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ある 事象 が生じたとしよう。 仕事が嫌だでも、子供の問題でも、お金の問題でも、 なにかの出来事が生じた。 そこで、あなたは 思う。 「なんて 辛いことなんだ、私以外の誰もがこのような事象にあえば、このような苦しみを味わうだろう」 しかし、同じ事象を見ても 「これくらいで すんでよかった」と 思う人もいる。 ここに 天国の住人か 地獄の住人かの 境がある。 別に、プラス思考をしようというのではない。 想いが 現実であり、一つの現実があるわけではないということなのだ。 よくいう コップにある半分の水を 多いと見る人もいるし、少ないと思う人もいる、 しかし たいていは そんなことは 思わないで すてて、新しい水を飲むだろう。 いちいち 多いとか少ないとは 思わないでしょ。 「コップに 半分の水がある、あなたは多いと思いますか 少ないと思いますか」という問いかけによって、初めて 多いとか 少ないとか 考える。 つまり それまでは あるがままに、コップの水をみていたのに、思考によって 多いか少ないか 考え始めて あるがままの状態から、二元的思考のワナにはいってしまう。 つまり コップの水に対して、なんとも思わなかったのに、そのような 悩みを創造してしまったということに 気づかない。 多いとか 少ないとか 考えて、それを解決しようとしているから、悩んでしまう。 それを 思わなければ、なんでもなかったのに、それに意識を当てることにより、問題を 初めていま 作ってしまう。 問題なんて そもそもないわけで、 あなたの意識が 問題を創りそれを 解決しようとするから、苦しい。 コップの水が 多いとか少ないとかって どおでもいいことなのに、 多いですか 少ないですかという 悪魔の問いかけを 自問自答する。 これが、コップの水であれば 当たり前と思うだろうが 仕事が嫌いとか ないとか、人間関係とか、 みんな コップの水が多いとか少ないとか と同じように、ない問題を 自らつくって 判断しようとしている。 いやいや そんなことはない、本当に苦しい問題があるんだ というかもしれない。 なんども 書いているが、 それなら 私の目の前に出してみなさい達磨の言葉 水が多いとか 少ないとか 考えても、問題は解決しない。 多いか少ないかを 解こうとしても、正解は もともとないのだが、どちらかを選ぼうとしている。 津留さんは で、何が問題なんですか?と聞く。 達磨と同じ理由だ。 自ら作り出した 悩みに、自ら縛られる。 悩みはあるっていたって、頭をぶつければ 忘れるでしょ、 腹が減れば 何を食べようかかんがえるでしょ。 そういうとき 悩みはどこにあるのかといえば、そのときは 悩みは 存在できない。 歯痛とかは、悩みじゃないから ずっと痛いけど、 悩みは 悩んでいるとき以外は、世界に存在さえできない。 あなたが それに意識を当てるときに 生まれる。 そして、それに意識を当て続けるから、エネルギーがどんどん大きくなり、悩むことも 増える。 水の 多い少ないと同じように、悩みは とこうとすると どちらかを解決できない。 悩みは 悩むことをやめるときに 解決しようとしないときに なくなり 探し物も 探すのをやめたときに 見つかる。 欲しいものは 出せば得られるという この幸せな世界に わざわざ 悩みを出して 悩みを得ても 面白くはないと思うのだが・・・。 だすものは すべていいけれど、悩みは 返ってきては いやだから 浄化をするわけでしょ。 口から悩みを出して、そこに 目を当てて 執着を無くす。 そうすると その事象は なくならないが、その事象に対するあなたの価値観が変化することによって、結果として その事象は消えていくことになる。
2009.09.28
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真剣に悩むのは、自我だろう。 真剣より 新券のほうが、好きだな。わーい(嬉しい顔) 迷ったら、真剣すぎるわけで そんなことは、考えても解決ができない。 適当に 悩むわーい(嬉しい顔) 悩むときは、絶対に 適当に いい加減に、悩んでみる。 真剣に悩むことは、してはいけない。 適当に悩むのは 難しい・・・が、 悩むときは、適当に悩むことにすると決心しよう。 すると 悩むことが、できなくなってしまう。 それより、 いま悩んでいることが、それに対応した世界を いま 引き寄せる。 適当に いい加減に 生きることを フランス人は ケ セラセラという らしい。 一休さんの弟子に 本当に困ったときにだけ 開けるようにと書いた遺言。 弟子たちが、本当に困ってその遺言を見たときに書いてあったのは 「なんとかなる」わーい(嬉しい顔) 思い通りにはならなくとも、なんとかはなるわけで、 それをそのまま受け入れる。 どんどん受け入れることで、世界 のほうが変わりだす。 我々は、変わろうとせず、変れるわけもなく、変わるのをやめたときに 世界のほうが変わってくれる。 そんな、面白い世界の住人なのですねね。
2009.09.08
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まあ、この日記を読んでいただいているかたのほとんどは、 雲消しをしたことがあるだろうと思う。 雲消しで、考えることは、雲を消す方法ではなく、 何故、雲が消えてしまうのか?だ。 いくつかの論点がある。 まず、何故 雲が消えましたと 過去形で 念ずるのか? これは、先に雲が消えた結果として 言葉を発することだろう。 時間は 未来から 過去へ向かって流れているから、 未来に対しては、現在は 必ず過去となる。 もちろん、これは想いが現実という前提が必要となる。 斉藤一人さんの、さきに 感謝の言葉 「ありがとうございました」と 言おうというのと同じである。 ということで、僕も一つ 念を入れてみた。 ここが、難しいところで、これを言うわけにはいかない。 だから、それが 実現したとしても証明とはならない。 雲が消せない人は、雲が消えるとは思っていないが、 雲が消えましたといっている人である。これが、論点の二番目。 こういうところに壁がある。 幸せでないのに、幸せだと想うようにしようとしたり 貧乏なのに お金があるように思うようにしても 無駄であるのと同じである。 最初に 成功したいとおもって、自己啓発の本を求めるわけですから 成功していないという思いがまずある。 お金持ちになりたいと想って、 ついてる と となえても それは無理。 ついてるという言葉に 効力はあるんですよ、 しかし、最初についていない私という思いがあって、 ついてると 何万回唱えても意味は無い。 まあ、その辺は 津留さんの浄化でもやればいいと思うけれども、 浄化しても だめなんです、変わらないんです、 もとのままなんです、という方もいる。 それは、寄付の効果が無い方と同じように あなたの信念が、その世界をそのまま、つまり変わらないという思いを実現しているだけ。 ついてるというのは、 本にあるように、鼻緒がきれて ああついてるな、道で歩いていてきれなくてよかったということであって、 前向きに考えようというのとは、微妙に違うわけで そして、その微妙さが紙一重で、思い通りにならない。 鼻緒がきれようが どういう状況が起きようが おきたことを 価値判断することなく、ついているとどんなことでも 思えるから ついてる と思うわけで、 ついてると思えばいいというわけではない。 プラス思考とかそういうこと、二元的ではなく あるがままの現実をすべて受け入れるということ、 ついていることと、ついていないことがあるわけじゃないです。 起きることすべてが ついていることだから、ツイテルとおもうに過ぎない。 これは、すでに 満たされていることというのと同じことなんだ。
2009.09.07
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9月2日に発売された「虹」という歌に 誰のせいでもないさ 人は皆 鏡だから 勇気を出して 虹を描こう あまり、前後の脈絡もなくでてくるんだけど、 だんだん、鏡の世界というのが、市民権を得ているんですかね。 さて、僕が、世界は鏡であると知ったのは、津留さんの本を読んでからではない。 先に、半田さんの「シリウス革命」を読んで知りました。 当時は、貧乏商人でなんとか商売を盛り上げようとしていまして、いろいろな本を読んでいて、読むことになったんです。 ジャックラカンという心理学者が、「あなたは 他者の欲望を欲望する」とかいっていてどうも意味がわからなかったけれど、シリウス革命にラカンのことが書いてあって、この本もまんざら、おかしな本ではないんだろうと思って読み始めた。 読み始めたら、「なんだこれは」という感覚で 引き込まれたというより、 意味が不明だったんですが、半年ほど読んでいて 見ている世界は、自分の心のなかなんだ ということが腑に落ちた。 半田さんのいう反転の概念です。 主体と客体の等化、自己と他者の等化 というのは、 モノは 私の鏡だということ、 あなたは 私の鏡だということ そして、世界は 私の鏡なんだってこと と同じこと。 私が見ているのではなく、私とは 見られている世界のこと。 同じなんです。 だから、鏡。 そこに 行くまでには、いろいろ思考しました。世界を平面に戻せという 問題を考えていたから、理解できたのかもしれない。。 両目でみていて 世界は立体にみえるけれども、両眼視差で立体にみえているわけではない。 というのは、片方のめでみても、世界は平面には見えないわけです。 古代の壁画は、エジプトだけではなく、聖徳太子の絵も平面だったわけで、それが、立体的な絵画になるのは 遠近法の発明と 自我の確立と だいたい同じということがわかる。 自我によって、二元的思考することによって、私と世界の分離が大きくなったのだろう。 その歴史の繰り返しが、フラクタル的に 人間の誕生にも当てはまると書いている。(幼児の絵) りんご が ないわけじゃない。 りんご は ある。 しかし、そのりんごが どのように人々の心に現れているかは、判定つかないわけで、一人一人 まったく同じように (同じ角度) 見てはいないのだ。 100人で一つのりんごを見れば、すべての人の目に映っているのは、りんごの一部であり誰一人まったく同じ 視線(角度)でみてはいない・・物理的に不可能。 それが すべてにおいてそうなのであって、あなたの視線でいま世界を見ることのできるのは あなた以外にない。 その 世界が あなたの鏡である。
2009.09.05
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ひとつの指輪はすべてを統べ、ひとつの指輪はすべてを見つけ、ひとつの指輪はすべてを捕らえ、暗闇の中につなぎとめる。 ゴラムという、指輪に執着したものが、でている。 指輪の魔力に囚われ、「わが 愛しきもの」として 指輪を追い求める。 ゴラムは、誰だろうか? ゴラムは「自我」ではないか? 指輪は 欲望の象徴であり、 ゴラムは、欲望を追い求める 自我。 そして、旅の仲間は、欲望を消すために、修行にでかける。 指輪という欲望の魔力は強いもので、 欲望に囚われると、われを忘れてしまう。 指輪を追い求めるゴラムとは、欲望におどる人間を風刺したものなんだろう。 欲望としての指輪が消えるとき、 それを 追い求める自我も消える。ゴラム(自我)を探すことが、出発点である。 たいてい、私は 私であり、自我と私を同一化している。 自我は、記憶であり 私は 自我を 見つめるもの。 この 自我と私を同じとしているから、苦しい感情が生じる。 いろいろな出来事が生じるけれども、同じような感情を味わうことがある。 苦しい、辛い、悲しい・・・等々。 もしかしたら、それは 記憶(自我)の反応ではないでしょうか? つまり、過去と同じような出来事を 自我の感情が 引き寄せ、生じさせる。 これは、会社を替わっても、セクハラ上司がやっぱりいた みたいに、 出来事があって、感情がわくのではなく 感情があって、それに見合う出来事をこの世界に生じさせているのである。 逆なのだ。 貧乏だから 辛いのではなく。 辛いという感情が 貧乏である現実を生じさせる。 人間関係が 辛いのではなく 辛いという感情の記憶の反映が、いまここで 過去の感情の再現を自ら起こす。 自我と 自己、を わけること、 これは、海面にでた氷山の一角と、水面下の氷山のような関係なんでしょうけど、 その氷山の一角が、世界を創造しているけれど、それは あなたの本の小さな部分に過ぎない。 その 氷山の一角だけが あなただと思っている。 それが、この世界を見るために 創られた、鏡としての自我なのだ。 私は、自我でもあるが、自我はほんの一部に過ぎない。 この、自我と私の 関係を理解できないでいると、自我は私だと思うからいろいろ不都合が生じてしまうんだ。
2009.09.04
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幸せは、人の数だけあるだろうか? もちろん、苫米地さんのいう奴隷の幸せ、つまり 何かを達成し~昇進、成功~幸せな気持ちになることはあるだろうが、 多分、幸せな人は 幸せを感じていないと いってしまう。 戦争と平和という言葉があって、人々は平和を望んで 戦争を嫌うけれども、 戦争がなくなるときは、平和もなくなる。 つまり、戦争というものが、地上からなくなれば その対語である平和もない。 平和とは、戦争のない状態であって、一時的なものとしてとらえている。 まったく、平和であるというか、戦争がない状態では 平和もない。 仕事をしていない僕が、休みがないようなものでもある。 仕事がなくなれば 休みもなくなる。 ということで、 幸せな状態というのは、幸せを感じないこと。 「幸せ」というのは、一時的なもので 幸せが空気にように、満たされていたなら 幸せであることに気づかない。 「健康」も 病気になって ありがたさがわかるわけで、 あることに 意識を向けることはしないものだ。 そうそう、今日 ジムで歩きながら、考えた。 最近、鑑定士の勉強が楽しいのは、何故だろう? 基本から やり直しているので、わかるからだと思う。 わかると 楽しいのだ で、何が言いたいのかというと 子供は、何度も 同じ本を飽きないで読むことが好きだ。 そして、次に起こることを 知っていることを喜ぶ。 迷惑な話だが 映画館でも 次におきることを 喜んで話てしまうのだ。 子供たちは わかることが、楽しいんだ。 ずっと、なんで 同じ本を読んで飽きないのかなと思っていたが、きっとわかること 知っていること 理解できること が楽しい。 もちろん、それは自我の喜びだろう。 最初は、自我の喜びであっても だんだん、時間や言葉が気にならなくなり、 あること あるものに 夢中になって、 ただ ある状態 あるがままに なったとき 幸せとか いう気持ちも消え そのものや そのことに 一体感を 味わうのでしょう。
2009.09.02
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嘘から出た真は、民法でいえば「心裡留保」にあたり、 法的には、原則有効であるが、 相手方が、表意者の真意を知り、または 知ることのできた場合には無効となる。(93条) だから、新築マンションを見に行くとき書かされるアンケートに 年収 1200万と書いても 1800万と書いても 3000万と書いてもかまわないのですが、 相手の担当者が、信じるかどうかが、問題となる。 僕は、年収120万円(それさえでなかった)のときでも、1200万円と書きましたけど、 後になって思えば、もう少し多くてもよかったかなと 精神世界でも 心裡留保は、原則有効なんですが、相手方が信じていないときは無効になる。 そして、年収が少ないときは、そういうアンケートに記入するのがとても 嫌だったんですけど ある意味それは、チャンスなわけで 相手が信じれば、その現実が その場で 生じる。 自分も 嘘だと知っているけれども、そういう嘘はついてもかまわないと思って、その振りをしてみる。 できれば、それが 意識的ではなく、無意識にできればいい。 会社や学校を休む理由に病気をいうと、結構、病気になったりするものです。 ですから、そういうことを 利用して、まあこれは 遊び感覚なんですけど、 アンケートの紙に 適当に 希望の年収の金額を入れてみる。 そうすると、マンションを見に行って 年収120万円と書くのが苦痛だったのが、 ゲーム感覚になるので 年収の欄を書くことが 楽しくなる。 嘘からでた 真という言葉は、こういう アンケートに利用すると 面白い。 効果があるか どうかは、自分で試してみるしかない。それが、僕にとって 効果があったにしても、あなたにとって効果がなければ 意味はないことですから。
2009.09.01
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想いは、現実なんだけれども、自我は、「そのように 思えばいいのか」と判断する。つまり、プラス思考をするようにすればいい と考える。 形から言えば、想いが世界をつくるというより、いまある世界をそのまま受け容れる というようなことが近いけれども、 貧乏から抜け出す為に 変わるために 「いま 満たされている」と想っても、無理なのである。 そうではなく、そのように想うようにしようというのではなく、 実際に、 「いま 満たされている」ことに 気づくことが大切なのである。 これは、理解ではなく 気づきなんだ。 どんな成功本を読んでも、変わるために お金持ちになるために、こういう心の持ち方をしましょうと 書いてあるけれども、 一体、どの心が実現するのか? まず、最初に 貧乏であるという気持ちがあるから、お金持ちになりたいのであるから、その貧乏が実現するのであって、 その上に、どのような意思を持っても、砂上の楼閣なのである。 だから、そういう「成功法則」は、それを売る人のみが儲かるという仕組みになっている。ナポレオンヒルのテープを 200万で勧められたことがある。 100人が100人成功する方法は、 すでに成功していることに、気づくこと以外にないと思うわけで、 それは、100人が100人幸せになる方法でもある。 小欲知足 という仏陀の考えかたに等しいが、小さい欲で満足しようというのと少しニュアンスが違う。 いまある状態にまで、欲を減らせば、いまがすでに満足であるということが わかるということだ。 そして、これに気づくこと、これに 気づいて、すでに満足できれば 先の商店主ではないが、その瞬間に 世界のほうが変わりだす。
2009.09.01
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