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マリナ・デル・レイは世界一のヨットハーバーとして知られている。このヨット・ハーバーの中に、ペルシャ人の親友・バーマンの家がある。カリフォルニアの燦燦と輝く太陽が降り注ぐベランダに出る。新鮮な海風を胸いっぱいに深呼吸する。そこにはバーベキュー・テーブルと木製のイスがいくつかあった。そのうちの一つに腰掛けると、広がる視野にはヨットが軒を並べて漂白している。「向こうは海岸なんだ。よくジョギングに行くよ」さっきまで三台のコンピューターを使って、株価をチェックしていたバーマンが、コーヒーを両手に持って現れた。ヨットの甍浪で、海岸線は見えない。目を天に向けると、青い空、輝く太陽だけがあった。「ここは天国だな」「まさに『カリフォルニア・ドリーム』だろ」それから彼は、70年代のこのヒット曲を口ずさんだ。その歌と景色が、まさにピッタリしている。俺も将来、こういう所に住もうと決めた。ダウンタウンの同じアパートに住んでいたあの頃は、ビジネスには興味がなかった。だから、彼がビジネスを持っていること、特に仕事をしないでアウディを乗り回しては、セスナ機の免許を取ることに専念していることを気にとめることはなかった。貧民街の安アパートにこういう人が住んでいたのは今考えれば不思議なことだが、当時はそうは思わなかった。何と言っても、アパートには他にケネス・チャン博士や、画家のパトリックらも住んでいたわけだから。「そういえば、よく俺にビジネスを勧めていたね」7年前を思い出しながら、コーヒーを口にした「あの頃はその価値がわからなかったよ」完全にBクワドラントとIクワドラントに住んでいる友人の価値が、今ならよくわかる。ペルシャからやってきて、アメリカで成功することが容易でないことも考えると、ひとしおな気持ちだ。「あれから少しは大人になって、成長したってわけか」バーマンはからかうように笑った「ところで、昨日話していた件だけど、続きを話そう。二つあったな。バルドゥビーダ人、どっちから行くか?」「まずは貴金属ビジネスの話から行こうか」「よし。じゃあ、例えば貿易品がこういうものだったとしよう」彼はコーヒー・カップを少し高く上げた「もしも売れなかったらどうする?」「売れなかったら、ただで置いておくよりも安く売った方がよくなるよな」「で、それでも売れなかったら?」「うーん」俺は白い陶器のカップを、ヨットハーバーに面したテーブルに置くと、それを見つめながら腕を組んだ。「最後には壊すしかないだろ」友は助け舟を出した。俺は追伸のうなづきをした。「ところが貴金属は違う」「??」「『ヘッジをかける』って意味、わかるか?」「ああ。リスク管理のことだろ」「もしも仮に金のネックレスが売れ残ったとしよう。そうしたとき、どうする?」「飾っておくしかないんじゃないか?それ以外ないだろ」「いや違う。こういうときは、ネックレスを溶かすんだ。すると、金の価格になる。つまり、カップと違って全てを失うことはないんだ」ますます話に耳を立てた。「バルドゥビーダ人、日本で貴金属をやってみるか?俺はイタリアにルートを持っている。いい品が安く手に入るルートだ。日本は宝石の市場としては大きい所なんだ」「うーん、でも・・・・貴金属のことは何も知らない。ルートもない」「まず、俺が君にサンプルを送る。君はサンプルを持って、市場を開拓する。週に一日か二日でいい。そしてもしも買いたい人が見つからなかったら、ただ俺に送り返せばいい。君にリスクはないだろ」答えはイエスかノーだ。早く決めろ。「よし、やってみよう。早速日本に送ってくれ。装身具市場のことはよくわからないけど、とにかくやってみるよ」「そうこなくっちゃ」
2003年02月28日
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この大陸に帰ってこれた理由は、実に個人的な、俺の心の中にある。アメリカを離れなくてはならなくなった6年前の4月21日、俺は心の中で呟いていた。「何かを、たとえそれが小さな何かであったとしても、何かをやり遂げるまでは二度とこの国には戻らない」離陸した飛行機は大きく向きを変えた。飛行機の窓の遥か彼方のロサンジェルス、そこで過ごした3年間が離れていく現実を、ただ黙って見ていた。帰国してからというもの、仕事がなかった。ビザの関係で向こうでの仕事をなくしてからトータルすると、8ヶ月も無職だったことになる。自分が無能に思えて仕方なかった。俺にはやりたいことがあった。それは芸術としての著作を残すことだった。帰国してからはしばらく腐っていたが、そのやるせない思いを芸術に転換する必要があった。早速筆を取ったのは、帰国して一週目頃のことだっただろうか。それから1年と半年経って、「ロサンジェルス絵日記」の下書きは完成した。この作品を書くために、半年で辞める予定だった塾講師のバイトは、長々と続いてしまった。「社員にならないか」という誘いも、半年で辞めるつもりなのでと言って断ってしまっていた。原稿の量はルーズリーフ手書きで2600枚以上になっていた。しかもこれは、インスピレーションの趣くままに書いた「原石」であって、とても読めるものではない。これに改訂、編集、校正をかけて「宝石」に変えるには、毎日3時間から6時間を費やしたとしてあと1年は楽にかかることが容易に予測できた。そのときの失望感はとても言葉で表現できない。そこで予定を変えて、この作品から一旦離れて別な作品を手掛けるようになったのだった。この原稿は原石のままに、まさにルーズリーフの束が立方体の「石」になって、今日も部屋の奥に眠っている。この作品を仕上げることも、ラットレースを抜けた先の俺の仕事の一つだ。まずは人を雇ってコンピューターに打ち込んでもらいたい。それを俺がチェックして、芸術仕事と事務仕事を分業して、効率よく完成に持っていきたい。友人宅を二件梯子して、6日間シリコンバレーにいた。その間、一泊だけサンフランシスコを観光した。そうして今、6年ぶりに、ついにロサンジェルスに帰ってきたのだった。
2003年02月26日
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飛行機は傾斜角度を緩めて安定飛行体勢に入った。気がつくと機体は日本列島上空にあった。彫刻刀で彫ったような中央山地と思われる山々には、所々雪化粧が見られた。 隣に座っている韓国人の中年男性は、アメリカに自分のビジネスを持っているという。「ソフト関連の会社です。まあ、私は相談役ってところで、たまにシリコンバレーに飛ばなきゃならないんですよ」 彼は、もともとは公務員だったという。それを、一念発起してコンピューター関係の会社員だった親戚と会社を立ち上げたという。「会社、立ち上げてよかったですか?」「ええ、それはもちろんよかったですよ。でなかったら今こんなことはしていない。私は夢に向かって生きてます。私はチャレンジャーです」彼は続けた「この前は、アラスカに半年くらいいました。原住民も行かないところへ、モータークルーザーで雪の上をどこまでも・・・・・エスキモーに怒られましたよ。怖いものしらずなだけですけどね」 これが人生だ、と横で感心して聴いている。「お幾つのときに会社を始められたんですか」 彼は笑みを浮かべた「つい2年前、つまり40代終わりの頃です」「でも、それまでに経営のご経験はあったんでしょ?」「いえ、今回が初めてです」 何てすごいんだ。これまで官僚仕事しかしたことのない人が、Bクワドラントへ一速他に飛ぶなんて・・・・飛んでるな。「今度は南米に、1年くらい行ってみたいと思ってます。私は自由を求めます」 私もですと、どうにか付け加えるように言った。 この人は、俺と基本的な性格が似ているが、二人の間には決定的に大きな違いがあった。それは・・・・彼は達成してる。俺はこれから達成する。 ここで「いいなあ・・・」といって指をくわえていてはいけないんだろうな。 こういう素晴らしい話は、いつもならいつまでも聞いていたい話だった。しかし、俺は言葉数を少なくし、しまいに会話は自然と消えた。 飛行機は太平洋に出た。この海の果てには、本当に久しぶりの、第二の故郷が見えてくるはずだ。
2003年02月20日
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二日後に再会を約束すると、学会の準備に忙しいオー氏は足早に会場を抜けた。 一方ビョン氏はというと、これから俺とミンを連れて、実家のあるプサンを案内してくれるという。「韓国ではこういうことって、よくあるのか」俺は言った。 ミンは、前を走るビョンさんの車に反射する太陽光を遮りながら、片手でハンドルを握っている「日本では違うのか?」「違うと思うよ」急に外の空気に触れたくなって、窓を開けた「日本では、とっさに決めて付いて来る人は少ない。何月何日の何時何分、とやるのが好きな民族だ」「それ、噂に聞いたことはあるけど、本当か」 窓を更に開けると、風を切る音が大きくなった。風に肌をあてると、春になりゆく空気が感じられた「韓国って、いい国だな」 高速道路を南下してようやくプサンの港に着く頃には、新観光名所の大橋は、緩い放物線を描いたワイヤーに沿って、電灯が星のように瞬いていた。 テグーでは100人を越える地下鉄の死傷事故があったことを、プサンで知った。もしかしたら巻き込まれていたかもしれない身の上を考えると、ちょっとぞっとした。「ところで、私は今頃インドに行ってるはずだったんですよ」夕食後、坂の多い街の坂を降りながら、ビョンさんが言った「学会が入ってたんだけど、本の件であなたが来韓するっていう知らせがオーさんから入ったから、キャンセルしたんです」 そんな重要な仕事が入っている人が、俺や俺の友人のために、こうして一日空けてくれるとは感激には違いなかった。しかし、もっときちんと連絡を取り合えてれば、お互い無理のないスケジュールを取ることもできただろうに、とも思った。さておき、プサンには一泊してたっぷり観光をしてから、約束の時間を目指して、再びテグーへと向かった。 第二回目の会談は、ビョンさんの研究室で行なわれた。ここで印税の取り決めがはっきり決定し、英語と韓国語が付された約束書面が取り交わされ、ここに俺、ビョンさん、オーさんのチームが正式に結成された。 あとはL.A.のチャンさんのサインが入れば、チームは起動する段取りが完全に取れた。 日米韓のプロジェクトだ。たかが一冊の本だが、何らかの国際貢献になることを願っている。 やはりチャンさんがサインをするかどうか、想像するのは難しかった。しかしそれでも、今の率直な心は満足で充満している。「もうすぐセマウル号が入線するぞ。もう改札をした方がいい」親友・ミンは地べたに置いてあった俺の荷物を引き上げた。韓国と日本は両者手を取り合って、よい未来を共に創っていけたら、と切に思いながら、改札の向こうとなったミンに手を振った。
2003年02月19日
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ミンのハンドルは会場のホテルへと向かう。戦場へと向かう兵士のごとく、胸はときめく。「この瞬間のために韓国へ、さらにソウルから特急で4時間もかかるこの街へ来たのだ。会合を成功させなくてはならない」 プレッシャーがないわけではない。もし企業の歯車としてこの役を仰せ付けられたなら、きっとこのプレッシャーが嫌でたまらなかっただろう。 しかし今俺は、チャンさんと俺のプロジェクトを、ビョンさんの力を借りて、この国で成功させるために来たのだ。大仕事だが、自分のスタイルで自由に道を拓いて行くことができる。こういうときの自分は強いことを、体験的に知っている。俺という男は、教習所で免許を取ろうとすると半年以上もかかってしまうが、公道と車を与えられて自由をくれれば、3日で運転を覚えるタイプだ。 結果がどうなるかは分からない。しかしそのことをここでとやかく考えても仕方ないことなのだ。今出来ることは、自分の能力を信じて、自然に道を拓いていくことだ。「さあ、着いたよ」ミンはギーッと、サイド・ブレーキのレバーを引き上げ、車のキーを抜いた。 ワンフロアぶち抜きの、ホテルの郷土料理屋だった。薄暗い照明が、妙に高級感を漂わせている。広い店内をあちこち見ながら泳いでいるうちに、向こうで中年の男性が立ち上がったのが見えた。「バルドゥビーダ人さんですか?」中柄で眼鏡をかけた男性は、日本語を話した。日本語学教授のオーさんに違いない。「いえ、日本では日本人ということになっています」 オーさんは韓国で「日本語文学界」の会長をやっている、学会では権威ある人だとこのとき初めて知った。オーさんと俺の共通の友人・リーは、今でこそ会社のカリフォルニア支局長をやっているが、俺が会った6年前は単なる気さくな韓国人だった。その印象は当然の如く、今も変わらない。だからリーが紹介してくれた人がこんなに立派な人だったのは小さな驚きだった。さらにこれほどの地位のある人が、一度も会ったことのない俺とビョンさんのために間を取り持ってくれ、今日この会場をセッティングまでしてくれたのは大きな驚きに値する。 しかし俺はそこまで驚かなかった。なぜなら、かつての国際的な生活のなかで、韓国人とはどういう気質な人達かは、熟知しているからだ。 暫くして、ビョンさんが現れた。中年で小柄な女性だった。この人を捕まえるのに苦労した割には、明るく礼儀をわきまえた対応をしてくれた。 俺がオーさんと話すときは日本語で、オーさんがビョンさんとミンと話すときは韓国語で、俺とミンが話すときは英語で、俺がビョンさんと話すときは、オーさんに日本語を話してから通訳してもらうか、ミンに英語で話してから通訳してもらうかという2通りのルートで意見を交流した。複雑なコミュニケーション回路だった。 ビョンさんと話してみると、これまで意思疎通の行き違いがたくさんあったことが分かった。やっぱりここまで来て良かった。行き違いは解決へと向かえそうだった。 但し、ここへ来て重大な問題が横たわっていることを知った。これはプロジェクトに対して一気に非常ブレーキをかけ、進展を止める力を持っていた。 ビョンさんは、日本語ができないのだ。従って、本の翻訳は不可能だ。これは致命的だった・・・・・。「何なら、ボクがやりましょうか」オーさんがぼそっと言った。 考えてみれば、彼は日本文学の教授だ。こんなに素晴らしい解決策が、こんなにいいタイミングで、こんなに近くにあったなんて。神に感謝したい気分だった。 こうしてラフ翻訳はオーさん、病薬理学的専門語はビョンさんという分担が決まった。 こんな難解な問題をクリアしたというのに、まだ強力な問題が横たわっていることに気づいた。これ以上話を進めるには、日本の出版社の承諾や同意、法的なことが絡んでくる可能性がある。これから確認することが、本当は第一番目にするべきだったのだ。「何なら、私の使っていいですよ」オーさんは胸ポケットから携帯を取り出した。 善は急げ。その場で国際電話。「基本的には著者側の判断でいいのですが、あとは出版社同士が話し合うこととなります。相手方出版社はそういうことは知ってますから、心配ないです」 電話を切って、小さくガッツ・ポーズを取った。もう一ステップ駒が進んだのだった。 ここまで来れたのはいい。しかし、最後にして最大の問題が、大蛇の顔をして絡み付いてきた。印税の比率をどうするか。この同意なしに、プロジェクトは進まない。 協力者が一人増えたことで、一人当たりの取り分が小さくなることは仕方がなかった。しかし、そのことをL.A.のチャンさんが理解してくれるとは思えない。さらに、ここでプロジェクトを断念しては、協力者全てがlooserになる。 俺は決断をした。俺の印税を削って、チームを創る。 決断は功を奏して、日韓のマスターマインドが結成された。オーさんは早速知り合いの出版社に訪ねてみるという。 「じゃあ、あとは任せてください」 あとは、俺がアメリカに飛んで、チャンさんが首を縦にふるのを見るだけだ。そうすれば、プロジェクトは活動を開始する段取りが取れたことになる。 自信はなかった。どうもチャンさんが首を縦に振る映像が浮かんでこなかった。 しかし同時に自信はあった。自信の源は、今、横たわる難問を全て数時間で解いたことだった。
2003年02月18日
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以前訪ねた時とは別人なような、テグーの街。雑踏。日本と変わらぬ若者のファッション。新型の携帯電話。時々見られる大型高級車。韓国は知らぬ間に成長を遂げていた。 ミンと最初に会ったのは8年前のロサンジェルス。同じ東アジア人ということもあり、すぐに打ち解け親しくなった。以来、今日まで親友を続けている。当時16歳の少年も、今では軍隊生活から帰ってきた立派な大学生になっていた。 しかし、今回ほど寸での急展開はなかった。何しろ、日本を発つ僅か2日前まで、テグー訪問は「観光旅行」になってしまうところだったのだから・・・・。 『百歳を生きる力』共著者のケネス・チャンと私の間柄は、ずっと信頼という名の強い絆で結ばれていた。しかし、昨年ひょんなことからこの絆が思いがけずにほころび始め、次作の共同作業は棚上げになってしまっていた。 本の韓国語訳者にチャン氏から任命されたのは、彼の弟子に当たるビョン博士だった。博士の表敬訪問と、プロジェクトを成功に導くことが、今回のテグー訪問の目的だ。 ところが、である。昨年末以来、何度電話しても博士と繋がらないし、留守電を残しても返事は来ない。1月中旬にはチケットの予約もせねばならず、やむを得ずテグー滞在をフリーで4日入れておいた。 ところが、それからも博士を捕まえることはできなかった。 そうして出発一週間前まで来てしまった。ビョン博士の大学はテグーにある。俺は親友ミンに連絡を託しつつ、更にサイドラインの構築を始めた。つまり、ロサンジェルスにいるリーにダメ元で協力の電話を入れた。必死だった。 期待のミンは、芳しい報告を取り付けることができなかった。学生の身分では荷が重い仕事だったのかも知れない。 ところが、意外もL.A.のリーからは喜ばしい報告が入った。彼の中学時代の友人が、なんと偶然にも、テグーで日本語学の教授をやっているというのだ。 早速オー教授と連絡を取ると、教授は親友リーからの申し出だから、と全面的に協力してくれ、ついにビョン教授とコンタクトが取れたのが、出発2日前。額から汗が滴り落ちる思いだった。 ついにここまで来たんだ。どうしても韓国の事情を聞いた上で、このプロジェクトを成功に導かなくてはならない。成功の鍵は自分が握っていることはよく自覚している。 ミンの家族の熱烈歓迎、ワールドカップ・スタジアムの見学・・・・再会の楽しい時間が過ぎ行く中でも、ようし、やってやる!という闘志は片時も消えなかった。「そうだ、バルドゥビーダ人君。君ならできるぞ」ミンのお父さんはカツを入れてくれた。「きっと成功するわよ」お母様は優しい笑顔で励ましてくれた。 会談は明日だ。ただワクワクするような緊張感に包まれていた。 (なお、この辺りの詳細は旅行専門サイト『世界の窓』http://www5b.biglobe.ne.jp/~val/towns/frame.htm に詳しい)
2003年02月17日
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義理の弟は、自分のビジネスを起こそうと必死だ。彼は「コロラド・ランニング・クラブ」を主催している。(詳しくはYahooからこの名前で検索して、HPをご覧下さい) これまでアメリカ・コロラド州に何度も陸上選手を練習に連れて行っている。 今後は市場を韓国に広げて行きたい、という。「お兄さん、英語の通訳をお願いできません?」 2月は受験シーズンで、塾が最も忙しく、又、力を入れるべき時期だ。 彼は2月頭に選手をコロラド州ボルダ-に連れて行き、その足で韓国へ商用で入る。俺は2月中旬まで仕事の手を離せないので、逆コースで韓国へ上陸することになった。つまり、彼らの航路が日本ーアメリカー韓国ー日本なのに対して、俺はその全く逆を行くのだ。 ソウルの街は冬の足早な闇に包まれていた。冷えた北風に凍える指先をジャケットに突っ込み、身を縮めるようにして指定のホテルを捜して歩いていた。 「お兄さん」国を離れて初めて聞く日本語だった。逆コースの対面の瞬間だった。彼は日本人選手団を引き連れ、相手会社の社長と部下に接待される身分だった。 こうして通訳としての数日が過ぎた。多くのビジネスマンや大学教授、市民ランナー達とも会った。でも、俺の気持ちはどこか晴れやかではなかった。 何故だろう? 義理の弟は、本人は意識していないが、完全なSクワドラントにいた。周りはイエスマンで固めている。日本サイドは彼を頂点としたヒエラルキ-ができていて、俺に無言のプレッシャーが伝わった。勝手なまねはするな、個人プレーはするなという空気となって。 俺は外国人の友達を、非常に素早く作る才能(?!)を持っている。日本人と接するような礼儀正しさは外国人と接するときはかえって妨害となることが多い。彼らには「日本人は固まってばかりいて、心を開かない」と映る。俺は韓国側のボスと友人のように話すが、そうすると義理の弟のプロジェクトの軸が不明瞭になる。つまり大将がはっきりしないものとなる。自然と俺は引っ込まざるを得なくなる。「もっと心を開いて、形式を省いて、親密な人間関係を築け」と、彼らに対して心で叫びながら。 日本陣営はいつも固まってばかりいる。日本陣営だけで会話をし、笑い、別世界を作っている。 俺は孤立する。弟は王様をやっている。俺に気を回そうとはしない。それが王様の権威の表れなのだろうか。普段見ない弟の顔だった。
2003年02月16日
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モンゴル人から久しぶりに連絡が入った。彼女は相変わらずビザの件で悩んでいた。来月末には中国に帰るかもしれない、その可能性は日に日に強くなっていくという。どうにか日本に残るために、仕事探しなどで毎日が塞がっているらしい。「でもバルドゥビーダ人さん、日本を発つ前に会わない?今週の日曜日にゲーム会の人達と池袋でランチを取るの。ガチャガチャNBのSさん、そしてFさん達と」 雑踏の中を行き当たりばったりに見つけたのは、地下のイタリアン・レストランだった。 FさんはSさんのNBに参加したという。 「ならこれから外国で、ガチャガチャがどこに置いてあるか、見てきてあげます。そのために特別に時間を取ることはできませんけど、道行く中で見かけたら、場所をメモしときます」俺は提案した。そして一呼吸置いて続けた「俺、NBに中立でありたいんです。NBの有効な組織作りや相互扶助的システム作りは大いに学ぶことはあると思うんですが、もし私がどこかの組織に入ってしまったら、かえって交流の輪が狭くなると思えるんです」 彼らは俺やモンゴリアンを勧誘する気はあまりないように見えた。 Fさんはアメリカ留学から帰国してまだ数ヶ月しか経っていない。彼はアメリカで見た面白いアニメ番組の話を始めた。 「ディズニーランドを占拠して遊ぶ夢をもった主人公が、大金を貯めて、ディズニーランドを買い取ったんです。そして自由に遊ぶ。 ところが一人で遊んでも面白くないことに気づいて、友達も特別に入れた。それを追い出された人混みが柵の向こうから羨ましそうに見てる。 そしてコマーシャルを出したんです。『来ないで!』っていうヤツ。 そしたら、それを見た人達がかえって集まって来ちゃって、柵の外は大混乱。 こうして毎日二人で遊んでいるうちに、お腹が減っても食堂が空いてないことに気づいた。そこで食堂に人を雇い入れた。 すると、人を雇うためにお金が必要になった。今まであったお金はディズニーランドを買うために全部使い果たしていたので、やむ無く柵の外で見てる人から特別に一人だけ、入場料を取って入れることにした。 食事をするとゴミが出た。清掃人が必要だ。そこでもう一人有料入場者を入れた。 乗り物を動かすのに電気が必要で、電気代の請求がきた。それを払うためにまた有料入場者を入れた。で、今度は乗り物にメンテナンスが必要になった。機械工を雇い入れるのにまたカネが必要で、さらに有料入場者を大幅に増やすことになった。 そういえばパレードなどのアトラクションがないことに気がついた。ここでまた入場者を増やす必要性に駆られた。 さらに・・・さらにと続けていった結果、ついには元と同じ超混雑のディズニーランドに戻った、って物語だったんですよ」 これには面白くて、3人で腹を抱えて笑った。 さらに、Fさんは遊園地ビジネスを将来やりたいなあ・・・と発言した。「じゃあ、3人でやってみません?」俺が言うと、これが導火線になって、話が次から次へと繋がっていった。 本当に実現すればいいなあ・・・でもこのメンバーなら、実現しないとは言い切れないな、と心の中でニヤリとした。 「じゃあバルさんの帰国する3月14日に、また集まりましょう。話の続きはそのときに」SさんとFさんは言った。「でも、その日は大学時代の友人と約束があって・・・」「それなら、私がお友達に連絡を取っておいてあげる。みんなで会いましょう」モンゴリアンがそう言ったとき、さすがゲーム会で出会う人達は違うな、と心の中で思った。 時間がきた。いよいよ離陸前の準備をしなくてはいけない。これから1ヶ月、別世界に行く。これからお話するスケールの大きな話に、皆さんどうかついて来てください。
2003年02月10日
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「今度もしよければ、バルドゥビーダさんの特許の話が聴きたい、聴きたい!会っていただけませんか」ゲーム会で先週ご一緒した女性からのメールだった。 体験的に、こういうときは「臭う」。年末は結局、ネットワーク・ビジネスの勧誘だった。数年前は宗教の勧誘だった。その前も宗教だった。ネズミ講のときもあった。手堅く断ることもできるが、バルドゥビーダ星では人を一度は信頼してみるものである。もしかしたら、そういう「臭い」人ではないかも知れないじゃないか。本当に特許の話が聴きたい人かもしれない。臭わない人がいらん虚偽をかけられるのは不幸だろう。というわけで、信用してみようと決めた。 場所は上野のアメ横.最近行なっていることから将来のビジネス・プランに至まで、お互い割とまともな話をしていた。ただ・・・・今日は特許の話をするはずじゃなかったのかな?そうは思ったけれど、だからといって自分から話すことはしなかった。そもそも俺は、聞きたいというから来たのだから。 「で、バルさん」KW氏は思い立ったように言った「そういえば、特許の話、してくれません?」 俺は、大まかに話を始めた。はじめは気がつかなかったが、一分もすると気がついた。この女、人の話、全然聴いてない。 うなずいてはいるけど、それはどこか「早く話をやめてくんないかな」と心の中で思っているときに醸し出す、形だけのうなずきと泳ぐ視線。 「ふーん、なるほど・・・」彼女はそっぽを向きながらそういい終わると、こっちを向いた「ところで、私ね、異業種交流会っていうのこの前行ってね、とっても面白かったのよ。ぜひバルドゥビーダ人さんにもお勧めよ。あなたは特許やってるから、きっと面白いと思うな」 「ふーん、なるほど・・・」俺はそっぽを向きながらそういい終わると、言った「それって、ネットワーク・ビジネスと関係ない?!」 「ないわよ」 「おかしいなぁ・・・・知り合いにNB関係者がいるんだけど、彼も異業種交流会に来ないかと言ってたよ」 「そりゃ、中にはNBやってる人もいるかも知れないけど・・・」 結局、問い詰めて見ると、やっぱりNB。 この場で席を立って帰ろうかと思った。 ところが、さすがに気配を感じたのか、彼女はもっと話をしたいという。 「でも、言っとくけど、NBの話だったら御免だからね。その話以外にしてね。いいね。俺はやらないから。いいね!」 うん、と確かにうなずいた。しかし・・・・どうにかNBの話に戻ろうとするのがミエミエだ。 この女!俺の中の一切の信頼が消えた。「特許の話がしたい」などといってここまで呼び出しておいて、最低だと思った。 「さっき言ったよね。俺は君の言う会合にはいかないからね!」 NBをやっている皆さん。何か参考になることがあったのではないでしょうか。
2003年02月08日
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いつもの池袋の飲み屋は、いつものように学生が多く賑やかだ。「バルさんがやる気があるなら、僕は協力するよ」 向かいのYさんがグラスを傾けると、お湯割りの梅がゆっくりと泳いだ。 俺は黙っていた。「このビジネスは、相手に頼んでやってもらうものではないからね。成功するのは並大抵なことじゃないし」彼は焼酎を一口すすった「でも、本気でやるのなら、アップとしてバルさんを引き上げるよ。ケンケンさんと3人で、一緒に成功しようよ」 Yさんを今日まで見てきて、この人の言葉は信用置けるし、もし俺がNBをやるなら、ラインの信頼度ではここ、システムではNWとふと考えている自分がいた。 先日のセミナーの帰りの電車だった。Yさんは俺とケンケンさんに、半年後のはっきりとした金銭的な目標額を決めようと提案した。「誕生日が7月31日なので、この日までに不労所得を、30万起こします」俺は宣言した。ケンケンさんはNBで、俺と同じ額を作ると言った。「二人が30万なら」ガタゴト揺れる車内で、つり革につかまりながらYさんは言った「俺は60万にしよう」「えっ、そんなに高い設定するんですか?!」「だって、俺の方が二人よりもNB始めて長いもの。 それじゃあバルさんの誕生日までに、ケンケンさんとバルさんは30万、私は60万の不労所得を作ることを、お互い約束しよう」 焼酎の梅割りはお代わりされた。俺はパクついていた箸を置いた。「俺、言っておきたいことがあるんです。何故、ここまできてサインアップをしないのか。 もしNBを始めるなら、Yさんのラインで決まりかなと思います。もう一つシステムのいいヤツもありますが、俺がどれだけ学べるかという観点からでは、アップの方ともたくさん会わせて頂いたし、多くを学べることははっきりと分かりましたから。 でも、それでも私がNBを、あくまで『学ぶこと』に重点を置いて考えたなら、必ずしも入会する必要はないと思ってます。 そしてもう一つの理由。それは、アメリカです」 Yさんは新しい焼酎をたしなみながら、黙って耳を傾けている。「帰国して6年が経ちますが、アメリカは私にとって特別な国です。3年間住んでいた思い入れがあって、バルドゥビーダ星を出てきてからは、生まれ育った日本の次に、地球では第2の故郷なんです。 太平洋は広い。しかし、俺にとって太平洋は、実際の距離以上に遠くなってしまった・・・・」俺は低い天井を見上げた。 生活基盤は出来つつあった。志半ばの帰国だった。それから今日の日まで、「現在」をロサンジェルスに残してきたままだった。「そんなときに、Kさんの言うように『向こうでもNBをやれ』と言ってもできません」
2003年02月05日
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そうしてYさんに連れられ、東京都下にあるセミナーに参加したのであった。ここは新宿のKさんよりさらに上の、「成功者」がいるという。Yさんはいつも言っている。「僕のラインは、成功者が身近にいるのが最大の強みです」何でも、これほどの「成功者」は、大型スクリーンでしか見れないらしい。それはYさんの世界=NBでのことであって、さらにライン関係のあるYさんにとっては大きなことだろうが、外部者の私にはもっと中立で客観的に見ることができるのではないかと思う。ところでケンケンさんは私と同じ、いわばキャッシュフロー・ゲームのYさんの弟子である。この人は、「一足先に」NBに入会し、Yさんのダウンになったのだった。彼も一緒にこのセミナーに参加した。セミナー会場は「成功者」の家だという。彼らは「月収x千万」も取っているという触れ込みだが、会場は元パーマ屋の普通の家だった。OHPが燈されると、またしても目の大きいKさんの会社案内から始まった。この人の説明は催眠術より強烈で、俺は起きていることだけに神経を集中させた。そして成功者が現れた。三人続けて話をされた。感動で動けなくなるとはこういうことを言うのだろう。もしも俺が、自分の考えを持たずに安易な姿勢でいたら、ここで即サイン・アップしていただろう。確かにこういう「メンター」と共に過ごす時間は有意義であり、Yさんの言うことは最もだと思った。その「成功者」のうちの一人と、セミナーを終了後にお話する機会があった。落ち着いていて威圧感がなく、「アップ」だからといって肩で風切る動作もなく、丁寧な対応には感銘を受けた。しかも重みと強さがある。この落ち着きと強さは、経験者でなければ持つことのできない重みだった。評論家では到底こうはいかない。ここでもやはり「今日サインアップしてっちゃいなよ」と言われたが、「私には、ある考えがあるので」と丁重にお断りした。ここまで圧倒的な何かを目の前にした以上、俺はせめてYさんにだけでも、その「ある考え」を話しておきたいと、真っ暗の窓の外を見やりながら、東京への電車の中で思った。
2003年02月02日
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