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書名:地の果て至上の時著者:中上健次出版社:新潮社(新潮文庫)発行年月:1993年07月ISBN:4101274037 本体価格:743円(税込780円)わぁ長かった。文庫でも600ページ超えるとなかなか読みきれない。『枯木灘』の秋幸の3年後である。あらすじは、腹違いの弟を殺害した罪により、大阪で服役していた竹原秋幸が、三年ぶりに故郷に帰ってきた。しかし、その紀州・熊野の地にも都市化の波が押し寄せ、彼が生まれ育った「路地」は実父・浜村竜造の暗躍で消滅していた―。父と子の対立と共生を軸に、血の宿命と土地の呪縛が織りなす物語を重層的な文体で描く、著者渾身の力作。『枯木灘』『鳳仙花』に続く紀州神話の最高到達点。だそうだ。『岬』『枯木灘』そして『地の果て 至上の時』へと続くわけだが、秋幸を主人公のようにしながら、実は浜村龍造をずーっと書いていたんだなぁと最後にわかった。だから浜村龍造の死で物語は幕を閉じる。その後の秋幸に居場所はない。これを読むと自分は安っぽいヒューマニズムに毒されていると思う。思うが、それでもかまわない、秋幸のように自己の世界を完結させるために親を見殺すぐらいなら(彼は親孝行と言うだろうが)安っぽいヒューマニズムに則って泣いたりわめいたりするほうがマシじゃ。こちらから見れば彼は自己の世界を最優先させるがために恩知らずとなり力を誇示し他人を省みず何も説明しないでおいて「誤解されたってかまん」という(お前が誤解されるように仕向けてるんじゃろーが)、そうやって気ままに振る舞うのが正しいとうそぶく無責任な臆病者にすぎない(ここまで、近代主義的視点)。しかも対立する二者の境界でそうやって守ってきた世界を、解説の言によるならばすっかり解体してしまう。すばらしい負の重力。この物語では神さんがたくさんでてくる。徹になぶられ孕んで祖母に殴られるうち後光が差し宙に浮いたという白痴の子(噂のみだが)、水の信心を広め自分の母親の死体を宗教的復活のために家に放置する「神さん」と呼ばれる教祖、神ではないが浜村孫一が目指した仏の国の理想、そして実は秋幸自身も徹から「おれの神さんだと思とる」と言われる。ここで語られる神とはなんなのだろう。神さんに帰依する者はみな、なんらか自分がゆるされたいと思う。秋幸はそんなことは思わない。浜村龍造も。その意味で彼らは人間側でなく神さん側に立っている。それで余計に「わからない」と思うのかもしれない。私は人間側に立つから。路地とそうでないものの境界は、この話ではかなりあいまいに見える。それは両者の境界に立つ秋幸の視点かもしれず、焼失への前段階かもしれないが、いずれにせよこの作品で中上の中の路地世界は終わりを告げた。しかしどーやって生きていくつもりだったんだろう(つもりとかそーゆー次元じゃなく必然なんだろうけど)。路地世界の消失は、帰属社会の相対化じゃないのか。つまりアイデンティティが失われてしまう。もちろん新たに獲得すればいいということになろうが、そんな前向きさはこの作品から見出せない。ただ消失しただけ。それでもその果てに立つことは至上の時なんだろうか。残念ながら私にはまだ理解できない。▼この本はこちら地の果て至上の時(読み応えは十分すぎるほどだが、楽しいとはひとつも思わない本(笑)。覚悟して読んでください)
2005.10.31
招待券をいただいたので、日本橋三越のギャラリーへ行ってみた。天邪鬼な私は3つある会場のうち第3会場から第2、第1と回ってしまった(つまり年代の若い順に)。まぁ特に問題なし(笑)。岡倉天心によって創立され、官展に対抗しながら近代日本絵画の発展の一翼を担ってきた日本美術院の、これが90回目の院展だそうだ。日本画のこの一世紀の流れを目にすることができる、ボリューム満点の展示。いつの時代にも綺羅星のような日本画家が存在する。たとえば大正は観山や大観、昭和初期では青邨、昭和後半からは平山郁夫、小倉遊亀、奥村土牛など。名前を聞いたことのあるひとは、だいたい目の留まる作品をものしている(なんでそこで目を留めてしまうのか自分でもよくわからないのだが)。今回は、出品されていた平山の日本画が非常にきれいでびっくりした。私は、平山の素描は本当に美しいと思うけれど、本画はあまり好きじゃない。のっぺりした感じで。でも「仏説長阿含経巻五」は違った。実に美しかった。土牛の絵はどうして可愛らしいんだろうとか他にも感想はあるが、いずれも本当に名のある人ばかりだし私の感想も通り一遍でしかないので割愛。そんな中でちょっと気になったのは、「聖夜の集い」という絵だった。作者がだれだったかな~、岡本だったか長谷川だったか(いい加減)、弥寿子という名前だったように思うが覚えていない。印象的だった。すごく美しい色彩なわけでも大胆な構図なわけでも枯れた情感が漂っているわけでもないと思うのだが、あ、いいなと思う。どこがどういいのか自分でも全然わからないのだけれど。その絵を見られたから今日はよかったと思うことにして会場をあとにした。
2005.10.28
日曜に植えた小松菜の芽が出た。すごくちびでかわいい。(ちびすぎて写メール画像ではほとんどわからないか……中央にすじ播きしてあります)うまく収穫までこぎつけられるだろうか。どうも自分は火の手っぽいからな……。緑の指がほしい。
2005.10.27
結局見てしまった。せっかくのレディース・デイだし今後水曜日に映画を見に行くなんてきっとできないと思って(業務がまた忙しくなりつつある)。ティム・バートン制作のストップモーションアニメ。どのくらいCGが入っているのか不明だが、たぶん途中で骸骨が踊るところとか最後にむにゃむにゃがむにゃむにゃするところなんかがそうなんだろう。でも基本は手作業じゃないかな(でもでも本当にそうだとしたら作業量のこと考えると気が遠くなりそう…)。ビクターは蝶やピアノの好きな繊細でやさしい青年。政略結婚の相手ビクトリアと結婚式のリハーサルで初めて顔を合わせるが、そのリハーサルで失態続き、牧師に(ビクトリア朝だからイギリスで牧師だよね?)怒鳴られパニクってその場を逃げ出す。迷い込んだ森の中、自分ひとりで誓いの文句を練習し、ビクトリアの指代わりに木の枝に指輪をはめたら、それは枝ではなく人骨だった。土の中から起き上がった死女が「お受けします」と答え、なんと彼は死体と結婚したことに…!?って、あとは見てください(笑)。面白かったが、ちょっと時間が短い?(これ以上長い時間、ストップモーションアニメを作れというのは酷だけど)メイヒューの役回りがちょっと不明だったり、ちょーっと早送りすぎて構成がわかりづらくない?ジョニー・デップの声は普通だった。声優としてもやっていけそう(声だけだとだれだかわかんないね)。ヘレナ・ボナム・カーターの声が、折に触れ迫力を出していて上手かった。キレイだけじゃ済まない、スゴイと思わせるところをちゃんと出してる。彼女の言葉が胸に迫ってくるような印象というのか。そして全編エルフマン節ばりばり。さすがにちょっと「ナイトメア…」とかぶるような曲もあったけど、似たような雰囲気だから問題ないんだろう。もちろん実際の背景(ナイトメアで出て来る現実空間は現代、コープスブライドはビクトリア朝)は異なるけれど、表される世界が一緒っていうのかな……まぁどの作品もティム・バートンのルーツ探しのようなところがあるからそれは当然なのかも。心臓の鼓動は止まっても心は痛むのか……何度か出てきたフレーズで、たぶんキーワード(って私は勝手に思ってる)。もういっぺん、今度は英語字幕付きで見てみたいなぁ。原文の台詞が面白そうなのだ。映画館ではほとんど聞き取れなかったので(そりゃ「I do.(お受けします)」くらいはわかるけど)、大スクリーンじゃなくていいから台詞と歌詞を聞くためにもう一度(二度三度?)見たいかも。あとは何を書いてもネタバレになるのでやめとく。あなたはどっちを応援する? 生きてる彼女(ビクトリア)? 死んでる彼女(エミリー)?
2005.10.26
■演奏:寺神戸(てらかど)亮[vn]、ヴォデニチャロフ[pn]■日時:2005年10月25日(火)19:00~■会場:浜離宮朝日ホール(東京・築地)■曲目:シューベルト ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調 ベートーヴェン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第9番《クロイツェル》 ベートーヴェン ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第10番寺神戸亮は、オリジナル楽器ヴァイオリンの奏者としては、少なくとも日本で彼の右に出る者はいないんじゃないかという技巧の持ち主(世界的にもトップらしい)。以前、バッハ・コレギウム・ジャパンのリサイタルでなんだったかバッハの曲を聞いて、それがこの人の演奏と初めて出遭ったときだったのだけれど、その上手さにものすごいショックを受けた。それ以来、ちょっぴり注目している(あんまり真面目に追いかけてはいない……性格的に私ゃ「追っかけ」ってのが苦手みたい)。というわけで注目して期待して行ったが、う~ん、欲求不満になってしまった(笑)。目玉のクロイツェル・ソナタが満足できなかったのね。特にピアノが物足りなかった。フォルテピアノだったからなのか?(たぶん違う)今までモダンピアノでいろいろ聞きすぎたんだろーか。しかし何にせよ私にはこのピアノは全く物足らん。寺神戸亮のヴァイオリンにしても、確かに上手いものの、波が来なかった(私には)。最後の楽章は聞きやすくてよかったけど、全体になんとゆーかこうダイレクトに胸に迫るところがないというか。……私の感覚がにぶいだけかも。それにしてもベートーヴェンって攻撃的(いや今夜の演奏がそうだったのか?)。クロイツェルの第2楽章を聞いていると、なんだか音で攻撃されてる気がしてくる。ヴァイオリンのぎーって音で。さて、欲求不満になってしまったため、実家に寄ってメニューインとケンプのクロイツェルを聞いてみたが、きれいな演奏ながら、全然満足いかない(笑)。鮮やかさではやはりナマに敵わないしなぁ。じゃあさっきのナマ演奏で満足すべきだったのかなぁ、悪い演奏ではなかったんだし……。自分がクロイツェルに何を期待しているかもよくわかってないんだから(これが一番ネックかも)。どなたかいい盤をご存知でしたら教えてください。(とりあえず寺神戸のヴァイオリンソナタ集を買って研究してみる?)
2005.10.25
言わずと知れた菊花賞である。ついテレビ中継を見てしまいましたよ。その競馬番組、通常ならレースをいくつか取り上げるところが今回はディープインパクト一色、他のレースなんてほとんどやらないの(苦笑)。競馬場は超満員だし、客席からは入場した馬たちをびっくりさせるような大歓声が湧いて、どう見ても異常。異常といえば、単勝1.0っていうのも異常では(笑)。100円出して買って、ディープインパクトが一着になっても100円しか戻ってこない(大笑)。あまり買う意味ないよーな気が…?テレビの解説者が「記念に買っている方も多いでしょう」と言うのを聞いて、なるほどと納得した。記念コインならぬ記念馬券なのね。レースもなかなか見応えあるレースだった。私なんかシロウトだから、一瞬、「えっ、このままアドマイヤジャパン逃げ切り?」って思ってしまった。だってかなり空けられてたから。それなのに最後の直線でディープインパクトがぐんぐん追い上げて、差したあとさらに二馬身ほど差を広げてゴール、すごかった。なんつー速さじゃ。当然大歓声。これもすごかった(笑)。みんな腕突き上げて紙みたいなもの振ってるし(競馬新聞?)。おめでとう無敗の三冠(21年ぶりとはね~)。こーゆーわくわくするレースがあるのはいいことだ。でも馬券では(ネットで買ってみたけど)損した。そーゆーものよね(笑)。
2005.10.23
夜、実家へ見に行った(実家はスカパーが入るので)。面白かった。原作の構成がいい。「あ、あれってこういう意味だったのか」とあとから納得する仕掛けがいくつもあって、特に最後の20分ほど(エンディング除く)はとても楽しめた。J.K.ローリング、ノリノリだったんだな……たぶんここまでは。原作にないような遊びも含まれていたようだ。冒頭の迷子の魔法使いピックアップバスなんかは映画オリジナルらしい(父によれば)。かなり笑えた。まぁ、最初に猫バスを思い出してしまったけど。感想を書くと即ネタバレなのでやめとく。当り障りの無いところでは、相変わらず子役がみんないい。ロンもハーマイオーニもかわいいし、マルフォイは相変わらず救いようがない(笑)。いや~なんとも憎憎しい(つまり役者が上手い)。しかしあのワーウルフはいただけなかった。もーちょっとどーにかならんかったのか? ああカッコ悪。小道具では地図がいい。あの地図ほしいな。別に何をしなくても見てるだけで楽しそう。(しかし地図の効果を使ったエンディングは面白かろうが長すぎて効果半減……)あとモンスター図鑑。けむくじゃらで手触りがよさそう? どーやって読むのかと悩んでいたら、なるほどそうですか(知りたい方は本編見るか原作読んでください)。もうすぐ4作目がやってくると思うが、3作目まではなんとかごまかせた彼らの成長振り(比喩でなく物理的な意味での)をどーやってごまかすのだろーか?広告を見る限り、ハリーは青年だし、ハーマイオーニはどうもブロンドに変わっちゃったっぽいし(向こうの子ってどうして大人になると髪やら瞳やらの色が変わったりするのでしょうか?)、キャラクターの絵的な魅力をどこでカバーするのかね?キャスティングが大当たりだったせいで逆に苦労しそう。余談でした。
2005.10.22
ステーションギャラリーで23日まで開催中の加守田章二展へ、会社を早めにあがって(無理矢理)見に行った。よかった見に行って。招待券があったが、800円なら定価を払っても見に行って損はない(ここの学芸員、本当に腕とセンスがいいなー)。ポスターやなんかのコピーに「20世紀陶芸界の鬼才」とうたってあったけど、なるほどこれならわかる。よくあるように「単なるあおり文句」というのではない。なんというか、見ていて楽しい。おおらかでかわいらしさがあって、遊び心をくすぐられる。ある彩陶を見たときなんか、道路に落書きしたときの気分を思い出してしまった(昔はローセキでよく落書きしたものだ最近あまり見ないけど)。「おおらか」と書くと大雑把ととられるかもしれないが、とんでもない。それぞれに施される加飾は非常に精緻なものだ。平面ならともかく陶器という立体であんな細工を美しく仕上げられるなんて信じられない。信じられないといっても目の前に実物がある以上信じざるを得ないが。ぶつぶつしてみたりうねうねしてみたり図柄はユニーク。また、陶器よりも他のものをイメージさせる作品も多い。陶皿なのに模様がまるで螺鈿細工とか。陶壺なのにまるで縞模様の袷みたいとか。陶器なのに触ったらふかふかした感触が返ってきそうな彩りとか。陶器(せっ器)なのにほとんど岩とか。床の間の掛け軸を思わせたり民族楽器を思い出したりステンドグラスのある教会を思い出したり、見ているこっちが忙しい。現代芸術としての陶芸作品は、どれもまぁ趣としては偉大さを理解できないわけじゃないものの、依然として難解なものが多い。その中で加守田の作品はやさしい。やさしくて、想像力を働かせてくれる。(余談だが、私はこの感覚をイサム・ノグチの作品で初めて感じた)人種も年齢も性別もなく、だれでも身構えることなく鑑賞できる、稀少な普遍性を持っていると思う。どーして死んじゃったの……(50歳目前で夭逝)。不思議なことに、どの器を見ても、ひとがそこにいるような気がする。別にひとがたをしているわけでもないのに、ひとの存在感が感じられるように思う。背中だったり胸だったり豊満な土偶のようだったりとさまざまだが、ひとのような存在感がある。作品は加守田自身であり、見る人は目の前の陶器に彼の存在を見るのかもしれない。
2005.10.21
昨日書き忘れたので(たいした内容じゃないが)。ティム・バートンといえば、ここんところ必ずタッグを組んでいるのがダニー・エルフマン。今回もやっぱり音楽は彼で、エルフマン節(ぶし)をがんがん聞かせてくれた。ウンパ・ルンパの歌は全部彼が歌っているらしい(「ナイトメア…」のジャックも歌は全部彼だった)。「エルフマン節」って私が勝手につけた呼び名だが、このひとの曲には特徴があって、聞けばたいてい「あ、エルフマン節だ」と思う。この間、何かのDVD(バートンじゃない映画)を見て「エルフマンチックなBGMだな~」と思っていたら本当にエルフマンだった(笑)。私は彼の音楽って割と好き。「ナイトメア…」のサリーの歌とかブギ・ウギの歌とか歌えちゃうくらい(←馬鹿?)。ジョニー・デップや最近のヘレナ・ボナム・カーターみたいに「バートン組(仮)」の俳優さんとのタッグはよく取り上げられるけど、表向きあまり取り沙汰されない(パンフにちらっと書かれる程度の)エルフマンとバートンの縁はかなり深い。エルフマンの音楽がなければバートン映画はできないかもしれないくらい、彼の存在は重要なんだと思う。(余談だけど音楽だけじゃなく撮影とか衣装なんかにもきっとかけがえのないスタッフがいるんだろうな)「チャーリーとチョコレート工場」もエルフマンでよかった。さて、来週から始まる「コープス・ブライド」を見に行くかどうか……。
2005.10.20
水曜日なので1000円で映画を見ようと行ってきた(すごい、会社帰りに映画に行けるなんて1年ぶり?)。ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演で話題の「チョコレート工場」。ロアルド・ダールの原作は、すごくすごく昔(つまり子どもだったころ)に読んだのでうろ覚えで、面白かったことだけ覚えている。ただ、ウォンカの変人ぶり(笑)は、子供時代に読んだときにはそんなイメージじゃなかったと思うがなぁ。私が彼のエキセントリックぶりを理解できなかったのか(子どもだったから気にならなかったのか)。どっちかっていうと、子どもたちが次々と脱落していくのを読みながら、「ああ食い意地が汚いのはいけないんだ」とか「人に勝つことばかり考えてたらだめなんだ」とか「ワガママはいけないんだ」とか「テレビばかり見てるとだめなんだ」とかって教訓を得ていたよーな(笑)。もちろん最後にわれらがチャーリー(平凡だけどやさしくて夢とつつしみのある子ども)がムニャったときは(ってこれだけ伏字にしてもすっかりネタばれてる?)とてもすっきり爽快な気分だった。映画もだいたい原作どおり。子役が、チャーリーももちろんうまいけど、他の子どもたちがなんとゆーか、「私はこーゆー嫌なヤツなのよ」っていうのをしっかり表現できていてすごかった。ワガママ娘はうんざりするくらいワガママだし、おデブちゃんはブタと形容されるにふさわしく、みな演技とは思えないくらいしっかり役柄を体現していた(もちろん演技ですが)。子役に負けず劣らず大人の俳優も皆うまかった。特にいい味を出していたのは、二人の爺ちゃんかなー。ジョー爺ちゃんのほうはチョコレート工場へ一緒に行くので目立ったけど、もう一人の(ごめん名前忘れた)ちょっと言葉のきつい爺ちゃんもなかなかどうして、印象的だった。チャーリーが特別チケットを家計のために売ることを提案したときに、「お前はとんまか」と諭した場面が忘れられない。ウォンカのエピソードの追加については、賛否両論あるだろうと思う。私はどっちだろう?実はよくわからない。ただ、この「追加」はバートンのウォンカへの思い入れを表すのかもしれず、それなら映画の製作に必要だったのかもしれないとは思う。社会からはみ出した存在を愛するバートンならではということで。そしてそういうはみ出し者への溢れんばかりの愛を表現するからこそ、私は彼のファンなわけで、それなら賛成側にまわるかな。それに、ジョニー・デップの出番が増えたということは喜ばしいことだ(笑)。楽しい映画でした。最後のほうで地震があったけど、みんな我慢して立たなかった。ウンパ・ルンパが歌うたびにあちこちで笑い声があがり、映画館にいるみんなで見ている感じになれる映画だった。ただし、バートンにしてはほろ苦さがなかったかなとは思う。
2005.10.19
突っ込んだ感想を書くとか予告してたよーな気がするが、あまり変わらないのでパス。簡単に。でもネタバレな書き込みがあるかもしれないので、「先に知りたくないの!」って方はここで止めてください。(ネタバレたってなーんも問題ない脚本だと思いますが)蜷川演出、井上ひさし脚本の『天保十二年のシェイクスピア』、二度目の観劇。すごくいい席だった。二階席ど真ん前。前回遅れて見損ねた冒頭部分が見られてよかった。その冒頭の、農民(というよりはもっこ担いだ人足)たちが「もしもシェイクスピアがいなかったら」と大声で歌い踊る、ここが見てて一番楽しかったかも(笑)。あとはあれだな、魔女たちが闇鍋を囲んで騒ぐところ(すごく楽しそう……いいなぁ…)。魔女、いいな。脚本で字面だけ見てもそれほどワクワクしないんだろうけど、実際に舞台上で見るとものすごく魅力的。特に白石加代子の魔女が(笑)。殴りこみのシーンを見ていてふと思ったけど、藤原竜也は「新撰組」で立ち回りの腕をあげたのかな。もともと何を演らせても上手いひとだけど、本当になんでもござれになりつつあるよーな…。全体に、前回よりも役者さんのノリがよかったように思う。ただ、一幕のラストで三世次が吐く台詞は、前回のほうがよかった。憎しみがこもってて。まぁ一言でいって、これはパロディでありコメディである。そうやって見れば無茶苦茶面白い。かっこいい生き様なんて一つも出てこない(あー、甚ベエ爺様は別として)。ふざけきっとる、なめきっとる、言葉で茶化しまくりの戯れの曲である。(その中に佐吉と浮舟太夫の純愛悲恋が挟まるのはどーゆーわけなんだろう……ロミオとジュリエットのラストを入れたかったのか?)余談だが、リチャード三世でよく言われるのは、一幕では観客は悪の魅力に憑かれリチャード三世の味方になるが、二幕で幼い王子達を殺すあたりからついていけなくなり、心情的に敵方に回るということだ。「天保…」の三世次についても実は同じような構図ができていて、一幕が終わっても観客はきっとまだ三世次に同情的だが、お里や河岸安(かしやす…オセローのカシアスやね)を陥れるあたりからついていけなくなった(上川のときは悪人ぽくなくてスルーしちゃったけど)。これってたまたまそーなっただけなんだろうか、それとも井上ひさしが計算してるんだろうか……前者だなきっと(笑)。さらに余談だが、ああ、豪華な実力派俳優をそんなとこに使って……いいのか、壌を花平(はなへい…って読んでたけどほんとはカヘイでカピレットでは)なんてなんだか凡庸な役どころに使っちゃって(汗)。もっとすごいキャラクターを演じられる人なのに(汗)。吉田鋼太郎もなんだか「こう出りゃ(コーデリア)そうきたか、あーこりゃりゃりゃ(リアリアリア…リア王)」だとか「はるばる歩いてきたのに、ばっさりと(バッサリオ?)」みたいな駄洒落ばかり言わされていたような気がしてちょっと気の毒(笑)。まぁ総じてみなさん楽しそうでしたが(観客席からはそう見えましたが)。観客も楽しかったからいいか。ちゃんちゃん。
2005.10.18

東京美術倶楽部というところのアートフェアに、母の友人の骨董店が出展されるので見に行ってみた。日頃骨董とはご縁がなく、お茶もお花もやらない私には全くの別世界だ。「あの陶器きれい」と思って近寄ったら明時代のもので500万だったり(直径7センチくらいしかない小粒なやつなのに)、「見たことある作風だからこれはだれか有名なひとの手だろう」と思って見たら尾形乾山の陶器で1200万だったり、白隠禅師の掛け軸らしきものに寄ってってみたら2000万だったり(えー本物なのーどうしてー)、ゼロの数を数えるのがたいへん。それでも陶器がわりと好きなので(シロートとして)、ちらちら陶器を覗いて歩いた。古いものがいろいろある。江戸時代はもちろん、室町時代の常滑のツボなんかもあって、こうして見ると陶器はすっかり日本の文化になったなと思う。でも日本の陶器のレベルがすごくあがったのは、中国の景徳鎮が戦乱で活動停止した時期からなので、歴史的にみると若いんだよね(確か)。そのあおりで伊万里やなんかが技術をあげ名を挙げていったわけで、それ以前は陶器も中国や韓国(李朝)の水準には及ばなかった。(ところでどうして柿右衛門ってすぐに柿右衛門だとわかるのかねぇ。あれだけは一発でわかるよね)李朝といえば、本当に美しい工芸品がいろいろあった。陶器磁器もあったと思うけど、螺鈿のすごいのなんかがあって、いいお値段。さすが。まぁでもイイお値段なものの筆頭は茶道具ですな。なんで茶杓が一本95万もするの……私には理解できない世界……。その知り合いの骨董店に陳列されていた唐津焼きの茶碗は、なんと500万円だった。ひ~え~。別に釉変を起こしたりしてるわけでもない、どっちかっていえば素朴な感じの茶碗なんですけど500万。お話によれば、箱書きがしっかりしていて、来歴の成績がいいのだとか。だれが作ったかだけでなく、だれの手を渡ってきたかも影響するなんて知らなかった。あとは、軽いし(軽いのって技術が低いとできないんだよ)、持ったときのおさまりがいいし、覗いたときにすごく深みがあって(これは本当にそうだった)、茶碗としても名品だとのこと。そうかぁ。でも500万(しつこい)。500万あったら他のことに使っちゃうな私……だめだな。それから、そこでは面白いナツメも見せてもらった。木の実じゃない、お抹茶を入れるほうの棗(なつめ)です。漆だろうか、黒に近い、それでいて真っ黒じゃないちょっと赤みのあるような濃い色に塗られているのだが、よくよく見るとその艶のある表面とは異なるマットな黒で、うっすらとカラスの浮き彫りが施されている。それも蓋の上だけじゃなくて全面に何羽も。すごい。こんな奥ゆかしい表現は、まさに日本人の美的感覚だなと思う。そういう奥ゆかしい変わり種を喜ぶ通人が買うに違いない(もちろんお茶をやってるだろう)。まぁ、たまにはこういうのも面白いね。ヒヤカシで申し訳ないですけど。来年は友人と来たいなぁ。
2005.10.15
書名:『岬』著者:中上健次出版社:文藝春秋(文春文庫)発行年月:1978年12月ISBN:416720701X本体価格:467円 (税込 490円)『枯木灘』『鳳仙花』とこの『岬』で三部作といわれるらしい。作家の郷里である紀州を舞台に、のがれがたい血の宿命に閉じこめられた一青年の渇望と愛憎を、鮮烈な文体で描き出し、広く感動を呼ぶ芥川賞受賞作だそうだ。「岬」自体は中編で、文庫には他に4編が収録されている。まあどれもほぼ同じですが(つまり同じモチーフだったり同じ事件や登場人物を別視点で書いていたり)。人称の使い方が印象的だった。彼(枯木灘でいう秋幸)は「彼」と書かれ続ける。もちろん、他の人間に「あきゆき」と呼ばれるときは別だが、彼は最初から最後まで「彼」でしかない。それから、「姉」と語られるのはなぜか美恵だけである。彼には3人の姉がいて、一番上の姉の芳子は法事に帰ってきてしばらく登場しっぱなしなのに、姉とは書かれない。ただ「芳子は」「芳子が」と書かれる。「姉は」「姉の」と書かれるのは二番目の姉である美恵だけだ。『枯木灘』をすでに読んでいる身としては、兄妹心中の歌など思い出してしまって、妙になまめかしい。『枯木灘』の秋幸は26歳だったが、このときはまだ24歳である(しまったこっちを先に読むべきだったのか?)。彼は周りの大人たちを見て、おまえら腐ってると思う。おれはおまえらとはちがう、おんななんかいらないと思いつづけて、最初に選んだ相手が腹違いの妹(推定)だ。血を呪い、その呪いを突き詰めて半分血の繋がった妹と寝る。それで自分の血を貶めようというのだろうか。「岬」で語られる暴力は(秋幸によるさとこの陵辱を別にすれば)、美恵の夫の兄である古市が、やはり夫の妹である光子の亭主(もしかするとヒモ)に刺され殺される話である。実はこれは『十九歳の地図』に収録されていた短篇(中編?)の話なのではないかと、「岬」を読んでいて気がついた。どの短篇もほとんど舞台が同じ、少しずつズレをもって語られるが、畢竟同一のもののようだ。人が人を殺すなんてそんなことは普通にあってはならないことだと秋幸が思うように、その暴力はあまりにも突発的に起こり、理由もなく必然性もなく、あまりに日常にそぐわない。だがそれを起こす苛立ちは、「あってはならない」と思う秋幸を苛みつづけ、やがて『枯木灘』へと結着するのだろう。私生児であるということがどれくらい痛みを伴うのか、そうでない人間には想像もつかない。『鳳仙花』では私はフサのことを肯定的に受け止めたが、実際に産み落とされた側からすれば、生涯消えることの無い苛立ちを抱えることになるのかもしれず、そんな簡単に肯定していいものではないのだろう。なんかこれ以上書いても全部余計なことになりそうなので、この辺でやめておくことにする。▼この本はこちら岬
2005.10.13
昼にエクセルシオールカフェに入った(ドトールの上位機種ですな)。普通に惣菜系のパンとおやつ系のパンとを買い、飲み物には季節ものらしいメープルラテというやつを頼んでみた。パンは普通だった(いやまぁ美味しいけど普通でしょ、この価格は高すぎる…)。メープルラテも普通……だと思った。最初は。最後に飲み干したら、ものすごい甘味が胸に広がった(口の中じゃない、胸なの)。うわー甘い。甘すぎるよぅ。店を出て歩いていても胸の中が甘い(つまり胸ヤケ?)。甘い──────!!!!!キモチわるいよー(涙)。しばらくダメージから立ち直れなかった(笑)。社内で若い男の子たちが食べているカップラーメンの匂いがとっても魅力的だと言ってみたり、同僚に言動がちょっぴりおかしいから早く帰れと言われたくらい、ダメージを食らっていたようだ。これだけ甘いと身体にも悪いんじゃないかと思ったり。もう二度と飲まないぞ。(と、固く誓ったが、来年になったら忘れてる気がする……馬鹿だからなー……)
2005.10.12
父親がヒマだというので、カウンター下に簡易棚を付けてもらった。もともと高さ180センチくらいの父親自作の組み立て棚で、20年以上前に使っていたやつ。今は新しい組み立て棚(これも父の自作…かなりの大作)にその座を譲り、捨てるのがもったいないと母が物置にしまっておいた、いわば廃品をそのまま再利用した(わーエコだ~)。柱をカウンター下に収まる高さに切ってもらい、留め具をつけて設置した。ドリルや何かがうるさくて、周りからは「いったい何を工事してるんだろう?」と思われたかも。いやぁ、既製の棚じゃあ耐荷重のキロ数が足りなくて、かといって重厚な本棚を入れるにはイマイチで(通風孔とかコンセントとかの位置の関係もあって)、困っていたのだ。これでやっと図鑑と百科事典が並べられる~。しかもタダ(笑)。とても儲けた気分(←安上がり)。
2005.10.09
友人と待ち合わせて銀座のすどう美術館(画廊)へ行った。卒業校の先生が毎年シロタ画廊で個展をなさる、それにほぼ毎年うかがっている。今年はさらに、先生のお母上の作品展も同時開催である。(むしろ岡田芙美子展のほうがメイン)岡田芙美子さんは61歳で初めて絵筆をとり、骨粗しょう症の悪化によって81歳で筆を置くまで20年間油絵を描き続けられた。その作品の集大成である。実は先年、先生の個展にうかがったときに、岡田芙美子さんの作品の写真を拝見する機会があった。写真だけでも「なんて若々しい絵を描くんだろう」と吃驚して、これは一人で見るのはもったいないと大学時代の友人Mを強引に?誘い、今回会場を訪問した次第。思ったとおり、とても素晴らしい油絵ばかりで、しかも全然枯れていない。それどころか描けば描くほど絵の年齢が若返るようだ。最初から割と抽象画に興味を持っていらしたようで、カンペキな抽象画には走らないものの途中でコンポジションに挑戦されたりしている。また、徐々に平板な油絵よりもマチエールを工夫する方向へ花開き、最後のほうは先生の言葉を借りるなら「重力から解放された」画風になっていく。すごいアヴァンギャルド。絵だけ見せて、描いた人の年齢を当てさせたら、絶対に40歳ってみんな言うと思う。でも80歳なのだ。しかも骨粗しょう症をわずらいながら、這うようにして描いていらっしゃったのだ。これは「趣味」じゃないね、この人は画家なんだねと、友人Mと言い合った。きっと岡田芙美子さんの中にはすでに描きたいもの、描かれるべきものの像があって、それがやっとチャンスを得て表に出てきただけなのだ、と。こういう話をしていると、夏目漱石の夢十夜を必ず思い出す。運慶の彫刻するさまを見ているひとが、「木の中にはすでに仏がいて、運慶はそれを彫りだしているだけなのです」といったことを言う場面があったと思うのだが、まさにそれである。若い頃は「なにおぅ」と納得できなかったが、今はよくわかる。彼らはすでに在るものを、表に出してきているだけなのだ。というわけで、在るものはいずれ現れるものだし、無いものはどーやったって出てこないんだねーと、二人でうんうん納得しあったのだった。(つまり私たちが何か作品を作ろうといくらアタマを悩ませても、無いものは作れないのだ……)なんだかずっしりと実のある個展だった。来年はもうない、これきり見られないなんて、信じられない。機会があれば毎年見に来るのに。さて、先生のほうは毎年のシルクスクリーン。綺麗です。私一人で見に来ると「綺麗」で終わっちゃうんだけど、今年は友人Mが「どうやってこんな微妙なグラデを出すのか」といった質問を投げてくれたので、こちらも実のある観覧になった。いやあ。そんなに何版も重ね刷りしているとは思いませんでした(汗)。やっぱり、ふつうの人から見れば無駄に見えるくらい、何度も何度も重ねて描くような地道な工程が、佳い作品を生み出すには必要なのだなぁ、でも私にはそんな地道な繰り返しはできないっぽいなぁ、やっぱり芸術家じゃないんだなぁと、再確認したのだった。
2005.10.08
書名:『鳳仙花』著者:中上健次出版社:新潮社(新潮文庫)発行年月:1982年10月ISBN:4101274010本体価格:552円(税込 579円)本当は読み終わったの昨日なんだけど、昨日は布切りバサミのことを書いてしまったのでこっちで。あらすじはこんなふうに紹介されている。海光る三月。私生児としての生い立ちに昏い痛みを覚えながらも、美しく利発な娘に成長したフサは、十五になった春、生まれ育った南紀の町をあとにした。若々しい肉体の目覚めとともに恋を知り、子を孕み、母となって宿命の地に根をおろすフサ。しかし、貧しくも幸福な日々は、夫の死によって突然に断ち切られた。子供を抱え、戦時下を生き延びる過酷な暮らしの中で、再び燃え立つ女の業…。実母をモデルに、その波乱の半生を雄大な物語へと昇華させた中上健次の傑作長編―匂い立つ“母の物語”。そうか女の業か。そうなるのか。私からするとそんなものは女の業でもなんでもないように見えるのだが。先に読んだ『枯木灘』の主人公・秋幸(裏主人公はその実父みたいだけど)の母親フサの物語。私生児であるという生い立ちやその後の境遇、特に好き合って結婚した夫に若くして死なれ、財産もなく女手一つで4人の子どもを育てねばならず、戦争を生き抜き戦後を生き抜くそのさまは、客観的に見れば「不幸」な人生のはずである。だが、どうしてかあまり不幸の影を感じない。もちろん、レビューに「昏い痛み」あるように、フサは私生児であることを繰り返し自分自身に問いかける。自分の母はどんな思いで木屑を腹に打ち付けていたのか、と。また、男に抱かれに行くとき、自分がとても淫乱な女のような気がして悲しみに身を浸す。それでも、たくましく日々を生き抜くフサの姿は、むしろ明るさに満ちている。日の光に照らされれば物事がはっきりすると思い、光を浴びて立つようなとき、フサがまとうのは日の明るさ、大らかさである。善いも悪いもなくただ生きるために生きる、それこそ前向きに生きるということなのかもしれない。ここで語られるフサの人生は生々しい。現代ではお目にかかれなくなってきた、未分化の人生だ。現代社会ではすべてが分析される。暴力を振るえばその原因が分析され、結果が分析され、それが主体と客体の記号となる。だがこの物語では何も分析されない。人間は記号ではなく、なまのままの人間である。その生々しさを目にすると、むしろ私のこれまでの人生のほうが嘘(虚構)ではないかと思いさえする。だからここではフサを記号化することはしない。「母としての偉大さ」「母権社会」「心の母親像」などというありきたりの分析はしない。兄への思慕も夫と死別した後の女の業らしきものも分析しない。フサは娘であり妹であり女であり母でありそれらまるごとでフサだった。▼この商品はこちら(読書時間は推定9~10時間)鳳仙花
2005.10.06
注文していた布切りバサミがやってきたので、喜び勇んでパジャマをじょきじょき切り刻んだ。……こーやって書くとまるで変質者みたい(笑)。要は古いパジャマを捨てる前に再利用しようと、細切れにしただけなのだが。台所に置いて、油とか拭くつもり。
2005.10.05

おそうじと言っても部屋じゃない(部屋もしたけど)、パソコンのキーボードのおそうじである。ふと思いついて始めたら、2時間強かかった。ミニミニレンチやミニプラスドライバなどまで動員して(なぜかあるんだな…大昔にノートパソコン用に買ってあったやつだな)クリアカバーを開け、キーを一個一個はずしながら拭いていった。わぁ汚い(笑)。白くて綺麗なデザインって、こーゆーとき目立って困るよね。並び順がわからなくなると困るので、一個拭くごとに机の上にまったく同じ配列で並べていった。会社だったら先にコピーを取っちゃったりできるけど、自宅ではできないから。チビでわかりにくいけど、下がその写真である。きーぼーどバラバラ殺鍵事件久しぶりにキー配列のおさらいをしたような気がする。昔は少なくともアルファベットの部分は全部そらで並べられたものだが……今もブラインドタッチはできるけど、逆にキーの位置を当てることには自信がない。とまれ、キーボードはかなり綺麗になった。さすがに全部が全部分解はできなかったのでちょっと遣り残した部分もあるけど。新品とは行かないけど、新古品くらい。もうちょっとまめに手入れしないとね……(汗)。反省。
2005.10.02
9月24日の日記で書いたように、伊勢丹で注文したあるものを昨日引き取り、今日組み立てた。(いや~昨日組み立てようとしたら一カ所大きくてはまらないところがあって。今日実家からドライバー持ち出して調整した。ちょっぴり塗装がはげた(笑))う~んかわいい。なんてかわいいんだろう頬ずりしたいくらい(←馬鹿)。イサム・ノグチの「AKARI」シリーズの一つを、ベッドサイド用に購入。直径23センチくらい、高さは40センチくらいのテーブルランプだ。敬愛するイサム・ノグチの家具を入れられてとっても幸せ(ちびだけど……おそらくノグチのデザイン家具中ほぼ最小だけど……)。お家が広ければフロアランプも買うのに~。そういえば今、現代美術館でイサム・ノグチ展をやってるのだった。行かねば。でも私的にはイサム・ノグチは近代で現代じゃないと思うんだけど。まぁどうでもいいや、あかりが手に入ったから(笑)。寝る時間がますます楽しみ。
2005.10.01
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