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最終日。まずは朝、温泉に入りおさめ。毎日気持ち良かった。風呂場自体も改修ですごくきれいになっていたし、日中は自然光で入れちゃうのがとてもいい感じだった。温泉とは関係ないが、妹は昨晩から「夏休みが終わっちゃう~」と、ぶーぶーうるさかった……気持ちはわかるけど。朝食後、全員で片付けモードに。床に掃除機をかけて、布団類をもとの場所にしまって、シーツやタオルなど持ち帰って洗うものを荷物に詰めて、お風呂やトイレをざっと洗って、使った食器を全部洗って戸棚にしまって、ゴミは分別して車で捨てに行って(ゴミ捨て場は遠い…)、雨戸を閉め、水やガスの栓を締め、鍵を閉めて全部やり終えたときには13時を回っていた。まぁそれでも、本当に最後じゃないから(まだだれかしら使うから)、閉め方が楽といえば楽だよね。冬場の前に本格的に閉めるときは、水や何かにものすごく気を遣うけど、まだ夏だもんね。それぞれ乗ってきた車2台に分乗し、帰途につく。途中、とても眺めのいい場所で停まって景色を堪能する。蓼科山がよく見えた(昨日、この天気だったら蓼科山に登りに行ったのに)。周りの田んぼでは稲が黄金色に色づいて、お辞儀をするように穂を垂れている。きれいな場所だなぁ。自由農園(野菜の直売所)の別店舗に立ち寄った。野菜はこちらもたくさんあったが、一昨日に行った自由農園のほうが断然広かった。ちょっと品数が少ない。パパ上とママ上は山のように野菜を買いこんでいた(セロリ何束買ったんだ?)。妹夫婦も野菜や果物をひとカゴ買いこんでいる。私はそんなに買えないので、とうもろこし1本とヒヨコマメだけ購入。それからすぐ近くのコープへ行って、お土産のお菓子類を買った。この時点ですでに14時。諏訪南インターの入り口の手前にあるペチカというレストランに入った。庶民的な洋食屋さんみたい。ハンバーグやステーキやピザ、スパゲッティなどがある。なかなか美味しかった。嫌味のない洋食で。ここで遅めの昼食をとったあと、妹夫婦とは別行動に(方向一緒だけど車が別だから)。パパ上の車はあとは東京までノンストップ。中央高速をぶっ飛ばし、あっという間に帰ってきてしまった。あ~、妹じゃないけど、これで夏休みが終わってしまった……。思い切ってみんなで遊びに行けたのはすごく楽しくてよかったけど、楽しかった分、終わっちゃうと寂しい……。また行きたい、たてしな。
2005.08.29

朝。昨日の晴天とは打って変わって、今日は霧……もくもく真っ白……せっかくハイキングの日なのに……9時頃になったら霧は晴れて、普通の曇り日になった。お天気がよくないと山頂に登っても楽しくないから、と、蓼科山登頂案は見送り。白駒池の周囲を歩くことになった。ママ上におにぎりを作ってもらい(ママ上は留守番)、ペットボトルに詰めたお茶と一緒に、各自でナップザックに入れた。まずは車で麦草峠まで。パパ上の話によれば、麦草峠は日本の国道で2番目に標高の高いところらしい。標高2000~2100mくらい。山荘があるのは1200~1300mのところだから、車で延々と登っていった。その登りがまたカーブだらけ(当たり前だけど)。どうも「12号カーブ」のように番号がついているらしく、全部のカーブに付いているわけではないけれど30番くらいまでぐねぐね曲がった。結構きついカーブが多かった。こんなところによくまぁ道を作るなぁ。麦草峠の麦草ヒュッテで車を停め、周辺の地図をもらった(無料でくれるらしい。豪儀)。麦草ヒュッテのかわいいメニュー板ルートを決めて出発。最初は明るい草っ原を上がっていくが、すぐに森の中に入って視界が狭くなる。緑陰のおかげで涼しくて気持ちいい。ただ、昨晩か今朝あたりにでも雨が降ったらしく、あちこちにぬかるみがある。その茶色い道を、抜いたり抜かれたりかちあったりしながらずんずん登っていった。途中からかなり勾配が急になって、それでも黙々と登っていったら、頂きに出た。丸山の山頂と標識にある。2300mくらい。200m登ったってことか。いつの間にか晴れて、いいお天気になっている。その辺に腰掛け、お茶とお菓子で一休み。適度に動いたあとだったからか、昨晩は「どーってことないな」と思ったお菓子が、別人のように美味しく感じられた(笑)。休憩を終えて、今度は下り。これがまた急勾配で、登りよりもモタモタしていたら妹夫婦に抜かれた(笑)。下り、苦手だ。そこから高見石小屋を目指してまた歩く。下ったあと、ちょっと登りがあったが大したことはなかった。が、「高見石」と言われるところへ着いてみたら、高い低いは問題じゃなかった。大岩ゴロゴロの頂きで、風が強かったこともあって、岩を伝って歩くのがちょっと怖い(トレッキングシューズじゃなかったし…)。さんざん両手を使ってしまった。そういえばこの大岩ゴロゴロを登り出す手前に小さな看板が立っていて、「この先は物を落とすと拾いにくい場所なので、貴重品は小屋に預けるべし」みたいなことが書かれていたのだが、思い切り納得。岩の下はまた岩で、必然的に大岩と大岩の間には深く暗い隙間ができており、地面などというものは見えないんである。こんなところで指輪でも落としたら二度と拾えない(笑)。高見石の突端からの眺めはとてもきれいだった。向こうに池が見えるけれど、白駒池ではないらしい(地図にも載っていなかったらしい)。気持ちよかったのだが、向こうで若いにーちゃんがタバコをのんでいたのが気になった。空気台無し。何もこんなところでふかさなくたって(ふかしたかったら山小屋行けよ…)。ここから先はほとんど下りで、最近とみに下りの苦手な私は先を行く妹夫婦についていくのがたいへんだった。というか、もうついていけなかったので自分のペースでのんびり下った。そのうちに白駒池に出た。池の畔でご飯を食べようと、ちょうどいい場所を探して周りを回る。ぴったりの四阿(あずまや)があったので、4人で腰を下ろしてめいめいおむすびとお茶を荷物から取り出した。池を眺めながら昼食。脇の散策路をいろんな人たちが通過していく。ただ散策中と見られるおばちゃんたちもいれば、ものすごくでっかいカメラと三脚をかついでいる人たちもいた。おむすびは美味しかった。あとは麦草峠に戻るだけ。平坦な道のりが多くて、さっきまでと比べるとずいぶん歩きやすい(そのためかパパ上はもうつまらなさそう)。このあたりでは何人もの絵描きさんと遭遇した。サークル活動みたいなもので一緒に来ているんだろうか?しばらくしたらはい松の茂る斜面に出た。久々に明るいところに出た感じで気持ちがよい。木組みの道の上をずんずん歩いた。もう一度、森の中に入り、さらに歩いて最初に登りだした麦草峠の斜面に出た。2時間半で5キロぐらい、足慣らしに手頃なハイキングだった。(ちなみに周辺には他にもいくつかルートがあるらしい。もっと歩きたいひとにはそれなりのコースがあるはず)今夜のお食事は、近くにあるイタリアンレストランへ(歩いて行けるのがスバラシイ)。美味しいレストランで、前の駐車場には何台も車が停まり、店内は混んでいる。先に予約しておいてよかった。前菜、パスタ、ピザ、それに大山鶏のローストなど、めいめいに頼んで、みんなで少しずつ楽しんだ。今回はアマトリチャーナというパスタを頼んでみたのだが、これがなかなか美味しかった。最後にデザート。私は白花豆のジェラートに紅茶のジュレを添えてあるものを選んだ。白花豆って要するにいんげん豆である。これも美味しい、ちょっと面白いお味のデザートだったが、ママ上にちょっぴり、妹にたくさんの税金を取られ、なんだか自分の取り分はずいぶん減ってしまった……。その分、妹のティラミスから税金を取り返したけど。レストランを出て、空を見上げた。残念ながら曇りであまり星は見えなかった。天気がいいともっと見えるんだけどね。温泉に浸かって、ベッドに入った。
2005.08.28
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えー、前日の日記に書いたとおり、ほぼオールナイトで寝られなかったので、朝になってからベッドに戻り、寝直した。といっても2時間程度だが。その後温泉に入り、ほとんど昼じゃないかって時間に朝食。昨晩パパ上がパン焼き機にセットし、今朝焼きあがったばかりのパンを食べる。ごろごろだらだらしたあと(これぞ別荘ライフ)、うどんをみんなでお昼に食べてから、茅野方面の道沿いにある野菜の産直所へ車で向かった。産直所は「自由農園」という名前で、いろんな野菜やらキノコやら漬物やらその他たくさんの食べ物を売っていた。サンつがる(林檎)の試食があって、食べてみたら美味いの美味くないの。自分で1個だけ買って、その場でむしゃむしゃ食べた(ら、結構でかくてお腹が膨れてしまった)。桃やらモロッコインゲンやら野菜を山のように買い込んで、パパ上とママ上は電器店へ、私と妹夫婦は山荘近くへ戻り、昨日ビールを買い込んだ店のあたりに車を停めた。このすぐ近くに楽焼き屋が毎夏店を開いているのだが、昨日ちらっと見たら、「今まで五十年やってきましたが今年で閉めます」みたいなことが書いてある。最近はとんとご無沙汰だったが、小さい頃は何度ここにお世話になったかわからない。これは最後にやるしかないよね、と、妹と昨日のうちに打ち合わせてあったのだ。というわけで、妹夫婦と3人で楽焼き屋へ入って、絵付けする陶器を決めて、お絵かきタイム。大人になったから、値の張る筆立てなんか選んじゃったりして。しかも堂々と赤絵の具が使えるぞ!(赤絵の具は料金一割増なのだ少ない小遣いでやろうとすると大変だったのだ)しばらく楽しく絵付けして(う~ん、絵付けも久しぶりだ~)、お金を払って焼いてもらった。焼くのに30分ほどかかるので、その間、お土産屋さんを見たり、車でぐるっと一回りしたり、楽焼き屋さんに焼きジャガイモをもらって食べたりしつつ時間を潰した。そうこうするうちにやっと焼きあがった。できあがりはこんな感じ(まるでラクガキ)。家に戻って、あとは食う・風呂(温泉)・寝る。まぁこの晩もかなり飲んでましたが(パパ上と妹が)。ああそうそう、会社の同僚から借りたDVDをみんなで鑑賞したんだった。「スキー・ジャンプ・ペア」とかゆーフィクションのCGアニメ(ペアのスキージャンプなんてあってたまるか(笑))。スキー競技中継のパロディなんだけど、出来がよくてもう抱腹絶倒。すっごく笑えた。全員げらげら笑いどおしだった(最後は呆れかえってたよーな気もするが)。そして最後に、今日は部屋を変えてもらったので、ちゃんと寝られましたとさ。明日はちょっと早起きして、ハイキングの予定。
2005.08.27
たてしなへ三泊四日の旅。台風が通りすぎてくれたので、昼前に東京を出発し、パパ上の車に同乗してママ上と三人、中央高速で諏訪方面へ向かう。途中、双葉サービスエリアで休憩したが、車を降りた途端、身体が燃えるかと思った(くらい外が暑かった)。早く山の中へ行って涼まなければ。でも暑かったおかげで巨峰のソフトクリームがたいへん美味しかった。15時半ごろ、たてしなに到着。まずはあちこち開けまくる(カギとか栓とか)。改修したばかりの山荘はとってもきれいで広々していて気持ちよかった。私たちから2時間ほど遅れて妹夫婦も到着。あちらの車もヴィッツ、こちらの車もヴィッツ(種類は違うけど)で、そっくりな車が2台コロコロしているのを見るとなんだか可笑しい。(まぁこれがスカイラインとかカッコイイ系の車だったら可笑しくもなんともないんだろうな)それはともかく、パパ上と妹夫婦の今宵の燃料(アルコール)が足りないということで、ちょっと下まで歩いて買いに出た。妹は山のようにビールを買い込み、節制中の夫君はビール味だがほとんどノンアルコールの缶を6本買い込み、ナップザックで背負ってだらだらと坂を登った(私は背負ってません)。これだけでも背中にじんわり汗を掻いたので、おうちに帰って早速温泉に浸かる。ああ気持ちいい。夜は宴会。私は缶チューハイ一本飲んだぐらいだが、パパ上と妹は浴びるように飲んでいたような気がする。そして簡易ベッドで就寝。しかし気持ちよく眠るパパ上が立てる騒音で私は寝つけず、部屋から避難するもダイニングの寝椅子ではうまく眠れなくてほとんど徹夜してしまった。明日は簡易ベッドをダイニングに置かせてもらおうっと……(じゃないと毎晩寝られない)。
2005.08.26
招待券をもらって(Rちゃんありがとう)上野の科博へ「縄文vs弥生」展を見に行ってきた。生活様式の比較。ムラやトシの社会形態の比較。武器、土器など道具類の比較。食生活の比較。ファッションの比較。顔や体格の比較。比較だらけ(当たり前だけど)。どうやら主題は、「弥生時代は今まで考古学的に考えられていたよりも500年古くから始まっていた」という点らしい。説明パネルに書かれた推定年代も二通りあるやつが多く、「( )内はこれまでの推定年代です」と何度も断り書きが掲げられていた。見ると、確かに数百年のズレがある。これ全部C14法(カーボンフォーティーン)で測定し直したんかいな? でもC14って昔からある年代測定法なんだけど、どうして今頃こんなこと言ってるんだ?(←説明をちゃんと全部読んでいないのがバレバレ)で、まぁそうすると、縄文と弥生の交錯する時期がかなり延びるんである。しばらく同居していたというか、今まで考えられていたよりものんびりと遷移していったんじゃないか。新たに渡来した文化(弥生)の先進的な道具を真似たりしつつも、土着の慣習や宗教は曲げないようにしていたムラ(縄文側)なんかもあったらしい。意匠すなわちデザインの面から言えば、縄文のほうが断然面白い。しかし、機能面からすればどうしても弥生のほうに軍配があがる。たとえば衣服。縄文は皮革に麻糸などをプラスした服(推定)だ。デザインは格好いいけれど、着心地はな~……夏の炎天下にこのカッコで歩いたらかなりツラそう。ムレムレ。対する弥生は絹の服(まぁ貴族様に限るんでしょうけど)。デザイン的にはのっぺり無地の、あまり工夫がないような見映えだけれど、そりゃー着心地は断然いいって!! 数百倍くらい。土器の類(たぐい)もそう。縄文に見られる火焔土器、こんなユニークで魅力的な土器は他に類を見ない。対する弥生式土器はほとんど無地で、とってもフツーな感じ。つまり面白みがない。でもこれも衣服のときと同じで、縄文の土器は厚い! つまり重い!=扱いにくい!弥生式土器のほうがやっぱり薄手で使いやすそう。……これってどこで差をつけてるのかな。つまり、ろくろなんかでの成形に関わる技術が高いのか、それとも焼成温度が高いのか。しまった、もっときちんと見ればよかった(でもこんな説明はないような気もする…)。えー、メインは骨から推定した顔貌・体格などの比較である。ほぼ一般常識となりつつあるように(?)、縄文は彫りが深くてどんぐり眼、弥生は顔面が扁平で切れ長の瞳、というのが模型や実際の頭骨で示されていた。体格については、両方とも現代人よりかなり背が低いものの、弥生人のほうは現代の日本人とあまり変わりのない体格。縄文人のほうは、手足が長く、脚の力がかなり強かったことが特徴的とされる(らしい)。これは狩猟民族だったからだろうか。あと、入り口の両脇に年表が大きく張り出されているんだけど、その年表と連動して床にラインが引かれているのに気付いたひとはいるだろうか?入り口一番手前が「現代」で、「江戸時代」から「平安時代」など、主な時代区分が線引きされているのだ。江戸時代が10センチか15センチくらいだったかな?ちょっと歩くとあっという間に弥生時代のエリアに到達してしまう。そこから延々弥生時代で、その後また延々縄文時代のエリアが続く。日本の歴史ってほとんど縄文と弥生が占めてるんだ、と、歩きながら理解できるというわけ。また、その時代の範囲内に立って左右どちらかを見れば年表が目に入り、その当時、世界ではどんなことが起きていたかがわかるという寸法で、非常に面白かった。が、難点は入り口に作ったことだな。入り口って一番混むから、いったい何人がこの仕掛けと意図に気付いたか、はなはだアヤシイ。たぶん気がつかずに通り過ぎた人のほうが多いと思う。しかし入り口に作らなきゃ面白くないしなぁ……せっかく頭のいい展示をしたのに、ちょっと気の毒だった。展示はあんまり広すぎることもなく、来ていたお客さんたちは興味深そうに見て回っていた。いつもの企画展よりも子どもが多かった。なんかちょうど夏休みの自由研究に良さそうな題材なんだよね、この展示(笑)。会場を見て回って、自分なりにまとめて最後に感想を書けばそれで自由研究レポートができちゃう(笑)。ただ説明文に漢字が多いので、小学校低学年はお兄ちゃんお姉ちゃんかお父さんお母さんと一緒に来ないと無理だわ。8月31日まで。
2005.08.20
第5回。最終回である。敗戦が決定的になったナチスは、これまで管理してきた書類を焼くなど、証拠隠滅に奔走しだした。ある日、彼らは病気で歩けないような人々を除いて、全員アウシュヴィッツから別な場所へ移動するよう囚人たちに通達する。病気の人、子ども、年寄り(は、最初に殺されてるからいないか?)などの取り残された人々は、本来、そのあとにやってくる部隊によって皆殺しにされるはずだった。何しろ彼らは生き証人なのだ。だが、混乱の極みにあったためか後続部隊は到着せず、代わりに現れたのはソ連軍だった。むしろ、移動した人々が移動先で殺されたらしい。やっぱり生き証人だから。道中、逃げ出した人々だけが生き残った(んだったと思うがうろ覚え……(汗))。待ちに待った解放。もはや手の届かぬ夢に成り果てていたその喜ぶべき現実は、しかしながら、元囚人たちにすぐさま幸せを運びはしなかった。まず、ドイツ(ポーランドだけど)に進攻してきたソ連兵によるレイプがあった。同じソビエト兵でも、収容所での生き残りは「スパイではないか」とあらぬ疑いをかけられ、ソビエト内の収容所に送られた。家に帰ることができたのはスターリンの死後、戦後20年以上が経ってからのことだった(確か)。さらに、喜び勇んで故郷へ帰ったユダヤ人は愕然とした。家がないのだ。正確には、家はあるのに別の人間が住んでおり、別の人間の財産になっていたのだ(固定資産が認められていなかったとかなんとか……よくわからん)。ある女性は、厄介者のような目で見られ、そのまま故郷をあとにした。以来、一度も帰っていない。またある男性は、やはり他人が住んでいたために帰れず、10年くらいして初めて元の住処を訪ねてみた。中からは見知らぬ男が現れ、男性を家の中に招き入れた。そして「あんたが何しにきたか知ってるぞ。お宝を取りに来たんだろう?」と言った。男性が腹を立てて立ち去ろうとすると、住人はなおも追いすがって「取り分は半々でいい」と言い募った。もちろんそんな隠し財産なんかどこにもなかった。男性は嫌な思いだけして帰った。その数年後、もう一度様子を見に行ってみると、住人はおらず、家は荒れ果てていた。近所の人に話を聞いたところ、彼が帰ったあとに男は家中を引っくり返して財宝探しを始めたらしい。それが高じてついには住めないまでに荒れてしまったわけだった。ちょっとびっくり。「事実は小説より奇なり」というけれど、それ以前に想像の範疇を超えているような……。隠し財産の妄想は、「ユダヤ人=金持ち」という先入観から来ているのだろうか。それにしたって。あったところで他人の財産だろう。どうして自分がもらえると思うわけ?(←真の問題はココではないけれど)理解に苦しむ。アウシュヴィッツ強制収容所は消滅したはずだったが、何もかも終わったわけではなかった。今度は復讐が始まった。強制収容所から解放され、列車で移動していたユダヤ人は、あるドイツ人を車内で圧死させた。何の罪悪感もなかったし、今でも当然の権利だと言って憚らない。そのドイツ人は同じ収容所の囚人だったのに。もしかしたらユダヤ人より低い扱いを受けていたホモの人だったかもしれず、あるいは反ナチの政治犯だったかもしれないのに。あるいはまた、アウシュヴィッツにいたわけではないが同じユダヤ人である者たちによって、親衛隊隊員への私的粛清を目的とする旅団が結成され、かなり長いこと活動していた。要するにテロ集団だ(どんなに正当化を図っても彼らのやったことは「リンチ」であり「暗殺」である)。この旅団の元構成員の証言もあった。私的に殺したことについて、全く後悔していないと言い切っていた。奇しくもフランクルが『夜と霧』で指摘するように、不正の犠牲者だからといって、自分も不正を働き返すことは全く正当なことではない。泥棒に入られたからといって、他人の家に泥棒に入るだろうか? テロを受けたからといって、戦争を仕返すのは実は論理破綻の行為なのである。囚人たちはあまりにも大きな傷を負ったために、正しい正義の認識を回復するまでに非常に時間がかかったと、フランクルは指摘していた。ユダヤ人の中には、今なおそれが回復していない人々がいるのかもしれない。それは理由の無いことではないのだが、だからといって正当化されるべきではない。(全く同じことがアメリカの9・11をはじめ世界各地の各事象に言えるのだが……個人個人の心情を慮るに、実際に正しい正義の認識を回復するのは困難だろうと察せられる)まぁそっち側の極端な例はひとまずおくとして、戦後、強制収容所にいた親衛隊隊員の捜索が始まった。彼らは皆、通常の兵士としてドイツ軍内に紛れ込んでいた。所長のルドルフ・ヘスも多分に洩れず、水兵の格好をして追及をいったんは逃れた。しかし連合軍はヘスの妻を拘束し、尋問にかけた。彼女は「夫は死んだ」と言い張っていたが、息子のシベリア行きをネタに脅され、息子を救いたいがためにヘスの潜伏先と偽名を白状した。その晩、ヘスはある牧場で捕まった。彼は裁判にかけられ、アウシュヴィッツの地で絞首刑になった。あるユダヤ人は、ヘスが絞首台に立ったときに何か言うのではないかと思って待っていた。彼が筋金入りの親衛隊隊員であることを知っていたので、ナチスのお題目か何かを唱えるのではないかと思ったのだ。だが、ヘスは一言も発しなかった。自分は間違っていたとも、間違っていなかったとも言わなかった。もっとも彼は、裁判にかけられるまでの期間に、「アウシュヴィッツ強制収容所」の覚書を書いている。どういうふうに強制収容所を作っていったか、そこでの生活はどうだったかなど、事実を列挙した。だが、虐殺に対する後悔や反省は、一言も書かれなかった。彼が後悔したのはただ一点、「家族と過ごす時間をもっと作ればよかった」ということだけだ。もしかして最初から最後まで、彼にとってユダヤ人は「人間扱い」の範疇外だったのかもしれない。アウシュヴィッツの運営には直接関わらなかったが、ユダヤ人移送(&虐殺)を推進した立役者アイヒマンも、いったんは追及を逃れ、その後15年にわたって身を潜めていた。しかし、1960年、遂に見つかって捕まり(よく見つけたな)、裁判にかけられた。もちろん死刑になった。悪名高いメンゲレ博士は、どこだかのだれだかを買収(!)して南米へ逃れ、消息不明となった。アウシュヴィッツには数千人の親衛隊隊員がいたらしい。そのうち、戦後裁判にかけられたのはわずかに800人程度。番組にずっと出演していたグレーニングも、追及を逃れた一人だった。彼はアウシュヴィッツで会計のようなポストにいた。インタビューを聞いていると、どうも自己保身に走りがちな感じで、それほど好感が持てたわけではなかった。だが、それは最後に逆転した。彼がインタビューに応じ、自らの口を開く決心をしたのは、「ホロコーストはなかった」とする主張が台頭してきたからだった。そんなことはないのだ、と、彼は言いたかった。アウシュヴィッツは在った。ガス室は存在した。毎日何千人ものユダヤ人が殺され焼かれていた。私はそこにいたのだ、だから信じろ、と。フランクルが言うように、想像を絶する残虐さを証明したのが人間なら、その悪環境にあっても輝けることを示してみせたのも同じ人間である。グレーニングは「仕方なかった」と弁明するが、彼も他の隊員たち同様、厳密には有罪を免れない人間である。だが、「アウシュヴィッツは在った。歴史を正しく伝えるべきだ」という彼の思いと現実の行為は、そのことを帳消しにしてしまうほど価値があるのであり、まさに高い人間性を示したものなのである。歴史を正しく認識すること。彼が自分自身をかけて訴えたそのことを、我々は受け止め、遂行していくべきだろう。そして最後に。陥穽に落ちないために、アウグスティヌスより引用。「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」
2005.08.19
第4回。今回は主にハンガリーのユダヤ人虐殺の話。1944年、敗色が濃くなり、ユダヤ人移送への協力を他国に押し付けられなくなってきたナチスは、ハンガリーに目をつける。著名なユダヤ人活動家を呼びつけ、ユダヤ人100万人の命と、軍事物資(具体的にはトラック?)との交換をちらつかせる。ユダヤ人活動家は連合国側へ出国し(ナチスのはからいで)、協力を求めるが、逆にイギリスに敵国の捕虜として拘束されてしまった。その間に、もともと親ナチの政権だったハンガリーは、クーデターによりさらに親ナチに傾く。金を積んで(まさしくこの表現どおり)命を購った1000人のハンガリー在住ユダヤ人を除いて、数十万のユダヤ人の移送が始まった。しかもこのとき、アイヒマンは彼らに徒歩を命じた。強制収容所へ辿り着く前に何万もの人々が亡くなった。そしてアウシュヴィッツは毎日のように送られてくるユダヤ人を殺しては焼いた。「ひどい臭いだった」と、皆、口を揃えて言う。この臭いだけは、どうしても言葉では表せない、と。被害にあったのはユダヤ人だけではなかった。一時、毎日のように送られてきたユダヤ人の移送が途絶えると、アウシュヴィッツの親衛隊はすでに収容されていたロマ(ジプシー)の人々に矛先を向けた。ある晩、何の前触れもなく、彼らはガス室に連行され、皆殺しにされた。その数二万人。(注:強制収容所にはユダヤ人のほかに、政治犯、ロマの人々、それからホモセクシャルの人々がいて、ロマとホモはナチスから「反社会的」とされ、かなりひどい扱い----ユダヤ人よりも格下の扱いを受けていたと聞いたことがある)殺戮現場たるガス室と焼却場の運営は、親衛隊隊員3名(だったかな?)と、労務班班員である多数のユダヤ人によっていた。親衛隊隊員はガス室にチクロンBを投げ入れただけで、あとの辛い作業はすべて労務班員(囚人)にお任せだった。これゆえに、戦後の軍事裁判でほとんどの親衛隊隊員が「ガス室で殺すのには関わっていない」と証言できたのだった。班員だった一人は振り返って語る。自分の良心はあのとき心の奥深くに隠れて出てこなくなってしまった。現在では、それは時たま現れて、問い掛けてくる。「なぜ自分はあんなこと(同朋を殺す手伝い)をしたのか」と。もちろん、彼らは生命の危険に晒されていたのである。ちょっとでも嫌な顔をしたりすれば、自分がガス室に入れられる(か、その場で射殺される)。だれも彼らを責めることはできないのだけれど、そうやって自分自身を責めるその人の言葉を聴くと、逆に人間の良心が信じられる気がするのだった。このころ(1944年ごろ)になると、アウシュヴィッツ(およびその他の強制収容所)で実際に何が行われているのか、どういう施設があるのかは、連合国側にもかなり具体的に知られるようになっていた。ある日、アウシュヴィッツの近くに連合国の戦闘機が大編隊を組んで飛んできた。囚人たちは収容所が爆撃されるように祈った。だが一発の爆弾も落ちなかった。戦闘機は、アウシュヴィッツ近くの、ドイツ最大資本の会社の工場(しまった名前忘れた)を爆撃しに来たのである。あのとき、アウシュヴィッツのガス室が爆撃にあって破壊されていたら?その後殺される数十万の人々の命は助かっていたのだろうか、それとも?歴史に「もしも」はないけれど、問わずにはいられないし、やはり問うべきなのだろう。連合国側は、嘆願があったにもかかわらず、ユダヤ人救助作戦を後回しにした。仮令(たとえ)それが、ただ一人の軍人の判断で握りつぶされたという理由によるにせよ、彼らが終戦間際まで強制収容所の人々を救う作戦にうって出なかったことは、歴史的事実なのである(って偉そうに言える立場じゃないかも……(汗))。結局、この虐殺は、虐殺という大罪でありながら、どちらの側からも戦争の駆け引きの駒に使われてしまったのだった。そして当のアウシュヴィッツはといえば、所長のヘスをはじめとするスタッフが、ただ淡々と義務をこなすように(あるいは食事をするように、呼吸をするように)人を殺しつづけていたのだった。だが遂に終焉がやってくる。
2005.08.19
第3回。この回は、収容所の番人たちにスポットが当てられていた。が、いまひとつ、散漫だったかな。まぁ、要するに大量虐殺と非人道的虐待のその脇で、アウシュヴィッツ所属の親衛隊隊員たちは、ユダヤ人から押収した金品を着服し、酒を呑んで毎日楽しく暮らしていましたとさ、というお話だった。すぐそばでは囚人たちが死の苦しみに喘いでいたのに、気にも留めなかった。ガス室で子どもが、母親が、泣き叫びながら死んでいくのも当たり前、気が向いたときに気に食わない囚人を射殺するのも当たり前のことで、それは彼らにとって自分たちのことではなかった。だから、東部戦線のドイツ兵が厳しい環境下で戦っていたさなかにも、彼らはぬくぬくと強制収容所の快適さを楽しんだ。それどころか今でも「あのときは戦争だった。ユダヤ人以外もたくさん死んだ。自分が生きることが一番たいせつだったんだ」と自己弁護して憚らない。(というのが第3回のテーマだったろうと思うのだが、囚人ないし犠牲者の側の報道が弱くて、あまりきちんと対比がなされていなかった。私は文章で読んでその悲惨さを一部なりと知っているから頭の中で対比できたけど、そうじゃないひとたちにはわかりにくいだろう)前回はフランス当局がユダヤ人検挙に協力したという話をしたが、今回わかったのは、まずデンマークでは全権委任されていたナチス高官が一斉検挙の情報を外交官に洩らし(理由はいまだに謎だが、逃がそうとしたとしか思えないような発言をしている)、外交官が裏で手配して、検挙のときにはユダヤ人たちはほとんどもぬけの殻だったということ。デンマーク国民はデンマーク在住のユダヤ人たちが舟でスウェーデン(中立国)へ渡るのを積極的に支援した。さらに意外なことに、ドイツの同盟国であるイタリアは、ユダヤ人移送に全く協力しなかった。ドイツに占領されるまで一切行わなかったらしい。同じファシズムでありながら、ずい分違うのだと吃驚(というより、ドイツの「ユダヤ人陰謀説」が異常だったのかもしれない)。強制収容所からの集団脱走があったことも初耳だった(アウシュヴィッツではない)。逃げ延びたのは2割程度だったが。1943年、アウシュヴィッツには売春宿ができた。囚人たちの労働意欲を高めるためだ(ナニ考えてんだ。開いた口が塞がらない)。囚人用だが、利用できたのはごく一部の、親衛隊隊員たちと近しい囚人たち、一番過酷な労働とは無縁の囚人たちだったようだ。この馬鹿馬鹿しい施設は最後まで存在していたらしい。そしてそこで働かされていた女性たちについての記録は、一切ない。一切。メンゲレ博士もちょっと出てきた。双子の片割れにいろいろ注射するなどして、その子が死ぬと同時に健康な(とりあえず何の薬物も摂取させられていないという意味では健康な)片割れを殺した。条件を同じくするために、「同じときに死ななければならない」ということで。それで、二人を並べて解剖するわけだ。このへんのことになると、もう人間の心理として全然理解できない。なぜそんな振る舞いができたのか?あまつさえ彼は健康な子供のほうを自分の手で殺しているのである。それはともかく、メンゲレ以外の医者も、アウシュヴィッツ以外の収容所で、非人道的な人体実験を多く行っていたことについては触れられておらず、これはちょっと片手落ちな感じだった。メンゲレ一人の問題ではなかったのに。あとは、カポーの話がなかった。囚人たちを苦しめたのは、親衛隊隊員たちだけではなかったはずだ。囚人のなかから選抜された、囚人の見張り役にも(同じ囚人でありながら)信じられないくらい残酷な人々がいたと聞いている。これも語られていないのは片手落ちな感じ……それともこのあとで登場するのか?(しないだろーな)なんか五夜連続だと思っていたら、明日は第4回と第5回を続けて放映するらしい。あと一日でアウシュヴィッツへの旅が終わる。ひとまず。
2005.08.18
第2回。今回も、大虐殺のセンターにはまだなっていなかった。それでも確実に成長している。何年も前に「ショアー!」というドキュメント映画を見たことがある。これもユダヤ人大虐殺に関する映画で、ナチス親衛隊の重要人物へのインタビューが差し挟まれていて(もちろん隠し撮り)、非常にインパクトの強い映画だった。9時間くらいあって、2日間に分けて上映しなければならないほど長い映画なのだが、見ていると時間を忘れて引き込まれる作品だ(機会があったらぜひ見て欲しい。特に前半4時間)。その映画で確かトレブリンカの、何もない緑いっぱいの美しい風景を何度も繰り返し映していたと思うのだが、今回の番組はそのトレブリンカが虐殺センターになったところまでを扱っていた。トレブリンカは、てんから虐殺センターだった。強制労働という別目的がなく、ここへ来た人の99%は命を奪われた。あのおぞましい、外見からはその目的がわからないシャワー室(つまりガス室)の建物が発明されたのもここらしい。入り口手前には花が植わっていたそうだ。1942年中、ここだけで70万人を殺したとされる。(まだあと3年もあるんかいな……(汗))トレブリンカの施設は終戦前にナチスによって破壊されたため(証拠隠滅ですな)、今は残っていない。救いのある挿話がひとつあった。ドイツのある少尉が、自分の管轄のゲットー絶滅計画を聞いて憤慨し、軍のトラックで乗り付けてゲットーのユダヤ人たちを全員運び出してしまったというのだ。インタビューに答えるユダヤ人は、「そんな勇気の要ることは、他のどんなドイツ人にだってできることじゃない。あのとき我々は全員、彼を英雄だと思った」と当時を振り返って語った。すべてのドイツ人がユダヤ人虐殺に加担したわけではなかった。しかしそんなのはほんの小さな、欠片のような輝きにすぎず、全体に救いはない。当時のフランス当局はドイツ軍からユダヤ人の移送(虐殺)への協力を求められて、彼らを怒らせたくないために外国籍のユダヤ人の移送を認め、その子供らが殺されるのを黙認した。パリ在住のユダヤ人たちを検挙したのは、だれあろうフランスの警察だったのである。親と引き離されたあと、アウシュヴィッツに送られビルケナウの赤い家と白い家で殺された子供たちは実に4000人にのぼった。さらに、イギリス領(チャネル諸島)ですら外国籍のユダヤ人をナチスに差し出したことがあると聞いて、あらためて茫然としてしまった。なぜ差し出されたか。それは彼らがオーストリア国籍などの敵性外国人だったからだ。だからといって………割り切れない……。余談だが、この「敵性外国人」という言葉を聞いて、映画の「イングリッシュ・ペイシェント」を思い出してしまった。全然救いがないんだけど、これでもまだ幼児程度である。次回はいよいよトレブリンカを抜いて大虐殺センターへと変貌を遂げたアウシュヴィッツを見られそうである。恐怖の代名詞、メンゲレ博士も到着しちゃったことだし。しかし……あと3年分あるのか~……。つ、つらいかも………でも、お暇のある方はぜひご覧になられたし。小川眞司のナレーションがもの静かで深みがあって好感度大。NHK総合で、夜11時から。
2005.08.17
NHKで今日から五夜連続、アウシュヴィッツのドキュメンタリーを放映するらしい。運良く今晩初回を見られたので、明日からも続けて見てみようかと思う。制作はBBCがメインらしく、出来もよさそうだ。初回は、「最初は小さな収容所に過ぎなかった」こと、しかもユダヤ人大虐殺の前に、ポーランドの政治犯やソ連の捕虜(捕虜といっても全然人間扱いされてない)を収容・虐待・処理(殺害)する施設としての段階があったことが語られていた。それだけでも酷いけど……。序の口なんだよね。本番は次からかな……。SS(ナチス親衛隊)隊員たちの心理にも迫るらしいので、楽しみだ。いったいどのような心理であのような残虐の極みが可能になるのか?(って、日本もあまり他人のことは言えないが)よし、頑張って見よう。見るぞ!(頑張らないとすぐに忘れちゃうのだ……続きものが見られない病……別名トリアタマ?)
2005.08.16
ベランダ前方に大きな古いお宅があって、その敷地には大きな木がたくさん植わっている(木の陰で建物が見えないくらい)。必然、鳥やら虫やらがたくさん集まる(都内の貴重な緑だし)。この時節は、日中、部屋にいるとセミの大合唱が聞こえてくる。大合唱は朝から夕方までずっと続く。夕方、洗濯物を取り入れようとベランダに出たら、常にないくらいセミの声がでかかった。聴いていると耳が破けそう。いくらなんでもこの音量はおかしいなぁとぼんやり考えつつ、何の気なしに上を見上げたら、ベランダの天井(つまり上の階のベランダの床下)にセミが一匹張り付いていた。わあ、びっくりした。つまりはこのセミが鳴いていたわけだ。至近距離だから、すごい音量である。しかし、そんなコンクリなんかに張り付いて、日陰とはいえ暑くないのかしらん。だいたいうちって●階なんですけど。虫にはちょっと高い高さだと思うのだが(まぁ蚊はゆうゆう入ってくる高さですけどね)、ここまで自力で飛んできたんだろうか?向こうのお家の木のてっぺんからやってきたのかなぁ。予期せぬお客に少しびっくりな夕暮れどきでした。
2005.08.14

朝、ちょっともたついて、玉突きのように電車を1本ずつ乗り過ごす。そのせいで、国際展示場駅に着いたら、近道がすでにふさがれている状態(時間が遅すぎた)。大回りして会場へ。ああああ、売り場の準備に時間かかるのに……。今回は壁際で、それはありがたいが、なんかすごい端っこだ。お客さん、こんな端っこまで来るのかな?後ろの壁にはTシャツをかける予定だったが、そんなことをやっているヒマもないのでとにかく机の上をセットアップ。10時までになんとか大枠は間に合わせた(そのあともちょこちょこ直したけど)。最初は「ヒマだ~」と思っていたが、そのうちドドッとお客さんが来てくれた。ナニが売れたって、ショッピングバッグがよく売れた。13時には残り1枚となってしまった。まぁ200円だったから。缶バッジもよく出た。13個持っていって、残ったのは結局1個。Tシャツも、予想より売れた。8枚って、この間のTシャツ展の倍の枚数なんですけど。(う~ん、もしかしてこれってマニア向けの柄なんだろうか……?)数名の方に「かわいい」と言っていただけて、とても嬉しく、励みになった。よし、今後もペルー路線でペルー柄を広めるぞ!売れ行き好調なグッズとは対照的に、CD-Rの類は今回あんまり出なかった。展示の仕方に問題があったかも。それでも数枚は売れてるし、以前の成績と比べればずっといい。次回もがんばろう。実はうちはラッキーなことに列の端っこに位置していたのだが(気分的にすごいラク)、同じ列の反対の端は、朝から晩まですごい人だかりだった。写真を見ると「短いじゃん」と思われるかもしれないが、この列、実は折り返している。一時はスタッフが整列の手伝いに来ていたほど、ひっきりなしにお客さんが並んでいた。あとで調べたら、プロの漫画家さんのスペースだった。それにしても、旅行ジャンルであんな長蛇の列を見ようとは思わなかった。吃驚。下の写真は13時半頃の売り場。最初はバッグを8つぐらい前面にゾロゾロ下げていたのだけれど、この時間になるともう1つしか残っていない。代わりに絵葉書をつるしてある。12時ごろにやっと吊るすことのできたTシャツが、後ろの壁に見える。面白いことに、その後、吊るしたTシャツ2枚が売れた。1枚目が売れちゃって、もう1枚吊るしたらまたそれが売れたのだ。面白い。 13時ごろまでにピークが終わったからよかったけれど、14時前には集中力が切れてしまった。15時にはもうへろへろで、16時を待たずに店じまいを始めてしまった(まぁそれでちょうど16時に片付け終わったくらいだったけど)。次回からはしっかり交替要員を確保しないとダメかも。反省。反省といえば、朝の4時までかかって作った無料ペーパー、今回は前回の倍の数にして30枚持っていったのに、13時にはなくなってしまった……。その後のお客さんにはペーパーを渡せず、申し訳ない(?)ことをしてしまった。だってだって以前別なジャンルで出ていたときは10枚なくなればいいほうだったんで、30枚って私にしてみたら「大量」のつもりだったのだ。これでも。次回はもっと増やします。清水の舞台から飛び降りるつもりで(って、オーバーな)。ともあれ、ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。次回もよろしくお願いしますね。
2005.08.13
夏の祭典に今年も参加。よかったら遊びにいらしてください。 日時:2005年8月13日(土)11:00~16:00 場所:東京ビッグサイト・西れ-74b サークル名:Eski Yolcu(エスキ・ヨルジュ) ※新刊はCDR資料集『文物断片01』。ギリシアの博物館で撮影した 文物を中心に102点をまとめたもの(素材集ではありません)。 その他、古代アンデス風Tシャツなどグッズも盛りだくさん。 Tシャツは定価2000円をコミケ特価1500円、しかもオマケ付き。ああ、そして今晩から山のようなCD-Rコピー業務が………。
2005.08.11
なんとな~く風邪っぽい。会社を午前中お休みしてしまった……。でもどーしても見なきゃならないものがあるので、午後から行って仕事。ギブアップしてさっさと帰ったけど。盆休み前って、辛い(片付けるものがいっぱいで)。
2005.08.09
13日のイベントに向けて、今日はお買い物バッグにアイロンプリント。しかし、安いバッグを使ったから、こりゃあ一年くらい使い倒してそのまま捨ててもらうコースだな。それでもポリ袋よりはエコのはず……一応………でも「エコバッグ」の名前で売るのはやめよう。できあがってみたら、生成りのTシャツとまるでお揃いみたい(絵柄も同じ古代ペルー調だし)。1つ200円の破格(ほぼ原価)で売る予定。Tシャツは200円じゃありません、1500円。こちらもけっこー破格…。
2005.08.07
頭じゃありません。それは、音。(まぁ、間違ったかけ方をしたらだめだろうけど)先月、夏のボーナスが無事に出たので、ミニコンポを買おうとずっと思っていたのだが、これまでお店に見に行くヒマがまるでなかった。最近、業務がちょっとだけ減った(一時的だけど)のを幸い、ヨドバシやら何やらへ様子を見に行ってみた。ロック・ポップスも聞くけど、とにかくクラシックを聴いたときにがっかりしないで済むヤツが欲しい。バーバーのアダージョのCDを持って(試聴用)売り場へゴー。以前(ってもう5年以上前だけど)聞いたときに「これ、いい」と思ったONKYOのINTECシリーズを真っ先に試聴してみたが、だめだった。おかしい。この程度の音だったか? これならビクターの風変わりなミニコンポのほうがいいような…?で、結局、たどりついた先はDENONだった(デンオンだと思っていたらデノンって言うようになったんだねー。でも元はコロンビアってホントですか)。値段も適正だし(安いという意味ではない…でも音質からすればONKYOより断然安い)、音もいいし、ここにしようかな。国産の応援にもなるし。しかし、同じDENONでも、スピーカーが違えば音が違い、アンプが違えば音が違う。高くなればなるほどいい音になる(笑)。スピーカーは最初は2万円のやつにしようと思っていたが、4万円のやつの音を聴いてしまったらもう、ムラムラしちゃって(笑)。アンプとCDプレイヤーが一体型のやつは35000円くらいで安上がりだけど、アンプ25000円CDプレイヤー20000円のシリーズを買うほうが音がいいし、それよりも45000円のアンプのほうが断然音がいい!なんでこんなに変わるか!!(怒)PRESTAとかいうシリーズのその高~いアンプは、ほとんどバラコン並みの音が出るんである。聴いてみて即、「あ、普通の音だ」と思った。「普通」ってつまり、実家のバラコンで聴いていたのと同じような、変に装飾もなければ、こもったり響きすぎたりもしない、何の変哲もない…って、語弊があるな、そうじゃなくてなんとゆーか………とにかく普通の音なんである!(ギブアップ)高いのは高いんだが、ヨドバシのポイントもずいぶん溜まってるし、思い切ってアンプはこいつを買おうかと、もうぐらぐら。スピーカーも背伸びして55XGのブックシェルフ型を買って、そしてCDプレイヤーだけ安いやつにするのだ。ミニコンポながらバラ買い(笑)。が。問題がひとつ。件(くだん)のアンプ、奥行きが37センチもあるんである!ケーブル挿したら40センチか~。予定していた場所には置けないかも。う~む。道は険しい(?)。(というわけで相変わらず保留中…)
2005.08.03
なんとなく思い出したので。先日、歌舞伎を見に行ったとき、隣に若い女の子が座っていた。若干落ち着きがない感じで、もしかするとこういうものを集中して見ることがそもそも苦手な娘さんだったのかもしれない。その彼女が、舞台が始まってからあることをしたので、私はとてもびっくりしてしまった。さて、私がびっくりしたそのこととは、いったい何でしょう?1.ウォークマンを聴きだした2.口紅を塗りなおした3.携帯電話でメールを打ち始めた正解は、2番。1番はないだろ、さすがに(笑)。遭遇したことのある人は教えてください(何の景品も出ませんが)。3番はありそうだけど、目撃したら「腹立たしい」だけで「びっくり」はしない。そうなのだ、娘さんは舞台が始まってしばらくしてから、おもむろに口紅を塗り始めたのだ。そんな薄暗い中で塗りなおしても、だれも君のことなんか見ないよ? みんな「舞台」を見に来てるんだから(明るい中でだってきっと見ない)。あなただって舞台を見に来たんじゃなかったの?私にはちょっと理解不能な出来事だった。
2005.08.02
7/29の日記にも書いた、新居のバルコニーから神宮の花火を楽しもうという野望は、立ちはだかる中層ビルの前にもろくも崩れ去った。見えないですよ。ときどき花火の先っぽが見える程度。音はよく聞こえるけど。もっと高いところへ行かないとだめだ。ああ、残念。だれかあのへんの建物を壊してくれないかな~。なんて、無理だとわかっていても思わず考えてしまった。
2005.08.01
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