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クロニクル 丸の内に三菱1号館竣工1894(明治27)年12月31日当時の丸の内は雑草生い茂る錬兵場の跡地でした。この地にこの日、日本で最初のオフィスビルとなる、赤レンガ造り地上3階、地下室ありの三菱1号館が竣工したのでした。4年前に同地を購入した三菱は、「丸の内建設計画」を立案、1892年1月に1号館の建設に着手、ほぼ3年を費やして、この日の竣工を迎えたのでした。設計はイギリス人建築家のコンドルと、彼の弟子の日本人曽禰達蔵でした。面白いのは、ビルの賃貸区分で、フロア毎に貸し出す形式ではなく、建物を縦割りにして、夫々に出入り口を設ける棟割長屋形式が採られていたことです。イギリス風の赤レンガ造りであることに加え、明治政府の殖産興業政策の成果で、産業革命の始期にさしかかっていたこともあって、このビルは人気を呼び、入居希望が殺到しました。三菱の思惑は見事に当たったというわけです。この後、1911(明治44)年までに丸の内にはレンガ造りの三菱ビルが18棟建設され、いずれも満室の盛況を見たのでした。丸の内オフィス街と、三菱村の誕生秘話でした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, December 31, 2006 9:37 AMSubject: 31日の日記
2006.12.31
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クロニクル 防衛費対GNP比1%を突破 1986(昭和61)年12月30日 この日開かれた臨時閣議で、政府は62年度予算原案を 閣議決定したのですが、そこでの注目点は、防衛費が GNPの1%枠を超える1.004%となったことでした。 膨張する防衛予算にどこで歯止めをかけるかは、当時の 世相の中では、大きな国民的関心を集めており、 1976年に当時の三木内閣は、防衛費の歯止めをGNPの 1%を超えない範囲とすることを閣議決定し、それを 内外に発表したのでした。当時の日本経済は第1次オイル ショックからの回復過程にあり、GNPが増える範囲での 防衛費の伸びは可能なわけですから、厳格な防衛費の緊縮 予算とは趣が違うのですが、ともかく政府自らが目安を 発表したこと自体が評価されたのでした。 中曽根内閣はこの三木内閣の精神を踏みにじり、GNP比 1%枠の突破に全神経を集中したのでした。 ここに、「日本は将来ともに、軍事大国にはならない」という 「平和の国日本」の国民的合意のシンボルは、突き崩された のです。 戦後も41年が経過し、戦争の記憶を持たない世代が圧倒的に なる中、政界を取り巻く空気も大きく変わりつつあることを 明かにした一齣でした。
2006.12.30
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クロニクル 日経平均史上最高値をつける 1989年(平成元)年12月29日 この日、東京証券取引所の日経225平均株価が、 38915円87銭という史上最高値で引けました。 87年10月のNY市場のブラックマンディの衝撃を 僅か2ヶ月で克服した東京市場では、翌88年12月には 日経平均が未踏の3万円台に突入する活況を呈し、 特定金銭信託やファンドトラストという聞きなれない 言葉を連発しながら、平均株価は5万円まで上げ続ける という、根拠のない神話が信じられるユーフォーリァ現象を 呈し、この日の大納会は、史上最高値を記録して終えたの でした。 90年大発会の始値は、この値を200円も下回る38712円88銭、 これが、90年代どころか、今日まで超えることが出来ない、 その後の最高値になろうとは、神ならぬ身に分かろうはずは ありません。4月には3万円を大きく割り込み、4月以降 しばらく戻して3万円台を回復しますが、7月以降再度急落 10月には、20221円86銭を付けるに到りました。第1段の底は 92年8月の14309円41銭、95年7月に再び14400円台、そして 3年後の98年10月には12800円台、こうした下げを繰り返して 2003年4月の7607円88銭まで、13年間に渡って下げ続ける 大きな後遺症を残したのでした。 高値からの下落率80.45%、2割弱に落ち込むという大暴落 劇でした。株価と地価のスパイラル、崩壊した土地神話に しがみ付き続けた先送りのツケ、護送船団方式という政治の 保護にアグラをかき続けた銀行・デパート・スーパー・土建を 中心とした内需系企業と政治の無策が傷を大きくしたことも 事実ですが、バブルは必ず崩壊し、得た果実よりも大きな傷を 残すという事実は、しっかりと受けとめておく必要があります。 昨年後半頃から、バブルを待ち望むような言辞が、旧北浜クラブ の一部にも見られますが、歴史の教訓に学べない人達の言辞に 惑わされることのないよう、心したいものです。
2006.12.29
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クロニクル カラーテレビの実験局開局 1957(昭和32)年12月28日 この日、NHKと日本テレビが、カラー放送の 実験局を開局しました。 日本でのテレビの本放送が始まって(当初は1日4時間の 限定放送でした)まだ4年、家庭へのテレビの普及も まだ限られていた頃です。日本シリーズや大相撲、 力道山のプロレス等の中継があると、テレビを備えた 界隈のお金持ちの家に、近所の子供達が(なかには大人も) 上がり込んで、見せてもらっていたものでした。 そんな時代でした。映画こそ総天然色が謳われましたが、 テレビのカラー化など、夢のまた夢の世界だったのです。 因みに、国内のテレビ普及率が、ようやく100万台に達するのが 58年5月(受信拒否の先ずない時代でしたから、NHKの受信契約 数での判断です)、なおテレビよりもラジオの全盛期で、 同年11月にラジオの受信契約は1,481万世帯に達しています。 それでも、ようやく本格的な上潮に乗りつつあった日本経済の 好調もあって、テレビの普及は60年代から急加速します。 そうした中、1960年9月にはカラーテレビの本放送が始まり、 各テレビ局は一部の番組をカラー放送に切替えたのでした。 この頃には、テレビの放送時間も大幅に増え、朝6時から 夜11時頃まで放送されたのですが、新聞の番組欄の冒頭に カラー放送番組には、cと記されるようになったのです。 カラーテレビの普及期は、東京オリンピックと重なります。 確か松下電機だったでしょうか、「オリンピックをカラーで 見よう」というコマーシャルを、何度も何度も流していたことが、 今でもつい最近のことのように、思い出されます。
2006.12.28
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クロニクル1979(昭和54)年12月27日この日、アフガニスタンで親ソ連派のクーダタが発生、クーデタ派の要請を受けたとしてソ連軍は直ちにアフガニスタンへの侵攻を開始しました。アフガンでは、前年4月に親ソ派政権が誕生、土地改革など社会主義寄りの政策をとったのですが、これに不満を持つイスラム系勢力が反政府活動を続け、この年9月に親ソ政権を打倒、民族主義色の濃い政府が誕生していたのでした。それだけにこの日の親ソ派のクーデタは、ソ連の丸抱えによるものと推測されました。イスラム系に多い民族主義諸勢力はジハード(聖戦)を合言葉に山岳地帯でゲリラ戦を展開、圧倒的なソ連軍の武力を、無力化してゆくことに、次第に成功して行きます。10万人に及ぶ兵力を展開してなお、情勢の悪化を防げず、消耗しきったソ連軍は、10年後、ゴルバチョフ政権の下でアフガンから撤退することになります。当時「アフガンは、ソ連にとってのヴェトナムだった」と言われ、ソ連社会主義崩壊の原因の一つに数えられています。ところで、ソ連軍撤退後のアフガンでは、諸勢力の権力争いで国内が混乱、血みどろの闘争が展開したのですが、この混乱を収拾したのが、徹底的に汚職と腐敗を排除したイスラク原理主義勢力のタリバンでした。タリバン政権にも問題はありますが、ソ連侵攻後、20年以上に及んだ戦乱と社会的混乱を収拾し、アフガンに平和と民衆生活の安定を齎し、庶民の支持を得ていた政府だったことは確かです。9・11を理由にアメリカはこのタリバン政府を倒し、再びアフガンを治安劣悪で安心して生活できない地にしてしまったのです。日本では、カルザイ政権のプラス面のみが、誇張して伝えれていますが、カルザイ政権の安定した支配領域は首都カブールとその近在のみの、限られた地域だけであることは、ほとんど触れられることがないのが現実です。米軍がイラクに釘付けとなり、現在のアフガンにはNATO軍が展開しているのですが、来年以降、アフガン情勢にも動きが出てくるような感じが、しないでもありません。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, December 27, 2006 9:47 AMSubject: 27日の日記
2006.12.27
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クロニクル 日本最初のプロ野球チーム発足す 1934年12月26日 この日、日本初のプロ野球チームとして 大日本東京野球倶楽部の創立が発表されました。 選手は、沢村栄治、スタルヒン、三原脩、水原茂 等19名での発足でした。 同年11月に、正力松太郎読売新聞社主の招きで、 べ-ブ・ルース等全米大リーグ選抜が来日しました。 3年前の前回の来日では早稲田・慶應ら東京六大学の選手 らが善戦したのですが、その後学生とプロとの試合が 禁止されたため、今回の来日では、急遽社会人選手で 全日本選抜チームを編成、対戦することになったのでした。 試合は日本チームの全敗に終りましたが、結果として プロチーム編成の機運が高まり、この日東京巨人軍の 前身、大日本東京倶楽部が発足することになったのです。 ただし、1チームでは試合は出来ません。 翌1935(昭和10)年12月10日に大阪タイガースが、 さらに36年に入ると、1月、2月の間に名古屋、 東京セネタース、阪急、大東京、名古屋金鯱と 7チームが揃い、37(昭和12)年から、7チームと 変則ながら、正式に公式戦が始められたのです。 正力松太郎氏がプロ野球の生みの親とされるのは、 この辺の事情によるのですね。 因みに最初のシーズンは春と秋の2シーズン制、 春季はジャイアンツが、秋季はタイガースが 仲良く制したようです。なるほど巨神戦は伝統の一戦に なるわけですね。
2006.12.26
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クロニクル 大正天皇崩御1926(大正15)年12月25日この日、午前1時25分、葉山の御用邸で病気療養中の大正天皇が、逝去されました。48歳でした。少年時代から病弱で、即位後も健康にすぐれず、1921(大正10)年からは、皇太子(後の昭和天皇)が摂政を務めていたのですが、この年秋から気管支炎と肺炎を患い、葉山の御用邸で療養中でした。12月に入って病状が悪化、宮内省(現宮内庁)は15日に「天皇陛下御異例」を発表して、国民に病状を発表、快癒を祈る国民は、遊興を自粛し、歌舞伎座や帝国劇場などが、相次いで興行を中止したほどでした。新聞各社はこぞって号外を発行、その日の内に、皇太子殿下の即位が公にされ、若槻内閣は、新元号を「昭和」と発表したのでした。余談になりますが、このため、昭和元年は5日しかありません。私の最年長の従姉妹は、たまたま1926年の12月26日生まれなものですから、同級生達と会うと、「私は大正なのに、あなたは昭和なのよね」と羨ましがられたと、半分嬉しそうに話しておりました。確かに昭和と大正では、ぐっと響きに違いがありますね。ところで、近年大正天皇研究はグンと進み、再評価の機運が高くなってきております。原 武史『大正天皇』(朝日選書)2000年刊がお勧めです。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, December 25, 2006 9:40 AMSubject: 25日の日記
2006.12.25
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本日のクロニクルに、チョコレートの発売に新聞広告が 活用されたことを記しました。そこで、ここでは新聞広告の 起源について記してみます。それはフランスでのことになる のですが、お読みいただければ幸いです。 新聞の発行は17世紀頃のドイツにその起源を持っています。 しかし、新聞が社会的に認知されるのは、フランス革命期のことに なります。フランス革命期には、数多くの新聞が発行されますが、 ほとんどが不定期刊行物で、発行部数も数百が限度でした。 最初の本格的日刊新聞は、フランスの新聞王と称された、 エミール=ド=ジラルダンが1836年7月に刊行した「ラ・プレス」紙です。 「ラ・プレス」は始めて紙面に広告を掲載して販売価格を下げることに成功した 新聞としても知られています。紙代を安くすることで、発行部数を伸ばす 戦略を描いたのです。彼はまたアレクサンドル=デュマや ウジェーヌ=シューら売れっ子作家の小説を新聞に連載する新機軸で話題を 集めました。こうして「ラ・プレス」は売上記録を伸ばしていったのですが、 ニュースの迅速な収集がまだ困難であったために、大幅に売上を伸ばすには 到りませんでした。1848年二月革命直前の時期で、当時発行されていた 日刊紙25紙合わせての総売上は15万部そこそこだったと記されています。 本格的な全国紙の登場は、鉄道輸送の発達によって、パリで印刷された 新聞を素早く地方都市でも販売する体制が作れるようになった60年代に なってからのことでした。明治維新直前のことです。 ナポレオン3世が帝政の自由化政策(一般に自由帝政と呼びます)を採った事 もあって、新聞発行も自由化された頃です。1863年創刊の 「ル・プチ・ジュルナル」紙は、予約購読に基礎をおかず、値段を他紙の 半値の1スー(5サンチーム、日本円にして50円くらい)にし、政治的主張 には一切加担しない、三面記事を大きく扱うといった安価な大衆情報紙 という装いが成功し、帝政末の69年(明治2年)には30万部を売上げ、 20世紀初頭には発行部数は100万部を越す勢いを示しました。 同紙に対抗した「ル・プチ・パリジャン」も1890年(明治23年)には 50万部、第1次大戦直前の1913年には130万部超の発行部数を記録しました。 状況は英・米でも大同小異でした。こうして、ラジオの登場以前の段階では、 広告が伝える内容を含めて、新聞が大都市の情報を地方へ伝播する役割を 果したのです。
2006.12.24
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クロニクル 本邦初のチョコレート発売 1878(明治11)年12月24日 この日、東京は両国若松町の米津風月堂が本邦初の貯古齢糖(チョコレート)を明日から販売する旨の販売広告を、なかよみ新聞に掲載しました。この広告は大評判となり、翌日25日には、同店前に大行列が出来たと記されています。これもまた、文明開化の一齣でした。 ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, December 24, 2006 9:52 AMSubject: 24日の日記
2006.12.24
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北朝鮮を巡る新聞報道。どの社も似たような記事を配信しています。独自の取材源の乏しさ、聞いた話を鵜呑みにしてしまう思考力の貧しさなど、マスコミ関係者の資質が落ちている事実は覆い隠しようがないように思えます。その挙句に出てくる話が地政学リスクということになります。イラクの大量破壊兵器の話しを思い出してみれば、メディアが大量に流す話がいかにいい加減かは,良くわかると思います。本日「6ヶ国協議決裂、北朝鮮強気崩さず」とまるで協議が北朝鮮の一方的ペースで進んだかのような論調が目立っています。果してそうなのでしょうか。我々の知るところでは、金融制裁に関する北朝鮮の代表団の北京入りが遅れ、金融問題の協議開始が1日遅れたことが分かっています。核を巡る話し合いが進まなかったこともしかりです。これって、いずれも北朝鮮が強気で自信を持っているせいでしょうか。国連や関係国の制裁が効いていないならば、この分析も説得力を持ってきます。エネルギーや食糧支援は必要ないのでしょうか。必要ならば、少なくとも中国・韓国との関係悪化は絶対に避けるでしょう。両国が北朝鮮の割安な労働力を狙って、同国の改革・開放を進めたがっていることは事実でしょう。そのための譲歩を促していることも事実でしょう。だとすると、北朝鮮の現在の頑なな態度を擁護するとは考え難いように思えます。いざとなれば、金正日政権を転覆すれば済むのですから……。金融制裁も例え部分的であっても、解除してほしいのは北朝鮮の側であって、アメリカではありません。急いでいないアメリカの代表団が来ていて、是非とも急ぎたい北朝鮮の代表団が遅れる。何とも奇妙です。何故か。私はここに北朝鮮政府側の内部不統一、混乱の匂いを嗅ぎとっています。代表団の構成、誰を代表にするか、どの程度の権限を持たせるかといった肝腎の部分が決まらず、北京入りが間に合わなかったという失態に繋がった、こう理解すると辻褄があいます。6ヶ国協議の5ヶ国代表団の誰もが、あまり気落ちした顔を見せていないでしょう。北朝鮮は、代表団にしっかりとした権限を持たす事が出来なかった。だから協議も交渉もまとまらなかった。こういうことではなかったかと、私は予測しています。そして困るのは北朝鮮自身。失敗した核実験を自慢気に振りまわしても、実情を知る代表クラスの人達は、誰もあせりもあわてもしないでしょう。1945年8月8日のソ連参戦の前に、日本がポツダム宣言の受諾を表明していれば、ソ連の参戦は起こりませんでした。そうであれば、朝鮮の南北分断もなかったことになります。北方領土問題も、拉致問題も起こり得なかったことになります。歴史にタラ、レバを持ち込めないのが残念ですが、そうである故に、朝鮮半島の南北分断の現実に,私は心を痛めています。1日も早い南北の統一、離散家族の再会と自由往来の実現を希望しています。こうした文脈の中でしか、拉致問題の最終的解決も出来ないのではないか、こんな印象を私は持っています。6ヶ国協議を巡る報道から、私は金正日体制の揺らぎ、体制転換が近づいている印象を、嗅ぎとっています。
2006.12.23
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クロニクル 東京タワー完成 1958(昭和33)年12月23日 12月23日は、この年11月27日に 正田美智子さんとの婚約を発表した皇太子 (現天皇)の誕生日。ちょうどその日に合わせた のでしょうか、この日東京港区芝公園内に建設中だった 東京タワーが完成したのでした、 高さ333mは、パリのエッフェル塔を抜く、当時世界一。 東京にある7つのテレビ局(NHK2局に民法5局)の 発信、中継の拠点として使用されたのですが、テレビ時代の シンボルとして、東京の新名所になったのでした。 そしてまた、成長の道を歩み出した日本経済の躍進を示す シンボルでもありました。
2006.12.23
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クロニクル ルーマニア革命始まる1989(平成元)年12月22日フランス革命の開始から200年目にあたる1989年は世界史的な出来事の多い年でした。6月の天安門事件、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ブルガリアと相次ぐ東欧諸国の政変と自由化の進展、このブログでも取り上げたベルリンの壁崩壊……そして12月初旬の米ソ首脳のマルタ会談による冷戦終結宣言の発表。こうした一連の動きの総仕上げが、東欧で最後に残ったチャウシェスク独裁体制のルーマニア革命でした。この日ルーマニアで革命が始まりました。早朝から首都ブカレストで市民のデモが始まり、次第に人数を増して、正午前には数10万人の規模に達しました。午前11時過ぎ、チャウシェスク大統領は戒厳令を発し、国軍に治安回復を命じましたが、国軍兵士は命令を拒否、その大半がデモ隊側についたのです。勢いを得たデモ隊は、共和国広場を占拠して、共産党本部に殺到、放送局を含む主要機関を手中に収めるに到りました。ここに頑強を誇ったチャウシェスク政権は崩壊、ヘリコプターで官邸を脱出した大統領夫妻は、まもなく捕らわれの身となり、非公開の軍事裁判で死刑を宣告され、25日夫妻とも銃殺されました。ここに東欧革命の連鎖は一応の終結を見たのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, December 22, 2006 9:50 AMSubject: 22日の日記
2006.12.22
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クロニクル ドイツ潜水艦,日本の民間船撃沈 1915(大正4)年12月21日 この日、地中海を航行中の日本郵船所有の 「八坂丸」が、ドイツの潜水艦Uボートによって 撃沈されました。 前年7月28日に開始された第1次世界大戦に、日本は 日英同盟を理由に8月8日に、早くも参戦を決定、 同月23日、ドイツに宣戦を布告して参戦しておりました。 ドイツは優勢なイギリス海軍の海上封鎖により、物資の 輸入が滞り、劣勢に陥っていた状況を打開しようと、完成した ばかりの潜水艦Uボートを投入、15年5月には、イギリスの 豪華客船ルシタニア号をアイルランド沖で撃沈、国際的 非難を浴びていたのですが、劣勢にあせる軍部は、今度は 日本の客船を撃沈するに至ったのでした。 このドイツが、国際非難覚悟で、17年2月から無制限潜水艦作戦を決行、 アメリカの参戦を招くことになります。
2006.12.21
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クロニクル 米軍施政下の沖縄で反米暴動起きる 1970(昭和45)年12月20日 この日、米軍政下の沖縄はコザ市(現沖縄市)で、大規模な 反米暴動が起きました。暴動のきっかけは、この日午前1時過ぎに 市内の路上で起きた米陸軍医療隊員による交通事故でした。 隊員運転の車輛が市民をはねたのです。幸い怪我は軽傷で済んだのですが、 事故処理にかけつけた憲兵隊員が、怪我人をそのままにして加害者を 連れ去ろうとしたところから、事故を知ってかけつけた市民と対立する ところとなったのです。いかにも事故処理の仕方がまずかったのですね。 日頃から、米軍兵士の横暴に鬱屈した感情を持っていた市民の複雑な 感情が爆発したのは、自然の成行きだったと言えましょう。 応援要請を受けた憲兵隊は20人を派遣、群衆が投石すると威嚇射撃で 応戦したものですから溜まりません。市民に銃を向けるとは何事と、 激高した5千人に達する市民が、米軍車輛、嘉手納基地内の小学校・ 雇用事務所などに放火する騒ぎとなりました。 米軍は催涙ガス弾を使用し、双方合わせて約80人の負傷者を出し、 市民20人が逮捕・連行される騒ぎとなりました。 68年11月の、最初の主席公選で当選した、屋良朝苗主席は激しく 米軍に抗議し、参議院では、米兵犯罪に対する裁判権を日本側に 移管すべしとする決議が採択されるなど、沖縄を巡って日本国内の 反米感情は大きな高まりを見せ、本土復帰運動は最高潮に達したの でした。
2006.12.20
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クロニクル 地租改正反対一揆1876(明治9)年12月19日三重県飯野郡(伊勢)の一部で18日に始まった地租改正に反対する農民一揆は、この日伊勢地方全体に広がり、各地で区戸長の家屋敷をはじめ、支庁、警察、学校、郵便局などを襲撃しました。学校が入っているのが、いかにも当時らしいのですが、貧農たちにとって、6歳~10歳(当時の義務教育は4年間です)の子供達が立派に労働力だったことを示すエピソードです。この伊勢暴動は、地租改正の規準米価算定をめぐる(高めに設定すれば、地租は高くなります)県当局と農民の対立が爆発したものでした。同じ事情は各地にあり、西日本では,岐阜,愛知、堺(大阪)に、東日本では茨城,栃木などに拡大、全国化の兆しさえ見せ始めました。ここに政府は、多発する士族叛乱と農民一揆に挟撃されることを怖れて、農民層への譲歩を決断(何よりも、徴兵制に基づく兵士の中核が貧農だからです)、77年1月に地租を地価の3%から2.5%に引き下げたのです。「竹やりでちょいと(どんと突き出すという言い方もあります)突き出す2分5厘」と当時話題になりました。この地価ですが、当時において地価は土地が生み出す収益(この場合は米に換算した収穫高の過去3年間の平均)を20倍した額でした。平均利子率を5%で計算したのですが、当時は日本でも地価の計算に収益還元法を用いていたことも、ここから分かります。この方法は1810年代のプロイセン農民解放や、1860年代のロシアの農奴解放など、農民に有償で農地を分与する際に採られた方法で、日本も同じ方式を採用したことが分かります。土地バブルに踊り、夢破れた後で、明治の先例に戻り、またぞろミニバブルに踊ろうというのも何とも学習能力に欠けるようで、開いた口が塞がらないのは私だけでしょうか。話しを戻します。こう見てくると、3%は年間収益の6割、2.5%でも5割となりますから、農民の負担は極めて高く、一揆が起きるのも当然だったという感じを受けます。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, December 19, 2006 9:46 AMSubject: 19日の日記
2006.12.19
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クロニクル スミソニアン合意なる1971(昭和46)年12月18日1971年は、ニクソンショックに揺れた年でした。7月、翌年2月に中国を訪問するとの発表で、日本の政界に激震を起こし、約1ヶ月後の8/15には、金・ドル交換停止を発表して、戦後のブレトン・ウッズ体制(金とドルをリンクさせた金・ドル本位制)の終焉を告げ、世界に衝撃が走りました。各国が状況の落ちつくまで、為替市場を閉鎖した中、日本のみが1ドル=360円の管理為替相場の維持を狙ったのか、市場を開き続け、各国の投機業者に手持ちのドル売りと円買いの好機を与え続ける愚を犯したのでした。しかし大勢に抗し難く、数ヶ月に及ぶ交渉の結果、この日、ワシントンのスミソニアン博物館で開かれていた先進10ヶ国蔵相会議において、ドルの大幅切り下げによる多国間通貨調整に合意、辛うじて固定相場制を続ける合意に達したのでした。円は対ドルで16.88%の引き上げとなる、1ドル=308円に切り上げられることになり、20日から新レートが適用されることになりました。当時のマスコミの論調は、産業界の声を代弁したのか、輸出に大打撃を受け、大不況が到来するとの大合唱でしたが、これで輸入品が安く買える、必要な洋書が買いやすくなるからと、円高大歓迎だった私などは、もっと切り上げれば良いのにと、お気楽なものでした。ところでスミソニアン合意はつぎはぎの一時的なものに過ぎず、アメリカ経済にはドル中心の固定相場を維持する体力は既に無く、1年2ヶ月後の73年2月には、円は早くも277円を記録し、この値を始め値として、2/14から現在に繋がる変動相場制に移行したのでした。この間、今日までの変遷で感じたことは、自国通貨が高く評価されることは、即ち国家の経済力の強さを示すものであり、基本的には良いことだ。円高は買い(ただし、円安は必ずしも売りではありません)が正しいということでした。100円を切るぐらいで、ダメになる程、日本の経済は脆くないと見ています。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, December 18, 2006 9:52 AMSubject: 18日の日記
2006.12.18
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クロニクル ペルー大使公邸人質事件発生 1996(平成8)年12月17日 この日、ひとあし早く、平成天皇の誕生日を祝うパーティが ペルーの日本大使公邸で開かれておりました、 ペルーの名士や日本関係者らが集う中、反政府ゲリラ トゥパク・アマル革命運動(MRTA)所属の14名の ゲリラの襲撃があり、多数の参会者が人質となる事件が 発生しました。人質との交換で拘留中の仲間の釈放が要求 されました。体調の悪い方など、1部の人質は解放 されましたが、それでもなお72名の方々が、人質生活を 余儀なくされたのでした。 日本政府は人質の人命を最優先するとことを、強くペルー 政府に要請、アメリカ政府は人質に犠牲が出ることなど 厭わず、強硬突入でゲリラを掃討することで、人質を解放する ことを求めました。 当時のペルーにとって、日米両国は共に重要な援助国で あったため、ペルー政府が両国の顔を立てるために打てる手は 解決の先送り、時間稼ぎしかないことは、予測される筋書きでした。 少し頭を使えば,この現実は想像出来ることでしたが、 当時の日本のメディアは、すぐに解放しうるものという立場からの 論調に終始し、事態を冷静に判断する事が出来ずに、情緒的判断を 下す事しかなかったのです。 結局,事件が解決したのは、発生から127日後のことでした。 ほとぼりの冷めた頃、ゲリラの油断を見澄ましての ことでした。日本人人質には死者はなかったのですが、ペルー人 人質1名と突入した特殊部隊の隊員2名、ゲリラ14名と、合わせて 17名の死者がでたことは、忘れずにいたいものです。
2006.12.17
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クロニクル 白木屋でビル火災発生 1932(昭和7)年12月16日 この日、日本橋の白木屋百貨店(居酒屋の白木屋ではないですよ…)で 日本で初めての高層ビル火災が発生、日中のことでしたから、大勢の 来店客が高層階の窓から飛び降りるなど、大変な惨事になりました。 死者14名、重軽傷者130余名と報告されています。 この時期は、まだ夫人の肌着は長襦袢が一般的で、今日のような 肌着は着用されておらず、そのため婦人客の多くがは飛び降りるのをためらったために、 被害は余計に婦人層に集中したことが指摘されています。 その結果、この事故の副産物として、以後婦人下着(特にズロース)が 急速に普及することになりました。 白木屋は戦後,昭和30年代に乗っ取り屋の横井英樹氏の株買占めにあい、 やがて、東急の傘下に入り、東急日本橋店として日本橋の角地にあり ましたが、バブル崩壊後の不況期に売上げ不振から閉鎖されました。
2006.12.16
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クロニクル 製糸業者一斉休業へ 1929(昭和4)年12月15日 この日から、日本全国の製糸業者は 2週間の一斉休業に入りました。 中小の業者を含めて、全国の業者が一斉に 休業するのですから、業界団体の力で出来ること ではありません。商工省(当時、現在の経済産業省)の 音頭取り、強力な指導で実現したものです。 米国発の世界恐慌は、10月末に姿をあらわにしたばかり でしたが、世界的な生糸相場の下落はとどまるところを しらず、この日からの一斉休業入りとなったのでした。 年末年始の正月休暇を経て、1月4日に生産は再開 されますが、生糸相場は回復せず、05年4月には、 家族主義的経営で知られたカネボウ(先年話題になった あのカネボウです。当時鐘淵紡績)までが、大幅な 賃金削減に(実質23.6%の削減と報じられました)踏みきり ましたが、解雇でなく賃下げで対応するのは、さすが カネボウ、超優良企業の名に恥じないと評価されたと 言いますから、当時の経済状況の深刻さが、偲ばれます。 ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, December 15, 2006 9:44 AMSubject: 15日の日記
2006.12.15
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クロニクル 石橋湛山総裁誕生 1956(昭和31)年12月14日 この日行われた自由民主党総裁公選において、 石橋湛山氏が第2代総裁に選ばれました。 前年11月15日に、自由党と民主党が保守合同を 成し遂げて統合、鳩山一郎民主党総裁兼首相が 初代総裁に就任しました。鳩山総裁は日ソ国交回復を花道に 辞任することが確実視され、後任には旧自由党総裁、 自民党副総裁の緒方竹虎氏の就任が既定路線と されていました。ところが緒方氏が急死されたため、 総裁レースは混沌とした情勢となり、、岸信介、 石橋湛山、石井光次郎(シャンソン歌手の 石井好子さんは、ご令嬢です)の3氏の争いとなり (現在、日経新聞の私の履歴書に、読売新聞のナベツメ さんが、このいきさつを書かれています)、 札束乱れ飛ぶ猛烈な票の奪い合いの中、この日早暁、 石橋、石井両派の会合で2,3位連合の密約が結ばれたの でした。資金力に勝る岸氏優位の情報の中、両派は 激しい2位争いを演じて票を伸ばし、第1回投票で 1位となった岸氏は過半数を確保できませんでした。 こうして2位を確保した石橋氏との決戦投票が行われ、 石橋氏が岸氏に逆転勝利して、第2代自民党総裁に就任したのでした。 しかし石橋氏は首班指名を受け、閣僚も任命し、内閣を スタートさせましたが、病に倒れて国会での所信表明 演説に立つことが出来ず、2ヶ月で辞意を表明、札束 飛び交う総裁選への世論の批判も強い事から、岸氏 への禅譲を発表したのです。ここに57年2月に岸内閣の 誕生を見るのです。警職法改正案(後廃案)の上程や 60年安保の混乱を招き、超重要法案の安保改訂案の 強行採決など、日本憲政史に悪名を残した岸内は こうして誕生したのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, December 14, 2006 9:46 AMSubject: 14日の日記
2006.12.14
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クロニクル 婦人参政権獲得期成同盟会の結成 1924(大正14)年12月13日 この日、東京婦人会を中心に、婦人参政権 獲得期成同盟会が結成されました。理事には 久布白落実(くぶしろおちみ)氏や市川房江氏 が名を連ねました。 25才以上の男性全てに選挙権を付与する男性普通選挙法 の実現は、翌年3月29日のことなのですが、 大正デモクラシー運動の大目標であり、全国民的な悲願 でもあった普選の実現が近づくに連れ、もう一方の性である 女性の選挙権が無視されるのはおかしい、1部先進国は 女性の選挙権を認めているではないかと、女性の手による、 女性の参政権獲得運動が日本でも始まったのでした。 現実に女性が参政権を手にするのは、これから21年後の 1945年12月のことです。
2006.12.13
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クロニクル 張学良、蒋介石を軟禁 1936(昭和11)年12月12日 この日、シーアン(西安)を訪れた中国国民政府の 蒋介石は、東北軍指導者張学良によって、逮捕軟禁 され、共産党との内戦を停止し、抗日統一戦線の結成を 求められました。世に言う西安事件です。 満州事変後も続く、日本の侵略に対し、国民軍と共産軍 が一致して抗日戦争を戦うべきだという世論が高まって いたのですが、蒋介石は頑として共産軍弾圧を優先、 抗日戦争は後回しとする姿勢をかえようとしなかったのです。 張学良は、蒋介石のこの姿勢を改めさせようと強硬手段に出た のでした。逮捕、軟禁した蒋介石に対し、彼は、内戦の停止、 愛国的指導者の即時釈放、救国会議の召集などを訴えました。 共産党の周恩来が仲介役に立ち、最初は頑なだった蒋介石も、 張の要求が全国民的基盤に立っていることを認めたため、 和議が成立、25日にようやく釈放されたのでした。 やがて国民党と国民政府は、国共内戦の停止と抗日民族統一戦線 の結成を確認、翌年2月第2次国共合作が成立するに到るのです。 日本の理不尽な侵略行為がなされなかったとしたら、隣国中国に おける共産党政権の誕生は、起こり得なかった可能性が高かった のではないでしょうか。 日本では、こうした観点からの議論、反省が少な過ぎるような 気がしてなりません。
2006.12.12
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クロニクル 民政党、若槻礼次郎内閣総辞職1931(昭和6)年12月11日この日、民政党の若槻内閣が、閣内不一致で総辞職しました。背後に民政党の内紛があったのですが、その内紛の原因まで遡ると、当時の日本の政治・社会をめぐる大きな混乱に突き当たります。1923(大正12)年9月の関東大震災と震災処理の混乱に因を持つ、1927(昭和2)年の金融恐慌に始まり、その傷が癒えぬうちに巻き込まれた米国発の世界恐慌と、ダブルパンチに見舞われた日本経済は、井上準之助蔵相の財政運営のまずさもあって、財政破綻の状態に陥っており、外には関東軍の暴走による満州事変の拡大と、内外に危機的状況を抱えておりました。この事態は、民政党単独の若槻内閣で乗りきれるものではなく、政友会との大連立(挙国一致)内閣の実現が期待される事態となったのでした。しかし、与党の民政党の大物、井上蔵相や幣原喜重郎外相の強硬な反対で、この計画は実現せず、この日若槻内閣は閣内不一致を理由に総辞職、13日、政友会総裁の犬養毅を首相とする政友会単独内閣が成立することになります。しかし、挙国一致が求められる状況において、少数与党の政友会内閣で事態が打開できるはずもなく、犬養首相は翌年5月、5・15事件の凶弾に倒れ、大正デモクラシーの大波の中でようやく誕生した政党内閣の時代は去り、軍部とその息のかかった内閣の時代が幕を開けるのでした。政党の、或いは政治家のエゴが政党内閣の時代を短命にて終らしめたと言っていいように、私は考えています。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, December 11, 2006 9:29 AMSubject: 11日の日記
2006.12.11
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クロニクル 田中正造、足尾鉱毒を直訴1901(明治34)年12月10日この日、前衆議院議員田中正造は、第16回帝国議会開院式から還御途中の明治天皇に対し、足尾鉱毒事件に関する直訴を試みようとして、警備の警察官に取り押さえられました。正造は検事の取調べを受けたのち、その日の夜には釈放されています。彼は1890(明治23)年の第1回の衆議院議員選挙に栃木県から立候補して当選(当時は財産による制限選挙制であり、被選挙権者は、当時の一握りの富裕層、地方名望家に限られていましたから、彼自身も有力な地方名士の1人だったのです)、1891年の第2議会で、古河財閥の足尾鉱山鉱毒事件を取り上げ、以後毎議会で政府を追及しておりました。1897年以降、地元農民が4回にわたって上京、各方面に請願・陳情を行うに際しては、積極的に斡旋役を務めています。しかし、政府は誠意ある対応を見せず、請願運動の弾圧をも試みるありさまでした。 1900年にいたって、被害農民が裁判に訴えると、ようやく世論も足尾鉱毒に注目を始め、演説会の開催や義捐金の募集、現地調査などが行われるようになり、下流にあたる渡良瀬川流域の荒廃振りが広く明るみに出されたのでした。こうした情勢の下で、1901年10月、正造は直訴を決意して議員を辞職、機会を待っていたのでした。後公表された直訴状は、実情の訴えと被害土地の原状回復を政府に措置させるよう、要望するものでした。彼の直訴事件後、足尾鉱毒問題への支援は一層高まり、政府も翌年には国としての調査委員会を正式に発足させたのでした。日本の公害史の大きな1ページをなす、出来事でした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, December 10, 2006 9:39 AMSubject: 10日の日記
2006.12.10
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クロニクル ポーランド大統領にワレサ氏 1990(平成2)年12月9日 この日ポーランドで大統領選挙が行われ、自首管理労組連帯の ワレサ委員長が、初代大統領に当選しました。 共産党の組織を離れた、自首管理労組として連帯が誕生した のは、1980年のことでした。翌年ポーランド政府は、先行きを 憂慮したロシア政府の強い圧力の下で、連帯の活動を制限、弾圧を 強めました。こうした厳しい試練に耐えた連帯は、次第に勢力を 盛り返し、89年6月には、東欧革命の先陣をきって、自由選挙が行われ、 9月には共産党を排除した形で、連帯中心の連立政府が 誕生しておりました。こうして憲法改正後に行われた最初の大統領 選挙で、連帯の運動を有形、無形に推進したワレサ氏は、仲間達に 推されて大統領選への出馬を表明、この日、大差で当選が決定した のです。
2006.12.09
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クロニクル 日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃 1941(昭和16)年12月8日 あまりにも有名な出来事ですから、ほとんど 説明を要さないと思います。65年前の今日、 日本は対米開戦に踏み切り、ハワイ真珠湾の 米軍艦船を奇襲したのでした。 時に日本時間午前3時19分(ハワイ時間7日 午前7時49分)のことでした。これより先 同日午前2時には、英領マレー半島への上陸 を開始しており、ここに日中戦争の泥沼から 脱出できないまま、日本政府と軍部は、戦線の 拡大に踏み切り、米英両国との戦争に大きく 舵をきったのでした。 国内では朝7時に、ラジオで臨時ニュースが 流れ、大本営発表として、対米英開戦の事実が 告げられ、正午に宣戦の詔書が放送されました。 私の生まれる約10ヶ月前のことです。
2006.12.08
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クロニクル 兵庫(神戸)開港1867(慶應3)年12月7日この日、兵庫(現神戸)が開港されました。兵庫の開港は、1862年のロンドン覚え書きによって、欧米列国に対し、67年12月7日の開港が約束されていたのですが、その後の幕末の政情流動化のため、朝廷の勅許が得られずにおりました。しかし、国家間の約束を破れば、さらに強力な圧力と無理難題を押しつけられるか分かりません。予定通りの開港には、約半年前の布告も必要です。そこで、将軍慶喜は渋る朝廷を、威嚇を交えて強引に説得、7月24日に勅許を取りつけ、ただちに布告の手続きをとったのでした。開港と同時に外国人居留地も設けられ、兵庫(神戸)港は急速に国際色を強め、横浜と並ぶ日本の二大貿易港に成長していったのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, December 07, 2006 9:54 AMSubject: 7日の日記
2006.12.07
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クロニクル 大学令公布 1918(大正7)年12月6日 大学令は、寺内内閣が高等教育の拡充について 臨時教育会議に諮問、6月22日に答申を受けて、 原案を作成、審議中に内閣は交替したのですが、 その後も審議を続け、11月27日に枢密院で可決され、 この日、公布に至ったのでした。 大学令によって、従来の官立大学の外に、公・私立の大学 設立が可能となりました。その結果、慶應義塾・早稲田・同志社 などが、晴れて私立大学となり、帝国大学の各単科大学は 学部と改称されました。 綜合大学には大学院の設置も認可されました。 また東京商業高等学校は東京商科大学 (「現一橋大学)となり、東京工業学校は、 東京工業大学となるなど、官立専門学校の多くが、 官立大学に昇格したのでした。 1918年は第1次世界大戦終了の年、大戦景気に沸く 世相の中で、進学意欲が著しく高まりを見せていた 時期でした。この世相に応え、大学の拡張に踏みきり、 高度の知識や技術の修得によって、欧米との 経済・技術格差を一挙に縮めようとしたのでした。 今日の技術立国日本の原点は、この辺にあり そうですね。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Wednesday, December 06, 2006 10:17 AM Subject: 6日の日記
2006.12.06
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クロニクル 最後の将軍第15代慶喜即位1866(慶應2)年12月5日この日、徳川幕府の最後の将軍となる慶喜が第15代将軍に就任しました。時に慶喜は30才でした。この年7月20日、14代将軍家茂が逝去。水戸徳川家の出身で一橋家を継いでいた慶喜が、相続者となり、この日、将軍宣下を受け、ただちに就任したのでした。彼は、62年に将軍後見役となり、以後主に京都にあって、公武合体派として活躍、徳川幕府の最後の切り札と目されていた人物でした。就任後、彼はフランス公使ロッシュとの連携を推進(第2帝政下のフランス皇帝、ナポレオン3世から贈られた軍服姿の馬上の慶喜の写真が有名です。余談ながら、60年代の写真はなお3分程度の露出時間が必要だったと言われていますから、あの写真を撮るのは、かなり大変だったでしょうねぇ)、幕府の主導権回復に努めたのですが、時勢の流れはいかんともし難く、翌67年10月には、大政を奉還して将軍職を辞したのでした。就任から10ヶ月後のことでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, December 05, 2006 10:04 AMSubject: 5日の日記
2006.12.05
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「学力」とは何か。様々な考え方がありますが、 測れる学力というもの(その最たるものが受験学力です)が その一部に過ぎないことは、どなたも異論がないと存じます。 良く知られたところですが、フランス革命の混乱を終息させ、 大陸ヨーロッパに大帝国を作り上げた、あのナポレオンの 陸軍士官学校時代の成績は、下から数えて数番目という、 はなはだ芳しからざるものでした。士官学校というある程度 専門性を備えた学校においてもです。 測れる学力、測り易い学力だけを、物差しにする危険性が ここに潜んでいると,私は常に考えています。 そういう視点で考える時、私は今日騒がれる学力低下は、 1979年度の国公立大学の入学試験から課された共通一次 試験(現在のセンター入試です)が元凶であると指摘して います。測り易い学力のみに傾斜した結果、論理的思考力 の評価よりも、暗記力(受動的学力)の評価にウェートが 移してしまったからです。 中学や高校で、教員と一緒に授業を作っていこうとする、 積極的に物事を捉え,考えようとする生徒が減り、きょうは 何を教えてもらえるのだろと、口をあけて待っているだけの 生徒が主流になるのに、たいして時間はかかりませんでした。 高度成長で豊かになった家庭で、少数の子どもが大事に育てられ た結果、批判精神の発育が遅れる現象が、学校現場の変化と 相乗作用を及ぼしたことも事実です。 社会に対して物申す学生(批判はあっても、学生運動はその1つ の現われでした。余談になりますが、89年の天安門事件の時、 広場に坐り込んだ中国の学生たちの眼は、50~60年代の、 全共闘運動までの,日本の学生の眼と同じでした。懐かしい もの、日本人が忘れているものを見せてもらった。そう感じた ものでした)は少数派になり、やがて忘れられてゆきます。 その現象は、しばらく後には労働運動の退潮を招きます。 教育現場は、教育の本質(これは、個々の子ども達,青年達の 中に眠っている,本人も気付かずにいる才能に気付かせ、その才能を 開花される手助けをすることにあります)を忘れ、授業内容で 児童・生徒のモチベーションを高めることを忘れ、本来副次的な ものに過ぎない、受験を材料に、受験学力だけに傾斜した授業を 展開しようとしたのでした。本来はスタートに過ぎない、入学が まるでゴールのような扱いを受けたのでした。これでは先は しれています。勉強することは、先生に教えてもらった通りに、 ただ覚えること、こう刷り込まれて大学の門を潜り、さらに社会人 になっても、自ら考え,判断し、予測不能だった出来事に対処する 能力など,カケラも育っていないのです。その結果、マニュアルがないと 何も行動できない、あってもマニャルが想定していない事柄が起きると 立往生してしまう。こうしたことが招いた悲喜劇が枚挙に暇がありませんね。 学校の先生も同じくです。暗記能力を発揮すれば、教員採用試験は突破 できます。現在の学校はこうした先生が大部分の世界です。児童・生徒は 顔が違うように、性格も頭脳構造も様々です。マニュアル頼りで対応可能な 世界ではありえません。それを型にはめようとしても、うまくいくはずなど ないのです。こうした無理が子ども達のストレスを高めます。不登校やイジメ が多くなるのは、こうした学校の体質も関係してると私は感じています。 学力低下は、70年代以降の日本社会の変化の中で、起こるべくして起こった、 その最大の原因は、児童・生徒・学生という学習者のモチベーションをいかに 高く保つか、学びの志の重要性を脇においてきてしまった咎であると、 私は考えています。
2006.12.04
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クロニクル 筑波大生、集団買収さる 1978(昭和53)年12月4日 茨城県議会議員選挙において、 良い小遣い稼ぎと考えたらしい、筑波大学生 141名が、1人3000円で買収され、集団で 不在者投票していた事実が、この日明るみに 出ました。筑波エクスプレスもなく、陸の孤島に 出現した当時の筑波大学では、学生の多くは 寮生活を送っていたので、当地で選挙権を 行使したのですが、当然地域への帰属意識が働く こともなく、地方議会の選挙に関心が持てる わけもなく、無用な投票権が不在者投票に 参加するだけで、3000円になるのであれば、 効率の良い話と考えただろうことは、想像に 難くないことではありました。積極的に 仲間を誘った学生は,仲間から感謝されたとの 報道もありました。 成る程と思う反面、 国立大学学生の知力の程度と、地方議員の レヴェルの実情に、肌寒いものを感じざるを えない一幕でもありました。 日本における学力の低下は、今に始まること ではないこと、それは「ゆとりの教育」が 生み出したものなのではなく、もっと根が深く、 既に70年代の末頃に芽があったことを、ここで 指摘しておきます。こういうとご不満の向きも あるでしょうが……
2006.12.04
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クロニクル 個人タクシーの営業認可 1959(昭和34)年12月3日 この日、東京・大阪・名古屋などの 大都市において、個人のタクシー営業が 初めて認可されました。東京では173人の 個人に、個人タクシーの営業認可書が交付 されました。 私の足の悪い友人は、良くタクシーの世話になる のですが、もう30年来、タクシーは個人タクシーに しか乗らないという頑固者です。昨今はこういう 頑固者が我を通せる程に、個人営業のタクシーが 増えてきているようですね。
2006.12.03
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クロニクル スーパーの時代の幕開く 1958(昭和33)年12月2日 この日、主婦の店ダイエーの神戸三宮店が 鳴り物入りでオープンしました。良い品を 安く大量に、主婦の目線で選びましたと ばかり、大量販売、廉価販売、セルフサービスで 値段をギリギリまで抑えた薄利多売方式を取り入れた ダイエー方式は、やがてマスコミから流通革命の騎手と 持て囃されたのでした。 もっとも日本におけるスーパーマーケットの草分けは 1953年に東京青山に誕生した紀ノ国屋であるとされており、 関西でもダイエー以前に大阪にはとや、京都に大友と いったスーパーが誕生しており、ダイエーの1号店も 1957年の大阪店なのですが、スーパーマーケットの名を 一躍全国に轟かせ、メジャーなものにしたのは、何と言っても マスコミを賑わせた、ダイエー神戸三宮店の誕生だったのです。
2006.12.02
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クロニクル 椎名裁定下る1974(昭和49)年12月1日田中金脈問題に揺れた田中角栄首相は、11月26日に辞意を表明、同日以降自民党では後継総裁選びが本格化したのでした。しかし、世論の金脈批判が盛り上がりをみせている時期に、実弾飛び交う総裁公選を実施すべきではないとの判断が多数を占める中、総裁候補である派閥の領袖達は、一致して副総裁の椎名悦三郎に新総裁の指名権を委ねたのでした。本命は2年前の公選で敗れた福田赳夫氏、対抗馬が大平正芳氏とされる中、この日、椎名副総裁は「天に祈る気持で、三木武夫君を新総裁に指名する」との裁定を発表したのです。小渕首相が病いに倒れた時の、密室の談合とは異なり、マスコミ注視の中、総裁候補たちが一致して裁定に従う旨を宣言していた中での発表でした。この裁定を受け、挙党一致の三木内閣が発足したのは、12月9日のことでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, December 01, 2006 10:17 AMSubject: 1日の日記
2006.12.01
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