮の栄仁親王(北朝第3代崇光天皇の皇子)も合葬されています。天皇が「持明院統」の北朝と「大覚寺統」の南朝に分かれて争っていた時代(南北朝時代)がありました。足利義満の斡旋で、南朝側を正統としたうえで、南朝の後亀山天皇(第99代)から北朝の後小松天皇(第100代)に皇位を委譲することで南北朝が一つになりました。「深草十二帝陵」は「持明院統」側、すなわち北朝の系統で、「南朝が正統」とされたため、後小松天皇以前の北朝側の天皇は、歴代の天皇としては数えられていません。天皇陵というと古墳をイメージしますが、平安時代以降は火葬が普及し、寺院内の塔や御堂に遺骨を納めるようになったことで、合葬されるようになったのでしょう。南北朝時代は戦乱の時代でもあり、皇室の財政が厳しくなったことも背景としてあるようです。
2013年05月30日
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浄蓮華院京都市伏見区深草鞍ケ谷京阪本線・藤森駅より東へ徒歩15分浄蓮華院は、桓武天皇の菩提を弔うために、江戸時代に建立された天台宗妙法院派の寺院です。本尊は阿弥陀如来で、深草毘沙門天とも呼ばれます。桓武天皇の肖像画が祀られているそうです。現在の洋風の建物は、昭和33年(1958年)に再建されたものだそうです。写真の背後の山は「谷口古墳」と呼ばれる古墳で、6世紀後半のものだと言われています。一説には桓武天皇の御陵とも言われています。明治時代になって、現在の場所(桓武天皇柏原陵=伏見区桃山町永井久太郎)と定められましたが、明確な根拠はないようです。
2013年05月28日
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仁明天皇陵京都市伏見区深草東伊達町京阪本線・藤森駅より東へ徒歩15分仁明天皇深草陵(にんみょうてんのうふかくさのみささぎ)は、平安時代の第54代仁明天皇の陵墓です。京都の周辺には多くの天皇陵がありますが、南北朝以降の戦乱などで所在地が不明になったものも多くあります。江戸時代後期、尊皇思想が高まり、天皇陵の所在が調査されました。この位置も幕末に定められたもので、長らく所在は不明でした。しかし、信憑性には疑問が持たれているようです。実際にはもう少し北側の地ではないかとの説もあるようです。この場所は名神高速道路の南側です。写真の後ろ側に高速道路の防音壁が見えています。仁明天皇は、平安時代初期の天皇で、嵯峨天皇の第2皇子でした。歴史的にはそれほど重要な役割を果たしてはいませんが、藤原家の勢力が強くなる中で、病弱な仁明天皇の周辺にはいろんなことがあったようです。
2013年05月26日
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最近ほぼ毎週、神戸の実家に行くので、距離が伸びました。ブログを遡ってみると、7777の記録が昨年の6月でしたので、この一年で1万5000キロほど走ったことになります。とくに何事もなく、順調です。
2013年05月25日
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また、京阪沿線のぶらり途中下車の旅を再開します。独立行政法人国立病院機構 京都医療センター京都市伏見区深草向畑町京阪本線藤森駅より南東へ徒歩7分現在、39の診療科、600床の病床を持つ大規模病院で、一日当たり1300人以上の外来患者を診察しているそうです。 かつては国立京都病院と呼ばれていました。いまでも交差点の名前は「国立病院前」です。「京都陸軍病院趾」の碑京都医療センターは、明治40年(1907年)の陸軍衛戍(えいじゅ)病院がその前身です。「衛戍病院」というのは、「衛戍地」すなわち軍隊が長く駐屯して防衛する場所に建てられた病院のことです。昭和20年(1945年)、国立京都病院に継承されました。京都医療センターの裏手には、かつて陸軍病院であったことを示す碑が立っています。
2013年05月20日
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日本庭園(相楽園)相楽園の日本庭園は、「池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)」と呼ばれます。池と、その周囲を巡る園路を中心に構成され、江戸時代に発達したものです。日本三名園(水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園)もそうですし、桂離宮、栗林公園など、有名どころの日本庭園にも多く見られます。園内の旧ハッサム邸で係員の方に、「散策して楽しむのもいいけど、相楽園会館の場所から見るのが一番いい」と教えてもらいました。相楽園会館は敷地の北西にあり、少し小高くなっています。もともとこの場所にかつての所有者・小寺氏の住居があり、庭園もそこからの眺めがよくなるように設計されているというわけです。ごもっともです。浣心亭(茶室)もともとこの場所には「浣心亭」という離れがあったのですが、戦災で本館とともに焼失してしまったそうです。戦後、茶室として新築されたものです。池の周りを散策してみました。橋の向こうに見えるのは「船屋形」。もともとは江戸時代に姫路藩主が使っていた屋形船「川御座船(かわござぶね)」だったのですが、保存のため、その屋形部分だけが陸揚げされました。重要文化財に指定されています。
2013年05月19日
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倒壊した煙突(相楽園 旧ハッサム邸)平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災では、旧ハッサム邸も大きな被害を受けました。庭に置かれているのは、そのときの地震で倒壊した煙突です。屋根の上にあった煙突が、屋根と2階の床を破って1階まで落ちてきたそうです。北西の部屋は大破したとのことです。翌平成8年、修復のときに部屋から取りだされた煙突は、後世に語り伝える目的でここに展示されています。家屋の前に倒壊した煙突が置かれています。屋根の上に目を移せば、修復された煙突が2つ見えていますね。
2013年05月12日
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旧ハッサム邸(相楽園内)明治35年(1902年)ごろ、英国人貿易商のハッサム氏が神戸・北野町の異人館街に住居として建てたものです。木造2階建ての和洋折衷の建物で、英国人が設計したそうです。昭和36年(1961年)に神戸市に寄贈され、昭和38年(1963年)に移築されました。通常は内部は公開されませんが、この日は見せてもらえました(今年の公開日は4月27日(土)~5月12日(日))。もちろん今は人が住んでいませんので生活感はありませんが、我が家と比べようもない(笑)洋風の生活を想像して楽しませてもらいました。1階の母屋は、正面に玄関ホールと廊下、階段。左手に食堂と配膳室、右手に応接室、居間、居間の奥には書斎があります。2階には寝室が3つと子供部屋があります。2階には浴室もあり、お湯も出たようですね。これ、湯沸かし器でしょうねえ、ガスかな?2階建ての別棟には使用人室が3つあり、2階の渡り廊下で母屋とつながっています。また、厨房も別棟の1階に置かれていました。 家族のプライバシーを重視した造りになっているとのことです。
2013年05月11日
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旧小寺家厩舎(相楽園内)神戸の相楽園の持ち主であった小寺謙吉氏(元神戸市長)が、明治時代の末に建てた厩舎です。昭和45年(1970年)に重要文化財に指定されています。右側の建物は天井まで吹き抜けになっており、ここに馬が飼われていました。正面は馬車庫で、その二階は厩務員の宿舎になっていました。小寺謙吉氏愛用の馬車今なら黒塗りの高級車といったところでしょうか。かなり小さく感じました。左右の高い位置に付いているのは夜間用のライトなんでしょうね。電灯が装備されていたとも思い難い(バッテリとか、エンジンがあるとは思えない)ので、ランプか何かをセットしたのでしょうか。まさかロウソクではないと思うのですが。
2013年05月10日
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相楽園の蘇鉄(そてつ)相楽園の入口をはいってすぐ、大きなソテツが出迎えてくれます。説明板によると、明治40年(1907年)に鹿児島県から移植されたものだそうです。樹齢250年と書かれていますが、文面の日付が「昭和30年」となっていますので、樹齢はいまでは300年くらいだと思われます。相楽園と名付けられる前、当時の小寺氏の私邸は「蘇鉄園」とも呼ばれていたようです。
2013年05月08日
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神戸市立相楽園神戸市中央区中山手通5丁目神戸市営地下鉄・県庁前駅より北へ徒歩5分連休中に、神戸の「相楽園(そうらくえん)」に行ってきました。相楽園は、神戸市の所有する広さ約2万平米の公園で、兵庫県庁のすぐ北側にあります。日本式庭園で、市街地とは思えない静かな空間です。三田(さんだ)藩の藩士だった小寺泰次郎氏が神戸で事業を起こして成功し、明治18年(1885年)ごろから築造し始めた私邸が、現在の相楽園のはじめです。明治末期に完成しました。泰次郎の長男、小寺謙吉(1877年~1949年)はここで生まれました。彼は、戦前、衆議院議員を6期務め、戦後の昭和22年(1947年)には神戸市長の職につきますが、1期目の半ばで病に倒れ亡くなりました。私邸は昭和16年(1941年)に神戸市の所有となり、中国の古書「易経」の一節「和悦相楽(わしてよろこびあいたのしむ)」から取って「相楽園」と名付けられたとのことです。この時期、ツツジが見頃になります。園内のあちらこちらに咲くツツジの花を愛でながら、園内を散策してきました。いくつか見所がありますので、何回かに分けてご紹介したいと思います。開園時間: 9時~17時(入園は16時30分まで)休園日: 毎週木曜日(祝祭日のときは翌日)および年末年始 ただし、菊花展期間中は無休入園料: 大人300円
2013年05月07日
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大阪市役所前に展示中の旧100形かつて地下鉄御堂筋線を走っていた旧100形車両が、大阪市役所玄関前に展示されています。5月31日(金)までの予定です。大阪市営地下鉄は、昭和8年5月20日に梅田~心斎橋間で営業を始めました。今年で開業80周年になります。日本最初の地下鉄は東京の銀座線ですが、公営地下鉄としては御堂筋線が日本初です。旧100形は、御堂筋線開業時に使用された車両です。長さ17メートル、幅2.9メートル、高さ3.65メートルで、自重40トン。耐火性を考慮して全鋼製で製造されました。当初は1両のみの単行で運転されたにもかかわらず、ホーム長は12両(途中からは8両)に対応して建設されたそうです。なんともぜいたくな話で、今だったらそんな計画は通らないのでしょうが、現在では18メートル級車両10両で運転していますから、先見の明があったということなんでしょうね。 御堂筋線は第三軌道を使った集電なのでパンタグラフはありません。さらに展示のために台車の無い状態なので、文句を言うわけではないですが、違和感を感じますね。第三軌道からの集電装置は台車に付いていますので、それも見られないのが残念です。 電気連結器を装備していました。また、列車の追突防止のため、打子式と呼ばれる自動列車停止装置(ATS)も備えていました。旧100形は、昭和44年(1969年)まで営業に使われていました。大阪万博の前に新型車両に置き換えられたのですね。一番原形に近い105号が保存車両として選ばれ、現在は緑木検車場(大阪市住之江区緑木)にて静態保存されています。この緑木車検場には「市電保存館」もあり、年に1回、11月ごろに一般公開されています。
2013年05月06日
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京都聖母学院本館(旧・第十六師団司令部庁舎)京都市伏見区深草田谷町京阪本線・藤森駅より北東へ徒歩3分明治41年(1908年)、陸軍第十六師団の司令部庁舎として建設されました。戦後、聖母女学院の創始者が払い下げを受け、現在では本館として使用されています。
2013年05月05日
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陸軍第十六師団の施設から師団街道へのアクセス道路として、3つの「軍道」が作られました。北から順に「第一軍道」「第二軍道」「第三軍道」と呼ばれています。京阪本線・藤森駅の北側の道は「第二軍道」と呼ばれています。上の写真の中央付近が「西師団橋」で京阪本線を跨いでいます。その手前は琵琶湖疏水を越えるための「師団橋」です。琵琶湖疏水に架かる師団橋です。師団橋の橋桁をよくみると、星の印があります。これは「五芒星(ごぼうせい)」と呼ばれる陸軍のシンボルマークです。第二軍道は師団司令部につながる道として特に重要視されたそうです。
2013年05月04日
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師団街道は、塩小路橋東詰から南へ、京阪本線の西側に沿うように通り、墨染のインクライン付近で国道24号に達します。北側は川端通へ、南側は京町通へと続きます。明治38年(1905年)、帝国陸軍第16師団が創設され、明治41年(1908年)には司令部庁舎が深草の地に建てられました。これに伴い、京都市街地とを結ぶ軍用道路が整備され、師団街道と呼ばれるようになったそうです。
2013年05月03日
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深草遺跡京都市伏見区深草西浦町京阪本線・藤森駅より北西へ徒歩7分 NTT西日本深草別館の北東角に、「深草弥生遺跡」と書かれた石碑があります。脇の案内板によると「この付近は、弥生式文化時代の重要な遺物が出土した所」だそうです。戦後の学術調査によって、弥生式中期時代(約2000年前)の鍬(くわ)や鋤(すき)の木製農具、石斧などの石器、壷や甕(かめ)等の土器など、当時の生活を知ることができる遺物が数多く発見されました。とくに木製農具には堅い材木が使われており、精巧に作られていることから、鉄器も使われていたのではないかと考えられているそうです。この地域は、京都盆地の中でも早くから水稲耕作が始まったといわれております。明確な住居跡は見つかっていないようですが、かなり大規模な集落だったと推定されています。その後この付近では、5世紀にはいるといくつも古墳が築かれており、4~6世紀にかけて渡来した秦一族が勢力を伸ばしていったのだろうと考えられています。石碑にもありますように、当初は「深草弥生遺跡」といわれていましたが、現在は「深草遺跡」とよばれています。
2013年05月02日
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京(みやこ)エコロジーセンター京都市伏見区深草池ノ内町京阪本線・藤森駅より西へ徒歩7分平成9年(1997年)、京都で「地球温暖化防止京都会議(COP3)」が開催されました。いわゆる「京都議定書」がまとめられ、これにより先進国は、地球温暖化の原因となる二酸化炭素などの排出量削減に努めることになりました。日本は排出量削減の目標を二酸化炭素換算でマイナス6%と定めました(原則1990年を基準、2008年~2012年の目標)。環境省のHPを見ると、地球温暖化対策推進本部の報告書(平成23年12月)では、温室効果ガスの総排出量は12億5600万トン(2010年度速報値)で基準年度比マイナス0.4%となっていました。森林の吸収分とクレジットの取得などでなんとかマイナス6%を達成しようとしていますが、東北地方太平洋沖地震の影響もありますし、その後、達成できたのかどうか心配です。話がそれましたが、COP3の開催を記念して、平成11年(1999年)に「環境学習・エコロジーセンター基本計画」が策定され、平成14年(2002年)に「京(みやこ)エコロジーセンター」が開設されました。環境学習と環境保全活動の拠点として活用されています。1階がエントランスです。1階には展示や体験コーナーがあり、地球温暖化やエネルギー問題、ごみや資源の問題を身近に感じることができます。2階では企画展示をやっているほか、情報コーナーには映像を見たりパンフレットなどの情報が置いてあったりします。ボランティアルームもあって、ボランティア活動の拠点になっているようです。3階には環境関連の図書や交流コーナー、会議室などがあり、夜9時まで利用できます。屋上広場では太陽光や風力による発電、雨水利用、屋上緑化について学ぶことができます。建物の屋上に降った雨水を地下水槽にためて、トイレの洗浄水に利用しているそうです。開館時間は9時~21時(ただし、1階、2階の展示は17時まで)。休館日は木曜日(祝日の場合は翌金曜日)、および年末年始。入館は無料です。
2013年05月01日
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