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話は戻る。京都滞在5日目ともなると、どこかへ出かけたいという欲求も薄れてきて、朝8時に目覚めたときも、このまま起きて支度しなければならないとは思わなかったが、新しい部屋の風景や枕や布団の感触に馴染めないせいか、あるいは昨夜の宴会の印象が脳裏にまだ残っているせいなのかは知らないが、ふたたび眠りにつくことが非常に困難なように感じられた。寝付かれぬまま寝返りを繰り返しているときにふと、こすりつけの家に遊びに行く、という約束を昨日していたことを思い出した。酩酊した上での約束事だから、お互いにあてにしているわけではないだろうが、約束として思い出してしまった以上、ちゃんと遂行するかそれともめめるかは、きちんと判断し、そのことを伝えなければならないと思っていた。それにしても昨夜あれだけ飲んで帰りも遅かったというのに、どういうわけか体調はすこぶるよい。アルコールの毒素が、笑いやリラックスで浄化されたのかもしれなかった。三条大橋西詰先斗町下ルのお好み焼き屋「幾松」を出た我々は、河原町通りを南下したところのカラオケ屋に入った。フランスがいるから、この集団の2次会は必ずカラオケになる。宴会に際して何も働かない上に、必ずといっていいほど遅刻してくるが要求だけは多い、といった暴君ぶりを如何なく発揮しているフランスは、我々組織の最高意思決定機関だ。フランスはタバコを加えたまま、誰かの青いロードバイクにまたがり、ハンドルをゆらゆらさせながら不器用そうに漕ぎ出し、「やっぱドロップハンドルはええなあ!!」という意味のことを連発していた。その道すがら、住職がフランスの後ろに付きしたがっているのは、フランスを慕っているわけではなく、自分のロードバイクが壊されたりしないかどうか監視するのが目的だったからだろう。カラオケでは、誰も最初に歌おうとはしなかった。とんぼりやこすりつけは、モニターの方で固まったままなにやら真剣に議論をしはじめた。どんなことを話しているのかと思いそば耳を立てたときに交わされていたその内容が、なぜ男はおねいちゃんが好きか、というようなテーマだったから呆れたが、少しだけ参加した。こすりつけは酒量も喋りも人の常識の範囲を超えていて、「リヴィラヴィタ・ロカ」を歌うときの声がものすごく枯れていた。オレはこの曲を歌っていた歌手の名前がここまで出ているにもかかわらずどうしても思い出すことができなくて苦しい思いをしていたが、次にカラコが「だんご3兄弟」だか「めだかの兄弟」だかのような童謡を歌いだしてしまったため、何を思い出そうとしていたのか忘れた。オレがへたくそに「希望の轍」などサザンの曲を歌ってフランスに繋げて得意そうな顔をさせるのはいつものパターンだ。DVDで熱唱の模様を惜しげもなく曝した「白い恋人たち」を歌うよう要求すると、「ギャラ無しでうたわれへん」とのたまったからだった。フロントからの電話で時間終了が告げられた。その電話をとるのはいつも扉の近くに位置していたカラコだったが、カラコは無条件にフランスに伺いをたてて、終了か延長かは全てフランスの気分次第で決定した。奥まったところで真剣そうな表情で議論し続けていたとんぼりは、終了間際に「星屑のステージ」を3回立て続けに歌ったが誰もそのことに気付かなかった。永遠に続くかと思われた宴会はいつの間にか終わっていて、気付くと我々はすでにシャッターの閉まった夜の繁華街に放り出されていた。何を話したとかそういった細かいことは覚えていなかったし、このメンバーで思い出す必要があるほど重要な話をしたというのも考えられない。手当たり次第に抱擁を交わし、別れを惜しむようなふりをしたが、それほど惜しいわけでもなかった。またすぐに、会えるからだ。というようなことを考えているうちに、いつのまにか眠ってしまったようだった。時計は10時になろうとしていたから、もう2時間近く寝たことになる。二度寝は非常に快楽的だが、アタマにもカラダにもキレが無くなってだらしなくなる。不慣れな電車を乗り継いで、大阪まで行く気力が削がれてしまった。こすりつけに「お宅訪問、明日でよい?」というメールを送った。「かまわん。明日なら嫁もいる」こすりつけがカラコを「嫁」と呼んでいことが、なんとなく新鮮で衝撃的だった。
2004.05.24
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GWの興奮冷めやらぬ5月上旬、先月までの残務を処理すべく客先に赴き作業を始めること小一時間の後、1本の電話を受けたキュートな銀行員がオレの隣にやってきて、「井上さん、この表見て、おかしいところわかります?」といった。我々のシステムが吐き出した帳票には、支店別の優劣の判断基準となる順位や偏差値などが記されていて、それを目安に本部から、成績の悪い支店には、改善のための指示が下されたり、統廃合やリストラの分析に使われたりしている。キュートな銀行員が出した表の、「不備」という項目の該当件数は「0」だった。不備が0というとこが「優秀」だということは、日本語を理解できれば容易に判断できる。ところがこの店の「不備が0件」の偏差値は、42とかそれぐらいを示していた。偏差値は分布の中心が50だから、42といえばは平均よりも下回っているということで、しかし不備が0なのにそれはありえない。システムの障害だ。致命的なミスだが、何十ものチェックを経てすでにこの表は営業店に配布されている。「不備が0なのに偏差値が低い」ということに、営業店が気づき連絡が届いたからタチが悪く、障害報告が上げられ、いくつかの業務がストップし、我々には早急な対策と、責任問題と、再発防止への対策と反省などが課せられる。最低でも2週間は検証に必要な作業量だが、障害であるため即日対応を求められているというジレンマの中の妥協点として、3日でやれ、という命令が下され、当然オレ1人では無理なので2人増員し、さらにキュートな銀行員も通常の業務を停止させてこの検証につきっきりになった。4,5人がかりで終電間際まで作業し、ようやく検証が終わろうとしていたそのとき、想定していた回答と、帳票の結果がどうしても一致しないという問題に直面した。その調査や原因把握にも時間は奪われた。また一つ、障害が見つかった。その対策と対応にも当然時間は奪われていった。客からの信用も失われてゆく。具体的には、我々の作業内容や手順に誤りがないかどうかということを、客は逐一知りたがった。その報告のための資料や検討会のための時間も必要だった。そうして奪われてゆく限りある時間で、徹夜での作業が禁止されていて、タクシーチケットも使えない制約などが課せられた中で、これ以上信用を失わないために期限厳守であることと、完璧なシステムを提示するためにどうしたかというと、「集中」した。この障害を連発するシステムの構築には、オレや他の作業員はほとんど関わっていない。そのため設計段階から調査を始めなければならなかった。非常に非効率だ。しかしこのシステムの担当者たちはすでにチームを離れ、次の仕事に取りかかりはじめている。緊急時だとして呼び出してもまたすぐに抜けてしまうから役にたたないし、そもそも金が出ない。それに残された我々もノウハウを蓄積してゆかなればならないから、その妨げにもなる。担当した仕事ではない障害の復旧をやらされているという「被害者意識」は、ここ数日のストレスの一因ではあったし、「彼ら」の投入を拒む体制を呪ったりもしたが、それらマイナス側へ向けられた感情が、オレに極度の緊張や集中をもたらしたし、その連続に耐えるための麻薬としても作用したといっていい。まだいくつかの残務は残っているものの、トラブルを吸収した上で5月の仕事の帳尻は合った。経営側から見た予算配分は赤字かもしれないが、オレの知るところではない。ただいえることは、わずかな利益より重要であろう「信頼」や「評価」を獲得した、ということだ。つまりここ数週間、忙しいながらも充実していた。
2004.05.17
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とんぼりとこすりつけは額をつき合わせて話しこんでいる。特にこすりつけは「議論」をしたがっているようで、前からもAraiの首を抱いたまま2時間以上説教したり、語りたがっていた傾向はあったものの、ともすればタチの悪い酔っぱらいという評価だけが残る危険性をも孕んでいたから、それが議論と呼べたものかはどうかは意見が分かれるところではあった。ところが今日話してみて気づいたのは、こすりつけの、言葉の使い方が非常に丁寧になっている、ということだ。丁寧というのはたとえば「さしあげたとしますでしょう」とか「おっしゃるとおりでございます」といったバカ丁寧という意味ではなく、とちらかというと言葉が「正確」といったほうが近い。「関西の満員電車は、扉付近に立っている人が、停車駅で一旦降りて、他の客が降りるのをスムーズにさせる手助けをする習慣がない。」という意味のことをこすりつけは、ほぼこの文語体と同じ言葉の使い方で伝えるのだった。多少くどい気もするが、オレは嫌いじゃない。反対側ではフランスとコビックが、大きな身体を2つ並べて密談をしていて、ときおり肩やわき腹などを叩きあいながら大笑いしている。コビックの場合、軽く叩いたつもりでも相手に大怪我をさせてしまうことがあり、素人が近づくと危険だ。コビックにたいして物怖じすることなく接することが出来るのは、この中ではフランスだけかもしれない。一般人なら卒倒してしまうぐらいのスピードと破壊力をもった掌底の応酬から、次第に関節技へと発展していった。2人の大男が暴れることによって、畳はばたん、ばたん、という音を立て、情緒ある古い店の建物は柱がきしみ、全体が揺れ、今にも倒壊しそうだ。この騒ぎを不審がった客が2階からおそるおそる降りてきて覗き込み、引き返したりしている。それでもかすりの作務衣を着たウエイターは焼きそばやビールを無表情に運んでいる。戦国武将は今でいうところの政治家だが、新撰組やあるいは坂本竜馬、桂小五郎といった幕末のヒーローは、政治家というよりも「剣術使い」だった。そして当時の剣術使いは、今でいえばスポーツ選手にあたるのではないかと思っている。格闘家やたとえばプロ野球選手といった、才能に恵まれ技術を修得した肉体の芸術家と、かつての剣客には、通じるものがある。新撰組隊士が宿泊していた「八木邸」を訪れた際に、この当時からある武家屋敷はみな天井が低く設計されているのは、乱入した刺客が刀を振り回させまいとしたことによるものだった、という説明を受けた。なるほど手を伸ばせば届くほどの低さで、この環境下で刀を振り上げたらすぐに天井に突き刺さってしまうだろう。帯刀を禁止されている現代においてはそのような心配は不必要だが、フランスとコビックは素手での殺人が可能で、彼らが暴れるのを防ぐためには、座敷をもっと狭くするなどの工夫が求められる。フランスとコビックの力関係は拮抗していてバランスが保たれている。コビックはウエイトコントロールの甲斐あって、俊敏さと跳躍力が格段に増している。ウエイトコントロールを放棄した重量級フランスの腕ひしぎ逆十字にホールドされたら2度と振り払われることはない。2人の大男による格闘を見守っているのはカラコだけで、あとはそれぞれのバカ話に熱中している。この組織を新撰組に喩えるならば、フランスが近藤勇で、コビックは土方歳三というところだろうか。とすればオレは、伊東甲子太郎である。気づくと山盛りで運ばれてきた5kgほどの焼きそばがきれいに無くなっている。オレはもう少しこの場にいたいという気持ちもあったが、とんぼりが「ほなそろそろいこか」と号令をかけると、全員がすばやく立ち上がった。組織としての統制は完璧だ。表はすっかり暗くなっている。先斗町界隈は、街の明かりが控えめだ。
2004.05.06
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「がまかつとかな、ポスタルとかな、リンボウとか、中村おまえもそうや。関東の人間見てるとな、ようやるわと思うんや」真顔のこすりつけが落ち着いた声のトーンで話し始めた。視線は鉄板のあたりを見つめていて、「中村おまえも」というところだけオレの顔を見る。自然と周囲はこすりつけの話に集中する。とんぼりはお好み焼きをつつきながら神妙な顔つきになっている。アタマの中も神妙かというと、そうでもなさそうだ。アイボクはあぐらをかいていても、正座しているように見えるほど座高が高い。ツッコミどころがないと判断したのか杖レは、コビックチームに行きたそうなそぶりをみせた。オレを介してしかここでは共通の話題がない嫁はこすりつけに深刻そうな顔を向けている。嫁は「落ち着いてる感じ」とこすりつけのことを評価しているが、なるほどそういえばこの頃「落ち着き」を前面に押し出そうとしているようだ。オレは今日、「関東の人間」という言葉をよく耳にしている。田舎へ行くとよく聞く「東京の人間は」とか「東京もんは」といったような言い方には、洗練されたイメージへのコンプレックスや、「村」のような共同体への帰属意識の薄弱さからくる身勝手で自己中心的なスタイルへの軽蔑などが含まれていると思うが、そういうことと同じなのだろうか。オレは関東「出身」ではないから、厳密には「関東の意識」のようなものはわからないかもしれないが、関西の人間が「関西」に対して東京近隣のことを「関東」と呼んでいるほど関東の人間は、「関東人」としての同族意識は持っていないと思われる。こすりつけは続ける。「関東の人間はな、自転車でようクルマにケンカ売りよるやろ。そんなことこっち(関西)ではな、ようできひん」オレはたまに、クルマからクラクションを鳴らされるとアタマに血がのぼり、全身に怒りが溜まり、暴れだしたくなることがある。ひどい時には本当に暴れてしまい、クルマのわき腹を蹴ったり、ボンネットに飛び乗ったりしてしまうことがある。ヒステリーという病気の発作だと自覚はしているが、なかなか治ってくれない。もっとも、治そうという努力もあまりしていない。こすりつけが言うには、そういったトラブルを、関東の自転車板出身の人間が頻繁に起こして今のところ無事に済んでいるが、関西で同じことをしたら、まず間違いなく「ただでは済まされへん」ということらしい。「クルマに乗って気が大きくなって(クラクションを)鳴らすちゅうのもある。しかしな、圧倒的に多いのはな、肉体労働者の『来るならきてみろ』、ちゅうやつや。そんなのにケンカ売ったら、間違いなくボコボコにされるで」こすりつけは「肉体労働者」という言葉を使ったが、体力が有り余っていて気性の荒いタイプの総称、という意味だろう。関西は東京に較べて、治安が悪いのだろうか、ということを考える。東京では、トラブルになると二言目には「じゃあ警察いこうか」となる。後ろからクラクションを鳴らしてきたバイクに怒鳴り散らしたとき、オレも「警察いって話をしよう」といわれてのこのこついていったことがあるけれども、バイクの男は、ただ警察官に話を聞いてもらい、「クラクション鳴らしちゃいけないの?」ということの確認をしただけだった。バイクの男の理屈はこうだ。「クラクションを鳴らしてもいいことになっているのに、鳴らしたら怒鳴られた。なぜ?」これは東京独特の理屈かとも思う。身勝手なことをしていながら、トラブルになったら自分で解決しようとしない。理屈通ってるから、いいじゃん。こすりつけの言葉が耳に痛い。飲み放題ではないのに、5杯10杯単位でビールジョッキがオーダーされ、空いたテーブルに並べられる。全員が競うようにして飲みほし、黄金は矢継ぎ早に消費されてゆく。そういえばオレは京都に来て、清水寺や金閣寺や嵐山を見てきた感想を伝えたいと思っていたし、話題はそういう方面へ向くと信じてこの宴会に臨んだはずだった。ところが彼ら関西人にとって、そんな話はどうでもいいらしい。一番しゃべりたい奴が、一番話したいテーマを話す。自己主張が足りないのかもしれないが、「オチ」のないのが引け目になっている。行程を延々と述べるだけの旅行の話にオチなんかない。全てを話し終えた後の彼らのリアクションを想像し、話すに話せなくなっている。どちらかというと、話を振られるのを待っている。見るとアイボクも、座が自分の話題になるのを、じっと待っているようなふしがある。この感覚は共有できるかもしれない。わずかながらアイボクにたいして、同族意識が芽生えつつある。するとフランスが、「京都のどこまわってきたんや?」といった。眉毛をへの字にして、オレを見下したような顔をつくっている。本当にどこを廻ってきたのか、知りたいわけではないだろう。「からかいたい」「おちょくりたい」そういうメッセージが顔に書いてある。顔がそういうつくりになっている。「ああ、話すと長くなるけど、、」「ほんならええわ!!」
2004.05.05
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6人が横に座れる縦長のテーブルが2つ並べられている1階の座敷席に一つだけ残ったテーブルはどうやら配膳のために使われるらしく、つまり10畳ほどの宴会場は、我々に貸しきられるということだ。窓際の一番隅に迷うことなくとんぼりが座ると、その対極、つまりとんぼりから一番遠い位置にコビックが陣取った。積み上げられた座布団を背もたれにして不機嫌そうに腕組みをしながら、まずは会場全体を俯瞰している。この時点で、とんぼり・コビックを筆頭にした2つのチームが形成された。とんぼりチームは、端から時計回りに、オレ・嫁・杖レ・アイボク・こすりつけ。コビックチームは同じく、54号・住職・PCB。これにまもなく合流するカラコとフランスが加わると、両チームのバランスは拮抗しそうだ。とんぼりにケータイで誘導されたカラコがまず先に到着した。鮮やかな淡いピンクの服が目に飛び込んでくる。コンタクトではなくメガネをかけている。メガネが半分ずりおちていて、ちょうど目がフレームに重なる位置になっている。視線から感情を読み取られることを防いでいるのかもしれないし、「半分ずり落ちたメガネの女」という印象を演出しているだけかもしれない。カラコより先に最寄駅まで到着したはずのフランスがまだこない。オレのケータイが鳴り、フランスからだったが、「ちょっととんぼりに換わって」といわれるままケータイを渡し、とんぼりは巧妙な口さばきでフランスを誘導した。「ちょっと待って、今日全部で何人くんの?」縦長の座の最先端、「お誕生日席」といわれる位置に座っていたこすりつけが突然、中央コビックチーム側に座ったカラコにたいして言った。「12人」カラコが短く答えるとこすりつけは「あ?」と聞き返した。聞き返したのは、聞き取れなかったわけではなく、「その情報は正確なのか?」という意味にとれた。口調にはかすかに怒気がこもっている。「あと来てないのはにいちゃんだけやから、うん、12人。」確信を持ってカラコは再度答えた。「そんならなんで俺がこんな狭い席におらなあかんねん」こすりつけは真顔に怒気を含んだ表情のまま、「ほんだらおまえらもっとそっち行けや」と、アイボクと杖レに座席のスライドを言い渡した。平和的な交渉ではなく、いわば命令に近い仕打ちを受けても2人は笑いながらスライドしたが、最後までこすりつけの真顔は解かれなかった。これが東京だったら、例えばこすりつけは必ず、顔に笑みを浮かべていなければならない。とんぼりは必ず、「しかしあれやな」か、「ほんまあれやで」といってから話しはじめる。違う人種と会うのは面白いからこうやって飲み会にも顔を出すし、おねいちゃんともデートする、ということや、ネットでほんまもんのコミュニケーションがはかれるわけがない、やっぱりリアルで会うのが一番や、ということなど内容に違いがあっても、それが一律のトーンで話されるから、ともすれば本人が重要な話をしていても、全てが笑いに直結しているように聞こえてしまう。杖レは絶妙なタイミングで相槌(ツッコミ?)をいれ、それが限りなく不条理だったり想像力に富んでいたりして、座は刺激どころか衝撃に満ちあふれている。そういった、関西弁とスリルに満ちた会話の中で、我々のような東京からの旅行者がたとえば、「あのさあ」などと言うことで与える「ばかにした感じ」、「ひややかな目線」などといった印象は、むしろ我々自身が、痛烈に自覚していることだった。誰か一人がボールに入った具材をかき回し始めると、全員がそれにならった。暖まってきた鉄板の上に油をひこうとするのは、どういうわけかこの席では、口数の多いとんぼりや杖レ。口数と手数は比例するのかもしれない。じゅう、という音がして小麦粉が焼ける匂いが室内にたちこめようとしていたそのとき、カラコが「あ」といった。カラコの視線を追ったその先に、フランスがいた。次第に全員が鉄板から顔を上げたり、振り向いたりしてフランスに集中すると、フランスは立ったまま両手を広げ笑みを浮かべ、ポーズを作った。「体調不良」と称して観光案内の約束を蹴った割には、顔色が良すぎるとオレは思った。恨めしげなオレの視線に気付いたフランスは、悪びれた風でもなく、「体調がな、すぐれなかったんやてホンマ」といいながら、空いた中央の席まできて、堂々と座りこんだ。
2004.05.04
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「どこにおるん?ケータイ持ってる奴探してるけどどこにもおらへんで?なんでや。」待ち合わせ時刻きっかりにケータイが鳴った。とんぼりからだった。「河原町三条、三条大橋西詰南側」という詳細な場所を指定されていた。京都の地図を焼きつくほど読んでいたオレは、その指定された場所をピンポイントでイメージすることが出来きていた。三条通りから少し路地に入ったところに座って待っていたが、とんぼりが我々を探す視線は大通りに向けられていた。オレはケータイで話しながら立ち上がりとんぼりに近づいた。なおもとんぼりはオレに気付かず、あらぬ方向を向いている。50センチぐらいの距離になり声をかけると、驚いた表情で「おったおった」といいながらとんぼりはケータイをたたんだ。「なんや関東の人間は冷たいのう、こっち来たら来たで電話のひとつもいれてくれたらええがな、ほんま冷たいわ」まるで緊張感の無い口調でとんぼりは言った。だだしこの男が緊張しているところは見たこともないし、想像もつかない。橋の上、歩道のフェンスに沿ってとんぼりの奥に杖レがいた。ここで杖レに会うということが、なんとなく不思議な感じだった。浜松や嵐山でのフランスオフや去年の京都、それら主だった宴会に、この男はことごとく欠席している。杖レとは、彼がたとえば単独でレースに出場した後の東京で会うことのほうが多い。「広島ではエセ広島人よばれてるしな、大阪帰ってもエセ関西人やねん」と杖レは、土地にたいする自分の帰属意識の曖昧さを語っていたが、言い換えれば、どこに行っても馴染みやすいということだろう。杖レの後ろには、ラガーシャツを着た色白の男がいてちらちらとこちらを気にしていたから、オレはとんぼりや杖レに、紹介を求める目配せを送った。すると男はその気配を悟ったのか、自分から進み出てきて、「54号です」と名を名乗った。杖レの友人だということは知っていた。掲示板での投稿も読んだことがある。おそらく1度か2度、会話を交わしたこともある。照れくさそうにしながらオレも、「中村です」と短く名乗ると、あろうことか「ファンです」と言われたから、もっと照れくさくなってしまった。面と向かってそういうことを言われたのはもしかしたら始めてかもしれなくて、純粋に嬉しい反面、ファンの期待を裏切らないためには、どんな中村不思議を演じたらいいのだろうか、ということを考えたりして、呪いの言葉をかけられたみたいになって、どうしていいかわからなくなった。とんぼりや杖レが「おー」というような声を上げた。つられてオレも顔を上げると、でかいナリのコビックが、かなりの至近距離に立っていた。ボディーブローのまねをしてきたから、オレもそれに応えた。コビックのわき腹にオレの拳が触れた瞬間、違和感を覚えた。去年よりも、スリムになっているかもしれない。少し離れて見てみるとやはり少し、縦長になった印象を受ける。公開されている彼のハタチぐらいの金髪写真にはほど遠いが、モンベルのジャケットにナイキのトレイルランニングシューズというスポーティーなファッションもあいまって、だいぶサワヤカくんへのイメージチェンジに成功しているようだ。駅とは反対方向から、アイボクが現われた。最近は「ヤングチャーハン」と名乗っているらしいが、オレは彼の顔を見ても、「アイボク」という呼び名以外の名前が全く浮かんでこない。身長190を超えるこの「無駄にデカイ男」は、オレが知る限りの、オレがいない全ての「オフ会」や「宴会」に顔を出していて、カラコによるレポートや写真などで、よくその所在を目にする。学生だから時間があり余っているのは理解できるとしても、彼は日本中をかなりの頻度で移動していて、そのためには体力以外に経済力も必要なはずだ。学生という身分と、経済力の間を埋めるもの。これが彼の持つ謎のひとつになっている。ぎこちなく嫁を紹介すると、丁重な言葉を使ったり、深々と頭を下げたりするような挨拶が交わされた。自転車板で知り合ったこれら友人らが、仲間内には絶対に見せない態度だ。オレは他人事のようにその光景を眺めながら、こいつらがどんな顔をして仕事をしているのだろうか、ということなどを想像していた。ところで嫁は、関西人特有の「お笑い至上主義」的な価値観や、インターネット特有のハンドルネームでお互いを呼び合う習慣が嫌いだ。その点でオレとは意見が一致しないし、そういった意味ではおそらく、今日来る誰とも性質が違うと思われる。誤解や先入観によるところも大きいのだろうが、オレは他人の価値観を矯正したりしない。お互いの性質が違うという情報が共有できてさえいれば共存できると信じているからだ。それにタイプが違っているほうが、刺激になる。今日の嫁投入が、この集団にどんな刺激をもたらすか、あるいは全く影響しないのか、どうなるかはこの時点では、全くわからない。カラコとフランスから、「遅れる」という旨の連絡が入った。場所を移動しながら、他のメンバーを待つことになったのかどうなのか、とんぼりは一切アナウンスをしないからよくわからない。とにかく現時点で5,6人になっている集団は、目的地の宴会場へ向かって歩き出した。「ところで、場所どこ?」オレはとんぼりにきいた。「お好み焼き屋や。好き嫌いに関してめっちゃわがままな奴おるやろ、それに東京からわざわざ出てきてチェーンの居酒屋ちゅうのも味気ないと思ってやな、消去法でお好み焼き屋になったちゅうわけや」「好き嫌いうるさいのはフランスしかおらん」とは杖レ。先斗町(ぽんとちょう)先端あたりの入り組んだ路地裏には、揚屋建築の古い店がいくつも軒を連ねていた。もしかしたらこの辺一帯は、むやみに改築することを禁じられているのかもしれないと思った。とんぼりにケータイで誘導されながら、自転車に乗った連中がやってきて合流しはじめた。こすりつけは自転車から降りてコビックと話しながら、顔だけこちらへ向けて、なぜかにやけた視線をオレに送ってきた。「なんで中村京都やねん」とPCBに言われて、苦笑いを浮かべてしまった。観光で来ているという情報はあまり伝わっていないらしい。「住職はどないした」誰かが「住職」の所在を気にした。これもハンドルネームの一つだ。嫁は「住職?」と不思議そうな顔をした。杖レ側の人間であり、ということは広島あたりに住んでいるのだろうから、もちろんオレは面識がない。ネットでも、ほとんど会話をしたことはないだろう。ただし名前はよく耳にしていた。どんな住職が現われるのか楽しみしていると、坊主頭のいかつい顔、いかつい体格の男が、青いロードに乗って現われた。なるほど袈裟でも着せたら立派な住職になりそうだ。とんぼり、杖レ、54号、コビック、アイボク、こすりつけ、PCB、住職、オレ、嫁。現時点で10名になった集団は、まとまりなくそぞろ歩き騒ぎながら、古い店構えのお好み焼き屋へ入っていった。どういうわけか幹事のカラコが遅れていて、「特急に乗って今七条にいます、急いでます」というメールをとんぼりが受信した。その内容をきいたこすりつけが、「急ぐちゅうてもな、電車の中いったりきたりしとるだけやねん、それで急いでるつもりやねん」といった。フランスは、昼に電話した時点では「体調不良」ということだったが、おそらく飲みすぎで寝足りなかったのだろう。観光案内してくれる約束を蹴られてしまい、そのため伏見稲荷や御香宮神社にはいけなかった。危機管理として、フランスによる突然のキャンセルも考慮のうちだったとはいえ、東京からの旅行者を屁とも思っていないあたり、京都人の冷たさに触れたような気がして切なくなった。お好み焼きの材料はすでにテーブルに並べられている。一人ずつ遠慮がちに座席を選んでいった。ビールが続々と、運ばれてきた。
2004.05.03
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たとえばどの寺へ行っても、中には蛍光灯が一切なかった。光源といえば、開け放たれた扉やふすまから入り込む直接光か、障子を通した間接光のどちらかで、堂内は薄暗く、日が射す外との温度差もあいまって、ひんやりとしていた。正直なところ、オレは古い寺なぞを見てもなにもありがたいとは思わない。たぶん、「宗教」のようなものを全く信用していないからだと思う。木造彫刻に金箔をはりつけただけの御本尊に、ひたすら手を合わせてありがたがっていた昔の「民衆」は愚劣だと思っている。無知だから、与えられた知識や信仰にたいして、抗うことが出来なかったのだ。民衆は無条件に、寺の教えに従う。そうすると寺側は、望む望まないにかかわらず、「権力」を持つことになる。ということは、権力を持つために寺が「宗教」という方法を採用していた、とも言い換えられる。これを現代にあてはめると、昔の愚劣だった「民衆」に匹敵するものは今、「大衆」と呼ばれている。政治批判やエンターテイメントなどを、無条件に受け入れてありがたがっているあたり、群衆の愚劣さは何百年経っても変わらない。その昔、寺が果たしていた役割は今、マスコミが担っている。宗教は、大きくわけて「言葉」と「芸術」で出来ている。お経が「言葉」、仏像や神殿が「芸術」だ。アナウンサーは「言葉」でもって、事件を伝えたり、政治を批判したりしている。歌手が歌を歌い、映像は美しく伝えられる。メディアが「宗教」だとは言わないが、メディアにひきつけられている大衆が持っているのはあきらかに「信仰」だ。オレにとってメディアがそれほどありがたいものではないのと同等に、古い寺も、それほどありがたくない。ひんやりとしている寺の中で、観音像かなにかを眺めながらオレは、この外と内との気温差をしのぐために、ここで暮らしていた坊主たちはどんな服を着ていていて、それがどんな機能を持っていたのかということなどを想像した。時の権力者や暗殺者どもが、光量の足りない屋根の下で、猛る血をかかえながらそれをどんな気持ちでセーブしたり発散させようとしていたのかということを想像した。照明のない夜を想像した。闇は恐怖に直結する。恐怖に打ち勝つために例えば男は、血を躍らせる必要があったのかもしれない。殺人や支配への欲求は、そういった切実な闇への恐怖からくるものなのかもしれない。暗く寒い寺の堂内でそんなようなことを考えた。寺がオレに与えるのは、不安とか恐怖とかそういうものだ。だだよう香の香りが、かろうじてむずむずした感じ、血のたぎりとか暴力衝動とかを、少しだけ抑えてくれているような気がした。
2004.05.02
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5/1○西本願寺 宿から徒歩5分。新撰組が軍事訓練していたところ。改修中。 門もお堂も限りなくでかい。拝観無料。○壬生寺 新撰組の前身、浪士組が最初に屯所としたところ。 近藤勇像、芹沢鴨の墓アリ。 連休初日の午前中でも観光客が絶えず、タクシーはぷっぷ ぷっぷ鳴らしながら蹴散らして走る。隊士の墓がある壬生塚 は10人入ると身動きがとれないような狭さ。○八木邸 新撰組隊士が宿泊していた武家屋敷。芹沢鴨暗殺時の刀傷 アリ。入場料千円払って邸内へ入るとガイドが詳細に説明して くれる。常時30名ほどの客が入れ替わるほど大盛況。 連休中日などのピークには、とんでもないことになりそうだ。 抹茶、大福付。○前川邸 古高俊太郎が土方歳三に拷問されたことなどで有名な場所。 普段は一般公開されていないが、この日は展示品が飾られて いたり、土産物が売られていたりした。 前川邸だけではなく、この辺の通りに並ぶ軒先全てに「誠」と 書かれた旗が掲げられ、新撰組一色になっていた。○金閣寺 足利将軍の別荘。 金色に塗られた本堂(?)は全く嫌味ではなく周囲の景色や緑 にマッチし、全体の調和が整っていて美しい。 権力と芸術が結びつき、行き着いた先、という感じ。○仁和寺 天皇ゆかりの寺。世界遺産。 広大な敷地に古いお堂や五重塔などが点在。 あまり観光スポットらしくなく、宮殿から庭園を眺めながら ぼんやりしていると、なんとなく京都に来たという気分が 高まってくる。○嵯峨野・嵐山 渡月橋から人力車で竹林、野宮神社、落柿舎、天竜寺。 嵐山ホテル、美空ひばり記念館などがあるたたずまいが 懐かしい。駅へ帰る途中に居酒屋「八剣伝」発見。感慨。5/2この日は夜、宴会がある。旅行中、関西に住む友人らに一度は会いたいというリクエストをした所、カラコ、とんぼりなどが尽力し、10人ぐらい集まってくれるという。○東寺 嫁が東寺のがらくた市に行きたいというので、わけもわからず ついていったのが間違いだった。リサイクル着物を売るテント にへばりついてはなれようとせず、1時間近く経過した。 仕方がないので、仕事が休みだといっていたフランスに電話 し、寺田屋にでも連れていってもらおうと思っていたが繋がら ず、ようやく繋がったと思ったら「体調不良」とのこと。 全く使い物にならない。 着物を買いすぎた嫁がようやく戻ってきて一旦宿へ。 もう昼飯時。○木屋町「鶴清(つるせ)」 川床料理。鴨川の河原に沿った店の2階テラスが「川床」。 本来納涼のための施設だと思うが、この日は風が強く肌寒い。 とはいえ、ガラス製の器に上品に盛りつけられた京料理は、 見た目も味も○。○京都ウインズ 祇園のど真ん中にどういうわけか、場外馬券売り場。 天皇賞(春)の馬券購入も、大外れ。○祇園 「火サス」によく出てくるような街並み発見。 古くて高級そうな旅館や料亭が立ち並ぶ。○池田屋騒動址 パチンコ屋の前に、石碑がぽつんとある。 人の往来が激しく、撮影に苦労した。○長州藩邸跡、桂小五郎像前 昨日も円山公園で、竜馬像と一緒に写真を撮った。 ここでも迷うことなく、小五郎と一緒に収まったが、このノリで 行くと上野の西郷さんとも一緒に写らなければならない。 奇妙な感じだが、観光者なのでひらきなおってもいる。 新撰組隊士の名前が書いてある、赤いTシャツを着ている。○河原町三条 午後6時、そろそろ宴会が始まる時刻。 電車や自転車で、続々と人が集まってくる。 とんぼりは会うなり、 「関東の人間は冷たいわ、こっち来たら来たで電話の一本も 入れてくれたらええがな。観光案内ぐらいしてやるちゅうねん」 それを真に受けて本当に連絡した場合、「無遠慮なやつだ」と 思われてしまいかねない京都の文化も、予備知識として仕入 れている。この時点ではまだ、どういう対処をしたらいいかわか らない。やがてお好み焼き屋へ行き、ほどなく酔っぱらうが、 それは後述。5/3観光初日などは、午前8時には出かける支度が整っていたが、だんだん朝が遅くなってゆく。前日に宴会があったこともあり、この日は11時ごろ、ようやく出発。○下鴨神社 平安京とかそれぐらいの時代からある京都の中でも歴史の古 い神社。ちょうど流鏑馬(やぶさめ)が行われていた。 古式ゆかしい儀式なぞながめつつ、待つこと一刻(にじかん)。 馬、極端に幅の狭いダートコースを、ものすごいスピードで疾走。 馬上の旗手、矢をつがえ弓をしぼる。 「いよう」と奇声を上げ的を射る。 沸きあがる歓声。○銀閣寺 金閣寺は金色だが銀閣寺は銀色ではなく、近くで見るとただの あばら家。ただ丘から銀閣寺を見下ろし、遠くに市街地を望む 景色は風流。まさにわびさびの世界という感じだが、連休なかび 晴天に恵まれ、そのため大混雑・大渋滞で、わびもさびもなにも なし。すでに夕刻、疲労も蓄積していて、我々はここでこの旅行で 始めて市バスを使うことにした。ところがバスは満員の大混雑、 道路も大渋滞で、そのうち気持ち悪くなってきたので途中下車し 地下鉄へ。混雑や渋滞、疲労の蓄積などの原因がかさなり、 かなりのペースダウン。5/4この日は自由行動。○カラコとこすりつけのお宅訪問 京都から30分程度と聞いていたが、乗り継ぎや接続が悪かったこ となどから、京都から枚方まで1時間近くかかってしまった。 雨の中、レインコートに傘ゴム長姿で現われた2キッズは、 半年前とそれほど変わっていないようにも見えた。 ただし格段にアップしていたと感じたのは「統制」。 集団の命令系統や、個人としての役割分担がはっきり形成 されていて、ほとんど無駄がなかった。 おみやげとしていくつかのおもちゃを持っていったが、 すぐに飽きられた。 将棋やオセロなどは、少し気が早すぎたのだろうか。○司馬遼太郎記念館 せっかく大阪へ来たのだからということで、こすりつけに場所を 調べてもらった。枚方-京橋-鶴橋-小阪 というような経路を移動 したが、電車がどこをどう走っているのかさっぱりわからなかった。 記念館は閑静な住宅街の中にあり、注意して探さなければたどり 着けなかった。展示室には、図書館なみの量の本、とにかく大量の 本が飾られていた。それ以外見るべきところはなにもなく、 グッズをいくつか買って帰ったが、 幕末史跡めぐり旅行としては、 完璧なラストを飾れたのではないだろうか。 それにしても見知らぬ街の駅や電車はかなり心細かった。5/5○荷造りして宅配便で送った。○昼飯を摂り、新幹線に乗った。○東京へ着き、京都旅行が終わった。 「やっぱり家が一番」 ともそれほど思わない。とにかく無事に、帰ってきました。
2004.05.01
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