全26件 (26件中 1-26件目)
1
お金がないと思っていることも、暗いことばかりでもない。 まあ、僕はずっと 貧乏暇なしの生活だったので、 この生活を打破するには、一発小説でも書いて、芥川賞を目指すしかないと思い、 小説を書いたことがある。 文学界と群像だったかな、一生懸命かいて 送りましたが、一次も通ることがなかった。 川柳も書きました。 地元の小冊子で、クオカードがもらえる。3000円だったかな、数回もらいました。 書店の小冊子にも、投稿して 1000円の図書カードを、これも二桁の回数もらった。 こういうところへは、投稿者が少ないので、全員当選ということも多いのだ。 他にも、新聞に投稿したりして、図書カードとかもらったことがある。 こういうことは、僕にとって お金がないと 出来ないことでした。 ハングリー精神というか、給料がないから 本当に小遣いがないので、1000円の図書カードとか かなりうれしかった。 結局、あたっても 家内に取られてしまうことが多かったけれど、貧乏であるときも それはそれで、楽しめることも多い。 貧乏だから苦しいのではなく、貧乏を辛いと想うから 苦しい。その貧乏から 頑張って抜け出そうとせず、貧乏を 楽しんでみる。 熱が 体の病気の徴候のように 貧乏も 心の病気の徴候でもある。 ここから 抜け出そうとして、ばたばたしても、抜けられない。 お金持ちとか 貧乏とか、決めているのは 誰ですか? 100万円もらって貧乏な人もいれば、 10万円で お金持ちと思う人もいる わけで、 そういう意味で 心の世界 なんです。 そして、その心が世界の影響にあると同時に 世界に影響を与えるという 二面性を持つものである。 (貧乏鑑定基準第一章 第一節)
2009.08.31
コメント(0)
よく お金がない と言う言葉を聞く。 お金がないという 現実はなく お金がないと思っている 自分自身がいるに過ぎない。 お金が ある とか ない とかは、相対的なもので、 いくらあったら あるといえるのか、 いくらなかったら ないと いえるのかは わからないことです。 そんなの 理屈に過ぎないと思う方もいるでしょうけれど、 想いが 現実だとすれば、お金がないという思いが、お金がないという現実をいまこの瞬間に創っている。 まったくないと言う人でも、借金をサラ金にしている人よりは あるわけで、たいてい 家のローンを数千万抱えているひとよりは ある。 ないというひとは、それほどの借金も出来ない人なのだろうが、お金がないというのは 現実ではなくお金がないと思っているのが 現実である。 そして、この世界は 想いの反映ですから、お金がない状態が 延々と続くわけですが、その なんとかしようとする方法を探しても 見つからないだろう。 だって、お金がないという 意識(自我)があまりにも 強い為に、それを 現実にするには世界が ないという状態を 創らざるを得ない。 とある、商店の主が、僕の考えを気に入ってきれて、したいことをしようと決心して、もう 店は閉めて、したいことをすると 問屋に宣言した。 すると、こんどは 問屋のほうからいろいろ、好条件の話が来て、店を閉めないでもしたいことができるようになったと 喜んでいました。 お金がないから なんとかしようとしても、その方法は見つからない。 お金がない状態を あなたの心が創り出しているからだ。 ないという思いに、意識を向けている以上、もっと ないという思いがスパイラル状に大きくなる。 あなたが お金があるとか ないとか は 一体誰が決めることができるのでしょうか? あなたが、勝手に 思いこんでいるに過ぎないでしょう。 客観的事実は ないのです。 100円を 多いとも思えるし、少ないとも思える。100円という現実があるのではなく、100円をどう想うかの現実が個々の意識にあって、それが、世界に反映しているだけなのです。 そんなことはない、「お金がないのは現実だ」と想う 自我が抵抗している。 そして、お金がないという世界を 自我が創りだして、自我が自分で苦しんでいる。 二元的世界の根本が自我ですから、この世界を 苦しい ほうにも 楽しいほうにももっていくことができる。 苦の人も 苦の人なりに、楽しいことがあるわけで(少ないけれど)、 苦と楽の二元にいる。 本当に 苦しいのだったら 苦のなかにいる。 病気のときは 病気になって 貧乏のときは 貧乏を楽しみ 死ぬときは 死ねばいいとかいう 良寛の和歌があったが、 変わろうとしているから、苦しいんであって 問題を解こうとするから苦しい。 そして、その苦しい状態を いま この瞬間に あなたが それを 創造しているだけでしょ。 あなたを 苦しめることのできるのは あなたしかいない。 どういう状態であっても 楽しめる人もいるわけで、世界が苦しめているわけではなくあなたが 苦しいと思っているから、苦しい。 そういう意味で、誰もあなたを救うことなんてできない。 自分で 自分を 救うしかない。 そうは いっても ・・・・といっているのが あなたの自我なんです。 その自我を 観察する、私とはそういうミニ自我が一杯ついている。 私と自我を一緒にしないで、自我を観察できるようになれば・・・・。
2009.08.31
コメント(0)
皆さん 例外なく「幸せになりたい」と思っていることでしょう。 幸せとは 「不幸ではない」状態です。 健康は 病気じゃない状態です。 皆さんは ふだん活動して、肉体を使って何かをしている。それは「不安から逃れよう」としているのです。 幸せじゃない 状態から、幸せになろうという方向に努力している 本当に幸せな人は 何もしません。皆さんも「嗚呼うれしい、幸せ」というときは 何もせずにその幸せというところに、じっとしているでしょう・ 「幸せ」と感じたら ばたばた しないのです。 ただそれは すぐ通り過ぎていくものです。 不幸せもこれと同じで、「ああ 辛いなあ」とじっと浸って感じていると すっと引いてどこかにいってしまいます。 なのに 辛いときは、自我は自分の力でなんとかしようとします。 すると、いまの不幸せな状態に意識が集まり、それでまた不幸エネルギーをどーんと作り出す。じっとしていればいいものを 「これじゃいけない、なんとかしよう」と・・。 意識を向けるから顕在化するのです。 逆に、幸せに意識をむけてあげればいい ここで瞑想して そういう幸せな感情に浸ると書いています。 幸せに浸るとは、例えば 温泉でも 家のお風呂でも、寒い外から帰ってきたとき 湯船に入る・・そのとき あ~いい感じだなあと 声や言葉にしなくても思うでしょう。 ビール一杯でもいいですけど。 幸せな感情が 幸せな現実を未来において創り出すわけですから、 いま したいことを する。 ワクワクすることを する。 楽しいことを する。 そうすると 楽しいから それに見合った現実を創造する(結果が原因を創る) お金が欲しいと望めば その ない状態が、続くわけで お金が欲しければすでに あると思うこと、すでに満たされているとおもうことなんです。 まちがいなく お金持ちになります。 だって、すでに いま お金持ちと思っているわけですから、100人が100人お金持ちになれ、例外はない。 あると思えれば 退屈するので、いつまでも あるということに意識は向かない。 お金が あるとも ないとも 思わない、どうでもよくなる。 それで、お金に対する執着を解くことができる。 無欲を解く宗教家が よく深い世の中、無欲になるのは困難です。 ですが、お金持ちになる方法が、「すでに お金持ちである」と思えることであるなら、実行してみる価値はあると思います。お金持ちだから 寄付だってできるわけです。 いま お金持ちと思えれば その 原因である未来に それに見合った現実が生じる。 、こう唱えればお金が入るとか 運がよくなるとかトイレ掃除とか 実行している人は、 僕も そうでしたから書きますが けちん坊が多い、わが地方で けつメドが小さいといいますが 自分は何も出さないで トイレ掃除を一生懸命すれば、自分は金運がよくなると 思っている。 与えることで 与えられるのに 自分は 与えもしないで 与えられることのみ望むのは 根本が違っているんだと思うので、どんなことを やっても 絶対に お金持ちになることは ない。そして、そういう方が 多いと感じる。 本当は、寄付をしているとかいうことは 言ったり 書いたりすると、効果が少なくなる。 なぜかというと、未来において生じる出来事に対し 自分以外の他人の世界の干渉が入る。 多くの人は 雲消しができると思うけれど、一人で消せても それを信じない人の前で消すことは不可能。 そしてこれは、マスターの法則という本にも 書いてありました。 言っては いけない。だから、寄付をしていても 寄付をしているとはいわないほうがいいい。 ともあれ、今日は24時間テレビである。生まれて始めて 1万円寄付したのがこれだ。 1000円は寄付できるが、1万円は抵抗があった。 見返りがあったかどうか、はわからないが、一度すると 1万円というのも抵抗がなくなるのかもしれない。
2009.08.30
コメント(0)
ヴァシャールに出会ったのは、1990年代の初頭だったと思う。 その当時、船井さんが好きだったので、確か船井さんが紹介されていたのだ。 そのとき、思ったのは 何で 宇宙人が、アメリカ人に乗り移って、日本人の恋愛相談をしているの? ありえないだろ。 わくわく することをしろ、そんなこと していたら、店はつぶれてしまう。 この競争社会で、そんなこといっていたら、どんどん負けてしまう。 負けないでいるためには、努力して もっと努力して、切磋琢磨することが、大切。 なんで、こんな本が話題になるんだろう・・・・と思って、倉庫にしまっていました。 そのときは、ヴァシャールのいっていることに、耳を傾ける気持ちがなかったのです。 努力しなければならない。 頑張らなければ いけない。 歯を食いしばって 努力することが 成長することだ。 そんなことは、当たり前のことで、 努力をするということに対して疑うことは、なかった。 そして、いまも 多くの方は そうなんですよ。 逆に、努力しないなんて そんなの 怠け者の考えかただ という。 もちろん、人によって感じ方が違うし、レベルもあるから 伝え方は困難です。 昔 中国の禅の高僧が 犬に 仏性は あるかと問 在る弟子には ある といい 在る弟子には ない といった。 非常に、伝え方は その人にあるものでないと感じられないのです。 ありと キリギリスでも お金が入って 外車に乗り回し、派手にお金を使って破産するととると、キリギリスは いまいちですけど 好きなことを して、毎日楽しく遊んで 皆を喜ばせているということは、すばらしい。 努力をしたい人は したらいい。 頑張りたい人は 頑張ればいい。 好きなことをしたい人は 好きなことをしたらいい。 思いのままに 生きたら、それは 想い=現実ですから、生き生きとすばらしいい人生を送るでしょう。 したくないのに、努力すれば なんとかなるとか、 やりたくないけど 辛いけど、頑張る というようなことは、 僕は、勧めませんが、 鞭で打たれるのを喜ぶ方もいるわけでね、 そういうかたに やめたほうがいいと、いってもしかたがない。 想い=現実 そのものということは、自分で実感するもので 概念で考えるものではないでしょ。
2009.08.29
コメント(0)
以前、津留さんの後継者といわれる方に 「お金とは 恐れではないですか?」という質問したら 「それは、nokutaさんがそう思っているだけです」といわれた。 それは、そうかもしれないが、意図は もう少し深いのだ。 何故 ものを欲するのか? 僕たちは、このエネルギーがとても強いものだと感じている。 いわいる 物欲だ。 お金が欲しい という 慾。 この 感情はどこからくるのか? 僕は、恐れではないかと 思っている。 恐れ・不安のために 求めている。 ある程度 悟った方というのは、物欲がないという。 多分、なにも 欲望する必要はないのだが、 不安や恐れがあるために、お金やその代替物を 求めることもあるだろう。 そして、求めることにより 求める という現実を創造するということを考えると、 欲望している現状というのは 恐れの 現れなのかもしれない。 他者の欲望を欲望するのは、事実だが、どうして 他者は欲望するのか? その 根本が「恐れ」ではないか? 漠然とした不安 その実体はよくわからないが 何かに恐れる(死?) お金がないと 食えないというから、飢餓感や死が恐れの原因かもしれないな。 何がいいたいかというと、恐れが欲望の原因であるなら、 欲望を無くすということではなく、 その原因である 恐れを無くす。 無くすためには 恐れを はっきり見る必要があるのだろう。
2009.08.29
コメント(0)
確かに、心とお金は 結びついている。 心が 変わることで 世界は変わる~お金も入ってくる こういうことは、書店にいけば やまのように売っている本のタイトルをみればわかる。 ある 一つの価値観が世界にあると思っていると、それに向かって努力することが当たり前だと思い、それ以外のことを 認めないようにしている方が大勢いる。 働かないのは いけないことだ。 これが、ある特定の宗教~資本主義~の教えなんです。 そして、それに背くものを 背信者として、非難する。 働こうが、遊んでいようが、本来自分勝手なわけで、どうしていようがかまわないわけですが、 それが、許せないのは どうしてか? 関係ないでしょ、誰が 何していようと、遊んでいて 何が許せないのか? それは、自分自身を見ているからだ。 遊んではいけない、働かないといけない、何かをしないといけないという、 考えかたの根本があるわけです。 それが、資本主義という宗教の信者なんだろう。 本来 他者が何をして生きていようが、あなたにまったく関係ないでしょ。 それなのに、働かないでいることに対して 怒りを覚えてしまうのは、何故だろうか? 自分がしたくないことを 無理しているからではないのか? たいてい、したくないことをするのが仕事と思っている。 そうではなく、したいことが 仕事なんだろう。 したいこと 好きなことを 続けていくことで、それに対し お金をはらってくれる人も出てくるだろう。 いま 麻生さんの本が売れているそうですが 「君のしたいことは 一体なんなの?それが ないと探しようがないよなあ} といった麻生さんの言葉は、現実の経済を見ていないという批判よりも 本質を突いているような気がする。
2009.08.29
コメント(0)
根本は ここだろうなあ。 たいてい、いまが よくないから、変わろうとして努力する。 もっと お金が欲しいから 成功したいと 頑張る。 変わること ばかり、考える。 しかし、この世界は 「相対的世界」だから、 上に行っても キリがないし、したを見てもキリがない。 どんな状況であっても より いい人もいれば より 悪い人もいる。 すべては あなたの 想い・意識・価値観に 過ぎない のだけれど、それが 考えの前提になっているから、自分のことを 疑うことはしない。 デカルトでさえ、我想う 故に われありといったが、 その 私自身を 疑ってみることだってできる。 つまり、自分が そのように想う原因は なんだろうか? もっと お金持ちになりたいのは どうしてなのか? いったいいくらあればいいのか? いまと それとの 違いは なんなのだろう。 100万円が欲しいと 思っているとして、 100万円あれば、あと100万円はいらないのだろうか? 一億円だろうか?一億円あれば、もう いらないだろうか? 100兆円だろうか? 100兆円あれば 幸せなのか? なるほど あなたは すでに 子供のように 幸せな人になっている。 たいてい もう少しあれば うれしいと 望む。 それなら、いまのままで いいではないかというのが、僕の提案です。 つまり、すでに幸せで お金持ちで 満たされていると 考えることも 可能。 不幸の原因の一つは、変わろうとすることに あるので、 変わらないで いまのままでいい と 思うことで、幸せになれる。 変わるために 何かをするのではななく、 したいからする。 楽しいからする。 幼子のとき 幼稚園児 くらいまでは 遊ぶのに理由なんか 考えなかったでしょう。 同時に 不幸や幸福についても あまり考えなかった。 今日のことしか 思い煩いはしない。 変わろうとしないで 安心していた。 きっと 僕らも そうなんだ。
2009.08.29
コメント(0)
つーことなんだろうね。 「私の お金が欲しいという望みは 叶っていない」と反論が 来るだろうが、 それは、望み を 変えること というか、 それは、望んでいることではないこと というか、 お金が欲しいひとは、必ず お金を持っているので、 それ以上なくたって かまわないのに、なぜか お金が欲しくなる。 どうして お金が欲しいのか? 「生きていけないジャン」 しかし、いままで なかったのに、いままで 生きているわけです。 これまで お金があったわけではないのに、生きてこられた。 多分、お金が欲しい理由は ない。 欲望を 欲望しているだけではないのか? 欲望を欲望するとは、比べるということに原因がある。 比較なしに 生きる。 これが 比較3原則 (非核三原則) 慾を 持たず、作らず、持ち込まないわーい(嬉しい顔)
2009.08.29
コメント(0)
「実際に、お金がないという悩みが僕にあるんですね。それは、現実なんです」 なるほど「だから、悩みがないといわれても、そうですか よかったというわけには、いかないんです」 なるほど 「だから、悩みは ないということは ないと思うのですけど」 一つ聞きたいのだが、悩みはどこにあるんだ?「お金がないと いう事実にあるんです。しかも それは 相対的思考とかそういうんじゃなくて本当に絶対的に無いとしか思えない。僕にとって ないものはないわけで、それを どうこういわれたって 解決しようがない」 お前さんは、悩みはあるというが、一日中 悩みのことを考えているわけではないだろう。 食事を何にしようかとか、何処そこ へ行かないといけないとか、腹が減ったとか 思うときはないのか?「もちろん ありますよ、他にも悩みはありますし・・」 他のことを 考えているとき お金がないという悩みは どこにあるんだ?「そのときは、ないですけど 記憶にあります」 逆に考えれば お金がないと思うとき お金がないという悩みがでてくるのではないか?「そうですね」 だから、お前さんが他のことを考えているときには、その悩みは存在していないことになる。 間違いないか?「そのときに 限りないですね」 では、お前さんが その悩みに意識を向けないときは、その悩みは ないといえるか?「ないわけじゃないんです。記憶にあるのです。」 そうじゃなくて、他に意識を向けるときに 悩んでいるかどうかと聞いている。「そのときは、悩んでいないです」 間違いないか? 「一度に二つのことを 考えることは、聖徳太子じゃないとできないです」 ということは、お前さんが思わなければその悩みは 存在しないということではないか。「だけど、・・・・」 悩みは 過去や夢と同じように いまこの瞬間その悩みに意識を向けるとき 初めて いま ここ に 現れる 昨日のラーメンを食べられないように、昨日の悩みは 感じることはできない。 悩むのは いつもいま この瞬間だけなんです。 そして この瞬間に その悩みに意識を向けるから苦しい現実を作り出してしまう。 しあわせ は いつも 自分の心が決める・・・・みつお 悩みも いつも 自分の 心が決める・・・・ノクターン 幸せなひとは いつも 幸せで 悩んでいるひとは いつも 悩んでいる。 何に 意識を 向けているかに 過ぎない。 だから、いま ここで わくわくすることをしようという ヴャシャールのいうことは的を得ている。 楽しいことが見つからなければ もっと わがままなことを考える。 自分のこころが 楽しいか いまここを 楽しんでいるかを 観察してみる。 子供は いつだって 遊んでいる。 大人になると 悩んでばかりいる。 それが きまりを守るようにということで、世間という支配者を創り 洗脳されてしまっているわけです。 悩みは あなたが それに意識を向けない限り 存在しない。 意識を向けるとき あなたは いまここ にはいない。 いま この 瞬間には 愛 しかないのですから。
2009.08.29
コメント(0)
「悩みはないっていっても あるわけですよ、 お金がないとか 仕事がない 具合も悪い、悩みだらけですよ」 ですから、 それこそが、あなたが創造している 考えかたであって、それはそもそも 存在していないのにあなたが 勝手に創りだしているということに まったく、気がついていないということなのですよ。 「悩みが ないわけないでしょ、あるでしょ。誰だって お金がなければ悩むわけで、それをないといえるわけがない」 あるのは、あなたがお金がないと思っていること だけです。 だいたい、あるとかないとかいうのは、相対的な思考ですから 100円は 200円に対しては少ないし、50円に対しては 多い。 「月に 10万円で暮らせるはずが無いし、第一お金がなかったら 生きていけない」 あなたは、お金がないのですか? 「もちろん、自慢じゃないがお金がなくて 悩んでいるんです」 じゃあ、お金がなくても生きていけないという 理屈は通らない。 実際に、お金がなくても生きているにですから。 お金がないという意識が、お金がないという現実を創っているに過ぎない。 すべては 想いのままというのは、 目の前に りんごを 出現させるわけではなく、 りんごに対し 美味しいとか 食べたいとか いくらかなとか いう 想いを つけられるのは誰かということなのです。 そういった 価値観をいろいろ創っているのは、自分自身です。(多くは マスコミの洗脳) そういうことを どんどん手放していけば いまが 最高であることに、気がつく。 いいと悪いが無いとは、在るとないの区別がないことで、 あってもなくても どちらでもいい ということが、いわば 究極の選択。 どっちでも いいんだったら 楽しいほうをとろうよというのが、斉藤一人さん。 ある程度 浄化されていくと 言葉がどんどんすぐに 現実化されていきますから、言葉には 注意する必要があります。 浄化されていない人は、言葉は現実化しませんから平気なんですけど(いろいろ 価値観があるから) 斉藤一人さんも「ついていない」という言葉を使ったら、すぐに 否定しますね。 裏表がないというか、嘘も真になりやすい。 まあ、悩みが悩みを作るわけですから、解決しようと 悩みに意識を向けないで どちらでも いいと いうことだからこそ、解決できないわけで 意識を 未来ではなく いまに 持っていまの現実を 創造することなんだろうなあ。
2009.08.29
コメント(0)
なぜか 悩みを 解決しようとする。 解決できれば 悩みでは ないんだなぁ。 問題は、悩みにあるのではなく、 問題を 解決しようとするから苦しい~津留晃一 岐路で悩みわけですよ、右に行こうか、左いいこうか 選択に迷うわけですね、そして 悩み こうすれば いいようだか だけど そうすると こっちがダメで 悩みは 解決しないで いいんです。 解決 しようとしないとき 悩み自身が なくなります。 何故なら 悩みとは あなたが この世界に 創造した思念に過ぎないからです。 だから、だれにも わかってもらえないのは、当たり前のこと。 あなたが あなたの ために 作ったのが、悩み。 そして、それに意識を向ければ向けるほど、その悩みは大きくなる。 それなのに、悩めば解決すると 勘違いして悩むから よけいに苦労する。 いままで 悩んで解決したことが、あったのだろうか。 よ~く 考えてください。 また 悩んでしまい ますか?あっかんべーただ、悩みにもすごい効用がありまして、 禅の達磨に弟子入りを志願していた、慧可が 達磨に聞いたといいます。 「私には 解決できない 悩みがあります。どうぞ、お教えください」 すると達磨は こういったという。「わかった、では 解決しよう。その悩みとやらを ここに出してみなさい」 そのとき 慧可は、初めて悟ったといいます。 ないものを あるとしていること、そして 自分の作り出した妄想に縛られていること。 現在は、それを 洗脳という方法で 自らが望んでいると思っている。 世間という他人の目を 自分でこしらえて、その目で自分自身を監視している。 世間はない。あなたが 作り出しているのが 世間。 あなたの想いこそが、現実であり 他にはなにもないのですから。
2009.08.29
コメント(0)
愛とは 一つであり、分離ではない。 相対ではない 絶対である。 我々は 擦り寄って 一つになろうとして 愛を確かめる。ハート達(複数ハート) 愛は 時間も空間もない。 つまり 自我が消えたとき に 愛の中にいる(自我=時間空間) ある がまま=あい がまま 心が いま この 瞬間にいるとき、 何かに没頭しているとき 夢中になっているとき 心を奪われているようなとき 無我夢中のとき あわてているとき いま ここ にいる。 たいてい 何かに サッカーとか 仕事とか 恋愛とかに 夢中になったり 覚めたりしながら 生活しているわけですが 夢を見たり 覚めたりしているともいえる。 でも 本当は 何かに夢中になっている 夢を見ているとき ときが 本質であり 覚めているとき(自我の活動しているとき)が 幻想だろう。 愛=光=本来の私(ハイアーセルフ) 愛のなかにいるとき 我々は 光の中にいるから 輝き続ける。 何かに夢中になっているとき、時間を感じないのは、愛の中にいるから、 何かを比べるとか、過去を悩むとか 未来の不安は、愛のなかには ない。
2009.08.29
コメント(0)
すべてを 認めて 否定しないと あるがまま。 すべてを 認めるとは、比較しないこと。 どちらでも いいこと。 しかし、このどちらでも いいことを 解決しようとして悩む。 どちらでも いいことが、最高なんです。 それを どっちが得かで 判断し 解決しようとする。 どっちでもいいこと それは、あるがままに 受け容れることでもある。 お金があっても 無くても という判断がなくなれば、 そういう 想い(言葉)が生じない。 それは、相手のいうことに同調することではない。 「あなたの いうことは わかりました」ということです。 いろいろなシチュエーションがあるので、自分の好きなほうを選択する。 では、好きと嫌いの判断はあるのか? 好きと嫌いは 判断なのかな? 判断は自我で、楽しいこと 好きなことをするのは 自我じゃないだろう(時間がなくなるから) 好きとか嫌いとかは、損得で思考しない。 好きなこと わくわくすることというのが、多分 この世界に いる 原因ではないかと思う。 刑務所から 帰っても 仕事からかえっても 「お勤め ご苦労様」なわけで 仕事=苦行=修行 であって、多くの人はしたくないことを仕事にしている。 そして、毎日 したくないことを繰り返し 修行している。 そして この修行により 自分のしていることに 気がつくことも あるだろうし、気がつかないこともある。 そんなとき 自分のほかに神さまを創ってしまう。 新興宗教とか 自己啓発セミナーとか、心理療法とか そういうところでは、いままでの 自我を 新しいその教えにそった 自我に書き換えているから、世界が変化したと思うに過ぎないわけで、 ここはすごいとなって、大金を 自らどんどんだすようになる。 自分が 輝くか、人の鏡(操り人形)となるか どちらかなんでしょうねえ。
2009.08.29
コメント(0)
この世界は、意識の表象ですから、 想いが そのまま 映し出される。 全然 想い通りじゃないと、思われるでえしょうが、それころが 想いのままの世界。 お金が欲しいのに、貧乏なのは どうしてなんだ。 想いのままじゃない じゃないか?というかもしれません。 それこそが 想いのままなんです。 想いは いつかではなく、いまこの瞬間に創造しているのです。 何をって、 お金が欲しいという 現実~お金がないということ を いま あなたが思うことによって、その現実をこの世界に創造している。 鏡ですから、そのままにしか 写らない。 お金が欲しい、車がほしい、仕事が欲しいと 強く思えば思うほど、 その ない状態を 強固にしていく。 いつか どこかでではなく、いま ここで 創造しているでしょ。 それが、想いが現実を創るということです。 お金が ある状態にしたければどうしたらいいかといえば、簡単で お金があると 思えばいい。 いまこの瞬間に 「俺は お金持ちなんだ」と思えば お金持ちの状態を 創造したということになる。 一体いくらが お金持ちで いくらが貧乏なんて基準は ないというか、あなたがその 線を引いているだけでしょう。 その線を消してしまえば お金持ちとか 貧乏とか 考えることはできなくなる。 言葉は 相対的なので 二つに分けないと 説明できない。 ルビンの壷は、壷を見るとき 人の顔は見えず、人の顔を見るとき壷は見えない。 二つに分けて 一つをみるとは どっちを見るかということでもある。 あるがままといっても、なかなか 普通の人にはわからないわけで、 その 基準を下げればいい。 例えば 10万円月に もらっているとして、それを 上と比べてしまえば ↓になるけど、もらえない人や借金だけの人もいるわけで、 貧乏なのか 金持ちなのか 究極は判断がつけようがない。 それは あなたの 想いが決めているだけですから。 世間一般ではというかもしれませんが、世間って誰ですか? 親兄弟友達親戚 その他もろもろですか? だけど、相手の気持ちは わからないでしょ。自分の気持ちだってわからない。 その 世間というのは、あなたが創りだした 制限・ルール・きまり なんです。 この世間という きまりを 守ることにより、洗脳され 支配されているとも言える。 人さまに 迷惑をかけないように、努力し 頑張れば いつかきっと よくなると思って 何十年も 働いて、変わらない人ばかりですよ。 それは そうでしょ、毎日 同じことの繰り返しをしているのだもの。 頑張ったって変わらないでしょうに。 したくないことを 我慢して 努力すれば なんとかなると思っている。 そういう風に 親マスコミ教育に 洗脳されてしまっている。 支配者が 矯正するのが、教育ともいえる。 子供を 教育するって 子供にいうことを聞かせることではないの? 犬猫を教育するって 犬猫を 言うとおりにさせることでしょ。 もちろん 全部とはいわないけれども、教育にそういう側面はある。 だから、最初にもどっていうと 探すのを やめる。明らめる。手を放す。 そうすると すでにあることが わかる。 もともとないものは 求めることはしないのです。 そして、あるものに意識を向けていくと それがどんどん 大きくなるってこと。
2009.08.29
コメント(0)
意識を向けるものが現実であるとは、難しいことではない。 車を運転していて、トイレに行きたくなって、コンビニを探すときに コンビニの看板が目に留まる。それまでも、コンビニの看板は目にしていたはずなのに、記憶に残らない=見ていない。 パチンコの好きな人は、パチンコ屋の前を通れば気がつくが、好きでもない人は 「パチンコ屋なんてあったけ」ということになる。 つまり、目には入っていても、それに対して反応しないから、ないと同じ状態なんです。 まあ、そんなものかと 思うでしょうけど、ここからが 本題。 たいてい僕たちは、いまにいない。 将来への不安や、過去の後悔に意識を向けている。 試験に受からなかったらどうしようとか、試験に受かっても仕事できるかな~とか、 あの時、この仕事を選ばなければ、とか、 あの人にあいたくないなあとか、 なんで 働いても働いても貧乏なんだ~とか、 いろいろ いろいろ 悩むことがある。 つまり、悩みに意識を向けるから、悩みが現実になるに過ぎない。 たいてい、そんなことはないと 考える。 こんな すごい悩みは、悩んで当然だとか、誰に聞いても 悩みそのものと思われるとか、 悩みは実体だとか あなたが 思っているに過ぎない 悩みに 意識を向けるから、悩みが 現れる(コンビニに気がつくように) そういうところから、積極思考という方法が考えられているのでしょうけど、 二極ですから、積極は消極とともにあるわけで、問題の解決にはならない。~消えない 悩みに 意識を向けて、それを 解決しようとするから苦しいわけです。 問題が苦しませているのではなく、問題を解決しようとするから苦しいのです津留晃一 悩みとは、あなたが生み出した幻想に過ぎない。 何故なら、その悩みを他の人に見せることは、決してできない。 あなたの 考え・思い=悩み に縛られているだけ。 それに 意識を向けるから、現実に恐れが生じる。 それが、意識が今にないということ。 意識が今にあれば、悩むことはできない。 意識がいまにあるとは、何かに夢中になっていることであって、そこには 時間空間という自我の領域ではないのです。 悩み=自我の幻想~多くは 比較から生じている。 悩みが苦しいのは、悩みを解決しようと、それに意識を向けることなのです。
2009.08.28
コメント(0)
どっちでもいいというのは、優柔不断のようですが どちらでも よかったら、悩みようがない。 二つに分けて どちらを選ぼうかというのが、悩みの本質。 いま と 将来 右 と 左 ケーキ と 饅頭 分けないでいるとは、いまと 次を分けないことですから いま が、すっと 広がり、いつでも いまに 生きていられる。 しかし、たいていは いまを 犠牲にして将来のために努力する。 「努力しなくちゃ おまんまの食い上げだ。努力すれば 必ず報われる」 という親父さんは 努力を続けて、数十年、変わることのない生活の繰り返し。 努力は報われるという 概念を疑うことが無い 努力して変わるのだったら、すでにいくらかは変わっているはずなのに、まったく変わっていないのに、いまのままの努力を続けていればなんとかなると思っている。 やりたくないことを 無理やりするのが 努力であるなら、 努力は 必要がないのではないか。 努力ではなく 自分の したいことを する。 いいと悪いがなければ、したいことを したほうが楽しいでしょう。 楽しいことを しましょうというのが、 ヴァシャールの わくわく でもある。 初めてこの考えを 聞いたとき 「したいことばかりしていたんじゃ、会社がつぶれてしまう。なんて 好い加減な考え方なんだ」と思って、年中無休の 無給で、働いていました。 結局、どんどん 借金は増えるばかり、赤字の会社では 借金を返す為に借金をするという サラ金と同じ運命になりがちだ。 しなければ ならないことをやめて、したいことを してみるのは、 楽ですけど、ちょっと勇気もいるのです。 したいことをすれば、そのしたいことに意識が向くわけで、 意識の向いたものが現実になるんですよ。 我々は、点でしかこの世界を見ていないのに、全体を見ていると思っているに過ぎない。 みんな見えているなら 落ちたコンタクトレンズを捜すことも 音だけ聞こえる 蚊も 見えないことはないでしょう。 焦点を合わせて初めてみえる。 ダイエットに興味が向けば、ダイエットに関する本やテレビに反応するけれど興味がなければ そういう情報は無いと同じなんですね。
2009.08.28
コメント(0)
皆さん 例外なく「幸せになりたい」と思っていることでしょう。 幸せとは 「不幸ではない」状態です。 健康は 病気じゃない状態です。 皆さんは ふだん活動して、肉体を使って何かをしている。それは「不安から逃れよう」としているのです。 幸せじゃない 状態から、幸せになろうという方向に努力している 本当に幸せな人は 何もしません。皆さんも「嗚呼うれしい、幸せ」というときは 何もせずにその幸せというところに、じっとしているでしょう・ 「幸せ」と感じたら ばたばた しないのです。 ただそれは すぐ通り過ぎていくものです。 不幸せもこれと同じで、「ああ 辛いなあ」とじっと浸って感じていると すっと引いてどこかにいってしまいます。 なのに 辛いときは、自我は自分の力でなんとかしようとします。 すると、いまの不幸せな状態に意識が集まり、それでまた不幸エネルギーをどーんと作り出す。じっとしていればいいものを 「これじゃいけない、なんとかしよう」と・・。 意識を向けるから顕在化するのです。 以上引用 逆に、幸せに意識をむけてあげればいい ここで瞑想して そういう幸せな感情に浸ると書いています。 幸せに浸るとは、例えば 温泉でも 家のお風呂でも、寒い外から帰ってきたとき 湯船に入る・・そのとき あ~いい感じだなあと 声や言葉にしなくても思うでしょう。 ビール一杯でもいいですけど。 幸せな感情が 幸せな現実を未来において創り出すわけですから、 いま したいことを する。 ワクワクすることを する。 楽しいことを する。 そうすると 楽しいから それに見合った現実を創造する(結果が原因を創る) お金が欲しいと望めば その ない状態が、続くわけで お金が欲しければすでに あると思うこと、すでに満たされているとおもうことなんです。 まちがいなく お金持ちになります。 だって、すでに いま お金持ちと思っているわけですから、100人が100人お金持ちになれ、例外はない。 あると思えれば 退屈するので、いつまでも あるということに意識は向かない。 お金が あるとも ないとも 思わない、どうでもよくなる。 それで、お金に対する執着を解くことができる。 無欲を解く宗教家が よく深い世の中、無欲になるのは困難です。 ですが、お金持ちになる方法が、「すでに お金持ちである」と思えることであるなら、実行してみる価値はあると思います。お金持ちだから 寄付だってできるわけです。 いま お金持ちと思えれば その 原因である未来に それに見合った現実が生じる。 、こう唱えればお金が入るとか 運がよくなるとかトイレ掃除とか 実行している人は、 僕も そうでしたから書きますが けちん坊が多い、わが地方で けつメドが小さいといいますが 自分は何も出さないで トイレ掃除を一生懸命すれば、自分は金運がよくなると 思っている。 与えることで 与えられるのに 自分は 与えもしないで 与えられることのみ望むのは 根本が違っているんだと思うので、どんなことを やっても 絶対に お金持ちになることは ない。そして、そういう方が 多いと感じる。 本当は、寄付をしているとかいうことは 言ったり 書いたりすると、効果が少なくなる。 なぜかというと、未来において生じる出来事に対し 自分以外の他人の世界の干渉が入る。 多くの人は 雲消しができると思うけれど、一人で消せても それを信じない人の前で消すことは不可能。 そしてこれは、マスターの法則という本にも 書いてありました。 言っては いけない。だから、寄付をしていても 寄付をしているとはいわないほうがいいい。
2009.08.27
コメント(0)
過ぎ去った時間は、轍のようなものといったのは、「存在と時間」のハイデッガーだったと思うが、 同じようなことを 津留さんは 獣道でイノシシを探すときに 糞の暖かさを見るとか言っていた。 過去という過ぎ去ったものは、兆候を残しているだけだ。 僕は、時間の概念では、最近何度も書いているように、 未来は 刻々 現在になり 現在は 刻々 過去になるから 時間の流れは、未来から過去へ流れていると思う。 その轍を見て、過去から未来へと時間が流れると思うわけで、轍であるから計測もできる。 しかし、轍を見ても その轍をもたらしたものは わからない、 どんな馬車の車の跡かということは、創造するしかない。 轍を見て 時間は 存在したと思っている。 しかし、轍から 時間を見ることは できない。 考え方にもよるが、時間を空間と捉え、時間という空間の中を馬車が通っているようなものともいえる。過去を見ることはできるが、それは 時間そのものではなく 時間を通った跡なんだ。 もしくは 川の流れのなかに 立つこと。川の流れが時間である。 列車の中にいるときに 隣の列車が逆方向に走り出すことでもいい。 多分、時間とは こういう 感覚で、自分が時間の中を動くか、 自分が止まっていて、時間が 未来から 過去へ流れていくのだろう。 なにがいいたいのかというと、 過去は 現在を決められない。過去の結果 今があるわけじゃないんだ。私は いままで こういうことをした結果 今があると思っている方が多いだろう。 努力して 頑張って、いまの生活を手に入れた。これは いままでの苦労の成果であると 思っている。 そういう 見方もできるだろう。 しかし、過去は 今 変わりつつあるのだ。 例えば、頑張って歌手になってアイドルになって女優になったSさんは、歌手にならなければ 刑務所に入らなかったかもしれない。 歌手になっても 成功しなければ、薬を使わなかったかもしれない。 過去は いま 変わる。 いま いろいろ 情報がでて、彼女は劇やせしていたとか、以前からうわさがあったとかいわれているが、 それも、いま警察に捕まっているから 過去が評価されている。 北野たけしのように、再び 復活したら あの時の経験が生かされてきますとなって 過去も変わる。 過去は いま 変わる。 お金が入って 車を買ったら 事故を起こしたとかあるわけで、なにがいいことか 悪いことかは、わからないわけです。 それを 単純に過去の結果 いまがあると 思わないでもいい。 いまの現状を維持するために もっともっと 働いて 努力して頑張らなければならなくなる。 しかし、時間が未来から流れてくると思えば、過去は現在に影響を与えない。 不可能。 未来において 幸せであれば、いまも 幸せであることになる。 未来の原因が いまの結果をもたらしているのですから、 斉藤一人さんりゅうにいえば 「先に ありがとうと お礼を言ってしまおう」なわけで 成功哲学風では 「すでに 起きているとイメージしよう」 ということも、時間の流れを意識しているからだろう。 過去から未来へと 流れている時間のイメージを 逆転させてみる。 時間は 未来から 現在へと流れている。 いま 喜んでおけば それに見合う 未来があることだ。 現在は 未来の結果だから、 先に 結果を だしてしまえば、思いのままの世界にいることになるんだ。 ですから、あなたは すでに 満たされていることに気づけばいい。 ですから、変わろうとしないでいい。 いまの ままの あなたでいること いま ここに この 瞬間 に いること。 いま 幸せを感じることができれば、その 原因は必ず 訪れる。 すでに 幸せだったら その 原因がもし 未来に生じなくたって(そういうことはないが)なんの 問題もない。 すでに お金持ちだから、寄付もできる。 この寄付の効用は、多くの方が言っています。 100万円入ったら 1万円寄付するとしよう。だから、先に1万円寄付することにより 100万円の収入がもたらされると考えてもいい。 与えるものと 与えられるものは 与えられるもののほうが 多いのは、1万円で100万円を釣るようなもんだろう。 そして、これは 疑っているなら 現象は 生じない。疑っているそのままの状態が 生じるに過ぎない。 が、ためしにやってみる価値はあると思う。 これが、仏陀が弟子にお布施は お金持ちからではなく、貧しい人からいただけといった理由である。 貧しいから 寄付をしないのではなく、寄付をしないから 貧しい。 いまでも、数年前 貯金が3万円しかないのに 1000円コンビニの寄付箱に入れたことを思い出す。手が震えたというか、ストップモーションで 店員さんの目が気になった。自然に寄付することはできず、緊張してた。 1000円の寄付をしたのははじめてだったんじゃないかな。 貧乏なのに、寄付なんかできるわけないよね、こっちがもらいたいくらいだ。寄付なんかしたって、何に使われるか わかったもんじゃない。お金持ちになったら、寄付してもいいけど いまはしないと 思っていました。 だから、貧乏に貧乏を重ね 自分名義の口座には3万円しかなくなっていたのは それでも 3・4年前だったかな。 当時も 寄付の効用を勧めていたが、読んではくれてもほとんどの人は、しなかった。 宝くじを買って 寄付しましたとかいうもの ばかりでした。 努力で世界は変わらない、世界は ・・・
2009.08.27
コメント(0)
かたくなに、同じようなことを繰り返し書いていますが、紙一重で伝わらないことが多い。 世界は 鏡だ・・そういえば そのようにも思えるね・・だから 何みたいな感覚があるのではないでしょうか。 いまが 毎日楽しくて満たされている人は、理解しないでも かまわないのですが、 どうして こういう状況になるのだろうかと、悩んでいる人もいる。 それは、それぞれの立場で 人間関係、仕事、金銭、恋愛 いろいろあるのでしょう。 オッカムのかみそりという言葉があります。真実は、複雑ではなく 単純である。複雑なものに見えても 単純なものとなるというような意味です。 「世界は鏡である」これで、十分といえば これに気づくだけで十分です。 嫌いな人というのは、あなたが彼や彼女を嫌っているわけですが、 その嫌っている部分というのは、鏡ですから あなたが嫌いな部分。 ですから、会社を替わっても いやな上司やいやな同僚はいるし、学校を変わっても いじめられなくなるわけじゃない。 じゃあ 自分が変ればいいのかというと、そうでもない。 もちろん、笑えば 鏡も笑うけれども、嘘の笑いは嘘の笑いを写すわけで やっぱり 嘘でしかない。 心と表情、心と言葉 が、裏表であれば、どちらを写しているのか見えないわけです。 よく、成功した状況を コルクボードに張るとかイメージするとかいわれます。 僕も、しましたが、うまくいきませんでした。紙に絵を書いていたことが、実現しつつあることはありますが。 方法としては、悪くないけれど、紙一重なんです。 成功していないから コルクボードにイメージしても、成功している自分をいくらイメージしても、そうではない から、コルクボードを作っている自分もいる。 我々は、見ているものに 同化・同調する・・波動の共鳴。 擬態というものがあります。それを、我々は虫が鳥に食べられないように 葉っぱや目玉の形になっていると、意味をつける。 ある調査で、鳥を何千羽と取ってその中の虫を調べたら、擬態している虫とそうでない虫は 同様の数食べられていたという。 虫は、鳥に食べられないためではなく 見ているもの、側にあるものに同調しているとはいえないでしょうか? 浜崎あゆみの写真を 部屋にはっていると、浜崎あゆみに 似てくるかもしれない。 飼い犬は、飼い主に似てくると いわれる。 夫婦も 似てくる、子供も 親に似る(遺伝もあるのは もちろんだが) 1997年、山一 北拓 と、倒産通りといわれた道もある。伝染・同調。 熱いお湯と 冷たい水をいれれば、ぬるま湯になるように、そばにあるものは 同調する。 孟母は、子供のために三回住む場所を変えたという。 結婚するなら 親を見ろともいわれます。 朱に交われば 赤くなる。 そうなりたいと思えば その なれない状態になり すでに そうなっている状態を感じれば その状態になる。 ここが 紙一重 成功していないのに 成功しているとは 思えないというパラドックスがある。 お金が無いのに お金があるとは 思えないという パラドックスがある。 そこで、どうして 成功していないと思うのか?どうして お金が無いのかと思うのかを 自分自身で 考えてみる。 すべてが相対的だから、あるとか ないとかいうのは、自分の基準を勝手に決めているに過ぎない。 いままで、自分の思っていた成功のイメージ、お金持ちのイメージは 創られたものと わかってくる。 洗脳・刷り込みです。親・教育・マスコミ・等々、見ているものに 考えが同調してしまう。 つまり あなたが世界の鏡 他者の鏡になって、他者の慾望を欲望していたに過ぎない(ジャック ラカン) ここまで わかれば簡単。 すでに 成功していると思うことができる。すでに お金持ちであると知ることができる。 そうすると その反映としての世界が 現れる。 単純なんです。
2009.08.27
コメント(0)
泣きっ面に 蜂 笑う門に 福 時間が 過去から未来に流れているとすれば、 泣くことが 蜂に刺される原因となり、 笑うことが、福の原因となる。 しかし、 蜂に刺されて泣く、福が来て 笑うというほうが、理解できるのではないか? ことわざに過ぎないというかもしれないが、 昔の人は、経験的に知っていたのだろうし、あなたも そういった経験はあるはずだ。 きっと、過去がある 未来があるというのも 判断に過ぎない。時間は 過去と未来を含んだ今しかない。 しかし、空間があると感じるように 流れているように感じるわけです。 それを いま 苦しくても 将来 楽しいことがあると、いつも いまを犠牲にあるように 教わってきました。 ですから、いつまでたっても 安心は得られないのです。 時間は いま しかないからです。 そして 世界は いま ここの 感情の反映、私=世界。 空間的な鏡では 笑えば 笑う という風に 実際の鏡のように、同時に見ることが出来るが、 時間的な鏡では 与えたものが 与えられる、笑う門には福というように、 まさに 時間が かかるのだ。それは、時間が 未来から過去へ流れていき いまの 結果を生じる 原因を 世界に生じさせる。 これは たらいの水を 押せば 返るというような、世界として古人はいっていた。 欲しいものを 朝から晩まで願う方法で得ることもあるのでしょうが、 欲しいものは それを出すことで得られるということを知れば、そのほうが楽。 たらいの水も 手前に持ってくればいくらかは得られるが、 押し出すことで、黙っていても いくらでも入るようになる違いなんだ。 一番大切なことは、いまの感情が未来の世界のありかたを決定するということで、 過去の感情が いまを 決定しているということ。 そして、過去の嫌な感情に意識を向けて、いまの世界を辛くしているだけなんだ。 だから、そういった感情に目を向けないで、もしくは 浄化して、もしくは 許して、 いまの感情に 目を向けていること。 それが、日記の効用でもある。 いま 私は 何を思っているのかは、瞬間瞬間変わるので、書き留めておくことが 大切。 それを、客観的にみて、想念を観察すること。 ただ 見るだけでいい。 汝 自らを 知る。 (
2009.08.27
コメント(0)
この世界は、鏡であるとは、多くの方が書いてもいるし、実際に 笑えば 笑い 泣けば泣く 欠伸も写る 鏡の世界なんですが(枕詞) その鏡は、まさしく空間にある鏡と同様に 同時に生じるわけです。 世界が、鏡だとして 与えたものが 与えられるというのも 鏡の作用のはずだが、 与えるものと 与えられるものは、同時に生じない。 時間が かかる。 これを 鏡といっているが、なかなか 納得できないかもしれない。 今日、とある「待ったいらの会」という 怪しげな会にでてきたが(半田さんの解説をしている) そこで、ふと思ったのは 空間も鏡であると同様に 時間も鏡ではないか そういうと、出席者は「そうですよ」と さも 当たり前のようにおっしゃる。まあ、そういうことに興味のある方ばかりしか出席しないだろうけど。 最近書いているように、時が未来から過去へ流れているとすれば、 いまを 未来にも 過去にも 写している。 つまり、いまの状態によって過去が変わる(塞翁が馬)というのは 過去は いまを 写す鏡であるということ。 未来も 今の状態の原因を映し出している鏡である。 マッチをすると 火がつくが、 マッチをすることにより 火がついたと 感じるけれども、 摺る行為と 火がつくのは同時なんだ。 いまの 感情が、いま 未来において 鏡として原因をつくる。 時間が鏡 だから、 与えたものが、与えられるんだけれど それには 時間の鏡を通して写るので 時間が生じる。 過去も未来も 今 同時にある。 過去は いまの鏡、未来も今の鏡であるから 過去=今=未来 でもあり、今が 過去と未来を含むと考えていい。
2009.08.27
コメント(0)
我々が世界を 点としてみているというのは、意識の焦点を当てたものが 見えるということ。 落ちたコンタクトレンズは、この辺にあるのに 見えない。 蚊の音がするけれども 見えない。 それは、焦点があっていないからですが、実は 焦点があったものしかもていない。 意識の焦点を向けたものが 現実となる。 これが、時間でもあるのだ。(自我=時間) 逆に、意識を ぼんやりさせて うすらぼんやりというけれども なににも 焦点を当てない状態では 世界と一緒であり あるがままの状態になる。 私=宇宙のだが、そのなかの部分に意識の焦点レンズを当てることで 光が集まり 物質化している。 それが 物質として 顕れるのが 空間で、 それが 時間として 顕れるのが 点である。 見ているものに同化する 同調するということは、意識を集中させることで 全体をフラクタル状に 一つにあわせるということなのだろう。 私は 世界全体であるが、 何かに意識を 向けるとき それに 同調する。 我々は 動いているものが 目に入ると、それを 見る。 おもちゃ屋では、猿がタンバリンをたたいているので、子供がそれに目をつけ同化する。 「ぼく この おもちゃが欲しい」となる。 意識のあるときに 時間があるというのは、寝ているときに 時間はないということからもわかる。 起きていても ぼんやりしていたり 夢中になっていれば 時間は またたくまに 過ぎていくというか 消える。 したくないことをしていたり 嫌いな人の隣では、時間は 止まる。 本題からそれるが、最近 津留さんがいっていた アニメの制作がよくわかるようになった。 主人公だけが動いて 背景はそのままで、アニメはぱらぱら捲られて主人公が動くように見える。 この現実世界も いま 周りを見てほしいのだが、動いているものは 少ないだろう。 背景は止まっていて、動いているものが、アニメの動きのように そこだけ ぱらぱらとめくられて動いているように思える。 これは バシャールが、あなたがたは移動しているのではなく 波動の調整をして 動いているように見えるといっていることと 符合する。 この世界は 全体は背景であり 動いているものに 意識をあて それが現象化しているように思える。 もちろん 動いているから 目に付くのだろうけれど 原因=結果であれば それは 同時に生じているのである。 しかし、なぜか ゴキちゃんだけは、見ると止まる。
2009.08.27
コメント(0)
先日、友人が 「寄付をしたけど、返ってこなかった」という。 だから、寄付の効用はなく、寄付は出しても返らないといっていた。 東京タワーの彼である。 彼は、具体的には書けないが、自営業の仕事がなく 苦しんでいる。 だから、僕のいわれたとおり ためしに、寄付を初めて 1000円札を寄付してみたそうだ。 自我とそれを 観察する私を同一化している。 苦しいのは自我であり、それを観察するのが 私・自己なのである。 ありのままでいいといっても、家内になんて話せばいい、子供になんて話せばいい、そんなこといえはいない。 別に言わなくてもいいと思うが、変えようとしても 変える事はできないのだ。 あなたが捜しているのは、不況でなくなった仕事であり、その仕事を見つける方法なのである。 そして、毎日苦しんで 飲みまわっている。 で、僕のいうことを聞いて、寄付をしたのに、見返りはないというのだ。 もちろん、それが あなたの思い通りになったに過ぎないのですが、 理解することはない。屁理屈と あなたはいう。 寄付など返ってこないという思いが現実になっただけで、その信念を強固にした。 いろいろなところに しなければならないという執着がある。 仕事を探さなければならない。 家族を 仕事で面倒みなければならない。 という思いがあるだけで、実際しているのは 飲み歩いていること。 飲むと一時的に気が晴れるのは、自我が麻痺するから、しなければならないという気持ちがなくなり、ある意味本心がでる。 方法を考えるということは、問題を解くということで、 問題は解決しようとするから苦しい。 もうだめだという彼は、いまは まだ ダメではないわけで、 ないものに意識をむけるのではなく あるものに意識を向けることを すすめる。 2年間も仕事らしい仕事をしたことののない私がいるわけで、 それで、なんの問題もないわけです。 いまの 苦しみが 未来の来るしい現実を 必ず引き寄せる。 もし、将来 幸せで満ち足りた人生を送りたいのであれば、 いま 幸せで満ち足りている必要がある。 時間は、未来から過去へ流れている。 未来の事象の結果 いまがある。 僕のいうことを理解できない、というのは簡単だが、このままでは より深い絶望に落ちいるだろう、というのも それが あなたにとって 最高で最善だからなのだ。 自我が何とかしようとしているあいだは、他人のいうことは耳に入らない。仕事が見つかれば、いいと思うだけだ。 絶望して、どうにもならなくなったときに、まさに 万歳状態になったそのときに 自我は消える。開き直れる。手放していることに気づく。 そういう状態にならなくても、いま この瞬間がベストなんだ。 仕事がなくても ベストなんだという気持ちが、未来においてベストな状態を世界のほうが 作り出す。 今の苦しみは、過去の結果ではなく、未来の結果なのだから、 今の楽しみが、未来の結果になると とりあえず仮定してはいかがだろうか? アインシュタインが、ニールスボーアに 「君は、見ていないとき 月は存在しないというのかね」聞いた。 ボーアはおもむろに「イエス」と答えた。
2009.08.27
コメント(0)
玉石混合の言葉が、書いてある。 お金を人生にもたらすためには お金を分け与えることが 大変効果的です。 なぜなら、お金を与えることは、「私はお金持ちだ」といっているに等しいからです。 地球上で一番の資産家は、最高の慈善家でもあります。 そうすると、引き寄せの法則によって 宇宙の扉が開き、それが何倍にもなって彼らに流れ込むのです。 まあ、そういう風にもいえるのでしょうけど、本を通して どうして、「引き寄せの法則」が働くのかの説明がないわけで それが「ザ シークレット」なんだね。 秘密は、この本で明らかにされることはない。 斉藤一人さんの本でも 小林正観さんの本でも 多くの成功哲学は、 何故か ついていることが起きる。 何故か トイレ掃除をすると お金がたまる。 と その「秘密」を明らかにしようとはしない。 この 世界は どういう世界なのか?ということなしに このような本を読む方は、きっと オホノボノを読んできて その前は、ジェームズアレンを 読んでいるのだろう。 バナナダイエットの次は、腸もみダイエット なわけで、 その 「神一厘の秘密」が わからないのだ。 法則というのは、100人が100人そうなる考え方であって、一人の例外もないはずなのに、 そうはなっていないし、なるはずもない。 宗教者が 多くの貧乏人から寄付をもらうように 裕福な書き手がさらに 貧乏人から、お金をむしりとるのが 成功哲学だろう。 幸せになりたいひとは、ただ いま 幸せではない状態を自ら 創りだしているに過ぎない。
2009.08.27
コメント(0)
もちろん、世界は意識の表象であり、想いは世界に反映されているのですが、 思いどうりとは、思えないわけです。 お金が欲しいから、お金があると思っても、実際にないということが あるわけですから、お金があると いくら表面的に思っても、ない状態が続く。 思いが ないという思いと あるという思いの 両方が同時に存在するために変わることはない。 いくら、持っているようにイメージしても、そもそもないという気持ちから生じているため(恐れから生じている為) 思い通りにいかない。 どんな成功哲学の本を読んでも うまくいかないことばかりでしょう。 本当に、すでにあると思えるかどうか? そこで、この世界は相対世界なんだってことを思いだす。 自分が お金持ちかどうかは、上から見れば 貧乏だけれど 下から見れば お金持ちなんです。 だから、自分のお金持ちの価値観を いまの水準まで戻すことが出来るかどうか? 思考のゲームをしてみる。 1000万円あれば いいのに・・を 1000円あると 思えるか? もちろんこれは、コップの半分を 半分もあるか 半分しかない かという積極思考に近いかもしれないが、最初はこれでかまわないと思う。 それは、裏表なく 思えるかどうか? いままで、いまのままでは ダメだという 思いがあるわけで、努力してこの現状を変えようとしてきた考えを放棄することでもある。 努力についても、いい悪いはないわけですが、ただ、努力すればなんとかなるという考えしかない方が多いのではないか。 他人より、長い時間働くこととか、したくないことをしていることが 努力であって、そういうときの感情が 現実世界にそのまま反映されるだけではないかと思う。 好きなことをしていれば、好きこそものの上手なれで、なんか後押ししてくれるようでもあり、うまくいかなくたって 好きなことをしているわけですから、平気なわけです。 話をもどすと いまが 満たされていると思えれば その現実が いまこの瞬間に 誰の前も存在するだけのこと。 それを、満たされていると思えばいいんだ と考えてしまう自我がいる。 このところが、超えられない壁でもあるわけです。 自我が考えても、最初にあるのが 満たされていない感情であるので、本当に満たされていると思えるには、自我は存在できない。 すばらしい美人を目の前にしているとき、すばらしい映画を見ているとき 我を忘れる(自我を忘れる)わけで、 言葉もなく 時間もない。 そこでは、満たされているとということと、いないということが 超越している。 ある意味 あるとかないという思いが 消える。 執着が離れる。 お金が あるとか ないとか いうことに意識が向かなくなる。 これが 満たされた状態であるけれども、そのとき 満たされているとは思うことはない。 しかし、満たされた状態は世界に反映されている。 つまり あると思うことは、あるの中にないという思いがあるわけですから、あると思ってもあるという状況は反映されない。 あるとか ないとか まあ どちらでもよくなる。 そして お金が欲しいという想いが、浄化される。 あると想ってもだめで、あると信じてもだめで、あることをすでに知っているから、あると 想う必要もなくなる。 そこで 思いは現実となる。すでに お金はあるのだから、あると思うこともない。 その反映が、世界に生じてくるのです。 これは、お金でなくとも 「愛」でも「幸せ」でも 同様。 求めることでもなく 求めないことでもない ただ いるだけなんだ。
2009.08.27
コメント(0)
* 現代の日本で年収300万円でも、食べるのに困るわけではないのですから、これが生物の本能であれば、十分に満足していていいはず。 「足るを知る」にいたっても、おかしくないのです。 それなのになぜ、「もっと もっと」とばかりに求め続けるのでしょうか。 それは、他人や社会の思惑によって、そうした欲求をもつように仕向けられている可能性が極めて高いのです。 そういう欲求を満たして得られる幸せは、本当の幸せではない。 私は、それを「奴隷の幸せ」と呼んでいます。 「幸せ」というのは本来、その本人にとって、どのように感じられているかという個人的なものであり、相対的なものではないはずです。 ところが、昨今の社会における風潮は、まるで「お金」で幸せ相対化できるといわんばかりです。 「所得が多いほうが幸せになれるから、頑張って競争に勝ちなさい」とか 「負けた人は不幸ですよ」といったメッセージが、人々の意識に徹底的に刷り込まれているように見えます。 支配者による 経済的洗脳です。 結論からいえば、お金を得たい人は、本当に自分の一番やりたいことを ひたすら 一生懸命にやることです。
2009.08.27
コメント(0)
全26件 (26件中 1-26件目)
1


![]()