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津原に遺跡公開との新聞報道があり、さる日曜日におくれまじとでかけました。 上灘小学校の方からいったら、平野部にでて、現地がありません。 通りかかったおばちゃんに聞いたら、裏の山だと小さな道を教えてくれました。後で考えると大海真っ只中にいて、人様の住まいを探していたわけでした。軽自動車だから通れる道、本当かなと頭かしげてようやく現場に到着。 駐車場なく、ほうほうの態、気温は30℃。 説明は、はじまっており、48番の説明書いただき参加。 関心ある人の多さにびっくり。 日本海からの侵入が深く、津原を船場として、今在家まで山陰古道につながっていたとの説明。 雨の多い山陰、大山倉吉火山灰層の上に「波板状凹凸面」なる古代道路特有の方法で基礎固めしてる後など感心。おそらくにがりを混ぜて固めたものでしょう。 問題は、ここの港から、なにを山陰古道に運んだのか。 産鉄遺物もあることから、立縫郷の以外な出口がこのルートにあることは、北谷高城も注目地であったことでしょう。興味をそそります。
2017年07月28日
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昨日朝6時から天神さんの掃除でした。時間道理に車で馳せつけると、もう駐車場は満杯、お隣の自動車学校のスペイスに置かせてもらい神社にいきました。 神社まわりの樹木のなかの雑草を刈る草刈り鎌の爆音がうなるように響き、境内には草を引く婦人がたむろ、箒を使うもの、ブロワーをもって、落ち葉をふきとばす者あり、大騒動の活気です。 里見祭りが、途中参拝でたちよるようになってから、天神さん、今は北野神社ですが、氏子掃除に参加するようになったんですが、ここの掃除は別天地の空間だといつも感じます。 早い人は、何時からきて作業してるのかと聞きたいほど、作業全開中です。到着したものも、来たらすぐ作業にとりかかり、作業の輪が広がりゆきます。 地震の跡は、社も、周りの灯篭もそのままで、通路の邪魔にならぬようにだけ片付けられてるだけです。しかし雑草の中に転んでる灯篭も痛ましさを感じさせるより、震災神社としての遺跡を誇るようにさえ感じさせます。形じゃないよと言ってます。 石畳のゴミは勿論、土の間の草も綺麗に引かれて三々五々に帰っていくこの善意掃除の面々。 おとなりのおばちゃん、きょうも元気に掃除に参加できたとの嬉しさを柏手でかえりました。 出勤簿のない善意のそうごとで参加して今日は幸せという気持ちです。 総代の方方は、復興のご相談がなさるんでしょう。 9月の里見行列参拝を報告してかえりました。
2017年07月24日
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民主主義は、多数決によって物事を決定します。 それが、一番幸福になる人が多いからです。 でもそれは、同じレベルの人々で言えることで、数がおおくなると、代議員を選出して、その多数が決定したことになります。真理とかけ離れる場合もあります。 代議員の資質がよいのなら、どんなおおきな団体でも、正当な運営ができますが、おうおうにして、代議員の資質が低劣なものが多くなると衆偶のそしりを受けることになってしまいます。 代議員は、支持者の数を規定数取ったら権利がでるので、選挙の数をのみとりそろえることに奔走するものがでます。 おうおうにして、自分を主張する、出たがり屋がこの手法を覚えたら困りもの。 支持者には、ペコペコ。支持が反対の者には、そっぽむき、きびしくあたる。 ただの利益者代表で、その家まわりの地域のことでも、考えるでなく、嫌う者さえ出現、なんの代議員かと疑うものもでてきます。 ハゲと部下を叱る国会の代議士で、支持者というより、票がほしい、最高学府出身女史もいます。 地方議会の議員の資質だけを云々できないが、当市でも今年市議会議員の選挙がありますが、こんな人が出ないようにしたいものです。 昨日の新聞には、やめる人もおり、無投票の様子であることを伝えていました。 経費節減でよろしいことはありません。 なんの目的で代議員をしたいのか、はっきりと表明させる場所に選挙をもっていくべきです。 立派な市会議員がほとんどですが、でも少数の吾意を吾権威を誇示したい議員は、やめさせるべきです。選挙によって立つ心意気と政策をのべさせ聞きたいものです。
2017年07月15日
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江戸時代に「神祖」と仰がれた家康に刃向かい、天正12年(1584)の長久手合戦で敗死した池田勝入(恒興・信輝)は、その子孫である、鳥取藩主、岡山藩主の池田家にとっては、藩祖として敬いにくい存在であった。 岡山の光政は勝入次男であった輝政を、鳥取の光仲は勝入の孫、輝政の子であった忠継を、それぞれ藩祖と認識していたらしい。 岡山藩主が勝入を先祖として敬うことは、「将軍家へ憚らせ給ひし事」だという認識も存在した。 「鳥取藩研究の最前線」の本の一節です。 このことは、1632年の鳥取・岡山の池田家お国替えあとの事です。 岡山にいっても、光政は、勝入斎を先祖として敬うことを憚っていたという有様です。 姫路から鳥取に国替えになった1617年の当時を考えてみましょう。 光政9歳の若さゆえ、姫路は務まらぬからと、左遷。 10万石減らされて、家臣は、そのまま連れてきてのいろんな苦渋は大変で、重臣の計らいは尊敬に値します。 倉吉では、6歳の家老伊木忠貞が領治。 勿論。筋金入りの伊木半兵衛、姫路からのお国替え道中での、道中責任家老池田由之が家臣に殺される事件も隠密に解決、子由成を相続させ米子城預かりをはたさせました。勿論、伊木忠貞の功績となっています。 この神祖、家康に憚る池田の祖、勝入斎扱いを、着任早々、陣屋と同じ打吹山麓に勝入寺建立、勿論伊木家の菩提寺としてだが。長門土手の名前とともに、現在も赫赫として残っています。 しかし、この15年の池田光政時代は、残念なことに徳川の威光に伏し、三猿時代、言わざる、見ざる、聞かざるに徹した時だといえます。 記録がない理由でしょう。 長門土手、勝入寺、伊木半兵衛にしても、岡山藩の克って前身地ではの記録を通じてしか得ることはできません。 さて、この倉吉の空虚15年に里見忠義は、3年の大名生活から、お預けの身になり、5年間を神坂から、下田中、果ては関金山守へと居をかえ、終焉の地にしています。 1622年、29歳で死去。 家老伊木長門守、11歳。 豪気、経験豊富、勝入斎侍大将からの家老伊木忠次の甥半兵衛。前任地三木では、伯父に育てられ右腕での実績の伊木半兵衛が、この里見忠義をどう扱ったかは想像の世界です。 今年も倉吉では9月3日。里見祭りがあります。 お眠りの大岳院から、終焉の地、関金まで武者行列があります。 長門土手、勝入寺、北野天満宮、大山・倉吉火山灰層群の赤土の上をふみしめてしゅくしゅくと行きます。
2017年07月01日
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