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■手に入れられるもの手に入れられないもの。どうして、ほしいものがあるんだろうか?どうして、生きる以外にほしいものをもとめるんだろうか?町並みはなには問いかけているんだろうか。植物はどうしてたたずんでいるんだろうか。それは、もう一部だともいえる。もうすべて手に入っているともいえる。だが、渇望する。それがあれば、、あれが手にはいれば、、そんな欲求のもと生きることになる。あなたと、それに違いはない。この世界があなたそのものだからだ。あなたは世界であると同時に自由意志をもっている。世界と一つなのに自由に行動できる部分も持ち合わせている。最初から、もっているのにほしがる。それを手に入れることで何かを思い出すのかもしれない。あなたはそれがほしいのではない。それをもっているとき感じるものがほしいのだ。簡単だ、すでにそこにあるのだから思い出すだけでいい。あなたは世界であり、世界はあなただから。世界にはすべてが存在する。あなたが考えうるすべてがそこにすでに存在している。
2006年03月29日
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■週末に絵を描くワークをやりました。毎回、楽しく、よくなっている感じがしてうれしいです(^^今回はチャレンジ要素が多く、ちょっと難しいことをやってみたんですが、思いのほかうまくいってよかったな~なんて。(参加者のレベルの高さに感謝!)だんだん筆も手に馴染んできて、描くことに余裕もでてきました。(手法的になれても、描いてるときはいっぱいいっぱいですが)こういった何かを作るのはいいですね。無心に何か手を動かすって最近では貴重な気がします。しかし、毎度毎度同じような図柄が出てきますね~。結果的に自分の内面を描くので、共通があるんでしょうけど。だんだん描いた絵もたくさんになってきて、並べてみると同じような表現されたものが必ずでてきます。おもしろいですね~。今回はモデルをたてて描いてみましたが、やっぱりここでも共通するものがあります。図柄や、配色、構図や雰囲気など、不思議な共通点がでてくるのが驚きです。今はいい時期で桜をすこしみてまわれたのでそれもよかったです(^^今週末は本格的に花見のシーズンですね。もっとよくなるように、楽しんでやっていきたいな~と思いました。
2006年03月27日
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■否定でしかいけない場所。肯定からはたどりつけないところがある。肯定はパターンを生み、その堂々巡りをする可能性が高いからだ。どこまでいっても新しいパターンしかない。ようは制限しかない。いい悪いはさておき、そんなもの。今を生きるためには、ありのままの事実をみる必要がある。ありのままの事実をみるためには、制限をはずす、パターンからの脱却が必要だ。パターンからの脱却は、、、否定からしかいけない。疑問といってもいいかもしれない。過去の制限から開放されても、新しいパターンを作ってしまっては、また、そのパターンがどこかで足かせになっていく。ありのままを観れない最大の理由は、パターンを手放せないことにある。中途半端にうまくいっているパターンほど手放しにくい。そして、理論的にそれを完全たらしめることは可能で非の打ち所がない(ようにみえる)。でも、どっかでうまくいかなくなる。パターンに気づくにはいろいろ方法があるが、根深いところはすでに本人と一体になっているかのようなに強固な結びつきがあるため、本人自身では気づけない。ようは前提条件を変えられない。そのため、同じようなところで座礁、葛藤する。まったく制限のない場所。本当の自由とはそういうものをいうのかもしれない。自由は平安と、静けさをうむ。平安や静けさは自由さからしかうまれないかもしれない。
2006年03月24日
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■なんのために生きているのか?生まれてきたものの大きな疑問であるこの議題。最近、一つの結論がでた。そんなんでいいのかね~。人は、生きるために生まれてきた。ただこれだけ。そんなバカな。でもそんだけ。いったい全体なんなんでしょうね~。世の中に本当の安定はなく、ただ、不安定さになれるしかない。不安定ゆえに変化に対応でき、過去にこだわりもしない。人ほど変化に対応できる生き物はいない。寒いところにも、熱いところにも、高いところにも、低いところにも、肉も野菜も食べ生きていく。すさまじい順応性だと思います。ただ、知性の力でかりそめの安定を求める。意識のちからは偉大で、かりそめでも安定を得られる。そして、ある地点から崩壊か、極度のコントロールにおちいる。その結果、あたらしいパターンを作り、また同様に繰り返す。なんてこった、結局不安定という答えしかない。安定をなにに求めるかというのが、世の中の流れ、それは眼に見えるものに代表される『お金や物』そして眼に見えないものに代表される『精神世界』どっちも結局、終着点は安定をもとめているだけか。なんてこった。結局答えは真ん中しかないってことか。眼に見えるものと、見えないもの二つのバランスの真ん中しかない。そこは常に不安定で、バランスをとることしかできない。では、その恩恵はなに?それは、制限がなくなっていくこと。ただ、今をいきるというのにもっとも必要な能力ありのままを見るためにも必要な能力でもただそれだけともいう。なにかの本にかいてあったことを思い出した。弟子:悟りとはなんですか?師匠:一度重荷をすべて降ろして、そして、またその重荷を背負って歩くことだよ
2006年03月22日
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■無限無限という解釈言葉というのは多くの認識による誤解を含むのだな~とおもう。無限というのは広がっている感覚の言葉だが、実際?は点のようなもの。点なのに無限ってどういうことよって感じですが、そんなもんです(^^たぶん宇宙の始まりとかってこんなかんじだったんだろうな~。ビックバンと呼ばれる大爆発の前は宇宙はただの点、でも無限。じゃあ、今の宇宙には無限はないのかっていうとそうでもない。なんにせよ、無限はひろがりのことだけではない。点だけど無限。それが今の解釈だな~。世の中って矛盾だらけなのかもな~。光が波であり、粒であるっていうのも普通信じられないしな~。でも受け入れるしかない事実だし、そんな感じなのかな~。
2006年03月20日
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また、絵を描くワークショップをやりま~す。興味のある方はご参加ください。あなたのハートにふれる絵を描いてみませんか?『オープン ハート ペインティング』●内容このコミュニティでは絵を描くことによってそれぞれの人が内なる経験をすることを目指しています。描きあがった絵がそれぞれの人の内面の活動の結果であることが大切であり、うまい絵を描く必要はありません。アートを学んだ人はいろいろ考えることがあるとおもいます。ですがそれらまなだものをすべて真っ白にして、幼子のように絵を楽しんでもらいたいと思います。絵を描くこと、創作の原点に返ってもらう、そういった楽しさを思い出していただきます。このワークショップの絵というものは、頭で考えたり、作為的に作られたものではありません。作者の本来の内側からでてきたものです。本当に自分自身と向き合って、それが絵に表れたとき正直な絵になります。その正直なものが見るものの心を打ちます。なによりも、あなたの魂の奥底に触れるために描くこと。そのことにより、あなたがリフレッシュされていくのを感じてください。これは、禅などと似ているものです。絵を描くことを通して、あなたに存在する豊かなエネルギーが活性化していきそして、その豊かなエネルギーでもって生活を送っていくことが出来ます。ここで絵を描くことに必要なことは、本当に自分自身と向き合うことです。全身全霊をかけて向き合うことで、さまざまな発見があると思います(^^とまあ、こんなものを目指して試行錯誤しています。まだ、荒削りでワークとまではいかないので、気軽に絵を描くことを楽しんでもらえればと思います。最初なので破格の3,000円でやってます(**)画材込みの値段なので、気軽に参加してください。●詳細・日時:2006/03/26(日) AM10:00~PM16:30・場所:久我山会館・費用:3,000円(画材込みの価格です。)※今後の企画において変更の可能性があるのでその場合はご了承ください。・持ってくるもの:汚れてもいい格好(エプロンなどあれば便利です)※筆や絵の具などの画材等は用意してあるのでお気軽にどうぞ 画材は水彩画(初心者が扱いやすいのでアクリル絵の具)です。・定員:12名(満員になり次第、受付を終了いたします)申し込みはこちらから申し込み お名前、メールアドレス、ご住所(都道府県名より)、電話番号を書き添えの上、送信してください。
2006年03月17日
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■4日ほど伊豆にいってきました。伊豆に行くことが随分昔から計画されていたような感じだったな~。認識→破壊→創造→秩序→認識→破壊みたいな感じだったな~。とても、数日前とは思えないな~。人は、内面の変化が大きいと少し前に起こったことでも遠い昔のように感じるんですね。もう、違う自分になっているので、前の自分がたとえ一日前でも懐かしくも遠くに感じるんですね。内面が変われば、ものの見方、捉え方、考え方が変わるので、文字通りその人にとっての世界が変わる。別に何も変わっちゃいないといえばかわってないんですが。本当に『これがいい』みたいな統合解ってのは存在しないんですね~。人それぞれですね~今の状態は、クリアとも、まどろんでいるとも取りずらい不思議な感じ。新しい自分ってのは良いでも悪いでもない、ならなくてはならないわけでも、なったらいいわけでもなく、ただ変わっていく感じ。こういうものを人は運命と呼んでいるのかもしれないな~必然ではないんだけど、結果的に必然になっていっているような感じか。まあ、一度変わってしまったらもうその認識をなくすことは不可能で、それを踏まえて生きていくしかないしね~。とはいえ変わるというのも正確な表現ではなくて、、全部が変容してしまうわけでもないし、変わるというほど変わってはいないし、今の状態がすべてって感じで、でもそれは常に変化していて、、う~んうまくいえないな~。
2006年03月16日
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■怠けること怠けることは、何もしたくないという感情の表れ。これは、休息とは違う。しかし、見た目は休息と怠けることの境界はないのであいまい。怠けること=悪のような価値観が今の世の中にはある。どんなことをしていようと休息は必要だ。しかし、私たちは休息することがゆるされない。みんなが忙しくしていることを正解だとおもっているから。幸せになるためにみんな努力している。だけれどもその努力とは、自分を忙しくさせることに没頭しているにすぎない。そもそも幸せになりたいとおもっていないのではないだろうか?人は批判されることを恐れる。これは、個人が成功すればするほど、誹謗中傷も激しくなる。どんなことであれ、プラスとマイナスの面は存在する。今を生きることが結果的に、今を幸せに生きていることにほかならない。そもそも幸せかどうかなんて、いちいち考えないほうが幸せでもある。っと話をもどそう。なまけること=めんどくさいと思う心。なぜ、めんどくさいと思うのか?めんどくさいということは、何かの行動や行為をしたくないということ。では、なぜある行動や行為をしたくないのか?それは、そもそも休息が必要だからということでもある。では、休息が必要ないのにそれをしたくないということであれば、なぜ?それをやってもいいという許可を自分にとれない。行動することが自分にとって負担になると思っている。その行為自体がどうでもいい。怠けることが幸せだとおもっている、または感じる。でも、それは他のことで怠けたいのにそれを怠けられない自分を癒せないので、しかたなく、誰にも迷惑のかからない範囲でなまけることになる。これも、一定以上になると他人に迷惑をかけ始める。これはセルフイメージに大きくかかわる。自分を自分がどういう人間だとおもっていることによる。基本的には飽きたことをやりたくない。価値がないと思っていることに対してやりたいくない。という感情が行動にまで移ったときの、理由がめんどくさいということか。ようは、したくないんだね。でも、意図がそこに発生する。なぜ、その状態を望んだのか?まだ、その状態でいたいのか?葛藤が発生する。その葛藤をみないようにすると、、。ただ、罪悪感がのこる。やろうとおもったのに、できていない自分という存在を証明するから。罪悪感を感じたいので、怠けるのか?そもそも怠けることに罪悪感は必要ないが、感じないようにしているだけ?いい怠けと、悪い怠けがあるのか?悪い:ただ、やりたくない。やる気がない。よい:必要、どうでもいい、罪悪感をもたない。あんまり代わり映えはしないか。まじめにやるのは他人の評価が怖いから?やろうと思ったことをやっているのは別にまじめでもなんでもない。意図と実験と思えば、大半のことは説明がつくか。意図が何かを知ることを怠ることが、一番怠けていることなのかも。怠けるとは行動についての言葉だが、大切なのは自分が何を思っていて、何を意図していることに気づいてること。究極的にはここをなまけなければ、怠けているうちにはいらない。では、どうすれば自分の意図をエゴなく気づけるのか?それは、事実を詳細にみるしかない。つまり、今を生きるしかない。このほかのことについて気づくこと、知ったほうがいいものはありますか?感情の動きですね。怠けるというのは感情の動きと大きくかかわります。あなたがたの多くは、感情を軽視しすぎる面があります。怠けているときも感情は大きく動いています。この感情の動きを捉えるときに実際に動いていてはいけません。静かにしている必要があります。それを禅とよんだりします。感情の動きに常に敏感である必要があるんですね。まったく未知なものに進んでいくとき、あなたがたは大きく感情が揺れます。そのゆれは悲観的なものであれ、楽観的なものであれ、大きなものです。ではどうして、怠けようとするのでしょうか?それは、どうしてもその状態にいたいと思うからですね。どんな状態でも怠けるというのは、変化を拒絶しているということです。どんな風に変化するのかわからない、または、変化させたくないと信じているのです。この世で変化しないものはありません。あなたが変化しないなら、あなたの周りが変化するだけです。その、変化に対応できないので、あなたは怠けたくなるのです。思っている以上のスピードで変化しているんですね。その変化についていけなくなったときのひとつの方法がなまけるです。あなたが、なまけたいな~と思うとき、気づいてください。変化についていくのがやだな~と思っている自分がいることに。さあ、まずは考えて見ましょう。どんな結果を望んでいて、そして、どんな結果を導きたいのか?そして、それについて決断してください。やるのか、やらないのか。やると決められたなら、今すぐやればいいのです。あとでやると決めないことです。そういう時はめんどくさいなどの感情とは違う感情です。それはこんど話しましょう。
2006年03月09日
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■花粉やってまいりました、今年も、、。まったく毎年、、。鼻が、、眼が、、。■毎年おもうのですが、花粉が悪いんじゃなくて、花粉についてしまう有害物質(排気ガスやら空気の汚れ)が悪いことしているのではないのでしょうか?もちろん花粉へのアレルギー反応ってのもあるでしょうけれども、よっぽど、それにくっついてくる奴のほうが悪そう、、。本当はどうなのかはわかりませんが、空気がきれいなところがいいですね。鼻水に悩まされる今日この頃です。
2006年03月07日
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■意識をひらく意識を開くとは、自分に対していえる言葉なんですね。何に対して意識的であるか?ということです。すべての出来事を自分の内側の反映として捕らえ、自己の内側を気づいている状態、、それが意識を開いていることなんですね。どんなことをも自己の責任として捕らえることで事実をありのままに見えるのです。意識が開いているとは、ありのままに事実をみれること。そのためにも、外側の出来事を通して内側を見る必要がある。これはけっこうきついです。なぜなら、すべての出来事、それによって起こる内面の感情の起伏や葛藤を自己責任ととらえるからです。なにかの責任にしているほうがよっぽど楽です。他人の、社会のせいにしているほうがはるかに楽です。それをすべて、自己の内側に反映として、自分に問題を返しているんですね。意識を開いているというよりは、つねに自分の状態に気づける様子といったほうがいいかもしれません。これは内側に敏感であるとともに、外側で起こることにも敏感に意識を向けているんですね。そして、ありのままの事実を見るためには必須の感覚です。
2006年03月03日
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■区切りのあいまいさ最近、デザイナーズマンションがもてはやされています。コンクリート仕上げのおしゃれなマンションのこと。ここで面白いことがあります。デザイナーズマンションというのは、デザインされたマンションということです。デザインとは設計のことです。ようは設計されたマンション、、。設計されていないマンションなんてあろうはずもありません。ようは、口当たりのいいことばを使うことで、他と差別化できているのですが、その本質は限りなくあいまいです。どこからがデザイナーズで、どこからがデザイナーズでないのかなんて定義は基本的にできません。人が作ったもので、デザインされていないものなんて何ひとつないからです。人工物である以上、デザインはされているわけですから、すべてデザイナーズマンションともいえるわけです。デザイナーズマンション=他と違っていいものという図式がここでの意味で、実際になにがいいかはそれぞれです。こういった、区切りがあいまいなものは世の中に数限りなく存在します。何をいわんとしているか?が大切なんですね。言葉で正確な定義なんて、本来の意味では不可能です。とまあ、区切りのあいまいなものってのはたくさんあって、マインドコントロールなんかもそうですね。どこまでがそうで、どこまでがそうでないのかは便宜上では決められますが、本来の意味では区切りはありません。まあ、いろいろありますね。
2006年03月02日
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