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橋田邦彦。鳥取県で2人目の大臣となった人だが、名前を聞いてピンと来る人は、どのくらいいるだろうか。近衛、東条両内閣の文部大臣を務めたことからA級戦犯とされ、自決。歴史の表舞台から姿を消したからだ。 日本海新聞の海潮音で、書かれていた。 「葬られた文部大臣」という書が出版され、再び光があたったことを喜んでの文であった。 打吹公園に碑があることも紹介してありました。 桜さくころは、老若男女絶えることない人だかりの當公園、碑は並木道里からはなれており、側に行っても、解説もありません。 これを機にご紹介の看板がたてられることをねがいたいものです。
2017年06月26日
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子供の態度は家庭そのものです。 その家庭を知りたかったら、子供を観察すればすぐにわかります。 「いちばん大切なことは子供が親を敬うことです。親は子供をそうするように仕向けなければなりません。子供が父親や母親を尊敬しないで、どうして他人を尊敬できるでしょう」 ここに問題解決の糸口があります。 子供に尊敬される親は、それに値する人間でなければならないということです。 いまの子供は親を尊敬しない。 学校の先生を尊敬しない。 理由は何か。 わたしは、家庭の秩序の崩壊にあると思います。 ではなぜ家庭の秩序が崩壊したか それは家庭ニリーダーが存在しないからです。 戦後の民主主義の思想は、人間の平等をもたらしました。 それはよいのですが、組織にはリーダーが必要で、これは家庭においても同じです。 それが平等思想を誤解して、すべてを同じレベルにしてしまった。その結果、本来あるべき父権というものがなくなって、一種のアノミー現象が家庭において生じるようになってしまった。 これが家庭内暴力の原因です。 いま何より必要なのは家庭におけるリーダーの確立ということでしょう。 その役割を果たせるのは父親です。 マーフィ語録より
2017年06月25日
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将軍には兵士の父母としての面が必要 卒を視る事嬰児(えいじ)の如し、故に之と深こくに赴くべし。 卒を視ること愛子の如し、故に之と俱(とも)に死すべし。 平素における将軍の兵卒に注ぐまなざしが、まるでいたいけな赤子に対するようであればこそ、兵卒は危険な深い谷底にも将軍についていく。 平素の将軍の兵卒に注ぐまなざしがまるで可愛いわが子のようであればこそ、兵卒は将軍と生死をともにする。 将軍と兵士は、命令する者とされる者というドライな上下関係にとどまらず、親子のようなウェットな関係を持てと孫子は言う。将軍は日頃から、父母のような慈愛の心で兵士と接する必要がある。 こうしてできる強い人間の絆があってこそ、兵士は将軍を信頼して、その命令には危険を顧みず、生死の境をさまようことも厭わないのである。とはいえ、甘やかしてばかりいては、つけ上がってくるのが人情、孫子は続けて次のようにも言う。厚くして使うこと能わず、愛して令すること能わず、乱れて治むること能わず。手厚くするだけでは働かせることができなくなる。はめをはずさせるだけでは抑さえられなくなる。これは、将軍と兵卒の関係においてのみ言えることではなく、親と子の関係においても同様である。孫子はつけあがった兵卒を次のように言っている。喬子の如く、用うべからず。傲慢な子供のようで、ものの役にたたない。いずれも厳しい教育的側面を欠いてはならない。将軍と兵士のあり方 孫子の兵法 水野実 より
2017年06月25日
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梅雨間というに一片の雲もない青空、6月半ばの陽は暑い。 山上憶良の歌碑があると聞き、参上しました。 瓜食めば子ども思うほゆ 栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものそ目交にもとなかかりて安眠なさぬ 反歌 銀も金も玉も何せむに 勝れる宝子にしかめやも 土屋文明歌一つ残ることなく此の国に 四年の憶良さまざまに思う ここは史跡国分寺跡の北がは、国分尼寺との間にあり、東の陽の光を万弁に受けた明るい丘です。歌の説明が丁寧に解説してあります。瓜を食べれば(残してきた)子どものことを思い出す。栗を食べれば、いっそう懐かしく思えてしようがない。子供たちはいったいどのような縁で、私の子どもとしてやってきたのだろうか。目に子どもの姿がやきついて、熟睡することができない。銀も金も宝石も何にせよ、それらより勝っている子どもに宝として及ぶだろうか。いや及ぶまい。 子供を思う親の心は尊いものであり、人間の真実をしめしていると憶良は歌いあげました。子どもへの愛が見事に表現された万葉集の一種ですとむすんであります。 一方、土屋文明は、アララギ派の歌人、万葉集の研究、国文学者。憶良に心酔し、此処、伯耆の国に、伯耆守として、勤務してた憶良を偲んで度々訪れて40数首の歌を作ってるその中の一首だとのことです。 4年もいたのに歌一つ残ってないのは悲しいものです。 今は、子に散歩の帰りも、心配させる時期になりましたが、古今、親の子にかける思いは変わりません。
2017年06月15日
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池田光政と押しつけ正室勝子との疱瘡顛末記はまだ先があります。圧巻です。 将軍の血をひく正室へ、疱瘡が感染したら大変と家老はじめ家臣は心配したが、妻たるものの勤めと他をよせつけすに、かいがいしく昼夜をわかたず看病した勝子、甲斐あって平癒しました。 だが、疱瘡の後遺症である病痕が、光政をして鬼の形相の醜顔に変わっていました。 光政は手鏡をじっとみながら「勝姫、あるじが、このような顔になったからには、お前もいよいよ愛憎が尽きたであろう。いよいよ何時でも離婚して、里にかえしてやるぞ」 というと勝姫キットなって 「殿には、何たる事を申せられる、わらわは殿がそのようなお顔になられてもすこしも悲しくはありません。いや本当は心が休まるのです。殿方は正室の色香のおとろえと共に多数の側室をおかれるとの事、しかし、今の殿のお顔では側室などよりつかず、今後は、共白髪まで、この勝子のみを唯一の女として、愛してくださる筈、私はそれが本当に泣けるほどうれしいのです。」ともうしました。 光政はこの勝子の一言を聞いて、今まで故意に勝子を敬遠していた己の非を恥じ、今後、この世で愛すべき女性は、この勝子をのぞいては一人もないと固く心に誓いました。 これから、光政と勝子の間は人もうらやむような生活で江戸では、側室は一人も持ちませんでした。(備前藩 殿様の生活 一部引用) 後世につたわる備前の名君池田光政、正室千姫の娘勝子にエールを送りたくなりました。
2017年06月10日
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池田光政の正室、勝子は、本多忠刻と千姫の娘で徳川将軍秀忠の孫娘になります。 千姫といったら、豊臣秀頼のお方で有名ですが、其の後、本多忠刻の正室になり、奇しくも、年幼にして統治困難との理由で、鳥取に配されし池田光政がいた播州姫路に入城していました。 元和9年(1623)光政15歳の時に、将軍家光より、「殿上元服の儀」で加冠従4位下侍従に任じられ、家光の一字を賜って光政となりました。この時、勝子を秀忠の養女として光政の正室にとの話がありました。経緯から、この話は天下り的命令だったようです。 光政の祖父、輝政が家康の2女富子を正室にして、徳川の縁戚となる婚姻政策をうけいれました。 この時、光政の父利隆が生まれており、新たに富子との子、忠継、忠雄の兄弟が生まれました。池田家に徳川家の血筋と受けない者との対立が起きたといいます。 鳥取の僻地に左遷したものの、光政の外様の将来が危惧となり、以前行った婚姻政策で懐柔策を計画したのが、勝子との縁談でした。 徳川の身内を姫路に抜擢し、僻地鳥取に左遷された光政の心中いかばかりか。 田舎大名には勿体ない、財政不如意などと断わりました。しかし、強制的に事がすすめられていきました。 寛永5年(1628)勝子は、前将軍秀忠の養女の資格で輿入れしてきました。光政20歳。 光政の婚儀の態度は、冷ややかで捨てばちの態度、新婚生活はいたって冷たく、温かく寝室に迎えることはありませんでした。 1年の江戸の参勤生活を終えるとさっさと鳥取にかえり、国からは音信もほとんどなかったといいます。 寛永8年、光政23歳の時、江戸にきてから、急に疱瘡にかかり、高熱にうかされて生死をさまよう重体になりました。 その時、家老・家臣たちは、将軍の血をひく正室勝子への感染を恐れ、看病をお断りして、光政の身辺から極力遠ざけようとしました。 「なぜ、正妻のわたしが看病してはならないのですか」 勝子は家臣を叱りつけ、他の者の看病を断り、昼夜を分かたず、寝ずの看病に専心しました。とにかく、他人にはできない、かいがいしい看病でした。 光政の疱瘡は、この勝子の献身的な看病で峠を越し一日一日と目に見えて平癒していきました。
2017年06月09日
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池田家が播州姫路から鳥取に国替えになり、行列が正条川(揖保川)に来た時、行列の指揮をとってた、家老、池田出羽守由之が、家臣、神戸平兵衛に殺され、犯人もその場で自刃した事件がありました。 出羽守由之は、長久手の戦いで、城主池田信輝と一緒に戦死した長男の之助の子です。 伯父の輝政が城主と決まり、由之も家老の一員になりましたが、輝政、その子利隆と続き、利隆も33歳で亡くなり、9歳の幸隆(光政)が城主になると、江戸屋敷での国政の補佐をしましたが、独断専行の行為も多かったようです。 一方、大小姓、神戸平兵衛なる人物、江戸勤めが1年終わり、帰郷できると思いきや、由之にもう1年残れと命をうけ、不満やる方なく、国老池田由之と日置豊前忠俊に談判しました。 「1年交代は原則なるに何故自分のみ別扱いしたのか」 両国老は理屈攻めに合って、帰国を許可せざるをえなくなりました。 池田出羽は、神戸の要求に屈したものの腹にすえかね、神戸が引き下がったあと 「あのようなうつけ者に大小姓を命じられたのは、故興国公(利隆)の御失敗であった」と大声で豊前に話しかけたので、次室まで下がっていた神戸はこれを聞きつけて引き返し、 「今のお言葉聞き申した。それがしをうつけ者と申されたるは致し方なしとて、今はなき興国公まで悪しきざまに申されたるは何たる所存で御座るか、貴殿を国老に命じられたのも興国公なれば、これも公の御失敗と申す可きでは御座らぬか」と国老池田出羽を烈火の如く責めたてたので、これには出羽も一言も反言することができなかった。 出羽は、このことから神戸を深く憎み、光政一行下国の別れの宴席にも神戸のみは招待しなかったので、神戸は出羽をますますうらむようになった。 光政一行の江戸出発は元和4年(1618)2月18日であった。勿論、神戸もこの一行に加わって旅だったのであるが、3月9日、神戸の宿に泊まった時、池田出羽は京都因州留守居役への重要連絡事項を思いだし、急に使いを出して、その返事は11日播州正条の宿に泊まるときには聞かなくてはならぬと考えた。 3月9日、兵庫より一度、京都へ引き返し、京都留守居役から解答をもらって、一行の旅行団を追い、3月11日に播州正条でその返書をわたさねばならぬ。この間わずか3日、この大使命をはたすのは一寸常人ではできない。 この困難な使命を池田出羽は平素より憎んでいた神戸平兵衛に命じたのである。 平兵衛は出羽の命をうけて、これは先日来のゴタゴタのシッペ返しであると直感したが、心に決するところあったものか、ありがたく承り、早速、兵庫より日に夜をついで京都に引き返し、京都留守居役より返書をもらって再び一行を追い、やっと3月11日夕、播州正条川畔の渡し場で一行に追いついた。 すでに、殿のお籠は川を渡り、西岸の正条宿に到着しており、国老池田出羽は最後の一行の渡河を見届けるため、川岸の茶屋の床几に腰かけて采配を振るっていた。 その時、神戸平兵衛、走りながら、気息奄々として、辿りつき、「京都留守居役よりのご返書頂き、只今もどりました」と池田出羽に近づきざま、俄かに一刀引抜いて、「平素の恨み思い知ったか、此の一刀を受けて深く地獄へ赴くべし」 と出羽を刺殺し、自らも割腹自刃してしまった。時に出羽42歳であった。 *(「備前藩 殿様の生活」 引用) 伊木忠貞が、家内禁口令を発して、自然死として幕府報告し、由成を跡継に申請し、万事無事に国替えをはたした事は前述した。しかし、忠貞もこの時6歳で、この裏に伊木半兵衛のバックアップあっての事ですが、此の時の池田家は薄氷をふむ状態の連続でよく乗り切ったものです。播州正条の渡し
2017年06月07日
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里見安房守忠義公が、関東からはるばる伯耆倉吉に、配流されて来られその記録たるやなく、居住の地、終焉の地、墓所など存在が散在してはいるものの、100年後に著され、人気を博した、滝沢馬琴の里見八犬伝が先行し伯耆での公の8年間は、真実があいまいになっています。 たとえ8年間といったとて、関東で名だたる名門の10代目の武将の生きざまは、多くの著名人が憶測してる、めめしき方ではなかったはずとの判官びいきで調べをなしました。 忠義、伯耆倉吉の領治3年にして池田光政因伯統治にかわり、忠義お預けの身にかわりました。 しかして、この池田藩にしても、城主が死して跡取りが、9歳では、大事な土地を任せられないとて、幕命により播州姫路から、32万石に減らされて鳥取に来ました。 この左遷事情にしても、因縁事情が多く、倉吉を統治し里見忠義を預かった池田藩家老、伊木長門守忠貞の記録もほとんどありません。 必要以外の記録は残さず、ひたすら隠忍の状態が、池田藩15年の全体の空気だったとおもわれます。 備前岡山藩のゆるぎない大藩の土台を作り上げた池田光政、第一家老として、その功績を示した伊木忠貞の岡山の記録、その初期編を見て、鳥取、倉吉の終期の状況が判断できます。 特に倉吉から、虫明に行った、伊木家の状況は、姫路から鳥取に行列を組んで行った状況から記録があり迷夢が晴れる心地で、伊木家の温情をしりました。 他に池田光政の人と成りを知り、鳥取の人間風土は、この方の隠忍苦労があったればこそ醸成されたものと思いました。 奇しくも、元和3年(1617)鳥取池田光政、倉吉に家老伊木忠貞着任、そして平成28年(2017)の今年がちょうど400年めになります。 倉吉図書館から下記の図書を、探していただき、里見忠義公のバックグランドが、グレイからゴールドに輝きかけています。感謝。 備前藩 殿様の生活 荒木祐臣著 倉敷市史 近世 備前藩筆頭家老伊木氏と虫明 邑久町郷土史クラブ編
2017年06月06日
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李下に冠を正さずとは、アンズの林で冠を直すために手をあげると、アンズをとるんじゃないかと思われる。だから、そうじゃないといっても、疑われるから、アンズの木の下では冠をなおしてはいけない。 同じように、瓜ばたけで、靴のひもがゆるくなって、締め直そうとしたら、瓜をとるんじゃないかと疑われるから、してはいけない。 漢文の時、講師できていた、「坊んさん」というあだ名のお寺の住職先生が教えてくれました。 思うのは、相手の勝手、自分の信念は、正しいんだと主張するのも勝手。 だが、人の親、長となり、リードする立場であれば、疑わしいことは避けた方が利口のようです。 最近、この「李下に冠 瓜田に沓」なる言葉が思い出すようなニュースが政界に行き交っているようです。 「忖度」そんたくなんて言葉があったことも知りました。 思いを通じたいため、署名を集め、嘆願にでかける。 そして、議会の先生に陳情する。 先生は、担当の部署のしかるべき人に電話かけて状況を聞いて、しかるべき要望があることを告げてくれ、善処方を進言してくれる。 以前、中学校が古くなって、立て替えを要望しようとなった。 各部落から、陳情書を集め、その束を以て、同窓会長さんを同道してPTAで市長室に陳情にいきました。あいにく市長さん不在で、助役さんが応対してくれました。 「どの学校も古くなってるのに、私らが先に陳情で申し訳ありません」 まずお断りをしました。すると助役さん、笑顔で、 「気にしなくてもいいですよ、私ブタ飼っていますが、エサやるときに、ブーブー言ってくる方に先にエサやりたくなりますよ」 アゼンでした。 公平であるということが前提の世、公平と示せる民意、指針、態度をしめし、これを代弁して先生が一肌ぬいで反映するのが政治でしょう。 民意に見せて私意を満足するのに便宜を働かせると、忖度なる言葉が生ずるのでしょう。 忖度ととれないよう、李下では手を上げず、瓜田では、しゃがまず日本の政治家は行ってほしいものです。
2017年06月02日
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